ソーシャルメディア 進化論 武田 隆 (著) |
ところで、現代社会のように<「ここがダメなら、あそこ」「あそこがダメなら、こっち」というふうに、人間関係に関していつでも代替可能性を考えられる>、そんな<流動性>( 宮台真司 著『 日本の難点 』幻冬舎新書 2009.04.15 )の激しい社会で生きていると、人と人との "思わぬつながり具合" に無頓着となりがちであろう。
たしかに、こうした風潮が支配的であることは否めない。しかし、現在、日常生活で繰り広げられている人間関係、人と人とのつながりは "過剰な流動性" の中でホントに "無きに等しいもの" となっているのであろうか......。支配的な風潮とは、ひょっとしたら現代環境が仕掛けていそうな、人と人との "つながり" における "ワナ!" による産物なのだと振り返ってみることも、あながち無意味ではなさそうな気がする。
人と人との "つながり" 現象は、たとえ当事者が目先の関心事で意識に上らせることがなくとも、意外と "粛々と" 浸透していたりして、<「世間は狭いね!」>という結果に遭遇させられることもまた事実としてありそうだからだ。今日の関心事は、この周辺の事実に関わることになる。
話題の核心に迫るためには、多少極端な典型的事例の方が分かり易い。そこで、"ソーシャルメディア" の事例で否応なく関心が高い "炎上" 問題に目を向けることになる。
"ソーシャルメディア" ジャンルに造詣が深い 武田隆 氏 はその最新著書( 武田隆 (著)『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社 2011.07.29 )において、実に興味深い叙述をしている。話はこうだ......。
"ソーシャルメディア" ジャンルでも、このジャンルでひと際<相性のよいテーマ>である<「子育てコミュニティ」>に、<何かしらの「口コミサービス」を利用したと思われる>企業サイドからの "宣伝" 主旨のエントリーが "乱入(?)" したのである。もちろん、"炎上" もどきの事態が生まれる......。
―――― <このようなメッセージを読んだとき、参加者がどのような気持ちになるか想像してほしい。商品や企業に対して、感謝の気持ちとはまったく逆の効果が起こる。心と心のつながりを無視して、お金を使って土足で踏み込んできたイメージを持つ。ブランドは決定的なダメージを追ってしまう。......>( 前述、武田隆 著より )
で、筆者が注意を促すのは、こうした "炎上" もどきの現象が起きる原因であり、その点を掘り下げて考えるならば、下記引用叙述のようになると言う。つまり、現代のインターネット環境での人と人との "ネットワークでのつながり" の本質が、"見えている" かどうかであり、"見えていない人" は無造作に "炎上" もどきの現象を仕掛けてしまうことにもなる......、と。
そして、話は<見える人と見えない人>との違いへと進む......。
―――― < 見える人と見えない人
ソーシャルメディアの重要性が増すとともに、その消費者ネットワークを上手に活用し始める企業が増えてきた一方で、それを敵に回してしまう企業も増えてきている。この正反対の結果は、どのような違いによって生じるのであろうか。手法の問題なのだろうか? 業種の問題なのか? それとも、使っている代理店の違いなのだろうか?
( 前述、武田隆 著より )
たしかにそのような説明も可能かもしれない。しかし、それは根本的な問題とはいえないように思われる。私はこの12年間に2000社の企業を回り、1万人を超える経営者やマーケターの方々とお会いした。企業と顧客の新しい関係構築について議論を続けるなかで、どうも世界には「見える人」と「見えない人」、2種類の人がいるようだと感じるようになった。またこれが、インターネットを上手に使いこなす人とそうでない人の決定的違いになっているのではないかと思うようになった。
1998年には2億人以下だった世界のインターネット人口も、2010年には15億人に増加した。いま、私たちの世界には、地球規模のとてつもない変化が訪れている。私たちは人類史上、最もつながり合っている時代を生きている。「見える人」は、意識的か無意識的かは別として、いま起こっている時代の大きな変化を感じている。すなわち、情報も人も、すべてが幾何級数的にネットワーク化されている現在の状況から、そのつながるネットワークそのものを感じようとしている。「見える人」たちの共通点を探してみると、業界や役職に関係なく、またマーケティングの経験も問わず、みな、ある世界の住人であることに気がつく。すべての「見える人」は、ある共通の世界に住んでいる。そこは社会学で「スモールワールド」と呼ばれている世界だ。>
では、すべての「見える人」が住む「スモールワールド」と呼ばれている世界とは一体何なのであろうか?
―――― < スモールワールド
私たちの社会は、お互いに離れているように見えても、実はみなつながり合っていて、世界は意外と狭いという学説がある。イェール大学のスタンレー・ミルグラムによる実験が有名だ。1967年に行われたその実験は、アメリカ中部の州で160人の協力者に、東部にあるボストンで株式ブローカーをしている人物の名前と写真を示し、知り合いの知り合いを通じて、この人物にたどり着けるかを試すというものだった。結果、被験者の約4分の1がみごと到達し、平均して6人の知人を伝ってたどり着いた。このことから私たちの社会は、それぞれ6次の隔たり( Sixth Degree )でつながり合っていると発表された。......
日本の大手SNSミクシィにおいても、その友達どうしの関係図を分析したところ、6~7人で95%以上の利用者がつながり合っているというデータが発表された。こうしたスモールワールド現象は、学術的な研究が行われるはるか以前から、日常的な経験として語られてきたことでもある。
たとえば、百戦錬磨のベテラン営業マンであれば、
「商談を断られても、感謝してていねいに退室したほうがよい。人はみなどこかでつながっているかわからない」
と口をそろえていうはずだ。人生を知り尽くした老人であれば、「情けは人の為ならず」という言葉を深い実感を込めて口にするだろう。......私たちが知人どうしに偶然のつながりを発見して「世間は狭いね!」と喜び合うとき、それはスモールワールド現象を表現している。インターネットの発展にともなって、加速度的にお互いのつながり合いが進んだことで、ネットワークの影響を感じる機会が著しく上昇した。その恩恵を色濃く経験する人が増加する一方、経験できていない人との差が広がった。「見える人」と「見えない人」。その差がお互いにコミュニケーション不能になるほど広がってしまう現実が生まれた。...... 現在、ネットワーク・リッチとネットワーク・プアによる格差のほうがより深刻になってきている。ネットワークの影響をどれほど経験したことがあるか。これがスモールワールドに「住む人」と「住めない人」の違いをはっきりと分ける要因となっている。「見える人」の目に映っているもの。それは、日々小さくなっていく私たちの生きる社会、深く強くなっていくお互いのネットワークそのものの姿だ。......>
( 武田隆 (著)『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社 2011.07.29 )
"スモールワールド" という視点、切り口が示すものは、"ネットワーク" という現象自体が、われわれの想像を超えて "豊饒" であるということ。その結果として、人間世界は 濃密な "相互関連" で凝縮されることとなり、"関連のない未知数的要素" で大きく水ぶくれした巨大さではなくて、思いのほか "スモール" だと考えざるを得ない......、ということであろうか。それを日常感覚的に言ったのが、まさに「世間は狭いね!」との感慨なのであろう。
そして、インターネットの発展がこの "豊饒" さを飛躍的に、さらに増幅させたことによって、現代世界の "スモールワールド" さが明瞭に表面化したと。
したがって、この "スモールワールド" に気づいて、またここに住もうとすることは、現代の "ネットワーク" 効果や影響の "豊饒" さを "ネットワーク" 経験を通して是認すること、進化(深化)していくことをさらに読み取ろうとすることにほかならないと言える。
元々、人と人との "つながり" の現象を "質的に理解する" ということは、体験的 "実感" が理屈に勝るものと思われる。この点は、インターネット上のネットワークでの人と人との "つながり" においても変化したとは考えにくい。
冒頭で触れた "ソーシャルメディア" での "炎上" 問題発生に対する警戒にしても、小手先でのテクニック習熟よりも、人と人との "つながり" の現象を "質的に理解する" というこまめな体験的 "実感" の、その蓄積こそが王道なのだと了解されそうである。
なお、上記の引用した叙述は、著書の "総論" 的くだりの部分であるためか、やや抽象的色彩に染まっているが、本論部分には多数の事例解説があり具体的な理解が深まるものと期待させられる...... (2011.11.07)
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