「ウォール街を占拠せよ!」がスローガンの "ウォール街占拠運動("OWS = Occupy Wall Street")" は、マスメディアによる報道は下火となった観があるものの、静かに、かつ根強く継続しているようである。
ところで、この「ウォール街を占拠せよ!」という文字面を見つめていたら、唐突に、「自分の居場所を占拠せよ!(Occupy your place!)」という幾分アホくさい言葉が浮かんできたりした......。
「ウォール街の占拠」も決して容易ではなかろうが、最も小さな、等身大の問題である「自分の居場所の占拠」とて、侮(あなど)りがたく難易度の高い問題かもしれない......、と。
正確には、「自分の居場所の確保」となるのかもしれないが、"確保" というような生易しい問題かぁ? という疑念が「占拠」という言葉に辿り着かせた一つの理由かもしれない。
今や、「自分の居場所」問題は、予約席などを "確保" するような安直さからは遥かに遠ざかり、「ウォール街の占拠」並みにひどく困難な様相を帯びていそうに感じたのである。腰を据えて、闘争心(?)をも駆り立てて、"占拠スルゾ!" といった位の構え(いや、正確に言えば、"占拠スルゾ!" ではなく、"占拠されている現状を覆すゾ!" となりそうだが)なくしては叶わない難問中の難問に格上げされてしまったのではなかろうか......、と。
もう一つ、「占拠」という "物騒な言葉" 響きを持つ言葉をよしとする理由は、決して "過激" 志向からではないのである。たぶん、これは「ウォール街を占拠せよ!」というスローガンの主旨も同様かと推測するのだが、いわば "イロニー(皮肉)" なのである。つまり、「現状のウォール街こそが "占拠された状態" にある!」という事実判断を浮かび上がらせるための "レトリック" だということだ。
「自分の居場所」問題に関しても、多かれ少なかれ現状が「"占拠された状態" にある!」事実、それを自覚することからスタートするべきではないかと思えるわけである。だから、「自分の居場所を占拠せよ!」とまで言ってみるべきなのだ、と。
時代環境は決して "win & win" のような高尚さなんぞはなく、"ゼロサム (zero sum)" 原理そのままだと言えよう。むしろその原理が増幅されてもいるはずだ。「自分の居場所」問題についても、決して自然現象なんぞではなく、こうした社会的文脈で生じている以上、これを踏まえて迫らなければならないと思われる。
このご時世には、"「自分の居場所」難民" が、ちょうど "facebook" のユーザー数ほどの数、何億人といそうな気がしたりしている......。それと言うのも、"facebook" を筆頭とした "ソーシャルメディア" というものは、大胆に言えば "「自分の居場所」探し" の累積的結果ではないのかと独断的に推測をするからなのである。
企業活動にしたって、痩せ細って行く売上で脅かされる「自分の居場所」を何とか補強したいとの意向で "ソーシャルメディア" 対策を打っているに違いないワケであろう。
さて、"「自分の居場所」難民" の現実を、個々に思い起こしてみるならば、枚挙にいとまがなさそうである。
一頃、家庭の "亭主たち" の「自分の居場所」問題が話題に上ったが、実際半数以上の比率で<一家の大黒柱にもかかわらず、自分の家に居場所がない「自宅難民」状態に置かれている>とのことだそうである。
また、思春期世代の若者たちにおける「自分の居場所」問題にしても、実にシリアスだと見るべきではなかろうか。ここには、大人社会における「自分の居場所」問題の "原型" が窺えさえする。
―――― <......日本社会は1980年代には明治以来の国家目標であった物的に「豊かな社会」を実現し、西洋社会に追い付け追い越せというスローガンを達成した。その後の社会目標が不明確であるにもかかわらず、大人たちは依然として子どもたちに「教育的まなざし」を送りつづける。子どもたちは大人の期待そのものを疑っており、未来を見つめることを止めて「今ここ」に生きようとしている。しかし、「今ここ」に生きようとしても確固たる足場はなかなか見出せない。多くの若者が「居場所」がないと感じているのは、社会が激しく動き自分も揺れ動くのでその位置どりがなかなか見出せないからである。居場所は、未来への展望という時間軸と現在の自分の位置どりという空間軸とが交差するところに形成される。そして居場所を確保していくためには、他者との関わりという第三の要素が欠かせない。現代社会においては、この他者との関わりという要素が決定的に欠乏している。......>
( 子ども・若者の 居場所の構想 「教育」から「関わりの場」へ(田中治彦編著)/2001.04.05 )
さらに現時点での問題山積環境では、より深刻な様相が付け加わっているとも言えそうである。
景気動向の深刻さから、職場の空気は熾烈さを極め、多くの従業員が「自分の居場所」を脅かされているとも聞く。"鬱病" 発症が多発している悲惨さは、この延長線上での問題なのであろう。「自分の居場所」を持たないという状態は、"精神的不安定さ" が当人を苦しめるというだけではなく、それが原因となって生産性が低迷する可能性のあることが注目されてよいと思われる。
また、失業状態に遭遇するならば、そこでは "真正" の「自分の居場所」無し問題に嵌り込むことになる。社会ばかりか家庭の中でも「自分の居場所」が奪われてしまうという哀しい事態となる......。
これと関連する、新卒学生たちの "就職難" もまた、「自分の居場所」問題を痛烈に感じさせずにはおかないケースであろう。
そして、深まる高齢化傾向は、大量の定年退職者を世に送り出すことになるが、その大半の人が大なり小なり「自分の居場所」剥奪状態にて "放り出される" という事態は、趣味の老後どころの話ではないはずである。しかも、ますます老人福祉水準が悪化傾向を辿るとするならば、なおのこと悲惨となる。
この他にも、忘れてならないのは、東日本大震災での被災者たちが "故郷の壊滅" によって、名実ともに「自分の居場所」を喪失してしまった現実であろう。想像を絶する精神的苦痛だとしか言いようがない。
もちろん、"無縁社会" を構成しているわれわれ一人ひとりが「自分の居場所」問題を含む孤独感を抱えているかに思われるがそこまで言及すると切りがなくなる......。
要するに、この時代環境にあっては、経済的苦境に重ねて、「自分の居場所」を失った、あるいは奪われた者たちが溢れているのが現実なのである。
そして、こうしたいろいろな事例に目を向けてみると、「自分の居場所」を再獲得することと、「ウォール街を占拠せよ!」の運動が呼び掛けている内実とは、まんざら無縁ではなさそうな気がしてならない。だからこそ、「自分の居場所を占拠せよ!」とでも言ってみたくなるのである。
最後に再度、上述の引用文に戻ってみる。
<居場所は、未来への展望という時間軸と現在の自分の位置どりという空間軸とが交差するところに形成される。そして居場所を確保していくためには、他者との関わりという第三の要素が欠かせない。現代社会においては、この他者との関わりという要素が決定的に欠乏している。>
「自分の居場所」を再獲得するためには、<他者との関わりという第三の要素が欠かせない。>という点! ここに一つの "突破口" らしき可能性が潜んでいるのかもしれないと思われる。
「自分の居場所」を、他者との関わりによって再獲得しようとする健気(けなげ)な参画者たちによって、"ソーシャルメディア" がしたたかに息づいてゆくことになった時、何かが変わってゆくはずだ...... (2011.12.12)
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