今年の "漢字一字" が「絆」という漢字とされたことについて、それがもはや "失われている" 現実が広がっているからこそ、東日本大震災を契機にしつつ着目された、とコメントする人がいる。言い得て妙である。
その視点を援用するならば、人と人との "つながり" が焦点となった "ソーシャルメディア"、これもまた、人と人との "つながり" が希薄となったり、無効、喪失しているリアル世界の現実があるからこそ、人々を "ソーシャルメディア" へと誘ったのだと言うことができそうか。
たぶんこの視点は概ね妥当だと思える。が、ただ、こうしたネットが介在する "新しい" 形態の人と人との "つながり" の空間が "ソーシャルメディア" と呼ばれたことに関心が向く。特に "ソーシャル" という "形容" がなされた点に注意を払うこともできる。
もっとも、そんな事どうだってイイジャン、と遣り過ごすこともあっていい。スマートフォンなどを通して Facebook や Twitter などを友人間の "つながり" のために利用する......。"ソーシャル" というのは "社交" なのだから、それでイイジャンと。
それはそれで一向に差し支えない "ソーシャルメディア" 観であろう。
ただ、自分のような "こだわり屋" は、"ソーシャル" という言葉に "特殊なニュアンス" を感じて、"意味探し" に赴いたりしてしまう。
まして、あの "アラブの春" や "OWS 運動" が "ソーシャルメディア" と密接な関係を持っていた事実に目を向けるならば、なおの事、"ソーシャル" という言葉には何か "特殊な意味" が託されている、ような気がしてくるわけだ。
そんなわけでその "ソーシャル" という言葉にフィットする "意味探し" をしてみると、こともあろうに、ドイツの思想家ゲオルク・ジンメル(19世紀末~20世紀初頭)の社会観にまで遡ることになったりした。
深入りはさけるが、つまり、<人間関係の営まれる生成のプロセスとしての社会>( 菅野 仁『ジンメル・つながりの哲学』NHK BOOKS/2003.04.30 )という社会観に根差す "社会(人間関係)"、それが "ソーシャルメディア" の "ソーシャル" だと意を強めたのである。<生成>されつつある "社会(人間関係)" であり、その<プロセス>こそが眼目だとされる "社会(人間関係)" のことなのである。 "ソーシャルメディア" の "ソーシャル" という言葉には、こうした "生成プロセス" の "社会(人間関係)" の意味が織り込まれているに違いない、と。
ところで、一般的には "社会" と言えば、個々人の外側に "完了形" で "既存" しているところの様々な集団・組織や世間・世の中・全体社会を思い浮かべるはずだ。そして、そのように捉えられる側面を "社会" という言葉が含んでいることは事実だ。しかもそれが、結構われわれを苦しめていそうである。これは、上記の "社会(人間関係)" とは区別しておいた方が分かりやすい。
しかし考えてみると、個々人の外側に "完了形" で "既存" している "社会" も、別に天から降って来たものではなく、人々によって過去から<生成>されて来たもの以外ではなかろう。つまり、過去においては、<生成>されつつある "社会(人間関係)" であったし、その<プロセス>を持っていたに違いないのだから。
ところが、少なくともわれわれ一般庶民は、"社会" とは、個々人の外側で "完了形" となって "既存" しているという "実感" を抱くことになっていそうだ。しかし、これでは、"社会" は "変わりようがない" のは当然と言えば当然のような気がする。
たとえ "全体社会" といえども、身近な小さな "社会(人間関係)" が<生成>されてゆく事の、その積み重なりが元となって<生成>されてゆくと再認識できてこそ、硬直化した "全体社会" も変化したり、変革されたりするはずであろう。
まあ、事はそう安直なものでないことは十分に了解できる。だが、こうした状況の中で、人と人との "つながり" を焦点とした "ソーシャルメディア" が大いに衆目を集めたわけである。したがって、この "ソーシャル" という言葉に、硬直化した "社会(人間関係)" のイメージではなくて、個々人の柔軟な発想や思いによって<生成>されて行く "社会(人間関係)" のイメージが想定されたとしても決して不思議ではないと......。
しかも、硬直化した "全体社会" を<再・生成>させるといった "アラブの春" というサンプルがあったとなればなおの事であろう。
だが、個々人の柔軟な発想や思いによって<生成>されて行く "社会(人間関係)" というイメージが、人々の胸の内に仮にあったとしても、現実の "ソーシャルメディア" の利用のされ方は、当然ながら千差万別である。
現状はと言うと、従来型のマスメディアが報じる "紋切り型・画一的" 情報がネット空間に充満し、また "ソーシャルメディア" を専ら "収益化" のツールと見なす企業の "マネタイズ" 路線が闊歩している。そうした気配では、本来的な "ソーシャルメディア" の可能性が所在なく足踏みをするばかりか...... (2011.12.31)
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