現在、"ソーシャルメディア" には "過大・過剰" な期待が寄せられている。それはそれで良いとしよう。筆者自身も少なからぬ期待を抱いている。
だが、警戒すべきは、"ソーシャルメディア" という、より "進化" した "テクノロジー(技術)" 的事象が、あたかも社会的矛盾のすべてを自動的に解決して、"社会の進歩" を自動的に切り拓くとする "能天気さ(楽観論)" が罷り通ることかもしれない。
もちろん、そんなこと(技術の進化が社会の進歩を自動的にもたらすという幻想!)はあるはずがないのだが、時としてわれわれは、"幻想" に傾いてしまう。特に、"中立" を表看板にしたマスメディアなどが、ちょっとした "匙加減 ?" をするならば、"盲信的" な "ソーシャルメディア(technology)信者" となってしまったりする......。
つまり、どんな "社会環境" にあっても "ソーシャルメディア" とその周辺の事態は、"中立" でさながら "白馬の騎士" だと信じ込み易いわけだ。
ところが、この世界に "中立" が保証された存在なぞはあり得ないと言うべきであろう。あるとすれば、"中立であれ!" と迫る人々の声によってかろうじてその "近似値" が整う、という程度であろうか。
簡単に言えば、<FacebookやTwitterはいま、自らのサービスが社会の民主化を維持・促進するツールであると主張するかもしれない。だが、これらの企業はなんと言おうとも私企業であり、営利追求に関心をもつ法人>(下記引用記事)なのである。
置かれた社会環境や、社会的文脈に応じて、"フリーハンド" の行動選択が可能だということなのである。
下記の引用記事は、この辺の事情について例を挙げながら "警鐘" を鳴らしている。結構、勇気のある行動だと思える。少なくとも、日本国内では、"現状追認!マスメディア追従!支配的空気迎合!" に呑み込まれて、今や "お犬様 ?" のようなステイタスにあるかもしれない "ソーシャルメディア" に苦言を呈する者はいない......。哀しいかな、これでは "ソーシャルメディア" の可能性はスポイルされ続けるに違いなかろう。
"ソーシャルメディア(technology)" への関心と視野は、その内部に閉じこもるだけではなくて、"ソーシャルメディア(technology)" 自体を "予断なく、批判的に" 見つめていく必要のあることを感じさせられた。
< ソーシャルテクノロジーは中立ではない:米教授がメディアに警鐘
革命におけるFacebookやTwitter関連の話題を熱心に採り上げるメディアは、Vodafoneがムバラク政権の要求に応じてSMSサービスを遮断したことについて、なぜ同じ程度の関心を示さないのか。
今年のはじめにあったいわゆる「アラブの春」に関して、ソーシャル・ネットワークやカメラ、携帯電話などのテクノロジーが、反政府グループの動きを助けたとする見方が一般的だった。上の写真は今年2月にNew York Timesに掲載されたものだが、携帯電話の代わりにキャンプファイアーを囲む人々を撮した同じような写真もあった。つまりビジュアルによって、テクノロジーとはどういものであるかが決定されてしまっているのだ。ニューメキシコ大学でアメリカ研究を教えるDavid Correia教授がこの写真を目にしたとき、ある疑問が浮かんだ。それは、メディアがテクノロジーをこのような角度から採り上げることに執着することによって、われわれはテクノロジーの目的や発展について深く考えることができにくくなっているのではないかというものだ。
Correia教授によれば、テクノロジーについてより多面的に考える方法のひとつは、その政治経済に注目することだという。これはどういうことかというと、つまりFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアは、はじめから中東での革命を促すためにつくられたわけではない、ということだ。「多くのソーシャルメディアは企業が営利目的で運営しており、彼らのサービスは余剰価値を得て、株主に利益を還元するための手段として開発・実装されている」と同教授は指摘する。
同教授は先ごろ、政治関連の話題を扱うオンライン・マガジン『CounterPunch』に寄稿した「Democracy, Capitalism and Technology」という記事のなかで、民主化の要求といった社会的な動きのなかで技術が果たす役割を過大評価しがちな報道機関の姿勢に言及。われわれの技術に対する理解や技術への依存から、ある種の"技術的な決定論"が生み出されているが、この影響で近年では技術の進化についてしっかりと精査することがなくなってしまったと警鐘を鳴らしている。
「私があの記事のなかで示そうとしたのは、テクノロジーの進化が社会の進歩とイコールであると考えられるようになってしまったということだ。技術の進化と社会の進歩を同一視してしまうと、技術について批判を加えることができなくなり、技術は進歩を促すものだとして、あらゆる政治的な議論が打ち切られてしまう」(同教授)
FacebookやTwitterはいま、自らのサービスが社会の民主化を維持・促進するツールであると主張するかもしれない。だが、これらの企業はなんと言おうとも私企業であり、営利追求に関心をもつ法人である。ところが、そうしたサービスをテクノロジーとしてとらえた場合にどんなメリットがあるかという昨今戦わされている議論の大半では、この事実が忘れられているか、少なくとも見過ごされているようだ。
「一般に、ほとんどの人がテクノロジーを無批判に受け入れていると思う。つまり、テクノロジーは常に中立なものだと考えられている。たとえテクノロジーが進歩を促すという考えを受け入れない人がいるとしても、できるのはせいぜい『それは中立だ』と唱えることくらいだ」(Correia教授)
そういう同教授は、エジプトのムバラク政権が反政府グループを弾圧するのにハイテク技術を使っていた例を引き合いに出して、次のように述べている。
Boeing社傘下のNarusという企業では、リアルタイムで監視を行う装置を開発しているが、同社の製品をつかってムバラク政権が活動家の動きを監視し、反政府グループ内のコミュニケーションを妨害していたことは、これまでほとんど報道されていない。それはなぜか。
あるいは、FacebookやTwitter関連の話題を熱心に採り上げる報道機関は、エジプトでVodafoneがムバラク政権の要求に応じてSMSサービスを遮断したことについて、なぜ同じ程度の関心を示さないのか。
「あのエジプトの場合には、テクノロジーは中立ではなかった。むしろ明らかにムバラク政権の利益になるような使われ方をしていた。われわれがムバラクを批判する際、彼の政権を強化するためにテクノロジーが使われたという点についても、認識と批判を盛り込むべきだ」(Correia教授)
さらに同教授は、「われわれは、誰がテクノロジーを所有し、どのように構築され、どうやって政治的、経済的な力として展開されているかについて考えなければならない」と主張。そして「テクノロジーが利害関係を超えて人々に奉仕するようになってはじめて、それは『民主的』なものになる」と述べている。
TEXT BY Jakob Schiller>( ソーシャルテクノロジーは中立ではない:米教授がメディアに警鐘/WIRED JAPANESE EDITON - TECHNOLOGY/2011.12.09 )
PHOTO BY Ed Ou/The New York Times/Redux
TRANSLATION BY 中村航
仮にも、"社会の進歩" を望み、そのために周囲を "批判的に観察" する人々であるならば、今や超人気の "ソーシャルメディア" そのものが、"力を持つ横暴なパワー" によって "牛耳られる" 可能性に気づいているかと思われる。
これは、まさに "ソーシャルメディア" の "喜劇×悲劇" であろう。上記記事は、そんな事態を見据えているだけに貴重だと思えた...... (2011.12.10)
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