ネットの一般的利用それ自体がそうだと思われるのだが、"ソーシャルメディア" もその利用の仕方を心得ないと、楽しいどころか、却って "苛立ち" の原因にさえなりかねないのかもしれない。
意外と少なくないと思われる "苛立ち" とは、企業経営における経営数値のごとく、やたらに "数値" にこだわる轍(わだち)に嵌り込んでしまう事態のことだ。"アクセス数/友人数/フォロアー数" など、気になり始めると切りがない "数値" のことである。
自分の場合も、このブログにしてからが "アクセス・カウンター" なんぞを設置してアクセス数にこだわっている気配がないではない。言い訳めいたことを言うならば、書き記したブログ内容の "反省材料(?)" にしようとしているのだが......。
思い入れをした内容のブログに相応のアクセス数がカウントされると溜飲が下がったりする。が、その逆だと、"独りよがり" であったか......、と書いた内容を再吟味してみたりもするわけだ。
だが、マズイと思うのは、いつしかアクセス数が "独り歩き" してしまい、これに必要以上にこだわる自分を見出す時なのである。こんな時には若干の "苛立ち" が伴ったりするのも正直いって事実だ......。
ただ、そんな時には、所詮、アクセス数なんてものは、要するにある意味で特有な "グーグル検索" による所産でしか過ぎない! と開き直る(?)ことにしている。
ただし、自分は本当に書きたいことを書いたのか? とか、書くに値するリアル生活(?)をしているのか? といった "基本的" 反省のきっかけにはしていそうだ。
ところで、結構重要でありながらも見過ごされがちかと思われるのは、ネット一般にしても "ソーシャルメデア" にしても、所詮は "ツール" なのだという点である。
言うまでもなく "ツール" とは、第二義的な位置づけにあるものであり、第一義の本命となるものにこそこだわらなければいけない。
では、"第一義の本命となるもの" とは一体何か? ということになる。とりあえず、二つほど挙げられるかと思っている。
一つは、当たり前と言えば当たり前のようだが、"バーチャル" なネットや "ソーシャルメデア" 上でのライフ以前に、現実の生活(リアル生活)を充実させようと努めること。いわば "リア充" を蔑(ないがし)ろにしないスタンスが欠かせないのではないかと思われる。
"リア充" のイメージはいろいろとあるかもしれないが、要するに現実の生活での人と人との "つながり" という "拠点!" を蔑ろにするならば、"バーチャル" なネットや "ソーシャルメデア" 上でのライフが次第に "自己目的" 化され、"過剰な思い入れ" を始めてしまうことは目に見えている。しかし、そんな "重責(?)" に耐えられるような "バーチャル" 空間はどこにもないはずではなかろうか......。
もう一つは、"ツール" 的位置づけである "バーチャル" なネットや "ソーシャルメデア"、特に "ソーシャルメデア" にとっては、やはり "コンテンツ" と言うか、"つながり" の "実" を形成することになる "対象、内容" にこだわって当然かと思える。
人と人との "つながり" には、"つながり" 自体に意味がある、とする考え方もありそうだが、それは現実の生活(リアル生活)では成り立ち得るとしても、"バーチャル" 世界上でのそれは、"空虚、我田引水" 以外の何を意味することになるのであろうか......。"空虚" であるからこそ、"数値" が大きく視野に入ってくるのだとも言えそうだ。
やはり、何で "つながる" のかに対応する "対象、内容" に十分に意を払って然るべきではないかと思っている。
昨日引用した<ツイッターの利用目的の1位が「暇潰し」>というケースなどは、何とも "もったいない" ことだと感じざるを得ない......。
もちろん、"バーチャル" なネットや "ソーシャルメデア" をどう利用しようとユーザー個々人の自由、勝手であることは言うまでもないことだ。
ただ、誰もが程度の差こそあれ感じている "苛立ち" は、放って置いて解消される筋合いの問題ではなさそうな気がしている...... (2012.01.03)
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