やはり、"人間的・社会的事実" としての "ソーシャルメディア" 上の現象を考察する場合には、"ツール" 的側面を "過大視" するのは禁物だと言うべきか......。
当たり前と言えばそうなのだが、どうも "ソーシャルメディア、ソーシャルメディア" と "連呼(?)" されると、この "IT ツール" や "仕組み" 自体がまるで "魔法の力" でも秘めているかのような錯覚に陥ってしまう。そしてそのうちに、「王様は裸だ!」とは口に出せなくなる空気が醸成されてしまう。
まして、"アラブの春" などの "一典型" が立ち上がってしまうとなおさらのことかもしれない。
ちょうど、以下のようなサイト記事(部分)が目に留まった。
<...... 田原氏は、「世界では、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアは政治への影響力も強く、独裁政権を崩壊させたケースも 出てきている。しかし、日本ではそうした影響力は感じられない。なぜなのか」と、佐々木氏に疑問をぶつける。
すると佐々木氏は、「ソーシャルメディアが政治に影響を与えられる前提としては、中東の国家に代表されるように、若者の人数が多く、政府に強い不満をもっていることが挙げられる。これに対して、日本では若者の割合が少ないうえに、権力への強い反抗感がないのが現状。しかも、政治に怒りをぶつけようにも、ぶつける相手がいない」と、その理由をわかりやすく説明してくれた。...... >( サイバー・コミュニケーションズ、SOCIAL MEDIA WEEK TOKYOを日本初開催、初日には田原総一朗氏と佐々木俊尚氏が基調対論/マイライフ手帳@ニュース/2012.02.13 )
端折って言うならば、"ソーシャルメディア" という "IT 環境" 自体が<独裁政権を崩壊させた>ワケなんぞではないのだ。だから、<日本ではそうした影響力は感じられない>としたって何の不思議もないのである。
<ソーシャルメディアが政治に影響を与えられる前提としては......>の、その "前提" の基盤こそが "重い" のであり、いや場合によってはそれが 90% 程度だとさえ言っていいのかもしれない。
"ソーシャルメディア" 周辺については、もっと "複合的" な視点で考察されるべきであろうし、"ソーシャルメディア"="つながり" という局面にしても、"ソーシャルメディア" が "つながり" を生み出すと一方的に "強調" する前に、その "逆" の、"つながり" という "前提" 基盤が "ソーシャルメディア" を活性化するという平凡な事実の "重み" に目を向け直すことが妥当なのではないかと感じている。
そんな折、下記の引用サイト記事:ソーシャルメディアを利用した講義スタイルの提唱者、「講義にはつながりが必要」と悟る/Slashdot/2012.02.14 が、新鮮な感触で目に映った。
ソーシャルメディアを利用した講義スタイルの提唱者、「講義にはつながりが必要」と悟る
「先進的な授業」を試みていることで知られるカンザス州立大学・文化人類学助教授のMichael Wesch氏が、YouTubeやTwitter、ブログなどを使った講義についてTED Talksで語ったそうだ(本家/.、The Chronicle記事)。
Wesch教授はこのようなテクノロジを使った講義を行っていたのだが、同様の試みを行った他の教授に「あなたののアイデアを導入してみたところ、うまくいかなかった。学生らは混乱してしまったようだ」と言われたという。これをきっかけに自らの考えを見直し、熱意ある講義で知られるChristopher Sorensen教授の授業を見学したところ、従来のような古い講義スタイルであったにも関わらず、学生らは驚く程に授業に集中していたことに気づいたそうだ。
これによりWesch教授は「教授と学生との間に、互いに真に繋がっているという感覚がなければならない」ことに気がついたという。つまりこの繋がりがなければどんな講義スタイルをとってもうまくいかないとのこと。>
( ソーシャルメディアを利用した講義スタイルの提唱者、「講義にはつながりが必要」と悟る/Slashdot/2012.02.14 )
"ソーシャルメディア" があたかも "独走!" するかのような過大な印象を与え続けるのは如何にも間違いであろう。かと言って貶すつもりはさらさらなく、むしろ妥当な位置づけをすることによってこそ、"ソーシャルメディア" が秘めた可能性を極大化できると思うのである...... (2012.02.15)
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