何によらず物事には "両側面" が備わっていると思われる。
そして、往々にして、長所(可能性)と短所(課題・問題点)とが分かち難く結合し、まるで "ヤヌス(双面神)" のような状態であることが少なくない。
ソーシャルメディアと "政治" との関係について考える場合(下記参照)、ソーシャルメディアについても、こうした "二面性" に留意すべきかと思えた。
◆参照 SocialMediaと政治!課題は,"にもかかわらず鈍感な日本の政治"に各論で迫る事!( 当誌 2012.02.24 )
◆参照 "仕掛人"が語るこれからが本番"ウォール街占拠"運動/第3政党,ロビンフッド税!( 当誌 2012.02.24 )
ソーシャルメディアはいろいろなかたちで理解されているが、今注目してみたい点は、それらが、"ゆるやかな部分結束" によって展開しているという特徴を持っていそうな点である。
今回、下記に引用するサイト記事: 「【日本版コラム】ソーシャルメディアの「怒れる人々」 野尻哲也のアントレプレナー・アイ/THE WALL STREET JOURNAL 日本版 | ビジネス・企業/2012.02.23 」では、3点の特徴づけがなされているが、その1点目で以下のように述べられている。
<言うまでもないことだが、ソーシャルメディアでは簡単に自分の意見を表明し、他者に賛同することができる。そのために必要な行為は、PCや携帯電話で投稿するだけ。旧来的なデモや署名活動への参加と比べたら、物理的なハードルは圧倒的に低い。またソーシャルメディアでは、部分的な論点に限って結束できるという、良い意味での都合のよさがある。お互いが直接顔を合わせる機会が少ないため、何かしらのイデオロギーや他者の人格を全面的に肯定する必要がない。他者の考えにズレを感じたら、人知れずその輪から外れることもたやすい。このようにソーシャルメディアの緩やかで部分的な結合性が、より多くの人々の感情の受け皿となる。>
つまり、ソーシャルメディアでの "ゆるやかな部分結束" は以下の点によって "促進" されることになる。
1.<必要な行為は、投稿するだけで、物理的なハードルは圧倒的に低い>
2.<部分的な論点に限って結束できるという、良い意味での都合のよさがある>
3.<人知れずその輪から外れることもたやすい>
しかし、考えてみればこれらは "促進" 要因であるだけではなく、まさにそれぞれが "二面性" を秘めてもいるわけだ。
まず "政治的" 活動の場合、"継続・持続" という条件が不可欠であるのに対して、"1" や "3" は、運動が "下火" に向かった際には逆作用をも果たすことも懸念される。
さらに、懸念されるより重要な問題は、"2" であろう。一般的に "政治的" 活動の最終局面では "政策化" が想定されざるを得ず、その際には "オピニオンの多面性" がより上位の "アジェンダ(争点、政策)" に "収斂" されなければならないはずであろう。この "収斂局面" が必ずしも容易いことだとは思えない。
この局面において、"ゆるやかな部分結束" の状態、運動は、"織り込み済み" とさえ言える決して小さくはない "試練" を避けるわけにはいかないのだ。この辺の事情は、ソーシャルメディアをフル活用した "ウォール街占拠" 運動が今現在遭遇している大きな課題なのでもあろうし、大統領選でソーシャルメディアを駆使したオバマ大統領が抱えている苦境だとも言えそうだ。
ソーシャルメディアは、こうした "二面性"("ヤヌス(双面神)" )を秘めているから良くない、というのでは決してない。
それは、いわば "ボトムアップ" 活動全般に共通する不可避の課題と言うほかなく、ただ、"ネット上の" という条件があるだけに、この "想定範囲内の伏兵(?)" を十分に意識した活動スタイルが求められると思われるのである......。
【日本版コラム】ソーシャルメディアの「怒れる人々」 野尻哲也のアントレプレナー・アイ
...... 知り合いの知り合いの、更に知り合いの知り合いあたりに存在する当事者から、現場の声や情報がソーシャルメディアを通じて次々と伝わってくる。それまでテレビや新聞の「向こう側」にあった出来事はより身近に感じられ、これらを契機に問題意識を抱く人々は自ずと増えるだろう。
ソーシャルネットワークが生む「大衆の力」
ソーシャルメディアと呼ばれるインターネット上のプラットフォーム、それはフェイスブックでもミクシィでも、あるいは2ちゃんねるでも構わない。筆者はソーシャルメディアを「再現可能な人間関係の存在( 相互に相手を特定して、コミュニケーションを図れること )」と定義づけており、前記のサイトは程度の差こそあれ、いずれもソーシャルメディアの部類と捉えている。普段は雑多な情報やうわさ話にあふれるソーシャルメディアの世界。しかし時として無数の人々の声を集約し、ひとつの大きな力となるのはなぜだろうか。
1) ゆるやかな部分結束
言うまでもないことだが、ソーシャルメディアでは簡単に自分の意見を表明し、他者に賛同することができる。そのために必要な行為は、PCや携帯電話で投稿するだけ。旧来的なデモや署名活動への参加と比べたら、物理的なハードルは圧倒的に低い。またソーシャルメディアでは、部分的な論点に限って結束できるという、良い意味での都合のよさがある。お互いが直接顔を合わせる機会が少ないため、何かしらのイデオロギーや他者の人格を全面的に肯定する必要がない。他者の考えにズレを感じたら、人知れずその輪から外れることもたやすい。このようにソーシャルメディアの緩やかで部分的な結合性が、より多くの人々の感情の受け皿となる。
2) 加速的な発展
ソーシャルメディアでは自説を肯定するために、多数の参加者によって加速度的に情報が蓄積され、理論武装が進む。彼らの説得力は増し、繰り返し伝播されることで、共感者は更に増加していく。一方、互いの意見を調整したり、ブレーキの役割を果たしたりする組織的な機能を持たない。そのため反対意見や修正を受け入れる受容性は低く、時として強い攻撃性を帯びることがある。
3) 収束、観念の形成
旧来的なデモと同様に、ソーシャルメディアで湧き起こった抗議も、時とともにやがては収束に向かう。この時、ソーシャルメディアでは表立った活動が下火になったとしても、それまでの言動はログとして半恒久的に記録され、ブログやウィキペディアなどを通じて多数の人々に閲覧され続ける。このようにして共有された「怒りの記憶」は、人々の購買行動(不買など)や投票行動に、長きにわたって影響力を及ぼし得る。
市民・消費者と向き合う時代
人々の怒りがソーシャルメディアを通じて大きな力に変わる一方で、対峙する政府や企業の多くは、その影響力をいまだに甘く見積もっているようだ。いわゆる「炎上」が発生すると、政府・企業が最も選択しがちな対応は「無視」である。しかしこれは事態の収束を導かず、先に挙げたように、延々とネガティブメッセージが拡散され続けることになる。
( 【日本版コラム】ソーシャルメディアの「怒れる人々」 野尻哲也のアントレプレナー・アイ/THE WALL STREET JOURNAL 日本版 | ビジネス・企業/2012.02.23 )
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「さあ政府や企業もソーシャルメディアを活用しましょう」ということを単に言っているのではない。フェイスブックにファンページを作るのは良いけれど、ただ広告宣伝を行うだけなら、ツールは新しくとも視野は古いままだ。ソフトバンクの孫正義社長や橋下徹大阪市長が、時に感情を露わにしてツイッターで議論を交わす姿は、一般的な政府・企業にありがちな「一方的なアナウンス」とは全く異なる。今やソーシャルメディアはインターネット上のツールにとどまらず、人々に力を与え、社会の閉鎖性をこじ開ける利器となりつつある。政府・企業はこれらに背を向けるのではなく、市民や消費者と向き合う機会とすべき時代が訪れている。>( ※引用者注 ―― 文意を損なわないよう留意して割愛箇所を施しています。)
ソーシャルメディアが "政治的影響力" を持つとされるステージから、"アジェンダ形成過程" への実質的参画に至るまでには、どんな試行錯誤が必要となるのか、その点を注視していきたい...... (2012.02.26)
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