このうだる暑さの中、子どもが三人、忙しそうに "作業" をしている。まるで繁忙時間帯の食品工場や外食店厨房での職員さながらの動きだとでも言うべきか......。
そんな光景に目が奪われたのは、自転車で近くの書店に出向いた帰り途であった。広い公園のグラウンドには、この暑さだから人っ子ひとり遊んでいない。そうだろうなぁ、と頷いたものだ。
と、視界の隅から、奇妙な光景が飛び込んできた。公園の隅の一角に設えられた砂場である。その砂場は、銭湯にありがちな楕円状の湯船のような形状であったが、その縁石の上に、何と、ぐるり一周、黒々とした "砂の塊" が並べ尽くされていたのだ。
それらが何であるかは、言うに及ばない。砂場の中でテキバキと蠢く子どもたち三人の "仕業、成果物" 以外ではなかった。
小学3年生くらいの女の子を筆頭にして、ほかに年端の行かない子、妹と弟であろうか、その二人を含む三人が "砂饅頭" とでも思われるものを "製造" していたのだ。
この暑さであり、通常ならば砂は乾き切っていたはずだ。だが、昨夜まで、激しい雨が降り続いていた。砂場は、やや掘り起こせば、表面の砂の下には雨水を含んだ黒い砂が "製造待ち" の状態になっていたのだ。
筆頭の女の子が他の二人の子を小気味よく仕切っている。しゃがんで "砂饅頭" を丸める小さな男の子、女の子から出来上がったものを受け取っては、再度仕上げの "握り" をした上で小走りとなって縁石の上の隙間に並べる。そんな繰り返しを、よくも延々と重ねたものである。気まぐれな子どもの遊びの範疇を優に超えている......。
もう、縁石の上は立錐の余地もなくなりつつあった。ざっと数えて百個にも及ぶ壮観さであった。
彼らの遊びが、何を模していたのかは分からない。"お饅頭屋さん"、"パン屋さん"、いや何かもっと特別な "製品" であったのかもしれない。
ただ、明瞭なことは、もちろん "無償" の行為でありながら、ありったけのパワーを注ぎ、一心不乱で自分たちの想い描いた "夢のイメージ" 実現に没頭していたこと。それが、実に "新鮮!" に目に映えたのだった。
子どもたちが織り成したその砂場の光景は、図らずも "働く" ということの "原点" を照らし出すものと感ぜざるを得なかった......。とかく、"稼ぐ" という目的に収斂(しゅうれん)しがちとなった大人たちの "仕事" ......。
公園の脇を通り過ぎ、振り返って砂場の方を眺めると、年長の女の子は、"和菓子屋" の女将さながら、誇りに満ちた素振りで "縁石に陳列された和菓子" を見回していた。
相変わらず黒々としたままの "砂の塊" 百個余りは、縁石の上で行儀よく並んで見えていた。
ふと、かつて観た感動的な映画、『砂の器』(原作:松本清張、監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍 山田洋次)のファーストシーンを思い起こし、人の世のシニカルさに思いが立ち戻る...... (2012.07.16)
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