これだけ時代環境の "停滞・低迷" が続いていれば、誰だってこれまでの "スタンス" ではマズイ! と感じるのは当然のことだろう。
そして、受け容れ易い "解説(?)" としては、"キャッチアップ時代の「処理型」思考から目標喪失時代の「創造型」思考へ" という "お定まり解説" だ。
しかしそんな "ニュース解説(?)" は百も承知、千もガッテンに違いない。
明らかに、問題はその先にある。求められている "目標喪失時代の「創造型」思考" は、単に個人的営為の "自覚的ことがら" としてではなく、社会的地平での問題として見据えられてこそ、この歯がゆい課題は建設的に前進できる......。
下記引用サイト記事:現代の成熟社会に求められる「レゴ型」思考法/WIRED JAPANESE EDITON - BUSINESS/2012.08.11 は、分かりやすいことは確かだ。
"キャッチアップ時代の「処理型」思考" を、<目標が提示されるとそれを達成するのに血道を上げる「情報処理力」>と捉えて、それを「ジグソーパズル型」と呼ぶのに対して、今求められる "目標喪失時代の「創造型」思考" を<「レゴ型」>とたとえるのは、それはそれであざとい。
だが、今求められているのは、"診察所見" ではなく "治療法" そのものであろう。「ジグソーパズル型」→「レゴ型」へと視点を反転させてみるだけでは、"空転する" だけに終わりかねない。
「レゴ型」思考( "目標喪失時代の「創造型」思考" )が、何を "母胎" とし、何が "致命傷的原因" であり、今、その萌芽としては何が見出せるのか......、などを凝視した "治療法" が必要なのである。
言うまでもなく、「レゴ型」思考が、カントの "純粋理性批判" 的作法で立ち上がってくるわけはないのであって、大小の差こそあれ "個人間関係という水平的地平" に根差すことは自明である。
その点では、現在、"ソーシャルメディア" が注目されている風潮は理に叶っているのだと思われる。「ジグソーパズル型」思考の特徴である "迎合性、調和信仰、脱・対話......" などを引き摺っていないとは言い切れないが......。
ところで、下記引用記事に、<──ひとりひとりの図柄は共有する必要があるのではないでしょうか?>というインタビューアーの "問いかけ" がある。
この "問いかけ" を自分はこう読み換えてみた。
"ひとりひとりの図柄は共有されることを欲する" のではないかと。あるいは "ひとりひとりの図柄は共有によってこそ定着してゆく" と。
つまり、"ひとりひとりの図柄" というものは、個々人に "天下り" 的なかたちで訪れるものではなく、"個人間関係という水平的地平" で生まれ、その関係の中で定着して行くものではないかと思えるからだ。
もし、こうした "個人間関係という水平的地平" が "焼け野原(?)" とされたままであったならば、個人の思いは「ジグソーパズル型」思考を延命させる "共同幻想の虚構!" に相変わらず流れ込み続けるに違いないだろうと......。
現代の成熟社会に求められる「レゴ型」思考法/WIRED JAPANESE EDITON - BUSINESS/2012.08.11
藤原:僕は、昭和30年(1955年)、高度成長のただ中に生まれました。当時から日本の教育は、目標が提示されるとそれを達成するのに血道を上げさせる「情報処理力」を授ける教育。僕は「ジグソーパズル型」と呼んでいます。ジグソーパズルが与えられるとその絵柄やピース数にかかわらず、いち早く仕上げる力をつけました。そうして受験勉強もしたし、大学にも入った。僕の前半の人生は、「正解主義の申し子」と言ってもいいかもしれません。
自分の人生を真剣に考えて生きていたつもりでしたが、後から振り返ってみればほとんど「考えない」人間だったことに気がつくんです。単に、目の前にあることを「処理していた」だけに過ぎなかったと。......
成熟社会で活きる「納得解」を導きだす力
藤原:ヨーロッパから戻った40歳以降の僕の生き方は、「正解主義」から「修正主義」へ大きく、極端に振れました。物事はやってみてから変え、改善し、進化していけばいいと。いまの僕がこの姿で何かを言ったとしても、それは中間報告にすぎないという考え方です。
正解主義は「ジグソーパズル型」、修正主義は「レゴ型」と言い換えることができます。僕は、日本は1997年に高度成長期がピークアウトし、1998年から成熟社会に入ったと理解しています。既にキャッチアップの時代を終え、正解がひとつでない社会を迎えました。状況がめまぐるしく変わるいまの時代に求められているのは、明らかにレゴ型でしょう。ピースが少なくても、その組み合わせひとつで宇宙船から家から、文字どおり街全体を作り出すことができるのですから。
それは、ジグソーパズル型に求められていた「情報処理力」でなく、「情報編集力」を駆使するということです。他者を納得させられる解答、いわば「納得解」を導きだす力が求められていると思います。
キャッチアップの時代は、ヨーロッパや、特にアメリカをモデルに世界観が示されていましたね。戦後、1億や10億もあったジグソーパズルのピースを、日本人はひたすら埋めてきました。それは80年代で埋め尽くされ、パズルの図柄も見えたように思います。その次の絵柄を誰かが提示しなければならないのだけれど、大きな図柄(ビジョン)は自民党も民主党も示してはくれません。そしていまは、皆が巨大な図柄を追うのではなく、ひとりひとりの図柄を考えなければならない時代だと思います。......
──ひとりひとりの図柄は共有する必要があるのではないでしょうか?
藤原:そうですね。例えば、いまの子どもたちは、別々のNintendo DSで別々のゲームをやりながらも、互いに話をしてつながっています。つまり、何のゲームをやっているかは皆が把握し、コミュニケーションはとれている。トータルでパブリックにあるゲームに参加している感じ、これが必要なのかなと。...... いまソーシャルメディアが注目され活用もされていますが、それがまさに「自分のゲームをやりつつ、周りともつながっていく感じ」だと思うんです。TEDもそんな場ですよね。......
日本は、欧米と異なり絶対神を持ちえないと思います。キリスト教文化とは違なる、八百万ですから。そういう意味でも、よりレゴ型が求められるでしょう。ジグソーパズル型が怖いのは、プレイする本人が図柄自体を自己決定していない、そこに本人が気がつかない点なんですよね。時代が変わったのに、ビジネスマン候補の若い人たちは、いまだにジグソーパズルを解くための教育の中で育っています。教育は高度成長時から一歩も進んでないのです。......
( 現代の成熟社会に求められる「レゴ型」思考法/WIRED JAPANESE EDITON - BUSINESS/2012.08.11 )( ※引用者注 ―― 引用は抜粋部分です。)
<皆が巨大な図柄を追うのではなく、ひとりひとりの図柄を考えなければならない時代>だとは、皆が了解している。
問題は、以下のような "魔術(?)" からの離脱方法以外ではないのだと思われる。
<ジグソーパズル型が怖いのは、プレイする本人が図柄自体を自己決定していない、そこに本人が気がつかない点>
<自分の人生を真剣に考えて生きていたつもりでしたが、後から振り返ってみればほとんど「考えない」人間だったことに気がつく>点 ...... (2012.08.12)
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