<改正臓器移植法が施行され、子どもからの臓器提供が可能になった> とはいうものの、愛しいわが子の死という悲しみを乗り越えることさえ大き過ぎる試練である上に、その子を "臓器提供" の "ドナー" とする決断まですることは想像を絶するほどの苦悩であるに違いない。
と言っても、"改正臓器移植法" の主旨や、"臓器提供" を "切実に待つ子どもたち" の存在から視線を逸らそうとするつもりではない。
つい先日も、"子どもからの臓器提供" が難しい現実を逆照射するかのような下記ケースに目を向けた。
<重い肺の病気の3歳の男の子に母親の肺の一部を移植する生体肺移植の手術が、岡山市の岡山大学病院で始まりました。3歳児に対する肺移植は国内では最年少のケース/ 生体肺移植では、通常、肺の「下葉」と呼ばれる部分が使われますが、男の子にはサイズが大きすぎて手術ができないため、病院では、肺の中で最も小さな「中葉」と呼ばれる部分を移植する新たな方法で手術を行い/ これまでの肺移植で使われてきた「下葉」とは血管の位置などが異なり、技術的に難しい手術になるということ>( 3歳の男の子に母親の肺の一部を移植する生体肺移植手術開始!皆が成功を祈り見守る!( 当誌 2013.07.02 ) )
しかしそれにしても、親御さんが、わが子を "臓器提供" の "ドナー" とすべく、苦渋に満ちた決断に至る過程というのは、何と痛ましいことであろうか。
下記引用サイト記事:「娘の臓器受けた子、抱きしめたい」 1歳半で脳死移植/朝日新聞/2013.07.12 - 08:20 は、そうした親御さんの悲しみと苦悩とを余すところなく伝える秀逸な記事だと思えた。
"脳死状態" とは、<心臓が動き ...... 華乃ちゃんは顔色もよく、おしっこも出ている> という状態であるだけに、親御さんにとっては辛い! <頭では、娘の脳機能が戻ることはないと理解できた。でも「もしかしたら」という希望は捨てられず、脳死判定まで3日間、待ってもらった。夫婦で祈りを重ね、判定の現場にも立ち会い、少しずつ死を受け入れていった> と、そのあまりにも辛く切ない状況が述べられている。
そして、親御さんの心のうちを嵐のように吹き荒れた諸々の感情は、慎ましやかながら感極まる一つの想いへと結晶化していく......。
<「もし可能なら、その子に会いたい。そしてぎゅっと抱きしめて、『頑張って』と伝えたい」>
"子どもからの臓器提供" という "社会的事象" のその足元には、人の親としてのこうした切々とした想いが託されているわけである。こうした厳粛な事実に、改めて、気づかされた思いがした......。
「娘の臓器受けた子、抱きしめたい」 1歳半で脳死移植/朝日新聞/2013.07.12 - 08:20
【岡崎明子】千葉県出身でシンガポール在住の会社員、小山徳道(おやまのりみち)さん(33)の娘、華乃(はなの)ちゃん(1歳6カ月)が脳死と判定され、腎臓と心臓の弁が現地で提供された。歌と踊りが好きな利発な女の子だった。小山さん一家は11日、華乃ちゃんの遺骨とともに帰国した。
日本では2010年7月17日に改正臓器移植法が施行され、子どもからの臓器提供が可能になった。しかし、6歳未満からは1例だけ。今回は海外での提供だが、提供した側の家族が実名で取材に応じた例はこれまでにない。
6月29日夕、一家が自宅のプールサイドでくつろいでいるときだった。華乃ちゃんの姿が見えないことに、妻(35)が気づいた。1~2分後、プールに浮かんでいる娘を見つけた。
「はなちゃん、はなちゃん」。叫びながら、必死に心臓マッサージをした。唇は紫色。意識がない。救急車で病院に運ばれ、約40分後に心臓が動き始めた。だが、脳が激しく損傷していた。「脳死ということですか?」。小山さんの問いに、医師がうなずいた。
それでも華乃ちゃんは顔色もよく、おしっこも出ている。大好きな「いないいないばあっ!」の曲を聞かせ、手を握って励ました。
4日目、検査で脳に血が流れていないことが確認された。瞳孔も反応しなかった。医師は時間をかけて、脳死状態であることを説明した。その後、移植コーディネーターが声をかけてきた。「臓器提供に協力するお気持ちはありますか」
そういう選択肢があることを、このとき初めて知った。だが迷いはなかった。妻も同じだった。「親にとって、子どもを失うことはあまりにもつらすぎる。同じ思いをする人が1人でも減って欲しいと思った」。華乃ちゃんが痛みを感じることはないという説明も決め手となった。
頭では、娘の脳機能が戻ることはないと理解できた。でも「もしかしたら」という希望は捨てられず、脳死判定まで3日間、待ってもらった。夫婦で祈りを重ね、判定の現場にも立ち会い、少しずつ死を受け入れていった。
脳死の正式宣告は7日午前11時。「今まで本当にありがとう」と別れを告げた。深夜に臓器摘出手術が始まり、翌朝3時に終わった。心臓の弁はまだ移植されていないが、腎臓の一つは他の子どもに移植されたと聞いた。
「もし可能なら、その子に会いたい。そしてぎゅっと抱きしめて、『頑張って』と伝えたい」
( ※引用者注 ―― 文意を損なわないよう留意して割愛しています。)
"臓器摘出"/"臓器移植" の前提となる "臓器提供" は、まさに人の世の "命のバトンタッチ・リレー" のイメージを彷彿とさせずにはおかない。
あくせくとして、閉鎖的でさえある "命の日常" の平面がある一方で、これを超越した次元に、涼やかで永遠な "命の流れ" というものも存在することを予感させてくれる...... (2013.07.13)
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