十数年も一緒に暮らしてきた "外猫扱い" の "ミー(ミーコ)" が、とうとう "天敵/クルマ" の餌食となり、"地味" で "慎ましく" そして "頼もしい" その命を閉じた。
午前6時前だというのに、唐突に電話が鳴ったことからそれは始まった。
今日は朝一番での所用があったため、既に目は醒ましていたが今しばらく......、と躊躇している時であった。
階下から、家内が沈んだ声での電話応対をしている声が聞こえていたが、何やら不吉な雰囲気が漂っていた。
「はい、はい、はい、これから直ぐに伺います......」
「どうしたぁ?」
すると家内は、
「"ミーちゃん" がクルマに轢かれて死んだって。通りの向こうのレンタルビデオ屋さんの店員の人から......」
一度に眠気が消失して、一瞬、鳥肌の立つ緊張感が襲ってきた。まさに、"寝耳に水" の感であり、熱帯夜で寝苦しかった寝床から跳ね起きた。
電話によれば、直ぐ近くのレンタルビデオ店の前の道路で "ミー" が轢かれて血を流しているのを、その店の店員が見つけたというのだ。
"ミー" の首輪のネームプレートには、自宅の電話番号を記していたので、それを見つけて連絡してくれたのだった。まだ、役所に電話連絡ができる時刻ではないため、"ミー" の遺体は店の一角で預かっています......、と。
自分と家内の二人は、"ミー" の遺体が収まるようなアマゾンからの配送用段ボール箱にタオルを詰めて、それを携えビデオ店へと小走りに急いだ。
店の玄関では、黒縁眼鏡を掛けた人の良さそうな小柄の店員が待ち構えてくれていた。30歳前後だと見えた。
その店員は、道路の、やや前方、アスファルトが水で濡れた部分を指さしながら言った。
「あそこでした。血は洗い流しておきました......。二階でお預かりしていますので、ご案内します。」
ここしばらくは足を向けることがなかった店内に入り、見覚えがある階段を上り、ビデオケースが埋まった棚に囲まれた場所でわれわれはやや待つことになった。
すると、その店員が脇に設えられた事務用の小部屋から、やや平たい "段ボール箱" を抱えて出て来た。既に、そこに収めてくれていたのだった。そこまでしてくれていたその扱いが嬉しかった。
受け取ったその箱は、思いのほかずっしりとして重かった。"外猫" として飼い続け、とても警戒心が強く臆病な "ミー" は、容易には抱かせなかったので、体重が分からなかったのである。
その店員に、二人して丁寧にお礼を言わせてもらった。そして、こんな時でもなければ、"ミー" なぞが決して訪れることがないそのビデオ店を後にした。
店を一歩出た時、まだ部分的に "濡れて" いるアスファルト道路を未練たらしく振り返った。あと一メートルほどで渡り切れたはずの箇所だと見えた。
ああ、あいつは、きっとその時に思ったに違いなかろう......。
『あっ、しまった! しくじっちゃった!』と。
元来、"ミー" は、生まれてこの方 "アウトドア・キャット" として生き抜いて来ただけに、とにかく動作が "機敏ですばしっこいこと" この上なかった。庭の木を駆け登ったり、枝々を飛び交う様を "小天狗" のようだと感じたこともあった。
おまけに、"臆病で警戒心旺盛" でもあった。"外猫" として飼い始めた当初、二匹の "内猫" と同様に、"避妊手術" を "抜き打ち的に" 敢行したことですっかり "人間不信" となってしまったようなのだ。
ちなみに、わが家にはよんどころ無く二匹の "内猫" がいて、彼らとの軋轢を避けるために、この "ミー(ミーコ)" と、その親猫である "クロ"( 参照 奇跡の"クロネコヤマトなでしこ"(外猫)/行方知れずの十日後に疲労困憊で生還!( 当誌 2011.09.06 ) )の二匹 ―― 近所の "夜逃げ寿司屋" が置き去りにした猫たち ―― は、庭に "猫小屋" を設えてやって "外で飼う" ほかなかったのだ。
なお、ついでながら、親猫である "クロ" は、現在、加齢と失明(網膜剥離)のために "内猫" として家の中で暮らしている。
そんなことから、昨今は "ミー" も親猫である "クロ" が家の中にいる姿を見てのことか、"警戒心" を解いて、窓越しに身体を差し入れて "クロ" と一緒に餌を食べたり、水を飲んだりし、家の中に入り込むことに慣れ始めた矢先であった。
何ぶんにも、"ミー" も早、十数歳という "年寄り猫" になっていたのだ。いくら、"アウトドア・キャット" として鳴らし "機敏ですばしっこい" とはいえども、"寄る年波" には勝てなかったと思えなくもない。
それゆえ、これまでは平気の平左であった、"大通りを駆け渡る" という危険な荒技にも自身では気づかぬ "衰え" が生じていたのかもしれない。まして、この歴史的な "連日猛暑" は、"アウトドア・キャット" を存分にいたぶっていたはずでもある。
だから、"ミー" は、きっとその時、
『あっ、しまった! しくじっちゃった!』
と、天敵/クルマを見くびったことを、激しく悔いていたに違いなかっただろう......。
しかし、"ミー" は "アウトドア・キャット"(半野生猫)として立派に生き抜いたものだったと称賛してやりたい。たとえ成り行きだったかもしれないとしても、種々の外敵に抗って、生きものとしては当然の緊張感を絶やさず暮らし続けた "ミー" は、やはり大したものだったと褒めてやりたい気がするのだ。
生きものの本命である "自由" さえエンジョイできるのであれば、耐えるところは耐える! と腹を括ったような生きざまに、妙に "共感めいたもの" を覚えるのであった。今どきの "過保護ペット" たちには無縁の "頼もしさ" をさえ感じさせられたりしていたのだ。
"ミー" が命を閉じたことを知った時、最初に訪れた思いが『これで、寂しくなる......』という "自分本位の感覚" であったことを自覚したものだったが、恐らくは、自分の方が "ミー" から "元気を貰っていた" からなのかもしれない、と思ったりしている。
命あるものにとって、"生きることと苦悩とは裏腹!" という道理は、"慎ましやかな生きもの" たちの方が先刻承知だったのであろう......。
陽が落ちて暗くなっての帰宅時にも、門扉の外で自分を待ち受け、"ニャウ、ニャウ" というあの独特な鳴き声で出迎えた "ミー" が、もう二度と現れることはないのだと考えると、"胸を押し上げて来る切なさ" を拒むことができない自分である...... (2013.08.23)
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