誰もが懸念したのではなかろうか ?! "猛暑" の今夏、さぞかし "電力の需要と供給" との関係が、"緊張関係" に陥ったのではないか、と。
たとえ、<政府は今夏震災後初めて数値入りの節電目標を定めず、節電PRも控えめ>(下記引用サイト記事:東電 使用率95%超す日なし/東京新聞/2013.09.16 - 朝刊 )だったとしても、庶民は "家計自衛" のため "節電" に努めた。
しかし、度外れた "猛暑" は、そんな庶民の努力姿勢を嘲笑い、庶民の努力姿勢を揺さぶり続けた。
そして、やむを得ず庶民は、"クーラー" に頼ることにもなったが、"その後ろめたさ" から、『さぞかし "電力の需要と供給" との関係が、"緊張関係" に陥ったのではないか』と心配するに至ったはずだ......。現に、自分自身もその一人だと告白する。
ところが、どうも、"心配する逼迫" は生じなかったようである。
<今夏、西日本を中心に記録的な猛暑日が続いたが、電力不足は回避できそうだ。本紙が原発のない沖縄を除く電力九社の電力需給を調べたところ、東日本はかなり余力があり、西日本では一部で厳しい日もあったが、大半は問題なかった。この間、動いていたのは関西電力大飯原発3、4号機の二基のみ。ほかの電力会社は原発なしで猛暑を乗り切った。> とある。
特に注目したい点は、<この間、動いていたのは関西電力大飯原発3、4号機の二基のみ。ほかの電力会社は原発なしで猛暑を乗り切った> という記述の "原発なしで" という箇所である。
"原発推進" を推し進める政府ほか "推進派" は、ややもすれば、この "猛暑下での電力需給逼迫!" という事実を所望していたのかもしれない......。「でしょ? それ故に "原発" は不可欠なのです!」と、そう喧伝したかったのかもしれない......。
しかし、"意に反した事実" が表面化することになった。<需給だけをみれば、原発は必要ないことがはっきりした> と。
とすれば、この後に登場するのは、「"原発" なしの場合には、"電気料金の値上げ" は避けられません!」というシナリオになるのであろうか......。
東電 使用率95%超す日なし/東京新聞/2013.09.16 - 朝刊
今夏、西日本を中心に記録的な猛暑日が続いたが、電力不足は回避できそうだ。本紙が原発のない沖縄を除く電力九社の電力需給を調べたところ、東日本はかなり余力があり、西日本では一部で厳しい日もあったが、大半は問題なかった。この間、動いていたのは関西電力大飯原発3、4号機の二基のみ。ほかの電力会社は原発なしで猛暑を乗り切った。 (岸本拓也、吉田通夫)
本紙は七月から九月上旬まで、電力各社の資料や取材を基に、各日のピーク時、各社が用意した供給力の何割が使われたかを示す使用率の推移を調べた。
北海道、東北、東京の電力三社では、使用率が90%未満の「安定」した状態がほとんど。95%以上の「厳しい」日はゼロだった。
猛暑とはいえ、西日本ほどでなかったことや、東日本大震災から三度目の夏を迎え、家庭や企業の節電が定着した効果が大きい。政府は今夏震災後初めて数値入りの節電目標を定めず、節電PRも控えめだった。にもかかわらず猛暑だった二〇一〇年夏と比べ、今夏の最大需要は三社とも10%以上減っていた。
一方、気温三五度以上の猛暑日に連日見舞われた西日本では、冷房などの需要が増え、「やや厳しい」(90%以上95%未満)日が目立ったものの、全体的には「安定」が大勢を占めた。ただ、原発依存度が高かった関電と九州電力では、「厳しい」がそれぞれ四日あった。
西日本各地で気温が上がった八月二十二日には、関電の火力発電所がトラブルで停止。余力のあった中部電力と北陸電力から計五十万キロワットを送ってもらい、乗り切った。関電の担当者は「大飯原発3、4号機が動いていなければ電力は足りなかった」と、原発の必要性を強調する。
だが、この日、日本全体でみれば、東日本の三社で少なくとも計四百四十万キロワット近い余力があった。東西では電気の周波数が違い、変換して融通できる電力には限りがあるものの、それでも八十万キロワットを関電に送ることが可能だった。
東西で電力を送れる量は今後、大型の原発二基分に相当する二百十万キロワットに拡大する。広域で支え合う仕組みが整えば、原発に依存しなくても電力不足の心配は減る。
電力需給に詳しい植田(うえた)和弘京大大学院教授は「需給だけをみれば、原発は必要ないことがはっきりした。広域の融通体制の強化や、節電で利用者が得をする料金体系の拡充など、対策の余地はまだある」と指摘する。
( ※ 「東電以外の電力需給」の図 は省略。オリジナル記事を参照してください。 )
とかく、上記記事のような類の "データ" は、国民の目に届かないことが少なくない、というのが正直な印象だ。
しかし、こうした "データ" こそが、未来の選択に関する国民的議論の材料として公表されるべきであろうし、主要なメディアは、これを推し進める役割を自覚して欲しいものだと願っている...... (2013.09.17)
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