今回注目する下記引用サイト記事 : 認知症は神の恩寵か 専門医が当事者として過ごした2年/朝日新聞 - apital - /2019.09.26 - 09:00 は、 <認知症診療の第一人者である精神科医の長谷川和夫さん(90)が、自分が認知症だと公表して間もなく2年。認知症とともに生きる現在の暮らし、気持ちを尋ねた。「認知症になったらそれっきり、ではなかった」。語ってくれたのは、認知症についての新たな気づきだった> と伝えている。
<......普通に暮らす分にはなんとか支障はないけれど、物忘れがひどくなってね。自分のなかの「確かさ」があやふやになってきました。朝起きて少し時間がたつと、今が昼か、間もなく夕ご飯なのか、はっきりしなくなる。外にでかければ、ふと「あれ、自分はいまどのへんにいるのかな」と思ったり。そんな感じです。 ――認知症になって新たな気づきがあったと語る。 昔はね、認知症というガチッとした状態があって、なったらなったでそれっきりと思っていた。とんでもない間違いでした。認知症というのは決して固定した状態ではなくて、認知症とそうでない状態は連続している。つまり行ったり来たり、なんだね。 私の場合で言うと、朝一番から昼ごろまでは割とすっきりしている。午後1時を過ぎるとだんだん疲れてきて、晩ご飯の前は最高に認知症っぽい。お風呂に入って眠り、翌朝にはまたぴかぴかの自分に戻っている。人にもよるでしょうが、認知症の人と大事な話をするときは、朝からお昼どきまでにするといいと思います。 ――診断を受けてからも、1人で杖をついて外出し、お気に入りの喫茶店やマッサージの店に出かけていた。ただ今年7月、散髪の帰り道の横断歩道で転倒、けがをしてしまった。 あっと思ったときには転んでいた。それで、歯が欠けてしまってね。それ以降は1人の外出は控えています。 その後、ありがたいなと思うことがあってね。毎週のように通い続けたいきつけの床屋さんがある。40年ぐらいのおつきあいかな。その床屋さんが、僕の家までわざわざ迎えに来て、車いすでお店に連れていってくれるんです。散髪してひげをそって、また車いすで家に送ってくれる。すごいことだよね。これは一種の地域ケアだと思う。日本には互いが互いを支える土壌があるんだね。―― 中略 ―― ――すべての人に訪れる死を前に、神が与えてくれた「恩寵(おんちょう)」かもしれない。キリスト教徒である長谷川さんは、認知症についてそう考えるようになったという。 死んだらこうなるって確実に教えてくれた人は過去に1人もいない。僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安や恐怖を和らげるために、私を認知症にしてくれているんじゃないか、ならば、神の手に任せようと。もちろん、これはあくまで僕個人の気持ちであって、全ての人にあてはまるわけではありません。 いずれにしても、生きているうちが花で、過去ではなく今を生きることが大切。明日やることはちょっとでも今日手をつける。そんな心がけで生きようと思っています。 ―― 以下略 ――> とある。
認知症は神の恩寵か 専門医が当事者として過ごした2年/朝日新聞 - apital - /2019.09.26 - 09:00
認知症診療の第一人者である精神科医の長谷川和夫さん(90)が、自分が認知症だと公表して間もなく2年。認知症とともに生きる現在の暮らし、気持ちを尋ねた。「認知症になったらそれっきり、ではなかった」。語ってくれたのは、認知症についての新たな気づきだった。
普通に暮らす分にはなんとか支障はないけれど、物忘れがひどくなってね。自分のなかの「確かさ」があやふやになってきました。朝起きて少し時間がたつと、今が昼か、間もなく夕ご飯なのか、はっきりしなくなる。外にでかければ、ふと「あれ、自分はいまどのへんにいるのかな」と思ったり。そんな感じです。
――認知症になって新たな気づきがあったと語る。
昔はね、認知症というガチッとした状態があって、なったらなったでそれっきりと思っていた。とんでもない間違いでした。認知症というのは決して固定した状態ではなくて、認知症とそうでない状態は連続している。つまり行ったり来たり、なんだね。
私の場合で言うと、朝一番から昼ごろまでは割とすっきりしている。午後1時を過ぎるとだんだん疲れてきて、晩ご飯の前は最高に認知症っぽい。お風呂に入って眠り、翌朝にはまたぴかぴかの自分に戻っている。人にもよるでしょうが、認知症の人と大事な話をするときは、朝からお昼どきまでにするといいと思います。
――診断を受けてからも、1人で杖をついて外出し、お気に入りの喫茶店やマッサージの店に出かけていた。ただ今年7月、散髪の帰り道の横断歩道で転倒、けがをしてしまった。
あっと思ったときには転んでいた。それで、歯が欠けてしまってね。それ以降は1人の外出は控えています。
その後、ありがたいなと思うことがあってね。毎週のように通い続けたいきつけの床屋さんがある。40年ぐらいのおつきあいかな。その床屋さんが、僕の家までわざわざ迎えに来て、車いすでお店に連れていってくれるんです。散髪してひげをそって、また車いすで家に送ってくれる。すごいことだよね。これは一種の地域ケアだと思う。日本には互いが互いを支える土壌があるんだね。
―― 中略 ――――すべての人に訪れる死を前に、神が与えてくれた「恩寵(おんちょう)」かもしれない。キリスト教徒である長谷川さんは、認知症についてそう考えるようになったという。
死んだらこうなるって確実に教えてくれた人は過去に1人もいない。僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安や恐怖を和らげるために、私を認知症にしてくれているんじゃないか、ならば、神の手に任せようと。もちろん、これはあくまで僕個人の気持ちであって、全ての人にあてはまるわけではありません。
いずれにしても、生きているうちが花で、過去ではなく今を生きることが大切。明日やることはちょっとでも今日手をつける。そんな心がけで生きようと思っています。
―― 以下略 ――
印象的だった点は以下の二点。
<認知症というガチッとした状態があって、なったらなったでそれっきりと思っていた。とんでもない間違いでした。認知症というのは決して固定した状態ではなくて、認知症とそうでない状態は連続している。つまり行ったり来たり、なんだね>
<本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安や恐怖を和らげるために、私を認知症にしてくれているんじゃないか、ならば、神の手に任せようと>...... (2019.10.04)
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