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"ワンシート、ワン案件" 、あるいは "コンポーネント" と "システム・コンポ" ......
"ワンシート、ワン案件" と称したのかどうか定かではないが、メモなり記録なりは、 "ワンシート" に複数個をごちゃごちゃと記さずに、 "単品" としておくことが良い、と聞いた覚えがある。学生時代であったか、ビジネス社会に出てからであったかは覚えていない。
確かに、そうした方式に則るならば、記された "単品" 内容が、後日様々に活用されることになる。メモなり記録なりの "再活用" がし易い、ということなのである。
これが、昨日書いた "情報の分別" という発想のスタートだというわけだ。
確かに、そうした方式に則るならば、記された "単品" 内容が、後日様々に活用されることになる。メモなり記録なりの "再活用" がし易い、ということなのである。
これが、昨日書いた "情報の分別" という発想のスタートだというわけだ。
もし、 "ワンシート" にごちゃごちゃと複数の案件を書き込んでいたなら、そもそも、 "分類" する際に難儀をしなければならない。そして、分類不可という状態でストックされたフォルダーは、やがて "無視" されがちとなろう。
これに対して、 "ワンシート、ワン案件" ゆえに "分類" し易ければ、それら全体が事あるごとに見直され(検索され)いろいろな視点によって "再活用" されるはずだ。
そもそも、メモなり記録なりとして記されるところの人が考えることの内容というものは、分解し難い複合体という場合もあろうが、大体は何らかの "要素" ( "単品" )へと分解することが可能ではないかと推測する。
と言うか、 "要素分解" できるということが、人の思考を豊かにする秘訣でもあるような気がする。 "要素分解" できることとはとりもなおさず "分類" できることなのではなかろうか。そして、世界の対象を "分類" できることが、世界をより詳細に認識することにつながり、また新たな組み合わせという創造的作業を可能とさせるはずである。
話がやや観念的なレベルへと滑り込んでしまった。
要は、 "コンポーネント" と "システム・コンポ" との関係に関わる話なのである。
たとえば、かつての "一体型ステレオ" は、それはそれで良さもあっただろうが、サウンドの通には日々不満を感じさせるものではなかったかと思う。プレーヤー、テープ・デッキ、チューナー、アンプ、スピーカーといった個別の機器のすべてに満足し続けるということはありえないからだ。が、 "一体型" であれば、部分を据え換えることが難しい。
多分、個々の機器を "コンポーネント" として独立させ、 "システム・コンポ" という考え方を定着させたのは、こうした事情があったからなのであろう。
人の思考、情報というものも、ほぼ同じように見なせるはずだ。
確かに、 "一体型" 思考(思想? イデオロギー?)は、それを受け容れる者をより安定させる面はありそうだが、何と言っても猛烈な速度で環境変化が進む現代のような時代にあっては、問題が多すぎるようだ。
考えや感じ方における "マイナー・チェンジ" も必要であろうし、 "豹変" のごとき大幅な自己変革だって求められる時代である。
まさに、現代という時代は、人も組織も "システム・コンポ" であらなければやってゆけない、とも言えそうである。思考や思索というものが、 "再構成や再編成" される事態が往々にして生じ、そしてそれが可能でなければならない。それが現代という時代環境であるのかもしれない。
またまた、迂遠な叙述が "時間切れ" を招いてしまった...... (2009.02.27)
これに対して、 "ワンシート、ワン案件" ゆえに "分類" し易ければ、それら全体が事あるごとに見直され(検索され)いろいろな視点によって "再活用" されるはずだ。
そもそも、メモなり記録なりとして記されるところの人が考えることの内容というものは、分解し難い複合体という場合もあろうが、大体は何らかの "要素" ( "単品" )へと分解することが可能ではないかと推測する。
と言うか、 "要素分解" できるということが、人の思考を豊かにする秘訣でもあるような気がする。 "要素分解" できることとはとりもなおさず "分類" できることなのではなかろうか。そして、世界の対象を "分類" できることが、世界をより詳細に認識することにつながり、また新たな組み合わせという創造的作業を可能とさせるはずである。
話がやや観念的なレベルへと滑り込んでしまった。
要は、 "コンポーネント" と "システム・コンポ" との関係に関わる話なのである。
たとえば、かつての "一体型ステレオ" は、それはそれで良さもあっただろうが、サウンドの通には日々不満を感じさせるものではなかったかと思う。プレーヤー、テープ・デッキ、チューナー、アンプ、スピーカーといった個別の機器のすべてに満足し続けるということはありえないからだ。が、 "一体型" であれば、部分を据え換えることが難しい。
多分、個々の機器を "コンポーネント" として独立させ、 "システム・コンポ" という考え方を定着させたのは、こうした事情があったからなのであろう。
人の思考、情報というものも、ほぼ同じように見なせるはずだ。
確かに、 "一体型" 思考(思想? イデオロギー?)は、それを受け容れる者をより安定させる面はありそうだが、何と言っても猛烈な速度で環境変化が進む現代のような時代にあっては、問題が多すぎるようだ。
考えや感じ方における "マイナー・チェンジ" も必要であろうし、 "豹変" のごとき大幅な自己変革だって求められる時代である。
まさに、現代という時代は、人も組織も "システム・コンポ" であらなければやってゆけない、とも言えそうである。思考や思索というものが、 "再構成や再編成" される事態が往々にして生じ、そしてそれが可能でなければならない。それが現代という時代環境であるのかもしれない。
またまた、迂遠な叙述が "時間切れ" を招いてしまった...... (2009.02.27)
2009年2月28日 yasuo hirose | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
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