novetitl.jpgひろせやすお

----- 目    次 -----
 

     プロローグ 泣いたらあかん!

   第一話 泣いてるひまなんかあらへん!

   第二話 かもめたちの群れ

kamome_2.jpg   第三話 鍵っ子かもめの秘密

   第四話 かもめたちのすみか

   第五話 かもめたちの飢え

   第六話 中年かもめたちの癒し

   第七話 個性尊重は至難の技!

   第八話 遠い日の焚き火!

   第九話 Thinking by myself!

 


 プロローグ 泣いたらあかん!



 列車は、夏の朝靄の品川駅にすべり込んでいった。
眠さと、泣き腫らした目に、駅構内やホームは白く霞んで見えた。
「さあぁ」
と母親が何かを促すようにつぶやいたかもしれない。
姉は、不安そうにあたりを見回していた。
少年は、膝の上のかばんを押さえ、やや緊張気味だった。

 つい先ほど、多摩川の鉄橋を通り過ぎる頃だっただろうか、三人はそれまでこらえてきた悲しさの堰を切り放ち、泣きじゃくったのだった。
 「お父ちゃん、何してるかな・・・」
 「そやなぁ、きっとまだ寝てるんやろなぁ・・・」
と、白々としてきた窓の外に目を向ける会話だったが、なにやら次第にあやしくなっていったのだ。
そして、
 「そやけど、お父ちゃん、可哀想や!」
と、涙ぐむ姉の顔が、それぞれの押し殺された感情を解き放ってしまった。
 母親もハンカチを目頭に当て始めた。
少年は、もう駄々っ子のように泣き始め、向かい側に座っていた母親の膝に顔を埋めてワーッと声を上げた。
姉も、母親の右腕にしがみついて泣いた。手のつけようがない状態が続いた。
そして、やがて収まっていった。
 「あかん、泣いてたらあかん!お父ちゃんも気ばりはるんやからな。みんなで、早う東京に慣れて、お父ちゃんが来るの待と」
 母親の制止で、ようやく姉弟は涙を拭い、列車の座席にきちんと座り直した。
 少年は、子どもごころに感じ続けた不条理を見据えるように宙を睨み、
『 泣いたらあかんのや!泣いたら負けや!』
と無心に自分に言い聞かせていた。

 昨晩、三人は、しばらく大阪に残り仕事のけりをつけることになった父親と、大阪は天王寺駅で別れを惜しんだのだった。
 夜行列車に乗り、母親の実家である東京、品川に向けての引越しが始まろうとしていた。
rail.jpg二人の子の夏休み中に移動をし、九月の新学期から転入するのが良策だと配慮された結果だった。

 すでに、この大転回が遂行される直前の大阪での生活は、少年の目から見ても緊急事態となっていた。
 父親は、戦後、兄たち、少年から言えば叔父たちと一緒に仕事をしていた。しかし、それが次第にうまくゆかなくなっていったようであった。
少年が小学校に入学する頃、生家は人手に渡って、叔父の家の一角に引越しをしていた。
その後、「兄貴らは薄情や!」、「結局騙されたんや!」という父親の嘆きの言葉を、少年は幾度となく耳にすることとなった。
 だから、少年は、東京へ引っ越すことがどんな成り行きで、どういう意味を持つのかをそれなりに感じ取っていたのである。
 さらに、父親が、生まれ育った故郷を捨て、東京に出ることを本心では望んでいないことも知っていた。
 こうして少年は、『 何か大変なことが始まったのだ。自分はぜったい負けたらあかんのや。』という、漠然とした気持ちの下ごしらえを培っていたのだった。

 朝靄というより、細かい水滴が見えるほどの霧のように白んだ品川駅の構内を、心もとない感じの三人が、きょろきょろとしながら正面改札口まで向かっていた。
たどりつくと、改札口の向こうで見知らぬ人影が手を振っているのを、三人は見つけた。
 「賢ちゃんが迎えにきてくれてる!」
と母親はうれしそうに言った。一瞬、彼らの心細さがさらりと拭われていった。
 「疲れたでしょ。タクシー出てますから」
と言いながら、彼は一番大きな手荷物をさりげなく手にして、三人をタクシー乗り場へ案内した。
 タクシーは、品川駅を後にして、八ツ山橋を通り、八ツ山下の祖父の家へと走り抜けた。
早朝の通りにはほとんど人影が見えず、不思議なほどの静けさだった。
初めて乗るタクシーの窓際に、少年が座っていた。
窓のすきまから吹き込む朝の湿った空気は、ここ北品川が海に近いことを、それとなく少年に告げていた。

 これが、少年と、第二のふるさと品川との皮切りであった。


 第一話 泣いてるひまなんかあらへん!

 即日、品川の祖父の家での生活が始まった。
 それは、まだ半ば残していた夏休みの後に待ち受けている、新しい小学校への転入のことを忘れさせる程のものであった。実に忙しく、刺激的な日々だったのである。
 さほど大きい建物とは言えない空間に、五世帯の親戚と、プラスひとりのよんどころない間借り人という計二十三人。大人、子どもが、まさにひしめきあう生活を繰り広げていたからである。
 ちなみに、朝のトイレと、夕刻からの風呂場は大変な騒ぎであった。
 時として、
 「子ども連中は、まとまって済ましちゃいな!」
という祖父の掛け声のもと、少年は同世代の親戚の女の子たち三、四人と「混浴」させられたりもした。その中には、新学期から同級となり、隣り合わせの座席とさせられた叔母にあたるKちゃんも含まれていたのだった。
 どういうものか親戚の子はほとんどが女の子で、突然いっしょに住むこととなった少年がめずらしかったのだろう。夜になっても、
 「『名犬ラッシー』始まるよ!」
とか、
 「みんなでトランプしようよ」
とか誘いにきたりしたものだった。
 いっしょに遊びながら、少年は、自分が転入することになっている小学校の様子をそれとなく聞き出していた。台場小学校といってまだできたばかりの新しい学校であること、品川小学校からみんなで椅子を運んだこと、校庭の隅に灯台のかけらが残っていることなどを。
 そしてほっとする情報として、三年生の自分たちが最上級生であり、自分らの上に気兼ねしなければならない上級生がいないことも聴き取っていたのである。現に、少年の姉は、倍ほどに遠い品川小学校に転入することになっていた。

  夏休み中ということもあってか、いや、実はそうではなく、驚いたことに、祖父の館の夜の打ち止めは通常が、午前三時過ぎであった。
yakata.jpg 当時、祖父は、夕刻の四時過ぎに身支度をして、薄暮の頃に悠々と勤めに出ていた。神田の駅前に古いビルを持ち、貸し事務所をしていたようで、そんな時刻に行ってもさしたる支障があるわけではなかったのだろう。そして、終電で帰宅し、消灯されるのがそんな時刻となっていた。
 祖父は、明治生まれで、子どもの頃に東北の米沢から、いわゆる丁稚奉公で単身東京に出てきたという。趣味の日曜大工を、その後、少年は手伝わされることがしばしばあったが、そんな時、祖父は少年にいろいろと苦労話を聞かせていたのだ。
 この祖父の館も、戦後、料理屋だかをやっていた名残だそうだ。様々に改造はされていたが、部屋割といい、玄関に据えられた姿見ほどの大きな鏡といい、少年は何か奇妙な建物だと思ったものであった。
 「ここの家は『夜鷹』なんだから!」
と、母親の弟Hさんのお嫁さんはしばしば口にしていたが、どうも以前の料理屋経営時に、この館のこの夜更かしが定着したものらしい。
 祖父の館は、夜が遅いだけではなく、みんな声が大きく、そして口調も荒っぽかった。
深夜でも、大きな笑い声が聞こえるかと思えば、喧嘩ではなくとも「てめぇー」、「バッカヤロー」の日常語が響きわたる始末だった。

 大阪での少年たちは、朝が早く物静かな父親のもと、まだ農地が多い郊外での生活をしてきた。したがって、この一連の祖父の館の生活状況は、少年をして『これが東京なんだ。』と思わしめるのに十分過ぎるのだった。

 床に入っても、騒がしくて寝つけない少年は、ふと、つい先頃まで住み続けてきた大阪のことを思い出すのだった。
 ------- こんな時間やったら、みんなとっくに寝ているはずや。聞こえるんは、周りの畑で鳴く虫やら蛙やらの声だけや。そや、十姉妹かわいがってた、運ちゃんは何していはるやろ。仕事が済んだあと、よう、いっしょに十姉妹のえさ採りに行きよった。『やそちゃん。柔いのやないとあかんで!』って言いよったなあ・・・。

 大阪の郊外も次第にベッドタウン化が進む時代であったが、少年が在住する頃は開発直前で、農地や自然がそのままにされていた。登校に子どもの足で小一時間要した小学校に通っていたが、その途中は大半が田園風景でつながっていたのだ。少年は、そんな風景を想い描きながらうつらうつらしていったに違いなかった。

 祖父の館の朝は遅かったが、祖父の兄にあたる米叔父さんと、間借り人の井沢さんというお爺さんだけが別であった。
 井沢さんは自炊していた。夜明け前、一人分の小さな釜に米を入れ、背を丸めて階下の炊事場へと降りてゆく井沢さんと、トイレに起きた少年は時々出会った。そんな井沢さんの自慢話は息子さんであった。
 「こんな本読むかね?」
と言われて、少年は『資本論』を複数冊もらったこともあった。息子さんは、もう長い期間入院し、神経の病の治療をしていると、後日誰かから聞かされた。
 人が良く、やさし過ぎる米叔父さんは、この祖父の館では異邦人的な存在であったかもしれない。女の子向けの装身具の玩具を、内職といった規模で作っていた。
 冬のある日、何ということもなく米叔父さんの部屋へ遊びに行ったことがあった。火鉢の脇で作業をしていた叔父は、それまで根を詰めていた面持ちをにわかに崩し、
 「おっ、どうした?元気か?そうさなぁ、あいにく何もなくてねぇ・・・」
と言いながら、卓袱台の上の小さなガラスの醤油入れを手にとった。
かと思うと、火鉢の炭火に醤油をひたひたと注いだのだった。
叔母や、いとこたちは笑って見ていた。
やがて、部屋中が、まるで祭りの屋台の間近にいるような、香ばしい、うれしくなるようなにおいに包まれていったのだった。
 少年の目には、こんな米叔父さんの姿が、ささやかな晩酌だけで自足し、人生を達観し、さびの効いた深い知恵を秘めている大人として映ったものだ。
 祖父を筆頭としたこの館全体が、派手な「金銀光物」であるのと、この米叔父さんの「いぶし銀」は実に見事に好対照を成していた。また、運と不運とのめぐり合い方という点から見ても、くっきりとした対照を成していたかもしれない。

 こうして少年は、秋からの新しい小学校への転入前二、三週間で、様々な人々に出会い、新体験を折り重ねることになったのである。後日、反芻することで初めてその真意を掴むことになったとはしても、まばたきする間もない速度で、多くの貴重な予告編を見たと言えるのではなかっただろうか。

 言葉の問題、大阪弁口調に関しても、祖父の館の中でのこの期間の生活が、多くの示唆と矯正を与えていたのだった。どんなイントネーションがおかしく聞こえるのかも、親戚の女の子たちが率直に笑うことで伝えてもらっていた。もっとも、少年の母は東京品川の出身で、嫁いで大阪に向かったため、元来、イントネーションに東京の響きを残していた。子どもたちがいち早く大阪弁口調を脱ぎ捨てることになったのも、そうした背景があったからかもしれない。

 なお、少年はこれ以後の七、八年間をこの祖父の館で暮らすこととなる。
その期間はちょうど昭和30年代と重なり合うのだが、さらに多感な少年時代とも見事に重なっていたのだ。
 それにしても、祖父の館の特徴と、昭和30年代の特徴は、実に共通していたかもしれなかった。
まどろっこしい「深さ」を端から求めず、「かたち」や「楽しさ」を直感的に追求した時代と人々!
ぐんぐんと這い上がり始めた見栄え良い成果が、人々のエネルギーを鼓舞し、さらにそれらを絡め取り推進される最大動員!そして更なる拡大といった、好循環始動の時代!
ただ、その陰には、負の遺産の萌芽を、余りにも無造作に積み残してもいったのだ。
「開かれた明日」という空気を誰も疑わず、現在が不遇な人々でも、明日を疑うことだけはしなかった、そんな時代ではなかっただろうか。

 少年は、「それら」と同調し、あるいは拒絶し、両極を揺れ動きながら、この時代を生きてゆくのである。

 第二話 かもめたちの群れ

 「やすおちゃーん」
という、女の子の声が階段の下から反響してきた。
 「じゃ、Kちゃん達といっしょに行きなさい。もう、先生にはご挨拶してあるから大丈夫!」
と、母親が言った。自分もあわただしく勤めへの身支度をしていた。
 すでに、姉は出かけていた。歩いて距離がある品川小学校であったため、下見の時の地図を片手に二三十分も前に出発していたのだった。

 母親が、仕事に就いたのは、まだ夏休みを残した暑い時期だった。
 半年もすれば、新たな仕事先を探すかたちで東京に来る父親のことがあったので、母親は職に就くことを急いだのだ。
 最初は、事務を希望していた。しかし、三十代半ばになっていたのでなかなか見つからなかった。結局、「派遣店員」という職に落ち着いた。
 「デパートの地下売り場で、ハウスカレーを売るんだって。何だかおもしろそうじゃない」
と、採用が決まった日、母親は子どもたちに、自信ある口調で説明した。
 その後も、母親はその日の売れ行きやら、売れ行きが良いため店長から誉められたとかを、疲れた様子もなく子どもたちに報告した。子どもたちは内心ほっとするのだった。
宣伝用に使うゴム風船を数多くもらって帰ってきた日があったが、少年は、祖父の館の子どもたちに自慢気に配って回ったりした。
 そんなことよりも、姉と二人で先に食べる夕食は、当然「カレーライス」の頻度が高まったのであった。
親戚の人があてがってくれた小さな卓袱台の上に、姉と少年のカレーライスの皿二枚がしばしば並ぶのだった。そして少年は、いつも盛り付けの多い方に飛びつき、姉は勝手にしなさいといった調子で黙認するのだった。
 母親は、前夜、または出掛けに夕飯のおかずの支度をした。
だが、時として仕事の応援で、北千住とか大宮とかに遠征しなければならないことがあった。夕飯の支度が不可能な場合、母親は、二三百円を夕飯のおかず代として置いてゆくことになっていた。
 そんな時は、少年が買い物に行き、姉が作るといった役割分担となった。
どちらかと言うと引っ込み思案な姉は、買い物を嫌ったのでこの分担が固定したのである。そして、おかずを何にするかを考えるのが面倒な時に落ち着くのが、「在庫のカレー粉」を生かしたカレーライスだったのだ。
その後、ハウスカレー発売の即席チャーハンの素の「在庫」が登場するに至り、チャーハンというメニューも追加されていった。

 少年は、階下から呼ばれている声を気にしながら、かもめの校章に付け替えた学生帽をひっかぶり、やや小さくなり始めた学生服に手を通した。
 「今日はそれやと暑いかもしれんね」
と母親が言ったようだったが、彼は、余所行きの一張羅と考えていた小学校入学時からの学生服に固執した。
購入時には、ぶかぶかに大きいものを買い、縫い縮めておくといった母親の知恵が生かされてか、三年生の半ばとなっても、まだまだいけたのであった。
 外では、Kちゃんと、一学年下のDちゃんが、夏休みの宿題の荷物を抱えこんで待っていた。
 この言葉を言ったらまた笑われるかなと思いながらも、
 「かんにんなぁ」
と少年は言った。
 何週間か前に、タクシーで通過してきた広い通りに出ると、遠くに何人かの小学生たちが歩いているのが見えた。
みんながみんな、そこそこに大きい宿題の荷物を持って歩いていた。
一瞬、少年は、不安な心境に駆られた。が、とっさに、かばんの中にある「絵日記」のことを思い出し、胸をなでおろすのだった。
 その日記には、大阪の学校での最後の日のことから、この間の引越しのこと、そして祖父の館に来て驚いたこと、母親の仕事のことなど、実に丁寧に書いていたのだった。
絵を描く事が好きで、得意だった彼は、色鉛筆で上手に絵を添えていたのである。これが、少年にとって、夏休みの唯一の提出物であった。
 病院の角を曲がり、品海橋を渡った頃には、道路に小学生が大勢歩いていた。
ドキドキと胸が高鳴ってきた。そんな時、Kちゃんが学生服をあごで指し、
 「暑くないの?」
と言った。
少年は黙って首を横にふった。
それどころではなくなっていたのだ。やっぱり緊張し始めていたのであった。最悪、お腹がいたくなるとまずいなとも考え始めていた。
 事態は、少年が懸念し始めていたとおりに進行してゆくことになっていった。
 「東京」を知ったかぶったはずではあったが、目に新しい様々な光景は容赦なく彼を威圧してゆくのだった。
 古びた木造の二階建てしか馴染んでこなかった彼にとって、真新しい三階建ての鉄筋コンクリートは落ち着けなかった。
ニスのにおいが残った下駄箱も、みしみしと音をたてるはずの床が、硬く、つるつるとした緑色の床になっていることも、何もかもが緊張を高めさせるものだらけだったのだ。
ちょうど、野良猫が清潔な人家に引き入れられた時の、同情を誘う、そんな戸惑いといったところなのである。
 初対面となった他の子どもたちも、その服装といい、動作といい何だかかっこ良すぎる、と少年には見えた。
 大阪で、いっしょに学級委員をしていたIさんに、少年は関心を持っていた。
その理由は、その子がデザインの変わった上品な身なりをしていた上に、当時目新しい鉄筋高層ビルの団地に住んでいた点が大きかった。初対面のクラスは、Iさんだらけのように見えたのだ。
 おまけに、担任の先生は未だ経験したことがない男の先生だった。
 万事が、真夏の学生服の内側に冷や汗をかかせるものばかりだったと言える。
 ただ、唯一こころが許せたのは、再度みんなで校庭に出た新学期の朝礼の際に、見つけたものに対してであった。
  整列した時、校庭の右手に、壊れた灯台の名残が見えたのだ。
kamome.jpgかなりいたんでいたが、それがなんだかとても懐かしくさえ思えたのだった。
そして、ふと夢想するのだった。
 『昔は、あの石段にかもめが群れで留まったりしとったんかな・・・。かもめの校章をつくりはった人は、きっとそんなことを想像したんと違うやろか。今は、この校庭で整列しよる自分ら子どもらが、かもめたちの群れなんやな・・・。』と。

 それでその後、少年が初日をどのように処したかであるが、実を言えば少年はよく覚えていないのである。その日だけではなく、この後五年生となるまでの思い出は実に希薄なのであった。
 決して、負けず嫌いの少年がいじけるはずはなかった。間もなく、学級委員に選ばれたりもしたのだった。しかし、どこかかたくなになった姿勢がほどけない時期が続き、記憶に残すことを拒む時期が継続していくのであった。
 新しい環境をそうなめてはかかれないと感じたのだろうか?いや、あるいは子どもごころに肌で感じ始めた、家庭の経済的落差の現実に戸惑い始めたのだろうか?
 当時、地元商店街の羽振りは、折からの消費ブームに乗り、悪くはなかった。
その子どもたちのこざっぱりとした姿は、お上りさんといって良い少年に羨望の念を抱かせ続けたのかもしれない。とてつもなく金持ちの家の子どもたちだと誤解させ続けたのかもしれなかった。
 また、彼らが話す上品に響いた標準語が、なおのこと手の届かぬ家庭という幻想を生み出していたのかもしれなかった。

 そういえば、大阪在住当時、叔父の家に間借りしていた頃の話である。
 ある日、仕事場の脇の階段に座り、姉と少年は退屈していた。
とその時、姉がつぶやいたのだった。
 「きれいな言葉やね。ラジオみたいや」
東京から来たらしい背広姿の営業マンが、仕事場で叔父と話していたのだった。
 一極集中的に東京だけが文化を独占し始めていた時代、人々は、良き物の元祖はすべて東京にあるというような奇妙な魔術に、自らかかっていったのかもしれなかった。

 ところで、その当時の少年の戸惑いのひとつとして、不思議な心理状態があったことはなぜか象徴的である。少年自身、なぜそうなるのか分からず、その分当惑していたようだ。
 時たま、祖父の館の親戚の人たちが、クルマでドライブに連れて行ってくれる時などがあった。そんな時、うれしさの感情と裏腹に、やがて必ず切ない影がつきまとったのだった。
暗い四畳半一間の母親や姉の姿が浮かび、そして父親の姿が・・・。自分ひとりが思いがけない贅沢なことに直面すると、必ず、その罪悪感にも似た切ない感情が、ほとんど反射的に忍び寄ってきて少年を悩ませたのだった。
 気にかけまいと思いつつもどこからか忍び寄ってくる貧乏だという実感と、自律前の子どもが抱く家族との心理的一体感をあわせ持った少年がそこにいたのである。
 そして少年は、家族の一員として、自分が感じ取った家庭の経済的落差を埋めるためには、とにかく何であれ、がんばるんだ!と思い込んでゆくのだった。

 時代は、次第に経済活動全体を加速させ、上昇させていた。
そして、このうねりに社会のあらゆる分野が引き込まれ始めていくのだった。その社会の変化が、大人たちの強弱を振り分け選別し、共に暮らす子どもたちの境遇に介入した。
少年のような境遇と心境は、ひとつの典型ではあっても、けっして特殊ではなかったに違いない。

 第三話 鍵っ子かもめの秘密

 いつしか辺りは薄暗くなり、遠い川岸の建物には点々と明かりが灯っていた。
ただでさえ透明度がなく、どぶの水のように黒く濁った水面は、不気味にその明かりを映していた。
 時折、だだっ広い水面を、まるで履くように涼しい一陣の風が通り過ぎてゆく。
そのたびに、波が生じ、身体が揺れた。
もう、皆が空腹と心細さにさいなまれていたに違いなかった。
すでに『いかだ』は目黒川を下り、河口に出て、四号地などの埋め立て地にはさまれた海に近い運河に乗り出していたのである。

 畳二畳ほどの手製の『いかだ』には、マストのような柱が立てられ、そこそこの推進力が発揮できる櫓も取り付けられていた。
つい先ほどまで、少年は、櫓をこぐ役を果たしていた。次第に海らしい波に遭遇し始めるに至り、年上のコンドウさんに替わったのだった。親戚のタケちゃんと彼と同級のコンポンは、オールを使って無心に漕いでいた。
 マストにつかまりながら櫓の動きを見つめていた少年は、じわじわと高まってくる不安と後悔、そして恐怖心にこころを占領され始めていたのだった。
 「あっ、まずい!」
と、その時、コンポンが叫んだ。
コンポンは『いかだ』の進路のななめ前方を指差していた。
いつの間にか、夕闇のなかに大きな背丈の黒い影が出現していた。
貨物船である。
その巨体は、うねる波を生み出しながら、すべるように前進してきた。
海面を這うような低い位置の『いかだ』にとって、その光景は、恐怖心を煽りたてられるのに十分過ぎた。
 巨大な黒い怪物のかき分けたうねりは、木の葉の『いかだ』を捕えようとするかのように、静かにそして迅速に迫って来た。
緩やかな第一陣が『いかだ』をゆっくりと上下させた。かと思うと、間髪を入れず到達した第二波が『いかだ』の上に置かれた水筒や菓子袋を流し去った。
そして次には、身を低くしていた全員に、激しく覆いかぶさってきた。
その後も波は容赦なく訪れた。
『いかだ』は、上下左右のおかまいなく、まさしく木の葉同様に翻弄され続けた。
四人は、必死にマストの根元にしがみついていた。いつ止むとも知れぬ信じられない揺れの中で、ただただしがみついているほかなかった・・・

  少年たちが、『いかだ』を出航させたのは、いつもの遊び場である目黒川の川岸であった。
river2.jpgそこは、二車線ほどの幅のある裏通りが突然、河口に近い目黒川に直面して行き止まりとなるそんな場所である。
川の景色でも見ようと思わぬかぎり、近所の人でさえ近づかない空間であった。
そんな事情を読み込んだ子どもたちが、いつしか我が物顔の遊び場と化していたのである。
 コンポン、本名根本さんなどは、ほとんどここを自分の庭と見なしていた。
中学生であったが、妙に大工作業が好きな人であった。学校から帰ると毎日、自作の道具箱を職人よろしく左肩に背負って、すたすたとここへやって来るのである。
野菜や植木を育てるための、植木鉢用木箱をさんざん作った。
しっかりとした縁台も作った。
やがて、大きな鶏小屋を作った。
そして、物見台のような鳩小屋まで建築してしまったのだ。
もちろん中味の植物や動物も好きで、小遣いで惜しみなくえさのとうもろこしを買っていた。
鶏や鳩もコンポンにはよく懐いていた。
 「あいつは、お母ちゃんが再婚したから、家に居たくないんだよ」
と訳知り顔で言っていたタケちゃんの言葉を、少年は時々思い出した。
 少年は、こんなコンポンを、むしろタケちゃんより慕うのだった。

 ところで、この当時の少年の日常は、いわゆる「鍵っ子」という言葉で表現できるだろう。
 誰もいない薄暗い四畳半の部屋に帰宅すると、吊り下がった蛍光灯を点ける。
母親が用意していった菓子をほう張り、宿題をあっという間に済ませてしまう、そして階段を転がり落ちるようにして明るい戸外に飛び出すというのが、この頃の少年の日課となっていた。
そして、夕刻のお使いの時刻までは、くたくたになるほど遊びまくるのだった。
姉がいたことも幸いしてか、いつも母親が勤めで夜までいないことを別段寂しがるふうは見せなかった。
 北品川にも慣れてきた少年は、もはや、祖父の館の中で女の子たちとは遊ばず、近所の四、五才年上の「悪がき」たちの仲間に入れてもらっていた。
Kちゃんの兄で、叔父にあたるタケちゃんに付きまとううちにそうなった。そして、タケちゃんがいない時でも連中と遊ぶことが常となった。
「やすべえ」というあだ名までもらい、仲間の一員として認知され始めていたのだった。

 うららかな土曜日の午後、いつものように少年たちは目黒川川岸、「コンポンの庭」にたむろし始めていた。
いつも何かを作っていたコンポンであったので、集まってくる少年たちは、いつしか好奇心と期待感を抱き、いそいそとやって来るようになっていた。
近所の大人たちでさえ、煙草をふかしながらやって来ては、
 「今度は、何ができるんだね?」
などと冷やかしていった。
 しかし、今回の建造物への少年たちの関心は、いつもとは違っていた。夜、眠る前にワクワクと思い起こすといった程に熱が入っていた。
しばらく前から、コンポンは、大きな『いかだ』を作り始めていたのである。
当時、目の前の広い川には、釣り舟が頻繁に往来していた。それらを目にするにつけ、自分で自由に操れる乗り物への憧れが、少年たちの胸の内に蓄積していたのである。
 この川岸には、上流からごみといっしょに古い木材なども流れてきたので、コンポンは材料には困らなかった。
今回は、これまでの収集物のうちの大物の材料を援用する大事業となっていた。
枕木のような角材を結集させ、中央にはヨットのマストのような太い柱まで打ち立てる構想となっていた。
 中でも、推進力として三メートルほどの、ほぼ本格的な櫓を取り付ける計画があり、それは、自ずから「遠洋航海」への夢と意志を示していた。
 しかし、櫓の具合の調整が難航していた。本体はほぼ完成し、すでに何度か対岸までの運行は試されていたが、どういうものか櫓に不具合が残り続けるのだった。櫓を載せる受け側の凸部分の木材が崩れてしまうのである。
 目黒川河口を出て、埋め立ての四号地、現在で言えば天王洲アイルを周回するといった「遠洋航海」予定の今日になっても、まだ櫓の問題が出航を遅らせていたのだった。
 初夏の日差しが、長い影を作り始めた頃、何度も自宅と川岸を往復していたコンポンが、何やら黒っぽい金属を抱えて走ってきた。
櫓を載せる受け側を、何かの機械部品でまかなおうという思惑だったのだ。そして、実にこれが効を奏することとなった。
 「じゃあ、行こうぜ!」
と、偉そうにタケちゃんが言った。
 「最初は、コンドウとやすべえがオールだよ」
と言いながら、コンポンは長い櫓を担ぎ『いかだ』に向かって川原を歩き始めた。
 引き潮になると、中央だけの三分の一に川幅が縮み、ごみだらけの川原が露呈するのが目黒川だった。しかし、もう満ち潮が始まりつつあり、長いロープでつながれた『いかだ』は、半身を浮かし、ゆらりゆらりとしていた。
 櫓の具合が良いとみえ、思いのほか『いかだ』は快適に進むのだった。何をやっても器用なコンポンは、熟練の船頭のように櫓を漕いでいた。
ごみの川原で見守る、ほかの子どもたちの手を振る姿がだんだんと遠のいていった。
 お世辞にもきれいな川とは言えなかったが、川面を吹く風は心地よく、じわっとくる開放感に酔いしれた。
 いつも見慣れた大きな橋を、下から見上げながら通過した。橋の歩道を行く人が、ちらりと顔を向けたあと、「ええっ!」というようにして、立ち止まってこちらを見続けていた。
少年は、胸の内で『行ってきまーす!』と叫んでいたに違いない。
 「やすべえ、漕いでみるか」
 「いいの?」
 「この辺はまだ波が無いから漕ぎ易いよ」
 少年は、オールを引き上げ、櫓を止めて待つコンポンと替わった。
 少年が櫓を漕ぐのは決して初めてではなかった。以前にも、船宿の小さな伝馬船で教えてもらっていた。ただしコンポンが手作りした櫓を漕ぐのはもちろん初めてである。
 だが、実に滑らかに操ることができた。水面に浮いた青っぽく光る油を切り刻むように、櫓の先は調子よく動いた。
少年は、もう得意満面の気分となった。
 十分に無謀である『いかだ』だったが、誰言うとなく、川岸に沿いながら進むこととなっていた。
しかし、進路の都合で対岸に向かって川を横断する際には、皆が緊張を隠せなかった。
 「コンポン、前に落っこちた時どんなふうだった?」
と、タケちゃんが突然ややうわずった口調で切り出した。
 「水が濁ってるから、どっちが水面だか分かんなくてあせっちゃったよ」
 「それでよく赤痢なんかの病気にならなかったよな」
 「服のにおいが取れないもんで、結局母ちゃんにばれないように捨てちゃったよ」
 必死で櫓を漕ぎながら、「母ちゃん」という言葉が耳に入った時、少年はドキッとしたものだ。
もちろん、こんなことをしていることは内緒にするつもりでいた。タケちゃんだって、義理の姉の母親から怒られるに決まっているから話す訳はないはずだ。
しかし、このどぶ川に落ちて、服のにおいが消えなかったらどうするかが、にわかに心配になってきたのだった。
 ようやく対岸にたどり着くと、少年は汗びっしょりで、櫓を握る掌も、腕も痛くなっていた。また、次第に水面の波も、海特有の荒い波に替わり始めていた。
四号地の河岸のコンクリート壁には、細かい貝が付着し、フナ虫がざわざわと蠢いていた。時々、壁に叩きつけられた波が、白い波しぶきをつくっていた。
 四号地の東側の運河に出た頃、
 「コンドウ、替わってやれよ」
というタケちゃんの言葉で、少年は櫓を替わることになった。
 それにしても、あっという間に時間は過ぎていたのだ。
対岸にそびえる火力発電所の煙突のてっぺんには、赤いランプが際立って光り、何かを警告するかのようだった。
もう、先ほどまでの夕日は見えなくなり、空の明るささえ翳り始めていたのだった。

 こうして、しばらく後にあの貨物船に遭遇することになってしまったのである。
 幸い、少年たちが身を低くして『いかだ』のマストに、夢中でしがみついている間に、波は『いかだ』を四号地の岸壁に押し寄せてくれたのだった。
転覆するといった最悪の事態には至らなかったのが幸運だった。
 波が収まったあと、少年たちは、暗くなり、やがて真っ暗となった運河と川を、ただ黙々と漕ぎまくった。そして無事母港に戻ることができたのだ。
河口の大きな橋の橋げた越しに、「コンポンの庭」の鳩小屋が見えてきた時、少年はホッとため息をついた。
最年少とはいえ、男仲間の面子の手前、弱音を吐くことはしたくなかった少年だったが、今度ばかりはこたえていた。
多分、他の年長者たちも、内心胸を撫で下ろしていたに違いなかっただろう。

 部屋に戻った時、姉が、何か臭いんじゃないのと言ったかどうか、また、お使いをしなかったことを責めたかどうか、そんなことは少年は忘れてしまった。
ただ、母親、そしてもう東京に来ていた父親にばれなかったことだけはしっかりと覚えている。
 『これは今までで最高の秘密やろうな・・・』
と、少年は自問し、そして心理的な重荷を、またひとつ背負い込んでゆくのであった。
 しかし、これで『鍵っ子』の少年が、親には話せない危険なことを避けるようになったわけでは決してなかった。
その後も、遊び中に大きな石を左足の親指の上に落として爪を崩してしまうけがをしたこともあった。
その時も、内心死ぬほどの痛さを堪え、部屋に戻り独りで包帯を巻いて治療した。そしてそのことを隠し通した。
 少年が秘密を重ねていったのは、親たちに怒られる怖さからというより、無駄な心配をさせる必要はないというひとり合点であった。そして、自分の身体は自分で守るしかないんだ、という当り前の事実を見据え始めていたのであろう。
それが正しいかどうかは別問題である。
いや、むしろ最近では、親にたっぷりと心配をかけ、親からこっぴどく怒られる、といった単刀直入な関係の重要さに関心を向けたい心境になったりしている。

 とかく、人の自律性は、似て非なるものが多すぎると言えそうだ。
やせ我慢をして、自力、自前でことを成すことが、そのまま自律的であるというわけではないのかもしれない。空疎な自己を抱えながら、他者との関係を絶ち、外見だけ一人前を装わされた世代があるとすれば、なおのことそう感じさせられるのである。
 現代にも通用する、いや、現代を救うことになるであろう個人の自律性とは、いったいどんなものなのだろうか?
べったりと周囲の人々に埋もれることでもなければ、かといって「独り寂しくもの凄く!」のスタイルでもない何かなのだろうが・・・
 いずれにしても、本格的な『鍵っ子』が登場する数年前にも、少年のような先駆けが同じ学級に二割程度はいたのである。そして三十年代後半の本格的消費ブームには、大量の『鍵っ子』たちが排出されたという。
『鍵っ子』たちが抱かされた寂しさは、彼らを一面で強くしたはずである。しかし寂しさを口に出せないひずみは、問題を先送りにしてしまったという可能性のあることも、あわせて想像すべきなのかもしれない。
 あの時のコンポンは『鍵っ子』と同様の、いやそれ以上に自律を無理強いされた境遇にあったはずである。しかし、見事というほかない程に、寂しさを上手に処理していると見えた。
その後、うわさでは、コンポンは、夜間高校を卒業したあと、自衛隊の通信部隊に入隊したという。コンポンは今、どんな家庭を構築し終えているのだろうかと、ふと、思いめぐらすことがある。

 第四話 かもめたちのすみか

 北品川界隈は、現在でも映画のロケに使われているようである。都心からさほど遠くはなく、それでいて古い木造民家が残り続けているからだろうか。下町の雰囲気と、さらに言えば場末のうら寂しさが残存しているからだろうか。
 昭和三十年代の八ツ山下は、古く、そして朽ちかけたような木造家屋がさらに多くひしめいていた。だが、一向にうら寂しさはなかった。子どもたちの声がいたるところで響いていたからである。
 当時、ここを訪れた日活青春映画のロケ隊は、場末には違いなくとも、きっと何か活気を秘めたイメージを掴み取っていたのかもしれない。

 祖父の館も十分に古さを誇示していたが、向かい側の八ツ山莊も十分に、りっぱに古かった。
 そして、すでに集合住宅となってはいたが、作りは旅館風であった。多分、この界隈にはめずらしくなかった「土蔵相模」に類する姑楼の名残だったのであろう。
 ここのほかにもこうしたかたちの集合住宅が、少年の登校路に二、三個所残っていたのが北品川であった。宿場街であるとともに、落語にも登場する江戸時代の名だたる遊郭であった品川の、歴史の遺産だったのであろう。
 もちろん、当時の少年や子どもたちは、そんないきさつを知る由もなかった。

 八ツ山莊の東側、祖父の館に面した側の二階には、長い廊下が走っていた。外側には中程に手すりがあったが、全面ガラス戸であしらわれていた。そして、常時そのガラス戸は開けっ放しとなっていた。
 戸外で遊べない雨の日、少年は窓に腰掛けて八ツ山莊の廊下をまるで舞台を見物するように眺めた。同じく戸外で遊べない小さなかもめたちが、廊下を走り回っているのがよく見えたのだ。
 ガラス戸側の中央の柱に向かって、腕で眼を隠す子が鬼なのであろう。他の子どもたちが廊下の左右に散っていった。鬼の子どもが数え終わると左右をきょろきょろし、そして左側へ向かって走り去る。誰もいなくなった廊下を、猫が悠然と歩いてゆく。
 と、まもなく右側から、先ほどの子どもたち数人がバタバタと走って戻って来た。全員が見つかった模様なのである。そしてまた、別の子が、柱にむかって腕で眼隠しをし始めた。
 少年にとって、雨の日の暇つぶしとしては、持って来いの舞台見物なのであった。
 鬼ごっこが終わると、メンコが始まった。男の子たちは、メンコを入れたボール紙の小箱を持ち寄り、「舞台」中央に座り込み、やがて、ペタンペタンと打ち始めた。

 見ていて飽きない少年だったが、ただひとつ気に掛かることがあった。
 この八ツ山莊の中がどうなっているのか想像できなかったからである。子どもたちの動きから推測するに、廊下は、どこか向こう側でひとつになっているに違いないが、どんなふうになっているのか、興味がつのってゆくばかりだった。
 そんなある日、この気掛かりを晴らす機会が訪れたのだ。
 「これは、多分、八ツ山莊の住人じゃないか。元から住んでいる佐藤は、うち以外にないからな。女の人宛てだよ」
と、祖父が、間違って配られた封書を手にして首をかしげていたのだった。
 「やすお、持って行ってやんな」
と祖父が言い終わるか終わらないうちに、少年はその封書をひったくるようにして外へ飛び出したのだった。これで、八ツ山莊の中を大えばりで歩き回れると確信したのだった。
 正面玄関は、廊下とは反対側にあった。かつて、玄関前には庭があったのだろうが、既に、建物に変わり、中華そば屋とパン屋が店を出していた。それらの脇の路地を進むと、旅館の玄関のようなところに行き着いた。正面に、広い階段があり、その左右両側に廊下が伸びていた。
 少年は、思いの他広いことに驚き、ややうろたえた。玄関に郵便受けのようなものもなかったのだ。おまけに食事時なのか、廊下を歩く人影もなかった。廊下の所々に、さほど明るくない裸電球が、薄汚れた傘をかぶってぶら下がっていた。その明かりで、廊下側が襖で仕切られたそんな各部屋がいくつもつながっていて、襖の上の鴨居に表札替りの名札が貼り付けてあることが分かった。
『これじゃ、一部屋一部屋探すしかないか・・・』
と、大変そうに思いつつ、また逆にわくわくする気持ちも湧いていた。
『そうだ、あの廊下がどうなっているのかを先に調べなくちゃ。』
と思い直し、みしみしと音を立てて、広い階段を上った。
 よその子が何しに来た、と咎められはしないかと思い、封書を見えるようにぶらぶらさせながら持ち、
 「佐藤さん、佐藤さん・・・」とつぶやきながら、廊下を歩くのだった。
 時折、部屋の中から子どもの騒ぐ声が聞こえてきた。隣の部屋の子を迎えての夕食といった状況だろうか、
 「今度は、ぼくが食べにいくからね」
とか叫んでいた。
 開け放した部屋もあった。老夫婦が、時々見かける例の猫にえさをやりながら食事している光景が覗けた。
 そして、廊下は、やはりつながっていたのだった。いやそれどころか、ぐるりと一周できる上に、中央にも走っていたのだ。子どもたちが隠れながら走り回るのにうってつけである。 そうか、そうかと少年はひとり納得顔となるのだった。

  結局二階に、封書の受け取り人はいなかった。しかたなく正面の階段に戻った時、割烹着を身につけたお母さんふうの人に出っくわした。
tegami.jpg 「すみません。佐藤さんの部屋はどこですか」
 「えっ、佐藤?そんなうちはないはずだけど・・・、あっ、そうそう、一週間前に引越してきた親子がいるから、ひょっとしたらそこかもしれないね」
 教わった場所は、一階の祖父の館側の隅っこだった。
 真新しい紙切れに「佐藤」とだけ書いたものが、鴨居に画鋲で止めてあった。
 「ごめんください」
という少年の声で、黄ばんだ襖が開いた。お母さんらしい人が顔を出した。髪が乱れ、お化粧もなく、疲れたような様子の人だった。
 覗き見える裸電球ひとつの四畳半の部屋は、閑散としていた。母親と食事中だったのであろう、小さな卓袱台に向かって、少女が向こう向きで正座していた。少年が事情を話し始めると、少女が突然振り向きながら言うのだった。
 「あっ、お父さんからね」
 その少女と顔を合わせ、少年は、胸がドキッとするのを感じた。じつに美しい、大人びた顔つきとしぐさだったからである。裸電球の明かりで、なおのこと彫りの深い目鼻立ちがくっきりとして見えた。大きな眼は憂いさえ含み、話し声もしっかりとしていた。
 少年は、もうしどろもどろになっていた。親子は、手紙を届けてくれた少年にこころを許したのであろうか、神戸から一週間前に引っ越して来たこと、父親はまだ神戸で働いていること、来週から、台場小学校へ転入すること、何と少年より一学年下の三年生であることを、話すのだった。
 卓袱台の上の夕食は、食器の数も少なく実に粗末に見えた。座布団さえなく、少女と母親は、磨り減った畳に正座していたのだった。
 何かを、いつかを待って我慢しているような雰囲気が、少年には感じられた。さらに、自分と同じようなこんな境遇にありながら、こんなに素晴らしい子がいるということをとてつもなくうれしく思えた。
 玄関で、脱ぎ捨てていたズックを履きながら、少年は真顔で、あの子に何かしてあげられないものかとしきりに考えるのだった。しかし、何も思い浮かばなかった。

 その後、八ツ山莊に入る機会はなかった。それは、気取った近所の大人たちが、そこを蔑んでいたからなどでは決してなく、自分の眼で、建物の構造のみならず、すべてを確認できたからだったかもしれない。
 子どもたちは、むしろ一日中廊下伝いに仲間と遊べることに幸いを感じていること、大人たちだって互いに融通しあって助け合っていること。要するに時代劇で登場する人情長屋の現代版だったのだ。さしずめ、あの美しい少女は、よんどころなく浪人となった、いとやんごとなき侍を父とする娘なのかもしれない。

 さて、当時相変わらず夕刻になると、少年は夕飯のおかずを買いに出かけていた。主婦が持つ買い物籠はさすがに恥ずかしいため、小さく仕舞える皮製の網状になった袋を愛用していた。
 頻繁に行く先は、K乾物屋であった。
坂上の旧街道までのほぼ真中の距離にあり、肉や野菜以外は大体何でも扱っていた。現在のスーパーが主流となる前は、こうした乾物屋が重宝がられていたのである。
 このお店にも、台場小学校のかもめ、いや同級生がいた。クラスは違ったが、女の子がいた。
時々店番を手伝っていて、少年が出向いた時、自信有り気に対応することもあった。
 かっこよいものを買うわけではなく、
 「くじらベーコン百グラムと、厚揚げ二枚、それからべったら漬け半分ください」
などと注文することが、少年は何だか恥ずかしいと思うこともあった。
 しかし、ある時、ひょっとしたら先方も、惣菜を測ったり、漬物樽に手をつっこんだりして応対することを、実は、恥ずかしいと感じているのかもしれないな、と相手の立場になって想像したことがあった。
 坂上の八百屋さんのかもめに対しても、そうしてみた。そうすると、何かが変わってゆくようだった。
 台場小学校のかもめたちは、確かに北品川商店街の子どもたちが多かった。
 少年は当初、商店の子どもたちを、自分とは境遇が異なると勝手に思い込み、違和感を抱いていたものだ。
 しかし、小さなかもめたちが大人に混じって、商売の手伝いをする姿をいたるところで目にするにつけ、次第にその違和感を解き始めることになった。
 忙しい時は、自分のように勝手に遊ぶことができなかったかもしれないと想像すると、なおのこと許せる気持ちになったりしていたのだ。
 「店と、学校とどっちが大事なんだ!」
とどなられ、明日に迫った試験に備える勉強時間を、店の手伝いに回さざるをえなかった、という話が、少年の母親の娘時代の昔話としてあった。奇しくも、北品川商店街で祖父が料理屋をやっていた当時のことだったという。
 台場小学校のお店屋さんかもめは、華やかそうに見えて、結構辛かったに違いないのだ。

 おまけに、もっと大きな問題がゆっくりゆっくりと近づいていたのであった。 昭和三十年代を通し順調かと思われた小売業は、スーパーその他の量販店の相次ぐ出現に伴って、その後、長期低落傾向へとずぶずぶとはまり込んで行くことになってしまうからだ。
 折りしも、かもめたちが中学を卒業し、職業選択を意識し始める頃、次第に小売業、いや自営業全体に暗雲が立ちふさがり始めるのであった。

  後日談となるが、少年が大学へ進み、京浜急行の大森町で三畳一間のアパート暮しをした時のことである。親戚の人がそこで小さな鉄工所を営んでいて、アルバイトの手を必要としていたからだった。
 偶然、大森町の駅前通りで、N君と出会った。N君は、台場小学校のみならず城南中学校も一緒であった、まじめで優秀な友人だった。
 「じゃ、今は、アルバイトしながら考えているというわけだ」
と言い、私は、狭い部屋の片隅に置かれた電気ポットで、二つのカップに湯を注いだ。
 「おやじの職人技術は、定評があるんだけど、今時、頼む人が少ないからね・・・」
と、彼は、煙草に火をつけながらつぶやいた。
 北品川には、小売商店のほかに、いわゆる職人技術を生業にしてきた家もかなりあった。宮大工、船大工、左官職などである。N君の家は、色彩を交えた特殊な左官業を営んできており、彼も後を継ぐ予定で、大学への進学をあきらめていたのだった。しかし、家業が思わしくなく、アルバイトをしながら、今後の進路を思い悩んでいるところだということなのだ。
 「職業選択って、結構やっかいなもんだよね」
煙を吐きながら、言った彼の言葉に、私は黙ってうなずいていた。

 人生は、トランプ・ゲームそのもののように思えてならない。
 どんな境遇であっても、素直に、楽しくそれらを受け容れていく子どもたちのように、配られたカードは、良くも悪くも甘受するほかなく、ゲームは開始されてしまう。
 それしかないとも言えるが、それでいいとも言える。配られたままで、絶対に勝てることがまずないように、配られたままで、確実に負けるということもまずないからである。
 かもめの子どもたちも、どんな空間をすみかとしようが、すみかがどんな環境であろうが、素直にそれらを是認していた。恨むことなどしないどころか、それらを楽しみに変える場合さえあった。
 たとえ、ゲームと同様、序盤から中盤に進むプロセスに悪戦苦闘が待ち受けていようとも、さしあたっての彼らは、いとしいほどに前向きとなっていた。
 こざかしい大人たちは、すぐにもこう反論するかもしれない。
 子どもたちは思量がないから、文句を言わないのだ、と。
 では、子どもたちに、小ざかしい思量が端からあって、未知に挑戦する以前に、文句を並べたてていたらどうなるというのだろうか。大きな大人と、「小さな大人」だけの世界は、先入観と臆病さで、すぐにでも滅びてしまうのではなかろうか。
 子どもたちは、世界を歓ぶ天才としてこの世に登場するのである。大人たちに、偏見を打ち破る勇気を与えるために登場するのだ。
 天才たちの手にかかれば、大人たちの絶望と倦怠の空間は一変してしまう。
 むしろ、天才たちにとっては、こざかしい思量や分別こそが理解しがたい足枷となるのである。
 では、一体、天才たちが切実に必要とするものは、何なのであろうか。大人たちは、それにどう応えたのだろうか?そして、応えてゆくべきなのだろうか?
 ゲームのルール自体さえもが、急速に変わろうとしている今、むしろ、大人たち自身が、自分で自分につけてきた数多くの足枷の、小さなひとつでもはずすことが、先決問題と言えば先決問題に違いないのであるが・・・

 第五話 かもめたちの飢え

 世界を歓ぶ天才の子どもたち!かもめたち!
 罠に落ちないよう気をつけるんだ!
 大空を舞う動機は、空腹を癒すことだけではなさそうだ!
 世界を歓び続けること自体に目的がありそうだ!
 「ジョナサン」(※)のようではなくとも・・・
       ※リチャード・バック『かもめのジョナサン』1973、食べることより、いかに速く飛ぶかに挑戦した一匹のかもめの物語。当時、ベストセラーとなった。

 「やすお、じいちゃんの話も何かの足しにするといい」
 日曜大工の休息時、祖父は、熱いお茶をすすりながら、作業を手伝っている少年に話していた。
 「じいちゃんの母ちゃんはな、じいちゃんがお前よりももっと小さい時に、・・・」
と、祖父は言い含めるように話し始めた。
 米沢の貧しい農家であったため、祖父の母親は、祖父が貧しさにいじけることを懸念して、財布に石ころを詰め、「いいか、うちには、こんなに銭がいっぺえあんだぞ」とのパフォーマンスをしたのだと言う話だった。
 「ふーん。そうだったの」
と相づちを打つ少年だったが、分かったようでもうひとつ分からなかった。
 その時だけそんなパフォーマンスをされたって、じいちゃんは、自分ちがとんでもなく貧乏だったっていうことを知ってたんじゃないの?と尋ねたかった少年であった。
 しかし、お茶うけの菓子をいっしょに食べさせてもらっていることもあってか、少年は黙って聞いて、黙々と菓子を食べるのだった。
 よく「貧乏教育(?)」で議論されるテーマだったのだ。 
祖父のような話に持ってゆくか、むしろ真実を伝えてたくましく育てるのか、というような際どい議論ではある。
 しかし少年は、祖父が機会があれば語り出す貧乏観や出世物語に対して、正直言ってやや距離を置いていた。親戚のほかの大人たちが、「浪花節!浪花節!」と内緒話のしぐさをしながら言っていたことを耳にしていたからかもしれない。
 だが、実際のところ、単純過ぎると思えたのだった。とりわけ、気になったのは、祖父の頭の中に、端的に表現すれば「金持ち=努力家、有能!」、「貧乏=怠け者、無能!」という図式が出来上がっていると思えたことだった。
 努力していろいろなものを手にした祖父を偉いと思ったが、米叔父さんのような大人の世界の不思議さ、奥深さを想像させない点が不満だったのだ。
 大工作業の後の庭を掃きながら、
 「子どもの頃、じいちゃんはな、よその家の旦那が自分の家の庭をこうやって掃いているのを見て、いつか自分もそうしたいと思ったもんだよ・・・」
とまで言われると、
 『やめてくれよ、じいちゃん!』と少年はこころの中で叫んでしまうのだった。

 確かに、少年は内心「愛の貧乏脱出大作戦」を展開していたはずだ。祖父とは時代もやり方も違うが、貧乏であることを、逆にスプリングボードにして、大空目指して飛び上がることを想い描いていただろう。
 「パパは何でも知っている」の家庭のような、一軒家に住み、クルマを運転し、電化製品に囲まれ、そして何よりお金の心配など家庭内の会話に出てこないようなイメージを望んでいたはずである。
 しかし、次第に少年のこころの中は複雑になり始めていたのかもしれない。自分が金持ちに成れさえすればよいという単純な物差しだけでは足りなくなりつつあったのだった。
 少年は、人一倍我(が)の強い性格だったが、強い感性はまた同情心にも連なっていた。いろいろな事情があって貧乏になってしまう人々が大勢いることを、うすうす気づき始めていたのだ。
 また、どうも、貧乏だとか、金持ちだとかという尺度とは関係ないところにも、楽しさや、うれしさがいろいろありそうだと、嗅覚を働かせ始めていたのかもしれない。
 「あっそうか」
と言っていろいろな新しいことに気がつく勉強も好きだったし、自分の考えで自由に進められる絵を描くことも、好きでならなかった。お習字も、自分から習いたいと母親にせがんで、毎週日曜日に、南馬場まで通わせてもらった。
 さらに、それらの結果が、通信簿であれ、賞状であれ、周囲から誉められればなおのことうれしかった。
 また、わずかな小遣い銭でも不自由を感じない遊び方を得とくしてもいた。
 次第に子どもたちの遊びの中に、高額のおもちゃ商品が割り込み始め、子どもたちの自給自足体制を切り崩しつつある時代ではあった。だが、少年はモノ作りの器用さを発揮して、頑固に自給自足を貫いていた。
 幸い、祖父が大工作業を趣味として、物置には大工道具一式が揃っていたし、木材のはぎれもふんだんにあった。
 さすがに、自転車までは作れなかったが、後日モノクロ・テレビが全盛の頃、しばしば生じた大抵の故障は修理してしまい、悲観主義者の父親を多いに喜ばしたものだった。

 貧乏に、本当や嘘があるのかどうかは知らないが、本当の貧乏の苦しさからは、両親によってかばってもらっていたというのが事実であったかもしれない。
 とりわけ、母親は、今で言うパーフェクトな「根あか」であり、実のところ深刻そうな顔つきを思い描くことが難しいくらいである。
 「お父さん、そんな貧乏たらしいことばかり言わないの!」
と、母親が、堅実だがどうみても悲観的な考えに傾く父親に、しばしば食い下がっていた場面が思い出される。

 少年が、本当の貧乏ということばで思い起こすのは、大阪の小学校低学年当時のS君の家庭であった。
  「せんせえー!また、Sさんが悪さしよる!」
と、同級の女の子が、泣きながら廊下へ飛び出して来た。
 バケツを片手にしたS君が、教室の真中で仁王立ちになっていた。
s_boy.jpg 周辺の女の子たちは泣き、男の子もおどおどとしている。床は、水浸しとなり、雑巾が散らばっていた。バケツの水をぶちまけていたのだった。
 机などを教室の後方に寄せ、皆で掃除をしている最中の出来事だった。
 少年は、廊下の清掃を受け持っていたが、教室に飛び込んだとたんに、何が起きていたのかすぐに分かった。
 これまでに、S君は、皆のいやがることばかりを、まるで考え抜いた結果のように、手を変え、品を変えやり尽くしてきていたのだった。
 S君は、いつも、そでがテカテカとなり、つぎはぎだらけとなった窮屈な学生服を着ていた。
 頭は丸坊主にされ、うすら笑い以外には笑わず、きつい顔をしていた。誰も近づこうとしなかった。
 以前から、少年は、彼と何度も取っ組み合いのけんかをしてきた。このことも不気味なのだが、彼の得意技は、馬乗りになった後、相手を押さえ付けながら、うすら笑いをして口から唾を相手の顔に垂らすといった信じられない技だったのだ。
 少年も、かつて不覚にもこの技にはまったことがあり、少年とて、S君は大の苦手だった。けんか相手としては、できれば避けたいと望んでいた。
 しかし、許せない!という衝動がとっさに走ってしまった。
 「自分で拭くんや!皆に謝るんや!」
と言いながら、少年はS君に近づいていった。
 そんなことばが通用するはずがないことは分かっていた。宣戦布告のつもりだったのだ。
 案の定、ゆがんだうす笑いを浮かべたS君は、やはり、いきなり手にしていたバケツを振りかざしてきた。
 その後、どう展開していったかの詳細を少年は覚えていない。ただ、机の角に額をぶつけ、顔中血だらけにして泣き叫ぶS君の姿と、硬直して立ちすくむ少年自身の光景が、今でも記憶に焼きついているのである。

 一両日して、少年は母親に連れられてS君の家に謝りにゆくこととなった。動機が何であれ、怪我をさせてしまった以上そうしなければならないということだった。
 雨降りの日だった。
 ようやく、住所の番地でたどり着いた家は、見るからに粗末なあばら家だった。玄関などはなく、ガラス戸がその替わりとなっていた。
 普段になく恐縮していた母親が、S君の母親に謝っていた。S君の母親は、やせて、弱々しい感じの人で、うちの子は迷惑ばかりかけているとか、父親が家をあけてばかりいるとかを話していた。
 お詫びといって持ってきた菓子箱を、母親が差し出した時、物陰からS君が姿を現した。まるで鉢巻のように、額に白い包帯を巻き、何と背中に赤ちゃんを背負っていたのだった。
 おまけに、S君の後ろには、鼻水を垂らした弟らしい小さな男の子が、S君の腰にしがみつきながらこちらを覗いていた。
 足元の畳は、もはや畳とは言えないほどに、表面が剥がれて薄汚れていた。まだ昼過ぎだというのに、部屋は薄暗く、雨漏りを受けるように、洗面器やなべが並べてあった。
 少年は、母親から謝ることを促された。
 「かんにん。痛かったやろ。かんにんな」
と、か細く言って、頭を下げた。 S君の顔を覗きこんだ時、彼は初めて子どもらしくはにかむように笑ったように見えた。いつもの学校での顔とは別人であるかのようであった。
 帰る道すがら、ハンカチを目や鼻に押し当てて、しばらく口を開かなかった母親が、ポツリと言った。
 「かわいそうな子なんやから、仲良くするんやで。ええな」
 少年は、素直に頷いた。そして、そう言われれば、S君のお弁当が、いつもコッペパンひとつだけだったかもしれないことに気づいたのだった。
 その後、母親は何度かS君の家へ向かったようだった。菓子のみやげだけでなく、S君の弟向けに、少年が小さくて着られなくなった衣類なども持って行ってあげたようだった。
 きっとS君は、耐えようにも、忘れようにも、それができない貧乏の苦痛に、もがき回っていたに違いなかったのだろう。そして、何十年経った今でも、記憶に焼きついているS君の歪んだ顔つきや、執拗な嫌がらせの正体は、実は執拗にS君にからみついていた貧乏という悪霊だったに違いないと思うのである。

 台場小学校に転入してからも、少年は、売られたけんかを買ってしまう方だったが、どういうものか、けんかを売る同級生は、S君のようではなくともお腹をすかしているかもめだと見えたので次第に萎えてゆくのだった。

 貧しさと、豊かさの問題は、いつの時代になっても姿を変えて現れる、終わりのない回り灯篭のようなものかもしれない。
 いうまでもなく、充たされない空腹や欲しいモノが手にできないことだけが、貧しさと貧乏が立ち現れる姿ではない。現に、現代は、食欲とモノに飽きた世代に、真っ白な空虚感や飢えが広がっていると見える。むしろ、この現代の問題の方がはるかに深刻だと思えてならない。
 その意味では、昭和三十年代の少年たち、かもめたちは、モノの世界での困窮や飢えという、ある意味では立ち向かい易い敵のみを相手と見なしてきたのかもしれない。
 侮れない貧しさとは、モノの欠乏を芯としながらも、傷つけられた自尊心、剥奪された自由な時間、自己実現の機会喪失、閉ざされた他者との交流などが、幾重にもからまって重層構造を成していたはずである。S君の「執拗な」いたずらは、そのことを裏側から照らし出していたのではなかったか。
 「団塊の世代」のかもめたちは、貧しさや飢えの自覚をどこまで煮詰めたのだろうか。
 折りしも、消費ブームという、モノへの欠乏感を有効に刺激して、商品を購入させるといった大作戦が、テレビという水先案内人によって、大々的に繰り広げられる時代を迎えるのである。

 テレビでは、一足先に消費社会へ歩を進めたアメリカのドラマが、欲しいモノの商品一覧を案内するかのように、モノへの意欲を刺激したし、もちろんコマーシャルは、視聴者の頭の中を欲しいモノだらけにしていったと言えよう。
 人生の生きる動機や目的を、所得の向上、経済的な地位向上だけに絞り込むことを誰も警戒しなかったかもしれない。その目的達成のためには、どんな犠牲も惜しむなという挑発さえ、自然に受け入れられてゆくのである。

 魚群の影は、永遠に周回し続けるのだと、かもめたちは信じた。その魚影を、群れで追っていさえすれば、一生が安泰だと信じ込んだ。リストラなどというカタカナ四文字で、群れに貢献してきたつもりの自分が、簡単に群れから外されることなど、どんな悲観的なかもめでも想像しなかったはずである。
 もちろん、飽食の時代のジュニア世代がどうなるのかを懸念する余地など毛頭なかった。
 「衣食足りて礼節を知る」ということばは、事実認識ではなく、希望的推定でしかなかったのだ。空腹という飢えが遠のけば、モノへの欲求しか持たないかもめであれば、何も考えないどころか、群れの規律に対してさえ緊迫感を失ってゆくのが道理であろう。
 「団塊世代」のかもめたちは、いったい何に飢え、それを自分なりにどう理解していったのか、いかなかったのか?どうも、その結果を、今苦々しく刈り取っているように思われてならないのである。

 第六話 中年かもめたちの癒し

 「もしもし。夜分すみません」
 「はい、Mでございます。はいはい、廣瀬くんね?」
 「えっ、そうですが、どうしてわかりました?」
 「わかるわよ。あなたの声くらい。そうそう、先日はきれいなハスの写真をありがとう。プロなみねぇ。確か、大賀ハスよね」
 「そうなんです。最近は、カメラが息抜きでして、散歩の際には持ち歩いています。町田には、大賀ハスのハス池がある薬師池という公園がありまして、その写真は朝四時半に出かけて撮ってきました」
 「ハスは、早朝にしか咲かないそうね」
 「そうなんです。で、電話しましたのは、ほかでもないのですが、先生は、来週の月曜の夕刻、予定が入っていますでしょうか?」
 「どうして?」
 「実は、来週月曜の午後、仕事のセミナーが雅叙園でありまして出向くものですから、もしよろしければ、目と鼻の先の先生のお宅に寄らせていただこうかと思いまして」
 「へぇ、そうなの。ちょっと待ってくださいね。スケジュールを確認してみるわ」

 M先生が、台場小学校の五、六年生時代の学級担任だったのは、もう四十年も昔のことである。
 毎年、年賀状は欠かさず出してきた私だった。また、出不精な私であったが、当時の学級のクラス会には出席するようにしてきた。久しぶりに開かれた二、三年前のクラス会にも出席した。
 最近は、以前になく電話をする機会が重なっていた。そのきっかけは、当時の同級生のTであったかもしれない。
 思えば、Tは十年ほど位前から、突然に電話をしてくるようになっていた。しかも、深夜二時、三時とお構いなく、おまけに泥酔の状態でかけてきていた。普通のサラリーマンなら、すぐにでも拒絶反応を示すところだっただろうが、深夜まで仕事をする習慣があった私は、当初、別段迷惑がらずに対応したりしていたのだ。
 また、こちらは結果オーライではあったのだが、二、三年前のクラス会も、Tがせがむことに触発されて皆が集まることになったといってよいかもしれなかった。
 何かと日常の雑事に、はまり込む中年ともなれば、どんなに懐かしい気持ちが片方にあろうとも、特別の記念的意味でもなければ、何十年ぶりかのクラス会などは実現するものではなかっただろう。
 そして、その後、Tからは定期的にと言えるような間隔で電話が入り、さすがの私も、ようやく辟易とするようになっていた。
 私がいらだつようになってきたのは、かけてくる時刻もあったが、泥酔のため会話が自分本位のワンウェイで、何よりも、当時の昔話のみに固執することからだった。
 「廣瀬よー。あん頃は、良かったよなぁ。あん頃から、お前のことは好きだったよ。俺んちは貧乏だったから、弁当持ってゆく時は、飯とふりかけだけだった。廣瀬のとこへのぞきに行ったら、ウィンナ・ソーセージが入っていてよ。そしたら、廣瀬が、一本くれたんだよな。あれはうまかったなぁ。そいで、俺は廣瀬の子分になろうって思ったんだよ」
 という話などを、何回となく聞かされるのだった。私は桃太郎ではないぞ!おまえだって猿やきじではなかっただろう!第一、当時は給食だったじゃないか!などと電話口で叫んでも、
 「廣瀬は、いい奴だったよなぁ」
という、ぬか釘だったのである。
 Tからの度重なる電話が執拗になっていったこと、そしてそれに対し、私が次第にいらだちを隠せなくなっていった経過は、思えば、Tが次第に私生活を行き詰まらせていった経過、そして私自身、不況で仕事に神経をすり減らさざるをえなくなっていった経過と、同時進行であったのだ。
 だから、Tの自分勝手さを手厳しくとがめ、電話を切ったすぐあとで、あいつも寂しいんだろうな、言い過ぎたかな、と思ったりした。
 そして、Tからの相も変わらぬ電話に、対応することを続けてきたのだった。
 しかし、迷惑さや、酒を程々に抑えるべきだという忠告に耳を貸さない点を度外視しても、なお余るそんな不快感を、最近私は感じ始めるようになっていたのだった。
 それは、酒の酔いで正体をなくしているとそうなるもののようだが、目前の境遇に前向きに対処することを回避し、無理やりに人生の時間経過を引き戻そうとしているかのような言動が、やり切れなかったからだ。
 折りしも、私は、ようやく自分を含む「団塊世代」を情けなく思い始めていたのだった。
 だから眼前に、自分勝手で、傲慢な大言壮語を吐くくせして、甘ったれるといった、軽薄な団塊世代の症候群をラインアップされることが、もはや耐えられなくなってしまっていたのだ。
 自分の醜悪な部分のみを拡大する鏡に向かっているような気さえしてしまうからだった。

 「もしもし、廣瀬くん。いや、申し訳ない。何か引っかかっていたような気がしたんだけど、習っている墨絵の集いがあって、この回ははずせないのよ。午前中とかだといけないの?」
 「いや、すみません。それならまたの機会ということにさせてください。急ぐ話があるわけでもありませんので」
 私は、やや失望していた。
 しかし、M先生がこの年になって、といってもM先生の正確な年齢を確認していないのだが、スケジュールを立てて暮らされていることに驚き、感心したのだった。
 「廣瀬くんは、絵が上手だったけど、今は写真をやってるの?」
 「現在のような時代は、仕事とは別に、熱っぽくなれるものというか、感動できるようなものを意図的に創っていかないと、ガス欠になってしまいそうな気がするんです。風景や自然からは癒し(いやし)が与えられます」

  自分で口にした「癒し」ということばに、私はちょっとわれに返った。
camera.jpg 以前はさほど気に留めていなかったこのことばに、最近は切実な重みを感ずるようになっていたからである。あたかも持病の治療薬のように、日々「癒し」を見出すことを怠るなら、一週間ともたず、不測の言動に狂い走ってしまうかもしれないなどと大袈裟なことを、しらふで思っていたからだった。
 もはや、ペットの犬や猫の存在は、家庭に必須だと考えていた。
 現に、我が家には、もらったり、拾ったりした犬一匹と、猫二匹が家族皆の「癒し」担当係、担当医として、使命感を持たされて巡回しているかのようである。

 「いやし?はいはい、癒されるということね。そうよねぇー。いやなことばかりが増える環境になったわよね。現役のあなたたちは、大変だと思うわ。それで、お仕事は順調なんでしょ?」
 「ええ、まずまずと言えば、まずまずなのですが、先のことは見えないというのが実情です。もともと安定をねらって始めた仕事というより、充実感を優先させたわけですから、自分側からの働きかけと、そのためのエネルギーが大事だと思っています。
 それに、現代の仕事はいやいやでは通用するものじゃないと思っています。『好きこそ、ものの上手なれ。』というように、そのことが好きでなくては始まらないですよね。
 写真に凝っているのも、この年で、仕事に連なってゆく好きなものを広げているといった感じです。われわれの仕事のソフトというのは、テクニカルな面だけじゃ駄目だというのが持論です。それにテクニカルな面は補強が効くわけで、来週のセミナーもその関連なんです。この年でも新技術を吸収する自信はあります」
 「偉いわね、りっぱよ。昔から廣瀬くんは、がんばり屋さんでしたものね。こう見えても、私も結構忙しくがんばっているのよ。もうすぐ、英語劇の開演に備えた練習もあるし、墨絵の発表会もあるのよ。
 押しつけじゃだめなのよね。好きなことを伸ばして、周囲に働きかけるという廣瀬くんの処世術は賛成だな」
 「しかし、正直言って最近は自分自身、空転してる観が否めません。景気の悪さだけじゃなくて、新しいものが出てくるスピードが速過ぎるんです。
 バブル当時は、景気が良かっただけじゃないんですよね。それ以前の時期との継続性があったような気がします。極端に言えば、多少の能力、努力でそこそこ通用した時代だったんです。
 でも、現在はどこか違います。がんばりも十倍、二十倍も必要な上に、がんばるといったスタイルだけでは歯が立たない環境になっていそうです」
 「でも、がんばることは必要よね。特に今の子どもや若い人を見てるとそう思うわ」
 「そこなんです。われわれの世代は、目に見える、実感できる目標があったから、がんばり易かったかもしれません。
 それに対して、今の彼らは、そういう目標が目標にならなくなっちゃったんじゃないかと思うんです。変な表現ですが、『ペイしない努力はしたくない!ペイするほどの努力に値する目標はそんなにあるもんじゃない!』と見抜いちゃっているのかもしれませんよね。
 だから、好きなことを突き詰めさせてゆくことが唯一突破口のように思えるんです。
 しかし、今までのような、一元的な受験勉強と同じ考え方の教育が続くと、切れる秀才ができるどころか、『キレタ』犯罪者を増やしていくだけだろうと思うんです」
 「そう!私は、あの子たちはかわいそうだと思ってるの。当然、被害にあった人はかわいそうなんですけど、教育に携わってきた者とすれば、犯罪に走った子たちのことを考えるの。自分の居場所がなくなっちゃったような毎日だったら、か、かわいそうよね・・・。
 廣瀬くんは、徒競走を廃止した話をどう思う?走るのが遅い子はかわいそうだから、平等に扱うために、無しにしましょうという話。私は、違う!って思うの。皆、子どもたちはいろいろなとりえや個性を持っているのだから、そういう考え方は、走るのだけが速い子がいたら、どんなにがっかりさせることになるかと思うのよね」
 「へぇー、そんな馬鹿な話まであるんですか?」
 「そうなの」
 「私は、当時、先生が皆を自由にやらせて、見守っていただいたと思って感謝しています。特に私なんか、特別にお目こぼししていただいたと思っています」
 「そんなことなくて、皆いいものを持っていたものね」

 ついつい迷惑を忘れ、長話をしてしまった私は、詫びることばで電話を切った。
 多分、突然の電話対応が予定されていなかったM先生の今晩のスケジュールは、大幅に狂ってしまったに違いなかったからだ。
申し訳ない気持ちで恐縮したが、こんな話をこそ、お会いしてしてみたかったため、私には充実した気分が残ったのだった。
 ただ、もう一歩踏み込めなかった話題、つまり特別なM先生にはかばってもらったわれわれだったのだけど、あの当時の教育界の大勢はどうだったのかという点、そしてM先生はそれとどう闘わざるを得なかったのかという「業界裏話(?)」については心残りとなってしまった。
 Tとも、こんな話ができるのであれば、たとえ、やり掛けの作業中の深夜職場に電話が入っても、私は受話器を肩ではさみ、キーボードを叩きながら談笑するはずに違いない。
 しかし彼は、何という稚拙なスタイルでしか自分の「癒し」を追求できない奴なのだろうか。
 彼が、私と同様に、まったく同様に、緊急治療薬としての癒しを求めていることは、彼の現在の八方ふさがりの状況を想像すれば、百も分かるのである。
 しかし、彼は、いいかげんな時代であり、と同時に地底で大きな変化が着々と進行していたバブル時代を、余りにも外っ面だけを見て、油断、甘え、傲慢を野放しにしてきてしまったことか。

 それら悪癖の根底に何が横たわっているのかを、自身も振り返り考える時、人は皆同じなんだという同質性を主張することで、高をくくる姿勢があるように思われてならないのである。
 仮に、人が皆同じ考え、感じ方であることを前提とするなら、きわどい対話や、他者に対する詳細で、説得的な説明は、限りなく節約、省略できてしまうではないか。「よし、分かった!」のフレーズさえ使っていれば、すべての人間関係は丸く転がってゆくのである。
 そんな時代は、果たしてあったのか?
 あったと言えばあったのである。全国民がこぞって熱狂するような大ブームが頻繁に発生し得た時代、昭和三十年代である。
 「ダッコちゃん」、「フラフープ」、そしてフランク永井に始まった低音ブームなどなど。
 政治の世界では、いわゆる「五十五年体制」というかたちで、世界全体を二大同質ブロックに仕分けて高をくくったのだった。
 経済の分野では、大量生産、大量販売が急上昇したのだが、これは、大衆が欲しがるものは皆同じであるとの認識が大前提であったのだ。
 そして、やがてこれらはすべて多様化、個性化へと進むうねりの過程で、無残にも崩壊していってしまった。
 だが、この同質幻想の中で少年期を過ごした「団塊世代」だけが、後遺症を残しながら生存し続けたのである。
 「変わる!」ことを、テレビ・コマーシャルで北野武が言うのは、彼自身が団塊世代であり、変われ切れない世代と目されているから、パロディとしての意味があるのだと思える。

 Tが、酒を少し控え、世界中が個性を求めた個人の時代に向かいつつあることを、まざまざと感じ取って欲しい。
 決して、現状の世界は誉められたものとはなっていない。むしろ、感覚的には悪くさえなっている。
 しかし、子どもがいつまでも子どもではいられないように、歴史は、いつまでも個人が存在しない、そう、「餅」のようにべったりとした社会構造ではあり得ないのだろう。
 「むすび」のように、一粒一粒の米粒、つまり個人が存在を主張しながら、それでいてうまそうで、機能的なまとまりのある形へと移行しようとしているのだと思いたい。
 残念ながら現状は、米粒に粘着力がないせいか、パラパラとなった崩れおむすびでしかないと見えるのだが・・・

 第七話 個性尊重は至難の技!

 少年は、もう「お山の杉の子」を歌わされることにうんざりしていた。
 ただでさえ、音楽だけには苦手意識を持っていた少年にとって、この歌詞を覚え、そして皆の前で歌うことは苦痛だった。旋律が、父と見にいった兵隊映画の中のそれに似ていたこともいやだった。同級生の中には、六番までしっかり暗記して自慢する子がいたのも気に入らなかった。
 しかし、五年生となって、担任の先生が、それまでの男の先生からM先生という女の先生に替わったのだった。少年はとにかくその変化を歓迎した。
 ところで、生意気だった少年は、どんな先生が良い先生で、どんな先生がそうでないかの基準を自分なりに編み出していた。それは、自分が納得して、自分を変えてくれる先生が良い先生で、自分を意固地にさせる先生はへたな先生だという一見自分本位な基準であった。
 こう表現すると物議をかもすが、要は自分の望みを尊重してくれる人が良い人であり、その人が先生であれば、良い先生だと考えただけのことなのである。先生なのだから偉いに違いないとは思い込まなかっただけなのである。
 大人びているようにも聞こえるかもしれないが、そうとも言えず、子どもでも仲間同士の自然の会話になれば当然のように出てくる対応なのであり、ややへそ曲がりとなって、タテマエに順応し尽くさなかっただけだったのである。
 やや周辺に対する評価意識が強かったかもしれない。また、幼い時に絵画を習ったり、当時もお習字を習ったりしていたため、学校の先生以外にも、先生と呼ばれる人にはそれなりに接触して、先生たちを客観視する経験が与えられていたのかもしれない。
 お習字の先生は、三人ほどいて、その日によって添削してくれる先生が異なっていた。少年が気に入っていたお爺さんの先生は、書き込んだ半紙を添削のための机に差し出すと、
 「力いっぱい書きたいんじゃな。じゃが、全部太く書いたんじゃ、力は見えんよ」
というように、少年が何を望んでいるかを見抜いた上で添削してくれた。
 別の先生は、少年のだだっ太い字の上全体に、朱筆で細く上品な自分の文字を平然と書き込み、それで終了したのだった。少年は、その先生に当たった日は、自分の不運を嘆き、しょんぼりとしてうつむき加減で南馬場から帰ってゆくのだった。
 それで、これまでの学級担任の男の先生への評価は、どうであったかである。
 えこひいきをする先生だとか言って、ぼやいていた甘ったれかもめもいたのだが、そんなことを少年は問題にしなかった。ただひとつ、苦手だった音楽がさらに嫌いとなった事実によって、合格点は出していなかったのである。

 五年生となった頃の少年は、それまでの小太りで「ひろでぶ」というあざなが言い表した体つきも、みるみる背丈が伸び、急成長していた。それに伴って、体力も急に上回り、あらゆることに自信がつき始めていた。したがって生意気さは天に達していた。

 「廣瀬くん、本当に校長先生にお手紙を書いたの?」
と、M先生は言った。M先生の表情が、冷静というより穏やかでさえあったので、少年はほっとしたりしていた。
 新学期となりしばらくした頃の、少年が呼ばれた職員室での会話であった。

 当時、校舎の玄関付近に、「提案箱」のようなものがあったのである。どんな脈絡でそうしたものがあったのかは分からなかった。ただ、少年は、何を思ってか、当時替わったばかりの新任の校長先生宛てに手紙を投函したのだった。
 当時のテレビ番組が最後に流していた、「この番組に関するご意見、ご要望をどしどしお寄せください」と一緒くたにしていたのだろうか。
 その内容は、朝礼でのお話は、いつも短くてつまらないので、もっと面白い話題にしてください、といったものだった。無記名などという方法を知らなかった少年は、もちろん署名入りで投函した。
 根拠といえば、以前の校長先生の話は、子どもが楽しみにできるほどに上手だったのに対して、新しい校長先生は実にさりげなかったこと、また、祖父や米叔父さんが、結構、聞く人の気持ちをつかむような話をしたので、年配の人なら誰でもそれができると考えていたことなどがあげられるかもしれない。出し惜しみをしないでくださいといった応援だったのであろう。
 そして、自分の投書が、朝礼での校長先生の話し振りにどう反映されるのかをひそかに楽しみにした。と同時に、もう片方で、こんなことは、してはいけなかったのかもしれない、という不安な気持ちも頭をもたげてきていたのだった。

 「廣瀬くんね。お話の仕方というものは、人それぞれ皆違うのよ」
とM先生は微笑みながら言い、あわせて、校長先生が『もうちょっと工夫してみましょう。』とおっしゃってましたと伝えてくれた。
 「先生、こういう手紙を書くことは悪いことですか?」
 「そんなことはないのよ。文面を校長先生から見せてもらったけど、廣瀬くんらしい考えがよく書けていたし、いたずらじゃないことは、私には分かりましたよ。
 自分が正しいと信じたことをすることは、間違ってはいません。
 でも、校長先生はりっぱな先生だったからよかったけれど、こういう内容が嫌いで、すぐに怒り出す大人がいないこともないのよね。ふふふっ」
 最後は笑い出していたM先生であった。少年は、何となくM先生は、女の人なのに腰が据わっていて頼もしいな、という印象を受けたものだった。
 そんなこともあって、M先生は、少年の身勝手な評価基準からいう良い先生として、早くも合格したのだった。そうなると、今度は、自分自身が、M先生の評価基準に合格してゆきたいと切望するようになっていくのだった。

 M先生が担任となって、目立って変わったのは、それまで陰口をたたいてくすぶっていた男子かもめたちが、次第にホンネでがんばるようになっていったことだったかもしれない。
 いつの時代でも、学校内に自分の居場所が見つけられない子は残り続けるのかもしれない。なぜなら、いつの時代でも、良い先生ばかりがいるとは限らず、子どもたちの知的好奇心をスポイルしてしまう「でもしか」先生は後を絶ちそうにないからだ。
 おまけに、「学級崩壊」の主たる原因を日毎生み出しているお粗末至極な家庭内教育だって、そう簡単には是正されるとは思えない。
 だから、体育の時間のみに自分の居場所を確認する子がいるとすれば、それはそれで素晴らしい出来事なのではないだろうか。

 Wというやんちゃな子がいた。登下校路でいっしょになることも少なくなかったので遊ぶこともあった。彼はとにかく身体を使って遊ぶことが好きだった。
 確か途中で危険だということで禁止になったかもしれない「うまのり」を校庭でやった時など、彼は敵を怖がらせるほど夢中になっていた。
 しかし、どうも彼は、放課後の、学校外の世界に自分の居場所を探り続けてきていたと、少年は観察していた。めんこ、ビー玉、わっかなど、勝負して取り合うことに熱狂していたのだった。かなり遠征もしていたようだった。
 そのWが、見事、学校内の体育の時間に自分の居場所を見出し始めたのであった。
 「うまのり」に通じる、跳び箱という正規の種目がきっかけだったかもしれない。

  次々と箱が、跳び箱の下に加えられていった。
j_box.jpg 惜しくも跳べなかった子は、残念賞で傍らに座ってゆくのである。座って応援する観客がどんどん増えていくのだった。少年も、二、三人に残ったが、最後の一人に残ったのはWであった。
 体育館が無い時期だったので、マットや跳び箱競技は、屋上で行われていた。冷たい風がふく、冬晴れの日であった。
 真っ青な空に向かって、冠雪を載せてそびえ立つ富士山。もう自分らの背丈に近づいた跳び箱の高さは、座って見る子どもらには、そう見えたに違いなかった。
 「Wくーん、がんばってー」
と、M先生は叫んだ。皆も応援した。助走前のスタートの位置に小さく見えるWは、手で水っぱなを何度も拭い、ありったけの緊張をしているようだった。そして、こちらへ向かって走り出した。
 踏み台がバーンという音を放った。Wは跳び上がる。そして、マットがズドッという音を立てた時、Wは見事着地していた。
 「やった!すげぇー」と男子かもめたちは騒ぎ、女の子かもめたちも興奮して拍手した。
 M先生は、Wにゆっくり歩み寄り、彼の両肩を両手でポンポンと打ちながら、
 「すごいわねぇ!Wくんは、大したものよ!」
と絶賛したのだった。
 Wは、その時、自分の望んでいた居場所以上の広さを手にしてしまった、と感じたであろう。
 また、おそらくWも、いつか少年自身が思ったように、今度は、自分自身が、M先生の評価基準に合格するようにできる限りがんばりたい、と切望し始めたに違いなかっただろう。やがて、クラスの体育委員に立候補するようになった。
 かもめたちにとっての実にうれしい転機を、このようにM先生は惜しみなく与え続けたように思える。

 個々の子どもの居場所に配慮するということは、「個性尊重」教育のことであろう。だが、小学校教育で、ただ口にするだけではなく、「個性尊重」を実践する先生は、大変なことではないだろうか。
 まず、当時は数十名の生徒を抱えたのだから、その数量だけを想像しても大変なことである。
 ちなみに、その大変さを推し量るために、多くの知人、友人に年賀状を出す年末行事を思い浮かべてはどうだろう。お茶を濁さず、それぞれの差出し宛ての人にふさわしいことばを、探して記入することはしんどく、疲れる作業ではないか。個々人に対応することを意図した作業というものは、その数が増えるととてつもなくパワーを要する仕事となるはずである。
 私は、以前、ソフト開発会社の管理職セミナーの講師を仰せつかっていたことがあったが、その際の調査では、それぞれの部下を生かす良き上司であるための条件として、まず部下の数を数名内に抑えるべきだという点が目を引いた。実感としてもそう思えた。
 二泊三日の合宿セミナーで、十数名の管理職の受講生を相手に、面談を含む個人指導に挑戦したことがあったが、とにかく死ぬ程きつくて、もう二度と引き受けまいと思ったものだ。

 「個性尊重」の教育のためには、十分な観察と、高度な想像、そして判断という、人間のいろいろな能力の中でも、最も総合力と集中力を要する頭脳処理が要求されるのである。それは、しんどくて、辛い活動である。
 とりわけ、教育者に想像力が乏しければ、被教育者の個性がスポイルされてゆく危険は避けられないのではないだろうか。個性という漠然とした対象を照らし出すためには、鋭い観察力に加えて、豊かな想像力が必須だからである。
 その点で、M先生の国語の授業は楽しみであった。教科書の教材文章をもとにして、かもめたちにありったけの想像力を要求したからである。

 「さて、このおじいさんは、なぜ、こんな大変なことを目の前にして、『放っておきましょ。』と言ったのでしょう?Aくんはどう思う?」

 「もう、いやけを差しちゃったんじゃない。いくら優しいおじいさんでも・・・」
 「そうかも知れないけど、あきらめたということなのかなぁ?他の人はどう?」

 これは、私の記憶も薄れ始めているのだが、次のような教材の国語の授業の時のやり取りだったかと思う。
 木枯らしが吹くような冬のある日、銭湯だったか、何かの工場だったかの高い煙突に、ドロボウが逃げ場を失って登ってしまったのだった。登場人物は、その家のおじいさんと、孫にあたる小さな少年だったかである。
 やがて、そのことが近所じゅうに広がってしまい、その煙突を見上げるやじうまも含め、道をうめるような騒ぎとなり、皆で知恵を出し合うのだった。警察を呼べ、放水しろと言う者もいたようだった。
 雪が舞いそうに寒い日も、やがて暮れそうになった頃、おじいさんは、最終的に、
 「皆さん、もう放っておきましょう。皆さんも、どうかお引き取りください」
と言ったのだった。
 私は、どういう脈絡かはわからないのだが、この教材と授業のことを、古い記憶の地層に輝く化石のように残している。きっと、M先生から深い想像を促されたからなのだと思う。
 後年、どんな場合でも、相手の逃げ道のすべてを奪うな、という金言に出会った時にも、その異同を懐かしく振り返ったりしたものだった。
[ 註 1 ]

 ところで、時代全体は、個性と想像力の重要性を看板に掲げながらも、反対の方向へ突き進んでいたのではなかっただろうか。
 団塊かもめたちのかなりの部分が私立中学へ進学する昭和三十五年の受験戦線は、その後の受験戦争の前哨戦であったように思う。校内での補習授業のみならず、私塾が正月から模擬試験を始める事態だったのだ。
 私は、当初から近くの公立中学への進学しか念頭になかったため、遊びたい放題であった。
 だが、親戚のKちゃんは、商業高校への段取りを目指し、中学受験を選ばされていた。どう見ても勉強が好きなほうではなかったKちゃんだったが、まるで「内職」をするようにこまめにやっていたことを覚えている。
 実際、帳簿をつける内職でもしているかのように、鉛筆で問題集の空欄を埋めては、
 「はいっ、このページは終了」
とつぶやくように言い、ページをめくっていた。
 しかし、私も公立中学へ進んでからは、夜な夜な遅くまで勉強をするようになっていった。だが、「こまめな内職」のような画一的知識の暗記が、当時の勉強だったと言える点に変わりはなかったと思う。
 個性や、想像力などの必要性は、ほんの申し訳程度しかなかったと言