第一話 泣いてるひまなんかあらへん!

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 第一話 泣いてるひまなんかあらへん!



 即日、品川の祖父の家での生活が始まった。
 それは、まだ半ば残していた夏休みの後に待ち受けている、新しい小学校への転入のことを忘れさせる程のものであった。実に忙しく、刺激的な日々だったのである。
 さほど大きい建物とは言えない空間に、五世帯の親戚と、プラスひとりのよんどころない間借り人という計二十三人。大人、子どもが、まさにひしめきあう生活を繰り広げていたからである。
 ちなみに、朝のトイレと、夕刻からの風呂場は大変な騒ぎであった。
 時として、
 「子ども連中は、まとまって済ましちゃいな!」
という祖父の掛け声のもと、少年は同世代の親戚の女の子たち三、四人と「混浴」させられたりもした。その中には、新学期から同級となり、隣り合わせの座席とさせられた叔母にあたるKちゃんも含まれていたのだった。
 どういうものか親戚の子はほとんどが女の子で、突然いっしょに住むこととなった少年がめずらしかったのだろう。夜になっても、
 「『名犬ラッシー』始まるよ!」
とか、
 「みんなでトランプしようよ」
とか誘いにきたりしたものだった。
 いっしょに遊びながら、少年は、自分が転入することになっている小学校の様子をそれとなく聞き出していた。台場小学校といってまだできたばかりの新しい学校であること、品川小学校からみんなで椅子を運んだこと、校庭の隅に灯台のかけらが残っていることなどを。
 そしてほっとする情報として、三年生の自分たちが最上級生であり、自分らの上に気兼ねしなければならない上級生がいないことも聴き取っていたのである。現に、少年の姉は、倍ほどに遠い品川小学校に転入することになっていた。

  夏休み中ということもあってか、いや、実はそうではなく、驚いたことに、祖父の館の夜の打ち止めは通常が、午前三時過ぎであった。
yakata.jpg 当時、祖父は、夕刻の四時過ぎに身支度をして、薄暮の頃に悠々と勤めに出ていた。神田の駅前に古いビルを持ち、貸し事務所をしていたようで、そんな時刻に行ってもさしたる支障があるわけではなかったのだろう。そして、終電で帰宅し、消灯されるのがそんな時刻となっていた。
 祖父は、明治生まれで、子どもの頃に東北の米沢から、いわゆる丁稚奉公で単身東京に出てきたという。趣味の日曜大工を、その後、少年は手伝わされることがしばしばあったが、そんな時、祖父は少年にいろいろと苦労話を聞かせていたのだ。
 この祖父の館も、戦後、料理屋だかをやっていた名残だそうだ。様々に改造はされていたが、部屋割といい、玄関に据えられた姿見ほどの大きな鏡といい、少年は何か奇妙な建物だと思ったものであった。
 「ここの家は『夜鷹』なんだから!」
と、母親の弟Hさんのお嫁さんはしばしば口にしていたが、どうも以前の料理屋経営時に、この館のこの夜更かしが定着したものらしい。
 祖父の館は、夜が遅いだけではなく、みんな声が大きく、そして口調も荒っぽかった。
深夜でも、大きな笑い声が聞こえるかと思えば、喧嘩ではなくとも「てめぇー」、「バッカヤロー」の日常語が響きわたる始末だった。

 大阪での少年たちは、朝が早く物静かな父親のもと、まだ農地が多い郊外での生活をしてきた。したがって、この一連の祖父の館の生活状況は、少年をして『これが東京なんだ。』と思わしめるのに十分過ぎるのだった。

 床に入っても、騒がしくて寝つけない少年は、ふと、つい先頃まで住み続けてきた大阪のことを思い出すのだった。
 ------- こんな時間やったら、みんなとっくに寝ているはずや。聞こえるんは、周りの畑で鳴く虫やら蛙やらの声だけや。そや、十姉妹かわいがってた、運ちゃんは何していはるやろ。仕事が済んだあと、よう、いっしょに十姉妹のえさ採りに行きよった。『やそちゃん。柔いのやないとあかんで!』って言いよったなあ・・・。

 大阪の郊外も次第にベッドタウン化が進む時代であったが、少年が在住する頃は開発直前で、農地や自然がそのままにされていた。登校に子どもの足で小一時間要した小学校に通っていたが、その途中は大半が田園風景でつながっていたのだ。少年は、そんな風景を想い描きながらうつらうつらしていったに違いなかった。

 祖父の館の朝は遅かったが、祖父の兄にあたる米叔父さんと、間借り人の井沢さんというお爺さんだけが別であった。
 井沢さんは自炊していた。夜明け前、一人分の小さな釜に米を入れ、背を丸めて階下の炊事場へと降りてゆく井沢さんと、トイレに起きた少年は時々出会った。そんな井沢さんの自慢話は息子さんであった。
 「こんな本読むかね?」
と言われて、少年は『資本論』を複数冊もらったこともあった。息子さんは、もう長い期間入院し、神経の病の治療をしていると、後日誰かから聞かされた。
 人が良く、やさし過ぎる米叔父さんは、この祖父の館では異邦人的な存在であったかもしれない。女の子向けの装身具の玩具を、内職といった規模で作っていた。
 冬のある日、何ということもなく米叔父さんの部屋へ遊びに行ったことがあった。火鉢の脇で作業をしていた叔父は、それまで根を詰めていた面持ちをにわかに崩し、
 「おっ、どうした?元気か?そうさなぁ、あいにく何もなくてねぇ・・・」
と言いながら、卓袱台の上の小さなガラスの醤油入れを手にとった。
かと思うと、火鉢の炭火に醤油をひたひたと注いだのだった。
叔母や、いとこたちは笑って見ていた。
やがて、部屋中が、まるで祭りの屋台の間近にいるような、香ばしい、うれしくなるようなにおいに包まれていったのだった。
 少年の目には、こんな米叔父さんの姿が、ささやかな晩酌だけで自足し、人生を達観し、さびの効いた深い知恵を秘めている大人として映ったものだ。
 祖父を筆頭としたこの館全体が、派手な「金銀光物」であるのと、この米叔父さんの「いぶし銀」は実に見事に好対照を成していた。また、運と不運とのめぐり合い方という点から見ても、くっきりとした対照を成していたかもしれない。

 こうして少年は、秋からの新しい小学校への転入前二、三週間で、様々な人々に出会い、新体験を折り重ねることになったのである。後日、反芻することで初めてその真意を掴むことになったとはしても、まばたきする間もない速度で、多くの貴重な予告編を見たと言えるのではなかっただろうか。

 言葉の問題、大阪弁口調に関しても、祖父の館の中でのこの期間の生活が、多くの示唆と矯正を与えていたのだった。どんなイントネーションがおかしく聞こえるのかも、親戚の女の子たちが率直に笑うことで伝えてもらっていた。もっとも、少年の母は東京品川の出身で、嫁いで大阪に向かったため、元来、イントネーションに東京の響きを残していた。子どもたちがいち早く大阪弁口調を脱ぎ捨てることになったのも、そうした背景があったからかもしれない。

 なお、少年はこれ以後の七、八年間をこの祖父の館で暮らすこととなる。
その期間はちょうど昭和30年代と重なり合うのだが、さらに多感な少年時代とも見事に重なっていたのだ。
 それにしても、祖父の館の特徴と、昭和30年代の特徴は、実に共通していたかもしれなかった。
まどろっこしい「深さ」を端から求めず、「かたち」や「楽しさ」を直感的に追求した時代と人々!
ぐんぐんと這い上がり始めた見栄え良い成果が、人々のエネルギーを鼓舞し、さらにそれらを絡め取り推進される最大動員!そして更なる拡大といった、好循環始動の時代!
ただ、その陰には、負の遺産の萌芽を、余りにも無造作に積み残してもいったのだ。
「開かれた明日」という空気を誰も疑わず、現在が不遇な人々でも、明日を疑うことだけはしなかった、そんな時代ではなかっただろうか。

 少年は、「それら」と同調し、あるいは拒絶し、両極を揺れ動きながら、この時代を生きてゆくのである。

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このページは、yasuo hiroseが2008年5月28日 10:59に書いたブログ記事です。

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