第四話 かもめたちのすみか

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 第四話 かもめたちのすみか



 北品川界隈は、現在でも映画のロケに使われているようである。都心からさほど遠くはなく、それでいて古い木造民家が残り続けているからだろうか。下町の雰囲気と、さらに言えば場末のうら寂しさが残存しているからだろうか。
 昭和三十年代の八ツ山下は、古く、そして朽ちかけたような木造家屋がさらに多くひしめいていた。だが、一向にうら寂しさはなかった。子どもたちの声がいたるところで響いていたからである。
 当時、ここを訪れた日活青春映画のロケ隊は、場末には違いなくとも、きっと何か活気を秘めたイメージを掴み取っていたのかもしれない。

 祖父の館も十分に古さを誇示していたが、向かい側の八ツ山莊も十分に、りっぱに古かった。
 そして、すでに集合住宅となってはいたが、作りは旅館風であった。多分、この界隈にはめずらしくなかった「土蔵相模」に類する姑楼の名残だったのであろう。
 ここのほかにもこうしたかたちの集合住宅が、少年の登校路に二、三個所残っていたのが北品川であった。宿場街であるとともに、落語にも登場する江戸時代の名だたる遊郭であった品川の、歴史の遺産だったのであろう。
 もちろん、当時の少年や子どもたちは、そんないきさつを知る由もなかった。

 八ツ山莊の東側、祖父の館に面した側の二階には、長い廊下が走っていた。外側には中程に手すりがあったが、全面ガラス戸であしらわれていた。そして、常時そのガラス戸は開けっ放しとなっていた。
 戸外で遊べない雨の日、少年は窓に腰掛けて八ツ山莊の廊下をまるで舞台を見物するように眺めた。同じく戸外で遊べない小さなかもめたちが、廊下を走り回っているのがよく見えたのだ。
 ガラス戸側の中央の柱に向かって、腕で眼を隠す子が鬼なのであろう。他の子どもたちが廊下の左右に散っていった。鬼の子どもが数え終わると左右をきょろきょろし、そして左側へ向かって走り去る。誰もいなくなった廊下を、猫が悠然と歩いてゆく。
 と、まもなく右側から、先ほどの子どもたち数人がバタバタと走って戻って来た。全員が見つかった模様なのである。そしてまた、別の子が、柱にむかって腕で眼隠しをし始めた。
 少年にとって、雨の日の暇つぶしとしては、持って来いの舞台見物なのであった。
 鬼ごっこが終わると、メンコが始まった。男の子たちは、メンコを入れたボール紙の小箱を持ち寄り、「舞台」中央に座り込み、やがて、ペタンペタンと打ち始めた。

 見ていて飽きない少年だったが、ただひとつ気に掛かることがあった。
 この八ツ山莊の中がどうなっているのか想像できなかったからである。子どもたちの動きから推測するに、廊下は、どこか向こう側でひとつになっているに違いないが、どんなふうになっているのか、興味がつのってゆくばかりだった。
 そんなある日、この気掛かりを晴らす機会が訪れたのだ。
 「これは、多分、八ツ山莊の住人じゃないか。元から住んでいる佐藤は、うち以外にないからな。女の人宛てだよ」
と、祖父が、間違って配られた封書を手にして首をかしげていたのだった。
 「やすお、持って行ってやんな」
と祖父が言い終わるか終わらないうちに、少年はその封書をひったくるようにして外へ飛び出したのだった。これで、八ツ山莊の中を大えばりで歩き回れると確信したのだった。
 正面玄関は、廊下とは反対側にあった。かつて、玄関前には庭があったのだろうが、既に、建物に変わり、中華そば屋とパン屋が店を出していた。それらの脇の路地を進むと、旅館の玄関のようなところに行き着いた。正面に、広い階段があり、その左右両側に廊下が伸びていた。
 少年は、思いの他広いことに驚き、ややうろたえた。玄関に郵便受けのようなものもなかったのだ。おまけに食事時なのか、廊下を歩く人影もなかった。廊下の所々に、さほど明るくない裸電球が、薄汚れた傘をかぶってぶら下がっていた。その明かりで、廊下側が襖で仕切られたそんな各部屋がいくつもつながっていて、襖の上の鴨居に表札替りの名札が貼り付けてあることが分かった。
『これじゃ、一部屋一部屋探すしかないか・・・』
と、大変そうに思いつつ、また逆にわくわくする気持ちも湧いていた。
『そうだ、あの廊下がどうなっているのかを先に調べなくちゃ。』
と思い直し、みしみしと音を立てて、広い階段を上った。
 よその子が何しに来た、と咎められはしないかと思い、封書を見えるようにぶらぶらさせながら持ち、
 「佐藤さん、佐藤さん・・・」とつぶやきながら、廊下を歩くのだった。
 時折、部屋の中から子どもの騒ぐ声が聞こえてきた。隣の部屋の子を迎えての夕食といった状況だろうか、
 「今度は、ぼくが食べにいくからね」
とか叫んでいた。
 開け放した部屋もあった。老夫婦が、時々見かける例の猫にえさをやりながら食事している光景が覗けた。
 そして、廊下は、やはりつながっていたのだった。いやそれどころか、ぐるりと一周できる上に、中央にも走っていたのだ。子どもたちが隠れながら走り回るのにうってつけである。 そうか、そうかと少年はひとり納得顔となるのだった。

  結局二階に、封書の受け取り人はいなかった。しかたなく正面の階段に戻った時、割烹着を身につけたお母さんふうの人に出っくわした。
tegami.jpg 「すみません。佐藤さんの部屋はどこですか」
 「えっ、佐藤?そんなうちはないはずだけど・・・、あっ、そうそう、一週間前に引越してきた親子がいるから、ひょっとしたらそこかもしれないね」
 教わった場所は、一階の祖父の館側の隅っこだった。
 真新しい紙切れに「佐藤」とだけ書いたものが、鴨居に画鋲で止めてあった。
 「ごめんください」
という少年の声で、黄ばんだ襖が開いた。お母さんらしい人が顔を出した。髪が乱れ、お化粧もなく、疲れたような様子の人だった。
 覗き見える裸電球ひとつの四畳半の部屋は、閑散としていた。母親と食事中だったのであろう、小さな卓袱台に向かって、少女が向こう向きで正座していた。少年が事情を話し始めると、少女が突然振り向きながら言うのだった。
 「あっ、お父さんからね」
 その少女と顔を合わせ、少年は、胸がドキッとするのを感じた。じつに美しい、大人びた顔つきとしぐさだったからである。裸電球の明かりで、なおのこと彫りの深い目鼻立ちがくっきりとして見えた。大きな眼は憂いさえ含み、話し声もしっかりとしていた。
 少年は、もうしどろもどろになっていた。親子は、手紙を届けてくれた少年にこころを許したのであろうか、神戸から一週間前に引っ越して来たこと、父親はまだ神戸で働いていること、来週から、台場小学校へ転入すること、何と少年より一学年下の三年生であることを、話すのだった。
 卓袱台の上の夕食は、食器の数も少なく実に粗末に見えた。座布団さえなく、少女と母親は、磨り減った畳に正座していたのだった。
 何かを、いつかを待って我慢しているような雰囲気が、少年には感じられた。さらに、自分と同じようなこんな境遇にありながら、こんなに素晴らしい子がいるということをとてつもなくうれしく思えた。
 玄関で、脱ぎ捨てていたズックを履きながら、少年は真顔で、あの子に何かしてあげられないものかとしきりに考えるのだった。しかし、何も思い浮かばなかった。

 その後、八ツ山莊に入る機会はなかった。それは、気取った近所の大人たちが、そこを蔑んでいたからなどでは決してなく、自分の眼で、建物の構造のみならず、すべてを確認できたからだったかもしれない。
 子どもたちは、むしろ一日中廊下伝いに仲間と遊べることに幸いを感じていること、大人たちだって互いに融通しあって助け合っていること。要するに時代劇で登場する人情長屋の現代版だったのだ。さしずめ、あの美しい少女は、よんどころなく浪人となった、いとやんごとなき侍を父とする娘なのかもしれない。

 さて、当時相変わらず夕刻になると、少年は夕飯のおかずを買いに出かけていた。主婦が持つ買い物籠はさすがに恥ずかしいため、小さく仕舞える皮製の網状になった袋を愛用していた。
 頻繁に行く先は、K乾物屋であった。
坂上の旧街道までのほぼ真中の距離にあり、肉や野菜以外は大体何でも扱っていた。現在のスーパーが主流となる前は、こうした乾物屋が重宝がられていたのである。
 このお店にも、台場小学校のかもめ、いや同級生がいた。クラスは違ったが、女の子がいた。
時々店番を手伝っていて、少年が出向いた時、自信有り気に対応することもあった。
 かっこよいものを買うわけではなく、
 「くじらベーコン百グラムと、厚揚げ二枚、それからべったら漬け半分ください」
などと注文することが、少年は何だか恥ずかしいと思うこともあった。
 しかし、ある時、ひょっとしたら先方も、惣菜を測ったり、漬物樽に手をつっこんだりして応対することを、実は、恥ずかしいと感じているのかもしれないな、と相手の立場になって想像したことがあった。
 坂上の八百屋さんのかもめに対しても、そうしてみた。そうすると、何かが変わってゆくようだった。
 台場小学校のかもめたちは、確かに北品川商店街の子どもたちが多かった。
 少年は当初、商店の子どもたちを、自分とは境遇が異なると勝手に思い込み、違和感を抱いていたものだ。
 しかし、小さなかもめたちが大人に混じって、商売の手伝いをする姿をいたるところで目にするにつけ、次第にその違和感を解き始めることになった。
 忙しい時は、自分のように勝手に遊ぶことができなかったかもしれないと想像すると、なおのこと許せる気持ちになったりしていたのだ。
 「店と、学校とどっちが大事なんだ!」
とどなられ、明日に迫った試験に備える勉強時間を、店の手伝いに回さざるをえなかった、という話が、少年の母親の娘時代の昔話としてあった。奇しくも、北品川商店街で祖父が料理屋をやっていた当時のことだったという。
 台場小学校のお店屋さんかもめは、華やかそうに見えて、結構辛かったに違いないのだ。

 おまけに、もっと大きな問題がゆっくりゆっくりと近づいていたのであった。 昭和三十年代を通し順調かと思われた小売業は、スーパーその他の量販店の相次ぐ出現に伴って、その後、長期低落傾向へとずぶずぶとはまり込んで行くことになってしまうからだ。
 折りしも、かもめたちが中学を卒業し、職業選択を意識し始める頃、次第に小売業、いや自営業全体に暗雲が立ちふさがり始めるのであった。

  後日談となるが、少年が大学へ進み、京浜急行の大森町で三畳一間のアパート暮しをした時のことである。親戚の人がそこで小さな鉄工所を営んでいて、アルバイトの手を必要としていたからだった。
 偶然、大森町の駅前通りで、N君と出会った。N君は、台場小学校のみならず城南中学校も一緒であった、まじめで優秀な友人だった。
 「じゃ、今は、アルバイトしながら考えているというわけだ」
と言い、私は、狭い部屋の片隅に置かれた電気ポットで、二つのカップに湯を注いだ。
 「おやじの職人技術は、定評があるんだけど、今時、頼む人が少ないからね・・・」
と、彼は、煙草に火をつけながらつぶやいた。
 北品川には、小売商店のほかに、いわゆる職人技術を生業にしてきた家もかなりあった。宮大工、船大工、左官職などである。N君の家は、色彩を交えた特殊な左官業を営んできており、彼も後を継ぐ予定で、大学への進学をあきらめていたのだった。しかし、家業が思わしくなく、アルバイトをしながら、今後の進路を思い悩んでいるところだということなのだ。
 「職業選択って、結構やっかいなもんだよね」
煙を吐きながら、言った彼の言葉に、私は黙ってうなずいていた。

 人生は、トランプ・ゲームそのもののように思えてならない。
 どんな境遇であっても、素直に、楽しくそれらを受け容れていく子どもたちのように、配られたカードは、良くも悪くも甘受するほかなく、ゲームは開始されてしまう。
 それしかないとも言えるが、それでいいとも言える。配られたままで、絶対に勝てることがまずないように、配られたままで、確実に負けるということもまずないからである。
 かもめの子どもたちも、どんな空間をすみかとしようが、すみかがどんな環境であろうが、素直にそれらを是認していた。恨むことなどしないどころか、それらを楽しみに変える場合さえあった。
 たとえ、ゲームと同様、序盤から中盤に進むプロセスに悪戦苦闘が待ち受けていようとも、さしあたっての彼らは、いとしいほどに前向きとなっていた。
 こざかしい大人たちは、すぐにもこう反論するかもしれない。
 子どもたちは思量がないから、文句を言わないのだ、と。
 では、子どもたちに、小ざかしい思量が端からあって、未知に挑戦する以前に、文句を並べたてていたらどうなるというのだろうか。大きな大人と、「小さな大人」だけの世界は、先入観と臆病さで、すぐにでも滅びてしまうのではなかろうか。
 子どもたちは、世界を歓ぶ天才としてこの世に登場するのである。大人たちに、偏見を打ち破る勇気を与えるために登場するのだ。
 天才たちの手にかかれば、大人たちの絶望と倦怠の空間は一変してしまう。
 むしろ、天才たちにとっては、こざかしい思量や分別こそが理解しがたい足枷となるのである。
 では、一体、天才たちが切実に必要とするものは、何なのであろうか。大人たちは、それにどう応えたのだろうか?そして、応えてゆくべきなのだろうか?
 ゲームのルール自体さえもが、急速に変わろうとしている今、むしろ、大人たち自身が、自分で自分につけてきた数多くの足枷の、小さなひとつでもはずすことが、先決問題と言えば先決問題に違いないのであるが・・・

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このページは、yasuo hiroseが2008年5月28日 11:26に書いたブログ記事です。

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