第五話 かもめたちの飢え
世界を歓ぶ天才の子どもたち!かもめたち!
罠に落ちないよう気をつけるんだ!
大空を舞う動機は、空腹を癒すことだけではなさそうだ!
世界を歓び続けること自体に目的がありそうだ!
「ジョナサン」(※)のようではなくとも・・・
※リチャード・バック『かもめのジョナサン』1973、食べることより、いかに速く飛ぶかに挑戦した一匹のかもめの物語。当時、ベストセラーとなった。
「やすお、じいちゃんの話も何かの足しにするといい」
日曜大工の休息時、祖父は、熱いお茶をすすりながら、作業を手伝っている少年に話していた。
「じいちゃんの母ちゃんはな、じいちゃんがお前よりももっと小さい時に、・・・」
と、祖父は言い含めるように話し始めた。
米沢の貧しい農家であったため、祖父の母親は、祖父が貧しさにいじけることを懸念して、財布に石ころを詰め、「いいか、うちには、こんなに銭がいっぺえあんだぞ」とのパフォーマンスをしたのだと言う話だった。
「ふーん。そうだったの」
と相づちを打つ少年だったが、分かったようでもうひとつ分からなかった。
その時だけそんなパフォーマンスをされたって、じいちゃんは、自分ちがとんでもなく貧乏だったっていうことを知ってたんじゃないの?と尋ねたかった少年であった。
しかし、お茶うけの菓子をいっしょに食べさせてもらっていることもあってか、少年は黙って聞いて、黙々と菓子を食べるのだった。
よく「貧乏教育(?)」で議論されるテーマだったのだ。
祖父のような話に持ってゆくか、むしろ真実を伝えてたくましく育てるのか、というような際どい議論ではある。
しかし少年は、祖父が機会があれば語り出す貧乏観や出世物語に対して、正直言ってやや距離を置いていた。親戚のほかの大人たちが、「浪花節!浪花節!」と内緒話のしぐさをしながら言っていたことを耳にしていたからかもしれない。
だが、実際のところ、単純過ぎると思えたのだった。とりわけ、気になったのは、祖父の頭の中に、端的に表現すれば「金持ち=努力家、有能!」、「貧乏=怠け者、無能!」という図式が出来上がっていると思えたことだった。
努力していろいろなものを手にした祖父を偉いと思ったが、米叔父さんのような大人の世界の不思議さ、奥深さを想像させない点が不満だったのだ。
大工作業の後の庭を掃きながら、
「子どもの頃、じいちゃんはな、よその家の旦那が自分の家の庭をこうやって掃いているのを見て、いつか自分もそうしたいと思ったもんだよ・・・」
とまで言われると、
『やめてくれよ、じいちゃん!』と少年はこころの中で叫んでしまうのだった。
確かに、少年は内心「愛の貧乏脱出大作戦」を展開していたはずだ。祖父とは時代もやり方も違うが、貧乏であることを、逆にスプリングボードにして、大空目指して飛び上がることを想い描いていただろう。
「パパは何でも知っている」の家庭のような、一軒家に住み、クルマを運転し、電化製品に囲まれ、そして何よりお金の心配など家庭内の会話に出てこないようなイメージを望んでいたはずである。
しかし、次第に少年のこころの中は複雑になり始めていたのかもしれない。自分が金持ちに成れさえすればよいという単純な物差しだけでは足りなくなりつつあったのだった。
少年は、人一倍我(が)の強い性格だったが、強い感性はまた同情心にも連なっていた。いろいろな事情があって貧乏になってしまう人々が大勢いることを、うすうす気づき始めていたのだ。
また、どうも、貧乏だとか、金持ちだとかという尺度とは関係ないところにも、楽しさや、うれしさがいろいろありそうだと、嗅覚を働かせ始めていたのかもしれない。
「あっそうか」
と言っていろいろな新しいことに気がつく勉強も好きだったし、自分の考えで自由に進められる絵を描くことも、好きでならなかった。お習字も、自分から習いたいと母親にせがんで、毎週日曜日に、南馬場まで通わせてもらった。
さらに、それらの結果が、通信簿であれ、賞状であれ、周囲から誉められればなおのことうれしかった。
また、わずかな小遣い銭でも不自由を感じない遊び方を得とくしてもいた。
次第に子どもたちの遊びの中に、高額のおもちゃ商品が割り込み始め、子どもたちの自給自足体制を切り崩しつつある時代ではあった。だが、少年はモノ作りの器用さを発揮して、頑固に自給自足を貫いていた。
幸い、祖父が大工作業を趣味として、物置には大工道具一式が揃っていたし、木材のはぎれもふんだんにあった。
さすがに、自転車までは作れなかったが、後日モノクロ・テレビが全盛の頃、しばしば生じた大抵の故障は修理してしまい、悲観主義者の父親を多いに喜ばしたものだった。
貧乏に、本当や嘘があるのかどうかは知らないが、本当の貧乏の苦しさからは、両親によってかばってもらっていたというのが事実であったかもしれない。
とりわけ、母親は、今で言うパーフェクトな「根あか」であり、実のところ深刻そうな顔つきを思い描くことが難しいくらいである。
「お父さん、そんな貧乏たらしいことばかり言わないの!」
と、母親が、堅実だがどうみても悲観的な考えに傾く父親に、しばしば食い下がっていた場面が思い出される。
少年が、本当の貧乏ということばで思い起こすのは、大阪の小学校低学年当時のS君の家庭であった。
「せんせえー!また、Sさんが悪さしよる!」
と、同級の女の子が、泣きながら廊下へ飛び出して来た。
バケツを片手にしたS君が、教室の真中で仁王立ちになっていた。
周辺の女の子たちは泣き、男の子もおどおどとしている。床は、水浸しとなり、雑巾が散らばっていた。バケツの水をぶちまけていたのだった。
机などを教室の後方に寄せ、皆で掃除をしている最中の出来事だった。
少年は、廊下の清掃を受け持っていたが、教室に飛び込んだとたんに、何が起きていたのかすぐに分かった。
これまでに、S君は、皆のいやがることばかりを、まるで考え抜いた結果のように、手を変え、品を変えやり尽くしてきていたのだった。
S君は、いつも、そでがテカテカとなり、つぎはぎだらけとなった窮屈な学生服を着ていた。
頭は丸坊主にされ、うすら笑い以外には笑わず、きつい顔をしていた。誰も近づこうとしなかった。
以前から、少年は、彼と何度も取っ組み合いのけんかをしてきた。このことも不気味なのだが、彼の得意技は、馬乗りになった後、相手を押さえ付けながら、うすら笑いをして口から唾を相手の顔に垂らすといった信じられない技だったのだ。
少年も、かつて不覚にもこの技にはまったことがあり、少年とて、S君は大の苦手だった。けんか相手としては、できれば避けたいと望んでいた。
しかし、許せない!という衝動がとっさに走ってしまった。
「自分で拭くんや!皆に謝るんや!」
と言いながら、少年はS君に近づいていった。
そんなことばが通用するはずがないことは分かっていた。宣戦布告のつもりだったのだ。
案の定、ゆがんだうす笑いを浮かべたS君は、やはり、いきなり手にしていたバケツを振りかざしてきた。
その後、どう展開していったかの詳細を少年は覚えていない。ただ、机の角に額をぶつけ、顔中血だらけにして泣き叫ぶS君の姿と、硬直して立ちすくむ少年自身の光景が、今でも記憶に焼きついているのである。
一両日して、少年は母親に連れられてS君の家に謝りにゆくこととなった。動機が何であれ、怪我をさせてしまった以上そうしなければならないということだった。
雨降りの日だった。
ようやく、住所の番地でたどり着いた家は、見るからに粗末なあばら家だった。玄関などはなく、ガラス戸がその替わりとなっていた。
普段になく恐縮していた母親が、S君の母親に謝っていた。S君の母親は、やせて、弱々しい感じの人で、うちの子は迷惑ばかりかけているとか、父親が家をあけてばかりいるとかを話していた。
お詫びといって持ってきた菓子箱を、母親が差し出した時、物陰からS君が姿を現した。まるで鉢巻のように、額に白い包帯を巻き、何と背中に赤ちゃんを背負っていたのだった。
おまけに、S君の後ろには、鼻水を垂らした弟らしい小さな男の子が、S君の腰にしがみつきながらこちらを覗いていた。
足元の畳は、もはや畳とは言えないほどに、表面が剥がれて薄汚れていた。まだ昼過ぎだというのに、部屋は薄暗く、雨漏りを受けるように、洗面器やなべが並べてあった。
少年は、母親から謝ることを促された。
「かんにん。痛かったやろ。かんにんな」
と、か細く言って、頭を下げた。 S君の顔を覗きこんだ時、彼は初めて子どもらしくはにかむように笑ったように見えた。いつもの学校での顔とは別人であるかのようであった。
帰る道すがら、ハンカチを目や鼻に押し当てて、しばらく口を開かなかった母親が、ポツリと言った。
「かわいそうな子なんやから、仲良くするんやで。ええな」
少年は、素直に頷いた。そして、そう言われれば、S君のお弁当が、いつもコッペパンひとつだけだったかもしれないことに気づいたのだった。
その後、母親は何度かS君の家へ向かったようだった。菓子のみやげだけでなく、S君の弟向けに、少年が小さくて着られなくなった衣類なども持って行ってあげたようだった。
きっとS君は、耐えようにも、忘れようにも、それができない貧乏の苦痛に、もがき回っていたに違いなかったのだろう。そして、何十年経った今でも、記憶に焼きついているS君の歪んだ顔つきや、執拗な嫌がらせの正体は、実は執拗にS君にからみついていた貧乏という悪霊だったに違いないと思うのである。
台場小学校に転入してからも、少年は、売られたけんかを買ってしまう方だったが、どういうものか、けんかを売る同級生は、S君のようではなくともお腹をすかしているかもめだと見えたので次第に萎えてゆくのだった。
貧しさと、豊かさの問題は、いつの時代になっても姿を変えて現れる、終わりのない回り灯篭のようなものかもしれない。
いうまでもなく、充たされない空腹や欲しいモノが手にできないことだけが、貧しさと貧乏が立ち現れる姿ではない。現に、現代は、食欲とモノに飽きた世代に、真っ白な空虚感や飢えが広がっていると見える。むしろ、この現代の問題の方がはるかに深刻だと思えてならない。
その意味では、昭和三十年代の少年たち、かもめたちは、モノの世界での困窮や飢えという、ある意味では立ち向かい易い敵のみを相手と見なしてきたのかもしれない。
侮れない貧しさとは、モノの欠乏を芯としながらも、傷つけられた自尊心、剥奪された自由な時間、自己実現の機会喪失、閉ざされた他者との交流などが、幾重にもからまって重層構造を成していたはずである。S君の「執拗な」いたずらは、そのことを裏側から照らし出していたのではなかったか。
「団塊の世代」のかもめたちは、貧しさや飢えの自覚をどこまで煮詰めたのだろうか。
折りしも、消費ブームという、モノへの欠乏感を有効に刺激して、商品を購入させるといった大作戦が、テレビという水先案内人によって、大々的に繰り広げられる時代を迎えるのである。
テレビでは、一足先に消費社会へ歩を進めたアメリカのドラマが、欲しいモノの商品一覧を案内するかのように、モノへの意欲を刺激したし、もちろんコマーシャルは、視聴者の頭の中を欲しいモノだらけにしていったと言えよう。
人生の生きる動機や目的を、所得の向上、経済的な地位向上だけに絞り込むことを誰も警戒しなかったかもしれない。その目的達成のためには、どんな犠牲も惜しむなという挑発さえ、自然に受け入れられてゆくのである。
魚群の影は、永遠に周回し続けるのだと、かもめたちは信じた。その魚影を、群れで追っていさえすれば、一生が安泰だと信じ込んだ。リストラなどというカタカナ四文字で、群れに貢献してきたつもりの自分が、簡単に群れから外されることなど、どんな悲観的なかもめでも想像しなかったはずである。
もちろん、飽食の時代のジュニア世代がどうなるのかを懸念する余地など毛頭なかった。
「衣食足りて礼節を知る」ということばは、事実認識ではなく、希望的推定でしかなかったのだ。空腹という飢えが遠のけば、モノへの欲求しか持たないかもめであれば、何も考えないどころか、群れの規律に対してさえ緊迫感を失ってゆくのが道理であろう。
「団塊世代」のかもめたちは、いったい何に飢え、それを自分なりにどう理解していったのか、いかなかったのか?どうも、その結果を、今苦々しく刈り取っているように思われてならないのである。
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