第六話 中年かもめたちの癒し

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 第六話 中年かもめたちの癒し



 「もしもし。夜分すみません」
 「はい、Mでございます。はいはい、廣瀬くんね?」
 「えっ、そうですが、どうしてわかりました?」
 「わかるわよ。あなたの声くらい。そうそう、先日はきれいなハスの写真をありがとう。プロなみねぇ。確か、大賀ハスよね」
 「そうなんです。最近は、カメラが息抜きでして、散歩の際には持ち歩いています。町田には、大賀ハスのハス池がある薬師池という公園がありまして、その写真は朝四時半に出かけて撮ってきました」
 「ハスは、早朝にしか咲かないそうね」
 「そうなんです。で、電話しましたのは、ほかでもないのですが、先生は、来週の月曜の夕刻、予定が入っていますでしょうか?」
 「どうして?」
 「実は、来週月曜の午後、仕事のセミナーが雅叙園でありまして出向くものですから、もしよろしければ、目と鼻の先の先生のお宅に寄らせていただこうかと思いまして」
 「へぇ、そうなの。ちょっと待ってくださいね。スケジュールを確認してみるわ」

 M先生が、台場小学校の五、六年生時代の学級担任だったのは、もう四十年も昔のことである。
 毎年、年賀状は欠かさず出してきた私だった。また、出不精な私であったが、当時の学級のクラス会には出席するようにしてきた。久しぶりに開かれた二、三年前のクラス会にも出席した。
 最近は、以前になく電話をする機会が重なっていた。そのきっかけは、当時の同級生のTであったかもしれない。
 思えば、Tは十年ほど位前から、突然に電話をしてくるようになっていた。しかも、深夜二時、三時とお構いなく、おまけに泥酔の状態でかけてきていた。普通のサラリーマンなら、すぐにでも拒絶反応を示すところだっただろうが、深夜まで仕事をする習慣があった私は、当初、別段迷惑がらずに対応したりしていたのだ。
 また、こちらは結果オーライではあったのだが、二、三年前のクラス会も、Tがせがむことに触発されて皆が集まることになったといってよいかもしれなかった。
 何かと日常の雑事に、はまり込む中年ともなれば、どんなに懐かしい気持ちが片方にあろうとも、特別の記念的意味でもなければ、何十年ぶりかのクラス会などは実現するものではなかっただろう。
 そして、その後、Tからは定期的にと言えるような間隔で電話が入り、さすがの私も、ようやく辟易とするようになっていた。
 私がいらだつようになってきたのは、かけてくる時刻もあったが、泥酔のため会話が自分本位のワンウェイで、何よりも、当時の昔話のみに固執することからだった。
 「廣瀬よー。あん頃は、良かったよなぁ。あん頃から、お前のことは好きだったよ。俺んちは貧乏だったから、弁当持ってゆく時は、飯とふりかけだけだった。廣瀬のとこへのぞきに行ったら、ウィンナ・ソーセージが入っていてよ。そしたら、廣瀬が、一本くれたんだよな。あれはうまかったなぁ。そいで、俺は廣瀬の子分になろうって思ったんだよ」
 という話などを、何回となく聞かされるのだった。私は桃太郎ではないぞ!おまえだって猿やきじではなかっただろう!第一、当時は給食だったじゃないか!などと電話口で叫んでも、
 「廣瀬は、いい奴だったよなぁ」
という、ぬか釘だったのである。
 Tからの度重なる電話が執拗になっていったこと、そしてそれに対し、私が次第にいらだちを隠せなくなっていった経過は、思えば、Tが次第に私生活を行き詰まらせていった経過、そして私自身、不況で仕事に神経をすり減らさざるをえなくなっていった経過と、同時進行であったのだ。
 だから、Tの自分勝手さを手厳しくとがめ、電話を切ったすぐあとで、あいつも寂しいんだろうな、言い過ぎたかな、と思ったりした。
 そして、Tからの相も変わらぬ電話に、対応することを続けてきたのだった。
 しかし、迷惑さや、酒を程々に抑えるべきだという忠告に耳を貸さない点を度外視しても、なお余るそんな不快感を、最近私は感じ始めるようになっていたのだった。
 それは、酒の酔いで正体をなくしているとそうなるもののようだが、目前の境遇に前向きに対処することを回避し、無理やりに人生の時間経過を引き戻そうとしているかのような言動が、やり切れなかったからだ。
 折りしも、私は、ようやく自分を含む「団塊世代」を情けなく思い始めていたのだった。
 だから眼前に、自分勝手で、傲慢な大言壮語を吐くくせして、甘ったれるといった、軽薄な団塊世代の症候群をラインアップされることが、もはや耐えられなくなってしまっていたのだ。
 自分の醜悪な部分のみを拡大する鏡に向かっているような気さえしてしまうからだった。

 「もしもし、廣瀬くん。いや、申し訳ない。何か引っかかっていたような気がしたんだけど、習っている墨絵の集いがあって、この回ははずせないのよ。午前中とかだといけないの?」
 「いや、すみません。それならまたの機会ということにさせてください。急ぐ話があるわけでもありませんので」
 私は、やや失望していた。
 しかし、M先生がこの年になって、といってもM先生の正確な年齢を確認していないのだが、スケジュールを立てて暮らされていることに驚き、感心したのだった。
 「廣瀬くんは、絵が上手だったけど、今は写真をやってるの?」
 「現在のような時代は、仕事とは別に、熱っぽくなれるものというか、感動できるようなものを意図的に創っていかないと、ガス欠になってしまいそうな気がするんです。風景や自然からは癒し(いやし)が与えられます」

  自分で口にした「癒し」ということばに、私はちょっとわれに返った。
camera.jpg 以前はさほど気に留めていなかったこのことばに、最近は切実な重みを感ずるようになっていたからである。あたかも持病の治療薬のように、日々「癒し」を見出すことを怠るなら、一週間ともたず、不測の言動に狂い走ってしまうかもしれないなどと大袈裟なことを、しらふで思っていたからだった。
 もはや、ペットの犬や猫の存在は、家庭に必須だと考えていた。
 現に、我が家には、もらったり、拾ったりした犬一匹と、猫二匹が家族皆の「癒し」担当係、担当医として、使命感を持たされて巡回しているかのようである。

 「いやし?はいはい、癒されるということね。そうよねぇー。いやなことばかりが増える環境になったわよね。現役のあなたたちは、大変だと思うわ。それで、お仕事は順調なんでしょ?」
 「ええ、まずまずと言えば、まずまずなのですが、先のことは見えないというのが実情です。もともと安定をねらって始めた仕事というより、充実感を優先させたわけですから、自分側からの働きかけと、そのためのエネルギーが大事だと思っています。
 それに、現代の仕事はいやいやでは通用するものじゃないと思っています。『好きこそ、ものの上手なれ。』というように、そのことが好きでなくては始まらないですよね。
 写真に凝っているのも、この年で、仕事に連なってゆく好きなものを広げているといった感じです。われわれの仕事のソフトというのは、テクニカルな面だけじゃ駄目だというのが持論です。それにテクニカルな面は補強が効くわけで、来週のセミナーもその関連なんです。この年でも新技術を吸収する自信はあります」
 「偉いわね、りっぱよ。昔から廣瀬くんは、がんばり屋さんでしたものね。こう見えても、私も結構忙しくがんばっているのよ。もうすぐ、英語劇の開演に備えた練習もあるし、墨絵の発表会もあるのよ。
 押しつけじゃだめなのよね。好きなことを伸ばして、周囲に働きかけるという廣瀬くんの処世術は賛成だな」
 「しかし、正直言って最近は自分自身、空転してる観が否めません。景気の悪さだけじゃなくて、新しいものが出てくるスピードが速過ぎるんです。
 バブル当時は、景気が良かっただけじゃないんですよね。それ以前の時期との継続性があったような気がします。極端に言えば、多少の能力、努力でそこそこ通用した時代だったんです。
 でも、現在はどこか違います。がんばりも十倍、二十倍も必要な上に、がんばるといったスタイルだけでは歯が立たない環境になっていそうです」
 「でも、がんばることは必要よね。特に今の子どもや若い人を見てるとそう思うわ」
 「そこなんです。われわれの世代は、目に見える、実感できる目標があったから、がんばり易かったかもしれません。
 それに対して、今の彼らは、そういう目標が目標にならなくなっちゃったんじゃないかと思うんです。変な表現ですが、『ペイしない努力はしたくない!ペイするほどの努力に値する目標はそんなにあるもんじゃない!』と見抜いちゃっているのかもしれませんよね。
 だから、好きなことを突き詰めさせてゆくことが唯一突破口のように思えるんです。
 しかし、今までのような、一元的な受験勉強と同じ考え方の教育が続くと、切れる秀才ができるどころか、『キレタ』犯罪者を増やしていくだけだろうと思うんです」
 「そう!私は、あの子たちはかわいそうだと思ってるの。当然、被害にあった人はかわいそうなんですけど、教育に携わってきた者とすれば、犯罪に走った子たちのことを考えるの。自分の居場所がなくなっちゃったような毎日だったら、か、かわいそうよね・・・。
 廣瀬くんは、徒競走を廃止した話をどう思う?走るのが遅い子はかわいそうだから、平等に扱うために、無しにしましょうという話。私は、違う!って思うの。皆、子どもたちはいろいろなとりえや個性を持っているのだから、そういう考え方は、走るのだけが速い子がいたら、どんなにがっかりさせることになるかと思うのよね」
 「へぇー、そんな馬鹿な話まであるんですか?」
 「そうなの」
 「私は、当時、先生が皆を自由にやらせて、見守っていただいたと思って感謝しています。特に私なんか、特別にお目こぼししていただいたと思っています」
 「そんなことなくて、皆いいものを持っていたものね」

 ついつい迷惑を忘れ、長話をしてしまった私は、詫びることばで電話を切った。
 多分、突然の電話対応が予定されていなかったM先生の今晩のスケジュールは、大幅に狂ってしまったに違いなかったからだ。
申し訳ない気持ちで恐縮したが、こんな話をこそ、お会いしてしてみたかったため、私には充実した気分が残ったのだった。
 ただ、もう一歩踏み込めなかった話題、つまり特別なM先生にはかばってもらったわれわれだったのだけど、あの当時の教育界の大勢はどうだったのかという点、そしてM先生はそれとどう闘わざるを得なかったのかという「業界裏話(?)」については心残りとなってしまった。
 Tとも、こんな話ができるのであれば、たとえ、やり掛けの作業中の深夜職場に電話が入っても、私は受話器を肩ではさみ、キーボードを叩きながら談笑するはずに違いない。
 しかし彼は、何という稚拙なスタイルでしか自分の「癒し」を追求できない奴なのだろうか。
 彼が、私と同様に、まったく同様に、緊急治療薬としての癒しを求めていることは、彼の現在の八方ふさがりの状況を想像すれば、百も分かるのである。
 しかし、彼は、いいかげんな時代であり、と同時に地底で大きな変化が着々と進行していたバブル時代を、余りにも外っ面だけを見て、油断、甘え、傲慢を野放しにしてきてしまったことか。

 それら悪癖の根底に何が横たわっているのかを、自身も振り返り考える時、人は皆同じなんだという同質性を主張することで、高をくくる姿勢があるように思われてならないのである。
 仮に、人が皆同じ考え、感じ方であることを前提とするなら、きわどい対話や、他者に対する詳細で、説得的な説明は、限りなく節約、省略できてしまうではないか。「よし、分かった!」のフレーズさえ使っていれば、すべての人間関係は丸く転がってゆくのである。
 そんな時代は、果たしてあったのか?
 あったと言えばあったのである。全国民がこぞって熱狂するような大ブームが頻繁に発生し得た時代、昭和三十年代である。
 「ダッコちゃん」、「フラフープ」、そしてフランク永井に始まった低音ブームなどなど。
 政治の世界では、いわゆる「五十五年体制」というかたちで、世界全体を二大同質ブロックに仕分けて高をくくったのだった。
 経済の分野では、大量生産、大量販売が急上昇したのだが、これは、大衆が欲しがるものは皆同じであるとの認識が大前提であったのだ。
 そして、やがてこれらはすべて多様化、個性化へと進むうねりの過程で、無残にも崩壊していってしまった。
 だが、この同質幻想の中で少年期を過ごした「団塊世代」だけが、後遺症を残しながら生存し続けたのである。
 「変わる!」ことを、テレビ・コマーシャルで北野武が言うのは、彼自身が団塊世代であり、変われ切れない世代と目されているから、パロディとしての意味があるのだと思える。

 Tが、酒を少し控え、世界中が個性を求めた個人の時代に向かいつつあることを、まざまざと感じ取って欲しい。
 決して、現状の世界は誉められたものとはなっていない。むしろ、感覚的には悪くさえなっている。
 しかし、子どもがいつまでも子どもではいられないように、歴史は、いつまでも個人が存在しない、そう、「餅」のようにべったりとした社会構造ではあり得ないのだろう。
 「むすび」のように、一粒一粒の米粒、つまり個人が存在を主張しながら、それでいてうまそうで、機能的なまとまりのある形へと移行しようとしているのだと思いたい。
 残念ながら現状は、米粒に粘着力がないせいか、パラパラとなった崩れおむすびでしかないと見えるのだが・・・

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このページは、yasuo hiroseが2008年5月28日 11:32に書いたブログ記事です。

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