第七話 個性尊重は至難の技!

| | コメント(0) | トラックバック(0)


 第七話 個性尊重は至難の技!



 少年は、もう「お山の杉の子」を歌わされることにうんざりしていた。
 ただでさえ、音楽だけには苦手意識を持っていた少年にとって、この歌詞を覚え、そして皆の前で歌うことは苦痛だった。旋律が、父と見にいった兵隊映画の中のそれに似ていたこともいやだった。同級生の中には、六番までしっかり暗記して自慢する子がいたのも気に入らなかった。
 しかし、五年生となって、担任の先生が、それまでの男の先生からM先生という女の先生に替わったのだった。少年はとにかくその変化を歓迎した。
 ところで、生意気だった少年は、どんな先生が良い先生で、どんな先生がそうでないかの基準を自分なりに編み出していた。それは、自分が納得して、自分を変えてくれる先生が良い先生で、自分を意固地にさせる先生はへたな先生だという一見自分本位な基準であった。
 こう表現すると物議をかもすが、要は自分の望みを尊重してくれる人が良い人であり、その人が先生であれば、良い先生だと考えただけのことなのである。先生なのだから偉いに違いないとは思い込まなかっただけなのである。
 大人びているようにも聞こえるかもしれないが、そうとも言えず、子どもでも仲間同士の自然の会話になれば当然のように出てくる対応なのであり、ややへそ曲がりとなって、タテマエに順応し尽くさなかっただけだったのである。
 やや周辺に対する評価意識が強かったかもしれない。また、幼い時に絵画を習ったり、当時もお習字を習ったりしていたため、学校の先生以外にも、先生と呼ばれる人にはそれなりに接触して、先生たちを客観視する経験が与えられていたのかもしれない。
 お習字の先生は、三人ほどいて、その日によって添削してくれる先生が異なっていた。少年が気に入っていたお爺さんの先生は、書き込んだ半紙を添削のための机に差し出すと、
 「力いっぱい書きたいんじゃな。じゃが、全部太く書いたんじゃ、力は見えんよ」
というように、少年が何を望んでいるかを見抜いた上で添削してくれた。
 別の先生は、少年のだだっ太い字の上全体に、朱筆で細く上品な自分の文字を平然と書き込み、それで終了したのだった。少年は、その先生に当たった日は、自分の不運を嘆き、しょんぼりとしてうつむき加減で南馬場から帰ってゆくのだった。
 それで、これまでの学級担任の男の先生への評価は、どうであったかである。
 えこひいきをする先生だとか言って、ぼやいていた甘ったれかもめもいたのだが、そんなことを少年は問題にしなかった。ただひとつ、苦手だった音楽がさらに嫌いとなった事実によって、合格点は出していなかったのである。

 五年生となった頃の少年は、それまでの小太りで「ひろでぶ」というあざなが言い表した体つきも、みるみる背丈が伸び、急成長していた。それに伴って、体力も急に上回り、あらゆることに自信がつき始めていた。したがって生意気さは天に達していた。

 「廣瀬くん、本当に校長先生にお手紙を書いたの?」
と、M先生は言った。M先生の表情が、冷静というより穏やかでさえあったので、少年はほっとしたりしていた。
 新学期となりしばらくした頃の、少年が呼ばれた職員室での会話であった。

 当時、校舎の玄関付近に、「提案箱」のようなものがあったのである。どんな脈絡でそうしたものがあったのかは分からなかった。ただ、少年は、何を思ってか、当時替わったばかりの新任の校長先生宛てに手紙を投函したのだった。
 当時のテレビ番組が最後に流していた、「この番組に関するご意見、ご要望をどしどしお寄せください」と一緒くたにしていたのだろうか。
 その内容は、朝礼でのお話は、いつも短くてつまらないので、もっと面白い話題にしてください、といったものだった。無記名などという方法を知らなかった少年は、もちろん署名入りで投函した。
 根拠といえば、以前の校長先生の話は、子どもが楽しみにできるほどに上手だったのに対して、新しい校長先生は実にさりげなかったこと、また、祖父や米叔父さんが、結構、聞く人の気持ちをつかむような話をしたので、年配の人なら誰でもそれができると考えていたことなどがあげられるかもしれない。出し惜しみをしないでくださいといった応援だったのであろう。
 そして、自分の投書が、朝礼での校長先生の話し振りにどう反映されるのかをひそかに楽しみにした。と同時に、もう片方で、こんなことは、してはいけなかったのかもしれない、という不安な気持ちも頭をもたげてきていたのだった。

 「廣瀬くんね。お話の仕方というものは、人それぞれ皆違うのよ」
とM先生は微笑みながら言い、あわせて、校長先生が『もうちょっと工夫してみましょう。』とおっしゃってましたと伝えてくれた。
 「先生、こういう手紙を書くことは悪いことですか?」
 「そんなことはないのよ。文面を校長先生から見せてもらったけど、廣瀬くんらしい考えがよく書けていたし、いたずらじゃないことは、私には分かりましたよ。
 自分が正しいと信じたことをすることは、間違ってはいません。
 でも、校長先生はりっぱな先生だったからよかったけれど、こういう内容が嫌いで、すぐに怒り出す大人がいないこともないのよね。ふふふっ」
 最後は笑い出していたM先生であった。少年は、何となくM先生は、女の人なのに腰が据わっていて頼もしいな、という印象を受けたものだった。
 そんなこともあって、M先生は、少年の身勝手な評価基準からいう良い先生として、早くも合格したのだった。そうなると、今度は、自分自身が、M先生の評価基準に合格してゆきたいと切望するようになっていくのだった。

 M先生が担任となって、目立って変わったのは、それまで陰口をたたいてくすぶっていた男子かもめたちが、次第にホンネでがんばるようになっていったことだったかもしれない。
 いつの時代でも、学校内に自分の居場所が見つけられない子は残り続けるのかもしれない。なぜなら、いつの時代でも、良い先生ばかりがいるとは限らず、子どもたちの知的好奇心をスポイルしてしまう「でもしか」先生は後を絶ちそうにないからだ。
 おまけに、「学級崩壊」の主たる原因を日毎生み出しているお粗末至極な家庭内教育だって、そう簡単には是正されるとは思えない。
 だから、体育の時間のみに自分の居場所を確認する子がいるとすれば、それはそれで素晴らしい出来事なのではないだろうか。

 Wというやんちゃな子がいた。登下校路でいっしょになることも少なくなかったので遊ぶこともあった。彼はとにかく身体を使って遊ぶことが好きだった。
 確か途中で危険だということで禁止になったかもしれない「うまのり」を校庭でやった時など、彼は敵を怖がらせるほど夢中になっていた。
 しかし、どうも彼は、放課後の、学校外の世界に自分の居場所を探り続けてきていたと、少年は観察していた。めんこ、ビー玉、わっかなど、勝負して取り合うことに熱狂していたのだった。かなり遠征もしていたようだった。
 そのWが、見事、学校内の体育の時間に自分の居場所を見出し始めたのであった。
 「うまのり」に通じる、跳び箱という正規の種目がきっかけだったかもしれない。

  次々と箱が、跳び箱の下に加えられていった。
j_box.jpg 惜しくも跳べなかった子は、残念賞で傍らに座ってゆくのである。座って応援する観客がどんどん増えていくのだった。少年も、二、三人に残ったが、最後の一人に残ったのはWであった。
 体育館が無い時期だったので、マットや跳び箱競技は、屋上で行われていた。冷たい風がふく、冬晴れの日であった。
 真っ青な空に向かって、冠雪を載せてそびえ立つ富士山。もう自分らの背丈に近づいた跳び箱の高さは、座って見る子どもらには、そう見えたに違いなかった。
 「Wくーん、がんばってー」
と、M先生は叫んだ。皆も応援した。助走前のスタートの位置に小さく見えるWは、手で水っぱなを何度も拭い、ありったけの緊張をしているようだった。そして、こちらへ向かって走り出した。
 踏み台がバーンという音を放った。Wは跳び上がる。そして、マットがズドッという音を立てた時、Wは見事着地していた。
 「やった!すげぇー」と男子かもめたちは騒ぎ、女の子かもめたちも興奮して拍手した。
 M先生は、Wにゆっくり歩み寄り、彼の両肩を両手でポンポンと打ちながら、
 「すごいわねぇ!Wくんは、大したものよ!」
と絶賛したのだった。
 Wは、その時、自分の望んでいた居場所以上の広さを手にしてしまった、と感じたであろう。
 また、おそらくWも、いつか少年自身が思ったように、今度は、自分自身が、M先生の評価基準に合格するようにできる限りがんばりたい、と切望し始めたに違いなかっただろう。やがて、クラスの体育委員に立候補するようになった。
 かもめたちにとっての実にうれしい転機を、このようにM先生は惜しみなく与え続けたように思える。

 個々の子どもの居場所に配慮するということは、「個性尊重」教育のことであろう。だが、小学校教育で、ただ口にするだけではなく、「個性尊重」を実践する先生は、大変なことではないだろうか。
 まず、当時は数十名の生徒を抱えたのだから、その数量だけを想像しても大変なことである。
 ちなみに、その大変さを推し量るために、多くの知人、友人に年賀状を出す年末行事を思い浮かべてはどうだろう。お茶を濁さず、それぞれの差出し宛ての人にふさわしいことばを、探して記入することはしんどく、疲れる作業ではないか。個々人に対応することを意図した作業というものは、その数が増えるととてつもなくパワーを要する仕事となるはずである。
 私は、以前、ソフト開発会社の管理職セミナーの講師を仰せつかっていたことがあったが、その際の調査では、それぞれの部下を生かす良き上司であるための条件として、まず部下の数を数名内に抑えるべきだという点が目を引いた。実感としてもそう思えた。
 二泊三日の合宿セミナーで、十数名の管理職の受講生を相手に、面談を含む個人指導に挑戦したことがあったが、とにかく死ぬ程きつくて、もう二度と引き受けまいと思ったものだ。

 「個性尊重」の教育のためには、十分な観察と、高度な想像、そして判断という、人間のいろいろな能力の中でも、最も総合力と集中力を要する頭脳処理が要求されるのである。それは、しんどくて、辛い活動である。
 とりわけ、教育者に想像力が乏しければ、被教育者の個性がスポイルされてゆく危険は避けられないのではないだろうか。個性という漠然とした対象を照らし出すためには、鋭い観察力に加えて、豊かな想像力が必須だからである。
 その点で、M先生の国語の授業は楽しみであった。教科書の教材文章をもとにして、かもめたちにありったけの想像力を要求したからである。

 「さて、このおじいさんは、なぜ、こんな大変なことを目の前にして、『放っておきましょ。』と言ったのでしょう?Aくんはどう思う?」

 「もう、いやけを差しちゃったんじゃない。いくら優しいおじいさんでも・・・」
 「そうかも知れないけど、あきらめたということなのかなぁ?他の人はどう?」

 これは、私の記憶も薄れ始めているのだが、次のような教材の国語の授業の時のやり取りだったかと思う。
 木枯らしが吹くような冬のある日、銭湯だったか、何かの工場だったかの高い煙突に、ドロボウが逃げ場を失って登ってしまったのだった。登場人物は、その家のおじいさんと、孫にあたる小さな少年だったかである。
 やがて、そのことが近所じゅうに広がってしまい、その煙突を見上げるやじうまも含め、道をうめるような騒ぎとなり、皆で知恵を出し合うのだった。警察を呼べ、放水しろと言う者もいたようだった。
 雪が舞いそうに寒い日も、やがて暮れそうになった頃、おじいさんは、最終的に、
 「皆さん、もう放っておきましょう。皆さんも、どうかお引き取りください」
と言ったのだった。
 私は、どういう脈絡かはわからないのだが、この教材と授業のことを、古い記憶の地層に輝く化石のように残している。きっと、M先生から深い想像を促されたからなのだと思う。
 後年、どんな場合でも、相手の逃げ道のすべてを奪うな、という金言に出会った時にも、その異同を懐かしく振り返ったりしたものだった。
[ 註 1 ]

 ところで、時代全体は、個性と想像力の重要性を看板に掲げながらも、反対の方向へ突き進んでいたのではなかっただろうか。
 団塊かもめたちのかなりの部分が私立中学へ進学する昭和三十五年の受験戦線は、その後の受験戦争の前哨戦であったように思う。校内での補習授業のみならず、私塾が正月から模擬試験を始める事態だったのだ。
 私は、当初から近くの公立中学への進学しか念頭になかったため、遊びたい放題であった。
 だが、親戚のKちゃんは、商業高校への段取りを目指し、中学受験を選ばされていた。どう見ても勉強が好きなほうではなかったKちゃんだったが、まるで「内職」をするようにこまめにやっていたことを覚えている。
 実際、帳簿をつける内職でもしているかのように、鉛筆で問題集の空欄を埋めては、
 「はいっ、このページは終了」
とつぶやくように言い、ページをめくっていた。
 しかし、私も公立中学へ進んでからは、夜な夜な遅くまで勉強をするようになっていった。だが、「こまめな内職」のような画一的知識の暗記が、当時の勉強だったと言える点に変わりはなかったと思う。
 個性や、想像力などの必要性は、ほんの申し訳程度しかなかったと言えよう。
 切実に想像力を必要とする場合があったとすれば、あの先生だったらどれを出題するかのヤマ賭けの時ぐらいであった。
 大量受験と大量採点という体制が進展する過程で、もっぱら採点処理の都合から、出題パターンは固定化の一途をたどっていったに違いなかったのである。
 こうなってくると、模擬テストや参考書、さらに授業さえも、その提供に携わるのは、先生と呼ばれる人でなくともよくなってくるわけだ。そして、ビジネスとしての受験産業展開の流れが、にわかに水量を増していくのだった。
 教育の空間は、画一的知識の小売の場としての学校と、卸売りの場としての塾その他へと急速に変貌を遂げていったのかもしれない。
 言うまでもなく、個性、想像力を伴わない紋切り型の知識とその寄せ集めの教育からは、創造性の発揮できない人材、いやそれ以前に自律性の乏しい人間しか形成されてゆかざるを得ないだろう。
 結局、時代の要請でもあった大量生産、大量販売を支える人材を大量に供給していったのだ。
 そして、これらを担っていったのが団塊世代だったのである。
 高度経済成長による追い風もあってか、団塊世代はそうした画一的資産を何ら疑うことなく増幅させ、時代の要請に、嬉々として応えていったと言える。
 そして、「悪貨は良貨を駆逐する!」ということわざにもあるとおり、一度、団塊世代で試されてしまった画一教育体制は、巨大な受験産業を副産物として巻き込んでいたこともあり、その後も是正されずに継承され続けたと思われる。
 今、教育の場は、言及するには及ばないほどに問題山積の状況のようである。
 そしてまた、急速に実現されてしまった国際化を反映して、あらゆる領域で、求められる人間像、人材像が劇的ともいえるかたちで変化を迎えている。
 個性と多様性とが前提となった創造的人材への急旋回だと言えるだろう。
 「次善策」として止むを得ず構築されたのであろう、団塊世代から始められた画一教育は、一刻も早く撤回されるべき筋合いのものだと思えてならない。
 そうでなければ、創造的分野へ参入する人材は育ちようがないと思われる。
 また、画一的知識と紋切り型の発想に慣れ親しんだ団塊世代は、柔軟さやしなやかさの発想が必要な場において、現在大いに悪戦苦闘しているに違いないのである。
 職場でも、家庭でも、もはや画一的で、通り一遍の発想と判断が、効を奏する場は皆無になってしまったと見えるからである。
 ただ、さらに深刻ぶった表現をするなら、団塊世代の思考スタイルの問題点は、没個性、横並びであるのに加え、何かと観念論、理想論を固定観念として頼り、結局は、現実に対して心底毅然として向き合えず、中途半端な向き合い方に流してしまう甘さにあるのかもしれない。
 それが、現在、込み入ったさまざまな職場問題、家庭問題の前で、団塊世代が立ちすくみがちとなっている理由のような気もするのである。


[ 註 1 ] 長年気になっていたこの教材の素性を、思い切って調査した結果、つぎのとおりであることが分かりました。
 氏原 大作 (明治38年~昭和31年) 著 『分銅屋のえんとつ』
なお、現在入手可能な本としては、『心にのこる 6年生の読みもの』(学校図書)に所収されています。
 40年ぶりでなつかしく再度読み返しましたが、地方小都市での、ごいんきょさんと孫の少年、そしてどろぼう、近所の人々などのやりとりが、何ともほのぼのとしていて感じ入りました。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 第七話 個性尊重は至難の技!

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://adhocrat.net/mt/mt-tb.cgi/200

コメントする

リンク

このブログ記事について

このページは、yasuo hiroseが2008年5月28日 11:46に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は、
◆ 「第六話 中年かもめたちの癒し
です。

次のブログ記事は、
◆ 「第八話 遠い日の焚き火
です。

最近のコンテンツは、
インデックスページ
で見られます。

過去に書かれたものは、
アーカイブのページ
で見られます。

カテゴリ

ウェブページ