第九話 Thinking by myself !

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 第九話 Thinking by myself !



 「あっ」と、私はそれを見据え、思わずつぶやいてしまった。

 近所の境川に沿って設えられた遊歩道を、散歩と言う程には軽快ではない気分で、心持ち速い足取りで歩いていた。ジョギング替りのウォーキングという目的を意識していたからである。
 このどんよりとした寒空のもと、顔や両手にしみる北風に抗してまでの歩行を、散歩と表現するにはやや無理があると言えよう。
 確かに、私はこの遊歩道を、日陰に覆われた夏の日の午前や、小春日和の夕刻時であったなら、文字通りの散歩コースとしていた。
 そんな時には、カメラをぶら下げ、自然に視野に入ってくるマガモたちの群れやら、ちょうど潜水艦に似た存在感を持つ、放流された鯉たちのうごめき、あるいは、首をもたげてあたかも剥製の置物のように静止して甲羅干しする亀などを、スナップ・ショットしたものだ。
 境川は、町田市の北部に源流を発し、相模湾は江ノ島付近の海に注ぐ川であり、野鳥や魚が棲むとは言え、生活汚水が流れ込み、さほどきれいな川だとは言えない。
 マガモたちが、川に首を潜らせ川底の餌を漁る姿を見るにつけ、気の毒な気がしたり、申し訳ないような気分とさせられてしまう、そんな水質なのである。

 私の視界に飛び込んだのは、川の中央の浅瀬で、餌をついばむ一羽のかもめであった。
 おそらく、江ノ島付近から群れを離れ、三十キロ程度北上するかたちで飛来したのであろう。
 そして、私が小さな驚きをもって見つめたのは、そのかもめが、自分の身と同程度ほどの鯉を浅瀬に横たえ、その身をついばんでいる光景なのであった。
 なぜか意表をつかれたような感じがして、私の視線はしばし釘づけとなってしまった。
 かもめは、すでに動きを止めてしまっていた鯉の体のいたるところを、先端が鋭い鉤型となった黄色いくちばしを素早く上下させ、黙々とついばんでいたのだった。
 かもめは、その足の半ばを川面の流れに浸し、鯉の傍らに立ってはいたが、その足で鯉を押さえるわけではなかった。
 時々、鯉の体は、川面の流れで浅瀬の砂利石からゆるやかに流れ去りそうになった。
 すると、かもめは特に慌てる風ではなく、機敏に鯉の尻尾付近を咥え、もとの浅瀬に引き戻す。
 そして、機械的とも見えるついばむ動作を淡々と再開するのだった。
 かもめは、時々あたりを見回し警戒の姿勢を示してはいたが、悪びれる様子もあろうはずがなく、言ってみれば独擅場の観を呈していたのである。
 川面は、冬の曇天の空を映し、薄黒い彩色無きモノトーンの冷たさを十分にかもし出している。
 そして、これを背景としたその中央の浅瀬に、毅然として立ち尽くす、眼に映える真っ白なかもめと、不運にも既に勝者の餌と化し、痛々しいその半身で冬空を仰ぐ黒色の鯉。
 これら両者生き物同士の厳しい摂理の関係が、決着し終わったその場面は、いかなる者の介入も、まして通りすがりの観客などの浮ついた憶測を、頑として拒絶する鋭い緊張感に満ちていた。
 唖然として見つめ続けた私は、やがてこの冷徹な光景に、動揺と切なさを超えた、厳粛とも思える感動をさえ覚え始めていたのだった。と同時に、不思議な暗喩をも感じ取っていた。

  川と遊歩道とを仕切るフェンスに両肘を乗せて見やっていた私は、こころの内の幾分かの混乱を収拾するためには、再び歩き始めるしかなかった。
r_kamome.jpg 時期の過ぎた山茶花の萎れた花や、川岸で散乱する藁くずのような枯草が眼に入ってきたが、もちろん、眼の奥には、あたかも見据え続けているかのように、先ほどの光景が貼り付いていたのだった。
 『私は、一体何にこころを揺さぶられたのだろう?』
 『何故、はぐれかもめの振る舞いに感情移入をするのだろう?若い鯉の哀れさに対してではなく!』
 そんな自問を、私は繰り返し繰り返し自分にぶつけていた。
 やがて、歩きながらの私の脳裏には、自問への回答ではなく、脈絡が定かではないいくつものことばが浮かんでは消えていった。
 飽食、従順、同調、横並び、弛緩、怠惰、固定観念、没個性、評論、無責任......
 それらは、すべて「団塊世代」に下されてきた「病状」の列挙なのであった。
 ここしばらくの間、私は、自分自身を含む団塊世代における「同調と自立」というテーマを自分なりに設定し、腐心し続けてきていた。
 しかし、自分自身を十二分に納得させる突破口探しにおいて、やや手詰まり感を感じ始めていたのだった。
 もとより、整然としてはいても起爆力に乏しい知識のみによる思索に頼ることには、もはや食傷であったので、手詰まり感は、深みにはまり込みつつあった。
 と、その時、私は「はっ」として、無視すべからざる点に気づき始めたのだった。
 それら、脳裏をかすめたことばの多くは、先ほどのはぐれかもめの鋭いついばみによって、あたかも木っ端微塵に破砕されてしまったのではなかったのか、と。
 かもめと同様に、豊饒な時代を群れて生きてきた団塊の世代のぬるま湯のような悪癖群は、孤軍奮闘するたった一羽のかもめの逞しき、直裁な振る舞いによって、鮮やかに消し飛んでしまったのではなかったか、と。
 つい先ほど、私が抱いた不思議な感動の震源は、まさにそこに潜んでいたのだ、というそんな思いが、鋭い閃光のように胸を突き上げてきたのだった。

  相模湾と言えども、冬場の海はかもめたちにとって辛い時期なのではなかろうか。
 他の季節には、水温の高い海面近くに浮上してかもめの餌となっていた魚も、冬場はより水温の高い深い棚に沈潜しているに違いないからである。
 人足の多い江ノ島付近の海であっても、冬場の海岸はやはり人影は少なく、彼らが漁るべきごみも乏しいに違いないだろう。
 この季節のかもめたちにとって、群れを成す習性と、地元定着に固執することは、餓死をさえ意味するのかもしれない。
 生きることへの強い意志を秘めたかもめは、意を決するに違いない。群れに依存せず、空腹を堪えながらも、餌を確保できる場へ飛ぶべきだ、と。
 群れから離れたかもめは、身の危険に対する慎重さと警戒心を研ぎ澄まさざるを得ないはずである。見通しの良い海原に較べ、込み入った陸にはいたるところに天敵と伏兵が身を隠して潜んでいるからだ。
 海面を透視しての手馴れた狩りの方法は、川面に見合ったそれへと応用しなければ、狩りは成功しない。
 死活を制する状況判断にあたっては、自身の頭を措いて他に依存するものは何もないのだ。
 しかし、何よりも重視すべきなのは、食欲という根源的な欲求に表現される生きることへの意志を、絶対的なよすがと信じ切ることではないか。
 そして、あらゆる余剰な思いを潔く削ぎ落とし、的へ直進する矢のごとき迅速な思考と行動に徹しなければならないのである。
 私が目撃した一羽のかもめは、まさにこうした行動原理を完膚なきまで体現していたと言うべきだったのだ。
 もちろん、動物における弱肉強食の摂理を、文化によって生きる人間が、かたちだけを模倣することは愚かしいことである。
 そこまで身を落とすのであれば、むしろ人間であり続けることから降りる方途を探るべきなのだ。
 この経済不況の中、まかり間違えば、警告的意味を取り違え、本気で弱肉強食を叫び「ジコチュウ」を敢行する了見の狭い愚か者もめずらしくないからである。
 直裁に生きようとするはぐれかもめに見るべきは、恐れを振り切りつつ我が願いと向き合い、果敢に行動する孤高の美しさである。
 一度は群れの中の安逸をむさぼったであろうかもめでさえ、環境の劣化に即し、自身の小さき脳で考え、選択し、鮮やかにターゲットへと直進したのだ。
 きっとそのかもめは、獲物を得るまでに何日間もの飢えと、深まる無力感に苛まれ続けたのではないだろうか。
 だが、今夜は、獲物をついばむ誇らしげな自身の姿を、幾度も幾度も反芻していることだろう。そして自信と充足感に包まれながら、うつらうつら眠りについているのではないだろうか。

 遊歩道の対面方向から、初老の夫婦らしき二人連れがウォーキング中といった身ごしらえそのもので歩いてきた。
 不安定で過酷なこの時代、頼りになる存在は、妻であり、夫であるという確かな感覚、そして双方の健康なのだというささやかな認識が、じわっと漂ってくるのを感じた。
 その時、背面方向からは、この寒さの中、汗を染ませたトランクス姿で軽快にジョギングする青年が、私に追いつき、追い越して行った。
 とっさに、不況もこう長引いては、若い世代と言えども緊張感なしではいられないだろうなという思いが浮かんだ。
 不況の上にのしかかる実経済のグローバリズム化は、否が応でも能力主義競争をますます過激なものとしてゆくことを、多くの若い世代は感じ取っているに違いない。
 しかし、能力主義三種の神器である「個性」、「創造性」、「独創性」の必要が「画一的」に(?)叫ばれ、耳にできても、では具体的に何をすればよいかを必ずしも耳にできない社会環境である。彼らの苛立ちは、容易に想像されるのである。
 それらは、然るべき文化の上澄みに結晶化する社会現象のひとつではないのかと、私には思えるのだった。
 あるいは、個人に即して言えば、背負わされた逆境を、強烈な意志によって跳ね返すところに咲かせる、あだ花と紙一重の差の成果スタイルだとも思えた。
 いずれにしても、「あなたもいきなり『独創性』!」といったような表現がまかり通る安直な地平に、それらが咲き乱れることを想像することは、非常に難しいと思えるのである。
 走り去る青年の背に、私はつぶやいていた。
 『形ばかりを追うなよ。追うなら、困難でも自分の信念を......』
と。

 私は、まだだいぶ距離を残す遊歩道を歩みながら、自分たち団塊の世代の時代はどうであったかと振り返り始めていた。
 団塊世代が、その思考力と感性の基盤整備を行った時期は、小学生、中学生であった昭和三十年代であっただろうと思う。
 そして、昭和三十一年の『経済白書』では、「もはや戦後ではない」との宣言がなされたのである。
 とりわけ、われわれは、昭和三十四、五、六年あたりの時代環境から、より多くの影響を受けたと言ってよいのではないだろうか。
 この時期の最大の特徴は、まず何と言っても、現時点とは明瞭に対照的であった右肩上がりの経済成長であると言えよう。
 現時点では、多くの人々が迫り来る将来への不安に制動され、欲しいモノを絞り切り、消費を抑制している。至極当然の対応に違いない。
 もちろん当時も、節約とか、贅沢はやめようということばが生活を律していたことはいた。
 しかし、「消費は美徳!」という表現が生まれ、そうかもしれないと感じる人々とムードが徐々に広がりつつあった。
 子どもごころにも、「なんか変だな?」と考えたものだ。
 モノを買うことは、うれしいことであるのは間違いないけれど、人に親切にするのと同じ良いことなんだという言い方が腑に落ちなかったのである。
 実感であった、親を困らせて買ってもらう状況からすれば、小さな罪悪感さえ伴っていたからだ。 しかし、五円玉、十円玉、それに五十円玉、百円玉などの新硬貨が出回ったり、「月賦」という購入形式の名称が「クレジット」と改称されたり、とにかく消費は煽られていったのだった。
 「岩戸景気」と呼ばれた好景気が始まり、「消費革命」が立ち上げられていったのである。
 翌昭和三十五年には、「私は嘘を申しません!」というギャグ(?)とともに登場した池田内閣によって、「国民所得倍増計画」というあからさまな高度経済政策がスタートしていった。
 そして、何度かの停滞や短期の不況は介在したものの、このあとバブル崩壊、平成不況の直前に至るまでの長期にわたり、経済は「自然成長」のごとく拡大し続けた。
 国民の大半がそうであったが、まさに団塊世代にとっては、70年代の石油ショック、円高不況を除けば、「経済は自然成長するもの」かのごとく眼に映り続けたのである。
 さらに、例外的であるかのように遭遇した不況でさえ、短期間で「克服」されてしまったことによって、盲信に近いかたちの「自然成長」への思い込みが、異様に深まっていったのではなかったか。
 このような経済成長と高度消費という表裏一体のプロセスが、「自然成長」的にぐんぐんと膨張を開始したそんな時期に、団塊世代の少年かもめたちは、考えること、感じること、行動することの基礎能力を形成していくことになったのである。
 もちろん、こうした華やかさの影に、エネルギー転換のための石炭鉱山の廃坑、若年労働力確保のための地方中卒者たち(「金の卵」)の大都市への吸収、そして一大公害、水俣病の発生など、成長のための代償がなかったわけではないのである。
 しかし、あえて言ってしまうならば、そうした代償の苦痛は指先の痛みとして看過され、祭り気分だけが社会全体を浸していたのだと言えそうである。
 また、この祭り気分を増幅したり、牽引したりする役割を果たしたのが、同一時期に展開したテレビ・メディアの拡充であった。
 昭和三十四年には、既に始まっていたテレビ局の三局に、新たなテレビ局三局が追加され、受信契約数も前年の三倍の三百万に膨れ上がったという。
 翌年には、カラーTV放送が実施され、茶の間を「娯楽館」(当時、北品川にあった東映映画を配給していた映画館!)へと変えていったのであった。
 そして番組では、横綱朝汐、巨人長嶋が視聴率急騰に貢献し、毎週連続でオンエアされたアメリカのホームドラマ、西部劇が子どもたちだけではない多くの視聴者を吸引していったのだ。
 すでに、評論家の大宅壮一は、こうした軽薄なテレビ熱を批判して、「一億総白痴化」と評していたのであった。
 そうなったのか、ならなかったのかは別としても、番組間で執拗に流されたCMが、「消費者こそ王様」というキャッチフレーズで、消費意欲を連日刺激し続けたのは確かな事実だろう。
 「おもちも入ってベタベタと安くてどうもすいません!」というCMのおかげで人気を博したと言える芸能人もいたくらいだったし、洋菓子の「不二家」のCMは、子どもたちのよだれを誘い、大衆的洋酒のサントリー「トリス」のCMは、飲兵衛の大人たちの喉をきっと刺激し続けたはずである。
 今から振り返れば、既に日常に溶け込んでしまった何でもない取るに足らない事実ではある。
 だが、一瞬の間に、家庭の茶の間に、溢れんばかりに登場したこれらのニューメディアの、その影響にさらされた少年たちは、やはり尋常ではなかったと言うべきかもしれない。
 生まれた時からテレビを見させられた世代の影響の被りかたも注目に値するが、物心がつく年頃になって初めて集中砲火を浴びることとなった団塊世代のそれは、むしろ甚大であったと思われる。

  遊歩道を歩き続ける私の頭上を、下流に向かって飛ぶかもめが眼に入った。
sakai_r.jpg 先ほどのかもめだろうか、または別のかもめが偵察しているのだろうかと思った。
 私が、先ほどのかもめに思い入れをしたのは、結局あの振る舞いが、個としてのあのかもめ自身の考え、学習の結果だと思えたことが大きかった。
 自分自身で考えるという、集中力や緊張の持続の負荷を、あのかもめも担ったのかと感じたことで注目したのかもしれない。
 確かに、私はまだ観測したことがないのだが、まれに、群れで川を遡るかもめたちを見たという話も聞くので、正確には、群れで学んだ結果を、個として実践したのかもしれない。
 しかし、かもめの生態学の詳細はいまは措くとして、ゴミの島の生ゴミに群れを為すかもめとは異なることだけで十分であるような気がする。
 団塊世代の子どもたち、かもめたちが、自分の頭で考え、考え続けるという習慣を、あの当時に持ち得たのかどうかという点こそがにわかに気になり始めたのであった。
 自分の頭で想像し、自分の脳で考えるということは、それこそ「個性」、「創造性」、「独創性」の基本を行うことなのであり、決して安直なことではないのである。
 たとえそうすることに慣れたとしても、考えることが必要となる場合というのは、事の大小に関わらず、常に新しい事態との遭遇時であることからすれば、自分で考えるという行為はいつも安直であろうはずがない。
 安直と言えば、私は高校時代に、苦手意識の深みに落ち、情けないことながら数学の「アンチョコ」(教科書の問題の解説を答まで含めて掲載している参考書!)に頼った時期があったことを思い出す。
 これが実にくせもので、使い続けると依存癖が増強されてしまい、時間をかけて自分で解く意欲が蝕まれてゆくのである。まるで薬中毒患者のように呪縛されてゆくようだった。
 ところで、団塊世代の少年時代の時期、およびそれ以降は、自分で考え抜く力をスポイルしがちな、いわば「アンチョコ」もどきの環境が幾重も繰り広げられた時代であったと言っても差し支えないのではないだろうか。
 まず、考える訓練の本丸である学校での学習であるが、学習イコール受験勉強、受験勉強イコール○×、ないし択一向け知識の「鵜呑み」方式が主流となっていった点が思い起こされる。
 自分の頭で考えることの重要さは、考えるプロセス自体の重要さだと言ってもよいのだと思う。
 答という結果がでなければ無意味というのは、答のある設問を前提にしての判断であろう。
 しかし、実生活では、いつも、現時点では正解があるような無いような状態、つまりその後の選択や、次の状況変化に依存した過渡的な判断しかできないことがすべてなのである。
 だから、答は、次のステップへの疑問、次の考えることへの出発となるはずのもので、決して一件落着!などではないと言える。
 重要なのは、そうした考え続けて行くプロセスの運び方、方法の習得であるはずだろう。
 そして、この習得は、個々の子どもの個性的な疑問の発し方と、個性的な理解の仕方と絡み合っているはずだから、一般化された知識の丸暗記、「鵜呑み」を促すということは、実は、精神的「拷問!」にも匹敵するとんでもないことなのだ、と思う。
 こうした教育がまかり通っていたのは、社会全体で、たどり着くべきゴールが答として分かった気になっていたからだとしか言いようがない。つまり、米国へのキャッチアップである。
 知恵が働かず、臨機応変な対応ができず、融通がきかない、しかし、指示されたことは機械的にこなす、要は、自分の頭で考えない人材を、時代が強く要請して、育て続けたのだと、開き直って言い切りたい気もする。
 知識「鵜呑み」方式を支援するものが、受験参考書にとどまらず、この時期はその応用版とも言える各種「ハウトゥ本」がベストセラーになり始めたのも象徴的であった。
 『頭のよくなる本』、『英語に強くなる本』、『記憶術』など、今では書店の棚の大半に並んでいるハウトゥ本が登場し始め、歓迎され始めたのが、まさにこの時期なのである。
 自分なりに蓄積する知恵まで、他人の結果を拝借してしまえると錯覚する、さもしい風潮が助長されていったのだ。
 さらに、自身で考えることの手本と目されていた思想や宗教でさえ、こころに根づかなくともよい耳障りのよい知識として流通し始めていたかもしれない。
 また、想像力を音声のみで刺激し続けたラジオ放送が、能動的な想像の余地など吹き飛ばしたカラー映像を送り出すテレビ放送に、座を明け渡したのもこの時期の出来事だった。
 テレビは、人々の別な能力を開発したに違いないが、考える力の重要な構成部分である想像力の活躍の場を、次第に奪い始めたのではないだろうか。
 五、六歳の頃だったと思う。
 シャラーリシャラリーコ、シャラーリシャラレーロという歌ではじまった「笛吹童子」や「紅孔雀」の時代劇ラジオドラマや、花菱アチャコ演ずるムチャクチャでござりますがな、の台詞を売りにした「お父さんはお人好し」などは、絵がなくとも、想像力で補い尽くし、十分に楽しめたことを覚えている。
 この推移と同じことは、活字から漫画へという変化についても言えそうだ。
 漫画単行本は既に一般化していたし、漫画の貸し本屋など懐かしく思い出すのだが、昭和三十四年に漫画週刊誌『週間少年サンデー』、『週間少年マガジン』が創刊されたのだった。
 ここから漫画週刊誌と団塊世代の腐れ縁が始まり、後日、「全共闘」のバリケード内に、たとえ文庫本はなくても、分厚い漫画週刊誌には事欠かなかった光景に連なってゆくのである。
 考えることは、必ずしもことばだけに依存するわけではないので、活字が必須だとは言えないかもしれない。
 だが、考えることのスタイルが、オーソドックスなことばや活字による論理構築から、イメージによる論理構成の素描、スケッチというスタイルへと置き換えられていった可能性はきわめて高い。当然、考えの内容に情緒性や、ラフさが強まっていったのだろうと思える。

 しかし、自身の脳でしっかりと考えるという当たり前の習慣づくりを疎かにさせた最大の立役者は、毎年拡大していった「自然成長」的な経済成長それ自体と、それが振りまいた楽観的ムードであったと確信する。
 経済的安定が遠い後日に訪れる不幸の原因を生み出すと見るのは、いかにもシニカルな発想ではある。
 けれども、現時点、長期不況の只中でわれわれは、不安にさらされながら自分の頭で考えざるを得なくなっている事実それ自体が、その点の確かさを裏書きしていないだろうか。
 そもそも、人はどんな時に思いをめぐらせ、考える入り口に立つのだろうか?
 とりあえず、現状のいたたまれぬ苦しさから脱出したいと望む時だと言えようか。
 ただし何を現状の苦しさと見なすかについては、当然ながら人それぞれに、さまざまな種類と程度が異なっている。
 実現されない夢を背負い続け焦燥感に駆られる者と、夢の自覚に至らず、昨日、今日、明日という平凡な連続に満足する者とでは、苦しさの内実が全然異質となるのかもしれない。
 たぶん後者の人々にとって、当時の状況は、思い出に刻み込まれるほどに苦しさの実感がかたちに結晶化しない、そんな穏やかな時期であったのではなかろうか。
 現在のように、昨日、今日、明日という生活の連続が脅かされる事態は差し当たって存在せず、さらに遠い将来までも、当時の幼さ、若さの楽観性によって、その安逸が自動的に延長されてゆくものと思い描かれていたはずである。
 そうだとすれば、個別の特殊な環境に悩まされていた者や、破格の夢を抱いていた少数の者たちを除き、多くの者が人生にあって当然の苦しい実感を所有しそこない、その分自身の頭で考えるという契機を取り逃がし続けたと言えるのかもしれない。
 こうして、自分の頭で考えるという最低限の約束事を無効としてしまえば、自分にあらざる外の流れや大勢に対して「同調」し、これに慣れてしまうことは、何ら不思議な成り行きではなかったのかもしれない。
 その結果、自分が為すすべての判断や行動の裏付けであるべき確信や信念、そして自律(自立)も、単にことばのあやという重みでしかない、みじめな飾り物へと化していったのかもしれない。
 そして、疑いなしに言えることは、これらの継続が余りにも、余りにも長かったことである。
 だが、いま、団塊世代は、自身の脳で考えざるを得ない局面に遭遇することで、何十周もの遅れと言わざるを得ないのだが、ある切なる願望を、徐々に高め始めているように思えてならない。
 どんなにささやかでも、自身の体験から紡ぎだされた感覚とことばとによって、自分にとって「推定確実」(?)といったレベルの、そんな基点を、一から形成してみたい、と言う願望である。

 遊歩道は、二回目の広い車道に行き当たった。相変わらず、車の往来に切れ目は来ないようで、横断歩道の手前では立ち止まり待つ人がいた。
 私のウォーキングはここを折り返し点としていたので、いつものように遊歩道を抜け一般道路へ向かった。
 何気なく、私は振り返った。
 大山の峰が、朱色に染まり始めた西の空を背景にして、コニーデ型のシャープなシルエットを浮かび上がらせていた。
 その毅然とした姿は、「推定確実」を超えて、いわば「絶対確実」という印象を物静かに放っていた。
 私は、思わずひとり苦笑いをしていたのだった。




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