二、三日前にセールスの電話に出てみた。投資・不動産関係や、街金(まちきん)関係などのセールス電話には出る必要がないと考えてきたが、ニュービジネスと思しき者たちからのセールス電話には極力対応することにしている。なぜかと言って情報収集に決まっている。自分たちのビジネスの着眼点、そして苦労談、おまけにウィークポイントまで、いろいろとこちらからのインタビューに応じてくれるのでありがたい。
今回は、税理士、弁護士等々の「士(サムライ)」業の先生たちを無償で紹介(ということは、サムライたちから会費を取るということ)するといったビジネスからの営業であった。なるほど、と思いながらも「そうすると、スポンサーである先生方の評価が甘くなりはしませんか?ムーディーズのような相応の評価システムを組み込むと、依頼側が安心できるんじゃないかな……」などと言う必要のないことまで言い添える始末だった。
こういう方面の方たちは若い世代が多いからということもあるが、基本的には話してみて楽しいのだ。情報収集としていい勉強をさせてもらうのだが、一言で言えば、「異質」の遭遇だという点が新鮮で好感が持てるのかもしれない。
これに対して、オールド・ビジネスの営業は、手垢のついた常套句、分かりきったウソや脅し、ぷんぷん臭ってくる嵩(かさ)にきた言葉と卑下する言葉に揺れる分裂姿勢、あるいは気持ち悪いほどベッタリと擦り寄ってくるかのような馴れ馴れしさなど、知的刺激が皆無であるだけでなく、すでに「終わっている感性」を呼び覚まそうとする厚顔さが不快なのだと言えよう。
こんな「戦国不況!」なので、志あるものは日夜ニュー・ビジネスに思いを巡らせているに違いない。昨日は、経済行為とはコミュニケーションであると強調したのだが、さらに言えば人間関係のあり方と密接に関係するものだと言ってよいのだろう。
だから、どうも、ニュー・ビジネスとは、ニュー・コミュニケーションであり、人間の新しいニーズに着眼した斬新な人間関係の創造だとも言えるのではないだろうか。もちろん「全人的な」人間関係などではない。
ところで、この「全人的な」人間関係というのがくせものと言えばくせものなのだという気がしている。それは、もはや存在し得ないのではないのだろうか。むしろその自覚から再出発し再構築する対象となっている課題なのではないのだろうか。
しかし、この「全人的な」人間関係の幻想だけはさまざまな形で存在したし、存在し続けてきたような気がする。そして、その幻想が逆に人間の感性を出口無しかのような苦痛に追い込んでいるのかもしれない、とさえ思えるのだ。
ビジネスの世界では、つい先ごろまでこの「全人的な」人間関係幻想としての「終身雇用」制があり、そのサブ・システムとしての「年功序列」制があった。当然、存在し続けた制度にメリットが無かったわけではない。しかし、時代の進展がその存立基盤を取り除いてしまった。
「全人的な」人間関係の基盤であった家族環境と地域社会環境は、現在、かたちだけが残されその内実は一変してしまっていると、認めたくはないにせよ、事実はそうであるに違いないと言えよう。
団塊世代以前の大人たちは、この「全人的な」人間関係の幻想に引きずり回されてきたのである。西欧ではとっくに卒業してしまった幻想であり、擬似アメリカ環境を柔軟な脳に刻んだ団塊ジュニア以降にとっても、そんなものが幻想であること、それにもかかわらずそれに順じた制度や環境ばかりの時代に打つ手もなく戸惑ってきた、と言えば言い過ぎとなるであろうか?
馬鹿でかいテーマに踏み込んでしまった。後日落ち着いて反芻したいが、要するに、今迎えている世界同時経済不況への正攻法としては、まずニュー・ビジネス志向でなければならないだろうと言う点、そして、自ずからその方向選択のベースは新しい人間関係、少なくとも同質性、同一性の幻想や、全人的関係の幻想に基づく人間関係ではない新しい関係の創造にある点に注意を向けておきたいのである。
もちろん、古い幻想は、人々に束の間の癒しを与えてくれ、何よりもありがたいという想いにさせてくれるものである。辛い時には、何よりも慰めであったりもする。が、わたしは、ようやくこの幻想と真っ向から向かい合わなければならないと思い始めている……(2001/12/01)