[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





………… 2001年6月の日誌 …………

2001/06/01/ (金)  ネットワーク型スポーツのサッカー!
2001/06/02/ (土)  祭りの最中なのに「町内パソコン教室」堂々第三回!
2001/06/03/ (日)  オレは「出会い系サイト」より銀行通帳?
2001/06/04/ (月)  ふるさとと重なる「北品川商店街」を応援したい!
2001/06/05/ (火)  サイトの住職さん(?)たちの入れ込み姿勢!
2001/06/06/ (水)  地球外生物による「超小型の然るべきデジタル機器」注入の痕跡?!
2001/06/07/ (木)  日本の古き良き時代のデジタル・スイッチ!
2001/06/08/ (金)  母と子を結ぶ小さな金属片
2001/06/09/ (土)  またまた、祭りの最中なのに「町内パソコン教室」堂々第四回!
2001/06/10/ (日)  人とは話してみるもんだねぇ〜!
2001/06/11/ (月)  異常な時代を生きる術(すべ)!
2001/06/12/ (火)  お客様は神様です!を本格的に!
2001/06/13/ (水)  「貘(ばく)」が食べちゃって、漠然となった記憶?
2001/06/14/ (木)  「産湯を捨てて、赤子を流す」の愚を避けたい!
2001/06/15/ (金)  老いて知的充足を楽しむ!
2001/06/16/ (土)  PCの考え方に慣れよ!「町内パソコン教室」堂々第五回!
2001/06/17/ (日)  アルバイトだらけ!
2001/06/18/ (月)  「飲ミニケーション」なんて言ってる場合じゃないね!
2001/06/19/ (火)  人間側の情報処理装置は大丈夫?
2001/06/20/ (水)  すずめたちは、ご立派!
2001/06/21/ (木)  日本人の「金縛り?」はどんどん解毒されていいんじゃない?
2001/06/22/ (金)  古代人たちとのロマンあふれるコミュニケーション!
2001/06/23/ (土)  エクセルは、構想無ければ風呂場のタイル!「町内パソコン教室」堂々第六回!
2001/06/24/ (日)  時の流れに翻弄された(?)目黒川の弁天様!
2001/06/25/ (月)  皆さんがあのようになさってます!
2001/06/26/ (火)  なお大君にして将(=小)軍と称し奉るがごとし!
2001/06/27/ (水)  こんなふうに育てたのはダレダ〜!
2001/06/28/ (木)  便利さの陰で、蝋燭がどんどん燃え尽きてゆく?
2001/06/29/ (金)  「がらみ」用件なしの語らいこそが「一期一会」!
2001/06/30/ (土)  システムより、データの破壊、消去を恐れよ!「町内パソコン教室」堂々第七回!



2001/06/01/ (金)   ネットワーク型スポーツのサッカー!

 いま、スポーツと言えばサッカーと答えますよね。野球と答える人も、頭の中では、イチロー、ササキ、シンジョーのイメージしかなくなってるんじゃあ、と言えば言い過ぎなのかもしれませんけどね。
 何ゆえサッカーなのかの謎解きは、結構楽しめるかもしれません。
 とある漫画家、小説家は、面白さをねらって、サッカーを「邪魔者排除ゲーム」というような解釈を展開していた。
 同じ敵陣ゴールに、ボールを到達させるゲームであっても、ラグビーは、みんなしてボールを丁寧に、あたかも北条時宗に届けられる蒙古フビライからの書簡のように扱っている。風雨から守るように、不届き者から隠すようにと、抱きかかえ疾走する姿は、人をして感動させもする。鞍馬天狗がんばれ、走れメロスくじけるな!となり、「プロジェクトX」のテーマ・ソングと重なれば十分涙を誘うそんな雰囲気があったりする。
 ところが、サッカーは違うというのである。足で蹴ることはあっても、ボールをいたわり、大事に諸手で抱えるというやさしさがない!いっさい自分の手を下そうとはしない!まるで、やくざ映画の組長であり、政治家、高級官僚の非情さなのである。みんながみんなそうである。かろうじて、キーパーのみが、見るに見かねて、ボールーへのいたわりを見せたかと思えば、彼とて、すぐさまに本性を露わにして、これでもかと蹴り上げるのである。要は、みんなして邪魔で、汚らわしい厄介モノを人里離れたエリアへ蹴り込もうという魂胆なのだ、という意味のことを書いていた。
 この解説が妙に共感を呼ぶのは、直接的には、現代のゴミ処理問題、家電廃棄物処理問題に対するわれわれ市民の対応に猛省を促す点がひとつ、加えて、そればかりではなく、不況の中、大リストラで地方営業所へ蹴り飛ばされる中高年、すずめの涙の前倒し退職金をふところへねじ込まれ、蹴り出される古参社員などの他人事とは言い切れない屈辱とオーバラップするからではなかろうか、と私は拡大解釈したりする。
 余談はさておき、サッカーは、個々のプレーヤーの動きが、とにかく現代的だと言える点が有力な謎解きなのではないだろうか。野球のように所轄業務範囲に居座り、例え管轄外のホームペースで乱闘があろうとも、煙草吹かして涼しい顔して(ないか)るかのようなセクショナリズムとは異なり、サッカーは、臨機応変、縦横無尽で火の用心といったフレキシブルなダイナミズムが現代人に訴えるんでしょうね。また、そのダイナミズムの一瞬に華やかな個人プレーが、まるで瞬間芸のように畳み込まれるスピーディさが好まれるのでしょうか。「ツーアウト、ツーストライク、スリーボール。さて……」という状況でも、急ぎトイレに行く時間があったりする(ないか?)野球との違いなんでしょうか。
 そして、この明暗を分けたのが集団のプレー原理なんですね。
 野球はもともと、戦争を模したゲーム・スポーツ。ベンチという指令本部による上意下達の命令で、全体の動きが統括されるピラミッド構成型スポーツなんですね。
 サッカーももちろん、監督の指示、意向で大局がコントロールされるのでしょうけど、プレーヤー間のフォーメーション・プレーが何よりも強調される、いわゆるネットワーク構成型スポーツなんですよね。そしていま、職場はもちろんのこと、社会全体がこのネットワーク構成型に急旋回しているというから、サッカー人気は当然と言えば当然なんでしょうかね。ちなみに、このネットワークの原理で重要なのが、個人の自立(的判断)と役割遂行能力だとか。中田くらい(?)でないといかんのだそうですよ。
 ちなみのちなみに、ネットワーク原理は、人間界よりコンピュータ世界の方が先行して発達しているんでねす。この辺の話しは、キムラくんも喜びそうだから町内パソコン教室で話すことにしよう。(2001/06/01)

2001/06/02/ (土)   祭りの最中なのに「町内パソコン教室」堂々第三回!

 荏原神社のお祭り中日だというのに、全員そろいましたか!えっ?祭りも気になるけど?パソコンは命がけ?!さすが、勅使河原のおじいさんは、おっしゃることが時代がかってて素晴らしい!(パチパチパチ!)じゃあ、ひとつ私も命がけでやることとしましょう。あっ、そうそう、今日はノート・パソコン持って来られた方もおいでなんですね。
 私の方も、中古パソコンをとりあえず3セット、ほらここに用意しました。だから、液晶プロジェクターと併用すれば贅沢な環境になりましたね。
 さて今日は、「文章入力」に関して勉強しましょうか。
「文章入力」というと、すぐにWordということになりそうですが、そうでもないんです。初級の方は、Wordから入ると、逆に機能が多すぎてそれだけで重荷になることもあるので、こう考えてください。
 1.とにかく、「文章入力」に慣れたい、あるいは自分は「文章入力」がターゲットで他のことはどうでもいいんだ!と決めている人は、「メモ帳」というWindows標準のソフトを使いましょう。
 2.1が終了した人、あるいはポスターとか、絵葉書とか絵や写真を交えたそんなものを作りたい方はWordということになりますね。

 「メモ帳」は、「スタート」→「プログラム」→「アクセサリ」の中にあります。「メモ帳」というパッとしない名前とか、開けてみると飾りっ気のないウィンドだったりするので、バカにしたくなりますね。しかし、バカにできそうなソフトを自由自在に使い込むこと、これが大事なんです。最新のWordのような多機能な豪華なソフトだと、いつも何だか自分が逆に使われているような錯覚に陥り、萎縮してしまうのがよくありません。
 「メモ帳」は確かにシンプルですが、実を言うとこれでホームページだって作れるし、プログラミングだってできるんですよ。と言うのは、「メモ帳」は、フォント(文字種類)だの、罫線だの、文字色だのといったいわば副次的な飾りをはぶいて、データ情報を最低限かつ標準の「テキスト」に絞り込んでいるからなんです。
 確認のために、「ファイル」→「名前を付けて保存」をクリックしてみてください。文章入力が終えたら、こうして打ち込んだ文章を保存するわけですね。どうです?「ファイルの種類」が「テキスト文書」となっているでしょ。じゃ、ついでに、上の方の空欄の反転文字で「無題」となっているところに「テスト」と入力して、「保存」をクリックしてください。そして、「マイドキュメント」というフォルダのアイコンをクリックすると、どうです。「テスト」というファイルが保存されてますね。「拡張子」が表示されないように設定されているとファイル名は「テスト」なのですが、実は「テスト.txt」なんです。このことを確かめたい方は、「マイドキュメント」の「表示」→「フォルダオプション」→「表示」→「登録されているファイルの拡張子は表示しない」に付いているチェックをはずしてOKをクリックしてみてください。
 ファイル名の後の「.txt」という拡張子は、「これは、標準的なテキストという種類のファイルです」ということを表現しているわけなんですね。ちなみに、Wordで作られ、保存されたものは「〜.doc」となります。
 それで、「.txt」というファイルは、標準的なファイルであるため、どんなワープロ・ソフトからでも開くことができるんです。これは大変大きなメリットなんですよ。なお「〜.doc」ファイルを「メモ帳」で開くことはできないんですね。
 そもそも、文章を手書きではなく、ワープロすることの意味は、活字化されて小奇麗だということよりも、一度入力した文書あるいはその部分を再活用できるという点が重要なんですね。だから、文章のテキストのみで罫線その他の飾りがないシンプルな原型をひとつ作っておくと、これを飾り機能を持ったWordなどで開き、いろいろ加工して、Word文書で保存する、といったことが可能となるのです。それに、「.txt」ファイルは、保存する時の容量が小さくて、フロッピーにかなりの量を保存することも可能です。
 それから、インターネットを希望の吉永さん、当然メールもこなしたいですよね。メールも、少し考えながら文章をまとめたい時は、「メモ帳」で下書き文書を作成するという使い方もありますね。「メモ帳」で作成した文章を「コピー」して、メール・ウィンドの所定の場所に「貼り付け」すればよいわけです。
 そんなわけで、「メモ帳」というのはシンプルだけど、結構貴重なソフトなんですね。このような種類のソフトのことを「エディター」(文章編集)と呼んでいます。
 日記を付ける方には最適なんではないでしょうか。日付も、「編集」→「日付と時刻」をクリックすれば自動的に入力されますしね。
 ところで、今日は、あともうひとつ重要なことをお話しして実習に入りましょう。
 それは、IMEという入力変換・辞書のことです。
 要点の1は、いろいろな選択はIMEの「ツールバー」をマウス操作で行うのですが、ホームページ作成でスクリプトを入力したり、プログラミングをするとなれば、英文字・数字を半角で入力しなければならず、全角・半角の切り替えの頻度が高まります。そんな時、「Alt」キーと「半角/全角」キーを同時に押すと切り替わる方法を覚えておくとよいでしょう。キーボード操作中にマウスへ移動するのは動作が中断しますからね。
 要点の2は、効率の良い入力のために「用語/用例の登録」を活用することです。いわば自分専用の辞書を作るということです。例えば、「コンピュータ」という語を頻繁に使うなら「こん」と入力して変換のシフト・キーを押せば、パラパラと「コンピュータ」が表示するといった具合です。一文字だとやたら出てきますから、二文字をキーにしておくと良いでしょう。このほか、辞書の活用は重要です。「IME2000」では、「ふぃろそふぃ」と入力して「philosophy」と表示させる「カタカナ語英語辞書」という便利な機能もあるんですね。もちろん「194」と〒番号のつもりで入力して変換をかけると「東京都町田市」と出てくる機能もあります。これはIMEというWordとは別のソフトの機能ですから、「メモ帳」でも使えます。
 さて、話しはこんなところにして、「メモ帳」とIMEをを使って、実習をしましょうか。私は全体を見ますので、小柴さんは、天王ラーメンさん、細田さん、勅使河原さんを、岩崎さんは、田中さん、吉永さん、キムラくんをサポートしてください。
 がやがや、カチャカチャ、がやがや、カチャカチャ、がチャがチャがチャがチャ……(2001/06/02)

2001/06/03/ (日)   オレは「出会い系サイト」より銀行通帳?

 じゃあ、いってらっしゃ〜い。
 志村さんも、非番で管理人服(そんなものがあるのか?)を脱ぎ捨て、こざっぱりした休日おじさんファッションに着替えると、まあまあってとこかな。
 さっき、テナントの岩崎さんが立ち寄られて、志村さんと何か話ししていたな。なんでも、昨日の荏原神社には、台場小第一期の人の姿は見られなかったとか。
 それにしても、志村さんから教えてもらった「台場小同窓」のサイト、ねらいどころやコンテンツはまあまあいけてるのに、第一期同窓の当事者たちの結集がお粗末というのはなんなんだろうか。まず、あの世代だと、インターネットできる人が圧倒的に少ないね。
 何でも、『平成12年版通信白書』(http://www.mpt.go.jp/policyreports/japanese/papers/h12/html/)によると、インターネット全利用者のうち50歳以上の比率は、何と4.7%だってさ。男性6.7%、女性2.0%。おまけに、団塊世代なんだから当然人口数多いはずだよね。だとすれば、同窓生を全体としたインターネット利用者比率はもっと薄まるわけだよね。
 しかも、かりにだよ、お子さんとかの家族がやっていたとしても、掲示板に書き込むなんてことを見事達成できる人はさらに少ないかもしれないね。操作とかという、PC技量の問題もさることながら、だいたいあの年代の人たちは、カラオケなんかで仲間うちでは騒ぐくせに、外に対してはあんまりオープンじゃないもんね。構えちゃうみたい。典型的な日本人を引きずってるって言えるかもしれないよな。仲間に頼って、個人では勝負できないっていうキャラは、いま時アブナイんだよねぇ。いや、仲間作ることが悪いんじゃないよ。人間ってそんなもんだもんね。だけど、自分ってもんがなくて、仲間に依存してたんじゃまずいんじゃないのって思うワケ。
 だからといって、いま時の若い連中ね、アイツらも、オープンやってるけど、結局同じパターンやってるように思うよ。最近、「出会い系サイト」ってあるじゃん。それとか、「メル友」っていうやつもね。この前、「出会い系サイト」について騒がれてるから、ネット検索ソフト、もちろんフリーだよ。だってオレ金使うのイヤだから。老後に取って置かなきゃいけないもんね。で結構いけるってやつ(Internet Link Agent:http://www.osk.3web.ne.jp/~goronyan/winprg/sub.shtml)使って、キーワード検索してみたわけ。
 そしたら、「IT革命」のヒット数が497件に対し、「出会い系」が511件もあった。これらが決して実数ではないと考えるべきだけど、少なくとも天下の不況克服が掛かっていると言われる「IT革命」関連サイトより多い比率がありそうだということだけは判明したってワケ。
 でね、「出会い系」→「メル友」というのが表通り(裏通りは「出会い系」→「エッチ!」、「不倫!」etc.)のようだけど、「メル友」って、本人たちは「友だち」と思い込みたいワケよね。たかが、100文字あるかないかの、いわば「短答形式」のメッセージしかやりとりしないのに、過大評価するワケよね。自分は、友だち間の絆のネットワークの中で幸せなコなんだと信じたいワケですよ。そうした関係しかないからしょうがないのかもしれないけどね。
 どう思います?団塊世代が、フェイス・トゥ・フェイスで確認しあった仲間関係なんかよりも、遥かに希薄で貧弱なコミュニケーション関係なのに、ものすごい思い入れしちゃってるん事実を。良心なんて知らないやつも増えてるんだから、そんなやつが紛れ込めば犯罪に結びつくのは紙一重だよね。
 オレは、ケータイ持ってるけど、月二万円の通話料をかけてまでそんなことはしたくない。こうやって、銀行通帳を眺めてれば安心なんだもんね……(2001/06/03)

2001/06/04/ (月)   ふるさとと重なる「北品川商店街」を応援したい!

 天王洲アイル vs. 北品川商店街!っていう構図が最近気になるんですよ。まあ、天王洲アイルだけじゃなくて、それに象徴される古き「北品川」への侵入物全体を指すんですけどね。言ったってしょうがないですがね。
 経済を始めとする時代の流れっていうやつの仕業は、全国いたるところで理不尽とも思われる現象を生み出してますよね。それでたいていの旧住民は、諦めてしまっているんですかね。特に、村や町がダムの底に没してしまったケースなどは気の毒ですよね。復興もなにも、水ん中じゃやりようがないですもんね。公共という錦の御旗が振りかざされれば、二の句が次ぎにくいのが日本人ですもんね。
 先日、北品川を中心とした地図をつぶさに眺めましたが、勝手な印象なんですが、旧街道の宿場街としての品川の位置付けは、地図上では壊滅されていますね。
 南北に走る「京浜第一国道」、「海岸通り」、そして、川の字の真中のように走る、旧目黒川の埋め立てで形成された「八ツ山通り」。この川の字の三本の流れによって、宿場街品川の存在は、なんとなく「パス!」されてしまっているかのように感じました。
 そして、さらに東西に宿場街品川を貫く「山手通り」。これが東の天王洲アイルとつながっているわけですが、ここでもなぜだか「パス!」されている気配を感じました。
 国道クラスの道路網が地域に入り込むのは、確かに「全国各地」とリンクするといった印象をまず与え、ありがたいことと思いがちですが、果たしてそうなんでしょうか。まず、外から他の地域の人々がクルマで集まってくるという可能性は、裏を返せば、この地域の人々も、ちょっとした買い物でもクルマで他地域に出回ってしまうということ。そして、前者と後者の可能性のどちらが大きいかは、だいたい想像できそうです。
 だから、北品川商店街の方々にとっては、どうしたら、地元住民が地元で買い物するようになるのか、という点がひとつと、「パス!」、通過されがちな傾向の中、どうすれば外部地域の人々が立ち寄ることになるのかという点がもうひとつの点なんでしょうね。
 多分、全国の地元商店街が抱えている共通の課題だろうと想像します。全国には、何の衆目を引く伝統行事も、観光的スポットもなく、悶々としている地域も少なくないのではないでしょうか。
 そんな中、品川には、百年の伝統、そして呼び物としての祭りがある!これらを梃子として、これらを吸引力として活性化を図る可能性は十分あるように推定されます。だから品川の祭りは、それなりに重い意味を持つはずなんですね。
 で、品川のメリットをどうやって「日常的な地元活性化!」につなげてゆくのかという大問題。地元商店の方々が捻り鉢巻してるナーバスな問題に対する軽々しい発言は禁物でしょう。しかし、出せるものなら出したい知恵ですよね。
 全国各地に散らばっているかもしれない、品川をこころの故郷としている多くの品川っ子たちもそれを願っているはずです。
 じっくりと文殊の知恵を集めましょうよ。その際、どうしても団塊世代の役割がキャスティング・ボートを握っているように思いますね。いろいろな意味において。団塊世代が仕掛け(?)、若い世代がおもしろ半分ででも結集し、お年寄り世代が見守るといった基本構図ではないでしょうか……(2001/06/04)

2001/06/05/ (火)   サイトの住職さん(?)たちの入れ込み姿勢!

 昨日は、ご近所のサイト「東海道『品川宿』」へ行って、ゲストブックに書き込みをしてきました。あつかましい年寄りの所業ですわ。ここは、前から好きなサイトでして、うちのリンク集にも案内してありますね。ウェブ・マスターの「浮浪雲」さんのハンパじゃないスタンスと優れたセンスに好感を持ってるんです。
 長年、巡礼服着て(?)サイト巡り、若い方はサーフィンなんて言っとりますが、してますと、お寺さんの、いや住職さんの姿勢、度量、お考え、入れ込み方などなどが手にとるように分かりますね。いやぁ、「浮浪雲」さんはりっぱです。
 結局ね、人間ってのはね、(こういう言い回し、年寄りくさくていやだとお思いでしょうね。私もそう思います!)これだっ!って思ったら、他のこと犠牲にしてでも入れ込むんですよ。犠牲を恐れてはなりません。犠牲は、なきゃないにこしたことはありませんが、あればあったで、なおのこと熱くのめり込めるという弾みがつくんですね。
 天才と秀才の違い、いろいろ表現できますが、天才は当該のこと以外のいっさいを無視して犠牲にできる人、秀才は何ひとつ犠牲にせず、したがって何ひとつ人を感動させるに足るものを生み出せない人、ということでしょうかね。能力絶対値の問題というより、思い入れの激しさに勝るものはないんじゃないでしょうか。やっぱり、「ジョナサン」、レストランじゃなくて「かもめのジョナサン」が懐かしいなぁ。人生の喜びのひとつは、そんな人、その所業に出会うことなんでしょうかね。先日、東海林くんが書いていた「出会い系」サイトの出会いなんていうやつは、寂しさにこんがらがった人のすることかと思います。もっとも、みんな「自分探し!」の旅で迷子になっちゃってるのかもしれないよね。
 さあぁて、私も私なりにすべてを犠牲にして、この管理人業務に入れ込むとするか!と言っても犠牲にできるものが無い、もともと何も無いっていうのも、ちょっとさみしいものがありますね……(2001/06/05)

2001/06/06/ (水)   地球外生物による「超小型の然るべきデジタル機器」注入の痕跡?!

 独り暮らししてると猫の「りんちゃん」と遊ぶことも多いんですわ。コミュニケーションするのが好きですね。人に言わせると、「志村さんのかわいがるっていうのは、どうもやーさんのかわいがるっていう意味に近いんじゃないの?」って言いますが、それは当を得ていない不当な表現です。
 コミュニケーションですから、何をされてもされるままになっているとイヤなんですね。ひげを引っ張っても、耳を反転させても、背中いじっても、されるままになっていると心配にもなってだんだんエスカレートするんですわ。尻尾を握ったりするとようやく、眠そうなりんちゃんも、「なにすんだー!」と言わんばかりの素振りを見せ始めます。それで、私はやっと「そうか、そうか」と頭を撫で回してやるわけです。いい気持ちで寝てるのに、とんでもないオヤジだと思っているはずです。
 こんな経緯から、気付いたのですが、気付くほどのことでもない、まして書くほどのことであろうはずがないのだけれど、話題進行の都合もあるので書きますが、猫というか、動物というのは、刺激に対する反応は「アナログ」なんですね。もちろん、背中のある部分とか、過敏な部分を手にすると、「デジタル」反応で噛まれたりしますがね。基本的には、ゆるやかな変化というアナログでしょう。
 人間だって、動物の範疇なんですから、外界の刺激への反応や、内部に蓄積するストレスによる行動はアナログですよね。
 ところが、ところがです。もうだいぶ以前から市民権を得て、いや永住権、選挙権プラス被選挙権まで獲得したかに見える(ここまで大げさに言う必要はないと思われます。私もそう思います)例の、「キレル!」っていう現象!あれを、アナログ現象だと言えましょうか。あれを、アナログ「原論」によって解説することが果たして可能でしょうか。無理でしょうね。
 ある一時点において、直前状況と現在状況の巨大な、説明のつかない落差、格差が見出されるがゆえに「キレター!」と、人々が路頭に迷うわけですよね。この所謂、瞬間芸にも似た変貌を理解するには、人はデジタル・セオリーを導入しなければならないと私は確信するのであります。例え、この発見が、猫の背中いじってて、噛みつかれたという実にささいな事実を端緒としていたとしてもなのであります。
 で、私の議論はここで終わるものではないのです。(あっ、りんちゃん大あくびしてる!勉学心のない猫だねぇ!)
 最近のわが国の、とりわけ青少年の「キレル!」という風潮は、やっぱりデジタル現象だとしか言いようがないと思うんですね。きっと、地球外生物が密かに青少年たちの頭に、彼らが眠っている間に「超小型の然るべきデジタル機器」をビルトインしたのでしょう。ビリヤードのスティックが玉を突付くように、大空からとてつもなく長いスティックを使って、眠って転がっている若い人たちの頭を次々に突くようにして注入している光景が、私にはありありとイメージできます。
 なぜ中高年には、そうした措置を施さないのかという大きな疑問が生じるわけですが、これはいともたやすく説明できます。経費削減のためです。ムリ、ムダ、ムラの三悪追放が地球外生物にとっても常識であって、どんな悪政を被ろうがヘラヘラ、にこにこしている方々に、高価な「超小型の然るべきデジタル機器」を適用することに躊躇せざるを得なかったのでしょう。
 かつて、この「デジタル機器」は、すでに一部の地球人に適用されていたことを、想像力豊かな方々は察しているはずです。そう、1960年代後半なんですね。ひとつが、極左集団と、もうひとつが任侠やくざなんです。任侠やくざをサンプルとするにあたり、地球外生物は、折からの映画プームに目をつけたんですね。そこで効を奏して人々の前に登場したのが網走番外地のケンさん、緋牡丹お竜だったわけです。この方たちは、やくざの感動的な「キレ方!」の雛形を万民に知らしめたはずです。なお、極左の方々が、陰惨な「キレ方!」を普及させたため、社会的効果は相殺され、その後一進一退の小康状態が続きました。(米国でも「キレル!」人たちがいるらしく、マイケル・ダグラスが演じたキレタサラリーマンは、すごっかったですね。怖かったですね。)
 そして、1990年代の相次ぐ青少年たちの「キレル!」犯罪が登場したわけですが、ここで注意していただきたいのは、この「キレ方!」が、「劇場型!」と「陰惨型」のハイブリッドになっていた点なんです。なぜか因縁を感じますね。
 ところで、「キレル!」という表現形態のデジタルではなく、思考形態のデジタル型にも注意を向けると、地球外生物が、以外にもこの日本に、かなり以前からアプローチしていたことに遭遇するのです。
 あっ、どなたかお客さんが来られたようなので、この続きは明日にしましょう。(2001/06/06)

2001/06/07/ (木)   日本の古き良き時代のデジタル・スイッチ!

 梅雨だというのに、今日はまたえらく暑いことですね。明日からの「品川神社」の祭りも、こんな天気だと御輿も荒れ狂うんでしょうね。そうです、あの御輿は、祭りに限って荒れ狂わんばかりに、一糸乱れず一丸となって乱れる(?)のがよしとされているわけですね。当時の、といっても数百年以上も前、いとやんごとなき御仁を乗せた輿(こし)が右へ左へ、上下かまわず揺らし回されたら、御仁はいかばかりのご気分かと想像すると……
 そこで、昨日からの続きのくだらないデジタル談義です。
 日本人は、弥生以来の農耕民族で、自然とともに常に緩やかなアナログ原理に邁進してきたと思いきや、つらつら日本の歴史を一、二秒で振り返ってみると、ところがどうして、結構ゼロ・イチのデジタル思考、デジタル行動をとってきたんですね。
 丁半バクチがそうでしょ、って言わないでください。その話題だとあとが続かなくなるんです。私が着眼しているのは、かの有名な「ハレ(晴)とケ(褻)」という事象、柳田國男先生が日本全国、山村といわず、農村といわず、漁村といわず、含み損といわず津々浦々を調査した結果の日本固有の文化のことなんです。
 貧しい民衆は、普段はまるで概ね地を這うような格好で、貧しい装い、貧しい食事、貧しい会話と、貧しずくめの生活をしていたといいます。しかし、いざ晴れの場、正月、盆、祭りなどになると、すべてを反転させ、晴れ晴れしく晴れずくしに変貌するという文化のことなんです。年配の人達だと、こうした生活習俗を実感として覚えておられるはずなんですよね。大人も子どももみな、ハレの場を楽しみにして、辛いケとしての日常を耐えたんですね。「もーいくつ寝るとお正月〜」という童謡は、そんな時代の子どもの切実な心境なんですね。とにかくハレの場は、神々とともにあるといった意味合いなんでしょうね。
 で、祭りになると、御輿が暴れます。さらに、隣村、隣町の境では喧嘩まがいの荒れ方ともなるわけです。ここにも、不思議なデジタル発想が潜んでいたのでした。「ウチ」のムラと「ヨソ、ソト」のムラという峻別が、まさにデジタル的なデバイドなんですよね。ものの本によると、農村では、いつも「水争い!」が絶えず、ここにこうした「ウチ」と「ヨソ、ソト」の区別の発想が強化されたとも言います。「鬼はーソト、福はーウチ!」という掛け声はその名残なんでしょうね。
 こうしたデジタル的とも思える二分法的な発想が日本人の生活を律していたようですがどんなもんでしょう。
 ただ、よく考えるとこれらの二分法は、どうも「地続き」の観があって、本当の対立ではなかったようにも思えます。それというのは、西欧の二分法の典型は、言うまでもなく「生」と「死」であり、オリジナルが狩猟民族である彼らは、動物の死を日常的にみつめて、まさしく取り付く島もない、デジタル的な両者の絶対的な格差におののいたのだろうと。それに対して、農耕民族の日本人は、植物とともに暮らし続けたがゆえに、生と死を絶対的な対立として捉えず、不滅の生、つまり「輪廻(りんね)」の発想をとったのでしょうか。三途の川を隔てているだけの「地続き」の生死観!を採用したのでしょうか。
 だとすれば、日本人はもともとデジタルだったんだぜ!といういいかげんな私の俄か説法は崩れ去ることになります。まあ、どっちに転んでも、この不況、経済の構造改革の大局にさしたる影響を及ぼさないことだけは確かです。安心めされ。
 明日からの「品川神社」の祭りに備え、先週の「荏原神社」の御輿かつぎで痛めた肩に、サロメチールを塗り込まれている御仁も多々おられるんでしょうな、きっと……(2001/06/07)

2001/06/08/ (金)   母と子を結ぶ小さな金属片

 心臓の高鳴り、鉛のように重くなった両足。両手のひらを半ズボンから出た腿にあて、かがみ姿勢で呼吸を整えていた。汗が顔からぽたぽたと滴り落ちた。首をもたげると、眼下の風景が視界いっぱいに広がる。
 薄暮の空を背景に、霞んだ田園。点在する家々の窓には、平穏な日常を知らせるような明かりが、懐かしく灯っていた。今の自分からは、遠く隔たった光景であった。
 山道を一途に駆け上がり、ただただ急かれる気持ちのままにどこかへ向かっていた。
 スゥーと冷たい風が通り抜けた時、体中がジーンとなるほどの嫌悪感が走り、これから下る山林の不気味な暗黒が思い起こされた。
 再び、走り出した時には暗闇が辺り一面を支配し始めていた。風で騒ぐ木々の葉のザワザワとした音と自分のズックの足音以外は何も聞こえない静寂だった。やがて、山道の向かう方向さえ見失うほどの暗闇に辿り着いた。
 あたかも手探りで方向を探るようなたどたどしい歩み、とその時、左足が空を踏み体のバランスが大きく崩れた。魂が抜け落ちる驚きだった。激痛が走った。みじめな気持ちで、落ちた側溝から這い上がった。
 みじめさを振り払ったのは、一刻も早く行かなければという切迫した意思だった。
 その時、山道の前方に、何かが微かに動く気配を感じた。動物か?、あるいは人か?
 恐る恐る近づくと、なんと、老婆がしゃがみこんでいたのだった。
 脇に転がった杖を拾いながら、どうしたんですか?と尋ねると、ただ、もぐもぐと口を動かし要領を得ない。しかたなく、手を取り、手を引くことにした。
 黙って手を引いて歩いた。が、次第にその手の感触から不気味さが伝わってくるのを感じた。ぬくもりが、熱っぽさに変わったかと思うと、もう握ってはいられない火のような熱さとなった。振りほどき、すぐさま振り返ると、な、なんと……
 表現を絶する恐怖が、見えない道を、ただただ転がるように疾走させた。
 逃げ疲れ、疾走は、早足に、そしてゆっくりとした歩みになった。ぜいぜいとする胸をさすりながら、さきほどの光景を網膜からぬぐい去るように、何度も何度も頭を左右に振った。
 まだ暗黒の山林はうっそうと続いていた。人の気配を察した野鳥たちが、木々の梢でばさばさと騒いだ。
 と、その時またしても、前方に人影らしく動くものが眼に入った。おまけに泣き声のようなものさえ聞こえてくる。
 もう騙されないぞと、慎重に迂回しながら通り過ごそうとした。小さな男の子が、両手の手の甲を目にやり、泣きじゃくりながら立っているのが見えた。放っておくのが忍びなかった。
 とにかく、ここを離れるんだ、走るんだ!とばかりに駆け出していた。が、さあぁと、一抹の不安がよぎるのだった。本当の迷子だったらかわいそうだと。
 その時、金属音のような高さで「おかあちゃーん!」という叫びが背後から反響してくるのが聞こえた。不安が的中したことを知るやいなや、今走ってきた方向へと、急いで駆け戻った。
 泣きつづける小さな男の子の手を引き、ゆっくりと歩き出した。これで良かったと思いながら歩いた。
 さほど年の違わない自分も今、病院にいる母のもとへと向かっているのだった。弱々しく微笑む母の姿が思い浮かび、涙が頬を伝わって流れた。
 左の手の甲で涙を拭った。と、男の子の手を携えていた右手が軽くなっていることにハッと気づく。またもや、と、咄嗟に右手に目を向けた。案の定、男の子などはどこにもいなかった。手にしていたのは、小さな金属片、メッキの剥げかかった真鍮の小さなスプーンであった。呆然として力が抜け、手からスプーンが滑り落ちた。スプーンは、アスファルトの山道に落ち、高い金属音を反響させた。
 拾いあげながら、再び母を思い出していた。
 「これは、おまえが始めて食べ物を口にした時に使ったスプーンなの。大事に持っていてね」
 スプーンをしっかりと手にしながら、流れ出る熱い涙を拭おうともせず、早足で歩き続けていた。
 やがて、林が途切れた。月明かりが静かな夜を照らしている風景が見え始めた。下り坂のかなたに、母のいる白い小さな病院が、さみしく見え隠れしていた。

 窓から差し込む朝日のまぶしさで目が醒めた。はっきりとした夢の流れが、まだ頭の中を駆け巡っている。私は、窓をわずかに開け、窓際で煙草に火をつけた。
 なんと言う、緊張感にあふれたせつない夢だったんだろう。枕カバーが濡れているのは、夢見ながら涙を流すといった器用なことをしていたんだろうか。
 さて、今日は、このリアリティに勝る一日が展開すればよいのだが……(2001/06/08)

2001/06/09/ (土)   またまた、祭りの最中なのに「町内パソコン教室」堂々第四回!

 ええ〜、今日はちょっと気分が滅入っています。ひょっとして、みなさんもそうかも知れませんが、昨日大阪であった何とも残忍な事件のせいなんです。ちょうど私の孫たちもあの子たちと同じ年頃です。それだけになおのこと、かわいそうになります。
 おまけに、なぜあの子たちが死んだり、怪我したりしなければならなかったのかという点に説明がつかないだけに、やり場のない気分になるんです。精神的な病の人を野放しにするなとかも言われています。私もいろいろと考えてみたんですが……。いやっ、こんな話していていいんですかね。えっ?田中さんの奥さんが?是非聞かせてくださいって?
 じゃあ、みなさん、今日はパソコンの直接操作からは離れますが、もう一歩踏み込んだレベルのパソコンのお話へと繋ぐということでお話させてもらいます。
 それでですね、昨日のような犯罪ですが、精神的異常者の問題というより、だってそうでしょ、そうした人たちを無くしたり隔離したりすることは不可能ですよ。むしろ、そういう者がなぜ簡単に小学校に入れたのかという点が気になりました。銀行なら、たとえ裏門にしても、厳重な警戒設備が施してありますよね。異常者にとって、子どもは金銭と同じターゲットであることは、米国の犯罪で示されていますよね。ボーダレス時代、特に犯罪については、米国も日本も違いがないと見たほうが適切なんでしょうね。
 今回の犯人は、かつて「校務員」として雇われていた経緯があったようで、それはそれで怖いのですが、今は「校務員」の制度はどうなってるんでしょう?無防備な者たちを預かる学校の制度を司る者達の状況判断、時代判断に甘さはないのでしょうか?
 警察にしても、現在の犯罪水準に追いつけない状態で、後手後手に回っていると懸念されてもいますが、問題は、現代という時代がどんな時代なのかに対する能天気の指導者が多すぎやしないかと感じます。
 いや、私が強調したいのは、警察だとか、お偉いさんとかをしっかりさせて、これらにあいかわらずお任せ!依存!しようといったスタイルではなく、われわれ日本人は、環境変化に対応した警戒心や自衛心をもっと養う必要がないかという点なんです。何が起こる可能性があるかということへの聡明な想像力を発揮していないことが問題だと思えるんです。確実に言えることは、現在発生している凶悪犯罪は、社会のいろいろな意味でのアキレス腱をねらったものだということです。犯罪者たちとて臆病な人間であり、防御の固い部分をあえて狙うはずはないのですから。
 警戒心を強調することは、人を見たら泥棒と思え、と叫んでいるようで甚だ恐縮ではあるのですが、素晴らしい隣人、優しい隣人ばかりが社会を埋めていると、何の根拠も無く信じる方が甘えと言われてもしょうがないんじゃないでしょうか。どうです?言いにくいことをあえて言いましたが、賢いはずの大人たちが、こうした客観性を持たないかぎり、子どもが犠牲になり続けて行くじゃないでしょうか。
 さて、パソコンの話に移行してゆきます。
 第一点。パソコンは、パーフェクトではなく、トラブルがつきものである!という話です。決して、パソコンは古き良き時代のように安定してはいません。いつ何時に「フリーズ(固まって動かなくなること)」したり、立ち上がらなくなったりいろいろです。なぜかと言うと、ユーザーによって使い方が千差万別であるからなのです。他の電化製品は、用途がひとつに決まっていて、洗濯機に映像を期待する人はいないでしょう。これに対して、パソコンはまさに多機能であり、それぞれの機能の使い方も、「デフォルト」という標準以外にいくらでも自分自身でオプション変更が可能になっています。「パーソナル」コンピュータですから、自分の使い勝手によっていろいろ変えられるわけです。そこに良さがあるわけですが、逆に、メーカーが予想できなかったトラブルが発生したり、他人のパソコンは、ベテランでもよく分からなかったりすることが生まれます。したがって、パソコンは、基本的には、自分で管理し、発生したトラブルは自分で解決することが目標となるのです。というより、それしか方法がなくなっていくものなのです。
 現代の社会も、いろんな人々が、それぞれの思惑を抱いて参入しているのですから、トラブルがないわけにはいかないのかもしれませんね。そういう「パーフェクト・ワールド」からほど遠い現状を念頭において、どうするのかを考えましょう。
 第二に、今の点と関係していますが、ウィンドウズ以降、ウィンドウズ自体がそうですが、ソフトは、ユーザに対して、つねに選択・判断を求めてきます!プリンターにしても、「用紙の方向は?」とか、「カラーor白黒?」とか、「枚数は?」とか、上等なレストランへ入った時のわずらわしさ(?)さえ感じるかもしれません。
 これは、ユーザが多様化していることを大前提にしているんですね。日本人のように、食堂に入って「じゃ、オレも同じもの、そうセットで」と言って済ますレベルと違うんですね。
 しかし、この自分なりの手続きは重要だし、腕が上達すればするほど、逆に有難いとさえ思うようになってゆきます。もの作りをするようになれば、こうした条件設定があるから、こんなことができるんだと感謝するようになってゆくはずです。
 冒頭の話の「警戒心」云々も、多様な人間と多様なニーズの現代というこの辺の話と関係づけて考えればどうかと思っているのです。自分自身の考えを培ってゆくべし!
 最後に、パソコンはコミュニケーションの道具!だという点です。シングル・プレーのゲームだけやってるとさほど気が付かないわけですが、パソコンでやることは、基本的にはその結果が他者に関係しているんですよね。インターネット、メールはもちろんのことです。文章作成も、読み手を想定しなければなりません。そもそも、あらゆる「情報」は個人で完結するものではなく、他者との相互関係の中で意味をもつものなんですね。だからインターネットにしても、受信だけでなく、発信もあってこそ「inter(相互の)」ネットなんですよ。他者への想像力を育ててゆく必要があるわけです!
 そんなわけで、今日は、子どもたちの死が、不条理のままであってはならないと思い、いろいろと大人たちに関連すること考えてみました。来週は、いつもどおりのパソコン教室にしましょう。(2001/06/09)

2001/06/10/ (日)   人とは話してみるもんだねぇ〜!

[東海林] どなたでしょうか?
[キムラ] 今日は。あっ、そうか。志村さんは、日曜が休みになったんだぁ。あ、オレね……、パソコン教室で志村さんにお世話になってるキムラって言います。祭り見に行った帰りなんだけど、ちょっと志村さんとお話できればと思い寄ったんス。
[東海林] 残念でしたね。オレ、アルバイトで日曜は詰めている東海林です。まだ、新人なんですけどね。そうですか、パソコン教室に参加してるんですか。志村さんから話は聞いていますが、みなさん熱心だそうですね。ええ、オレはゲームとインターネットくらいかな。ああ、よかったらお茶でも飲んでいきませんか。
[キムラ] 志村さんと食べようかと思って、祭りでたこ焼き買ってきたんで、いっしょに食べるとしますか。
[東海林] 品川神社の祭りはどうでした?今日は最後の日曜だから結構人足が多かったでしょ……。
[キムラ] そうね、まぁ毎年あんなもんじゃないですか。それはそうと、店張ってるテキヤの商売はあれで食ってゆけるのかなぁ?どう思います?
[東海林] それこそ、フーテンの寅次郎みたいに祭りの場所追っかけて渡り歩くんじゃないんですかね。よく知らないですけどね。
[キムラ] 東海林さんは、普段は何されてんの?サラリーマン?いや、ちょっと待って、当ててみましょうか。カメラマン!違いますか?
[東海林] ええっ、どうして分かりました?カメラマンというほど上等じゃなくて、助手なんですけどね。このアイルにある放送局に出入りしてるんですよ。だけど驚いたな。オレってそんなふうにみえますかね?
[キムラ] だって、その机の上にずいぶんプロフェッショナルなカメラが置いてあるじゃないっスか。それ、ペンタックスのプローニー版でしょ。
[東海林] ええ、中古なんですけどね。じゃあ、オレもキムラさんの仕事当てましょうか。まず、営業、何かの営業ですよね。ただし、失礼ですが、ひょっとしてつい最近辞めたとかしてません?
[キムラ] いやー、参ったなぁ。志村さんから話聞いてたの?
[東海林] いや、そうじゃなくてですね、愛想がいいからそうじゃないかと思ったのと、ほらっ、最初名前を言う前に、名刺入れかなんか探るような素振りして途中で止めましたよね。
[キムラ] スゴイ観察力だぁ!カメラやってるとそうなるもんっスか?
[東海林] そうだかどうだかは分かりませんが、人の表情や動作には結構関心が強くなるかもしれませんね。だって、写真はただ撮ればいいっていうもんじゃないですからね。テーマをいかにして際立たせるかが勝負ですから……
[キムラ] そーなんだー。オレもね、不動産の営業やってて、人の品定めには結構苦労したんで、それなりに眼力はある方だと思ってきたけど、東海林さんって見かけによらずスゴイんだ。志村さんも見かけによらずスゴイ人ですよね。ここの人たちには参っちゃうなぁ。
 お見通しのとおりオレは今、無職の浪人者なんッス。えっ?辞めた理由?空しかったんだよね。オレたちの年代だと、食えるってことより、燃えてるっていう実感の方が魅力じゃないっスか。
[東海林] そうですよね。オレだって、カメラマンの助手はいつまでもやってるつもりじゃないですよ。ただ、この道は薄給の助手っていうのが定石だからしょうがないんです。それに、独り立ちのプロになるには、資金も必要だしね……
[キムラ] でも、東海林さんはやりたいことが決まってて、オレより一歩も二歩も先行ってますよ。
[東海林] そんなことないですよ。食えない可能性が高いんですから……
[キムラ] 職業って、ままならないもんっスね。実を言うと、今日は、志村さんからいろいろと情報を仕入れようかと思ったんっスよ。一時は偉そうな展望を披露したんだけど、ジワジワと不安が忍び寄って来るんっスよね……。この不況で、みんな金使わないようにしてるでしょ。そんな時に新しいこと始めようとしている自分は、すごいムリなこと考えてるんじゃないかってね……
[東海林] でもね、キムラさん。余ってる金を吐き出させるビジネス観は古いんじゃないですかね。オレたちの時代は、もうそんな甘いもんじゃないと思いますよ。例えば、決して吐き出さないつもりで飲み込んだ鵜の胃袋の中の魚を、見事に吐き出させるのが鵜匠ですもんね?
[キムラ] イヤー、東海林センセー、参った参った!スゲェー勇気づけられちゃった!(2001/06/10)

2001/06/11/ (月)   異常な時代を生きる術(すべ)!

 あれっ、東海林くんからのメールだ。何だろう?
「志村管理人 様
 昨日の午後、パソコン教室にご参加のキムラ様が、たこ焼き持参で立ち寄られました。志村さんと仕事に関してお話がしたかった模様です。これからの仕事のことで、やや考え込んでおられたご様子でした。週明けにでも、再度訪問したいと言っておられました。相談にのってあげてください。以上。東海林より」
 そうか、それなりに悩んでいたんだ。
 えーと、それから小柴さんからもメールが入っているな。なになに、品川神社の祭りの写真とコメントをまとめているところだということだね。そうか、そうか、岩崎さんも準備しているそうだから、そうすると近々『台場小同窓HP』では、「お祭り特集」か何かが組まれるっていうことかな。楽しみなもんだね。
 あとはDMだから全部削除と。

 しかし、なんだねぇ。こういった不景気かつ異常なことが続くいやな時代は、何にということはなく、ためらったり、うろたえたりするとまずいようだね。こういう時は、自分のやるべきこと、やりたいことに、忙しく没頭するというのが鉄則じゃないんだろうか。効果があるとかないとか、儲かるかどうかなんて誰にも分からない時代だから、みんなが臆病になり、模様眺めをして、そして身体がどんどん冷えてゆく。これがまずい!スポーツ選手が、競技の順番待ちの際、一番気にとめているのは、身体が冷えて筋肉が萎縮したりして、せっかくのウォームアップ状態を損なうことなんですね。
 それにアクティーブになっていないと、頭やこころに、ろくなものが忍び込んでこないとも限らないですね。不安と疑心暗鬼が充満している環境では、うろたえているといつでもそれらのがんじがらめを食らってしまう。
 ただ、やるべきことを確信するのは、それはそれで結構難しいかもしれない。自分が、やるべきだと考えたこと、それを万人が拍手して迎える時代でない環境が現代の多様化時代ですからね。べき論だけを振り回していると、やがて愚痴が吹き出てくるはずの時代です。
 やるべきだと考えたこと、その根っこにやりたいという願望があるかどうかを確認することが重要なのかもしれません。むしろ、やりたいというエネルギーをこそ大切にしたいところなんですが、これまた、何がやりたいのか分からない人が決して少なくないのも現代。この辺の袋小路状態が、今という時代の特徴なんですかね。
 一番の問題は、ろくなことしか考えないということでしょうか。あるいは、現代に適合していない考えの様々に、頭が縛られ、身体つまり行動が縛られているということかもしれませんね。
 だんだん小難しいこと言いだしてるのが、じぶんでも怖いのですが、考えというか知識というものは、単品購入ができないセット販売的な商品に似てるんですよ。よくあるでしょ、「まずこの部分だけでもお使いいただいて、よければどんどん追加してくださればいいんです!」と言って最初は比較的安い価格の部分を置いてゆくといった商品が。で、それを買ったが最後、ズルズルと総額十何万円、あるいは何十万円もするトータル・セットにはまり込んでゆくというケース!
 どうもわれわれは、いたるところで、知識のセット販売のセールスに巻き込まれているような気がするんですよ。そのセールスの大手は、いうまでもなくマスコミです。
 ちなみに、よくニュースなどで聞きますよね。「この長引く不況の中、……」と。「長引く(不況)」というせりふは、間違いなんですね。これは、今までの日本経済にあったに一時的な需給バランスの崩れによる景気後退の形容詞なのであって、現在のような構造不況、致命的不況には不適切なはずです。
 そして、この「長引く(不況)」という形容詞を受け容れると、次第に経済の構造改革のリアリティが遠のく気分になる仕掛けになってるんじゃないですか。
 そんなもんで、私は、もうだいぶ前から、自分の実感を頼りに生きる、良い意味でも悪い意味でも意固地さを持とうと決意しました。大袈裟に言えば、考えること、知識の自給自足体制ですかね。ただ、決して鎖国といった引きこもりはしませんけどね。(2001/06/11)

2001/06/12/ (火)   お客様は神様です!を本格的に!

【志 村】 やあ、いらっしゃい!こないだの日曜日に来たんだってね。知らなかったんだ〜、日曜が非番だってこと。
【キムラ】 いやー、うっかりしてました。というより、最近ちょっとおかしくなってるんスよ。メシもあんまりうまくないし、頭のさえも悪くなってるようだし……
【志 村】 まあまあ、立っててもなんですから、お掛けください。コーヒーの方がいいかな。キリマンジャロのうまそうなのを仕入れてあるからね。
【キムラ】 志村さん、どうやったら稼げるんスかね。
【志 村】 え〜?そりゃ唐突なことを。はい、まあコーヒーでも飲んでください。
【キムラ】 オレ、最近こんなことばかり考えてるんスよ。そいで、今まで考えてたこともアブナイかなぁなんて思い始めて、わけ分かんなくなっちゃったんス。
【志 村】 うーむ、ちょっと焦り気味だよね。種撒く前から刈り取りの心配ばかりしてるんだもんね。その発想だと、株への投機か博打しか選択肢はなくなっちゃうよね。しかし、あれは相当の集中力がある人でも、勝てる、いや勝ち続けられる確率はゼロに近いよ。なに大きく頷いてるの?まさか?株やって?退職金が半分になっちゃったって?ありゃありゃ、何て〜こった。
【キムラ】 そいでですね。オレ、どうしたらいいかまるっきり分かんなくて……ううっ。
【志 村】 泣いたってしょうがないでしょ。まあ、しばし日本経済にお預けしたと、こう考えましょ。ところでね、キムラさんは『 囚人のジレンマ 』って話を聞いたことがありますか?なあに、大した話じゃないんですがね。
 二人の暴れん坊の囚人がいましてね。暴れて自他ともに怪我しないように拘束されてましてね。で、食事の時には、ちょっと悩ましい事態が発生することになるんです。二人の真中に置かれた食事、二人がそれぞれ持つスプーン、しかしどういうものか自分のスプーンで自分の口に食べ物を運ぶことが不可能になってるんです。相手の口もとにしか届かないようなシステムになってるんですね、どういうものか。さて、囚人たちはどうするか? 喧嘩相手の二人だから、最初は、「だれがアイツなんかに食わせるものか!」の心境が延々と続き、食事は下げられてしまった。が、空腹に耐えられなくなった二人は、ようやく相手に食べさせることによって、自分が食べさせてもらうという「ギブ&テイク」を学んだという話なんですよ。
【キムラ】 だけど、どんなに口約束したって、ギブしたら必ずテイクできるって保証はないですよね。
【志 村】 ないね。だけど、ひと匙の食べ物を騙し取っただけで、続けて二度と食べられなくなるような選択を人間はするだろうか?普通は、ひと匙の食べ物は、大きな食欲への引き金にさえなるもんでしょうね。
【キムラ】 で、今のオレとどう関係してるんスか、この話が?
【志 村】 キムラさんね、今のキムラさんは、相手から差し出されるスプーンだけをただただ期待しているっていうとこじゃないですかね。あるいは、「早く、オレに食わせろー!そしたら、おまえに食わしてやるー!」て叫んでいるのかな。
【キムラ】 …………
【志 村】 この世知辛いご時世で、私はのん気に「善人の勧め!」をしているんじゃありませんよ。どうも、米国ではこの辺が当たり前になりつつあるらしいですね。いわゆる「パーミッション・マーケティング」と言うのだそうです。
 これまでのビジネス世界は、モノを造ったり、売ったりする方が主導権もってえばってましたよね。しかし、大量消費・大量販売の時代が去り、消費者の好みで多品種少量生産の時代になると、消費者の「こいつはいいーわ!」という「パーミッション(許可、許諾)」が主導権を持ち始めたんですね。まさに、「お客様は神様です!」というわけです。まして、インターネットの時代だと、逆オークションという舞台が成立するくらいですから、ただただ「買えー!」って叫んでもダメ、見え透いた愛想笑いしてても、「売ってやってるんだ」というこころ根が潜んでいたらこれもダメということなんでしょうな。
 プレ・サービスということもあるんでしょうけど、お客さんと商売以前に、どう一体化できるのかということじゃないでしょうかね。もっと言えば、商売は日常の様々なものの結果ということですかね。
 具体的な絵図面は、それぞれのベンチャーが考えるべきですが、頭だけ抜け目無く使っていきなりベンチャーなんていう構図は今後ないでしょうね。先のハイテク・バブル株崩壊が最後だったんでしょうな。米国でも、ビジネスとNPOが境目を薄くし始めているとか聞きますね。あのガルブレイスがNPOに入れ込んでいるらしいですよ。
 経済的動機以上に大きく豊かな動機を持つことが、次第に重視されるようになるんじゃないでしょうかね。
【キムラ】 オレみたいに、金のことばっか考えてたらダメっスかね。
【志 村】 今、日本人全体が反省してるんじゃないのかな。だから最近「幸福論」なんかが、また流行りだしたんじゃないの?私の場合、今、幸福だと言い切れます!ただし、金はありません!(2001/06/12)

2001/06/13/ (水)   「貘(ばく)」が食べちゃって、漠然となった記憶?

 最近はどうも楽しい夢を見なくなってしまった。昨日も、どちらかと言えば不愉快な思い出が中味だった。時は、高校時代、好きになれなかった代数の授業、そしてエスケープ(さぼり)しながら、「まずいかなぁ……」なんて心配しているといったいやーな夢でしたわ。
 どうしてこの類のいやな記憶が残っているもんなんですかね。いやな記憶は、日頃思い出さなくとも、深層心理に食い込んでいるんですかね。
 ところで、唐突ですが、人間が三歳位までのことを覚えていないのには、れっきとした根拠があるそうですね。単に、記憶力の良し悪しの問題だとしか考えてこなかったんですが、もっと科学的な根拠があるそうです。「三つ子の魂百まで」ということわざがありますが、幼少時代の性格は一生変わらないというほどの意味で、直接、記憶には関係ないですが、「三つ=三歳」と仕切っているのが面白いですよね。
 また、三歳までの教育が大事だとも言われていますよね。ピアニスト、バイオリニストなどなどのいろいろな天才たちは、この時期までの親の影響が効を奏したのだと聞いたこともありました。
 さて、三歳位前までの記憶は、何故消えているのでしょうか。それはですね、「貘(ばく)」という動物がみんな食べちゃったからなんです。だから、たとえ記憶があったとしても漠然としている、なんちゃって。冗談です。
 言語の問題だそうです。記憶とは、言語によって、頭の中で整理された事実なのだそうです。したがって、三歳前後で言語能力が発揮されてこそ記憶が蓄積されてゆくということらしいのです。合点がいきますよね。ガテン!ガテン!ガテン!
 三歳位までに発達するのは、感覚機能、運動機能のようです。で、これらを勝負とする職業などは、ここまでの期間をそれなりに重視する必要がありそうですが、いわゆる言語能力と密接に関係する知能は、人間の場合、何と十五、六歳まで発達を続けていくということらしいですよ。三歳までの教育どころか、十五、六歳まで効果的な教育が可能だということですね。いわゆる日本の義務教育期間がやはり重要な期間のようですね。
 もっとも、この時期が過ぎたら勉強してもムダというわけでは決してないのでしょうが、十五、六歳くらいまでの能力の蓄積がその後の学習の好材料になるということなんでしょうか。
 私のような六十過ぎた年寄りの場合はどうなんでしょうかね。発達することなんか望みようもないわけで、どう現パワーを維持してゆくかが課題ですが、これとてなめてるとメキメキ衰退しそうな気がします。
 言語能力に刺激を与え続ける努力が絶やせないと思っています。文章作成だけじゃなく、読書、そして多くの人との対話など、これらが重要かと。
 それにしても、今どきの若い世代の言語能力(=知能)の方は大丈夫なんですかね?まあ、人様のことより自分の心配をするのが先ですか。(2001/06/13)

2001/06/14/ (木)   「産湯を捨てて、赤子を流す」の愚を避けたい!

 河島英五が四十八歳でつい先ごろ亡くなりましたね。日本の男のこころをテーマにしたシンガー・ソング・ライターとして好きな存在でした。歌謡曲のようにクサくはなく、それでいて崩れ行く日本の男の叙情を、自身のパーソナリティに根ざして切々と歌い上げる姿は多くの人の共感を呼んだようですね。『時代遅れ』という曲が、彼の良き一面を象徴していたのかもしれませんね。
 しかし、本当の魅力は、『時代遅れ』の頑固さを持ちながら、関西人の明るく、オープンなキャラクタによって現代化しているところかと思います。
 今、グローバリズムの風潮の中で、日本文化がある種、肩身の狭い立場に置かれているのかもしれません。うわべだけの観点で、「偏狭」だとか、「民主的でない」とかいろいろと……。
 確かに、日本の伝統文化(個々の文化ジャンルがどうこうではなく、人々の発想を含むゆるやかなくくりで)には、非現実的なものも少なくありませんね。特に、歌謡曲の女性像なんてものは、思わず「そんな女、いないいない!(バァー)」と言いたくなりますよね。「耐えて、黙って、あなたの後をついてゆく……」なんて、昨今、かわいがられ過ぎて増長している犬っころでさえ、そんな真似はしませんよ。
 そのほか、相変わらず日曜日になるとがなりたてている街宣車から流される戦争色に染まった歌、これもいけません。
 戦争と言えば、私なんぞも、「学徒出陣」に狩り出された学生たちの手記を読むと、涙が止まらなくなるほど切なくなります。だからといって、靖国神社へ参拝にゆくといった短絡的発想にはならないんですよ。
 ここが、この辺が大事なとこじゃないですかね。
 つまりですね、日本の文化もローカルな一文化ですから、素晴らしいものとそうでないものが玉石混交なんですよね。だから、贔屓目に見過ぎたオールOKはできない、かといってオール・キャンセルという、「産湯を捨てて、赤子を流す」といった愚もしたくない。さて、どうするかというのが、現在の問題ではないかという気がします。
 いま、「君が代」だとか、「国旗」だとかを制度で縛ろうとしているのは間違いだね。いくら、ほっとけば日本人がアメリカン・カルチャー一色に染まってしまう、またはコスモポリタンとなってしまうかもしれないにせよ、お上が口出ししたり、ごり押ししたりしちゃいけませんわな!三島由紀夫にしたって、そんな荒業がムダだと悟って早期決着しちゃったんじゃないんですかね。こと、文化に関して「北風!」はご法度なんですよね。
 どうしたら、国際的にも十分通用するし、それだけの普遍性をもった日本文化の中の優れものを、単に時代環境のあだ花でしかなかった他の日本文化と区別して継承していくのかという、他人事ではない切実な問題を見つめ続けたいと思います。(2001/06/14)

2001/06/15/ (金)   老いて知的充足を楽しむ!

 オーナーからメールが届いているな。どれどれ……

「 志村管理人へ、from 廣瀬

 いつもご苦労様です。毎週、パソコン教室の方もお疲れ様です。志村さんはいろいろな経験がおありですが、それでも人に教えるということは大変なことのはずです。しかし、そのお年でがんばろうという姿勢に敬服します。どうか、継続させてください。

 さて、私の方は、この間力を傾けていたセミナー準備が、ようやく昨日で無事終了しました。町田市の教育委員会の依頼を受けて、生涯教育を目的とした市民大学で、例の液晶プロジェクターを活用して、たっぷり二時間の講義をしてきました。
 受講者は五、六十歳台の方たち数十名で、熱心に聴いていただき、皆さんにご満足いただいたようなので、労が報われた感じです。
 グローバリズムに関する継続講座のひとつとして、『IT革命とグローバル化……情報リテラシー問題の視点から……』(副題:IT環境も人間が決め手!)と題する内容でした。アウトラインは、インフラ整備のみに注意が向けられるIT革命論議を最初に批判し、IT革命とは『ネットワーク・コミュニケーション革命』であり、人間側のコミュニケーション能力の向上、対話能力の向上といった重要な課題があることを、『情報リテラシー=情報活用能力』の向上という問題を素材にしながら強調するといった流れです。
 かなり込み入った内容を、どうしたら年配の方たちに理解していただけるかが、苦労のポイントでしたが、プレゼン用のソフトである「PowerPoint」が効を奏したかと思っています。立体グラフ表示、アニメーション、サウンド、合成音声などをとことん動員して、なおかつ講義中は、、パソコン操作をしながら、ヘッドフォン型マイク装着でしゃべるといったマルチプレーでこなしました。
 そこそこに内容が重いテーマを、限られた時間で説明する際にはマルチメディアをフル活用する必要があることを今さらながら痛感しています。
 丸腰で話すだけの訓練もそれなりにしてきましたが、しばらく前からはこのマルチメディアスタイルの講演に切り替えるようにしています。それというのも、丸腰話法は、どうしてもアバウトな話、感情に訴える話に流れがちな危険があると思えるからです。
 しかし、かといって論理的なスジだけでは聴衆はついてきてくれないので、臨機応変な話法の意義も重要であることには変わりませんけどね。
 ところで、社会人教育、生涯学習と言うんでしょうか、こういったものは重要だな、と感じました。年配の方たちの知的学習意欲は切実なものがありそうです。まして、若い時代に様々な障害を抱えて機会が与えられなかった方々にとっては今こそという気合の入り方になるのでしょうか。多分、自分も生涯、知的充足を追っかけていくような気がしています。志村さんもね。
 それでは、よろしく頼みます。ではまた」

 そうなんだよね。経済だ、金だってばかり叫んでたって、金を持って三途の川渡れるもんじゃないんだよね。生きてる間に、とことんこの世の不思議を解き明かす知的興奮を楽しみたいもんだと思うよ。
 こういう言い回しをすると、そういう発想はお金がある人の贅沢なんだと言う人がいる。だけど、知的欲求を満たしてゆくのにそうお金がかかるわけではないし、むしろお金は追っかけてゆくと虜になってしまうように私は思うがね……。海水は、飲めば飲むほど喉が渇くようにね。(2001/06/15)

2001/06/16/ (土)   PCの考え方に慣れよ!「町内パソコン教室」堂々第五回!

 さて、皆さんおそろいでしょうか?
 もう吉永さんなんかは、インターネット始めてますよね。ああいいんですよ。自宅ではまだつないでないんだもんね。じゃ、またあとでやらせてあげますからね。
 さっき、吉永さんがネットサーフィンしていてこう言ってましたよね。
「このページ素晴らしい!この図表と解説だけ記録したいわ!」ってね。一度訪れたWebサイトを記録するには、@「お気に入り」というアイコンをクリックして、URLというアドレスを記録しちゃう方法、A「キャッシュ」という一度訪問したWebサイトの個々のパーツの自動記録を、ブラウザを立ち上げた時に「オフライン作業」を選択して再利用する方法、BフリーウエアのWebサイト記録ソフトを使う方法などがあります。
 もちろん、写真やグラフィックなどビジュアルな画像だけを記録したい場合は、その画像にポインタをもってゆき、マウスの右クリックで「名前を付けて画像を保存」とすれば指定のフォルダに保存できます。
 ただ、とにかく急いでいる時など、ディスプレイに写っている範囲をそっくりそのまま記録しちゃうという簡単な方法があるんです。いわゆる「画面のハードコピー」と言うんですけどね。
 今回は、画像処理というと大げさですが、文字入力以外の画像を扱う上で、初歩的なポイントをいくつかお話することにしましょう。それで、最初がこの「画面のハードコピー」なんです。とにかく、ディスプレイに表示されているもの、絵であろうが文字であろうがすべてを、画像としてコピーしてしまうので、何かと便利です。
 じゃ、ちょっと試してみますか。いま、皆さんのディスプレイには何が表示されていますか?何でも結構ですよ。そうしたら、キーボードの右上の方に、「PrintScreen」または「Prtsc」などの省略表示になっているかもしれませんが、そんなキーがありますね。それを一回押してください。あっ、そうそう、Note PC の場合は、左下にある「Fn」などのキーと同時に押さなければならない場合もありますから注意してください。さぁ、できましたか?
 そうしたら今度は、「スタート」→「プログラム」→「アクセサリ」→「ペイント」を順次クリックしてお絵かきソフトの「ペイント」を開きます。ほかに画像ソフトをお持ちの方はそれを開いていただいてもよいのですが、ソフトによっては、この方法に対応していない場合もあります。
 「ペイント」を開いたら、「編集」→「貼り付け」をクリックします。ダイアログ・ボックスが表示されますが、「はい」をクリックします。さて、どうでしょう?先ほどの画面全体が表示されましたでしょ。とりあえず、これを、「ファイル」→「名前を付けて保存」で保存しておきましょう。その保存の際に、ひとつ学んでおくべきことがあります。 前々回でしたか、文章の保存には「〜.txt」という拡張子が付くというお話をしましたが、画像も特別な拡張子が付けられるのです。主な拡張子は次のとおりです。
 @「〜.BMP」………………基本的な画像拡張子で、24ビット、256色、16色などのグレードあり。圧縮されていないのでファイルボリュームが大きい。
 A「〜.JPG、〜.JPEG」……自然風景などに適する圧縮された画像ファイル。
 B「〜.GIF」………………グラフィックなどに適する圧縮された画像ファイル。
です。とりあえず、皆さんは@の「ビットマップ」ファイルを覚えていただきますが、インターネットで活用する画像は、A、Bという「ビットマップ」ファイルを圧縮して、ファイルサイズを小さくしたものなどです。「ビットマップ」ファイルという大きなものをそのまま使うと送信に負荷をかけてトラブルを誘発するからなんですね。
 ということで、「ペイント」では、何か分かりやすい名前を付けて「〜.BMP」というかたちで保存しましょう。そして、保存したファイルを 再度開いてみてください。画面とそっくりですよね。この画面を元にして、いろいろと画像編集することもできますし、文字部分を見ながら、ワープロにまともな文字として打ち直すこともできます。いろいろな用途があり、PCを使い慣れてゆくとこの方法のありがたさがじわじわ分かってきます。 ところで、この方法は、要するにPCによる画像の「コピー」&「貼り付け」の原点なんです。文章でも、このことをお話したはずですが、この辺がPCの良さなんですね。PCでは、とにかく同じものを扱う際に、手間がかからないように仕組まれているわけなんです。だから、この辺の原理を人間はうまく活用して、効率を上げるなり、データの安全を確保した上でいろいろな加工をしたりできるんですね。
 それから、今日はあとひとつ「手順」の問題の基本をお話して終わりたいと思います。 人が、何かモノを作ったりする場合「さあて、何を、どうするかだ!」という言い回しをよくします。この順番、つまり@対象を決めて、それからA処理を選ぶという原理が、PC操作でも大原則なのです。
 例えば、先ほどのハードコピーの画像から、あるアイコンの部分だけを抜き出してファイルにしておきたい場合、@対象範囲をツールを使って指定する、という動作をしてから、その部分を「コピー」するという指定をするわけです。そして、そのあとはいろいろ異なるでしょうが新しい領域に貼り付けたりするわけですね。
 この「対象指定」→「処理指定」という段取りは、PC操作での定石だと考えておきましょう。インターネットでも、URLという「対象指定」をして「接続」という「処理指定」をしなければなりませんものね。
 PCの操作に慣れてゆくということは、PCのソフトの共通した考え方、使い方に慣れ、多分こういう場合は、こうすればいいはずといった推定までできるようになってゆくということなのですね。
 それじゃ、実習に入りましょう。
 ススッ、ススッ(マウス操作の音)、カチャ、カチャ、ガヤガヤ…………(2001/06/16)

2001/06/17/ (日)   アルバイトだらけ!

 今日は、朝からアパート全体の電気工事だった。梅雨時の蒸し暑さの中、私も手伝い重い荷を担ぎ動き回ったためか、どうも気分が散漫となっている。何も考えたくない、というより何も考えられない状態だ。扇風機にあたって、でれーっとしていたいというのがホンネ。
 しかし、電気工事屋さんも大変そうだったな。おやじさんの方はかなりの年配者で、汗かきながらふうふう言っていた。工事の今日が雨でなくよかったと何度も繰り返していたけど、やはり電気工事に雨は禁物なのかな。それとも、久々の仕事だったのかな。
 若い方は、明らかにアルバイトだな。何も知らないし、気も利かないヤツだった。最近は、どうもどこへ行ってもアルバイトだらけで困ったもんだ。あっ、そうかオレもアルバイトだったんだ。
 コンビニ行っても店員のほとんどはアルバイト、食事に行ってもアルバイト店員に出会う。ガソリン・スタンドもアルバイトがほとんどって感じだね。放送局の床清掃のスタッフもあれもアルバイトなんだろうね。道聞こうと思って交番に行ったら、ポリさんまでアルバイト、ってことはないか。オレの会社だって、助手以外はすべてアルバイトで、正社員ではもうすぐ三十になろうというオレが一番の若手なんだもんな。
 こんな景気だと、経営者はいつでも調整できるテンポラリー・スタッフを雇うし、また、若い連中だって、就職に安定性を見出し魅力を感じるなんていう古風な発想ができなくなってるんだよね。こうやって、終身雇用、年功序列を特徴として成立し発展を遂げてきた日本企業は静かに潮を引いてゆくんだろうか?
 しかし、考えてみれば(いや、今日はあんまり考えられないのはさっき言ったとおり)年功序列というのも不思議なもんですよね。生産性の論理ではなく、骨董品オークションの論理ですもんね。いや確かに、生産性の論理が生きづいているジャンルもあることはあると思う。熟練技術を必要とする職域なんかでね。しかし、ここいらも最近ではハイテク・メカトロ技術がカバーし始めているからね……。
 また、終身雇用というのは、「終身刑!」に近い響きを持つんじゃないかなと思うよ、若い連中にとっては。
 「〜くん、入社おめでとう!あなたの優れた勉学の成果は、熱きこころを持った生身の人間なら到底不可能な、冷酷残忍な人生度外視の姿勢の賜物と認め、ここに、弊社による終身刑を宣告します!」なんてね。
 やっぱだめだ、今日は……(2001/06/17)

2001/06/18/ (月)   「飲ミニケーション」なんて言ってる場合じゃないね!

 スピルバーグの『未知との遭遇』という映画はもう二十年も前だったですね。ラストシーンで巨大なUFOと地上の科学者たちが交信する場面が感動的でした。不可能であっても当然の、地球外生物とのコミュニケーションのトリガーを探るそんな場面が、知的感動を盛り上げたことを覚えています。
 なぜ急にこんな話になるのかと言うとですね、われわれ日本人は、今、さまざまな『未知』と遭遇し、それらと冷静に立ち向かい対処しているとはとても言えず、残念ながらそれらの前で右往左往し、ただただ不安の虜になっているとしか言いようがないように思えるからなのです。
 未曾有の不況や、もはや不可避である経済の構造改革が最大の『未知』なるものでしょうね。しかし、やっかいなことに、こうした比較的つかみどころのある対象以外に、ちょっと捉えにくい『未知』なる現象が折り重なっているようにも思えるんです。これは、先進国全体の問題なのかもしれません。
 変な例えをすると、どうも最近身体の調子がおかしいので、調べてみたら長年の不摂生がたたって肝臓がやられていたとしましょう。なあに、若い時からの頑強な身体だからと、過去のイメージに寄りすがっていたところ、年齢的に成人病が進行していて一筋縄ではいかない事態に突入していた、といったところでしょうか。
 先進国全体の成人病のような問題とは何でしょうか?環境問題だと言うこともできるでしょうが、もっと日常的で切実なコミュニケーションにまつわる問題に注目してみましょうか。
 コミュニケーションというと、われわれ日本人は、意思疎通とは言いながら、意思とは言葉にならない胸の内、腹の内の、要するにホンネの感情を指し、それが互いに分かり合うことを意味しているようです。職場などでしばしば「飲ミニケーション」という表現をするのがこれですね。確かに、感情や心情を共有することは重要なことではありましょうが、コミュニケーションはこれに限られるものではないわけです。いや、むしろもっと頻度が高いかたちで、淡々とした事実を伝え合い、互いのスムースな行動を促し合うといった部分の方が比重が大きいとさえ言えるはずです。
 仕事の場にしても、教育の場にしても心情の共有もあればあったに越したことはありませんが、むしろ仕事内容に関する手順であるとか、計画であるとか、あるいは教育においては、事実の構造であるとか、考え方の進め方とかという感情とは区別された事実を伝え合うことが重要であり、これはコミュニケーションの骨格でさえあるわけです。
 そこで、漠然としたニュアンスを持つコミュニケーションという用語を避け、「インストラクション」と呼ぶ人もいるくらいです。
 それで、現在、先進諸国で起きている問題というのは、このコミュニケーションに関して新たな難問が発生しているということなんですね。象徴的な事柄で言えば、いわゆる『マニュアル』がいろいろな場面で必要となっているにもかかわらず、この辺が実にうまくいっていないということだと言えましょうか。言うまでもなく、『マニュアル』とは読み手に、これから情報を伝えられ、スムースな行動を実現するための、まさにコミュニケーション(インストラクション)の集積物なんですけどね。
 例えば、『マニュアル』と言えば、機械、PCなどがすぐに思い当たるわけですが、いっこうに機械オンチやパソコンオンチは減らないのが実情ですね。しかし、考えてみれば、機械、PCなどはこれからはわれわれの身の回りで増えこそすれ、減ることはないはずなんですよね。だからこれは、大変な問題のはずです。
 また、先進諸国の仕事の現場は、いろいろな観点で『マニュアル』を必要とする場面が増え続けているのです。昨日の東海林さんの日誌のように、あらゆる職場でテンポラリー・ワーカーが必要となってきていること、しかも流入外国人とならざるを得なくなることも想定されます。となれば、これはマクドナルド・ハンバーガーショップなどを思い浮かべれば分かるように、未経験者に、期待する水準の作業を短時間でマスターしてもらうための『マニュアル』が必須になるんですよね。
 しかし、簡単な作業であれば、『マニュアル』も簡単に作成でき、それで期待どおりの成果も上がるんでしょうが、そんな仕事ばかりじゃないどころか、先進諸国の重要なビジネスは、ますます高いレベルの知的情報を駆使した複雑な仕事が増えています。『マニュアル』などに表現しにくい複雑さと微妙さを抱えているんですね。おまけに技術革新の急速さと競争の激化が、時間的な厳しい制約まで与えているのです。
 『マニュアル』は、まず作り手の側で困難さに直面するわけですね。この点は、巷の商品のそれがしばしばユーザーをいらいらさせるだけという粗悪な現実を振り返ってもよく分かります。
 加えて、読み手にも一定の水準が要求されるわけです。一般の『マニュアル』をけなす前に、自分の理解力を高める必要があることも少なくないかもしれません。いずれにしても、『マニュアル』にまつわるいろいろな問題が、とりもなおさず先進諸国でのコミュニケーションが、非常に難しい段階に突入していることを物語っているように思えるのです。要は、とてつもなく複雑な内容を、より短時間で伝え合わなければならないコミュニケーションが、日常生活に押し寄せているということでしょうか。
 日本が鎖国のように閉じられた空間であれば、こんな事態に遭遇することもなかったでしょうし、今後も何の心配をすることもないのですが、ボーダレスなグローバリゼーションを避けることができない以上、旧態依然としたコミュニケーション観念をなんとかしなければ、最悪の「道」との遭遇に至りそうな気がしてならない。
 すでに、コミュニケーションの集積の場である教育の現場からは悲痛な叫び声が……(2001/06/18)


2001/06/19/ (火)   人間側の情報処理装置は大丈夫?

 そうですね、PC経験が十年以上ある人なら、現在のPC環境がどんなに楽になっているかをふっと感じることがあるでしょうね。
 インターネットが本格的に普及してまだ数年ですから、当時は現在のようにメールとその添付というかたちでデータなどを相手先に送付するなどという便利なことはできなかったんですよね。そこで、フロッピーディスクにデータを収納して、それを郵送するという方法となるわけですが、これまた、やっかいな問題がありました。
 当時は、PCと言えば、二種類あったんですね。国産機のNEC製PC−98シリーズと、IBM製の現在主流となっているAT互換機です。共通のOSであるウィンドウズ(当初は、もちろん現在のWindows95以降のような使い勝手のよいものではありませんでした)を載せていても、両者はいろいろと異なっていました。
 フロッピー・ディスク・ドライブの仕様からして、両者は異なっており、フロッピーを相手方に手渡す、送るといった場合にも、いちいち相手方がどちらを使っているかを注意する必要があったのでした。相手方が、NEC製PC−98シリーズを使っている場合は、1.25MB のフォーマットをして、これにデータを収納するという作業をしなければならなかったわけです。。現在は、事実上AT互換機に一本化され、フロッピーと言えば、1.44MB と決まっていますけどね。
 つまり、情報をやり取りする場合、その情報の入れ物であるメディア自体に共通性がなく、人間が接すれば難なく了解できる情報でありながら、その前に機械であるPC同士が分かり合える下準備をしてあげなくてはならなかったということなんです。
 現在は、PC環境がWindowsを中心とした、事実上世界共通に近い環境に統一された観があるためそんな心配はほとんど無用となっています。それでも、例えばインターネット上でデータをやり取りする場合、こちらで使っているアプリケーション・ソフトが、相手方のPCにインストールされているかどうかという懸念事項はありますね。例えば、文書を送るにしても、こちらが最新のWordで文書作成をして、そのデータを送付した場合、先方には、古いバージョンのWordしかない時には、最悪そのデータが開けないということだってあったりするわけですね。また、送信データの容量を小さくするために使う圧縮ソフト(WinZip,Lzhなど)の違いで困ることもよくありますね。
 さらに、メールなどは、セキュリティの観点から、送信されている間は暗号化されていて、開く時点で解読されまともに読めるといったしくみになっていることもあるんですね。ただし、発信側と受信側が同じ取り決めのソフトを使っていないとこのしくみが生かされませんけどね。
 なにをタラタラと書いているのかと言えば、情報のやりとりというコミュニケーションは、発信側と受信側がほぼ同様なしくみを持ち合わせていないと成立しないということなんです。ことわざにある「猫に小判」、「豚に真珠」、「馬の耳に念仏」ということですね。または、もし双方が異なる場合には、双方が何らかの臨機応変な歩み寄りをしなければ、交信が成立しないという、きわめて当たり前のことなんです。 
 しかし、もっとも当たり前だと決め付けてきた、同じ人間なら、同じ言語を使っている人間なら同じ「通信装置(コミュニケーション能力、状態)」を標準装備しているという点は、必ずしも当たり前ではないのかもしれないと思えるのです。
 少なくとも、長い間、この狭い国土の中で同質的な生き方をしてきた日本人は皆同じなんだ!という大雑把な思い込みの類は、完全に破綻していると言えるでしょう。それは、年末恒例のNHK「紅白歌合戦」の視聴率が年々低下している点、国民的規模でのブームがどんな領域でも成立しなくなっている世相(だから今の内閣支持率の数字が額面どおり受け取れないのでしょう)が、それとなく告げているわけです。しかも、人々の背筋を寒からしめる凶悪な犯罪は、同じ考え、同じ発想の人間という漠然とした前提に立つならばその認識がお手上げになってしまうんじゃないでしょうか。
 情報を中間プロセスで処理するIT装置や環境はどんどん整備されて進行しています。しかし、そんな中で、情報を発信する末端と、情報を最終的に受ける末端である人間の、脳とこころという通信装置が、なぜか頼りなくなっているように見えるのが情けなく思えるのです…………(2001/06/19)

2001/06/20/ (水)   すずめたちは、ご立派!

 ★ 緊急速報:「お祭りレポート 第一弾!」を「お便り集」のページでお楽しみください!

 朝、新聞を広げると、一面からテレビ番組面までぎっしりと詰まった情報に辟易とすることがありますね。正直、ホンネで言って、どうして自分とは関係あるとは思えないようなこんなに膨大な情報があるんだろうかってね。
 むかし、『傘がない』という井上陽水の曲がありました。社会でさまざまな事件が起き、それが報じられているけれど、自分の目下の関心事は、この雨の中、出かけようとしているのに傘がないことだ!と歌った、何とも社会性のかけらもない自分本位な歌だったんですね。
 しかし、さすが井上くん、困った時に思い出されるように歌ってたんですね。伊達にサングラスかけて威厳を保っていたわけじゃないんですね。つまりね、わたしたちは毎日、膨大な情報の海で、水難事故直前の危うさを泳ぎ切っているというか、板っ切れにつかまって難を逃れているに違いないわけです。
 もし、一片の板っ切れがなかりせば、そして無謀にも無限に近い大海をマジに相手して泳ぎ切ろうなどと考えたなら、必ずや自分の名前が変わってしまうに違いないでしょうね。成瀬川土左衛門と。
 つまり、いいかげんにしてくれ〜!と言いたくなる情報過多の時代、情報とお付き合いするには、それらを完璧にあって無いがごとしと決め込むアパシーとなるか、自分の関心を鋭くさせ、その針の穴から情報の海の世界を覗くかのどちらかしかないということだと思うんです。たまたま、自分の関心が、雨なのに傘がないという場合もあるかもしれません。しかし、そうだとしても、新聞やマスメディアの頼まれもしない巷の論説委員になり下がることより、自分を持ったリアルな生き方かもしれませんよね。
 こうして、朝の明かりを頼りに新聞を広げていると、窓の外からは小鳥たちのさえずりがにぎやかに聞こえてきます。彼らをかわいいと思ったことはあっても、愚かで哀れな存在よの〜!と感じたことは一度もありませんね。何を突然と思われるかもしれませんが、彼らは、単純なさえずりでありながら多分パーフェクトなコミュニケーションを実践しているに違いないと思えるからです。多分ですよ、まあいつかじっくり調べてみたいとも考えてはいますが、それまでは多分です。彼ら、すずめならすずめは、すずめにしか了解できない仲間同士の鳴き方があって、それ以外のいっさいの鳴き声は、無用な雑音としてシャットアウトしているんじゃないですか。
 きっと(「多分」から「きっと」に何の論証もなくエスカレートしますが……)、猫にしても犬にしても、種族の仲間同士の言葉を何千年も前から、中年おじさんのネクタイピンよりはるかに長持ちさせ、きわめて安定した意思疎通を貫徹させているはずです。
 これはこれで、見上げたもんなんじゃないですかね。人間世界のように、ワケのわからない新語を無造作に作り出したりして混乱をもたらさない聡明さ!力のあるすずめだけが、その権力を維持するために難しい言葉を編み出したり、そしてそれらを庶民すずめに情報公開しなかったりするようなせこさ無き公明盛大さ!他国のすずめとだって、何千年来バージョンアップなしの言語を使っているのだから平気で意思疎通が可能という驚くべき便利さ!ご立派!と尊敬しちゃいます。
 人間が、だからこそ他の動物に水をあけることとなった言葉の発明、そして発展形態としての情報が、どうも今、人間同士を強く結びつける道具であることからずり落ちてはいないですかね。言葉だけの問題じゃないんでしょうけどね。しかし、自分が生き生きとして、なおかつ他の仲間ともスムースにコミュニケーションしているかに見えるすずめたちから、何か大事な原点のテーマを学ぶべきなのかもしれませんね。(2001/06/20)

2001/06/21/ (木)   日本人の「金縛り?」はどんどん解毒されていいんじゃない?

 年をとると時の流れが早く感じられますね。誰かが裏で、年寄りの時計は早く回しているんじゃないかと勘繰りたくなるほどです。ある落語家が、おもしろいことを話していました。(落語家だからおもしろいことを言うのは当たり前ですけどね)感覚的な一年は、生まれたばかりの赤ん坊は、1/1、二歳目になると1/2、三歳目になると1/3、五十歳目になると1/50だと言うのです。なんとなく了解してしまう表現ですね。
 新しいものとの遭遇が減るというか、「そんなに新しいものなんてあるもんか」と高をくくり、万事流してゆく姿勢が強まるにしたがって時の流れ感が加速していくものなのかもしれません。
 第二次世界大戦を終戦に持ち込んだ連合軍のノルマンディ上陸作戦の一日は、"The Longest Day !"だったそうですが(映画によればですが。で、ちなみにこれの邦訳が「史上最大の作戦!」となってしまうところに、しゃれを大事にしない人々の悲しさがありますね)、新規なことが多発した時間の流れは、振り返ってみてとてつもなく長く感じるのが人間なのかもしれません。決して、ノルマンディ上陸が退屈だったからという意味じゃないんですよね、念のため。
 新規なことに直面すると正直言って疲れます。リポビタンD三本分くらいに値します。しかし、リポビタンD三本分を節約しようとすると、時間の充足感を失い、あっという間に時は流れ過ぎます。さて、どっちを選ぶか?
 これらとほぼ同様のことが、人と人との関係、コミュニケーションでも生じているようなんですね。
 人は、できるだけ波風立てずに、また神経を高ぶらせないことを望みます。アリナミンAはリポビタンDより高くつくからでしょうか。特に日本人は、差し障りのなさと、さりげなさをことのほか好みます。出会った相互の関心のそらし方にたけています。
 「いゃー、こんにちは。どうもどうも。ぐずつきますねぇ〜」
 というのが、梅雨時のあいさつの標準バージョン。「いゃー」は、まあ "Hi !"といったところだからよしとして、「どうもどうも」はなんですか?梱包で言えば完璧なプチプチのエアー・クッション以外の何物でもありません。NHKの昔のアナウンサー宮田輝、高橋圭三の落とし子でしょうか。そして、「おたくの馬鹿息子さん、最近の症状はどうです?」などと切り込まれる前に、「ぐずつきますねぇ〜」とお天気の話にそらしてしまう。見事な目くらまし話法であり、人間関係の新規性と深化を、極力避けようとする切望がにじみ出ているように思えるのです。
 日本人は、コミュニケーション、イコール「和合」と見なしてきたのでしょうね。しかし、そういう場合も起こりうるし、最終的にはそうありたいと誰もが願うコミュニケーションですが、イコール「和合」というのははなはだしい先入観、一方的な思い込みなのかもしれません。
 ところで、創造とは、異質なものの出会いと相互の緊張関係から生まれるというのが定説になっているようですが、コミュニケーションの意味とはここにあったんじゃないかとつらつら思うんですよね。そして、異質なもの同志の出会いは、緊張感に満ち、お互いの神経を高ぶらせ、アドレナリンを放出させずにはおかないものなんじゃないんでしょうか。だからこそ、もし忍耐強くコミュニケーションが展開されたなら、双方が今までの自分とは違った自分へと変わってゆけるものなんじゃないんでしょうか。
 表面的なさり気なさだけをひたすら追っかけてきた日本人、コミュニケーションという本来は格闘技であるものをさえ、空疎な和合儀式にすりかえてしまった日本人。
 今、必要なことは、われわれの頭の中で脅迫観念のようになって機能し続けている根拠のない先入観念を笑い飛ばしてはずしてゆくことなんですかね。先日、大橋巨泉がどこだかの雑誌に「夫婦はビジネス関係だと考えよ!」といった表題の文章を投稿していたようですが、表題だけ見て、やっぱり彼は洞察力があるな、と思ったものです。アリナミンAやQPゴールドもいいですけど、それくらいの解毒剤(?)をいろんなジャンル向けに飲んでちょうどいいのが、われわれ日本人なんじゃないですかね。(2001/06/21)

2001/06/22/ (金)   古代人たちとのロマンあふれるコミュニケーション!

 ★ 緊急速報:「お祭りレポート 第二弾!」を「お便り集」のページでお楽しみください!

 オーナーの会社のホームページの『 PHOTO 町田の秋 PartU』に次のような一節があるんですよ。

 「町田/相模原のはるか南西には、カリスマ性を漂わせる風格を持った山、『大山』が望める。
 古来、信仰の山とされてきたことは知られている。『大山参り』という有名な落語があるので、少なくとも江戸時代には大衆的な信仰の山となっていたのであろう。
 私見ではあるが、思うにその時期は限りなく遡り、縄文時代からではないかと想像させる。それというのも、この画面(撮影場所は都立忠生高校付近)のすぐ右手には縄文遺跡発掘跡があるのだ。そして、大山に向かった画面中ほどの低地には境川が流れているのである。
 縄文人たちが、清流であった古代の境川に接し、はるかコニーデ型の神秘的な山を眺めながら日々の生活した、と想像することは唐突過ぎるであろうか。
 夕日の空にくっきりと存在を示す大山の姿は、そんな想像を寛大に首肯しているように思われてならない」

 オーナーは、遺跡発掘調査のあったころ、よく犬を散歩させながら調査の光景を眺め、何千年も前の縄文人とコミュニケーション(?)をはかったなどと冗談を言っていました。
 コミュニケーションというのは、何も同時代の周辺の人々とのやりとりに限らないんですよね。過去の人々が意図的に、あるいは無意識に残した遺産に対して、何がしか思いを込めた現代人が探求の眼を向ける時、そこにもコミュニケーションが立ち上がってくると言えるんじゃないんでしょうか。
 愛妻家の江藤淳が、亡き妻について回想をしたため、後を追ったのは一昨年だったでしょうか。その後、先立たれた男たちが、江藤淳と同じように回想を文章化している姿がドキュメンタリー番組で報じられましたが、涙とともにボールペンを運ぶその姿はまさに亡き妻とのコミュニケーションそのものと見えました。妻が遺したものに新しい意味を見出し、遅ればせながらの共感を抱く男たちは、生前にできなかった妻とのコミュニケーションを必死に取り返していたのでした。他人事とは言えない愚かしさではあります。
 ただ、ここで注目しておきたい点は、人の世界、人類発祥から今日に至るまで、人の為すことの大半は、何らかのかたちで他の人間によって意味を受け止められるコミュニケーションだということなんです。当人が亡くなってもその点に変わりはないのではないかということなんです。まして、精一杯に生き、他者に働きかけることを当然なこととして生き抜く者は、不滅だと言ってもいいんじゃないでしょうか。誇張に聞こえる部分があるとすれば、意図的に他者とのコミュニケーションを避ける生き方を選んだ人の場合のみ、その遺志は尊重されてしまうのかもしれませんけどね。
 人類の文字の発明は、ほぼ6000年前だと言われていますが、それ以前に、今からおよそ一万年位前に「トークン」(近所のわんぱく坊主の名前ではありません!)と呼ばれる文字の原型のあったことが判明しているそうです。そんなところまでコミュニケートするのが人間なんですね。同時代の隣人同士によるコミュニケーション不全で頭を痛めるような閉塞的な考えは改めなきゃなりませんな。
 そして、何よりも今の子どもたちに、そうした人類史的な物差しを興味深く教えていきたいですよね。小さなコップの中の、小さなコップの、そのまた小さなコップの……孤立した環境の中で行き場を失った子どもたち!ロマンを捨てた現代人がいやなら、古代人とでも、中世のおじさんたちとでも、ちょんまげの兄ちゃんたちとでも、その気になればいくらでもコミュニケーションできることを勉強しよう!(2001/06/22)

2001/06/23/ (土)   エクセルは、構想無ければ風呂場のタイル!「町内パソコン教室」堂々第六回!

 さて、いつの間にか六回目にもなってしまいましたね。皆さんお揃いでしょうか?
 キムラさんも、「元気はつらつオロナミンC!」の顔つきですね。じゃ始めましょうか。
 いつだったか、パソコンは馬鹿にしなけりゃいけない、と言いましたよね。その理由を言いましたっけ?えっ?高いくせに役に立たないって?そんなことは言わないでしょ。パソコンは、道具だからなんですよ。他の電化製品も道具には違いないんだけれど、例えば冷蔵庫は、ユーザが特に何も指示しなくてもモノを冷やしてくれます。
 しかし、パソコンは、ユーザが指示を与えなければ、概ね何もしない機械なんですね。だから以前から、「コンピュータ、ソフト無ければただの箱!」と不当にも罵られてきたんです。で、「ソフト」とは、プログラムのことですが、さらに端的に言えば、人間側からの指示、命令ということなんです。ところが、一度命令があれば、一秒間に百万命令を消化(MIPS)するチョー馬鹿正直な働きものでもあるんですね。そして、命令には極めて忠実であり、間違った命令であってもそのとおりに実行する愚直なヤツなんです。
 けれども、命令がなければとにかく居眠りしようと考えています。だから、パソコンをつけっぱなしにしてマウスなり、キーボードなりをそっとしておくと、モニター画面が寝ちゃうでしょ。いや、これは冗談で、省電力モードのせいですけどね。
 要は、パーフェクトな道具だということなんです。人間の創意工夫をひたすら待つ道具だということなんですね。だから、馬鹿にしなけりゃいけないと言ったのです。馬鹿にしなさいと言っても、パソコンに向かって「このアホ!ろくでなし!」と罵りなさいと言っている訳じゃないんですよ。よく、ソフト技術者の中には、キーボード操作をしながら「くそー!なんなんだぁ、こいつはー!」などと、自分の無能さをパソコンにぶつけてる者もいるようですが、憂さ晴らしなんでしょうね。
 馬鹿にするとは、パソコンに頼ったってダメだよ!ということですね。何がして欲しいのかの指示・命令をこそ出さなければいけないことを自覚するということなんです。しばしば、職場などで、優秀そうな部下がいると、妙にご機嫌とろうとするダメ上司がいます。ご機嫌とって、自分が判断し結論ださなければならないことを代わりにやってもらおうとでもしているのでしょうか。しかし、優秀な部下は、端的な指示・命令をこそ待ち望んでいるんですよね。
 こうした発想がよく当てはまるのが、表計算ソフトの "Excel"(エクセル)じゃないでしょうか。
 みんながエクセル、エクセルというから、インストールして、期待感を抱いて開いてみると、風呂場のタイル、しかも花模様も無ければ、富士山や帆掛け舟も何もない、病院の手術室のタイルのような味気ないものがダラッーと広がっているだけ。試しにクリックしてみても、黒枠の箱が動くだけ。で、エクセルは、自分の趣味に合わないからキャンセルだなんてね。
 表計算ソフトは、まさに何らかの「計算」をさせたいというニーズと、その計算式はこうだ!というユーザ側の構想がなければならないソフトなんですね。
 私は、会社勤めの頃、当時はまだ Windows が普及していませんでしたから、DOS 仕様の"MultiPlan"(マルチプラン)で、仕事上のさまざまな業務計算、スケジュール管理などを行い、随分ありがたさを感じたものでした。マルチブランも、エクセルも、そしてロータス123 もほとんど基本機能と基本操作は同一であり、ユーザ側の構想が高い比重を占めることに変わりはありません。
 この辺の事情は、エクセルが、いわゆる広い意味でのプログラミングに近いアプリケーションだと言ってよいと思います。だから、「マクロ」と呼ばれる半自動処理機能も、エクセルでは高い頻度で使われますし、簡易プログラム言語さえ組み込まれているんです。試しに、「ツール」→「マクロ」→「Visual Basic Editor」を開くと、簡易型のプログラム言語 Visual Basic(これを "VBA" と言います)が登場します。ちょっとしたプログラムづくりが楽しめますので遊んでみるのもよいでしょう。
 細かいことは後ほどの実習で実際操作して体得してもらいますので,二、三点だけコメントしておきます。
 その一は、基本中の基本、計算結果を表示したい「セル」に「計算式」を記入するということ。そして、計算式の中には、変数の値を入力する他の「セル」の位置を表す番地が記入されるということ。
 その二は、印刷に当たっては、Word と違って「印刷範囲」→「印刷範囲の設定」を行うこと。
 その三は、エクセルの醍醐味は、グラフ表示機能であり、数字の比較や変化を、立体グラフに自動変換して即座に表示することができる点!これは、さまざまなプレゼンテーションや、単なるレポートでも活用するならとても説得力が加わりますので、是非マスターしましょう。これは、ツール・バーのグラフの絵のアイコンをクリックすれば「ダイアログ・ボックス」が開きます。もちろん、何らかの表、例えば、五人の子どもの身長でもいいのですが、子どもの名前とそれぞれの身長の数字といったマトリックス表を作った上で実施しなければなりませんが。
 と言うことで、あとはトライ・アンド・エラーで遊んで身につけましょう。チューターの小柴さん、岩崎さん、いつものようにそれぞれに張り付いて遊んであげてください。
 がやがや、がやがや、がやがや、(やっと)ススッー、カチャ、カチャ、カチャ……(2001/06/23)

2001/06/24/ (日)   時の流れに翻弄された(?)目黒川の弁天様!

[東海林] そうなんですか、今日は、志村さんは出かけないで調べ事ですか。何を調べるんですか?
[志 村] 東海林さんは、この天王洲アイルが埋め立て地だってこと、知ってますよね。例の幕末に、江戸防衛のため建設された「品川御台場」なんですよね。じゃあ、当時の、東海道の東側の海がどんなふうだったか想像できますか?広重の版画に出てくるので、だいたいは分かりますかね。
[東海林] 旧道の脇くらいまで、結構迫っていたんでしょ?
[志 村] そう、だから現在の地形で言えば、旧道からの坂下はもう海だったようなんですよね。そこから、ずっと遠浅の海だったことは、落語の『品川心中』の中でも語られているんですよ。
 それはそうとして、何故こんなことに急に関心を向け始めたかと言えば、先日の祭りのあと、小柴さん、岩崎さんから祭りの写真をもらったのだけど、その中の小柴さんの写真に、台場小学校に最も近い神社の写真です、というのがあったんですよ。で、気になって調べてみたら、台場小学校の北西すぐにある「利田(かがた)神社」だということが分かったんです。小柴さんは、「提灯の紋が『三鱗』なので水に関係した神……、北条との関係云々」なのではないかと言われていました。
 以前、品川の歴史調べに参考にしてくださいと岩崎さんからもらっていた資料に目を通していたら、この「利田(かがた)神社」は、前身が、旧目黒川の河口の海に突き出た砂洲に祀られていた「弁天社」で、寛永3年(1626年)に東海寺の沢庵和尚が弁才天を祀ったことに始まるとあるんですよ。この沢庵和尚云々という事実も興味深いのですが、これはどうも矛盾があって、彼が、時の将軍家光に招かれ東海寺に入ったのは、1638年であり、それ以前から品川にいたかどうかは分からないんですよ。まして、「紫衣事件」という天皇に対する幕府権威の拡大といった事件があり、これに抗議した沢庵和尚は、1629年には現在の山形県に三年間流されているんですね。もし、沢庵和尚によって「弁天社」が始められていたとすれば、さらにその意図に興味が湧くんですけどね。
 もうひとつ、この「弁天社」に関心が向く理由は、広重が『品川すさき』と題する版画を残しているんですよ。調べてみると、これがまたなかなかの光景なんですね。ほかに、1797年になって「鯨塚」が祀られてもいます。
[東海林] で、志村さんは、一体何に興味を向けておられるんですか?
[志 村] いい質問ですね。しかし、まだ漠然としているので、ちょっと辛いものもありますがね。 私の推論と思い入れは、こうなんです。
 「弁才天」とは、『広辞苑』によると、「音楽・弁才・福智・延寿・除災・得勝を司る天。……琵琶を弾ずる。もと河川を神格化したもの。吉祥天と共にインドで最も尊崇された女神。わが国では、七福神の一として信仰された」とね。この「河川を神格化したもの」という点に焦点を合わせたいんです。つまり、「目黒川」なんですよ。
 もともと、品川は江戸南方で唯一の有力な農業の村、農村だったんですね。どちらかと言えば畑作でしょうか。そして、これを成立させたのが、目黒川と立合川による沖積地だったのです。
 品川宿としての品川という面、上方の漁民が品川周辺に移住してきたことによる漁業、そして海苔養殖といった品川の位置付けもあるのですが、もともとは、江戸への野菜供給地だったようです。
 多分、開かれた時期からいっても、そうした農業の恵みをもたらした目黒川への感謝の意が「弁天社」となったんじゃないでしょうか。1667年には、「品川用水」の工事をしているところをみても、当時の目黒川の比重は大きかったと思われます。
 その後、どちらかと言えばハプニングだった江戸時代の鯨騒動の後始末を無理強いされたかのように、「鯨塚」などという訳の分からないものを背負い込まされてしまった弁天様。
 しかし、文久二年(1862年)絵図を見ると、この「弁天社」と「御殿山下台場」(現台場小学校)が、隣り合わせの距離で、海に向かって存在感を伴って描かれてはいます。
 が、「弁天社」は、明治になって「利田神社」と改名され祭神も市杵島姫命と変えられてしまいました。それでも、多分、海苔養殖が盛んだった頃までは、住民も守り神という信仰をもって接していたんじゃないんでしょうか。弁天様、弁天様とね。ところが、悲惨にも、現在は、埋め立てられてしまった旧目黒川の脇で、守るべき対象さえ奪われ、何となく人知れずのようなかたちの神社となってしまっているように見えることです。
 広重がその美しさに感動したに違いない弁天様が、時代の流れに翻弄されているようで、なんとなく哀愁を誘うんですよね。神様も、時の流れの中で浮き沈みに身をさらしているのでしょうかね。
 あと、これは憶測もいいところですが、「三鱗」の紋が「北条氏」であることを考えると、16世紀中頃まで品川を支配して、海運を進め「品川湊」を造った北条氏の流れが「弁天社」のもとを祀っていた可能性もあるかもしれません。それが理由で、徳川の時代には何となく冷遇されたとか……
[東海林] 志村さんの切ない思い入れがなんとなく分かるような気がします。人は、生きんがためには結構薄情にもなったり、場当たり的なこともするので、歴史には切ない出来事が潜んでいるんじゃないでしょうか。
 ところで、あの「御台場」だって、時の権力者はあれで外圧を本当に防げるとは見なしていなかったようですね。今風に言えば、江戸庶民の不安を和らげる一種の政治的パフォーマンスだったようですよ。あっ、そうそう、北海道に「台場小学校」があるのを知ってますか?やはり、幕末に造られた台場、あの土方歳三が五稜郭で闘った時に、新政府軍と対峙したらしい台場の跡地なのかもしれませんね。
[志 村] そうなの。いずれにしても、過去の埋もれた品川とコミュニケーションしてみたいという衝動が立ち上がってきましたね。(2001/06/24)

2001/06/25/ (月)   皆さんがあのようになさってます!

 こんな笑い話があるそうですね。
 タイタニック号沈没のような危機的場面。救難ボート目指して乗員たちが群がる。船員は、パニック状態にてこずっている。英国人の男性が押し寄せてきた。船員は言う。「紳士たるもの、淑女、子どもを差し置いてボートに乗るのでしょうか?」と。すると、英国紳士は、ザンブと海へ飛び込んだ。
 そこへ、米国人男性たちがやって来る。再び、船員は言った。「英雄は、ボートなどにしがみつかないものだ!」男たちは、ザンブ、ザンブと海をめがけて飛び込んだ。と、やがて、ジャパニーズ男性たちが迫り寄ってきたという。船員は、静かにこう言ったとか。「皆さんがあのようになさってます」と。男たちは、なんのためらいもなくザンブ、ザンブと…………
 みんながしていることに、何のためらいもなく応じてゆくのが日本人だという皮肉な笑い話だそうです。もう何を言わんとしているのかお分かりのことと思います。
 元来、こうした傾向が強固であった日本人の性格に、ここへきてマスメディアの新手法と、インターネットの影響とが加わり、今の日本に、危な気で、特殊な『一人勝ち』状況が出来上がってしまっていると論じていたのが大前研一氏でした。(『一人勝ちの経済学……選択をやめた日本人……』1999.8)
 大前氏は、先ず「一人勝ち」現象の例となる「メガヒット商品」をいろいろと挙げる。音楽では、宇多田ヒカル、B'z、GLAY、ちょっと前の小室哲哉。映画では、『タイタニック』、『もののけ姫』、『スター・ウォーズ エピソード1』。タレントで、藤原紀香、広末涼子。アニメで『新世紀エヴァンゲリオン』、『リング』、『らせん』。出版界での『脳内革命』、『ダディ』、『五体不満足』、『小さいことにくよくよするな!』、『本当は恐ろしいグリム童話』。その他、「キティ」グッズにナイキのシューズ「エアマックス」。スポーツ界での松坂大輔投手。松下電器の「画王」、ソニー平面ブラウン管「WEGA」etc。(1999年当時なのでやや古い情報ですが)
 そして、こうしたダントツの「売れ筋」が発生してしまう傾向は、「価値の多様化」時代がうそであり、「選択肢が多くなると人は選択しなくなる」こと、みんなが選んだものを、「他人も選んでいるから」という理由で、自分も選んでいくということに基づいていると。
 さらに、「みんなが求めているものを互いに確認しながら、その一点に集まっていくという、日本人の非常に危険な国民性」に注意が向けられていく。
 また、これらは「売る側が”仕掛けている”こと」以外ではない点、「イメージ先行で本物の超一流ではない」点、もっとも、気分、ムードに基づくために短命でもある点など。なお、こうした点に関して、事態を煽るマスコミには大きな責任があることを、青島・石原都知事を引き合いにして説明してもいる。
 結論的には、こうした「一人勝ち」の巨大ヒットが生まれる背景には、”考えることをやめた日本人”、考えることをやめ、選択することをやめた日本人、みんなと同じことをしていれば安心だという心理から、”作られた勝ち馬”に乗っている日本人がいるのだと指摘する。「日本の場合は、粘りのなさ、論理的思考の欠如というものが、世界の中で突出しており、それが国民性を表す特徴」にさえなっていると。
 しかし、大前氏のおもしろいところは、善悪の基準のみを振り回す退屈な視点ではなく、事実に基づいて何をどうコントロールしてゆくのかという、いわばマネージメント視点なのである。だから、日本人の特徴ある国民性の指摘で終わらずに、今や事態のキャスティング・ボート的役割を果たし始めた「ムード」という存在に対し、「賢い」生活者や企業は、どう、自分が本当に求めているものをはっきりさせ、それを以ってどのように「ムード」に対処してゆくのか、これが「勝敗のカギ」だと述べているのである。
 日本人の特徴を責めたり、マスコミ批判をしたり、いろいろ噛み付くだけでは、一度生まれ、徘徊し始めたムードには、おいそれと勝てないことが、昨日分かったはず。この際、転ばぬ先の親心なんぞは捨てて、とことんムードを盛り上げますか。そして、国民の眼が国会中継にくぎ付けになっている監視下で、言葉の重さの如何ほどかをしっかりと見せてもらうというのが、長い眼で見た日本の選択なのかもしれませんね。(2001/06/25)

2001/06/26/ (火)   なお大君にして将(=小)軍と称し奉るがごとし!

 ここんところ、私は幾分時代がかっているもので、今日の初っ端もこれで行きましょう。
 時は将軍家光の時代、ところは北品川の『問答河岸(もんどうがし)』。家光、品川の東海寺に訪れた際、東海寺住職沢庵和尚は問答河岸まで出迎えていた。
 家光、沢庵に問う、「海近うしても、東(=遠)海寺とはいかに」
 すかさず沢庵答えて曰く、「なお大君(たいくん)にして将(=小)軍と称し奉るがごとし」と。
 駄洒落と言ってしまっては身もふたもないわけで、鮮やかな禅問答なんですね。
 禅問答の詳細は知りませんが、世俗のいっさいの垣根、拘束を取っ払って、関心事をめぐり自由なコミュニケーションを展開していることに魅力を感じさせるんじゃないでしょうか。
 で、みんなで頭を丸めて禅寺に行こうという訳じゃありません。インターネットでのコミュニケーションの話なんです。
 インターネット上のコミュニケーションも、日常的ないろいろな条件を飛び越えて単刀直入に意思疎通が可能です。訪問のようなわずらわしい前段取りは不要。郵便手紙のような、訪問せずとも襟を正すような気持ちの準備や書式は不要。電話のような、うがいとえへん三回のリハーサルも不要。何とも、普段着と普段気(持ち)でOKなんですね。
 しかし、こうしたイージーさは、確かに便利である一方、落とし穴がないわけじゃないように思えます。
 言葉というもの、あるいは文章というものは、さまざまな誤解を生みやすいものなんですよね。というより、一度当人の頭や胸の内から飛び出した言葉は、受け手によって独自に解釈され、いわば一人歩きしてしまうものと言ってもよいのかもしれません。
 この一人歩きしてしまう不都合さを制御するために、これまでのコミュニケーションでは、いろいろな状況証拠(?)を添付資料(?)として付随させていたと考えられます。それがわずらわしく感じさせる形式(紹介、礼儀、挨拶など)だったんでしょうね。
 意思疎通のための言葉は、それだけでは了解し得ない不透明さが残るので、さまざまな判断材料を必要としたというのが実態なのでしょうか。
 ところが、インターネットは、いっさいの前段取りをはずして、望めば首相、大統領とだってダイレクトにコミュニケーション可能な道具なのです。また、どう受けとめられるかの斟酌を度外視するなら、限りなく独りよがりの意思表明をすることができてしまう道具です。匿名掲示板の目を背けたくなる実態がその例でしょう。
 もともと、インターネットはある種の良識を暗黙の前提とできる人達同士(研究集団の研究家たち)のコミュニケーション・ツールだったようです。
 「こんな空模様の場合は、船を出すべきじゃねぇ〜な」と玄人の漁師は考えるところを、素人のクルーザーはガンガン沖へ飛ばして出てしまう、そんな無鉄砲な思い込みが氾濫しているのが、現在のインターネットを「空っぽの洞窟」と言わしめている一面なのかもしれません。
 インターネットでのコミュニケーションが要求しているコミュニケーション水準は、決して難しいことではなく、誤解の排除と理解可能性だという点に尽きると思います。
 現在の携帯電話メールは 250文字程度までに限定されているようですが、情報内容が少なければ、よっぽど双方が分かり合えた人間関係でもなければ、いたるところで誤解が生じることは常識のはずです。それを、「出会い」とか言って見知らぬ他人とやりとりするなんぞ、幼稚園の糸電話ごっこ以下としか言いようがない!
 しかも、理解可能性という点では、分かり切った、何の独自な視点もないマスコミの二番煎じ、三番煎じの内容を、ただただ文章がへたなだけで分かりにくいといった大方のHPの実態!
 ITのインフラ整備という、高い皿や器を並べ立てて、料理とさえ言えない貧弱でまずいものを盛るのが現代なら、裸一貫、言葉の中味で勝負した禅問答時代の方がどんなにか人間的に豊かであったことか。やっぱ、時代がかるしかないのかな…………(2001/06/26)

2001/06/27/ (水)   こんなふうに育てたのはダレダ〜!

 研究生活に身をやつしていた頃、教育学の連中が、至極真っ当なことを言っていたのを、ふと、思い出したりしました。
 学生の試験結果の出来が非常に悪いことを教授会は嘆いているという事実に対し、そうした非難は一方的であり、試験結果とは、教育の成果結果であり、教授側こそその責任の一端を感じ善後策を講じるべきであるという学生側の正論を思い出したのです。
 とかくわれわれは、テスト、試験の結果の良し悪しは、出来の悪い、あるいは怠け者の自分にすべての責任があると思い込まされてきたはずですね。教師側も、自分の教育の進め方の良し悪しが、生徒たちへの試験結果に反映するという歴然とした事実には、時の趨勢、「でもしか先生」という表現が尾を引いていた時代趨勢に乗っかって、目をつむりがちだったのかもしれません。
 しかし、こうした正論は、かねてから巷では広く支持されてきたはずなんですよね。
 「子を見れば親がわかる」とか、「この親にしてこの子あり」とかのことわざ、そして、ふてくされた悪ガキの捨て台詞、「こんなふうに育てたのはダレダ〜!」とかは、教育の結果責任を親に問うてきたものではないんでしょうか。まあ、教育責任のみならず、PL法が言うところの「製造物・生産物責任」も問うているのでしょうけどね。
 また、直接的には、教育効果の責任問題ではありませんが、戸塚ヨットスクールにしても、先日の一億数千万円の損害賠償が言い渡されたアクアラングの教室にしても、教育上の管理責任は厳しく問われ始めているご時世です。
 さらに米国の大学では、毎時間、学生たちは講義終了後にその講義の評価をレポートとして提出することになっているようです。
 要するに教育も不完全な人間の行う行為、仕事であり、「聖域、聖職」でもなんでもなく、一種のコミュニケーション、正確に言えば「インストラクション」というわけなんです。コミュニケーションやインストラクションの本質を知り、その技法を研いた教師は、生徒たちの学習意欲を引き上げ、おのずから水準も高めていくことになるんですね。
 ところで、先ほどの教育学の連中は、こうも言っていたようです。
 教育者は、学習者・研究者でもあるべきだと。その意味はこうです。自分自身も学習者・研究者という発展途上の立場に身を置かなければ、思い上がりの姿勢が生まれ、効果的な教育はできない、というような意味だったでしょうか。
 いちいちもっともな考えだと頷かされます。
 高等教育においては、より高度な研究成果を、学生たちに提供してゆくべしという意味があると同時に、自分も学究の苦痛と喜びのただ中にあることが、学生たちとのコミュニケーションを有効に果たす安全弁になるということなんでしょう。
 こうして、教育というジャンルは、感情のコミュニケーションがコミュニケーションの中心だと考えがちなわれわれ日本人に、コミュニケーションという人間の営みの重要な部分を照らし出してくれるわけです。
 ところが、今、最も(と言ってよいだろうと思いますが)憂慮すべき領域は、政治のほかは教育だというのが大方の見方ではないのでしょうか。経済は、むしろこれらが正常化されなければどうなるものでもないのかもしれないと考えています。
 そして、教育現場の悲惨さの原因は、いろいろと指摘されてはいますが、要は「いやいや」する勉強と、「いやいや」教えている(と言えば言い過ぎかもしれませんが)教育側、これら双方の「いやいや」が理由だとしか言いようがありません。単純に言えば。
 では、「いやいや」の根源は何かと言えば、言葉だけの「自主性」を振り回し、実質、時代錯誤著しく押し付けの発想を堅持していることだと思います。なぜなら、自主性のないところでは、いっさい創造性を生み出すコミュニケーションは成り立たないからです。せいぜい、デコレーションつまり面従腹背の飾りだけが上手になり、もうこれ以上いいかげんにして欲しいと思う面の皮の分厚い官僚予備軍たちをさらに増やすだけじゃないですかね。
 この国において、グローバリゼーション(待ったなしの国際化!)に耐えられるコミュニケーションの問題が実に重っ苦しい課題であるのは、この自主性という諸外国では当たり前の生き方が、とことん馴染めないからなんでしょうか…………(2001/06/27)

2001/06/28/ (木)   便利さの陰で、蝋燭がどんどん燃え尽きてゆく?

 また、わたしみたいな年寄りは、落語の題材に頼ったりするんですねぇ〜。
 『死神』という円生(この人自身がそんな顔してたんですよ)が十八番(おはこ)の話があります。ひょんなことから死神と親しくなり、死神界の知恵を授けられ、にわか医者となって一儲けするといった話なんです。病人の床の頭の側に死神が座っていたら、その病人は寿命が無いことを意味し、足元の側に座っていたら程なく治るというサインだったでしょうか。
 この企業秘密情報を利用して、医者に成りすまし儲けていくのですが、悪銭身につかずで、元の木阿弥になった時、寿命が無いサインとなっている大店のご主人を救ってくれれば大金を出すという話に行き当たるのでした。そうは言われても、何ともしようがないところ、悪知恵というか、死神へのペテンというか、そんなことを思いつくのです。
 病人を見舞い、夜を徹した明け方近く、死神も待ちくたびれてうとうとし始めたその時、かねてから手はずを整えていたとおり、合図とともに病床の四隅の若い衆が布団の四隅をそれぞれ持ち上げ、すばやく百八十度の返しをするのです。寝ぼけていた死神はあわてふためいて消え去り、病人は寿命を取り戻してしまうというわけです。
 ところが、話はこれで終わりではなく、金を手にしたところに死神が現れ、ちょっとこっちへ来いと言われ、地下の洞窟へ案内されるのです。そこには、一面に長い蝋燭、短い蝋燭が灯してありました。何だと聞けば、人々の寿命だと知らされる。長くて赤々と燃えるものを指差し、「これは誰のだ?」と聞くと、「それは、お前のせがれのものだ」と。と、その脇で、今にも消えてしまいそうな心細い蝋燭があり、「このあわれなものは誰のだ?」と聞いて驚く。「それがお前のだよ。お前がさっきとんでもない違反をした結果そんなふうになったんだよ〜」と聞かされ、後悔する。
 何とかならないかとしつこく頼み、ようやく「ここに、半端の蝋燭がある。これを首尾よくつなげたら使うがよかろう。だが、途中で消えてしまったらおしまいだよ〜」と。ワナワナ震える手で、チリチリと消えそうになっている火を蝋燭に移そうとする。
 死神は、そばで不気味な声でつぶやく。「消えるよ〜、消えるよ〜、もうすぐ消えるよ〜、ほ〜ら、消えた〜」
 何と文章にすると長いもんですね。何のためにこれを書いたか忘れそうになったくらいです。そうそう、われわれは、現代生活でえらく便利さを味わっています。それはそれで文句を言う筋合いではないんでしょうが、ふと、様々な便利さは、この話のような裏がありはしないのか、という老婆心を抱くんですね、年よりは。
 クルマという便利なシロモノに慣れると、極端に足腰が弱ってしまいますよね。ワープロの便利さは、字を忘れさせてしまいます。こうして思い返してゆくとますます、便利さというものは、何か思いもよらないところへの「しわ寄せ(?)」を隠し持っているのではないかと邪推してしまうのです。
 その「しわ寄せ」のうち、足腰の弱体化や運動不足くらいは容易に対処法が見つかるとして、ひとつ気になることがあります。
 人は、便利さを、商品として入手します。クルマであれ、パソコン、インターネット契約であれ、携帯電話であれ、個人が個人負担の上所有します。便利さの何を重視するのかはそれぞれありましょうが、これらの利用によってどうも共通して失われるものがありそうです。直接的な人間関係です。
 マイカーは、公共交通利用時の見ず知らずの他人との接触を結果的に回避させます。ちなみに、昨今は、通勤電車車中でのいざこざが注目を浴びたりもしているご時世で、どちらかと言えば、プライベートなスペースを望む人も多いのではないでしょうか。
 また、携帯電話の普及は、これまで家庭に一台の電話を共同利用してきた家庭内人間関係に個人化を促すでしょう。「個人」携帯電話は、さらに家族とのつつぬけの直接的人間関係に、距離を置く機能を果たしていくのではないかと思います。もとより現代の子どもたちは、早くから子ども部屋をあてがわれ、家族との直接的関係が希薄になりがちになっているのになおさらのことです。
 また、ショッピングにおける便利さには、自販機や通信販売という方法がありますが、これらは、いまや「わずらわしい」と受けとめられている直接的人間関係を、さりげなく消し去ることでありがたがられているようですね。
 現代における便利さは、なにがしかの効率を高めると同時に、他人と接触しなくても済むという点をウリにしている気配がありそうです。
 そして、今や、「電子政府」という行政窓口での手続きさえもがインターネットを通じて行われるほどに、インターネットを通じたコミュニケーションが一般化しつつあります。
 ところで、インターネットを通じたやりとり、その中には携帯電話のメール機能も当然含まれていますが、これと、直接的な人間関係とはやはり決定的に異なるものだと考えたほうがいいかもしれません。と言うのも、その証拠に、人間関係を避けようとしがちな青少年が、「メル友」という関係だけは大事にしているわけですからね。
 どういうことなのかと言えば、便利な道具を通じた「人間関係」は、フェイス・トゥ・フェイスの逃げようにも逃げられない実体的な人間関係とは違い、極端に言えばスイッチひとつで無かったことにできるという点でしょう。もとより、そのやりとりにおいても、深入りはしないことが大原則になっているのですから、ポケット・ゲームと同様につまらなければOFFにすればいいというわけです。
 インターネットを通じたコミュニケーションの便利さも、使い方次第では、実体的な人間関係に対して臆病な個人が、生身の人間関係を排除して、自在にコントロール可能な範囲の擬似「人間関係」(これを「バーチャル」関係と言ってもよいでしょう)を進めていく道具にもなるわけです。ここら辺から、詐欺や犯罪が誘発される可能性もあるわけですね。
 どうも、インターネットをも含め、現代の便利な道具はいつの間にか、人々に人間関係はわずらわしいものという一方的な実感を深めさせ、そして遠ざけさせ、その結果、人間関係処理能力を弱体化させていると見えます。とりわけ、便利な道具が溢れた時代に生まれた世代の青少年は、この文脈で、登校拒否、引きこもりといった現象を引き起こしているという見方もできるのではないでしょうか。
 人間関係処理能力の弱体化が、蝋燭(寿命)を短くすることにはならないんでしょうが、自他ともに人間界を住みづらくしているのは事実でしょう。

 りんちゃんは、何の道具もないからいつまでたっても裸一貫の勝負だね。それにしても、ここ二、三日は梅雨明けを思わせる暑さだったから、こうなると猫族も参っちゃってるね。今年は、オーナーにお願いしてクーラーを取り付けてもらおうかね…………(2001/06/28)

2001/06/29/ (金)   「がらみ」用件なしの語らいこそが「一期一会」!

 昨夜は、或る方と久々に楽しい「語らい」をしました。「朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや」と論語にありましたが、双方がこれといった用件を持たず、強いて言うなら生きることすべてに渡った何でもありの制限なしといった対話は、実に楽しいものです。 とかくビジネス上の何らかの案件をめぐる折衝ばかりが、人と人とのコミュニケーションの前提となりがちです。さらに、ビジネス関係の間柄ではなくとも、双方が「何が用件なのか?」を意識してしまうような世知辛いご時世でもありますよね。
 用がなければ、人と人とは話をしてはいけないと誰も言っていないにもかかわらず、どうも昨今は、用件のない対面、対話は、避けられがちのように見えます。そんな無意味なことをするほど自分は暇ではないのだと、みんなが自分に言い聞かせているかのようですね。
 仕事がらみ、家事がらみといった誰もがとりあえず許容するような「がらみ」用件が伴わなければ、ムダなことなんだと判定しているかのようです。まるで、みんなが零細企業のオヤジ経営者のごとく「経費で落とせる」対面、対話なのかどうかを判定しているかのようでもあります。
 あるいは、いつ何時刑事がやってきて、「で、あなたが容疑者と話しをしようとしたのは、どんな動機があってのことです?そりゃ、おかしいじゃありませんか。今時、何の用件もなく人生全般について話したかったなんていうのは通らないでしょ。ケイサツをなめちゃいけませんよ!」などと詰問された時のために備えてでもいるのでしょうか?そんな時にこそ、「で、ケイサツがどんなご用件でしょうか?」と言ってやればいいことなんですけどね。
 ともかく、より人生にとってこれ以上重要なものはないはずの「人生総論」が、用件のインデックス表に組み入れられていない時代風潮なんですね。そんな総論なんてものがなくても、人々みんなが、迷いも、不安もそして寂しさもなく暮らしているのなら、あっそうか、これは常識なんだと思いもしましょう。しかし、少なくともわたしは、この総論の単位をいまだにクリアできずオロオロしている実情です。
 それに、現在のような混迷した時代を仕事上でもブレイクスルーしてゆくのに、「で、仕事上のご用件は?」といった後向きの過去帖参照的な仕切り方をしていたのではおぼつかないのではないんでしょうか。仕事と遊びの仕分けがボーダレスになっていることは、もう大分以前から指摘されていたわけですよね。また土台、仕分けられたジャンルにこだわり、安住する者たちは、その既得権のうまみに群がっているに過ぎず、そのジャンルの真の住人なんかでは決してないことが多いのが相場です。
 しかも、仕事を継続してやってきたからその道のプロで安泰だということも自明ではなくなってきているんですね。現に、そんなプロたちがリストラされたり、悪戦苦闘したりしています。原因は、景気が悪いという単純な表現には収まらないのであって、旧態依然の仕事のあり方を無効としてしまうような市場構造の大きな変化にも起因しているんですよね。たとえば、旧来の銭湯が立ち行かなくなりましたが、かと言ってダメかと言えば、必ずしもそうではなく、内風呂では望めない「癒し」などに焦点を合わせれば結構サバイバルできたりするわけですよね。
 要は、旧態依然とした自分の中の基本的発想をぶち壊して、新しい環境変化を事実として認識してゆくことのように思えるんです。そして、その基本的発想とは、「人生総論」に深く関係しているように思えます。そして、この点は、なにも仕事「がらみ」でなくとも、何の「がらみ」なしの一市民人生でも言えそうな気がするんです。
 人は孤立していると、確信が持てないため、結局は安全性を拠り所にして、旧態依然とした従来からのあり様を惰性的に延長させてゆくものでしょうね。どんなに、新しい情報を入手したからといって、情報入手だけでは、人は変われないもののようです。対面した全方位の対話こそが、深い影響力を保持して、変化への願望を支えてくれるのかもしれません。
 用件、ご用向きとは、一方で会話に大義名分を与えるとともに、それ以外はアンタッチャブルという厳しい限定をも与える約束事でしたが、用件なし、仕切りなしという胸襟を開いた「語らい」こそは、実のところ寂しく、哀れなわたしたちを新しい地平へ開放してくれる入り口であるに違いありません。
 ただ、こうした対話が、いつでも、どこでも、誰とでもできる環境を、現代という時代が惜しみなく提供してはいないのが残念です。逆に、だからこそ、それが訪れた時には、まさしく「一期一会」として貴重に受けとめたいものなんでしょうね。(2001/06/29)


2001/06/30/ (土)   システムより、データの破壊、消去を恐れよ!「町内パソコン教室」堂々第七回!

 みなさん、どうもご苦労様です。いろいろと挑戦していただいておりますが、大分慣れてきましたか?もう、怖さなんかはなくなってきましたよね。えっ?まだ怖いですか?
細田さん、どうしたんですか?デジカメ写真を整理していたら、突然画面が動かなくなっちゃって?結局、電源を落としたというわけですか。
 ちょうど、今日は、パソコンでのトラブル対処法とでもいうテーマを考えていましたので、とりとめなくなるかもしれませんが、その辺をお話しましょう。
 パソコンを使っていて、怖いことなんて無いんですが、あるとすれば一番何が怖いことでしょうか?
 天王ラーメンさんはどうですか?パソコン壊しちゃって、修理代を高く取られること?うん、それは確かに怖いですね。だけどね、初心者がパソコンのハード部品交換に至るような壊し方はまずしません、というかできませんね。そうした壊し方ができるのは、自作や改造ができるようになってからのことです。初心者の場合は、せいぜいソフトであるウィンドウズというOSやアプリケーションを破損させてしまうのが最大のトラブルです。 しかも、それらのソフトは再インストールが可能であり、もしこれを自力でできるようになれば、このトラブルへの怖さは消滅してしまいます。したがって、再インストールの方法は学んでおく必要があります。
 オーソドックスな方法は、ウィンドウズのオリジナルCDを、フロッピィの起動ディスクから立ち上げて……という段取りで進めるのですが、ウィンドウズのプリ・インストールのパソコンを購入することが多い初心者の場合は、購入時に添付してくる「リカバリー」CDを立ち上げれば、時間は二、三時間とかかかりますが、すべて自動で済ませてくれたりしますので簡単です。ただ、ひとつだけ覚えておくことがあります。
 通常のパソコンは、電源を入れると、BIOS (バイオス)というマザーボードに組み込まれた最も基本的なソフトが、パソコンのあっちこっちを始業点検し始め、そして、どのOS(オペレーティング・システム)を立ち上げるのかを探り始めます。通常は、まずフロッピィ・ドライブにそれがあるかどうかを見に行き、フロッピィが挿入されていなければ、ハードディスクへ見に行きます。普通は、ハードディスクにウィンドウズなどのOSがインストールされていますから、あったあったということで、システムが起動されるということになるわけですね。
 ところが、今はこのハードディスクのウィンドウズが何らかのかたちで壊れているわけですから、、BIOS (バイオス)の始業点検が、ハードディスクを訪ねて行ってもムダなわけですね。壊れた状態で、モニターはBIOS (バイオス)の行以外は何も表示させないはずです。
 そこで、電源投入後に立ち上がって行くBIOS (バイオス)に、「これから使うプログラムは、CD-ROMドライブに置かれたCDなんだよ!」と教えなければなりません。この指示は、キーボードのどこかのキー(例えば「Esc」キーとか)を押しながら電源を入れるということが、それぞれのメーカごとに決められているはずです。この点を、マニュアルまたはサービスセンターなどで確認しておきたいものです。それで、首尾よく、CD から「リカバリー」ソフトが立ち上がりさえすれば、購入時と同等の状態へ向けた再インストールが始まるのです。簡単なことでしょ。だから、システム・プログラムは仮に壊したとしても、どうってことないんですよ。
 わたしが、みなさんに怖がってもらいたいのは、データを壊したり、消滅させてしまったりすることなんです。ウィンドウズだとか、ワープロソフトなどのアプリケーションソフトは、フログラムCDが手元にある限り、何度でも再インストールが効くのですが、自分たちが長時間かけて作ったデータ、その中には時間をかけても再現できないかもしれないものもあるはずです。
 画像処理的な作品の場合、微妙な判断を重ねてようやく仕上げたものは、一過性的な性格を持つこともあり、二度と同じものができないかもしれません。みなさんもやがて、そうした創作をするようになればお分かりになると思います。
 また、数字的なデータや、住所録などにしても再現不能もしくは、再入力に多大な労力を要する場合だってあります。そんな再入力は、しなくてよいことをしなければならないわけですから非常に空しく、心理衛生上もきわめて悪い作業となります。
 それで、データ破壊を恐れてばかりいてもしょうがないわけで、これへの対策を打っておく、さらに対策を講じながらことを進めるということを是非お勧めしたいわけです。
 まず、抜本的な方法からお話すると、ウィンドウズなどがインストールされているCドライブにごちゃごちゃにしてデータフォルダを作ってゆくことをやめよ!という点です。最近は、Cドライブが十ギガバイト、二十キガバイトというハードディスクとなっているパソコンが多いのですが、危機管理には問題があると思います。
 ハードディスクは、いくらパーテイションで仕切ったとしても、クラッシュと言ってHDDが壊れる壊れ方の中には、回転さえできなくなる場合もあり、こうなるとそこに収められたいっさいのデータは深海に沈んだ船と同様に二度と陽のめを見ない場合だって無くはないのです。また、先ほどの「リカバリーCD」を使った再インストールは、その作業の前提として、再フォーマットをかけ、一度HDDの初期化を行うのでデータはすべて消去されてしまうのです。よく、せめて「メール・アドレス」と「メール」だけでも取り出せないものかという相談を持ちかけられることがありますが、これも可能な場合と不可能な場合があります。なお、わたしは、メール関係のデータは定期的にバックアップをとって別ドライブに予備としてコピィしてあります。インターネット・エクスプローラもネットスケープ・ナビゲータもともに、これらを取り出すことは可能なんです。
 そこで、お勧めしたいのが、別なHDDを増設して、データだけを収納するDドライブなどを設けることです。こうしておけば、仮にCドライブのシステムがどうなろうと、データだけは常に安全だというわけです。ノートPCの場合は、MOやその他の外部保存装置でCドライブ以外のデータドライブを作っておくことです。
 もし、こうしたデータドライブが作れない場合には、やむを得ないのでフロッピィ・ディスクやMOなどに、定期的にデータを小分けしてバックアップをとることですね。
 データの消滅こそ恐れよ、という話だけで随分長くなってしまいましたが、あと二、三だけ続けます。
 その@、現在では突如、停電や、フレーカーが落ちるということは少なくなっているのかもしれませんが、作業中に電源が落ちること、または作業中にフリーズという使用不可の状態となることを軽視せず、「こまめに保存!」しながら作業を進めること。まあ、二、三度やけどしてみると習慣になってゆきますけどね。
 そのA、データの扱いでの注意ふたつ。ひとつは、フォルダから誤ってファイルを「削除」してしまってもあわてないこと。「ごみ箱」に移されたファイルを「元に戻す」で回復可能ということ。ふたつ目は、「上書き保存」で保存した場合、ひとつ前のファイルが「〜.BAK」というかたちでキープされるアプリケーションと、最新の状態のものしかキープしないアプリケーションがあり、後者の場合は二度と元に戻れないので注意すること。そんな場合は、「上書き保存」をする前に、ファイル名を別なものに替えてキープしておくこと。データを「キープ」することの意味が分かるようになればたいしたものなんですよ。
 そのB、ウィンドウズは、思わぬところで「操作不能状態」に突入することがあるため既存データや作りかけデータを如何に失わないようにするかをお話してきました。あとは、このウィンドウズのアクシデントの簡単な予防策ですが、いくつか指摘しますので参考にしてください。
 1.時々、ドライブのチェックをしましょう。これは、ドライブアイコンの右クリック→「プロパティ」→「ツール」で「チェックする」、「最適化する」をそれぞれ行います。ドライブの容量によっては何時間もかかる場合があるので、それが可能な時にするとよいでしょう。前者は、HDDの部分部分の状態を調整します。後者は、プログラムの並べ方を調整することで、場合によっては処理速度が向上しますし、スキャナーなどの大容量ファイル処理をしばしばする場合にはトラブルを減少させることにつながります。
 2.ウィンドウズ98をお使いの場合は、「システムファイルチェッカー」で定期的な点検、修復をするとトラブルが減少するようです。これは、「スタート」→「プログラム」→「アクセサリ」→「システムツール」→「システム情報」→「ツール」→「システムファイルチェツカー」で開くことができます。
 3.メモリーを多く搭載しているのに、ウィンドウズがもたつくような場合は、「システム・リソース」というものが関係している場合があります。この場合は、一度ウィンドウズを終わらせ、再起動して、使わなければならないアプリケーションだけを開いて使えばサクサクと処理できるはずです。

 さて、お話の方は以上ですが、今日は私どものパソコンで、「リカバリーCD」を使った再インストールと、オーソドックスな再インストールの手順をお見せすることにしましょう。じゃ、この周りに集まってください。ガヤガヤガヤガヤガヤ…………(2001/06/30)