そうですね、PC経験が十年以上ある人なら、現在のPC環境がどんなに楽になっているかをふっと感じることがあるでしょうね。
インターネットが本格的に普及してまだ数年ですから、当時は現在のようにメールとその添付というかたちでデータなどを相手先に送付するなどという便利なことはできなかったんですよね。そこで、フロッピーディスクにデータを収納して、それを郵送するという方法となるわけですが、これまた、やっかいな問題がありました。
当時は、PCと言えば、二種類あったんですね。国産機のNEC製PC−98シリーズと、IBM製の現在主流となっているAT互換機です。共通のOSであるウィンドウズ(当初は、もちろん現在のWindows95以降のような使い勝手のよいものではありませんでした)を載せていても、両者はいろいろと異なっていました。
フロッピー・ディスク・ドライブの仕様からして、両者は異なっており、フロッピーを相手方に手渡す、送るといった場合にも、いちいち相手方がどちらを使っているかを注意する必要があったのでした。相手方が、NEC製PC−98シリーズを使っている場合は、1.25MB のフォーマットをして、これにデータを収納するという作業をしなければならなかったわけです。。現在は、事実上AT互換機に一本化され、フロッピーと言えば、1.44MB と決まっていますけどね。
つまり、情報をやり取りする場合、その情報の入れ物であるメディア自体に共通性がなく、人間が接すれば難なく了解できる情報でありながら、その前に機械であるPC同士が分かり合える下準備をしてあげなくてはならなかったということなんです。
現在は、PC環境がWindowsを中心とした、事実上世界共通に近い環境に統一された観があるためそんな心配はほとんど無用となっています。それでも、例えばインターネット上でデータをやり取りする場合、こちらで使っているアプリケーション・ソフトが、相手方のPCにインストールされているかどうかという懸念事項はありますね。例えば、文書を送るにしても、こちらが最新のWordで文書作成をして、そのデータを送付した場合、先方には、古いバージョンのWordしかない時には、最悪そのデータが開けないということだってあったりするわけですね。また、送信データの容量を小さくするために使う圧縮ソフト(WinZip,Lzhなど)の違いで困ることもよくありますね。
さらに、メールなどは、セキュリティの観点から、送信されている間は暗号化されていて、開く時点で解読されまともに読めるといったしくみになっていることもあるんですね。ただし、発信側と受信側が同じ取り決めのソフトを使っていないとこのしくみが生かされませんけどね。
なにをタラタラと書いているのかと言えば、情報のやりとりというコミュニケーションは、発信側と受信側がほぼ同様なしくみを持ち合わせていないと成立しないということなんです。ことわざにある「猫に小判」、「豚に真珠」、「馬の耳に念仏」ということですね。または、もし双方が異なる場合には、双方が何らかの臨機応変な歩み寄りをしなければ、交信が成立しないという、きわめて当たり前のことなんです。
しかし、もっとも当たり前だと決め付けてきた、同じ人間なら、同じ言語を使っている人間なら同じ「通信装置(コミュニケーション能力、状態)」を標準装備しているという点は、必ずしも当たり前ではないのかもしれないと思えるのです。
少なくとも、長い間、この狭い国土の中で同質的な生き方をしてきた日本人は皆同じなんだ!という大雑把な思い込みの類は、完全に破綻していると言えるでしょう。それは、年末恒例のNHK「紅白歌合戦」の視聴率が年々低下している点、国民的規模でのブームがどんな領域でも成立しなくなっている世相(だから今の内閣支持率の数字が額面どおり受け取れないのでしょう)が、それとなく告げているわけです。しかも、人々の背筋を寒からしめる凶悪な犯罪は、同じ考え、同じ発想の人間という漠然とした前提に立つならばその認識がお手上げになってしまうんじゃないでしょうか。
情報を中間プロセスで処理するIT装置や環境はどんどん整備されて進行しています。しかし、そんな中で、情報を発信する末端と、情報を最終的に受ける末端である人間の、脳とこころという通信装置が、なぜか頼りなくなっているように見えるのが情けなく思えるのです…………(2001/06/19)