モノへのニーズから、「ソフト」へのニーズを考える上での出発点は、先進諸国におけるモノの過剰なほどの生産と、モノへのニーズの飽和状態という現象であろう。『豊かな社会』(1958,ガルブレイス)では、高度な生産力によってモノが溢れ、モノへのニーズはマスコミを通じた広告・宣伝というニーズの刺激、操作に依存するほどに至る。既に情報操作という「ソフト」的なものに、大衆のモノへのニーズの自覚が支えられなければならないほどの充足状況が登場していたのである。
もちろん、これは社会一般のことであり、社会内部にはモノのニーズが充たされない人々も存在したし、その社会の大半が高度に充足されるために、しわ寄せを食らう他の社会も存在していたことも事実である。
もともと、モノへのニーズは生理的な面(たとえば食欲)や功利性・効用性(たとえば時間節約)に依存し、それらはおのずから限界を持つのである。社会の生産力が低い時代には、モノの希少さによってモノへのニーズが非常に強烈で、あたかも無限に増大するかのような印象を与える。しかし、人間のモノへのニーズは、人口増を伴わない限り無限に増大するということはあり得ない。
ここから、「より良いモノ」という掛け声のもとで、モノに様々な「ソフト」が付加され、購買意欲(ニーズ)を刺激する動きが一般化するようになる。
モノの改良というレベルでのアイディア(これも「ソフト」!)投入で、新製品化が図られたり、デザイン(これも「ソフト」!)に工夫が施されたり、さらには、モノとしての変化はなくともイメージ・コンセプト(たとえばテレビCMによるイメージアップ作戦)を付加したりするなどの「ソフト」の抱き合わせ方法が広がっていったものと思われる。
消費者のニーズは、モノの機能や効用性を求めながらも、次第に「ソフト」的な側面を当然視するようになる、つまりモノへのニーズが境界線を意識することなく「ソフト」へのニーズへと拡大していったと言えるのではないだろうか。
やがて、消費者にとってモノとは、その機能や効用性というモノ本来としてではなく、あたかも記号のような存在として受けとめられてゆく。「ブランド」モノがその代表だと言えよう。「ユニクロ」の人気も、その安さもさることながら、ある種の現代「ブランド」のイメージをかもし出せた点にあるのではないだろうか。
商品イメージという「ソフト」面は重要な問題であるが、「ソフト」へのニーズに常識的地位を与えたのは、コンピュータ・プログラム・ソフトであったはずだ。一連の「機械化」・「情報化」がそれであり、モノの生産、流通、金融、不動産取引などに関する情報処理システムづくりである。
コンピュータ・プログラム・ソフトは、何をアプリケーションとするかでその性格が様々に変わるのだが、「機械化」・「情報化」と呼ばれた時代の「ソフト」は、どちらかと言えばモノの世界と密着しており、その目的が「効率化」という効用性である点からいっても、「ソフト」の本義である無限性からは離れているのではないだろうか。
現在、期待がかけられているITにしても、現状のイメージではこの性格、つまり「効率化」という効用性の目的が強いと言わざるを得ないのであり、この点に止まるニーズならば無限に発展するとは言い難いだろう。所詮、現状の手段重視的発想のITなら、その手段が整備されることで一段落してしまうことは当然であろう。
「ソフト」へのニーズの重要さは、その無限性にあると言えよう。しかも枯渇する危機と、汚染する危機とが秒読み段階に入っている自然資源に依存することが少なく、経済活動を活性化してゆけるからなのである。多分、「ソフト」化経済が叫ばれ、期待されているのもこうした観点での「ソフト」のはずであり、そのニーズなのであろう。
モノへのニーズが、「必要」という功利性・効用性に根ざしていた(だからこそ、限界もあったのだが)のに対して、この「ソフト」は無限であることと引き換えに、功利性・効用性の観点から離脱していると言える。
と言うことは、このニーズは、開かれたニーズであると同時に、拓かれる(開拓される)ニーズでもあるということなのである。モノへのニーズのように、自然成立し、それに対する充足手段たる商品がまずまず売れるという状況は考えにくいのではなかろうか。
こうした「ソフト」へはどうアプローチしたらよいのだろうか?(2001/11/12)