現在、あらゆるものが「値下げ」競争に巻き込まれている。この競争に巻き込まれている業者の中には、合理的なコストの圧縮を基盤にした上で低価格を実現している部分と、まさに外発的な流れに巻き込まれて当面の売上のみの実現に引き回されている部分とがあるのだろう。言うまでもないかもしれないが、多分、不本意ながらの後者が圧倒的な比率を占めるものと想像される。
後者にあっては、いわく言いがたいが自転車操業というよりも、ブレーキの効かない自転車が坂を下るような印象ではないだろうか。カタストロフィが見えているのである。前者にあっては、コスト・ダウンのための生産や流通過程における工夫やイノベーションという合理性が着目されるが、これとて限度があることであり、ブレーキを掛けながらの坂道下降には違いないのであろう。
自転車は右でも左でもよい、一刻も早く「わき道」へ迂回すべきなのである。しばし自分を取り戻して操業できる平坦な道に迂回しなければならないのだ。この「わき道」というのが「新規需要開発」である。新製品開発と言ってよいかもしれない。
例えて言うは易く、実践ははなはだしく困難に満ちたコースであり選択なのは誰もが承知している。しかも、誰もが浮き足立つようなこの不安定で不穏な環境でこれを遂行してゆくことは並大抵のことではないはずであろう。
しかも「新規に」生み出した需要が永続する保証などはなく、競合他社の類似「新規需要」に撹乱されたり、陳腐化ののち胡散霧消することも多いはずであろう。単発ではない継続的な「新規需要開発」が望まれるゆえんである。
しかし、どうもそれほどの柔軟さとスピードこそが、勝ち残る者には要求されているのが現ビジネス界ではないかと推測せざるを得ない。この厳しい「公案」(禅宗で、悟道のために与えて工夫させるための問題!)を解いてこそこれからのビジネスにエントリーしてゆけるのだと自戒せざるを得ないのである。そして、多分この課題は企業規模の大小に分け隔てのなく振り落ちている試練であるはずなのだ。
多分これは、個々の企業にとっての試練であるとともに、需要そのものを海外に依存してきた日本経済にとっての試練でもあると思われる。米国からはかねてより「内需拡大」を要求されてきたが、「需要」に焦点を合わせて考察する時、他国が歴史の中で育てた国内需要に向けて生産活動をするスタイルは日本のお家芸であり続けたのかもしれない。需要を創り出すことは、規格で製品を作り出すことよりもさらに困難なことであったのかもしれないのだから。
そして今、日本経済は、緊迫した失業対策に向け、労働力新規需要を生み出さなければならず、そのために企業は、新製品・新サービス提供と同時に「新規需要」を確かなものとしてゆかなければならないのである。
「起業家」精神を培うと言うが、現代の「起業家」とは、人間とその生活でのニーズを洞察できる者のことであり、しかも現金を支払うという現代人が一番いやがることをも納得させることができることであり、大変な能力を要することなのだと思う。
西欧社会を手本にして、常にキャッチ・アップのためのモノづくり技術のみに専念できてきた日本経済にとって、まったく異なった種類のことをしてゆかなければならなくなっているのが現在なのである。インターネットにしてからが、米国で展開されてハジケたことをそのまま再現したって成功するわけがないはずなのである。
いずれにしても、「新たな需要」という眼に見えず、不確かなものをいち早く察知、洞察して、なおかつリスクを負いながら対処してゆくといった日本人にとっては「新スタイル」の行動様式だけが、不況の中での企業を救い、経済全体を導くのだと考える。体力をつけるとは、このこと以外の何ものでもないはずであろう。(2001/10/01)