自分も含めておかなければならないが、この世は何と「錯覚」している人が多いものだろうか。ちなみに辞書によれば、「錯覚」とは、「知覚が刺激の客観的性質と一致しない現象。俗に、思いちがい」とある。「目の錯覚」などと言うように、もともとは生理的な知覚の誤りを指したもののはずである。今でも薬物使用常習者の感覚や、「超常現象」などをもっともらしく語る人々に対しては、この原義の「錯覚」を使うべきなのであろう。
ただ、ここで改めて言及してみたい「錯覚」なるものは、生理的知覚には概ね問題がないにもかかわらず、われわれの日々の人間関係を悩ませ続けている広い意味での「錯覚」についてである。
昨今、ニュースを賑わしている政治家たちのほとんどが、その見解や了見の善し悪し以前に、「あっ、この人は『錯覚』してるな」と思わされてしまうのだが、それこそ「錯覚」であろうか。
自分の支配圏の人間が、内部告発などするはずはないとする「錯覚」で平気で虚偽を語リ続けたS議員を筆頭に、自分の天性なら万事アバウトな言動でも政界を泳いでゆけると「錯覚」して窮地に追い込まれたT元大臣、重大な過失を生んだ省内の改革を自分なら可能と「錯覚」しているT大臣やK大臣、総理候補だと言われ過ぎたために大物「錯覚」で立ち振る舞いのすべてが「錯覚」だらけになってしまったK元幹事長。舞台の上の米大統領演説を「錯覚」させるような大道具で、完璧に気分を「錯覚」させ、無内容なスポークスマンを曝け出しているF官房長官。K首相も、人気を「実力」だと「錯覚」している点が情けないと言うべきか。これらは、永田町が日本のヘソだと「錯覚」したボタンの掛け違いが尾を引いているに違いない。
公平を期すため野党の「錯覚」現象も指摘しておくべきだろうか。与党の失政は必ずや自党の評価に結びつくという「錯覚」を続けているかのようなM党、やがては内部対立を解消できると「錯覚」しているらしいS党(M党も同様)、名称が重要だと「錯覚」し続けているようなK党。要するに、集中力を増そうとしながら「錯覚」問題がますます頑固になってゆくようだ。
政界という化け物屋敷では、自分の感覚のズレを杓子定規にみずから糾しているようでは通用しないのかもしれないかと思ったりもする。確かに組織や人間関係を切った張ったでさばく人たちの中には、咎められた言葉をも自分への賛辞にすり替えて解釈できる「錯覚」の達人がいたりすることを見聞してはいる。そのような場合、「錯覚」できること(?)は重要な取り得となり、能力にすらなっていると、こちらが「錯覚」してしまうわけだ。
だが、恐ろしいのは、環境の客観的事実をズレて認識してゆくこと(錯覚)に慣れてゆくと、常識的生活感覚が次第に無効化されてゆくことなのであろう。そして、イエス・マンばかりで囲まれた孤独な権力者たちは、それを是正する機会を失い、一途に薬物中毒者の末路のような幻覚症状の世界へと邁進してゆくことになるのかもしれない…… (2002.04.01)