モノが売れない時代だから、DM(ダイレクト・メール)が、郵便箱に、またネットのメール・ボックスにやたらと投じられる。街金(まちきん)からの電話セールスもあとを絶たない。
いわゆる「提案型」営業というスタイルが叫び続けられてきた。売り手側の論理で押しまくる上記のような拙い方法ではなく、買い手側に自然な購買意欲を発生、成長させるような営業方法と言えばよいだろうか。買い手が目を向けることがなかったような部分に視線を誘い、企画的な案を示しながら買い手側と一緒になって考えてゆく方法だとも言えようか。
これは、もはやビジネスの世界では当たり前となっているセールス方法であるが、いま注目してみたいのは、この方法が最終的なねらいとする「買い手、顧客の創造!」という点なのである。
商売、ビジネスには、既に存在する需要、顧客、市場を相手にする場合と、潜在的にしか存在しない顧客を掘り起こす場合、当面は顧客像すら掴めないリスキーな対象を掘り当てようとする場合などが想定できるかと思う。
既に存在する顧客を対象とするビジネスは、ある意味で容易であるとともに、競合他業者との闘いが熾烈なはずであろう。
後ニ者は、今盛んに推奨されているベンチャー・ビジネスと言えるのかもしれないが、どうしても現在、将来の顧客群を新たに創りだしてゆくという努力が焦点となるはずである。想定した需要が現実のものとなったとしても、その需要を植物を育てるようにこまめに成長させてゆく努力が課されるはずだと思われる。それがなければ、一過性のビジネスで終わり、いわゆるバブルと評されることになる。
先日、スーパー歌舞伎の市川猿之助を焦点にしたテレビ・ドキュメンタリーを見た。伝統的な古典芸能である歌舞伎には、既存のファン、顧客がそこそこいるはずである。にもかかわらず、猿之助は新しいジャンルへと挑戦している。猿之助が挑戦しているのは、新しいジャンル創りであると同時に、それを支える新しいファン、顧客創りでもある点が見ていてよくわかった。しばしば、閉じていては衰退するだけだと強調し、弟子の育成にしても名門の師弟だけに目が向けられるのが現状だと憂え、在野の人材を熱意で育てている姿に共感を覚えたものだった。
同じ古典芸能である落語については、立川談志のような亜流をわたしは嫌っている。談志も「挑戦」をしたのであろうし、新しい顧客創りに「挑戦」したつもりなのであろうが、どうも似て非なるものだという気がしている。
猿之助は、名門の出身であるだけに、骨の髄まで伝統芸を自分のものとした。その上で、新たなスタイルへの挑戦を試みている。しかも、思いつきではなく、「宙吊り」にしても、江戸の頃だかの過去に観客を沸かせた経緯があり、伝統の実績を踏まえた挑戦のようである。
これに対して、談志による古典落語の認識と消化は余りにもお粗末であり、使い捨てテレビ・タレントとして無駄な時間を費やし過ぎたのが命取りだったと思われる。だから、談志は落語の内在的発展者にあらず、落語への犬の遠吠えでしか過ぎないと密かに見なしている。
伝統の歌舞伎の本質をしっかりと捉えた上で、猿之助が目指しているのは、歌舞伎を活性化してファン、顧客の裾野をなんとか広げようとすることではないかと思ったものである。歌舞伎についてはど素人の自分なので偉そうな能書きをこいてはまずい。だが、名門出身の役者だけで、純粋というか玄人客だけを楽しませる「身内」だけの芸能となってゆくなら、その前途は見えてしまうのではないかと、余計な心配をした。とは言っても、歌舞伎の大衆化と称して縁もゆかりもないものへと変質してゆくのもまずいような気がする。
多分、猿之助は在野の人材を厳しく教育し、またそれと同時に、ファンや顧客にも、いっしょに歌舞伎を育ててください(=いっしょに育っていってください)という両面の思いで、きわどいとも見える挑戦をしているのではないのだろうか。
われわれビジネスに携わるものも、当世は考えられないが、売ってやっているのだという売り手側の立場で力むのでもなく、かと言って買い手への迎合と無節操さに流されるでもなく、買い手たる顧客と売り手たる提供者がともに育て合うような関係づくりを目指すべきなのだろうと思ったものだ。この両者の緊張関係、バランス関係が決め手であると思えた。とにかく、やたらに目にするのは、百対ゼロ、ゼロ対百という極端で不毛な関係でしかないように見える…… (2002.08.01)