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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





………… 2002年01月の日誌 …………

2002/01/01/ (火)   『もう二度と弄ばれたりするんじゃないぞ……』
2002/01/02/ (水)   いよいよ研ぎ澄ますべきは「問題解決型」のアプローチ!
2002/01/03/ (木)   外界の事物と「初々しく、輝きに満ち」た関係をとり結ぶ必要!
2002/01/04/ (金)   「自立」の意味を知るのは「自立」した者だけ?!
2002/01/05/ (土)   再び目撃した生きるための壮絶な光景!
2002/01/06/ (日)   <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (21)
2002/01/07/ (月)   今年のビジネスのツボは「Re〜」となると観(み)た!
2002/01/08/ (火)   しみじみと「地味っていいなあ」と実感した!
2002/01/09/ (水)   高性能な液晶ディスプレーを使って思うこと!
2002/01/10/ (木)   ど不況を生き抜くとっておきの妙案!「幸せ発見能力!」
2002/01/11/ (金)   悪が弱らず、善良な庶民だけが「痛み」を背負わされた「抗癌剤」治療!
2002/01/12/ (土)   時代劇つうのわたしを唸らせる久々の上質テレビ・ドラマ!
2002/01/13/ (日)   <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (22)
2002/01/14/ (月)   いつまでも有能な若い連中をお客さんにしておくな!っちゅうの!
2002/01/15/ (火)   「赤頭巾ちゃん気をつけて」のフレーズを思い起こす昨今!
2002/01/16/ (水)   効率的な組織再構築もいいけど、犯罪の温床に警戒したい!
2002/01/17/ (木)   相模原市立新町中学校の田沼君と山本君に回答します!
2002/01/18/ (金)   したたかな明るさを放つ身近な光景から情報を読み取りたい!
2002/01/19/ (土)   人生っちゅうもんは、何が好きか、何がしたいかっちゅうこと!
2002/01/20/ (日)   <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (23)
2002/01/21/ (月)   その地域に、何かの理由で笑える誰かがいるのだろうか……
2002/01/22/ (火)   現代システムにおける「自立」を、いぶかしく考えてみる!
2002/01/23/ (水)   大義名分で「快進撃」する人々を思う!
2002/01/24/ (木)   幸運を引き寄せる極意!なんてあるのかな?
2002/01/25/ (金)   名古屋生活シリーズ……道理をかなぐり捨てた御仁!
2002/01/26/ (土)   わたしの場合、名古屋自身が責められるべきではない!
2002/01/27/ (日)   <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (24)
2002/01/28/ (月)   チャーシューの明治男と、ネギの知識人!
2002/01/29/ (火)   知識人は、「である」ことではなく、「なる」こと、「する」こと!
2002/01/30/ (水)   知識過剰時代と『十三日間地獄の特訓!』!
2002/01/31/ (木)   知識たちの失意と悔恨、そして虚しさ!





2002/01/01/ (火)  『もう二度と弄ばれたりするんじゃないぞ……』

 晴天の元日はそれだけでうれしいものだ。曇天だという予報から、問題含みである日本の年明けに似合った薄ら寒い正月を思い浮かべていた。陽射しに強ささえ感じさせる冬晴れが、時からのかろうじてのの恵みのように思えた。

 いつの頃からか元日の午後は、近場の神社へ初詣することにしてきた。大げさではないどころか、ほんのかたちばかりの初詣なのである。町田の中心部に古くから祀られている学問の神、町田天満宮と、そのすぐ近くに祀られている鹿島神社を「はしご」詣でするのである。しかも、いずれも熱心な人々が長蛇の列をつくっているため、小賢しくも裏口から入れてもらうのである。なおかつ、列の脇、神殿から遠く離れた場所から柏手を打って「簡易型!略式!」の詣でで済ますという不信心極まりない所業なのである。
 ところで、この鹿島神社を「はしご」詣ですることとなったのは、明治時代(1880年代)にこの境内でこの地域の「困民党」が決起集会を開いたとの謂れがあることに興味を持ったからかもしれない。「秩父事件」を起こした「秩父困民党」が有名であるが、深刻な不況の折り、借金の利子減免などを要求して立ち上がった負債農民の大衆運動だったのである。

 思えば、現行の不況も深刻さを増し続けている。たぶん、今年もその傾向に拍車がかかり、被害を被る人々の深刻さは並大抵なものではないだろうと予想される。不穏な表現をするなら、平成「困民党」のような事件が起こっても不思議ではない深刻さが進行しているやもしれない。
 ただし、大衆的な騒動が発生するだろうとは誰も考えない。思いもよらぬ凶悪な犯罪が起こるかもしれないことに不安を抱く人々がいても、大衆が社会なりに向けて要求を掲げ、実力行使をするイメージがいつの間にか生まれにくくなっているのが現代なのであろうか。それはなぜなのだろうか?現代人は怒ることができなくなったと言われることと関係しているのだろうか?複雑すぎる社会機構が、不幸の原因や、敵としての元凶を限りなく不透明にしているからなのだろうか?

 帰る道すがら、ようやく冬の午後らしい冷たい強い風がアスファルト通りを吹きすぎた。背中が押されるような一陣の風であった。
 歩道寄りの車道を、その風で紙コップがカラカラと飛ばされて行った。横倒しで転がるのではなかった。コップの中に風を湛え、吹き上げられ、着地して転がっては、また吹き上げられ、延々とはるか前方まで飛ばされて行くのだった。乾いたアスファルトを飛び転がる紙コップは、カラカラ、コンコンと派手な音をたてながら吹き飛んで行くのだった。

 側溝にでもひっかかって止まるものとばかり思っていた私は、どこまでもどこまでも飛ばされてゆく紙コップに、呆気に取られてしまった。と、ふいに、「翻弄される」、「弄ばれる」という言葉が心をよぎった。誰も止めることができない一陣の風、誰も助けてやることができないその転がり。紙コップは、翻弄されているとしか見ようがなかったのである。
 ようやく歩道に横たわった紙コップに近づいた時、私はそれを意を込めて踏み潰した。『もう二度と弄ばれたりするんじゃないぞ……』と思いながら。(2002/01/01)

2002/01/02/ (水)  いよいよ研ぎ澄ますべきは「問題解決型」のアプローチ!

 ビジネス・コンサルティングに携わる知人から、新春早々新刊の著作が届いた。目を通しているうちに、早々と御屠蘇気分が払拭され、日常モードに復帰させられた。
 復帰し、着地させられた地点は、常日頃抱いていた問題意識のそのひとつ、時代は、「積み上げ」的な思考の非生産性を嫌い、実践的な「問題解決型」思考を選ぶ!というテーマである。

 十年以上企業の人事問題改革に取り組んで来た彼の集大成とも言える出版である。題して、『15分で納得できるショッキング・レポート 会社が伸びない元の素。』、『同 会社を伸ばすお給金の鍵。』の二冊。各々80ページ位の小冊子風で、活字も見出しに使われる程の大文字、そう原稿用紙に記入する位の大きい文字である。
 「結論から言えば、人間には、明確に二通り存在します。数字を上げるのが好きな人間と嫌いな人間。受注に繋がるアポイントを取る人間と、取ろうとしない人間です。そして、恐ろしいことは、この『二通りの人間の構成比』によって、企業の業績も勝敗も、その全てが決まってしまうことです」
と簡潔な命題を主張し、これまで教育に過大な期待をかけてきた従来の発想に反省を促し、「二通り」の人材を峻別する「適正テスト」の存在に注意を喚起する。
 なおかつ、『毎日、自分の給料を計算してもらう。』ことのできる『分かり易い給料のルール』をつくること。「等級」だ「号俸」だと客観性の名のもとに、人事担当者たちのシステム遊びのような愚を退け、「『自分の儲け』を経営者と同じように、全従業員に考えてもらう」というターゲット一筋に矢を放っているのである。

 主張内容から、その装丁に至るまでのすべてが、問題解決こそが関心の焦点である経営者に向けた実践的なアプローチである。その一色で統一した彼の思惑が、私にはよく理解できるものであった。
 この実践的なアプローチは、当面の処方箋を売りとする単なる How to 路線なんかではなく、私には、「問題解決型」、「プロジェクト型」のアプローチ、発想だと了解できたのである。この方法は、システム開発などでは当然のように以前から採用されてきた方法である。また、私は、かねてからこのアプローチこそが来るべき時代のものの考え方であり、実践の有力な方法だと関心を向けても来た。
 ただ、既存する古い従来の組織、環境の中では、どういうものかうまく馴染まず、ぎくしゃくとしていたのが実態であった。発想が逆転していたからである。この方法は、簡単に言えば「はじめに問題ありき!」なのである。現状の問題設定を明確に踏まえ、その解決へ向けて全てのリソースを動員するのである。しかも、定められた時間と闘いながらなのである。
 が、従来の日本の仕事の進め方、いやそれだけではなくものの考え方とは、「はじめに組織ありき!」または「はじめに自分ありき!」だったのであろう。「何をすべきか」という原初的テーマ以前に、組織や自分という存在に目が向けられ、そしてその継続、温存が前提視されがちとなるのであった。分かり易く言えば、現在の無用に膨れ上がった政・官の官僚組織がそれである。すべきことより、おのれが存続することからすべてを始めようとする考え方であり、処し方なのである。
 すべての教育もこの考え方で行われて来たというべきなのであろう。「何のため」というこれまた原初的であるべきテーマは、延々と留保され続け、とにかく将来必要となるに違いないからという憶測で、さまざまな断片を「積み上げて」ゆく方法がそれであった。

 しかし、今日に至り、従来の日本の方法が壊滅的な打撃を受け、その方法の先には何も生まれてこないことを、多くの人が知るようになったと言えるのではないだろうか。従来の方法が、このスピードの時代に対して悠長であるという点が問題である以上に、意識や取り組み姿勢に現実感と緊張感が伴わないという点が最大の限界なのであろう。
 多分、今年に限らずここしばらく続く激動期の日本にあって、従来の「積み上げ」的思考と行動にしがみつく者たちと、「問題解決型」の思考と行動で自分たちの市民権を確保してゆく者たちとの際立った対照が繰り広げられてゆくに違いない。(2002/01/02)

2002/01/03/ (木)  外界の事物と「初々しく、輝きに満ち」た関係をとり結ぶ必要!

 年末から三箇日(さんがにち)にかけて、いずれも晴れだったこともあって、毎日犬と散歩をした。日頃は夜が遅いので怠りがちとなっていた。決して無理をせがむ犬ではない。だが、「サンポ!サンポ!」と言うと、待ってましたと言わんばかりに身体中でうれしさを体現する。その姿が、わたしのやりがいを喚起させるのである。
 以前などは、そう言うと、準備体操だかなんだかわからないが、狭い庭を裏の方まで失踪する始末であった。二、三周駆け回ってきて、はあはあと言いながら散歩用の綱に繋がれるべく首輪を差し出す(?)のであった。

 今日も、陽が差しているうちの午後に出かけた。うちの犬は、一たび表に出ると、「人が変わったように」(「犬が変わった」と言うべきなのか?)我武者羅に匂いを追っかけ、行きつ戻りつして、決しておとなしく歩む風ではないのが癪に障る。盲導犬のようであってくれたらどんなにかうれしいかと思ったりする。まあ、しかしこれがこいつの唯一の楽しみなんだからしかたないかと……

 ウォーキングではなく、こうして犬と散歩する時にしばしば思うことは、「観察」という一事。ありふれて、見飽きてもいる町の風景をそれとなく注意して、何か新しいものでも発見できるよう観察しようというのである。こう書くと、まるで病み上がりのリハビリのようにも受け取られようが、実際、そんなことを意識しながら、楽しみながらではあるが歩いたりする。
 だが、犬を散歩させようという気分の時は、大体が気分転換を望んでいる時なので、テンションは低い。何を見ても、「あ、そうなの。あ、そうですか」という波風が立たない調子を出ないのである。こうなると、何の面白みもないどころか、情けなくなったりする。
 今日は、広い空き地に犬を放しながら、枯草から「猫じゃらし」が枯れた姿でふらふらと風にそよいでいるのを眺め、ふと考えたものだった。言うまでもなく大したことではない。『よく観察するためには、モノの名前、名称を豊富に記憶しておかなければならないかもしれない!』と、その時思っていたのだった。「猫じゃらし」が「エノコログサ」の異称であったことが思い出せず、きっとそんなことを考えたものと思われる。

 それにしても、アブナイなあと感じたものだった。何がと言って、自分の意識と外界の事物との関係が、あまりにもさりげなさ過ぎることがなのである。もちろん、さして気にすることではないのかもしれない。むしろ、目に入る事物がすべからく名を名乗って意識に突き刺さってくることがあったら、わずらわしくてしかたないのかもしれない。
 しかし、それじゃあ、どんな事物なら自分の意識に「直訴」してきて差し支えないと言えるのだろう。余程の異変に限っては良しとしているのだろうか。
 よく指摘されることであるが、たとえばの話、赤穂浪士が切腹を申し付かる直前には、目に入るものがことごとく初々しく、輝きに満ちて映ったとかという話がある。そういった風に、手垢と倦怠感で塗りつぶされた日常事物、光景が光に満ち溢れて映らないものかと思ったりするのである。

 自分自身の意識のテンションを高めておくことが大前提であることは承知している。それに加えて、何か How to がないものかと思案した結果が、「良く観察する!」ことのつもりであった。
 ではなぜ、外界の事物と「初々しく、輝きに満ち」た関係をとり結ぶ必要があるのか。どうと言うことはなくて、それが生きることの原点であり、これが満たされない空洞を、さまざまな場違いなもので埋めようとあがいているのが現代人だとうっすら感じ続けているからなのである。(2002/01/03)

2002/01/04/ (金)  「自立」の意味を知るのは「自立」した者だけ?!

 雑誌や、地域団体の機関誌などの末尾に、『間違い探し』というようなページがあったりする。上下二つの紛らわしい漫画絵があり、上の絵と異なった箇所を下の絵の中から七箇所探しましょう、などというのである。ちょっとした暇つぶしにはもってこいであり、ついつい夢中になったりしてしまう自分である。
 最後のひとつ、ふたつを残してしまうと、さて、やっかいなことになるのである。観察のパターンが固定してしまうからであろうか、何度しらみつぶしに視線を這わしても、「おっかしいなあ……」となってしまうのである。

 このゲームは、上の手本と較べ、下の絵から紛らわしく埋め込まれた差異を発見してゆくものだが、これは唐突な話となるが鎖国解除以降の日本が歩んできた歴史を思わせる。欧米諸国の文化という手本があり、何はともあれこれと異なった部分を指摘し、改変できるものは次々と処理してきた日本。
 明治時代はまさに、初級者向きゲームのごとく、誰でもがいくつでも指摘できるほどに「間違い」だらけであっただろう。次第に難しくなっていったが、まずまず差異は発見され、つぶされていった。だが、いつしか重要な差異が発見されないまま、手本と大戦争をすることとなってしまい、負けた後には、考える間も与えられずに下の絵の差異の箇所にチェック印をつけられてしまった。
 そのお陰もあってか、下の絵はみるみると上の絵そのものと変貌し、ややもすれば上の絵がモノクロであるのに対して、余分なカラーまで入れられてしまったのかもしれない。ここまでくれば、もはや、手本の上の絵は不必要であったかもしれない。まったく新しい絵となり、下に紛らわしい絵を携えて、新ゲームを始めてもよかったのかもしれない。しかし、あいも変わらず上の絵に従おうとし続けた。

 そうこうしているうちに、ゲームは振り出しに戻ってしまい、上の絵の米国図とは異なった下の絵日本図の中から、間違いを七つ探しましょう、となってしまったのだ。差異には敏感なわれわれは、ほどなく六つまでは探し当てた。が、どうしても残りのひとつに検討がつかないのだった。
 見るに見かねた親切な御仁がここぞ!と指摘したのだが、それでも了解できない体たらくであった。その御仁が指していた箇所とは、ひとりの人物が立っている姿の背中あたりであった。
 上の絵は、遠くに建物があるかの紛らわしさがあるが、人物は「自立」している。しかし、下の絵は、一見自分の足で立っているごときであるが、実はすぐ背後にある建物に寄りかかっていたのだった。「自立」できないでいたのである。

 これからの日本人、そして日本は、いろいろな局面で、この「自立」こそが試されることとなりそうである。これはなかなか難しい課題だといわなければならない。非常に紛らわしい概念であるからなのだ。子を背負って歩む親が躓いた時、負われた子どもが「おかあちゃん、足元には気をつけなければダメじゃない!」と言うほどの紛らわしさであろうか。いや、さらに言えば、本当の「自立」の意味は、「自立」した者しか分からないところに、最終的な紛らわしさがあるのかもしれない。(2002/01/04)

2002/01/05/ (土)  再び目撃した生きるための壮絶な光景!

 昨年とほぼ同一のこの時期に、再び同一の光景に遭遇したことが奇妙であった。
 今日も、犬の散歩に出たのだった。少し遠出をしてみる気となり、自分ひとりでウォーキングをする場合のコースを選んだ。近所の境川の遊歩道に連なるやや距離のあるコースである。
 わたしが始めて「それ」を目撃して小さな衝撃を受けたいきさつは、昨年の前半に書きとめた小説もどき(当HP内のWeb上連載小説『かもめたちの行方』第九話 Thinking by myself ! )に叙述している。
 冬場の湘南に餌を取り損ねたかもめが、三十キロ北上したこの境川で、放流されている鯉を餌として確保する光景なのである。かもめの姿を校章とした母校の台場小学校のわれわれ、団塊の世代を群れを為すかもめたちと見立て、群れで生きることから個として生きる時代を迎えていることを描く文面としている。
 一羽単独で飛来し、餌に乏しいこの冬場を自身の知恵と勇気によって乗り切ろうとしているかもめに、何か示唆的なものを見出したのであった。

 今日、その同一の光景に再度遭遇した時には、まるで『追試』を受けている、あるいは禅における難問の『公案(こうあん)』に再チャレンジさせられているかのような気分となったものだった。『さあ、そなたはこの光景をなんと見なさるか……』と、連載中の沢庵和尚にでも問われているような心境となってくるのが不思議だった。
 立ち竦み一点を見つめるわたしと犬の姿に促されてか、対岸をジョギングする小柄な中年の男が、事情をすぐさま読み込んだようだった。だが、走る動作を止めず、しかし気になってもいるのだろう。黒縁めがねをかけた顔と視線だけが現場の一点に向けて固定され、走り続ける足腰で身体が運ばれていく姿がやや滑稽でもあった。顔つきからは、『やれやれ、運の悪い、かわいそうな鯉だ……』とのつぶやきが聞こえてくるようであった。

 昨年の光景と、眼前の光景との違いはと言えば、ハンターたるかもめが一段と大型であったこと、鋭いくちばしでついばまれている鯉が余命の動きを残していたこと、したがって見る者に一際弱肉強食のむごさが伝わってくることであったかもしれない。
 まさに人間にとっての時代環境も、この一年で一際厳しさとむごさが加わってきているはずであった。一際の現実感を伴うかたちでこの問いに直面している自分を知らされた。

 芥川竜之介の作品に『杜子春(とししゅん)』という中国唐代の神仙小説の翻訳ものがある。仙人とめぐり合い、金銀財宝を与えられては無一文となることを繰り返した杜子春が、最後に望んだことは、仙人の修行をすることであった。この望みが叶えられ、さまざまな試練を突破する杜子春ではあった。
 しかし、愛しい自分の老いた両親が身を馬に変えられ、ひどい仕打ちを受ける場面に遭遇し、決して声を出してはならぬという仙人からの条件を破ってしまい、とうとう仙人にはなれなかったという話なのである。
 実は、この元の話、中国の話はより残虐であり、また奇怪であるそうだ。何でも、自分が女性に変えられるという想像を絶した試練に遭遇させられてゆくことで、とうとう戒めを破ったというのだ。芥川は、日本人には耐えられない水準の話を避け、受けねらいとは言わないまでも、マイルドにまとめ上げたというのが真相のようだ。

 優しい性善説とすべてが穏やかな環境によって育まれてきた日本人とその感性。それはもはや耳ざわりの良い伝説だと言えるのかもしれない。いや、むしろそうした伝説をことあるごとに持ち出す「限られた幸せな人々(?)」にしか残されていない伝説だと言うべきなのかもしれない。
 想像を絶する苦悩、抽象的でなどあり得ない具体的でリアルな悩みで雁字搦めとなり、生き残ることを迫られた者たちが、心底何を選択すべきかが問われ始めた時代なのだろう。
 わたしは、今年も再度、「自立」したかもめを選びたいと思う。ひんしゅくを買うことが目的であろうはずはなく、生き抜くことに徹したかもめの姿に躊躇する発想には未来がないと信じるからである。具体的な場において、禁じえない衝動的な同情の行為はあるかもしれないが、抽象的な設定における抽象的な同情を口にして、緊迫感を欠いた虚飾を張り巡らすことはあえて避けておきたいと思うからである。同情や哀れみは決して論じるものではないはずなのだ。論ずべきは、構築しなければならない未来に違いない。(2002/01/05)

2002/01/06/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (21)

 『四つの図柄』の描かれた色紙(しきし)が、向かい合う和尚と海念、保兵衛の間の畳の上に丁寧に置かれてあった。障子窓に差す西日が、和尚の部屋を明るく照らしている。
 その色紙は白く映え、墨を使い小筆で几帳面に描かれたと思われる図柄が四つ、その白さからまるで浮かび上がるようであった。
「あれは、この東海寺が開かれ、拙者が招かれて間もない頃のことじゃ……」
和尚は、その色紙に眼差しを落とし、殊のほかゆったりした口調で話し始めるのだった。
 東海寺は、将軍家光が沢庵和尚のために寛永十五年に建立し始められた禅寺である。沢庵を気に入っていた家光は、何かと和尚を江戸に留まらせようとして来たのだが、和尚の方はと言えば何かとこれを拒む素振りに終始して来ていたのだった。そこで業を煮やした家光が、品川に東海寺を建て、沢庵の意を固めさせようとしたと言えよう。
 ようやく、沢庵和尚がその東海寺に住むこととなったのは、その翌年の寛永十六年の四月であった。当代一の座にすわることとなった沢庵であったが、その心は必ずしも嬉々とする風ではなかったようである。むしろ、禅僧として無位の乞食の境遇こそを望んでいた沢庵にとっては、権力に寄り添う高位高官、富貴の者たちとの対応に違和感とわずらわしさとを感じていたであろうことは、容易に想像されるのである。現に、沢庵が唯一残したとされる著『東海夜話』には、その心境が書き残されてもいるのである。

「春の宵のことじゃった。拙者は真新しい寺のその廊下から境内の池の姿を愛でておった。すると、池のほとりに何やら人影らしきものが蠢いた。とっさに『何者ぞ。』と声をかけたのだが、返事がない」
「和尚さま、お話の途中ですが、その池というのは私の時代では、埋め立てられて、城南中学校という学校となっているんです。すみません」
「おう、そうか、不思議な縁(えにし)じゃのう。でな、拙者は庭に降りたのじゃ。して物影に寄っていった。それが、何と保兵衛さんとの最初の出会いだったというわけなのじゃ」
「えっ、保兵衛って、このぼく、いや私のことですよね?全然覚えてはいないのですけど……」
「いやいや、保兵衛さんの過去のことではないのじゃ。ここが時空の不思議とでもいうべきなのであろう。こともあろうに、三十年以上も未来の保兵衛さんだったのじゃ」
「ええーっ、そんなー。三十年以上も将来のぼくが、どうしてそんな時に現れることになったの?」
「さあて、なぜそうなのかは、この和尚にも説明はできぬ。『スーツ』とやらの着物を着こなし、輝きのある皮製の履物を身につけておられ、どこから見てもりっぱなお姿じゃった。髪型もまげなどはつけておられんじゃった」
「そ、そそれで、それでどうなっていったんですか?和尚さん」
 もう保兵衛は、想像だにできなかった和尚の話に、外聞などかまわずうろたえていた。海念も、ことの成り行きの奇想天外さに、口に手を当て言葉を失っているのだった。ただ、海念は、わずかなゆとりの中で、これまでなんとなく気にしていたひとつの事柄が氷解するのを感じていた。それは、なぜ和尚さまは、自分と同年代の保兵衛さんを、自分のように呼び捨てにせず「さん」づけで呼んでいたかについての疑問なのであった。きっと、和尚さまは、最初にお会いになった年配の保兵衛さんの印象から離れられないでいたからに違いない、とそう思ったのだった。
「怪しき者とは当然思えたが、話を聞くと、ご本人の当惑した様子もまんざら作り事とは思えんじゃった。その真摯な眼差しは、狼藉を為す者とは見えなんで、この部屋にかくもうて詳しく話を聞くことにしたのじゃ」
「和尚さま、将来のことか過去のことかよく呑み込めませんが、とにかくありがとうございました……。それでどうなったんでしょうか?」
「うむ。ここでじゃ、ひとつ保兵衛さんに言うておくことがある。ほかでもないのじゃが、拙者はその時の保兵衛さんとは時空を越えた話題に花を咲かせたものじゃった。当時、気を滅入らせがちな拙者に、その折りの保兵衛さんは久々に生き生きとしたお話をしてくださった。現代とやらの世界、そしてそこでの保兵衛さんの苦悩や喜びもな。そこなんじゃ、その話のすべてを、今ここでそなたに話すことはしてはならんことじゃと、拙者は判断しておる。なぜだかは、聡明なそなたなら分かるかのう」
「だいたいですが、分かります……」
「おお、そうかそうか。良きこともそうでなきことも、みずからが初めて遭遇してこそ人の人生と言うものじゃてな」
 保兵衛は、確かに自分が今後どうなってゆくのかを和尚の口から聞きたいという思いもあったにはあった。が、それはなぜか間違いなのだろうという直感がかすめたのだった。
「さあてそこでじゃ。ここにある色紙のことじゃが、これは、その時の保兵衛さんがある事情のもとで描きなさったものというわけなんじゃ」
 保兵衛と海念は思わず顔を見合わせ、素早く頷くのだった。
『そうだったでしょ、海念さん。』
『やっばり、ご自分でかかれたんですね、保兵衛さん。』
という言外の会話が瞬時になされていたに違いなかった。
「その事情というのはな……」
 和尚は、ゆったりと左手を湯のみに手を伸ばし、それを両手で包んだ。そして、蓋を取り、わずかに喉を潤し、また元に戻すのだった。それを見守り、つぶらな目で追う二人の仕草は、もう双子そのもののように見えた。
「ひとつの事情は、ここへ来られた保兵衛さんが、決して偶然ではのうて、自分の意志で来られたということに係わっておるのじゃ。何としてももう一度、海念に会って話がしとうてならなかったというんじゃ」
 海念は、はっと息を殺し緊張した。そして、保兵衛の顔へと、さらに色紙へと視線を移していた。
「保兵衛さんは、子ども時代にここへ来られたことを何十年もしっかり記憶されていたんじゃな。大層その当時の経験を懐かしんでおられた。いや、それはよいとして、再度、自分と同様に成人した海念と会うこと切に望んで時空を越える冒険をなされたそうなんじゃ。ところがじゃ、何とも皮肉なことに時空の掟がそれを拒み、わずかながら遡った時系に落とし込まれてしまったということなんじゃな」
 和尚は、目を伏せその折りの保兵衛の落胆ぶりを振り返るように何度も頷いていた。
「保兵衛さんの残念がるお姿は見ておれんじゃった。海念との再会に余程期するものがあったのじゃろうて……。ようやく落ち着かれた保兵衛さんは、その後に遅れて来る幼き自分と海念さんに、何としても文(ふみ)を残したいと申されたのじゃ。何をしたためたかったのかのう。拙者は、それがよかろうと申し上げた。が、一抹の不安が脳裏をかすめたのじゃった。
 当世は、幕府によって鎖国政策が完成に向かう時期であることはそなたたちも存じていよう。まして、この寺は、幕府直轄の寺じゃ。また、拙者も高齢にて、いつ果てるとも知れん。猜疑心旺盛な者たちに、われらとて理解に苦しむに違いない左様な文などを残すことは、無用な物議をかもすだけだとそう懸念したのじゃった。
 さりとて、拙者への伝言だけでは思いが果たせぬとおっしゃったものじゃ。困ってしもうた。で、思案のあげく拙者がこのようにされてはどうかと、お勧めしたのがこの色紙というわけなのじゃ。
 そなたたちだけに分かるそのような『図柄』を、ひとつでは足らぬ、思いを託し三つ、四つを描かれてはどうかとな。さすれば、きっとそなたたちが、あの折りの保兵衛さんの思いを悟るに違いなかろう、とな」
 二人は、正座している腿の上の黒い袈裟に広げていた両手をぎぎゅっと握り締め、じっと『四つの図柄』を見入って動かなくなってしまった。
 その色紙には、保兵衛にしか分からぬ暗号とも言うべき図柄が三つ、それらはいずれも学校の校章であり、ひとつは現在の保兵衛の小学校、台場小学校の「かもめ」の図、さらにもうひとつは保兵衛が転校してくる前の鷹合小学校の「鷹」の図、最後のひとつはやがて入学することになる城南中学校の校章、「樫の三つ葉」の図がそれぞれ丁寧な筆運びで描かれていたのだ。
 そして、もうひとつが別格風に描かれた「鯨」の図なのであった。海念の苦渋に満ち満ちた夢、それを誰よりも理解した保兵衛、この図こそが、ほんのわずかな時の流れの中で、保兵衛と海念とを分かちがたく結びつけた証しを意味してはいなかっただろうか。
 やがて、はからずも同時に、二人の袈裟の上に、何かがぽたりぽたりと落ち、黒く染み広がってゆくのを、沢庵和尚は優しい眼差しで見つめていた。
 その暖かき雫は、和尚の深遠な配慮への感謝とも、また今はその深さを自覚し得ていない自分たち二人の友情への喜びの予感とも、あるいは人の存在を超越して司る非情な時空の掟へのかすかな慄きとも受けとれるのだった。(2002/01/06)

2002/01/07/ (月)  今年のビジネスのツボは「Re〜」となると観(み)た!

 本日より「仕事始め」。しかし、こういう表現はあまり好きにはなれない自分である。経営者の端くれとしては、四六時中が仕事と言えば仕事なのであり、見方によれば仕事と言いながら年がら年中勝って気ままにやっているとも言える。仕事だからどうだ、フリータイムだからどうだとは言えない立場なのである。
 しかし、ある意味ではサラリーマンとて、当世では遠近両用めがねではないが、境目なし、バリアフリーの時代となっているのかもしれない。フリータイムと言えども、仕事の成果向上のための自己啓発が欠かせなくなっていよう。また、仕事時と言えども、お定まりのルーチンワークだけやっていればよいものでもなく、遊びごころにも似た柔軟な発想、姿勢が要求されてもいるだろう。辛い時代となったものである。

 さて「仕事始め」となったからには、犬がどうの、かもめがどうのとばかりは言っておれない。今年のビジネス状況などを、零細企業なりの低い目線から垣間見て、戦略なんぞは立てられないにせよ、姑息な戦術くらいは立てておかなければなるまい。
 先ず、この景気低迷は決して短期決戦でしのげるものではないと考えている。底を打つに至るのにさえ、二、三年がかかるといったしぶといものと見なしておいた方が妥当かと直感している。それが、現在の政府に対するあきらめの評価と表裏一体となっていることは言うまでもない。

 短期決戦ではしのげない以上、コスト割れの価格競争に活路を見出そうとする戦術は、ただただ消耗戦に、場合によっては手勢の疲弊を早期に招くだけに終わることとなる。堪えられれば堪えて、競合数が減少するまで待つ必要があるかもしれない。一度低下した価格はおいそれとは戻らないことを熟知しなければならないだろう。

 価格競争が回避できる土俵があればそれに越したことはなく、この時機にオンリー・ワン的位置となり切れれば言うことはない。どんな小さな土俵であってもよいわけで、自社も危なければ競合他社も同様であるため、それへのチャンスは無きにしも非ずといった環境なのである。事態の推移を注意深く観察する必要が出てこよう。

 こんなしょぼくれた時期だからこそダントツの走り抜けを敢行したいとする血気盛んな経営者もいるかと思われる。とかく、マスコミなどは逆説的なキャンペーンとして、「こんな時に『元気な会社!』」などと銘打った報道をしがちである。しかし、今、元気な企業はここ二、三日で元気になったわけでは決してなく、長年の地道な努力の成果を今刈り取っているにすぎない。したがって、じゃ、おれんとこも一発やってみっか、と乗せられる軽挙妄動のみじめな結果は誰もとってくれはしないことを噛みしめたい。
 勝負に打って出る時期などでは決してないのだ。現に、企業における新企画の動き、設備投資は概ねストップしているはずである。皆、財務体質改善のための借金返済で躍起となってしまっているのだ。ここを変えるべく誘導するのが政治であるにもかかわらず、それがなされていないから政治悪だと見るわけなのである。
 こんな時期に最も意を傾けるべきは、あらゆるモノが醒めてしまった市場で、新企画の当該商品が思いのほか醒めて迎えられてしまうことを冷静に推定することかもしれない。企画当事者たちは、熱くならなければ始まらないのだからとかくヒートする。しかし熱くなっては身の破滅に至るのがこの時期だと思われる。

 しかし、じっと冬眠を決め込むことができないのがビジネスである。かろうじて注目すべきは、「Re」にまつわる事業ではないかと予想している。世の中は、まさに Recession 不況であるが、 Restructure(再構築)が必要な時代だと言われる。要は、挫折、閉塞、袋小路、行き止まりの時代以外の何ものでもないのだ。再構築すること以外に方法が品切れとなってしまっているのである。
 では、なぜ新規巻き直しではなく、「再」構築なのであろうか。結局、新規再スタートをするほどに、新鮮なコンセプトも見出せず、引き摺りつつ継続させなければならないものも余りにも多すぎる時、「修正」の域を出ない「Re〜」に行き着くのではないかと、そう考えるのである。
 現在注目されているビジネス・ターゲットは、ほとんどすべてがこの「Re〜」に関係しているのも面白い。「医療関係」は、新規巻き直しのできない人間の身体を「Repair」修理するものである。「教育関係」では、昨今注目されるのが循環教育、生涯教育で「Recurrent education」と言う。「環境問題」は勿論、限られた「Resource」のために「Recycle」が必要だと言われている。「こころの文化」再来ということで「Refresh、Recreate」がキーワードとなる。
 システム開発、ソフトウェア開発の領域でも、この時期、新規開発という話はついぞ聞かなくなり、専ら改造「Remodeling」( conversion )のご要望が多いようだ。本命のニーズを高コストで直接的に追わず、低コストで暫定的に接近しようとする方策なのであろう。
 なお、こうした改造というニーズの達成は、ベテランとまでは言わないまでも、ハイ・スキルを必要とする作業であることに着目するなら、この時期は、やはりサバイバルする者たちを選別してゆく、そんな時代だと言えるのかもしれない。(2002/01/07)

2002/01/08/ (火)  しみじみと「地味っていいなあ」と実感した!

 毎年、松の内の間に「川崎大師」へ初詣することが定着してしまった。会社設立時からのことであるから、もう十四年の継続となる。護摩を焚いてもらい御札を頂いて来るのが慣わしとなっている。昨日は、その大師参詣に出掛けた。
 真言宗の寺を菩提寺としていることからすれば不思議なことではないはずである。しかし、そうした因縁という以上に弘法大師、空海が好きだからと言ったほうが良いのかもしれない。
 今回も、多くの祈願者たちと一緒になって薄暗い仏殿で、鮮やかな護摩を焚いてもらった。床から身体へと共鳴してくる地響きにも似た大太鼓の響きと、僧侶たちによる祈願の朗詠は、心を揺さぶられるに十分な道具立てである。
 当然のことではあるが、そこに集まった老若男女は、決して幸せな人々だと言うわけにはいかない。決めつけることはないが、何がしかの苦悩や辛さや不安を背負う者たちばかりだと言えよう。自分とて、毎年のこと、今年の事業はどうなるものかとかで悩みは尽きないでいる。空海という偉人の前での迷える民の一人だと実感させられる。
 そうして合掌し、山野を駆け巡る行動的な空海の姿に想いを至らせていると、不思議なものだが、オレだけが救われるという了見の狭い思い込みではなく、みんながみんなこぞって救われるべし!という躍動的な想念がふつふつと呼び起こされるのだ。そうでなくてはならない!という勇気が立ち上がってくるのである。

 御札を頂き、門前でくず餅のみやげを買うことも定着している。さらに、ただただあわただしい限りの門前通りの店では食事せずに、川崎にまで戻ってから銀柳会商店街の安い中華料理店で食事することまでが、大師参詣コースのお定まりなのである。
 蒲田、川崎商店街は若い頃大森町に住んだことのある者にとって、その庶民性が懐かしい。ラジオの深夜放送を聴いていた頃には、よく同商店会提供の番組を楽しんでいたことも覚えている。その中華店のウェイトレスは、たどたどしく日本語を話す中国出身の女性であることも、十年来変わっていないのである。
 テーブルの向かい側に、飾りっけのない親娘が座った。母親もひとを威嚇しがちなケバサがまるっきり無ければ、娘も負けず劣らずの粗野仕立てであった。口を滑らせれば貧相という禁句まで出てきそうだった。だが、たどたどしい中に親娘の気兼ね無さが染渡った会話が良かった。実に印象的だった。
「チャーシューなんかいらないのよね。チャーシュー・ラーメンじゃなくても十分おいしいもんね」
「そう、これでチャーシューが加わるとくどくなるのよ」
 そうなんだ。いらないものはいらない!満足しながら、地味にいきましょう、地味がいい。往路、京急で花月園競輪に向かう男たちの気負った「行き」の姿を目にしたが、「帰り」の彼らは、一杯のラーメンさえありつけない馬鹿をやっているに違いないのだ。そんなことを思い出しながら、しみじみと「地味っていいなあ」と実感させられたのだった。
 十年以上も足を運ぶと、空海先生も、時代にふさわしいみやげ話まで持たせてくれるものだと感謝しながら、御札と共に事務所へ戻ったのだった。(2002/01/08)

2002/01/09/ (水)  高性能な液晶ディスプレーを使って思うこと!

 カッカとヒートするわけでもなく、存在感を誇示するわけでもなく、もちろん働く上で大食らいを決め込むわけでもない。それでいて、こなす仕事はシャープで鮮やかである。いや、決して団塊世代を当てこすっているのではない。ブラウン管モニターに取って代わりつつあるLCD(液晶ディスプレー)の話なのである。

 画質と価格にこだわる方なので、ノートPCは是非もなしとして、デスクトップは従来型のブラウン管モニターの"ナナオ"などを使ってきた。LCDの高品質化と、低価格化をそれとなく待ってきたのだが、ようやくデスクトップPCもLCDにリプレイスすることとあいなった。
 "SHARP"製の17インチである。液晶ディスプレーは、従来型と比較して同じインチ数でもひとまわり大型なので、ウィンドウズが文字通りの窓のようで広く明るい。言うまでもなく、形状は卑屈なほどにささやかである。重量も容易に移動させられる軽量そのもの。額縁のような数センチのパネルが、机上のどこにでも収まるのである。
 これまでの17インチモニターは、机上に据えるとキーボードが加われば、机上での書類作業が不可能であった。昔のプログラマーよろしくキーボードをモニターに立て掛けたりして別作業をするありさまだったのである。これで、机上の老朽ビルが撤去されたので、スマートな机上再開発が可能となり、何やらうれしい気分となっている。これで、価格は7万円半ばであり、一頃に較べれば手が出しやすくなった。

 PC用のLCDもさることながら、家庭用TVのLCDへのリプレイスも、実感としての検討材料になりつつあるのか。30インチ近いブラウン管TVは、場所と熱と消費電力の三悪に加え、その害が定かには報じられていない有害光線という点もあり、時間の問題なのかもしれない。ただ、その発熱に目をつけ、画面を蹴上がってTVの上で寝ることを習慣としている飼い猫のことを思うと、今はできない。猫もかわいそうだが、液晶画面に爪を立てられ泣く主人も無残だからである。

 しかし、考えてみると、ますます純粋な機能優先の時代になって来たものである。昔は、TVもメディア・ツールであるだけでなく、立派な家具であった。漆塗りの高級な木材などで仕上げられたTVなどは、まるで仏壇と見紛うばかりで、完全にその部屋の主となり切ってもいたはずである。床の間に据えられたTVを覚えている人が多いはずだ。
 画面を映すという機能だけのPCモニターも、そのどっしりとした存在感が電子の力のありがたさを増幅していた時代もあったにはあったのである。パーフェクトなビギナーなどは、モニターこそがPCだと信じて、「コンピュータってりこうよね」と言い、躊躇なくモニターを指差したものであった。

 これが時代なのだなと思いながら、人間界を思い浮かべると、人間界も機能優先となっているのだった。昔の偉い人は、「太っ腹」の表現のごとく、腹が突き出た恰幅の良い姿とともにあった。能力があっても貧相だと、今ひとつ信頼に欠けるとの陰口が叩かれたりしたようだ。しかし、昨今は、わたしのように中年ぶとりしていると、自己管理能力、節操が不足したエグゼクティブは問題だ!と言われかねない時代なのだ。
 また、ビジネスマンも、スペシャリティという得意技の機能が発揮できなければ、キロいくらでも買ってもらえないそんな時代とあいなっているのだ。
 団塊世代に闘う気力があればの話だが、ますます、自分たちの時代を自己否定して乗越え、時代が向かう方向の意味だけはキャッチしなければならないようだ……(2002/01/09)

2002/01/10/ (木)  ど不況を生き抜くとっておきの妙案!「幸せ発見能力!」

 住むところも無く、食うものにも困りひもじい思いをすること、子どもに度外れた辛い思いをさせてしまうことは論外なのではあるが、そこそこの生活ができる場合には、このど不況を生き抜く手立てはあるように思う。
 幸せには、決してスタンダーズ(標準)がないことを、じっくり思い起こすこと、これがしぶとく生き抜く妙案だと考えている。

 確かに、不公平、不平等により不幸に陥っている場合、黙々と我慢することは卑屈であり、社会正義の上からも断固として抗議すべきであろう。天下り就職の上、何千万円の退職金を掠め取っていく特殊法人、公益法人がある一方で、人情を大事にしたい気持ちがあったばかりに倒産に追い込まれた自営業者がいるこのご時世は、抗議するに十分値する「てやんでー、べらぼうめー!」に違いないのだ。

 しかし、誰を相手としても恨む気持ちだけを生きるばねにしたり、抗議することだけを生甲斐にするそうした人生も辛いものがある。できれば、クールに抗議しながらも、何がしかの幸せ感をしっかりと抱きながら生きられれば言うことはない。
 自分だけが何故こうしてついてないのかと落胆することがあるとともに、自分が不幸だと感じさせられることは確かにあるものだ。だが、傍目(はため)から見ると何てあの人は幸せ者なんだろうと思しき人が、内心ではやり切れない苦悩を抱えている場合もしっかりと存在するのが人の世でもある。
 要は、幸せとは当人の受けとめ方次第という側面「も」あるということなのだ。こう言うと、「それは、あなたが幸せだから言えること!」という反論が即座に返ってくることは承知している。だが、他人の幸せは見通せるものなのだろうか。もし、見通せるとするなら、幸せの基準、標準がどこかにあったからに違いない。マイホームと三種の神器とマイカーを持ち、子ども達が名門の学校へ通っていれば幸せと見なす、そんなスタンダーズがあったからに違いない。
 しかし、誰でも知っているとおり、幸せとは、モノや力の所有ではない。当人が心から感じることであるに違いない。当人が、自分自身の主体的な感性で感じとるものなのであろう。それを、何を所有していれば幸せなのだ、ない者は不幸だと、イージーに思い込める風潮を作ったことが、土台おかしかったのである。まあ、そのお陰で、高度成長経済が達成されたのではあるにしても。

 以前、わたしの大好きな知人が言った言葉を思い出している。駅前通りを歩き、屋台で子どもがオヤジさんの商売を手伝っている光景を見て、彼は言ったものだった。
「あんなふうな情景を見て、かわいそうな子だなあ何て言うヤツがいるよね。オレはそうは思わんな。あれで、結構親子とも楽しくて幸せなんだよな」と。
 その通りなのだ。幸せとは、標準がないばかりか、無理をして勝ち取るものでも、与えられるものでもないのである。「見出すもの!」ではないかと感じている。多くを所有していようがいまいが、権限があろうがなかろうが、便利であろうがなかろうが、そんなことに本質的に関係しているのではなく、何であれ自分の何がしかに、幸せを見出すことができるかどうかなのだと思うのである。妙な表現であるが、どこにでも幸せを見出せる能力それ自体が幸せの本質だと、そう思うのである。
 苦労人は立派になれると信じている人がいる。それは間違いなのであって、苦労がたたって、根性が捻じ曲がる人も大勢いるのである。むしろ、傍目には苦労と見えることの中に、「幸せ発見能力!」を発揮して涼しい顔でやり過ごすことができた人が立派にもなれるということなのであろう。

 これからは、幸せスタンダーズなどというまやかしに悩まされず、誰にも必ずといっていいほどに備わっている幸せを、能動的に発見するのかしないのかが大事なこととなる時代なのかもしれない……(2002/01/10)

2002/01/11/ (金)  悪が弱らず、善良な庶民だけが「痛み」を背負わされた「抗癌剤」治療!

 今朝、バスの車窓からちょっと驚く光景を見た。今日は、客先に出向く予定で、町田駅までバスを利用した。町田街道のとあるスーパー風の店の前に、長い二列の待ち行列が並んでいた。しかも、パッと見、中高年の男女ばかりが、背中と腹とがくっつくような距離で整然と並んでいたのだ。総勢で百名はいただろうか。開店前のパチンコ屋には、毎日出る台を狙った者たちの行列ができるのは知っている。しかし、パチプロくずれやら、トイレ座りした茶髪の兄ちゃんやらが勝手気ままに並んでいるのが相場である。それと比較すると、何と折り目正しく、律儀に並ぶ人たちであったことか。あたかも共産圏の国からのレポートのようにも感じられた。
 バスの中で、しばし考えてしまった。倒産したスーパーが「八割引」販売をした際にも大変な人出だったとか言うから、恐らく破格の値引きなのだろうと推測した。やはり、少しでも「助かる!」買い物への努力を惜しませない、そんな厳しい世相なんだなあ、と痛感してしまった。後で知ると、何でも開店のキャンペーンとかで「食パン」を無料で配布していたそうなのである。比較的安いモノが溢れてもいるこの時期、新規開店で評判を取るためには、「無償配布」となるものかと商売の厳しさをまたまた痛感した。

 だが、こうして庶民が買い物に、商売に見栄も甘さもかなぐり捨てて体当たりしている一方で、何と形容していいかわからなくなるほどお粗末な人々も存在するのが不思議な国日本である。
 元札幌国税局長が、企業から受け取った顧問税理士料など約7億3000万円の所得を隠し、約2億5000万円の所得税を免れた疑いが強まったとして、東京国税局は当税理士を脱税の疑いで東京地検に告発したという。また、自民党の「知性」とも評されていたK議員の秘書が、膨大な額の脱税で摘発されたとも言う。自民党元総理の事務所が犯罪がらみで汚れた献金を受け取っていた事実も報道された。いずれも、決して目新しいことではないのがむしろ残念で、悲しい。
 しかし、「食パン」を無償でもらう弱者が寒空で整然と並ぶ光景と、高級公務に携わったり、携わっている者たちが、厚顔無恥の特権感覚によって愚かしい限りのことを仕出かしている光景とが、さり気なく並置する構図が、どん詰まり国家の日本の現実である。何と嘆かわしいことかと、再再度痛感してしまう。

 痛感することは他にもある。このところ「偽札」騒ぎが頻発している。外国人云々とも報じられる一方で、元暴力団員が絡んでいたとも伝えられている。暴力団も従来の上がりが減少する不況下で、彼らなりの「新規事業(?)」と、「アブナイ事業」に邁進していることが容易に想像される。そして、彼らは、はなっから世間を舐めてかかっているのだが、そこへもって来て、自分たちの所業とは比較にならない「テロ」が頻発するは、警察関係の不祥事が続くは、「靖国」応援の首相が登場するはで、わが身を情けなく振り返る暇がなくなっているのである。怖いことだと痛感する。

 こうして、悪が決して弱ることなく、善良な庶民だけが「痛み」を背負わされ生活力を低下させているのが現状である。何かによく似ているなあと考えてみると、「抗癌剤」治療が失敗に向かう場合がそれであった。「抗癌剤」にしても、X線治療にしても癌細胞の増殖抑制を狙いながらも、正常細胞、免疫性に対して少なからずの打撃を与えると言われている。
 瀕死の重傷であるはずの現在の日本に、「抗癌剤」治療(財政再建だけの「構造改革」政策!)が果たして妥当なのかどうかという疑問を、最終的には痛感するのである。(2002/01/11)

2002/01/12/ (土)  時代劇つうのわたしを唸らせる久々の上質テレビ・ドラマ!

 松本清張原作、市川崑演出の時代劇テレビドラマ『逃亡』(NHK,金曜日)が楽しめた。時代劇が好きなわたしとしては、昨今のテレビ番組にはなはだ不満を抱いてきた。
 焦点ボケしていて、プロデュースの意図もわからないような番組、例えばワイドショーなり、トーク番組などが多く、他人の低次元の話を黙って聴くくらいなら、他にやるべきことが五万とあるさ、とすねていた。たまに、時代劇番組があったとしても「じんせ〜い、らくありゃ、く〜もあるさ……」といった類は、時代劇といってもちょっと遠慮がちとなってしまう。
 「ひゃー、今日は『鬼平犯科帳』があるんだ〜!」と小躍りして新聞の番組欄をよく覗いてみると、『パーフェクトTV』にてとあり、がっかり。「そんなに見たかったら契約すればいいじゃない」と家内に言われるが、今のところ思案がまとまっていない。

 気分がメチャクチャな時には、米国製の映画、「暴力&犯罪&ヒーロー&ドキドキ&……」を見て、考える権利を剥奪されたまま、完璧に後腐りのない気分となりたくなることもないではない。近所のレンタル・ビデオ屋で、そんなものを二、三本借りて帰る時は、期待感が半分と、「ハイお薬三日分!」と言われやや惨めさに浸る医者帰りの気分半分だったりする。
 それに対して、わたしが時代劇ドラマに求めるものは、リアリティ、実在感なのかもしれないと思っている。実在感なら、時代ものより現代ものの方がありそうに考えられると言う向きもある。しかし、どうも違う。たとえば現代の風景には、実在性が感じられないのである。仮に、視覚が実在を承認したとしても、心がその実在性を承服しないようなのである。心が、心のよすが足り得ないとして半信半疑の姿勢を崩さないのである。

 もちろん、風景だけの話ではない。登場人物としての人間やその会話における実在性も同様に大きな鑑賞対象なのである。だから、大道具、小道具が時代的リアリティをかもし出していたとしても、人物に実在性が無ければ「オイ、オイ!」と興ざめさせられてしまう。大体、一時期流行った週一連続時代劇テレビドラマは、変に現代感覚の登場人物を放り込んで受け狙いに走ったものだが、わたしは断固として拒絶してきた。

 そこへ行くと、市川崑の演出や監督のドラマは、わたしを十分に満足させる。何がいいといって、先ず時代の風景を、自然や建物などをふんだんに盛り込み、美しい映像で描き出してくれる。この点は黒澤監督も同様と言えば言える。だが、市川崑の映像の方が実在性に無理がないような気もする。
 もう三十年も昔の話となるが、市川崑監督の時代劇テレビドラマ『木枯らし紋次郎』などは、笹沢左保の原作もその物語性の面白さを唸らせたものだが、市川崑が原作の時代環境、風景を良くぞ見事に映像化したと感嘆したものだった。小室等作曲の主題歌とともに映し出され、芥川隆行の名調子で切り替わってゆく旅情豊かな美しい日本の田舎風景が、拍手を送りたいばかりの素晴らしさであった。
 今回の『逃亡』にも、「よしっ!よしっ!」と頷かせるアングルの映像が次から次へと繰り出されていた。大店の前を歩く主人公を、大店の瓦屋根の美しさをたっぷり捉えるために上方からのカメラ・アングルで切り取っていた映像、夜の風景は、画面が暗くなることを恐れずに、明かりの周辺のみをわからせようとするそんな実在性追求。また、屋内の映像では、常に光源の所在とその影の明示によって空間のリアリティが演出されている点、それが登場人物たちの心理状況と共鳴させていることを納得した時、「うーむ」と唸らされてしまう。

 実在性の点で言えば、この作品の原作が、これまたリアリティの大御所、松本清張なのであるから、申し分がない。小沢昭一がナレーターを務め、誠実さで迫力のある上川隆也を主人公とし、脇役も深い味の役者たちで固め、浅丘ルリ子までが不思議な華を添えている。こうした上質のドラマでこそ、袋小路でやりきれなくなっている庶民の気分を一時的にも忘れさせて欲しいと切望する……(2002/01/12)

2002/01/13/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (22)

 暮れ行く晩秋の空の下に、豊かな清流をくねらせる目黒川があった。その川面は、西の空で名残惜しむ朱色の残照をきらきらと映していた。対岸のふちで柔らかく揺れるすすきは、川の流れに沿ってどこまでも続いていた。すすきの向こうには、夕日のまぶしさへと溶け込んでゆく静かな田園が広がっている。
 川岸に佇む保兵衛には、こうした光景が涙で滲むほど愛しく思えた。初めてここに来た時には不思議な違和感しかなかったはずである。それが、ほんの二日間ではあってもこの時代で必死に生きる人たちと交わり、自然風景との別れさえをも辛いものとさせてしまった。

 保兵衛の傍らには、海念が静かに立っている。保兵衛と同様に暮れなずむ田園を見つめる眼差しには、隠せない悲しさが窺えた。独りでも耐えられる。けれども、自分をわかってくれる友がすぐそばにいてくれること、それがどんなにか心に言い知れぬ充足を与えるかを知ったばかりの海念であった。それが、もう終わってしまう。
 二人が佇む小高い川岸で、海念は川岸に潜む影へと視線を落としていた。そこには、この別れを宿命として告げるかのように待つものがあった。自分が以前に、松の木に舫い直した伝馬舟である。

「保兵衛さん、耳の具合はいかがですか?」
「ますます、はっきりと聞こえてくるみたい。和尚さまがおっしゃっていたとおり、いよいよトラベルが間近なようです」

 沢庵和尚は、海念に心置きなく保兵衛を見送るよう申しつけていた。自分がいない方が気兼ねなく名残惜しむことができるだろうとの配慮だったのであろう。
 だが、その前には、保兵衛が不安を持たずに時空を越えられるよう和尚が知る限りの情報を保兵衛に話していたのだった。それは、最初に時空を越えて来た大人の保兵衛が和尚に言い残していった情報であった。
 大人保兵衛の記憶には、子どもの時の時空超越、タイム・トラベルの断片的な思い出が残り続けていた。それは、夢を思い起こす場合がそうであるように、どうしても思い出せない部分が残り、正確さと完全さには欠けていたものであった。だが、そうであるにせよ要所々々は漏れ落ちてはいなかった。
 滞在時間が丸二日であったこと、トラベルの時が近づくにつれトラベル先の世界からの音が空耳のように頻繁に聞こえ始めること、トラベルそのこと自体は最初に使った「道具(媒体)」、こどもの保兵衛の場合は伝馬舟であったがそれを再び使うことなどであった。さらに、名残や雑念を捨て、心を無の境地にできた時にテイクオフできるというコツまで含まれていた。
 こうした情報以外にも、和尚は大人保兵衛から聞いていたこともあった。その時も、何かが災いして梃子摺ったとの話も和尚は聞いてはいた。が、和尚はそのことには触れず、保兵衛にはこう言っていたのだった。
「保兵衛さん、この寺で学んだ座禅を行いなされ。そして、無の境地を目指すのじゃ。ここでの思いに引き摺られてはならぬ。もし、それが難しければ、そちの時代の最も楽しきことで心を埋め尽くすがよかろう」

「海念さん、もうゆかなければならないけど、ぼくはここへ来られたことを本当によかったと思っています。それで、海念さんのような子と知り合えたことを……」
「そうですね。わたしも、保兵衛さんとはもっといっしょに修行したかった。わたしが変わってゆけるところを見ていて欲しかったし、保兵衛さんが立派になってゆく姿もそばで見ていたかった」
「そうなんだよね。実を言うと、ぼくは海念さんのような友だちを探し続けていたように思うんだ。尊敬できる力と勇気を持っていて、それでいて威張ることがない。さり気なくて、すごく自然だし……。なのにもう別れることになるなんて……」
「残念です……」
 そう言いかけた海念は、こうしていてはまずい、保兵衛さんに心残りなことを助長するような話をしていてはまずいと思い始めるのだった。和尚さまがおっしゃっていた心の無の境地からますます遠のくに違いないと懸念したのだった。
 海念は、伝馬舟の方へ先に降りた。
「保兵衛さん、わたしが押さえていますからもう乗ってください」
 海念の言葉に促されるままに保兵衛も伝馬舟の方へ降りた。
「あっ、そうそう。念のために保兵衛さんの元の着物を持ってきたんです。着替えた方がいいんでしょうね?」
 そんなことなどかえりみる余裕のなかった保兵衛は、黙って頷き、袈裟をジーンズとシャツに着替えた。そして、草履をズックに履き替えるのだった。保兵衛の耳には、もうはっきりと京浜国道を行き交うクルマの騒音が聞こえ始めていた。
 耳に手を当てる保兵衛を見て海念は言った。
「もうすぐですね。さあ、そこへ腰掛けて座禅してください」
 伝馬舟に乗り込んだ保兵衛だったが、合掌は始めたものの顔は海念の方を見ていた。
「海念さん、りっぱな禅僧になってください。お父さんも、それからお母さんや静さんも、みんながそのことを望んでおられます。それから……」
 これに対して海念は言葉をさえぎるように言った。
「ありがとうございます、保兵衛さん」
 海念は、このままでは保兵衛の心が乱れ、この時代から離れないのではないかといぶかしく思い始めていたのだ。
「わたしも、この岸で座禅をします。いっしょに行いましょう」
 海念がその場に座り座禅を始めたので、漸く保兵衛も幾分ゆれる伝馬舟の中で座禅の格好に入るのだった。
 どの位の時が過ぎたであろうか、もう辺りが薄暗く夕まずめに入っていた。しかし、伝馬舟の保兵衛はといえば時空超越ができずに、焦りの気分にさえなり始めていたのだ。
 海念には、保兵衛の心が静まっていないことが手に取るようにわかっていた。このままでは予想できぬ支障を来たすこととなる。どうしたものかと思案を始めていた。

「保兵衛さん、暗くなってきましたね。休憩としましょうか」
 その声で、保兵衛はほっとして、一息入るのだった。
「保兵衛さんの時代の夕方というのはさぞにぎやかなんでしょうね。あちこちに灯りが点され、まるで昼のようなんでしょうか?」
「そう、商店街は明るくて、おいしそうな匂いがあちこちからしてくるし、海念さんをご案内したいくらいです」
「保兵衛さん、本当ですか?保兵衛さんの時代に行ってもいいんですか?」
「いいどころか、今度はぜひ海念さんがタイム・トラベルしてください」
「それなら、これでお別れではなく、わたしは必ずゆきます。わたしの勘ですが、あの保兵衛さんから頂いたけん玉がきっと水先案内として役立ってくれるはずです。そう思いませんか?」
「そうかあ。あのけん玉もいっしょにトラベルして来たんだもんね」
 保兵衛の気持ちはにわかに和らいでいた。
「それでは、もう一度座禅に入りましょう」
「うん」
 二人は、舟の上で、そして川岸で再び座禅の格好に入った。と、その時川面を一陣の風が吹き過ぎた。そして、保兵衛を乗せた伝馬舟がスッと消え去ってゆくのを、海念の心は確実に捉えていた。
『保兵衛さん、これでおしまいにはしたくない!必ず、必ず……』

 伝馬舟が消え去った川岸に、いつまでもいつまでも座禅し続ける海念の小さな後ろ姿が残った。(2002/01/13)

2002/01/14/ (月)  いつまでも有能な若い連中をお客さんにしておくな!っちゅうの!

 正月明け一週間後の三連休であった。こうした連休の配置は如何なものかと多少の疑問を持っていた。中途半端だなあ、と。
 年末年始という大義名分備わった国民的避難期間の一週間があった。誰もが束の間、安堵に涙した。そして正月が過ぎ、まるで寒い朝、ぬくもった布団から潔く飛び出すごとくに「それじゃ、前線に復帰して命かけて踏ん張るか!」と力んでみた。ところが、「まあ、一息入れましょう!」という三連休。これは、人間工学的に、また精神医学的に中途半端以外の何ものでもない。休暇というものは、まとめて取り思い切りリフレッシュするもの、働く時にはハイテンションで継続する、これが道理に違いない。

 しかもである。「成人式」とはこりゃなんなのだ。これまた、中途半端というか、「休日明瞭、意味不明!」以外の何ものでもない。昨年の全国地方自治体での「同時多発不祥事!」があって、今年は多くの自治体での足並みが乱れたとも聞く。
 かつての15日が今日に移動できたのなら、もう一押しがんばって、正月三が日と繋げてしまってもいいのではなかろうか。めでたいことなら併せるが良しである。帰郷する者たちにとっても、その方が合理的なはずである。
 と言っても、「成人式」に意味があるならばの話である。結論から言って、何らかの別名目を打ち立てて休日は残すとして、「成人式」なる名目は反古にして差し支えないと考える。あるいは、「成人式祝日存否を考える日」として残すのも手かと思う。
 もう少しまともに考えるとするなら、酒が飲める年になれただけと勘違いするどこだかのバカ成人たちもいることだから、「投票権獲得」の意義を強調するキャンペーン化しても良いだろう。本来なら、ハイブローに「自己責任とは?」などを考える日としたいところだが、無駄な高望みは企画倒れとなるに違いない。

 今年の「式典」運営では、集合時刻から後、まず最初に30分程度を参加者たちの「フリー・トーキング」時間とした自治体があったという。式典中の私語を抑えるために、最初にご自由にどうぞというねらいらしい。
 久しぶりに集うわけだから、わいわいと挨拶したり懐かしがったりする気持ちをやむを得ないものと認めましょうということらしい。リーズナブルと言えばそう言えないこともない。しかし、小学生を集めた幼稚園の同窓会じゃないーっちゅうの。
 こうした発想を採用すること、しかも自律と責任をメイン・コンセプトとしてほしい「成人」成り初めに、「はじめにやりたいことすべし!」を叩き込むのは、どんなもんなんでしょうか。結婚式にしても、葬式にしても、その他もろもろの式典を右に習えさせるつもりなのだろうか。

 問題は、「天下り、見下し」の行政姿勢と反発する新世代という構図で、基本を押さえたいと考える。「見下し」姿勢があって、「飴玉」が添えられてもそれはまやかし以外ではない。共に考えるというか、仮にも「成人」相手なら、ジョイント方式でやればいいのだ。リーズナブルなテーマを共有して、できれば「共催」するべきだろう。高校や大学の卒業式をこの方式で成功させた例もあったに違いない。
 いつまでも受動的で、批判や評論に現(うつつ)を抜かす参加者側に安住させることが間違っていると言える。自分自身のこともさることながら、多くの他者を組織することがどんなにか骨の折れることかを、実践で認識させてあげることこそ、「旧」成人が「新」成人に伝えるべきエッセンスかもしれない。大変なことに見舞われている日本なのだから、いつまでも有能な若い連中をお客さんにしておくな!っちゅうの。(2002/01/14)

2002/01/15/ (火)  「赤頭巾ちゃん気をつけて」のフレーズを思い起こす昨今!

 人の世には、その人の弱点やスキを気をつけるべしとアドバイスしてくれる善人と、それに乗じて平気で騙しに入る悪人とがいるということをしっかり肝に銘じた方がいいのかもしれない。生半可に理想主義を気取ったり、格好ばかりの寛容さを演じたり、はたまた独りよがりの思い込みを野放しにしていると悪人たちを喜ばせるだけの結果となる。せこいほどに事実にこだわり、地べたにあごを付けるほどの低い目線から事実を凝視して、自分なりの判断を持ってちょうど良いとも言える。
 日常的な対人関係でもそのくらいの注意力があったって喧嘩にはならない。だが、この鉄則をより適用すべきなのは、もっと巨大な相手である。人々を十把一からげであらぬ方向へと誘おうとするそんな広い間口の輩に対してである。つまり、われわれが勝手に何となく信頼できそうと心を許しがちとなったり、おまけに「権威あり!」と思い込んだりする、そのようないっさいに対してである。
 怪しげな小物は一瞥して怪しいとわかるので、むしろ安全である。だが、われわれの視界には、勝手な思い込みで「まとも、立派、権威、信頼」と決めつけた「聖域」の視界が存在したりする。そして、それらに対してはノー・チェックとなるか、不信の眼差しをにわかに甘くさせたりしてしまう。言ってみれば、これこそが気をつけるべきオオカミゾーンなのである。

 しかし、幸いこの激動の時代は、「聖域」に属する視界内で、化けの皮を剥がしたオオカミ的存在を次から次へと槍玉にあげている。そのお陰で、われわれは、「へえー、そうだったんだー」、「うっそー、気をつけなきゃー」と日毎にメキメキと賢くさせられている印象が無きにしも非ずでもある。
 が、そんなことで安心してはいけない。われわれが日毎メキメキ賢くなっているということは、オオカミたちなら毎時バリバリと狡猾さを増し、牙を研いでいるということでもあるに違いないからである。

 気になるのは、誰の目から見ても「あぶない!」日本の政治と経済である。「構造改革」という不思議な笛の音に、正気を失ったとしか思えない無抵抗さで連なって行くネズミの群れは異常としか言いようがないからだ。
 観客が期待して思い描く実体などは無いにもかかわらず、あるかのような仕掛けを弄して関心を引き、用意していた別物ですり替えてゆく段取りのことを、手品とかマジックと言う。このメカニズムでは、まず、劇場や舞台といった現場環境が、薄暗かったり、背後にどんな仕掛けの大道具が隠されているのかが不明な、透過性の乏しい環境が大前提となる。そして人間の五感の錯覚というものが大きな役割を果たしていると言われる。マジックは、マジシャンが遂行するというより、観客側の錯覚と結びついた思い込みの結果だとさえ言ってもよいものだ。マジシャンは、錯覚プラス思い込みが集団的に成立することをコントロールしているに過ぎないのかもしれない。

 まず、現代の政治・経済は、その道のプロであっても実態や構造を見抜くに骨が折れるほどに透過性が乏しく、不透明であると言ってもよい。幾重ものブラックボックスである大道具やコンポーネントによって構成されており、また情報公開を妨げている官僚機構も一役を買っている。観客(国民)の目からは、全体が見渡せ、見通せる環境ではない。代弁者の言動からおのずとインパクトを被ってしまうデフォリト(初期設定)が設えられている。マジシャンがことを為すのに好都合な舞台が用意されているのである。

 それで、観客側の心理と期待感はどうであるか。一頃の、善玉悪玉ショーといったプロレスではないが、不良債権問題処理が棚上げされたまま不景気風が次第に強まっていった90年代という第一の悪玉が露払いの役を演じた。連動して、浮き上がってきた国家財政の破綻的実態が、ただでさえ老後に不安を抱える心境に拍車をかけた。第二の悪玉だった。そして、自民党森内閣は、自民党内閣が政権能力が無いだけでなく、政権を密室でたらい回しするような信頼に足らぬことを実にわかり易く演じた。第三の役者だった。本来は、ここで、未知数の野党に政権が渡るところであった。実のところ、その方が同じ混乱ではあっても、見通しの良い混乱であったはずだろう。

 ところが、一人のマジシャンが彼にとっての好機を掴んだのだった。彼は、しっかりと観客たちの心理傾向を知っていた。観客たちは、見覚えのない未知数の野党を選ばないこと、「身内による体制内改革!」こそが観客たちが落ち着く選択、望みであることを過去の経緯で十分に承知していたのであった。その説得力を増すためには、勧進帳よろしく弁慶が義経を面前で打つ必要のあることも十分承知していた。
 さらに彼は、承知していた。観客にとって必要なのは、考えるというわずらわしい知的作業を要する詳細な計画ではないことを。必要なのは、憤りの感情をとりあえず抱擁する器、伸縮自在の期待や思い込みが盛れる器であることを知っていた。極度の空腹におちた者に、細かいオーダーをとる愚を避け、とにかく熱いスープを出すことが喜ばれることを長い自民党政権下に潜み学んでいたのであろう。
 そして、その「とにかく熱いスープを!」のアクションの託された言葉が「構造改革」なのであった。詳細を明示する必要はないと、彼は考えたに違いない。いや、自分の路線としては、むしろアバウトであることが肝要だと直感していたのかもしれない。政治家とは、学者のように「真理」を探究するのではなく、国民の「心理」をこそ探求しなければならないと思う政治家であったはずだ。

 こうして一人歩きさせた「構造改革」なる言葉は、未定義であることによって致命的な反論を封じ込めたため、ムード的な支持率を増殖させていったのであった。
 しかし、もはやアバウトで悠長なスローガンなどではことが済まなくなっている現況の経済危機にあって、いよいよ「『構造改革』なくして景気回復なし」との政策が適切なのかが早急に吟味されなければならないようだ。
 主な論点は、以下の通りかと考える。
1.要するに効率的生産体制を目指す「構造改革」なるものが、日本の現状の経済危機(総需要の縮小!)と直接的に関係するのか?
2.しかも「構造改革」の名のもとに進められているのは専ら財政改革であり、現状の患部からさらに間接的な課題に終始している余裕があるのかどうか?
3.そもそも「構造改革」の向こうにどんな社会が到来するのかが明示されないままだが、推定されるポスト「構造改革」社会は、庶民にとって望ましい社会なのか?
 これらについては別に整理したいと思っている。(2002/01/15)

2002/01/16/ (水)  効率的な組織再構築もいいけど、犯罪の温床に警戒したい!

 17インチブラウン管モニターを、液晶ディスプレイへとリプレイスしたデスク上の「跡地整理」を敢行した。
 フル装備したタワー型PCには、周辺機器へと繋がる様々な種類の基板が装着されている。背面に顔を突っ込むと、何種類ものコードがワケがわからないほどこんがらがっている。一瞬「このままにしておこうか……」と意気地が萎えそうになる。しかし、「改革」は断固推進すべしと言い聞かせ、混乱したコード類を解きほぐす作業からおもむろに始めた。

 各種コードが入り乱れ、こんがらがっている状態ほど気分を苛立たせるものはない。おまけに自作PCでは、各種基板のコネクター部分に丁寧な表示はない。取り付け時は「取り説」などを参考にするが、こうして整理のために再度結線し直す場合には、似たようなコネクターばかりなので迷い出すと梃子摺ってしまう。

 作業をしながら、ふと社会や大組織のリストラクチャリング(再構築)のことを思い浮かべていた。変化の時代にあって、指示系統の複雑さ、冗漫さによって日常的な対応が常に遅れがちとなっていたり、一つの組織内で同種の作業を重複して行っていたり、いかにもコスト・パフォーマンスの悪いムダな作業形態を平気で継続していたりする巨大な組織は少なくないと言われる。そんな時に、リストラが行われるのである。
 日本では、リストラと言えばすぐに解雇という対処を思い浮かべるのが普通だ。しかし、本来は、組織全体のあり方を見直し、より効率的、効果的な組織変革を行うことをリストラクチャリングと呼ぶ。

 グローバリゼーションが進み、海外の効率的な組織と肩を並べなくてはならなくなると、どうしても日本企業も大胆な再構築が必要となってくる。しかし、本当に必要なのは民間企業もさることながら、官公庁、役所であることは論を待たないであろう。押しなべて極度の財政難に直面している現状をまともに見据えるなら、大リストラクチャリング(再構築)をやらなければならないのは、公官庁、役所なのである。縦割り行政とナワバリ根性優先、国民・市民不在という本末転倒が、如何にコスト・パフォーマンスの悪いサービスに陥らせていることであろうか。
 そして、さまざまな規制をも含めたやたら複雑怪奇な構造が、最大限の不透明さを生み出しながら、もうひとつの問題、つまり「犯罪」の温床へと直結しているのが見逃せない。

 茨城県の広域事務組合「湖北水道企業団」の企業長で、なんと同県石岡市市長が、国会議員の元秘書らが経営するコンサルタント会社とつるみ、公共工事をめぐる不正を行った容疑で逮捕される事件があった。またか、と食傷気味にもなるが、国民の皆が公的機関の財政難に憂慮しているその時に、公的支出のムダ使い!をさせたことが重大だと言うべきなのである。それと言うのも「競争入札」において発注予定価格が事前に漏らされるということは、公的事業が民間のより安い企業によって賄われることを妨害したということだからだ。市民により多くの負担を強いたと言えるのだ。
 しかも、その犯罪に手を下したのが、市長であり、国会議員の元秘書であったのが情けないと言うか、やっぱりネ、なのである。

 『刑事コロンボ』という人気テレビ番組があるが、人気の秘密とその特徴は、すべからく犯人が何らかの意味での「権力者」だという点である。政治家であったり、大実業家であったり、人気執筆家やタレントであったりという具合だ。現実はまさにその通りなのだと大合点するのである。
 庶民の目からは見えない複雑な環境を逆手にとって、立場上の権力で私腹を肥やす者たちが決して絶えないこと、これもまた人の世の現実である。
 以前には、そうした不祥事が一掃される社会や、一掃しうる概念や観念を追っかけた時期が、自分にもあった。しかし、今思うことは、そうした犯罪は永遠になくならないであろう、ということ。決して諦めではなく、それがリアルな現実なのだということから出発したいと思うのだ。あらゆる犯罪とあらゆる権力は、「地続き!」なのではなかろうか、と最近は考えている。だから、犯罪を抑制するには、あらゆる人間のパワーが、それ自体の放縦に落ち込まないよう、その時その時に「チェック&バランス」を絶え間なく継続させてゆくほかはないのだと思っている。(2002/01/16)

2002/01/17/ (木)  相模原市立新町中学校の田沼君と山本君に回答します!

 田沼君!山本君!わたしたちの会社に連絡してくれてありがとう。
 週に二時間ある「総合学習」の授業の自由課題で「ソフトウェア開発」会社を調べることにしたそうですね。大変良いテーマに目をつけたと思いますよ。
 「ソフトウェア開発」は、現在は「IT不況(情報通信産業が景気を悪くしていること)」の影響で、やや元気がありません。しかし、これからの日本の経済は、こうしたジャンルにもっともっと力を入れてゆくべきだと考えています。
 田沼君や山本君たちのような若い人たちが、一生懸命に勉強して、アメリカのビル・ゲイツ氏(ウィンドウズを広めたマイクロソフト社のリーダー)に迫り、追い越すような仕事をしてくれるとうれしいなあと願っています。

 さて、今回、田沼君から電話をいただいた時、わたしはこう言いました。
 @直接お会いすることはできません。A何が知りたいかをメールで知らせてください。と。
 初めに、これらの意図を説明しておきます。
 ソフトやプログラム(後で説明しますが)の勉強をする時に大事なことは、自分でとことん考え抜くということなんです。しばしば、若いビギナーのプログラマー(プログラムを作る職業の人のこと)は、ちょっとわからなくなるとすぐに先輩にたずねて、教えてもらって、それでわかったような気になる人が多いのです。
 だけど、それを繰り返していると、自分で考え抜く力がつかないし、考えることに自信がつかないので、その後もずっと先輩たちを頼り続けてしまうのです。どんな仕事でも同じだと言えますが、ソフトの開発は自分で考えるということを特に大事にしています。だって、他の人が考えつかなかったことをプログラムにしたら、大儲けだってできる可能性のある仕事なんですから、その考えが大事なんですよね。
 それで、田沼君たちに、自分で「何が知りたいのか」を中心にしてもう一度考えてもらいたいし、また、直接会って簡単に聞いちゃうんじゃなくて、自分でメールまで送信して考える準備体操をしてもらった方が良いと考えたからなんです。

 日本のビル・ゲイツと言われたアスキー社の西さんは、初めてビル・ゲイツ氏と仕事の話で面会する時、どうすれば会ってくれるかを考え抜いたすえに、何とビル・ゲイツの会社の中庭にヘリコプターで降りたというエピソードがあります。わたしたちの会社の屋上にヘリコプターで降りてもらっては、ビル・ゲイツじゃなくてビルの管理人から怒られますけどね。

 それで、山本君から質問内容を入力したメールが届いたわけです。次のとおりですね。
質問その1 営業を始めてから何年ぐらいたちますか。
質問その2 その職業につくには資格は必要なんですか。
質問その3 ソフトはいったい、どのようにして作られるのですか。
質問その4 ソフトをひとつ作るのにいったいどのくらい時間がかかるのですか。

 これで、ものを考える人同士の土俵ができたわけです。わたしも、精一杯わかりやすく回答するそんな勇気がわいてきたというわけです。

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質問その1 営業を始めてから何年ぐらいたちますか。
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 わたしたちの会社、潟Aドホクラットのことを聞いてくれたようなので、簡単に紹介すると同時に、日本のソフトウェア開発業界の歴史の話もしておきましょう。

 わたしたちの会社は、1988年の2月に設立しましたから、13年で不思議なことに山本君たちの年齢と同じになりますね。今年の2月で14歳、いや14年目になります。
 いろいろなソフト開発をやってきましたが、中心としてきたのは、「半導体=IC」というコンピュータの脳にあたる部分を作る「製造装置」を、離れた場所からコントロールする、そんなソフトを作ってきました。
 だから、うちの会社の社員は、日立、東芝、NEC、SONY、エプソンなどの全国に散らばった「半導体製造」工場にしばしば出張で出かけています。

 ところで、日本のソフトウェア開発業界のスタートがいつ頃かという点です。
 ソフトウェアとは、コンピュータ本体(これを「ハードウェア」と言います)が、人間の指示どおりに動いて、計算結果などを出力したり、ロボットや装置などに命令を出したりさせる「プログラム」のことなのです。ここで「プログラム」についてちょっと説明しましょう。

 わかりやすくなるかどうか、君たちの音楽の授業のことを例にして説明しましょう。
 クラス全体で、器楽合奏をするとします。ピアノがあり、アコーデオンあり、大太鼓あり、笛もあり、ハーモニカもあったとします。お客さんに聞いてもらえる合奏にするためには、それぞれの演奏がバラバラではまずいよね。何によって、コントロールするんだろうか?
 そうです。「楽譜」ですね。それとそれぞれの楽器担当者が楽譜どおりに演奏することを助ける指揮者ですね。それで、楽譜には何が記されているのでしょうか?それぞれの楽器が、どのようなメロディを、いつからいつまで、どんなタイミングや時間の長さや速度で演奏するのかが、音符や記号を使って細かく記されていますよね。
 この「楽譜」が「プログラム」だと思ってください。ただ、「楽譜」を実行するのは演奏者という人間ですが、「プログラム」を実行するのはコンピュータという機械だという点が異なります。
 また、「楽譜」の場合は、演奏するごとに人間がそれを見なければならないのに対して、「プログラム」は一度コンピュータに覚えさせれば、何回でも同じことを実行させられるところも異なります。「楽譜」の中の間違いは、場合によっては演奏者が正してくれることもありそうですが、「プログラム」の場合にはそうはいきません。コンピュータは、馬鹿正直がとりえですから、「プログラム」の中に間違い(これを「バグ[虫のこと]」と言います)があると、そのまま再現してしまうのです。だから、「プログラム」を作る人は慎重でなければならないわけです。

 さて、コンピュータは、ソフト(ソフトウェア=プログラム)がなければ、何の役にも立ちません。「コンピュータ、ソフト無ければただの箱!」という表現があるくらいなのです。
 世界で始めてコンピュータが登場したのは、アメリカで、1946年のENIAC(エニアック)がそれです。その後めざましい発展を遂げていきましたが、最初の頃のコンピュータは、今のパソコンのようではなく、事務所の部屋の中いっぱいに広がるような大きいもので、「汎用機(はんようき)」と呼ばれていました。でも、性能は、今のパソコンの方が優れているんですけどね。
 それで、最初の頃はコンピュータを作った人たちがソフトも片手間に作っていたんですね。しかし、コンピュータがいろいろな事業に利用され始めると、それでは追いつかなくなり、ソフトウェアだけを作る仕事が必要となってきたのです。それが始まったのが、1970年(昭和45年)頃です。日本でも「ソフトウェア産業振興協会」という業界団体がこの年に設立されています。だから、日本のソフトウェア開発業の歴史は、およそ30年ということになるのですね。第一次産業はもとより、他の第二次産業、第三次産業のいろいろな業種と較べても実に新しい業種であるわけです。

 この30年間のソフトウェア開発の歴史を振り返ると大変おもしろいのですが、長くなるので省略しましょう。ただ、1995年に「Windows95」が発表されて、その後インターネットが普及し始めたことが、ソフトウェア開発の歴史では大きな転換点だったことは大事なことです。

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質問その2 その職業につくには資格は必要なんですか。
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 無いとも言えますし、あるとも言えます。

 無いと言うのは、現在ソフトウェア開発の仕事で良い仕事をしている人たちがみんな何かの資格を持っているかと言えば、決してそうではないからです。また、資格を持っている人が、決まって良い仕事をしているかと言えば、またそうでもないからです。
 ただ、わたしが絶対に必要だと思う条件は、「好きだ!」という気持ちではないかと考えています。「コンピュータやソフトが、とにかく好きで好きでたまらない」という気持ちがあれば、苦しいことが結構乗越えられます。
 それから、モノを作ったり、モノの仕組みなんかをいろいろと考えることが楽しいと感じられるということも大事なことでしょう。ソフトとは、仕組みや仕掛けを作ることだとも言えるからです。
 それから、どちらかと言えば、ずぼらでない方がいいね。約束ごとをきちっと覚えていたり、整理整頓を嫌がらずにさっさとこなせたりする性格は、良いプログラムを作る上できっと役にたつでしょう。

 さて、資格があるというのは、「資格」のような試験に合格しておくと、就職する際にメリットがあるという意味なのです。それから、そうした勉強をしておくと、ひとりで勝手に勉強する場合に陥りがちなひとりよがりが避けられるということでしょうか。
 どのような「資格」のような試験があるかと言えば、大きく分けて二種類あります。
 ひとつが、国(経済産業省)の関連団体である(財)日本情報処理開発協会の情報処理技術者試験センター(JITEC)が実施している各種試験(これについては、当ホームページの表紙のページにあるアイコン『情報処理技術者試験新制度の概要ご紹介』を追っかけてゆくと詳しく紹介していますので参考にしてください。)があります。
 初級者は、その中の「基本情報技術者試験」とか「初級システムアドミニストレータ試験」とかにチャレンジしておくとソフトウェア開発の仕事の全体が見えてくるでしょう。
 それからもう一つが、コンピュータやソフト関係の企業が実施している「試験」やトレーニングです。
 いろいろと種類がありますが、マイクロソフト社の「マイクロソフト認定技術資格制度」MCP( http://www.microsoft.com/japan/partners/mtc/mcp/default.htm )が注目されます。また、データベースというジャンルでは有力なオラクル社が、実施している「オラクル認定トレーニングコース」( http://www.otsuka-shokai.co.jp/school/oracle/default.htm )といったものもあります。

 君たちが、資格試験に目を向けるのはちょっと早すぎるかもしれないね。むしろ、パソコンをいろいろと楽しんで活用することが第一だと思う。
 その際に、市販の出来上がったゲーム・ソフトを楽しむのも悪くはないんだけど、そればっかりやってると、プログラムがどんなふうに作られているのかがまったくわからない単なるお客様で終わっちゃうよね。それはさみしいことです。作る側の仕事現場に近づいてゆきたい!
 そのためには、ソフトを作るソフト、これを汎用ソフトと言います。その中には、「Word」、「Excel」、「Access」、「PowerPoint」などの身近なものから、ホームページを作成する「スクリプト」言語(HTML、JavaScriptなど)、さらに本格的なプログラムを作成する「言語」ソフト(VB:ビジュアルベーシック、VC++、Javaなど)があります。
 これらのどれかが自由に使いこなせるようになると、だんだんその先が見えてくるはずです。中学生だと、ホームページ作成に挑戦して、簡易型のエディターを使わずにHTMLそのものを使って作り始めるとプログラム作りのとてもいい訓練になります。

(このホームページの「MyDiary」中の『これまでの「日誌」、<連載小説>、<パソコン教室>などへ』から入り、『特別編:「初級パソコン教室」読本』へ進むと初級者向けのパソコンノウハウを物語風に説明しています。参考にしてください。また、これは関係ないけれど、『現在掲載中分の<連載小説>』は、小学生が江戸時代へタイム・トラベルする話を載せているので、よかったら読んで感想聞かせてください。)

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質問その3 ソフトはいったい、どのようにして作られるのですか。
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 思いのほか長い回答になってきましたが、大丈夫ですか?

 さて、これまでいろんなことを説明してきたのは、この質問の回答がわかりやすくなるためでした。だから、最初から読まないとわかりにくいからね。
 ソフトとは、要するに「プログラム」なんだと先ずは理解しましょう。(もっと範囲が広いと考える人もいますが、とりあえずこうしておきましょう。)
 そして、「プログラム」とは、音楽の楽譜のようなもので、コンピュータにやらせたいことを、何を、いつ、どういう順序で、どういう方法でやらせるのかの、人間からの命令を正確に書き記したものなのです。

 ただ、ここでひとつ気になることは、コンピュータは人間の言葉がわかるのか?わかったとしても、日本語はわかるのか?という問題ですね。結論から言えば、コンピュータは人間の言葉はわかりません!日本語はさらにわかりません。コンピュータが考える時に使う言語は、「機械語」というゼロとイチだけの「二進数」の組み合わせなのです。多分、君たちは数学の時間にその二進数を勉強するはずですね。コンピュータがそういうことなので、それを勉強しておく意味があるわけです。

 そこで、人間の言葉使いと、「機械語」とをうまく翻訳してやることが重要なテーマとなるわけです。そこで登場するのが、先ほど説明した「言語」ソフト(VB:ビジュアルベーシック、VC++、Javaなど)なのです。これらの言語では、どういうことをコンピュータにさせたければ、どう表現すればよいかがあらかじめ決められています。英語と、数学の数式を組み合わせたような印象です。まずは、これらを使い慣れることが必要です。このことを、「プログラミング」学習といいます。
 そしてこれらを使って「プログラム」を作成すると、これらの「言語」ソフトに付属している「機械語への翻訳ソフト(コンパイラー)」が、人間にしかわからない言語を、「機械語」へと正確に翻訳してコンピュータにわからせようとするのです。これが、「プログラム」とコンピュータとの関係です。

 したがって、ゲーム・ソフトであろうが、表計算ソフトであろうが、またインターネットのブラウザであろうが、みんな人間が「言語」ソフトの言語を使って、それ向けのプログラムを作成して、そのプログラムを「機械語」に翻訳(このことを「コンパイル」と言います。)して、ユーザーがキー入力して何かの命令を出したら即座に計算し始めるように段取りされているというわけなのです。

 それじゃ、「プログラム」作り=「プログラミング」は、どうやって進めるのでしょうか?先ほど書いたように、どんな命令をしたい時には、どんな命令語をどのように使えばよいかをあらかじめ勉強しておかなければなりませんね。じゃ、それで、すぐにキーボードに命令語を打ち込んでゆくとしましょう。
 しかし、待ってくださいよ。どんな命令語を打ち込むつもり?それをまだ考えていなかったよね。ゲーム・ソフトを作るとしたら、先ずはどんなRPGのストーリーとしたいのか、どこでユーザーのオプションを許すのか、タイム・カウントはするのかしないのか、主人公の動きと画面の変化をどう設定するのか、などをじっくり考えて、全体の計画と構造を明らかにしておく必要があるのです。このへんの作業、まるでドラマの脚本作りといったところかな。このことを「設計」と言うのです。そして、これを受け持つ技術者を「システム・エンジニア=SE」と呼んでいます。
 また、作る人間側の要望をまとめることを中心にして設計する「基本設計」段階と、それらをコンピュータによって実現する上で注意すべきことに関心を向けた「詳細設計」の二段階が、作業工程としてあります。
 そして、後者の「詳細設計」の書類(ドキュメント)に基づいて、「プログラマー」が、キーボードに向かって「プログラミング」を進めるわけなのです。
 部分ごとに「プログラミング」され、部分ごとにテストも行われます。人間のする作業なので、「バグ」がどうしても生まれてしまいます。テストしながらこれを取り除く作業をしますが、この作業を「デバッグ(バグを取り除く)」と言うのです。
 部分のテストが終わったら、結合させて「結合テスト」も行います。ここでは、ユーザの立場になって、可能な限りの操作を実験してみることも行います。たとえば、ユーザが、普通はしないような操作をしてしまう場合が発見されたりすると、その場合には、「ハング」、「フリーズ」(画面が凍って動かなくなるケース)にさせずに、操作ミスのアラーム音を流して、べつの操作を促すようにしよう、などと変更が加えられたりするのです。
 こうして、ゲーム本体ができたとしても、「操作マニュアル」を作ったりという「ドキュメンテーション」の作業工程が残されています。

 そして、ユーザーに使ってもらうというリリースが行われても、その後の改造だとか、バージョン・アップという作業課題が残されています。
 以上が、ひとつのソフトが出来上がるまでの表面上のプロセスです。ひとつひとつの作業の中には、技術者が夢にまで見てしまうほどの苦労が潜んでいるのが、ソフト作り=システム開発なのです。だからこそ、「好き!」であることが大事ですよ、と最初に書いたわけです。

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質問その4 ソフトをひとつ作るのにいったいどのくらい時間がかかるのですか。
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 ソフト開発の所要時間は、一概には決まりません。

 まず、コンピュータが実行する機能(例えば、静止画でよいとか、動画でなければいけないとか、印刷するとか、サウンドを出すとか……)の種類や数によって、プログラム・リストの行数が異なってくるのに応じて、開発時間が異なってきます。
 また、難易度といって、これまでに同じようなソフトが数多く作られてきたような内容の開発は、比較的簡単に作られ、その分所要時間も少なくなります。しかし、始めてチャレンジするような内容のソフトの場合は、ハードにも「バグ」が潜んでいたり、何回かの実験を経ないと正確なことがわからなかったりで、規模が小さくても長時間、長期間を要することもあります。

 一人の技術者が一ヶ月掛かりっきりになることを「一人月(いちにんげつ)」と、この業界では呼びます。五人の技術者が三ヶ月掛ければ、「十五人月」の仕事と言うふうに使うのです。いろいろなソフトがありますから、一人月から何十人月まで千差万別だとしか言いようがありません。

 ひとつ興味深い話をすると、ソフト開発の能力は、人によってものすごい差があるということなんです。普通の技術者が百時間かけて開発する作業を、優秀な技術者ならその十分の一、あるいはもっと短時間でこなしてしまう事実があるというのが、このジャンルの不思議なのです。肉体を使った作業ではなく、頭脳を駆使する作業では、優秀な人とそうでない人との間にチョー差がつくということなんですね。


 以上、思いつくままに、「半人日」かけて一気に打ち込みましたが、役にたちそうでしょうか?ほかに知りたいことがあれば、またメールしてください。時間に余裕があれば、『中学生おもしろパソコン教室』でも開いてあげたいんですけどね。なにしろ、明日の日本経済は、君たちの今の勉強ぶりにかかっているのかもしれないものね……(2002/01/17)

2002/01/18/ (金)  したたかな明るさを放つ身近な光景から情報を読み取りたい!

 文章を書くことは、自分をも含めた読み手がすこぶる勇気が鼓舞されるものでなければならない!と思ってはいる。しかし、この日誌にしてからが、昨今はどうも、われながら暗くなりがち、抗議調、嘆き調、開き直り調に陥りがちで憂慮に堪えないでいる。
 世界が世の中が、余裕なく、痛ましく、危険に満ち満ちているのだからしょうがないと言えば、一応そうは言える。しかし、それでは初心が納得しない。
 そんなはずではなかったのだ。この、一筋の光明さえ見えにくい前代未聞の辛い時代に立ち向かうべく、せめて見方と考え方に明るさを緊急導入しようと目論んだはずだった。陰陰滅滅のこの浮世でも、踏まれて盛り返す麦の芽のごとくしたたかな明朗さがきっとあるに違いない。高転びしている浮いた世の趨勢に対し、つつましい喜びの場面や光景がきっと隠れているに違いない。そうしたものを活写することで、クライクライの大合唱に対するカウンター・パワーとしたかったのだ。
 だが、書いた文章は暗い。「東海林さだお」は明朗で楽しい文章を書こうとして、明るさを阻むいっさいの不適切な部分を殺ぎ落とすのだろうが、そのゴミを拾い集めて組み立てているように暗い、としか言いようがない。手垢で染まったホワイトベージュ色のキーボードは汚れが目立つのがいけないと思って、ブラック・キーボードを採用したのだが、ここから打ち出される文字は妙に暗い。ピンク色のキーボードにでもしなければならないか。

 ところで、NHKのニュース・アナウンサーは、大したポーカーフェイスだ。連日連夜、暗い事件と話題のはしご報道をしていながら、その話しぶりはもちろん明るくはないが、決して暗くもない。悲惨なニュースを伝えながら、涙目となったり、嗚咽に咽びそうになったアナウンサーは見たことがない。ニヒリスト寸前の自然な顔つきを維持している。きっと、トレーニング・カリキュラムには、NHK版「杜子春」訓練なるものが用意されているのだろう。思いっきり悲惨な文章を次々に読まされ、もし顔の表情を変えたら、減給処分十分の一とかが課される訓練が定期的に実施されているのだろうか。悲しさの余りに表情を崩せば、今度は減給処分で顔色が変わるというような残酷な訓練が……

 そんなことはないんだろう。それと言うのも、ニュース報道で使われる言葉というか用語は、もともとが感情を刺激しない、滅菌消毒、無味乾燥の言葉と決まっているからだ。元を正せば、お役所用語(法律用語)が多く、誰も傷つけることなく、誰の責任かも追及しにくく、日常思考で消化しにくいから右の耳から左の耳へと通過してゆくような、そんな用語が駆使されている。
 そこでこれらを耳にする庶民は、一体どんな受けとめ方をするのだろうか。右手に感情のナイフ、左手に思考のフォークを持って、煮魚の小骨を器用に取り除くといった詳細な作業は先ずしない。自分がわかりそうなニュース、自分には分かりそうもないニュースという大分類だけだったりする。または、明るいニュース、暗いニュースという区分けだけだったりする。
 自分がわかりそうで、かつ明るいニュースという組み合わせのようなものがあるのかと言えば、先ず少ない。内親王ご誕生とか、スポーツ・ヒーローの話題くらいか。圧倒的に多い場合と組み合わせというのが、自分にはわかりそうもなくて、かつ暗い印象のニュースということになってしまう。そして、お役所用語(法律用語)などは誰だってよくはわからないから、自分で考えるすべがない。ただただ、何となく暗くて危ないご時世という印象だけがうずたかく蓄積してゆく。正体がわからないから、不安だけが増幅されてゆく。夢でうなされがちとなる。胃の調子が悪くなってゆく。(ああ、また暗い文章へとはまり込みそうなので、ここでストップ!)

 マス・メディアが提供するステロ・タイプの情報だけに慣れてゆくとやはり暗いトンネルからは脱出できないような気がしてならない。自分の身近な環境に実感的な情報を求めるべきだと信じ始めている。できれば、したたかな明るさを放つ身近な光景から情報を読み取りたい。ローカルであること自体に問題があろうはずはない。むしろ、グローバルであるような見せかけがあるにもかかわらず、大味で、スカスカな内容の情報こそが問題なのかもしれない。(2002/01/18)

2002/01/19/ (土)  人生っちゅうもんは、何が好きか、何がしたいかっちゅうこと!

 うちの食卓に"なめたけ"なるものがしばしば出る。味噌汁の具となったり、鍋物に潜んでいたりする。
 もう何十年も以前の話になるが、佃煮の瓶詰め"なめたけ"が食卓に上がった時、熱いご飯に掛けてそのしょうゆ味がいけたのか、御代わりなんぞしたもんだから、その時以来我が家での市民権が与えられてしまったようなのだ。もともと家内の好物だったようである。それで、子どもの幼い時分に食べさせていたようで、子どもも瓶詰め"なめたけ"は好物となってしまった。
 最近食卓で賞味するようになったのは、瓶詰めではない生のものである。その妙なかたちと、脱色されたようないろ具合は、瓶詰め"なめたけ"とは別物のように思われた。
「これって、何の栄養があるんだ?」と言うと、
「おいしければ、いいじゃない」と家内が答えた。その通りなのである。ビールに栄養があるのかなんてついぞ考えたり、悩んだことはない。さしておいしいとは思わないから、栄養なりともあるのかと思ってそう言ったのだが、意は通じなかった。

 ある人が、オジサンたちは、とかく「これは何に効くのか?」という関心事を持ちがちだと的を射たことを言っていた。言い得て妙だった。
 振り返ると、この「効能」というコンセプトに「羽交い絞め」され続けてきたのがオジサンたちの人生だったのかもしれない。

 大阪で通った小学校の同級に、当時別世界だったような団地住まいして、小奇麗な格好をさせてもらっていた女の子がいた。子ども心に何となく気にしていた。遊びに呼ばれて訪ねた時、おやつをもらったが、その子は親から、おひねりのような別のおやつをもらっていた。何と、緑茶の葉だったのだ。
「これは、ビタミンCがたっぷりあって身体にいいの!」とその子が言った。
 これが、わたしにとっての「効能」の信じ始めだったかもしれない。

 初めてコーラを飲んだ時、ヒェーと感じながら、そのビンに成分ラベルを探した。こんなまずいものなら、きっとビタミン類がたっぷり含有されていて然るべきとでも思ったのであろうか。
 ポパイのアニメーションを見るまでもなく、ほうれん草は血の成分だからという言辞にしたがい、食卓で目にしたら味なんぞは気にせず、吸血鬼のようにむさぼった。
 小学校の給食での「粉末玉入り」ミルクは、食べ物のカテゴリーを取っ払い、カルシウムという薬用飲料として目をつぶって、グイ飲みで飲み干したものだった。
 そう、この「薬用飲料」というフレイズが、オジサン殺しの名文句なのである。「オロナミンC」から始まり、「リゲイン」で頂点を極めつつ、タウリン400mg含有「リポビタンDスーパー」etc.へと多様化と乱戦模様に発展してゆく「薬用飲料」市場を支えたのは、確実にオジサンたちだったのであろう。
 いろんな趣味に突っ込みながら、(いや趣味でさえゴルフのように「これは、人脈づくりという効能がある!」などと関係づけていたやもしれない)食べ物などに関してはまったく貧困であり、何が好きだとか、好物だとかは二の次、「身体にいいのか、悪いのか」といった、まるで野良犬が「これは食べてよいか、腐っているか」と鼻で嗅ぎ分ける基準のようだといっても過言ではないのかもしれない。

 すべからく「これ、何に効くの?」と、何かに効かなければあたかも存在価値がないかのように思い込んで行動指針としてきたオジサンたちが、今、「あんたは、どんな役に立つの?」と言われてリストラされてしまった。それでも済まず、ハローワーク越しに、「あなたは、何ができますか?」と質問されている。
 効能の権化、アメリカン・グローバリズムのうねりが、なけなしの日本文化をなぎ倒しつつ浸透しつつある今、「そういうことじゃなくてー、人生っちゅうもんは、何が好きか、何がしたいかっちゅうことなんじゃないのー!」って遅ればせながら心に誓いつつある。けれども、得体のしれない食品を見たりすると、相も変わらず「含有成分表」にビタミン類の名を探したりするのだ……

 そして、そのオジサンたちが今、「痛み」があるのは、「構造改革」路線が「効いてる」証拠なんだよ、と言われて、ホントに信じちゃったりしてしまっているのだろうか?(2002/01/19)

2002/01/20/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (23)

 保雄は、もう幾度となく海念のことに、そして今ではもはや何の不思議も感じなくなっているあの時空超越、タイム・トラベルに思いを馳せてきた。そればかりではない。あの小学生の時の、海念との別れ以降にも、実は何度も海念とは再会できたのだった。それらの情景をもひとつひとつ懐かしく振り返るのだった。
 あの時の海念の約束は、あろうことか、これまでに何度となく果たされてきた。あの別れのあと海念はしばしば現代へと訪れていたのである。しかも、そのいずれもが、今振り返れば、保雄が人生の節目に遭遇し、その折々の困惑に直面した時と奇妙に重なっていたのだった。そして、それはそれが最後となってしまった「あの事件」が起きるまで続いたのだった……。
 それだけに今では、小学生当時に迷い込んだあの澄みわたった美しい品川、そこでの海念を初めとした人々の愛しいほどの生きざまの情景が、心の深海に静寂とともに滞留し続けながら、言い知れぬ懐かしさとなって急浮上して来るのだった。

 あの時の保兵衛は、このかまびすしい現代へと無事に生還していた。
 伝馬船で放心状態となっていた保兵衛だった。そこへ、荏原神社で遊ぶ子どもたちがおもしろがって小粒の石ころ投げ込む。呼んでも応えない保兵衛に苛立ったのであろう。それが額に当たって気を取り直すといった、保兵衛らしい生還であった。
 護岸の石垣の上で小さな子ども達が覗き込んでいる。不思議そうに見つめる者たちの中に、笑っている者もいた。伝馬舟の床に、小石がいくつも転がっているのを知って、彼らが、眠り込んでいた自分にいたずら半分にぶつけたのだと保兵衛は悟らされた。
 起き上がる保兵衛を見るや、
「死んでなーい、動いてるぞー!」
と叫びながら子どもたちはいっせいに散って行った。
 こうした成り行きが惨めだとさえ了解できないほどに、保兵衛は自分が取り戻せないでいたのだった。

 保兵衛は、揺れる伝馬舟の中で立ち上がり、腰掛け板にしゃがみ直した。その動作は見るからに機敏さに欠けている。とても意識のある人間とは思えないものだった。夢遊病者のようなしぐさだと言った方がよかった。
 伝馬舟は、薄濁った目黒川の川面に頼りなく浮き、荏原神社に面した護岸の突起に舫い綱で繋がっている。川にせり出した神社の樹木の繁みが、伝馬舟に影を落としていた。傾き始めてはいたが、秋の陽はまだ暮れようとはしていない。
 保兵衛は、伝馬舟の揺れに逆らうことなく実に従順に揺らされていた。座ったままの姿勢で、京浜国道を通す橋の方を、うつろな眼差しで見つめている。ブゥーン、ズゥーンという、国道をクルマが行き交う音だけが絶え間なく聞こえていた。
 とその時、頭上の繁みがザワザワと風で音を立てた。川面には鱗のような漣が走った。保兵衛もその風をひんやりと感じた。と同時に、われに返ったように、自分を取り囲む状況の意味をのみ込み始めるのだった。
『そうか、ぼくは眠ってしまってたんだ。』
 ようやく事実の端緒だけは掴めた。
『そう言えば、伝馬舟を借りてひとりで漕ぎまわっていた。天気がいいのでついつい遠出をしたんだ。』
 保兵衛は眠ってしまった直前のことを必死で思い出そうとしていた。
『それで、荏原神社の下まで来たら、急に眠くなり、そうだ、流されないようにああして舫い綱を引っ掛けた……』
 護岸の突起にかろうじて引っかかっている舫い綱を保兵衛は見つめた。
『それから寝てしまったんだ……。どれくらいの時間だったんだろう。でも、まだこんなに明るいんだから一時間くらいしか経ってないはずだ。そーか、眠っちゃったんだあ。』

『さあ、もう帰らなくちゃ。』
 何だか風呂敷を頭から被っているような不透明さが保兵衛の意識を覆っていた。
 保兵衛は、舫い綱をグイッと引っぱる。上潮が始まっていた。綱を舫いでいた護岸の突起のすぐ下まで、川の水位は上がっていたのに気づいた。
『そーか、、眠っちゃってたんだあ。でも、こんなに小さな舟なんだから、寝てる間に引っくり返らないとも限らなかったよなあ。危なかったなあ、危なかった……』
 そんなことを思いながら、櫂(かい)で、片側を漕いでは反対側を漕ぐといった動作を続けた。
 十分ほど漕ぎ続け、前方に品海橋が見えて来た。
『あっ、まずい!』
 保兵衛は、品海橋を同学年の友だち二、三人が、顔を見合わせ何やら話しながら、歩いて渡っているのを見つけたのだ。
『えっ、どうしよう?見つけられたらやっかいなことになっちゃう……』
 一瞬戸惑った。が、上潮だったことが幸いした。舫いである大きな釣り舟、海苔舟の陰に隠れ込むことができたのだ。
 保兵衛は、伝馬舟の中でうずくまりながら冷や汗をかいていた。
『よりにもよって、どうして今頃あんなとこ歩いているんだ。そろばん塾の帰りかな?I君は確かそろばんを習っていたはずだから……』
 そんなことを考え、保兵衛はくりくり坊主頭のI君の顔を思い描いた。その時、何か切ない感覚が保兵衛の身体を走った。が、それが何なのか、もどかしくも捕まえ切れなかった。それはまるで、大事なものが渦で巻き込まれて、のまれ、沈みながら先端の一角だけが見えているようなもどかしさだった。それが掴めれば、手元にぐいぐいと引き寄せることもできようものの、手がすべり掴めないもどかしさ……
 つい先ほど眠ってしまった際の夢の中の何かだという憶測だけは感じ取っていた。しかし、夢というものは、それを思い出そうとすればするほど逃げ回り、捕らえどころがなくなってゆくもの。そして、困り果てても、誰かに尋ねて判明するものでもない。
 友だちたちが行き過ぎるのを待ってから、保兵衛はまた漕ぎ始めた。その品海橋をくぐり、右へと進むともう出発地点が遠くに見えてくる。

 「やっばり保兵衛だったのかあ、伝馬舟出してたのは……」
 両手を腰にあてたコンポンが、目黒川に面し行き止まりとなった道路の先端に立って叫んでいた。「不法に」川岸に作っていたハト小屋の十数羽のハトたちに餌をやりに来ていたようだった。
 コンポンとは、近所に住む動物好き、大工作業好きの妙な中学生で、名前を根本(ねもと)さんと言った。さらっとした気性に保兵衛は好感を持っていた。よく遊び仲間に入れてもらっていたのだ。
「ごめん。コンポンが帰るまでには戻るつもりだったんだけどね」
「どこを航海してきたんだあ?ずいぶん漕ぐのがうまくなったじゃん。どれ、舫い綱こっちへ投げな」
 コンポンが中心となって、以前にみんなで作った簡単な艀(はしけ)代わりのいかだにコンポンは飛び移っていた。そして保兵衛が投げた舫い綱を器用に受けとめると、いかだの柱に素早く、実に鮮やかにその綱を舫うのだった。その手元に保兵衛の目は釘づけとなった。簡単には解けない本格的な縄結びが見事に仕上っていた。
 この時なのであった、保兵衛が、もどかしくも思い出せずにいたあの海念を思い起こすことができたのは。さらに、東海寺を、沢庵和尚を、江戸の光景をと次々に、そして一気に取り戻していけたのだった。
 それは、ザザーザザーと音を立て無残に故障してしまったテレビ画面に、鮮明なカラー映像が眩く蘇った時のような感動を保兵衛に与えたのだった。
『そうだったんだ!海念さんの夢だったんだ!』
 しかし、その熱い感動が、身を震わす驚愕へと変わるまでにさほどの時間はかからなかった。
 それらが決して夢の中での出来事ではなかったことが、コンポンの何気ない言葉から衝撃的に悟らされたからだった。
「保兵衛はいつから年寄り地味たこと始めたんだい?」
「どうしてさぁ?」
「だってさぁ、そのジーンズのポケットからはみ出してる数珠(じゅず)は何に使うんだい?」
 とっさに保兵衛はジーンズの左ポケットを見下ろした。ポケットからは、茶色い房とつやのある木製の数珠玉の数個が覗いていた。それが、見覚えのある海念の数珠であることを、知らないはずのない保兵衛なのであった。(2002/01/20)

2002/01/21/ (月)  その地域に、何かの理由で笑える誰かがいるのだろうか……

 「ついてない!」という事態や、時代の要求と何かがすれ違い、置き去りにされるという事態には、もの哀しさが伴うとともに、勝者のせこさに対置する名残を、どこか余韻を残す深さをそっと感じさせる。とかく勝者は押しつけがましさから自由とはなれず、敗者は同情だけではない余韻を、接するものに与える特権を持つ。

 クルマの往来が乏しいこともあり、町田街道の旧街道部分、およそ1キロほどの道路を犬の散歩コースとしてよく愛用している。まるで、川の蛇行が、突然の水量で直線的に短絡させられるように、湾曲していた旧街道が直線的なバイパスによって取って代わられてしまったのである。昨日や今日のことではなく、ニ十年、三十年も以前のことである。
 舗装もされていなかったこの旧街道がなんとなく気に入っていた。沿道の家も歴史に耐えてきた趣があった。庭の樹木もたっぷりと時間を吸い込んで、背丈もあり貫禄がある。歴史の名残を留める寺があり、その時期には祭や盆踊りが行われる。また、思わぬところに、小さなお地蔵さん、お稲荷さんが鎮座しているのもうれしかった。いつ通っても誰も上がっていない畳敷きの碁会所もある。

 ぎりぎり耐え忍んできたといった風情の古いお店が三軒ほどあった。中でも、最も関心を引いたのは、自動販売機はなかったが、何でも売っていそうな乾物屋さんだった。三叉路の角にあった。向かいの角には、何本かの大木で守られた稲荷やしろがあり、周辺が昼でもひんやりとして、なにやら霊気さえ漂わせていたりした。
 平屋、錆びたトタン屋根、全面がぎくしゃくとしたガラス戸。板張りの壁には、水原弘や由美かおりを載せたキンチョーだかアースの金属製の看板が貼り付けてあった。さすが仁丹の看板はなかった。
 売るでもなく開けられたガラス戸から覗けた店内は、薄暗く、駄菓子屋のように菓子類が並べられていた。竹箒やスコップなどが立て掛けられ、タワシがぶら下っていたか。金物屋、乾物屋、お菓子やを兼ねたような商い。
 この店は、気づかないうちに消失した。道を間違ったかと思うほどに、再開発されてしまい、稲荷やしろを覆っていた大木も何本かが切り倒され、間抜けたほどに明るくなってしまった。気づいた際には、まるで、親戚の人の家が無くなったような空虚感に襲われたものだった。

 残りの二軒は、古くからの酒屋さんだった。その一軒は瓦屋根、白壁の大きな店である。もう一軒は、寺の境内と向き合った比較的新しい店である。ところが、いつのころからか酒類とたばこの自販機を数台以上並べ、店のシャッターは閉じがちとなっていた。
 そして、つい先ごろ新しい方の店が、自販機営業だけは残し、店付き二階建ての家屋を不動産屋を通し「貸家」とした。シャッターにその旨が貼り出されていたのだ。
 ちょうど犬を散歩させていた際に、持ち主のおばあさんが自販機のたばこを補給していた。ついでだと思い、ワン・カートンを買うことにした。
「誠にありがとうございました」
という丁寧なご挨拶が返ってきた。ワケを聞こうかとも思ったが差し出がましいと思い直しやめた。

 今や、酒類だけの安売りスーパーがあり、我が家でも家内はそのスーパーの名をしばしば口にしている。裏街道となってしまってそのつきの無さを嘆いた時期があったはずであろう。そして、バイパス側の酒屋でさえ、閉店としなければならない世相の移り行きに心を暗くしていったのであろうか。
 全国各地にこうした境遇のお店が五万と犇(ひしめ)いているはずだ。そしてこの「理不尽!」な不況の訪れとともに、今しばらくは……と期待し続けた店をあきらめなければならなくなったケースもあるに違いない。儲けようというささくれ立った意図など持たず、近所のお馴染みさんとの接触こそが生き甲斐だったはずの地元商店が、こうして次々に消えてゆく。
 馴染んだ顔と顔との交流が支えてきたはずの地域が、勝者たちの論理によって置き去りにされてゆく。その地域に、何かの理由で笑える誰かがいるのだろうか……(2002/01/21)

2002/01/22/ (火)  現代システムにおける「自立」を、いぶかしく考えてみる!

 若い時分に名古屋で暮らしたことがあった。もとより金が無く、住まいは最低ランクに属した。そうしたランクとは、狭いアパートというだけでなく、家主が立て替えを算段しているような老朽建築である。案の定、入居後間もなく立ち退きを迫られてしまった。他の住人は独身であったため、気軽に応じたが、幼児を抱えたわれわれは動くに動けず、とうとう、「焼けのやんぱち陽焼けのなすび」じゃないが、引越し先がないから動けないと言い張った。
 土地は吝嗇で名を馳せた名古屋であった。べったり名古屋弁と一体化した年寄りの大家は、立退き料を口にしたが、結局金を出さず知恵を出した。自分の住んでいるビルの一室を空け、そこへ移ってくれと申し出てきた。
 ごねるつもりは毛頭なかったので、そこへ引っ越した。が、驚いた。吝嗇を絵に描いたような生活を、老人大家はしていたのである。
 ビルは一応マンション形式なのだが、大家は、電気をほとんど使用しない。暗くなると電灯を付けずに、寝てしまう。ガス風呂が当然、それぞれの部屋にある。が、大家は、それを使わない。屋上に掘っ立て小屋の風呂場を作り、薪で沸かす風呂に入っていた。ある日、屋上に出てみてそれがわかった。まだまだ、わかったことがあった。
 どうも、妙な匂いがするといぶかしがっていたら、屋上への階段の踊場で、樽で味噌、醤油を発酵させていたのだ。また、屋上には、畑土を張って、ねぎなどの野菜を栽培していた。自分のビルだから何をしようが勝手だが、都市部に住みながら、完全にタテ型農村生活、自給自足生活をなさっていたのだ。貨幣経済に巻き込まれること(入ってくる貨幣を拒むことはなかったようだ)を、可能な限り拒否するスタンスだった。そのビルのまん前の自転車屋で不幸があった際にも、香典代わりに堂々と名刺一枚を差し出されたそうである。
 そんな大家の生活を見て、わたしは『まあまあ』とあきれた一方、心のどこかでそうした『自給自足生活』の自律性に何か憧れに近いものを感じたりしていた(ような気がする)。家内や子どもはとんでもないと言うに違いなかったはずである。

 グローバリズムだ、構造改革だと叫ばれる昨今、しばしば耳にする言葉が「自立」である。耳ざわりが良く、説得力を伴う言葉ではある。親のすねをかじり、「甘えの構造」を地で行く依存癖の若者たちに、屁理屈を言わせない「葵の御紋」的意義のある言葉である。「この二文字『自立』が眼に入らぬか!」と喝破さえできる言葉である。
 だが、わたしは幾分かの屁理屈を言ってみたい。概ね「自立」なる言葉に共感はするのであるが、どうも現在使用されているこの言葉にはある種の仕掛けが施されている気配を感じるのである。
 先の副将軍ではなくて、先の「自給自足」の話に戻る。山と言えば川であるように、イトウと言えばハトヤであるように、「自立」と言えばヤッパ「自給自足」となるでしょう。完全なる自立とは、完全なる自給自足なのであると主張する時、これに大胆にも反論できる者がいるでしょうか。
 ところがです。現代貨幣経済、現代市場主義経済と「自給自足」とは、水と油、犬と猿ほどに相性が悪いのです。その証拠に、この需要不況にあって、国民みんなが先の副将軍じゃなくて、先の名古屋の老人大家のようなタテ型農村生活、自給自足生活を展開し始めたとしたらどういうことになるでしょう。一時的には種や苗、肥料やスコップなどを扱うガーデニング関連業の売上は伸びるでしょうが、消費者需要は見る影も無く落ち込み、ただでさえ転びそうな日本経済は、足を掛けられ背中を押され、倒れたところを踏んでゆかれるような悲惨なものとなること必定です。
 だから、余り大声で「自立!自立!」と叫ぶことには問題があるわけなのです。それはあたかも、世の母親が、
「早くこの子も大きくなって、独り立ちしてくれたらいいのにね……」
と口にはするものの、内心はいつまでも手元においておきたい心境を捨てないのと似ている点があるやもしれません。

 もともと、人々は「自給自足」経済スタイルで「自立」して生活していたと言えるのではないでしょうか。作ったモノが売れるかどうかなどの余計な心配などせず、まして円相場が高くなって輸出にとって不利になるのではないかなど毛頭懸念することなく、おいしそうにできたかどうか、台風に台なしにされないかどうかという対自然の心配だけしていれば、自分たちの生活を自分たちで守ってゆけたはずだったのです。
 そこへ、商品交換、貨幣経済が浸透し、その自立性の仕組みが破壊されたワケなのです。自分たちからは見えない広い範囲の社会の動きに左右され、自分たちの努力の外の社会の動きに大きく「依存」しなければならなくなってしまったワケです。天然の「自立」が人為的な「依存」関係へと吸収されていった歴史があったのです。
 そして、国内のローカルな地域が、国という広がりの市場経済に巻き込まれていったように、今現在、各国の経済が、地球規模の市場経済へと巻き込まれて進んでいるのが、いわゆる経済のグローバリゼーションだと言えるのでしょう。
 世界中の人々が、ひとつの世界的市場主義の仕組みに加盟すると言えば前向きですが、むしろ実感的に言えば「依存」し、「隷属」することになってしまったのです。そして、人々は、「依存」し、「隷属」しながら、その上で「自立」しなさい!とほとんどわけのわからないことを言われているのが実情かと実感するのです。

 ちょっとシリアスな話をすれば、高度に市場主義経済となってしまった日本の社会においては、この仕組みに依存せざるを得なくなっており、もはや「自給自足」的生活の隙間は皆無だということなんです。「自給自足」的生活の基盤のいっさいが撤去され、焼き払われてしまったと言うべきです。「マルサ」がことごとく掌握している点にだけ目を向けておきます。
 これがなぜシリアスかと言えば、市場主義経済からの脱落は、底なしの暗黒への脱落とほぼ同義であるからなのです。かつては、「自給自足」的生活の隙間に救われた者たちがいたはずでしょうが、現在では滑り落ちてしまうからです。都会でのホームレスの人々の生活は、ますます困難と成り始めているようです。(新宿の公園でのバクダン事件を思い出しました)
 そのための「セーフティネット」であり、「福祉制度」だと気がつく人も多いかもしれません。しかし、それらが安心して頼れるものであると信じる人は少ないでしょう。

 多くの人々が現在「構造改革」をよし!と見なしています。当然だという部分を含んでいます。そして、それと抱き合わせコンセプトたる「自立」も「そういうことになるでしょう」と同意しているはずでしょう。
 しかし、くれぐれも注意を向けておきたいのは、「構造改革」とはあらゆる時間と空間から、市場主義経済にとってのムダを取り除いてゆくことだ、ということです。ムダに決まっている行財政の不正支出が撤廃されることは当然として、社会の隅々に至る時間と空間から、「余分なもの」が撤廃されてゆく姿をじっくりと想像した方がいいように思うのです。
 市場経済にとっての「余分なもの」の中に、一体何が含まれるのかをこそ想像力を働かせてリストアップしてみる必要がありそうに思う。多分、現在の市場経済でうだつを上げている者たちがますます有利となり、そうでない者たちが一抹の支えとしているようなものが猛スピードではずされてゆくに違いないでしよう。要は貧富の差の拡大が想像を絶するものになってゆくイメージです。論理的には当然の予測ですが……(2002/01/22)

2002/01/23/ (水)  大義名分で「快進撃」する人々を思う!

 抜け目のない人たちの中には、自分の推し進めたい事柄の大義名分を見事に探し出す人々がいるものだ。その大義名分で賛同者をつかみながら、反対しようとする者を封じ込められれば上出来と目論むのだろう。
「こんなめでたい時に飲まんでどうするの!」
と、飲兵衛が飲む口実を巧みに捉える仕業と、まあ同じ穴のむじなと言えないこともない。 
 
 「廣瀬さん、親だって人間なんだで、恋のひとつもして生き甲斐持ったっていいがや」
 これがその人(坂本さん/仮名)の大義名分であった。

 昨日の余韻で、名古屋での生活を引き続き素材としようとしている。
 坂本さんとは、われわれが「自給自足」大家のビルの一室から、次にあてがわれたこれまた老朽化した木造二階建ての、二階に住む住人のことである。
 われわれが引っ越して間もないしんしんと雪が降る深夜、ご主人は、脳溢血で亡くなった。ごーごーと鳴るいびきを不信に思い、二階に向かおうとしたが、入り口は閉まっていてお手上げだった。「自給自足」大家に告げに行ったら、はしごを持ってきて窓から様子を見て事態が発覚。坂本さんの奥さんと小学生の娘さんは、隣の部屋で寝ていて気づかなかったとのこと。
 思い起こせば、その後の坂本さん親子には手を焼いたものだった。ドタバタと二階を駆けずり回る親子喧嘩をするのは目をつぶったとして、二階の台所でバケツ水をひっくり返したといっては、天井からボタボタと雨漏りのような不始末を仕出かしてくれたのにはほとほと参った。二度、三度と度重なり、それ以上の回数となった時には、『自衛策』しかないと悟らされた。
 大工作業をまめにこなしていた当時のわたしは、小細工を弄した。透明ビニールで天井の滴りを受け、そのビニールに傾斜をつけ、壁に設置した樋(とい)に流し込み、傾斜のある樋(とい)によって水が、所定の場所で待機するバケツに溜まるといったカラクリを作ったのだった。さながら平賀源内の業か忍者屋敷であった。
 坂本さんの奥さんに見せたら、
「ご主人は、器用だでえーわー」
と他人事ふうに感想をもらしていた。水ももらした、その後も何回となく。
 おまけに、ある時とんでもないものをもらしたのである。石油であった。ポリ容器を倒しての不祥事である。たばこを吹かしながら、読書していたわたしは、何か臭いと感じた。自宅のストーブを点検したが問題はなかった。嗅ぎ回った末、まさかのカラクリに近づいて仰天したのだった。バケツに溜まっていたのは石油だったのである。火事に結びつかなかったのが不幸中の幸いだったと胸を撫で下ろした。

 もはやこれ以上何の補足説明もいらないほどにあわて者で、猪突猛進型性格の坂本さんは、やがて名古屋で大きくなったスーパーであるDに勤め始め、その店舗に単身赴任してきた上司と恋におちていった。小学生の娘さんのこともあり、周囲がみな反対した。
 「自給自足」大家も、生前の坂本さんのご主人と知り合いであった点から、
「坂本は、いい年して色狂いしてしもうたがや!」
とにべもなく軽蔑した。近所に住む、これまた生前の坂本さんの知り合いであった密教の修験者広田さん(仮名)も猛烈に反対した。広田さんは、ありがたい修験道の視点から、相手の男は、坂本さんを現地妻扱いで付き合っていて、きっと捨てられる、と予見していた。ただ、そんなことは修験道を知らなくても見抜けることではあった。
 こうして、小さな娘さんの将来のことも心配しながら、みんなして坂本さんをたしなめた時に、返ってきた言葉が冒頭の言葉であったのだ。そして、基本的人権にも絡む(?)大義名分のせいでか、説得不能という暗礁にのりあげてしまったのだった。
 坂本さんは、それまでには想像もできなかったような若く、派手な衣装と化粧で身を包み、夜な夜な家を空けるという戦線拡大路線へと突っ走って行くことになった。
 一階に住む住人は、しばしば独り取り残された小さな娘さんを、夕食に呼んでやることくらいしかできなくなっていたのだった。

 熱くなった人が、もっともらしい「大義名分」を手中に収めると、手のつけられない事態が生まれることを、今は懐かしさ半分で振り返っている。
 しかし、目下のわたしには、昨今の「テロ撲滅」や「構造改革」なる言葉が、ひょっとしてそのような「大義名分」の役割を果たしているのではないかと気になっているのだ……(2002/01/23)

2002/01/24/ (木)  幸運を引き寄せる極意!なんてあるのかな?

 もうこうなったら、今週は名古屋生活シリーズとしちゃう。
 昨日、坂本さんのことを振り返っていて思い出したのだが、その二階建て木造住宅に引っ越してから、不思議なほどに突然のラッキーが訪れ続いたのだ。
 先ず、当時、名古屋大学大学院の博士課程後期に進学したのだったが、大学院でたった一人に提供される「返還不要」の奨学金(某証券会社がスポンサーとなっていた奨学金)を手にしたのだった。毎月六万円を三年間三十六ヶ月支援してもらえるのである。
 育英会の奨学金も申請していたが、こちらは教職につかなかったため返還義務が発生して、昨年やっと全納することができた。
 で、「返還不要」の奨学金であるが、まあ優秀であったこと(?)も理由だと言えなくもなくもないのだが、大学院生ともなるといずれも甲乙つけがたい優秀さであるので、物議をかもさない旨を第一として、神様に選んでもらったという。有体に言えば抽選である。当時、名大の大学院の博士課程後期に進学した者は全学科総勢で数十人以上はいたのではなかろうか。それを射止めたのだ。しかも、そんな抽選があることを全然知らないでである。
 確か、わたしが家庭教師かなんかのアルバイトで不在の際に、大学の事務から電話連絡があったとかだった。家内が受けて、銀行の口座番号を知らせてくれという点や、もし辞退するのであればいついつまでに申し出てください、とのことだったかと思う。
 わたしは「自分自身の努力によるものではなく、他人様からお金をいただくことはできません。わたしは辞退します!」などと、決して言ってはいけないぞ、と自分に言い聞かせたのだった。将来、日本経済のために貢献すればよい、と言い聞かせたのだった。

 それからまもなく、地域の商店街の福引で一等賞が当たった。モーターバイクだった。既に愛用のスズキの中古のバイクで大学へ通ったり、アルバイト先へ向かったりしていたものだから、家内と相談してバイク屋に転売しようということになったものだ。当たったバイクに乗って、クルマに当たる、ということもなきにしもあらずだと、思う気持ちもなきにしもあらずだった。

 それからである。当時、わが家ではモノクロ・テレビしか買えず、我満するというほどではなかったが、
「このクルマはなに色なんだろうか……」
という寂しい会話がなきにしもあらずであった。ある時家内が、当時勤めていた保険会社の関連のイベントで公開抽選会があると告げた。名駅ステーション・ビルに行ってくるとか言ったので、まさしく冗談で、
「カラー・テレビを当ててくるんだよ!」
と真顔を作って言ったものだった。やがて、電話が掛かってきた。
「カラー・テレビが当たったわよ」と。

 これは、おまけの話であり、決してラッキーに属するものではない(「不正な」不労所得をかすったと言うべきか?)のだが、やはり当時のことだったかと記憶している。ガラス戸越しに、突然、二階建て木造老朽住宅の前に「黒塗りペンツ」が止まるのを目撃したのだった。そんなクルマが何の用でもあるまいと黙殺して、読みかけの本に視線を戻した。ところが、
「廣瀬先生のお宅はこちらでしょうか?」
となったもので仰天した。
 かいつまんで言うと、当時わたしは、アルバイトの一環として私立男子高校の悪ガキたちに、地理・歴史・倫理社会・公民などを教えていた。わたしの声が大きく出来上がったのはその時だったのである。いやそんなことはともかく、ほぼ落第決定となりそうなご子息を持った高級官僚のオヤジが奥さんといっしょに嘆願に来たのだった。
 菓子包みと、分厚い「封筒」を手にして、
「あの子は、どうしても卒業して知り合いの会社に就職する必要がございまして……」
と慇懃に話しておられた。
『そんなこと知るかあー。お宅の馬鹿息子は、頭のできが悪いだけじゃなくて、授業妨害を平気でするタワケ者だあー。テスト結果をしっかり尊重してやらあー。』
と心の中で叫んでいたが、同時にこれには何か裏があるナとわたしの第六感は感じとった。一緒にその高校へ教えに行っていた大学院の先輩に詳細を聞いてからの判断だと思い、「封筒」は受け取らず、菓子箱だけを受け取って曖昧な返事でご退散願った。
 案の定、その高校の教師たちを裏で牛耳る実力者の息子だったのだ。妙に反感を買うことはないから、適当にあしらうべしとの裏情報が入ってきた。ちなみに、突っ返した封筒には「ン十万円」が入っているのが相場だったようである。まあ、これはラッキーでもなんでもなく、むしろ迷惑な経験であったが。

 それで、今思い返すに、あの当時の三レンチャンのラッキーは何によってもたらされたものかとの関心が湧きあがってくるのである。このメカニズムを解き明かすことができれば、今こそこれを再現するべき時ぞ!と心が高鳴るのである。
 しかし、そんなことはわかりっこない。ただ、当時を通じて言えることは、比較的に無欲であったことと、仮にも熱中すべき対象が定まっており、まずまず邪念のない、いやなさ過ぎるくらいの生活を送っていたということであろうか。
 運命の女神は、もちろん女性であり、追っかける者を嫌い、そ知らぬ振りをする者を誘惑するいたずらごころがあるとか、と多くの人が聞いている。確かに、その後の人生で、欲に発する心の乱れに流される時期は、苦労多くして空転し続けていたような記憶も蘇ってくるのである……(2002/01/24)

2002/01/25/ (金)  名古屋生活シリーズ……道理をかなぐり捨てた御仁!

 「無理が通れば道理引っ込む」ということわざがある。道理に反することが世の中で堂々と行われるようになれば、道理にかなった事が逆に行われなくなる、というほどの意味である。
 われわれの仕事であるシステム構築にあっては、まずこんな法外なことはあり得ない。しかし、「道理」の実現とも言えるシステム化が浸透しているとは言えども、人間世界ではこうしたことがしばしば起こっている。まして、日本人は「みんなで渡ればこわくない!」と言ってはばからない人種だから、多勢で道理を引っ込ませてしまうことは大いにあり得る。駅前に「放置」されたチャリンコを見ているとつくづくそう思わされる。

 そして、この「無理」が大手を振っている空間というものがあちこちに存在する。例えば「永田町村」だと挙げることも可能だが、物議をかもすので挙げないことにしよう。要するに第三者が介入しにくい空間や、法が馴染みにくい領域では、道理は絵空事とされ、実力を絡め取った「無理」こそが掟となりがちだと見える。昨今注目されるDV(「ど」うして「ぶ」つの!のドメスティック・バイオレンス!)なども、この隙間であるがゆえに惨劇となっているのかもしれない。
 この隙間を列挙すれば切りがないが、要するにオープンではない遅れた空間で起こりがちなのであり、自由競争の激しいビジネス界では、起こらないのではなく起こりにくいと言える。(もとい、「雪」の結晶などを見ていると起こりやすいとも言えてしまう。)
 DVの悲惨さが告げるように、家庭という空間は「無理」横行の最多発地域に違いないが、これに負けじとばかりに追撃をしているのが町内だとかいうローカルな地域であろう。そういう空間には、時として「無理」の塊みたいな人物、元祖無理本舗みたいな御仁が一人や二人は生存しているからなのである。

 前置きが長くなってしまったが、名古屋生活シリーズである。
 わたしが名古屋での生活を楽しく、懐かしく振り返ろうとすると、必ずお邪魔虫さながら登場してきて、淡き薄緑色の思い出を、濁ったドロ色に塗り替えてしまう者が二人ほどいるのだ。そのひとり、「霧島」(人権擁護のため仮名とします)のことについて、思い切って振り返ってみようと思う。
 天井から石油まで漏ってくる老朽二階建て木造家屋(何のことかわからない人はわからないままでいいんですからね!)に不安を感じたわれわれは、その後名古屋市内とは言えどもはずれのはずれ、庄内川の向こう側はもう市外という場所に新設された県営住宅に応募した。そして、何と見事に当ててしまったのだ。(実は、このツキで運がツキてしまい、その後はしばらく不幸の連続に見舞われることとなった。)
 まるでオーダーしたマイホームの建築進行状況を確認するかのごとく、建設中にも見に行ったりしたものだった。よっぽどうれしかったんでしょうね、石油漏り老朽木造住宅からの脱出が……

 そして、うららかな春に百世帯くらいが入居した。そのスペースはあったのだが、駐車場が設定されてなかった。県の言い分では、とかく「もめごと」に繋がるので県はタッチしません、「住民自治会」などを作って管理するならばしてください、ということだった。クルマを使う多くの住民がいたため、無用な混乱を避けるべく、にわかに「自治会」作りの機運が高まった。
 そこへ、精力的に踏み出してきたのが「霧島」であった。わたしよりもはるか年配の男であったから、「さん」づけ呼称が自然だが、わたしの感情からすれば「呼び捨て」呼称が自然なほどの人物だったのである。
 彼は得体の知れない「処理能力」を秘めていた。まず、ひょんなことからわたしが目をつけられ「オルグ(仲間に入れられること)」されてしまった。同じ階に住むことになったのがきっかけで、廊下づたいに訪れては話し込み、自治会作りの必要性と、その構想に話題を収斂させるのだった。
 住人たちを彼なりによく観察していて、誰を自治会のスタッフにすべきかの構想まで目論んでいた。そして、彼らを「ビールでも飲みに来ませんか?」と誘い始めたのだ。
 やがて、駐車場問題をきっかけとして、彼の思いどおりの自治会が発足することとなり、彼が初代の会長におさまった。合理的な構想ではあったためわたしも他の二名とともに副会長を引き受けた。ここまでは良かった。
 ところが、彼が予想だにしなかった問題が次々と発生していったのである。自治会加入を拒む住人が出てきた。駐車場管理費納入を拒む住人が現れた。自治会の管理対象のひとつであった汚水処理に関して、トイレに溶解不能なものを流し込んでしまう住人が後を絶たなかった。県に負う自治会の義務の大前提は、「全住民一致!」ということである。
 夜な夜な、自治会スタッフは会長霧島の部屋に集まり、種々の難問に頭を痛めることとなった。突然、霧島が業を煮やして言った。
「ワシャーはもうこんな馬鹿住人たちを面倒見切れんがや!会長を辞任するでよー!そんで、自治会が解散して大混乱になりゃー、馬鹿住民もちっとは考えを深くするだろうがやー」
 副会長の三人は、反対した。苦労してせっかくここまで持ってきた自治会を投げ出したら、みんなで協力しながら進めようと腹を決めた人たちまで、二度とついてこなくなってしまうから、と諌めたのだった。
 が、彼は、その翌日に、建物の中央玄関に一枚の掲示を貼り付けたものだった。その紙には、ただただ、会長辞任の宣言だけがなされていた。彼は、それを大混乱の導火線だと考えていたのだ。

 副会長三人は、当惑しながらも霧島の意に反して、会長なしの自治会を継続させてゆく方針を打ち立てた。大混乱を当てこんでいた霧島の感情を逆撫ですることはわかっていたが、ここで自治会を解消することだけは避けようと合議したのだった。
 この時点から、彼の裏側の顔が次々と曝け出されていくこととなったのだ。「全住民一致!」という掟が条件づけられた自治会にとって、一人でも自治会活動に賛同しない者が出て来ると困ることを知り抜いた行動を、次々と始めていったのだ。自治会費、駐車場管理費の支払い拒否、駐車場への嫌がらせ駐車などを平気で実行した。
 われわれは、彼が会長時に、自治会への非協力者に対してどう説得するかを説いていたそのとおりのことを、今度は彼に対して進めていくこととなってしまった。
 一人芝居の彼の目論見は、次第に多くの住民が知るところとなり、彼以外の非協力者がいなくなるほどに自治会はまとまって行くこととなった。そして、臨時総会を召集し、全住民に状況を説明する時がやって来た。予想どおりに、妨害の意図を秘めて彼も、自治会室の最後列にあぐらをかいて座った。議事が進行し始めた時、彼は持ってきたテープレコーダーのコードを、自治会室のコンセントに挿し始めたのだ。
 議長を仰せつかっていたわたしは、咄嗟に叫んでしまった。
「会費不払いの方が、自治会室の電源を使われるのはいかがなものなんでしょうか?」
 彼は、ふてくされてコードを抜き、退室してしまった。

 こんな状況ではあったが、自治会活動はまずまず続いて行くのだが、わたし自身に悲劇が訪れてしまったのだった。想像だにしなかった父危篤の知らせが届いたのだ。東京で暮らしていた父親が心筋梗塞で倒れ、一週間足らずでこの世を去ってしまった。母親一人となったことを凝視して、研究生活に終止符を打ち東京に戻ることにせざるを得なかった。 モダンな県営住宅での生活は、たった1年で終わった。後を見届けたかった自治会の動向も、さよなら!となってしまったのである。
 その後も、霧島の行動への不可解さが残り続けたが、いろいろな情報を集めると、どうも住民自治などにホンネの関心があったわけではなく、「個人的な動機」が潜んでいたようなのだ。
 もとより、彼のような資産家が所得制限のある県営住宅に入居できることからして奇妙であった。彼は、名古屋の経済界につながりのある人物だったとのうわさも、後日耳にした。ホームグラウンドにて何か大失敗を仕出かし、誰に対してなのかは知らないが、汚名挽回の実績作りを所望していたというのである。そうだとすれば、人並みはずれた事務処理能力や、組織づくり能力、またぽろぽろと立場不相応の「情報」が漏れてきた情報通であった面などに、合理的な説明を与えることができるのである。
 多分、彼の目論見は破綻したのであろう。彼の目論見などどうでもよいのだが、生涯を通じて一度と言えるような高級住宅確保の喜びに浸る、平凡な住民たちを、ダシに使おうとした身勝手さ、無理のごり押しが許せなかったのである。
 入居して間もない頃、廊下を歩く小学生が話しているのが耳に入って、笑ったものだ。
「今度は、ぼくんちのマンション見においでよ」
 薄暗いアパート暮らしに慣れた子どもたちにとって、そこは文字通りのマンションだったに違いない。

 ひょっとして、いや多分、第三者が立ち入れないような空間には、奇麗事の裏側で理不尽な無理をあつかましく推進なさっている御仁たちが、いまだにしぶとく生息しているのではないかと不吉な想像を禁じ得ないでいるのです……(2002/01/25)

2002/01/26/ (土)  わたしの場合、名古屋自身が責められるべきではない!

 名古屋の「みやげ」はいずれにしても重い。「ういろう」(餅と羊羹のハイブリッド!)にしても、「きしめん」(そうめんも重い方だが、質量がごつい!)にしても、「パチンコ玉」(パチンコが本場でも、これはナイか?)にしても、親戚や、友だちや……と見繕うととんでもない重量となった。帰郷時にはその点で気も重くなったものだ。
 今日で、名古屋生活を振り返るのはひとまず打ち止めとするが、約8年の名古屋在住は概して気の重い生活だったかもしれない。楽しさや、やりがいがなかったわけではないし、懐かしい想いが馳せることもある。しかし、やはり知らない土地であり、知らない人々との生活というものは、過去となってしまうと、なおのこと薄ら哀しき実感に染まりがちとなってしまうのだろうか。

 同輩たちでも、全国の各地に転勤させられ、ふるさと遠くその地で何年も住むケースが少なくない。そうした人たちがふるさとに戻った際、過去の現地をどんな感覚で思い起こすのであろうか。まあ、人さまざまと言えばそうなんだろうけど、再度舞い戻りたいと強く願う人は少ないのではないかと推測する。どういうことなんでしょうかね。
 その分、知らない人たちの中での家族間の、ああした、こうしたの想い出が色濃く残ったりするものかもしれない。さしずめ、現代家族の危うさが指摘される昨今、家族揃って海外に移住するという処方箋をラディカルなカウンセラーは考えているかもしれない。

 一人息子との関係は、この時期が最も牧歌的であったと感じている。勝手なことを言えば、この部分だけはリプレーしてもいいかな、と思わないわけでもない。
 とは言え、「院生」などという不安定なモラトリアムの時期のことだから、万事順調なんていうわけがなく、子どもにしてみれば結構辛いことが多かったはずだ。保育園も学童保育もしっかり経験した息子であった。リプレーなんてとんでもないと言うであろう。

 親は、子どもとともに二度目の子ども時代を経験しようとする願望を持つのだろうか。
 わたしの場合はそうだったかもしれない。さんざん子ども時代には遊びまくったはずなのに、まだ遊び足りないとでも言うかのごとく、子どもと気まぐれに遊んだ。
 名古屋の古い通りにはまだ残っていた駄菓子屋へ、しばしば連れて行ったものだった。子どもの目の色が変わったが、わたしの目の色も変わっていたに違いない。店内を親子で、鵜の目鷹の目をして楽しんだりした。
 グランドの寒空に、ビニール・カイトをブンブン上げたこともあったか。
「お父さん、寒いからもう帰ろうよ」
の言葉を振り切っていたかもしれない。
 収入は乏しかったが、時間とものづくり能力は自由になっていた。そこで、気が向けば、子どものおもちゃに工夫を凝らした。
 粗大ゴミ回収所から持ってきた三輪車を大改造して、新品以上の豪華車に仕立て上げ喜ばせた。
 当時、子どもが何かと言えば、
「ゴレンジャーだー!」
とのめり込んでいた、子どもテレビ番組があった。アルミの皿を加工して主人公の役柄の面と、太刀とを作ってやった。しばらくは身に付けっぱなしであった。
 雨の日が続いた梅雨時、子どもの背丈以上あるダンボール箱をくり抜いたりして、電車の運転室を作ってやった。気に入ったようで、近所の友だちが押しかけた。ある日、その親御さんが来て、
「子どもが、買ってくれと言ってせがむんだけど、『電車の運転室』はどこで売ってるの?」
と、真剣に聞いてきた。しょうがないから、ワンセット作って提供することにした。
 都市化された地域の広がりが意外と小さく、周辺に自然を多く残した名古屋であった。また、市のはずれに移ってからは、なおのこと自然に近くなった。釣りや虫採りに子どもを誘い出すことも多かった。しかし、わたしが幼い頃に親しんだほどには、もはや子どもは自然風景に馴染まないようだな、という感触が寂しかった。

 名古屋に、何とはなしの気の重さを感じ続けるのは、多分他の原因があってのことかと思っている。どこで生活しても根付けるつもりでいたわたしにとって、「閉鎖的」とのうわさのある名古屋は、それほど閉鎖的とは思わなかった。
 むしろ、ある教授を慕って東京から向かったわたしだったのだが、その教授が、半ばで大坂へ移られてしまったことが、名古屋生活の番狂わせの始まりであった。そして、そのあとに東京から赴任してきた教授が、わたしにとっての不幸の自覚の極めつけであったと判断している。
 りっぱだと自認する方は、とかく粗雑な死角を平気でお作りになられるが、その教授も例にもれず不可解な所業が指摘できる。しかし、人品評価はひとつの視点で十分だと思われる。
 何のための研究かという点は、何のための人生かというほどに重要な基盤だと考えていた。わたしが慕った教授には、そこはかとなくそうしたものが認められた。が、後者の教授には、それを保留にし続け、「形」さえ変えてゆけば中身は自然についてくるといった乱暴さしかなかった。おまけに、その「形」とは、狭い学会での業績、しかも御身の業績にこだわる風なのであった。彼は学者に非ず、小規模経営者でしかなかったと言える。
 わたしは、世間知らずの未熟さの時期に、たとえ学問や研究という領域の中にも、過剰に権力志向で動く人間が存在することを知らされたのだった。今では、誰でもが心得ている現実原理ではある。
 わたしは、「聖域」などが決して存在しないことを知り、オープンが売りである実業の領域へ遅ればせながら飛び込む決意をしたのだった。

 そんな因縁によって、名古屋は気が重くなる印象を捨てがたい土地ではある。しかし、いまだに、心を通わせる何人もの友人が住んでおり、名古屋自身を責めるべきではないと言い聞かせているのである。(2002/01/26)

2002/01/27/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (24)

「保兵衛さん、保兵衛さんなら持久力を備えれば、もう少し早く走れるはずです」
「それにしても、海念さんは凄い速さだ!」
 もう、とっぷりと日が暮れた高台の校舎に沿う細長い校庭を、二人は走り終え、ハァハァと息を整えながらスタート地点へと歩んでいた。

 城南中学校は、かつての東海寺の境内に造られた学校である。当時の凹凸のある地形が、おもしろく工夫されて設置されていた。
 東海寺の池が埋め立てられメインの校庭が広がっている。そこから見上げる丘はそのまま残され、見晴らしがよい、うなぎの寝床のように長い木造二階建ての校舎が建てられていた。数十メートル以上の長さである。そして、その校舎の前に道路幅程度の未舗装の土地があり、主にスプリント用のサブ校庭として使われていた。校舎の反対側は、樹木が残された急斜面となっていた。
 保兵衛と海念が走っていたのはその校庭であった。

「今度は、わたしがここで合図をしますから、全力疾走してみてください」
 保兵衛は陸上部ではなかった。その俊足が買われ、間近に迫った区の陸上大会に出場することになっていたのだ。クラブ活動は美術部に所属していたので、それが終わった後ひとりで練習することにしていた。
「ヨーイ、ハイッ」
と、海念は鋭く手を打った。保兵衛は校舎の正面玄関の灯りをめざして疾駆した。
カッカッカッという小気味の良い音が響き渡る。スパイクの鉄の爪が、校庭の小石を蹴り、時々花火のような火花が暗闇に散った。校庭の奥の物影でひっそり立つ海念は、『うむ、うむ』と頷きながら小さくなってゆく保兵衛を見守っていた。

 海念が何故ここにいるのであろうか。これが、海念の最初の時空超越であったのだ。
 保兵衛は、薄暗くなったその校庭で何本かの疾駆を流し終え、スタート地点付近でひとり、汗を拭いていた。なぜか気分が落ち着かず、無心になりたいと思い、そんな時刻に走る保兵衛だったに違いなかった。陸上大会に備えるつもりもあったにはあったが、むしろ、この時保兵衛は別のことで煩悶していたのだった。海念さんならどう対処するだろうかと、瞬時、海念に想いを馳せたかもしれなかった。
 そこへ、樹木でうっそうとした急斜面の側から、ひょっこりと海念が姿を現して来たのであった。まるで、待ち合わせでもしていたようなタイミングだった。
「えっえっー、海念さんじゃないですか」
「ご無沙汰してます。そんなに驚かないでくださいよ。お元気なようですね。ちょっと気になって、東海寺から飛び出してきました」
「うぁー、懐かしいなぁー」
「あまり長居はできないのです。話が終わったらすぐに戻ります」
「へぇー、そんなことができるんだ」
「これが役に立っています」
海念は胸に下げた托鉢用の袋から懐かしいものを取り出した。保兵衛のあげた「けん玉」だった。
「すでに何度か時空超越の修行をしましたが、このお陰で自由自在と言えます」
「そう言えば、あの時、海念さんはぼくに数珠をくれたんですね。大事にしています」
「今度、東海寺にお出での際には心の支えにしてください」

 保兵衛と海念は、急斜面側に柵のつもりで横たえられた木材に並んで腰掛けた。もうすでに人影とさえ見分けがつかない暗闇になっていた。時々、遠くに浮かぶ正面玄関の灯りの下に、残務を終えた先生が帰途につく姿が見えた。
「保兵衛さん、何かお困りのようですね。違いますか?」
「えっ、どうしてそれが?」
「わたしにもわかりませんが、座禅を組んでいるとここしばらく前から、保兵衛さんの苦しそうな顔がたびたび眼の奥に浮かぶのです」
 海念の言うとおりだった。保兵衛はちょっとした難問にぶつかり苦しんでいたのだ。
 保兵衛は、現在、生徒会会長に選ばれていた。これまでにも経験し、そうした立場がある種のやり甲斐と感じるほどになっていた。
 が、つい最近、予想だにしなかったことを経験したのだった。

 その大柄ゆえに、親分肌で何人かのグループのリーダーと見えた同学年のAから、奇妙な忠告を受けたのだった。
 Aが突然、保兵衛を放課後のトイレに誘ったのだ。そして、保兵衛にこう言った。
「オレはさぁ、保兵衛のことを尊敬してたんだ。勉強ができるだけじゃなくて、しっかりした考え持ってるし、身体も鍛えてるし、会長として申し分ないヤツだとね」
「何が言いたいんだ。率直に言ってくれよ」
「だけどよー、センコーにチクルような犬みたいなことなんかしないでくれっていうことだ!保兵衛らしくないんだよ。それだけだ」
 その時は状況が見えなかった保兵衛だった。そうかアレだと事情が呑み込めたのは、しばらく経ってからのことであった。
 保兵衛は、生徒指導担当の先生とも親しくしていた。その独特の厳しさから嫌う生徒も多かったが、一度殴られる経験も済ました保兵衛は、がんばっている熱血教師のひとりだと考えていた。
 ある日、中学校の裏手の公営住宅の住人から、最近空き住宅に中学生らしい数人が出入りしているとの通報が、その先生のもとに入った。すでに保兵衛にもそんなうわさが聞こえてはいた。まさか、と保兵衛は聞き流していたのである。
 しかし生徒会でもこの件が話題となって行った。結局、うわさを生徒指導教師とともに確認しに行くことに発展してしまった。
 こうして、住宅の物置部屋で喫煙していた生徒のいることが発覚した。そして事態は生徒会の問題から、学校側に移行することとなったのだった。詳細は生徒たちには伏せられたが、うわさの中には意表をつく名も含まれていた。
 保兵衛が悩んだのは、Aが言ったことが否定し切れないでいたからなのであろう。事情はどうであれ、結局自分のしたことは、おりこうさんぶって、自分が嫌うことのひとつである犬のようなことをしたという呵責が、どうしても消せなかったからなのであろう。
 小学生ならともかく、中学三年ともなると、「健康優良児」的にのっぺりといい子ぶるスタイルが決してベストだとは思えなくなっていた保兵衛だった。タバコを吸いたいなどと考えたこともなかったが、そうした秘密の行動への誘惑に身をゆだねてゆく友人たちの方が、正直なんじゃないかとも思ったりした。感じて自然な年頃かもしれないのに、そんな誘惑をないものと決め込んでいるかのような自分の方が、偽善的なのかとさえ感じる始末だったのである。

「海念さん、海念さんだったらどうする?」
 一通り、いきさつと自分の思いを話した保兵衛は、海念に問いかけたのだった。
「ええ、難しい問題ですね。先生たちと歩調を合わせたら友だちたちから恨まれるし、黙っていてはその友だちたちは深味にはまってゆくでしょうしね。
 すっきりした答えが出てこないということは、問題設定自体に無理があるか、あるいは……」
「あるいは、何なのさぁ?」
「あるいは、保兵衛さん自身の側の材料不足、情報不足、苦労不足かもしれませんね」
「苦労不足っていうのは?」
「わたしには、隠れて何かをしようとする人の屈折した心境がわかるような気がします。何か、やりきれない苦しさがそうさせるのかもしれません。自慢にはなりませんが、わたしは苦しさの極限を見た気がしています。だから、苦しさから不本意なことを仕出かす者の成り行きが大体わかります。多分、その方たちと直接面と向かって、『中途半端なことしてるんじゃない!』と一喝してあげることができるように思います。先生方のご指導よりも効き目のあることを言ってあげることもできるかもしれません」
「まいったなあ、海念さんには……」
「でも、保兵衛さんも、もうしばらくすると、ご自分が先生方の陣に近いのか、友だちたちの陣に近いのかが、ごく自然にわかってくると思いますよ」
「うーん、まだまだ苦労が足りないっていうわけかぁ」

 海念の手の合図でスタートした保兵衛は、一緒に走った海念のもの凄い速さを思い起こしながら、これまでにない速度を出していた。そして、正面玄関の灯りの下で速度を緩め、立ち止まった。膝に手を当て、前かがみでハァハァと息を整えた。海念さんは、と振り返った時にその姿は見えなかった。暗さのためかと、ジョギング風にスタート地点に戻ったが、海念の姿はやはり消えていた。
『そうか、戻ったんだな。』
汗を拭きながら、保兵衛は海念との会話を思い出すのだった。
『苦労が足りないかぁ。そうかもしれないよなぁ。ぼくは精一杯努力をするという苦労はしてるつもりだけど、その苦労は今までは大体望んだ成果に結びついてきたはずだ。こんな努力は苦労とは言えないのかもしれないなぁ。百円出して、百円の菓子を買うのと同じなんだから、何のにがさも、辛さもないって言うことだ……』
 海念の予測どおり、その後保兵衛は一流高校への進学を果たしたものの、五十円、もしくは十円程度出して百円の買い物をしてゆく連中に囲まれ、七転八倒の苦しさを味わうこととなってゆくのだった。(2002/01/27)

2002/01/28/ (月)  チャーシューの明治男と、ネギの知識人!

 ラーメン、いやこの店では「昔懐かしい中華そば!」だと言い張っているが、その琥珀色のスープに浮かぶやや大きめなチャーシューを、生ビール飲み干しながら見つめてしまった。チャーシューを得意気にこしらえ続けていた祖父のことを、何気なく想い出していた。祖父が去ってからもう数年になる。
 毎年、正月も明ける頃、よく品川の祖父の家を訪ねたものだった。年賀の挨拶であったが、九十を越す高齢となっていたので、身体や気力をそれとなく確かめておきたい意図もあった。
 ある頃から耳が遠くなっていて、ろくに世間話をするわけでもなかった。
「ビール飲むんだな」
と決まって口火を切った。危ない足取りで物置へ向かい、竹馬の竹を持つように、両手にビール瓶を握って戻ってくる。不思議なことに、祖父の周辺で飲む者はわたしのほかは数限られていた。にぎやかな上に、馬鹿を仕出かす親戚が多かった印象からすれば、当初は下戸揃いとは信じられなかった。しらふで仕出かしていた馬鹿なら、そりゃ筋金入りだと思ったものだ。
 冷えていないビールのさかなとして出してくれたのが、祖父手製のチャーシューなのである。毎年、変わらなかった。大変に貴重なものを、大変見事にこしらえ、大変みんなが喜ぶと確信し続けていた点も、毎年変わらなかった。
 祖父の本質は、何事によらずこの確信にあったのだと思っている。思い込みの激しさである。尋常小学校中退で丁稚奉公に出て、叩き上げた人生からすれば、知識と言った一般的なものは、まずは疑ってかかる以外の何ものでもなかったようだ。
「保雄は、大学出てもまだ足りんと言って、その上まで行ったって言うが、そんなに学問ってのはおもしれえもんかなあ。そおかあ、おもしれえんだあ」
と面白くなさそうに言ったものだ。おのれの手堅い体験を、ひとつひとつ碁盤を埋める碁石のように進めてきた明治男にとっては、当然のことであったかもしれない。
 ただ、頭を使うこと、とんちを働かせたり、浪花節的人情の機微に分け入ること、そう、ひっくるめて言って「秀吉的」頭脳活動には、ご執心だったようである。まあ、実際的場面で頭を使ってこそ、頭の値打ちがあるとでも思っていたのだろう。認識に不足はあったとしても、間違ってはいなかったと思われる。

 チャーシューで祖父を連想し、生ビールというワンクッションがあって、次に連想が向かったのがなんと「知識人」であった。なんでそうなるの?と言えば、よくはわからないが、ラーメンの華、チャーシュー、実と体験の象徴、チャーシューを見つめていたら、一度は自分も足を踏み入れかけた、青い鳥が紛れ込む一般論の森の住人たる「知識人」のことを、まさに反転的に思い起こすことになってしまったのである。
 自分の実感と経験とをよすがとして生き、その日その日を新しき経験が充たされる未知なる器と信じてやまない、たくましきチャーシュー的人々。
 片や、何よりも知識というもっともらしい一般性、普遍性を気にしながら、知識を前向きに生かすというよりも、知識で自分の行動を雁字搦めにしてしまい、自分の人生さえ理論や法則にもっとも適合したひとつのサンプルであって差し支えないと、そう思ってしまう人々。後者の人々、「知識人」は、今ますます自分をみじめにして、活力を喪失させている、ような気がしてならない。
 ラーメンにかこつけるなら、さしずめ知識人なるものは、内実豊富な琥珀の海に、内実乏しく、青っぽく白っぽく、頼りなく浮かんでは沈むネギのようだと言ってよいか。
 時として何を血迷うか、脇役、縁の下的スタッフであるべきネギ=知識人の分際で、世界の主役である「はし」をその「輪っか」で身動きとれぬ状態にも持ち込んだりもする。不届き至極な奴めと噛み砕くと、ジワリとその身の苦さを口中に広げる。水で流し込んで一件落着と思いきや、歯の隅に隠れ居り、保身を計るその根性がいと憎し。
 このネギ=知識人は、自身に質量がない分、呼ばれればどんなジャンルにでもしゃしゃり出てゆく節操の無さが、いと恥ずかしきなり。中華と思えば、日本蕎麦、汁ものかと思えば鍋物、串もの。あげくにねちねち納豆と渾然一体となることまで辞さない。よくやると言えばよくやる姿勢ではあるが、いまひとつ主体性が欲しいところだ。
 だが、考えてみれば、問題の根源はネギ=知識人にあるのではなく、受け手の庶民側にあるのかもしれない。ラーメンならラーメン、軍事問題なら軍事問題を、くどい味であろうが、消化しにくいほどに込み入っていようが、限りなく自分で咀嚼する努力をするべきなのである。自分の体験(あまり、軍事問題の体験はないかもしれないが……)を反芻し、自分の感覚で判断すればそれでいいはずなのだ。すだれ流しのヘヤー・スタイルの軍事問題知識人の解説に耳を傾ける必要性は、さほど無いと言うべきなのである。
 こうした、何でも知識人と呼ばれる人のご意見を伺おうとする風潮、知識はきっと人々を幸せの森、青い鳥が住む森へ誘ってくれると信じてやまない風潮が、混乱した事態をますます混乱させている元凶ではないかと、ラーメンを頂きながら感じたのである。すべて食べ終え、スープまで飲み干し満腹となった時には、まあ、どうでもいいかな、とも思ったものだが……(2002/01/28)

2002/01/29/ (火)  知識人は、「である」ことではなく、「なる」こと、「する」こと!

 かつて「知識人」とは、天下国家を論ずる有識者を指したりしたかもしれない。インテリ、インテリゲンチャー(インテリ源ちゃん!?)などと呼ばれた時期がそれだ。高学歴で頭脳明晰、色青白く非行動的、片手に書物を持ち、胸に病なんぞも持っていたりすると間違いなくパーフェクトな知識人と称されていた。
 当時の世間は、彼らを敬いもしたが、心底では「世間知らず」と蔑むことを含め、ほぼ妥当な評価をしていたかもしれない。庶民は、知識の潜在力なんぞと言われても信じられるはずもなく、実力とはカネであり、トチであり、チイであり、ひっくるめて眼前で繰り広げられた目に見える力なんだ、とそう心に決め、腹に決めていたに違いない。
 「すえは博士か、大臣か」とのスローガンにしても、博士という知識人をホンネで持ち上げたものではないかもしれない。「すえは事務次官か、大臣か」では、偏り過ぎるからいかがなものかとの異論が生まれ、また「すえは事業家か、大臣か」では、それでは同語反復ではないかとの玄人筋からの疑義が生まれ、とりあえず青少年に勉学意欲を鼓舞するものにしようや、人はいつまでも青少年であるわけでもなし、そのうち世の中が見えてくるのだから……などとして落ち着いた、のではないかと想像する。要するに、有体に言えば、博士という知識人は、庶民の双六の上がりなんぞではなかったのである。言い回しのまくらか、刺身のつま的存在と見積もれば、実態からは遊離していなかったと言うべきなのかもしれない。

 それがどうしたことか、学歴社会が加熱し、高学歴志向となり、知識万能かのような傾向も強まり、いつしか情報化社会だけでは飽き足りないと見え、「知識社会」に加え「知価社会」(知識人、堺屋太一氏による)という表現まで現れる時代となってしまった。
 とは言っても、これは多分の話だが、誰も額面どおり「知は力なり(ベーコン)」なんて信じたりはせず、仮に信じた振りをしても、知識は(カネ儲けの)力なり、と読み替えていたに違いない。内実に大きな変化があったわけではない、とくくれよう。
 こうしていわば大衆化(タテマエ化?)した「知識」が、受験生の身辺だけではなく、生活全般に浸透した一方、この「知識」に身元保証人をつけるという小手先わざも広がった。この役割を仰せつかった「知識人」がやたらとマス・メディアに顔を出し、週刊誌などに駄文を曝け出す今日のようなご時世となってしまったのである。
「一応、このジャンルでは名が知れた『○×先生』に座ってもらいましょうか」
と言う舞台裏の会話が聞こえてくるようである。
 昨今では、経済学「知識」の身元保証人である竹中氏が、政権の経済政策の身元保証人の役割まで仰せつかったりしているあり様でもある。口はだいじょうぶにしても、理論や政策は大丈夫なのかなあ?
 念のために注釈をつければ、わたしの言う「知識」の身元保証人的役割とは、いかがわしさを拭いきれない民間発明品などを、権威づけるために、然るべき博士の名義と顔写真を援用する、そうしたイメージを言っているのである。
 それと言うのも、知識はそう簡単に「保証」できるものではないはずだからである。ハイ・エンド(先端)の知識は、大半が「仮説的」段階の知識であり、おいそれと「保証」などできるわけがなかろう。また、それを脱した知識なら、それは立派な常識なのだから「身元保証人」なんぞは必要ないはずでもある。
 こうして、マス・メディアに登場する「知識人」ジャンルの人々はその使命に戸惑い、何とも座りの悪い姿で身を晒しているように見えるのである。とりわけ、クイズ番組、トーク番組に頻繁に顔を出し、タレント化している自称「知識人」は、次第に本業の成果から遠のいて内心不安となっている心境を、作り笑いで覆い隠し続けているためであろうか、メキメキ人相が悪くなっているような印象をさえ受けるのである。

 偉そうに構えるつもりはないが、知識もどきが飛び交っては、簡単に捨てられてもゆく時代風潮にあって、知識の内実を問い、さらに内実ある知識人を自任することはかなり難しいことではないかと思う。
 知識とは、考える力と対をなすものではないかと思っている。考える力とは、その人その人で培われた能力であり、知識活用能力と言い換えてもよい。知識だけでは、パワーにならないのは、分厚い百科事典を持っていても安心できないことがなによりも物語っているはずだ。今、知識それ自体は、これまでになく入手し易い環境が出来上がっているのだから、むしろ、自分なりに考える力、知識を咀嚼して活用してゆく力こそが貴重となっていると思われてならない。
 また、知識人とは、言うまでもなく何らかの職業を指すものでもなければ、もちろん高学歴を指すものでもない。そうした付帯的条件を備えながら、平気で「非、反」知識人的行為を仕出かす者たちを、わたしは何人も見てきた。
 知識人とは、人間の重要な特質である知性を信じて、知的活動に喜びを感じ、知性の国際的普遍性を信じようと決意する人のことだと言ってみたい。知識人は、「である」ことではなく、「なる」こと、「する」ことだと思えてならない……(2002/01/29)

2002/01/30/ (水)  知識過剰時代と『十三日間地獄の特訓!』!

 のっけから下世話な言葉で切り出すのは本位ではないけれど、ほかにこれと言ったプロローグが思いつかないのでいたしかたない。
 「耳年増(みみどしま)」という言葉がある。辞書を引くとこう書いてある。
「(若い女性が)他人の話を聞くことで、経験はないが十分な知識を得ていること。多くは、性的な知識についていう」
 しかし、「多くは、〜」の話をしようとしているのではないので、余り力まない方がいいでしょう。

 知識万能と見える時代にあって、人は、他人の話であろうが、他人の書物であろうが、はたまたウェブ・サイトからの情報であろうが、知識のかけらを手頃な熊手でざっくざっくとかき集めがちだ。悪くはないけど、闇雲に集める人の中には、その人から聞いた話を、当のその人に真顔で話する、といったあってはならない粗雑なことまでする人もいるものだ。
 多分、その人の頭の中では、知識の群れが、名刺箱を引っくり返したような惨憺たる状態になっているのかもしれない。整理がなされない知識群で頭の中が充満しているこうした人は、男性であっても「耳年増」の類だと思えてならない。

 今週は、どうも「知識、知識人シリーズ」となりそうな気配が濃厚となってきた。初っ端はラーメンだったのだけれど……
 ところで、断片的知識に頼っている「名刺箱引っくり返し型知識収集人間」が、確実にカルチャー・ショックの坩堝に落ちる修行の場がある。わたし自身、かれこれ十数年前に経験したことがある。禅寺ではない。本質的には似ているところがあるが、違う。体験入隊の自衛隊でもない。似ていなくもないが、そんなに危なくはない。いや、種類の違う危なさはある。
 そう言えば、わたしの経験は、今日この頃の寒さが、さらに一段と積み重なった二月の半ばのことであった。
 場所は、富士山の南西山麓、身延線沿線の富士宮市。雪も降ったし、地震もあった。マジで、この地震でトレーニングが中止となればこれ幸いと、逃げの根性が顔を覗かせたりもした。それほどに地獄であった。そう、その名も「管理者養成学校『十三日間地獄の特訓!』」という、「ど」センシティビリティー・トレーニングである。

 二つ目のソフト開発会社に移り、本格的にビジネスにのめり込むべしと思い定めていた頃のことである。実業の世界(下手なアカデミズムは虚業に近いのか?)に出遅れて飛び込むこととなったわたしは、しばらくはアカデミズムの垢を振り払うべく、活字から遠ざかろうと一切の書籍を押し入れに封じ込めたりしていた。
 しかし、染み付いた「知識依存癖」の行動様式がそう簡単に「実践主義」に移行できるものではなかった。そこで遭遇したのが、ノン・バーバル(Non-Verbal 非言語的)!をうたい文句とするビジネス行動訓練であった。
 バブル経済の最中の80年代前半期は、ビジネス界は動けば儲かる時期であったため、行動力ある兵隊さんとその指揮官たる管理者層を渇望していた。したがって、この管理者向けセンシティビリティー・トレーニングは持って来いのセミナーと目され、テレビなどでもその激しさ、厳しさが半分興味本位に取り上げられていた。
 今ひとつ、実業に「遅れてきた青年」であったわたしにとっても、当時の経済の過熱ぶりとの距離を縮めるには、何はともあれ適当な修行の場だったのである。

 結論から言えば、二週間の訓練の後、シャバに生還した時は体重を数キロ落としていた。家内の言葉では、背中がげっそりしていたそうな。「ただいま」の言葉も失いがちであった過去に対して、「ただいま戻りました!」とのどまじめな挨拶に、小さかった子どもなどは目を白黒させて驚いていた。
 帰途の途中で、電話をした際にも、完全につぶれた声のため、いたずら電話と間違えられそうになったほどであった。
 その後一週間ほどは、夜中に目が醒めても訓練の延長と間違え、『あっ、そうか、戻っていたんだ……』とホッとして再度眠りにつくようなことが続いた。
 シベリア抑留と較べたら怒られるが、二月の富士山麓、おまけに雪が降る真夜中を単独で二十キロ、グループで六〜七十キロのオリエンテーリング行進は言語を絶する(この「言葉を失う!」心境となることがねらいのひとつとされていたのであるが)ものであった。出発前に手渡された握り飯などは、歯が立たぬほどに凍てつく始末であった。青木が原の樹林は遠かったが、それにも似た不気味な場所へと迷い込んだりもした。

 肉体的な限界に直面させられたと同時に、精神的な限界の壁にも頭をぶつけさせられたと言える。プライド高く知識を弄び、奇麗事と逃げ腰で顧客や、部下に向かったとて、何の成果も上がらないのは当然だとされ、管理者たるもの恥じる柔心(やわごころ)をすてるべしとの訓練が課された。それが、駅頭歌唱であり、そのプレとしての昼食時の食堂での、他の訓練生が食事をしている場での歌唱なのである。
 引いた風邪を、気力と発声練習で押し殺し、「セールスがらす」なる歌を暗唱する。何十回もの校内テストを合格したら、やっと西富士宮駅へ向かう。通勤客たちが押し寄せる午前八時前後に、待機した歩道橋からひとりひとりが駅の正面玄関中央の柱へ走る。そして、柱を背にして、いざ駅頭歌唱のテストが始まる。
「皆さん、おはようございます。わたくしは、東京は、株式会社〜〜から参りました廣瀬保雄と申します。只今より、訓練歌唱『セールスがらす』を歌います。よろしくお願いいたします。
♪ひたいにー、あせしてー、つくっうーったものはー、ひたいにーあせしてーうらねーばなーらぬー♪……」
 うたい終わって拍手をする者など一人もいない。『ああ、またやってるー』という迷惑そうな眼差しばかりが全身を射抜く!子どもが寄って来て、
「おじちゃん、なにやってんの?」
と言ってくれればまだましな方なのだ。
 そして、歌い終わると、駅前のターミナルで「検死役(?)」に当たっている試験官が、合格なら腕で○を作り、不合格なら、腕をクロスした合図を送ってくる。その時のわたしは、一回で合格したが、それと言うのも、ちょうどわたしの番の際に運悪く右翼の街宣車がターミナルでがなり始めたのだ。負けん気の強いわたしは負けるもんかとばかりの大声を張り上げ歌い通したのが、試験官の同情を誘ったらしいのである。今思えば。ばかばかしいほどに、ばかばかしい話である。

 規律の下での二週間の共同生活では、隠し切れない人間模様も展開した。厳しい訓練なので、弱い精神の人間が異常を来たさないようにとの配慮はなされていた。豪華な食事と、所定の場所での飲酒の許可であった。酒どころではないと暗記モノを覚える者が多かったが、わたしは毎晩所定の場所の食堂へ通った。同じ班にお馴染みさんが二人いた。飲んで、実感を共有したが、彼らはとても苦しんでいた。
 一人は、ナイトクラブのマスターであった。なにが辛いと言って、いつも就寝に付く午前四時がここでは起床時間であること。訓練が始まって三、四日はまともに睡眠がとれなかったと嘆いていた。確かに、見て入られないほどによたよたとなっていた。が、その彼は四日目には泥のように熟睡し、五日目からはエネルギッシュなマスターを取り戻していた。
 もう一人は、この訓練が、職場での処遇の試金石とされていると哀しい実情漏らす年配の男だった。卒業できなかったら、退職届を持って来るよう、暗に仄めかされているという二重の地獄にはまっていたのだ。だが、彼は見事卒業にこぎつけた!ものだった。

 わたしにとってのこの二週間は、必要な知識と、不必要な知識を振り分ける篩(ふるい)であったとともに、知識が、あるいは知識人が何を避けてはいけないかを実感レベルで教えられた時間帯であったかもしれない。
 多分、今でも存在するこの学校でのカリキュラムは、時代の変化とともに模様替えされているはずである。当時の内容は、おそらく現在の若い世代とはあまりにもミス・マッチなものであろう。
 情報や知識がますます貴重視される時代ではある。だがしかし、最終的にそれらに花開かせるのは、人間であることに何の変わりがないことも事実である。そして、それが実感としてわかった時には、累々とした時間が過ぎ去っており、手が出しようがない手遅れを感じるのが人生なのかもしれない。
 若いときには、買ってでも苦労すべしのことわざに、1パーセントだけでも思いを寄せて見るのは、決して損にはならないかもしれない……(2002/01/30)

2002/01/31/ (木)  知識たちの失意と悔恨、そして虚しさ!

 知識は、皆が寝静まった寒い深夜、コタツに入り物憂い気分でとっくりを傾ける時、言い知れない虚しさに、思わず咽び泣きそうになるのだった。
 「こんなはずではなかった。初めて自分が、小学校一年生のこくごの教科書に、派遣社員の身分で出向いた時のことだったなあ。みんながキラキラした眼差しで見つめてくれ、うれしくて目頭が熱くなったものだった」と、懐かしく回顧するのだった。
 そのような時、大したことを披露したわけでは毛頭なかったのである。
「さくらが咲いた。きれいに咲いた。ポチ、ポチおいで、さくらの花の、花びらきれい……」(だったような気もするし、全然デタラメのような気もしないでもない。まあ、このこと自体が、当該の主たる問題ではないので大目にみてやってください。)
 でも子どもたちは、わたしを尊敬の視線で見つめ、あどけない声で読み上げてくれた。そして、『あたしは、こんなふうな知識をうんと、うんと勉強するんだあー。』と誓ってくれたりした。中には、『ポチ、ポチおいで』を『ボチ、ボチいくべえ!』なんぞと、教科書に落書きするすねたガキもいないではなかったが、まあそうした個性ある、主体的な受けとめ方も、わたしらへの大切なアプローチなのですよ、と頬を引きつらせながら教えてあげたものだった。

 しかし、そんな楽園は長続きしなかった。わたしらには、天敵がいたのだ。わたしらをひっ捕まえ、わたしらの自尊心をなぶり、わたしらをだしにして金儲けだけを目指すギョーシャが後を絶たなかったのだ。情けなかった。キラキラ光る子どもたちのつぶらな瞳を、ギラギラと血走る点取り虫の節穴に変えていったギョーシャたちの、そのバチ当たりの仕草が、歯軋りするほど、悔しかった。
 そんな時、不吉な予感が背筋を走ったものだった。この国で働くわたしらは、結局、徒労の挙句、換骨奪胎され、似ても似つかぬ姿に追いやられてゆくのではないか、もしくは、身に覚えのない濡れ衣を着せられ廃棄されるのではないか、という哀しい末路の予感だった。
 さらに、わたしらの羞恥心が耐えられなかったのは、ギョーシャ制作の参考書や問題集だけではなかった。「セーフ・カンコーブツ」なる味もそっけもない活字に変えられる時などは、ただただ白紙に戻りたいとさえ念願したものだ。わたしの仲間には、もっとひどい仕打ちを受けたものもいた。「コッカイ・トーベン・ショ」なる原稿に担ぎ出された際には、わざとバカになってリベンジしてやろうかとさえ思ったという。『事態の推移を見守り』とか『慎重な検討』とか『やぶさかではない』とかの、ほとんどわけのわからない字句が無理やり挿入される陵辱は、ご先祖さまに申し訳なく、死して詫びたくなったという。
 わたしたちのふるさとも、今では「つわものどもが夢のあと」となってしまいました。えっ、ふるさとってどこかですって?決まってまんがな、大学でんがな!(あれっ?急に関西バージョンになってもうたがな……)
 わいらを衣替えさせんと、着た切りすずめのままで講義されるセンセもセンセでっけど、わいらにとんと関心を示めされへんガクセイはんたちも、せっしょなもんですわ。一時期から会社はんが、大学の教育は信用せんで企業内教育でしばると言いはったんも、えらいわかりますわな。

 わたしらの切なさ、いわば「友がみな、我よりえらく見ゆる日よ、花を買ひ来て妻としたしむ」なる心境は、わたしらの友人である詩だとか、短歌だとか、俳句だとかがマイペースそのものでやっている姿を見る際、頂点に達するのです。
 正直言って、ひところのわたしたちは彼らを馬鹿にしてました。『近代、現代、今日は、タラタラと主観にはまり込んでる場合なんかじゃないぜ!事実の客観性、主観排除のクールな知識だってばさ!』とね。
 しかし、わたしらは何と浅はかであったのでしょうか。と言うか、人間なるものを買いかぶっておりました。「人間は考える葦である」との言葉を、真実一路に過信していたようです。
 だって、いまどき、考える人なんていないじゃないですか!このサッカー熱を思えば、「人間とはボールを蹴る足である」とは言えてもですよ!なに言ってるのか本人もわかりませんが。ことほど左様に、考えない人が多くなり、その分もっともらしい切れ切れの知識で代替しちゃおうとするさもしい人ばかりだ、と言うそんなひがみの観測が、じわじわとわたしらを支配し始めているのでございます。真っ暗闇じゃございませんか。さびしいご時世じゃございませんか。

 「 くどくどと、飲めば深まる悔いと愚痴 」( ちしき )(2002/01/31)