「鳥のさえずりが聞こえた時、立ち止まって注目する」ようでありたいと、詩人松永伍一氏はエッセイで述べていた。「常に心に何かを感じること、謙虚に生きる事の尊さ」をメッセージとしたいと願う同氏ならではの思いであろう。
先ず現代人にそんな余裕はないだろうと思った。しかし、命あるものにとって当然のことに違いないなあとも思った。都会のすずめや鳩の動きに注目するのは、歩き始めたばかりの天使のような幼児に限られてしまうのが寂しい。
自宅の周囲は比較的緑が多いためすずめばかりではなくいろいろな野鳥たちがやってくる。さえずりの声は早朝の薄明になるとおびただしい。つい先日などは、トイレのために起きた夜明け前の四時頃に「かっこう」の鳴き声が響き渡るのさえ聞こえたものだ。
野鳥の鳴く声を聞くと、何を表現しているのだろうかと思ってしまう。人間の赤ん坊よりも小さな脳なのだから、空腹や恐れなどの訴えなのか、それとも求愛なのか、ひょっとしたらより高等な水準で「今日はいい天気でやんすよ。まあ、今日も一日張り切って行こーや!」などと親方クラスの鳥がリポビタンDのような音頭をとっているやもしれない、と。
野鳥たちのひたむきに生きる姿、シンプル・ライフでやっているその姿を目にすることは、自分が生きていることの実感を無条件に与えられるような気がする。数え上げれば切りがない悩みを抱えていようが、いまこの時点で、彼らとともに生命の途上にあることをそれとなく知らされるのがうれしい。そうもいかないのだが、ややもすればこの事実以上に何をぜいたくを望むことがあろうかと、聖人君子の心境もどきにさせられる場合だってなくはない。
「癒し」と言うならこれが癒しであるに違いないと思える。何も、風光明媚とされる観光地に行き、すがすがしいとされる空気を吸い、のんびりするとされる露天風呂に入り、ほっぺたが落ちるとされる地元特産の食材の料理をほおばらなくとも、十分に癒されると思ったりする。そうしたぜいたくを拒否したいほどに悟ってはいないわたしではあるが。
ある宗教家が、植物、できれば大きな樹木を両手で抱きかかえれば、限りなく心が癒されると書いていた。生物は、およそ二十億年前に動物と植物に分かれた。その後植物は、自由と引き換えに不安定ともなった動物たちを、しっかりと支え続けてきたという。動物の頂点に君臨する人間の不安定な心を、植物たちはいまでも癒し、支え続けているということである。自分が、散歩の途中で見かける古木や大木に思わず関心を持ってしまうのは、そんなことが根底にあるからなのかと気を回したりした。
樹木に限らず植物たちは人の心を慰め、鎮めてくれる。なかでも樹木は確かに人間のために数え切れないほどにさまざまなかたちをとって貢献してきてくれたが、とりわけか細く揺れる人間の心を癒し続けてくれたに違いないと思う。寺や神社にある古木、宗教の源泉のひとつが山岳であることなどはこの点と脈絡を一にしているのであろう。
自宅の土地は、もともとが竹薮であったという事実を裏書きするように、この季節となると狭い庭の各所から、一日二日で細い若竹が伸びてくる。一時はなすがままにしていたが、四、五メーターも伸び枝葉が付くとめっぽう日当たりを悪くさせるので、若木のうちに間引きすることとなった。実に忍びないことなのではある…… (2002.06.01)