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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2002年06月の日誌 ‥‥‥‥

2002/06/01/ (土)  現代人の心を癒し続ける身の回りの何気ない存在!
2002/06/02/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (42)
2002/06/03/ (月)  学ぶことへの動機を失っているらしい現代の高校生たち!
2002/06/04/ (火)  赤頭巾ちゃん気をつけて!狼はあせり始めているから!
2002/06/05/ (水)  「勝ち点1」の初戦を観戦してつらつら思ったこと!
2002/06/06/ (木)  「年をとるのは知恵がついてからじゃないといけないんだよ」!
2002/06/07/ (金)  「今年のビジネスのツボは『Re〜』となると観(み)た!(2002.01.07)」再論
2002/06/08/ (土)  新たな「ソフトウェア・クライシス」にリスク・テイキングな手立てを!
2002/06/09/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (43)
2002/06/10/ (月)  「メランコ人間」たちが「切れず、悩まず、諦めず」であり続けられることを!
2002/06/11/ (火)  久々に聞く「では、お薬三日分を出しておきましょう」!
2002/06/12/ (水)  季節と自然は、人々が胸襟を開く友であったに違いない!
2002/06/13/ (木)  風邪ひいて苦しんでるのはこっちなんだ、一体今日はなんなんだ!
2002/06/14/ (金)  「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」人々はいま何処に?
2002/06/15/ (土)  「年をとるのはマイ・フェーバリット・スィングズを見つけてから……」!
2002/06/16/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (44)
2002/06/17/ (月)  「スペイン×アイルランド」戦の合間に垣間見た白日夢!
2002/06/18/ (火)  顧客側のちょっとした喜びをどう演出できるかの工夫!
2002/06/19/ (水)  「強いチームが勝つのではなく、勝つチームが強いのだ!」という表現!
2002/06/20/ (木)  経済人たちの朝一番の仕事は、文化面に目を光らせること?!
2002/06/21/ (金)  「IT革命」の構想が、おざなりに「e−Japan戦略」に衣替え?
2002/06/22/ (土)  「語り部」の達人たちが逝ったあとの、眠気を誘う退屈な時代!
2002/06/23/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (45)
2002/06/24/ (月)  ディスカウントの赤札で辱められた「型落ち」製品たちの嘆き?!
2002/06/25/ (火)  こんな時代、役に立っているはずの巷(ちまた)の二軍、三軍ソフト屋さんたち!
2002/06/26/ (水)  Linuxへの注目が示すユーザーとベンダーの相互乗り入れ効果!
2002/06/27/ (木)  週に一度くらいは「水戸黄門」に成り切る努力が必要か?
2002/06/28/ (金)  こんな時期に、国民の学ぶ意欲の足を引っぱっているのはだれ?
2002/06/29/ (土)  受信だけでは不完全であり、発進することをもって完結する情報!
2002/06/30/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (46)





2002/06/01/ (土)  現代人の心を癒し続ける身の回りの何気ない存在!

 「鳥のさえずりが聞こえた時、立ち止まって注目する」ようでありたいと、詩人松永伍一氏はエッセイで述べていた。「常に心に何かを感じること、謙虚に生きる事の尊さ」をメッセージとしたいと願う同氏ならではの思いであろう。
 先ず現代人にそんな余裕はないだろうと思った。しかし、命あるものにとって当然のことに違いないなあとも思った。都会のすずめや鳩の動きに注目するのは、歩き始めたばかりの天使のような幼児に限られてしまうのが寂しい。

 自宅の周囲は比較的緑が多いためすずめばかりではなくいろいろな野鳥たちがやってくる。さえずりの声は早朝の薄明になるとおびただしい。つい先日などは、トイレのために起きた夜明け前の四時頃に「かっこう」の鳴き声が響き渡るのさえ聞こえたものだ。
 野鳥の鳴く声を聞くと、何を表現しているのだろうかと思ってしまう。人間の赤ん坊よりも小さな脳なのだから、空腹や恐れなどの訴えなのか、それとも求愛なのか、ひょっとしたらより高等な水準で「今日はいい天気でやんすよ。まあ、今日も一日張り切って行こーや!」などと親方クラスの鳥がリポビタンDのような音頭をとっているやもしれない、と。

 野鳥たちのひたむきに生きる姿、シンプル・ライフでやっているその姿を目にすることは、自分が生きていることの実感を無条件に与えられるような気がする。数え上げれば切りがない悩みを抱えていようが、いまこの時点で、彼らとともに生命の途上にあることをそれとなく知らされるのがうれしい。そうもいかないのだが、ややもすればこの事実以上に何をぜいたくを望むことがあろうかと、聖人君子の心境もどきにさせられる場合だってなくはない。
 「癒し」と言うならこれが癒しであるに違いないと思える。何も、風光明媚とされる観光地に行き、すがすがしいとされる空気を吸い、のんびりするとされる露天風呂に入り、ほっぺたが落ちるとされる地元特産の食材の料理をほおばらなくとも、十分に癒されると思ったりする。そうしたぜいたくを拒否したいほどに悟ってはいないわたしではあるが。

 ある宗教家が、植物、できれば大きな樹木を両手で抱きかかえれば、限りなく心が癒されると書いていた。生物は、およそ二十億年前に動物と植物に分かれた。その後植物は、自由と引き換えに不安定ともなった動物たちを、しっかりと支え続けてきたという。動物の頂点に君臨する人間の不安定な心を、植物たちはいまでも癒し、支え続けているということである。自分が、散歩の途中で見かける古木や大木に思わず関心を持ってしまうのは、そんなことが根底にあるからなのかと気を回したりした。
 樹木に限らず植物たちは人の心を慰め、鎮めてくれる。なかでも樹木は確かに人間のために数え切れないほどにさまざまなかたちをとって貢献してきてくれたが、とりわけか細く揺れる人間の心を癒し続けてくれたに違いないと思う。寺や神社にある古木、宗教の源泉のひとつが山岳であることなどはこの点と脈絡を一にしているのであろう。

 自宅の土地は、もともとが竹薮であったという事実を裏書きするように、この季節となると狭い庭の各所から、一日二日で細い若竹が伸びてくる。一時はなすがままにしていたが、四、五メーターも伸び枝葉が付くとめっぽう日当たりを悪くさせるので、若木のうちに間引きすることとなった。実に忍びないことなのではある…… (2002.06.01)

2002/06/02/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (42)

 慶安三年の二月初旬のある日、江戸市中は木枯らしが吹き荒れていた。冷たい空っ風が道を往く人々の背を丸めさせている。また冬の北風は、それに加えて江戸ならではの恐怖、大火への心配をも人々の胸の内に呼び起こしていたに違いない。江戸の冬二月は不吉な前兆に満ちた季節なのであった。

 中村小平太と諏訪十三郎が、由井正雪を見限るはずの情報を手にした海念は、品川東海寺から神田へと早々に戻っていた。と言うより、上野の古寺と言うべきであった。修行寺を訪れない日々には、身分柄出費を惜しみ、野宿同然の環境である住職なき古寺に寝泊りしていたのである。
 古寺の中は、壁が剥げ落ちた隙間から差し込む月明かりだけの暗闇である。ビュービューと吹きすさぶ外の木枯らしの音がいやでも耳に入ってきた。
 海念は、ギシギシと傷んでいる床に、修行寺で使用する二つ折りにした薄手の布団を広げ、これに挟まるようにして横たわった。まさしく雨露がしのげ睡眠がとれさえすれば言うことはないと思っていた。さて明日はどのような行動に出たものだろうかと思案した。
 中村小平太殿宅を訪問することも考える。しかし、それでは、すでに神田近辺に裏長屋を借りていた十三郎への手はずが遅れてしまう。
『そうだ、正雪軍学塾がある神田連雀町にて、托鉢がてら彼らの到来を待つこととしよう。』と思い定めるのだった。やがて海念はいつしか寝息をたてて寝入った。

 正雪が講釈を始めるいつもの時刻を見計らい、海念は神田連雀町の軍学塾へと通じる木戸番の向かい側に立った。二人は必ずこの木戸番を通るはずであった。しかしもはや、知恵伊豆の密偵、林理左衛門に顔を知られた海念は、かぶり笠で顔を隠すことが必須であった。日陰の位置から、陽が指す木戸番方向に注意を向けながら海念は托鉢を始めた。
 托鉢とは、僧侶自身の修行であるとともに、「喜捨」によって人々が悟りへと一歩近づくという意味を持つ衆生の救済でもある。大通りを往きかう者たちの数少ない者が托鉢ばちに小銭を喜捨していく。
 ほどなく、懐手をしつつも隙のない足どりの十三郎の姿を、海念は左手の遠方に見てとった。海念はゆっくりとその方向へと歩み始める。
「ご喜捨くだされ」
 と海念は十三郎に話しかけ、かぶり笠を軽く上げた。
「なんだ、海念さんではないか。ここしばらくお見受けしなかったがどうなされた?」
「今日は折り入っての急ぎのお話があります。お手間はとらせません。正雪先生の講釈が始まる前に、中村殿とお二人にお耳に入れたきことがございます。中村殿がお見えになられたら、ひとつ下流の和泉橋付近にお出でくだされ。わたしはそこでお待ちいたします」
 それだけのことを、海念は口早に伝えるのだった。
「仰々しく何なのじゃあ。いつもの海念さんらしくないのう。いや、わかった。和泉橋だな?中村殿をその木戸番近くでお待ちしてとにかくうかがおう。しかし、妙な海念さんじゃのう」
 十三郎は、首をひねりひねり木戸番方向へと歩いていった。

 和泉橋は、大川に流れ込む神田川に掛かる橋で、万世橋のひとつ下流方向にあった。連雀町から万世橋ではあまりに近すぎて、軍学塾関係の人目につき過ぎると思えたからなのであろう。
 やがて、和泉橋近くで托鉢をする海念を、十三郎と小平太は見つけた。二人はいそいそと海念に近寄るのだった。
「海念さん何事ですか?」
 いぶかしげな顔つきとなった中村小平太が、ことの文脈を察してか幾分ささやくように言った。
「急なことで申し訳ありませんでした。」
「まあ、それは良いとして急ぎの用件とは何事でござる?」
「先生の講釈が始まる時刻でしょうから、手短に申し上げます。本日、もしくは一両日中に、知恵伊豆が放っている密偵、林理左衛門と申す浪人者が塾にて不穏な動きを仕出かすとの情報をつかみました」
「な、なんと!」
 十三郎は思わず大声を出した。小平太が、十三郎の袖を引きそれを諌めるのだった。
「して、その不穏な動きとは?」
「正雪先生ご研鑚の『蝦夷地大開拓案』を塾生たちの面前でこき下ろすとのことでございます」
「なんだ、左様なことか。不穏なと申すから拙者はてっきり刺客かと思うたわ」
 十三郎はあきれるような素振りをした。しかし、小平太の顔は曇っている。
「『蝦夷地大開拓案』をな…… 何か仔細がありそうですな」
「もう暇がないでしょうから、後ほどゆっくりとお話したいと存じます。それで、お願いしたきは、本日はくれぐれも目立たぬように身を処していただきたいのでございます。まかり間違っても、浪人林らの挑発で口論に加わらないように……」
「わかった。だが今、林らと言われたのう?」
「そうです。林理左衛門には人数は不明ですが仲間がいます。ほかに知恵伊豆の配下の者である奥村八左衛門という侍が、丸橋忠弥殿のもとに送り込まれております」
「えっ、まさか。あの奥村殿が知恵伊豆の?それは間違いでござる」
 十三郎が驚いた。十三郎は居合切りの腕を買われ、槍の丸橋忠弥の道場に出入りし始めていたのだった。
「いや、わかった。これだけの情報となれば、海念さんには然るべき確信がお有りなのであろう。十三郎殿、本日は海念さんのおっしゃられる通りにしようではないか。」
 不服そうな十三郎を、小平太はまたしても諌めるのだった。
「で、海念さん、後ほどの話は、拙者宅でよいかな。では、静がおるのでひと足先に戻っていてはくれまいか」
「それでは」
 そう言い残した海念は、静かにその場を離れるのだった。

 小平太宅では、静がいつもどおりに海念をうれしそうに迎えた。ちょうど、直太郎を部屋に上げ習字を教えているところなのであった。
「海念さん、やはり直さんはたいそう物覚えが良いのでございますよ」
 静が「やはり」という言葉に込めた「お武家の血筋を引いて」という含意を、当然ながら海念は了解するのだった。
「ほう、直太郎、ではこのわたしにも書いたものを見せてくれまいか」
「はい」
 直太郎は、小机の前に正座していたが、左脇に書きためた半紙を小机の上に並べた。そして、あかぎれとなった小さな手で、墨が乾いて縮む半紙を丁寧に伸ばすのだった。
「おうおう、りっぱに書けているぞ。大したものだ」
 直太郎は、満面に笑みを浮かべ胸をそらすようにして喜んでいる。
「おや?この小机は直太郎にちょうどよい大きさだなあ。このような童用の小机があるんですねぇ」
「直さん、海念さんにご説明しなければね」
「はい。この机は父さんがおいらのために作ってくれたんだあ」
「そうだったのか。これもたいそうりっぱなものだ。さすが頭(かしら)の腕は大したものだなあ」
「父さんに伝えておきます。父さんも海念さんに誉められたらきっとうれしいと思う」
「はっはっはっはっ。きちんと話すこともできるようになった、頼もしいものだ」
 静は、頭が直太郎を大川の川岸に連れて行って、亡き母の小さなお墓をこしらえたことも海念に話すのだった。その時、静もつき添うことになったとのことだった。そして、頭が直太郎に言った言葉を伝えながら、静は涙ぐんでしまった。
 頭が言ったのだった。
『お前のかあちゃんは不幸せだった。だがなあ、直は誰をも恨むんじゃねぇぞ。人を恨めば、直が腐っちまうぞ。直が腐っちまうことを死んだかあちゃんは望んじゃいねぇのさ。いいな、直は、かあちゃんの分まで元気に生きるんだぞ。父さんは精一杯応援させてもらうからな。そうすりゃ、おめえのかあちゃんの不幸せもだんだん薄らいで行くってもんじゃねぇのかな……』
 海念も、静から聞く頭の言葉に胸をつまらせるのだった。いつか自身の身の上を配慮してくれた沢庵和尚や武蔵から聞かされた言葉と重ね合わせていたのかもしれなかった。
 心が洗われるような気分となる中で、なおさらのこと、このような人たちの人生を権力欲のためだけに生きる獣たちの、その餌食などにさせてなるものかと、下唇を噛みしめる海念なのであった。 (2002.06.02)

2002/06/03/ (月)  学ぶことへの動機を失っているらしい現代の高校生たち!

 なぜこれが必要なのか?という疑問とこれに基づく視点は、学習したり、ものを理解する上で重要なことだと思っている。
 現在、技術関連のある試験を受けようとして学習中であることは、先週も書いた。まずまずのペースで進めているが、一箇所、その独特なルール[文法]がよく飲み込めない箇所があり腐心し続けてきた。
 その部分の理解のために、なぜこうしたルールがなければならないのかについての実際的必要性が分かれば理解が深まると予想していた。手元の参考書には、皆目その疑問に応える説明がなかったのである。しかたないので自分自身で試行錯誤を重ねてみた。すると、このルールがないと、あるケースの機能が果たせないことが分かった。そして、その点を考慮してその周辺を考え直してみると、なるほど考案者はよく熟慮したものだと感心させられたものだった。

 かねてから、人がものを認識するに当たっては、必要性を感じること、動機と言っても同じであるが、そうした主観側の状態が意外なほどに重要であると考えてきた。学習・教育の場においては、この前提の有無で成果が決まってしまうとも思える。対象に対する強い動機があるなら、そしてそれが対象の個々の各論部分にうまく振り向けられるならば学習進度と成果は望ましいものとなるはずである。
 ところが、多くの学習・教育の現実は、この点を決定的に軽視していると観測できる。 たとえば、「何々スクール」と呼ばれる民間の教育機関での実態を推測してみるとだいたいのことが分かろうというものである。一体、オリエンテーションとか呼ばれるはずの学ぶことへの動機づけのための時間は如何ほど準備されているだろうか。受講者がとにかく「いきなり実践!」を望むものだからという理由で、そんな時間は無視されている場合が多いのではないだろうか。
 また、動機づけというのは言ってみれば、かなり高度な教育なのであるが、そんなことのできる講師を見いだしがたいという実情もあるのかもしれない。そんなこんなで、動機づけは受講者各自が入学前に済まされているもの、受講者たちはテクニック的な部分のみを教わりにくると見なされているのであろう。教育機関も、こう見なした方がラクに決まっているのである。受講料を先取りしてしまえば、途中で挫折するのは当事者の自由というのが実態だと思えてならない。

 今、これらに関してより関心を向けたいと思っているのは、先週であったか報じられた教育ニュース「高校生、自宅勉強『ゼロ』が半数」という「日本青少年研究所」調査結果なのである。「勉強時間は『ほとんどしない』が、中国では4%、米国で27%なのに対し、日本は51%で際立った。中国では『4時間以上』が12%あった。」とある。
 そして、同研究所は「日本では勉強しても仕方ないと考える生徒が増えたようだ。中国の長さは、大学受験の厳しさの表れだろう」と見ているという。「勉強しても仕方ないと考える」という点が事実だとすれば、高校生たちはかわいそうな動機づけをされていると思わざるを得ない。もちろん、受験目当てだけの学習意欲という状況にも問題は指摘されようが、だからといって「日本は『思い切り遊んだり、好きなことをしたりする』『自分の趣味や特徴を生かす』が多かった。」となる現状は寂しいものがある。
 「『将来のことをしっかり考えるべきだ』という生徒は中国56%、米国43%に対して、日本は30%と低かった。」という事実にも目を向けるならば、現代のわが国の高校生たちは、生産的な芽が出ようもない刹那主義にはまり込んでしまっていることだけは事実であろう。

 大きな憂えを感じざるを得ない高校生たちの動向ではあるが、要するに学習への動機づけについての無風状態の中で、課題を先送りにしているのだと言えそうだ。ただでさえ学ばぬ者に寛容ではなくなってゆくであろう「構造改革」の時代が始まろうとしているのだから、きっと将来悪いコンディションの中で学ぶ必要性に遭遇することになるに違いない。少子化となり、やや競争が緩和されるとしても、その分変化がより激しくなっているゆえに、学ぶ機会が減少するはずはなかろう。
 みすみす若い自由な時間を無駄にすることはないという気がしないでもないのだが、要するに人は必要性を感じた時が勝負時なのだから、是非もないといえば是非もないのだろうと感じている…… (2002.06.03)

2002/06/04/ (火)  赤頭巾ちゃん気をつけて!狼はあせり始めているから!

 最近は再び鮮明な夢を見るようになった。たぶん、なけなしの頭脳をそこそこ酷使しているからであろうか。まあ、眠っている間にも楽しみがあるということは悪くはないと思っている。
 一昨日であったか、何とトーク番組の出席者となって、自民党の特質なんぞを述べて、同席者をなるほどと唸らせていた。その直後に目覚めたのだが、われながらなるほどと唸ったものだった。

 現代のような変化の激しい時代には、むしろ主義主張を引きずる政党の方が辛く苦しいものではないか、体系的に一貫しようとすることが至難のわざである時代ではないか、と夢の中のわたしは主張していたようだ。そこへゆくと、自民党は「表向きでは」そういうものはなく、あたかも柔軟であるかのように振舞っている。隠しようがなく一貫しているのは政権政党にしがみつく「保身」主義であろう、と夢の中のわたしが主張しているのである。(「聖人君子にも夢に責任はない」ということわざがあったようだが、今これを援用させてもらおうと思っている。)
 だから、新しい環境変化に対してある程度追随しやすい自民党は、結構、主義主張を持たない時代迎合的傾向の大衆からそこそこ票集めをしてしまうのではないか、と「おっしゃっていた」のである。そうしたら、司会者が、
「それは意表をついた発想ですな」と喜び(どうも田原総一郎氏のようでもあった)感心していたのだ。また、十メートルほど離れたディレクターかなんかが、腕で大きな丸を作り、その点をもう少し突っ込むようにとの合図を送ってきたのであった。が、そこで目が覚めたのである。

 一見、誰でも考えそうな発想ではある。ただ、どうもこの辺の問題については、自身多少気にし続けてきた問題であることは確かである。主義主張の代表格、イデオロギーというものが廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:明治初年に、神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などが仏教を排撃した運動)のように、捨てられ、忘れられようとしているのが現代のようでもある。捨てられようとしているのは、イデオロギーに限らず理念や思想や世界観についても同様だと思える。漠然としたムードと場当たり的な機能主義がことのほか影響力を発揮している時代のように見える。
 また、人々はただただ新しさに向かう環境変化に速やかに対応することに精一杯であるかのようにもうかがえる。だとすれば、そうした変化に、そこそこ照準を合わせてゆきさえすれば、あまりものを深く考えない人々や、ただただ分かりやすさに反応する人々から、相応の賛同を得てしまう可能性があながち否定できない時代なのかもしれない。不正や極端な政策選択などで生活感を逆撫でしないかぎり、小難しい議論を拒むのが普通の人々なのであろう。他方で、とかく主義主張に支えられたブロックの人々は、正確に考え、緻密に主張しようとするものだから、発言が難解になりがちな点が損をするのではないかとも思える。
 現に一時期の小泉人気の背景には、このような文脈があったのかもしれない。だが、今やはり、時の政権は頭に乗りすぎて、国民の生活感を平気で逆撫でする自民党のもうひとつの「本性!」を、徐々に現し始めてきたと思われる。

 福田官房長官、安部副官房長官による、「非核三原則」宣言軽視の発言が問題となっている。この発言は、言うまでもなく、日本人の「核アレルギー」解消を狙った常套手段なのであり、これまでにも試されたことがあったように記憶している。
 人は、最悪のテーマを口にされ、耳にすると禁断の聖域の問題と感じてきたこと、タブー視されてきた問題を、日常的レベルの考察のテーブルに載せてしまうのである。たぶん、小泉人気が、初期のヒットラーほどの高レベルであった頃に、自民党がこれまでに出しようもなかった法案をこの時期に一気に出そうと計画されていたのであろう。今なぜという文脈が分かりにくい有事法制などに目を向けるとそう思わざるをえない。
 ただ、予測に反した人気低迷の早さに狂いが生じ、有事法制を通りやすくするために、さらに過激な核兵器保持の問題をジャブとして出してきたのが真相ではないかと直感するのである。この機を逃しては、この常套手段も使えなくなるとするならば、一かばちかで出そうとしたものに違いない。
 官房長官たちの発言が言葉のあやと言った偶発的なものであるはずがないのだ。かれらの発言に前後して、右翼の街宣車が「日本は核兵器を持つべし!」なる垂れ幕を掲げて走り回っていたのも目撃されている。また、昨今、頭が良いから爪を隠したタカ派の中曽根氏がマスコミに再三登場して、速やかなる各法案の成立を促そうとしているのも気になるところだ。こうした動きを総合的に把握するならば、政権政党が、小泉人気の低迷にあせりを感じていることが手にとるように伝わってくるのである。

 赤頭巾ちゃんたちは、気をつけて!やさしいおばあさんに化けた狼に早く気づき、取り返しのつかないことにならないように…… (2002.06.04)

2002/06/05/ (水)  「勝ち点1」の初戦を観戦してつらつら思ったこと!

 昨日は、やっぱり「日本×ベルギー」戦を職場のテレビで観戦してしまった。
 正直言ってここまでの加熱ぶりにややへそを曲げていた。が見ていたら、やろうとしていた作業を脇に押しのけさせるほどに引き込まれてしまった。まさに接戦を演じ、おまけに引き分けの「勝ち点1」までゲットしたことで、ワケの分からない安堵感にとにかく包まれた。それというのも、なんだか現在の国民的風潮は、初戦から惨敗の結果に終わろうものなら、集団自決でもしかねないような凹んだ雰囲気が充満しているように感じていたからだ。みんながウァーと叫んで、お祭り騒ぎして忘れちまいたいことが満ち満ちているように思っていたからだ。

 オールド・ジャパニーズは、あたかも、ベルリンオリンピック(1936年)の女子水泳200メートル平泳ぎ決勝で、日本の前畑秀子とドイツのゲネンガーが激しいデッドヒートを演じた際の河西三省アナウンサーによる「絶叫放送」を思い浮かべたものだった。
「 前畑がんばれ、がんばれ前畑。ゲネンガーが出ております。危ない、がんばれ、がんばれ、がんばれ、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑がんばれ、前畑がんばれ。リード、リード、あと5メートル。前畑リード、リード、リード、勝った、勝った、勝った、前畑勝った。前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑優勝です。前畑優勝です。」(現代のセンスには、ちょっとしつこさとくどさの観が否めない)
 もちろん、リアルタイムでこの放送を聞いたわけではない。歴史資料として伝聞的に知っているのだが、ワールド・カップで活躍することの難しさが、オリンピックで日本人が優勝することが難しかったこのエピソードと奇妙に重なっただけである。
 ちなみにこの年には、「ニ・ニ六事件」、「日独防共協定締結」ときな臭い出来事が始まり、いわゆる「準戦時体制」が進行し一気に軍国主義日本へと駆け上って行った年なのであった。現在の政治の動向と類似点がなきにしもあらずであるが、考え過ぎと思いたいものだ。

 素人の目から見て、サッカー観戦で気づかされることは、どんな状況でシュートが決まるのかという点だった。
 変なたとえをすれば「抜け駆け!」と「競り勝ち!」に大別できると思えた。
 「抜け駆け!」の状況とは、両メンバーの大半が中央ゾーンに残された配置状況で速攻的にゴールへと切り込む選手がシュートするケースのことであり、「競り勝ち!」の状況とは、コーナー・キックを受けてのヘディングによるシュートのケースを指している。
 こう考えると、なんだかビジネスの勝ちパターンと酷似していることに気づく。「抜け駆け!」シュートとは、意表をついた新製品リリースや技術でオンリーワン的に勝ち組みとなるような場合である。マイクロソフト社などがこれであろうか。
 他方「競り勝ち!」ヘディング・シュートとは、端的に言って価格競争である。同業者が接近戦でもみ合いながら、背丈と跳躍力(中国生産力活用のコストダウン!)を最大の武器とする勝利である。PCメーカーやユニクロや、昨今では下北沢の低価格眼鏡販売業者などがこれに当たるであろうか。
 いずれの場合も、超スピードの動きとタイミングが決め手となっていることは共通している。もちろん、ネットワークの緻密さについても共通課題のはずである。
 こう考えると、やはりサッカーは現代人を興奮させるだけの根太い基本要素を秘めていると見える。
 それにしても選手たちには、技もさることながら、超人的な持久力が要請されているに違いないと推測する。あれだけ広いエリアを四十分×2を全力疾走し続けるのであるから。ビジネスにおいても、一発勝負ではもたず、技術変化、環境変化に応じて継続的にファイトし続ける持久力がどうも大きな課題となっているようである…… (2002.06.05)

2002/06/06/ (木)  「年をとるのは知恵がついてからじゃないといけないんだよ」!

 「年をとるのは知恵がついてからじゃないといけないんだよ」(シェークスピア『リア王』の中の道化の言葉。シェークスピア研究第一人者小田島雄志氏による紹介)という言葉に唸らされてしまった。
 年をとると自然に知恵がつくかのように見なされてきたが、そんなことはない。苦労をすれば知恵が生まれるというのもあやしい。自然に身につくかもしれないのは悪知恵だけであろう。知恵ある年寄りは、歳月の結果ではなく、当人の生き方における切磋琢磨(せっさたくま)の賜物であるに違いないのだ。そうしてみると、シェークスピアの言葉は逆説的に真理をついている。しかも、知恵なくしては耐えられないであろう人生における老いの辛さを無造作に鷲掴み(わしづかみ)しているとも言えよう。

 遺産相続問題の渦中にあるある叔母と電話で話をしている時、
「こんな年になったら、こんな低次元の問題でいつまでも煩わされたくないもの」という言い回しがあり、耳に残ったのだった。それが自然だと思う。
 老いても現役で益々活躍というのもあって悪くはないとは思っている。しかし、老いを感じ始めたら、やはりそのことに対してしっかりと対峙すべきなのかもしれないと感じている。老後の経済的不安の解消も大事ではある。確かに残念ながらこの点の不安が今の日本では、中高年者のみならず若い世代にまで影を落としている。文明国でありながら、この点への不安の解消を軽視している政治は話にならないと言える。

 老いへの備えは、経済的問題だけではないと考えている。いや、経済的問題はとりあえず鋭く人々を悩ませる問題ではあるが、同等の比重もしくは優るとも劣らない重みの問題があるように感じている。それは、冒頭のシェークスピアが道化に言わせた「知恵をつける」という言葉と共鳴する何かであるように思っている。
 言っておけば、この世を如才なく、小利口に処してゆくというレベルの頭の働きを知恵といっているわけでは毛頭ない。むしろ、この世にあらざる世界、生命の終わり、死をも眺望した視野で改めて生き始めるということかと考えている。
 昔の人々は、宗教や、制度(隠居制度ほか)などの文化によって、しっかりとこの知恵づくりに時間を費やしたと見える。だが、現世至上主義、科学万能、死の観念の「放逐・隔離」を特徴とする現代は、ややもすれば人が永遠に生きられるかのような錯覚を与え、誰にでも訪れる死への対応姿勢の問題をいつの間にか棚上げしてしまったようである。何の説明も宣言もなくである。だから、そうした問題に関わってきた文化が衰退したし、また知恵の中味も、現世、此岸(しがん:仏教でいうこの世)のみを対象とした頭脳活動に限定されてしまったに違いない。
 私見ではあるが、知恵とは生きているものが、当然訪れる生命の終わりをも直視しながらものごとを感じ、考えることではないかと思っている。すべての存在に終わりがあることを熟知することで、透徹した心境を得て理に叶った選択をしてゆくことが知恵だと、そう思えるのである。

 わが国には、「枯れる」という味わい深い言葉があった。「わび、さび」という世界に通じた、ある意味では人生のひとつの到達点なのかもしれない。
 ところで昨今のわが国では、頭髪だけが「枯れた」エグゼクティブが、フラッシュを浴びながらやたらに「詫び」ることが流行っているのだが、これも現世至上主義の現代ならではの現象なのであろうか…… (2002.06.06)

2002/06/07/ (金)  「今年のビジネスのツボは『Re〜』となると観(み)た!(2002.01.07)」再論

 とにかくコスト削減を追求している企業が多い。大方の企業がそうだと思えるが、どちらかと言えば大手企業にその傾向が強いという印象さえ受ける。いろいろな取引での値引き依頼によってもうかがえるのだが、PC部品関係で破格の値とした中古をしっかりと探して購入していただくようなケースには同情と共感の念を禁じえない。
 売れ筋の新製品開発部門は別なのであろうが、一般部門はさぞかし予算が低空飛行の対応を余儀なくされているに違いないと推測させられる。

 ところで、この時期やはり中古製品がそれなりに注目されているようだ。もともと、不景気な時期は中古物件に関心が寄せられるという傾向があり、これまでも指摘されてきた。ただし、ものやジャンルによって異なるのは当然であろう。新製品が低価格で性能アップしている状況のジャンルでは中古市場への関心は薄まるに違いない。
 いわゆる「成熟」した商品、つまり完成度がほぼ頂点近くに達し、画期的な付加価値がつけにくくなった商品、多少の修理で十分使えるような頑丈な商品、機能・コンテンツ優先でモノ自体は使い捨て的な商品などの関心度が高く、その種の商売も成立しやすい。
 思いつくままに挙げれば、中古車ディーラー、業務用厨房用品、ゲームソフト(著作権問題も一応クリアしたようだ)、中古本(『ブック・オフ』)、カメラ、住宅、PC&パーツなどであろうか。

 つい先日、半導体製造装置関連のある会社の社長と話していて、なるほどという事実を知らされた。われわれもそうした事実の関連業務に携わったことがあるので、うすうす気づいてはいた。
 現在、国内の半導体製造事業は未曾有な低迷状態に陥り、主要メーカーのリタイア、業界再編が展開されている。つまり、何億円もする半導体製造装置が身売りされる事態が生じているのである。また、特殊な用途でこれらに目をつけるメーカーもあるのだ。ここに中古装置の売買と、改造やメンテナンスというビジネス・チャンスが発生してもいるのである。
 これまでにも、半導体製造事業は浮き沈みが激しいため、新規参入企業の工場ごとのオーナーが替わる事態を見たりしてきた。しかし、現在は業界全体の再編というドラスティックな環境変化の中で、装置という中古製品が流動する動きが発生しているようなのである。
 おそらく、半導体製造事業に限らず、建設業を始めとする不況業種、また空洞化傾向で前途が危ぶまれる製造業全般などの今後の動きは、業務用の中古資材の流動化を推し進めるのではないかと予測される。
 こうした中古資材を資本にものを言わせて売買する業者が出没するのであろうが、もうひとつ注目できるのは、そうした中古資材が安全かつ有効に再利用できるための修理、改造、メンテナンスの事業だと思われるのだ。
 ただ、いずれも古い装置・資材であるところから、これらのノウハウを持った「古い」(?)技術者の存在もまた不可欠になるのではないかという気もする。

 こうした中古製品の市場化は、その種のメーカーの製造・販売を何らかのかたちで抑制させてしまう影響も生み出すのであろう。現に、米国でのIT不況直後には、情報通信関連資材の中古市場が、確実にコンピュータやケーブル類のメーカーの不振を増幅したと聞いている。
 ただ、多くの資源を結集させた高価な資材がただ廃品とされてゆくとしたら、それはとてつもなく地球資源の浪費となってしまうに違いない。新製品でなければならない分野も当然あるのだから、中古製品でも差し支えない用途には相応に再利用されることが望ましいのではないだろうか。 (2002.06.07)

2002/06/08/ (土)  新たな「ソフトウェア・クライシス」にリスク・テイキングな手立てを!

 もう十年以上前になるのであろうか、「ソフトウェア・クライシス」という話題があった。米国の信頼筋が報じたのだが、ソフトウェア技術者の需要増が当時のまま推移してゆくならば、西暦2025年には世界の人口と同数のソフトウェア技術者不足が発生するだろうと推定されたのだった。その警告的報道もあってか、日本のソフト業界は急速に膨らんでいったものであった。技術者については、質もさることながらとにかく量的不足をなんとかしなければならないという空気が支配的となり、ソフト会社は社会的ニーズに応えるべく、新人の採用を大きな課題としたものだった。だが、この問題の現在は一体どうなっているのだろうか。

 当時は、コンピュータも大型汎用機が主流で、COBOLというプログラム言語がなお健在な時代であった。それ以降ソフト関連分野も、PCを始めとするハードウェアの急激な変化、MSウィンドウズの普及、そしてネットワークやインターネットの普及、さらに新たなプログラミング言語やそれを促した「オブジェクト指向」というアーキテクチャーの浸透など目まぐるしい変化が押し寄せてきた。
 そしてこの時期、労働環境の過酷さも加わって、そうした技術変化についていけない技術者たちがかなりの量となってドロップアウトしていったようだった。また、金融関係のオンライン開発の波も過ぎ、バブル崩壊後の経済全体の低迷状態が、ソフト業界から大量の技術者たちを離れさせた事情もあっただろう。

 だが、90年代半ばからのPC、MSウィンドウズ、インターネットという画期的環境に注目するかたちで、ソフト業界も新しいステージで興隆して行くかに見えた一時期もあった。米国のITを梃子にした経済回復という宣伝が広がり、わが国も不況脱出はこれに限るとばかりに、例の「IT革命」なる言葉に過剰な期待がかけられた時期である。いわゆるITバブルが起こったのである。かつて、ある種の技術者たちの脳裏に蠢(うごめ)いていたであろうソフト開発に託された一攫千金という夢が、再度到来したかのような華々しさが垣間見られたりもした。
 だが、そのバブルもはじけてしまい、経済全体の不況感が強まる中で、IT不況なるものまでが追加されて今日に至っている。

 たぶん現在、多くのソフト業界はもはや不況に強い業種とは言えない苦しい局面に遭遇し始めているのだろう。一部の特殊技術や高度なスキルを保持した企業は、まさしく「ソフトウェア・クライシス」さながらの技術者不足のはずであろうが、多くの企業は他の業種と肩を並べ暗澹たる経営状況となっているのかもしれない。
 われわれも他人ごとではない不安を抱いている。だが、もっと不安視せざるをえないのが、わが国のソフト業界全体の人材の問題だろうと思っている。
 あれだけ「IT革命」なる浮ついた言辞を巻き散らかして、その時期でさえさして前向きな人材育成方針が出されていなかったのだが、まして「IT革命」の言葉さえ死語となったかのような現在では、技術者育成の問題などは本気では懸念されていない雰囲気を強く感じてしまうのである。
 誰もが気づいているように、これから生じるソフトウェア技術者不足は、かつての「ソフトウェア・クライシス」とは決定的に異なるのである。つまり、ハイ・スキルで、強靭なパワーを持った技術者こそが大量に不足する事態が訪れると予想される。一時期のような人海戦術に加わった技術者もどきは、とうてい用をなさない高度な技術環境が拡大しているからである。

 こうした、新しい次元での「ソフトウェア・クライシス」に直面しようとしている現在、否定的材料が多過ぎるように思われる。いろいろと懸念すべき点がある。そのひとつ、高みを築くには、広い裾野の底辺が必要となるといえるが、現在不足している技術者は、ハイレベルな層であるだけでなく、新規参入者でもあるのではないかとの危惧を感じている。
 一時期は、ソフトウェア技術者への若い世代の憧れも強かったものだが、たぶん現在は労多くして報われない辛気臭い職種と見られ始めているのではなかろうか。また、本当に優れた才能を持った若い人たちは、海外を目指している動きもありそうだ。
 日本経済の回復は、少なくとも情報技術関連業種が牽引役とならなければほかに何の展望もないはずである。にもかかわらず、そうしたジャンルの将来的人材の問題をどの程度真剣に考えている政府なのだろうか。考えている、やっているなどというレベルでは問題にならないのである。他のウェイトを下げてでも特別対応しなければならない課題なのである。それが、時代を切り開くリスク・テイキングな政策だと言える。教育分野の予算削減を口にする現政府などは、将来を何も心配しない政府だと言わざるをえない…… (2002.06.08)

2002/06/09/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (43)

「ええい、黙れ! 言わせておけば先生に向かっての悪口雑言三昧、黙っては見過ごせぬ。おもてへ出られよ」
「よかろう」
「まあまあ、お静まりなされ」

 いつもどおりの軍学講釈、『老子』の原典講釈が終わった際の出来事だった。質疑応答で立ち上がった受講者のうちのひとりの浪人が、正雪研鑚の『蝦夷地大開拓案』に疑義、いや不満と非難をぶつけ始めたのであった。
 その浪人はみずからを林理左衛門と名乗っていた。浪人林の言わんとすることは次のようであった。
『正雪先生の講釈どおり、幕府の浪人政策は理不尽そのものである。その点については何の異論もない。確かに、浪人の多数はかつての反徳川の家臣であった者たちであろう。だが、勝敗が決して数十年も経つ現在、その遺恨を残すかのような冷遇の措置は天下を支配しながら、幕府の狭量自体を示すものとしか言いようがない。そうした非寛容で強権的な御政道は、却って天下の不安を誘うだけである。その点において、正雪先生による幕府の御政道批判は痛快そのものである。
 だが、「蝦夷地大開拓案」は一見おびただしい浪人たちの窮状を救う妙案のように聞こえながら、それはあたかも泣く子をあやす子供騙しにしか過ぎぬ。正雪先生は真にこの案をご研鑚されているのであるか。これは、塾生集めと、幕府の目をそらすための羊頭狗肉なのではありますまいか。
 拙者の思うところを申すならば、時の幕府がただでさえ不穏な輩と見なす浪人たちを、たとえ遠隔の蝦夷地とはいえ一箇所に結集させるような危険この上ない方策を是認するとでもお考えなのか。それとも、正雪先生は蝦夷地開拓が成ったあかつきには独立国でも旗揚げされる深慮遠望でもおありなのか。
 拙者は、失礼ながらこの「蝦夷地大開拓案」なるものは先生の真意を隠す隠蓑(かくれみの)だとご推察申し上げる。古来より、蝦夷地は人の心を誘う地でありましたのう。かの判官義経(ほうがんよしつね)が生き延びたとされてきたのも蝦夷地であった。蝦夷地とは、夢と芝居の世界なのではござらぬか。つかぬ事をお尋ね申すが、先生はあの蝦夷地へ訪れたことがおありですかな。海も凍てつくと言われる蝦夷地の冬もご存知であるのか……』
 これまでの聴講者からの質疑にはこのような辛らつな発言はなかった。だからこそ、講釈する正雪を守るように最前列を占めていた親衛の門下生たちが抑えきれずに威嚇の挙動に出たのであろう。

 いつもよりやや遅れて講堂に入ることとなった中村小平太と諏訪十三郎は、最後列に座を占めていた。質疑を始めた浪人が林理左衛門と名乗った時、二人は背筋をぞくぞくとさせ、思わず顔を見合わせ頷き合うのだった。海念から事前に聞かされてはいたものの、いや聞かされていたが故にむしろ事態の進展がずっしりと重くまた生々しくも感じられたのだった。二人は固唾を飲んで前方を見入っていた。
 正雪は、その場を何とか鎮めようとするようであった。さすがと言うべきか、手馴れた風と言うべきか内心のほどはさておき、顔色ひとつ変えない素振りを押し通している。
「各々の方々、ご静粛に。なかなかの手厳しいお話でござった。林殿と申されましたな。林殿のお尋ねは、二つの点に絞られるかと拝聴いたした。その一、拙者の『蝦夷地大開拓案』なるものの信憑性について、そしてその二は、拙者の真意がどこにあるのかという点。いかがでござる、林殿」
「まあ、そういうことでござろう」
「ではご返答申し上げつかまつる」
 そうした勿体をつけて場を運ぶ正雪の処し方は、落ち着きを印象づけるとともに、何か見え透いた印象を与えていたようでもあった。
「『蝦夷地大開拓案』が幕府の賛同を得がたき方策だと仰せである。不逞の輩が一箇所に集まると不善を為すとの根拠でござったな、林殿」
 林理左衛門は大きく頷いているのが、中村小平太と諏訪十三郎たちからもよく見えていた。ほかにも二、三人の聴講者たちの頷きが確認できた。小平太は、海念の言葉を思い起こし奴らが林の仲間なのだろうと思っていた。
「これに関しても二つの点をお話申そう。まず、軍学上の問題として眺めた時、敵が一箇所に終結している場合と、全国各地に分散しその所在も掴めぬ場合とではどちらが厄介だと判断でき申そうか。確かに、孫子(そんし)の兵法では多勢の敵は分散させた後に各個撃破すべしとあるが、それは敵の所在が確認できてからの話でござろう。要するに、幕府にとってはどこにどのような意図をもって潜むか掴めぬ現在の浪人たちの所在の方が、蝦夷なら蝦夷に集結してくれるよりもはるかに脅威だということなのである。したがって、『蝦夷地大開拓案』を幕府にとって危険だと見る推測は必ずしも妥当だとは思いがたい。いかがかな、林殿」
 今度は、講堂内の多くの浪人たちが頷いていた。林らは苦々しく正雪を睨んだ。
「次に、幕府にとっての蝦夷地、いや未開拓地の問題についてである。もし拙者が幕府側の者だとするならば、長期的な展望ではいずれ蝦夷地を開拓、開墾しなければならぬと見なすであろう。もしこの時代に手がつけられなかったとしても、必ず将来その必要が出てくるに違いない。
 して、そこで行き着くのは、誰にそれを為さしめるかという難問となるであろう。林殿もご存知のように蝦夷地の天候は想像を上回る過酷さであり、その面積も広大である。したがって膨大な数の開拓者が必要となろう。しかも、女、子どもでは間に合わず、身体に覚えがありできれば後ずさりできぬ立場や信念などを持つ者たちが最良なのである。拙者なら、現在その身を持てあましてもいる浪人各位を推してはばからぬ立場を採るであろう。もし、時が過ぎ時の流れが浪人たちの数を自然減少させていった場合、これほど的確な任の替わりを見出すのは至難の業となるのではないかとな」
 そこまでを正雪が言い放った時、最前列の門下生の何人かが、したり顔をして林理左衛門を振り返った。浪人林は憮然とした素振りをくずさなかった。
 正雪は、いつもの講堂の空気を回復し得たと感じたのであろうか、その応答に次第に熱を込めていくようだった。
「さて、二つ目の質疑、拙者の真意がどこにあるのかという点でござる。林殿は、『蝦夷地大開拓案』は隠蓑であって、浪人救済や幕府の御政道批判の真意は別に潜ませているのではないかとの仰せでござった。拙者には、林殿が何を指しておられるのか見当がつき申さん。林殿、林殿は何を想定されておられるのであろうか。できればお聞かせいただければ話は早いと思われるが……」
 突然正雪から切り返されることとなった林理左衛門は一瞬うろたえるのだった。が、やがてすくっと立ち上がった。
「ならば、お尋ね申す。正雪殿におかれては、『蝦夷地大開拓案』は誠に幕府が賛同の運びとなると確信をお持ちであられるのか。そしその実施はいつのことでござるか。三年、五年の先では間に合わぬのではござるまいか。さぞかし、ここにおられるご同輩諸氏の窮状はもはや限界に達しているとご推察する次第でござる。」
 この言葉には、講堂内にどんよりとした共感の波を走らせる力があった。そしてこの空気を追い風としようとするように林理左衛門は言葉をついでいった。
「たとえ正雪殿が、『蝦夷地大開拓案』を表看板として別の真意を秘められておられたとしても、それをこのような場でご披露なさるとはどなたもお考えではないと存ずる。ただ、正雪殿がそこまでご執心な『蝦夷地大開拓案』が、理と礼を尽くしても叶わぬ際には、その際には何かご対応をお考えなのかどうかをお聞かせいただきたい。武士として幕府に対して一矢報いるご覚悟が正雪殿にはおありなのかどうかだけでもお聞かせくだされ。それをお聞かせいただければ、五年が十年でも耐え忍べるというものでござる。
 正雪先生にご無礼な言葉の数々を吐き、誠に恥じ入っておりまするが、これも浪人各位の明日をも知れぬ境遇をおもんぱかってのこと、何ともお許しいただきたい所存でござる。」
 そう言い切ると、林理左衛門は一礼を残し屈託ない様子で座すのだった。浪人林が意図したものであったのであろうか。波風を立てた林ではあったが、それらを許容し、共感さえ呼ぶような奇妙な空気が講堂内を支配することになってしまったのである。そして、正雪がこの成りゆきに何らかの締めの言葉を与えざるを得なくなっていたのだった。
 中村小平太と諏訪十三郎は、思わぬ事態の推移に息つく暇がなかった。小平太は、林理左衛門の小細工ながら事の運び方のそつなさにあっけにとられる思いを抱いていた。ただ、単純にも十三郎は林理左衛門に拍手さえ送りたい心境に陥れられていたのだった。
 正雪は、目を伏せ腕を組み、そして耳だけは講堂内の空気を模索する窮地に追い込まれていた。そしてやがて口を開くのだった。
「兵は詭道なり。この孫子兵法の言葉にて拙者のすべてをご了解されたし」 (2002.06.09)

2002/06/10/ (月)  「メランコ人間」たちが「切れず、悩まず、諦めず」であり続けられることを!

 梅雨前というのに、まるで真夏のような日照りと暑さが続いている。すでに満開となった紫陽花が、拍子抜けの顔をしているようで、ふと気の毒な感じがしたものである。天候までが狂乱気味となっているのであろうか。街はずれに散歩に出ると、田に水が張られ田植えが完了した背の低い苗がかわいらしく並んでもいた。いくらなんでももう梅雨入りがあってよさそうだ。今週の週半ばほどからは梅雨らしく雨が降るとの予報が出ているようではある。

 意に反する事態というものが、世の中ではつきものである。この、度はずれた経済の低迷続きを、そのように感じ、ストレスやガスをためてしまっている人々も多いに違いない。経営難で悩む経営者、実入りが減ったりリストラ不安にもさらされているサラリーマン、めどが立たないような就職難に遭遇している学生たちなどである。
 そんな文脈で、このカラ梅雨で拍子抜け顔の紫陽花を見つめると、こんな時紫陽花たちは、何をどう感じているのだろうかと思い入れしたりしてしまう。きっと、人間ほどのこだわりもなく、さり気なく受け流しているのかとも思う。

 人間のタイプには二種類あって、自己のアイデンティティに執着するタイプと、無節操でなんでもとにかく外界に順応していくタイプである。意に反する事態に遭遇した際、どちらのタイプが苦しむであろうかといえば、断然前者だと言われてきた。
 前者は、自己にこだわり、マイベストを尽くし、それが思うようにならない場合、自己を責めるというタイプだからである。几帳面で完全主義な傾向が自身を縛り、自身を苛む(さいなむ)結果をもたらすと目されている。当面の課題を突破して勝利を得る可能性を秘めるとともに、激しい鬱(うつ)状態にはまり込む可能性も大だというわけである。
 これに対して、後者のタイプは自身で考えるよりも先に、外界(マジョリティ!)に目を向け、それに同調して問題を回避しようとする傾向が強い。自己の一貫性などに執着しないので、「スイスイスーダララッタ、スラスラスイのスイ!」と難局を切り抜ける。いや端(はな)から難局なんてものが意識されないと言ってもよい。現代は、こうしたタイプが俄然増えているらしい。

 かつて、米国の社会学者リースマンは、前者を「内部志向型」人間、後者を「外部指向型」人間と呼び、マス・コミュニケーションが肥大化した「大衆社会」の到来ではマスコミに過剰同調していく「外部指向型」人間が支配的となると分析した。資本主義成立期の社会構造であった近代市民社会のような、自律した個人が自由と責任を尊重した時代と較べ、マス・コミュニケーションによって操作されていく大衆たちの時代を「大衆社会」と特徴づけたのであった。この特徴は、たぶん現在も引きずっていると思われる。
 最近、これら二つのタイプ、人間像を、「精神分析」の視点でおもしろくまとめた著作を目にした。和田秀樹著『コイズミ、マキコ、ムネオ……ビョーキな人たち 永田町「精神分析」報告』がそれである。
 前者を躁鬱(そううつ)病的な要素の強い人として「メランコ人間」(melancholic type 鬱!)、後者を自己統合失調症的な「シゾフレ人間」(schizophrenia 精神分裂!)と名づけた上で、「コイズミ劇場」の政治模様を「永田町」事情とこれとリンクした一般国民事情の両面で描いているのだ。小泉純一郎を「『超自我』に縛られたガチガチのメランコ人間」と称したのは言いえて妙であった。田中真紀子を「父の『役者』の部分だけを引き継いで『乖離性同一性障害』の傾向が」とぶつけているのもなるほどもの。鈴木宗男は「自己愛が満たされずに来た『虎の威を借る狐』」だそうだ。石原慎太郎まで「尊大さの裏側に隠された傷つきやすさ」という形容をいただいている。
 こうした政治家たちは、おおむね「メランコ人間」であり、これを支えたり足を引っ張ったりするのが、自分は動こうとはせず、ただひたすらカリスマやメシアを待望し、飽きたら捨てるという「シゾフレ人間」としての一般大衆だとおっしゃっているのだ。

 こうした二つの人間タイプをめぐっては、いくらでも書きたいことがでてくるが、当面の関心事は、「内部志向型」人間、「メランコ人間」たちのストレス解消法、ガス抜き法に向かってしまうのである。社会的に見てより正常に近いと信ずるこのタイプの人たちが、如何に「切れず、悩まず、諦めず」であり続けられるか以外に、われわれ人類の未来は描けないと思われるからである…… (2002.06.10)

2002/06/11/ (火)  久々に聞く「では、お薬三日分を出しておきましょう」!

 風邪をひいてしまった。微熱もあり、のどといい、頭といい尋常でない痛さが収まらない。今日は仕事を控えることにした。
 ところで、なんとなく釈然としない気分でいる。人ごみの中へ外出した覚えもないし、身近な人で風邪気味だった人も記憶にないからである。しかも、W杯戦のシュートのように、もの凄い速攻で落とされてしまった。昨日の夜までは、ほんのちょっとのどがいがらっぽいかなと思う程度であった。ところが、今朝目覚めると、120%悪性の風邪そのものになっていた。
 近くの町医者へ出向いた。裏通りのつきあたりで、近辺の民家と馴染む建物、いかにも町医者という佇まいである。自転車置き場にはすでに多くの自転車が留めてあった。待合室には、いずれも元気のなさそうな(あたりまえだが)患者が順番を待っていた。高齢者が多かったが、勤め人ふうの男性もいた。風邪薬をもらいに来たに違いないと、推測していたら、やはり窓口で「これがのどの抗生物質で、この小さいのが……」と看護婦から薬を渡されていた。
 振り返るに、ここへは自分で風邪と診断した時以外には来たためしがない。しかも、市販の風邪薬では収まりそうもないと判断した時である。抗生物質に頼るのは好ましくないと自覚してはいる。しかし、市販の薬で長期戦となり、胃を荒らすのも考えものだと思うとここへ訪れる。そして「では、お薬三日分を出しておきましょう」といういつものなつかしい結語を聞くことになるのだ。

 薬をもらって帰ってきてからも、前述のなんとなく釈然としない気分が続いていた。
 思い当たることを、薬を飲んで横になりボーッとした頭で振り返った。
 まず十分に考えられるのが、この一週間の体力消耗である。天候が良かったこともあり、毎朝通常より3時間も早く起床してジョギングふうの散歩を始めたのだった。一昔前ならばどうということもないことが、昨今では思わぬ体力の異変をもたらしかねないのだ。
 近ごろの風邪は、明らかにウィールスがもたらすものである。どこかで、感染したのに違いない。しかも、体力を消耗していた時だから、抵抗力が落ちてひとたまりもなかったのだろう。
 だが、どうしても感染源(ちょっとおおげさだが)が特定できない。今、ひそかに疑っているのは、先週週末にかよった歯医者と、昼食で利用する中華店くらいである。
 確かに昨今の歯医者では、患者ごとに道具類を消毒済みのものと交換はしている。が、気にしていると、あのドリルのような道具のフォルダーまでは交換していないのであり、それがややもすると唇や口内に接することがあるといえばあるのだ。今、時期的な点から言えば、この歯医者での状況を最も疑っている。
 次に、疑わしいのは、中華店である。ほかにすることもないので、オーダーしたものが出されるまで、見るとはなく厨房内の店員たちの動きを見つめたりする。マスクをしていない。髪の毛こそあの背高帽子で隠してはいるが、わたしのよく行く中華店の店員はマスクはしていないのである。また餃子をこしらえたりした手が、しっかりと洗われるというのではなくなんとなく処理されているように見えた。

 風邪の感染源が歯医者での治療時ではないかという疑念は、例の社会問題視されている「院内感染」に触発されているかもしれない。つねづね思ってきたのだが、病院という存在を治療・清潔というイメージで勝手に信じ込んではいけないはずだろう。とにかく、健康を損なった人々が結集する場が病院なのであり、そして健康を損なった人体はウィールスなどの格好の乗り物であるからだ。
 しかし、ウィールスがどこにいるかという問題もさることながら、体力や抵抗力を維持してそれらを寄せつけないことがよりかしこい手立てであるのは間違いない。警戒すべきは、病原体だけではなく、現代では異常な社会現象も多々ある。それらによって、いたずらに毒されない精神的なタフネスもまた重要なのであろう。見事に風邪に毒されてしまった人の言うせりふではないが…… (2002.06.11)

2002/06/12/ (水)  季節と自然は、人々が胸襟を開く友であったに違いない!

 ようやく梅雨めいた天候になった。
 風邪をひいて体調も気分も低迷する時、このくらいのどんよりして落ち着いた天気の方が似つかわしい。ここしばらく続いた真夏もどきの激しい明るさと暑さでは、妙なプレッシャーを受けるところだったに違いない。

 天候と気分とは、たぶん相応のつながりがあるのだろうと思う。日本の各地の地域性とは、結局、特異な天候によってもたらされたものではなかろうか。個人的な経験で、接してきた人たちを振り返ってみるとそれなりに感じるものがある。
 沖縄の人たちは、概して楽観的でのんびりしているようだった。あの暑さと眩しい光の中では、悩むという精神集中さえ難しくなるのではないかと思えた。東北、北陸の人たちはじっくり構える気風だろうか。都会中心で勝手にこしらえた標準テンポというものを、堂々と度外視できる悠長さがあるようだった。
 その地の天候とその地の人々の気風を、単純な関数関係で推し量るのは無理があるにしても、天候を主たる関数として、地形、歴史、経済、交通、文化などなどを副次的な関数とするならば、そこそこ精度の高い県民性が見い出せるのかもしれない。

 こう考えると、日本自体の地域性、国民性なるものも天候との関係で考え得ると言えそうだ。何と言っても日本の天候の特徴は、明瞭で期間もほぼ等しい四季のサイクルなのだろう。たぶん海外の国々にも四季の変化はあるに違いないが、わが国ほどに各々の季節が等しい比重を持つ国もめずらしいのではないのかと推測する。
 加えて、四季の季節に呼応する動植物などの自然環境が各季節に彩りを与え、季節の移りゆきに繊細に反応してゆく日本人の感性、気風を形成させたのであろう。

 これに関してふたつの感想を持つ。ひとつは、必ず繰り返される明瞭な四季のサイクルは、日本人の感性に「回り灯篭」的な構造を与えたのではないかという点。つまり、季節と同様に、人間社会の出来事や歴史もある周期で「繰り返す」という思いを生んだのではないかと思えるのだ。
 いいことも悪いことも、「巡る」ものと考える。植物に見られるような生命の再生をどこかで人間にも適用している気配がある。絶対的な終焉、死が、動物たちが被る絶対的運命のイメージで受け容れられるのではなく、枯れてもなお翌年には復活するという植物的なイメージで相対化され受け容れられてゆく気配を感じる。
 現在の経済的不況についても、いまだにバブル期の再現をも含めた過去の隆盛レベルの回復が可能ではないかと、心の奥底で信じる日本人がこれらの証左なのだろう。

 ふたつ目は、国中に拡大された都市生活で、人々の感性から季節感が失われ始めている現象である。NHKのニュースが、その時その時の各地の自然や風物を伝えても、じかに受け止めてこそ感じるような季節感がおいそれと蘇る(よみがえる)ものではないだろう。都市生活中心主義の文化からは、確実に人々の季節感は希薄となってゆき、季節感とともにあった日本固有の文化もまた忘れ去られる運命なのだろう。

 すでに、日本各地の都市や町の固有な姿は、均一的な都市化路線推進の中で消失したと目されている。確かに、どこへ行っても「金太郎飴」の図柄のような風景しか見られなくなってしまった。
 季節や自然状況をしっかりと味方にして固有な文化をつくり、その中で生きてきた人々は、今なにを胸襟を開く相手として生きているのであろうか…… (2002.06.12)

2002/06/13/ (木)  風邪ひいて苦しんでるのはこっちなんだ、一体今日はなんなんだ!

 「お薬三日分!」が効を奏さず、激しいセキがまたぶり返してしまった。昨日は職場に戻ってどうということもなかったのだ。抗生物質が症状を一時抑えていただけだったのだろう。また職場にいるとどうしてもいつものようにタバコをふかしてしまうのでよくなかった。他の社員にうつしてもまずいと思い、今日は自宅で作業をすることにした。

 雨の中、追加の薬をもらいに出た。すると、自宅の斜め前のアパートの駐車場で自転車を倒し、その傍で中年の男が鈍い動作で立っていた。鼻から眼鏡をずり落とし、当惑した表情だ。倒れて頭でもぶつけたのかと心配したものだ。
「どうしました?お住まいは?」と訊ねて、顔を覗き込むとうっすら赤い顔をしていたのがわかった。
「酔っぱらってるの?」と聞くと、
「少しね」と、その男はしどろもどろの口調で応えた。なんだ、馬鹿馬鹿しいと思ったが、倒した自転車を自転車置き場まで運んでやった。
「濡れるから、早く部屋へ戻ったほうがいいよ」
 男が、通りから良く見えるアパートの二階へ向かう階段を一、二段上るのを見とどけ、わたしは医者へ向かった。
 ところが、医者は、毎週今日の午後を休診としていた。明朝の診療時間帯を確認して、しかたなく戻った。

 自宅近くまで戻った時、なんと先ほどの中年男が、アパートの階段の一、二段付近で手すりにつかまったまま雨に打たれているではないか。ああ、そうか泥酔していて階段さえ上れなくなっているんだな、と察した。
「部屋はどこ?連れてってやるよ」
 男は、酩酊してぐるぐる回る闇を見ていたのであろう目を開け、上方を指差した。安堵の表情が見えた。
「手すりにつかまってるんだよ」と言いながら、両脇の下を両手で持ち上げるようにして、その男を二階の廊下まで運んだ。
「で、部屋はどこなの?」
「ここ」と、男は角の部屋のドアを指した。ドアのノブに手をかけて回そうとしていたが、どうも鍵が掛かっているようだった。
「自分で鍵掛けて出たんでしょ?鍵は?」
「…………」
 男は、何を考えてかガチャガチャとノブを回し続けている。
 まあ、これで大丈夫だろう、あとは自分で部屋に入るだろう、と思った。
「じゃ、行くから」と言った。階段を降りようとして階段を見下ろすと、落ちたら大怪我だ! という危惧の念が湧き上がってきた。振り返ると、男はノブを掴んだまま、額をドアに押しつけてかろうじて立っているありさまだった。階段への危惧が現実となりかねないと思えた。
「鍵、ポケットに持ってるはずだよね」
 男はきょとんとした顔つきをしていた。酔っ払いのポケットに手を入れることまでしたくはなかった。が、見回すと雨で濡れた白いジャンバーの右ポケットに、うっすらと鍵ホルダーのようなものが透けて見えた。
「ここにあるんじゃないの?」
 右手をそのポケットに差し込んだ男は、小さな革製の鍵フォルダーを掴み出した。
「あるじゃないの!どれっ」
 じれったく思うわたしは、それを手にとり、三、四個の鍵の中からドアの鍵らしき形状のものを選び出し、鍵穴に差し込んだ。ドアが開いた。突如、一人住まいの男のむさ苦しい部屋の内部が、目の前に広がった。男は、礼を言うでもなく、頭から足元までびしょびしょとなった姿のままで、台所を通り、奥の部屋へと消えていった。後姿にどこか安堵感めいたものが滲んでいるようにも見えた。これで、寒くなって酔いがさめた時には、なにも覚えていないに違いないと思った。
「着替えないと風邪ひくよ」と、わたしは男の背中に言い残し、階段を降りた。

 風邪ひいて苦しんでるのはこっちなんだ、一体今日はなんなんだ、そんなわけのわからない徒労感をみやげにして、わたしは帰宅したのだった…… (2002.06.13)

2002/06/14/ (金)  「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」人々はいま何処に?

 カー・ラジオから聞こえた番組で、昨今の消費者金融がらみで身動きの取れない地獄に落ちている人々の話題があった。最近では、夫の収入のダウンで、ちょっとした家計のショートを穴埋めをしようと消費者金融に手を出し、悪循環にはまり込む主婦層が増えているそうだ。ラジオ番組は、そうした破綻者の相談にのったり、救済しようとするボランティアの人々の話題であった。まさに、「弱きを助く」人たちの心温まる話だった。

 しかし、鳥瞰してみると、現代はまさに「強きを助け、弱きを挫く」風潮に満ちた世の中となってしまっている。「構造改革」を錦の御旗にして、弱者切り捨てを敢行する現政権は、その風潮を完璧に増幅していると見える。
 現在、街中のいたるところに「無人」で稼動する装置を備えた消費者金融スポットが空々しく鎮座している。TVでも、消費者金融によるえげつないCMが野放しにされていて、良識ある人々の顰蹙(ひんしゅく)を買っている。
 自宅近くにもそうした一角があり、通りかかるとたいてい一台や二台のクルマが駐車している。かつては、草ぼうぼうの空き地とされていた奇妙な形の土地で、余談だが、わたしは犬の散歩をさせていて、ここで捨て猫を拾うはめになったことがあった。そんな土地でも、街道に面しているだけで消費者金融スポットとされてしまったのだ。
 あちこちにあるこうしたスポットを、どうもわたしは地面のあちこちに作られる「蟻地獄」そのものだという印象を受ける。働き蟻たちの疲れた足どりをねらい、滑り落ちたら抜けられないすり鉢型の仕掛けの蟻地獄そのものではないか。

 確かに、当面の手元不如意で困る人たちへのヘルプだと、CMでも謳っているし、そうした面があることまで否定はしない。しかし、「無人」という過剰とも思える営業的配慮をしているのはどうかと思う。本来、借り入れ、借金とは、返済計画への熟慮とワンセットで行われるべきものであろう。借り手、貸し手の双方がである。利子を商いとする以上法的にもそれが当然の前提ではないのだろうか。ところが、返済計画、返済能力を等閑視(とうかんし)する、させるかたちで貸し付けを進めるというのは、法律的に言えばうすうすわかっていながら知らぬふりをすることの罪である「密秘の故意」(みっぴのこい)に限りなく近いと観測できはしないか。

 こうした金融の法人向け版は、「まち金」とも呼ばれている。これもまた、この不況の中で苦しむ中小零細企業を助ける振りをして、逆に引導を渡す結果を導いているようである。弊社にも、しばしばDMが舞い込むが、最近はニュービジネスよろしくカタカナ社名を名乗ったところも多く、どう名乗ろうと結構なのだがリアルな実態と乖離させるのはどうかと思う。名は体を表すふうの社名がいいと思えるが。
 こんな経済状況だから、切羽詰っている中小零細企業が多いわけで、頭ではマズイとわかっている経営者がパニック状態で手を出してしまうのであろう。消費者金融と同様に繁盛しているそうである。

 消費者金融やまち金が繁盛している現状は、銀行を中心としたオーソドックスな金融がまともな機能を果たしていないことの証しだと考えたい。あいも変わらず、デフレによって膨張した不良債権で首が回らない銀行は、まともな貸し付け業務が実施できないのであろう。まさか、こうした金融業者に融資してさもしい金融もどきに加担してはいないと思いたいものだ。

 野放しの資本主義、市場主義というものは、「利を求め、リスクを回避」するのが大原則なのだから、不思議でもなんでもなく必然的に「強きを助け、弱きを挫く」ことと表裏一体の関係になるはずである。
 だが、弱き一般大衆による消費者需要が一向に伸びずに、デフレが深化して、不況が泥沼化しているのは、「強きを助け、弱きを挫く」路線のしっぺ返しではないのか。最も多数者である弱き一般大衆が安心して消費できるようにすることが、この泥沼からの唯一の脱出口であるに違いない。そのためには「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」発想が、単なる正義感の問題から合理的な経済学の要諦としてとらえ直される必要があるような気がしてならない。少なくとも、「構造改革」という念仏を無責任に使ってわけのわからない政治状況をつくり出している小泉内閣は、大事な時期を浪費させずに一刻も早く終焉すべきだと願ってやまない…… (2002.06.14)

2002/06/15/ (土)  「年をとるのはマイ・フェーバリット・スィングズを見つけてから……」!

 とうとう風邪で一週間を棒に振ってしまった観がある。
 身体の各所の痛みはともかく、風邪薬を飲み続けると意識が不鮮明となり、集中できないのが辛い。時間を浪費しているような気分となって情けなくなってしまう。
 仕事を休んだりするため、のんびりといろいろなことに思いを至らせることができるのではないか、との部外者の想像も働こうが、とんでもない誤解である。中途半端に朦朧として、散漫となった意識で為せることは狭く限られてしまうからである。要するに、眠ること以外に大して生産的なことはできないということなのである。

 体調を崩すとどうしても弱気になるものだが、ふと、年をとるということはいろいろとハンディが増えてゆくことなんだな、と思い至ったものだ。
 確かに、若さゆえのハンディというものもあるとは理解している。身体がうずうずとしてじっとしていられない年頃というものがあったはずだ。そんな時期は、じっと座って読書したり、思索することを確実に妨げたものだった。
 だが、年をとるとなんと言っても肉体的ハンディが表面化してくる。それらによって根気が続かなくなったりして、やるべきことが妨げられたりすることが予想される。さほど読書をしない人が、老眼が進みうっとうしくなると、完璧に読書や文字を読むことから離れてしまったという話をよく聞く。大工作業などを好んでしていた人が、四十肩、五十肩で腕を上げるのも辛くなって、好きな作業から遠ざかってしまったという話も聞くところだ。

 先日、シェークスピアの言葉である「年をとるのは知恵がついてからじゃないといけないんだよ」について書いた。これにならった表現を次のようにすべきかと思う。
「年をとるのは、たとえ老化による身体の不具合が生じても、そんなものにめげないほどにのめり込める対象を作ってからじゃないといけないんだよ」と。
 老化による身体の不具合の発生で、消極的な生活に追い込まれて、最終的には寝たきりとなるのは、限りなく先送りしたいものである。たとえ、老眼が進んでも、好きな読書はやめられるものかと、分厚い老眼鏡を掛けて、まるで棟方志功の版画彫り作業のように読書する根性を持ちたいと思ったりする。
 とことん眼が悪くなったら、音声ソフトを活用して、口述入力してでも文章が綴りたいと思うようでありたい。カメラにしても、車椅子に乗りながらシャッターを切るようでありたい。
 そんなふうであるためには、身体に不自由がない幸いな時期を無為に過ごさず、賭けて悔いのない対象にどっぶりと嵌り込んでおく必要があるのだろう。いや、老後のためになどという目的的である必要はないかもしれない。現在の衝動に禁欲的にならなければいいだけのことだ。

 こう考えると、定年退職後に好きなことを始めるとか、昔の人が口にしていた道楽は一人前になってからするものとかいう発想は、やや実情にそぐわないと思えたりするのだ。そんな時期には、老化による不具合の集中砲火を浴び、まあ猫の背中撫でてじっとしてるかとならないとも限らないからである。
 団塊の世代も、あと十年もすればりっぱな年寄りとなるだろう。そこまで年をとる前に、老後資金を蓄えるのもいいけど、年寄りのハンディなんか全然苦にしないほどのマイ・フェーバリット・スィングズを探し出しておくべきなんだろうな…… (2002.06.15)

2002/06/16/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (44)

 冬、二月の夕刻は日暮れが早かった。今で言えば午後五時前であっただろうが、もう日没が近い暮れ六つとなっていた。
 中村小平太と諏訪十三郎は、両国広小路を夕日を背にして両国方面に向かって歩いている。神田連雀町から小平太宅の馬喰町へ戻ろうとしていたのだ。
「中村殿、それにしてもあの浪人林理左衛門とやらは、なかなか気合の入った御仁でありましたのう。拙者は好感を持ちましたぞ」
「…………」
 十三郎の言葉に、中村小平太は沈黙を返した。十三郎は、小平太に一歩遅れて歩きながら、独り言のようにさらに言葉を継ぐのだった。
「確かに、拙者も叶うことなら蝦夷にて一からやり直してもみたいと思うてはおる。だが、どうも心の奥底でそんなことは夢だと思ってきたような気がしている。正雪先生の言葉を信じようともしてきたのだが、どこかで、現実感が伴ってこなかったのだ。
 ところが彼奴(かやつ)は、多くの浪人たちの心境をぬけぬけと言ってのけおったわ。そればかりか、われらの心の奥底に蠢(うごめ)いている心底消しがたい怨念をしっかりと指さしおった。確かに、確かにその通りなのじゃ。いかにきれい事を言ったとて、真に重みのある思いはそれしかない。
 彼奴は、とうとう正雪先生にもそのことを認めさせおったわ。大した奴じゃ」
「十三郎殿、そなたは林理左衛門の素性を念頭に置いた上でものを言われておるのか」
 いままで黙っていた小平太が、業を煮やすように言葉を吐くのだった。
「林理左衛門の素性とは? ああ、海念さんが言っていた知恵伊豆の密偵ということですか。しかし、密偵であろうがなかろうが、さほど関係がないのではあるまいかのう」
「なんという、軽軽なことを仰せじゃ。よいか、彼奴は知恵伊豆の命を受け、正雪先生を、そしてわれらをけし掛けておるということがわからぬのか。」
 十三郎は俄然不服そうな顔つきに変わった。
「彼奴が密偵だとしたら、なにがどうだというのです?」
「挑発ということじゃ」
「挑発というと?」
「わからぬかなあ。よいか、知恵伊豆は正雪軍学塾を幕府への謀反人の徒党に仕立てあげたいのじゃ。『蝦夷地大開拓案』なるものを申し出ている穏便な塾生たちであっては困るということなのじゃ。」
「なぜ、困るのじゃ?」
「だからのう、穏便であっては召し取って磔(はりつけ)獄門の見せしめにはできぬじゃろうて」
「磔(はりつけ)獄門? そこまでねらっておるかのう」
「まあよい、拙者宅にて待たれておる海念さんに、詳しい事情を聞くまでだ。で、十三郎殿、拙者はもはや正雪軍学塾へ通うことはやめることにするぞ。そなたは独り者ゆえ身が軽かろうが、拙者には娘もおる。妙な嫌疑をかけられて家族ともども命を粗末にはできんからな」
「そこまでおっしゃられるか。それでは浪人の意地はどうなると? 泣き寝入りではござらぬか」
「もうよい。そなたが命を惜しまぬのなら好きにされるがよかろう」
「…………」

「もうそろそろお戻りになるでしょう。」
 静はそう言っていれ直した茶を海念に差し出した。手習いのために来ていた直太郎は、ちょっと前にかたずけ終えて帰宅していた。
「静さん、実は今日はちょっと深刻なお話をしに参ったのです。たぶん中村殿にはおわかりいただけると思いますが…… わたしが今日なにを言おうが、どうか驚かないようにしてください」
「はい」
 静は真顔となって頷くのだった。
 やがて、中村小平太と諏訪十三郎が戻った。二人は、道すがらの話でやや気まずくなっていたようで、冗談ひとつ言うことなく無言で上がり框(かまち)をまたぎ、部屋に上がった。
「お先に、お邪魔いたしておりました」
 海念がそう言うと、小平太はすべてを省略していきなり訊ねるのだった。
「海念さん、今回の林らの話はどこで仕入れられたのじゃ?」
 海念は、その出し抜けさに一瞬とまどったものの、さもありなんと思い直し答えた。
「やはり、密偵の浪人たち、林理左衛門らの動きがあったのですね。やはりそうですか…… 最初に申し上げておきますが、もう軍学塾に顔を出すことはお控えになられた方がよろしいですね。場合によっては、江戸から離れることも必要になるかもしれません」
「海念さん、それはわかったので、話の出所をお教えくだされ」
 小平太と十三郎はともに苛立つ顔つきで海念を覗き込むのだった。
「知恵伊豆自身からです」
 海念は、膝に手を置き目を伏せて静かにそう言った。
「えっ、ど、どういうことなんですか?」
 海念は、「実は……」と言って、東海寺での一部始終を披露するのだった。
 小平太と十三郎そして、離れておとなしく座って聞いていた静も、先ずは、海念がうわさでは聞いていた沢庵和尚の、その弟子であったことに驚くのだった。それが海念の話の信憑性をより確かなものにもするのだった。
 続いて、知恵伊豆たちが浪人対策への強権的な打開策として、浪人たちによる幕府への反乱という謀略をでっち上げ、不満うずまく浪人層の出鼻を挫くという知恵伊豆ならではのたくらみについても、密談中の各々の語り口を思い起こしながら伝えるのだった。
 そして、由井正雪と軍学塾は、知恵伊豆のその目論見の生贄(いけにえ)となるべく彼らによって仕立て上げられようとしていることを話した。
「たぶん、こうした話だけをお伝えしたとしても、余りの唐突無比な類だけに絵空事として信じてはいただけないだろうと思ったのです。そこで、密偵、林理左衛門らの動きを、お二人の目で、耳でご確認いただいたというわけなのでございます」
 小平太は、先ほどから腕を組み、目を伏せながら、海念の話にひとつひとつ頷きで応じていた。が、ようやく目を見開き、語り始めた。
「これまでに、海念さんからは正雪軍学塾の疑わしさについていろいろとお聞きしてきたものじゃ。拙者は拙者なりに、正雪先生の思いを信じようとしてきた。それは、溺れる者がすがる藁であったかもしれぬ。
 だが、いまとなっては、正雪先生がどうこうではなくなった。先生が真に穏便なご政道批判と『蝦夷地大開拓案』の嘆願者であろうが、あるいは幕府転覆の謀反をお考えであろうが同じことなのじゃな。そして、今日先生は、林らの挑発に乗り、謀反の意なきことを強くは否定されなんだ。たぶん、そのとおりなのだろう。あるいは、知恵伊豆たちの権謀術策にはまっていることをも承知されておられるのやもしれぬ。勝算があり得ない成り行きを運命的に受け容れようとされているのかもしれぬ」
「ならば、今こそ正雪先生のもとに結集して、浪人が意地を見せるべきではござらんか。拙者は、いまさら命など惜しゅうなどないわ。むしろここで、死に場所を失ってはまさしく生きる屍(しかばね)同然となるに違いないのでなあ……」
 十三郎は、ここぞと思い、小平太の語りに割り込んで自分の思いを吐くように述べた。
「いやいや、十三郎殿。知恵伊豆を見くびってはいかん。以前にも話したが、拙者は彼奴の想像を絶する悪知恵と残酷さを見聞しておる。彼奴のことだから、十三郎殿が描いておられる華々しい死に場所さえ作らせない算段を済ましているに違いないだろう。
 それはそうと、海念さん。彼奴らは、正雪一味を謀反の咎(とが)で召し取ろうという暴挙を為すのはいつだと申しておるのかのう」
 海念は、やや戸惑った。保兵衛から歴史的事実として来年、慶安四年(一六五一年)の七月であることは聞いていた。しかし、知恵伊豆たちの密談ではそこまでの話は出ていなかったからである。だが、保兵衛の話の中で、「将軍家光が没した混乱に乗じて……」という言い回しを思い起こした。
「そこまでの言質(げんち)は聴き取ってはおりませぬが、将軍家光殿がご他界でもされようものなら、その直後にでも敢行されるのではと危ぶんでおります」
「将軍家光殿のお身体が悪いとのうわさは流れておるが、それほどに懸念されておるのか」
「たぶん、この先一年ほどではないかと……」
 海念は、来年の春に没する事実を思い起こし、うわさめかした表現でそう言うのだった。
「あと一年余りということじゃのう」
「中村殿は今後どうなされるおつもりですか?」
 心配げに訊ねる海念に、小平太はきっぱりと言い切るのだった。
「拙者は、いつ終わろうと悔いはないが、静が憐れでならぬ。静、後日お上から嫌疑を掛けられぬ前に江戸を離れまいか、どうじゃ、考えておいてくれ」
 矢継ぎ早に恐ろしい話ばかりを聞かされてきた静は、黙ってうつむいているほかなかった。海念は、小平太の判断にようやく安心できたのだった。
「十三郎殿は如何いたすおつもりですか?」
 海念は、幾分かの不吉な予感を感じながら、それでも訊ねた。小平太も同様の心配を感じながら十三郎を見つめている。
 十三郎は、しばし沈黙をつくった。が、やがて落ち着いた口調で意を込めた言葉を漏らすのだった。
「拙者は、拙者は知恵伊豆と刺し違えてやるのだ……」 (2002.06.16)

2002/06/17/ (月)  「スペイン×アイルランド」戦の合間に垣間見た白日夢!

 W杯サッカーは、一時的にではあれ惜しみなく興奮を与えてくれる。それはそれで、元気というものをとんと忘れさせられてしまっている日本の悲惨さに対する慰めとなっているはずだ。
 だが、ふと感じる「虚しさ」が避けられない。スポーツ界と政界との、熱気における雲泥の差が、なんとも言いようのない「虚しさ」を感じさせずにはおかない。宿題が山積して残されている子どもが、新着ゲームソフトに興じている、そんなアンバランスと似ていると言えようか。

 こんなことを考えたりする人はいないのだろうが、馬鹿な想像をしてしまった。
 競技場での観戦のように、国会や委員会では熱狂的な傍聴者がいたりするのである。傍聴整理券をめぐっては、ダフ屋まで出没したとのことである。巷間の正義感旺盛な人々、「非」学識経験者によって構成された審判員がいるのだが、政府側答弁での「オフサイド」や「ファール」をがんがん指摘して、「イエローカード」や「レッドカード」を思いのままに突きつけているのである。
 さしずめ、ムネオ議員などの証人喚問では、「イエローカード」や「レッドカード」が足りなくなるほどに連発されたりするという按配である。「レッドカード」は十枚がそろうと、自動的に議員辞職勧告となったりする。二十枚たまると、逮捕と同等の位置づけとなる。
 政府官僚による奥歯にもののはさまった答弁には、容赦なく傍聴席側から「座布団!」まで飛ぶことがあったりする。これはこれで熱意の表れとしてやむをえないことと見なされたりしているのである。

 さらに、国民による政治バトルへの関心は、なにも霞ヶ関だけではなかったりする。TVでも、BSでも同時中継がなされ、全国民の目が政治家たちの一挙手一投足、言葉と表情に釘づけとなったりする。FAXとネットによるリアルタイム・レスポンスが、会場に随時反映されたりもするのである。
 当選してしまったら次の選挙までは無為に過ごしても安泰だとみなしてきた政治家たちは、ピリピリとした緊張感に包まれるようになり、審議中の居眠りなど皆無となったとのことである。

 とまあ、競り合っていた「スペイン×アイルランド」戦の合間に垣間見た夢想ではある。しかし、こうした熱狂に近づくためには、何と言っても現在の与野党議員の政治家としてのプレイの質が飛躍的に向上しなければならないのであろう。今の国民のサッカー熱は、やはり現在のオールジャパンの選手たちの技量の高度化がもたらしているものに違いないからである。
 しかも、度重なる政治家たちによる不祥事によって、国民はちょっとくらいの政治家たちの努力では気分を直さないであろうから、政治家たちはボケッーとサッカー観戦しているのではなく、スピードとテクニックの手本をよーく見て、ここは早急なブラシュアップに全力を傾注してもらいたいと思う。無理かもしれないとしてもである…… (2002.06.17)

2002/06/18/ (火)  顧客側のちょっとした喜びをどう演出できるかの工夫!

 二度も、抽選に当たるとやはりラッキーだと思ってよいのだろうか。
 事務所の近くの中華飯店に、しばしば遅い昼食に通っている。いろいろと細かいところでサービス精神を発揮している点が好ましいと感じて、足繁く通うこととなっている。

 最近、この店では明細書の番号が100番、200番、300番の客には、金券1000円分をプレゼントしているのである。これを、わたしはこの二ヶ月の間に、二回も当ててしまったのだ。二回目は昨日のことだった。
 一度当てた時、大体こうした時間帯が100人目になるのかと、抜け目ないことを考えたりもした。せこくも、そんな時刻を見計らった時もあった。しかし、意識してそう当たるものではない。
 昨日は、まったくそんな欲目もなく、ただひたすら早く済まして仕事に戻ろうとしていた。食べ終えて、盆の脇に置かれた明細書を取り上げたら、そのシリアル・ナンバーがフェルト・ペンで囲まれ、数字は100番であった。一度目の時はなんのことやらわからなかったが、昨日は「あっ、やったあー」と小さな感動をしたのだった。
「二回も当たっちゃったよ」と、レジのアルバイトの女の子に言ったら、「ついてるんですね」と祝福してくれて、金券を渡してくれた。

 PCショップをやった頃、客寄せのネタをいろいろと考えたことがあった。そのひとつに、確か同じようなことをした覚えもある。自分がこうして当たってうれしく感じたりするところをみると、当時のお客さんもそこそこ喜んでくれていたのかもしれない。大した出費ではないのなら、こうした企画は客の固定化には効を奏するものなのだろう。
 ショップをやったことで学んだ教訓はいろいろあるが、やはり固定客をどう作り出してゆくかは重要なテーマであろう。ふらふらと訪れるお客が高額なものを買ってくれることがないわけではない。しかし、固定客が来て、談笑をして、「何か買わなくちゃ悪いなあ」と言うか言わないかは別として、小さなものでも買ってくれるのは、ショップの雰囲気作りに貢献してくれるので実にありがたいことなのである。

 固定客作りをねらったさまざまなサービスが、いろいろな店舗で実施されている。そんな中で、『ヨドバシカメラ』のポイント還元システムは成功しているようだ。定価を割り引きした上で、購入額の10%以上のポイントを次回買い物の際に利用できるようにしているサービスである。
 定価割引率を大きくして競争力を高めることもできるはずだ。それを、次回のショッピングにつなげさせようとする読みが、玄人(くろうと)の戦術なんだと頷かされるのである。財布の中のお金と同機能を果たすポイントが残っていると、なぜだかは別としてこれを早く処分しなければならないと思うようになる。店が潰れて損するとは思わないまでも、自分が忘れてカードなどを無くしてしまうのではないかという心配がないわけではない。とにかく、残ったポイントが、まるで犬が自分のオシッコで電信柱につけた匂いで急かされるように、買い物への促進剤の働きをするようなのである。奇妙なものである。
 そして、二度が三度と重なってくると、店内の商品配置が脳裏に刻まれ、ふらふらっと来店してしまう習慣もできてしまうのであろう。

 ディスカウント・セールが当たり前となってしまったご時世である。少しでも安く買いたいという衝動がこれほどまでに刺激されている時代もめずらしいであろう。しかし、それだけをねらった店舗は、閉店安売りセールを初っ端にやっているのと同じこととなる。むしろ、リピーターが訪れる仕掛けをこそ入念に練り上げる必要がある時代なのだと考えるべきなのであろう。
 薄利での多売と、豊富なリピーターの確保が、どうも現代の商売の要諦であるような気がしている。さて、現業においてはどうしたものであろうか。ポイント・カード制を始めたとしたら既存のカスタマーはどんな顔をされるだろうか…… (2002.06.18)

2002/06/19/ (水)  「強いチームが勝つのではなく、勝つチームが強いのだ!」という表現!

 W杯サッカーでは、残念ながら対トルコ戦で日本は敗退した。このゲームはデイタイムであり、もう一方はゆっくり見られるナイトゲームだったという点もあるのだろうか、「韓国×イタリア」戦が実に見ごたえのある好ゲームだったという印象を拭えない。
 韓国サポーターたちの観客席で一丸となった赤い波のもの凄さと、これにとことん呼応してゆく韓国チームの各選手たち、また伝統ある優勝候補としてのイタリアの意地と誇りが最後の最後まで激しいつばぜり合いを演じていた。特に、韓国の強烈なスタミナと、随所に表れていた勝利への粘り強い闘いは感銘を与えずにはおかなかっただろう。

 あるTV番組レポーターの言っていた言葉が耳に残った。
「強いチームが勝つのではなく、勝つチームが強いのだ!」
 語呂合わせのレトリックという気もしないわけではないが、なるほどと思わされるこれまでのゲーム模様だったかもしれない。強いとの定評があったフランスやイタリアの敗退と、日本の予選通過や昨日の韓国の粘りを見ると、そんな気がしないわけでもない。

 「強いから勝つ、ではなく、勝つから強い」という表現は、W杯サッカーという複合的な要因が絡む混戦状態での結果を言い表しているわけだが、これは現代の社会事象の特徴をも照らしているように思われる。「ガラガラポン!」(大前研一)とドラスティックに再編、再構築されようとしている現代の世界の躍動する姿が、象徴的に指し示されているようにも思えるのだ。
 従来の価値観をベースにした定評や安定という「形容」が、額面どおりに機能せず、時代を切り拓くのは、後ろ向きの「形容詞」ではなくて、まさしくリアルタイムな「動詞」なのだという印象である。何が発生するかの予断を許さない状況、新規発生的(イマージェント?)な行動、事象が、事態推移の引き金(トリガー)となっているかのような現代を、先の言葉は見事に射抜いているように見えるのである。

 世界の多くの国々でサッカー熱が高いのは、いろいろな理由があるはずだ。だが、独断的にながめるなら、どんな領域においても課題の焦点となっているに違いない、スピードを軸とした個人と組織との関係の問題に、実に示唆的でシャープなイメージを、サッカーが見事に提供している点は、有力な理由になると思われる。
 ビジネス領域における情報通信技術が駆使されたネットワーク・システムは、確かにサッカー・ゲームのスピードに十分匹敵する仕掛けであろう。だが、それらのインフラはそれで完結しているわけではない。これらを遺憾なく発揮するのは、まさしく、これらを駆使する人間チームの力量に掛かっているはずなのだ。インフラからビジネス・チャンスが自動的に生まれるのではなく、まるでサッカー・チームのような有能な人材たちのチーム・プレーにこそ成果は根ざしているに違いない。
 昨今、NHKの『プロジェクトX』の劇的なチームワークが多くの人の心を捉えていると聞いている。が、醒めた指摘をする人の弁によれば、あのように献身的な努力をするメンバーはもはや今の日本にはいないというのである。だからこそ、過去の感動的な人間模様を郷愁をまじえて懐かしがるのだと。
 確かに、終身雇用体制を放棄するだけでなく、当面の数字の帳尻合わせに向けてなりふり構わぬリストラも敢行してきた企業が、そうした侍(サムライ)たちを鼓舞して再度活躍させるのは至難の業かもしれないと思える。
 どんなに技術環境が変わろうが、「ポイント」を獲得する決め手は生身(なまみ)の人間たちのヒューマンな力量に依存しなければならないように思われる。

 ところで昨日は、「悪いから捕まったのではなく、捕まったから悪いと見なされた」という意味の強弁を吐く議員の問題も注目された。さわやかなサッカーとの次元の落差に思わず眉をしかめてしまう。だが、どんなに時代が変化しようが、こうした政治家を絶え間なく再生産し続ける土壌が、歴然としてあることも視野に入れておかなければならないようだ…… (2002.06.19)

2002/06/20/ (木)  経済人たちの朝一番の仕事は、文化面に目を光らせること?!

<本日13:00〜19:00の間、プロバイダーのサーバ補修のためアクセス不能となりご迷惑をおかけしました!>

 日本経済の先行き、いや自社の先行きを考えない経営者はいないだろう。
 そして、新聞にせよ、インターネットにせよ、経済欄を真っ先に覗いてしまう。また、技術動向も大手企業の動きをマークしようとする。当然、わが国の経済事象の源である米国の経済動向も気になるので目を通したりする。さらに、不安な政情が経済の足を引っ張っている現実から、国内政治の大局をつかもうともする。
 しかし、行動指針につながりそうなものは何もつかめない。不安と倦怠感の増幅だけが貴重な時間の見返りとして投げ返される。
 たぶん多くの経営者たち、そして時代のトレンドを先取りしたいと考える人々はこんな毎日を経験しているのかもしれない。自分自身が何よりもそのサンプルとなっていることを自覚する。

 かねてより、わが国の現在の経済不況は、単なる不具合レベルの事態ではなく根深いものだという予感があった。そんなことは多くの経済通が言ってきたことではある。
 だが、自分なりに関心を深めてきたことは、経済に構造的な問題があることは言うまでもないのだが、それに留まってはいないことにこそ注目すべきではないかという点であった。経済の問題に引けを取らない根深い政治の混乱もひとつである。日本の政治が抜本的に革新されなければ、日本の将来性ある経済の立て直しが進まないという構造があるはずだと考えざるをえなかった。
 しかし、さらに目を凝らさなければならない領域は、「文化」なのではないかと直感してきたのも事実だった。

 次のようなコラムを、ネットで目にした。
「業容が良い企業は、商品を通して社会に新しい生活文化を、情報として提供している。不況産業、不況企業の共通点は新しい生活文化の発信不足だ。新しい文化の発信がなければ、豊かな時代の競争に勝つことは至難である。(伊太郎)」<「文化情報論」/【経済気象台】/asahi.com(http://www.asahi.com/business/column/K2002061901089.html)>
 現在の経済状況に関してもやもやとしていた自分の関心の焦点が、要するにここにあったのだと再確認させられたのである。

 順調な経済情勢の時であるならば、経済に関心を寄せる者たちは、新聞でもネットでも「経済欄」にこそいち早く目を通して一日の活動のスタートを切るべきかもしれない。
 しかし、わずか先の視界さえも奪われてしまった濃霧のような現状では、目で見ようとすることが無理なのかもしれない。では、何で確認できるのか?音という手もありそうである。音とは何か?この文脈で言えば、まさしく「文化」だと言えそうな気がしているのである。
 一般消費が頑固なほどに低迷している原因は、さまざまに論じられている。将来への不安という重い原因も否定できない。そのほかに、見る人の観点の数だけの原因が指摘できるのかもしれない。
 そんな中で、今「文化」が新しい模索を始めて足踏みしているというイメージに注目したいと思っている。「文化」という言葉がわかりづらければ、さしあたって「消費文化」と言いなおしてもよいだろう。
 要するに、金が無いことも問題ではあるが、それは最大の問題ではなく、最大の問題は「夢」=「文化」的刺激が枯渇しているのだと観測してみたいのである。従来の消費を支えてきた文化に「食傷気味!」となり始めたのではないか。新たな消費を突き上げる文化的衝動が冷え切っているのかもしれない。新しい幸福論が模索される風潮とも無関係ではないのであろう。
 W杯サッカーのチームメンバーに対して、国民がこぞって振り向けた言葉が「『夢』をありがとう!」であったことも象徴的だと思えるのだ。

 米国でも、あの同時多発テロ事件後、価値観や生活文化の見直しが始まっているとの情報も耳にする。わが国でも、未曾有の大不況とその悲惨な影響で、変化を余儀なくされているのは経済のみならず、生活文化自体が大きな変化を被ろうとしているに違いないのである。そして、たぶんその変化は受身的なものに留まらず、徐々に革新的な要素も芽生えさせているのだろうと予感する。
 だから、この動きをこそ来るべき経済再生の予兆の音として察知することが、現在の経済状況を憂える者たちの課題であるように思えるのである。
 ただ、これは総論的な感想であって、この課題に各論的なレベルで応えていくには、大変なエネルギーと洞察力が必要となるはずである。

 打つ手なしのように見える状況は、きっと解答が探している地平、位相には存在せず、別の位相に潜り込んでいることを暗に告げているのではないか、という気がしてならない。
 ここしばらくは、宝など転がっているはずがない経済事象層はそこそこに眺め、むしろ「文化」的センスを研ぎ澄まして、その層の異変をすばやく察知すべきなのかもしれない…… (2002.06.20)

2002/06/21/ (金)  「IT革命」の構想が、おざなりに「e−Japan戦略」に衣替え?

 森内閣の際に盛んに強調されていた「IT革命」の構想は、政府のIT戦略本部(高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部、本部長・小泉純一郎首相)によって受け継がれているようだ。
 同本部は、1月に「我が国が5年以内に世界最先端のIT国家になる」という目標を掲げた「e−Japan戦略」を決定し、3月には、具体的な行動計画を定めた「e−Japan重点計画」を策定し、政府を挙げたIT革命の推進に向けて新たな一歩を踏み出したという。そして、この18日に首相官邸で開いた会合で、05年に世界最先端のIT(情報技術)国家になるための新しい目標「e−Japan重点計画2002」を決定したそうだ。電子商取引の推進や人材の育成など関係各省庁にまたがる5分野318項目の具体的施策を示し、デジタルコンテンツの流通促進や学校の全教室へのネット接続の実現などの目標を掲げたそうである。

 「IT革命」の構想が、米国90年代の不況克服、株価バブルにならって、日本の不況克服も「IT」産業主導型で臨みたいとした意図のもとで担ぎ出されたものであることを知る人は多い。さらに、米国およびわが国でのITバブル崩壊によって、当面の不況克服課題とは直結しえないとの見方も広がってしまった。したがって、「IT革命」なる言葉も冷ややかに受けとめられるようになってしまったのである。
 この「IT革命」構想のバージョンUが「e−Japan戦略」なのである。目を通してみると、ITに向けられた過剰な期待とその破綻という米国、日本でのシビアな現実を何ひとつ反省材料としていないことがわかる。また何の斬新な発想が見受けられるわけでもなく、相変わらず意気込みだけであることは、「我が国が5年以内に世界最先端のIT国家になる」という目標が掲げられていることが示している。「IT国家」と言うのも、高々インターネット利用者数が多い国というまことに浅薄なとらえ方以外ではないようなのである。ITが、労働生産性の向上や、人間の生活向上とどう関わっており、IT活用の真のねらいや課題がどこにあるかといった議論は希薄だと見受けられる。

 ITに関する戦略を言うのなら、やはり教育と人材育成の抜本的てこ入れが必須であるように思える。
 ITに関する重要課題は、インターネット環境のもろもろの整備というインフラ側面の課題とともに、こうした環境を積極的に活用することができる人間側の課題である言うならば「コミュニケーション革命」があると考えられる。教育に熱心な国であっても、ITの急速な発展の中では、コミュニケーションの問題がさまざまな角度から見つめ直されなければならないと言われている。

 現在わが国は、教育の現場に計り知れないほどの問題を抱えている。対話の破綻が、登校拒否や自閉症という現象で発生しているとも言われる。放課後の自主的学習量の国際的な低さ、理数への関心の低さ、日本語、国語力の低下、総じて学力の低下が問題視されてもいる。
 まともに考えるなら、こうした現実が、すべてIT環境の活用と創造の問題に直結しているはずなのである。素晴らしい可能性を秘めた技術環境は、これを創造的に活用していく「ユーズウェア」の高まりによってこそ好循環の発展が促されるのである。
 昨日は、文化(生活文化)の問題が経済発展の足元に控えていると書いたが、IT環境発展の足元には、広い意味でのコミュニケーション能力の充実と向上の課題がどっかりと横たわっているはずではないだろうか。

 それから、どうも日本人には、技術コンプレックスとでも言えるような、技術に対する誤解が大きいのではないかという気がする。「いやー、技術のことはようわかりませんわ」と同意を求めるような会話の存在もひとつの証左なのであろう。
 人間営為でありながら、何か特別な存在かのように受けとめ対応しているような気がする。技術や技術者を特別視したり、かと思うと過剰な期待をしてみたりとにかく、異端視しているようだ。明治以降、外在的なものとして怒涛のように輸入し、官による上意下達的に普及させてきたことが、いまなお尾を引いているのであろうか。
 欧米人たちのように、生活の中の科学、生活の中の技術というような、人々の日常生活と密着させなければならないのではなかろうか。技術を、「お客様のような扱い」をしていてはならないと思う。技術と生活が密着してこそ、根付きもするし、発展もさせることができるのではないか。

 それにしても、いかにも表面的で惰性的な政府の方策に関しては、株価がなんの反発の動きも示さなかった点こそが、クールに実態を示していたのであろう…… (2002.06.21)

2002/06/22/ (土)  「語り部」の達人たちが逝ったあとの、眠気を誘う退屈な時代!

 わたしは、大の古典落語ファンであり毎晩寝る際には、志ん生、円生、馬生、小さんなどのCDをイヤフォーンで聞きながらでないと眠れないくせがついている。旅行などに行ってどうも寝つけない理由のひとつは、日頃のこのくせがわざわいしていたりする。
 古典落語家たちの、まろやかな人間性をそこはかと無く漂わせる話芸に接していると、とげとげしい一日の緊張が一気にほぐされるようなのである。いつも、ひとつの話が終わらないうちに眠りに落ちているようだ。

 振り返って思い返してみると、落語家たちには大変失礼なことをしていたと思い当たったものだ。よく冗談で、眠れない場合は、いかにも退屈そうな哲学の本などを読むといつしか眠ってしまうものだと聞く。つまり、退屈が眠りを誘うということだ。上記の師匠たちから、「そんじゃなんですかい?あたしらの話は眠くなるほどに退屈だとおっしゃるのかい?」と言われそうだ。だが、それは、上に書いたようにまったく違うのである。
 古典落語は、その内容もさることながら、磨き抜かれた語り口によって、そのα波の世界へと聴衆を引き込んでゆく。その世界へと誘われることが古典落語ファンの醍醐味(だいごみ)なのであり、いわば笑いは促進剤でしかないとさえ言えようか。
 この点を認識できない不勉強な若手落語家や、考え違いの立川談志(小さん門下を離脱した)などは、好む人たちがいないわけでもないようだが、わたしの落語家リストには載っていない。

 古代には、「語り部」という職があって、旧辞(神話・伝承)や伝説を語ったと言われている。これがあらゆる話芸の元祖であり、メディア乏しき時代に重要な役割を果たしたのだろうと想像する。落語もまた漫才も、辻説法も、講談も浪曲も、浄瑠璃もはたまたあらゆる講演もここに帰着すると言ってよいのだろう。いずれも、肉弾戦で聴衆を惹き付け、事実なり情なりを鮮やかに伝達することが眼目なのであろう。

 ところで、無数の伝達メディアが存在する現代にあっても、「語り部」としての役割はいろいろな現場で残されている。古典芸能もさることながら、教育の場での教師、広い教育の場での講師、そして政治にせよ宗教にせよ、さらにビジネス、セールスにせよ、はたまたCMにせよ人に影響を及ぼすことが求められる場などでは、「語り部」的機能の本質がが要請されているに違いないと思える。現代的な表現では、プレゼンテーションとかパフォーマンスということにもなるのであろう。
 ただ、現代の大きな特徴は、伝達メディアが著しくマルチ化したという点であろう。言葉や表情、動作という人間的機能の基本に加えて、効果的なマルチメディアをふんだんに活用できるのが現代のメリットなのであろう。
 ただ、いくらマルチメディアを駆使しても、話し手の人間的機能の良し悪しが、全体のインパクトに大きな差を生み出すのは言うまでもない。その点では、「語り部」関係職(?)の人はどうしてもかつての「語り部」たちの必死の努力にならわなければならないはずだ。
 しかし、マルチメディアが生活の隅々にまで浸透した現代にあっては、これを活用しないのは、重装備の敵に対して余りにも丸腰的過ぎるのではないかとも思える。大して、話し手の人間的機能向上の努力もしないにもかかわらず丸腰に甘んじていたのなら、そこにこそ聴衆側に偉大なる退屈と、催眠効果が即座に発生するのではないだろうか。
 だが意外とこうした暴挙が粛々と行われていそうな気配である。いわゆる、小学校から大学にいたる学校教育の現場、国会質疑・答弁を初めとする政治の場、そしてさまざまな講演会などがすぐに思い当たる。これらは、大部分が聴衆側の忍耐力によってかろうじて成立していると言えるのではなかろうか。が、これまで古い世代によって担われてきたこの種の忍耐力も、世代交代が進むにつれだんだん聴衆側の忍耐力も低下していると観測できるだろう。

 先ずは、かつての「語り部」たちが傾注していた核心がなんであったのかをじっくりと追体験しなければならない。表現とはどうあるべきなのかが鋭く磨かれる必要があろう。
 そして、その次には、効果的な伝達メディアをしっかりと使いこなしていく努力がなされなければならない。外国人に意を伝えるに外国語を学ぶ必要があるように、IT時代の聴衆にはマルチメディアが必須なのである。さまざまなメディア駆使の訓練が、こうした文脈でこそ推進されるべきなのである。
 なぜ他者に伝えなければならないのか、他者に向けて表現したいという根源的な欲求はないのか、なにがしかの「語り部」であることがどんなにか自分の生きる証しとなることなどをこそ、先ずは注目していくのが現代の重要課題だと思うのだ。
 PCやネットという道具の使い方を教えるのが人材教育だと言わぬばかりの発想は、やはりとんでもなくピンボケしたセピアカラーの写真なのである…… (2002.06.22)

2002/06/23/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (45)

「海念さん、海念さん、起きてくだされ」
 まだ夜明け前だというのに、上野のとある古寺の前で叫ぶ者があった。
 梅雨ももう明けようとする六月の下旬の早朝のことである。
「はいっ、どちら様で」
 海念はとっさに脇に横たえた錫杖(しゃくじょう)に手を伸ばしながら答えるのだった。
「中村小平太でござる。よかった、探しあぐねたがとうとう見つけた」
 小平太は、海念が静に告げていた寝泊りしている寺を探して海念を探していたのだった。海念は、万が一のために静にこの古寺の場所を教えていたのだった。もし、小平太に何かがあった際、力になれるはずだと思ったのであろう。加えて、自分に不慮の災難があった時に備え、小さな包みを静に預ける配慮もしていたのだった。

「海念さん、大変でござる。あの十三郎殿がいよいよ知恵伊豆に挑もうとしているのだ。昨晩、拙者宅にいろいろと世話になり申したと挨拶に来られたのじゃ。どうも様子が変なので、問い詰めたところ、白状した。」
「まさかと思っておりましたが…… で、どのような段取りだと申しておりましたか」
「東海寺に密談に訪れる際をねらうのだと申しておった。この間、しばしば品川宿に立ち寄り、知恵伊豆や浪人林たちの動向を探っていたそうだ。月末に彼奴たちが結集するのを掴み、今日がその日だということだ。強く諌めたのだが、効き目がなかった。拙者にはどうすることもできなかったので、間に合わぬかもしれないとは思ったが、海念さんには知らせにきたというわけなのじゃ。如何したものでござろうか」
「かたじけのうございます。十三郎殿とは奇妙な縁(えにし)でございましたが、むざむざ彼を殺させるわけにはいきません。早速、手を打ちます。」
 海念は、十三郎に対する自分の読みの浅さを悔いるのだった。十三郎が「知恵伊豆と刺し違える!」と口走ったその際に、もっと意を尽くして話しておくべきだったと後悔した。しかし、十三郎のそこまでの思い入れを軽んじてしまった。そうであった以上、自分のとるべき道はひとつしかない、とそう思う海念だったに違いない。
「拙者は、どうすれば……」
「事がここまで進んだ以上、中村殿は一両日中に江戸を離れるべきです。新しき住まいが定まりますれば、東海寺の、わたしの兄弟子、創円様気付で文をしたためてくだされ。事が落ち着き次第、追ってお伺いいたす所存です」

 中村小平太が立ち去ったあと、海念はいつにない胸騒ぎにとらわれていた。先ずは、中村殿とはあれが最後となったのかもしれないと感じた。また、半紙に不可逆的に染みわたる墨のように、自己の命運にじわじわと染み込んで来る不吉な液体、鮮紅の血の滲みを、海念は心の奥底で確実にとらえてしまっていたのだった。
 海念は、十三郎が、護衛の侍たちを含む知恵伊豆たちの列に、一人切り込んでゆく姿を、光っては消え失せる稲妻のように、何度も何度も脳裏に思い描いてしまった。ふつふつと立ち現れてくるその光景を振り払うことができなかった。そして、木陰から踊り出て十三郎に助力する自分自身の壮絶な姿が連なるのをも打消し得なかった。十三郎を見殺しにする自分などが決してあり得ないことを重重承知している海念だったのだ。
 ふいに海念は、保兵衛にもう一度どうしても会いたいと思った。時空超越であの保兵衛のすみかに飛びたい衝動に駆られるのだった。ここから品川宿、東海寺まで歩くより、保兵衛の大森町まで超越した方が早いとも思えたのだった。
 が、その時脳天を打たれるような衝撃を受けた。あることに気づいたのだった。時空超越に必須であったあの「けんだま」を、静に預けてしまっていることを今の今まで忘れてしまっていたのである。
 やむを得ず、海念は急ぎ品川は東海寺を目指して歩くこととした。十三郎は、彼奴らの密会の前をねらうか、後をねらうかはわからない。前だとすれば、昼九つの正午には着いていなければならない。急ぐべしと思い、海念は古寺を出た。白み始めた空のもと、湿気を含む初夏の空気をひんやりと感じる海念であった。

 日本橋に差し掛かった海念は、ちょうど日の出前の早立ちで東海道を西へと出発する旅人たちと合流することになった。
 ようやく夜が明け、旅人たちが吐く白い息が、浮かれて華やぐ雰囲気をかもし出していた。そんな中で、ただひとり足早に歩く海念だけがどこか地味だと見えたに違いなかった。
 だが、その地味な相貌と見えた海念自身は、朝日に輝く街道風景をいつにもなく鮮やかに受け容れていたのだった。もう二度と見ることもないこの風景か、と思う覚悟が、見るもの目に入るものを一様にいとしく感じさせていたのだった。
 芝の浜あたりまでたどり着いた時、磯の香りが漂ってきた。立ち止まって、被り笠を上げた海念は、左前方に朝日で鱗のように輝く初夏の品川沖を眺望するのだった。
「美しい……」
 素直にそう感じる海念だった。と、その時あることを思い起こした。かつてこの光景を見ながら、「人の世に何が生じようとも、海の表情は変わらぬものじゃな」と言った在りし日の沢庵和尚であった。海念は心の中でつぶやいていただろう。
『和尚様、和尚様の目から見れば、いまわたしがなさんとしていることは必ずや間違いなのでしょうね…… けれども、ことの道理を超え、この選択以外に何も見えない今のわたしなのです……』

 街道をひたすら進み、やがて海念は品川宿の入り口付近にまで辿りついていた。ここまで来ればあとは時を見計らうだけだと、小さな安堵感を覚えた。
 ゆっくりと歩みながら、海念は品川沖の海原を見回す。とその時、小さな松林で囲まれた弁天社の姿がその視界の片隅に入ってきた。その瞬間何故だか懐かしさで全身が包まれる思いがした。昼九つの正午までにはまだだいぶ間があると自覚するや、立ち寄りたい衝動がにわかに込み上げてくるのだった。
 海念は街道の海岸側から社のある砂州へと掛けられている橋を渡った。
 慎ましく座している社、これを潮風から守るようにたたずむ数本の松、松の木陰をたたえた小さな境内が、懐かしい帰還者を迎えた。
 もう十年もの昔、海念は不思議な訪問者、保兵衛とここで至福のひと時を過ごしたのだった。あの時のふたりは、生きることへの無限の信頼感で充溢していたに違いなかった。それを支えていたのは沢庵和尚であっただろう。ふたりは、和尚のその超人的な逸話を語り合っては目を輝かせたものだった。そんな思い出の染み込んだ場所がこの社なのであった。
 海念は、松の根を踏み越えて波打ち際に向かう。手拭を波に浸し、それを固く絞って
身体の汗を拭った。初夏の海原を渡ってきた涼しい潮風が、首筋や胸元を心地よく冷やした。さほど遠くない波間に、一そうの小舟が沖に向かっているのが見えた。
 とその時、背後から人の声が聞こえた。波の音にまじって聞き取りにくい小さな声だった。
「お坊さま、お坊さま、あたしを助けて」
 素早く胸元を正して振り返った海念の目に飛び込んだのは、長襦袢に宿のものらしい羽織を引っかけた若い娘であった。潮風を受け、社の陰に潜むようにか細い素足で立っていた。
「どうしたのですか?」
 尋常ではなさそうな気配を感じながら、海念は娘に近づき訊ねるのだった。
「逃げ出したんです……」
 娘は、この品川宿のとある宿の飯盛り女だと言った。郷里の母親が病を悪化させ、どうしてももう一度会いに帰りたくて、ご法度とは知りながら宿を飛び出したのだと泣きながら語った。やがて、宿の若い衆たちが追ってくるはずだとも告げたのだった。
 追手が来るとの言葉を聞くにおよび、海念はとにかく社の中にかくまう手立てを急ぐことにした。

「やーい、坊さんよ。こっちへうちの女が逃げてこなかったかい?」
 三、四人の宿の若い衆らしき男たちが、橋を渡りバタバタと下品な足取りで境内に飛び込んできたのだった。
「さあて、女はおろか、猫の子一匹見かけないが」
 海念は、社の扉を濡れた手拭で掃除する様子で、そう答えた。旅の僧がたまたま遭遇した社をいたわってのご奉仕という雰囲気をつくっていたのだ。
「何をしてるんでぇ?」
「ご覧のとおりのご奉仕ですぞ」
「まさか、その中に隠してはいまいな。正直に言わねぇと痛い思いをするぜ」
 男たちは、海念に詰め寄ってすごんだ。中の一人が海念のむなぐらを掴もうとした。その時、海念の左腕が振りあがったかと見えた瞬間、男は右腕が捻られ海念の左脇にもんどり打って転がった。これを見て、男たちは一歩後ずさりした。
「本当に隠してはいないんだな」
「なんなら開けてお見せしてもよいが、神仏を汚したばちはただでは済まぬぞ。もし、誰もいない時には、たとえ弁天様がお許しになられても、この拙僧がこの錫杖にて天罰を下すがよいか!」
 男たちはしばし口ごもって怯えた。
「兄貴、沖に小舟が見えるぜ。ひょっとしたら、あの女、舟で逃げたやもしれませんぜ」
「よし、舟を出せ」
 男たちは、舟置き場となっている砂州の方をめがけて走り去っていくのだった。 (2002.06.23)

2002/06/24/ (月)  ディスカウントの赤札で辱められた「型落ち」製品たちの嘆き?!

 あいかわらず地域の販売店の入れ替わりが目まぐるしいようだ。地域に根ざしていたディスカウントを売りにしてきた総合ショッピング・センターが立ち行かなくなり、これをディスカウントの別の家電販売会社が引き受けるとか、これまた地域でがんばってきた中規模のチェーン型スーパーが立ち行かなくなっているとのうわさがあったりで、いずれの販売店も七転八倒しているようである。

 そのひとつ、自宅のすぐ近くにあるディスカウント家電店で、再編統合のため閉店をするという店舗を散歩がてらに覗いてみた。近所だというところから、かねてよりPC関連の周辺機器などについてはしばしば購入していたからだ。
 しかし、もう一年前あたりから、PC関連フロアーの空気は淀んでいたかもしれない。展示品の値札更新も滞っている印象も受けた。店員にもなにやらあきらめムードが漂い、やがて平日はもちろんのこと土日と言えども客数は伸びていないような気配だった。そして、とうとうここの場所を諦めることとなったようなのだ。

 われわれもPCショップに挑戦した経緯があるので、PC関連販売の内情はいろいろと推測できる。細かいことはさておくとして、やはり今、PC販売は厳しいであろうと思う。もうとっくに大衆的売れ筋商品ではなくなってしまった上に、価格競争激化で販売利益が極端に下がってしまった。数年前に、ラーメン一杯分の利幅だとさえ言われていたのだった。
 加えて、かつてPCマニアたちが群がって需要を形勢していた当時から、そのパーツ類のイノベーションが極端に早くなり、店頭の商品はあっと言う間に陳腐化と実売価格の落下の憂き目に遭遇するのである。いわゆる不良在庫が短期間で発生してしまうということである。

 また、PCという商品はアフターケアに手間の掛かる商品でもある。他の電化製品は、用途や使われ方が固定しているが、PCは小型汎用機といってよいほどに、いろいろな使われ方を許容しているというか、これを売りにしている商品なのである。したがって、いろいろと枝分かれした多数の不具合が生じがちであり、販売店はこの無償の世話で振り回される可能性が大なのである。だから、一時期は、PCノウハウを持った店員が珍重されもしたのである。

 閉店特化で安売りしている商品を点検してみると、感慨無量の面持ちとならざるを得なかった。中でも、値引きの激しい商品を眺めると、そこにはそれなりの理由が隠れているようで憐れさが喚起されたものであった。
 ノート・PCに対するデスク・トップPC、液晶ディスプレィに対するブラウン管のモニター、そしてUSBコネクター仕様の周辺機器に対するSCSIコネクター仕様のそれらなどが、まるで錦の御旗を掲げた官軍に対する朝敵の賊軍のように、辱められたディスカウントの赤札がつけられていたのである。
 確かに、スペースの問題や、消費電力の問題は見過ごせないかもしれない。しかし、USBコネクターに対するSCSIコネクターなどは、機能的にはさほど差があるものではなく、強いて言えば使い手側のPC知識の有無と簡便さが明暗を仕切っているのであろう。思わず、都落ち、型落ちとなった氏(うじ)の良さそうなSCSI仕様の1.3GBMOを金8千円也で身元引き受けしてしまったほどである。

 思うに、製品の大衆化、便利な製品へのバージョンアップという御旗のもとに、どんどん安直な新製品がリリースされるのはいかがなものなのであろうか?
 このプロセスで生じていることはと言えば、資源の消費であり、価格ダウンに伴う生産者サイドの苦境であり、消費者たちによる使い捨てなのであろう。
 しかも、その製品を使う必要性、需要が飛躍的に高まっているのならまだうなずけもする。しかし、PCにせよ、デジカメにせよ、今注目すべきはむしろその活用のあり方が思うように拡大していないことなのではないのだろうか。インターネットにせよ、期待されたほどにネット・ショッピング(B to C)が増大しないからこそ、IT不況とも言われる事態を生み出したのではないだろうか。

 新規なモノやハードウェアだけを市場に溢れさせる現在の路線については、ユーザー側がそれらをじっくりと使いこなす速度というものををいま少し省みられてよいのではないか。同じ事は、OSについても然りである。わたしなどは、Windowsは「98」以上の必要性をさほど感じていない。その必要を痛感した際には、強烈に求めるはずだが、抽象的な「汎用性」、抽象的な「便利さ」、抽象的な「高速性」のために、これまで慣れ親しんできたアプリケーションやOSの環境を即座に手放す気にはならないのである。これは、断固として、保守的ではないと明言しておきたい。新たな道具への不慣れによって、現在のPC活用度をわずかなりとも低下させる必要はないという生産性の観点なのである。

 はじけた際には完璧に途方に暮れてしまうようなバブルを、経済にせよ、道具の世界にせよ人為的に作り出してはいけないのだと改めて痛感する。やがて、必然的に後戻りを余儀なくさせられるような方策、対策ほど罪なことはないと思えてならないからである…… (2002.06.24)

2002/06/25/ (火)  こんな時代、役に立っているはずの巷(ちまた)の二軍、三軍ソフト屋さんたち!

 知り合いの方で、ソフト開発会社のわれわれから見るとやや危なっかしい商売をしている方がいらっしゃる。オリジナル・ソフトの版権問題などに余りにも無頓着過ぎて、版権侵害で訴えられそうなことに対しても大胆に接近していそうなのである。
 ご本人も一応は「こんなことって、どんなもんでしょうかね?」と同意とアドバイスを求めてきたりする。こちらとしては「いやいや、それは危ないことですよ」と釘をさすのだが、どうもソフト関連需要は儲かりそうだと思い込んでいるようである。
 素人さんなので、画期的なシステムを想定し得ないのは当然であり、彼よりもさらにPCについては素人という人たちのPCへの期待というジャンルにさし当たっては目星をつけているようなのである。

 振り返ってみると、こうした人たちは以外と多いように思われる。知り合いの会社のホームページを作ってあげたり、サーバ構築をしたり、既存ソフトの使い勝手にちょっと工夫をほどこしてあげたりといった按配なのである。中には、営業上手な友人を巻き込んで、これぞと思う業種にじわじわと食い込もうとしている人もいたりする。
 PCショップに力を入れていた当時は、こうした人たちがよいお客さんと言えばよいお客さんであった。フリーの若い人たちが多かったが、時には定職を離れた年配の方が起業的な動機で研究しておられる場合もあった。
 たぶん、この不況とリストラの最中で、こうした人々が結構な数で潜伏しているような気配を感じたりする。

 かねてから、ユーザ・サイドのこうした小さなソフト的作業というのは重要だと感じてきたし、またありがたがられてそこそこリトル・ビジネスとなる可能性もあると思ってきた。いや、中小零細企業がひしめくわが国のビジネス界では、実はこうしたニーズが少なくないはずだと推測してきたのである。
 大手企業であれば、高価な設備とシステム、そして高額のメンテナンス料を支払ってまかなえることが、ヒト・モノ・カネと情報関連ノウハウがどうしても乏しい零細企業にあっては、たとえ若干危なっかしい雰囲気があってもこうした二軍、三軍選手でも貴重な存在のはずなのである。
 まして、大手の自称「一軍レギュラー選手」たちに任せると、とにかく機材から、ソフトパッケージから、作業費としての人件費まで高額づくめである。たとえ大手ベンダーが二次、三次のソフト外注を使って、中味は二軍、三軍選手でも、最終価格だけは高いというわけなのである。大手ベンダーに頼めば、会社が大きい分、まさかの時に人材が豊富だと顧客側は想像しがちだが、実態は仕事単位で小さなグループとさせられてオーバーワークに直面させられているのだから、決して余裕なんぞはないと見るべきなのである。
 そうであれば、巷の個人事業主的な二軍、三軍技術者(?)たちをうまく使ってゆくことこそ、こんな厳しい環境では妥当な選択だとも言えそうである。

 以前、現在の中国では、OSはフリーソフトのLinuxが主流となりつつあることを書いたが、この選択はきわめて現実的だと思われるし、今後のソフト利用に関して示唆的だとも思える。
 端的に言えば、安くて安定したソフトを、システム的に上手に組み合わせることで、顧客のビジネス・ニーズに応えてゆくことが必要な時代となっているように思える。いや、そうでしかあり得ないコスト環境になりつつあるのではないかという気がするのだ。
 高額なシステムは、導入時が高いだけではなく、維持費もまた高く、そして改造時も同様となるはずで、ユーザ側がとにかく元が取れるためには大変な業績を上げてゆかなければならないので、二の足を踏むと想像されるのだ。

 ハイエンドの先端ソフト技術ばかりに目をむけるのではなく、入手が容易で、安いソフトを組み合わせる技術を磨くべきなのであろう。そして、ますますエンド・ユーザ側の業務の現場で生じるPCニーズの実相に着眼すべきなのであろう…… (2002.06.25)

2002/06/26/ (水)  Linuxへの注目が示すユーザーとベンダーの相互乗り入れ効果!

 昨日、「中国では、OSはフリーソフトのLinuxが主流」と書いたが、昨今では日本のビジネス界でも版権フリーOSとしてのLinuxが注目を浴びている。二、三年前からIBMはLinuxへの関心を強め、Linuxサーバーを製品レパートリーにして、独自のサポート体制も敷く力の入れようを示した。
 つい最近、シャープがザウルスの新型製品で、Linuxを組み込んで、価格競争力を持った製品をリリースし始めた。また、ほかにも新型電子製品の開発の話で、Linux組み込み仕様という情報を頻繁に耳にするようにもなった。
 IT関連製品はIT不況の影響を被り、採算性を度外視した価格競争にはまり込んだが、多くは身を刻み将来を閉ざしての低価格化であっただろう。そうではなく、版権フリーのソフトを使うなどして明確な根拠をもって低価格化を推進する動きは、リーズナブルで好感が持てると思える。

 また、Linuxの魅力は、ソースが開放されていて、高度なユーザーであれば受身のお客様的立場から生産者、ベンダー(提供側)の立場を果たすことも拒絶されていないという点ではないだろうか。誇張するならば、このユーザーとベンダーとのバリアフリー、ボーダレス的関係が注目できるのである。
 現在でこそ、パーソナル・コンピュータとしてのパソコンが、コンピュータを大衆化して多くの人々がPCやそのソフトを身近なものと感じるようになっている。しかし、大型汎用機の時代は、<玄人>技術者と、<素人>ユーザーが完璧に二分されていたのであった。
 それが、<素人>の大衆でもコンピュータのユーザーとなることができ、みずから小さなソフトウェアさえ作り出せるようになったのである。これにMS-Windowsの普及が大きく貢献したであろうことは確かだと思える。
 しかし、PCユーザーは、中身の見えないブラック・ボックスのOSやソフトをもっぱら使いながら、あるいは使わせられながら、お客様ユーザーとしての道を深く辿っていったはずである。
 これが良いか悪いかは判断の分かれる点かもしれないが、Linuxはソフトにおけるユーザーとベンダーの立場の相互乗り入れを示したと言えよう。

 現在、ソフトウェア業界までが不況の嵐にさらされ始めており、この風下にいる者としてはやはり憂慮せざるをえないのである。自分たちの業界の問題であるという点が大きな理由ではある。しかし、何度も強調するのだが、もはや避けられない製造業の空洞化の傾向が濃厚となった今、日本経済の基幹産業のひとつはやはりソフトウェア関連であらざるを得ないと思われる点も大きな理由である。
 こうした問題意識から言えば、コンピュータ・ユーザーが、出来合いの既成パッケージに高いコストを支払い続けるお客様ユーザーであり続けることは、やはり疑問の余地が残るのである。
 だからと言って、OSはLinuxにすべきだと短絡的な発想を持ってはいないが、出来合いのパッケージを使い、使用上の不具合のいっさいをベンダー・サポートに依存するお客様的スタイルはそろそろ見直してもいいのではないかと思うのである。いや、コスト面などから、見直さざるを得ない環境に直面しているとも言えようか。

 ではどうする?ということになると当惑を隠せないが、ひとつだけ言えることは、ユーザーだからといって、ソフト=ブラック・ボックスと見なす姿勢を改めるべきかと思う。 現代は、医学に関しても、「インフォームド・コンセント」(医師の治療を受ける患者がその方法、危険性、費用などについて十分な情報を与えられたうえで、その治療に同意すること)なる姿勢が一般化しつつある時代である。
 現在のPC環境の中にも、ちょっと関心を深めて挑戦するならば、生活や仕事に役立つちょっとしたアプリケーションが作れるチャンスは潜伏しているのである。フリーソフトを紹介したサイトを覗くなら、そんな成果が数多くあることに驚くほどである。
 そしてソフトベンダーの役割も、こうした積極的ユーザーを支援してゆくソフト開発企画がますます重要な課題となっているのかもしれない…… (2002.06.26)

2002/06/27/ (木)  週に一度くらいは「水戸黄門」に成り切る努力が必要か?

 テレビ番組の長寿時代劇ドラマ『水戸黄門』のテーマソングを、夏の甲子園応援向けにある高校のブラスバンドが練習しているのを聞いた。この曲もこうアレンジすると結構迫力と訴求力があるもんだなとちょっとした感動をしてしまった。
 水戸光圀が全国を行脚したというのはあくまでフィクションであるらしい。しかし、「お偉いさん」がお忍びで世の中の実態に触れ、上には届かぬ庶民の声が取り上げられるということは、下層庶民の永遠の願いであるに違いない。

 ところで、身の回りの生活実態に疎い(うとい)のは「お偉いさん」たちだというのがお定まりであった。確かに、さまざまなスキャンダルにあけくれる政治家たちが、永田町と選挙区の事情は熟知していても、庶民の苦境や社会の新しい動向の実態には無知である場合が多い。組織の上層に這い登った人たち、祭り上げられた人たちも概してその傾向にある。そんな人たちが、重要な時代のイシュー(争点)にとんちんかんな判断をするとあれば、社会や組織の進路が狂うのは当然であるのかもしれない。

 では、身の回りの生活実態に疎い(うとい)のは「お偉いさん」たちだけであるのか? ひところ、ワーカホリックのサラリーマンが定年退職して、居住地の地域にリリースされた際、生活のいろは、地域社会のいろはを知らないため、まるで異邦人のような立場となることが話題にされたことがあった。実質上、自宅を、眠るだけのビジネス・ホテル同様の位置づけをしてきた職場中心サラリーマンなら、決して不思議ではない帰結なのであろう。
 だが、それではワーカホリックのサラリーマン以外の人々、たとえば主婦、子どもたちはどうなのであろうか?サラリーマンよりかは、生活事情、地域事情などに精通しているのは当然としても、なにをどこまでといった各論となるとどうであろうか。
 先日も、近所のアパートの同じ階の隣の隣の住人に関してある主婦にたずねる機会があったら、見事首を横に振ったものだった。

 この日誌を書き続けるに当たってわたしが悩むことは、なにを書くかという点である。 確かに、マスコミが報じる政治スキャンダルなどを素材とするならなんの悩みもなく書けるであろう。しかし、できるだけそれは避けたいと願っているのだ。ただでさえ、マスコミに批判的姿勢を持っている自分だから、二次、三次情報をこねくり回す不毛さを避け、自分の見聞したり体験したことを対象や素材とすべきだと望んでいるからである。それが、個人であり続ける最低限の構えかと、勝手に信じているのである。
 しかし、そう立場を決めると、大抵毎日変わり映えのしないルーチン・ワークであけくれてしまうビジネスマンとしては、困りに困る心境となるのだ。
 日誌を書くためというだけではなく、進んで多くの人と出会い、新たな行動、新たな出来事に遭遇していくべきだとは考えているものの、やはりお定まりの一日となりがちなのである。

 勝手に決めつけてはいけないが、どうも現在のわれわれは立場を超えて、毎日お定まりの生活と行動にあけくれ、結構閉鎖的な個人生活に埋没しているように感じるのである。そうであるからと言うべきか、その単調さをもっぱらマスコミが提供する情報やエンターテイメントで埋め合せているように見えるのである。そして、いつの間にか、マスコミと一心同体の自分を形成してしまっているのではないだろうか。
 インターネットという個別チャンネルのメディアがそこそこ普及しても、茶の間の王様テレビの支配力は衰えを見せていない。いくつかの調査でも、テレビ視聴は今後も衰えそうにない。

 人が、情報をますます蜃気楼のようなものと感じていく現代、そういう傾向があることだけでも自覚していくためには、自分の体験に根ざす情報収集を重視すべきだと考えている。そのためには、定期的に、少なくとも週に一度くらいは「水戸黄門」に成り切る努力が必要なのではなかろうか…… (2002.06.27)

2002/06/28/ (金)  こんな時期に、国民の学ぶ意欲の足を引っぱっているのはだれ?

 幕末、江戸に官軍が押し寄せ江戸が大混乱と化していた最中、福沢諭吉は、大砲の音などで気もそぞろとなっていた塾生たちを、今こそ学問に集中すべし!と叱りつけたという逸話があり、それは慶応関係者でなくともよく知られている。
 現在まさにそんな時期なのだとも言えるのだろう。領域は問わず、あらゆる領域、階層の人々が知力をふりしぼる時のはずである。
 確かに、悠長に構えているほどの余裕はなく、ある政治家の言葉ではないが「やるべきことはすでにわかっている。あとはやるだけだ」という意味の実践の重要さは、いまさら言う必要もないほどわかってはいる。しかし、振り返ってみれば、それで首尾よく成果に到達できなかったからこそ現状を迎えているのではないのか。まだまだ、知力を尽くして考えることのつめの甘さがたっぷり残ってはいまいか。とりわけ、「小人閑居にして不善を為す」(君子ではない小人[器量の小さい人]はひまでいると、つい、よくないことをする)に限りなく近い官僚たちの作文をもってして、考えることを終了という判断は、この間に生じているさまざまな不祥事を思い起こすならとんでもないことだと言えよう。

 ともかく、現在のようなオールラウンドな苦境時こそ、死力を尽くして考えぬき、学ぶ時だと思われる。問題を先送り、先送りして到達した現状で、さらにまたその場凌ぎ(しのぎ)の惰性に流れるなら傷口をさらに広げる愚をなすこととなる。
 ところが、どうも現在、福沢諭吉のように、知は力なりを信じ、学ぶことに正面切って立ち向かうことがなおざりにされているような気がする。あくまでも、個人的な直感でしかすぎないが。
 先日も書いたとおり、現在、高校生たちの学習量が少なく学習意欲が低迷していると言われる。大学生たちの学力にも問題があるとも指摘されている。原因の詳細はおくとして、直観力の鋭い若い世代のこうした現象は、やはり社会の根深い問題を照らしていると見たほうが良いのかもしれない、と感じているのである。
 一言で言えば、じっくりと腰を据えて学ぶ気になれないほどに、わが国の社会が荒廃し切っているからかもしれない。自分たちの将来を投影するための材料となる現代の種々の社会現象があまりにも荒ぶれているなら、ただでさえクイック・レスポンスの文化に慣れ切った若い世代が、喜びとともに忍耐をも伴う学ぶこと、考えることにあえて挑むであろうか。将来への夢を奪うだけでは済まず、社会上層部の者たちによる破廉恥な行いばかりを見せつけられれば、いい加減気持ちの萎え(なえ)が生じたとしても無理からぬことかもしれない。加えて、われわれ大人たちが、これらを厳しく糾弾するわけでもなく、ただただ「観劇」しているのを知るなら、なおのこと将来ではなく、今を楽しく過ごそうと流れるのも、同意はしないまでも理解可能性はあるといえる。

 「電通総研」の調査研究物で『日本革新 日本病克服の処方箋』と題するものに目を通した。誰もが感じているどうしようもないわが国の現状を憂えてのことである。
 「日本病現象とその原因−国力低下の背景にあるもの」として以下の5点が指摘されていた。(1)変化に対する感受性が鈍っていること、(2)政策対応能力が低下していること、(3)企業が経営の革新力を低め、リスクへの挑戦を回避していること、(4)社会の連帯感が低下し、規律が弛緩していること、(5)人々の意識に硬直的な価値観が蔓延したこと、などである。
 そして、同時開催されたフォーラム参加者たちのアンケート回答によれば、「日本社会の停滞の原因」は、「教育システムの機能不全」が70%で第一位、第二位は「官僚システムの硬直化」で55%、第三位は「政治のリーダーシップの欠如」で50%だったそうである。
 概ね共感できる結果であるが、解釈はやや異なる。教育の現状を嘆き、現在直面している課題との関係で「教育システム」のあり方に注目するのは十分共感できる。だが、前述のとおり、被教育者たちの学習意欲を低迷させているのは、システムだけの問題ではないだろうと思うのである。システムさえ改良すればどうにかなると考えるのは安直に過ぎるであろう。むしろ、第二位、第三位の絶望的状況が、第一位の惨憺たる現実の足元をぬかるませているのではないのだろうか。学ぶことの第一歩たる真似る対象がひどい、そんな現状によってもたらされた悲劇なのである。官僚たち、政治家たち何千人よりも、たった一人の「イチロー」の方が子どもたちや若い世代のがんばる意欲を鼓舞しているのが現状なのだろう。

 現在、学ばなければならないのは若い学生たちだけではない。この不況の中で生き延びようとする企業や働く人々すべてがこの対象であるはずだ。しかし、その意向はあったとしても思うようにならない人々も多いかと思われる。生存を脅かされた現状のステイタス、どっちへどう向かおうとしているのかいっこうに指し示されない景気回復、構造改革。 福沢諭吉の時代のように、どう転んでも欧米の既存環境を手本とすればよい時代ではないだけに、すべての人が学ぶことに自明の理を見いだせないのではないか。PCを学んでおく、英会話を学んでおく、中国市場を学んでおくといっても、それがいいかもしれないと感じるだけであろう。
 明確な将来ビジョンを示せないで不安がらせるだけでなく、無責任で、火事場泥棒とさえいえるようなお偉いさんたちの所業を見せつけられている全国民が、学ぶ意欲の足を猛烈に引っ張られているのではないだろうか。

 無能であることが罪なのではなくて、居座って新しい日本の進路をふさいでいること自体が、最大の禍(わざわい)であることだけを認識してもらいたいのである。すべての古い政治家たちに…… (2002.06.28)

2002/06/29/ (土)  受信だけでは不完全であり、発進することをもって完結する情報!

 このホームページを閲覧された、面識のない方から、「素敵な詩文と美しい写真を有り難うございました」とのお礼のメールをいただいた。ホームページ運営者としては大変うれしいことであった。
 ホームページ上でメールアドレスを公開していると、さまざまな閲覧者からメールをもらうことになる。ウイルスやDM以外ならどんなものでも歓迎の気持ちで読ませていただいているが、時々、コンテンツに共感された方からのメールが届くと、暗くて物騒な夜道に突然百ワットの街灯がつくような、そんな嬉々とした気分となるものだ。
 まして今回の方は、感想のみならず、関心事に関するご自分側の情報もていねいに書かれていたので、久々に小さくない感銘を受けた。

 私も、感激したサイトに遭遇した時は、できるだけ「サンキュー・メール」とでもいうものを出すようにしている。サイト運営の作業的手数がどうこうというより、個人努力で何がしかの思いを込めた情報を公開している姿勢にはエールを以って応えたいと思うからである。
 応援するという意味合いが当然あるのだが、もうひとつ自分なりに意識している点がある。それは、自己確認と言ってよいかもしれない。
 街で、ボランタリーが署名活動をしているとやはり気になって内容を確かめ、賛同できるものであればできるだけ署名する。托鉢僧が立っていれば、小銭なりとも喜捨させてもらう。もめている者がいれば、明瞭にやくざ同士と見えなければ動向を見守る。決して宮沢賢治を気取るわけではなく、50%の野次馬根性と、あとの残りは何でも黙殺してゆく自分の悪癖を増幅させたくないという思いがあるのかもしれない。

 むかし、ある人が言っていた。植民地では、道路に人の死体が転がっていても人々はそれに無関心で、あるいは、そう装って歩くようになってしまうのだと。荒ぶれた都会での人々の関係は、だんだんと植民地環境と等しくなってゆくのだと、その人は嘆いていたのである。
 たぶん、無関心とは、次第に増幅されてゆくものなのだろうと思っている。最初にその姿勢をとってしまうと、「まあ、いいか」「まあ、いいか」が限りなく拡大して、死体が転がっていようが、財布が転がっていようが(これは無視しないか!)、何に遭遇しようが無関心を決め込むようになってしまいそうな気がしている。

 情報が巷(ちまた)に溢れる情報化社会が、一段上昇してIT社会になったと言われている。何がどう異なるのかは定かではないが、あえて言うなら、ただただ情報をマシン・ガンの弾のように受けることから、たとえゴム鉄砲や紙鉄砲のようであれ、自分から情報を発信する、発進できる社会がIT社会なのだと、そう認識している。
 もしIT革命という概念があるとするなら、そこにはコミュニケーション革命が内在しているはずである。そしてそれは、インターネット環境によって飛躍的に拡大された情報発信チャンスによって、可能性としては同時に引き起こされているはずなのである。

 そもそも、情報とは受信するだけでは不完全なものであり、発進することをもって完結するものだと言われている。わかったようなわからないような理屈でもあるが、情報というものが個人的なものではなく、「間人」(人と人との間)的なものであることに根ざした理屈なのかと思っている。
 内輪(うちわ)や小集団内では、きめ細かくレスポンスを返し合い、「間人」的なものを大事にしているかのようなわれわれ日本人であるが、どうもパブリックな場では植民地的振る舞いが強いのかもしれないと感じる。どんなに政治的状況が悪化しようが、平気で棄権をしてはばからない人たちが後を絶たない現状もそのひとつであろう。
 こうした問題も、インターネット・インフラの整備とともに、「情報リテラシー」問題として重要な課題だと思っているのではあるが…… (2002.06.29)

2002/06/30/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (46)

「もうしばらくそうしていなさい」
 海念は、弁天社正面の鴨居を背伸びして手拭で拭いながら言った。
「はいっ」
 と、社の中にかくまった娘からのか細い声が聞こえた。
 宿屋の男たちが舟を出す様子を盗み見ながら、海念は旅の僧としてのご奉仕なる演技を続けていたのだった。
 十三郎が事を起こすであろう時刻が次第に近づいていることが、決して気にならなかったわけではない。ただ、みすみす目の前で、不遇さの餌食となってしまった人をそのまま見過ごすことができなかったのに違いない。
 やがて、その男たちを乗せた舟が沖の波間に見えなくなったのを確認すると、素早く海念も扉の内側に移るのだった。
「彼奴らは、舟で沖へ出た。しばらくは戻ってこないだろう。しかし、ここが安全ということではない。さあて、これからどう逃げ延びようというのだ……」
「申し訳ありません。もう一度だけ母に会えたら、どんなにお仕置きが辛くてもまた宿に戻ってもよいと思っています。どうか、郷里、下総のもとへ逃がしてください……」
 海念にも、わずかな金で身売りされた娘が逃げ出せばその後どうなるかは推測がついていた。そんなことを覚悟した上での母への思いだと察すると哀れに思えてならなかった。妹の静や、中村殿の娘御の静とさほど歳の違わないこの娘の運命への同情の念を振り切ることができなかったのであろう。
「わかった、わかった。わたしにできる限りのお助けをしましょうぞ」
 そう言った海念は、格子扉から漏れる光の下で、懐紙を取り出し何やらしたため始めるのだった。そして、文をしたためながら、娘に名と郷里、下総の詳しい所在地などを訊ねた。娘は、名をおやえ、郷里は下総は佐倉であると蚊の鳴くような小声で答えた。
 書きあがったのは一通の手紙であった。その表には『馬喰町裏店 政五郎殿』と宛名がしたためられてあった。
「よいか、これからわたしの言うとおりにすれば必ず佐倉の母御に会える。先ずは、この手紙を持ってわたしが信頼する方のところへ逃げ延びるのだ。そこまで逃げ切れば政五郎殿がきっと力になってくださるはずだ」
「ありがとうございます…… で、お坊さまはご一緒ではないので?」
「今、わたしにはよんどころ無い務めがあり、この後すぐに向かわなければならない。いや、もしそうでなくとも一緒という手立ては無理であろう。そこで、わたしにはひとつの思案がある。よいか、これしかないし、これなら万事うまくゆくに違いない」
 娘は再び不安げな顔つきとなっていた。
「そなたはここから禅僧の僧の姿となって、ひたすら馬喰町の頭のところまで向かうのだ。今わたしがまとっているこの黒衣と被り笠の一式を、そなたが着込んでここを出てゆくのだ」
「では、お坊さまは?」
「わたしのことはよい。心配はいらぬ。この社の中に何かまとうものがあるに違いない。それから、江戸市中は不案内のようであるから、馬喰町までの地図もしたためておこう。被り笠の下でしっかりと確かめながら進むとよかろう」
 そこまで話すと、海念は再び懐紙を取り出し、品川宿から日本橋までの東海道の要所要所と、日本橋から馬喰町までの道順をしたため始めたのだった。娘は、泣きはらした目を輝かせてありがたそうにじっとそれを見ていた。
 その後、海念はなんのてらいもなく素早く下帯だけの姿となり、脱いだ衣装のすべてを娘に着させるのだった。脚半とわらじまで与えてつけさせた。それまで結っていた髪を小さく束ねさせ、それを手拭で覆い、被り笠を深く被らせた。最後に托鉢の鉢を持たせた。
 こうして、やや小柄ながら、不審さを極力消し去った僧侶ができあがったのだった。ただ、錫杖だけは海念がこれから向かう役目のために渡さなかった。
「よいか、自分は男なのだと念じて歩くのだ。そうすれば背筋が伸び、歩幅もしっかりとなるであろう。どんなことがあっても笠をはずすではないぞ。心配するではない。きっと首尾よくゆくに違いない。さあ、行きなさい」
 おどおどとした様子がないわけではない娘ではあった。海念は娘の肩を押し、社からの出発を促すのだった。娘は、振り向いて、被り笠の下から、「ありがとうございました」と小さくつぶやく。黒衣の小さな肩と大きな被り笠は、格子扉の外へと消えた。境内を急ぎ立ち去る心もとない足音だけが残った。

 海念は、予期せぬ時を過ごしてしまったことを懸念した。格子扉の外の陽射しは高く、松の木の木陰は小さくなっていた。やや焦りの心境が生じたが、下帯だけの格好ではどうにも身動きができなかった。
 東海寺の境内へ向かうには、宿場を通らなければならない。そのためには、少なくとも乞食坊主としての姿だけはこしらえなければならなかったのだ。
 海念は暗い社の内側を見回す。と、弁天を祀った棚が大きな布地で被われていることに気がついた。供えなどをどけておもむろに引き出してみるとそれは畳一畳を上回る白い布であることがわかった。よしっ、と海念は頷き、我が意を得たりと感じた。
 もはや白地とは言えない汚れかたである。その中央に頭が入る裂け目をこしらえ、おもむろに被ってみる海念であった。同じ布から腰紐もこしらえた。それで腰で縛ってみると何とか格好ができあがった。娘が残していった宿の羽織はそのままでは使えない。これを裏返しにして両袖をはずして羽織ってみる。すると、何ともそれらしい乞食坊主の格好が仕上がったのだった。
 社内に不審さを残さぬように整理したあと、海念は念のために格子扉から表の様子をうかがってみる。人気の無いことを知り、海念は社を飛び出していった。
 遅れを取り戻す気持ちに急かされ、足早に東海寺境内へと向かうのだった。正午過ぎを迎えていたのであろう宿場の街道は、昼餉時のためであるのか人通りが少ない。人目に立たないことを、幸いだと感じていたに違いなかった。

 ところが、東海寺境内の山林に潜り込んだ海念を迎えたのは、不気味なほどの静寂であった。わずかな遅れでしかなかったはずだ、と自分に言い聞かせた。が、十三郎による謀反の独り舞台は、すでにその幕を降ろしてしまっていた気配がただただ漂っていた……
 遅れた負い目と、言いしれない不吉な空気で海念は心乱される。用心深く境内の林を縫い、その不気味な静寂の意味を必死で探る。が、その海念が体中で感じ取った情況は、惨たらしい事後処理が粛々と行われる光景でしかなかったのである。見覚えのある顔の僧たちが、寺に通じる通路を無言で忙しく走り回っている。目を凝らすと、手桶で水を運び、通路踏み石に飛び散った血のりを洗っていたのだった。
 それが、知恵伊豆一味の血であったのか、十三郎の血であったのかは、わからないといえばわからなかった。しかし、不吉で重苦しい静寂は、海念をして十三郎の死の予感をただただ濃厚なものとさせていくのだった。
 即座には動くべきではないと警戒した海念は、しばし木陰に潜み事態の掌握に注意を払った。はやる気持ちが、時の流れを止め、海念は気の遠くなるような思いとさせられていた。
 が、やがて、なんとあの兄弟子の創円がひとり通路を降りてきたのである。先ほど血が洗われていた場所に佇む創円は、手にした線香に火をつけ、その場にその線香を据え合掌を始めたのである。
 海念は、じっとそれを見つめた。やがてその光景は、海念にすべての事態の脈絡を開示することになった。あの血は十三郎であったに違いない、もし知恵伊豆やその一味であったなら、創円さまがあのように悼むはずはない。そして、仮に知恵伊豆たちがまだこの寺にいるとするなら、創円さまは彼らの手前あのように線香をたむけることはしないだろう。彼らは、きっと事後にすぐさま屋敷へと取って返したに違いない、と。
 思わず海念は、頭をうな垂れ、その姿勢を崩すこととなった。両手から、苔で被われた湿った地表の冷たさが伝わってきた。
 重苦しい予感のすべてが現実に転化したことを悟った時、それまでは平然を装っていた海念に、突如として十三郎への言い知れない哀れさと、何ものかへの憤りの感情が体中を駆け巡るのをどうすることもできなかったのだ。そうして歯を食いしばる苦しい時が流れていった。
 やがて海念は身を起こし、創円のもとへと姿を現すのだった。
「創円さま、海念でございます」
 合掌を続ける創円は、身を縮めて驚いた。さらに、海念の異様な姿を見つけて再び驚きの表情となるのだった。
「海念ではないか。な、なんという姿だ。で、なぜここに……」
「驚かせまして申し訳ございません。込み入った事情がございます。で、御一行はお帰りになられたのですね……」
「そ、それはそうなのだが…… まあ、立ち話もできぬ。わたしについて参れ」
 何か深い事情を察したような創円は、海念を自分の部屋へと導くのだった。 (2002.06.30)