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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2002年03月の日誌 ‥‥‥‥

2002/03/01/ (金)  予備校シリーズ:似たような話はどのジャンルでもありがち!
2002/03/02/ (土)  予備校シリーズ結び:「センセ」族こそ市場原理にさらされてください!
2002/03/03/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (29)
2002/03/04/ (月)  『いき』の効用シリーズ:『いき』復活と野暮撃滅国民会議を、野暮に提言!
2002/03/05/ (火)  『いき』の効用シリーズ:限りある命を持つ人間の条件こそが『いき』だなあ!
2002/03/06/ (水)  『いき』の効用シリーズ:はかなきもの、辛きものを見事に反転させている!
2002/03/07/ (木)  『いき』の効用シリーズ:『男はつらいよ』に観るつらさと一体の『いき』!
2002/03/08/ (金)  『いき』の効用シリーズ:落語に知る『いき』の反権力志向!
2002/03/09/ (土)  『いき』の効用シリーズ:「ただ憧れを知るもののみ」が抱く悩みを悩みたい!
2002/03/10/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (30)
2002/03/11/ (月)  「質素」の勧めシリーズ:♪ぼろは着てても心の錦〜♪を忘れた日本人!
2002/03/12/ (火)  「質素」の勧めシリーズ:動物たちを質素な楽園から誘惑してはいけない!
2002/03/13/ (水)  「質素」の勧めシリーズ:質素な生活は、モノの消費の本来を照らし出してくれる?
2002/03/14/ (木)  「質素」の勧めシリーズ:「質素」、「貧乏」、「けち」の差異!
2002/03/15/ (金)  「質素」の勧めシリーズ:「質素」に生きることの特別「付帯条件」?!
2002/03/16/ (土)  「質素」の勧めシリーズ:モノ的な豊かさよりも、時間的ゆとり、心のゆとり、潤い!
2002/03/17/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (31)
2002/03/18/ (月)  「競争」について:納得度の高い環境設定での小気味よい「競争」!
2002/03/19/ (火)  「競争」について:「競争」とは、即ち「種目別」限定競争のことなのだ!
2002/03/20/ (水)  「競争」について:日本の「競争」、「呪縛された競争」と「競争逃れの構造」!
2002/03/21/ (木)  「競争」について:「競争」の観念と「同質性」同士の人間関係
2002/03/22/ (金)  「競争」について:「競争」の激化について思うこと
2002/03/23/ (土)  「競争」について:口先だけのセイフティ・ネットにまずアナタから‥‥
2002/03/24/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (32)
2002/03/25/ (月)  「優先順位」感覚:希薄な危機感の根底には「優先順位」の狂乱が!
2002/03/26/ (火)  「優先順位」感覚:20%の努力で80%の成果が刈り取れる「優先順位」づけ!
2002/03/27/ (水)  「優先順位」感覚:努力のあり方は「量」から「質」の問題に変わった!?
2002/03/28/ (木)  「優先順位」感覚:危機感薄い日本人は時間の切迫性を回避できる才能がある!?
2002/03/29/ (金)  「優先順位」感覚:危機感乏しい日本に充満するのは、感情的な不安感のみか?!
2002/03/30/ (土)  「優先順位」感覚:危機感を欠いてはしゃぐ現代と幕末!
2002/03/31/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (33)





2002/03/01/ (金)  予備校シリーズ:似たような話はどのジャンルでもありがち!

‥‥‥‥ 『あーよかった、二冊さばけた。自分の書いた参考書が毎週一冊なりとも売れないと、圧力かけてくるんだからなぁ。でも、いくら数学担当とはいえ、錢高金蔵センセほど金銭執着型のセンセはほかにはいないだろうなぁ‥‥』
 先生、本日もよろしくお願いします。

【 銭高センセ 】 あ、よろしく。(小声で)何冊売れた?二冊?うーむ‥‥

【 銭高センセ 】 はい、みなさん今日は。あ、そうそう、あたしの書いた参考書『実力インフレターゲットの高校数学』全3巻、まだ持ってない人いる?ちょっと手上げてみて?ざっと三十人くらいはいるね。問題あるかもしれないなぁ。買えとは言わないけど、何とかした方がいいねぇ。あっそれからね、時々、合格しちゃった先輩のを譲り受ける人がいるようだけど、そいつはマズイよ。あたしはちょこちょこと重要なデータ更新をかけてるから、やっぱり、最新版最新刷のを持ってるのがベストということになるね。わずかな金銭惜しんで、一年間を棒に振るのはもったいないからねぇ。そこんとこ、よーく考えてみてね。

 さてっと、ああそうそう、あたしはこの予備校の講義以外に、ほら何て言うの、家庭教師?個人教授って言うの?それもやってるのよ。なあーに、断れなくてね。息子さんを歯科大に是非入ってもらわないと困るという歯医者さんの親御さんなんかから頼まれると、どうも断り切れない性分でね。いや、お金の問題じゃないのよ、言っとくけど。やはり、父子が同職に就いて地域医療に貢献するっていう姿は、涙ぐましさがあるじゃないですか。そういうのに、あたしは弱くてね。ついつい、情にほだされて一肌脱いじゃうんだねぇ。
 で、本人も努力をしたはしたけれど、あたしもずいぶん入れ込んだからねぇ。この一年、三人、お世話させてもらったんだけど、全員この春に合格しそうなのよ。やっぱり、個人教授って言うのはちがうんだよねぇ。
 でね、ほかでもないんだけど、もしね、みなさんの中にね、次のような条件に当てはまる人がいたら相談に乗っちゃおーかな、ってふと思ってるの。
 条件一、今年の合格は難しいと判断している人、条件二、数学が苦手だと思ってる人。とは言っても、丸っきし苦手な人は除きたいなぁ。条件三、この絞込みが重要なのですが、父親が開業医で、歯科医ならなお可、比較的儲けているというか、地域医療の貢献度が高いこと、という条件なのよね。

【 とろい受講生 】 儲けてないとダメですか?「根室管内に限定してはどうか」という場合と似てるような気もするんですが‥‥

【 銭高センセ 】 そーねぇー、やっぱ儲けていたほうがいいでしょうね。その方が、話がスムーズに進み易いと言えばいいのかなぁ。
 それから、言っとくけど「根室管内云々」とは次元が違いますよー。だって、あちらはプロセス不透明、あたしは開けっぴろげの情報公開型ですもんね。大きな違いでしょ?
 で、こういう条件に合う人がいたら、早めにあたしにアプローチしておいた方がいいかもしれないね。なんせ、あたしも引っ張りだこだから、ぎりぎりになってからいくらお金積まれても困るからさぁ。
 ということで、連絡事項はこれだけだったかなあ‥‥
 あっそうそう、大事なことを忘れるとこだった。
 みなさんのお友だちで、別の予備校へ通ってる人も多いだろうと思うんだけど、その予備校で、数学の講義がいまいちおもしろくない、分かりづらいといった噂を耳にしている人はいませんかね?できれば、参考書出版なんかまだやれないような先生だったらなおいいと思います。そういう情報があれば、教えてほしいなぁ。タダとは言いませんよ、それなりのお礼はきっちりします。
 それというのがね、あたしはこんなふうに、何でもおおっぴらにモノ言う古い型の教育者のタイプなもんで、馴染めない人たちからは不当な攻撃を受けたりしがちなんだよね。
 それで、実を言うと、この三月いっぱいで、この予備校の教師を『更迭』される予定なのよ。どっか、次のいいとこないかなぁって思案してるとこなのよ。とほほほ‥‥

‥‥‥‥ (小声で)センセ、センセ、大の大人が泣いちゃいけませんよ。悲しむ人ばかりじゃないんですから。わたしみたいに喜んでいる人も、多分、大勢いるはずですから!

【 銭高センセ 】 ???(2002/03/01)

2002/03/02/ (土)  予備校シリーズ結び:「センセ」族こそ市場原理にさらされてください!

 最近つくづく感じるのですが、人柄などを評価する際、固定観念を抱いてはいけませんね。しかも、勝手な希望的観測に根ざした先入観は百害あって一利なしと言えそうです。
 「 〜 を職業としているんだからまんざら悪い人ではないはず!」と、何の根拠もなく信じようとするその姿勢が危ない。人とは、百人百様であり、いま時、職業や地位などで善人度を推し量ろうなどとは決してしないことです。
 むかし気質の人の中には、「あっしは、出世するほどの人情なしじゃねぇやな。」と喝破した者もいたようですが、まことにそんな気がしないわけでもありません。
 この世知辛いご時世、そして「構造改革」、競争主義社会がこの傾向をますます強化してゆくことになるのでしょう。公平性の濁った環境で他人から抜きん出るためには、非情さや、こずるさと無縁では済まないというのが実情じゃないんでしょうか。とすれば、「成功者」とは何者ぞと言いたくもなったりするわけです。
 だから、それにもかかわらず、「センセ」と呼ばれる方々に庶民が免疫性乏しき期待感情を託したりするのは、はなはだ危険この上ない話だと思えるのです。
 どっこい庶民もばかじゃない!という庶民の動物的勘がもっともっと研ぎ澄まされていいのだろうと思う次第なのです。

 「センセ」と呼ばれる方々は、議員センセを初めとして、お医者さん、弁護士さんから学校のセンセ、教習所や習いもののセンセなど、幅広く生息しているわけです。競争社会の中でそれなりに努力して甲斐があったと考えている方々なので、プライドは高く、自己保身術にたけた方々が多いようです。丹頂鶴に対するような保護はないものの、一般人が日常的に被る過激な競争、足の引っ張り合いからは逃れている分、どうしても「自分は偉い!」と錯覚してしまい、横柄な態度に出る方々が多いとも聞きます。また、何かと人の運命に作用できる立場にあることが、錯覚を助長することになるんでしょうかね。
 が、その錯覚を正してあげると、ノミの心臓ほどに臆病で、中には社会生活に耐えられない神経質な方もいらっしゃるようです。

 今週は、こうしたセンセ族の中でも、玉石混交の著しい空間である「予備校」にスポットライトを当ててみました。
 わたしも、大学院生のころアルバイトがてらに関与したことがありました。その時、わたしが非常勤で関与していた私立高校の主任クラスの先生が、立派に予備校の教務を牛耳っておられたのには、医者と坊主を兼任するようで、驚きとなるほどの両面があったりしました。
 まあ、一般の人々も十分に察知されているかと思うのですが、「でもしか」先生とは言い得て妙であり、学校関係者たちは一般社会じゃ通用できない人品骨柄の方々が多かった印象が拭えませんでした。
 米国の大学などでは、一講義ごとに受講生による講義内容に対する評価がアンケートでチェックされるようですが、まさにそうしたチェックこそがこの方々の襟を正す最良の方法なんでしょうね。
 「構造改革」、市場経済主義がとりあえず浸透する必要がある「無法地帯」は、まだまだたくさん残っていそうですね。血税から、何度も退職金をくすねてゆく、天下りと何とか法人のセット構造なんぞは、もっとラディカルに梃入れすべき対象じゃないですか。どうも、現内閣の手ぬるさでは何もかもがさわり程度の中途半端で終わりそうな気配がします。(2002/03/02)

2002/03/03/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (29)

「身投げだぁー、親子の身投げだぁー。」
「誰か助けてやらねぇかい、かわいそうじゃねぇか、子どもだけでも助けてやれぇー。」

 大川(現墨田川。当時大川にまだ橋は掛かっていなかった。)に面した日本橋側、両国広小路付近、対岸は大川端である両国一帯は夕靄がかかっていた。その土手の上で数人の町人が、ある者は川面を指差し、またある者は人を招く格好で騒いでいた。子ども連れの母親が身投げをした様子であった。
 母親の姿はすでに見えなくなっていた。川面で苦しそうにばちゃばちゃともがく小さな子どもの姿だけが人目を引いていた。上潮時で、流れは緩やかだった。
 土手に駆け戻った職人風の男が、一間ほどの長さの板を投げ込んだ。が、手元が狂い舞い上がった板は、子どもの場所からはひどく離れた場所に落下した。土手の上の町人たちはただただ落胆した。
 と、その時、土手の上の人垣を掻き分けて、下帯姿の若い坊主頭の男が飛び出した。土手を駆け下りるが早いか、大川の流れに颯爽と飛び込んだのだった。溺れる子どもに視線を集めていた土手の上の町人たちの視線が、瞬時にその音と波紋に集まった。
 男は、水面に坊主頭を出したが早いか、抜き手を切って子どもに迫って行く。子どもに程近く寄った時、その姿を水中に消した。と、次の瞬間、左手で子どもを抱え込み、元の川岸へと手際よく泳ぐ様が見えた。町人たちは、泳ぎに合わせて、土手の下に転がるように降りてゆくのだった。
 ぐったりとした幼い男の子を町人たちに預けたその男は、
「母親の姿が、水底に見えた!」
と叫び、再び川の中央に向かった。
「気をつけなよ!多分、袂に石を抱いてるはずだろうよ。」

 泳ぐ男は、海念であった。幼い時から品川の浜で父親から教えられていたため、水練は達者な海念だったのだ。
 ほどなく、海念は水底に沈む母親らしき姿を探し当てた。錨(いかり)の役を果たす袂の石を取り出そうとした。が、梃子摺り、力まかせに両袖をもぎ取った。一瞬その身体が浮くようだった。海念は、その身体の襟首を手で掴み、勢いよく煽り足で水面を目指す。
 ブワァ、と水面に顔を出したその時、難事を聞きつけて来た舟が間近に寄ってくるのを海念は見た。
「この人を早く!引き上げてくれ。うつ伏せにさせて背を押し、水を吐かせるんだ!」

 情けの篤い町人たちが、甲斐甲斐しく動き、医者も呼ばれた。大川の水をたっぷりと飲んではいたが、子どもの一命は取り留められたのであった。三、四歳位の男の子であった。職人が与えた半纏で身を包まれ、しゃくり上げるように泣いていた。
 しかし、そのすぐ脇の戸板の上で、両袖がはずされたみじめな姿となった母親には、やがてむしろが被せられることとなった。
 海念は、上気した町人たちに囲まれていた。下帯だけの濡れた身体を、町人たちが差し出した手ぬぐいで拭いながら、脱ぎ捨てた法衣を眼で探すのだった。
 先ほどからこの場を仕切っていた鳶の頭(かしら)といった風情の男が、海念の衣類や持ち物を抱えて差し出した。
「お坊さん、ほんとにありがとうよ。いい人助けをしていただいたよぉ。この子のおっかさんはいけねぇようだったが、子どもにはなんの罪はねぇんで、ほんとによかった。ありがとうよ。」
 興奮さめやらぬ口調で、矢継ぎ早にそう言った。
「いや、たまたま通りかかったものでしたから‥‥」
 この時偶然にも海念は、下総(しもうさ)方面への托鉢に向かうべく、ちょうどここに差し掛かっていたのであった。
「お坊さん、名前はなんとおっしゃるんで?海念さんかい。まだお若いご様子でやすがおいくつで?十九でやんすか。りっぱな、もんですぜ。そうそう、この子はご浪人さんのお子さんのようですぜ。土手の上にあった遺書は達筆なもんで、多分そういうことなんでしょう。仏さんのことは、お役人に知らせやすが、この子は当分あっしのところで預かり、善後策を練りやしょ。その点は任せておくんなさい。」
 浪人の子という言葉が、海念の心に突き刺さって残るのだった。
 法衣の姿を整えた海念は、すぐさま母親の亡がらの傍に寄った。そして、無念な生涯をなだめるように、手厚く経をあげるのだった。子どもが泣きながら見つめていた。
「お坊さん、今日はもうこの時刻じゃ渡し舟も出ませんので、良かったら明日の朝一をあっしのうちで待たれてはいかがでやんしょ?なあに、むさ苦しいとこですがね。」

 鳶の頭ふうの男、政五郎の住まいは、日本橋馬喰町の裏長屋だった。
 政五郎たちが戻った時、すでにうわさが広まり、長屋の職人たちがごった返していた。そんな中に、心中母子(おやこ)を知る浪人たちもまじっていた。
「まあ、これも何かの因縁と言う奴なんでしょうね。今夜は、仏さんになりなさったおっかさんのために、まあ内輪でお通夜ということにさせてもらいましょうや。」
 さすがに頭と言われる政五郎は、あっと言う間に仮通夜の段取りを済ませ、狭い長屋は人で埋まった。母親の死を分からない子どもが、無邪気に握り飯をほうばる姿を見ては、長屋のかみさんたちが一様に涙ぐんでいった。また、海念には、丁寧なお辞儀をしてゆくのだった。
 一通りの段取りが進むにつれ、男たちには酒が入るようになった。夕刻の大川での救出の情景を自分の手柄のように話題としていた。また浪人生活の苦しさも時々話題に上るのだった。
「本日は、誠にかたじけないことでございました。実は、拙者は、あの子の父親を知る浪人中村小平太と申します。奥方は哀れなことでしたが、それでも亡がらがその場で引き上げられたので、きっと仏も成仏できることかと存じます。これもみな、お坊さんのお陰だと感謝いたしております。」
 海念の前に正座した浪人小平太は、両手をついて深深と頭を下げるのだった。そして、遺された子どもに視線を向け、流れ落ちる涙を隠そうとはしなかった。
「あの子の父親とは、もう長い付き合いでした。浪人暮らしに疲れ、居酒屋で不祥事を起こした折に拙者が仲に入ったのです。それが縁で、同類相憐れむの格好となった次第でごさる。気性は荒かったが、剣は達者な男でした。
 町人向けのある道場の指南役にありつけ、大喜びをしていたものでした。あの子が生まれたのはそんな頃だったでしょう。大層喜んでおりました。
 良かった、良かったと安堵していたのでしたが、ほどなく、市中の良からぬ旗本くずれたちと揉め事を起こし、挙句の果てに命を落とす羽目となってしまった。一年ほど以前のことであった。
 時々、あの母子の様子は確かめるつもりで訪問しておりました。奥方も裁縫の内職をされておられたが、気弱なお人だったものでこんなことに‥‥。拙者も、寺子屋まがいの勤めで口に糊する立場ゆえ、誠に口惜しい限りでござる。」
 実直な小平太の言葉を静かに聞きながら、海念は、遠い昔の父親の面影に似たものを感じとっていたに違いなかった。
「そうでしたか。わたくしの父上も長い浪々の身であったと聞かされております故、その苦しきことはご推察いたします。」
「ああ、そうであったのか。して、お父上はご健在か?」
「幼き頃に他界いたしました‥‥」
「うーむ、ご無礼いたした。」
 二人を囲む職人たちは、それぞれに陣を組みがやがやと宴を盛り上げていた。二人の会話も、その喧騒にかき消されがちとなっていた。
「いま少しお上に、浪人たちへの武士の情けなるものが欲しいと思ったりもするのだが、言うても詮無いことかのう‥‥」
「‥‥‥‥」
「とんだ長話をしてしまい誠にご無礼いたした。拙者もこの裏長屋に住しておりまする。是非機会を改めておこし下され。」

 海念が、保兵衛が胸騒ぎを覚えた江戸の浪人たちとの縁を持つに至ったのは、実にこれが契機なのであった。(2002/03/03)

2002/03/04/ (月)  『いき』の効用シリーズ:『いき』復活と野暮撃滅国民会議を、野暮に提言!

 早春の自然風景は何故うれしいか?
 葉を落とし切って、慎重そうに硬い小さなつぼみで外気の様子を窺う野暮な木々たちを尻目に、その臆病さを笑いつつ、見事、いの一番で咲き切る梅の花たちの潔さがうれしいのである。
 それは、あたかも命懸けで燃え盛り、火の粉舞う屋根のてっぺんで纏(まとい)を振り回す江戸の火消したちの危うい乱暴さと似ていようか。
 寒の戻りを予期せぬほどの了見なしであるかどうかなんぞの問題ではない。
「咲いたが以上、雪の中でも咲き切りやしょう。」
という意気地が見事なのである。ここには、唖然として愛でる者に、
「よしーっ!」
と口ずさませずにはおかない『いき(粋)』と、美意識が、しっかり存在しているのである。
 桜は、うだうだと未練たらしく咲き続けずに、あっと言う間に散るところに潔さが見てとられる。梅と言い、桜と言い、その心意気の良さは、待ち焦がれた春にまさしく華を添えてくれると言うべきである。

 これらに較べ、人間界はなんとあいも変わらぬ野暮尽くめであろうか。野暮を通り越してただただ醜態でしかない政治家たちの身の処し方、野暮を礎(いしずえ)にして、怠惰と開き直りを上乗せしている官僚たちの横柄さ。そして、わが身にも当てはまると思しき直接性と計算づくのあさましく、世知辛い世相。
 どうも昨今息苦しいと思い、空気中の酸素含有量が切り詰められたかと勘繰っていたら、原因は、この日本の文化が、日増しに『いき』の美意識が失われ、野暮化の一途を辿っていたからなんですねえ。
 今週は、『いき』シリーズといった野暮な設定で、あの天然記念物『とき』のように絶滅の一途をひた走る日本庶民の美意識『いき』について、思いの丈(たけ)を綴ろうとしている。
 世の中が、このまんま突き進んで行ったひにゃ、確実に銭意識と、がき根性が席巻(せっけん)する時代、右をむいても左を見ても、ビル・ゲイツの親戚みたいなものばかりの時代が来る妙な予感がしているのだ。
 多分、あの『構造改革』も、野暮のかたまりでしかない政治屋たちの手に掛かってゆけば、味も素っ気もない、ただただ焼肉定食、いや弱肉強食の地獄パートUに変えられてゆくだけのように思えてならない。

 しかもである。後ほど、詳しく『「いき」の構造』(九鬼周蔵)とやらを再勉強せんとしているが、「いき」という美意識は、異性間で作用する「媚態」に棹差す素性を持っているのだ。
 ところがである。これからの日本は、ド高齢化時代を迎えようとしている。放っておけば、異性間の何たらかんたらなどが限りなく最小化してゆく傾向にあると言えるのではないか。これが、まずい!
 本来なら、年老いてますます『いき』な素振りに磨きが掛かり、高齢者たち(自分たち)はますます溌剌、生き生きとしてゆくはずなのである。これが『いき』の美意識の魔術でもあるのだ。
 それが、現時点における『いき』の長期低落傾向、全面廃止(?)直前の動向は、人間関係をひたすらモノトーン化して、彩りのないものに変えてゆくであろう。これでは、高齢者たちの生活から、いまひとつ潤いを欠落させ、生き甲斐を薄れさせることになってしまいはしないだろうか。

 このほかにも、現時点で緊急に、『いき』復活と野暮撃滅国民会議ほどのものを開設しなければならない理由はいくつもあるのだ。政治家たちの歯止め知らず、恥知らずの所業抑止はもちろんなのだが、若年世代のさまざまな暴走にも効を奏すると見ている。
 彼らに、いまさら道徳云々というのは馴染みにくいはずだろう。異性間の心理に根ざす『いき』の美意識こそが、再生可能だと見ている。これが復活するならば、『いき』が内蔵する反骨意識は、集団での弱い者いじめを激少させるかもしれない。あわせて、行き着くとこまで行き着いた性風俗を、プラトニック方向へUターンさせるかもしれない。即物的傾向の強い彼らの行動様式に、精神作用の妙味と興味を持ち込むに違いない。

 わたしは、自分を野暮な奴だと自覚している。野暮な奴こそ、『いき』を求めるもので御座います。
 しかし、『いき』の宝庫と言える江戸古典落語が、今では重要な心の支えのひとつとなっている。また、『男はつらいよ!』のフーテンの寅に、おかしさと同程度の『いき』の要素を認識しているわたしなのである。(2002/03/04)

2002/03/05/ (火)  『いき』の効用シリーズ:限りある命を持つ人間の条件こそが『いき』だなあ!

 自分はやっぱり、『いき』について能書きが言えるような立場じゃないなあと、早くも反省し始めたりもしている。ただ、ものを書くのは、能書きたれるように、上方から鳥瞰する視線で書く場合だけに限らず、求める気持ちをバネにして下方からの視線で書くことだってあってよいはずだと、野暮っぽく、自身を勇気づけたりしている。

 昨今、再びこの『いき』という美意識に関心を向け始めたのは、余りにも『いき』ではない現象ばかりでげんなりしているからであろうか。
 とりあえず自分なりの『いき』の美意識を表現しておくなら、「はかなさの逆説的な眩さ」とでも言っておくことにする。九鬼周蔵が分析する『いき』の内容からすればお粗末極まりないが、無いよりましの出発点である。
 現在では、もはやこの言葉すら忘れ去られ、廃棄されようとしており、『いき』という言葉そのものが『いき』だと言えてしまうのではないか。要は、『いき』な何々、例えば『いき』な女、『いき』な男、『いき』な素振り、『いき』な仕草、『いき』な黒塀から始まる『いき』な対象が、ことごとく消滅しつつあるからだとも言えよう。
 もっとも[ 要するに「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』という「苦界」にその起源をもっている。(九鬼周蔵)]とされ、「苦界」とは「廓(くるわ)」なのだから、消滅してしまって当然と言えば当然なのかもしれない。わたしだって、いくら品川育ちだとは言え、九歳、十歳以前の品川の文化を知っているはずはない。
 しかし、『いき』とは、廓文化の華であった婀娜(あだ)っぽさ、艶かしさになどに分かりやすさを持つ感性だとしても、この周辺のみに限定されるものではなさそうである。より普遍的に、日本の庶民の美意識に、重要な支柱を提供してきたものであったような気がしてならない。
 九鬼周蔵は、『いき』という美意識の内部構造として、「媚態」、「意気地」、「諦め」を取り上げ、それらの精神的緊張関係の上に、『いき』な何々が生まれる、と述べている。また、『いき』=「意気」と対立する概念として「野暮」を定義し、「意気」と類似しつつ異なる「渋味」、「甘味」、「派手」、「地味」、「上品」、「下品」などと比較しつつ微妙で深遠な意味を模索しているのである。酒が入るとどこぞのオッサンが語りだすような薄っぺらな色気論議なんぞでは決してないのだ。まあ、無関係だとは言わないにしてもである。

 どうも、『いき』なる現象が駆逐されていった事情は、あたかも「河原のすすき」が、北米原産の「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」に取って代わられた事情、池や湖の住人が「ふな」たちからブラックバスたちに取って代わった事情と酷似しているのであろう。
 西条八十(さいじょうやそ)作詞の昭和五年頃の流行歌に、この事情の片鱗が残されているそうである。
「恋の新橋浮名の銀座、<粋(いき)とモダンの裏表>、ジャズの酒場を‥‥」
 「モダン」=近代(化)こそが、『いき』の美意識を後退させていったということであろう。十分に想像し得る事情だと思える。
 「はかなさの逆説的な眩さ」は、「エネルギッシュな眩さ」に当然のごとく道を譲ったものと思われる。
 そして、「モダン」が支配し続ける時代となれば、「はかなきもの」のいっさいが退けられる趨勢となり、「モダン」の尖兵である堅牢それ自体たる金属や石やアスファルトやプラスチックといった野暮なモノが溢れる世界となっていったのであろう。
 人々の意識の上だけに、はかなさを基点としつつもこれに抗することの眩さに意を払う人間感情を残せと言う方が、土台無理な注文なのかもしれない。

 しかし、時代は、堅牢なモノの時代を突破して、形さえ見せない不滅の存在たる「情報」という野暮な化け物の時代となってしまった。この時代に、それでも何ら条件的には変わらずにいる人間個々人の命としてのはかなさ(これを『いき』と言わずしてなんというべきか!)、それを見つめるきっかけはどこにあるのだろうか?人間のはかなさに対して率直で、素直であった時代とその文化を振り返ることの意義は、こんな現代だからこそ計り知れないものがあると思える。(2002/03/05)

2002/03/06/ (水)  『いき』の効用シリーズ:はかなきもの、辛きものを見事に反転させている!

 高校の修学旅行で京都に宿をとった折に、京の宿から抜け出して懐かしい大阪の叔父、叔母の家に遊びに行ったことがあった。宿から電話をしたら、小学生以来の望郷の念がつのり、止むに止まれぬ思いで宿から飛び出した。相部屋の数人の同級生には、手を合わせ何とか見回りの先生をいなしてくれと頼んだ。だが結局ばれて、皆が寝静まった後に担任から説教と、まあいいかとの共感を得たものだった。
 父の姉にあたる叔母は、関西人ではあったが『いき』な女(ひと)だと子ども心に思っていた。幕末の志士たちを支えた京おんなとはあんな女(ひと)たちではなかったかと勝手に想像したりもしていた。いつも、隙のない形のお化粧をしていた。そして、うわべだけではなく、心にもしっかりと筋の通った化粧をしていたと確信している。
 叔父が、『いき』なダンディストであったが故だとも思えた。最期まで酒を離さなかった人だったが、カメラの好きな物静かな人、それでいて心に琴線をピーンと張った孤高の人の様子を覚えている。
 そんな叔父、叔母に会いたくて、無法を仕出かしたのだった。喜んでくれた。特に、叔父は。
「男の子はそれくらいの我がままを平気ででけへんとあかん。」
と言い切って、修学旅行の高校生に酒まで勧めてくれ、フラッシュなしの明るいレンズのカメラで横顔を撮ってくれた。叔母が、「まあ、まあ。」と言いながら朗らかに笑っていた。
 叔父が先に逝った後、叔母は叔父の手仕事を引き継ぎ、死の直前まで『いき』の美意識に支えられて、張りつめて生きたと聞いた。

 「いきがる」という言い回しがあるが、この言葉が『いき』の何たるかを照らし出しているようにも思う。文字通り薄っぺらに「いきがる」ばかもいるにはいるが、「いきがる」気持ちを制止できなくさせるほどに、『いき』は心を揺さぶるほどにかっこよく、そして『いき』に秘められた「やせがまん」は見るに見かねる緊張感をみなぎらせていると、そう言えるのではなかろうか。
 はかなきもの、辛きものが、それらにひたすら耐えるのではなく、「てやんでい!」と言わんばかりに反転して(半纏着て?)輝く様が、喩えようのないおもむきを醸し出すのである。それが、男であれ、女であれの「お見事!」であり、本当の意味での色気と言わなければならないのだ。
 九鬼周蔵が、『いき』の原点を「媚態」としたのも、決して無節操な媚びを見ていたのではなく、「意気地」という毅然としたもので律せられたものであった。からだは任せても心は売らぬ「意気地」だからこそ『いき』なのであった。
 見えたの見えないのというしょんべん臭い色気やエッチなんぞは、完璧に別世界のものだと言ってよいだろう。はたまた、心の作用を度外視した、溢れんばかりの、見てくれのみの『いき』もどきにもげんなりさせられるものだ。見えたまま以外に「意味」を含まぬ形象に、心ある人間が心動かされないのは至極当然の成り行きのはずである。

 現代が衰弱させている人間の美意識のおぞましさは、美というものが人間から離れてでも存在し得るかの錯覚に陥っているところに原因があるのかもしれない。美とは、外在するのではなく、外在する対象と心との緊張関係で自覚されるものではないのだろうか。
 眼に優しい色の周波数がどうのとか、α波の脳波を発生させる音や形象がどうのとかいう現代科学が好きな分析・分解の手法で、心の作用が要点であるはずの人間をいじり回さないでほしいと懇願したい。
 現在生じている人間のさまざまな不幸は、どうもこのミス・マッチ、つまり人間の豊かさが、意味を求めるざるを得ない衝動と、深遠な心の作用に立脚していながら、これらが外在するモノで置き換えることが可能と勝手に思い込む文明との間での、重大なミス・マッチから来ているような気がするのである。

 「唄を忘れたカナリヤ」のように、『いき』を感ずる心、意味を求めなくなった人間は、後ろの山に捨てられてもしょうがない存在、モノとしての生ゴミと成り果ててゆくのだろうか。(2002/03/06)

2002/03/07/ (木)  『いき』の効用シリーズ:『男はつらいよ』に観るつらさと一体の『いき』!

 渥美清が演じるフーテンの寅次郎の国民的映画『男はつらいよ』シリーズ(山田洋次監督)における『いき』の美意識について考えてみたい。
 テキ屋または香具師(やし)という名の渡世人稼業が、店を張ってバイをする(売る)ものは、履物、玩具、本などであるだけでなく、メリハリきいた口上にあふれる男の覇気であり、心意気である。バイの成果は、勢いその立ち振る舞いの『いき』さが左右すると言ってよいのだろう。まさに、『いき』な稼業だと言ってよい。
 確かに、九鬼周蔵の『いき』に関する分析の中の「諦め」という要素が突出している。叩き売りで釣瓶落とし風に、「ヤケのヤンパチ陽焼けのなすび」風に値段を下げてゆく、その思い切りのよさ、その諦めのよさは、『いき』の重要な面である「さっぱりとした感覚」を存分に振り撒いて余りあると言える。
 しがない渡世人稼業が、一世一代の見せ場とも言える場で、見ている客の誰よりも心意気と思い切りのよさを貫徹するのは、『いき』と言わずしてなんと言うべきかである。
 しかし、寅さん映画の『いき』は、実はそこにあるのではないと思っている。そこにあるのは、あるいはそれと似た寅次郎の日常の言動は、本当の『いき』ではなくて、多分にもしくは相当に作り事である『いき』がるおかしさなのではないだろうか。
 そして、もしそれだけならばこの映画はシリーズとなるべくもなかったと思う。おかしさとともに、相当にチャイルドライクな寅の振る舞いは、時として見るに耐えない場面もあるからである。おいちゃんのせりふである「ばっかだねえ!」が、額面どおりのばか、迷惑者のばかでしかない場面もしばしばあり、それだけなら何度も見たいとは思えなくなってしまうであろう。
 寅さん映画の本当の『いき』、山田洋次監督が段取りする『いき』とは、むしろ、けらけら笑える場面ではない醒めた場面と、それが転じて正月の境内で威勢良くバイする寅の場面との、そのコントラストによって観る者に伝えられているように思うのだ。

 ちょいと長いが、フーテンの寅次郎のせりふが入ります。
「‥‥俺には七つ八つ歳下の妹がいてな、さくらって言うんだ。十年も十五年も昔、よくそいつに説教されたもんだよ、そんな暮らしをしてたらお兄ちゃんはきっと今に後悔するよって。なにしろ若い頃は真面目に働いている奴は馬鹿だと思っていたからな、俺は。大きなお世話だ、俺ァ太く短く生きるのよ‥‥そう言って相手にもしなかったんだが、ふと気がついて見りぁ気のきいた仲間はとっくに足を洗ってほどほどの女と世帯持って堅気の暮し、いい歳こいて渡世人人稼業をやってるのは俺みてえな馬鹿ばかりだぜ。
 こんなつまらねえことを経験して何になるんだ、ましてやお前は女だよ。悪いことは言わねえよ、風子ちゃん、この町で一生懸命働いて、真面目で正直な男をつかまえて世帯を持ちな。そりゃ多少退屈なことがあるかもしれねぇけど、五年か十年たってみな、あーあん時寅さんの言うこときいてよかった‥‥きっとそう思うから、な。」(第33作 夜霧にむせぶ寅次郎)
 と言ったような、ばかな自分は誰よりも俺が知ってらぁと口にする、それこそ思い切りのよい自己認識、潔さがそのまんまで『いき』だと言えるのである。売り言葉に買い言葉の『いき』がりの薄っぺらではなく、ばかを運命(?)として、こだわりなく客観視し、背負い込んで逃げないさっぱりとした心意気が「ほんまもん」の『いき』だと見える。
 この場面が、マドンナたちとの間での「失恋」時に必ず出てくる。言い過ぎになるかもしれないが、これは『カサブランカ』でのハンフリー・ボガートの男の色気、ダンディズムに通じる『いき』さなのである。寒い夜の柴又駅へ、薄着のテキ屋姿と雪駄履きで旅に出るお膳立て、そしてすぐさま明るく晴れた元日のバイ姿へと転じる、ここに観客は真の『いき』さを受けとめ、感涙に咽ぶのではなかろうか。
 これが、このシリーズ映画をダレさせない七味唐辛子でありブラックペッパーだったのである。人生にあっても、こうした美意識の薬味が必須なんじゃないかなあ‥‥

「私、生まれも育ちの葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使いました根っからの江戸っ子、姓名の儀は車寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。‥‥」(2002/03/07)

2002/03/08/ (金)  『いき』の効用シリーズ:落語に知る『いき』の反権力志向!

 『いき』な素振りを担った方々は一様に「反骨」的であった。
 「芸は売っても身は売りはせぬ」(芸者)、「身は売っても心は売らぬ」(花魁(おいらん))、「野暮な大尽なんぞは幾度も袖にする」(江戸の太夫)といった按配であった。通り一遍の「媚態」ではなく、反骨という意地の刃(やいば)を抱いたところに『いき』さが輝いたと言ってよいだろう。
 ところで、これらの意地は、野暮と、野暮を地で行く侍たちに対する江戸の町人たちの生活感覚より発していたようである。
 江戸の名物は火事、頻繁に起きた火事は一夜にして財産を水疱に帰してしまう。ここから、「宵越しのかねは持たねえ!」と言った江戸っ子たち特有の刹那的な気風が生まれたはずである。また、メラメラと燃え広がる火事に、悠長さは禁物、ここから迅速な行動と言えば聞こえはよいが、後先の考え薄いおっちょこちょいと気短が養われたのかもしれない。
 これに対して、当時、参勤交代で地方、田舎から江戸へ訪れた大名、侍たちは、「下に、下に」と身分を笠にきて威張る一方で、くどくど、うだうだとした身の処し方が、江戸っ子の気性を逆撫でしたに違いないのだ。ちょうど、現代のわれわれが役人や、官僚のくどくど、うだうだに調子を狂わされるのと同様であろうか。
 二百四十六大名に、旗本八万、御家人が加わり、とにかく江戸の侍の数は大層多かったそうである。慣れっこになっていたのと、江戸っ子にはある種の特権が与えられていたことにも目を向けたい。江戸市中での大名などの通行時には、町人たちは脇に寄ればよかったのである。「おい、でいみょうが通るぜ。」「そうかい、じゃ、でいみょうが通る間しょんべんしようかい。」なんていう話もあったくらいだ。
 こうしたことから、野暮の骨頂として侍=田舎者に対する反抗意識が、ますます江戸町民たちの基本感性となってゆく。「野暮と化物とは箱根より東には住まぬ!」とか、
「二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるかってんだ!気のきいたうなぎなんぞは四本も五本も差してらあな。」
と、あからさまに侍をコケにして、さらに悪態までついたという。この辺の事情はまさに落語がリアルにかつ見事に伝えることとなるのである。

 今は亡き円生(えんしょう)の『首提灯』が実にいきいきとしておもしろい。追いはぎ、試し切りがちょいちょい出る芝の山内(寺の境内)を酔っ払って、いきがった町人が、横柄な口ききの道に不案内な田舎侍をコケにして、一刀両断に首をはねられる話である。ところが、見事な切れ味のため、ご当人、首を斬られた事後にもそれと気づかず、品川方面へ遊びにゆく。が、やがて首のすわりが悪くなり、横向きになったりする。やっと斬られたことに気づいた時、ジャンジャンと半鐘が鳴って火事に遭遇。あっちこっちから野次馬が飛び出しぶつかってくるので、自分の首をひょいと差し上げて、提灯のように「はい、ごめんよ、ごめんよ。」という話なのだ。
 考えてみれば薄っ気味の悪い内容なのだが、そうした臭みがまったく感じさせられないのは、まさにその町人の『いき』さ、田舎侍に対する威勢のよい啖呵の切れ味のせいなのであろう。ちょいとのぞいてみると、

「おいおい」
「なんでえ、おじさん。てめえがいま『おいおい』ってそう言ったじゃねえか。」
「それがしは江戸表へ勤番に相成ったもので、こんにち浅草へ用足しにめえって、これから麻布の屋敷に帰ろうとおもうが、土地不案内で道が相分からん。麻布へめえるには町人どうめえる。」
「ぺっ、よせよおこの野郎、いやにくそ落ち着きに落ち着きやがって、ええっ、麻布へめえるには町人どうめえる、でやんの。何を言ってやんでい。どうにでも勝手な方にめえれ、ばかっ。てめえみていな田舎侍が道に迷ってくるだろうなってな、夜中に手銭で酒飲んでこんな寒いところに突っ立ってる馬鹿があるかい。‥‥領分の百姓脅かして道を聞くのとわけが違う。江戸っ子はつむじがまがってらあべらぼうめ。てめえみていな道の聞き方をしやがって、誰ひとりおせえるものはねえや、なっ。道の聞き方をしらねえってんなら、おれがおせてやらあ。土下座して聞け、このすりこぎ野郎。」

 と、田舎侍のうだうだ口調と傲慢な口利きに悪口雑言を機関銃のように浴びせ、おまけに羽織の家紋にたんまではいて、ばっさりと斬られてしまう町人なのである。
 侍に対する反抗意識の落語は、このほかにも『たが屋』がおかしい。両国の川開き、花火見物の折り、両国橋の橋の上でこれまた理不尽な振る舞いの馬に乗った侍の首を、通りがかった「たが職人」がはね上げ、「玉屋ー!」ならぬ「たが屋ー」と町人たちが声援する話である。考えてみれば、ここまでやるか、といった反骨意識なのだ。
 だが、なぜそれほどの反骨意識が醸成されたのかにこそ目を向ける必要があると思われるのだ。侍の役割がすでに終わろうとしているにもかかわらず、迷惑な権威を振り回す野暮でしかない存在に、不当な扱いに甘んじざるを得ない町人たちが、精一杯美意識で反抗したものだということではないか。
 時代は変わっても、同じような事情の構図がわれわれを取り巻いている。だが、われわれには、江戸町人ほどのシャープな切れ味の美意識が継承されているのかが問題であるような気がしないではない‥‥(2002/03/08)

2002/03/09/ (土)  『いき』の効用シリーズ:「ただ憧れを知るもののみ」が抱く悩みを悩みたい!

 「ただ憧れを知るもののみ」(ゲーテ)というとてつもなくかっこいい言葉がある。
 現代という時代は、「自意識」は過剰ではあっても、美意識は乏しいと言わざるを得ない。他人や世間の目を意識した「恥」意識ですら、滅びさろうとしている時代に、ゲーテの言葉や宗教心にも通じる自立的内面の構成物とも言える美意識が無力となっているのも、決して不思議なことではないのかも知れない。

 今週は、『いき』という美意識について野暮な文章をしたためてきた。言うまでもなく、このご時世が、平面的なタダモノに過ぎて、人間的な立体感に乏し過ぎることが息苦しくてならなかったのである。
 形や数字さえ帳尻合わせできれば、それでいいと言わぬばかりの風潮、目に見えるもの以外に一体何があるのだと叫び、見えない陰や闇では、何の良心の呵責もなく悪の限りを尽くす「人で無しのべらぼうめ」たちが蠢く情けない現実!どうしてこんな風になってしまったんでしょうかね。
 エコノミック・アニマルだと世界から揶揄された高度経済成長の時期に、一体誰がこんな味気ない平面的な世界、つまり縦軸に¥や$の数字、横軸に時間の数字という魅力乏しき二次元世界への突入を予期したでしょうか?多分当時の日本には、まだまだ人間的立体感を支えた存在が溢れていたはずです。むしろ、それらがあったからこそ経済がうまく回ったのかも知れません。いや、それらを食い潰すかたちで日本の経済が発展したのだと言うことさえできるかも知れない。人情や、犠牲心や、職人の誇りや、人のよいまあいいかという諦めや、切なく胸に秘めたささやかな将来への夢‥‥なんぞをたらふく食ったがために、日本の経済はブレイク・スルーできたに違いない。もし、当時から日本が、今の米国社会のように、権利意識と訴訟意識丸出しの庶民であったならブレーキが焼け付いていただろう。

 ただ、そんな現象をあげつらって嘆いてばかりいてもしょうがないと、いつの頃からか思い始めたのでした。批判してるだけじゃだめなんですね。「べらぼうめ」たちだって、批判されたって、多分どうしようもないのかも知れません。ほかに魅力的な生き方なんぞ無い以上、当面は叩かれて痛いのを避けるべく死んだ振りはするものの、結局、元のタダモノ世界に戻り、遮二無二お休み期間のへっこみを取り戻そうとするだけなのかも知れませんから。
 また、われわれ自身だって平面的なタダモノ世界に対する心の中の歯止めをどのように設けているのかという、結構シビアな問題だってあるわけです。批判することが、南無阿弥陀仏をとなえて救われる免罪符的な意義を持つ時代はとっくに過ぎたんでしょうね。
 批判意識をバネにして、自分自身の内側に、こんな世界はイヤダ!という歯止めを作りあげてゆくしかないのかも知れません。そして、それではと言ってこういう世界に生きたいのだと思う世界を、自作実演してゆくこだわりが必要なのかと。
 思考のロジックも重要には違いないが、日々の生活をしっかり支える感性、美意識、プライドなどが、今、重要だと思えてなりません。そんなものは「危ない!」と考える人もいるかもしれないけれど、論理だけで構築する世界観はすでに破綻しているのが事実です。立体的な人間を生かす、立体的な社会づくりのためには、われわれひとりひとりが自らの内面を耕すことが欠かせないと、当たり前のようなことを考えたのでした‥‥(2002/03/09)

2002/03/10/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (30)

 下総、上総、安房での托鉢修行は、海念を逞しく変えたようだった。笠と法衣で身を覆ってはいたものの、照り返す房総半島の初夏の陽射しが、海念の手首と言わず、首筋、顔を黒々と日焼けさせていたのである。
「お坊さん、乗んなされ。あと一人くれえはだいじょうぶだ。」
「ご喜捨いただけますか?」
「へいようがすとも、へい、ようがす。乗んなせい。」
 渡し舟の年老いた船頭の言葉に促され、大川端の桟橋に佇んでいた海念は、舟に乗り込んだ。
 夏を迎えた両国付近の大川の川面は、ぎらぎらと照り返していた。それでも、舟が川の中央に出ると川面を渡る涼しい風が乗り合った者たちの顔にそよいだ。
 小さな男の子が、船べりから手を垂らし、川面の波に触れようとしている。その手は川面には届いていなかった。海念は、ふうっと、半月ほど前に自分が助けた幼子のことを思い出すのだった。
 どうしているだろうか。母親が亡くなったことをどのように理解しているのだろうか。この後、気丈夫に生き延びてゆけるだろうか、と渡し舟に揺られながら海念は、心細そうな幼子の面影を思い浮かべ、案じるのだった。

 とその時である。
 海念の視線は、川面に、明るく薄っすらとして頼りなく浮遊するその影に釘付けとなった。岸へと近づいてゆく渡し舟に沿いながら、四、五間ほどの距離をおいて、川面をゆっくりとすべるようにゆく女の姿なのであった。
 一瞬、目頭が熱くなった。海念は軽く笠を上げて、しっかりと、そして優しく見届けた。両袖のない地味な着物をまとった女が、こちらを向いて、切なく訴えるように、何とも言えない表情をして会釈した。そして、その姿は、土手に自生した人の背ほどの夏つばきへとすうっと流れてゆき、そのかたちと重なるように消えていった。
 船頭に礼を言った海念は、すかさずその夏つばきのもとへと向かうのだった。
 それは、桟橋からほど近い場所でひっそりと佇み、華奢な枝葉に、いくつかの白いつばきの花を咲かせていた。
 海念が、すべてを了解していたことは言うまでもない。
 母親は、幼子のことが気掛かりなのであろう、無理もないことだ。そう、海念は女の哀れさに胸を詰まらせるのだった。
 夏つばきの傍に立ち、海念はしばし静かに合掌し、眼を閉じた。先ほどの女の切ない表情が瞼の裏に何度も浮かんでは消えた。分かりました、安堵なさってください、と海念は心の中でつぶやくのだった。
 どのくらいの時の経過であろうか、夏草の息を含んだ柔らかい空気が、その夏つばきの木と海念とを包み込んでいた。
 われに返ったかのように、海念は思った。
『そうだ、馬喰町のあの頭(かしら)の裏長屋に寄ってみよう。幼子の様子を確かめてみたい。また、あのご浪人中村小平太殿にもお会いしたいものだ‥‥』
 そんな思いに何やら心が急かされるようになり、海念は日本橋馬喰町の裏長屋へと足を向けるのだった。

 馬喰町の裏長屋の路地では、職人の子どもたちが走り回って騒いでいた。
 と、その中に、あの幼子が、みんなの後をみそっかすとしか言いようがない格好でまとわりついているのが眼に入った。幼子は笑っている。なぜだか、ほっとする海念であった。
「あらあら、あん時のお坊さんだねえ。まあまあ、よくいらっしゃいました。あのあともお坊さんのうわさで持ちっ切りだったんですよぉ。頭も喜ばれるよ。さあさあ、頭んとこへ。」
 井戸端で洗い物をしていた見覚えのある小太りした長屋のおかみさんが、前掛けで両手を拭いながら海念を出迎えていた。
「いやあ、海念さんじゃ御座んせんか。その節ぁ、ご大儀なことで御座いやした。お待ちしていたんでやんす。まあまあ奥へ、さぁさぁ。」
 相変わらず威勢のいい頭の口調を懐かしく感じた海念だった。
「おい、お茶をお出ししねえかい。」
 海念への茶を指図したかと思うと、頭はこの間の事の成り行きを立板に水で語り始めるのだった。
 頭の話によれば、直太郎を養子として引き取りたいと思案しているがどうだろうか、ということだった。直太郎とは、あの幼子の名である。
 あの身投げ事件のあと、奉行所、町役人らの立会いで母親の遺書を手掛かりに、直太郎の親族が詮索されたという。しかし、既に身寄りは途絶えていた。そうであったからこその親子心中だったのだとみなが納得したものだった。
「なあ、海念さん。あっしはこれも因果だと思ってるんでさあ。幸い直太郎もどうにかなついてくれやして、娘たちもみんな、かわいい子だと言って世話をしたがっておりやす。どうでやんしょ。なんせ、直太郎は一度は大川の藻屑となるところを海念さんに救ってもらったんだ。その命の恩人の了解なしには、あっしら何ともできやせんやね。
 あっしんとこは、どういうもんか娘ばっかで御座いやす。もし、直太郎がその気になってくれりゃ、鳶としてあっしのあとを継がせたいとさえ考えてるんでさぁ。」
 頭は、煙管煙草を手にした正座の格好で、前かがみとなって海念の顔を覗き込んでいた。その表情には、何としてもうんと言って欲しい気持ちが滲んでいるように見えた。
 海念は、既にこうなるだろうことを薄々想像はしていた。だからさほどの唐突さを感じなかった。むしろ、武士の子として生き長らえてゆくより、実の力で町人として生き抜く方がよいとさえ思ってもいた。
「頭、わたしなんぞが口出しすることではありませんが、あの子にとってはその方が幸せだと思います。どうか、頭の子として末永く育ててあげてください。よろしくお願いいたします。」
 海念は正座の姿勢で深々と頭を下げるのだった。
「そうですかい、そうですかい。ありがとう御座いやす。海念さん、おめいさんからいただいた命、確かに預かりやした。海念さんのように、人助けのできる男にきっと育て上げますんで、この先もどうか見守ってやっておくんなさいな。」
 頭も、畳に両手をついて深々と頭を下げた。
「頭、ひとつお願いがあります。実は、ここへうかがう途中で‥‥」
と、海念は渡し舟で目にした哀しい情景を伝えるのだった。
「きっと、今はあの子も大川を見るのがいやに違いありません。もう少し時が過ぎたら、元気な姿を見せに連れて行ってやってください。それが供養になると思います。」
「分かりやした。あの土手の夏つばきの場所でやんすね。何とも、哀れな話でやんすねえ。あっしはこう言う話には弱いんで‥‥」
 頭は、懐から手ぬぐいを取り出し、人目をかまわず涙を拭った。
「きっと時が経ったら連れてゆきやす。そん時にゃ、直太郎といっしょに、おっかさんの小さな墓こさえさせてもらいやすよ。」
 海念は、その頭の言葉を伝えるかのように、あの大川の川面の上での悲痛な女の表情を再度思い浮かべるのだった。

 やがて、直太郎が呼ばれ、命の恩人への挨拶が促された。また、今日からはうちの子だというお披露目がなされた。みんなが朗らかに喜び、直太郎も屈託無くはしゃいでいた。
 海念は、そんな中をいとまごいをして、中村小平太の住まいに向かうのだった。(2002/03/10)

2002/03/11/ (月)  「質素」の勧めシリーズ:♪ぼろは着てても心の錦〜♪を忘れた日本人!

 永谷園の味噌汁のTVCMで、青春まっ最中といったいかにも行動派らしき若者が、味噌汁だけをすすり飯を食う場面がある。好感が持てるCMである。
 下宿なり、アパート住まい(もはやアパートではなくマンションなのか?)の経験を持つ者なら、何となく自分の過去を彷彿とさせるのではなかろうか。迷うことなく、万事「質素」でしかあり得なかった。
 手元にいくらかの金がある時は、外食もしたが、それとてできるだけ量があって安い定食屋を選んだものだった。そう言えば、厨房とカウンター仕立ての店で総勢二、三坪の小さなてんぷら屋の定食、百五十円也を飽きずに通ったことがあった。どんぶり飯、掻き揚げと小魚と野菜のてんぷら、そして豆腐のかけらがあるかないかの味噌汁。そんなものでも、食したあとは、満足な気分となったものだった。確か、それがストップしたのは、ある日、掻き揚げてんぷらにちいさなゴキブリが混ざって揚がっていたのを、口まで持っていって発見したことがあってからのことだった。わたしも驚いたが、それを指摘した時の、人の良さそうな旦那と奥さんの顔色を変えた驚きも尋常ではなかったことをよく覚えている。わたしも災難だったが、てんぷら屋の夫婦にとっても、命取りにつながりかねない出来事であったはずだ。その後、ゴキブリなんぞは怖くはなかったが、その掻き揚げを思い出したら、おのずとてんぷら屋を通り過ぎて、薄汚れたのれんのラーメン屋へ足が向かったものだった。
 いよいよ手持ち財産(?)が乏しくなると、自炊に進路変更することになったものだ。まず、米である。小さな枕程度の大きさの5キロくらいであっただろうか、そんなものを買い込んできた。そして、味噌にねぎ(長ねぎと玉ねぎ)、日持ちのするたんぱく質も必要と、いわしの蒲焼缶詰や魚肉ソーセージ二、三個。テレビ大の小さな冷蔵庫があったので、卵なんぞも買い置いた。これで、一週間を食い繋いだこともめずらしくなかった。
 ぎりぎりの空腹となって、料理(?)を手がけ、出来上がるのも待ち遠しく、ふうふう吹きながら一気に喰らうのだった。その様が、前述のCMの雰囲気なのである。

 一向にこうした貧乏というか、「質素」を苦に感じたことはなかった。多分、誰もが若い時代に感じるように、不安のもう片方に、今は仮の身過ぎ世過ぎだと思い込める将来への希望があったからかもしれない。何はなくとも、若さは多くのことに耐えられる底力を与えていたようだ。
 まずは、そうしたことを、現在の日本は支援しているかどうかに疑問を抱いたりする。若者たちから希望をさえ奪う構造が気になったりもする。
 しかしさらに、懸念するのは、「質素」な生活というものが、勢い貧しい生活として括られてしまう、それこそ貧しい発想が流布し切っていることなのである。虚しい心の空洞を、モノの所有で埋めて誤魔化している間に、モノこそすべてと感じる錯覚に突入してしまったのだろう。
 若い頃の「質素」な生活を貧しさと誤解させなかったのは、希望であったとともに、それこそ「♪ぼろは着てても心の錦〜♪」という大らかな内的充実の為せる業であったに違いない。内的なものに対する柔軟な感性や想像力が息づいていたと言える。モノがないことより、心が燃えないことに辛さを感じる正常さがあった。
 そうだとすれば、「質素」=「貧乏」と決めつける短絡的な発想の根源には、現代人が錦を着ながらも、錦に囲まれて生活しながらも、心はぼろで覆って済ましているという情けなさが潜んでいるのではないだろうか。内的な充実が問題視されなくなれば、関心が見てくれの華やかさにしか向かわなくなるのは至極当然のことになる。
 限られた地球資源というエコロジー視点もある。もはや過去のように成長し得なくなった日本経済の視点もある。モノの豊饒さと、贅沢を目的とする生き方は、いよいよもうよしにして、無限の広がりを繰り広げるに違いない心や内的な世界の開墾に関心を向け直してゆきたいと切実に感じている。

 「ムネオイズム」や自民党による金権誘導政治の本当の終焉は、国民自身がタダモノの世界を拒否して、心底、彼らの所業を侮蔑できる場合に限ってのみ成就する、そんな隘路ではないのだろうか。試されているのは彼らばかりではなく、われわれ自身でもあるような気がしている‥‥(2002/03/11)

2002/03/12/ (火)  「質素」の勧めシリーズ:動物たちを質素な楽園から誘惑してはいけない!

 むかし、うちの息子が幼かった頃、飼い猫のトラを見て見事な表現をしていたことを思い出す。
「トラちゃん見てると、ふわふわあとした気持ちになってくる。」と。
 確かに、動物たちの「質素」な「素質」と、素朴でつつましやかな暮らし方は、大人、子どもの区別無く急き立てられている現代人にとって、何とも「ふわふわあとした気持ち」にさせてくれる、ほかに探せない対象である。
 なのに、こともあろうにそんな動物たちを、非「質素」な人間地獄の世界へ引きずり込もうとする人々がいたりする。
「うちのメグちゃんは、ペディグリー・カルカンのライトしか口に合わないみたいなの。」
「うちの子なんて、あたしのお料理したものでないと食べないわ!」
 頼むから、純朴で幼気(いたいけ)な動物たちを、そうやって複雑な世界に引きずりこむのはやめてやってくださいな、と懇願したくなってしまう。同じ複雑は複雑ではあっても、昔は、別よけした煮干カスと残り物の味噌汁ぶっかけゴハンで、猫ちゃん、ワンちゃんもその正体、その構成分をうすうすは突き止めていたに違いない。
 しかし、彼らが突き止めようもない手の込んだ複雑なものを与えるということは、彼らの食性にキーワードを付すということではないか。もし、彼らが現有のご主人さまからはぐれたら、一体その独自の食性キーワードを誰が暗号破りしてやれるのか?これはまるで、自社特有の事務処理と、ほかに例をみない社内関係で雁字搦めにして、万が一ハローワークの世話になった際に、標準的能力の「売り」項目の欄に、何も書けなくてうろたえるサラリーマンを作り出している日本の産業界と同じではないか。

 「野生動物にえさをやらないで下さい!」という警告の意義はきわめて重要だと思う。野猿や猪が人家や畑を襲ったりすることに繋がることはよく知られている。人間側の被害を招くとともに、野生動物たちの生態系を崩すことになり、かわいそうなのである。
 人間は、野生動物たちが質素な暮しをしていて、「豊かな」食生活をしている人間が羨ましいのではないかと決め込んでいる節がある。しかし一概に言えることではないのではないか。まして、人間界の食システムは、牛肉問題を初めとして自慢のできる安全性ではなくなっている。
 しかも、質素さを旨とする自然界の営為に、過剰な人為を施しては混乱を生み出し、愚かしくも、再び自然に回帰しようとさえしているのは何だろうか。無農薬野菜珍重の傾向がそれを示唆しているだろう。ペットボトル入りの自然水も大流行である。

 動物たちのように自然環境と相即不離となれればと夢見ることも無くはない。しかし、発展の路線を選んでしまった人間には、それは不可能となった。その代わりに、嘆きながらも文明を維持発展させてゆくしかない。この総論の道理を根底から否定することはないが、文明のあり方の各論選択において、もっと自覚的であってもよいのではないかとそう思うのである。
 モノの豊饒に飽きていながら、モノの量を目の敵(かたき)にして追っかけることはない。頼りなく空洞化した部分、心と言ってもよいし、内的充実と言ってもよいそんな部分に思いっきり視線を振り向けてもいいのではないだろうか。そう思う時、「質素」な生活というイメージが湧きあがって来るのである。モノ的には「質素」な生活をしながら、内的には思いっきり贅沢をすること、これがこれからの生き方だと確信する。これが、主要なテーマだと決まれば、そこから社会環境の改造だって始められるのではないのかなあ‥‥(2002/03/12)

2002/03/13/ (水)  「質素」の勧めシリーズ:質素な生活は、モノの消費の本来を照らし出してくれる?

 モノが稀少になってゆく様をまじまじと見る時、その有り難さに気づくものだ。クルマのガソリンのエンプティ・マークが点る時、買い置きしていた缶ビールが冷蔵庫で最後の一缶となったのを見た時、小物容れの中にふりかけ海苔が最後の一袋となったのを知った時、あるいは、風呂場で石鹸がカミソリほどに薄くなっているのを見つけた時、わたしの感性は激しく揺さぶられ、モノへの感謝の念で心が戦慄(わなな)くのだ。
 わたしは、このモノへの有り難さという感覚が好きである。できれば、手を合わせて頭(こうべ)を垂れるようなそんな有り難さ感覚の連続で一日が送れれば、酒など飲まずとも夜はぐっすり眠れるのではないかと思ったりしている。
 しかし、思えばこうした希少価値に感謝する生活は、特別な境遇を望まずともいくらでも作り出せるわけだ。要は、たらふく買い置きしたりしないで、「質素」に買い込むか、大量に買い込んだとしても、「質素」に小分けして目に触れぬようにしておきさえすればいい。この際、けち臭いとか、しみったれとか、貧乏くさいとかを口にして、決して大様ぶったりしてはいけない。また買い物の手間や、まとめ買いの割安にも引き摺られてはいけない。まして、あればあったに越したことはないといった不要不急なものなんぞを無造作にショッピング・カートに放り込んだりするのは厳禁である。
 こう言うと、まるで国民的問題であるデフレ・スパイラルに荷担して、さらに経済悪化を強めよと叫んでいるような罪悪感が伴わないわけでもない。しかし、国民経済発展のために、モノを湯水のように使い捨てろという考えにはどうしても賛成できないでいる。アフリカの子どもたちが何万人と餓死している現実の歪んだ問題もあるが、本来モノが持つ有り難さを、額面どおりには感受できなくなる「不感症」がくせものだと匂ってしょうがないのである。

 モノへの有り難さ感にこだわることは、モノ第一主義を唱えていることと同じではない。贅沢は敵だと言っていることとも同じではない。まして、「欲しがりません勝つまでは!」なんぞとももちろん無縁である。
 それらは、いずれもモノの片側の面、あるいは表面しか見ていない発想である。小難しく言えば、モノの交換価値しかカウントせず、使用価値というモノの消費における主体側の意味を度外視している発想なのである。要は、売ればいくらになると言った量的視点への埋没が問題なのだと思う。
 これに対して、本当の、モノの有り難さ感というのは、他の人には無価値であっても、その磨り減り方、そのいたみ具合、その汚れ具合などのどれをとっても自分の過去の様々な思いを呼び覚ますような愛着に満ちて、手放せないような重みに通じることを言っているのである。こう言うと、危ない言葉であるフェティシズムの倒錯と誤解されそうだが、誰でも「わたしの大事なモノ」という場合には、同じ意味合いが潜んでいるのではないか。
 モノを消費する際に、しっかりと味わい尽くし、消化して使い切ることを言っているのであり、そうすることの動機としてのモノへの有り難さ感をくどくどと表現しているのである。そして、その手立てとして、「質素」な生活が必須であるような気がしてならないのである。折りしも、経済は否が応でも低成長を避けられない局面に遭遇している。

 経済界、産業界では、新たな消費対象が、かねてから模索されている。しかし、新たな消費対象を探すだけではなく、本来、汲めども尽きせぬ人間の消費形式を、一面的に追っかけてきて、そのことで大衆の消費感を一面化してきてしまったことをこそ問い直す必要がないだろうか。少なくとも、排他的に所有することだけを目的とするような消費というものは一体「どう感じれば」いいのだろうか‥‥(2002/03/13)

2002/03/14/ (木)  「質素」の勧めシリーズ:「質素」、「貧乏」、「けち」の差異!

 「質素」と「貧乏」と「けち」は似ていなくもない。これらの異同を論ずるにあたり、色の三原色、赤、青、黄の円が互いに中央で交わり三角形を為している図を想定していただきたい。赤、青が交わった部分は紫となり、青、黄が交わった部分は緑となり、黄と赤が交わった部分は橙となる。そして赤、青、黄の三色が交わった部分は暗黒となっているはずである。(光の三原色の場合は、白色であるが)
 さしずめ、「質素」、「貧乏」、「けち」を制覇している人と同居する方の生活は暗黒だと言えるのかもしれない。「貧乏」は青色だろうか。かのピカソも若く貧しい頃は、最も安い絵の具の青を多用し、後に「青の時代」と呼ばれる作風を作ったとも言われている。
 「けち」を何色と定めるかについては議論がないわけではない。筋金入りの「けち」な方は、赤っ恥をもものとはしないと聞くので、赤としておきますか。
 となると、「質素」は黄色ということになってしまう。なぜ、黄色が「質素」なのか?黄色は黄金を想像させ、秀吉の茶室を連想させ、元祖「質素」とも思える利休のわびさびの茶室と対極にあるではないか、とおっしゃる方がいるに違いない。ごもっともなことである。だが、ここでひるんではならない。英語での「イエロー」は、イエロー・カードに始まり、イエロー・プレス(低俗な新聞・雑誌)など、正反対の意味もあるからだ。
 そこで、『漢字源』などを紐解き、独自に調べるに、「黄」という象形は、「火矢の形を描いたもの。上(の部分)は光の略体、下は、中央にふくらみのある矢の形で、油をしみ込ませ、火をつけて飛ばす火矢。火矢のきいろい光をあらわす。」とある。わたしとしては、「黄」とは何か重要なことを照らし出す、あるいは注意(注意信号!)したり、警告したりする機能を秘めた色として見なしたい。
 「質素」と言うのも、質素そのこと事態が重要なのではなく、質素であることによって何がしか重要なものが見えてくるという点がやんごとなきことだと思うのである。

 色の三原色図を引き合いにだしたのは、各々の色がどうこうと言うより、集合論的な区別がしたかったのである。現象的には似ている「質素」と「貧乏」と「けち」とは、重なる部分、共通部分もあるが、それぞれ別な概念だと見なしたいのである。
 端的に言えば、「けち」とは、意図的であり、自己目的的である。モノの欠乏・消失を避けようとすることへの激しい執着があり、その分「けち」な行為には強引な「目的」性が漂う。なぜ「けちる」のかへの疑義をも、敢然と拒絶できるオートマチックさがある。
 「貧乏」な状態とは、言うまでもなく「結果」なのであり、そのことへの哀しい「諦め」が染み込んでいる点に特徴があるだろうか。したがって、「貧乏」な状態でのモノの欠乏・消失に対しては、時として無力さやなげやりさが伴ったりもしてしまうかもしれない。同じ「質素」な状態ではあっても、どこか雑然と放置した非秩序性が、見るものに耐えがたさを与えたりする。
 これらに対して、「質素」という範疇は、モノの欠乏への恐れもなければ、諦め感もない。むしろ、欠乏の状態こそが、あるいは過剰な豊饒さではない状態こそが、ものの本質を受けとめ易いのだとする悠然とした姿勢が認められるのである。もし切迫感があるとするならば、過剰さや贅沢を避けたい、削ろうとするそんな警戒心としてあるのかもしれない。「質素」には、ムダを削ぎ落とした清洒(せいしゃ)な美がそこはかとなく漂っているはずである。
 と、「論理的」(?)分析をしてみたが、その意図は、より純粋に「質素」を追求せんがためであった。「けち」であることを「質素」であると詐称してはいけないし、「貧乏」であることを「質素」と飾り、可能性がある「貧乏脱出」への努力を怠ってもいけない。それと言うのも、「質素」な生き方とは、いわば「質素」道!もしくは「質素」教!などへと飛躍してゆく、人類後期、または終末期の壮大な革命理論(?)なのだからである。

 さて、現実のわれわれは、単色の範疇は少なく、橙やら、緑やら、紫などあるいは暗黒色であったりするカテゴリーで悪戦苦闘しているのであろう。しかし中には、「モノの欠乏」に無縁で、いわば先の図の外側の白色に位置する人もいるのだろうか。で、そうした人は、一体どんな人生を過ごしているのだろうか。腹が立つので知らないでいた方がよいのかも知れないけど‥‥(2002/03/14)

2002/03/15/ (金)  「質素」の勧めシリーズ:「質素」に生きることの特別「付帯条件」?!

 人前でもかまわず足を持ち上げ、広げて、傍若無人に毛づくろいしている猫を見ていると、「あああ、猫は何千年も昔から全然発展していないに違いない‥‥」と余計な想像をしてしまう。衣食住生活において「質素」でシンプル、何の不平不満も口にしない猫たちに、ある種の好感を抱いた気持ちも、そんな発展の無さをまざまざ見せつけられると、「質素」な生活というのも、これはこれで問題含みなのかも知れないなあなどと、思わず疑念が芽生えてきたりした。
 「質素」に慎ましく生きるということは、モノの消費において慎ましやかである同時に、いろいろな意味で「出る杭は打たれる」のたとえに抵触しない生き方をも選ぶことになりがちであろう。他人に問題視されないどころか、他人の眼中に入らない、要は黙殺される生き方なのかも知れない。派手なことをしたり、競争心旺盛な他人に、妙な警戒心を抱かせない、あたかも空気のような生き方に限りなく接近する生き方である。

 ところが、現代という時代は、「目立ってこそなんぼ!」の競争社会であり、それが原動力となって人も社会も発展するものだと言われている。やれ、自己アピールだ、プレゼンテーションだ、パフォーマンスだと叫ばれるのが、単なる目立ちたがりを持ち上げているだけではなく、それが自他ともの発展路線の刺激となるからであるとされている。
 そんな環境のただ中で、「質素」=目立ちにくい!生き方を勧めるのは、この現世から降りなさい、と言っているようにも聞こえてしまうだろうか。確かに、その懸念は否定し得ない。
 引っ込み思案で、内弁慶な子どもが、「ぼくは、『質素』な人生を送るんだぁ!」とつぶやいた場合(そんな子はまずいないと思われるが)、大人、親としては何がしかのアドバイスを与えなければならないかもしれない。
 その際、「質実剛健」なる言葉を引き合いに出したらどうであろうか。「質素」と「質実」とは、いわば親戚である。その「質実」が、単独歩行せずに、「剛健」を随時伴っている事実は、いにしえの人々がそれらに相互補完の関係を見出していたと言えるのではなかろうか。「質実」は、それのみではいかにも弱々しい。いいものを持ってはいるのだが、いかにも実社会にあっては通用しにくい非力さが気になる。そこで、用心棒として「剛健」を後見人につけた、という裏事情が推測されてならない。
 したがって、前述の坊やには、
「『質素』なだけじゃダメなのよぉ。『質素』でかつ『たくましく』なければ、『質素』は負け犬なのよぉ。」
と助言してあげるべきなのだ。

 事ほど左様に、「質素」な生き方を志す者は、「付帯条件」なるものに注意をむけなければならないと考えている。世が世であれば、純血主義を貫きたいところなのではあるのだが、今の時代はひど過ぎる。他人を、押し退け、叩いて、蹴ってのし上がる政治家をもって「叩き上げの政治家」と自称する、言ったが勝ちの観を呈する時代である。「うそつきの総合商社!」くらいの手厳しい揶揄(やゆ)が、さりげなく口走れるたくましさは、標準装備しなければならないのかも知れない。
 これが、慎ましさを旨としつつもこれに溺れず、逞しさを常時携帯すべき理由なのだ。また、モノの消費にあっても、すべてのモノに対して慎ましくあると言った形式主義、公式主義にはまり込んでもいけないのだ。
 むしろ過激に消費しなければならない対象があることを強調したい。それは、頭脳であり、知恵であり、想像力であり、知識であり、情報であり、学習時間であり、気配り・心配りであり、自分の言葉であり、そして付け加えたいのが公共施設とその備品である。
 要は、減らないどころか、使い込んでゆくことで価値が増大するもの、そして、活用頻度が施設充実の鍵となっているようなものは、心して消費すべきだと思うのである。
 どう考えても、モノの私的所有的消費を煽る経済原理は、乗りかかった舟だとは言え確実に危機に瀕しているし、人間の無尽蔵なパワーの消費と活用はことさら低迷しているように感じる。少なくともわが国においては‥‥(2002/03/15)

2002/03/16/ (土)  「質素」の勧めシリーズ:モノ的な豊かさよりも、時間的ゆとり、心のゆとり、潤い!

 今週は、まるで「時代遅れ」のように、「質素」な生き方への思い入れを書いてきた。
 直接的な動機はふたつほどあった。
 第一が、長期不況の中で、いやおうなくモノの消費が抑制されるようになってしまったこと。もはや、バブル期のような贅沢三昧(そんな三昧をした覚えはないのだが)は誰にとっても不可能となり始めているだろう。しかし、それにもかかわらず、モノ的豊かさを志向する経済原理の見直しを説く者は少なく、「構造改革」という名のもとにその経済原理の強化!が当然のごとく選ばれ、進められようとしている点。
 第二は、正直言って、多くの人々は、急きたてられる生き方の結果、わずかに手にするモノ的な豊かさよりも、時間的ゆとりや、心のゆとり、潤いを求め始めていると推測されること。 以前に、「人間の生活時間は40倍も速くなった!との学説」(2001/07/12)と題して、「現在、人間はヒトという動物が本来生きていくのに必要なエネルギーのおよそ40倍を消費しており、上記の関係から別表現するならば、人間の生活時間は40倍も速くなったと言える!」と書いたことがあった。
 これは、こけ威しではなく、実感ベースで言っても真実のような気がする。昔の人々の生活がどうであったかではなく、現代人のヒトとしての生物学的、生理的な限界に抵触し始めているのではないか、という予感がしているからである。さまざまなストレスの蓄積は、その点を告げているはずなのである。

 わたしがこの日誌というか、エッセイというかを毎日書き続けた動機はいくつかあるが、その一つは、自分(たち)が危ない!と感じたからである。モノの生産性向上、効率化を時間単位で追っかける現代経済の歯車(サラリーマンだけが歯車なのではない!)として回り続けなければならない運命に、全てをゆだねてゆくなら、生物であることを放棄(健康破壊!精神破壊!心の破壊!など)しなければならなくなる、と直感したのであった。慣れれば済むと言った問題を超えていると思えた。いつの間にか、ある限界を飛び越え始めたように思えた。戦場で人殺しを迫られた場合、慣れればいいでは済まないように‥‥。
 自分自身のことだけでなく、陰湿、陰惨、殺伐、淫乱な世相が、残忍な事件や猟奇的事件で深まってゆくかに感じられる時、これは社会というより、生きる根源にかかわる経済の仕組みに遠因しているに違いないと感じるようになったのである。現代の事件や、犯罪は、昔風の「怨恨」、「物とり」などの範疇を逸脱し、ビョーキそのものとなってしまった。それは、人間の破壊から由来していると推定せざるを得ないだろう。若年世代に世相の傾向を色濃く見出せるのは、特に彼らが現代文明の毒への免疫性に乏しいからではないかとも感じたりしている。
 と言っても、情けないことに晴耕雨読の生活をデザインできようがない。せめて、この経済原理の濁流に流されながらも、溺れ死ぬことなく川岸の自然風景なりとも観察させてもらおう、と言った思いであったかもしれない。書いてどうなると言えばそうだが、いわば持病に対するまじないみたいなものであろうか。

 「質素」というキーワードで迫りたかったテーマは、モノの豊かさに幻惑されずに、ゆとりや潤いと言った人間本来の特性が手にできる生き方なのであった。しかも、これは決して時代逆行ではなく、さまざまな現代の環境に合致するものだと思えるのである。
 「新しい『豊かさ』の構想」として「定常型社会」なるものを唱えている広井良典氏(岩波新書『定常型社会』2001年)は、時間単位の効率化のみを追求する現市場経済に、その原理では処しにくい時代現象が次第にクローズアップしていると述べている。
「@文化、芸術、自然、園芸などの『余暇/レクリエーション』に関わる分野、A介護、保育、健康・医療、カウンセリング、癒し、等々の『ケア』に関わる分野」、B生涯学習やスキルアップ、教育、趣味など『自己実現』に関わる分野」の比重の高まりは、モノの生産のように単位時間での生産効率をアップしようとする原理に馴染まないことを指摘している。大きな成果を期待するなら、費やす時間を増やす以外にない領域だと言うわけである。この点の意義は実に大きいと思われる。そして、これらの領域のすべてが、効率化の経済原理でビョーキ同然となった者たちを、救済する機能を果たしている点も見過ごしてはならないかと思う。

 はっきり言っておくなら、われわれがひ弱なのではない!われわれを取り囲む環境が異常になり始めているのである。そして、差し当たってはその環境に従順でなければ生きてゆけないから、心ならずも黙認しており、それが辛くてわれわれのストレスが増大するのではなかろうか。
 初めの一歩は、モノの豊かさの幻惑でビョーキがちとなっている自分自身を、何らかのまじない(?)で治療することだと考えている‥‥ (2002.03.16)

2002/03/17/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (31)

「ご免くだされ。」
「はいっ、どなたでございましょう。」
 浪人、中村小平太の住まいは、鳶の頭、政五郎と同じ裏長屋の奥にあった。造作は同じであったが、辺りには打ち水がなされ、涼しげであった。壁際には丹精に手入れされた小作りの植木鉢が並べられている。裏長屋ではあってもどことなく瀟洒(しょうしゃ)な風情が凝らされていた。浪人とは言えども、武士としての誇りを崩したくはないとする小平太の姿勢のようなものを、海念は感じさせられるのだった。
 戸口に現れたのは、年の頃十六、七と言った若い娘御である。
「あっ、あの折の海念さんでは‥‥」
 娘御は海念のことを知っていた。直太郎の母親の通夜に訪れていたのであろう。
「海念と申します。中村小平太殿はご在宅でございましょうか。」
「あいにく、父は寺子屋塾からまだ戻っておりませんが、まもなく帰るはずです。よろしければ、上がってお待ちいただけませんか。」
 一瞬ためらう海念であった。が、いつ再び寄れるか知れない宿なしの修行の身である自分を省みた。
「この次はいつ参れるか知れませんので、では、お父上のお帰りを待たせていただくことにさせてください。」

 住まいの内も、家具類は控えめであったが、整理がゆきとどき落ち着いた空気が漂っていた。つい今しがたまで、携わっていたと見える掛接ぎ(かけはぎ)仕事の道具などが、庭に面して広げられている。空け広げられた障子の外には、狭い庭であったが背丈の低い植木の緑が彩りを添えていた。
 茶を持って娘御が戻ってきた。
「頭のところへお出でになられたのですね。お寄りいただいて、きっと父も喜ぶと思います。何しろ、先日のお通夜の後しばらくは、海念さんのお話しばかりしておりましたのよ。」
「その節にお伺いすればよかったのですが、下総にある修行の寺のことが気になっており、失礼いたしました。」
 茶を勧められ、手に取ったまま視線は庭に向ける海念であった。若い娘御とこうして間近で話をすることに慣れていない海念は、どこか落ち着けない様子である。
「掛接ぎは、お母上がなさっておられるのですか?」
「あら、よくご存知ですこと。」
「いや、わたしの母が生計のために携わっていたものですから‥‥」
「母上さまはどちらにお住まいなのでしょう?」
「品川宿のほど近いところに。」
 娘御は、海念の正面に正座していた。膝の上に両手で湯のみ茶碗を支えている。そのつぶらな目で、視線はしっかりと海念に向けていた。海念が落ち着けなかったのはそのためであったかもしれない。
「母上は、ずっと以前に病気で亡くなりました。掛接ぎはわたくしが‥‥」
「いや、余計なことを言ってしまいました。許してください。」
 娘御が視線を落としたので、海念はようやく娘御に視線を向けた。娘御は、色白で、ほっそりとした面持ちであった。物言いがはっきりしているのに対して、その姿は、粗末な着ごしらえではあったが、上品さを湛え、清楚な感じを与えていた。
 海念は、母と暮らす妹の静のことを一瞬思い浮かべた。もう何年も会わないが、この娘御ほどになっているのだろうかと思った。
「お名前は何と言うのですか?」
「はい、静(しず)と申します。」
「えっ?」
「どうかされましたか?」
「いや、妹と同じ名でしたので。母上とともに暮らしております。」
「まあ、そうでしたの。何だかうれしいですわ。」
 静は満面に笑みを浮かべて、無邪気に心底喜んでいるようである。

「海念さんがお見えなのだね。」
 戸口近くから、声がした。中村小平太は、戸口に立て掛けた錫杖を見てそう思ったのだった。
「あっ、父が戻ったようです。はあい、お帰りなさいませ。今そちらへ。」
 静は、海念の訪問を明るく父に告げていた。
「いやあ、よくお出でなさいました。待ちくたびれて首が伸びきってしまいましたぞ。」
 小平太は、所帯やつれした顔をほころばせ、うれしそうに冗談を言うのだった。
 腰のものを刀掛けにおさめ、小平太は、海念に向かい合って座った。
「いつもの戻りは、今しばらく早いのですが、通りでばったりと知り合いに会ったものでやや遅くなり申した。
 あ、そう言えば、あの直太郎さんは頭が引き取られるそうですな。頭のところでは、みなが屈託無く祝っておった。これで一安心ですな。あやつも、奥方も草葉の陰で安堵していることでありましょうぞ。こうなったのもみな、海念さんの人助けのお陰ですぞ。よい人助けをなさったものだ。なあ、静。」
「はい、さようでございます。わたくしも、そばに居るのですからできる限り直さんを見守ってゆくつもりです。海念さんのためにも‥‥」
 静はそう言って、いそいそと掛接ぎ仕事の散らかりを片付け始め、手みじかに言い添えるのだった。
「父上、まだ早うございますが、夕餉の支度にかかりたいと思います。」
「そうだな、そうだ、海念さん、何もござらんがご一緒していただけますな。」
 海念は、親子による空気に押されたかのように、黙って頷くのだった。
 静は、甲斐甲斐しい素振りで戸口から出て行った。
 静はきっと、鳶の頭のうちに訪れた喜ばしさが、形を変えて親子二人暮しの自分たちにも訪れたのだと受けとめていたに違いなかった。

「中村さま、寺子屋でのご教授は大変でございましょう。」
 小平太と二人となった海念は、ポツっとたずねた。
「なあに、無いよりましといった小さな仕事であってな。ゆえに静が、掛接ぎの内職で助けてくれておりまする。お恥ずかしき次第じゃ。かと言って、昨今では普請場での日雇い人夫もできないご時世でなあ。幕府から、浪人を人足に雇ってはならぬというお触れが出ているのでござる。」
「何と、さようでございますか。どのような意向なのでございましょうか?」
「拙者には、浪人潰しとしか考えられませんな。幕府に浪人救済などの考えは毛頭ござらぬ。ただただ、胡散臭い浪人がこの地上から消滅することを望んでいるのでしょうぞ。
 そう言えば、もう十年も昔の話になろうか。西国の島原、天草にて切支丹の反乱がござった。」
「寛永十四年のことですね。わたしが寺に拾われたのがその翌年でした。宮本武蔵どののお計らいでした。確か、武蔵どのもその乱の平定に参上されたと聞きました。」
 宮本武蔵の名に、小平太は一瞬目を見開いた。
「ほう、海念さんは武蔵どのをご存知でしたか。噂にて、浪々の身の武蔵どのも戦に加わっていたとは聞いておったが‥‥。
 何を隠そう拙者も参戦しておったのでござる。これが仕官を目指す浪人の最後の陣借りだと思うてな。恐らくは国中の浪人たちがそう思っておったはずだった。まあ、それはそれとして、拙者はその時そこで幕府の心根を見た思いがしましたぞ。
 幕府本営には、知恵伊豆とも呼ばれた老獪な松平伊豆守信綱が総大将を務めておった。かやつは大名とり潰し策の中心人物であり続けて来た男での。そして、浪人潰しのな。
 あの時も、知恵伊豆とやらの命令で多くの浪人が盾代わりにされ命を落としたものだった。中には、背後から狙撃された浪人たちもあったと噂されていた。
 邪宗切支丹の反乱と謳われたものだが、そこにおった多くの者は百姓一揆としての実態を見たものだった。幕府は、切支丹と、反乱に走らざるを得なかった貧しい百姓たちと、そして無用な浪人たちをまとめて始末したかったに違いないのだ。常に権力とは、そうした仕打ちを平然と選ぶものなのだ。」
 海念は、小平太が静かに、しかし確実な口調で語る姿を凝視しながら黙って聴いていた。はるか遠い幼き日に、父から聴かされたことがあった話を想起していたのかもしれなかった。そしてその実直な表情に、亡き父の面影を追っていた海念であったのだろう。
「ところで、拙者は今、自身のこともさることながら、増えることはあっても減ることのない浪人たちと、幕府の浪人潰し策との関係を何とかしなければならないと腐心いたしておりまする。
 浪人たちの中には、所詮徳川家も大名に過ぎず、世に潜在する旧豊臣家臣の無念や、徳川家をこころよく思えぬ大名たちに浪人が加担すればという短兵急な思惑を語る者もおるご時世じゃ。しかし、拙者は、戦国の世は、徳川幕府によってほぼ終結させられたと冷静に見つめておる。残された課題は、幕府によるご政道をどう糺してゆくかなのだと、そう思うておるのじゃが‥‥」
「その通りだとわたくしも判断しております。もはや、軽挙妄動にて揺らぐ徳川幕府の体制ではないと判断しなければならないのでしょうね。」
 海念は、沢庵和尚の秘められた慎重な処世から、現在の幕府権力に決して軽視できないものを感じとっていたのであった。また、いつぞや保兵衛がもらしていた歴史的事実、『江戸幕府は、鎖国制度のために戦争もなく、この後まだ二百年以上も続いてゆきます。』という記憶を鮮やかに蘇らせていたかもしれなかった。
「そうですか、海念さんもそうご判断されるか。残念ながらそうなのだなあ。それで、今、この年で、ある先生の塾に時々通って教えを請うておる。どうすればご政道を糾すことが可能なのかをな。本日、帰宅が遅れたのは、その門弟に偶然会ったからであった。
 おう、そうそう、先ほど宮本武蔵どののお話が出たが、その先生の師の師が武蔵どのなのだそうだ。先生は、師として楠木(くすのき)流の軍学者石川左京どのからご教授を受けたと申されておったが、その石川どのが、何と武蔵どのから楠田伝の武蔵流を教授されたということなのじゃ。」
 海念は、武蔵の孫弟子にあたるという話から、その先生に対して漠然とした興味を抱き始めるのだった。
「で、その先生のお名前は、何と申されるのですか?」
「由井正雪どのでござる。神田連雀町の裏店(うらだな)で、楠流軍学を教授しておられる。」
「由井正雪先生と申されるのですか。ご信頼できそうなお名前ですね‥‥」

 「ただいま戻りました。」
 その時、静の明るく澄んだ声が戸口から聞こえた。静が夕餉のための買い物から戻ってきたのだった。 (2002.03.17)

2002/03/18/ (月)  「競争」について:納得度の高い環境設定での小気味よい「競争」!

 昨日、今日、風は強いがほぼ春の陽気になったようだ。街中を歩いていると、樹木の若い葉や新芽の勢いがまぶしく目に入る。春の陽射しに向かって、何の疑いもなく、何のてらいもなくすくすくと若葉が伸びる様は、生命の息吹を感じさせ、それらをもっと信じていいのだと勇気づけられたりもする。桜も、一、二分咲きといったところだろうか。

 活気が乏しいと言われるこの経済の中で、時々「元気な企業!」と銘打ってマスメディアで紹介される企業というものがある。目先の利いた新製品を打ち出している企業と、理にかなった人材活用をしている企業とに大別されるのが常である。
 後者に関しては、あの「ユニクロ」も含まれていたが、昨夜のTV番組「アルバイト半年間で年収1000万円店長に!若者たちを駆り立てる有名外食企業(秘)戦略」(フジテレビ、『EZ!TV』)で紹介された人事システムは、非常に好感が持てた。
 アルバイトの時給額から、正社員登用に至るまで、その待遇決定の大半が、年齢さまざまな関係者全員によるオープンなミーティングと、歯に衣を着せない相互評価、相互批判によって多数決で決定されているのである。
 1100円から、1300円への昇給自己申告をした者への裁定なども、くもりのない議論が展開されていた。
「1100円でも高いと思われるのに、1300円の根拠がない!1300円ともなれば当然 ****** の機能が果たされるべきだけど、その動きを見たことがない!」
と、かわいい顔をした女子アルバイターが平然と言ってのけていた。やがて、採決がなされ、賛成1(否決を先取りした店長が華を添えたか)で否決された。
 また、店長たちも、日次のコンピュータ・データとにらめっこしながらの日次売上の管理と、スタッフたちへの叱咤激励の姿があった。笑顔を忘れる女子アルバイターに対して
「笑顔がないよ!」
「はいっ、すみません。がんばります!」
「お前のがんばりなんかいらない。笑顔があればそれでいい!」
との、実に合理的な会話が小気味よかった。
 どこだかの番組での、「やる気あんのか!やる気が全然感じられないじゃないか!」などといった湿った会話を売りにした精神主義とは異なっていた。納得度の高い環境での、若い世代たちならではの、ゲームないしスポーツ的なパワー発揮のイメージが、まるで春の陽射しに向けて伸びる若葉のように見えた。

 こんなイメージの対極に繰り広げられている政界のゴタゴタ何ぞには触れる気にもならないのだが、そんなゴタゴタが形となっている背後あるいは根元には、理不尽な人間関係の水垢がべっとりとこびりついているのであろう。それを見る限りは絶望的な心境とさせられてしまうものだが、その反対の地平からは、前述のような若い世代の挑戦する姿が立ち上り始めていると了解するなら、現実も捨てたものでもないと思える‥‥

 先週は、やや後ろ向きの観が否めなかった「質素」について書いたが、今週は「競争」というテーマを追ってみようかと思う。これは額面どおりの時代の要請である。また、時代を超えた普遍的なテーマだと考えている。問題は、不当、不正な環境がしつらえて行われる「競争」ではないかと感じているのだ。 (2002.03.18)

2002/03/19/ (火)  「競争」について:「競争」とは、即ち「種目別」限定競争のことなのだ!

 「競争」そのものがいいか、悪いかという議論の立て方をする人がいる。
 一時期、話題となった「かけっこ」が苦手な子どももいるはずだから、公式カリキュラムの運動会で徒競走をさせるのは問題だと見なす発想。さらには、縄文時代の人々は競争という考えが希薄で、譲り合いと協調という考えで生きていた!と言う方までいらっしゃる。主張したいポイントはわかるが、どうもちょっと違うかな、という気がしている。

 いきなり、超・抽象的な話となるが、人間世界で最も難解な問題は、人間とは何かであり、人間にはどんな潜在力があるのかという問題であると言えるかもしれない。この人間を、個人と言い直しても差し支えないだろう。
 ひょっとしたら、この問題は決して超・抽象的な話なんかではなく、むしろきわめて身近な日常茶飯の気掛かりであるのかもしれない。特に、進学、就職の進路を思い悩んでいる青少年たちにとっては、異性問題と同比重の関心事なのかもしれない。
 ところが、この問題は、やはり超・抽象的なとらえどころのなさを持っている。そんな時、他者との比較という観点が意外と助けになるのではなかろうか。
 よく、小さな物体の写真、たとえば超ミニ・ロボットでもよい。それがどの程度小さいのかを説得するために、しばしばタバコのハイライトなどが脇に並置されていたりする。すると、ああ、なるほど小さいと納得できる。
 「競争」とは、個人が漠然とした自分のトータルを知る手掛かりとして、ある観点で他者と比較できる機会を与えられるものと、とりあえず考えておこう。もちろん、人間が選んだ観点であり、人間が比較するのだから「絶対などであろうはずがない!」
 強調しておくなら、この「絶対などであろうはずがない!」という了解が重要なのではないだろうか。「すべてなどであろうはずがない!」と了解することと言い換えてもよいだろう。

 ところが、悲劇は、この「了解」が消し飛ぶところに生まれがちである。これまでに、何と多くの競争者たちが、「競争」の敗北を人生の敗北と見なして最悪の選択をしてしまったことだろうか。ふと、だいぶ以前のオリンピックのマラソン・ランナー円谷氏が、念願の結果を逃して死を選んだ悲劇が脳裏をかすめた。
 いや、過去の話ではなく、現在も学力「競争」の過程で、生きることに非力な青少年たちがこの悲劇を繰り返しているのかもしれない。
 「競争」への人々の関心が高まり、当事者も熱を入れれば入れるほどに、部分であるものが全体と化してゆくという事態が生じるのであろう。「命懸け!」なる言葉や思い込みを、状況が要求し始めるのだろう。
 「競争」によって確認される優劣は、絶対に全人格的なものではない。人格に付着する、あるいは人格を彩る属性に過ぎないのである。それと言うのも、「競争」とは比較可能な観点・基準によって展開されるものであり、人格、個性的人格とはそもそもが比較不可能な存在だからだと言える。

 「競争」というあくまで暫定的である位置づけの共同作業が悪いのではなく、その位置づけを絶対視するに至る環境と、個人の双方にこそ目が向けられなければならない、と考えたいと思う。
 学力「競争」の観点だけで我が子を見つめる親がいたとするなら、それは実に危険な日々を送っていると言わなければならないのだろう。また、この期に及んで、個性だ、創造性だと口先だけで言い始めたわが国の教育政策も、焼畑から新種の野菜が唐突に芽生えることを期待しているに似ている。
 個性的個人の人格こそがターゲットなのだと、個々人と社会環境が同時に了解しあう方向こそが、「競争」というものを良い道具としてゆくのだと思う。
 こう「リヅメ」で考えた時、妙な感想だが、「競争」社会に適合してゆけるタイプ(心性)と、そうでないタイプがありそうな気もしてきた。われわれ団塊の世代以前の人々の多くは、ひょっとして熱くなる(部分を全体化してしまう)傾向が強く、不適合であるような気配も感じている‥‥ (2002.03.19)

2002/03/20/ (水)  「競争」について:日本の「競争」、「呪縛された競争」と「競争逃れの構造」!

 海外のことは不案内であるが、日本社会における「競争」の現実を振り返ってみると、特徴的だと思われる二つのイメージが思い当たる。一つが「呪縛された競争」であり、もう一つが「競争逃れの構造」である。

 「呪縛された競争」とは、偏差値、塾通い、受験競争、学歴偏重などの言葉によって耳たこで聞かされてきた「学力・学歴競争」のことである。世代人口が突出した団塊世代やそのジュニアたちの世代では、特に競争倍率が激化した模様だった。これを以って、団塊世代のある者は、まるで「競争」における激戦の勇士のように語ったりもする。
 確かに、入学定員数を割り、推薦入学がやたらに流行っている少子化の現代の受験事情と較べると、死に物狂いにさせられた経験もあったかと思われる。学力、学歴という一元的な価値によって各々の将来の見通し図が、どんな場面でも見せつけられていたのだから、プレッシャーの掛かった生活が強いられていたことに間違いはない。
 しかし、「学力・学歴競争」は、教科こそ複数ではあったものの、押しなべて価値基準は驚くほどに暗記力一点張りに偏重していた。この一面的、一元的な基準が、日本社会における「競争」の特徴的な点だったと言えよう。グローバリズムの現代にあっては、本当の意味で考えること、独創的に考えることが重要視されている。その力は、苦しいほどに迷い悩むことが前提だが、それらは小骨を抜くように取り除かれていたとさえ言える。
 「公平」な評価なるものを大義名分にして、解答が唯一となるような問題や教材しか扱われなかったと言ってよいだろう。学ぶ者たちの個性的な迷いを開花させるような「多品種少量生産(?)」は、教育側にとって大き過ぎる負荷だと見なされていたのかもしれない。要するに、教育の場での「大量生産(?)」を効率的に展開してゆく政策が採用されていたはずなのである。限りなく一元化された評価基準(偏差値!)のもとでの点取り「競争」環境が設けられたのだった。
 同質社会と言われてきた日本では、「競争」もまた権威づけられたメジャーで単一の価値基準に沿うかたちで行われやすいのであろうか。それはあたかも、「呪縛された競争」のようなイメージが漂っていたと見える。
 現代の最先端の「競争」の局面とは、既存の基準でする「競争」などではなくなって、「競争」のための新しい基準それ自体をどう創造してデビューするのかという新次元の事態に突入しているはずである。ベンチャー・ビジネスや「ビジネス・スタイル特許」などにその例を見る思いがする。ともかく、既存の一元的基準による「競争」に、国民がこぞって参加するのは他国に例を見ないのではないだろうか。

 二つめの「競争逃れの構造」とは、最新の「競争」事情からすると、確実に、「二周遅れの遺物」となっていると表現できる日本独自の「競争」事情のことである。一言で言えば「聖域」と言われてきた領域、即ち、情報公開もなく、手厚く保護され過ぎている官僚機構、官公庁関連での仕事のあり方、進め方であり、これに類した特権的な組織などの領域での「無競争」状態という信じられない実態である。これこそが、「構造改革」で真っ先に槍玉に挙げられなければならない対象のはずである。
 また、「官」の腐敗により、公共工事の見積り額を違法に漏洩させる、「競争入札妨害」や「談合」などは、税金を無駄遣いさせる犯罪であるとともに、「競争」という近代原理を踏みにじる点で、遅れた日本の恥部だと言わなければならない。
 とかく、社会の上層に居座る者たちは、底辺であえぐ庶民には過激な「競争」を強いておきながら、自分たちは「競争」のない無風状態に収まりたがるものだと言われてきた。だから特権階層などとも言われたりしたが、リーダーを自任する者たちこそ、自浄作用を伴う「競争」に身をやつすべきなのである。
 ただ、時代錯誤も著しいこうした領域は、「留まる水は腐る」のたとえのとおり、現時点で、ようやくその腐敗ぶりが露呈しつつある。庶民でさえかいくぐっている「競争」原理をサボタージュしてきたそこでの住人たちは、裸になれば虚弱体質に決まっている。早晩、自滅することは目に見えているが、いつまでも国民をいらだたせていてはならない。
 以上二つの「競争」事情に共通する点は、われわれ日本人(古い日本人!)はどうも「競争(competition)」の本質を自分たちのものとはし切っていないという点だと思われる。「対話」をしているつもりでも、「対話」の創造性にいたれず「会話」で終わっているとの厳しい指摘もあるが、「競争」を口にしながらも何かほかのことをしているのがわれわれだったりするのかもしれないと危惧する。
 ここでも、日本の悪しき集団主義(集団的傾向のすべてが悪いとは思っていないが)と、自律的個人の未成熟が足を引っ張っているのかと思えてしまう‥‥ (2002.03.20)

2002/03/21/ (木)  「競争」について:「競争」の観念と「同質性」同士の人間関係

 競り合って、僅か(わずか)ながらの「差」を競い合うのが「競争」だとする理解が一般的である。そう言えば、「競争」を成立させる主観側の材料とも言えそうな「競争心」についても、何かにつけて「差」が僅少(きんしょう)な場合の人間関係においてこそ煽られると言えるのではないか。
 年子(としご)の兄弟姉妹が、仲もいいがしばしば猛烈な喧嘩をするというのも、その理由はここにあるのかもしれない。身体の大きさを初めとして、種々の条件が似かよっていて「差」が僅少である点が、一触即発の「競争心」を駆り立てると考えると頷ける。
 幅広い意味で使われる「近親憎悪」という心理現象も、同様の観点で見つめると納得しやすい。酷似した服装を着た者同士が出会ったり、同一車種のクルマが並んでしまったりすると、「だけどこちらはこの点で勝っているんだぞ‥‥」と言わんばかりの挙動が誘発されるのが、これである。
 しばしば世相漫画などで取り上げられてきた「社宅」の団地における水面下での奇妙な「競争心」なるものもあわせて考えてみることができるかもしれない。

 こうながめると、「競争」を生み出す基盤には何らかの「同質性」が存在するのではないかと考えなくてはならなくなる。比較が可能な何らかの「同質的」なものが発見される(発見されてしまう)ことが、「競争心」の出発点であり、「競争」のオープニングなのだと。
 当然のことながら、「同質」であることの出発点は親近感や、安堵感をもたらすに違いない。他者と同一、一体的であることの充足感は、母子関係が十分に表しているはずであろう。また、同一県の出身であるとか、同窓であるとか、同一姓名であるとかもそうした例になるだろう。

 横道にそれるが、先日、あるインターネット検索ソフトのキーワードに自分の姓名を入力して同一姓名をサーチしてみた。数件ヒットしたが、その中に一瞬驚くべきケースがあった。とある地方の高校の同窓会のホームページであったが、各クラスの卒業記念写真で全員の名前が公表されていたのだ。そして、その中に自分と同姓同名の人がいた。が、その人の名の後だけには但し書きで「死亡」としてあった。背筋がゾクゾクしたものだった。ご冥福を祈って、そのページは閉じたものだった。

 だが、安堵感でなごむ「同質性」の人間関係は、その出発点ではあっても自動的に「競争心」や「競争」を助長するものではない。この一体感からの離脱の芽生えが何であるのかは、非常におもしろい問題だと思っている。個人や自我の自覚と密着した問題でもあるからだ。

 「同質性」が基点で生み出される「競争心」と「競争」という論理的文脈で考えられることは、いろいろとありそうだが、やはり強く関心がひかれるのは「流行」現象かもしれない。
 「流行」とは、その現象の魅力、吸引力もさることながら、世間の多数と「同質」であることの安堵感が作用している現象であることに間違いはない。
 しかし、おもしろいことに「流行」の先端を担うハイ・エンドの者たちは、必ずと言っていいほどに僅かな個性的な新規性を加味して「差別化」をはかり、メジャーな大衆から抜け出してゆく。現在の「流行」現象はほとんどがそれではないか。ここに、きわめて「競争」心理の芽生えに関する示唆的なものを感じさせられるのである。
 今日、さまざまな商品が、「個性化」の名のもとに大きな流行トレンドをベースにしながら、マイナーな「差別化」オプションを設定している戦略戦術は、人間の「競争」心理の構造を巧みに把握した対応なのであろう。

 日本人にとっての「競争心」の大量発生は、大量生産に基づいて画一商品が出まわり始めたことや、さまざまな条件が平準化されたかに見える「大衆社会」の到来によって、社会の「同質性」もどきが演出され、その結果人々の「競争心」が、飛躍的に促進されていったのではないか、という気がしないでもない。
 また、おそらく欧米では、「同質性」を担った「市民」たちが構成した「市民社会」において、「競争」なる観念が生まれていたのではないだろうか。「近代市民社会」の登場で、個人の観念が定着したことと同時にというわけである。さらに古く遡れば、ギリシャのアテネ市民社会で「競争」( c.f.オリンピック!)観念の原型が生まれていたのかもしれない‥‥ (2002.03.21)

2002/03/22/ (金)  「競争」について:「競争」の激化について思うこと

 コンペティション( competition )という英語を競争と訳したのは、福沢諭吉だったそうである。ここから、まずこの言葉がそれまでの日本に概念として存在しなかったものだということがわかる。そして、向かい合って闘うイメージの「争う」あり方のほかに広く認知されていなかった従来の日本の文化に、「競り争う」点を強調しながら、同方向を向いてその達成度の「差」を「競る」のだという新しい観念を説明したかったのではないかとも想像する。
 振り返れば、従来の日本人が長い間「競争」になじめなかった現象は、いろいろな場で確認されるかと思う。国際的スポーツ競技などで、過度の「緊張」の結果、実力が発揮されない事態が長く続いたと言われるのは、「競争」を向かい合って闘うイメージである「勝負!」だととらえてきた歴史があったからだと考えるのは邪推であろうか。
 また、先にも書いたように、団塊世代以前のオールド・ファッションの日本人が、「競争」ごとになるとやたらカッカとしてしまう(自分も自覚している!)のも、ゲーム的地平の観念である「競争」を、古代日本人の観念である命懸けの「勝負!」だと、どこかで取り違え、血を騒がせてしまうからではないのだろうか。「果し合い!」に用いられた「鉢巻」が、いまだに心や肝を縛っているのだろうか。実に困ったものである。

 だが、オールド・ファッション世代も、娘、息子ばかりか孫たちにまで、「ゲームと同じなんだから、そんなに熱くならないの!」と、頻繁に注意されてきた甲斐あってか、幾分「クール」に「競争」に参加できるようになってきた。負けても決して命が無くなるわけではないことがわかってきた。「鉢巻」が「バンダナ」にも替わった。「競争」というものが、適度の刺激になると実感するようになってきた。
 ところがである。ここへ来て、本家本元の欧米も含めて、グローバルな地平全体での「競争」事情が急変してきたようなのだ。「競争」の過激化であり、それに伴うダーティーな「競争」行為も目につくようになってきた。国際競技のオリンピックですら、「ドーピング(興奮剤や薬物の不正使用)」問題が頻繁に摘発されている。経済領域での種々の「競争」も、コンペチター(競争相手)を出し抜くために手段が選ばれなくなっている様相を呈し始めた。やれ独占禁止法違反だ、ダンピングだ、特許侵害だ、訴訟だ、賠償金だと御法度破りや、命懸けまがいの過激さが蔓延するようになってきた。
 現在のグローバルな「競争」には、目指す相手や、ライバルをKOするか、再起不能に追い込むという激しいもの、のどを掻き切る( throat cut )ほどの激しさが込められているのだと言う人もいるほどである。
 語源的には、「レース」的意味合いが強かったはずである「競争」( competition )が、いまや「 struggle (もみ合う戦い)」、「 battle (敵対的な戦い)」、そして「 war (戦争)」などに限りなく接近しているようにも見受けられる。「情報」処理技術や環境の領域でも、加熱化は頂点に達して、今や「情報戦争(InfoWar インフォウォー)」という言葉が闊歩し始めているようだ。

 「競争」の過激化傾向の背景にはさまざまな要因が潜んでいるのだろうが、「競争」の主体が、実質的には個人から国家機構を含む巨大な組織へと移行してしまった点が注目されるのではなかろうか。スポーツ領域でも、今や個人戦の「競争者」たちでさえ個人で競うと言うより何らかの団体や組織に所属し、「組織ぐるみ」で闘うかたちになっているのではないか。
 経済領域でも、ひとつの例で言えば、現在の特許やパテントなどは個人で申請されるよりも、巨大な組織法人で申請、取得される場合の方が圧倒的に多いはずである。R&D(研究開発)自体がもはや個人的事業の域を越えてしまっている実情がそうさせているのだろう。
 また、株価の変動にしたって、個人投資家たちの動向よりも、巨大な資金を握る組織としての機関投資家の動きによって牛耳られてしまう時代である。
 そして、組織対組織の「競争」では、その巨大な投資額と複雑な利害関係とによって、相手の競技を妨害しないという「レース」的な環境条件は極小化してゆき、「戦意」の高揚のみがはかられるところから、限りなく「 war (戦争)」へと接近してゆくのだろうか。

 こんな時代変化の中で、ようやくキャッチ・アップを完了させた日本、日本の「競争者」たちは、旧世代の仲間入りも含めて、こぞって「レース」対応のおとなしい「競争者」たちになってしまっているのだが、このことを、一体どう考えればよいのだろうか。ここでも、一周遅れの先頭を走っているのだろうか‥‥ (2002.03.22)

2002/03/23/ (土)  「競争」について:口先だけのセイフティ・ネットにまずアナタから‥‥

 「競争」という観念に関心を向けた理由は、現状を固定して既得権益にしがみついてきた人々が、現在のダメな日本を作ってきたと痛切に感じるからだった。彼らは、このグローバリズムの厳しさが、既得権益の厚着で感覚麻痺となり実感できないのだ。そんな彼らに必要なのは、環境変化への向上努力がなければ、座を明渡さざるを得なくなる「競争」の実践だと思われたからである。今の日本の社会には、下層よりも上層階層にこそ熾烈な「競争」が必要だと思われるし、現にそれが進行しつつあるようだ。

 しがみつくべき既得権益など持たないわれわれにとっても、「競争」について考えてみる価値は十分にあると思えた。現状維持や、マンネリ大好き的な生き方が確実に困難となってゆく時代がひたひたと押し寄せていることは事実だ。これまでは、志ある人のみが担っていたかもしれない「日々の向上」。従来は弱小経営者がおのれへの戒め、社員への啓発として壁に貼っていたかもしれない標語「日々是前進!」を、否が応でも実践しなければ済まない時代が、やっばり到来しているはずである。
 「構造改革」の推進がいいかどうかは議論の余地があると思うが、いずれにしても推進されてゆくと予想しておいて間違いはない。そして、そこで展開するのが、半強制的な「日々の向上」努力なのであり、そこで援用される方法が、まずは「競争」環境の整備によってということになるはずである。いや、すでにもう始まっていると言った方がいいのかもしれない。

 人間は「向上」しなければならないかどうかといった哲学的、宗教的論議は別として、人間は事実として怠惰となりがちなことは誰も否定しないだろう。その惰性で人間が斜面を滑り落ちてゆくのはまずいと思った人々が、「競争」なる仕組みを活用しようとし始めたのかもしれない。
 同じような事情が「冒険」という観念にもあったかもしれないと思う。「堀江謙一さん」は、いい年してなぜ今でも大海原に挑戦するのだろうと疑問を持つ人もいるかもしれないが、「冒険」や「冒険家」はやはり必要だと信じる。
 「競争」は、人間同士の比較作用によって、「冒険」は、対自然との関係によって、人間をして「挑戦」させるはずである。何に対してかと言えば、人間に内在する能力の可能性に対してである。「日々是前進!」などと表現すると儒教、儒学くさくなるけれど、人間の潜在的能力、パワーが、現状止まりや、ジリ貧傾向であってよいと言い切るのは暴論くさいような気がするのだ。現代の日本や世界が、幸せで満ち満ちているならまだしも、飢餓と戦争と病気と犯罪が満ち満ちている現状にあれば、人間の潜在的能力の向上がそれらの解決の可能性を広げるのではないかと先ずは期待したいものなのである。

 ただ、ひとつだけ留意すべき点を付け沿えておきたいが、かつては一部の人々が自分の意志で実践していたことを、万人に押し広げる際には、その実践に伴うマイナス現象のフォローアップをしっかりと皆ですべきだ、という点なのである。まして、皆が託した税金で賄われる政治の担い手たちは、そのことをしっかりと認識すべきである。「痛み」を感受しろなどという、一家のダメおやじの捨て台詞ごときで済ましてはいけない。
 「競争」の環境整備に当たっては、誰もが敗者となる可能性のあることを認識して、敗者が再度挑戦できる環境こそ整備すべきなのである。口先だけで、セイフティ・ネットを唱えている政治家には、次のように言ってやりたい気がする。
「よし、それじゃアナタがまず一番のりでそのセイフティ・ネットに落ちてもらいたい!(見え透いた牛肉試食パフォーマンスなんかよしにして)」
と‥‥ (2002.03.23)

2002/03/24/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (32)

「今やー、物取り(学費値上げ阻止)的闘争にー、終始している局面ではなくー、事態の根源的なー、原因をー、総体へのラディカルな闘いによって暴き出しー、大学総体へのー、国家権力による策謀をー、主体的、連帯的にー、引き受けてゆくべきだとー、考えるー。」
「異議なーし!」
「ちょっと待ってくださいよ。確かに、学費値上げ阻止闘争には、全面的に賛同するけど、この時期にロックアウトをするのは、いたずらに闘争を拡大して機動隊を呼び込むような挑発をするようなものじゃないの。」

 毎年展開されている学費値上げ闘争であったが、全国的に学園紛争が広がっていたこの時期は、例年とは異なる加熱した空気が支配し始めていた。クラス単位の討議も、政治意識旺盛な学内組織所属メンバーたちによるアジテーションと、それによる草刈場のような様相を呈していた。
 騒音のいっさいに目をつぶりひたすら司法試験を目指そうとする者は、そんなクラス・ミーティングなどには顔は出さない。「ノンポリ」と呼ばれた政治に無関心を決め込む学生も欠席する。参加する者は、「主体的」何とかと気取って言うよりも、若い心の胸騒ぎを禁じえない、いわば政治的野次馬と表現した方が当たっていたかもしれない。

 保兵衛が、御茶ノ水の私立大学に入学したその年は、学費値上げ阻止運動に端を発し、初っ端から荒れ狂った。そして、その年の半ば頃からいわゆる「全共闘」によって大学は自主封鎖、ロックアウトに突入したのである。正常な講義が開講されていたのは、入学後の一、二ヶ月程度であった。
 事態は膠着状態となって行った。そして、各大学の個別の問題は、やがて大学の自治、自主管理と、国家による管理との対立図式といった問題へと吸い上げられ、瞬く間に全国的な政治的問題現象へと変貌して行ったのだった。
 若い心の胸騒ぎを禁じえない政治的野次馬たちは、封鎖された大学や、周辺の喫茶店に時間の許す限り集まり、ダベり、議論した。集会やデモへの参加も厭わなかった。
「百瀬が機動隊にやられたらしいぜ。あいつは肝が据わってるよなあ。」
「先日、いろいろ話していたら、彼の口から『職業的革命家』なんていう言葉が飛び出した。まんざら冗談でもない様子だったので驚いたよ。」
「だけどさあ、よくそこまで自分を絞り込んでいけると思うなあ。おれなんか、革命家どころか、何やって食っていくかいまだに腹が括れない状態だ。とにかく、いろんなことへの疑問だらけ、と言ったところかな‥‥」
 喫茶店では、情報交換から、熱の入った議論まで、話題が話題を呼び、とり止めもなく展開するのが常だった。
「廣瀬はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』のゼミを採ったんだってね。どう?おもしろい?」
 保兵衛は、ドイツ文学研究会に所属する原田と話すことが多かった。自営業の親を持つ原田は、何事につけ実生活に足をつけた発想であり、他のメンバーに較べて知的関心の向け方でも共通する点が多かったからであった。
「原田は、独文研だからトーマス・マンは知ってると思うけど、彼の小品の中に、ちょっとした興味深いものがある。街に魔術師がやって来て、街の者たちが警戒するという話なんだけどね。ある男が、そんなものには絶対に引っ掛らないと豪語する。しかし、催し物の当日、彼は公衆の面前の舞台でまんまとその魔術師の策にはまって派手に踊らされてしまう、という筋なのさ。
 トーマス・マンは、魔術に対しては、掛からないと念じるだけではまったく無力であって、そう念じれば念じるほどに魔術師の思うツボなんだと言いたいようなんだね。」
「ほぉー、すごいね。で、その魔術師とはひょっとしてヒットラーのことになるわけだ。」
「そのとおり。それで、フロムの『自由からの逃走』というのは、その心理が、第一次大戦後のドイツ・ワイマール体制の中産階級の社会心理にあったことを分析していると言っていいと思うんだ。」
「いやー、おもしろそうだ。是非今度読んでみよう。」
「それはそうと、原田は、現在のわれわれの置かれた状況をどう見てる?どこまでエスカレートして、何が変革されると。」
「難しい問題だなあ。大学という、体制寄りの知識階層を生み出す機構が、支配の枠からどうはみ出してゆけるのかということなのかなあ。自主管理という概念にはそんなねらいがあるはずだよね。」
「そうなんだ。キーワードはどうも『管理』だという気がする。権力側の関心は、支配という直接的な概念から、スマートに支配してしまう管理という概念に移行しつつあると見えるんだ。で、管理が争点となる時代の政治は、心理戦争、頭脳戦争の時代でもあると言えるんじゃないかな。魔術師さながらにね。」
「権力側のしたたかさを十分に察知しなければならないってことだな。歴史上でも、でっち上げ、やらせや、陰謀は定石だったからね。現在の大学問題でも、いろいろな局面に挑発が仕掛けられ、読みが浅いと踊らされるということもあり得るわけだ‥‥」

 神田の古本屋街を通り、神田駅から大森のアパートへ向かうのが保兵衛の帰路である。プラットホームで佇む保兵衛は、原田との会話の余熱を辿っていた。頭の中に残る「権力側のしたたかさ」という原田の言葉が、ふと、海念のことを思い起こさせるのだった。
 海念が「由井正雪の乱」に関わってゆくのではないかという強迫観念のような気掛かりを、保兵衛はここしばらく消せないでいたのだ。
 誰もが時の権力に対して反感をいだくことはある。しかし、それは表面的な日常会話のレベルであることが多い。が、肉親の不幸、しかも子ども心に敬愛していた父の不幸が、心の奥底で権力の姿と重なることを消せない海念の場合は、事情は別なのだと、保兵衛は懸念し続けて来たのだ。
 その懸念を晴らすためにも、海念と会って確かめたい、しかも、海念が二十三の歳となる前、できれば彼が深入りすることのない時期に会いたいと考えていた。とすれば、ここ一、二年の内でなければならない。そう考え、時折、海念からの数珠を凝視したりする保兵衛なのであった。が、自分が「タイム・トラベル」することも叶わず、また海念が訪れることもなくただただ時間だけが経過していくのだった。

 保兵衛が、もし海念と会えたら、伝えたいと考えていたのは、由井正雪の乱の悲惨な結末だけではなかった。海念が関与を深めてゆくなら、海念も連座して処刑されるということだけではなかった。もちろん、その危険を何よりも避けて欲しいと願った保兵衛ではあった。
 しかし、それと同時に、そもそも「由井正雪の乱」なるものが、浪人の弾圧と抹殺のための、幕府権力によるでっち上げの陰謀であった可能性が、きわめて高いと分析する自分の推理を伝えたかったのだ。権力の奇想天外なしたたかさを、沢庵和尚のもとにいた海念こそは認識すべきなのだと伝えたかった。東海寺での沢庵和尚の苦悩とその処世は、和尚がそうした点を幾重にも認識していたからだったのだから、と。
 保兵衛は、車内のドアに寄りかかり、夜の街にネオンが輝く外をながめ、考えを整理していた。なぜ、あの乱がでっち上げだったと推理できるのかという推移を。

 保兵衛の推理は、決して新たな歴史的証拠に基づくものなどであるはずはなかった。そうではなくて、既成の事実を論理的に再認識してゆくとどうしても説明がつかない矛盾に行き当たるところから発生させたものであった。その推理とは−−−−
 その一つは、由井正雪が多くの浪人からの人望を集めるほどに秀でていたとするなら、幕府転覆という不満の浪人たちが抱いた短慮や怨念を超えたものを持っていなければならなかったはずだという点である。そうした幕府転覆後のビジョンがあってこそ、多くの浪人たちを魅了したはずではなかったか。
 が、しかし幕府が明らかにした事実は、正雪らが企てたとされるもっともらしい軍事計画だけでしかなかったようだ。しかも、もし、その軍事計画が浪人たちを魅了するに足るものだとするなら、何よりも、浪人たちが当然抱いたであろう最も大きな不安を解消する、大名たちによる計画への加担のなにがしかがなければならなかったはずだ。にもかかわらず、未然に弾圧されたこの乱の計画に共謀したとされる藩の取り潰しがあったとの記録はないようである。
 優れた軍学者が、勝算も革命後のビジョンもなく、単なる反乱でしかない農民一揆の浪人版をもくろむものだろうか。浪人たちにしても、正雪に魅了されたのは、幕府転覆という感情的には抱くことがあったにせよ、理性的には非現実的としか言いようのないそんな計画においてではなく、理性的にも望みが託せる現実的と思われる計画だったのではなかったか。
 たとえばそれは、明治新政府が罪人を使って敢行した蝦夷開拓計画の走りであったかもしれない。行き所と、生きる縁(えにし)とを失った浪人たちに、その両者を与える新天地としての蝦夷を開拓という機会を与えよ、と嘆願する計画なんかではなかっただろうか。事実としての正雪の行動は、そうしたレベルであったと推定することが妥当だと思われる。だが、それはそれで幕府にとっては将来への不安作りであったかもしれないが。
 もう一つは、この乱の後、幕府の基本政策が、家光までの「武断政治」から「文治政治」へと急速に転換して行った点なのである。「末期養子」の禁を緩める政策転換などがその皮切りだとされる。確かに、それは浪人層のさらなる増加を抑制する穏当な策ではあった。が、それは現存する浪人たちへの何かなのでは決してなく、大名たち向けへの穏当な配慮だったと言える。もとより、幕府が真に恐れ続けて来たのは、互角に張り合うことが可能な大名たちなのであって、いかに増加したとはいっても浪人たちなどではなかったという事情がうかがえるのである。
 何よりも、武力による幕府転覆計画という脅威があったばかりでなぜ、「文治政治」へとやすやすと転換がなされるのか。むしろ、武断政治の強化こそが採用されて自然ではなかったのかと思われる。この推移の背後には、浪人問題の脅威など眼中にはなく、力による大名支配を、既に完了したとする幕府の大きな自信があったはずだと見なければならない。
 ただ、「武断政治」に徹してきた家光が亡くなった折りに、幕府は幕府体制の強固さを大名各位に駄目押し的に示す必要があると考えた可能性が読み込める。武力そのものによって大名各藩を支配するのではなく、その脅威を十分に描かせることによって、支配体制の安定をさらに強化したいと考えたに違いなかったはずだ。
 そのための威嚇材料としてスケープ・ゴートとして選ばれたのが、由井正雪ではなかったか。幕府にとっては、拮抗する可能性がなしとはしない大名たちに潜在する、幕府への反意が安全に砕け散りさえするなら、それでよかったに違いない。由井正雪による乱はもっともらしくさえあれば、それで良かったのである。どの大名も、事実の疑惑と陰謀を暴き立て、第二のスケープ・ゴート、正雪となろうとはしないであろうことまで読み込んだ上での謀略だったと言うべきなのである。「文治政治」への移行の総仕上げとして演出されたイベントこそが「由井正雪の乱」であったに違いないのだ。
 そう推理する現代の保兵衛は、歴史が暗黙に囁いてきた、権力による数え切れないほどの陰謀とでっち上げとを知ることができる歴史的位置にいた。現代に至る日本史は、発展の歴史であると同時に、権力による陰謀、謀略の歴史でもあった。しかし、海念はその位置にはいない、と保兵衛は思っていた。そんな彼が、純朴な海念が、権力のだしとしてあしらわれ、無残にも使い捨てとされることにどうにも我慢がならなかった保兵衛なのであった。

 国電から私鉄に乗り換えた電車の窓外には、品川神社の小山が見えて来た。その小山の向こう側に、あの時海念と過ごした東海寺があったのだなと、とり止めもなく保兵衛は思い起こすのだった‥‥ (2002.03.24)

2002/03/25/ (月)  「優先順位」感覚:希薄な危機感の根底には「優先順位」の狂乱が!

 コメディー・タレントのドリフターズの「もし、こんな医者がいたら!」ではないが、患者が最も強い痛みと苦しみを訴えている箇所に蓋をして、「病気は不潔さからくるので、いつも手はきれいに洗いましょうね。」などとしか言えない医者がいたとしたら、わたしなら、初診料を取り返して、その場で救急車を手配してもらうだろう。

 唄のセリフに『馬鹿が相手の時じゃない!』という短気とも受け取れる言い回しがある。しかし、そうも言いたくなるほどに、もの事の「優先順位」がこんがらがってしまった者たちは、もはや度し難いとしか言い様がないようだ。
 まして、世の中の問題の「優先順位」を仕分けることが役割の政治家たちが、天下国家の危機存亡時に効果的な政策展開もできず、手際よくやれることときたら政権延命に向けた了見の狭い見え見えのリベンジだというのは、ただただ政権の末期症状を国民にアピールしているだけである。辻元代議士の政策秘書給与の問題についての話なのである。
 与党が策に窮して浅はかな小細工に走るなら、野党は大局を睨んで、そんな場合ではないことを強調すればよい。そんな「小さな」問題が今の日本の問題なのではないことを大胆に言ってのければいいのだ。この問題について、清潔さを損ないたくないかのような配慮に過ぎる優等生的態度表明は、もう片方でいらだたしくさせられる。政治というものが、国民感情にも棹差すものだとするなら、大方の国民感情を代弁して、啖呵(たんか)を切ったスタンス表明があったっていいんじゃないか。
「ケタの違うちまちました話題を、針小棒大に騒ぐなんざみっともねえぜ!あっしらにはもっとでいじな問題があるんじゃねえんですかい。」
とまで言ったら銭形親分になっちゃうか。

 それにしても、役者の演技が受けてのことじゃなくて、舞台裏走り回って小細工した結果の株価持ち直しもどきで、どうして危機感が遠のくんだろうか。経済危機を核とした団子状の日本の全体危機こそがもっとしっかりと見据えられるべきなんじゃないんだろうか。商業主義のマスコミも、ポスト・ムネオの目玉探しなんかしてる場合かいな。確かに、お父さんたちのこづかい銭が萎み、週刊誌の売上低下で悩んでいたところへもってきてのムネオさん問題はおいしかったことは想像に余りあるものがある。だからといって、ネクストのネタ作りに走り、国民にとっての真のモチーフをはぐらかすかのような手前本位の手法はいかがなもんなんですかね。

 押し並べて、迫り来る全体破局を前にしていながら、驚くほどに「危機感」と責任感が薄いというのが、とにかく気になってしょうがない。日本人の「危機感」の希薄さについては、以前にセキュリティやリスク・テイキングの問題で感想を書いた。今週は、「優先順位」=プライオリティを処理する能力との関係で、「危機感」の問題に関心を向けてゆきたいと思う。
 今の日本のいろいろな領域での各立場に「危機感」がないわけじゃないと思われる。政権与党にも、たっぷりと「危機感」はあると言われている。ただ、その危機を感じる対象を、国民生活や日本社会全体ではなく、与党としての自分たちの立場に限定し、これを「優先」させていることが笑えるのだ。「優先順位」を狂乱させている、文化と感覚が凝視されるべきだと感じている‥‥ (2002.03.25)

2002/03/26/ (火)  「優先順位」感覚:20%の努力で80%の成果が刈り取れる「優先順位」づけ!

 高校時代のクラス・メートに、脅威的な優秀さだと感じさせられた奴がいた。(癪に障るのでこう呼ぶ!)そう感じさせられた理由は単純なのだった。一方に、四六時中勉強のことで頭を一杯にさせ、しかめっつらとなっている者が多数いたのに対し、奴はいつも涼しい顔をしていた。片や、授業が終了すると、いそいそと帰途につき、自宅での猛勉強の時間を作ろうという者が多かったのに対し、奴は放課後の多くの時間をバスケット・ボールなどのスポーツや、趣味のサークルなどに費やしていた。にもかかわらず、成績は常時トップ・クラスを譲らなかった。大学受験も、浪人などせずに、一発で東大理Tをクリアしたものだった。
 できの悪いわたしなんぞは、生得的、生理的に頭がいい奴なんだから、奴がどうして成績がいいのかなんて考えるのはよそうと決め込んでいたものだ。

 だが、後日ふと奴のことを思い返してみることがあった。それは、ビジネス界に紛れ込み、まがいなりにもビジネス理論のいろはを学んだ時であった。現代のビジネスマンなら、大抵の人が知っている基礎知識なのであるが、「パレートの法則(ABC分析)」というものに遭遇した時である。
 例えば、会社の売上高の80%は、上位20%の取引先から得られるとか、発生するトラブルの80%は、社員の20%の者たちから生じるなどであり、要するに、成果なり結果なりの80%は、全体の20%から生じ、残りの20%の成果なり結果なりが、全体の80%から生じる、という理論なのである。
 人の生活時間は言うまでもなく限られている。学習成果を上げたいと望む者は、勢い学習時間を増やすことになろう。しかし、費やされた学習時間のすべてが成果に直結するわけではない。この理論で言うなら、総学習時間の80%もが、学習成果の20%にしか結果しないこともあり得る、ということである。人の頭脳が集中できる時間や比率を考えるとさもありなんと感じたりする。だが、逆にこの総学習時間の20%分だけを仮に、精神集中された濃度の高い時間として作り出せれば、総学習成果の80%もの効率的、効果的な成果を生み出しもする。
 いや、この理論の眼目はもっと別な視点にあると言うべきだ。何を学習すべきかという点での学習内容の選別、セレクトが重要だというのである。試験での成績の80%は、出題率の高い学習項目の上位20%の習熟に依存している、ということになりそうである。言い換えれば、通常の学習項目のうちから出題確率の高いものを20%だけを選ぶことが、もし可能だとしたら、学習時間は短縮される上に、試験の成績に反映し易い学習項目を集中的に習熟できる、というわけである。その結果、当然試験での成績が効果的に向上するだろう。
 だから、ここで問題は、その20%分をどう選び抜くのかという点なのである。これがまさしく「優先順位」をつけるということなのである。

 また、先ほどの高校時代の話に戻るなら、当時、英語の教師に『試験に出る英単語』という参考書を出版して、ベスト・セラーにした変り種の教師がいたものだ。その授業も受け、どういうかたちで出題されるのかが話されたのを覚えている。そして、その教師は数年以上の出題データを丹念に分析して出題頻度数の高い単語(その後は、熟語や英文法にまで間口を広げた)の優先順位を1000番位まで施して教えてくれたのだった。
 当時、バカだったわたしは、妙にそうした発想を毛嫌いなんぞしたものだったが、これこそが正解だったのである。たぶん、前述の脅威的に優秀だった奴は、こうした方法を駆使できる訓練を完了していたのだ。確かに、内在する素質も当然あったに違いはないと思われたが。

 ものごとに「優先順位」をつけることは、その後の成果を効果的に刈り取ってゆく上で、必須の前提作業なのである。いつも努力と成果とは正比例すると考えてはいけない。努力をすべきは、こうした頭脳作業に対してなのであって、だらだらと時間量を増やすことではないと言ってよい。
 何を目的として目指しているかという観点によって異なるのだが、パレートの法則では、どんな対象であっても「優先順位」を上位から20%分つけられさえすれば、それだけに絞り込んで着手することで、いわゆるムダな努力はしないで済むばかりか、歩留まりの高い、少ない努力によってより効果的に膨大な成果を手にするということなのである。

 頭のいい連中は、いろいろな場面でこの理論に沿った行動をしているようである。システムにしても、物的製品にしても、出荷時テストの水準は、使用頻度の高い上位20%が厳密にチェックされ、全体の80%のバグが潰され、そしてとりあえずリリースされている、なんてこともあるのかもしれない。使用頻度の低い残りの80%の使われ方には、20%のバグしか残されていないのだから、御の字なんですかね。こんなことを、ソフト会社の責任者が言うことではありませんが‥‥ (2002.03.26)

2002/03/27/ (水)  「優先順位」感覚:努力のあり方は「量」から「質」の問題に変わった!?

 「真面目な人々」というか、「思い入れの激しい人々」は、とかく主観的な努力が成果へと正比例してゆくと思い込みがちである。「こんなに努力したのだから‥‥」という言い分なのである。
 そして、とかく従来の日本人同士では、努力の絶対量に対して「敢闘賞」なるものを以って報いたがるものであった。すべての幸せは、努力の量によってもたらされると信じたかったのである。確かに、努力する人や人々が勝利を手中にする事態は、なぜだか心休まるものがあると言えよう。
 しかし、現代は成果が優先され、成果に結びつく効果的なアプローチこそが重要視される時代ではないだろうか。醒めた表現をすれば、そのアプローチで、汗をかこうが、あくびをしようが、差し当たってそれは個々人のスタイルの問題だというのが現代の風潮だと思える。

 昨日、「パレートの法則」なるものを取り上げ、成果を得るために働きかける対象に「優先順位」をつけることの重要さを強調した。ここには、成果に反映しにくい努力への決別という発想が、透いて見えていたのではないだろうか。
 20%のインプットで80%のアウトプットをゲットする努力と、その逆をも含む丸腰の努力が比較されたと言えよう。そして、暗黙のうちに、努力に関しての「量」的な視点が退けられ、その中味をこそ問う「質」的な視点に注意が向けられていたと言ってもよい。
 その「法則」が最も重視されてきた領域は、もちろん、利潤追求という目的とコスト・パフォーマンスを鉄則としてきたビジネス界であった。より小さな資源と努力で、より大きなビジネス成果や利潤を獲得するには、し甲斐のある努力、歩留まりの高い努力に絞り込まなければならない。そのためにこそ企画作業などによって、さまざまな視点からの「優先順位」づけが模索されたのだ。この作業を含む知的努力こそが、現代における企業努力と呼ばれるものなのであろう。

 ところで、ビジネス、経済事象の原則が否が応でも人々の日常生活に浸透せざるを得ない昨今、その影響によって日本人の「努力観」は変化しつつあるのだろうか。確かに若年世代は、あたかも「ペイしない努力はしない!」と決めてかかるほどにクールとなっていそうだ。「若いうちの苦労は買ってでもしておけ」と努力万能主義とでも言えそうなオールド世代とは対照的な観がある。
 極端なクールさに危惧の念をなしとはしないのだが、もし、努力万能主義的な発想が存在するとするならば、これはこれで問題なのかもしれないと思い始めている。たとえば、誰だかが口にしていた「私自身、政治に熱心なあまり‥‥」といったセリフは、結果はともかく熱心でありさえすればお目こぼしいただけるとたかをくくる姿ではなかったか。裏返せば、努力の姿勢さえあればその方向性や結果を大目に見てくれると錯覚するオールド世代の存在が想定されていたということである。努力万能主義的発想の残存が信じられていたのだ。もとより政治家は、熱意や努力の跡が問われるのではなく、結果とその結果の内容が問われるものである。その意味で、彼が(悪しき)「古い政治家のタイプ」であったことは間違いない。

 最近、ようやく「がんばる」ことに対して抑制をかける発想が広がってきたようだ。その方がスマートだとするファッション的な意味合いもあるのかもしれない。だがむしろ別な問題を感じている。
 「がんばる」=努力するそのこと自体が無条件に肯定されていた時代というのは、その時代の価値観や目的が誰にとっても疑いようもなく明白で安定していた時代であろう。「何に向かって?」と問う必要がないほどに目的が共有された状態では、目にする努力には絶賛を与える以外なかったのではないか。社会全体が貧しく、経済的地位も国際的に低い時、人々に暗黙のうちに共有された経済成長という目的が、どんな努力にもOKサインを出したのではなかったか。まさしく努力万能主義が世論であったと思われる。
 しかし、現代は、この共有された目的という点に関して決定的に異なる。価値観が個性化し多様化したとまでは言わないにしても、一つの目的に足並みを揃えるほどの一枚岩的な傾向は、どの集団・組織にも見られなくなっているはずだ。
 いや、むしろ目的それ自体が形骸化したり、溶解したりしてしまっているのかもしれない。そんな時、「がんばる(頑張る←我に張る)」とは、原義どおり「我を張る」と目に映るのかもしれない。「がんばってればー」と冷ややかに揶揄する人の顔が浮かんだりする光景なのである。

 「がんばる」こと、努力することに冷水をかけたいわけでは決してない。そうではなくて、今は、人々が「何に対して」努力できるのかを模索し、明らかにしてゆく知的努力が何よりも重要な時期だと言いたいのである。「カラカラと空転する」かたちだけの努力を、能天気に励行するのではなく、パレートの法則でも、パレードの法則でも何でもよいから、閉塞状況が突破できる斬新な目的の再構築と「優先順位」づけにウェイトを掛けなければならない。
 ただその際、知的努力の中味として留意すべき点は、発想にせよ、データにせよ、まして教訓にせよいっさい過去に依存しないということかもしれない。われわれが直面している現在は、そうしたものが無効となったがゆえの混乱なのであるから‥‥ (2002.03.27)

2002/03/28/ (木)  「優先順位」感覚:危機感薄い日本人は時間の切迫性を回避できる才能がある!?

 ものごとの「優先順位」を決める要因は、大きく分けて二つ、<目的、目標>と<緊急性や期限(=時間の切迫性)>だと考えていい。
 目的、目標が定まれば、これらに基づいてやるべきことなどの「優先順位」は大体決まってくるものだ。たとえば、休日をどのように過ごすかというテーマは、人生の目的とまでは言わなくとも、生活目的や目標が自覚されていれば、「さあて、今日は何をしようかなあ」なんて思う暇もなく、たちどころに「優先順位」は決まってしまうのだろう。
 また、現在の「構造改革」政権が概ね失敗に終わるのではないかと懸念されているのも、「構造改革」の目的、目標や、今後の日本の目的、目標となるイメージが一向に明確にされていないからである。一般的な経済成長を口にするのは、人生の目的は?と聞かれて生きることと答えるに等しい。だから政策決定の「優先順位」が蛇行し、ぶれて、その結果実行勢力が分散されてしまって失敗する、と多くが推測するのである。

 「優先順位」づけを促進する要因である緊急性や期限、つまり時間の切迫性は、「優先順位」で悩む者にとってはまるで救世主のような存在である。子ども時代の誰でもが、一ヶ月半もある夏休みのスタート時には、何をすべきかの計画なんて立てられるはずがなかった。タテマエの計画以外には。しかし、八月も半ば過ぎになるとにわかに「優先順位」感覚がとぎすまされてきたりした。手のつけやすい宿題からとか、たぶん誰もが済ましているに違いない日付入りの練習長からとか、絵日記からとか‥‥
 人は時間的余裕で堕落するとも言われるが、余裕のぬるま湯に浸かりながらでは「優先順位」はもとより、やるべきことなどを想像することはできないはずである。棚上げと先延ばしの習性に支配されるはずである。これが怠惰と呼ばれるものの正体なのだ。そして、この怠惰を脅かし、蹴散らすのが緊急性や期限すなわち時間の切迫性なのである。
 ここに至って、危機感とともに「優先順位」づけ能力に火がつけられることとなる。うだうだとした迷いが払拭させられ、なぜ迷っていたのかを不思議に思うほどに混乱状態が整序され始める。それはあたかも、小学生時代の理科の実験、鉄粉をのせた下敷きの下に磁石を近づけてみよう!のような瞬時の出来事の場合でさえあったりする。
 人間の品位は、人間が有限の存在であること、死によって持ち時間に制限がつけられている厳然とした事実によって保たれていると言った者がいる。限られた生きる時間が、危機感と同時に取捨選択、「優先順位」の秩序をもたらすのである。限られた時間、その極限としての切迫した時間が、重要視したい順序としての「優先順位」づけを促進してくれるに違いない。
 さらに、現代という特別な時代では、人間個人の生きる時間だけではなく、地球(資源)の継続できる有限性までが現代人によって意識されるようになっている。二酸化炭素による温暖化現象とか、エネルギー枯渇、砂漠化現象などなどである。これらは、人間がやるべき課題の「優先順位」づけを促進させる絶好の要因のはずである。

 ところが、「〜のはず」が必ずしも起きないところに残念な現実が横たわっている。なぜそうなってしまっているのだろうか。
 目の前に金融危機、経済危機をはじめとする日本の危機が迫っているにもかかわらず、それが、危機感へと結晶化せず、だから政治課題の「優先順位」づけもままならない状況。似たような事態を迎えた諸外国が乗り越えた危機を、いつまでも手をこまねいて抱え込んでいる日本という国には、一体どこに問題点があるのか。危機との遭遇を危機感として作用させて、自立的な打開策設定と変革、というようにはならず、ここ一番では結局外圧などに依存しようとしてしまう日本!
 差し迫る危機を危機として想像し、そのイメージに挑戦しようとする危機感を生み出し得ないこと、だから挑戦心の具体化としてのやるべきことの「優先順位」づけも機能しないこと、これらはまるで、夏休みがどんどん過ぎてゆく中で、おろおろとしている小学生の姿と変わらないのではないか。棚上げと、先延ばしでここまで来てしまった「不良債権問題」は、何よりもこの情けなさを表している。他者に対する責任をうやむやにすることと、危機感を持たず将来に対しての責任感を放棄することとは同根なのであろうか。
 これはやはり、日本文化の特色とも言われる「集団的無責任」のなせるわざなのだろうか?戦争中に、残虐なことを平気でした原因だとされるこれ以外に、今のところ思いつかないでいる。どうしたら、自分と他者とに責任感を抱き、将来に対して然るべき危機感を抱ける個人責任の文化へと変わってゆくことができるのだろうか?個人と集団・組織との抜本的な見直しがどうしてもなくてはならないようだ‥‥ (2002.03.28)

2002/03/29/ (金)  「優先順位」感覚:危機感乏しい日本に充満するのは、感情的な不安感のみか?!

 「恐怖と不安とは異なる」と言われる。対象が特定され、はっきりしている恐れの感情が「恐怖」であるのに対して、「不安」は同様に恐れの感情ではあっても、その対象が漠然としている点に特徴があるとされる。
 ばったり出っくわした野放しの狂犬や、強盗が手にする刃物や拳銃に対して抱く感情は「不安」ではない。「恐怖」である。この先の日本はどうなるのだろうかという感情は、たとえ「恐怖」に限りなく近くはあっても、そうではなく「不安」の感情ということになる。何が「恐怖」なのかが定かにされていないからである。

 何となく身体の調子が悪いと感じることがあったりする。そんな時は当然気分も沈みがちだ。そして、良からぬことばかりを漠然と想像したりする。「ひょっとして、自律神経失調症なのかな?いや、肝臓疾患かな‥‥」と。そして、そのまま放っておくと「癌におかされたに違いない‥‥」などと思い込みがエスカレートすることもある。で、その身体の悪い調子以上に、ふくれあがった「不安」感情自体を癒すために、酒を飲んだりあえて空騒ぎをしたりもするかもしれない。
 そんな時、「不安がってないで、医者に行ってはっきりさせるべきだ」との良識的なアドバイスが効果的だったりする。
 要するに、大小の「恐怖」を伴うかもしれないにしても、漠然とした「不安」材料を白日のもとに曝け出すこと、そしてその対象への具体的な対策を打つこと、へと歩み出ることが必要なのである。「不安」からは「不安」の増大しか生まれず、「恐怖」からは具体的な結果が帰結するのだ。発生してしまった「不安」は、「恐怖」につながるか「とり越し苦労」だったとの結果に至るかはわからないが、いずれにしても具体的な認識に至らなければ出口はないのだろう。

 日本人が危機感に乏しいという風評について考えてきたが、どうも、この「不安」感情にとどまりがち、妙な表現をすれば「不安」感情に安住(?)しがちな民族だと言えるのかもしれない。
 眼前の恐ろしい事実を具体的な事実として見つめたがゆえに生じた「恐怖」感情は、そのまま「危機感」だとも呼べるはずである。そして、その感情から、打開策の「優先順位」づけが始まり、具体的な行動が方向づけられもするのであろう。
 しかし、「不安」感情が生み出すものは、「非」決断(「非」意思決定)、「非」行動であり、感情の底なし沼への沈潜でしかない。
 日本人は本当に「不安」安住民族なのだろうか?いや、そんな抽象論ではなく、それこそ「不安」材料を白日のもとに曝け出すべきだろう。そこで思い当たる事実なのだが、個人の決断、意思決定を妨げている幾重もの文化であり、環境が問題なのだと思う。

 今、リストラによる人の移動もさることながら、優秀な若者が古い「日本型組織」から離脱する動きも顕著だと言われている。彼らが、古い「日本型組織」を嫌うのは、自分が生かせないからである。自分の意志決定ができないからである。我が儘を通そうとしているわけではない。求められる責任と権限と処遇が不明確であり、身動きがとれないからなのである。
 相変わらず集団責任方式なる「稟議」第一主義の日本型コンセンサス方式が機能している以上、そして個人の権限が不明確であるならば、個人による意志決定などは考えられないと言わなければならない。なおかつ、個人による意志決定がないならば、個人の責任は「集団責任」という虚構に雲散霧消してしまうだろう。責任感がないところに、危機感=恐怖感は生まれず、事態は不明瞭なかたちで推移してゆくため、ただただわけのわからない「不安」感だけが累積して漂うのであろう。
 この構造は、企業組織内にとどまるものではなく、社会全体に蔓延しているともいえる。 一例をあげれば、情報公開の問題なのである。市民なり国民なりが、責任感を発揮してゆくためには、個人としての選択、意志決定が充実しなければならない。また、そのためには、十分な判断材料が公開されていなければならない。にもかかわらず、「知らしむべからず、依らしむべし!(知らないでよいから、従いなさい!)」という発想が相変わらず官公庁の基本姿勢ではないだろうか。

 そして、こうして累積した当事者や国民各階層の「不安」感は、解消法があるわけではないので、衝動的で手当たり次第の「癒し」探しに突入して、現代日本の刹那的カルチャーというあだ花を咲かせているのではないだろうか。
 日本の危機感欠如に対する海外からの批評と批判はますます強まり、われわれ自身は出口が見出せない「不安」の底なし沼へとますますはまり込んでゆくのだろうか‥‥ (2002.03.29)

2002/03/30/ (土)  「優先順位」感覚:危機感を欠いてはしゃぐ現代と幕末!

 日本の現状に対する、海外、とくに米国からの批判の声の最たるものが「日本は危機感が薄い!」という声であることを多くの国民が知っている。「不良債権問題」未処理とデフレとが重なる最悪の事態に遭遇していながら、有効と考えられる対策が遅れに遅れているからである。そして、この期に及んで緊急課題からは次元のはずれた問題、政治の貧困と腐敗現象が堰(せき)を切ったように露呈してきた。望むらくは、一丸(いちがん)となって経済危機の克服に当たるべきところが、ボロボロの醜態をさらしているからである。米国ならずとも、日本における危機感や「優先順位」というテーマに関心を向けたくなるはずである。

 これらは根深い問題ではないかと懸念していたら、「幕末」と酷似していると分析する人がいた。野口武彦氏の『幕末気分』がこれである。(実をいうとこの新刊をまだ入手できないでいるので書評(清水克雄)に頼らざるをえない。)
 もちろん「幕末」も幕府の滅亡と開国という一大事に直面した時期である。にもかかわらず、国中が、当事者らしからず、事態の深刻さを見ることができず妙に陽気な身ぶりで終末に向かっていたというのである。
 著者は、江戸文学研究者としての立場から、幕末の官僚の日記や手紙、庶民の流行歌や風聞書などを丹念に検証して、危機感薄い「幕末の気分」を照らし出しているという。
 政治家や役人の生態も然り。幕府滅亡を眼前にしながら、役得にしがみつく幕臣、長州戦争にかりだされながら前線を離れ遊興に励む旗本や御家人たち、国運をかけた外交問題より利権がからむ後継将軍の人事争いを優先させる指導者たち、といったありさまであったと。
 また、幕府の混乱や退廃をながめる江戸町民の「気分」も、さながら面白おかしい芝居の一幕を見るかのようであり、こうして官も民も気楽に消費と娯楽に明け暮れていたそうだ。やがて幕府の崩壊で江戸の人口が激減するという破局を目前にしながらである。
 時代や環境が大きく異なるのだから、似ているのは偶然だと言い切ってしまうことも不可能ではないが、何か意味のあるつながりを感じてしまうのである。

 両者の共通項に目を向ければ、まず日本人という担い手が同一であるという点は言うまでもない。また、片や封建時代、片や民主主義の現代という違いはあるのだが、その担い手たちを支えた文化の中で、突出した特徴に違いなかった集団主義的傾向は共通していただろう。そして、そうした傾向を充満させた組織の中で、個人の責任感、危機感が眠らされてしまったと言えようか。
 もうひとつ重要な共通点としては、どちらの時代も長期に渡って国内戦争が無かったという点である。幕末にこそ各地で小競り合いないし戦争の火蓋が切られたが、いたって平和な二百年間を終えようとした幕末であったはずだ。そして、太平の世の惰眠をやや脅かしたのは直前の黒船来航くらいであっただろう。
 現代はと言えば、響きのよい言葉ではないが「平和ボケ」と言う者もいるほどに、半世紀以上の平和が継続してきた。こうした、長期に渡る戦争=危機なし状態が続くと、どうしても安定の永続を盲信する楽観的な気分が醸成されるのであろうか。
 また、幕末がどうであったかは一概に評価しえないところだが、現代の平和時代の半世紀は、まさに右肩上がりの経済成長の時期でもあった。限界というものを深刻に見つめずに無限成長を信じ切った。挫折の体験とて、結果的に調整可能な小さな経済危機でしかなかった。人々に「何とかなる!」と楽観させる道程以外の何ものでもなかったに違いない。

 こうした楽観的惰性の中で迎えている破局、危機の瀬戸際にいて、日本全体の気分はやはり明るくはしゃいでいるようにも見える。信じられる何の好材料も見受けられないにもかかわらず、問題を先送りしたがゆえに掴めたかりそめの「ワラ」にすがり、楽観気分に浸っているとしか見えない。
 時代の流れとともに消え失せてゆかなければならない存在と、そうでない存在があるはずである。自分たちが前者に相当するように変わってゆくとともに、どの政治リーダーたちが同じサイドにいるのかを、今こそしっかり見抜いてゆくべきなのだろうとそう思う‥‥ (2002.03.30)

2002/03/31/ (日)  <連載小説>「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」 (33)

 「誰か助けてぇー」
 鬱蒼(うっそう)とした森を走る山道の前方から、静寂を破り女の悲鳴が突然響いた。もう日が暮れかかっている。甲州街道、小仏峠手前のここは、弱い木漏れ日だけが差す不気味な薄暗さに包まれていた。海念は、反射的にその悲鳴の方向へと走った。後からも人が走る気配を感じながら。
 四、五人の山賊らしき男たちが、旅姿の男女二人連れを取り囲んでいた。中の一人は鈍く光る刀を抜き放ち、旅人を威嚇している。海念はとっさに状況を察した。
「二人を放しなさい!」
 突然走り寄ってきた海念の姿と声に、男たちはぎょっとするのだった。
「な、何でい、この坊主は。おめえなんかの出る幕じゃねえ。おとなしく、引っ込んでろ。」
 若手のひとりが驚きを隠せない調子でどなった。その男を脇にどけるようにして、刀を抜き放った親分格らしき男が海念の前に歩み出てきた。
「お坊さん、怪我をしないうちにとっとと消えな。金なしのおめえさんなんかにゃ用はないのさ。」
 その男は、不用意に刀を海念の顔に向けて突き出した。と、その時、海念は右手で立てて握っていた錫杖を、すかさず下から振り上げるのだった。刀は下から激しく突き上げられ、その拍子に男の手から離れた。刀は一瞬宙を舞った。さらに振り戻る錫杖を、素早く握り手を返し、海念は男の左足側面を容赦なく打ち込んだ。ばきっという鈍い音が聞こえた。男は崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。
「何だぁ、この坊主はー」
 残りの男たち四人は激昂して次々に抜刀し、海念を取り囲む。海念は、慎重に錫杖を構え直した。そして、旅人たちに、「ここを逃げよ!」と叫ぶ。唖然としていた二人は、その声で一目散に峠方向へ走り去って行った。
 隙のない海念の構えが、とり囲む男たちの動きをぴたりと止め、凍らせていた。その時であった。薄暗がりから、突然、落ち着いた声が聞こえてきた。
「お坊さん、拙者がご助力させてもらおう。こんな悪党どもは始末してしまうに限る。」
 その緊張の場面を破り姿を現したのは、若い浪人ふうの侍である。左手を腰の鞘の元へあて、右手で刀の柄(つか)を握るその構えは、居合切りの凄みを十分に漂わせていた。
 賊たちのうちの若手が、無鉄砲にも刀を振りかざそうとした。が、そこへ別の声が割り込む。
「よせ、分が悪い。ここはひとまず退散だ。」
 足の骨折を、杖にした刀でかばって立っていた親分格ふうの男が制止したのだった。やがて男たちは親分格の男に肩を貸しながら、峠とは反対方向に向かって小走りに立ち去って行った。

 薄暗がりに消え去る男たちを、用心深く見届けるように二人は立っていた。
「お坊さん、なかなかやりますな。余計なお世話を買って出てしまったかもしれませんな。お見事な身のこなしでござった。」
 浪人ふうの男は、腰から手を離し、両掌を揉み合わせるような格好をしながら言った。
「かたじけないことでした。あの多勢では、命は落とさないまでも怪我は避けられまいと見込んでおりました。」
「いやいや、あの形勢では怪我をしたのは奴らでしょう。しかし、あの迷いのない先手の立ち振る舞いはお見事と言うほかない。悪党に対しては躊躇なく機先を制することがすべてでござる。」
 浪人はすっかり海念に感服している様子だった。みずから諏訪十三郎だと名乗り出し、江戸までお供したいものだとまで言い出していた。
 海念は、道を求め、師家(しけ)の寺を渡り歩く、行雲流水の托鉢行脚を続けていたのだった。この折りは甲斐の国のある寺を訪れ江戸に戻る途中であったのだ。
 やがて二人は薄暗い森を出て、見晴らしのよい小仏峠に差しかかった。すでに夕刻となり、さえぎるものがない峠でも夕闇が広がりつつあった。
 ここから江戸市中までは十二、三里、甲州街道の江戸の玄関である内藤新宿まででもおよそ十里は残っていた。途中の八王子の宿まででも四、五里はある。幸運にも宿を見つけるか、野宿しなければならない距離である。ただ、風来者と呼ぶべき二人にとっては、宿の問題など眼中にない気配だった。
「そうですか、海念さんとおっしゃるのですか。で、剣術はどこで習われた。」
「もともと禅僧は、護身のため棒術などをたしなみます。特にわたしの師は仏道とともに武道にも秀でたお方でしたので‥‥」
 海念は、見ず知らずの浪人に沢庵和尚のことを話すことをためらい、和尚の名を伏せた。十三郎はそれに特別気にとめることはなかった。
「拙者は、江戸に出てある先生に師事して軍学を学ぼうと考えておる。武術にはいささかたしなみのある拙者だが、もはやそうしたものが活かせる時代ではないようだ。まあ、山賊を蹴散らすくらいが関の山かのう。はっはっはっ。」
「しかし軍学とてこの太平の世では同じことではないのですか。」
 海念は豪快に笑う十三郎に、やや杓子定規に問い返した。
「まさしく。その先生が説かれる話は単なる軍学ではないのだ。幕府の御政道を糾す知恵に満ちた軍学だと聞いておる。だからこそ拙者はその師のもとに向かうのだ。」
と言い終えると、十三郎は、山道の下方に人家の灯りがちらちら見えるのを指さした。
「おお、灯りが見えるぞ。宿があるかどうかはわからぬが、あの辺りで休むとしませんか。いやいや、軍資金は拙者にお任せあれ。今宵は飲み明かしましょうぞ。」

 二人が街道沿いに灯りが見える付近に辿りついた時、ふいにひとつの人影が近づいてきた。まるで待ち構えていたかのようにいそいそとその人影は近寄ってくる。暗闇のため顔や姿が判然としない。一瞬二人は用心して身構えた。が、その人影は馴れ馴れしく声をかけてくるのだった。
「お坊様、あっ、やはり先ほど助けていただいたお坊様ですね。」
 何と、海念が逃がしてやった旅人の片方の男なのであった。二人の緊張は解かれた。
「さきほどは誠にありがとうございました。わたしどもはこの村の者でして、もう一人の娘御は、この村の庄屋さまのお嬢様でございます。」
 年配の男は、庄屋のうちの手代で与助という者だった。命からがら逃げ帰り、主人に峠付近での顛末を話したという。主人は、この街道は一筋なのできっとここでお待ちすればお会いできるはずだと読んだ。そしてお会いできたら、是非お立寄りいただくようお願いするのだと、そう命じたということであった。庄屋の主人は、娘の恩人に何としてもお礼がしたいと願ったそうなのである。
「海念さん、渡りに舟ではないか。お言葉に甘えましょうぞ。」
 与助に案内され、二人は庄屋の屋敷に迎えられた。あの出来事での驚きのあまり娘御は寝込んでしまっているとのことだった。父親だという白髪の主人は、娘の命の恩人に両手をついて厚く礼を述べた。そして、よろしければ心ゆくまで滞在してもらいたい、と感謝の気持ちを示すのだった。

「いやー、大した豪勢な旅となったものだ。」
 十三郎は有頂天となっていた。入浴や、贅沢なもてなしの食事を済ました二人は、寝床が敷かれた広い客間に案内されていたのだった。さすが庄屋の屋敷だけのことはあり、襖には名立たる者の手による山水画が施され、手の込んだ透かし彫りの欄間も見事なものである。
「さあさあ、海念さん。飲み直しましょうぞ。しかし、人助けはするものですのう。」
 寝酒までそれとなく注文していた十三郎の厚かましさに恐れ入っていた海念だったが、なぜか憎めない人だと感じて気を許した。
「浪人の身の上となって早や五年、人様に喜ばれ馳走となる酒のうまさにはとんとご無沙汰であった。だから、今宵はうれしゅうてならぬ‥‥」
 十三郎は、海念の杯に酒をなみなみと注いだあと、矢継ぎ早に手酌を始めていた。
「武士は、いや人は、誰かのために死ねることこそが本懐(ほんかい)なのではござらぬか。仕官をすることとは、俸禄を得ることにあらず、己の命を主君に預けることなのだと拙者は考えておる。だが、浪人の身は、何と切ないものであるか‥‥。誇りを持って死ぬことにあらず、気がついてみると、己が醜く食うて生きることにあくせくさせられておる始末だ。そんな野良犬、やせ犬の暮しをもう五年も続けてしもうた。
 しかし、本日は違う。完璧に違う。人の命を救った。いや、救ったのは海念さんだ。だが拙者もご助力させていただいた。そして、こうして人様に喜ばれておるのだ。こんな誇りに満ちたひと時はうれしゅうてならん。なあ、海念さん‥‥」
 もうだいぶ酔いが回り始めた十三郎のようだった。だが、海念には今宵十三郎をはしゃがせている浪人暮しの闇というものが手にとるようにわかっていた。父もそうであったし、あの中村小平太どのも‥‥。生活のひもじさが辛いのではない、命を託す主がいないというきれい事でもない、自分を必要とするものがないことのやる瀬無さが、落ちゆく深い谷底をながめさせられるような‥‥。
 海念は、徳利を手にとり、十三郎に酌をした。
「十三郎どの、江戸ではどちらの先生に師事されるので‥‥」
 突然たずねる海念に十三郎は目を見張った。さらに海念は何気なく言葉を足した。
「ひょっとして、神田連雀町の由井正雪先生なのでは‥‥」
 十三郎は、はっとして杯を揺らし酒をこぼした。
「な、なぜそれをご存知か。なぜそれをそなたは知っておる。」 (2002.03.31)