ゴールデン・ウイークで子ども達も自然に接することが多くなっているのではないだろうか。親やその親たち年配者は、癒しと安らぎを求めて自然の風景や自然そのものに接するつもりであるのに対して、どうも、子ども達が自然から感じるものは親たちとは別物であるらしい。滞在が長期に渡ると苛立つ子もあらわれるとかいう。
子ども達は、都市生活のデシタル環境にこそ慣れ親しんでしまっているので、自然環境の何もかもがアナログという状況に対しては違和感を抱くのであろうか。もっとも、大人たちとて、デジタルとコンピュータに基づく自動化環境にもはやたっぷり依存し尽くしているはずである。
世界は、デジタル原理の操作可能環境へとひた走っていると言える。文字通りのコンピュータ処理の領域だけでなく、文明や文化のかたちまでが輪郭をシャープにさせ、0と1の原理であるデジタル的傾向にフィットするように染めあげられている気配さえ感じる。
ところで、あのアフガン空爆開始時に、米大統領ブッシュの世界に向けた演説もデジタル的であった。「今日、我々はアフガニスタンに照準を合わせているが、……どの国も選択をしなくてはならない。この紛争に中立の立場はない。(2001.10.09)」と、世界をテロ国陣営とそうでない米国支持陣営とに、無理なデジタル分化をして見せたものだ。
すでに米国社会は、持てる者と持たざる者との貧富二極化社会が成立しているとも言われているが、グローバルな世界もまた、南北の二分化、富める国々と貧しい国々とに際立って二極化していると言えそうだ。テロ国家と非テロ国家といった恣意的な二分ではなく、所有と支配の原理によって歴然として生じている両極分化こそが注目に値する。
日本国内におけるはやり言葉「構造改革」もまた、日本社会を米国のように貧富二極化社会へと変えることがその本質であることを、どれだけの人たちが知っているのであろうか。
世界や社会、そして人々の発想が二極分化的傾向を深めつつあることと、技術上のデジタル化が関係しているのかどうか、また関係しているとすればどう関係しているのかは、興味深いテーマではある。だがここでは深入りせず、両者をひっくるめた傾向について扱う。
そもそも、二極分化にせよデジタル分化にせよ、着目すべきは、連続している状態に何らかの境界を設定し、非連続な姿に変えてゆくことではないかと思う。仮に6時34分と6時35分の間は、限りなく連続して推移しているはずだ。にもかかわらず、秒を刻まないデジタル時計では、何も無いかのような扱いをする。秒を刻む時計であっても、秒と秒の間は同様である。境界など無い事実に、それをあえて持ち込んでいるのである。
この点は、合格、不合格の区分けや、課税所得額の仕分けなどの例をあげるまでもなく、社会事象についてもあまねく見られる事態であるはずだ。
考えてみると、自然の営みや自然現象には、上記のような境界や、分化というものはどのように存在しているのだろうか?固定的で、絶対的な意味でのそれらは存在しないのではないんだろうか。そこまで言い切ってしまう自信はないが、自然の営みや自然現象の特質は、境界や分化ではなく、連続であり、相互浸透であり、融合だと認識している。
ただ、生物の進化とは、機能分化であり、種の多様化であると言われてきたかと思うが、それらでさえも食物連鎖や相互依存(植物の花と昆虫の関係などは、個体分化とは言えないほどに絶妙なコンビネーションだと見える)によって、広い視野から見れば巧みな融合関係におさまっていると見える。
人間による認識とか、ものの定義づけとかは、当該対象とそれ以外のものとの区別をこそ基準にしているようなので、この世界に様々な区別と境界を持ち込んだ張本人は人間自体だと言ってよいのであろう。そして、科学を筆頭にして、差異と区別に着眼して推進してきた長い近代化の過程があり、その成果の上に現代におけるデジタル化という総仕上げの段階が到来していると考えられそうだ。
先日、ただ券をもらったので、たまにはいいかと思い『ロード・オブ・ザリング』を見てきた。少なくともわたしには、SFXの特撮以外に何のコメントも口にできない映画であった。それじゃデジタル技術としてのSFXはどうなのかと言えば、空々しさの感情ばかりが刺激されて無用に疲れたものだった。耳年増ならぬ、目年増を増やすだけの過剰デジタル化のサンプルを見た思いがしたものだ…… (2002.05.01)