かつて、ドイツ哲学の大御所カント(Immanuel Kant,1724〜1804)は、何が善で何が悪であるか、という倫理の根本問題に対して、次のように結論づけた。
「君の意志の格律が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(「君の行為が、君以外の誰が行なっても世界の調和や万人の幸せを阻害せずむしろそれを促進するような行為であると言えるときには、その行為はいつでも正しい」という意味。) 「神」などの超越的絶対者を想定せずに、自由でしかありえない近代以降の個々人が、個人の自由を大前提にしながら、いかにすれば「善」を為しえるかを、考え抜いたすえにたどり着いた判断がこれであったという。
確か、サルトル(Jean-Paul Sartre,フランスの実存主義哲学者、1905〜1980)も、『弁証法的理性批判』か何かの中で同様の指摘をしていたかと思う。サルトルの場合、第二次世界大戦で、ナチス・ドイツ軍がヨーロッパを牛耳った時、知識人として「レジスタンス」運動に命をかける際、自由な人間として(神からも、伝統的権威のいっさいからも自由!)、どうしても自身たちの実践行動を支える必要からこの点に言及したものだと推測している。よくはわからないが……
のっけから、カントだ、サルトルだと口走り、「バカじゃねぇか」と思われそうである。「そうやって、勝手に哲学ってろ〜!」と言われそうである。
ただ、あまりにも「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」の世相となってしまったので、カメラに向かって平身低頭して詫びる会社代表が口に(だけ)する、初心にかえって一から出直してもいいんじゃないかと、ふと思ったのである。
どうせ初心にかえるなら、しばしば非行少年の悔い改めがそうであるようなかたちだけの中途半端に終始せず、思いっきり原点に立ちかえった方がいいんじゃないかと、まあそう思ったワケである。
どこだかの市長さん! もしあんたと同じような収賄を全国各地の市長さんたちがやったら、ただでさえ地方自治体の財政破綻が叫ばれている折り、一体わが国の住民生活はどうなるのかシミュレーションしてみたかい?
詐欺罪で逮捕された会社代表さん! もし、あんたと同じ手法で全国各地、世界各国の企業が口先だけで大見得を切るといった禁じ手をやったら、ただでさえ壊れかけてる日本経済、世界経済が、二度と立ち行かない荒野となることを、儲け額計算の傍らで想像してみたかい?
名古屋の刑務所の刑務官さん! もしあんたらみたいに、塀で隠された場所でなら革手錠などによる暴行もいいんだと、全国の刑務所の刑務官が皆そう判断したら、確実に自分たちもそういう扱いをされるという当たり前の事実までは想像しなかったのかい? もうすぐそういう立場になるんだもんね……
不良債権を公的資金で穴埋めすることに慣れ切った銀行さん、グローバリズムのスタンダーズを適用されそうになったら、貸しはがしに奔走する銀行さん! あんたらのように、信用を売り物、買い物にしている業種が、信用なるものをズタズタに切り裂いていたんじゃ、お客さんの意識水準も皆そうなってしまい、商売がやりにくくなってゆくことを計算しなかったのかい?
核兵器使用をちらつかせて外交交渉を進めようとするお国の方々! あんまりそれでいい「実績」を作っちゃうと、世界中の国々皆が地球を粉砕するスイッチを持つことになっちゃって、結局は世界中が身動きのとれない始末になることを推論しなかったのかい?
てなワケで、同時代の困った人たちは皆、「こんなことをするのは自分だけなんだから」という勝手な前提を設けて、「皆が揃って同じことをするワケがない」と高を括っているに違いないのかもしれない。
しかし、とくにわが国は気をつけなければならないのだ。「ケータイ」と言えば、皆がそれに向かって突っ走り、普及率7割? となってしまう民族なのだから、皆が揃って同じ悪事を働き、一気に国を滅ぼすことだって、決して杞憂ではなさそうだからだ。
で、今日、力みたかった点というのは、上記のような悪事を働く甘ったれではなく、孟子曰くの「千万人といえども吾往かん(千万人の反対者があっても恐れることなくわが道を進もう)」に近いスタンスなのである。(そんなこと言っちゃっていいの? と自問する声も聞こえてくるが……)
身の回りの生活環境は、日ごとに「信念なんぞくそ食らえ」的な色彩を強めているかに見える。だが、皆が皆、そうなっちゃったら、ウマウマ言って紅葉のような手をしゃぶっているいたいけな幼児たちにとってのこれからの社会や世界は、あまりにもかわいそう過ぎるじゃないか、惨めじゃないか、とまあそう思うのである…… (2002.11.28)