『その時歴史が動いた!』にあやかって、自分史もどきを振り返るはめになってしまった。「自分史」をまともにまとめるとしたら、三十年も早いと確信している(?)のだが、要するに人の歴史とは、人との出会いとその別れが大半なのであろうと思わざるを得ない。
もちろん、仕事の節目、変わり目という要素も大きい。しかし、それとて人との出会いと別れを契機とすることが多いはずである。結局、人生での重要な選択とは、人との出会いと別れを選択することに尽きそうな気がしている。
そして、この問題は、人任せにはできない一身上の課題だと思われる。別れを選ばずに、継続してゆくことが正解のこともあろうし、そうでないこともあろう。どのような理由や根拠をもって意を決するのかが当人に託された重要な試練であるに違いない。
人間世界には、さまざまな人種がいる。人が良く、それが今だけではなく長い将来にわたってもそうである人がいるかと思えば、一見頼り甲斐がありそうで、何の問題も感じさせないような人でありながら、離れるべし!と心が告げる人もいないわけではない。相性の問題もあるので、なおさら峻別しがたい課題なのであろう。
わたしの自分史「ハーフ」(カロリー半分ビールのようだが)も、人との遭遇と別離で紡(つむ)ぎ出された観がある。
わたしの場合、「自分に甘く、他人に厳しい!」というとんでもなく悪い性格が災いして、波風は決して小さくはなかったかもしれない。特に、指導者として仰ぐ人に対しては、期待を込めて50%増量の辛口評価をするものだからまずい。大学院時代の教授方々たちも、そうした被害をお受けになっているのかもしれない。
だが、そんなわたしから被害を強くこうむったのは、おそらくわたしを雇った会社の社長たちであったかもしれないと思っている。とは言っても、さしあたって三人、その一人は自分自身であるから、およそ二人の被害者がいたこととなる。
※※教授に紹介されて向かった独立系中堅ソフトウェア開発会社を、わたしは一年半で見切りをつけた。教授との義理もあったのだから、さしずめ三、四年くらい居たって良かったのであろう。が、早かった。偉そうにも、早々に社長の特質を見抜き、この人の下では自分は開花できない、下手をすれば使い捨てカイロとされかねないと確信したからであった。
「自分に甘く、他人に厳しい!」という自分の欠点を書いたばかりだが、そこまで書くのは、上には上がいることを、この社長と出会って知っているからなのかもしれない。ホンモノはこんなものじゃないぞという経験があったればこそなのかもしれない。
誰が見たって、社長自身が反省すべきゴタゴタが起きた時にさえも、決して人前で反省なんぞすることをなさらなかった不思議な社長なのであった。
「いやー、やっぱり△△部長がおかしいんですね。わたしもずっと前から懸念してはいたんですよネ」
と、開いた口が塞がらない矛先転換をやってのけるからたまらない。振られた人も相手が社長だからどうにもならないのだ。大学院出の社員ということで、何かと社長のそばに置かれただけに、その醜態がしっかりと丸見えに見えたのだった。何人もの有能だと思しき人材が、その悪癖によって潰され、辞めてもいった。わずか一年半の間にも人の流れは繁華街並であった。社長自身の東大時代の友人部長ですら、哀れその犠牲とされたのであった。まあ、人間関係とは所詮(しょせん)関係である以上、破綻の原因が片方にだけあるとは言えないのだろうが、そこまでさり気ない矛先転換、責任転嫁がパーフェクトにできる人は、ある種の天才だと思ったものだった。
アプリケーションパッケージ・ソフトの企画という担当は遣り甲斐はあった。精一杯、研究生活で培った力を発揮できそうな予感もしていた。が、もうひとつの予感がじりじりと増大していったのだった。※※教授の後輩と言いながら、先輩も後輩もまったく相互の人格認識なんぞしておらず、何と表面的な相互評価でしかなかったか、それにも驚いたものだった。双方ともに偉そうなことを、ハイ・ブローで口にされる割には、人の認識が実に粗雑過ぎていた。自身が見えないのだから、他人もレッテル貼り水準でしか見えないのであろう。さらに、その時々の状況でコロコロと人物評価を変えて怪しまない典型的な機会主義(オポチュニズム)でもあった。
いろいろと込み入った事情もあったにはあったが、社長の、絵に描いたような<「自分に甘く、他人に厳しい!」性格>×<機会主義(オポチュニズム)>を実感的に確認してしまったわたしは、この方は長く御つき合いする人ではないなあ、と直観していたわけである。そこそこビジネス舞台はこなす方だからご本人と会社はまずまずであろうが、そばに居るとケガをさせられる危険な人だと、身を案じたのかもしれない。
その時自分史が動いた! の今回のクライマックスは、社長の次の言葉であった。
「そうですか、やはり○○部長にヒロセくんを生かすのは難しかったのかなあ。わたしの直下ということも検討してみましょう」
と、まったく当方側の社長自身へのクレームを、ここでも見事に矛先転換でかわす天才ぶりを示された時なのであった。わたしは、心の中で「ダメだ、こりゃ」と、いかりや長介のせりふをつぶやいていたのだ。
実は、わたしは企画中の案件を、多少荒っぽいがカンと行動力は決して悪くない企画部部長の下で推進していた。わたしの熱の入れようは、デスクの上に新聞紙をひいて連日徹夜をするほどであった。部長も精一杯応援してくれた。
問題であったのは、社長自身だったのである。度々企画部の部屋に訪れては、部長を頭越しに感想や支持をお構いなく発することなのであった。製造工数に大きな差異を生み出すポリシー決定や指示系統が、完全に二股となってしまったのである。そしてその乖離は大きくなる一方なのであった。
そこでわたしは、その実情を社長に訴え、もし社長が指示を出すのであれば、部長会で正式ルートに乗せて出していただきたいと申し出たつもりだった。が、返ってきた言葉が前述のごときだったのである。
わたしは、初発の案件を、会社が利益を上げられる案件としたかった。また、ソフト開発とは言っても、結局メーカー主導の人工(にんく)作業に明け暮れていた会社体質に、企画で稼げるという橋頭堡を実証してもみたかったのだ。それが、会社のためにも、そして自分を生かすためでもあると、気負い込んでいたのである。が、本気になればなるほどに、この環境で失敗すれば目も当てられない修羅場となると推定せざるを得なかった。
そもそも企画業務とは、研究開発業務であり、言ってみれば困難さのかたまりなのである。多くの企業がこれを目指しながらも思うようにならないのは、顧客の指図が頼りで動いてきた仕事水準=大気圏を突破できないからなのであろう。案件の技術云々よりも、そうした道理を知らないことが敗因となるのだと思われる。その会社も、社長自身もまさにこの理屈を心得ていなかったのである。
まして、わたしのような新参者がそれなりの企画を成就してゆくには、他の環境や条件はともかく、意思統一が必須であった。それが乱れていた。そのことの深刻さが、どこ吹く風といった無自覚さであった。言うまでもなく、その体質の源は社長自身であったに違いないだろう。わたしは、調査・分析、基本設計の段階を完了させることで、不本意ながら去ることを決意せざるを得なかった。
もちろん、とにかくサラリーマンとして指示されたことだけをやりながら、保身術に徹してゆく道があったことも確かだ。まして、経営トップのお膝元にいたのであるから。しかし、それは自分の力を切り拓きたいという願望の乏しい者でしか採用し得ない道ではなかったかと思っている。
ところで現在の経済は、すべてのサラリーマンが保身のためにも絶えざる自己啓発を余儀なくされた、そんな厳しい環境へと突き進んでいるはずだ。まあ、自分がした選択はまんざら外れてもいなかったのだろうと思っている…… (2002.09.01)