自分を何かに「埋没」させる(没頭させる、平たく言えば「はまる」)ことほど気持ちが安らぐことはない。趣味でも仕事でもとにかく全神経を集中して自身を「埋没」させることができる時、まさに不快な雑念から解放され静かな時間が手に入るのだろう。おそらく、生涯そうしていられる人が幸せだと言えるのかもしれない。
とくに、現代は人の意識を拡散というか、撹乱というか、混乱と言ってもいいかもしれないが、とにかく集中させてはくれない環境に満ち溢れている。そう言えば、子どもが落ち着きを失って行動するADHD(注意欠陥・多動性障害<Attention deficit hyperactivity disorder> )という脳生理的な症状が注目されたりもしているが、現代人は大なり小なりこうした心理的傾向を持っていそうな気がする。
「外部志向型」人間(⇔「内部志向型」人間)が特徴というよりも、それが一般的となってしまった現代にあっては、人々は外部の中途半端な情報に小突き回されながら関心を引き裂かれている。また、さりとてこれぞという対象の何かを咀嚼(そしゃく)しようとするなら、それはそれで膨大な量の情報の前に立たされ、着手以前に萎縮させられてしまう。いずれにしても、中途半端なもどかしさに放置され、根無し草のように漂う不快な気分だけが残ってしまう。不安という気分も、こんな環境によって醸成されるのかもしれない。
自分は、もとより現代のそんな環境を感じとってもきたし、また性分的にもそうだからかもしれないが、とにかく何かに「埋没」していなければ不安になるといったタイプである。逆を言えば、「埋没」していればそこそこ満足してしまうし、「埋没」するのも比較的手馴れているとも言えるかもしれない。その気になりやすいということであろうか。
のめり込む対象は、カメラ(写真)だの、パソコンだの、読書・小説だの、落語だのといろいろとあるが、「現代病」の治療として昨今再評価しているのが「プログラミング」なのである。
「現代病」と言ったのは、人間世界の込み入った複雑さや、はたまたその規模のどでかさになどによってたじろがされ、陰々滅々の気分に落とされた状態を指している。ストレスで潰されそうな心境と言い換えてもいいだろう。
そんな時、マジにその種の本を読んで前向きに対処することも悪くはない。現代の状況認識を深めたり、先人の知恵に癒されるのもいい。しかし、自分の場合、そうした「文系的」問題に疲れた際には、まずは、しばしそこから離れてみること、「数理系」でもいいし、「物理系」でもいい、また「動植物系」でも、「スポーツ系」でもいいからしっかりと浮気をしてみることが必要となる。まあ、誰でも同じなのかもしれないが。
そんな中で「数理系」とまでは言えないが、「プログラミング」にはまってみると、うそのように頭脳がリフレッシュされる気がするのだ。つい最近も、シゴト半分でやや手ごわい内容のプログラム("CGI,Perl"のアルゴリズム)に「埋没」してみた。中途半端な姿勢だと返ってわずらわしさだけが堆積してしまうのだが、不可解なロジックについて真剣に悩む姿勢に「埋没」してゆくと効果抜群なのである。まるで新発売洗浄液で頑固な汚れを洗い流すように、脳にこびりついた「文系的」な水垢が見る見る溶解していくような爽快さを味わったのである。
たぶんこの対処法は理に叶っているのだと思う。数理的なロジックを対象とすることは、不透明さや「文系的」問題特有のあいまいさが排除されているために、脳活動の始業点検のような効果があるのかもしれない。昔、ある作家が、仕事にかかる前に高校時代の数学の問題をいくつか解くことを日課としていたと聞いたことがあったものだ。
しかし、そういう効果もあろうが、むしろそうした「純粋」ロジックの問題を対象としながら、意識を集中して「埋没」することによって、輪郭がはっきりとしない「文系的」問題が脳の小枝にぶら下がってかけ続けている負荷を振り落としたからだ、と見なしたほうがいいと思っている。要は、「埋没」し集中することは大きな負荷がかかりはするが、リフレッシュもされるということ、ちょうど完全燃焼が燃えカスを残さないようなことと酷似しているのではなかろうか…… (2003.04.15)