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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年04月の日誌 ‥‥‥‥

2003/04/01/ (火)  イラクの戦場と、「平和」の中のわれわれの「戦場」……
2003/04/02/ (水)  深刻な事態をも、あいまいなニュアンスの言葉で「許容してしまう側」の問題!
2003/04/03/ (木)  力ずくで進められている「グローバリズム」が世界を閉じる!
2003/04/04/ (金)  「猛獣」対「奴隷剣闘士」さながらの惨たらしいイラク戦争!
2003/04/05/ (土)  時ならぬ雨に打たれる満開桜……
2003/04/06/ (日)  「悪貨は良貨を駆逐する」環境での言葉への信頼!
2003/04/07/ (月)  「心にふたをする」現代はどこへ向かうのか?
2003/04/08/ (火)  やっぱりアメリカのポップ・アートはなじめない……
2003/04/09/ (水)  「知らなかった」では済まない毒を含んだうねり!
2003/04/10/ (木)  コスト度外視でのハイテク三昧による「解体工事」完了?
2003/04/11/ (金)  楽観的で無防備になり切り過ぎた「赤頭巾ちゃん、気をつけて!」
2003/04/12/ (土)  一対の対比関係とそれを生み出している構造的な環境!
2003/04/13/ (日)  過去に依拠するところの「ネタが尽きたか?」現象?!
2003/04/14/ (月)  不愉快さを押し殺し、「生きる意味」の実感をどうやって奪還するか……
2003/04/15/ (火)  不透明で中途半端な環境だからこその「埋没」姿勢!
2003/04/16/ (水)  事実は一面的に見てはいけない、必ず裏を含めての両面を見なければいけない!
2003/04/17/ (木)  知識・情報が一人歩きする錯覚世界の中で「バカの壁」が……
2003/04/18/ (金)  汲めど尽きせぬ「北品川」への想い……
2003/04/19/ (土)  思考や行動に指針を与える「基準」意識の更新!
2003/04/20/ (日)  「虹の柱」のメッセージをどう読み解くか?
2003/04/21/ (月)  「今からでも遅くはない!」「おまえはまだ若いのだから!」……
2003/04/22/ (火)  「国も、企業も、人も総パラサイト化の現実」とは言い得て妙!
2003/04/23/ (水)  手放しでは評価できない「グローバリズム」と、新しい動向……
2003/04/24/ (木)  「地域通貨(エコマネー)」運動が語るものとは……
2003/04/25/ (金)  何だか、世界中の人々が自分の目先の問題に「埋没」しているかのようだ?!
2003/04/26/ (土)  頭脳は、「身体の身になって」考えてやらなければならない!
2003/04/27/ (日)  そうなんだよね、その感激こそが何にもかえがたいものなんだよね!
2003/04/28/ (月)  現状を憂える側の「未熟さ」を何とかしなければ……
2003/04/29/ (火)  さわやかな新緑の光景を傍らに眺めながらキーを叩くつもりが……
2003/04/30/ (水)  「白装束」事件に端を発して「妄想」について考える!





2003/04/01/ (火)  イラクの戦場と、「平和」の中のわれわれの「戦場」……

 新年度が始まり、新しい学生の姿や真新しいスーツを着込んだ新入社員の姿を街角で見かけるようになった。しかし、残念ながらそれらの姿に新鮮さのおこぼれをいただくというよりも、とくに後者に対しては、なぜだかやれやれかわいそうにといった同情心さえ感じてしまう。経済やビジネスの戦線は、まるで都市バグダッドのように、閉塞し暗雲に包囲されているとしか言いようがないからだ。
 そして生活の場も、職場の厳しさを反映するだけでなく、医療費値上げや増税政策の実施など、まるで「波状爆撃」を受けているかのような気がする。

 現在、イラク戦争の動向に関心を寄せている人は、わたしを含めて少なくないだろう。戦争オタク、軍事オタクもいないことはない変な時代だが、むしろ大半の人々は、イラクの戦場を対岸の火事とは見ないで、何か自分たちの不安と共通したものを感じとっているのではないかと思っている。少なくともわたしはそうした理由で目が離せないでいる。
 現に、詳細な現象は別にしても、大筋における現在の不況や庶民の生活の困窮化は、「グローバリズム化された世界経済」と不可分な事態なのであり、イラク戦争もまた一皮をむけば米国による石油利権を手中に収めようとする経済戦争以外ではないからだ。冷戦構造時代が、戦争と言えば何にせよイデオロギー戦争だったとすれば、ポスト冷戦時代の現代は宗教問題も絡んでいても、本質は経済戦争だと見て間違いないと思う。「独裁者フセインの抹殺」「大量破壊兵器問題」「テロ撲滅」だの、さらに誰の目にも荒唐無稽な「中東の民主化」などが、真の動機を粉飾するための言辞であることは、時が経つにつれて明白になっていくだろうと考えている。

 現在、仮にも自分の将来を見渡そうとした時、一身上の環境だけを見ていて足るわけがないことは誰でも承知している。さらに、国内情勢を視野に入れることも当然であり、むしろ、グローバリズム化された現状では、国際情勢こそが将来を眺める際の基本、必須材料だという姿勢をとる人も少なくなくなっているのではないか。
 それが当然なのだと思う。もし、現代という時代を正確に洞察しようとするならば、あるいは、この現代において生計を立てて生きていこうとするならば、視野を世界へと見開き、しかもすべての問題が非常事態的に集約された「戦争」を凝視せざるを得ないと思っている。そのレベルをも踏まえた上での自分なりの「各論」を構築しようとしないかぎり、何をやっても見込みどおりにはゆかないのではないかという思いが打ち消せないでいる。

 わが国の現在のさまざまな領域での閉塞状況の原因をめぐっては、いろいろなことが指摘されている。そのひとつである「戦略なしの戦術ばかり」という問題は、国内政治や国際外交で顕著に当てはまるようだが、経済やビジネスのあらゆるレベルでも当を得ているのではないか。西欧へのキャッチアップ時代の、「戦略」のような大枠は西欧諸国の既存対象に依存して、その具体化としての「戦術」の追求だけに埋没すればよい、という習性が尾を引いているのかもしれないことは容易に想像できるところだ。
 しかし、現代という時代の最大の特徴は、既存の、周知の「大枠」そのものが、見直しをかけられたり、それ以前に溶解し始めていることなのであろう。新たな「大枠」こそが、ブランクとなり始め、それをどうするアイフル(?)というのが、現代が切に提起している「公開質問状」なのだろう。
 企業間の問題でも、大企業に従属する下請け中小零細企業という図式はほとんど崩壊しつつあるようだ。サラリーマンとて、企業に人生をお任せの時代でなくなっていることは、実感レベルで体得している。男性に従属する女性などという絵はとっくに燃やされてしまった。学歴偏重と東大志向の幻想も、それしかないからという消極的惰性で残存しているに過ぎない。
 ダメな政府によるピンポイント爆撃の多発も庶民には恐怖だが、それこそ「大量破壊兵器」による巨大な無差別攻撃のような途方もなく大きな変革のうねりにわれわれも飲み込まれようとしているのが、庶民にとっての現代だと感じている。つまり、肉片が飛び散ることはないにしても、まともな思考や落ち着いた心のあり様などが日に日に破壊されているのかもしれず、これは戦場とどれほどの差があるのかと、ふと考えてしまうのだ。内なる「国連」、内なる「人道支援」が多くの人々によって求められているに違いない…… (2003.04.01)

2003/04/02/ (水)  深刻な事態をも、あいまいなニュアンスの言葉で「許容してしまう側」の問題!

 一昨晩に久々の夜更かしをしてしまった。習慣づけている「早起き」を崩すことがいやで、これまでどおりの六時に起床しウォーキングも含めてまずまずの一日を過ごした。確かに睡眠不足による眠さにはこたえたが、集中力などに変化はなく意外と平気じゃん! と高を括ってしまった。
 ところが、今日になってその影響が現れてきた。昨晩はまともな時刻に眠り、今朝の目覚めも悪くなかったにもかかわらず、どうも本日の頭脳活動には集中力が欠けている。
 ふと気づいたのが、歳をとると「疲れの発酵」(?)にも時間がかかるという事実だ。身体一般の疲れだけでなく、脳の疲れもやはり「シフト」して現れるといったところなのであろう。

 ところで、どうも日本の政治・経済も「老化」に伴う危機実感のタイム・ラグが発生してしまっているのじゃないかと類推してしまった。座して死を待つごとくに、あまりにも無為無策に時を流してしまっているのは、そもそも国際的環境や国内に現に存在する危機を、正常な感覚レスポンスで感じ取れていないのではないかと思えるからだ。
 もちろん、問題が実感され、認識されているにもかかわらず官僚機構体質特有の反応や対応の遅れなのだとの見方も可能だ。だがそれも、組織のあり方における「老化」現象を惰性的に累積し続けている官僚組織だからと見るならば、やはり「老化」に伴う障害以外ではないのだが……。

 いや、しかしながら「老化」などという自然現象に置き換えて説明したのでは事の本質が見えなくなってしまう恐れがあろうか。そんな差しさわりのない言葉では済まないドロドロとした利権絡みの問題が黙殺され、未だそれが継続されていると見たほうが現実に則しているとも考えられるからだ。おそらくはそうなのだろう。
 たとえば、つい先ごろもあった不正な政治献金の問題にしても、「秘書のやったことまではわからない」とか、「秘書への監督責任で辞める」とかのきれい事で処理しようとするケースは、真実は自身の犯罪行為を、まるで「老化」という言葉と同様のレベルのあいまいな言葉で世間に受け容れてもらおうとする手口以外ではないと言えるだろう。現在の政治家で、カネの問題を秘書に一任するような太っ腹な政治家などはもはや想像できるわけがない。

 問題は、「老化」した政治家や、「老化」した官僚機構や政治組織にではなく(これらが、たとえ高齢化していたり、高い経過年数を持っていようとも、死に物狂いのエネルギーで既得権益や利権を追及していることは言うにおよばない!)、それらを「老化」というような言葉レベルのあいまいなニュアンスの表現で「許容してしまう側」にこそある、と思われるのだ。
 日本の政治文化という問題がこれまでにもいろいろと議論されてきたが、その切り口から言えば、「老化」しているのは有権者であったり、カネで便宜を図ってもらおうと擦り寄る企業であったり、真実を合理的に表現して報道しないジャーナリズムであったりすると言うべきではなかろうか。
 そもそもが、言葉自体にも美徳的な意味合いであいまいさを残し続けてきた日本では、力のある者たちはこれらを最大限に利用しようとする。
 自民党はしばしば「粛々(しゅくしゅく)と……」という表現を使いたがる。国民世論を無視した「強行採決」をするような場合などにおいて、まるで錦の御旗を立てた官軍の行進を想起させるようにである。小泉首相のワンフレーズ政治も同様である。倒産や自殺という決定的な事実を含む事態を、「痛み」というまろやかなフレーズで置き換え、些少感をかもし出した。参戦とも同様の内実を持つ意志決定の際には「苦渋」の決断という、いかにも戦記物が好きなオッサン連中に許容されるような言葉が選択された。「改革なくして成長なし」という否定話法のスローガンにしてもなんとあいまいなことか。この否定話法の命題は「改革すれば成長する」という「逆」命題の「真」を保証してはいないことに、どれだけの人が目を向けただろうか。

 要するに、それが商売である「あいまい語」の達人たちに対して、年老いた日本人たちのように「お上は、ちゃんと考えているはずさ」とか「お上だって、やりようがないのさ」なんていう意識を残していることが最大の問題なのかもしれない、と思った。それを相変わらず引きずることを「老化」だと言ってみたのである…… (2003.04.02)

2003/04/03/ (木)  力ずくで進められている「グローバリズム」が世界を閉じる!

 目を見張るような新しいものを、現代人が待望していることに変わりはない。さまざまなジャンルで、マンネリ感、しかも辛さを伴ったマンネリ感に浸されていれば、環境を「ガラガラポン!」と引っくり返すような新要因の登場を心のどこかで期待してしまうはずだ。
 言い換えれば、度し難い「閉塞状況」に風穴を開けブレイクスルーしていくような「創発的」(emergent:まったく新しく現れ出る)なきっかけを、漠然としたイメージで追い求めているということになる。

 しかし、思いのほか「創発的」なものの出現は難航している。悲観的に見れば、もはやそんなものは登場し得ないかのごとくでさえある。
 たとえばイラク戦争にしても、決して「創発的」と言える新しいものは何もないと言える。大局的に見れば米軍によるアフガニスタン空爆、同盟軍による湾岸戦争、米英軍によるコソボ紛争への介入、そして米軍によるベトナム戦争といった、いわば世界制覇を目指す米国の路線上の出来事以外ではない。
 いやむしろイラク戦争は、アメリカン・スタンダードに衣を着せたグローバリズム(民主主義、国際的市場主義…)を、圧倒的な軍事力によって露骨に推進させようとしている点で、世界に残された「創発的」契機を摘み取り、人間世界の「創発的」可能性を封じ込めてしまおうとする動きのひとつだとしか見えない。

 振り返れば、米国はもはや人類の歴史にとっての「創発的」なものを、画期的には生み出し得ない体質へと驀進しているのかもしれない。結論から言えば、そもそもITを駆使したグローバリズムというものは、「世界をシステム的に閉じるための総仕上げ!」だと見ることも可能なのではないかと思っている。
 米国の90年代の株価高騰は、ITという技術的な「創発的」なものによってもたらされた米国経済の大成長だと言われたものだったが、現時点ではそれが「ITバブル」であったことは周知の事実となった。「ITバブル」の崩壊という現実が語るものは、要するにITは経済それ自体をブレイクさせるもの(労働生産性を飛躍的に高めるもの)ではないということだったのだろう。
「90年代の(米国の)労働生産性の伸びは、インターネットによって上昇したのではなくて、すばらしい時代がきたと人々が錯覚し労働意欲が高まったことなど心理的な要因が大きい。人々が未来に懐疑的になれば、そうした成長はつづかない」(エール大・シラー教授、朝日新聞、2001.04.26)との指摘は、ITバブル崩壊後の現在に至る実情に関して妥当だと判断できる。
 ITの価値を否定するつもりはないのだが、IT自体が画期的な経済成長をもたらす「創発的」なものと「錯覚」した、いやさせたことが一連の真実だったということなのである。
 あくまでもITとは、技術(情報通信技術)なのであり、そのインフラの需要は喚起されても、それだけで画期的な価値が生み出されるはずはないものである。むしろその環境をどう生かすか、というまさに「創発的」なものへの期待は、据え置きにされたままであったのだ。いやむしろ、アメリカ自由主義経済のスタンダードが世界を駆け巡り、世界各地の富やさまざまなローカルな価値が「閉じられたひとつのシステム」の要素に従属させられたと言うべきなのだろう。

 世界が未来に対して開かれているということは、多様な存在が多様な方法によって影響を及ぼしあうという環境によって展望されるのではないかと考える。しばしば、指摘される生物界における多数の「種」の絶滅という推移は、生き残る生物たちの生存力を引き下げるという事実は、「多様な存在間の多様な関係」が持つ重要性を物語っていると思われる。
 突如として話題が変わるが、今、「統一地方選挙」が始まっている。再度「地方分権」の時代だとも叫ばれている。そうあるべきだとは思う。が、一度何から何までが過剰な「中央集権」制度によって洗礼を受けてしまった各地域が、その独自性を回復してゆくには途方もない時間がかかると予想されるのだ。
 よく熟知された事実、地方都市の景観のほとんどがミニ東京となってしまった現実は、「中央集権」と文化の「東京一極集中」という歴史が「閉じられた日本」「つまらない日本」を成し遂げてしまったと言えるのではないかと思っている。

 「グローバリズム」のようないわば「標準化」の路線は、個々の所属要素の自由を保障するとの触れ込みとともに普及させられてゆくのだが、果たしてそんな風に楽観的に考えていいものかどうか、大きな疑問を持っている…… (2003.04.03)

2003/04/04/ (金)  「猛獣」対「奴隷剣闘士」さながらの惨たらしいイラク戦争!

 まるで古代ローマのコロッセオ競技場での、「猛獣」対「奴隷剣闘士」との惨たらしい「闘い」を見せられているような不快感だ。人間の尊厳を根底から覆す最も下劣な「ショー」だ。何がだといって、何兆円もの軍事兵器を何の抑制もなく注ぎ込む米英軍と、数え切れない一般市民の死傷者を出されながら、裸にされた軽軍備で応戦しているイラク側との「戦争」のことだ。軍事的な勝ち負けなんて決まってるじゃないか。こんなものはどんなに屁理屈をつけたって、「闘い」なんてものじゃない。見るに見かねて投げられるドクター・ストップをも拒絶して、平凡な生活を目的としている市民、子どもたちの殺戮をも辞さない「殺人狂」「偏執狂」によくぞこの「猛獣」はなり切れたものだ。むしろ、古代ローマの「猛獣」の方が、強制された環境だったという点でまだしも見るべきところがあったと言うべきだ。

 今盛んに各国政府は、「早期の解決」と「戦後復興支援」という言葉ばかりを口にしている。これもまた、とんでもなく苛立つ発想なのである。「早期の解決」を期待することは、リアルに言えば米英側の「大量破壊兵器」によって無差別爆撃を促進せよということになりはしないのか、と疑問を持つのである。また、戦後にばかり目を向けるのは、「病人」を目の前にして、「葬式」の段取りばかりで騒ぐような印象を受け不快でならないのである。(ちなみに、日本の国民は「1人3万円強」(『AERA』2003.3.31号)の「香典」が義務づけられそうな空気のようだ。)
 通常「病人」が不治の病でもこうは騒がないだろう。むしろ、本当に不治の病であるのかどうかを、なおも見届けようとするはずである。つまり、これからが、バグダッド市民が巻き添えとなり最大の犠牲を受ける時期のはずではないのか。「葬式」も出してやれない不運な子どもたちの壊れた躯(むくろ)が、市内を埋め尽くすのかもしれないではないか。たとえ「殺人狂」「偏執狂」が「いっさいの停戦動議は受けつけない」と固執しても、バクダッド市民を救いたい! と叫ぶのが人情ではないのか。

 自国と世界の経済動向を極端に悪化させるほどの浪費をしているのだから、米英両国は多くの人々が拍手を拒否する軍事的「勝利」を得て、残忍な「ショー」はとりあえず「終結」させることはさせるのだろう。いや、「ダウ」の問題もあるため、その宣言をするのだろう。
 しかし、物々しい戦闘シーンだけを愚かしくも得意げにして書き始めた無内容な小説は、そのイントロのプロットを書き終えた段階で、作家自身を大いに悩ませることになるに違いないものと思われる。なんせ独り善がりで、観念的で、とにかく「甘い!」シナリオは、リアリティに乏し過ぎると思われるからだ。
 それが開戦動機でもあったはずに違いない石油油田の利権を掌握するために、戦後処理・統治の問題をめぐっては、再度国連ともめ続けるに違いない。「ネオ・コン」=「新・保守主義」を基盤とするブッシュ政権は、強行な経済中心主義、自国中心主義の姿勢を崩そうとはしないであろうから、ヨーロッパ、ロシア、中国などとの溝を深めて国際関係をとことん不安定にしかねない。
 また、なんと言ってもこの強行な戦争によって引き起こしたアラブ、イスラム圏における反米感情は決定的なものだと推測できる。もちろん、戦後イラクの「民主主義化(=自由市場経済化)」が頓挫することは大方の予想だろうが、より警戒すべきは、イスラム過激勢力によるテロ行為がもはや頻発する結果を招くのではないかという点だろう。憎悪の鎖は、断ち切られたと見る人よりも、むしろ増幅されてしまったと見る人々の方が多いのではなかろうか。この戦争によって、当事者によって統制されたマス・メディアからさえも、反米感情や風潮は十分に刺激されてしまったと思われるからだ。

 最近よく「落としどころ」という言葉を耳にする。もつれて複雑化した事態を、関係者が納得の得られるどういうカタチで落ち着かせるのか、というほどの意味であろう。
 そして、このイラク戦争での「落としどころ」とは何なのだろうか? まともに観測するならばそれはない、と見える。あるように見えるとすれば、イラク側が「窮鼠猫を噛む」たとえどうりの最悪の選択をしてしまうことなのかもしれない。しかし、それを選ばせてしまっては、一体どこに「大量破壊兵器」の危険云々を掲げ続けた米英側の言い分があると言えるのか。唯一の出口を残せとする「孫子の兵法」(「囲む師は必ず欠く」)をたとえ睨んだとはしても、「生物・化学兵器」を使わせてしまうことになれば、得意げな軍事戦略においても歴史に巨大な汚点を残すことになるのだと思う…… (2003.04.04)

2003/04/05/ (土)  時ならぬ雨に打たれる満開桜……

 昨晩からの冷たい雨と風が今朝まで残り続けた。傘をさしてのウォーキングは、慣れてしまった自分にとって、もはやどうということはない。ただ、寒さ続きでようやく開花を迎えた桜が気の毒で、なんとも同情に値する。東京では、昨日今日が満開の時期なのであろう。白けた天空から降り注ぐ雨、傘を横殴りにする風の中で、それでも桜の木はたじろぐこともなく、すくっと見えを切っている。あたかも、同情なんていらない、これはこれでいい、むしろ、開花に便乗して騒ごうとしていた人間たちの思惑がはずれてお気の毒に! とでも言っているかのようでもある。

 確かにそのとおりだ。昨日今日の悪天候で泣いているのは、桜の名所において年に一度の商売を心待ちにしていた者たちに違いない。減り続ける観光客でお先真っ暗と嘆いている地元商店、はなっからの気楽な浮き草人生に身をやつす露天商や的屋の人たちは悔しい思いでこの雨を見上げ、嘆いているのだろうか。
 また、桜並木の下のイベントを計画し、せめて桜に乗じた空騒ぎ、空元気なりともぶち上げようやないかと目論んだ地域興しの面々も「どこまでツキに見放されりゃいいんだ」と、どこへも持って行き所のない憤懣を抱えてしまっているのだろうか。
 こんな気持ちは、お互いにわかり過ぎるほどにわかってしまうご時世なのだろう……

 もう何年もいいことなんてありゃしない。そんな不幸せは自分の不徳の致すところなんで、やっばり了見を入れ替えて真っ当な生き方をせにゃいかんと遅ればせながら気づき始めたもんだ。ところがどうしたことだ、不幸ってやつはほんの身の回りだけの出来事かと思いきや、いつの間にか日本じゅうが不幸だらけの様子じゃねぇか。おまけに海の向こうの世界までがドンパチやってとんでもないことになっちまってるようだ。こりゃ、おれっちの腐った了見だけが原因じゃなさそうだぜ。たぶん涼しい顔してた他人(ひと)さまたちもみんな結構、隅に置けない了見していやがったんだな。そんじゃ、世の中良くなんぞなりっこねぇやな。
 おふくろが言ってたっけなあ。世の中ってえのは因果で成り立ってんだってなあ。目の前で起こってる事は、みんな過去に原因があるんだとさ。おまえがバカなのもあたしに原因があるんだと言われた時にゃ、泣けてきたりもしたっけ……
 そりゃそうと、だからこそ将来を見越していい行いをしていい種を撒かなきゃいけないんだって言ってたんだよなあ。
 オイ、おめぇはノラか? 濡れるからこっちに入れ。このイカが欲しいんだろ? ほらほら、やるよ。どうせ今日は雨もやみっこないし、花見の客なんぞ来やしねぇやな。だからよ、仕入れて、火を通しちまったイカは食うしかねぇんだよ。自棄(やけ)酒のさかなってぇわけだ。オイオイ、そうガツガツしねぇでゆっくり食うんだ。
 でだなあ、世の中全体にこうやって不幸が渦巻いてるってことは、不幸の種を撒いた奴の数は半端じゃなかったってぇことなんだよな、きっと。さもなきゃここまでひどくはなるまいに。で、いつごろ撒かれた性悪の種がこうやって実っちまってんだあ? そんなこたぁわかりっこないか。ひょっとしたら、性悪の種はバイキンみたく自己繁殖してから悪さを始めるってぇことも考えられるはずだよな。するってぇと、今はまだまだ序の口ってぇことかぁ? 困ったもんだぜ。
 しかし、気を取り直して考えりゃ、過去に撒かれた種は性悪の種ばかりだったってぇこともねぇはずだよな。善玉の種だって撒いたお人もいるはずだろうに。それらはどこでどうやって実ってるんだぁ? きっと、幸せだと思ってる人のそばで花開いているんだろうけど、そんな人は昨今ついぞ見かけねぇんだよなぁ。もう撒かれた種はネタ切れになっちまったってぇことかねぇ……
 オイ、たま? いや、おめぇはなんていうんだ? ノラならそんなものはないか。もう食わねぇのか? 食える時に食っとかにゃ、またまたひもじい思いをするんだぜ。
 とんだ雨になっちゃったもんだよなぁ。これで、パアーと晴れてて満開の桜が青空に映えてりゃ、ブツも飛ぶようにさばけたものによ…… おっ、しかし今気づいたが、雨に打たれながらも花を散らさねぇ桜の姿ってぇのも乙(おつ)じゃねぇか。身体は売っても心は売らぬ、とでも聞こえてきそうか…… (2003.04.05)

2003/04/06/ (日)  「悪貨は良貨を駆逐する」環境での言葉への信頼!

 昨日は随分と悲観ぶってしまったが、今朝は打って変わってのお花見日よりの好天だ。こんなふうに、イラクの悲劇も好転するといいが……
 心に突き刺さってしまった刺のように、イラクの惨劇と米英両国による許しがたい選択を、多分わたしは忘れようとはしないだろう。ただ、その思いを、憎悪の感情のレベルに押しやってはならないと戒めている。何が良くて何が悪いか、何が美しくて何が醜いかという基準(スタンダード)がなし崩し的にぼやかされていく時代にあって、生きている以上は譲れない足場をせめて持ち続けたいと願うだけである。

 昨日書いた「不幸な的屋」がつぶやいたとおり、人間は人間であろうとする限り「撒いた種は必ず刈り取る」ことになるのだと思う。つまり「因果応報」とは決して宗教的、倫理的事実に限られるものではなく、極めて高度な科学的事実でさえある、と考えている。 美辞麗句をかぶせた「力ずく」の行為は、人間にとってかけがえのない言葉をその内部から腐らせ、空虚なものとさせていくに違いない。そしてそれは「思考の破綻」を必然的に招くことになる。では、言葉がすべて腐り始め、すべての人間が「思考の破綻」に陥るのだろうか。
 言葉はすべての人間のものではあっても、主体的な側面を度外視できないものでもあるのが注意すべき点ではないかと考えている。
 「悪貨は良貨を駆逐する」という明言がある。金含有量の少ない「悪貨」は瞬く間に流通して、金含有量の多い「良貨」は流通から姿を消すということなのであろう。これは一見無価値なものが一方的に浸透することだけを述べているように思われるが、では一体「良貨」はどうなるのであろうか。思うに、現在のデフレ不況のように、タンス貯金のようなかたちで個人の手元に留まってしまうということなのであろう。
 「良貨」が個人などの手元に留まってしまうことは、当然「良貨」そのものの価値、機能を損なうことにはなるが、最も損なわれるのは「悪貨」が支配する市場関係、さらに市場システムだということになりはしないだろうか。
 言葉の問題に戻るなら、額面どおりの言葉を維持し続けようとする個人たちの手元には不十分ながらもまともな「思考」は継続されるとしても、「言葉への信頼」を失った者たちには「思考の停止」が始まり、言葉の「流通市場」たる社会的エリアにおいては急速な「思考の破綻」状況が生じるものと思われる。

 ところで、米英両国への懸念以前に、イラク自体が上記のような状態にあるようだ。フセインによる「力ずく」政治(恐怖政治)は、言葉における完璧な二重構造を作り出しているという。つまり、言葉が流通する公的エリア(=タテマエ)では「くたばれブッシュ、フセイン万歳」だが、手元の言葉(=ホンネ)では「……(沈黙)」なのであり、後者の起爆力こそがキャスティング・ボートを握っているということなのだ。
 米英は、イラク国民の「ホンネ」に何よりも関心を示したわけだが、思うに、その両国がイラクと同様の「力ずく」手段を遺憾なく発揮してしまった以上、両国国内に、あるいは国際的広がりにおいて、民主化だの自由だのという言葉を腐らせ、大量の「悪貨」を流通させることによって、世界に「思考の破綻」状況を生じさせたことになる。
 「思考の破綻」状況からどのような事態が生まれるかはわからないが、タンス貯金のように自衛する「良貨」の保持者たちは、不遇な条件の中でも「思考」を継続させ続けなければならない…… (2003.04.06)

2003/04/07/ (月)  「心にふたをする」現代はどこへ向かうのか?

 よくあることだが、自分が心のどこかで気にしていたことを口にして表現されると尋常ではいられなくなるものだ。それを意識すれば自身がただならぬ心境に陥ると感づいていたならばなおのことなのかもしれない。できれば、「心にふたをして」そっとしておきたい心境に駆られる。また、あえてその逆鱗(げきりん)とも言うべき問題に触れる者に対しては、過剰ともいえる反応を示したくもなるのかもしれない。

 以前にも触れた米アカデミー賞受賞監督マイケル・ムーア氏や、グラミー賞受賞カントリーバンドの女性3人組ディクシー・チックスなどによるイラク反戦意思表示をめぐる米社会の反応について、関心を引く記事があった。
 なるほどと感じさせたその記事とは、「心にふたをする米社会 反戦論が招く動揺恐れ」(朝日新聞 ニューヨーク支局・山本克哉 2003.04.07)と題された、ずばり現在の米社会の心理を言い当てるようなエッセイだ。

 同じ反戦意思表示をしたアカデミー賞受賞者でも、「ブッシュよ恥を知れ」とラディカルに問題の的を射たマイケル・ムーア氏には冷ややかで、戦争の悲惨に触れつつ「イエスであれアラーであれ、信じる者に神のご加護を」と述べた「戦場のピアニスト」を演じたエイドリアン・ブロディをたたえるのが、今の米社会のようだと紹介する。
 筆者は推測する。「平和を唱えるのは結構。ただし、過ぎた反戦の言葉はご免だ。バラバラになりそうな心が揺さぶられてしまうから、ということか」と。
 また、「ブッシュ大統領が、自分たちと同じテキサス州出身なのが恥ずかしい」と感情吐露して総すかんを食ってしまったディクシー・チックスについては、次のように分析している。「カントリーは田舎暮らしの苦労を慰め、神と米国と家族への愛を歌うものだ。『身内』の裏切りにファンは敏感だった…… 強硬な反戦派とはやりあわないのに、仲間内の失言にこれほどの憎悪をたぎらせるのは、実は自分に動揺が伝わるのを恐れるからではないのか」と。
 そして次のように締めくくっている。
「米国社会は表向き平穏な日常を送っている。だが、心のふたに重しをして底をのぞきたくない人も大勢いるようだ。その状態のままで戦争は終わってくれるかもしれないし、終わらないかもしれない」

 わたしは、この文章が指摘するところは意外と広くて深いと感じた。確かに米国社会特有の心理構造が叙述されているとは思った。未曾有の巨大テロ事件に遭遇したことで、同社会の固定的心理に揺さぶりがかけられた推移もあるだろう。
 加えて、わたしには、現代という情報化時代における人間の「想像力」の問題の一端を照らしているように思えたのだ。
 もとより、連日テレビなどで報じられるような情報がないならば、イラク戦争も一部の人々の話題にのぼるだけの海外問題だったかもしれない。この間の米国では他国への軍事介入は、絶えることがなかったと言っていいくらいなのであったから。
 しかし、情報化時代に断片的な情報(そうでしかあり得ない!)を受け取る側は、常に構造的な不安に曝されているかのような気がするのだ。真実が見えそうでいて、実は信じられるほどではない状況。政府などが言い切れば言い切るほどに、そうではない現実への関心も蠢いてしまう現状。
 こんな中で、人々が要求されてしまうことは、「心にふたを」しないでサバイバル・ナイフを手にしたような逞しい「想像力」を発揮することなのであろう。環境への自立的な批判意識もまた要求されていよう。そして、それらを満たしたとしても必ず心の平安が得られるという保証があるわけでもない。ややもすれば「いばらの道」を突き進むことにもなりかねないリスク感もある。
 心にふたをして、想像力を押し殺し、大勢を占める傾向の情報を信じているかのように演じることだけが、自分の生活を安定して回してゆける唯一のルートだと…… もちろん、そのルートには心躍らされる人生の起伏なんてものがないことは気がついてはいる。だから、そう大声で現在の誤りなんて叫ばないでそっとしておいてくれ、ということなのだろうか…… (2003.04.07)

2003/04/08/ (火)  やっぱりアメリカのポップ・アートはなじめない……

 「横並び」という言葉はいつ頃から使い始められたのだろうかと考えたりした。組織内メンバーの同期生などの間で「可もなく不可もなく、歩調を合わせて停滞する!」というようなことを「横並び」というのだろうが、わたしが関心を向けているのはそういう一般的な意味ではない。仮に、人間の関心の基本軸を、現在という時点に広がる「同時代空間」の軸と、過去や未来に伸び広がる「時間的、歴史的流れ」の軸だと見なした場合、前者への関心が圧倒的に後者を上回ってしまい、あたかも後者の軸など存在しないかのごとく関心のほとんどを「横へ横へ」と向けてしまう状態のイメージを「横並び」という言葉と重ねたのである。変なたとえではあるが。

 なぜそんなことが気になるのか? 
 イラク戦争の報道に接していると、もちろん加工され、「統制」され、ゆがめられた情報ではあるに違いないが、米英側からや、イラク側からを問わず「リアルタイム(実時間)」で現在の情報が次々と飛び込んでくる。過酷な光景は削除されてはいても、「今」の状況の凄惨な事態の一端はつぶさに、詳細に伝わってくる。バクダッドを焦点にしたイラクの地図を描いてごらん、と言われたら目に焼きついた地図をそこそこ正確に描けるほどに「今」や「空間」の軸の情報に関しては人々に浸透し切っている。
 が、消し飛んで、黙殺されてしまっているのが、「なぜ、こうなったの?」という時間軸、歴史軸に根ざした問いであり、「これからどうなるの?」というこれまた歴史軸に支えられる大事な問いに関する情報なのである。今に関する情報は、ハイテクのインフラによって地球レベルで駆け巡る時代ではあってもである。
 今回の米英によるイラクへの開戦に反対した国際世論が依拠していたのは、過去の歴史(とくに米国の他国への「侵略史」!)であり、国際協調という将来に向けた歴史であったはずだ。時間と歴史の流れという、人間が人間であり得る基本軸を喪失させたくなかった人々の叫びが、イラク戦争反対という意思表示に行き着いたのだと思っている。

 わたしの関心のひとつに、現代においてITなどのハイテクがもたらす影響力の問題があるが、その問題はそれらを「守護神」ともしている米国の行動の問題とも重なっていく。ITやハイテクをどの国よりも駆使して、未来への挑戦と叫び「今」をコントロールし尽くし、支配しつつ、どこかで「歴史の封印!」を推し進めていくあり方への危惧でもある。
 はからずも、今回の事件の序盤で、軍事力行使を拒絶した独・仏に対して、ラムズフェルドであったかがそれに抗して「旧いヨーロッパ!」という驕りの言葉を吐いたことがあったと思う。
 両国には、イラクの石油利権をめぐる政治的駆け引きの面も当然あったとしても、ヨーロッパ社会の財産である歴史重視の姿勢が度外視できなかったはずである。それをラムズフェルドは「旧いヨーロッパ!」という浅薄な言葉で応酬した。その浅薄さは何よりも彼自身をよく表現していたと思ったものだった。歴史を無視しての未来への挑戦とは、あまりにも浅薄であり、無謀でしかないからだ。

 過去も未来もが消し飛び、今という時間に盛られた地球規模での横の広がりだけが肥大化している、かに見える現代という時代! 昔の人々はこれを「刹那主義」と呼んだが、現代を謳歌する者たちは「関係主義」だの、「幅広い視野」だのと持ち上げているかのようだ。それは、自己目的化されるべきものではなくて、ものを考える上での前提作業でしかないはずじゃないのか。

 静かに悠久に、時の流れに身を委ねている存在たち、自然の動植物たちの姿が、美しく目にしみる思いがする昨今である…… (2003.04.08)

2003/04/09/ (水)  「知らなかった」では済まない毒を含んだうねり!

 いまだに、「構造改革」を一枚看板とも、「おまじない」ともしながら登場した小泉首相が、深刻な経済状態を放置しながら、国民を欺きとおすかたちで居座っている。本来、「構造改革」とは、アメリカン・グローバリズムに呼応して、市場主義の徹底化を目指しながら「勝ち組」としての一握りの利益集団と、「負け組」としての大多数の国民とを二極分化させていくベクトルを持つものであった。この方向を民間に推奨していくだけではなく、政府の政策として推進していくからこそ政治方針とされたのだ。
 確かに、日本のいたるところには、「市場主義」「資本主義」以前の腐敗した閉鎖構造が巣くっているため、「構造改革」という言葉はこれらの是正を任務としたかのような印象を与えつつ一人歩きした観があった。しかし、たとえば「不良債権」といった本来が銀行などの法人格なり、実人格なりが責任を果たして処理されなければならない問題がいつまでも埒があかなかったり、天下り受け皿の特殊法人組織などの問題が一向に解消されなかったりしている推移を見るならば、国民が期待するこの側面の問題は、あたかも「糖衣錠」の糖衣でしかないことがわかる。
 そして、良薬ならまだしも、より大きな苦痛に耐えるための薬の苦さが、「自立性(自律性)」だの「競争力」だのというまやかしの言葉が添えられて炸裂し始めているのが現状であろう。この傾向は、期待がかけられないものに期待をかけ続けなさいという政治的「あすなろ物語」でしかないはずなのである。現に、これまでの日本ではいわばタブー視されてきた大規模リストラが推奨され、その結果再起困難な領域(ex.ホームレス!)に大量の失業者が放出されている。また、国民生活にとっての厳しい負担が、医療費の値上げといったかたちで事もなげに増大させられた。多分、こうした「自立」と「自由競争」の旗のもとでの「弱者切り捨て」傾向化は、いまだ単なる序章なのでしかなく、既成事実的な積み重ねが加速されていくに違いない。
 まさか、グローバリズム(≒「新自由主義」)を唱える米国を「直属上司」と見なす小泉氏が、こうした「構造改革」の中身を想定していなかったはずはないのであって、受けそうなことは誇張して叫び、不利なことはいっさい口にしないことを身につけている小泉氏だからこそ、「構造改革」の中身に触れないことで国民を欺きとおしてきたと言うべきなのであろう。

 わたしが、自民党内のいわゆる「抵抗派」たちよりも小泉氏を取り上げるのは、現在において見過ごすことができないテーマに関わっているからである。つまり、有権者、国民を「欺き」「騙す」メカニズムの問題なのである。これは、政治家当人が意識して行う場合とそうした役を担ってしまう場合との両方を含んでいる。小泉氏の場合は、その両面が見出せるようだ。首相の言い逃れや、問題のすり替え、そして「支持します」のような「プッツン意思決定」が目立つ昨今は、意識して行う側面が徐々に強まってきていると見える。おそらく、党内「抵抗派」勢力との額面どおりの一体化の日は遠くないのだろう。
 こうした国民を「欺き」「騙す」メカニズムの問題は、ますます現代の政治には顕著となってきていると観察でき、国内だけではなく、米国による国際戦略においても同様だと見受けられそうである。
 自由と民主主義を標榜する国において、民意が正当に反映されずに、結果的には「欺き」「騙す」メカニズムが機能してしまう現実を、政治とはそんなものとシニカルに突き放さずに凝視してゆかなければ、本当に身動きのとれない危機に陥ると感じている。イラク戦争(イラク侵略戦争)が現実化してしまった事実は、もはや、いっさいの懸念は決して危惧などではない! ということのはずではないか。

 だが、国民を「欺き」「騙す」メカニズムを嘆いてもしかたがないのであって、むしろこのメカニズムに流し込まれてゆく国民側の手抜かりに目を向けてゆくべきだろう。また、米軍によって「誤爆?」されるほどに真実を伝えて邪魔者あつかいをされてしまった「アル・ジャジーラ」のような骨のあるジャーナリズムに乏しい日本のジャーナリズムの現状を批判的に見つめるべきなのだと考えている…… (2003.04.09)

2003/04/10/ (木)  コスト度外視でのハイテク三昧による「解体工事」完了?

 イラクの首都バグダッドが陥落した。地中で炸裂する新型ミサイルによって、各地が陥没して、文字どおり陥落した。戦争によって陥落したというより、コスト度外視でのハイテク三昧による「解体工事」の結果だと言うほかない。そして、戦争の始め方に、こんなにキタナイ方法があるということを、また、戦争の進め方というものにここまでハイテク「大量破壊兵器」を駆使することができるのだ、という自慢になどならない「 Exhibition 展示会」を全世界に披露したことになる。
 あきれ返ったフセインも、出直そうとばかりに身を隠し、影武者ならぬ街角の銅像でメッセージを伝えたものだ。戦車で引き倒される右手をかざしたフセインの銅像は、あたかも「では、修羅場のイラクをど〜ぞ〜!」と言っているような形で崩れ落ちた。
 「無法」の侵略に対して、イラクの民も皮肉をこめて「無法」ぶりを誇示しているかのようだ。政府関係の建物からソファーなどの家具を持ち去ったり、国連関係の建物から少年が屈託無く万国旗を立てた模型を持ち出す光景などは、米軍の重装備、さらに空母キティホークの馬鹿馬鹿しいほどのドデカさなどを「場違いなんだよ!」と揶揄しているようにさえ見えたものだ。とりあえずは、この馬鹿馬鹿しさにおいて「史上最大の作戦」をあざ笑ってやるべきなのだろう。

 しかし、世界の良識ある人々は、見るべきものをしっかりと見てしまったのではないだろうか。フセインのような凶暴な「息子」を、生み出し育てた「親」がいくら惨たらしく折檻したからといって、誰も溜飲などを下げはしない。「親」の破格の凶暴さにただただ眉をしかめるのが落ちである。
 無邪気な子どもたちはとかく「強い」存在との心理的一体化をはかるが、辛酸をなめた大多数の大人たちは、たとえ悪とはいえども懲らしめられる敗者の立場にふと自分を置く衝動から逃れられない。だからこそ、いにしえから権力者たちは残忍な「見せしめ」の刑罰を実施してきたのだろう。今回の「 Exhibition 」は、「帝国」の恐ろしさを印象づけたではあろうが、確実に大人たちのホンネにおける「帝国」からの離反者たちを大量に動員させてしまったに違いない。
 もはや、アラブ、イスラム地域の国々との亀裂は決定的なものとなってしまったのだろう。「帝国」が恐れる「テロ」の解消に何らの効力もなかっただけでなく、むしろその潜在的圧力を無謀に増大させてしまったにすぎないのだろう。
 ポスト・アフガンの戦後動向が、輪郭のはっきりとしない情勢を引きずっているように、いやそれ以上に戦後イラクの動向は混迷を極めていくとの予想が大勢を占めている。ハイテク原理であるゼロ・イチのようなシャープな境界などを「帝国」が思い描いても、それはまさに「場違い」としか言いようがないのではないだろうか。明日に期待した結果が、半月先、半年先、ひょっとすれば一年先に出てくるかどうかの世界ではないかと想像するからだ。結局は闇に温存されてしまうことになりそうな「旧」フセイン勢力も、「帝国」が油断してうたた寝することを待ち構えようとしているとの想像は、あながち杞憂でもないのかもしれない。
 いずれにしても、速攻による首都陥落といった今回の事件は、あたかもペーパバック本のように、最初の表紙は薄いがページ数は枕にできるほど厚いということになるのではなかろうか。「帝国」の病んだ経済状況にとって、皮袋のほころびとなる危険がなしとはしないのであろう…… (2003.04.10)

2003/04/11/ (金)  楽観的で無防備になり切り過ぎた「赤頭巾ちゃん、気をつけて!」

 ハイテクが兵器として「悪用」されたイラク侵略戦争では、情報もまたハイテクの力に支えられてゆがめられた。戦争は、いつでも敵を欺く戦略戦術を要とするのだから「情報戦」は不可欠な側面でもあるのかもしれない。
 しかし、今回の米英両国にとっては、国連や国際世論を振り切っての単独軍事行使であり、開戦の「大義」にハンディを伴っていただけに、自国民に対してと国際世論に対しての自己正当化のための「情報戦」をも旺盛に展開しなければならなかったと言えよう。従軍記者を限定、選別したり、取材現場を規制したり、「解放軍」としての誇張された場面を意図的に流そうとしたり(ex.湾岸戦争開始時に捏造されたクウェートの少女の嘆き!)、敵の情報発信力をつぶすテレビ局破壊に停電、あげくの果てには意に染まないジャーナリズム(「アルジャジーラ」記者たちへの「誤爆」!)の抹殺まで敢行した。おかげで、最新の米国国内の世論調査では戦争支持が80%台にまで達しているとされる。
 またイラク側も、離反する可能性がきわめて高い国民を繋ぎとめるため、あるいは唯一政権温存の可能性があるとするならば、国際世論が割って入り停戦が成立することしかない、と考えたのであろうか、国民と国際世論を味方にしようとする、ささやかだがなりふり構わぬ弁舌戦で抵抗した。

 こうした、当時国同士の情報戦を超えて、大向うの国際世論の理解や同情を取りつけようとする動きが今回の戦争での「情報戦」の特徴だったと言える。ここには、二つの注目すべき点がありそうだ。
 ひとつは、超大国、「帝国」といえども、国内世論や国際世論を度外視するわけにはいかないという現代的な事情であろう。プッツン切れ(単独閉鎖主義、保護主義!)し易く、ワガママ(環境問題!)な「帝国」でも、完璧には度外視できない現代の国際世論の重みが照らし出されているという点である。
 二点目は、ハイテク環境下での「情報操作」「世論操作」「報道統制」の可能性の危険という問題なのである。米国が、大衆消費社会を生み出し拡大していく過程で、いかに「情報操作主義」のノウハウを累積していったかはいまさら指摘することでもなかろう。まして、それらを効果的に支援するハイテクとITが圧倒的に凌駕した社会である。現在ではインターネットを走る情報のすべてが、米国によって傍受されているとさえも言われている。

 バグダッド陥落以降、イラクでの被害の惨たらしい実態が報じられ始めるにおよび、戦時下での「情報戦」のゆがみも明らかになり始めている。ただ、当事国米軍でなければ確証のえられない問題も残されたりしている。誤爆の問題もそれだが、今また注目すべきなのが、あの「劣化ウラン弾」の使用であろう。
 湾岸戦争で米英が非人道的に使用した「劣化ウラン弾」は、その重金属と放射性によって、子どもたちが癌や白血病を発病して死にいたるケースをいまだ大量に引きずらせているのだ。これが今回使用された事実は、米軍が「安全だ」と言い張り、決して否定してはいないことからも明白だ。今回、住宅地域に打ち込まれたこれらが今後確実に多くの被害が子どもたちにおよぶことが懸念されている。こんな事実は、米国国民にはほとんど伝えられていない「世論操作」があるからこそ、戦争支持80%台が実現しているのであろう。

 「世論操作」など当然のごとく展開される現代の世界の市民、国民は、より聡明にならなければならないはずだ。自分たちが間違った悲惨な出口なし状況へ追いやられないためにもである。
 が、それでは追いつかない現実に目を向けることが先なのであろうか。妙なたとえとなるが、まるで中高年の皮下脂肪のように構造的に「出来上がってしまっている」、真実を妨害する仕組みが、現代ではしたたかに居座っていると見えるからである。

「いま始まった戦争の短期的な人的損害――イラク国民の犠牲は確実に大きい――がどれほどであれ、ブッシュが定めた侵略の道はテロと新たな戦争へと導いていくことだろう。経済的困窮が広がり、環境の悪化が進行しそうである。またもアメリカの指導者たちが同盟関係を砕き去り、全世界の平和と安定を脅かす政治的・道徳的な大失策に関与してしまったことは、われわれの制度の根本に欠陥があることを明白に物語っている。アメリカ人には、ブッシュの政策に抗議するだけではなく、過度に称賛されている憲法、劣化した選挙制、腐敗した二党制度、政治制度の改革に取り組む市民としての義務がある。そうしてこそブッシュのような人間が政権の座に就くのを防ぐことができるのではないだろうか。」(ハーバート・P・ビックス/ニューヨーク州立大学ビントガムトン校教授「新たなる帝国のとき」『論座』2003.5)

 やっぱり、楽観的で無防備になり切り過ぎてしまった「赤頭巾ちゃん」のような我々自身に、「気をつけて!」と再度いましめるべきなのだろうな…… (2003.04.11)

2003/04/12/ (土)  一対の対比関係とそれを生み出している構造的な環境!

 天気予報によれば今日は雨天のはずだったが、どんよりとはしているものの晴れて気持ちのいい朝となった。色とりどりの花や樹木の新芽が映えていかにも春の朝といったところだ。

 ウォーキングから戻り、朝刊(朝日新聞)に目を通すと現在の世界の構図を端的にあらわしているかのような、ふたつの対照的な記事が目に入った。
 ひとつは、”unicef”からの呼びかけメッセージ。
「20年前も、10年前も、今も、いつも、戦争の犠牲者はこども」と題され、大きく写された泣く子どもの顔が載せられ「イラク緊急募金」が訴えられている。
 もうひとつは、「米軍需産業、戦争が追い風 兵器大量受注 国防予算拡大」と題されている。念のために引用しておきたい。次のようなリード文がある。
「米国の軍需産業にイラク戦争の追い風が吹いている。高額な最新鋭の兵器が『消費』され、新たな『需要』が見込まれるからだ。戦争は短期終結の観測が強まったが、米ブッシュ政権の先制攻撃ドクトリンで、国防予算は今後とも拡大される。軍需大手の株価は堅調で、投資家の資金も集まっている。戦時下の米国で、軍産複合体の影が浮かび上がっている」

 この対比が「恥を知れ」と言いたくもなるブッシュ政権が、作り笑顔で手を振りながら推進している世界構想の縮図なのだと感じざるを得なかった。「イラクの子どもたちの犠牲」対「米軍需産業、国防予算拡大」という卑劣な一対対比関係を、当然、当事者たちはまともに見つめているはずはなかろう。この歴然とした因果関係を、平然として視野の外に追いやっているに違いない。つまり、平凡な人々のささやかな生命と生活を視野の外においてはばからないということなのである。
 そして、視野の内には何があるかと言えば、凡人には信じられないが「もうけ」の話だけなのだ。「戦争があれば、いつだって軍需産業はもうかる。ミサイルや弾薬は、補充しないといけないから」「短期決戦でもかまわない。ブッシュ大統領は戦争に750億ドルかかるといっているし。各社はすでに多くを新規受注している」と、軍需大手株を大量に購入している資産運用会社社長が発言しているという(上記、朝日記事)。トマホーク1発の値段が約60万ドル(約7200万円)するミサイルが、すでに一万八千発「消費」されているとのことだ。電卓での計算が不可能な巨額が、取ってつけた「大義」のために注がれ、決して世界の脅威などといえるものではないイラク兵たちや、国民そして子どもたちの頭や手足を吹き飛ばしたことになるのだ。

 ところで、こうした問題は、正義感や博愛主義に基づきその非人道的側面の問題が非難されてしかるべきだなのだが、それに留まっていてはならない。癌という病気が悲惨なものだと言ったところで何も始まらないのに対して、その癌細胞の生態、構造の究明と、弱点を暴きだすことが有効な治療を生み出すごとく、「ブッシュ政権」と「イラクの子どもたちの犠牲」という因果連関の闇を這うしたたかな経路こそが凝視されなければならないと思われる。
 端折っていうならば、昨今表面化してきた「ブッシュ政権」が「ネオ・コン(新保守主義)」を政策基盤としているという事実が、多くのことを無理なく説明するように思われる。その「ネオ・コン」メンバーのエネルギー大手ハリバートンの元経営者だったチェイニー副大統領は、すでに油田火災の消火作業をいち早く関連の企業にやらせると同時に、今後の油田管理についても息のかかった企業を通す目論見をにおわせていると報じられている。もとより同氏は軍需とも密接な位置にあるし、ラムズフェルドも同様(元ハイテク企業ゼネラル・インスツルメントの最高経営責任者)である。最近辞任した国防政策諮問委員長リチャード・パール氏も軍需産業との間で不透明な関係があったようだからとの報道もある。要するに、イラク戦争とは、「ネオ・コン」たちによる利権目当ての「急ぎ働き(?)」だとの推測が限りなく濃厚なのである。

 この「ネオ・コン」の位置づけについては別に触れてみたいが、この前提に、レーガンやサッチャーが依拠した考え方としての「新自由主義」という立場があったことをまずは書いておきたい。
「新自由主義はわれわれの時代の輪郭を形づくっている政治経済のパラダイムである――それは、一握りの私的な利益集団が社会生活を可能な限り支配し、彼らの個人的利益を最大限にすることが許される政策と政治手法を指す。……こうした政策の経済的結末は……社会経済的不公平の著しい増大、世界の最貧国および諸国民のはなはだしい窮乏の顕著な増加、グローバルな環境の劣化、グローバルな経済の不安定化と金持ちの前例のない大もうけ、である。……新自由主義が最もよく機能するのは、形式的な選挙制民主主義が整っていながら、同時に国民が情報や、アクセスや、意思決定への意味ある参加に必要な公的討論の場から疎外されているときである。……新自由主義システムは重要かつ必然的副産物を持つ――無関心と冷笑が特徴の、政治的に去勢された国民である」(ロバート・W・マクチェスニー/イリノイ大学教授。ノーム・チョムスキー『金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体』より)

 同書(チョムスキー)によると、現在、世界の国々の国民総生産をすべて足しても三十兆ドルであり、あらゆる財物やサービスの取引での決済で動く金額が八兆ドルであるのに対して、資本市場には三百兆ドルの資金が動いているという。つまり、膨大な「投機的資金」が、ただただ「もうけ」を物色して蠢いているということになる。これが、まさにグローバリズムの本質であり、侵略戦争の隠れた動機となり、さらに戦争をも「投機対象」と見てはばからない者たちを排出している構造的な環境なのだろう。しかし、マクチェスニーの指摘するように、そんな仕掛けで動かされている世界から各国の国民は蚊帳の外に置かれてしまっている…… (2003.04.12)

2003/04/13/ (日)  過去に依拠するところの「ネタが尽きたか?」現象?!

 湿気を含み、空気が柔らかく感じられる雨上がりの朝だ。歩道の脇の植木の葉や雑草も、家々の草花の葉も、雨の跡の水滴をたたえ朝日でまぶしく輝いている。空気も新鮮な香りで満ちている。
 遠い昔の自然の中での夏の朝の光景が蘇ってきたりする――乳白色の靄がかかり、道も草木や建物の屋根も、細かな露でしっとりと濡れていた。人工的なにおいのいっさいが拭い去られ、深い草々や樹木の葉の吐息が空気の香りを支配している。時折り、靄に混じる煙の匂いや、米が炊かれる特有の匂いだけが人の存在を思い出させる……

 自分を無条件に包み込むようなそんな光景が、いつ、どこにあったのだろうかと考えたりした。何でもないそんな光景が、現状のとてつもなく荒れた内面とかけ離れているかのように思えたからだ。また、そんな光景だけが、現状の劣化したココロの状態をそれとして自覚させるようにも思えた。
 振り返って、今の自分のココロを見つめるなら、やはり荒涼としていると認めざるをえない。極端に言えば生きた心地がしないとさえ言ってもいいのかもしれない。落ち着きを失い、ザラザラとなってしまっている感性自体。また何がそんな感性をそうあらしめているのかに意を払うならば、そこにひしめくものはこれでもかと言わぬばかりに日に日にとげとげしさと荒々しさを増していく現実の世界の修羅場現象。世間の皆さんは、よくもこんなに魅力の無くなった世界に耐えておられると、ふと疑問を持ったりもするくらいだ……
 今を救うのは、もはや過去の思い出、過去への望郷、過去の焼き直ししかなくなったのであろうか。

 ここしばらく、漠然と考えていることのひとつに「ネタが尽きたか?」というテーマがある。世の中、新しいモノ、新しいモノと追っかけ回してここまで来たが、どうも現在は踊り場に留まってしまっているかのような気がしないでもないからだ。
 いや、新しいモノがなくなったわけではないことは承知している。つい先ごろにも「コロナ・ウイルス」とかの新種の発見が世間を騒がせている話もあるくらいで、そのほか「新技術」の登場も決して打ち止めにはなっていない。こうした領域でのオッカケは、人類にとっての「ひまつぶし(?)」としてやって悪くはなかろう。
 しかし、より切実な新しいモノへの希求度が高いのは、そうした領域ではないように思う。病原菌の領域での新たな発見があっても、またハイテク、IT領域での新たな試みがあったところで、少なくともわたしが新しいモノと感じるモノからすれば隔靴掻痒の現象でしかない。つまり、新しいモノとは新しい「章」のことなのであって、いくら新しい「節」に改められたって満足できない、ということなのである。
 では、新しい「章」とは何を意味するのかといえば、人間の考え方、社会のあり方、世界のあり方において、現状の堂堂巡りを突破していく、そんな新しさのことなのである。一回だけの人生としてこの世に登場する人間に、生まれたことを後悔させない世界のあり方だと言うべきである。

 「ネタが尽きたか?」と思わせたのは、言うまでもなくイラク戦争の伏線ともなっている「新自由主義」だの、「新保守主義」だのの台頭が注目されているからである。「新〜」というのは、本質的には新しいものではなく、従来の内容の焼き直しと力点の移動などを行なったものに対して付与される言葉だと言えるからである。
 ソ連崩壊後、ポスト冷戦後に行き着いた思想的支柱が「新保守主義」だというわけだが、無謀なイラク侵略を根拠づけた点だけでも目下のところ極めて危険な思想だと見える。しかし、「ネタが尽きた」印象を与える思想がどこまで時代を支配していけるかは大きな疑問だと見ていいのではないか。
 それにしても、混迷を極め閉塞した時代には、さまざまなレベルにおいてとりあえず過去に依拠するところの「ネタが尽きたか?」現象が目立つものなのであろうか…… (2003.04.13)

2003/04/14/ (月)  不愉快さを押し殺し、「生きる意味」の実感をどうやって奪還するか……

 不愉快な朝だ。何が不愉快かといって、何から何までが腹立たしい。唯一、そうでないものがあるとするなら、こうして真っ当に憤慨している自分がいるということだけかもしれない。どんなに世界中が「閉ざされたシステム」に雪崩れこもうとも、ここに自分がいて、そんな「システム」に憤慨し、拒絶している、ということだけがかろうじての救いだと言い放っておきたい。

 週初めの朝っぱらから、はなはだ大人げのない「ぐれる!」(中島義道『ぐれる!』 関心は向けたが、買って読むのをためらった。気持ちはいやというほどにわかるが、自分にはまだかすかな「理想」の余韻が残っているからであろうか。ちなみに同書の紹介文は、「個人にとって最も重たい問題は、社会をどれだけ変革しても、いささかも解決しない! あなたは、理不尽を噛みしめながら、ぐれて生きるしかないのです。」とある)書き出しとなってしまった。

 慎太郎知事の言うことやることのどこに、この時代がもがき苦しんでいる状況に風穴を開ける道理があるとでもいうのか? 彼にできるのは、300万を超えるこの時代特有の票を掻き集めることであるに過ぎない。その倍以上の棄権者数と引き換えにではある。
 「閉ざされたシステム」の上で、短気に突破口を焦る人の子の心を何とうまく集票するテクニックを持っていることか。そのそつがないプレゼンこそは、「閉ざされたシステム」の最大属性ではないか。マスコミを最大限に活用し、無内容なフィロソフィーを、一人歩きする背ひれ尾ひれで隠しているところ何ぞは、見ていて恥ずかしくなる。破天荒ぶってはいるが、ぶるべき方向・対象がまるで的はずれだ。ディーゼル車の廃棄ガス規制にせよ、銀行課税にせよ、同知事が目玉としている政策なんぞは国政への揺さぶりでも何でもない。起爆力などあるはずのない一応人目を引く花火に過ぎない。
 自分自身の未練からではなく、真に東京から国政の変革をやるつもりなら、しっかりと国政の急所を見定めて打ち込んだらいい。ペットボトル携えて大見得切るだけ切って、素人客だけの薄っぺらな評判を得て、その実相手にはためらい傷だけを与えるっつう段取りは、こちとら大向うからみりゃ、小泉屋のダンナの芸で食傷気味になっちまってんだ。もういいか、慎太郎芸の話は。

 それにしても、何と言うことだ、この低調な得票率は。道府県議選では、4分の3以上の地域で戦後最低だというではないか。
 棄権者の言い草は決まっていて、簡潔に言うならば「どうせ……」ということなのだろう。しかしねぇ、そうやって「ぐれる!」のも個人の自由には違いないけど、それじゃ何か別の展望があるとでもいうの? 言わしてもらえば、慎太郎ファンにも首をかしげるが、棄権者には首がへし折れてしまいそうなのだ。
 先日も書いたように「一握りの私的な利益集団が社会生活を可能な限り支配し、彼らの個人的利益を最大限にする」目論見を持つ「新自由主義」がまかり通るのは、「形式的な選挙制民主主義が整っていながら、同時に国民が情報や、アクセスや、意思決定への意味ある参加に必要な公的討論の場から疎外されているときである。……新自由主義システムは重要かつ必然的副産物を持つ――無関心と冷笑が特徴の、政治的に去勢された国民」なんだぜ! 
 まあ小難しい話はべつとしても、そうやって意味もなく「ぐれてる」のが最も危ないらしい。「目張りしたクルマの中で練炭たいて……」とまではいかなくとも、極めて自然な理屈で「鬱病」にからめとられる危険の確率が高いという話なのである。人は、自分の外への働きかけの機会を省略していくと、それが「生きる意味」の「揺りかご」なのであるから、当然のことながら虚脱性が強まっていく。おまけに、現代という時代は、個人のうごめきなんぞではびくともしない全体の安定が追い求められた「システム」化社会なのである。
 つまり、ますます強まりそうな「閉ざされたシステム」化社会では、いつの間にか人々は「生きる意味」に迷ったり、見失ったりしがちとなる。いや、きわどく言えば、「システム」化社会とは、内部で生きる人間たちの「生きる意味」の重みの希薄化とバーターの関係で推進されていく、と言って間違いではない。「わくわく」から「命懸け」に至る「生きる意味」は、限りなく置き換えられてゆくことになる。これこそ、われわれが人生の中で感じ続けてきた実感であるに相違ない。何によってかといえば、標準、便利、効率、安全、閉鎖などをキーワードとするシステム要素であり、システムの安全弁やガス抜きとしての「擬似的」な破天荒要素によってである。(慎太郎知事の破天荒はそうしたシステム安全弁以外ではない!)

 さあて、不愉快さを押し殺し、「生きる意味」の実感をどうやって奪還するか…… (2003.04.14)

2003/04/15/ (火)  不透明で中途半端な環境だからこその「埋没」姿勢!

 自分を何かに「埋没」させる(没頭させる、平たく言えば「はまる」)ことほど気持ちが安らぐことはない。趣味でも仕事でもとにかく全神経を集中して自身を「埋没」させることができる時、まさに不快な雑念から解放され静かな時間が手に入るのだろう。おそらく、生涯そうしていられる人が幸せだと言えるのかもしれない。
 とくに、現代は人の意識を拡散というか、撹乱というか、混乱と言ってもいいかもしれないが、とにかく集中させてはくれない環境に満ち溢れている。そう言えば、子どもが落ち着きを失って行動するADHD(注意欠陥・多動性障害<Attention deficit hyperactivity disorder> )という脳生理的な症状が注目されたりもしているが、現代人は大なり小なりこうした心理的傾向を持っていそうな気がする。
 「外部志向型」人間(⇔「内部志向型」人間)が特徴というよりも、それが一般的となってしまった現代にあっては、人々は外部の中途半端な情報に小突き回されながら関心を引き裂かれている。また、さりとてこれぞという対象の何かを咀嚼(そしゃく)しようとするなら、それはそれで膨大な量の情報の前に立たされ、着手以前に萎縮させられてしまう。いずれにしても、中途半端なもどかしさに放置され、根無し草のように漂う不快な気分だけが残ってしまう。不安という気分も、こんな環境によって醸成されるのかもしれない。

 自分は、もとより現代のそんな環境を感じとってもきたし、また性分的にもそうだからかもしれないが、とにかく何かに「埋没」していなければ不安になるといったタイプである。逆を言えば、「埋没」していればそこそこ満足してしまうし、「埋没」するのも比較的手馴れているとも言えるかもしれない。その気になりやすいということであろうか。
 のめり込む対象は、カメラ(写真)だの、パソコンだの、読書・小説だの、落語だのといろいろとあるが、「現代病」の治療として昨今再評価しているのが「プログラミング」なのである。
 「現代病」と言ったのは、人間世界の込み入った複雑さや、はたまたその規模のどでかさになどによってたじろがされ、陰々滅々の気分に落とされた状態を指している。ストレスで潰されそうな心境と言い換えてもいいだろう。
 そんな時、マジにその種の本を読んで前向きに対処することも悪くはない。現代の状況認識を深めたり、先人の知恵に癒されるのもいい。しかし、自分の場合、そうした「文系的」問題に疲れた際には、まずは、しばしそこから離れてみること、「数理系」でもいいし、「物理系」でもいい、また「動植物系」でも、「スポーツ系」でもいいからしっかりと浮気をしてみることが必要となる。まあ、誰でも同じなのかもしれないが。

 そんな中で「数理系」とまでは言えないが、「プログラミング」にはまってみると、うそのように頭脳がリフレッシュされる気がするのだ。つい最近も、シゴト半分でやや手ごわい内容のプログラム("CGI,Perl"のアルゴリズム)に「埋没」してみた。中途半端な姿勢だと返ってわずらわしさだけが堆積してしまうのだが、不可解なロジックについて真剣に悩む姿勢に「埋没」してゆくと効果抜群なのである。まるで新発売洗浄液で頑固な汚れを洗い流すように、脳にこびりついた「文系的」な水垢が見る見る溶解していくような爽快さを味わったのである。
 たぶんこの対処法は理に叶っているのだと思う。数理的なロジックを対象とすることは、不透明さや「文系的」問題特有のあいまいさが排除されているために、脳活動の始業点検のような効果があるのかもしれない。昔、ある作家が、仕事にかかる前に高校時代の数学の問題をいくつか解くことを日課としていたと聞いたことがあったものだ。
 しかし、そういう効果もあろうが、むしろそうした「純粋」ロジックの問題を対象としながら、意識を集中して「埋没」することによって、輪郭がはっきりとしない「文系的」問題が脳の小枝にぶら下がってかけ続けている負荷を振り落としたからだ、と見なしたほうがいいと思っている。要は、「埋没」し集中することは大きな負荷がかかりはするが、リフレッシュもされるということ、ちょうど完全燃焼が燃えカスを残さないようなことと酷似しているのではなかろうか…… (2003.04.15)

2003/04/16/ (水)  事実は一面的に見てはいけない、必ず裏を含めての両面を見なければいけない!

 「何とかなるさ」というイージーな思い込みが許されない時代ではある。が、さりとて「もはや何ともならない」と即時に悲観ぶることも避けたい。懸念する対象を、悲観と絶望の一色で塗りつぶしてしまい、その結果、思考停止状態に入るというスタイルがめずらしくはなくなってはいてもである。
 むしろ、圧倒的な比率であたかも一色に塗りつぶされてしまったかのような事態を目の前にした時にこそ、塗り残された部分を注視し続けたい。そこが拠点となり、一点突破前面展開していく可能性が閉ざされていないことをイマジン(想像)したい。現実は、いつの時代でも100%の達成ということがあり得ない不完全さの連続である。一方が圧倒的な優勢と見えたその直後に、オセロ・ゲームのような瞬時の逆転がブレイクしてしまうのも、また現実の深さであるに違いないのだから。

 「軍事力、経済力、情報力のすべてにおいて隔絶した実力をもつアメリカ」による今回のイラク「侵略」戦争は、人類の信じがたい行為として歴史の中の人々を震撼させたナチズムと同じ程度に、常識と良識を持つ世界の人々震撼させたものだ。まさに、現代人を絶望に突き落とす点において、「9.11」テロと「Twin Peaks」、双璧をなす出来事だったと言える。
 したがって、「知識人」たちの論調も悲観色に傾きがちとなっていることが否定できない。そういう自分も、正直言って絶望の淵にまで滑り落ちてしまったと言っていい。かろうじて、踏みとどまることができたかに感じているのは、事実は一面的に見てはいけない、必ず裏を含めての両面を見なければいけない、という鉄則を思い出したからだと思っている。それを思い出させてくれたのは、2003.03.20 に書いた「ブラジルのベストセラー作家パウロ・コエーリョ氏による機知に富んだメッセージ」であり、また世界中で反戦行動を繰り広げた勇気ある人々の確かさであっただろうと考えている。

 しかし、予想どおり現状では少なからぬ人々が、米国、新保守主義勢力がねらいとした心理的影響「衝撃と恐怖」のただ中でたじろぎ、フリーズしてしまったかに見える。とりわけ、日本の「知識人」たちの馬脚のあらわし方はなるほどと思わせるものがある。
 もとより「御用・知識人」たちは、事実の隠れたもう一面などを斟酌できる能力を持ってはいない。そんなことに目を向け、口にしていたのでは「お呼び」がかからなくなってしまうことを本能的に熟知しているからである。
 彼らの基本パターンを、代表するような小論があった。福田和也『啓蒙的近代が終わり私たちは立ちすくむ』(朝日新聞[夕]、2003.04.15)である。その骨子は、以下のようになろうか。米、新保守主義のイデオローグ、R・ケーガンの論文を引きながら、その「恐怖と暴力で世界秩序作る米国」の戦略はイラク戦争で実証されたとし、「反米も親米も役にたたなくなった」とする。
 「反米・反戦の立場」は「国連を踏みにじり、国際法を破った」ことを「槍玉にあげる」が、「恐怖をふりまくことにしか関心のない怪物(=米国)」にとってそんなアプローチは役に立たないと切り捨てている。
 また、北朝鮮の「核」を口実とした日本の「支持」のような「親米」も有効ではないのだと言う。「というのも、怪物たるアメリカがそうしたかぼそい支持や支援に応えてくれる善意なり、好意なりをどの程度備え、あるいは将来において留意してくれるかどうか誠に心もとないからである」と。
 で、言いたいことは何かと思えば、「アメリカの空前絶後の破壊力と、その理不尽さに怯え、恐れ、震えていること。何一つ、この恐怖に対抗する手段を持っていないことを。啓蒙的な近代が終わり、恐怖の支配に放りだされていることを」注視して、出発点とすべきだと言っているに過ぎない。
 おまけに、アメリカの「強さ」の「その根源はテクノロジーによっている」とし、「『強さ』を支えるテクノロジー専制」という事実を再認識すべきだと言っているにすぎないのだ。
 要するに、タブロイド版新聞とワンカップを手にして、「なんたってアメリカはツオイんだから、何やったってダメっつうことだよな」とほざくオッサンと何も変わっていないのだ。共通しているのは、新保守主義イデオローグですら悩んでいるに違いない現実の複合性を読み飛ばし、情報時代が一面的に切り取った悲観的一面のみを誇張しているに過ぎない点だ、と思われた。

 こうした論調に触れると、それらが自身の中に潜んでいる「一面的」に括りがちな発想を嫌悪感を伴って照らし出し、反面教師的役割を果たしてくれるからおもしろい。
 米国の「怪物」路線は、確かに尋常ではないことを承知した上で、現実の全体をしっかりと観察すべきだと思う。そうしたエクセントリックな存在は往々にして自滅(内部分裂!)しがちなこと、テクノロジーは強さを発揮するとともに脆さをも露呈すること、膝元の米国国民の意識は「振れ易い」こと、アラブ、イスラム地域の人々に蓄積した反米感情は決してテクノロジーなどでは処理されないこと、そして何よりも距離を置いて見つめている世界中の人間の潜在力は、無力だとレッテルを貼られた国連という機関には収まりきらないスケールを持つに違いないことなど……
 ITテクノロジーで言えば、現在の世界シェア95%という米国印のOSも、絶対とはいえない動き(中国ではLinuxが好調!)が着々と進んでいることでもある。辛い時代がしばらく続くことは間違いないが、絶望は避けられると思い込む…… (2003.04.16)

2003/04/17/ (木)  知識・情報が一人歩きする錯覚世界の中で「バカの壁」が……

「バカだねぇ。あいつは一体何を考えているんだ」
とは、最近耳にしがちな言い草かもしれない。どうも、「バカ」という言葉が使われるケースというのは、当人が優れていない、劣っているということ(そもそも何をもって優れているかは計測し難いものがあるはずだ)であるよりも、要するにその人やその行動が「自分には」とか「常識的には」理解し難い場合であるように思われる。

 先日も、仕事上である年配のキャリア・ウーマンと話していたら、
「バカよねぇ。あの人はどうしてあそこまでバカなんでしょ」と、短時間に数回のバカ呼ばわりが飛び出した。神奈川県知事選に出馬した年配女性候補Tを、失礼にもバカという言葉で連打していたのだ。わたしはそこまで激しくは思わなかったものの、概ね共感していたので笑ってしまった。その話相手がバカ呼ばわりした心境とは、ご自分と同じ年齢層でありながら、あのようなマネ、あのような表情、あの行動は「理解不能!」だと表明していたのだと推測できる。ところが、きっとT嬢はT嬢で、ご自分のそれらは、きわめて自然であるのだと唯我独尊になっているとともに、むしろご自分の不可欠な戦略戦術でもあると我田引水しているのだと推測される。要するに、人それぞれの重視するものがはなはだしく乖離する時、時として人はその驚きを「バカ」という言葉で総括しようとするのかもしれない。

 昨今いたるところで、かつまた頻繁に見受けられるようになってしまったこうした事情を、養老孟司氏は『バカの壁』というタイトルで平たい話として新書版にまとめている。同氏の専門である脳生理学の周辺というよりも、同氏による人間洞察力の賜物だと思い読んでみた。
 わたしなりに解釈してみよう。話は、情報社会だ、知識社会だと呼ばれる今日にありながら、逆に人と人とのわかりあい方がお粗末過ぎる様相を呈しているのは一体どうしたことだ、という点から始まっている。先ず、たとえ知識や情報が豊富に与えられても、自動的にわかるなどということにはなるはずがない、という見解が飛び出す。また「話せばわかる」と言われた時代もあったが、決してそんなことはあり得ないのだ、という判断も出てくる。たとえば、一元論に立つ宗教を奉じるキリスト教徒とイスラム教徒とが話してわかり合うなどということはほとんど不可能に近いことではないかと。
 養老氏は、話し合う媒体である知識や情報があったとしても、それで即座にわかる、わかり合うことにはならないそんなメカニズムがあるのだという。たとえ知識・情報が与えられても、人の頭の中では、わかる場合と、いわば馬耳東風、馬の耳に念仏、猫に小判のように意に介さずというような、わからない場合とが生じるらしい。これらの境に「バカの壁」とでもいうべきものが想定できるというのである。つまり、知識・情報などの言葉でわかる範囲の限界には、その向こう側は言葉のみではわからないという「バカの壁」が立ちはだかっているということのようである。この辺の事情は、個人的経験でも納得できそうだ。本を読んでいて、文字面は追えても一向にリアルなイメージがわいてこず上滑りしてしまうというようなことが、しばしばあったりするからだ。

 そこで、同氏はわかるということを、y=ax という一次方程式にたとえている。y:出力(わかったあかしとしての行動など)、x:入力情報、a:係数「現実の重み」、人によって異なる、とされる。それで、このaというのがくせもので、自分自身に関心や経験といった「現実の重み」がない場合にはゼロということにもなり得る、と。その時には、いくらxという知識・情報が極大化されようが、yはゼロ以外ではないことになる。まさに「バカの壁」の向こう側のことがらのように、何もわからないことになるのだ、と。
 ところで、誰しも「興味」のないことは、わかりにくいというのが日常生活での通例である。その「興味」とは、上記の方程式のaの代表的なものと言えるのだが、aとは要するに個々人の個別的な生活体験のことだと見なしてもいいのではないかと思う。すると、これはもちろん千差万別であるのだから、もともと人というものは、「バカの壁」というよりも「自分の壁」の中に閉じ込められた存在だとさえ言えるはずであろう。
 また、もともと知識・情報を運ぶ言葉というものは、「自分の壁」に閉じこもった者同士が、わかり合うためにというか、わかり合うことを通して形成されてきたものかと思う。ただ、ここが重要なところであるが、その形成過程では、わかり合うための「担保」とも言うべき人と人との「共通基盤」があったはずなのである。それは、同種の生物として共通な人のボディ、身体であり、言葉以前に生まれていたはずの共同生活であったと考えられる。

 養老氏も、こうした「原論」的なことをふり返り、「無意識・身体・共同体」といった問題に言及しているのである。現代にあっては、こうした人と人とがわかり合うための「担保」とでもいうべきものが、蔑視されたり崩壊したりしている現実を踏まえているのである。
 同氏の場合、「無意識・身体・共同体」といった人と人との関係における原初的な共同性に対して、つまるところ言葉によって創り出された現在の世界を「脳化社会」と呼んでいる。問題含みのニュアンスを込めてそう表現しているのだ。この情報社会の世界は、まさにそう呼ばれてふさわしいと思われるが、これを「担保」するはずの「共通基盤」がいかに軽視されてしまっているかという点にも、注意が喚起される。
 そして、この「脳化社会」としての現代の世界は、一方で巨大なグローバル・ネットワークを構築するほどの展開ではあるが、他方でさまざまな問題をも引き起こしている。
 人と人とがわかり合うことが困難となり始めている問題もそのひとつだということになるのだろう。現に、この問題に起因しているとさえ言える深刻な問題が、個人間から国家間にいたるあらゆるレベルで多発していることを思い起こせば、やや背筋の寒い思いになるくらいである。
 そして、養老氏は、知識・情報社会で当然視されているかのような、わかるということがそう簡単なことではないことを自覚すべきだと、とりあえず主張する。
「安易に『わかる』、『話せばわかる』、『絶対の真実がある』などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです」

 確かに、今回のイラク戦争も考えようによっては、キリスト教「原理主義」と、イスラム教「原理主義」の対立問題という「一元論」同士の対立の構図を見ることも可能であろう。わかり合えぬ個人的人間関係から、国際問題に至るまで、この種の問題は根が深いと思わざるをえない。
 どんな情報でも入手可能だし、それによっていくらでもわかるのだと思い込まされている情報社会の本番に生きるわれわれは、ひょっとしたらわかるということに関する根本的な錯覚の中にいるのかもしれない。そう考えると、多発するトラブルと苦悶にあえぐ現代の人間模様が何となくわかるような気がしてくるのである…… (2003.04.17)

2003/04/18/ (金)  汲めど尽きせぬ「北品川」への想い……

 「北品川」に関するメールをいただきました。しかも、地元に縁のあった方ではないようなので意表をつかれ、感激しました。
 『管理人日誌』としながら、今や「台場小同窓」の「管理人」から、いわば「職権乱用」的に職務範囲を広げに広げ、イラク戦争に口を差し挟むに至っております。それというのも、「台場小同窓」の面々の消極性というか、根無し草というか、健忘症というか、要するに「燃えない木」に思い込みをしたってダメと見切ったからでもあります。別に怒ってはいません。人それぞれなので、北品川の枯れ木であろうが信州の枯れ木であろうが「燃える木」同士が燃え合っていけばいいことなのだと思っているだけなのです。「燃えない木」に煙ばかり出されても閉口するだけですから……

 で、飛び入りの「北品川」ファンの方のメールを、名前を伏せてちょっと紹介させてもらいます。
「はじめまして。私、34歳の男性です。品川のキーワードでここへたどり着きました。昔の北品川のシャシン、とても興味深く拝見させていただきました。そこで、もし既に知っていたら余計なことですが、昭和32年の邦画『幕末太陽傳』で北品川カフェー街のころの映像が冒頭で結構長く流れますよね。非常に好きな映画なのでロケ地の北品川にはよく足を運ばせて頂いております。荒神様を奉ったお寺もいまだに現存しているなど、感動しっぱなしの町です。今後も是非旧東海道を盛り上げていってください。乱文ですいませんでした。」
 と、まあ礼儀正しくかつ感性豊かなお若い方とお見受けさせていただきました。

 川島雄三監督の日活映画『幕末太陽傳』はいい映画です。前年は昭和31年の『太陽の季節』で「太陽族」としてブレイクした石原裕次郎があの高杉晋作となり、幕末の尊皇攘夷の動きを盛り上げる一方、フランキー堺が、北品川を舞台とした落語「居残り佐平次」の佐平次となり、「相模屋」を中心とする当時の北品川界隈の面影を存分に再現する、といった「北品川」ファンにとっては固唾を飲む映画なのである。したがって、この映画から北品川に関心を深めるに至るというルートは、あたかもハンフリー・ボガートの『カサブランカ』を見て、トレンチコートの愛用者となるといったルートほどに、まさに王道だと言っていいわけだ。
 しかし、北品川というのはどうしていいのだろうか。
 わたしは、自分が北品川で育ったものだから記憶と思い入れがそう感じさせているのだろうと思わざるをえないのだが、先ず、「開放感」というものが重要な要素となってはいないかと感じている。言うまでもなく、街道が明るい東海に面していることがあげられよう。ならば湘南だって同じじゃないか、と言う方もおられよう。まあその点はおいておこう。
 ただ、その開放感は、海という自然に向けられた開放感であるばかりではなく、どこか江戸という歴史に向かった解放感でもあるのだ。『幕末太陽傳』などはその点にしがみついたのであろう。また、だからこそ、わたしは、江戸時代へのタイムトラベルというコンセプトを秘めた小説(『心こそ……』)を書くはめにもなったのである。
 だったら、湘南だって鎌倉という歴史に向かった開放感があるのだから同じじゃないかと、理屈っぽい方は言うかもしれない。再びその点をおくわけにはいかないので答えるならば、歴史といっても鎌倉時代はちょっと古過ぎるんで、みんなはもう忘れてしまっているのではなかろうか。せいぜい江戸時代まででないと話にならないのである。その証拠に、現在は「江戸ブーム」でもあるではないか……と。
 まあ、何がなんでも北品川! とまで強弁するつもりまではないのだ。なぜなら、もしそんなにベストであるなら、じぁあ、なんで現在の商店街は寂れているのかという難しい問題に答えなくてはならなくなるからでもある。知る人ぞ知る、いいと思う人はいいと思っていると、ここは無難な言い方をしておこう。

 しかし、やっぱり「東海と歴史への開放感の街・北品川」というコンセプトを気にしたいなあ。ただし、コンセプトというのは、身体のツボと同じで、ここぞという際立ったポイント(視点)探しが決め手となるはずだ。年に何回かの通り一遍の歴史光景再現だけでは自己満足に過ぎない。ちなみに、わたしの企画案素描を記しておくと……

 ポイント1:観光客主体的参加型とする!(たとえば、@オプションで時代仮装をした上で、散策なり各種オリエンテーリング的なことをしてもらう。ex.「七福神めぐり」「江戸時代の旅」「江戸の職人仕事」etc. A土日は、時代仮装でないと恥ずかしいくらいにしてしまう!)
 ポイント2:品川宿と関わりのある歴史的事実と人物を徹底的に洗い出し、「我田引水」を図る!(東海道なのだから、歴史上の主要人物は大半がここを通ったはず! ex.宮本武蔵と品川宿との関わり?『心こそ……』を参照!)
 ポイント3:「縁日」(?)に特殊化を図る。古書、古物など歴史志向を強め、次第にそれらの重要流通地点のひとつにもってゆく。
 ポイント4:カネをかけずに宿場街の再現に努める!(@街道に面する側の看板などの時代化。 A「かご」かきを走らせる。 B江戸時代の「宿」一軒くらいは欲しい!)
 ポイント5:「地域通貨」の小判や銭を発行して使ってもらう!(「地域通貨」は現代的な試みである。「かご」の代金や、「茶屋」代はこれでまかなう。)
 ポイント6:地元年寄りたちのほかに、是非とも地元高校や大学の若い世代を巻き込むこと!(「歴史の街・北品川再興」サークルとかを作ってもらう。「提案論文」などを募集する。)
 ポイント7:地元商店街の担い手が、今のままでは明日はないとの徹底的かつ共同の自覚をすること!

 とまあ勝手なことを書いたが、まず無理かもしれないね…… (2003.04.18)

2003/04/19/ (土)  思考や行動に指針を与える「基準」意識の更新!

 「基準の更新」が必要だということを、頭の片隅に置き続けてきたような気がしている。
 わかり易い例で言えば、ビジネスの現場ではとにかく「新」基準が不可欠となっているという事情が挙げられるであろう。すべてが右肩上がりであったがゆえに、多くのことが寛大にかつ甘く受け容れられたバブル時の環境と、消費者需要の冷え込みとその波及でモノが売れず、仕事が成立しにくいデフレ不況の環境とではまさに対照的だからである。当然、経営方針にせよ、仕事の進め方にせよあらゆる事柄を、バブル時とは百八十度も変えなければ済まない。もし、仕事の当事者たちの頭の中なり、心の片隅にバブル時の甘い「基準」が温存されていたとしたら、たちまち破綻することにつながろう。
 ところで、目に見える数字などの「基準」の改変はさほど困難ではないとしても、人間の行動を律する意識や感覚の「基準」とでもいうべきものは、最後の最後まで抵抗を続けるものかもしれない。いまだに膨大な額が残りつづけている不良債権の問題などは、数字「基準」の問題というよりも、当事者意識の「基準」の問題だと言ってよいはずである。
 つまり、「基準」について考える際に重要なことは、数字を初めとする高い、低いといった類の問題だけが「基準」の問題ではないのであって、人の思考や行動が大きく影響を受けるところの元になるイメージや体験なども重要な「基準」として見なすべきではないかと思うのだ。
「しみじみと思うのですが、学者はどうしても、人間がどこまで物を理解できるかということを追求していく。言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業をシゴトとしている。逆に、政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない」(養老孟司『バカの壁』)という指摘などは、他人に接する際のその人なりの「基準」の違いの問題と考えるとおもしろいのではないか。学者たちは概して他人を利口な人たちと思い、政治家たちは逆にみんなも自分と同様にバカだと思っている、と読みかえると頷けたりするではないか。

 イラストやマンガなどを描く場合、描かれる顔のイメージは何となく当人に似ているという事実に気づいたことがあったが、人というのは他人のことを考える際にも、どうしても自身や自身の体験を投影してしまうものなのかもしれない。
 そう言えば以前、ある技術者と話をしていて強くそれを感じたことがあった。システムの操作を案内する画面まわりを設計する作業に当たっていた彼は、ユーザ側の人から「わかりにくい!」と指摘されたのであった。その時、彼はこう言った。
「こんなことは、誰だって間違えようがないほど当然なことじゃないですか?」と。しかし、もう何年も継続してこの種の仕事をやってきた彼にとっては「当然のこと」ではあったかもしれないが、ユーザ側の人にとってはあまりにも飛躍し過ぎた内容の案内画面であったのだ。

 いろいろな社会経験をして、人にはいろんな人種がいることを肌身で感じてきた者は、自身を相対化して、相手に即した人物観察なり、社会現象の掌握なりをする。いわゆる広い視野に立ってものを考えるということだろう。そういう点では、養老氏のような解釈もあろうが、学者(=専門分野追求)は視野が広いとは言えず、自身を相対化し切れず「自分のような他者」を思い浮かべ、「基準」としがちとなるのではないだろうか。
 一方、政治家たちは、自身がバカという場合も往々にしてあろうが、むしろ「海千山千」と称されるほどに他人種との接触が多く、とんでもないバカをも視野に入れた対応が可能だということではないかとも考えられる。

 話の要点は、先日の「バカの壁」と同様なのである。人は「バカの壁」で囲われた自分のエリアのあれやこれやを整理して、思考や行動の指針を作ってしまうのだろう。そして、これらが「基準」へと結晶化していくのであろう。もとより、指針としようとするのであるから、曖昧さが嫌われ、そこからその分どうしても硬直しがちとなっていくのかもしれない。
 しかし環境側の変化は圧倒的に速いし、またモノといわず人といわず多様化も激しい。すると、頑固で偏狭な「基準」を後生大事にして生きている人にとっては、環境とのズレが生じるだけでなく、何もかもがわからなくなったり、あるいは他者や環境との衝突を頻繁に発生させる日々が続くことになったりする。
 とはいっても、おそらく人は、何の「基準」もなく場当たり的に生きることは避けたいであろうから、何らかの「基準」イメージにしがみつこうとするだろう。だが現代という時代は、誰からも納得されるような普遍的な「基準」イメージなどを、おいそれと与えてはくれないのである…… (2003.04.19)

2003/04/20/ (日)  「虹の柱」のメッセージをどう読み解くか?

「おっ!」
と、固唾を飲み一瞬目を見開くこととなった。午後六時前のクルマのラッシュを避け、裏通りへ入ったその時のことである。
 フロント・ガラス越しの真正面に何とも鮮やかな「虹の柱」が聳え立っているではないか。思わずぞくぞくと身震いさえしてしまった。とにかくクルマを左側に寄せて止めた。
「そうだ」
と、車内に常備していたデジカメのことを思い起こすことになる。デジカメを手にしてクルマから飛び出した。
 明日からは雨だとの予報もあり、春の夕刻の空気は、妙に湿気を含み生ぬるさを感じさせる。かすかな風がそよいでいた。戸外のさまざまな騒音も聞こえてくる。そんな日常的な感触が、目の前で繰り広げられている幻想的な、自然からの贈り物がまさしく正真正銘の現実なのだと実感させた。心の波立ちを自覚しないわけにはいかなかった。
 春分も過ぎ、ようやく日が長くはなり始めてきたものの、春の夕刻六時は文字通りの夕方になっていた。昼の明るさは失われ始めていた。照度が不足すれば当然カメラはブレやすくなってしまう。目の前の光景は、得難いものなのだ。心して両手を静止し固定する。そしてシャッターを半押しし、ゆっくりと押し切った。念のため何度か同じことを繰り返した。
 やるべきことを終え、ようやく気分がおさまってくるのを感じていた。
  それにしても、翳っていく東の空に現象化した「虹の柱」は、あたかもモノが存在するとしか見えない。頭では消え行くことがわかっていても、その神秘の姿には、確かに存在すると確信させる説得力が満ち溢れていると思われた。
 わたしは、何故ここに虹が、というカラクリを考えていた。
 その直前までわたしは、買い物帰りを急ぎクルマを走らせていたのである。その時、ちょうど進行方向にあたる西の空に、強烈なライトのように夕日が照っていたものだ。その夕日に極端なまぶしさを感じ、わたしは思わず信号待ちの際にサングラスを着用したのだった。滅多にサングラスなど掛けない自分なのにと思えば、よほどのまぶしさであったからなのだろう。
 その夏の日の太陽のような夕日が、何と言っても重要な立役者だったに違いないと思い当たったのである。そして、たまたま雨天前日の湿気を含んだ空気層が、その鋭い夕日の光線を「虹の柱」に変えて照り返した、というのがその幻想的なショーのカラクリであったものと推測されたのである。

 だが、解けない謎がひとつ残っていた。
 わたしが、偶然その「虹の柱」に遭遇したことを喜んでいたのは、その幻想的な美しさだけのことではなかったのである。実は、その「虹の柱」に遭遇した「昨日」というのはわたしの誕生日だったのである。それがどうしたと言われれば身も蓋もないが、とにかくそうだったのである。
 あっと言う間に、勝負運が強いと見える日本人大リーガーの背番号と同じ歳となってしまったのだ。しかも、このところ努力の甲斐がないようなと言うか、努力不足、能力不足というか、いずれにしてもパッとしない日陰の道が続いていると感じさせられていた。そして、なぜだか、日陰道はきっとますます暗くなってゆくに違いない……との悲観視に明け暮れていたかもしれぬ。そんなふうに感じているところがマズイのだろうと承知していても、とにかくそんなふうだった。
 そんな文脈があっての「虹の柱」との遭遇だから、いい歳をして宝くじを当てたような気分となったりしているのである。偶然でも何でも、いいことに違いない、気を落とさずがんばりなさい、いいことも用意してありますから、というメッセージに違いないと思い込もうとしているのである。
 で、謎というのは「虹の柱」の傾きなのである。「左肩上がり」(あえて「右肩下がり」とは言わないところが強情である!)だとも言えるのが、今ひとつ残念というか、解せないというかなのである。この謎をどう解釈したものかと、首を傾げているわけなのだ。 しかし、いずれにしても「めでたくもあり、めでたくもなし」で表現されるような誕生日に、同様に「めでたくもあり、めでたくもなし」という「左肩上がり」の「虹の柱」のプレゼントとは、やっぱり大自然のやることは隅には置けないものだと痛み入った次第なのである…… (2003.04.20)

※ ちなみに、「虹の柱」の写真の1枚は、「台場小同窓」の表紙ページの「左上の赤い校章」をクリックすれば見ることができます!

2003/04/21/ (月)  「今からでも遅くはない!」「おまえはまだ若いのだから!」……

「今からでも遅くはない!」
とは、人質をとった「立てこもり犯」に呼びかけられるお馴染み(?)の言葉である。さらにこのあと、
「無用に罪を重ねるな!」
とかが続くのであろうか。しつこく言うなら、加えて、
「おまえはまだ若いのだから!」
とでも呼びかけられるのだろう。
 まったく同じではなかろうか、最後のセリフをのぞけば。
 つまり、たとえ50代半ばとなっても、そんなふうに新しい自分というものを作っていかなければならないのだと考えることとである。

 そのためには、月並みに言うなら「身体が基本!」ということになる。ニ、三年前までは、タテマエでそうは言っても、心の片隅にというか、ど真ん中にというか、引っ掛るものをなしとはしなかった。体重に問題アリ、夜更かしの習慣アリ、寝酒の習慣アリ、糖尿病の心配アリ、体力・気力に不安アリと、何人ものモハメッド・「アリ」がゾロゾロ控えていたからである。
 ところが、現在は晴れて清廉潔白の身となることができた。心にやましいところなく、「身体が基本なのは当然だよね!」と人にほざけるようになった。なんせ、「アリ」はほとんどいなくなったからである。(まあ、煙好きの「アリ」は滞在中だが……)体重ほぼOK、早寝早起きOK、アルコールは週に一、ニ度嗜む程度でこれもOK、懸念された糖尿病境界型問題についても、掛かりつけ病院から北里払いのご放免を頂くことができた。「呪わしい過去を反省し、最寄りの診療所で更生を図るのだぞ」とのお裁きに至ったのである。
 加えて、早起きウォーキングの甲斐あってか、メキメキとは言わないまでもじわじわとした体力向上感が、まるで床上浸水(?)時のようにせり上がって来ているのだ。

 こうした生活習慣の「抜本的改善!」が軌道に乗り始めると、だんだんと欲が出てくるものである。最近では、先ずは、ウォーキング時の時間の「多次元活用」に着眼して、English のヒアリングCD学習を義務づけたものだ。新保守主義・ブッシュ政権の米国はうんざりだが、English に罪はないと思い直して挑んでいる。そのうちに、二宮金さんのように、本を読みながら歩くことにもなるやもしれない。
 はたまた、内職も兼ねて市営バスのように、広告看板を背負ってウォーキングすることになるやもしれない。遊歩道には、健康管理に留意した熟年夫婦が多く歩いているので、健康飲料会社や落ち着いた温泉旅館などから宣伝広告を請け負ってみるのも悪くないアイディアかもしれぬ。いやいや、その気になれば昔取った杵柄である「新聞少年」をリバイバルさせ、「新聞オヤジ」を演じることだってできる。

 とまあ冗談はさて置き、「やればできるジャン!」との自覚を持ち始めると、だらしなかった過去がうらめしく思い起こされてくるのは事実である。現在のような、まるで「模範囚」のごとき律儀な生活がもう十年早ければ、二十年早ければどうであっただろうかと……。さらに調子に乗って、高校時代、大学時代といった人生の充電専門期間のただ中でこの実践ができていたら、今ごろは国を憂え、世界を憂えることをお仕事とさせて頂く出世に相成っていたかもしれない、などとほぞをかむも益なしの心境に至ったりもする。まあそんなことはさて置くとしても、どうして必要な時期に必要な奮起ができなかったものかと、後悔めいた気分となるのは否定できない。しかし、同時に、人生というものはそのように合理的に考えられるものではないんだよな、という重い実感めいたものもこみ上げてきたりはする。
 で、落ち着くところが、「今からでも遅くはない!」と自身の内の「立てこもり犯」に絶叫するという、みっともなくとも本人はマジという、そんな地点なのかもしれないのだ。それなら一層のことハッタリでも何でも、この際思い切って叫んでみるか、
「おまえはまだ若いのだから!」と…… (2003.04.21)

2003/04/22/ (火)  「国も、企業も、人も総パラサイト化の現実」とは言い得て妙!

 「日本経済はこれから『本当の地獄』を見る」(『週間エコノミスト』4/29・5/6合併号)という特集記事は、久々に見る現実感のある内容であった。顧客先へ出向いて「渋い」話を耳にした後だけに、シビァさの実感がより強く伝わってきた。
 とくに、プロローグの「国も、企業も、人も総パラサイト化の現実」(額賀真、ちばぎん総合研究所社長)という記事は、きわめて刺激的な視点での現状認識だと思われた。
「パラサイトとは、寄生生物のことである。親のすねをかじりながら結婚せずに生活しているパラサイト・シングルの特色を、自立心の欠如・他者依存とすれば、パラサイト化したのは若者だけではない。他者依存を強める社会をパラサイト社会と呼ぶと、現在の不況は、パラサイト社会のなかで、人々の稼ぐ意欲や力が低下したことによって生じている構造的なパラサイト不況である」と、そう断じた上で、具体例が指摘されていく。
 まず、国や自治体の赤字財政は、ツケを将来に回している点で、現世代がパラサイトとして次世代に依存していることになるとされる。また、やるべきことをやらずにただただ補助金への依存を強めてきた地域、黒字の展望もなく行政サービスを受け続けている赤字企業などはパラサイト症候群であると。また、一般企業においても利益に貢献することが薄い役員や社員は、パラサイト構成員だとされる。
 そして、広範囲の社会のパラサイト化が、「90年代以降における膨大な契機対策」に由来するところが大きいのではないかと指摘される。
「膨大な契機対策は、多くの企業や地域から自立の意欲と稼ぐ力を奪うことによって、社会のパラサイト化を進めてきた。……ばらまき工事は、社会が発展するために本当に必要なもの――自立心を多くの人々から奪いとって、社会のパラサイト化を進めたのである。……ばらまき工事や行政サービスへの依存を強めた人々は、自立・自尊の心を、自覚することなしに失った。日本全体のたかり・ぶら下がり体質が強まっている」と。
 そうして、「経済発展の最も本源的な原動力は、一人一人の稼ぐ意欲と力である。その稼ぐ意欲と力が衰えて、わが国の経済活力が衰退した。公的部門自体、他者依存を助長していた。それを改めることなくして、日本の活力が生まれることは、もうあり得ない」

 惨憺たる現状の原因もしくは問題基盤を、「パラサイト」という視点で処断しなければならないほどに、現状における他者依存の弊害は大きいと見える。現社会には、指摘されたこと以上のケース、犯罪または犯罪まがいのパラサイト的行為で全体社会を食いものにしている輩たちとて存在する。そんな者たちには、「自立心欠如」などという上品で間接的な表現ではなく、立件逮捕の措置がふさわしいはずだろう。
 また、経済行為において「自立」と言った場合、いくつかのまぎらわしい問題を整理しなければならないのも事実かもしれない。そのひとつは、同氏も「福祉充実の美名の下に、過剰な行政サービスが云々」と、福祉切り捨てを誘うかのような表現もしているが、この点は注意すべき点であろう。つまり、現状は「自立」ということが公平に要求し合えるような機会の平等が必ずしも成立していないからである。
 また、これは現代経済における前提的な視点なのであるが、「自立」を強調するあまり現業至上主義になってはならないだろう。モノを売る人は、作りもせずに製造者に依存しているといった視野の狭隘化の問題である。また間接業務は、現業部門に依存しているといった想像力の欠如の問題でもある。経済が高度化すればするほど、「稼ぐ」という行為が間接的となったり「ソフト」化したりする重要な現実もあるのだ。ただ、その延長線できわどく展開しているような投機や、デリバティブ[derivative]などは問題視されて然るべきだと思うが……

 しかしそれにしても、「総パラサイト化の現実」という表現には妙に捨てがたいリアリティを感じてしまうのは事実である。われわれは、現代「劇場社会」における観衆なのだと言われたりする視点とあわせてみると、まさに根深い問題が横たわっているのかもしれない……
 ただ、自身に関していうならば、こんな時だからこそ「目にもの見せてやる」と言わぬばかりの「自立」の技を生み出したいと思わずにはいられない…… (2003.04.22)

2003/04/23/ (水)  手放しでは評価できない「グローバリズム」と、新しい動向……

 最近、わたしは「失われていくもの」への関心が日増しに高まっていくのを感じている。同時に、上滑りを強めて破局へと邁進しているとしか思えない「時代の主流」に対する危惧の念が高まるのも、抑え切れないでいる。
 ただし、「相手」は巨大なうねりとしての「時代の主流」である。何から何まで、長いものには巻かれろ!のロジックを張り巡らせようとしている破格の大物である。その正体の一角を暴いていくだけでも膨大なエネルギーを必要とするはずだ。気力も必要となる。「無駄な抵抗」なのかと打ちひしがれる気分が、波のように寄せては返すこととなる。
 しかし、おずおずとはしつつも「何かがおかしい!」と感じ始めている人たちが数を増しているのも事実のようで、幾分かの励ましとなる。何も、すべてが同じ思いである必要などはない。自身の差し迫った課題を起点としながら、時代全体が向かおうとしている方向に薄っすらと疑問を感じ始めるのが一般的なのであろう。まるで、ひょんなことから小さな窓に近づいてみると、その窓から見える光景は途方もなく寒々しいものだと気づいてしまうようにである。

 「何かがおかしい!」と感じ始めている人たちの姿は、典型的にはボランタリー活動や、NPOに参画している人たちに見出すことができる。たぶん、止むに止まれぬ思いや、その活動自体が充実感を与えることを知った人たちなのだと思う。「時代の主流」が、いつの間にか「排除」したもの、人々が生活の場や職場において「失われていくもの」と感じざるを得なくなったものを、何とか取り返そうとするきわめて健全な思いが、人々をそれらに結集させているに違いない。
 それだけ、生活の場や職場からは、「あって当然の要素」が失われ始めていると言っていいのだろう。優しさとか、思いやりとかとソフトな表現で言ってもいいのだが、わたしはもっとシビァに見つめるべきだと考えている。人間の基本的な能力が培われるはずの、人間関係やあるいは物的環境との対応関係が恐ろしく貧弱に成り果てているように見えるからだ。個人差の問題も当然あるのだろうが、そうした偶発性を超えて、何か「構造的」な原因を探し当てたくなるほどなのである。

 昨日は、「自立心の欠如・他者依存」の傾向が異様に強いとされる「パラサイト」という現象について書いた。人間関係、社会関係にあって、「自立、自立」と一方的に強調するあり方には疑問を残したつもりである。つまり、他者との関係軽視や、「孤立」化を促すようであっては、現状の問題は一向に解決しないと思われたからである。人間が相互依存関係にあること自体は、問題視されることではなく当然のことだと思っているからだ。
 唐突な話であるが、日本が米国にベッタリ依存し続けて、あたかも「パラサイト」的であることは問題だと思う。しかし、北朝鮮が「自立」もどきで、切れたように「孤立」して核武装! するようであってはならないはずだろう。国際関係に依存する部分は依存して、その関係の中で健全に「自立」すべきなのである。今日は、米・中・北朝鮮の会談があるはずなので思い出したわけだ。

 「自立心の欠如・他者依存」を特徴とする「パラサイト」という言葉を説明上で利用するなら、どちらかと言えば、現代の物的環境・情報環境や社会環境などへの「パラサイト」的な「迎合」風潮の方が問題ではないかと感じている。
 物的環境とは、「便利・快適」の名のもとに人間の感覚、感性をスポイルしていく可能性が高い道具環境への過度な依存のことである。身体と物的環境との関係は、人間の脳や神経の機能向上に重要な役割りを果たすわけだが、これらが道具類への過度の依存で不十分となるなら、感覚や考えがまともではなくなるのは当然のことではないだろうか。

 情報環境への丸腰的な依存はさらに問題視すべきだと考えている。
 ところで、情報(知識でもよいが)とは一般的意味のレベルと、主体的意味のレベルとの複合体だと見受けられる。つまり言葉というものがそういう二面を持つからである。たとえば、「リンゴ」という言葉からは一般的に丸くて、上方が赤く、場合によっては下方が緑のそんな形のものを思い浮かべる。ところが、中には、歯茎の弱い人がいて、リンゴを噛んで痛い思いをした感覚的実感を振り切っても振り切れないイメージで思い浮かべるかもしれない。むしろ、後者の主体的な意味の方が貴重だとさえ言えようかと思う。
 しかし、前述の物的環境での希薄な生活体験の問題もあろうし、「国連議場」や「イラクの砂漠」が云々と、人々が行ったこともない実経験に根ざさない情報が何気なく飛び交うのが現代である。そして人々は、マス・メディアが報じる画像なり情報なりをそういうものか、と否応なく実感なく受け容れるほかなかったりするのである。情報環境への強制的依存と言うほかない。同じことは、情報領域の一般的ツールであるPCのOSについても言えよう。大事なことで使っていても、いざトラブルに出会うと「自立」的な対処などしようがないのである。お仕着せもいいところなのだ。

 こうした傾向が、いいのか悪いのかの検証もなく雪崩れ的に推進されていることを「時代の主流」だと表現した。これらは、何よりも市場経済を推進するものとして採用されてきたと言っていいだろう。形式上の効率化が徹底的に追求できるとの触れ込みで、こうした傾向の環境整備が進められてきたのだ。そして、この環境の技術的総称は、「IT」と呼ばれて絶賛され、またこの環境の地球規模への拡大戦略が「グローバリズム、グローバリゼーション」と呼ばれるようになった。
 これで、経済が活性化され、人々が「いまいちだけど、まあいいか……」と思えるならばまだしも、現実は逆であった。経済は惨憺たる事態となり、デフレ不況から抜け出せないでいる。「構造改革」の未達成だとか、経済政策の失敗だとかという批判も可能であろう。しかし、「構造改革」は効率化のさらなる推進でもあり、それはそれでまた「巨大な歪」を作り出す事業でもあることを知らなければならない。
 そこで、「何かがおかしい!」と感じ出している庶民たちが動き出しているその動向にこそ目を向ける必要がありそうだと感じたのだ。
 「グローバリズム」の動向とはまったく逆のコンセプトを秘めた動きが、次第に増えつつあるようだ。「地域通貨(エコマネー)」の試みと、実感的な人間関係としての共同体再建というちょっとしたブームである(明日に続く)…… (2003.04.23)

2003/04/24/ (木)  「地域通貨(エコマネー)」運動が語るものとは……

 不案内な旅先などで、ぞろぞろと歩く大きな人の波があると、どうしても自分も連なってついて行く衝動にかられるものだろう。その人の波の向かう方向がよほど危ないことを確信めいて熟知していない限りは、ついてゆくことが無難だと感じてしまうのが人情かもしれない。だが、その方向ではない道筋に、自分が切に訪れたいと思う場所があるとするならば話は異なってくるはずだ。「あんなにいい場所をみなさんは知らないんだ……」と思いながら、いそいそとその場所への道を急ぐことになるのだろう。

 爛熟した市場経済方式の全世界化としての「グローバリズム」経済が進軍している時に、どういうわけか反対方向を目指す動向もまた、日本各地、世界各地で散発的に広がろうとしているという。「地域通貨」の試みである。
 関心は持っていたものの、『モモ』で知られるミヒャエル・エンデの『エンデの遺言』(NHK出版、2000.02.25)をようやく読み始めようとしている段階なので、とりあえず「地域通貨」の前提知識をサイト情報(「YOMIURI ON LINE」http://www.yomiuri.co.jp/iryou/ansin/an262802.htm)で整理しておく。

「(特徴でいえば)地域通貨とは、一定の地域内や、仲間うちで通用するお金です。国や中央銀行が価値を保証する円やドルなどの通貨に対して、地域通貨は参加者を集めれば発行できます。使える地域が限られており、普通のお金と違って預けておいても利子が付かないという特徴があります。
 (メリットは)まず、地域経済の活性化です。一定の地域でしか使えませんから、人々は地元の産品を地元で買おうとします。さらに、お互いの信頼に基づいてやりとりされる地域通貨は、地域住民のつながりをより緊密にします。
 (その歴史を見ると)現在の地域通貨はベルギー生まれの実業家で経済学者でもあるシルビオ・ゲゼル(1862―1930年)が提唱した「自由通貨」が原型です。景気循環の原因は利子にあると考え、利子を生まない通貨にしたのです。
 1920年代後半の世界的な恐慌の後には、スイスやドイツ、米国などで発行されました。恐慌で普通のお金が機能を失ったため、地域通貨で乗り切ろうとしたのですが、当時は『通貨は権力の源』という意識が強く、ほとんどが政府によって禁止されました。
 1980年代、カナダで『LETS』(※)という地域通貨が始まったのをきっかけに欧米、南米など世界中に広がりました。経済がグローバル化する中、地域密着型の振興策として注目されたのです。今は第2の黄金期といえます。
 LETSは紙幣などを使わずに通帳で取引を決済する仕組みですが、米ニューヨーク州イサカ市のように独自の紙幣を使う方法や、小切手に金額を書き込む方法、インターネットで決済する方法などがあります。
 (日本でも)ボランティアなど限られた分野で流通する地域通貨の実験が90年代後半に始まりました。市民グループが中核となり、各地で100以上の地域通貨が生まれています。
 (なぜ注目されているかというと)バブルの崩壊とその後の不況で、お金を見つめなおす機運が高まっているからでしょう。市場主義経済が進み過ぎ、人間同士の結びつきが希薄な世の中になりました。地域通貨は、人と人とのつながりや地域共同体を回復する手段として期待されているのです。
 (しかも経済面では)デフレ対策としても注目されていますね。物価が下がるデフレが問題とされているのは、持っていればお金の価値が上がるため、みんながお金を使わなくなるからです。利子が付かない地域通貨は、経済活動を活発化させるのです。
 (また高齢化の影響という面もあり、)介護などではボランティアの活動がありますが、介護される側が負い目を感じがちです。地域通貨をやり取りすることで、対等な関係を保つことができます。
 (今後の展望では)音楽文化などの振興を目的にしても良いわけです。日本に根付くには時間がかかりそうですが、現金を中心に回る社会を変える起爆剤として期待されます。
※LETS( Local Exchange Trading System ) カナダ西海岸のバンクーバー島で1983年に始まった地域通貨で、地域内交易システムと訳される。参加者は口座残高ゼロから始め、収支を通帳に記録、事務所に報告する。紙幣を発行、管理するコストが省ける利点があり、採用する地域・団体は世界で数千ともいわれている。」(以上、上記サイトより)

 わたしが関心を向けるポイントは、底なしデフレへの懸念もあるが、「市場主義経済が進み過ぎ、人間同士の結びつきが希薄な世の中になりました。地域通貨は、人と人とのつながりや地域共同体を回復する手段として期待されているのです。」という点である。
 「カネさえ払えば文句はないだろ!」とは、万引きが見つかってしまった少年のセリフに限らず、市場経済が人間関係の原型だと錯覚してしまっている現代人の空疎な内面の響きだと思われる。そして、この現象は消費生活だけに止まらず、生産の場・職場や社会生活全体に広がっている。殺人事件の多発傾向にしても、ホームレスは殺しても、殺されてもしょうがないとする意識下にありそうな風潮にしても、金権万能主義と手を繋いだ、行過ぎた市場経済主義に由来する二大病以外ではなかろう。
 殺ぎ落とされてしまった人間関係という現状が蔓延している苦痛が、心ある人々を「地域通貨」の実験に向かわせているのだと思えてならない。

「今の日本は世界のGDPの2割を占めるような大国だが、その国民が『欲しいものがない』という。こんな国がこの世にできると想像した人は、いまだかつていない。お金はあるが、消費不振という状態では経済学はまったくのお手上げだ。
 代替マネーに加えて、ボランティアで介護をして、その代価としてダイコンやニンジンを貰ってくるといった労働と労働の交換が、いま広がりはじめている。そこには日銀券はまったく通用しない。だから、経済活動ではなく、社会活動、人間活動だが、個人個人の満足は大きい。ボランティアを金額に換算できるとすれば、これを加えればGDPはプラスになる可能性もある。
 そのように、人々の満足という視点から考えた経済学がない。それこそが日本が直面している大きな問題ではないか。そういう時代に、『株価や地価をどう上げるか』『規制緩和で市場を創出せよ』といった議論自体、一般庶民には意味のない時代遅れのものになってしまっている。
 日本がいま新しい出発をすべきときのテーマの一つは、共同体の再建である。共同体とは、かつては国家であり、会社だったが、いまはボランティアやNPO、地域コミュニティー、趣味の仲間、そして家族もある。これまで共同体は封建的であると切り捨ててきたが、実はこれこそは失敗であると、庶民は気づき始めた。癒しや安らぎ、コミュニケーションなどが消費の新しいキーワードとなっているが、これらはすべて共同体の得意技であり、グローバルスタンダードにはないものだ。いま、一般庶民の関心はそこにある。
 欲しいものがない豊かな国――通貨を介在せず、モノより満足を求め始めた社会に対し、従来の経済学を土台として発想することに果たしてどれだけの意味があるのか」(日下公人(東京財団会長)『欲しいものがない豊かな国――共同体の再建を』(『週間エコノミスト』4/29・5/6合併号)


 やはり、市場経済全体のシステムはそのシステム維持のために、システム内部の人間たちに過剰な犠牲を強い始めているのだろうか。「グローバリズム」経済の自滅と破綻はすでにカウントダウンしているのかもしれない…… (2003.04.24)

2003/04/25/ (金)  何だか、世界中の人々が自分の目先の問題に「埋没」しているかのようだ?!

 今日は、仕事での技術的な調べごとをしていてあっという間に一日が過ぎてしまった。
 いつも思うのだが、技術的な作業というものは、「鋭角」的に集中力を働かせなければ先に進めないものだ。重箱の隅を突き回しながら疑問点を潰し、アイディアを掘り起こしていかなければならない。こうした作業は、とかく百花繚乱のような問題群があちこちで多発、散発するややこしい現代にあって、蛸壺に収まっているような自己完結ふうの気分にさせる。きわめて個人主義的な立場に立つならば、わずらわしさから解除され、ひとつの事に没頭できるがゆえに悪くはないと言えるのかもしれない。現代を生きる処世術という点ではひとつの立場だと言えるだろう。世界で何が起ころうと、周辺で何が問題となっていようと、「忙しい、忙しい!」と言いながら、自分の仕事に埋没していくという生き方である。
 先日は、そんな「埋没」姿勢の評価できる面について書いたはずだ。しかし、それはあくまで、途方もなく混乱した現代を逃亡的に生きるための個人主義的な処世術だと言っていいのだろう。ひるがえって考えてみれば、それでは世の中とんでもないことになるんだろうな、と思わざるをえない。
 しばしば指摘されてきた、仕事と会社だけにのめり込み、家庭を顧みない、もちろん社会情勢なんぞ一瞥もしなかった「モーレツ社員」達は、まさにその典型であっただろう。
 しかし、どうもこうした傾向は「モーレツ社員」だけに止まらず、多くの人々がその傾向を持っていたし、現時点では大多数の人々がそういう傾向を強く持ちながら生きているように思えてならない。

 今日、作業に一区切りをつけて、インターネット・サイトで一日の社会的出来事を閲覧していて、上記のような自覚にいたったのであった。
 先ず、「日経平均7700円割れ、バブル後最安値」7699円50銭が目に入ったのだった。米国の株式市場の状況と連動しながら、経済実態から遊離してゲームのように体裁を取り繕っているかに見えてきた状況が、やっとホンネをもらし始めた観がある。
 そして、この「最安値」をもたらした原因のひとつに、「北朝鮮の核保有報道」というこれまた厳しい現実が目に止まったのだった。そこで、これに関連する情報を追ってみると、相変わらずの米国の強硬姿勢の問題が報道されている一方、これもまた相変わらずであるわが国のてんでんばらばらの反応という問題が見受けられたのだ。
 別に、自分が作業に「埋没」している間に……ということではないのだが、何だか世界中の人々が自分の目先の問題に「埋没」して、その立場だけからものを言ったり、事をなしたりしているような印象を強く受けてしまったのだった。
 油田狙いという手前勝手な動機でイラクに対しては騒いだ米国も、北朝鮮の核問題となるとどこか醒めたところが前面に出ている。国際平和が云々という立場などではなく、あくまでも自国の戦略優先なのであろう。そんなものなのだろうと思わざるを得ない。むしろ、北朝鮮という脅威問題が存在し続けることが、米国の東アジアに対する軍事戦略にとって必要だとさえ見えないでもない。
 そして、わが国の右往左往した状況はお粗末過ぎる。深い読みも外交戦略もないかたちで日朝会談を起こし、「平壌宣言」まで交わした現政権ならではの混乱が絵に描いたように波及しているようだ。

 かつて、人々は自分の問題への関心とともに世の中全体、社会全体への配慮というものを保持していたはずだ。まして、政治家たちの中には、一身を投げ打って国や社会の問題に憂える者たちもいたはずだ。ところが、現代の政治家たちは「利権」の獲得に「埋没」している。役人たちも、官僚機構の中での自分たちの居場所と既得権だけに「埋没」している。そして、庶民の中のある部分も、ささやかな私生活に「埋没」している。本来、全体社会の歪によってそんなものは吹っ飛んでしまう道理にあるにもかかわらずである。
 わたしは、こう考えている。自分が現代の社会や世界という、自身では手に余るに決まっている対象から目を離したくないのは、何も「国士きどり」でいるわけではないのだ。自身がより良く生きること、自社がより良く発展することを願ったとしても、それを叶える道は、全体世界の動向に対するそれなりに深い認識以外からは決して見つからないだろうと考えているということなのである。いい仕事とは、本当に人々が求めるモノを提供することなのであり、そのためには、人々が本当に求めているものは何かを知らずしては不可能だと思えるのである…… (2003.04.25)

2003/04/26/ (土)  頭脳は、「身体の身になって」考えてやらなければならない!

 最近は、可能な限り「身体の身になって」考えてやるようにしている。それは、頭脳という「身勝手」でかつ「ひとりよがり」な性癖を持つ存在にやや警戒をし始めたということでもある。
 ところが昨日は、「身体の身になって」行動しなかったのである。やや遅くまで頭脳活動を野放しにしてしまった。すると、どうだろう、にわかに寝付きが悪くなってしまった。おかげで今朝は、実に久々に惰眠をむさぼる羽目となってしまったのだ。良質な睡眠によって、健康な頭脳活動維持を心がけようとしている自分にとっては、手抜かりなことであった。
 やはり、やや極端なようにも思えるが、日没後には「下手な考え休むに似たり」と決め込み、頭脳活動の電源は"OFF"としてしまった方が良さそうだ。どうせ、疲労のためパフォーマンスの落ちた頭脳が繰り出すたわごとなどまともに相手にする必要はない、と言うべきなのかもしれない。

 あり余るほどに余力のある場合には、どんなやり方、組み合わせで事を進めようとさほどのトラブルは生じないはずである。あり余るパワーが満ち満ちていた若い時には、無理が通れば道理引っ込むのたとえを地で行くことができた。しかし、中高年ともなると残存パワーをいかに「最適」活用するかが重要な課題ともなってきた。その「最適」化が損なわれると予想外の破綻に遭遇してしまうから恐ろしい。
 来月に、二十三回忌の法事を迎えようとしている亡父の場合も、思えばちょっとしたアクシデントによって寿命を縮めたという印象が強い。何十年ぶりかで故郷の大阪へ旅行して、久しぶりで近親者と再会したのは良かったが、名残惜しさのあまり夜を徹した会話などでとことん身体に負荷をかけてしまったようなのである。心筋梗塞の発作に襲われたのは、その旅行から戻って間もなくのことであった。旅行の帰途、当時名古屋に住んでいたわたしのところにも寄ってくれたが、その時にも顔と言わず身体中に得体のしれない疲れを滲ませていた記憶が蘇る。たぶん、そんな旅行がなければ、もう十年なりとも淡々と生き続けたのではなかったかと想像しているのである。

 クルマのガソリンも、「エンプティ」のマークが出てからも思いのほか走り続けることができる。そうした場合にはアクセルをふかし過ぎない配慮などもするので、給油するスタンドに届かずエンストに至るという経験はまずない。
 身体もそうだが、概してさまざまなものがたとえ資源(パワー)が乏しくなろうとも、それはそれでその事態への対応における「最適」化を図るならば、最悪の破綻を避けることも不可能ではないと思われる。しかし、資源の枯渇をものともせず、「身勝手」でかつ「ひとりよがり」な頭脳による思い込みが独走する場合にこそ、不測の事態が発生してしまうのかもしれない。資源の枯渇時には、何がボトルネックとなり、何が生命線となり、どんな問題がどう波及するのかなど、ボディ全体で発生している事実としての事象がことごとくマークされていなければならないはずだ。

 イラク侵略戦争もそうだし、わが国の経済問題もそうとしか思えないのだが、それらは避けられないものではなかったのではないか、と思っている。それを突き進めてしまったのは、「身勝手」でかつ「ひとりよがり」な頭脳(観念的な権力層!)による選択なのであって、現実を支え満たしている「身体」のように実直な庶民たちの「身になっての」選択ができなかったという、当たり前のことでしかすぎないのではないかと思っている…… (2003.04.26)

2003/04/27/ (日)  そうなんだよね、その感激こそが何にもかえがたいものなんだよね!

 自分なりに精一杯努力して、苦労して何かを成し遂げるということは、おカネで何かを手に入れることなどとは全然違う感激が伴うものだ。誇張して言うならば、そんな感激こそが生きることの喜びだと言ってもいい。自分も、人一倍そんなものを求め続けているような気がする。

 当社では業務の一環で、やる気のある人だけにHP作成の個人指導を行なっている。ビジネスの観点を優先させるなら、大勢集めて集合教室スタイルで行なった方がよさそうなものだが、個人指導に徹している。
 今までにもいろいろなセミナーを開催したり、講師役をつとめてきたりしたが、集合教育スタイルの会場でなぜ自分が参加しているのかわからないような顔をした受講者を見つけると情けない思いをしたものだった。
 一昔前には、会社や上司から「行ってこい!」と言われ「じゃあ、行ってきます」という成行きでセミナーに参加するケースも少なくなかったようだ。中には、セミナー参加をルーティーン業務からの解放、ないしは骨休めと見なしてもっぱら居眠りに徹する不届き者さえいた。

 問題は、先ずセミナーなどに参加する「動機」がない、または不鮮明という点であろう。この点は、自腹を切って参加費を払うのではなく、会社が節税対策などの点もあって社員の参加費を負担する、という点と渾然一体となって、かたちだけの参加という事態を生み出していたはずである。
 似たようなことは、世の中が不況となってリストラが荒れ狂ってからも続いていた。職業訓練関連の研修費を政府が補助するという制度である。最高八割、三十万円までを補助するとしたこの制度で何がどうだったかと言うならば、実務などでは到底役に立たない水準のパソコン入門教室が林立し、中途半端に脱落する受講者たちがあとを絶たなかった、ということではなかったか。ちょっと毛色の変わった「公共工事発注」ばら撒きと言うものではなかったかと思う。学ぶことにおいて当事者が自腹を切らないということが、学ぶことにおいて最も重要な要素であるに違いないところの学ぶ「動機」を曇らせるという事実につながる道理を誰も知らなかったかのようである。

 こういう表現をすると、「では貧しい人々は学べない!」といった一般論を持ち出してくる人がいたりするが、どうも違うように思うのだ。学ぶということに関して言うならば、学べる環境の有無は大事なことだが、必須なのは学ぶことへの「動機づけ」以外ではない。パソコンにしても、それらを教室いっぱいに並べて使える環境を作ることも重要だが、あるいはそれらが使えるように費用面でのサポートをすることも十分条件ではあるが、必要条件ではない。必要条件とは、それらを使って何かをしたいと「動機づけ」てあげることであるはずなのだ。人が学ぶということの基本構造が何ら斟酌されていないことが情けないのである。
 現に、もはやパソコンなどはちょっと他の消費を抑えれば容易に入手できる価格水準にまで至っているにもかかわらず、このところ売れ行きは伸び悩んでいるようだ。要するに、使う「動機」が問題といっていいのだろう、魅力的な使用用途が消費者の頭の中に思い浮かばないということではないのだろうか。

 今一歩話を広げれば、この不況の中で嘆かれる「モノが売れない」という現象にしても、買うおカネがないとか、将来への不安とかの純経済的問題もあるには違いないが、それだけではない点に目を向けなければならないと思っている。モノを買う「動機」が希薄化しているのではなかろうか。何のために買うのかという点の問題である。
 思うに、貧しい時代には、欲しいモノの向こう側にはそれらを手に入れた際の「豊かな生活」といった甘美なイメージが脳裏と心に脈打っていたのではなかったか。われわれ団塊の世代でいえば、そのイメージは「アメリカン・ライフ」であったかもしれない。
 だが、今、モノへの消費を「動機づけ」るどんな魅惑的なイメージが人々の頭の中に躍動しているのであろうか。場合によっては、魅力的なイメージは、モノの入手や消費ではなく、何か別のものでなければ思い描けないと感じている人々も増えているのかもしれない。いずれにしてもそのイメージこそが衰退しているのが現状であり、だからモノへの消費が、低所得の水準のままに下方へ引っ張られているのではないかと想像する。

 話をもとに戻すなら、学ぶ「動機」こそが学ぶ者にとっても、教える側にとっても最重要な課題なのである。そして、「動機」というものは人それぞれである。個々人に応じてみな異なるはずである。この点が、いわゆる集合教育スタイルではどうしてもおざなりにされがちだと言えよう。この問題を教える側が分かっていても、それに真正面から対応するならば教師の能力、気力、体力の限界を超えるため、結局は自粛されてしまうのであろう。小中学校での良心的な教師の悲鳴は、そのことを物語っているはずである。

 ここニ、三日前から、個人指導でHP作りを教えていた若い主婦の生徒さんが、ひとつの節目にさしかかっていた。週一の授業のほかに頻繁なメールによって質疑応答も繰り返してきた。主婦業はそれはそれで忙しいようだ。しかし、わたしはここが正念場だから「駆け上れ!」と叱咤激励もした。学んでいる時には時として駆け上る以外には手がない急坂があるからだ。その方は、ここニ、三日の間眠る時間を割いてがんばったようだ。
 そして、今朝、その方のURLにアクセスしてみたら見事にHPがアップロードされ、公開されていた。メールが届いていたので開けてみると、
「やっと、やっと、やっと!!! UPできました。一瞬、泣きそうになってしまいました。……」
とあった。そうなんだよね、その感激こそが何にもかえがたいものなんだよね、とわたしはつぶやいていた…… (2003.04.27)

2003/04/28/ (月)  現状を憂える側の「未熟さ」を何とかしなければ……

 統一地方選挙が終わった。昨今の選挙が終わるといつも空しい気分となる。世の中がこれ以上悪くはならないほどの最低の状態に突っ込んでいるにもかかわらず、開票結果は保守勢力の現状維持に止まるという想像を絶する馬鹿げた落ち着き方になってしまうからである。
 こうした類の空しさが重なっていくと、いろいろと考え直さなければならない点が浮かんでくる。結論から言えば、「庶民性善説」とでも言うような、生活者たる庶民の判断は正しい、とどこかで期待過剰に思い込むそんな姿勢の見直しである。とかく、世の中が悪い原因は、金権体質で権力志向の政治家や、保身主義の官僚たちだと睨み、そのうちに悪いのは彼らだけなのだと短絡してしまうことになったりする。

 確かに、概ねそう言って間違いではなかろう。しかし、果たしてそれだけなのかについては、冷静に見つめられてもいいはずだ。たとえば、夫婦仲が悪い家庭の問題は、概ねダンナの不始末に起因するところが大であると即断してまずまず当たっていたりはする。しかし、「破鍋(われなべ)に綴蓋(とじぶた)」のたとえもあるように、「対(つい)」となったもの同士の関係で一方が極端に悪くて、他方が極端に人が良いというような異なり方というのは、逆に想像しにくいのではなかろうか。
 つまり、旧態依然とした政治状況が問題だとするならば、少なくとも「民主主義」体制の国であれば、政治家たちの問題とともに、有権者たる国民や市民の問題も同様に取り上げられて然るべきだということなのである。言ってみれば、悪い政治家たちを野放しにしているのは、誰あろう有権者たちだからである。
 地域によっては、相変わらず「ゲンナマ(現生=現金)」が飛び交ってもいるらしい。ゲンナマをばら撒くベンダー(?)がいるだけではなく、それを受け取るカスタマー(?)もいるということなのである。また、政治家たちが利権を漁るとするならば、その「おこぼれ」にあずかろうと群がる、投票用紙をくわえた小魚もいるということでもある。こうしたとんでもない「綴蓋(とじぶた)」の存在に目をつぶり、「破鍋(われなべ)」だけを敵視したところで、「破鍋(われなべ)」の根絶には至らないのではあるまいか。

 懸念するのは、そうした常識外の話だけではない。政治家とは、「ウソも百回つけば、ホントの話になる」という処世術、戦術を信じて疑わない人種である。庶民は騙されないように判断しなければならないのである。賢くなければならないのである。
 以前にも書いたが、インターネットが普及する時代は、「ニセ情報」が悪意によって広がる時代でもある。米国では、こうした「ヘイト・サイト」を見破る教育・訓練が、日常的になされているというのだが、もっともなことだと思う。
 要するに、有権者たちは、敵が巧妙となればなるほどに聡明さを身につけていかなければならないはずなのだ。そうしたことは、一体どこでどう身につけるのであろうか?

 ところで、一時期、「小学校校舎の建て替え問題」で町長リコールが達成してしまった町があった。ところが、今回の選挙で同元町長がリコール派の候補に55票差で返り咲いたというのである。これもまた民意には違いない。
 しかし、票の内訳を覗くなら、リコール派が二人の候補を立てており、それらを合計したならば、リコールした元町長の返り咲きを阻止できる票数だったのだという。いかに、現状を変革しようとする側に、杜撰(ずさん)な計算能力しかなかったものかとあきれたものである。
 国政レベルでも、現政権に代わるはずの野党側の足並みの乱れの問題は、周知の事実となっている。

 政治に限らずあらゆる領域がこんなふうであるのかもしれない。現状が問題であることは誰もが痛いほどに知っている。にもかかわらずである。言ってもしょうがないことのようだが、庶民にせよ、変革勢力にせよ、現状を問題視して憂える側に、鋭い洞察力や、組織力(=共闘する力)が圧倒的に不足しているのが悔やまれる。これが現状の地獄を長引かせているとしか言いようがないのが残念でならないのだ…… (2003.04.28)

2003/04/29/ (火)  さわやかな新緑の光景を傍らに眺めながらキーを叩くつもりが……

 あまりにも良い陽気なので、パソコンを戸外に持ち出してこの日誌を書いてみようと思った。新緑の木々を眺めながらの思索も悪くはないと安直に想像したのだった。
 道具立ては揃えてあった。ノートパソコンのバッテリーが不調のため、クルマのシガーライター電源から100Vに変換する小道具も用意してあった。あとは、気分が洗われるような新緑の光景を探すことだけだ。もちろん、駐車が可能な場所でなければならない。何となくこの課題が難しいような予感がしていた。ただでさえ町田近辺は、休日となるとクルマがごった返す。ウイークデイにはガレージで眠らされていたクルマたちが、まるで週一回の犬の散歩のように街角へ繰り出してくる。その混み合い方がいやで、休日にクルマで外出することはできるだけ自粛する構えをとってきたくらいだ。まして、今日は誰もが「目に青葉」の光景に期待をかけても不思議ではないそんな天候である。気分を滅入らせることにかけては申し分ない昨今のご時世なら、多くの人がさわやかな新緑の木々のそよぎを愛でてリフレッシュしたいと思うものだろう。
 助手席にノートパソコンを座らせ、さっそく自宅を飛び出した。街路樹といわず家々の庭木といわず、まさに新緑がまぶしく目に映える。新しく芽生えた柔らかい黄緑色の葉の群が、燦燦と降り注ぐ春の陽とそよ風を受け生命感に溢れていた。さあて、どんな手頃な場所が見つけられるかな、と幾分心が躍った。

 が、間もなく気分が沈み始めた。こんなはずはないといぶかしく思いながらも、実際は道に迷い始めたのだ。一箇所、薬師池公園の小高い丘の裏手当たりの場所はどうだろうかと思い描いてはいた。しかし、クルマで行くのはかれこれ一年ぶりとなっていたはずである。道順が鮮明には思い出せないままに、適当にクルマを走らせていたからだ。加えて、新しい道路だの、新増設の区画だのがやたらに増えてしまっていて、見当がつけにくくなっていた。さらに、一車線しかない入り組んだ道に入り込み、対向車を避けたり、気をつかったりしているうちに、どこを走っているのかが不明になってしまったのだ。いやな予感が増幅されてきた。また、ここまで苦労して敢行することだったのだろうか、という何やら後悔めいた気分にもなってしまった。

 ようやくお目当ての場所にたどり着くことができたものの、何と駐車するスペースはもはやなかった。カメラでも何度も挑んだことのあるマイ・フェーバリット・スポットを眺めながら、キーを叩くのだという願望は無残にも潰(つい)えてしまった。恨めしい気持ちで、谷間の畑に菜の花がひしめいて咲くその光景をデジカメに収めて、その場を去ることとした。
 さてさて、掘り出し物のような新スポットはないものかと、イージーに心当たりの方向へとクルマを向かわせた。と、鶴川街道に入ってしまい、これだけはいやだと懸念していた渋滞に遭遇してしまった。やれやれ、と思わずため息がもれた。
 よせばよかったのかなあ、と悔やみながら顔を曇らせていたその時、前方で目にしたものは、交通整理をしている警官たちの姿だった。ますます悪い予感が込み上げてきた。脇に立てかけてある看板を見ると「武相マラソンコースにつき……」とあった。こりゃ最悪のエリアに紛れ込んでしまったと、自分のツキの無さを恨むがもう遅い。身動きのとれない長い渋滞を抜けた時、「町田所払い」の措置をくらったように多摩方面の知らない場所に追いやられたことを知った。

 そして今、これをしたためているクルマが止まっている場所はと言えば、一応新緑の林が四方に見えてはいるものの、特にここでなければならないというほどの感激が与えられるところなどでは全然ない。公共施設のような、何の取り得もないだだっ広い青空駐車場の片隅である。渋滞から抜けてUターンした時に、このまま帰途につくのはあまりにもみじめだと感じ、無駄な抵抗のように飛び込んだ場所なだけである。思いつきで事を始めてうまくゆくほどに、世の中は甘くないものなんだと、知らしめられ、あたかもどうでもいいことで説教されたような間尺に合わない気分を抱え込んでしまった…… (2003.04.29)

2003/04/30/ (水)  「白装束」事件に端を発して「妄想」について考える!

 ただでさえ着るものにはこだわらない者にとって、ウォーキングの際に何を着るかなど、論外的な問題である。ただ、機能的な点には注意を払う。
 これまで、多少の裏地がついたウィンド・ブレーカーの上下を着続けてきた。しかし、陽気がよくなってきたため暑苦しさを感じ始めるようになった。しかも、ウェアの色はブラックときている。新緑と明るい陽気の中で、黒尽くめの出で立ちはさすがに不自然だとの謗りをまぬがれない。家人などからも、「もっと明るい色のものにしたら?」と言われたりしていた。
 そこで、買ったのが今度はホワイト一色のウィンド・ブレーカー上下だ。ブランド名や若干のラインなどが施してはあるものの、まさに昨今報道番組などで顰蹙(ひんしゅく)を買っている「白装束」なのである。今朝も、登校中の女子高校生たちとすれ違った際、彼女らのうちからクスクス笑いが聞こえたものだった。
「ひょっとして、今の人、あの『白装束』のメンバーだったりして……」
とでもつぶやいていたのかもしれない。

 その、お騒がせ『白装束』グループの話が、北朝鮮核問題と並んでマスメディアによる恰好(かっこう)のターゲットとされているようだ。確かに、かつてのオウム事件で「衝撃と恐怖!」の感情の地ならしを済ましている庶民にとっては、彼らに異様な「気味悪さ」を感ぜずにはいられないものがあると思われる。
 それを商売とするマスメディアのように詳細に立ち入るつもりはない。「電磁波」による攻撃だの、「第十惑星」の接近による被害だのという荒唐無稽な彼らの主張、信念をもって、とりあえずカルト集団だと了解しておきたい。
 今のところ、「公道」や山林を占拠するような法的逸脱に留まっているようであり、かつてのオウムのような無差別殺人集団ではないことが救いではある。しかし、ここで注目したい事実は、オカルト集団がいつも大体そうであるように、「妄想」によって結集した集団だという点である。だから潰せ、というのではなく、そうした社会現象が起こり易くなっている現代という時代の特殊性に目を向けておきたいのである。

 いつの時代にも、エクセントリックな言動をして世人を驚かせる者は絶えない。いや、そう言ってしまえば、「ああ、いやだいやだ」とでもつぶやいてここで話は終わってしまうことになる。確かに、現象的には同一のようにも見えるのだが、どうも現在のエクセントリックな言動に駆動力を与えている「妄想」は、かつてのその類似物とは異なるのではないかと推測しているのである。
 懸念していることを、舌足らずになることを恐れずに先に言うならば、かつてのエクセントリックな言動が駆動力を得ていたはずの「妄想」は、まずごく例外的な個人(異常体験者など)が抱くものであり、あるいは何らかの内面的な葛藤を通して抱かれるに至ったのではないかと考えている。
 しかし、現在の「妄想」は、さして通常人と変わらない者が、とりたてた内面的葛藤などを通過せずして、さほどの抵抗感もなく抱かれ、そして結果的には世間を騒がせるとんでもないエクセントリックな言動に、「走る」ではなく、滑り込んでしまうようだ。
 これは、オウム事件の際に、若い「高学歴」者たちが、呪わしくも巧みな「グル」によって、見事に「洗脳」されてしまった経緯を思い出せばわかり易い。

 ところで今、「洗脳」という言葉を使ったのだが、むしろ実情はそんな言葉で説明されるようなものではなかったような気がしている。「洗脳」とは、洗濯がそうであるように、さまざまなヨゴレ(汚れ)が付着していてこそ意味を持つ言葉ではないのだろうか。つまり、脳の中に、さまざまな生活体験の結果「棲みつく」こととなってしまった思想やその片鱗、あるいは世間の常識、さらには社会や歴史に関する常識的知識などなどが、あたかも真っ白な白紙を染めるヨゴレのように存在していてこそ、「洗脳」と呼ばれる、一旦は白紙化し、加えて全面着色、染色するというアクションが意味を持つものではないだろうか。
 オウム事件の若い「高学歴」者たちが被ったと言われた「洗脳」とは、実は、何らかの「主義者」が「転向」させられるようなものなどでは決してなかったと想像している。むしろ、わかり易く言うならば、白無垢(しろむく)の花嫁が、花婿(あのひげ面の「グル」をこう呼ぶのは大いに抵抗があるが……)によって、染め上げられたのだと推測する方が妥当だと考えている。
 要するに、「高学歴」者たちは、知識のうちでごくごく狭い分野でしかない受験知識には長けていたかもしれないが、あまりにも脳にヨゴレがなさ過ぎたのではなかろうか。少なくとも、食いつぶした中年男たちのこすっからさや、仏教の前提知識くらいはあってもよかったはずなのだ。

 そこでなのだが、ここで注意を向けるべきは、その「高学歴」者たちは決して現代の「例外的な個人(異常体験者など)」などではなかったようだという点なのである。(「グル」にはそうした面があったのかもしれないが、とうとう裁判でもその点は明らかにされなかったようだ。)
 つまり、この点が物語るのことは、現在の、とりわけ若い世代たちには「妄想」への免疫性が乏しいのではないか、という事実である。別な表現をするならば、一方で、脳のヨゴレとも言うべき思想などの片鱗もなく(脱思想!)、また他方で、バーチャルな情報への過剰なほどの慣れ(「ウッソー!」とは若い世代の常套句であるが、考えてみるにそういう言葉を常時発するほどに、彼らは「虚構空間」に馴染んでしまっているということなのではないかと考えたことがあった……)があるのではないかと推測している。

 今のところ、人々に「危害を加える」ような妄動は起こしていない「白装束」のグループではあるが、おそらくは「妄想」を信じ込んでいることだけは事実のようだ。しかし、この「妄想」を解くことは至難の業であろうと思う。また、考えようによっては、別の数々の「妄想」によって人々の脳が浸されていると言えないこともないような気がしている。とにかく、現代は「脱思想!」の風潮、傾向が極大化したノッペリとした時代なのであり、人々の脳内は、極度に影響力を受け易い「白紙」もしくは「真空」の状態にあると思われてならない。
 「白装束」グループを報じているマスメディアや、それをウォッチしている視聴者たちは、自分たちは「妄想」など決して抱いていないという根拠のない「妄想」を抱いているに違いない。が、果たしてそうなのだろうか。少なくともそう疑ってかかる場合にのみ、「妄想」から解き放たれると言えるのではないか…… (2003.04.30)