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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年08月の日誌 ‥‥‥‥

2003/08/01/ (金)  付帯事項付きであるはずの「専門的」情報が一人歩きするボーダレス時代!
2003/08/02/ (土)  「刹那的・衝動的」vs.「一貫性・体系的」?
2003/08/03/ (日)  クルマのウインカーは反対側にも積極的な意思表示を!
2003/08/04/ (月)  リストラは上手でも、「整理」の下手な日本人?
2003/08/05/ (火)  「記憶」は単なる再現された事実か、創造的事実なのか?
2003/08/06/ (水)  身体の「記憶」に頼り、脳を使わない生活の陥穽!
2003/08/07/ (木)  「記憶」や「思考」とアナログ的な感覚経験との関係
2003/08/08/ (金)  現状の「合併症」に引き込んだ結果責任こそ問われてよい!
2003/08/09/ (土)  「知らぬが仏」ではあらしめない「情報(化)社会」!?
2003/08/10/ (日)  日差しも鋭く影も濃い夏の朝に思うこと……
2003/08/11/ (月)  個性を支持する「神経細胞群淘汰説」と、「新」階級社会へ驀進する「淘汰」!
2003/08/12/ (火)  視覚情報依存のニーズに応える携帯電話?
2003/08/13/ (水)  「念おこる、これ病なり、継がざる、これ薬なり」?
2003/08/14/ (木)  「敵からつけこまれる隙」をガードするのは当然の時代!
2003/08/15/ (金)  「調整役、仲介人」は「束ね役」よりも「ビジョン提示」を!
2003/08/16/ (土)  どうでもいいんだけど、ツルツル、すべすべ、テカテカの顔!
2003/08/17/ (日)  焼けるソースの匂いに包まれたい「昭和三十年代」人間!
2003/08/18/ (月)  「オート・フォーカス」時代に喪失するもの!?
2003/08/19/ (火)  「意を込めて何かを企図すること」が「自信」の大前提!
2003/08/20/ (水)  「工数単価は下落傾向で推移する」ソフト業界!
2003/08/21/ (木)  割愛された夏の日、観音堂で鳴くセミが語った!?
2003/08/22/ (金)  「渓流釣りの原則は、荒らされた下流から、ゆっくりと上流へと歩を進めることだ」
2003/08/23/ (土)  再び、あの「元気な口調」のおばあさん!
2003/08/24/ (日)  「デカイ」パースペクティブでないと現象が読み解けない?!
2003/08/25/ (月)  「バカの壁」で構成される「出口探し迷路」のゲーム世界?
2003/08/26/ (火)  現代人の生きる力を殺いでいる環境!
2003/08/27/ (水)  「友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気、四分の熱」
2003/08/28/ (木)  現代の最大といってもいい課題は、「動機づけ」「ユーズウェア」である!
2003/08/29/ (金)  「バカの壁」を打ち破るような「インストラクション」技術!
2003/08/30/ (土)  「情報ビジネス」雑感 …… 人間同士の情報交換としてのインストラクション!
2003/08/31/ (日)  だからどうだということもないが、千五百キロを歩いたことになる!






 新しいビジネスのあり方についての関心が頭から離れない昨今だ。それほどに、従来型のビジネスが精彩をうしない始めているということでもある。効率化によってコストダウンを図らざるを得ない一方、新規テーマやジャンルを模索しなければ先がない、というのが大方の現況に違いない。

 ところで一見、現代という時代は、他分野、他業種への「新規参入」がたやすいかのような雰囲気がある。これまでその種の関係者でしか入手できなかった「専門的」情報などが、垣根の外の一般人にも入手できるような情報の公開がそれなりに進展してしまったからである。
 マスメディアなどが、従来、一般人の視野には入らなかった領域の情報を、興味本位も含めて流布させるようにもなった。あるいは、「一日体験」とかいって、興味を抱く門外漢を受け容れてさわりを体験させるような商売さえ登場しているようである。
 これらのような従来の専門領域に関する情報が、門外漢の手に届くような環境はいたるところで見出せそうだ。これも、現代の特徴のひとつと言われる「ボーダレス」傾向だと言えるのかもしれない。

 「ボーダレス」環境によって特殊情報、専門情報が一般化すること自体は悪いことではないはずだ。現に、ビジネスでは新しい可能性を秘めたニューフェイスが「新規参入」しやすい状況を作り出したと言えるからである。ビジネス領域によっては、伝統と言えば聞こえはいいが、蛸壺化した環境で、従来からの悪癖が発展を阻害している場合だってありそうだからである。そんな領域へ、新たな挑戦心と構想を持った企業が参入することは決して悪いことだとは思われない。

 ただ、くれぐれも注意を要する点がありそうだとも思われる。
 大体、広く一般化される情報というものは、それだけの浅さの内容のものなのではなかろうか。たとえば、「知識」というものを、容易に伝えることが可能な「形式知」と、経験や特殊な文脈と絡んだ「暗黙知」とに分ける考え方があるが、活字情報などのように広く一般化される情報というものは、いわば「形式情報」だと言えるのかもしれない。
 そして、波風に富み、山あり谷ありの問題が多いビジネスにおいては、到底「形式情報」レベルの情報だけで事足りるはずはないだろう。苦節何十年とは言わないまでも、じっくり腰を据えて試行錯誤してきた経験と、そこから芽生えた「暗黙知」のような「暗黙情報」こそが強い味方となるのではないだろうか。
 が、そうした「暗黙情報」こそは、当該の特殊専門領域関与者から離れて一般人や門外漢に伝わることはまずないと思われる。この点をこそ軽視してはならないと思うのである。つまり、「形式情報」が得られたからといって、それで他分野、他業種への「新規参入」が可能だと考えるのはあまりにも早とちりに過ぎるということなのである。
 まさか、そうしたことをイージーに敢行している経営者はいないとは思われるが、これと似たようなことは頻発していそうだ。

 今、書店に行けば、PC関係の書籍は山のように見受けられる。そして、「いきなりやれる……」とか、「あなたも今すぐに……」とか、門外漢を当該対象にイージーにチャレンジさせようとする触込みの本も多い。また、素人ほど、知らないがゆえに怖いもの知らずであったりする。そして、この組み合わせの中から「予想外の悲劇」が発生したりする場合もある。以前、PCの組み立て教室などをやっていた時にも、無謀なお客さんはいたものだったし、そこで引き起こされたハプニングにも警戒しなければならなかった。

 さまざまな情報が、それぞれ垣根を持っていた特殊な領域から、日常生活の一般的なフィールドに見境なく流れ込むのが「ボーダレス」社会の情報環境である。それは「情報公開」とも表現され拒むことではないのだが、問題は、それらをしっかりと吟味して、ふさわしい活用をすることが重要なのだろう。
 しかし、現状は、ビジネスやPCなどの技術に関した領域のみならず、さまざまな領域で、表面的な情報が一人歩きするがゆえのハプニングが発生しているかのようである。かつては、玄人筋が多くの経験を踏まえて、その危険も熟知した上で、つまりそれなりの付帯事項を付けて、あたかも隠語を使うようにして口にしていたような情報が、何の経験も前提知識もない一般的門外漢にイージーに流れ出し、わかったような気分とさせた上に、そしてアブナイ行動を誘う、という構図が気になってしょうがないのである。
 昨今多発しているかに見える「青少年の犯罪」「素人(?)っぽい犯罪」も、どうもこの文脈で考えてみる必要が大いにありそうだと感じているのだが…… (2003.08.01)


 ようやく夏らしい明るさと暑さになってきた。昨夜もこの蒸し暑さで寝付かれずに困った。これから先、ひと月以上こうした天候が続くかと思うとげんなりする。
 ウォーキングから戻り、途中の自販機で求めた清涼飲料水を庭で飲んでいたら、隣の家の小さな女の子の声が聞こえてきた。夏休みで朝からご機嫌といった声だった。
「ハイ、一万三千八百円のお返しです。ありがとうございましたー」
と、お店やさんごっこでもやっているのだろうか。
 それにしても、お釣りの額がちょっと変じゃないか? いくら受け取ったんだい? と言ってやりたかったが、まあ雰囲気をエンジョイしている「ごっこ」だからいいのか……。
 しばしば、お店の店員のまねをする声が聞こえてきたりするところをみると、母親と一緒に買い物に行って見るスーパーなどの店員さんたちが何となくいいなあ、と思っているのだろうか。子どもっていうのは、どこに目をつけて何を考えているのかと、ふと思ったものだ。
 そう言えば、息子が小さかった頃、よく言っていたことを思い出す。
「おもちゃ屋さんになりたい。どうしてかっていうと、いろいろなおもちゃが試してみれるから」
 当時は、「5レンジャー」とか、「機動戦士ガンダム」とかのロボットのおもちゃを手放さなかった頃のことだから、何とも目先だけの発想であったのだ。

 ラジオで、視聴者からのおもしろい便りを紹介していた。
 仕事から帰宅すると、くつろいで「じんべ」姿となり散歩をする年配者なんだそうだ。ある夕べ、いつものように散歩に出かけたら、近所の小さな女の子が近づいてきて率直に言ったという。
「そんなのしか着るものがないの? ほかには何もないの?」
って。決して、いやみでないことはわかっていても、取り付く島がなかったそうだ。
 その女の子にしても、素直に、思いっきりそう思ったのに違いない。「じんべ」という見慣れない、浴衣でもないペラペラとした中途半端な恰好は、直感的にみっともないと感じたのであろう。自分がいつも母親から注意されているように、これは一言注意すべしと思ったのであろうか……

 子どもたちはみな、その場その場で瞬間的に生きているのかもしれない。大人たちが、あたかも一貫性があるごとき考えや、「主義」やなんぞに、無理をしてその時その時の自分を押し込んでいるのに対して、子どもたちは、その時その時に突然訪れる正直な感覚で自分の行動を処しているようだ。
 自分自身を振り返ってみても、幼い頃に何を考えていたかはほとんど思い出せないでいる。幼い頃の自分を知る者から、あの時ああだったとか、こうだったとかと聞かされても、まるで他人事のように聞こえてしまったりする。
 たぶんそれは、現在の型にはまった、無理やり継続性、一貫性を持たせようとしている大人の「思考」とは、まったく異質の脳活動が、子どもの大きな特徴であったからではないのかと思ったりするのだ。
 「衝動的な……」とか、「刹那的な……」とかと言って幼いものたちのあぶなさを指摘するのも一理はあるが、かといって、「体系的な」「一貫性のある」「マンネリ気味の」硬直した思考と行動様式はもっと問題なのかもしれないと…… (2003.08.02)


 ひとから「アイディア・マン」と呼ばれたこともある自分なのに、特許はおろか実用新案のひとつさえ取得していないのは何たることかと、ふと考えたりした。
 現代は「知」の時代であるとともに、下世話に言えば「薄利多売」の時代でもある。手間のかかる一品ものを丹念に仕上げて高額で商えればそれもよしだが、先ず高額というのは高が知れていよう。
 となれば、可能であればの話だが、大量販売によって「ちりも積もれば山となる」式の胸算用しかないことになる。それに現代は、これもまた可能であればの話だが、宣伝広告にせよ販売にせよ低コストのチャンネル探しには事欠かないはずである。「知」や「アイディア」をとことんその気になって駆動させるべし、と……。

 「アイディア」を生み出す極意はひとつしかないと思っている。瞬間に閃いたものを随時見逃さないことだ。これを繰り返して、脳を習慣づけてしまうことだ。
 たぶん、あらゆる能力の養成のコツは、瞬時に現れては消え、再現しにくい一過性の能力の萌芽をしっかりとキャッチして、それを意識的に繰り返して制御していくことに違いない。
 先日、子どもが始めて自転車乗りを覚える様子をテレビ番組でやっていたが、振り返ればまさしく自転車乗りをマスターするのも、瞬間に現れた感覚をキャッチしてそれを意図的に制御することだと言えそうに思えた。
 そもそも、教育とは、子どもたちなどに潜在している波のはざ間にチラリと現れては消えるような何がしかの能力の鼻先をつまんで引っ張り出してやることだったはずだ。それを自覚させ継続させる訓練はそれからの手順なのだ。
 自分もこれまでに、何度も「アイディア・ノート」なるものを作ったりした。が、続かなかった。「アイディア」が頻発する脳のチャンネルをうまく形成するには至らなかったようだ。しかし、今からでも遅くはないと思っている。こんな不安定な時代であるのだから、まともなことで「稼げる」手立てはあったに越したことはないのだから。

 それで、「アイディア」を閃かせるための第二の方策はといえば、「トラブル歓迎!」に尽きる。生活の場や職場で、とにかく「困っていること」から目を逸らさずに「困った環境」を凝視し、その「困った構造」を、困った顔をしないで(ここが難しい!)「検死役」のように涼しい顔をしながら分析しなければならないだろう。
 おそらく、この世に「アイディア」というものが生まれにくい、あるいは難産となってしまう原因はといえば、人は「検死役」となることを避けたがるからではないか。トラブルの現場からは距離をおいて、上品な気分でいたいと望むからではなかろうか。息詰まる気分に満ちた「プロジェクトX」の現場なんぞにいたくないという安直さが、「アイディア」誕生を阻害しているに違いなかろう。しかし、ただでさえうっとうしいこの時期に、「トラブル歓迎!」的に現実に臨むのも骨の折れることではありそうだ……

 これは、カネにはなりそうもないとは思っているひとつの着眼がある。
 クルマに乗っていて交差点で右折待ちの時に気づいたことなのだが、対向車の列を注視していて、直進してくるクルマと、左折のウインカーを出しているクルマとの識別の問題なのである。
 左折のウインカーを出しているクルマがあれば、それに乗じてこちらの右折は可能となる。ところが、対向車の先頭を除きその後のクルマが仮に左折のウインカーを出していたとしても、それを確認することはできない。先頭のクルマの陰になってしまい見えないからだ。
 つまり、左折のウインカーを出していても、もちろん右側のウインカーは消えているため、両方消えているのと同じ意思表示と見えてしまうのである。わたしは、これは「論理設定」の誤謬ではないかといつも考えてしまうのだ。
 これと同様のパターンとしては、バイクのウインカーもそうなのである。バイクは車幅が狭いため、左右のどちらかが点滅しても、遠くから見ればそれが判然としないと言えるのではなかろうか。
 では、どうすべきなのか?
 思うに、左右のウインカーは一個一個で役割を果たしているのではなく、両方が一対となって役割を果たしているはずである。つまり、一方が点灯して他方が消灯しているのが「同時にわかる」からメッセージが成立するはずなのである。しかし、場合によっては、片方しか見えない場合、環境もありうる。その時でさえ、メッセージは成立しなければならない。両側が一度に点灯することはないにしても、両側が消灯していて直進のメッセージを出していることと、見えない反対側がどうなっているかを区別することができてこそ「論理設定」は正しいと言えるように思うのだ。
 だから、どちらかが点灯した場合、反対側は消灯しているだけでは足らず、消灯していることを積極的に示す必要があることになる。どうするのか? 点灯する以外にないだろう、「否定を表す色」のランプによって! たとえば、左折車は左側のウインカーは従来どおりの「黄色」ランプを点滅させるが、その時同時に右側のウインカーは「青」なり、「緑」なりのランプがつきっ放しとなる(点滅すると紛らわしくなってしまう)、という具合である。右側へは曲がらず安全で、左折するんだよ、と表示するのである。こうすれば、そのウインカー・ランプしか見えない場合でも、直進ではなく左折なのだというメッセージが成立するからいいのではなかろうか。
 交通法規に関わる問題なので特許をとることもままならず、交差点待ちをしているといつもこのことに意識が向かい、ただただ苦々しくハンドルを握っているのである…… (2003.08.03)


 「整理して活用ではなく、『整理=活用』に」(齋藤孝)というのが正解だろうと思う。情報の整理・活用の話であるが、とかく氾濫するほどの情報を前にして、収集はするもののその「整理・活用」がままならないのが実情だ。
 思い切って「整理」をしたりもする。ところが、整頓はされても、今度は期待したほどの活用につながらなかったりする実情も出てくる。

 自宅の書斎も事務所の部屋も、書籍が溢れ返ってしまっている。「整理」しなければ、本格的な活用どころか、念頭に置いた本がどこへいったか見当たらずイライラさせられたりすることもある。
 なぜこまめに整理しないかと屁理屈を言ってみるならば、「整理」とは、何らかの視点(viewpoint)によってなされるものであり、その視点は随時変化にさらされており、またすぐに「再・整理」が必要となってしまう、と考えるからかもしれない。あまりにもきちんと整頓されていると、あたかも脳や心の中までがスタティック(静的)に落ち着いているようなニュアンスが生じてしまい、リアルではなくなるのがよくない、と。
 とはいっても、ものには程度というものがあり、いくらなんでも現状の散乱ぶりはなんとかしなければならないはずだろう。

 「整理」といえば、現在の社会生活上のさまざまな概念や観念、考え方や感じ方などは、まさに「交通整理」が必要だと思われるほどに入り乱れて散乱状態にあるかに見えてしまう。ただ、翻って考えてみるに、いやそうではなくて、外界の環境はそれなりに整然としているのだけれども、それらを受けとめる自分の頭の中こそが秩序に欠けるのだ、と思うことも成り立たないわけではない。しかし、もしそうだとしたら、そして、自分のような人間が稀有ではなくて一般的だとするならば、そんな人間たちが構成している社会は、やっぱり整然としているわけがなかろうと想像してしまうのだ。

 何も、多様化に多様化を重ねたような現象が悪くて、北朝鮮が自慢する一糸乱れぬ「マスゲーム」のような状況をこそ思い描いているわけでは毛頭ない。
 気になることは、人々が抱くさまざまな概念や観念、考え方や感じ方などにおいて、いま少しすっきりしないものかと考えるのだ。たとえば部屋の中に散乱した書籍状態を例にいえば、当然、「捨てていいもの」と「そうでないもの」が仕分けられればありがたいと願うはずだが、そんな風に、どう考えてももはや「アクティブ(現実的)」ではない、「捨てた方がいい」と見なさざるを得ない観念や概念は、禁止するのではなく、しっかりとした定評ができないものかと思うのだ。

 もちろん、思想統制の方向を望んでいるのではなく、まったく逆に、民衆による周知の事実! というようなかたち、つまり文化として成立しえないものかと思うのである。いや、なぜそういうものが成立しえないのかと疑問に思ってしまう。
 いま、まるで「ゾンビ」のように戦争を許すかのような風潮が広がりつつある。「リアル・ポリティックス(現実政治)」からすれば、「戦争放棄」などは観念論だと厚顔にも主張する訳知り人間もいる。
 何はさておき「戦争は反対!」と言い切れないような優柔不断さは、物事をきちんと「整理」しなかった、あるいはできない日本人のいいかげんさからきているのであろうか。それとも、「反戦」の願いこそがアナクロニズム(時代錯誤)となるほどに、日本は「立派な発展」を遂げてしまったのだろうか? 冗談じゃない!…… (2003.08.04)


 学生の頃、E・H・カーの『歴史とは何か』を読み感動した覚えがある。過去の歴史とは、誰の記憶によっても一様な、まるで凍結された事実でなどではなく、現在と未来に挑む人間の思考スタンスによって立ち現れ方が異なってくる、というような趣旨が画期的だと思えたのだった。
 現在の眼前の事実ですら一様な認識が得られにくい世界にあって、過去の歴史だけが客観的、静的に凍結するという一般論が腑に落ちなかったためである。また、とかく現在の世の中から「降り」てしまったかのような無気力な歴史学者が、歴史学ならそれでも務まると見なしていそうな、「なめた」姿勢が腹立たしかったからだとも言える。

 過去の歴史についての考え方と、人の「記憶」についての考え方とはアナロジカルに扱っていいものだと思っている。人の「記憶」もまた、ハードディスクに記録したデータのように、固定して保存され、検索されるようなものではなく、思い起こすごとに異なりうる性格のものではないかという気がしてならないのである。
 言ってみれば、それはちょうど現時点、現在での知覚や認識が、現在における自身の生理的、心理的、精神的状況に左右されてしまうこととほぼ同じではないかと類推してきたのである。極度の疲労時には幻視、幻聴が発生するくらいだから、想起される記憶だけが、現時点の自身の状態に左右されずに「客観的」だと見なすのは、やはり無理があると思えるからなのである。
 自身の記憶については、あれこれと批評することは難しい。だが、過去をともにした知人、友人が「記憶」の何事かを語るのを聞かされる時、「へぇー」と驚かされることも時々あったりする。同じ事実を指すと思われることを、かなり異なったふうに「記憶」されていることがわかったりするからである。「そういう側面を受けとめていたのか」という視点の違いでは済まされない、事実誤認的な記憶(これは、彼らがそうなのか、自身がそうなのか判別しがたいが)となっていることもあったりするのである。

 「記憶」については一度じっくりと考察しておく必要があると考えてきたが、おもしろそうな著作に遭遇したので、またテーマが増えてしまった。とりあえず、以下、その著作のさわりを記載しておくことにする。

「この本は、……人間の創造的活動の現場からアプローチする試みだ。おそらく記憶という現象を、創造的な側面から眺める見方は、まだ一般的ではないだろう。過去の記憶は、ちょうどコンピュータのメモリがそうであるように、脳のどこかに貯蔵され、必要に応じて呼び出されると普通は考えられている。すると物忘れという現象は、なんらかの原因で記憶の貯蔵庫に到達できないと考えられる。いずれにしても、記憶がコード化されたイメージとしてどこかに存在しているというのが常識的な見方だろう。
 この通念に対して、本書はそのような記憶は存在しないという立場をとっている。常識的な記憶の見方を『記憶の存在論』と呼ぶならば、本書が試みるのは『記憶の生成論』になる。人間の記憶は、文字や数字や信号のように書き込まれて保存されている記録ではなく、われわれが生きているすべての瞬間に、刻々と変化しながら現出するものではないか。記憶は刻印の集積ではなく、ひとつの動的なシステムではないか。
 創造とは、ある形態の現出に関わる行為である。その形態は生きているすべての瞬間に、絶えず変化している。なるほど記憶を存在ではなく生成においてとらえる考え方は、一般的には目立たないかもしれない。だが芸術的な創造の世界では、記憶の動的性格をさまざまな表現活動のなかに認めることができる。マルセル・プルーストはすでに、一杯の紅茶茶碗のなかから、記憶の大伽藍が出現する様子を描いていた。本書が人間の創造行為、特に芸術的な造型活動を話題の中心に据えるのは、記憶の動的な性格を明らかにしたいからにほかならない」(港 千尋『記憶 「創造」と「想起」の力』、1996年、講談社)

 「記憶」を、過去の事実の単純な再現と見るのか、この筆者のように創造的行為と見るのかの違いが持つ意味はかなり大きいと思われる。受験教育大国の日本では、もちろん前者が優勢のようだが、そのことと、創造性が乏しいと評されることとがひょっとしたら何かの関連があるのかもしれない。創造性とは、「記憶」された事実の組み合わせだと言われるのだが、「記憶」された事実を単なる素材と見なさず、それ自体に、創造性の萌芽が潜んでいると見るならば、だいぶ創造性の論議も異なったものとなっていくのかもしれないと予感する…… (2003.08.05)


 毎朝、出掛け直前に身支度をする。当然のことである。いよいよ暑くなってきたために、身支度はさっさと済ませて早くクルマのクーラーからの冷風を浴びたいと思ってしまう。朝は部屋のクーラーをかけていないからだ。そんな時、ネクタイを結ぶのがおっくうとなり、冷風を浴びながらあとで結ぼうと横着を決め込むことも時にはある。
 ところで、ネクタイを結ぶ時には、何も考えてはいない。ほかのことをではなく、ネクタイの結び方の手順についてである。不思議といえば不思議なことで、手順を意識したことは、ないといえばない。むしろ、逆に意識し始めると不安に襲われてしまうことさえある。結び方の手順を忘れたら思い出せるであろうか? いやまて、今の手順は覚えがないぞ…… などと意識し始めると、脳と手の動きとの連携がバランスを崩してぎくしゃくしてくるような気がするのだ。
 要するに、ネクタイの結び手順は、どうも手の動作神経が「記憶」しているようである。脳の意識を司る部分ではないように思われる。こんなことは、あるのかといぶかしげに振り返ってしまうが、何ということはない、日常生活での身体の動きのほとんどは「オートマチック」の「バカチョン」方式になっているではないか。
 タバコを吸う行為。どう振り返っても、さあ、タバコを箱から一本出すんだぞ、そしたら口まで持ってゆく、そのあとライターを右手にとって、ジッポーの蓋を親指で跳ね上げ、その返しでやすりを弾き火をつける…… などと意識して実践しているわけがない。タバコを吸うか、という初期設定動機から、ハアーと一服目の煙を吐き出すまでが「完全自動」いや「ブラックボックス」となっており、その間は無いも同然の時間の流れなのである。
 それが、たとえば、自分が役者であり、四がない、だから五もない六でもない売文家の役を演じることとなったとしよう。脚本を見ると、「そこで、売文家はうつろに窓の外を眺め、タバコを吸おうとする。ただし、……」とタバコを吸う手順にいろいろと注意書きがしてあろうものならば、どうであろうか。本番時には、中学生が体育館の裏で初めてタバコを吸う時のような、そんなぎこちなさとなってしまうに違いないと思う。

 何を書こうとしているのかといえば、「記憶」のベテランは意識ではなく、身体であるということなのだ。意識を通過せずに、手足やその動作などの身体が蓄えた「記憶」の方が、はるかに信頼性が高いように思われてならない。スポーツ選手の身についたフォームなどもその好例であろうと思う。
 そもそも、歩いたり走ったり、座ったり寝転んでそして起き上がったりという動作は、いまさら言うも恥ずかしいように、みな「バカチョン」方式になっている。起動のための意思を確認しさえすればそれで事は済んでしまう。謹厳実直な下請け会社である身体が、「記憶」ファイルを手にして「じゃあ、いつものようにやっときます」という按配だ。

 事務所のあるビルは、部屋のキーを管理コーナーのキーボックスに、セキュリティ・カードを使って返すことになっている。大体自分が最終者で返すことが多いが、何回か忘れて帰宅して大騒ぎさせてしまったことがある。
 仕事を終えてビルを出る頃は、往々にして意識は仕事関係を引きずっているため、上記の返却操作は身体の「記憶」が惰性でやっていることが通常なのである。ある時など、しっかりと実施していたにもかかわらず、覚え(「記憶」)がまるでないため、クルマを止めてポケットにそのキーが残っていたりしないかと確認したこともあった。まるで、ボケ老人か夢遊病者さながらである。

 問題は何か! 歳をとるといろいろなエネルギー・ロスを惜しみ、脳と身体のパーフェクト・アクションの合理化を図ろうとするようになる。ムダな思考過程は極力省こうとする。身体という下請け会社に任せられることは極力丸投げにしようとする。それによって確かに疲れ方が減じるというメリットを享受する。
 が、この目先の合理化策こそが、しのび寄る老化を滝の流れのように急速化させているのではないか、と思うのである。言葉のど忘れをはじめとして、考えが萎縮していくのも、表情が貧弱となっていくのも、身体の「記憶」への依存、自身の意識を働かせずに身体への丸投げ行為という横着が、目先ラクのようであっても、脳の若さ、ひいては人格の若さを蝕んでいるのではないか、と…… (2003.08.06)


 甲子園の高校野球が始まった。熱射病が懸念されるほどの暑さの中で、汗をほとばしらせ闘う選手たちの姿はまぶしい。ちょっと前の自分、身体を度外視していた頃の自分ならば、まぶしいというよりも後ろめたさやいじける気分がなきにしもあらずであった。
 自分にも、高校の頃、夏休みのグランドを陸上競技で疾走したり、バスケット部で体育館の床に汗をほとばしらせていたことがあった。なのに、身体への自信に関しては、自問することすら降りてしまったかのような中年以降の自分が、つい先頃まではいたのだった。もはや、身体は病気などといった支障がない状態でありさえすればいい、という引くに引いた消極姿勢になり下がった自分がいた。
 しかし、これは大きな間違いであった。現時点では、身体のリストラクチュアリングに多少意を向けている。別に、体型がどうのという観点ではなく、言ってみれば「脳」だけが自分なのではなく、「身体」こそ欠かすことのできない自分自身なのだ。むしろ、「身体」を度外視して「脳」の活動を考えること自体がナンセンスなのであろう。

 「身体」について着目する場合、関心が向くのは「知覚」や「感覚」についてである。「情報(化)社会」、デジタル時代という環境にあって、デジタル記号を処理する脳活動が重視されていることはいまさら言うまでもない。そして、抽象的な記号処理能力こそが現代人に求められる能力だと見なされる風潮も強い。
 一体、生活の中に広がるデジタル製品は、現代人の「知覚」「感覚」諸能力にどんな影響を及ぼしているのだろうか。こうして文章作成をするにあたっても、鉛筆やペンを持ち筆圧を感じることがなくなってしまった。もちろんペンだこの痛みなども夢のまた夢である。キーを叩く動作も感覚を伴う動作であるには違いないが、やはりデジタル操作だ。
 さすがに、ペーパーの書籍はいまだ現存してはいるものの、デジタル画面に展開されたペーパーレス書籍も広がりつつある。指でページを繰る動作や、書籍のインクの匂いなどアナログならではの知覚、感覚が無しとなったかたちでの読書が、果たして従来の読書と何が同じで、何が異なるのかは一度じっくりと検証されていいことかもしれない。

 昨日、「記憶」について書いたが、その際にも、「感覚」と「記憶」の結びつきを意識せざるをえなかった。たとえば、わたしはいまだに春先の「菜の花」の香りを嗅ぐと、瞬時に小学校入学当時のこと、新しいランドセルのあの特殊な皮の匂いとか、ランドセルの中のプラスチックの筆箱とか、真新しい教科書やノートの匂いとかを複合的に思い起こしてしまうのだ。「感覚」と「記憶」とが密接に連結していると思われてならない。
 人間の「記憶」とは、動物の「条件反射」や「学習」のメカニズムの延長線上にあるのではないかと推測できるが、そうだとすれば、「知覚」「感覚」の刺激がトリガーとなっているのが「記憶」の原初形態ではなかろうかと思う。あわせて「思考」も同様だと思っている。

 やや急いだ書き方となっているが、「情報(化)社会」、デジタル時代という現代では、「記憶」や「思考」の揺りかごだともたとえることができるアナログ的な感覚経験が、圧倒的に過小評価されているような気がしてならないのである。時代環境による制約だからしかたないと言えばそれまでだが、脳のベーシックな部分が形成される幼少時に、アナログ的な感覚経験が乏しかった場合、あるいは、成人となってからも同じことが続く場合、アナログ時代の大人たちと何かが異なってくるのではないかと想像するのである。
 アナログ的な感覚経験がありさえすればそれでOKというのではなく、それらが乏しいとデジタル的な記号操作能力の可能性を押しとどめてしまう嫌いがあるのではないか、と懸念しているのである。
 われわれの世代は、アナログ経験とデジタル経験の両世界にまたがって生きてきたが、若年世代は後者の比率が圧倒する生活環境で育ってきたことになる。彼らはどんな能力発揮をするのかしないのか、はたまた、人間というアナログ存在、脳というアナログ構造が外部のデジタル環境とどこまで折り合っていけるのか…… (2003.08.07)


 社会の異常はさまざまな指標からわかるはずだろうが、犯罪の野放し状況は最も分かりやすい指標かもしれない。報道によれば、殺人などを含む最近の凶悪犯罪の検挙率は過去最低の水準に落ち込んでいるらしい。それでいて、国政を司る連中がこうした事態に何も責任を感じていない。庶民と一緒になって、物騒な時代になったものだと他人事のような顔をする。要するに、国民の安全と幸福を守り、達成しようとする意思などうかがえようがない。甲子園で始球式などやっている場合ではなく、至急! 手をつけなければならないことが山積しているはずだろう。あきれ返ってものが言えない。

 「有事」「有事」と騒ぐじゃないよ! 海の外に目を向けなくたって、すでに、足元の社会、経済、政治、文化の全領域でりっぱに「有事」といえる危機が発生しているではないか。必要なのは軍隊ではない。聡明さと良識的感性である。政治家たちに、庶民ですら持っているそれらが欠落していることが、いま通信簿となって返ってきているのだ。
 経済政策の失敗と庶民へのしわ寄せが、先ずは犯罪増加の基盤だと言い切っていい。それは、諸外国にも数々生じた歴然とした事実だ。人は生きるために生まれた。生きる最低条件まで脅かされれば、「禁じ手」にも目を向けるであろうことは、誰が想像したって頷けることだろう。
 いろいろな媒介的な事象を犯罪原因として挙げることは、それを商売とする評論家にはできるだろう。彼らの関心は、決して犯罪の未然防止なんぞではなく、能書きを売ることなのだから。

 現状の日本を見るに、「複雑骨折」というか、複雑な「合併症」だと見えてならない。そして、やぶ医者たちが、個々の症状をあげつらって解決への道が程遠い小田原評定に明け暮れている。
 たわいない例を出せば、たとえばPCというシステムの不具合についてである。中途半端に知識をかじった者こそが意外と重大なトラブルを発生させるものだが、中でも始末におえないのは、原因を追求しにくい環境を自ら作ってしまうことである。
 通常、そこそこ複雑なシステムを構築したり、改変したりする際には、原因となり得る新たな条件追加とその結果確認を部分ごとに進めなければならない。そうでないと、どのような新たな条件追加が予想外の不具合をもたらしたかが判明しないからである。
 ところが、知識かじりの生兵法(なまびょうほう)者は、何を楽観視してか、一気に事を進めてしまう。だから、それで生じた不具合は、先ずは複雑な「合併症」の症状となるし、もちろん原因の洗い出しも手がつけられないありさまとなる。

 現在の日本は、これと酷似していると見えるのだ。役者は生兵法者などというまだかわいい役者ではなく、貪欲で無責任な自民党政治家たちであった。すべての問題、政治的課題を「棚上げ、問題先送り」にし続け、手をつけてきたことと言えば「金権」がらみの利己主義と保身だけである。
 不良債権問題はなぜこんなに何十年も長引いているのか? 年金破綻問題にしても、資金運用と称する杜撰(ずさん)な処理もあるが、少子高齢化傾向は昨日今日判明したことではないはずではないか? 一体、そうした傾向を掴みながら何をやってきたというのだ。むしろ、「少子」傾向に拍車をかけるような、将来展望なき環境作りをしてきたのではなかったのか。
 グローバリズムとその余波は、ITの世界的うねりとともに現在、プラス、マイナス途方もない影響を引き起こしている。これらとて、何と後手に回った対応であり、理念を欠いた対応であったことか。
 さらに、自民党政治が事態をこじらせた問題として、族議員と省庁の癒着による「タテ割官僚機構」の温存と増幅があったと言えよう。これによって、緊急課題の解決はただただ遠のかせられ、無責任で高コストな不具合結果だけが拡大されてきたと言える。

 そんなこんなが、現在一気に「合併症」の症状となって噴出しているのである。もちろん、こうした政治への絶望、将来への絶望から派生した淀んだ社会風潮は、青少年から高齢者に至る全国民の心に癒しがたい爪あとを刻んだに違いない。まともな政治家たちであれば、こうした推移に接するに自らの心を痛めてやまないはずだろうが、そんな政治家は現政権側に誰一人としていない!
 この貴重な二年間に、何万人の自殺者がこの世に見切りをつけたのだろうか。だが、首相小泉氏は、この間に問題のうねりはおろかその支流のどんな流れを変えたというのか? 自身の人気、支持率への関心と操作パフォーマンスは目立っても、後戻り不可の変革の橋頭堡は何も作れなかった。何万人もの自殺者も浮かばれないに違いない。

 もう、小泉氏にムダな期待を寄せての自民党による「内部改革?」などという、子ども騙し、おばちゃん騙しは「ごみ箱」に捨てるべきだ。無責任なマスメディアも、自身の足元を冷静に見つめ聡明な主張を繰り出すべきである。たぶん、庶民の不安とフラストレーションの混合気は、一触即発寸前に来ていると思われる…… (2003.08.08)


 毎日この日誌を書きとめていて感じるのは、「もどかしさ」以外ではない。とりあえず書き終えてみると、当初書こうとした不鮮明な「動機」の部分がクリアーにされず、場合によってはそれに向かったアプローチ部分を書いたに過ぎなかったり、ひどい場合には、意図しなかった横道に逸れてしまっていることさえしばしばある。そんな場合は再度書き直せばよかろうものだが、まあいいか、でお茶を濁すこととなる。

 掌握し切れずに、まるで霧の中で不鮮明となっているかのような「動機」部分が抉り出せればどんなにいいかと思っている。昨日のものも、書いた内容に間違いはないと思ってはいるが、より強い「動機」を感じていた点は周辺に追いやられている気がする。
 確かに、時の政府は「問題先送り」姿勢を漫然と継続させ、積もり積もった問題群が今一気に炸裂している。さらに、この状態は悪化することはあっても、自然解消するような類の問題構造ではないはずだとも思う。
 だが、書こうとしたことはそんなわかりきったことではなかったかもしれない。むしろ、なぜそんなことが糾弾され阻止されないままに今日に至ったのかということであり、そこに潜む問題であった。

 今、最も必要なことは、ひとつは、対策(政策)的に、これ以上の悪化を食い止めるために汚れた関係者たちにもはや関与させないことであろう。だが、さらに重要なことは、こじれた問題群をひとつひとつ解決すること、しかも効率的にである。そのためには、「巨大な問題群の怪物となってしまった現代」に対する妥当な現状認識と、将来への定かなビジョンが欲しいところである。ところが、「巨大な問題群の怪物となってしまった現代」はそう容易くは全貌を現さないのが辛いところなのだ。

 もとより、現代のさまざまな主だったプロダクツは、プロジェクトという集合的なパワーによって生み出されている。このWindowsもその好例であろう。
 つまりプロジェクトという相応のパワー、深く専門分化した数々の知的パワーとそれらが束ねられ方向付けられたパワーこそが、「現代の怪物」に対して互角に立ち向かえる挑戦者だと思われる。一個人ではとても対峙できる対象ではなく、仮に迫ったとして巨大なボディの毛の先ほどの姿しか現さないのが実情であるのかもしれない。
 「現代の怪物」は、深い専門性と巨大なパワーで武装している上に、その「ソースコード(内部情報)」を公開しようとしない場合が多い。なおのこと、正体が掴みづらいと言えよう。

 こうしたことから、一個人としての庶民が不安な予感を数々抱いたとしても、その思いは明瞭な事実によって裏付けられるどころではなく、「もどかしさ」の空転となって弾け飛ばされてしまうのかもしれない。確認しようのない情報が、湯水のように浸透してくるからである。
 ただ、「もどかしさ」にこだわっていても始まらないのではないかとも気づく。「もどかしさ」から自由であろうと考えること自体が贅沢なのかもしれない。所詮、一個人は限られたそれでしかすぎないのはわかり切ったことだからだ。そして言ってみれば、この「もどかしさ」こそが、「情報(化)社会」の基本的性格であるのかもしれない。
 ことわざに「知らぬが仏」(知らないから、平気で仏のようにおだやかな顔をしていられる)とあるが、「情報(化)社会」は、中途半端でしかありえない膨大な情報を撒き散らかしながら、「もどかしさ」をこそ増幅させ続けているようにも思われる…… (2003.08.09)


 久々に夏本番の天候となった。台風一過、空は抜けるように青く、日差しも鋭く影も濃い。待ちかねたように蝉が鳴く。
 しかし、昨日までの台風はひどかった。自宅の近所でも、大きな庭木が根元から折られて道路をふさぐといった被害もあった。風がおさまったようなので、外出しようとしたらクルマが通れないありさまだったのだ。あとで聞くと、何年も家人とともに生きてきた桃の木だとのことで、突然の災難にさぞかし小さくない喪失感に見舞われたことだろうと思った。
 今朝もウォーキングに出かけた際、クレーン車を出動させて民家近くにそびえる大木の上部を切り落としている作業に出くわした。昨日までの西日本地域をはじめとした災害の報道から、大木の所有者が今後を心配しての対処ということなのであろうか。そう言えば、ニュースの映像で、大木がクルマの屋根を押しつぶしているものがあったようだった。
 このような明るく落ち着いた夏の朝には、ふと、こうした静けさを瞬時に地獄へと変えてしまったあの広島、長崎への原爆投下のことを思い出させたりする。
 自然の猛威としての台風も、人為的非道としての原爆投下も、突然に訪れ、平穏な日常を破壊する。そして、不幸にも帰らぬ人々をも生み出す。今回の台風でも、まさに降ってわいたかのような状況によって何人かの災害犠牲者が発生した。関係者にとっては、その突然の不幸は、責める相手もないだけにやり切れない理不尽さとして受けとめられたに違いない。

 いつも思うのだが、台風のような自然の猛威は、自然の一部としての人間の位置を否が応でも知らしめる。確かに、人間が、過去の人々からすれば想像を絶するほどに幅広く、深く自然を制御し、征服してきた歴史は膨大な業績である。人間の外部の環境を、都市生活を見ればわかるように、完璧とさえ言えるほどにデザインし、自然を後退させてしまった。また、人間の内部の自然もまた、現代医学による病気治療を見ればわかるように不治の病などないがごとくの快進撃である。
 しかし、自然に対する人間の「勝利宣言」はいつになったら出せるのであろうか? 人間個人の死の克服が可能となってからなのであろうか。それとも、台風のような巨大な自然現象を制御できてからであろうか。

 そんなことを考えると、米国ブッシュ政権の対イラク戦での矛盾に満ちた「勝利宣言」のことを思い起こしてしまう。「宣言」された後も手のつけられないような惨劇が続き、戦争自体の意義すら疑問視される状況は、自然の一部でしかない人間が、自然を「征服」しようと構えることの矛盾に、何か重大な示唆を与えているようにも見えるのである。
 軍事力による「征服」という対立構図のごり押しでしかなかったイラク戦争の推移は、近代自然科学とその延長としての現代科学の自然観、すなわち自然とは征服すべき対象と見なす立場と何と重なっていることであろうか。

 自然科学を否定などする必要はない。そうではなくて、自然を「征服」して「制御」し尽くそうとする傲慢なスタンスを省みるべきだと思うのだ。自然を自然として許容する部分が十分にあってこそ、より大きな視点で自然をコントロールしたことになるのではなかろうか。河川の管理にしても、道路のアスファルト化にしても果たして現状の方法が災害防止にとって最善であるのかどうか。さらに言えば、現状でさえ少なくない自然災害が発生しているにもかかわらず、地球温暖化によって海面推移が上昇する推移を軽視していていいのかというような問題もある。

 米国現政権の現状での姿勢は、いろいろな面においてムリをごり押しする危険を感じるが、エコロジー問題への消極性をもあわせて考えるならば、自然蔑視の人間万能主義という、種々の限界が指摘され続けてきた近代合理主義への固執が、中でも一番気になってしまう。人間万能主義と言えば聞こえはよさそうでもあるが、人間とは誰を指すのかが冷静に問われなければならないだろう。イラクの子どもたちを含む国民もれっきとした人間であり、また、半世紀前の広島、長崎の子どもたちを含む市民たちもまがうことなく人間であったのだ。そうした当たり前の想像力があって欲しいと願う…… (2003.08.10)


 最近は、「AI(人工知能)」の話題をあまり聞かなくなった。自身が勉強不足であるだけで、継続的な進展が果たされているのかもしれない。「AI」と言えば、人間の脳内の神経細胞「ニューロン」の結合を模した「ニューラル・ネット」という概念を思い起こす。
 人間の思考や記憶などは、この「ニューロン」という神経細胞が特殊な結合パターンを形成して生み出されると言われている。Aという原因があればBという結果が生じるといういわゆる「因果」連関とは異なった複合的な構造が注目されたのだった。そして、これを「因果」連関の代表だとも言えるコンピュータシステムに応用できないかと模索されたのが「ニューラル・ネット」であり、「AI」ではなかったかと思う。当時は、「ファジィ(人間の知覚の曖昧さ)」という言葉にも積極的な関心が寄せられていたかに思う。人間のファジィな思考や判断にも、コンピュータに迫らせようとする意図が「ニューラル・ネット」の「AI」研究にはあったのかもしれない。
 わたしの知人にも、「ニューラル・ネット」のソフト雛型を使って「株価動向」という複合要素の合成物に挑戦させようとしていた人がいた。が、定かな結果を聞くには至らなかった。

 いい加減なことを言ってはならないのだが、「ニューラル・ネット」とは、ある程度の「学習」機能を成立させるための環境設定群ではなかったかと思う。そのために、前提的な仮設条件などを組み込んでやっていたのであろう。また、仮に、研究の当初の見込みが予期せぬものとなったのだとしたら、容易に想像できることは、人間の脳(大脳皮質)の神経細胞の数は、10万×100億という天文学的数字だとも言われているため、そのシミュレーションをコンピュータにやらせること自体に眩暈を覚えたのかもしれない。

 ところで、先日「記憶」についての港 千尋氏の著作(『記憶 「想像」と「想起」の力』)を引用した。そこで述べられていたことで印象深く残っている言葉に、「神経細胞群淘汰説」というのがある。わたし自身、詳細は未消化に止まっているのだが、曰く、
「運動と感覚が再入力的に結合されると、ある活動が神経細胞群を淘汰することを通じて、ひとつの感覚入力に対して適切な行動出力を強化し、カテゴリーをつくりだす。このとき生まれる『適切な』行動は、動物の内的な価値基準に従っている。それは進化的な淘汰によって決定されている生命維持のための価値体系であり、その価値の要求を満たすようなカテゴリー化が、淘汰システムのなかで起きるわけである……」
 この「淘汰」は、人類としての長期レンジでの進化論的な「淘汰」でもあり、また個体発生時の「淘汰」でもあり、さらに学習的な「淘汰」でもあるとされている。ただ、「淘汰」と言うと、決定論的なニュアンスを持ちそうだが、決して「ROM(リード・オンリー・メモリー)」のような構造ではなく、むしろ「RAM(ランダム・アクセス・メモリー)」に近い可塑的な構造だと思われた。この説は「遺伝子によって決定された身体構造の枠組みのなかにあって、われわれの意識や思考が決定的に開かれたものであることを保証する」ものだとされているのである。

 「淘汰」という言葉が印象深かったのは、われわれが今悪戦苦闘しているこの現代という環境が、とりも直さず「淘汰」の時代だと感じているからかもしれない。緩やかな「淘汰」の歴史が、今、過激な「淘汰」の坩堝と化そうとしているとしか思えないのである。 「グローバリズム」と「構造改革」を是認する社会とは、弱肉強食、適者生存という「淘汰」を旗印として掲げることにほかならないのだと見える。ただし、この環境で「強く」あることが遠い将来の人類にとってプラスなのかマイナスなのかは判然としない…… なぜならば、「マネー=力」の原理は、排他的パワーが強すぎ、「ROM」のように、決定論的環境を作り出しがちだからである。
 時代は、土石流のように流れつつ新たな階級社会が形成され、これを承認し難いと思う人々や国々が、ますます強い抵抗を示し、不安定さは常態と化していくようだ…… (2003.08.11)


 携帯電話、しかも見やすい液晶画面でデジカメ付きといった携帯電話が普及し、加えて繋ぎっぱなしのADSL回線なども普及したことにより、興味深いインターネット活用が広がり始めている。
 世の中が物騒になっているため、防犯に関心が集まっているようだが、自宅などに安価な監視カメラを据え付け、これをインターネットに繋ぎ、そこでの監視画像を携帯電話で送信するといったことが比較的簡単に行なわれるようにもなった。
 カメラ・システムに「動体検知」という機能を搭載することで、監視する対象に動く人影などがあった場合に携帯電話にアラームとともに画像を送信するという仕掛けのものも出ている。
 また、防犯目的ではなく、独居老人の生活の様子を、離れた子どもの携帯電話に送信するというシステムもあるようだ。以前、電話回線の利用で、独居老人宅の水道利用状況や、ポットの使用状況を検知して老人の活動を身内の者に知らせるといったシステムも注目をあびたことがあったかと思う。
 いつでもどこでもコンピューティングという「ユビタキス」環境が展望されているなか、携帯電話がそのプラットホーム的位置を占めてしまいそうな感触がうかがえそうだ。

 ところで、携帯「電話」といいながら、その機能で専ら着目されているのは、話をすることではなく、短文の文字にせよ画像にせよ、要するにメール送信機能である。瞬間的に理解されるとする視覚情報だといえる。思考活動とともに、言語活動はどこかに置き去りにされてしまったかのようだ。
 「百聞は一見に如かず」とか、視覚情報は情報量最も豊かな情報だという一般論が、何の疑いもなく受け容れられているかのようである。しかし、果たして本当にそうなのだろうか? 視覚情報が歓迎されているのは、保有情報の豊かさゆえなのであろうか? いや、そうではないと断言したい。

 確かに、視覚情報の持つ「百聞は一見に如かず」的側面はあるにはある。視覚情報は、やはりより多くを語る可能性があるとは思われる。ただし、聞く耳を持つ場合、見る側に視覚情報解読能力がある場合、もしくはそうした能力を意識的に発揮しようとする場合に限られると言うべきではなかろうか。
 犯罪がらみのキャッシュディスペンサー周辺の監視カメラで写された映像は、その種の役目を負った人などによって、実に丹念に観察されたりするのであろう。しかし、これは例外的だと言うべきなのであって、大半の場合映像や画像は、まさしくPC画面の「アイコン」のように記号風に受け容れられ、扱われているのではないかという気がしてならない。表面しか見ない、と言う表現があるが、実は表面すら見ていない場合だって往々にしてあるのではないか。つまり、画像や映像を、単なる記号のように何か既知の熟知したものに置き換えて了解しているのではないかという気がするのだ。
 たとえば、通りすがりに出会った人の姿をどれほど認知するであろうか。ほとんど思い出せないと言っていいのではないか。テレビの映像にしても、PCの画像にしても、いざ思い出そうとすれば、いかに漠然としか見ていなかったことに気づく。見ているとはいうものの、観察しているわけでは毛頭なく、その場での動作が反応を返せる程度でしかないようだ。見るという行為は、そこまで上の空でいられる負荷の低い行為だということだ。
 こうしたことを考えると、視覚情報が情報交換の主たるメディアとなっていく時代というものが、どこか危ういものを含むように感じるのである。視覚情報は、それなりにエネルギーを要する人間的な思考を介さずに、何かわかったような気にさせてしまう。その「便利さ」とともに、視覚情報による情報交換のあいまいさや、過度の主観的受けとめなどが気になるのだ。
 現代の日本は、対話が消滅してしまった時代だと言う人がいるが、だからこそ、その隙間を埋めるものとして、視覚情報の交換を機能とするデジタルカメラ付き携帯電話が普及するのであろうか。ここで展開している「対話もどき」とは一体何なのかと思ってしまう。携帯電話の普及が照らし出す現代の特徴にいましばらく関心を持ち続けたい…… (2003.08.12)


 眠気を振り切って覚醒しようとすることは可能だけれど、眠気が訪れない時に眠ろうと努めることはほとんど無意味であるようだ。つまり、脳を含む人の身体は、意識的に目覚めようとすることは可能であっても、意識的に眠ることは不可能だということである。いわゆる不眠症の辛さとはここに起因しているのだろう。
 眠らなければとか、眠りたいとかという意識を働かせ、強めれば強めるほどに、逆に眠気が遠ざかってしまうもののようだ。最近は、さほど苦労せずに睡眠が得られて幸いであるが、一頃は苦労したものだった。
 解決策としては、「結果として」眠気が訪れるような、そんな「原因をこそ意識的につくる」ことが重要であるようだ。自分も、その「原因」づくりをいろいろと試み、意識的に継続させてきたおかげで「不眠地獄」からは遠ざかっている。

 ストレスがつのる昨今なので、とかく多くの人が上記のような睡眠障害に陥りがちだといえる。だからその問題も軽んじられないのだが、上記の解決策にはおもしろい事実が隠されていたことにふと気づいたのである。
 何でも、意識的に、意図的に、さらに言えば効率的、効果的に事を処理する方法が現代という時代の特徴である。ところが、眠りという人の脳と身体に関することばかりは、そうはいかない、ということなのである。もっとも、催眠剤使用という有無を言わせぬ強硬手段もあるにはあるが。これが、脳を万能視する「脳化社会」(養老孟司)の最大のジレンマであるのかもしれない。あるいは、「自由に」愛することを「強要」してしまうジレンマに似ているともいえるのかもしれない。

 今、わたしが関心を向けようとしているのは、睡眠のとり方云々ではない。脳の活性化、アイディアの創造、創造的な思考というものについてである。
 わたしに限らず、多くの人が急激な過渡期の過程で悶々としているに違いない。そして何とか脱却したいと願っていよう。こんな環境を突破していくには、もちろん忍耐力、不屈の精神、絶え間ない努力なしでは済まないだろう。だが、同時に、知性をとことん輝かせることにも目を向けなければ望む結果は得られないような気がしてならない。
 「雨垂れ石をも穿つ」式の姿勢が無効になったとは決して思わない。いやむしろ、現代人は、巷に溢れる高機能の道具立てと自身の能力との区別を曖昧にさせ、その結果それらに依存する性癖が身についてしまっているのかもしれない。いつも「外向き」の姿勢となってしまい、内発的に事に当たることを厭う弱点が問題だとも見える。

 しかし、それでもなお「根を詰め過ぎる」ようながんばり方は警戒すべきではないかと思っている。あたかも、「眠ろう、眠ろう」と力むようながんばり方のことである。知性を発揮することも、どうも睡眠を得るシチュエーションと同様なのではないかと感じ始めているのである。
 アイディアを出そう、出そうと力んでも、結果はますます凡庸な考えに縛られ堂堂巡りするだけなのかもしれない。むしろ、良策は、結果としてのアイディア登場をどう画策するか、いやお膳立てするか、ということに強く意識を向けることだと考えるのである。
 ものの本によれば、脳は、適度のストレスは好材料と見なしても、長期にわたる過剰なストレスに対しては脆さを見せるようである。うつ病や、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などはそうした構造であるらしい。脳内ホルモンの分泌機能がバランスを崩してしまうようなのだ。ひどい場合には、「海馬」と呼ばれる脳の重要な部分の神経細胞が死滅さえしてしまうから恐ろしい。

 だから、「やるぞ! やるぞ!」の「自主」ストレスをかけ続ける態勢ではなく、脳の活動をこそ「自主的」にさせるような環境づくりにこそ関心を払う必要がありそうなのである。若い人なら多少の無理も、脳の若さでカバーできそうだが、何分にも中古となった脳は壊れやすくもあるらしいので、無理ではなく道理を尽くす必要がありそうだ。
 禅の教えのなかには、「念を継がない」と表現する、いわゆる「執着からの離脱」の教えがあるようだ。(「念おこる、これ病なり、継がざる、これ薬なり」)もともと、禅の発想には、結果に執着することが力の発揮を妨げるという洞察が含まれている。(これは、沢庵禅師、はたまたブルース・リーも主張したところだ)

 精神主義の誤りは、人の精神が身体に限りなく依拠していることを忘れ去ってしまっていることなのだろう。身体を制御することを通じて、脳や精神を制御するというリアルな媒介的方法こそが重要だと思われるのだ。
 ちなみに、現在、ゾンビのような「愛国心」論議が再浮上してきている。もし、わたしを「愛しなさい!」と迫る女がいたら、そんな女に、若いお兄ちゃんたちは、果たして魅力を感じるものだろうか。愛しい国づくりこそが先決だと思われるのだが…… (2003.08.13)


 盆休みという空隙を狙ってかのようなインターネット上でのウイルス被害(「MSBLAST エムエスブラスト」)が多発しているようだ。何万件という被害がでている原因は、これまでのウイルスとはやや異なった侵入方法をとっているからのようだ。

 これまでは、インターネットユーザが、メールのダウンロードやブラウザからのコンテンツダウンロードを行った際に、ウイルス機能が仕掛けられたプログラムを引き込んでしまう、というかたちであったといえる。だが、これらは市販のウイルス対策ソフトで概ね発見することが可能で、侵入前後に撃退できる。
 だが、今回のウイルスは、所定の「通用口」を、「宅配便ですがー」といって何食わぬ顔をして侵入する手口に似たもののようである。つまり、OS(基本ソフト。今回は、Windows 2000とWindows XP)の「通用口」のひとつである「リモート・コントロール」部分(外部PCから、当該PCを操作する機能)に「バグ」(不具合)があり、それがいわば「セキュリティ・ホール」(安全管理上の欠陥)となり侵入されてしまった、ということのようだ。

 「リモート・コントロール」という機能自体は、たとえば勤め先から自宅のPCのファイルを検索できたりするような、あって便利な機能なのである。問題は、その周辺に「バグ」があったことなのだ。マイクロソフトは、この間、この「バグ」を修正する「パッチ・ソフト(http://www.microsoft.com/japan/technet/security/bulletin/MS03-026.asp)」を準備し、ダウンロード許可を与えてきた。自分も、二度にわたってこれをインストールして今のところ難を逃れている。
 そもそも、「クラッカー」(ハッカーとはPC、ITのベテランのことを指し、悪質なイタズラをする者は「クラッカー」と呼ぶ)たちは、OSやブラウザなどのソフトの「バグ」を逆手にとり、その個所から「バッファーオーバーフロー」という、侵入側にとっての「解放区」を作り出して、悪質なプログラムを起動させる、と言われている。だから、受け入れ側に「バグ」のような、「敵からつけこまれる隙」を与えてしまうことが問題となるのである。

 PCウイルスの話はとりあえずおくとして、「敵からつけこまれる隙」という点に目を向けたい。
 現代の厳しい環境は、一言で表現すれば「競争」の過激化だと言えるかもしれない。「競争社会」「受験競争」「市場競争」「価格競争」「新製品開発競争」「過当競争」「売上競争」「出世競争」etc.
 ところで、われわれ日本人は「競争」という観念を非常に牧歌的に受けとめているのかもしれない。「正々堂々と競争したいものだ」とか、「競争があってこそ発展がある」とかという感じである。そこでイメージされている「競争」とは、陸上のトラック競技のような「レース」であるのかもしれない。決して、競争者のコースを妨害し合うことがなく、ただただ自身が全力を出すべし、といった「レース」のことだ。現実がもしそうであれば平和的であろう。
 だが、リアルな現実は、そんな牧歌的「レース」から乖離してしまっていると思われる。「競争」の中身は、「コンペティション」となっているのが実態なのかもしれない。
「コンペティションとはレースのように競り合うという意味ではなく、目指す相手や、ライバルをKOするか、再起不能に追い込むという激しいものをいう。このため、彼ら(欧米人)はコンペティションのことを別な表現では、のどを掻き切る(throat cut)というくらいだ。戦(いくさ)で武者が殺した相手の首をとったような状況を指すのがコンペティションという考え方である」(小林 剛『さあ今「殺し合う競争」の時代の先手を読め!』1986、情報センター出版局)

 国際関係の中での、日本外交の甘さも、国際競争をめぐる状況認識のズレからきているような気がする。また、職場を「実力主義、業績主義」方式という「競争」型の人事制度に替えたら、協調性が失われたり、創造性への挑戦が損なわれたり、思うような成果が期待できない、という嘆きも聞く。これも、「競争」をめぐる甘いイメージに起因していると言えるのかもしれない。
 欧米型の「コンペティション」としての「競争」が、いいか悪いかは別にして、日本は少なくともグローバリズムや構造改革路線を是認したことにより、目の前の現実を「コンペティション」環境に取って替えてしまったことは確かなのではなかろうか。われわれの頭の中だけに残る甘い思い出と期待だけが、現実との齟齬を来たしているような気がする…… (2003.08.14)


 今朝、あるラジオ番組で経済アナリストが次のようなことを話していた。
「現在の最大の問題は、経済が『強者の論理』で突き進んでいるのに対し、そこで発生している矛盾を『弱者の論理』をもって調整すべき政治が、『強者の論理』の経済を追認していることだ」と。
 そのとおりだ! とひとり頷いたものだった。現在の政治なら無くていいどころか、存在することが事態の悪化を招いているだけだと評されてもしかたがないだろう。

 政治とは、ひらたく言って「調整役、仲介人」だと理解していいだろう。本来、当事者たちだけで事が進み、回るならば無くてよい機能だと言っていい。「自治」という観念の理想は、そのことを指し示しているはずであろう。
 ただ、現実ではさまざまな仕分け困難な矛盾や問題が生じ、暫定的にこの調整機能を専門とする「調整役、仲介人」が必要とされる。だが、本を正せば「無くてよい存在」なのだという自覚が欲しい。少なくとも、本来の機能が何であるかを重々認識すべきなのである。つまり、当事者たちの混乱と不安を抑え、安定した将来へと誘う調整の機能をこそ凝視してその任に当たるべきなのである。

 馬鹿馬鹿しい政治の話はひとまずおくとして、「調整役、仲介人」について着目したい。現在、こうしたステイタスと思われるものが軒並み不安定となっている印象を受けるからである。
 職場では、長らく日本企業の組織構造で伝統的な役割を果たしてきた「中間管理層」が時代から見捨てられたことを思い起こさなければならない。この「層」は、経営層と現場職員層との間にあり、まさにその上下層の「調整役、仲介人」であったはずだ。
 また、この個々の「管理職」は、指示・命令者といえば聞こえはいいが、要するに現場職員たちの間での「調整役、仲介人」であっただろう。
 また、産業界では、流通領域における「卸問屋」などの中間流通業がある意味で「調整役、仲介人」の役を果たしていたと思われる。この中間流通業は、あればあったでありがたがられる役を担っていたとも言えよう。しかし、例を出すならばPC販売における「DELL」が世界的に圧倒的なシェアを伸ばしている実態は、メーカとユーザとの間の中間流通業を排したからに他ならない。中間流通業の役割が皆無だというつもりはないが、市場が中間流通業の存在意義を重視していないのは事実だというべきなのだろう。
 そこには、中間利益だけを抜いてその役割を形骸化させてきた実態が、現実からの応えを得たのだというふうに見えるわけだ。コストが厳しく問われる時代となって、こうした「無くてもいい」機能なのにコストがかかる存在が、いたるところで冷ややかな視線を浴び始めているのであろう。

 ところで、冷ややかな視線を浴びているのは、「中間〜」だけではない。昨今、いろいろな場で口にされるのは、リーダーについてであろう。もともと、リーダーに関しては「シャッポのように軽い方がいい」という軽口が言われたように、現場でのその位置付けはばらつきのある評価であったかもしれない。
 リーダーという存在に対する評価が一様ではなかった原因は、やはりリーダーもまた「調整役、仲介人」としての機能を大きく担っていたからかもしれない。そして、その機能だけに依拠してきたリーダーが今、「中間〜」と同様に、「ならば、いなくてもいい」と思われ始めているのだろう。
 では、本当にリーダーはいなくて済むのだろうか? 仮に理想的なメンバーたちを想定し、素晴らしい合議で方向性を見出す状況を想像してみても、どこかに不安が残るものだと思われる。集団におけるひとつの「方向性」を体現し導いていくリーダーの存在は、どうも必須だと思われてならない。
 リーダーは「シャッポのように軽い方がいい」ということが言えた時代というのは、変化が乏しい時代環境における平和な話だと思える。現代のような価値の多様化と激変の時代にあっては、リーダーの役割は不可欠であり、リーダーが体現しようとする「方向性=ビジョン」の持つ意義はきわめて大きいと思う。

 「調整役、仲介人」の位置付けが揺らいでいるかに見える現状の問題は、それらの役割が不要となったというよりも、その任に当たるものがコストだけを嵩張らせて、その役割の本質を果たしていないということなのであろう。そして、特に「方向性=ビジョン」を示すという誰もが渇望することを無視している怠惰が問題なのであろう。
 この本質の部分を果たすならば、その付加価値に対するコスト云々を言うものは出てこないのではないかと思うわけだ…… (2003.08.15)


 「お客さん、今日は顔の方がツルツルするでしょ」
 トコヤのおやじがそう言った。おやじは、わたしからの料金を受け取りながら、さもその新しいサービスを自慢するような表情であった。
 顔に触れてみると、確かにすべすべしていた。が、今まで座っていた場所の前に据えられた鏡を覗き込んでみると、ツルツル、すべすべというより、妙にテカテカしていたものだ。映画フーテンの寅に出て来ていた隣のタコのように見えた。内心、こんな顔どうでもいいんだけどね、と言いそうになった。が、お愛想が口からこぼれた。
「いろいろと考えるんだぁ」
「まあ、そうなんです」

 いつの頃からか、月に一度、決まってそのトコヤへ通うことになっていた。決して近所というわけではなく、自宅と事務所のちょうど中間にあるトコヤである。そこへ通うことにしたのは、しいていえば、昔風の職人的な雰囲気で、腕も悪くはないと評価したためだろうか。
 近所にもあるのだが、トコヤというよりも理髪店、いや男向けの美容院のような感じで、店主も何か気どっているようなので、何回か通ったがやめることにした。
 どこのトコヤでもいいようなものだが、一時間以上も近接した距離で、なおかつ「刃物」を首筋にあてがわせる男をはべらせるには、やはりなにがしか気が許せる者でないと…… と感じているのだと自身推測したりする。
 そこへいくと、そのトコヤのオヤジは、丸い性格の、顔や体つきまで丸い見るからに安全この上ないタイプである。世間話も時々するが、いつぞやは、近所にあった大手企業が移転となってしまい、少なくない馴染み客が一度に消えてしまったことを嘆いていた。また、店の前の通りを挟んで、「大学」が開校するという話題となった時には、妙にリアリストぶっていたものだ。
「ダメですよ。だいたい大学には生協かなんかがあって、そこには理髪店が設けられるでしょうからね。おまけに、今時のおしゃれな学生は、理髪を大学の近くでついでに済ますようなことはしやしませんよ。キッチリ決めている店があったりするんでしょ」

 そんなトコヤが、新サービスを始めたのだった。
 顔のマッサージと、おまけに簡易型のパックなのである。といっても、おやじがするのではなく、一緒に店で働いている娘さんが、である。
 わたしはトコヤではいつも居眠ってしまう。だから、それが安心してできるトコヤを選ぶのかもしれない。いつだったかも、おやじから言われたものだった。
「お客さん、随分お疲れのようですね」
 で、今日も、いつものように居眠っている間に、頭や顔はどんどん処理されていった。椅子が倒されたので、ああ、次はシェイビング・クリームを塗られて、熱いタオルを被せられて…… とうつらうつら想像していた。と、どうだろう、顔に丹念に乳液を塗っているではないか。何を始めるのだろう? と一瞬ドキリとした。
 どうも、両手の指で丁寧に、丁寧にマッサージをしている。いつもひげを当たる時には、なるべく顔を触れないようにしていたような指が、顔中を撫で回しているのだ。鼻の先まで撫で回している。そして、これはいい気持ちであったのだが、こめかみなどのツボは軽く指圧したりする。ハハーン、新しいサービスなんだな、と合点することになった。
 と、それで終わるわけではなかったのだ。次には、ヒンヤリとする紙状のお面のようなものを顔に載せてきたのだ。いまさらうろたえて目を開けるわけにもゆかず、されるままになっているしかなかった。要するに、パックであったようだ。
 そういえば、店に入った際に、別の客がパックをされていたのをチラリと見えたものだった。その時は、男のくせして何と軟弱なヤツめ! という感想を持ったことを思い出していた。が、今自分も軟弱者め、になっていたのだった。

 店を出てクルマに乗ってから、もう一度顔を触ってみた。ツルツル、すべすべ、テカテカの顔を。同時に、妙に自慢げなおやじの顔が思い浮かんだ。この厳しい時代環境の中で、みな精一杯に新しい努力というものを考えるんだなあ、という思いとともに…… (2003.08.16)


 通勤路の途中、広い通りの交差点に建築中の現場があった。何ができるのだろうかと、他人ごとながら関心を持っていた。すると、何と「お好み焼き」専門店であった。
 わたしは、時々むやみに「お好み焼き」が食べたくなることがある。もちろん嫌いではないからであるが、昨今自宅の近所にはそうした店が無くなってしまった。以前に、楽しみにしていた店を、「発作」に襲われて訪ねてみたら、閉店となっており、ひどく落胆したものだった。そんなことから、新しく「お好み焼き」専門店ができるというのは少なからぬ朗報であったのだ。

 これに関していまひとつ興味をそそられたのは、その店の店構えなのである。人目を惹こうとする意図に違いないが、庶民性を強調するためなのであろう、通常の現代的な店本体の入り口付近一帯に、いわゆる「昭和三十年代」の街の風景を再現しようとしていたのである。
 木造板張りの古びたタバコ屋風の小屋が設えられ、あの赤いポストが立てられてある。小屋の上部には、「〜商店」という看板があり、その文字は右から並べられている。小屋の板壁には、昔よく見かけた殺虫剤か何かのブリキの看板やら、わざと剥げかかったような古いポスターなんぞが貼り付けてある。ガラス戸のそれぞれのガラスは、これもわざと四隅をほこりで曇らせている。
 それだけかと思ったら、背後には、あの木製の電信柱が立ち、ご丁寧にもゴツイ電線まではり巡らせてあった。まさに、「昭和三十年代」を知る者には、ああ当時の街角風景なのだな、と思わせるものだ。
 ふふーん、やるもんだな、と最初はやや感心した。
 さまざまなカタカナ食品が溢れる昨今、「お好み焼き」に関心を示す者は、何といってもオールド世代であろうはずだし、主食ではなくおやつ(?)ものとして客を惹き寄せるには、店構えにそれなりの趣向をこらす必要あり、というところだからである。

 自分も、「お好み焼き」と言えば、もう三十年以前となるが、名古屋に住み始めた頃のことを思い出す。さらに前ならば、小学校時代のまさに「昭和三十年代」でもある。
 名古屋の「お好み焼き」にはおどかされたものだった。それまで、東京でのそれは平たくのした薄手の「お好み焼き」であったのだが、名古屋で初めて近所の店に行った時、客たちが焼いていたのは三センチくらいの厚さであったからだ。
 といた小麦粉を鉄板に伸ばしたあと、鰹節の粉をまいた上に、たっぷりとキャベツのきざみを載せて厚さの下駄をはかせるのである。そして、その上に海老だの、肉だの、卵だの好きなトッピングを載せ、再びといた小麦粉を軽く被せてひっくり返す、というものだった。結構なボリュームとなるので、一食に値したのを覚えている。
 まあ、ものはそんなものだったが、名古屋にはあちこちに「お好み焼き」店があったようだ。表通りにもあったが、裏通りにも控えていた。そして裏通りの店は、まるで質素なラーメン屋と、質素さを競い合うような奥ゆかしさであった。上記の新店舗は、そんな裏通りの「お好み焼き」屋を彷彿とさせるものだといえる。

 ところが、通勤途中にクルマから何度か眺めているうちに、店のあのディスプレイはあれでよかったのだろうか、と疑問を持つようになってしまった。特に、暗い夜はそう思わされた。
 たぶん、繁華街のように周辺の照明は明るく、また周辺の建物が味気ないほどのモダンな建物ばかりであれば、「昭和三十年代」風ディスプレイは、どうだ! と言わぬばかりのアピール度を発揮していたはずである。
 ところが、現物は、辺りが暗い場所であり、ついちょっと前までは似たような廃屋っぽい建物が残っていたような環境である。要するに、ねらったようなコントラストが成立していないのだ。周辺の雰囲気とどちらかといえば馴染んでしまい、クルマで通る者からは、どちらかといえば見過ごされてしまいそうな、そんな気がしたのである。
 新しい趣向を企画するのも、なかなか大変なものだということだ。
 今日は、日曜日であり、おまけに秋の日のように涼しい。わたしは混む場所は好きじゃないのでキャンセルだが、こんな日は、熱い鉄板を囲んで「お好み焼き」をつついたり、焼けるソースの匂いに包まれたいと思う旧人類も少なくないのではなかろうか…… (2003.08.17)


 長野県の田中知事がテレビ番組で話しているのを見た。生き生きとした話しぶりである。その特徴を一言で言えば、事の本質をきちんと「フォーカス」しているということであろうか。
 「住基問題」について、長野県は「ネット」への侵入テストを独自にやるということらしい。確かに、「ネット」の安全性、セキュリティを、何を根拠にか盲信する国の姿勢は現実軽視というより、国がやることなのだから間違いはないと言いたげな傲慢さをさえ感じさせる。この事態に対し歯に衣を着せず真っ向から異を唱えるのだから、田中知事の姿勢はストレートかつシャープである。ほかにも「脱」国家志向を目指す「共和国」的なマニフェストを掲げていたが、要するに地方自治問題に限定しない現状日本の泥沼の問題を正確に「フォーカス」しているとの印象が与えられた。
 「フォーカス」されていた対象は、腐敗し切った官僚機構の問題である。それに関する首相小泉氏に対する批判も当を得ていた。現在、変革を口にするなら、官僚機構自体の変革抜きには何も始まらないと。とすれば、変革の指導者が官僚たちとの「喧嘩」をしても当然のことながら、小泉氏にはまったくそれが見受けられない。彼は変革を口にしているだけだからではないか、と。おそらく、その指摘は的を射る矢だと、わたしにも思えたものだ。

 いまだに小泉氏云々という風潮自体がそうなのであるが、今のご時世、どういうわけかものごとが「フォーカス」されないでいる。人々の苦痛といらだちは、別なものに「フォーカス」されたり、肝心なことへの社会的関心がぼやかされている、そんな歯がゆい風潮にも起因しているのではなかろうか。
 それは決して偶然の出来事などではないと思われる。問題の核心が「フォーカス」されることを嫌う者たちの力の合力が為すところだと見える。ジャーナリズムやマスメディアの勢力も、圧力に屈する面と自主規制とを含め、しっかりとその役割を果たしている。皆がこぞって、本来「フォーカス」されるべき問題の核心をはぐらかし続けているとしか言いようがない。

 最近のカメラは、「オート・フォーカス(自動焦点)」機能つきがほとんど標準となっている。マニア向けのマニュアル・カメラだけが、撮影者の目と手によって、ねらう対象にピントを合わせ「フォーカス」することが可能だ。
 「フォーカス」することが自動で行われることは、便利ではある。とくに急ぐ場合や近視であるものにとってはありがたい。しかし、「オート・フォーカス」は便利である反面で、手前の柵やブラインダーなどの障害物を通しての風景、また雲などのはっきりしない対象などはお手上げとなるし、画面中央以外の対象にピントを合わせるには手間がかかったりもする。要するに、お定まりの対象であることを暗に要求しているのである。
 こうした性格は、何となく、われわれがマスメディアを通じて社会や政治に関心を喚起される事情と似ているような気がする。個人にとって、マスメディアが提供するニュースなどの情報は、個人自身が関心を持って注目した社会事象ではなく、「自動的に」選択され、与えられた情報という点において、あたかも「オート・フォーカス」された情報だと言えるかもしれない。「フォーカス」された内容にも問題があるかもしれないが、とにかく、自身の動機や関心によってピントを合わせ「フォーカス」したのではないことだけは確かであろう。そして、こうした「オート・フォーカス」情報に接する習慣が身についてゆくにしたがい、マニュアル・カメラで自身の目と手によって「フォーカス」するように、自身の頭と心で社会事象を見つめ、何かに関心を寄せるという主体性が希薄となってゆくのだろう。

 今何が問題なのか、にしっかりと「フォーカス」した人、そんな確かな問題意識を持った人と出会えることが少なくなった時代のように感じている。便利さをのみ追求し続ける過程で、やはりこの上なく貴重なものを漫然と放棄し続けているのかもしれない…… (2003.08.18)


 現在、多くの人たちが「自信」を失っている、と聞く。そう言えば、自分もその部類なのかと思い、何となくわかるような気がする。
 青少年や若い世代は、他者とつき合う自分に「自信」を持っていないかもしれない。不況を原因とする就職難にリアルに遭遇して、「自信」を得がたくなってもいよう。幸いにも職場を得た青年たちとて、過剰な期待や目まぐるしい環境変化のただ中で、「自信」を獲得するには程遠い道を、あくせくと歩いているかもしれない。
 中高年はといえば、職場環境が破格にシビァとなり、かつ革新されてしまい、身の置き場に苦しみ、「自信」を喪失していようか。職場そのものから追い出されてしまった中高年も少なくないのだろうが、その場合の「自信」は、かたちさえとどめず粉々に粉砕されていることだろう。加えて、じわじわと忍び寄る身体の変化に対する不安は、かろうじて「自信」を支えてきたものが足元から崩れていくようなニュアンスで受けとめられているに違いない。
 経営者たちも、何を作っても、何を売っても功を奏さない現実を目の前にして、何をしてもパイが大きくなっていった過去をうらめしく思い出したりしていようか。カルロス・ゴーン氏のように、またあのお顔のようにはなれないことにだけは、妙に「自信」と確信を深めたりしているのかもしれない。

 片や、「自信」なんぞ決して持ってほしくない輩たち、自身の能力と権威とを取り違え続けてきた政治家や、高級官僚や、その他の権威主義者たちはどうか、である。相変わらず「カラ自信」を抱き続けている「猛者(もさ)」も残存してはいるのだろうけれど、これだけの失態と、世間からの非難や冷たい視線の中で、場合によってはその仮想「自信」に空疎感を感じ始めているのかもしれない。
 もっとも彼らの場合、「自信」、健全な「自信」などは端からなかったと言ってもいい。だからこそ、その空隙を埋めるために過剰に権威依存主義者へと化していったに違いないからである。「自信」がある者なら、自分の存在とは関係のない権威というものに寄りすがる必要がなかったと思われる。

 「自信」という青少年が問いたがるような話題に関心を向けたのは、「自信」を得るには、「投資」(?)が必要ではないかと、ふと感じたからなのである。ものごとへの挑戦と言ってもいいし、きわどい表現をすればリスク・テイキングをすると言ってもいい。要するに、「意を込めて何かを企図すること」が前提だといまさらのように思ったわけである。
 そうした「投資」なり挑戦なりがあってこそ、刈り取られた結果としての自己確認によって「自信」が生じるのであろう。漠然としたものでありながら、次の企図への確かな踏み板となるような心境としての「自信」が、密かに得られるのではないかと思ったのである。

 逆に言えば、「自信」に乏しいという心境は、命懸けとまでは言わないまでも、「意を込めて何かを企図する」行動や経験が、過去に乏しかったということを物語っているのかもしれない。
 自分の「自信」喪失的心境を見つめる時、行動や経験への「意をこめた」「投資」の少なかったことがつらつら気になってきたりするのである。
 ところで、このところ日経平均株価が上昇し、昨日今日は一年ぶりに一万円台に這い上がったという。外人投資家たちのマネー・ゲーム的な買いによるものであることは明瞭なのだが、あたかも景気回復のような空気がかもし出されている。
 ビジネスに携わる者にとっては、景気回復的ムードが悪いわけはない。関連業界が活況を帯び、受注量が増加すればありがたい。
 しかし、これでもし本当に景気が回復したとするならば、果たして日本経済は将来に向けて「自信」が持てる、持ち直すのかと訝しげに思ってしまう。なぜかと言えば、米国との関係を除けば、日本自身が意を込めて企図したことがどのように存在したのか、という点がどうにも引っかかるからである。「自信」を得るにはまだまだ紆余曲折を繰り返さなければならないような予感がしている…… (2003.08.19)


 ある企業のサイトを見ていたら、今後の経営計画を述べる箇所で、システム事業に関して次のような一文が記されてあった。
「ソフト業界は、Web系のソフト受託は堅調な需要があるものの、業者間の競争激化や国際分業の影響で、受託開発の工数単価は下落傾向で推移するものと推定しています」
 自社事業の全体に、あれこれと懸念めいた色調を漂わせていたのだが、「ソフト業界」に対しては見切りをつける寸前の評価がうかがえた。相変わらず世間では、IT、ITと期待を込めた空気があり、ITの核でもあるWeb系ソフトに対しては未練を残してはいるものの、「工数単価の下落傾向」という否定しがたい趨勢にはしっかりと着目されていた。

 確かに、不況とデフレが深まる過程で、各企業の情報化関連設備投資は抑制され、ソフト開発需要全体は縮小している。一方で、IT技術者の不足が叫ばれつつも、現実には縮小した仕事量をめぐっての過当競争が激化している。受託開発にせよ、派遣業務にせよ単価水準は引き下げ圧力が強く働いている。一般企業が、つまるところコスト削減をねらってシステム化しようとしているのだから、そのコストさえ極力圧縮しようとするのは当然といえば当然のことである。

 しかも、開発言語や開発環境は、開発コストの低廉化を支援する方向に向かっている。例えば、しばしばIT技術者と同一視さえされるあの「Java」という開発言語にしても、またこれを基礎づけている「オブジェクト指向」という開発環境にしても、技術的な細かいことをとりあえずおけば、要するに「効率的な開発」=「低コスト化」指向に尽きるのである。それらは、システムの「要件定義」の変更(「仕様変更」)という、従来のシステム開発側を悩ませ、工数増大を促していた問題に対して、より柔軟な対応可能性を与えることによって、開発全体コストの圧縮を可能とさせているのだと言えよう。

 今、おおかたのソフト開発会社は、その開発体制を「Java」や「オブジェクト指向」を技術的「旗印」にして整備しようとしているはずである。新規の開発案件がその「旗」の下に絞り込まれつつあるからだ。
 しかし、熟知しなければならないことは、そうした技術的「旗印」の脇には、「開発全体コストの圧縮」という経費的「旗印」をも併記せざるをえない、という事実なのではなかろうか。つまり、相応の投資をして新技術の体制を整備するのは、より販売価格を引き下げるため、ということになるのだ。
 確かに、時代が求める「旗印」を掲げなければ、低価格の仕事さえ確保できないという最悪の事態が待ち受けていると予想される。しかし、どうもこの趨勢に沿っていくことは、「ジリ貧」もしくは「墓穴を掘る」のイメージだと思われてならないのである。

 一言でソフト開発といっても、よりユーザのニーズに近い場所で「要件分析」を行なう作業から、よりコンピュータの内部処理に近い場所でのいわゆるプログラミングという作業まで幅は広い。
 そして、プログラミング作業などの下流部分から、漸次開発手法やツールがより自動化、簡易化へと向かって整備されてきたことも見過ごせない。技術者という高コストの人的作業は、可能な限り自動化、機械化に置き換えられてきたのがここ最近の経過であったと言える。「Java」や「オブジェクト指向」もその一環なのである。
 要するに、時代はソフト開発での人的作業のうち、自動化、機械化(「オブジェクト指向」に即していえば「カプセル化」)できるものはそれに置き換え、安定化とともに低コスト化を推し進めているのである。
 「エンド・ユーザ・コンピューティング」という言葉がある。業務に携わる者自身が、その業務ノウハウを活かしてコンピュータ・システム化を推進する体制のことを指す。従来は、業務担当者は業務知識はあっても、コンピュータ・システムには手が出せなかったため、「業者コンピューティング」に依存せざるをえなかった。
 しかし、ソフト開発ツール類の飛躍的開発状況は、「エンド・ユーザ」でも一定の開発が可能な状況を提供し始めたために、「エンド・ユーザ・コンピューティング」が現実的なテーマとなり始めたのである。

 以上の推移から、ソフト開発を業務とする側は、今クールに自分たちの進路を検討しなければならない岐路に立っていると思われるのだ。従来から指摘され続けてきたように、益々、開発工程の上流部分において、コンサルティング業務のように高度な人的ノウハウを発揮するとか、特殊なアプリケーションに精通することによる差別化とか……、まさにそうした過当競争回避が必須となり始めている。
 時代が何を淘汰しようとしているのかをしっかりと予測しなければ、企業もこの先生き続けてゆけない、そういった厳しい生存競争の時代であることは確かだ…… (2003.08.20)


 予想したとおり、表通りに出るとセミの鳴き声が耳を襲った。
 野菜の値上がりもあってのことか、夏らしい陽射しへの待望が奇妙に高まっているようだ。例年ならば、連日熱帯夜が続き、夏の強い陽射しは敬遠されたところであろう。だが、今年のような不順さに見舞われると、今日のような夏らしい天候が人々に安堵感をさえ与えるようだからおもしろい。

「こう薄ら寒い日が続くと、夏場の商売の人たちもかわいそうだけど、セミがかわいそうだよね。長い時間かけて陽の目をみたら、鳴くに鳴けない天候なんだからね」
「成虫になるまで数年かかるって言うじゃない」
「だからさ、司法試験に合格するまでのような時間かけて耐え続けたゴールがこれじゃかわいそうじゃないか」
「ひょっとしたら、数年間の幼虫時代が結構楽しいものだったりして……」
「そうかなあ……」
 うちの中でのニ、三日前の家内との会話を思い出していた。

 朝のウォーキングの休憩場所としている観音堂の濡れ縁に、わたしは腰掛けていたのだ。ここしばらくは、缶入りの冷えた清涼飲料水もさほどありがたい気がしなかったが、久々に朝日を浴びて汗を滴らせた今朝は、ひんやりとした缶がありがたく、そしてゴクリゴクリと飲み干すうまさはたまらなかった。
 タバコに火をつけ、セミはどうしたのかな、と桜の枝々の繁みを見上げていたところ、まるで上映時刻がきたかのように、ミーン、ミンミンミンミン…… と鳴き始めたのだった。
 境内の敷地ほとんどを覆う桜の葉の繁みの中からセミの鳴き声が厳かに響きわたった。何日も「開演」が延期にされて待ちくたびれたんだろうな、という予断もあってか、セミたちの鳴き声は妙に一声一声に力が込められ、かつ丁寧ささえ感じさせるものだった。
 とりわけ、出だしの「ミーン」には、悲喜こもごもの感情が塗り込められているようにも聞き取れた。やっと披露することができた喜び、安堵の気分は当然として、ここまで待たせ、一声も鳴くことなく枝から転げ落ちて蟻たちの餌となってしまうかもしれない不安を強いた、そのことへの恨み、そしてひっくるめて生きとし生ける物の喜びと哀しみ、切なさなど、そんなすべてが出だしの「ミーン」から滲みでているようだった。
 続く「ミンミンミンミン……」には、生ける物の感情のすべてを浄化して、自然の摂理を寛容に受け容れていこうとする祈りのような響きが……

 こんなのん気にことを言ってる場合じゃないリアルな空気が支配し、「現代は生存競争なんだかんな!」と言わぬばかりの矢やら鉄砲玉やらが飛び交い、爆風やらが吹き荒れている。しかし、それはそうだとしても、生きとし生ける物の基礎的条件や運命には、いささかの変更もないことを、セミの鳴き声は示唆していたように思えた。割愛された夏を惜しむセミの鳴き声には、不思議な説得力が感じられたのだった…… (2003.08.21)


 「勝ち組」と「負け組」との分極化は、事態の結果に対して言われがちである。
 歴然とした成果で勝ち進んだ一部の企業と、蹴散らされ立ち行かなくなった多数の企業という、結果的な対置関係がそう呼ばれてきたはずだ。
 しかし、「勝ち組」と「負け組」との分極化は、突然に結果として現れるものではなさそうだと思われる。事のプロセスにおいてすでに「勝ち組」となる可能性を秘めた道を歩んでいる企業と、どう転んでも「負け組」となるしかない轍(わだち)を急ぐ企業とがあるように思われるのだ。

 情報交換の意図も含んで他社への営業的な問合せをしてみると、いずれもトーンがくすんではいるのだが、担当者が持ち出す話題やその口調から、失礼ながらその企業の「勝ち組」指数、「負け組」指数が透いて見えるような気がしてしまう。
 何をもってそんな指数を感じとるかと言えば、決して他人事ではないのだが、「どの程度将来というものを凝視しているか」の度合いから感じられるのである。この課題は、言うまでもなく現在とてつもなく難しい。どの業種であろうと、数年先はおろか、ニ、三年先でさえ霞んで見えにくいだろう。
 だが、少なくとも言えることは、たとえその姿は鮮明ではなくとも、将来に来るべき業態のイメージを模索しなければ将来など来るはずはないのではないかと想像する。

 かつて、ソフト業界がイージーであった頃、ひとつの戒めの言がささやかれたことがあった。「派遣業務体質を身につけると脱却できない」というような意味の言葉であった。要するに、膨大なソフト開発需要が横たわり、開発は人海戦術が一般的であったため、とにかく要員を提供する立場に立てば難しいことを考えなくても一年、二年の売上計画が成立してしまう、といった荒っぽさであったと言えよう。程度の差こそあれ、多くのソフト関連会社がこの風潮の中で規模拡大を図ってきたものと思われる。
 これはちょうど、バブル期に、土地さえ買って転がしてゆけば商売となったイージーな事情と酷似していたかもしれない。そして、経営者たちはその傾向が永遠に続くと見なし、実のある経営努力を軽んじたかもしれない。それでもやってゆけたために、上記のような戒めの言葉がまともな経営者たちからささやかれたのだった。
 それは、何とかやってゆけるという「恵まれた」実態と、ほかにやるべき方針が立てられないという「情けない」実態との両方を照らすかたちでささやかれたのであろう。

 多くのソフト会社が色を染めてしまった「派遣体質」(これは、たとえ契約上「請負」形式を採ってはいても、実質「派遣的」業務であるケースを含む)から脱却することは、今最大の課題であり、また難易度も最大の課題だと思われる。
 それというのも、今なお、この「体質」を引きずりながらソフト会社でござい、と言って仕事を得ていくことは不可能ではないからだ。従来型の業務スタイルの企業による過当競争の結果によって、「工数単価」は原価割れ近くにまで突き進んでいくだろうが、仕事が絶えることはないだろう。ただしそれでは、ソフト会社の経営者、誇り高い技術者たちが満足できるのかという、重大な問題がどっかりと居座り続けるはずである。決して他人事ではない課題であるだけに、将来像の模索はいばらの道と言うしかない。

 わたしは、昔、渓流釣りに凝っていたころに先輩が言っていた言葉を、今思い起こしている。
「渓流釣りの原則は、荒らされた下流から、ゆっくりと上流へと歩を進めることだ」
 滝にも遭遇しなければならない上流は確かにリスキーではあるが、それこそ釣りの醍醐味が渦巻いている…… (2003.08.22)


 その朝顔の花は白地に薄い紫や薄紅色が滲むように点在して実に涼しげな模様であった。苗は朝日に面する垣根に絡んでいた。
「うーん」
とわたしはうなずいた。
「どうです! きれいでしょ」
 そのおばあさんは、有無を言わせぬ口調で言い放った。
 いつものウォーキングコースであった。突然、
「どうです、これ見てくださいよ!」
という張りのある声が聞こえたのだ。声のする方に目をやると、いつかの元気のいいおばあさんが、垣根の朝顔を指差していた。

 もうだいぶ以前に、その新築の家の前あたりで、「元気ですねぇ」とそれこそ「元気な」声をかけられたことがあったそのおばあさんだった。とすると、この家のおばあさんだったのか、と思ったが、なんとなく納得できないような気もしていた。
 このおばあさんから唐突に声をかけられた時、わたしは妙に張りのある声を出す「高周波(?)」な方だと感じた。何か店の商売をやってきた人ではないかと勝手に推測したりもしていた。
「お客さん、今日は沈んでますね。人生は天気と同じで晴れの日もあれば雨の日もあるもんじゃないですか」
とかなんとか言いながら、つまみの皿を出すことに慣れているような印象もなきにしもあらずであった。
 このおばあさんが、この家の住人だということにちょっとした違和感を感じたのは、この家の佇まいがよくありがちなモダンというか、幾何学風の味気なさというか、要するに近所の人との挨拶も最小限の素振りで済ますような住人にふさわしいような雰囲気だったからである。あくまでも勝手な想像でしかないのではあるが、そんな印象をこの家に持っていたのである。わたしがウォーキングで通りかかると、しばしば、垣根越しに二匹の白い小型犬がキャンキャンと吼えるのも、ある種の否定材料となっていたかもしれない。

「こういう咲き方ってめずらしいですよね。ねっ、そうでしょ」
 おばあさんは、なおも自慢げに話し続けた。
「運動ですか。運動はいいですよね、運動は!」
 わたしは軽く会釈をして立ち去ったが、おばあさんはまだまだ話し続けることを望んでいるような気配でもあった。
 わたしは、ふとあることに思いを巡らせていた。お年寄が、それまで住み慣れた土地を離れて、知らない土地に転居することについてである。そこが、どんなに閑静で住宅環境がいい場所であっても、お年寄にとってはさみしいものだという話である。
 何十年も住み慣れ、自分の感覚の延長となった近辺の風景や、そして近所の馴染みの人々との関係などは、まさに老木が地中にそれまで培ってきた根を突然切られてしまうようなものであろう。若ければ、再度根を張っていくことに何のためらいもないのだろうが、お年寄にとっては辛いものかもしれない。
 そう言えば、先日、あるテレビ番組で、東京は奥多摩にある廃村に独り住み続ける老人の姿があった。九十六歳のおじいさんであった。二十数年前に妻に先立たれ、それ以降は廃村にたった独りで住み続けているという。生活物資は、お子さんたちから定期的な宅配便で届けられているという。
 リポーターは、なぜ、こんなところに独りで住んでいるのか、と問うていたが、自分の人生のすべてがここにあるからだと言われていた。聞くも野暮な問いであっただろう。電気とアパートの一室、そしてコンビニがあればどこにでも住めるというのは、あまりにも味気ない文明に馴らされ過ぎた人間なのではなかろうか…… (2003.08.23)


 錯覚かと疑ったが、やはりキンモクセイの甘い香りが漂い始めていることに気づいた。まだ、あの小粒の花は見ないが、確かにキンモクセイに違いない。例年になく狂った日照時間や、気温の低さから、植物も異常な反応を示しているのだろうか。まあ、わたしとしては、このまま涼しい秋に横滑りしてもらっても構わないと思ってはいる。
 昨日に続き、今日も希少な夏日である。確かに、昨夜も寝苦しい蒸し暑さではあったし、今朝の陽射しも強い。が、キンモクセイの香りもあってか、どことなく晩夏の気配がしないでもない。彩度を失ったかのような空の色、もやが霞むわけでもなくくっきりと見える田畑の景色、日陰に入ると聞こえてくる秋の虫の鳴き声。そんな、訪れつつある秋の予兆が、その気になってみると窺えるようだ。

 今年の日本の異常気象、つぶされた夏は、ヨーロッパの異常気象、荒れ狂う夏と表裏一体だとか聞いたことがある。北半球にかぶさる偏西風の帯が気圧の塊の配置のズレで歪んだとか言っていたようだ。
 それが、北半球は先進諸国が進めた文明活動の結果であるのかどうかは定かではない。しかし、おそらくはそうした影響によって引き起こされていると想像することは難しいことではない。文明による地球環境破壊だと!
 だが、なぜそうした因果関係の結果を制御できないのかを考えると、膨大な問題が一挙に行く手をふさぎ、呆然とさせられてしまう。なぜ子どもの頭脳でもわかる善悪判断だけで問題は処理されないのだろうか。

 振り返ってみれば、現在、さまざまなものが「壊れている」。経済をはじめ、政治の機能、地域社会、教育、そして人々の人生設計、将来展望、希望、夢など、そして人々の健康状態、精神状態を含め、なんらかの秩序が期待される多くのものが、残念ながら「壊れている」状態にあると言っても過言ではない。
 その中でも、倫理や法秩序という人間同士の約束ごとが無残に形骸化しているのが悲惨であろう。そのサンプルは、国内問題として絶えることなく累々と繰り返される犯罪などの社会問題にも見ることができるし、また、暴力の応酬、核の脅威に訴える力ずく外交が実態となった国際状況、そして上述の地球環境破壊の推移にも深刻な例を見ることができる。

 ウォーキングの途中、空き地の草むらに片目の潰れたのらの子猫に会った。明日が約束されていないにもかかわらず、やせた片目の子猫は、揺らぐ紙くずに向かい姿勢を低くしてじゃれていた。かわいくも、哀れでもあったが、思わずため息が出てしまった。
 自宅の周辺にも、のら猫が産み落とした子猫たちが、腹をすかせて小さなやせた身体で逃げ隠れている。聞くところによれば、親猫の主人は、近所で夜逃げした若い自営業者だという。大げさに言えば、現代問題の縮図が垣間見えたのだ。

 人間は、自信を持って自然の秩序を再編集しようとしてきた。自然秩序に沿うことから、それらを人為的に加工し、壊す部分は壊し、人為的にデザインし直そうとしてきたと言える。時を重ねればこの改造は限りなく完成に近づくのかもしれない。
 しかし、あまりにも途方も無い計画ゆえに、現状は壊した局面だけが表面化しているように見えさえする。たとえば、自然と即して経済や人間関係、そして文化を形成し続けてきた日本の場合などは、それらの破壊の結果だけが現在浮上しているようにも見えないではない。
 いまさら、自然に帰れ、というアナクロニズムに目を向けることはできないはずである。そうではなくて、現在「壊れている」ものをしっかりと凝視すべきだと思うのだ。
 現在の状況は、人為的な営為はとてつもない「中途半端なつまみ食い」しかしてこなかった結果だという印象がこみ上げてくる。また、悲観ぶるつもりではなく、これまでの人為的営為は、予定調和的な天国を創り出すなんてことは決してありえないように思う。

 人為的営為には、大きくわけて「人間 vs. 自然」と「人間 vs. 人間」とがあると思われる。そして前者は、現代文明が謳歌するように巨大な成果と悲劇との双方をもたらした。だが、その悲劇は、人為的発明としての核や環境破壊に象徴されるように、巨大な暗雲を招くことになった。
 どうも、「人間 vs. 自然」の関係の大躍進に対して、「人間 vs. 人間」という課題をあまりにも軽視してきた歴史的経緯が感じられる。「文明の衝突」というフレーズは、置き去りにされた後者の課題に起因しているのかもしれないと、ふと思ったりした。もっと、古くて新しいというか、永遠のテーマである人間と人間の関係の問題に当然の関心を向けるべきだと確信する。おそらく、その時に再度、人間の外部と内部の「自然」の問題も蘇ってくるのだろう…… (2003.08.24)


 散歩をしていて、ふと養老孟司氏の「バカの壁」という言葉が口を衝いて出た。
 人は、漠然と世界は一つと思い込んでいるが、実は、世界は人の数だけ存在しているのではなかろうか、と思ったのだ。
 人の数だけの世界、その人ごとの世界があるというのは多少言い過ぎになるのかもしれない。どの人にとっての世界も、その細部や全体の色調は異なっているとしても、概ね共通はしているはずであり、従って世界は一つなのだと考えていいといえばいいはずだ。
 とくに、同一民族、同一文化、おまけに同調性が甚だしい日本人にとっては、まずまず世界は一つだと言い切っていいのかもしれない。だが、そんなふうに自分の認識している日常世界が、同時にどんな他者にとっても同じ世界に違いないと思い込んでいる日本人だからこそ、騙されやすかったり、詐欺にかかったりしやすいのかもしれない。すでに、日本人の共同性(共同幻想?)を担保する従来からの伝統的環境、文化は極端に形骸化してしまっているからである。

 ところで、養老氏の同書は、新聞広告によると百万部のベストセラーになっているそうだ。とかく、現代人はいろいろな意味で他人を「バカ」だと感じていたり、また自身さまざまな困難の中で挫折したりして「壁」というニュアンスを意識させられたりしていることが、多少なりともベストセラーを支えているのではないかと推測したりする。書名のインパクトが売れ行きにかかわることは周知の事実であるからだ。

 ただ、新聞広告欄に、同書の内容紹介で、「話せばわかるは大嘘」という同書の眼目のひとつが援用されてあったが、このフレーズへの共感は大きいかもしれない。
 暴力事件も頻発するし、あちこちでいざこざも絶えない。そんな状況で、良識ある人々の心の中には「話せばわかる」という信仰めいたものが存在し続けてきたはずである。トラブルが未決であるのは、自分の努力が足りないからなのだ、話し方が悪いからなのだと、自身の「信仰の足りなさを責めたりしてきたかもしれない。
 ところが、思わぬかたちで「革命家(?)」が現れたのだ。
「もちろん、私は言葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しかし、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのがわかっていない。そこがわかっていないから、『聞けばわかる』『話せばわかる』と思っているのです」(同書)
 実感や経験から離れて浮遊する「知識」が過剰にもてはやされる風潮の中で、「知識」として自分のものとすればすべてが「わかる」と錯覚してしまう現代人に、この「革命家(?)」はさり気なく警告を発しているのである。

 わたしも、すでに「知識」の中には「形式知」と「経験知(暗黙知)」(できるのに説明できない、わかっているのにうまく言えない、そんな知識のこと)とがあり、後者の持つ意義がもっと注目されていいと考え続けてきた。(cf.2003.08.01、2003.06.06、2003.05.13、2002.12.21、2002.09.12 随分とこだわってきたものです)
 きわどい表現をすれば、「経験知(暗黙知)」こそが自分自身にとって価値ある知識なのであり、評価は「AAA」なのである。それに較べれば、「形式知」などは「BBB」以下であり、必要を感じた時に、それこそひと(他人)から「聞けばわかる」ものではないだろうか。
 だが、「形式知」を振り回し、後生大事に抱え込んでいる人々がやたらに多くなった。そして、それらを材料にして、臆面もなく「世界はひとつ」だと言い放つのである。

 松岡正剛氏であったか、動物だか昆虫が世界をどう見ているか、どう認識しているかについて叙述しているのを読んだことがあった。詳細は忘れてしまったが、客観的に存在すると勝手に決め込んでいるこの世界を、彼らは彼らなりに切り取っているのだそうだ。そこには、人間が認識する世界とはまったく異なる世界が存在しているようなのである。
 散歩時に、世界は人の数だけ存在しているのではなかろうか、と思ったのは、遊歩道をハトが餌を突きながら歩いているのを見たからだった。彼らには、彼らの世界が見えて、存在しているに違いないと思ったからである。

 養老氏も主張されているように、空虚な「知識」を盲信するのではなく、その根底にある人と人との共同体験や、「知識」を操作する脳だけではなく、経験をしっかりと捉える身体などをじっくりと再注視しなければならない時期に来ていると痛感する。さもないと、あちこちに「バカの壁」が張り巡らされ、世界は「出口探し迷路」のゲーム場となってしまう…… (2003.08.25)


 「関係が人を活性化する」というようなことに思いをめぐらせている。
 これに反する実態はといえば、老若男女を問わず現在蔓延しているかに見える「引きこもり」現象なのかもしれない。確かに、他者と直接接触しなくとも、マスメディアを通じて、あるいはネットを通じて「関係」感を味わい、生活も可能であるし、寂寥感に苛まれることもないであろう。むしろ、直接的人間関係が唐突にもたらすかもしれない「予想外」の言葉、「生の」言葉、「不可解な」素振り、「不思議な」表情などに起因する心の波立ちや、痛み、さらにいえばイライラ感などが生じなくて「平穏」なのかもしれない。
 しかし、「引きこもり」に伴うこれらの似非(えせ)「平穏」こそが曲者(くせもの)なのではないかと、最近実感するようになった。

 昔、大学院生で研究生活をしていた頃のことだが、自律的研究をモットーとした研究室は、博士課程後期になるとまさに自主的研究がすべてとなり、何ヶ月も研究室に顔を見せずに、自宅で黙々と励む院生もいたものだ。
 そんな院生が、ある日やつれた顔をして研究室に顔を出し、久々に外書講読に参加したことがあった。もちろん分析力の「切っ先」は鈍っているわけがなく、教授に当を得た質問を浴びせていたものだ。
 講読が終了したあとの雑談で、その院生の口から思いがけない言葉が飛び出した。
「独りでこもって研究をしていると、ペースははかどるのですが、なんと言うのでしょうか、考えることに『自家中毒』が発生するようなのです。これは、結構怖い現象だと感じ始めました……」

 人とはそういうものだという気がする。
 たとえば、食品に関してだが、身体にいいという「おかゆ」を食べ続けていると確実に消化機能を損ない、身体に変調を来たすらしい。また、加工食品ばかりを採っているとやはり同様の症状にもなるらしい。
 あるいは、話は飛躍するが、血縁の濃い関係での結婚を繰り返すと、遺伝子に狂いが発生するということも聞く。動植物におけるケースでは、やがて種の絶滅に至ることもあるらしい。
 人の感覚や思考だけが、例外のはずはないのかもしれない。他者とのリアルな関係を絶って「こもる」ことは、不自然というよりも、かなりリスキーなことだと考えた方がいいのかもしれない。

 ところが、現代は、似非コミュニケーションが、上記の似非「平穏」を与え続けるご時世となっている。その気になれば、何日も会話を途絶えさせながら生活することも決して不可能ではないだろう。さまざまな自動化マシーンが出揃っている。昨今では、癒し系のロボット・ペットまで登場している。「おかゆ」を食わせ続けるような環境設定が押し寄せているのだ。
 これは、人間の生きる力のスポイル以外の何ものでもないと確信めいたものを感じるのだ。身体の消化器官が、適度の植物繊維を要求するように、人の感覚や思考、精神は、時として予想外のシチュエーションを要求しているのではなかろうか。そして、そこでのトラブルを乗り越えての予想外の他者との共感の獲得を切望しているのではなかろうか。
 「スポ根」ものを懐古趣味で賛美しようとしているわけでは毛頭ない。いや、かつてあった「〜ヨットスクール」のことを、あれを犯罪だと決めつけるのはどんなものかと、昨今チラリと振り返ったことがなかったわけではないが。

 先日、就寝前に、「民俗学」関係の本を見ていた。と言っても難しい本ではなく、日本の昔の民具やら、祭りやらの写真や図が満載の楽しい絵本なのだ。が、見ていて(読んでいてではない)ハッと思わされたのは、暗黒の時代だったとの酷評もある中世・近世の封建時代における地方のムラが、いかに豊饒な人間関係の網の目で構成されていたか、という点である。
 面倒なので詳細は省略するが、たとえば「若衆宿(わかしゅやど)」などという、ムラの若い衆が、夜集まって手仕事をしたり話し合ったりして寝泊りする家であり、制度などがあった。「娘宿」もあったし、子どもたちにもそんなものがあったりした。個人生活優先が若年世代にまで貫徹された現代では想像もできない豊かな風習と見えた。
 かつての自分ならば、そんな集団主義が日本をダメにしたのだとか、そんなうっとうしい風習は無くなってよかった、と考えていたはずである。
 決して、そのままのかたちの再現、復興を望むほど単純バカではないが、今、われわれが迎えている極度の人間関係崩壊社会を見据える時、個人主義の完成だけを押し進めていって果たして何が実るのかを、より慎重に見極めなければならない、そんな危険水域に入りこんでいるのではないかと危惧するのである。
 なぜならば、「知識」「情報」という過大に評価された、実のところかなり危ない道具立て以外には、個人を支える環境はやせ細っているように見えるからである。少なくとも、われわれが否定してきた封建時代の網の目のようにさえ見える人間関係と較べればである。そんなにも、われわれ一人一人の個人の精神力は頑強になったのであろうか。自分自身を振り返る時、あの「おしん」ほど自分は強くはないと確認せざるをえないでいるのだが…… (2003.08.26)


 昨今のご時世の居心地悪さに対しては、いろいろと原因をあげつらうことができる。現物主義的に、カネ回り、仕事回りが悪くなったことを嘆く人も多い。多発する凶悪犯罪に不安がる人もいる。
 いつの頃からだろうか、ジワジワと心の座りが悪くなったように感じ始めたのはと振り返ってみる。すると、世に言う「いじめ」が横行し、そしてホームレスなどの「弱者」が虫けらのように殺害されたりするようになってからかもしれないと気づく。
 しかも、そうした青少年の逸脱行動は、社会の病理の兆候であるというよりも、社会の「本丸」に隠しきれなくなった現行社会原理の結果ではないのかと推測させられる。

 従来からの日本には、「弱者をかばう」傾向とか、「判官贔屓(ほうがんびいき。源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓)」とか、反骨的な「下町の人情」とかがあった。それらが、貧しい下積みの生活にある庶民にも、生きる力にバネのようなものを提供していたのではなかったかと思う。「頭の弱い子身体が強い。これで人生五分と五分」の言い草にも似た、心の平衡を生み出させていたのかもしれない。わたしが落語を好むのも、落語とはそうした町人たちの反骨的な心意気が満ち溢れているからだったと言える。

 人間批評の尺度として、「知性」と「やくざ性(反俗的な冒険心)」と「含羞(がんしゅう)性」とを挙げる人がいる。(山折哲雄著『こころの作法』中央公論新社、2002.09.15)
「知性の比重を二割にするか三割にするかでも、意見は分かれるだろう。……そういうもの(やくざ性と含羞性)がどんどん希薄になっていく昨今の風潮を眺めていると、つい知性のようなあいまいなものを二割から一割に減らしてしまいたくもなる。やくざ性とか含羞性こそが重要なのだといってみたい。知性には人間の精神性といったものはあまり宿っているようには感じられないからだ。それにくらべてやくざ性や含羞性にはそれが濃厚に含まれているのではないか」
 ここでの「やくざ性と含羞性」というのは、いわゆる「侠気」と呼ばれてきた、弱きを助け強きをくじく男気のことであろう。与謝野鉄幹も「人を恋うる歌」の中で「友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気、四分の熱」とうたった。それ以前に、中国は洪自誠『菜根譚(さいこんたん)』にも「友と交わるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべし。人となりは、一点の素心を存するを要す」とある。

 前述の山折氏は、「やくざ性と含羞性」のヒストリーを次のように遡及している。
「私は長谷川伸の作品にふれて、股旅任侠道における<弱者への負い目>(傍点)に注目した。ついで司馬遼太郎の小説に触発されて、浄瑠璃町人道における<人情過多の道徳感覚>なるものの可能性を考えてみた。そして最後に新渡戸の『武士道』をとりあげて、さむらいのジェントルマン道における<弱者への憐憫、劣者への同情、敗者への慈愛>について、思案をめぐらしてみた。
 そこに一貫するものを、いったい何と呼んだらよいのだろうか。任侠道、町人道、武士道をつらぬいて変わらぬ主題とは、いったい何かということだ。しかと名指すことは難しいが、それがこの日本列島という風土に育まれ熟成してきた日本人のヒューマニズムの原形質ではないか、というのが私の仮設である。ただしかし、このヒューマニズムには多少とも偏向した個性がみられないわけではない。
 その偏向した個性とは、要するに弱者への無限の負い目を担いつづける傾向性のことだが、そこには立ちつくしながら膝を屈するような<債務>至上主義のモラルが脈打っている。おのれの負い目を担いつづけようとする債務の感覚である。対等の契約関係にもとづく<債権>意識を可能なかぎり無化しようとする意思がそこに働いているといってもいい。西欧流儀の自立的債権者の体面を保つためには、われわれのメンタリティーはあまりにも含羞という強迫観念にとりつかれているのである。やくざ性という反俗の意識が、ひそかにその牙を剥いていたのである」

 いまさらこうした資質を云々すること自体が唐突感をまぬがれない時代となってしまっている気もしないわけでもない。しかし、今、グローバリズムと市場原理は、歯止めなき「弱肉強食」のうねりを促進し続けている。また、これらの原理が、予定調和的な安定秩序を用意していくのだろう、という根拠なき幻想も染み渡っていようか。阪神が優勝できそうなくらいで、決して歴史が<弱者への負い目>をかたちにし始めたなどと思ってはならないのだ…… (2003.08.27)


 先日の教育関連ニュースで、文部科学省が、科学技術・理科教育の総合的な振興策「科学技術・理科大好きプラン」の追加策を出したそうだ。
「中学、高校の理科と数学の先生を支援しようと、文部科学省は来年度からサイエンス・マスター(熟練した理数科教員)育成制度を設ける方針を決め、分かりやすい指導法や教材に工夫を凝らしている教員を公募し、約30人に各50万円程度を補助する」というものだ。
 同振興策は、最近の青少年が「理数離れ」を示す風潮(以前に、そのような統計を聞いた覚えがある)に対して文部科学省が対策したものだと思われる。
 理数的分野に限られるものではないと思うが、「分かりやすい指導法や教材に工夫を凝らす」ことを推奨することは重要なことだと思える。「バカの壁」ではないが、理数的分野に対しては、とかく「壁」を作ってしまうことがありがちかもしれないからである。

 ただ、どうも取って付けたような対策だという気がしないでもない。もっと、抜本的な視点に立つべきだと感じるのである。
 「大好きプラン」というからには、教育理論風に表現し直せば、要するに「動機づけ=モチベーション」課題だということになろう。多くの教育現場では、この「動機づけ」こそが実質的な重要課題だと認識されているのではなかろうか。
 現代という「「情報(化)社会」は、「情報」「知識」そのものは満ち溢れんばかりの環境を持っているわけだ。問題は、それらが効果的に活用されているのかどうかだと言えよう。つまり、猫に小判、馬の耳に念仏にならないように、情報活用の人間、個人側の情報・知識処理能力とともに、その前提たる処理願望、動機の問題が注目されなければならないと思われる。

 たとえば、インターネットのインフラが整備され、通信費の低廉化も推進されたとして、「インターネットで何ができるの? あんまり興味ないなあ」というユーザ側の使用動機の未成熟がたたれば、せっかくのお膳立ても意味をなさないのである。
 さらに言えば、現在の過剰気味に市場に出回っているIT関連製品が抱える課題は、価格の問題というよりも、どれだけ必要と感じるか、どれだけ使いたいと思うかという、動機問題が大きいのではなかろうか。デフレの経済環境の中には、商品への食傷気味傾向、すなわち動機縮小という問題が潜んでいるはずであろう。

 現代という時代は、モノや情報・知識が溢れ、これを使いこなす動機こそが萎縮し始めた時代だと言ってもいいのではなかろうか。「ユーズウェア」という言葉の本質は、パソコンの使い方、使い勝手どうのこうのではなく、実はここにあるのだと思われる。
 そして、「ユーズウェア」の最大の課題は、この人生という不可解な存在をどう使うのか、どう活用するのか、ということになるはずである。つまり、物事の「動機づけ」、「ユーズウェア」とは、取って付けたような部分的なものでは決してないのである。まあ、簡単に言っておけば、「総合的」なものなのである。

 で、冒頭の振興策に戻れば、「分かりやすい指導法や教材に工夫を凝らす」課題を、科学技術・理科教育に限定する発想が、「取って付けた」発想だということになる。「分かる」という現象は、全人格的なものなのであり、言語能力も、さまざまな経験も、合わさって到達することができる瞬間なのである。国語能力も必須だろう。マルチメディアに感応するには、音楽や美術で磨く感性も必要であろう。そうした人間の複合的な能力とその連関に目を向けてこそ、「知識」や「研究」に対する「動機づけ」が奏効するものだと思う。
 繰り返して言うが、現代の教育において最大の課題は、「動機づけ」以外ではない。そして、それはオールラウンドな教育活動によって成就されるに違いない…… (2003.08.28)


 相変わらず資源のムダ使いとも思えるほどに数多くのDMが届く。
 中でも多いものは、IT関連の教育事業者からの案内書である。景気が悪いと企業の予算カットは教育分野から始まるのが定石のため、業者も受講者集めで躍起(やっき)になっているのであろう。
 また、いつぞやも書いたが、ソフト開発に携わってきた企業が、振るわなくなった本業を埋め合わせしようとでも意図しているかのように教育分野に新規参入していそうな気配も一部にはあるようだ。
 確かに、矢継ぎ早で登場するIT関連新技術は、ソフト開発の現業会社でも種々の原因から、「消化されにくい食品」として受けとめられている事情があるにはあるだろう。またソフト開発市場も、ハイエンド(最先端)の技術を駆使した開発に飛びつきがちであり、新技術要素へのニーズは、ソフト開発側からすれば魅惑的と思えるのかもしれない。
 そうしたソフト開発会社向けに、「要員教育承ります!」とのDMが撒かれるのであり、e-mailが飛ばされるのである。

 自分も、そうしたソフト開発会社を顧客とするセミナー開催の一翼を担ってきた経験があるのだが、OFF-JTの短期間で意識改革にせよ、技能習得にせよ成功させることは並大抵のことではないと実感している。
 意識改革ならばもちろんのことだが、技能習得にしても、昨日も書いたように「動機づけ」の比重がことのほか大きいと思われる。新技能の修得の場合でも、なぜ学ぶのか、からはじまり、自分の既存習得技能との関係がどうなっているのか、という自覚も重要なことだと考えられる。また、それを習得することが自分の技術的視野をどう広げることにつながるのか、などだって大きな要素であるに違いない。
 こう書くと、そこまで期待されても困るのですが…… と業者筋から言い訳されそうだが、セミナーを開催してまで教育するとはそういう水準であるべきで、単なる一般的な知識を披露するだけならば、書籍、ビデオ、ネットなどいくらでも学習メディアはあろうというものである。
 現状の単発的なセミナーというものは、何万円もの受講料を負担させながら、教えるということのエッセンスを勘違いしているインストラクター側、まるでITの通信機能のようにほぼ間違いなく知識や技能がトランスファー(伝送)されて帰って来ると安直に思い込んでいる受講者を派遣する会社側、そして、大半が受講することを「職務(義務)」と見なし、つつがなく終えることだけを望んでいるかのような受講者本人側といった、どうも勘違いした役者たちによって演じられているようだ。

 またまた養老孟司氏の「バカの壁」を引き合いに出すことになるのだが、「話せばわかるは大嘘」が時代のひとつの現実だとするならば、レクチュアを聞いて新技術の相貌がわかるというのははなはだ嘘っぽい話だと言わざるをえないと思われる。かりに、言い分け程度の実技指導があったとしても事態はそう変わらないだろう。
 もともとOFF-JTとはそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、現実はますますOJTという社内教育を困難とさせていよう。残念ながら上司や先輩は、部下や後輩に新しい事柄を指導するほどに時間的ゆとりも、能力自体も乏しいはずだからである。

 昨日は「動機づけ」「ユーズウェア」という課題がクローズアップした今日であることを強調した。上記の話は、それらと同じ根っこを持つ問題だと見ることもできるが、より焦点を合わせるならば「インストラクション」(教育、与えられたり教えられる知識・情報など、教えること、レッスン、指示、命令。……『ウェブスター大辞典』より)(c.f.2002.12.19)の問題だと言うべきだ。
 このテーマもまた非常に切迫した現代的な重要課題だと思うが、セミナー云々に尽きることなく、「バカの壁」が林立する環境であれば、学校であれ、職場であれ、日常生活の場であれ、本来はだれかれ問わず真っ先に腐心したい課題ではないだろうか。

「私自身の定義によればすぐれたインストラクターとは、ひとりの人間のニーズをもうひとりの人間の創造力を発揮させるように手わたせる人物のことである」(リチャード・ワーマン『マジカル・インストラクション 理解の秘密』NTT出版、1993)
 現実のインストラクターはと言えば、わからせたいというニーズではなく、物知りぶりを誇示したいというニーズを持ち、相手に創造力を発揮させるより、不快感で暴力を発揮させる者も少なくない?

「よい行動や、すぐれた詩への興味を起こさせることのできる教師は、われわれの頭の中を、名前と形で分類した数えきれない自然界の対象でいっぱいにしてしまう指導者よりもすぐれている」(ゲーテ 上記同書より)

 ちなみに、同書著者は、インストラクターとしての一般的な資質を次のように挙げている。
「●対象への熱意と知識。
 ●他人の熱意と関心を駆りたてる能力。
 ●他人に対し、あるインストラクションが必要であり、会社と個人の双方の目標に合致することを説得する能力。
 ●インストラクションを咀嚼しやすくなるまで小さくし、それを理解しやすい順序に並べかえる能力。
 ●インストラクションの受け手に任務を遂行させる忍耐力。
 ●途中で出会う障害物を認識する力。」
 現実のインストラクターたちは、これらを「咀嚼しやすくなるまで小さくし、それを理解しやすい順序に並べかえ」てインストラクションしてあげないとわからない者が多いのではなかろうか…… (2003.08.29)


 昨日、記した次の言葉は実に示唆的だと思い返している。

「私自身の定義によればすぐれたインストラクターとは、ひとりの人間のニーズをもうひとりの人間の創造力を発揮させるように手わたせる人物のことである」(リチャード・ワーマン『マジカル・インストラクション 理解の秘密』NTT出版、1993)

 今の日常生活は、なにからなにまでが「奪い合い」の様相を呈している。決して、「戒厳令」が敷かれた有事体制でもないのに、人々の意識はあたかも擬似パニック状態にあるかのようで「Take & take」の姿勢が染み出しているようで、余裕というものがない。
 「癒し」系という言葉が日常会話で頻出するのもよくわかる気がするし、ペットが人と人との醒めた隙間を埋め尽くしているのもなるほど感を伴う。
 「奪い合い」の様相とは、見え見えの様相と言ってもいい。何が見え見えなのかと言えば、要するに、世知辛い理屈、ロジック、まあこの足元には商品交換という有無を言わせぬ大原則、鉄則がゆきわたっているのであろうが、そうした味気ないワイヤー・フレームが見え見えだということになる。
 自由意志と感情を持った存在としての人間が織り成す関係ではもはやなく、モノとモノとがワイヤー・フレームのような物理的関係を取り交わすような、そんなモノトーンの世界であるかのような印象が浮かぶ。

 自身が持つニーズ、自分がしてほしいことは、カネという媒体によって、他者が当然のごとく履行するという、そんなロジックに慣れ過ぎてしまったのだろうか。また、それを基本とするものだから、「合理性」という名のもとに理屈だけで事が成立すると思い込んでしまっているようでもある。「頭でわかる」ことだけをして、日がな一日を埋めているようでもあろうか。他人だけを責めているつもりではなく、自身をも振り返ってのことなのである。
 この「囚人のジレンマ」にも似た人間関係からは、生まれるべく期待されている新しい事態も生まれようがないような予感がしてならない。

 冒頭の言葉のパロディを言うならば、とある教室のインストラクターが、自分のインストラクトすることが受講者たちに効果的にわかってもらいたいために、彼らにわかろうと努力してもらうためのカネを事前に提供して安心する、といった本末転倒のバカバカしさの光景である。
 ただ、これをパロディとばかり言っていられない現実もあるにはある。さまざまな「選挙」において、カネが飛び交っているとささやかれたりする事実のことだ。

 モノとモノとの間を情報が流れる際には、その通路が「抵抗値」があるとかの特別仕様でないモノである限り、計算どおりの流れ方をするわけだ。しかし、情報の受け手が人間である場合、また、その通路も人間である場合(つまりインストラクターのこと)、モノ同士の関係とは事情は自ずから異なってくる。人間は「合理性」に対応する知性を持つとともに、自由意志と感情などを持つ存在だからである。
 インストラクターの「情報通路」としての役割り次第では、情報の受け手たる人間側では、予想を絶するブレが生じることになる。所与の情報以上に、豊饒な情報を再現する場合(創造力を発揮! c.f.「一を聞いて十を知る」ただこれは受け手側の才に注目しているので、インストラクション効果を言っているわけではない)もあるだろうし、まさに「馬の耳に念仏」、「ぬか釘」的結果に終わることもあろう。

 ※ところで、今ふと気づいたが、日本のことわざでは、コミュニケーションの問題は、受け手側の資質の良し悪しに帰着させ、話し手側のインストラクションのあり方には言及していないようにも思われた。インストラクションのあり方が、事態を大きく変えてしまうのだというような視点のことわざを探してみるのもおもしろいかもしれない……

 要するに、インストラクター、インストラクションの問題への着目とは、モノ同士ではなく、人間同士における情報交換の、その特殊性に関心を寄せることなのだと思ったわけなのである。そして、ここを深めることなくしてモノ同士の情報交換原理を振り回していたのでは、世界が味気なくなるだけでなく、世界を矮小化することに貢献してしまうのかもしれないと感じた。「よひょう」に対する「つう」の感じた哀しみは、実はこんなところにあったのかもしれない…… (2003.08.30)


 今朝は実に涼しい朝だ。空は白濁色の雲で被われ太陽の姿は見当たらない。風というほどでもない微かな空気の流れがあり、それが肌に心地よい。
 日曜の朝はいつもそうなのだが、道路を行き交うクルマは少なく、歩道にもほとんど人影がない。注意をすれば心持ちか細く聞こえるセミの鳴き声に気づく。街全体が静かで落ち着いた雰囲気に浸り、下手にたとえれば、まるで正月の朝のようでもある。

 そんな明るく静止した風景の中を、今朝も黙々と歩いた。特段、歌などを口ずさむタイプでもないし、独り言を言うでもないので、自然に黙々とということになる。鉄アレーを握り、腕を前後に機械的に振りながら競歩のように歩く姿は、どこか思い込み激しき者のような印象を与えているに違いない。他人をして「勝手にしな!」と言わしめるものが漂っているやもしれない。

 まともにウォーキングを始めてはやまる一年となった。
 言うまでもなく動機は、もはや何らかの善処が必須となってしまった中高年体質の、その改善であった。気まぐれなダイエットなんぞでは効を奏さず、検診を受けていた医者から「クスリを常用することになりますよ」との最後通牒を下され、「ちょっと待った」と始めたウォーキングなのであった。
 たっぷり四キロある道のりを足早に歩くこと、これを全天候型で毎日継続させることは、身体が慣れて納得するまではやはりキツイと言わざるをえなかった。
 だが身体が毎日の負荷に馴染んでくると、不思議なものでこれが気晴らしの一事と変わっていったようだ。理不尽と感じる日常のさまざまなことで気が滅入った際に、ふとウォーキングの一場面を晴れ晴れと思い返すことさえあるほどだ。

 また、ウォーキングを始めるようになり、これはすがすがしい早朝に限るとして六時起床が定着したのも大きな成果だと思える。
 これまでは何十年もの間、夜行性動物として自分を認知してきたが、ストレスからの体調異変に気づいたことと、このウォーキングによって「早起き鳥」に変身したことになる。今では、夜十時ともなれば頭の活動も店仕舞いを始め、十一時には「ノンレム睡眠」に落ち込んでいることが多い。そして、朝の六時前後には目覚ましの世話にもならず目覚められるようになった。
 ただ、頭も身体も何十年と続いた夜行性の習癖を忘れ去ってはいないと見え、仕事などで時として夜の作業をしたりすると俄然寝つきが悪くなったりはする。

 しかし、寝酒を抜きにしては眠れなかった一頃のことを思えば、何と理想的な自然児となったことかと思う。この夏も、ほとんどビールを口にすることはなかった。我慢をした覚えもない。無ければ無いで済んだというのが実感であった。
 むしろ、酒飲みのだらしなさが改めて意識されるようになったほどだ。そういえば、先日もある場で、しこたま飲んだくれて常軌を逸した者に不快感を覚えたことがあった。自身が飲まなくなると、途端に酒飲みに対して寛大でなくなる自分本位さなのである。もっとも、ただでさえ酩酊したかのように自己中心的な振る舞いが一般化した世の中で、それに輪をかけたように自己の自覚がなくなる酔っ払いはやはりほめられたものではなかろう。飲まずにはいられないほどにやり切れない気分は、いやというほどにわかるが、即座に効くものはやはり多くの副作用をもたらすことに、しかと目を向けるべきだと思う。

 それにしても、ウォーキングのように、またこの「日誌」のように、ビジネスにおいてもより安定した経営体制作り(ふと、北朝鮮が対米要求している「体制保証!」を思い浮かべたりした。それは他に要求する筋合いのものなのかという疑問とともに……)に向けて邁進しなければならないと痛感することしきりの昨今である…… (2003.08.31)