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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年01月の日誌 ‥‥‥‥

2003/01/01/ (水)  「『純粋』に逃避するんじゃない!」
2003/01/02/ (木)  諸事情がきっぱりと変化してしまった正月!?
2003/01/03/ (金)  単純な「強さ」がまかり通る時代に「聡明な知」は育まれにくい!
2003/01/04/ (土)  正月の白昼夢、「天下布武」と「構造改革」!
2003/01/05/ (日)  丹沢山地の遠方に覗く、文字通り「頭の部分」だけではあっても富士は富士!
2003/01/06/ (月)  PC環境を改善しながら考えた、イメージで包まれた現代商品!
2003/01/07/ (火)  「部分」としての個々人が抱く「全体」観!
2003/01/08/ (水)  「全体」というものは、「部分」よりも信頼できるものであるのか?
2003/01/09/ (木)  危機的様相だと目に映る現代にあって考えること
2003/01/10/ (金)  不安かと聞かれれば不安! たけど満足! 一体何なの?
2003/01/11/ (土)  大事なもの(情報、知識、知恵)を担っているのは「関係性」!
2003/01/12/ (日)  「関係性」、「ネットワーク」の凌駕で特徴づけられた世界!
2003/01/13/ (月)  「春の予兆」を感じさせたウォーキング
2003/01/14/ (火)  ノーベル賞受賞者小柴さんの新成人への祝辞をきっかけとして
2003/01/15/ (水)  「部分」に芽生える「春の兆し」をこそ凝視したい!
2003/01/16/ (木)  中高年の男性は、日本民族、一足先の難民みたいジャン!
2003/01/17/ (金)  わたしも「きたない好き」などではないことを示そう!
2003/01/18/ (土)  "Green" の草原で自然とともにあったアメリカ人たちが懐かしい!
2003/01/19/ (日)  強者たちの盲点とも言うべき誤算!
2003/01/20/ (月)  「弱さ」の持つ意味を、少しずつ見つめ直してみようか、と……
2003/01/21/ (火)  科学という青二才をバカにするところから始めてみては?
2003/01/22/ (水)  消費低迷現象に潜む重要な時代的問題!
2003/01/23/ (木)  「所有」しなくても「使用」できればいい! が「ソフト化経済」!
2003/01/24/ (金)  心臓のように、勤勉の看板を掲げて抜け目なく休養をとるべし!
2003/01/25/ (土)  「おカネ」vs.「時間」という経済大原則の光と影!
2003/01/26/ (日)  「隠し看板」の陰に表看板が寄り添う時代のあれこれ!
2003/01/27/ (月)  表看板とは「当面の専門性」! では「隠し看板」=ソフトとは何と言うべきか?
2003/01/28/ (火)  時代のニーズに応える「ソフト」企業、技術者とはどんな相貌なのであろうか?
2003/01/29/ (水)  文章力練磨のために、「口述筆記」もどきに目を向けたりする!
2003/01/30/ (木)  「詐欺事件」もややこしくなるのが「ソフト」化時代の特徴か?
2003/01/31/ (金)  こんな時期だからこそ、「試行錯誤」の空気を醸成すべきなのだ!





2003/01/01/ (水)  「『純粋』に逃避するんじゃない!」

 こうやって毎日文章を書き綴っていて、留意しなければならないことがありそうだ。
 リアルな場面、情景こそを冷静に観察して描くことを中心にできればいいと思っているのだが、文章化するとどうしても、抽象化や単純化が行われてしまう。そして、事実の複雑さが失われてしまい、紋切型となったり一方的で極端な思い込みに陥ったりしがちとなるのである。
 日々の思いをスナップショットのように切り取ろうとすれば、思考の「デザイン」(=簡略化や省略などの処理……)が避けられない。まして、何かを言い切ってしまおうとする衝動が働くと、現実から遊離した観念上の一人芝居となる危険もある。

 大晦日の『天声人語』に、ちょっと考えさせられる視点があった。
<F・フェリーニ監督の映画で主人公役のM・マストロヤンニがシャワーを浴びながらこんなせりふを言う場面がある。「『純粋』に逃避するんじゃない」。自分にそう言い聞かせる。そうやって自分の矛盾だらけの人生に向き合おうとする。
 ジレンマが多い時代だ。去年の同時多発テロ以来、多くの国で安全と自由とが秤(はかり)にかけられた。安全のために多少の自由を犠牲にするか。自由のためには少々の危険も辞さないか。
 拉致事件でもジレンマが鮮明だ。事件解明のためには交渉をしなければならない。しかし交渉相手は事件を起こした当の国家である。解明か、断罪か。小泉政治の「改革なくして成長なし」もそうだろう。短期的には「改革か成長か」のジレンマに直面する。
 そんなときピューリタン(清教徒)の国の大統領ブッシュ氏のように「善と悪」の二元論に逃げ込めれば楽だ。そして、自分が「善」の側にいると確信できたら安心だ。「PUREであることは何と容易であることか」(飯田善国)。そのピュア(純粋)への逃避である。……>(朝日新聞『天声人語』2002.12.31)

 冒頭のように、ひとつは、文章を書いて考える際の問題点、つまり、簡略なある種の観点で事実を切り捨てて『純粋』化してしまう危険という問題が思い起こされたのである。 そして、もうひとつが、『天声人語』の筆者が危惧する時代風潮の危険な問題である。社会や世界が複雑怪奇となると、人々は、しっかりと事実をトレースして、根気良く分析しつつ判断することを怠り、「エイヤッ!」と両極にぶれ過ぎた極端な判断をしがちとなる。わかりやすい極端な表現を好む人々も多くなり、『純粋』であることが価値あることだと決めつける風潮も幅を利かすようになる。マスコミ陣(ex.田原総一郎氏)も、「国民にわかり易く言えばどうなるの?」とか「だから、どっちなの?」という常套句を使い、事の単純化を急がせる。

 人間は、もともとが矛盾のかたまりであることを実感的に思い起こす必要があるのだろう。純粋なものを求めつつも、人間の行為は矛盾そのものであり、人間の織り成す世界も矛盾だらけでしかない。だから、なおさらのこと純粋さに憧憬すら抱くのであろうが、純粋であり過ぎようとした際に、まさしく「『純粋』に逃避する」こととなり、観念の世界へと紛れ込んでしまうこと、さまざまな可能性の坩堝である込み入った現実を、奇麗事の観念の枠に押し入れてしまうことになるのを、大いに警戒しなければならないのだろう。
 現代という複雑な時代にあっては、冷静に、静かに、迷いを含んで語ることしかありえないという気がしている。少なくとも、聡明な人々の耳にはそうした言葉しか届かないのかもしれない。スッキリとして、耳ざわりのよい『純粋』さを装った言葉や観念をこそ、空の空き缶がガラガラとがなり立てるような騒音と同じように疑ってみるのも重要なことかもしれない…… (2003.01.01)

2003/01/02/ (木)  諸事情がきっぱりと変化してしまった正月!?

 やはり正月も確実に変わったのだと思った。
 昨日は、地元の神社である町田天満宮と鹿島神社に恒例の初詣に出かけた。もう夕刻になっていたこともあり、両神社ともに参拝客が並ぶ列もなくなり、初めてまともな参拝ができた。
 ところが、神社の行き帰りの十六号線がこんなに混んでいるものかと驚いたのだ。正月といえば「戸外」はすいているもの、という思い込みはすっかり通用しなくなっていた。それもそのはずで、大半のショップが営業中となっていたのだ。コンビニは当然として、イトーヨーカドーもジャスコも、コンピュータのノジマも、そしてレストランに寿司屋にetc.である。そういえば、年末の新聞折込広告でも、元日からの営業を伝えていたものが多かったかもしれない。
 昔の話となるが、故郷に帰らなかった独身者にとって正月ほどさびしいものはない、というのが相場であった。自分も、そんな経験をした覚えがある。日頃、通っていたちょっとした商店街やら食べ物屋が、大体は三が日を休暇とする張り紙をして、街は閑散としてしまっていたからだ。正月は、世間向けのご奉仕の一切が中断され、皆が帰るべきホームグラウンドに戻り、NHKの「紅白歌合戦」の視聴から始まる、永遠の家族団欒行事に身を任せ、「戸外」は真空地帯となっていたと言えるのだろう。

 が、事情はいつのまにか逆転でもしたかのようである。とにかく元日から「戸外」が賑わっているのである。こんな不景気にもかかわらずと言うべきか、不景気だからと言うべきか、店は開き、クルマは走り回り、往年の正月の静けさはどこにもない。
 いや、ことによったら、逆転した事情の言葉どおり、イエの中が「真空地帯」と化し始めているのだろうか。少なくとも、「戸外」が真空地帯でなくなった以上、やむを得ずイエの中に留まるという部分の吸引力がなくなったことは確かであろう。「戸外」の真空地帯状態と裏腹の関係で編み出された「おせち料理」も、聞くところによれば影が薄くなってきたとも言う。もっとも、「おせち料理」=豪華でうまいもの! という実感が完全に神話となってしまったことは言うに及ばない。うまいものは、別に正月ではなくとも、イエでなくとも、いくらでも(イクラでも)手の届く安いチェーン店で食べることができるようになってしまったのだ。
 現代は、「いつでも」OKという点で時間的制約を壊し、イエが内部に固有に保持していたさまざまな機能が商品として外部化した、正月というイエと密着した行事が、立つ瀬をなくした時代であるのかもしれない。

 そう言えば、今回の「紅白歌合戦」を見るとはなく、まるで夜店を遠巻きで斜に構えながら覗くように見て、思ったものだった。これが目玉とはいえ、NHKも今後この企画がお荷物になってゆくのかなあ、なんて余計な心配をしたものだった。それと言うのも、演歌一色、国民一色の時代なら定番的に事が運べるものを、滅び行く演歌と、分散化してゆく若い世代のサウンドが、その衣装や振り付けを含めて何ともマッチしなくなっていると思えたからだ。わたしなんぞは、若いシンガーたちの姿が、「国籍不明!」と感じられたし、さらに言えばホームレス諸氏などによる寄せ集めファッションとさえ思えたものだった。石川さゆりや、北島三郎の和服が「浮いて」見えたりしたものだった。
 うちのおふくろは、演歌歌手の出場場面を追っかけて、チャンネルをずらし続けていたが、逆に若い世代も、チャンネル逆回しをしていたのではないかと想像される。わたしは、ふと呟いたものだった。「こうなると、男女対抗の『紅白対抗』ではなく、<老若>対抗の方がリアリティがあるんじゃなかろうか?」と。
 要するに、男女という愚にもつかない対抗関係を持ち出すほどに一枚岩的であった国民文化は、年代の差によって細分化してしまったと言える。ここでも、みんな一緒にという行事が困難さを迎えているように思われる。

 ともかく、諸事情がきっぱりと変化してしまった正月なのである。こんな正月の変化の裏側には、たぶん家族関係の変化という難しい問題や、合意が見出し切れないことに絡むややこしい問題が、どっかりと横たわっているのだろうと想像したものだった…… (2003.01.02)

2003/01/03/ (金)  単純な「強さ」がまかり通る時代に「聡明な知」は育まれにくい!

 グラニュー糖を撒いたような小粒で乾いた雪が、舗道を部分的に覆っていた。サラサラとした霰(あられ)が舞っている。時々、氷の粒が顔に当たり、その感触がくすぐったいようでもある。
 よほど体調が崩れてでもいなければ、こうして雪が舞っていようが、雨がふきなぐっていようが、今日は中止にしよう、という気にはならなくなった。むしろ、一日の始まりの表紙のようなものがとばされ、けじめのない格好でスタートするのは決して心地よくない、といった受けとめ方にすっかりなってしまったかのようだ。
 しかし、空も乳白色で埋め尽くされ、目に入る景色とて、同様に薄白くぼやけたそんな中を歩くことは、実を言って楽しいという気分からは程遠い。トレーニングか修行かという雰囲気以外ではない。

 気分あらたまる正月早々、無粋な宣伝カーの騒音が鳴り響いていた。右翼の街宣車ではなく、県議会議員のプレ選挙活動のようであった。正月の挨拶と称して、今年に控えている選挙対策なのであろう。
 反射的に不快感を覚えた。住民諸氏は、まだまだ正月気分にまどろんでいたいに決まっているだろう。今週だけではなくできれば来週も、もひとつ堪能できない正月を追っかけ、日常が始まればとげとげしく、きりきりと悩むに違いない生活から避難していたい気分であると十分に想像できる。そんな当たり前に想像できる状況へ、新年のご挨拶と称して、無粋なラウド・スピーカーの騒音をねじ込むとは、どういう心境なんだろうかと耳を疑ったものだ。

 年末に近所の「トロン温泉」で湯につかっていた際、地域の世話好き老人と如才ない姿勢の年輩者が、今年の県会議員選挙を話題にして長話をしていた。何でも、世話好き老人は選対本部長に任じられたそうなのだ。正月早々活動開始だとも言っていたようだ。
 「大変ですねぇ」のお愛想の言葉に対して、「まあね。しかし、女房とも話していたんだが、まだ頼まれるうちが花だってね……」とか世話好き老人は言っていたようだ。ものは言いようなんだなあ、とわたしは眼を伏せて聞いていた。
 政策の話などはもちろん何ひとつ話題になんかならずに、会合のための弁当がどうであるとか、弁当屋の件なら任せてくださいとか、有権者への戸別電話がどうであるとか、戸別訪問では玄関に入るのはご法度なのだとか、せっかくの湯治気分が馬鹿馬鹿しい世間話で邪魔をされたものだった。

 いまさら言うほどのことなどではないのだけれど、世間には、文字通りの政治屋と、また彼らに私的なつながりや私利私欲のみで関与してゆくと思しき連中があとを絶たないようである。「パプリック」な問題を見つめる視点などかけらもないかのごとくだ。
 永田町がどうこうという非難は自然な感覚だと思うのだが、永田町だけが異常なわけではないと言うべきなのである。永田町の滑稽さは、全国津々浦々の滑稽さの積み上げの上に君臨しているというのが情けないかな実情なのであろう。累々と続くこの国の不幸は、永田町の住人、政治屋たちの仕業であるとともに、誰あろうやはり国民自身の、その愚かな選択でしかないという事実から目をそむけるわけにはいかないのだろう。
 なぜこんなことになっているのだろうかと怪訝(けげん)に思わないわけにはいかないが、簡単に言ってしまえば、結果と原因とをしっかりと結びつけて考える行動様式に未だに不慣れな国民性があるとしか言いようがないかもしれない。そして、現代はますます複雑怪奇となり、結果と原因との関係が簡単にはトレースし切れないような重層構造へと突き進んでいる。無責任を特徴とする国民性もまた、こうした脈絡と絡んでいるに違いないと思われる。

 今年もまた、人の幸せと人間社会の幸福をもたらす行動原理は、「聡明な知」以外ではないという思いがにわかに込み上げてきた。ただし、わたしは「知は力なり(ベーコン)」という言葉を単純に信じることは卒業した。「聡明な知」というものは、時として「弱い」ものとして迎えられる事情も納得しておかなければならないと思っている。
「『強さ』がしきりに単純な力を示そうとするのにたいして、『弱さ』はしばしば複雑な様相を呈するために不利になってきたという自然史の事情……」(松岡正剛『フラジャイル』)という事情は、現代においてこそ鋭く立ち上がっているようにも思われるからだ。「聡明な知」を奉ずる者が殉教的立場に追いやられる不幸がすでに始まっているというべきなのであろうか…… (2003.01.03)

2003/01/04/ (土)  正月の白昼夢、「天下布武」と「構造改革」!

 時代劇ドラマが嫌いではない者にとって、正月休みのテレビ番組ではさほど迷わない。吉右衛門の忠臣蔵、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)などを楽しみ、NHKの「天下統一を夢みた男たち」なんぞをつまみ食いしている。
 ついさっきまで、『秀吉』の「本能寺の変」のくだりを見ていた。渡哲也扮する信長と村上弘明扮する光秀のやりとり、両者が不穏な関係となってゆく中、信長の強行さによって敵方の人質となっていた光秀の母御が惨殺される。

 本能寺の変は、興味尽きないクーデターとしてその原因はさまざまに論じられている。朝廷側との関係や、秀吉の陰謀がらみなども謎解きとしてはおもしろい。が、今日ふと思ったことは、「天下布武」という信長の政治思想だった。
 信長は、武士によって天下を統一しようとして、宗教勢力や公家勢力を一掃しようとした。これによって分散した権力を束ね、とりわけ宗教勢力の支配という中世に終止符を打ち込み、政教分離を達成したと言われる。この事業推進のために、信長は「神」となり「鬼」となり、一向一揆の弾圧、比叡山の焼討などの常人には不可能な荒業を繰り出した。
信長は、自らの印章にもしたほどにこの「天下布武」の号令にすべてを託し、歴史を急がせようとしたのだった。当然、あらゆる偶発的事象を排する綱渡りなのであり、隘路を這うような進軍であったはずだ。

 一方、常人たちは、この号令と強圧政治に楯突くことはできなかったのではあったが、当の本人である信長でさえ揺らがないことはなかったかもしれない歴史への巨大な賭けは、不透明さを伴わずに見通すことはできなかったはずである。
 頭脳明晰な光秀でさえ、信長とのやりとりの過程で「武士による天下統一である『天下布武』のためゆえに……」と不承不承の言葉を吐く場面があった。信長の人格的な部分への不信感もつのったのだろうが、「天下布武」という前代未聞の政治思想そのものに対する洞察の未消化、言うなればここに、本能寺の変の避けがたい必然があったのではないかと思えるのである。
 信長は、緻密で明晰な光秀のさまざまな所業に、自身が危惧する自身の企て(「天下布武」)を冷ややかに見通す批判の刃をかねてより感じとっていたはずである。それゆえに、ことさらに残酷な試練をぶつけたのでもあろう。ゆえに、なおのこと「光秀によって」事がなされてしまった。しかし、本能寺の変は、決して偶発的なものではなく、信長が、「天下布武」のために排除し続けた偶発性の山は、危なく累積しつつどこかで誰かによって突き崩される性格のものではなかったかと思えるのである。

 「天下布武」という、歴史の遺物にあえてこだわったのは、いうまでもなく現代のキーワードである「構造改革」を意識しているからである。小泉政権といった一過性の対象を指しているのではなく、米国型資本主義によって推進され続けている「グローバリゼーション(グローバリズム)」と共鳴するスケールの「構造改革」のうねりのことである。
 このうねりは、中世末期における「天下布武」の号令が、前代未聞の残虐な破壊を急がせたと同様の残酷な事態を生み出すのであろう。このうねりは、旧きものとそれと思しきものとを合わせて、また「産湯を捨てて、赤子を流す」危険をも省みずに破壊し、グローバル・スタンダーズ(アメリカン・スタンダーズ)である「効率!」をキーコンセプトとするシステム再構築へと誘導するはずであろう。

 「構造改革」のスローガンもまた、未来への賭けであった「天下布武」と同様に、多くの不透明さを残し、またさまざまな「隠れ光秀」のような反対勢力を生み出しながら突き進もうとしている。
 たぶん、明智光秀には、信長ほどの未来へのビジョンはなかったのではなかろうか。信長ほどに非情さや、残酷さがなかったその分、未来を描き切る構想力も乏しかったのではないかと推測する。
 「構造改革」のうねりは、放っておけば「産湯を捨てて、赤子を流す」危険を十分に秘めているだろう。すでに、日本経済を下支えしてきた中小零細企業が水没し始めているのはその証左だ。今後、悪質な部分の「隠れ光秀」たちも、保身や既得権のために見苦しくも活発に蠢き始めるであろう。
 こうした地獄を、真にコントロールするためには、「構造改革」を超えたヒューマンなビジョンや、新しいライフスタイルが鮮明に打ち出されてゆくことが急務だと考えられる。聡明な人々がジワジワと増え続けていることを信じたい…… (2003.01.04)

2003/01/05/ (日)  丹沢山地の遠方に覗く、文字通り「頭の部分」だけではあっても富士は富士!

(※ 本日は、プロバイダー側のサーバがダウンのため「不通」が続いていました!)

 冬場は、晴れて空気が澄んでいるからなのであろう、西方にのぞく大山や丹沢の山々が美しい。夏場は靄のために平板にしか見えないのだが、この時期には、澄んだ空気のためと、雪化粧のため、山肌の立体的な凹凸がシャープに確認できるのである。山々が望めるところに住みたいと言う人が多いが、そんな点では、町田は恵まれているかもしれない。丹沢山地の遠方に、文字通りの「頭の部分」だけではあっても富士も見えるのである。

 富士の「頭の部分」だけを見ていると、「部分」と「全体」という、考えようによっては奇妙な関係に思いをめぐらすことがある。
 まず、その「部分」だけを見ていながら、それが富士という「全体」の頂上付近であることが自然に納得されるという点である。そして、その頂上部分を頂く、涼やかで巨大なスロープ全体の富士山を、彷彿と、かつ感動を伴いさえして思い浮かべてしまう。冠状のUFOが浮かんでいるなどとは決して思わないのである。誰もが知っている富士だけに、その固定観念があると言えばあるのだろう。言わずもがなの富士のイメージがあるからだと言えばそうも言える。

 ただ、あるものの「全体」が示される以上に、切り取られたわずかな「部分」が提示されることによって、そのものの存在感が十二分に押し出されるということがある。カメラのアングル選びでは、しばしばそうした手品のような効果的視野を、意図的に探すこともある。全体像を画面いっぱいに押し込み、結果的には胸部を写した味気ないレントゲン写真のようなイメージを作るよりも、あえて全体像を写真を見る者の胸の内でリアルに思い描かせるべく、その想像の起爆剤となる「部分」のみを選び抜くのである。

 映画のシーンでしばしば、この効果的な「部分」提示が登場する。大成功をおさめたものとして『ベンハー』での「イエス」像を挙げることができるだろう。ベンハーが不幸なアクシデントと友人の裏切りとによって奴隷の身となり、灼熱の砂漠を他の奴隷たちと一緒に連行される場面である。やっと辿り着いた砂漠の中の井戸で、他の奴隷たちが与えられた水を、ベンハーは意地の悪い官吏に邪魔されて飲まされず、疲労と絶望から熱い大地に伏してしまう。と、ひれ伏すベンハーを大写しにしたスクリーンの左側上部から、柄杓の水を差し出す腕とわずかな後姿が「部分」提示されるのてである。
 この姿がもちろんイエスなのである。そして、この場面が物語『ベンハー』の主題である「憎悪をも贖う愛」を象徴するひとつのクライマックスであったのだろう。
 仮に、もしここで「全体」の状況描写にこだわり、まるで歌舞伎の舞台のような光景が、ロングショットで撮られていたらどうであるか。舞台中央で横たわるベンハー。下手から、水の入った柄杓を手にしたイエスが登場、とする。どんなに荘厳なBGを流しても、イエス役がどんなにもったいをつけた歩み方をしたとしても、観客にゾクゾクするほどの感動と想像を与えることは、まずは不可能ではなかったか。場合によっては、どこにでもいるであろう行倒れの乞食に水をくれてやる頑固なおっさんの、そのイメージ以上にイエスならではの神聖さをかもし出すことはできないのではないか。
 ところが、「誰なのあの人? 顔を映してもらえない俳優ってかわいそうよね」とズレる観客はおいといて、実際のスクリーンは、見事に観客の心と魂(あればの話だが)をとらえてしまったのだった。

 とにかく「部分」の提示によって、いかんなく「全体」を照らし出すという発想とその方法、そしてこの原理には多くのことが隠されているようで興味が尽きない。この文脈に潜むものをしばし追求してみたい…… (2003.01.05)

2003/01/06/ (月)  PC環境を改善しながら考えた、イメージで包まれた現代商品!

 年末年始の休み中に、事務所と自宅のPC環境を改善した。ハードディスクの不調が気になり、思い切って大容量のHDDに再インストールし直すことがきっかけであった。と同時に、自宅で常時使っているPCを二台並行して使える環境にアップグレードしてみたのだ。
 従来、リムーバブルのHDDを使って、異なったOS(Win 98 と Win 2000 や Linux)を使い分けていたが、それはあくまで再起動が前提の、言ってみればわずらわしい使い方であった。また、補助用にノートPCをLANでつないで使ってもいたが、それも机上に場所をとり、もうひとつという感じであった。
 たまたま、掘り出し物のPCを改造して上首尾で完了したものがあったので、二台を並行して使えるようにしてみようと考えたのだった。しかも、ディスプレィを二台並べるのは余りに愚かしいので、一台のディスプレィを切換器で活用しようと考えた。まずまずの達成であった。しかし、キーボードとマウスは二セットとなり、片方を小型のモノとしたものの、次第にわずらわしさがつのってきた。
 そこで、思い切って、それらも共用できる「三点セット共用方式」のスグレモノ切換器を入手することにしたのだった。前述の切換器は事務所で使おうと判断したので、ムダにはならないと自分に言い聞かせた。

 わたしは、PCを使うなら「徹底的に使いこなすべきだ」と考えてきた。人間にしかできない思考までPCに期待するようなお門違いはせずに、思考を助けるための下準備の一切、いやできるかぎりのことはPCにやらせたいと。そして、時間の節約に資することも可能な限りやらせたいと思い、補助PCを並行して使うことを試みてもきた。
 Windows 自体が複数の仕事、マルチタスクをこなしはするが、どうしてもメモリやリソースの限界で、作業の終了を待たされる場面が避けられないことがある。そんな時に、補助PCを使って、時間節約の「気分」を満足させるのである。いま「気分」と言ったように、実際はさほどの効果の差は出ない。しかし、PCを使うなら「徹底的に使いこなすべきだ」と考える者にとっては、そうすることが、人間側の作業や段取りをもスピーディさに向けて工夫させるきっかけになると思い込んでいるのである。

 で、「三点セット共用方式」の切換器活用の「ダブルPC活用」環境は、悪くない雰囲気なのである。片方は、旧いが手放せないISAカードなどを組み込んだ Win 98 を起動させ、もう片方は Win 2000 を起動させている。ディスプレイ・キーボード・マウスは同じモノを使いながら、瞬時にOSを切り替えてしまうのである。キーボード操作でそれが可能なので、まさしく瞬時なのである。
 一体、同時並行起動のこの環境をどうやって生かすのか? ここが、現代のPCその他のIT環境と同様なのであって、どうしてもシーズ先行型と言わざるを得ない。本当に必要・需要に迫られてという程の切実感は今のところ無いというのが実情かもしれない。
 さしあたっては、片方のPCでBGM代わりに音楽CDを演奏させるといった他愛無いことをやったりしている。まあ、時間のかかるプリントアウトや、CD-Rを使う際にも効果を発揮するはずではある。大容量のダウンロードの時にも、別なPCで別作業が可能である。とかくリソースが不足しがちとなる、マルチメディア関係の編集の際にも分散処理によって威力を発揮することになるだろう。なにしろ、同一のキーボードやマウスが使え、なおかつキー操作だけで切り替わるのは簡便この上ないはずだから。

 しかし、こう書いていてもどうしても拭い切れないのが、「始めに道具ありき」といった現代文化の滑稽な側面であろうか。決してべらぼうに高価なものでもなく、「あると、ああいうことも、こういうこともできちゃうな!」というイメージが先行して、ついつい「新兵器」に手を出してしまう風潮である。
 つくづく思うことは、すべからく現代の商品は、その実利性よりも、それに伴う「可能性のイメージ!」が重要なウエイトを占めているのではないかという点である。この点では、昔から夜店や縁日の露店でテキヤが売っていたあやしげなブツとそう原理は変わらないのかもしれない。ただ、テキヤのブツは、十徳ナイフのように相当の訓練をした達人でないと使いこなせないのに対して、現代のハイテク商品は、素人でも「意欲」があれば使えるという点であろうか。ところが、往々にして素人にはこの「意欲」というものがわいて来ないというのがこれまた実情なのかもしれない。だから、ますます「あれもできます!これもできます!こんなことまで……」といったインセンティブ組み込みのイメージ合戦が増幅してゆくのであろうか…… (2003.01.06)

2003/01/07/ (火)  「部分」としての個々人が抱く「全体」観!

(※ 本日もまた、プロバイダー側のサーバがダウンのため「不通」が続いていました!)

 「虚仮威し(こけおどし)」という小気味がよく、はたまた溜飲の下がるような言葉がある。言うまでもなく、「見えすいたおどし。見せかけだけは立派だが、内容のないくだらないものごと」のことであり、この言葉は、それを喝破した者によって、ある時は叫びとして、またある時はつぶやきとして発せられ、これを耳にする者を鼓舞したりする。
 「虚しく」て「仮(かり)」でしかない「威し」とは、何と滑稽なしぐさなのであろうか。抜け目のないカラスなら、一度は脅かされたフリをしながらも、すぐさま取って返し「虚仮威し」の仕掛けのてっぺんで、気持ち良さそうに「アホー、アホー」と鳴くであろうか。

 世の中には、どのような「虚仮威し」の仕掛けが林立しているのであろうか。また、われわれは、それらに対してどんな場合に、抜け目ないカラスのようになれたり、なれなかったりするのであろうか。
 振り返ってみると、この十年ほどの間に、従来権威と見なされてきた存在がいかに多く「虚仮威し」の烙印を押されてしまったことであろうか。あからさまに、あるいは密やかにの別を問わずにではある。
 莫大な不良債権を抱え実態をさらけ出した銀行、発展と安定を誇ってきながら組織ぐるみの脱線で転覆した大手優良企業、なりふりかまわぬリストラで、終身雇用の神話を伝説的事実に換えてしまった多くの企業、もちろん国の経済や財政の不調は一時的なものであったはずが、ずるずると十年を超えてしまった現実、重厚な大理石の国会議事堂で威厳のための威厳を演出してきた政治と政治屋たち、そして一糸乱れぬ組織を絵に描いたような政党の結集と庶民の期待、また東大に象徴されてきた学歴偏重傾向、世界一の安全神話を見守った警察もまた犯罪検挙率のなし崩しが食い止められないなどなど、ずいぶんと様変わりした果てに、多くの人々にそれらは「虚仮威し」だったという印象を巻き散らかしてはこなかっただろうか。

 唐突に結論を先取り的に言うならば、「虚仮威し」の仕掛けの崩壊は、「体系」や「全体」という枠への人々の不信感を助長し、そうしたものを溶解させ始めていった過程ではなかったのかと思うのだ。
 重々しく立派な佇まいを誇示する銀行が、その信頼性に傷をつけることで、その佇まい自体が「虚仮威し」の仕掛けだと見透かされてしまったのだが、失われた信頼の矛先は金融業界全体や指導官庁、ひいては国という「全体」の対象に向けられていったのではないだろうか。
 折りしも、国という「全体」は、公的レベルから民間レベルに至る広いジャンルでの国際的ボーダレス化の動向の中で、国民にとっての「全体」観の対象である位置付けを希薄化させていったのかもしれない。それがグローバリゼーションだったのである。イチローがメジャーで活躍し、松井がメジャーへ移籍しようが、もはや否定的な感想をもらす者が少ないのは、人々が「全体」観の対象を国という枠からグローバルなものへとシフトさせていることだと言ってもいいのではないか。

 つまり、何を「全体」と考えるか、感じるか(別な表現をすれば、どんな「全体」に自分という「部分」は所属しようとするかという意識)が、圧倒的に変化してしまったのが現代という時代であるように思われる。「全体」観は、浮動しているのであり、もう一歩踏み込んで言うならば、そもそも「全体」というような観念は、便宜的ないしは人為的なものなのであって、現実の何かの対象と「一対一の関係」にあるものではないとさえ言えそうなのだ。
 今、最も過激に突き崩されている「全体」としての認識・感覚が何かと言えば、家族であり、企業組織であるかもしれない。地域社会と学校はもはや「全体」観の対象から消失してしまったのかもしれない。
 生み落とされた家族(子どもにとっての家族)は血縁と幼い感性によって、「全体」観の見事な対象であるに違いない。が、作り出した家族(結婚した親たちの家族)は、ひとつの「全体」観であり続けることに絶え間ない試練をこうむっている。また、成長を続ける子どもにとっても、「全体」観は変容してゆくに違いない。
 企業組織が、社員にとっての「全体」観の根強い対象であり続けたのは、言うまでもなく終身雇用(プラス年功序列、企業内組合)の慣行があったためであろう。「ぐるみ」不始末さえ発生させるほどに、組織構成員にとっては文字通り「全体」であったのだ。しかし、事情は一変してしまった。働く者にとっての「全体」は、労働力の流動化情勢にそって、企業組織自体ではなく同業種の枠へと拡大しているはずである。

 「部分」としての個々人にとっての、「全体」というものを強く感じる広がりを大雑把に見てきたが、これ以上分けられない存在としての個人(in-dividual)という「部分」にとって、「全体」とは「全体」観と言わなければならないほどに流動的であり、さまざまであるということが了解できるのである。したがって、「全体主義」の思想というものがいかに粗雑で、道理に反しているかがわかろうというものである。だからこそ、「全体」の空疎さを何重にも覆い隠し、さらに手の込んだ「虚仮威し」の仕掛けを駆使するのが「全体主義」の常套手段だと言えるのだ。

 しかし、何かの「部分」であることを余儀なくされている個人が、手詰まりの挙句に「部分」である自己自身を「全体」と見なす「愚」も避けなければならないはずである。が、現状では、この「愚」の淵で、限りなく不安定なシチュエーションにある個人が、結構多いように思えたりする…… (2003.01.07)

2003/01/08/ (水)  「全体」というものは、「部分」よりも信頼できるものであるのか?

 システム構築に携わる者たちの間でささやかれるフレーズに、「『部分』システムの最適化は、必ずしもトータル・システムの最適化につながらず!」というものがある。ローカルな事象にこだわって積み上げてゆく構築作業が、「全体」システムをのっぴきならないジレンマへ追い込むことを戒めた言葉であろうか。

 そう言えば、ひと昔前のソフト会社は一匹狼の技術者が多かっただけに、彼らを束ねる経営者も悪戦苦闘したようだ。こんな話があったのを思い出す。
 ある経営者は、ひとつのポリシーをもってまずまずの社内調和を生み出していたという。そのポリシーとは、とにかく膝を交えて対面(トイメン)で技術者社員と懇談することであった。派遣業務で、現場に出向いている社員が多い実情もあったのだから、なるほど、良い管理法だと思わせたものだった。ところが、ある日、この懇談方式が破綻をきたし火を噴いたというのである。社員たちの間に、経営者は、それぞれにその場限りのいいことばかり言ってご機嫌をとっている。オレに言ったことをアイツにも同じように言っていた。信用できない、とのうわさが広がってしまったというのだった。これぞまさしく、「『部分』システムの最適化は、必ずしもトータル・システムの最適化につながらず!」なのであった。

 システム構築に伴う難しさはいろいろとあろうが、詰まるところ「部分」と「全体」とをどう調和させるのかということかもしれない。まるで「雑居ビル」のように、あるがままの「部分」が、名ばかりの「全体」の単なるテナント的位置にあるシステムは、もはやシステムとは言えない非効率的な稼動しかしないのであろう。また、ガチガチの「全体」優位で、やたらに「部分」への条件づけを多く盛り込むシステムは、あたかも共産圏の軍隊のようで、「部分」のパフォーマンスがまず問題となるだろう。運が悪ければ、泥臭いデータに遭遇して「キレ」てしまった「部分」システムが、暴走やハングというクーデターを起こす危険も否定できない。

 「柔軟なシステム」が良いと言われるが、人間世界のように「魚心あれば水心」、盆暮れの一升瓶が効く、といった柔軟さであろうはずはない。一時期騒がれた「ファジー」システムはその後あまり芳しい成果を上げていないとも聞く。いや要するに、未知であった想定データやケースに対して処理可能な柔軟性ということになるはずである。
 しかし、「未知である『部分』を想定して対処するシステム」とは、なんと歯切れの悪いシステムなのであろうか。自衛隊に対する政府の憲法解釈のようでもある。要するに、未来に開かれたシステムというのは、言うは易しいが、あくびしながら咳をするごとく、怒りながら笑みを浮かべるごとく頬が引きつる困難さと言うべきなのであろう。

 こう考えると、現代というシステム賛美の時代に対して、ふたつの疑念が生じるのである。
 ひとつは、率直に言って、アブナイなあ! という点である。常に未来に対して開いているはずの現実を、基本的に閉じる原理のシステムが立ち向かおうとするのであるからアブナイ! と言わざるを得ないのである。まあ、真理を留保し続けるという科学の基本が遵守され、幾重ものフェール・セーフが考慮されれば飛行機くらいは乗ってやってもいいと思ってはいる。
 ふたつ目は、システムが幅を利かせれば利かすほどに、イレギュラー・データが切り捨てにされるか、「部分」側がシステム処理迎合的に標準データ化していくであろう点である。システム周辺のモノの規格が標準化されてゆくのは、確かに便利になってはゆくだろう。そして、規格標準化された人工環境はシステムの安定稼動に資するだろう。味気なくなってゆく、とは言わないことにしておこう。
 しかし、モノとしての「部分」の標準化は許せても、人としての「部分」がシステムに迎合するかのごとく規格標準化されてゆくことには、一矢報いたい思いなのである。システム万能をよしとするならば、「独自性」だ「創造性」だのの言葉は、いっそ死語か禁句とすべきなのではないか。「あなたの個性が生かせる五十とおりの組み合わせをご提供しています!」などという、予定調和的路線のコマーシャルなど目にするとげんなりしてしまうのだ。こうして、次第にシステムが管理できる庭で遊ぶことが自分から好きになってゆくのだなあ、と想像してしまうからである。

 「全体」は、自身は実のあるものを何をも提供せず、ただ豊饒な「部分」を収攬(しゅうらん)し、「部分」間の汲めども尽きせぬ多様な関係性をわが身に一方的に方向づけ、静かに未来を葬り去ろうとしているのでなければいいが…… (2003.01.08)

2003/01/09/ (木)  危機的様相だと目に映る現代にあって考えること

 時代と環境は、人をして余談はさておく心境にさせているはずである。そういう自身も、ここ数年の経過を振り返ると、余談に類するさまざまな思いを払拭してきたのかもしれない。どちらかといえば、いわゆる一般論や奇麗事に引きずられがちな性向を、徐々にではあるが捨ててきたようだ。とは言っても、避けられない長い苦境の内で辛酸を嘗めつつ鍛え上げた、世にいう苦労人の人たちのリアリズムなどと比較すれば、まだまだ甘いことは承知している。

 アカデミズムというジャンルに身を置いた時期があっただけに、どうしても「頭で考える」ことに伴う罠から逃れ切れなかった、という自覚も持っている。本当に「考える」ということは、決して浮ついたことでもなければ、虚しいことでもないはずだと、現時点でも認めてはいる。しかし、自信も信念もなく、言ってみれば全体重を預けることができないとうすうす感じていながら、言葉を吐き、言葉を並べ、「考えている」ような気分となり自己満足していたかもしれない自身の姿は、やはり虚しいものだと痛感し始めたのであろう。とりわけ、現時点は巨大な地殻変動とも見える激動の時期である。

 時代と環境の行き詰まり状況が、仮にも詰め込んでいた知識という手持ち札が何とも色褪せていることを気づかさずにはおかなかった、と言えるのかもしれない。多くの人が似たような経験をしていることだと思う。単なる一過性の不況などでは決してない、この新旧課題のクロスオーバー( Crossover )としての難物に遭遇し、多くの人々が苦痛と不安に見舞われ、そしてわが身を振り返っているのだろう。そうでない人々が少なくないとしても、尋常な感性を持った者であるなら、もはやさまざまな意味において「従来どおり」があり得ないことを察知しているであろうし、自身がとるべき対策に目を向けているに違いないはずだ。
 この時代は、やはり「過渡期」などという従来使い古されてきた言葉では表現され尽くされない様相を呈している。むしろ、クライシス( Crisis、危機 )だと言い切った方が適切なのかもしれない。だからこそ、人々も、当初は目先の職業的サバイバルに向けた対策を講じながら、次第に上方修正を余儀なくされ、文字どおりのサバイバル(人間として生き続けることの基本条件の模索!)を意識し始めたのであろう。
 現に、砂上か空中の楼閣でもあるかのような「お茶の間」的日本の外では、民衆が銃を背負い行進する事態が頻繁に見受けられるようになっている。内部の「お茶の間」でさえ、大黒柱がシロアリに食い荒らされている実態がただただ隠されているに過ぎない、まさに崖っ縁なのであろう。

 こうした時期に、自分が意識してやってきたことはといえば、精神的なものの「たな卸し」であったかもしれない。「不良在庫の一掃」というところまではいかないにしても、ただ「ある」ということだけで自己満足をしがちな知識もどきや発想方法もどきに見切りをつけ処分したいと思った。そんなことが可能だとは思えなかったにせよ、「枯れ木も山の賑わい」のような内的「在庫」を整理して、一から出直したいと思った。自信と自慢ができる「在庫」のみに絞り込みたい衝動に駆られていたと言える。
 それほどに、日々見聞する現代の環境全体は、骨格が溶け崩れ始めているかのように思えたのだった。取り越し苦労をすることもないようなのだが、「考える」ということは、今だけを見るに止まらず、今後起こりうる事態を予見することを含むのが当然とするなら、未来に尾を引く投げ出された事象を見つめるにつけ、手持ちの「在庫」はあまりにもいいかげんで無力そのものだと思えたのである。

 わたしが直感的に始めたことは、ともかくも「手堅い」感覚、感性を掘り起こしたいと言うことであったかもしれない。環境側が急速に新奇な事象で満ち溢れる時、対応する力として必要かつ有効なのは、考えるという論理性よりも、感じ取る感性であると思えたのだ。裏返しに言えば、既存の惰性的で無防備な感性を引きずっていることを食い止めなければ、環境の歪みは見えないと思えた。
 この時、論理というものへの一抹の不信が芽生え始めていたのかもしれない。論理や言葉の観念性は、事実を捉え切れずに現状維持に追随してしまうことが大いにあり得ると感じたはずである。このことは、論理や言葉の観念性が、あまりにも現状の変化を隠そうとする勢力によって駆使され尽くしている実情を見るならば、至極当然なことなのかもしれない。
 「手堅い」感覚、感性などがこの歳になって掘り起こせるものかどうかははなはだ疑わしいかぎりではある。小説もどきを書き綴ったり、毎日欠かさない日誌を書き綴っているのも、そのためと言えばそのためなのかもしれない。
 また、ウォーキングを日課として「身体」に意を傾けているのもそのためだと言えるかもしれない。「手堅い」感覚、感性の手掛かりを「身体性」に探ることはあながち見当外れではないのではないかと見込んでいる。もちろん、あとで述べる「観念でがちがちとなった身体」(鷲田清一『悲鳴をあげる身体』PHP新書)などと言う意味での関心ではない。
 ウォーキングの途中で、マガモたちが群れている光景、一斉に飛び立つ場面を見ていると、人間ほどの意識(個体意識)がない彼らの身体が、柔らかく共鳴し合っているといった印象を受ける。そして、それが生命のつながりなのだという確信めいたものを伝えてくれる。現在、人々は、身体的な共同性(さまざまな共同作業、共同生活など)の機会を喪失して、身体というものが元来、社会的性格、関係性を基本としてきたこと、していることを忘れ去ろうとしている。それらは、ハンディキャップを背負う身体の問題は、その当事者だけの個別の問題ではないと言い切る思想と通底しているはずである。
 だが、先鋭化する個人意識と全体社会によるこれまた過剰化した管理観念という分極化の中で、個々の身体をつなぐ柔らかい社会性は、分極する両極へと引き裂かれている。「本人は身体を自分のもち物であるかのように取り扱うことになる」とともに「個人の健康、とくにじぶんの身体へのかかわりを、公的な機関が管理するという事態が発生してくる。健康診断も、かんたんな治療も、誕生や死の取り扱いも、すべて病院が独占的に管理することになる」というごとく。
 かと思えば、「清潔症候群、エイズ、臓器移植、臓器売買、薬害、環境ホルモン……と並べてゆくと、身体をめぐるさまざまの記事が新聞に載らない日はない。……身体がその独自のゆるみやゆらぎ、あるいは独自のコモンセンスを失って、がちがちになっていること、言ってみれば加減とか融通がきかなくなっているということである。身体はいま、健康とか清潔、衛生、強壮、快感という観念に憑かれてがちがちになっている。パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで悲鳴をあげている。身体というのは、もともとはひとがそれに身をまかせ、ぷかぷか漂っていられる船のようなものであったはずだ。あるいは、心がくじけそうになったときにわたしを支えてくれる、そんな保護者のようなものであったはずだ」という、奇妙な現象をも引き起こしている。

 いずれにしても現在、「身体性」への注目が、現代が通過しようとしている激動期の難問にちょっとした手掛かりを与えてくれそうな気がしているのである。とともに、密接に絡んでいる問題が、この間注目している「部分」と「全体」という視点である。それは、身体という「部分」と社会や観念(知識、情報群)という「全体」とののっぴきならない関係にも投影されていると感じている…… (2003.01.09)

2003/01/10/ (金)  不安かと聞かれれば不安! たけど満足! 一体何なの?

 朝日新聞の年末定期国民意識調査によると、「満足」と答えた人は<38%>で'73年調査開始以来最高だったらしい。「まあ満足」を加えると<70%>となり、この高水準は過去の好景気の時期(73年、85年)と並ぶことになるという。生活満足度は景気に影響されると考えられてきたことに反する結果が出たということになる。どうも合点がゆかないでいる。

 ほかにも分析してみたい項目(父親は中心的存在か? さまざまな対象の信用度 etc.)もあるが、上記の生活満足度と関係するものを見てみたい。「あなたは、老後の生活に不安を感じていますか。感じていませんか。」の質問では、今回は、「不安を感じている」が<66%>で、'78年の36%から倍増しているのである。
 将来への「不安」を感じながらいまの生活は「満足」だという心理構造は、一体どう理解されればよいのだろうか。もう一度、生活満足度の問いを確認してみると、設問は次のようになっている。
「あなたは、いまの生活に満足していますか。何か不満がありますか。」

 とっさに、連想するのは、たとえば職場などで急に上司や、お偉いさんが視察かなんぞで現場にやって来て、
「やあ、諸君ごくろうさん! どうかね、がんばってやってるかね。この現場は満足してるかね? 何か不満があったら何でも遠慮なく言ってくれたまえ」
と、にこやかではあるが威厳を崩さない慇懃な表情で尋ねられる光景である。こんな場合、それならばと目をむいて「実は……」と口火を切る者はきわめて少ないはずである。職場のこの例などでは、「目をつけられる」危険があってものが言えないという事情もありそうだが、国民意識調査ではその点は度外視してもよかろう。しかし、「とっさ」のことゆえに、言葉として口に出てこない場合だってあるだろう。もとより、不満というものは、腹のうちで累積すると、爆発こそすれ、言葉になりにくいものなのではなかろうか。
 設問文にもうひと工夫があってもよかったかと思う。「あなたは、いまの生活に満足していますか。いませんか。」でよいのではないか。「なにか不満がありますか。」と畳み込むと、日頃なにかと脅かされている庶民は、「具体的に言わなければ怒られるんだろうな。証拠も挙げなくては名誉毀損で訴えられて何百万円も払えないもんな……」と尻込みするのではないだろうか。
 しかも、この設問は、30個近い設問の後ろから二番目なのだ。いいかげんわずらわしく感じ始め、はやく開放されたいという動機が働いたとしても無理からぬ話なのではないか、とも思われる。

 「不安」というものは、端から対象がはっきりしないものであり、問い方としては、その有無を問題とすればいい。が、不満は、幾分対象が限定されている感情だと考えられている。だから、その対象の指定とセットにしてその有無を尋ねるという発想はわからないわけではない。
 しかし、である。朝日新聞の編集記者さんたちは、現在の日本経済混迷の原因を一言で述べよ、という社内人事昇格テストがあったら、即座にお答えできますか? 現在、増加しつつある犯罪の原因を簡潔に述べよ、であったらどうですか? さらに、現在の家庭生活における最も深刻な問題をひとつ挙げよ、では如何です?
 言うならば、現在もっとも苦しく、切なく、悩ましい問題とは、問題状況がよく見えず、その原因が特定しにくいということなんじゃないんですかね。爆発寸前の「不満」の感情だって、「なにか不満がありますか。」とその「特定」を同時に迫られると返答に戸惑うというのが人情なんじゃないんでしょうか。

 という事で、ひとつは設問の仕方に問題なしとはしない点ありだと、まずは思った。と同時に、まさしく現代の状況が、「不満」という人間的感情(何がしかの「人格」を対象とする!)の行方をはぐらかしてしまうかのような「無署名」「無人格」「無責任」の環境が凌駕していることに、いまさらのように目を向けざるをえない…… (2003.01.10)

2003/01/11/ (土)  大事なもの(情報、知識、知恵)を担っているのは「関係性」!

 わたしは、しばしばありありとした夢を見て、それを思い出したりする。時として、薄らぼやけている夢の内容を、苦しみながら思い出そうとしたりもする。夢は右脳の仕業とか思い込み、夢に通ずれば事によったら右脳に通ずることができるのではないかという勝手な思い込みだったのだ。
 だが、養老猛司著『唯脳論』を読んでいて、はっ、と思わされることがあった。養老氏は、脳の機能を叙述しながら睡眠中の脳活動について書いていた。先ず、睡眠中の脳は非番で休むようなのん気さではなさそうなのである。睡眠中の脳のエネルギー消費、つまり酸素消費は覚醒時と変わらない、いや「レム REM (Rapid Eye Movements)」睡眠中には覚醒時よりも酸素消費は多いかもしれないとさえいう。
 それはそうとして、睡眠中の脳のエネルギー消費が大きいということは、決して睡眠があってもなくてもよい消極的な機能なのではなく、神経生理学的には、睡眠は神経回路の活発な活動を必要とする「『積極的』な過程である」というのだ。「その間になにか重要なことが行われていることは間違いない」と述べ、次のような見解を紹介する。
「クリックはそれを、覚醒時に取り込まれた余分かつ偶然の情報を、訂正削除する時期だと言う。そうした活動が夢に反映される。『われわれは忘れるために夢を見る』。そうかれは言うのである」

 もし、「忘れるために夢を見る」とするならば、それを苦痛まで伴って思い出そうとすることほど馬鹿げたことはない、ということになる。そう感じたのだ。なんて自分は馬鹿なことに夢中となっていたのかと。せっかく、脳が散らかり放題のゴミだらけの部屋を丁寧に掃除してくれたのに、ゴミ箱をひっくり返して巻き散らかしていたようなものなのだ。道理で、いつまでたっても頭がすっきりしないで、過去にとらわれてばかりいたものだ。
 ただ、深読みすべきだと思うのは、夢で意識された対象が即忘れたい対象かどうかは別のことではないかという点である。そんなに見え見えのことを、脳たるものがするわけはない気がするのだ。たぶん、いやよくはわからないが、脳の司令部が、脳の中の何かをデリート、消去する際に、消去対象と関連した部位が刺激されてそれらが映像化、イメージ化されて意識されてしまうのではないんだろうか。廃屋や古いビルを解体する際に、周辺の家屋がガタガタと揺すられ、棚の上のダルマが落っこちてきたりするという、余波のようなものが夢なのではないかと、これまた勝手に決め込もうとしているのだ。

 そんなふうに、脳の機能について深読みをするのは、決して脳の中は単純ではなさそうだからである。たとえば、モノをいろいろな場所、箱だとか引き出しだとか箪笥だとかに仕舞うように、知識や情報が脳の特定の場所に収納されている、というイメージは妥当ではなさそうだからである。コンピュータ情報であれば、やはりモノと同じようにハードディスクのあるセクターのある磁気空間のある番地に、01データではあっても収納されているのだ。
 しかし、わたしの理解では、脳は各脳細胞がそれぞれの情報を受け持ってキープしているのではなく、脳細胞のニューロンという伝達部分を通じて脳内を駆け巡る伝達、通信形態というか、波紋のように広がる影響の形態というか、そうした「関係性」のかたちが情報や思考を司っているようなのだ。
 人間の記憶が、言ってみればあるか無いかの01のどちらかというものではなく、薄ら覚えていたり、薄ら忘れていたりというグレイな部分がほとんどである現象は、脳細胞という引出しの中に収めたモノという観点で推し量るより、上記のように複数の脳細胞が一瞬のうちに連携し合うそのかたちという視点で説明しようとした方が理にかなっていそうな気がするのだ。刺激が脳細胞間をネットワークするそのかたちと考えるならば、完璧にネットが立ち上がらないという極端なこともないだろうし、逆に往々にしてネットワークのメンバーのターミナルたる脳細胞のある部分が劣化していたり、さぼっていたりすることも容易に想像できる。それが、薄ら覚えとなった状態なのではなかろうか。
 また、まさに「ひらめき」というのは、突如としてとある脳細胞が天才ぶりを発揮するといった個人依存的な個々の脳細胞依存的な出来事ではなく、脳細胞間の刺激ネットワークが、ある瞬間にある形態に成り切ることではないかとも思う。

 最近、『般若心経』の「空」の思想に正直言って関心を向けているのだが、「空」とは、とりあえず思い浮かべてしまうような無ではなく、世界の事象というものは物質的なモノであっても流動する関係性によって成立している、ということのようなのである。至極もっともな見識だと感心するのである。モノの実在にこだわって、組成物たる分子や原子にまで遡ったところで満足できるものではないはずだ。それらとて、ある状況のもとでそれにふさわしい関係性を保持しているに過ぎないのだろう。状況、条件を変えれば新たな関係性を取り結んでゆく。水が高温という条件で蒸気に変わるように。
 「空」の思想は、過去のアジアの優れた人々の脳から発せられたわけなのだが、それが可能だったのは、脳の構造そのものが「空」の思想のように、脳細胞同士の刺激関係性によって機能する存在だったからなのかもしれないと思ったりするのだ。
 しかし、この辺の問題を思いつめると、頭がおかしくなりそうなので、再び世知辛い仕事の事に、お仕事お仕事と言って目を向け直しはぐらかそうと思う…… (2003.01.11)

2003/01/12/ (日)  「関係性」、「ネットワーク」の凌駕で特徴づけられた世界!

 現代ビジネスのツボが何かと言えば、いやそんなことは成功者の言うことであってわたしなんぞが言うことではないのはわかっているが、やはり「関係性」の編集ないし創造なのかなと思わざるをえない。昨日、「脳」の機能の「関係性」について書いたのでこの言葉にこだわっているが、「ネットワーク」と言い直せばよりわかり易いのかもしれない。 不況で、かつ前途不透明な状況にあって、最近のマスメディアはやたらと「元気な会社」などを紹介することに血眼になっている。受けとめ側も、自分とは桁はずれの成功者の上気した表情を目にすることなど、決して心地よい気分になれるはずがないにもかかわらず、何か参考にしてかすかな夢のかけらでも追っかけたいと思うのであろうか、つい、目を向けてしまう。
 確かに、苦節何十年のわき目も振らぬ努力、まるでねらいを定めた鉱脈、金脈をただただ掘り進むといった「モグラ的」な執念が実を結んだというケースもないわけではない。これは、まるでわが国の製造業の実態と似ているのかもしれない。
 しかし、目を引くのは、いわゆるニュービジネスなのであり、それらの眼目は、まさに「関係性」、「ネットワーク」への着眼であり、下世話に言えば「他人の褌で相撲をとる」式の企てかと見える。

 この状況を頷かせるひとつの例として、「特許」事情がある。現在わが国の特許登録は何十万件とあるようだが、これらが日の目を見て実業で活用されているケースはきわめて少ないのだそうだ。大半が、昨今の並みの商店に積み上げられた商品のようにひっそりとほこりをかぶる静けさなのだそうである。
 つまり、孤立した「モグラ的」努力の成果は、たぶんとてつもなく良いものであるのだろうが、サクセスしていないということである。そして、登録特許とそれへのニーズを持つ製造業者とを仲介するコンサルタントなどが関与して、ようやくモグラ的努力の成果たる特許が日の目を見たりもするそうなのである。

 時代は、シーズ(技術などの問題解決力を持つもの)とニーズとが自然な出会いができる単純な環境ではなくなっていると言うべきなのであろう。分化、多様化、専門化した社会では、シーズもニーズも偏在して発生し、その出会いは意図的な試行錯誤や、ネットワーカーとでもいうべき仲介役なしには困難な事情となっているのかもしれない。
 だからこそ、ビジネス(いや、これに限らないのかもしれない)において、「関係性」や「ネットワーク」への着眼が必須となっているのだと言えよう。

 いま時、「主体性」という全共闘世代のキーワードを振り回す人も少なくなったはずである。それは、上記の文脈で言えば、「モグラ的」な視点で構築された言葉なのであろうか。さらに言えば、現代とは逆のニーズ過剰・シーズ貧困な時代における必然的な思考・行動形態であったのかもしれない。
 「主体性」という言葉が、実は二種類あって、そのひとつが個人を実体的にとらえてその内発性に着眼するものである。全共闘世代が口にしてきたのはこれであろう。「状況がどうだこうだじゃないんだよ! オマエ自身がどうするかという『主体性』の問題なんだ!」などと口角沫を飛ばしたものであった。
 もうひとつは、外界周辺環境との関係において自身の制御(セルフ・コントロール)をするといった意味の「主体性」である。これは以前、ある思想家がジャイロ・スコープによって航空機が機体をセルフ・コントロールしている事実との類比で説明していたことがあった。
 現代における「主体性」が議論されるとしたら、いうまでもなく後者の意味においてなのだろうと思われる。他者や外部環境との「関係性」を十分に視野に入れ、それらに立脚しながらセルフとしての判断、選択、アクションを進めるということである。その「主体性」の質とは、どう、可能な「関係性」のバリエーションをくまなく想定し尽くし、セルフにとっての最適な選択肢を選ぶかということにかかっているということなのであろうか。かつての「主体性」という言葉が秘めていたかもしれない重厚さや、神秘性が洗い落とされて、どうも明るく軽い感じが伴っている。

 この明るく軽い感じで若い企業家たちが、ネットワーカー的にニュービジネスにチャレンジしているのであろう。旧い世代は、相変わらず旧い「主体性」にこだわり、出口のない暗闇から不安な眼差しを投げかけている雰囲気とでも言うべきか。
 また、国際環境に目を転じると、見た目には旧い「主体性」に固執するかのごとく、国際「関係性」の守護神たる米国に対して、とことん尻をまくっているイラクや北朝鮮の動向がやはり気になる…… (2003.01.12)

2003/01/13/ (月)  「春の予兆」を感じさせたウォーキング

 空気の香りに、どことなく春の接近を感じさせるものがあると思えた。春の気配とまで言えば、裏切られそうな気がしてしまう微かな春の予兆である。
 休日ゆえに、ゆっくりと正午過ぎのウォーキングとなった。いつもは、とうてい身体が暖まり切らない最初の下り坂で早くも汗ばむ感じとなっていた。

 こんな空気の感じは、記憶の中のどんなものと結びついているのかともどかしく探ってみたりしていた。ふと思い出したのが、いつだったか、どこだったかは忘れてしまったのだが、時代がかった古い民家の中に設えられた展示物を見て回っていた時の匂い。明るい日差しの下での梅の植林の姿が、眼をくらませていたのだろうか、民家の内部の薄暗さは、ひどく暗く感じたものだった。ストーブで暖められた室内の幾分かび臭い空気と、外の梅の木々の香りを含んだややひんやりとする空気とが入り混じった独特の香りであったかもしれない。それらが、ふんわりと自分を包んでいた。開放感と言えば大げさとなるが、緊張を伴う制約感のない柔らかい春の予兆のようなものに気を許していたようだった……
 新しいことが始まる時期は、やはり春に限ると唐突に思った。底冷えが始まったとしか思えない新年一月よりも、文字通りの春、三月・四月、つまり従来の慣例である新年度だとする発想に、妙に説得力を感じたりしていた。
 不摂生な惰性的日々に、なたで裁断するごとき区切りをつけるためには、極寒の中の初日の出という状況設定があっても悪くはない。しかし、人の生活で重要なのは自然な継続性のはずである。新春の一瞬の決意が、その後コタツで丸くなって無為に過ごす日々によって浮き上がってしまう状況よりも、すがすがしい温暖な気候が、否応なく毎日の生活を行動的とさせる春そのものの方が、新しきことのスタートとしては効果的であるに違いないと思った次第なのである。
 ついでのことながら、米国のように、秋からのスタートによる新年度というのも悪くはないかもしれない、と思った。「先憂後楽」的に、前半においてしっかりと考え、行動し、しっかりと季節のボトムの状況を試練として受けとめ、そして後半は楽勝的な季節の環境を享受するというのも悪くはないと思えた。新年度の前半である春、夏ををエンジョイしてしまって、挙句の果てに問題先送り状況をシビアな季節である秋、冬で否応なく挽回しなければならないという現状の慣行は、ひょっとして無理があると考えられないわけでもない、と。

 この春の予兆のせいであろうか、ウォーキング途中の光景もいつもとは違っていた。
 ホームレス猫ちゃん(ミーちゃんというらしい。仮設ホームの表札(?)にそう書いてあった)のホームグラウンド近辺でちょっとした催し物が見受けられたのである。
 いつも三人連れでウォーキングをしている年配三人組の男性たちが、日当たりの良い枯草の空き地で、ミーちゃんを取り囲んで車座となって談笑していたのだ。
「これで、やっぱり三月にならないと……」
などと日よりの話や、仕事の話をしている。段取りよろしく、缶ジュースを飲み、菓子の小袋を開き、小さな茶話会といったところだろうか。ミーちゃんはといえば、三人のおっちゃんたちの真中で、横倒しの格好で寝そべっている。昔、家で飼ってもらっていた頃の飼い主たちの団欒のことでも、夢うつつに思い出していたのではないだろうか…… (2003.01.13)

2003/01/14/ (火)  ノーベル賞受賞者小柴さんの新成人への祝辞をきっかけとして

 昨日の成人の日の記念式典で、ノーベル賞受賞者の小柴さんが「いろいろ経験してみて、自分の行く道を見つけやりたいことを大きく育てて下さい」と祝辞を述べたとある。確かにそのとおりだと思う。人生も、猶予された若い時期もあっというまに過ぎ去ってしまう。二十歳と限らず若い世代には、どっちつかずに惰性的な過ごし方をすることだけは、お勧めできない。これは年寄りの繰り言といっていいだろう。名誉に輝く小柴さんでさえ、ご自分の過去を振り返り、無為に過ごした時期のあったことを振り返っておられたのかもしれない。

 わたし自身も人生の入口よりも出口に近い歳となってみて、悔いることがあるとすれば、決して失敗した事々ではなく、いわば失敗もせず何もせずにいたかもしれない時期、あるいは何もせずに通り過ぎた事々であったのではないかと感じている。
 例えば、学生当時の学習にしてもそうである。最近、購入した本の中に、恥ずかしながら次のような二冊が入っている。『新・要説 徒然草 国語T・U、古典T・U準拠』、『完全征服 入試頻出 漢文《語と句形》』なのである。別に、家庭教師を始めようとしているわけでも、はたまた大学入試に再チャレンジをしようとしているわけでもない。ただただ、最近突然に古文や漢文への興味が湧き上がってきたからであり、高校時代に内発的な興味がわかず通り過ぎてきてしまったからである。

 大学時代に面白い男がいたのを思い出している。単位の試験を明日に控え、一夜づけの追い込みをしたのはよいが、当日の朝何と言っていたかと言えば、「オレ、今日の試験はダメだ。いや、ダメでいい。昨夜、テキストを読み込んでみてコリャ面白いもんだと思い、試験範囲以外の部分にのめり込んでしまったんだよ……」と。
 それでいいはずだ。大事なのは、心底面白いという動機をしっかりと刻み込むことであるに違いないのだ。その循環にはまり込んでゆくなら、いつとは言わず成果はきっとついてくるはずなのが学習であり、研究であると疑わない。知や思索というものは、一定の深さの動機で這いずり回れば、自ずから「ハイパーリンク」(ウェブ上で、リンク箇所をクリックしてゆけば、エンドレスにリンク先が表示されていく仕掛け)してゆくものだと推測している。その一定の深さの動機を煮詰めることが重要だと思うのである。

 そこで、やはり現行の若い世代、あるいは青少年を巡る環境が気になったりするのである。受験のための勉強も、動機付けのきっかけにはなるのだろうが、受験目的が自他問わず度を越せばそれは単に宝物の前を通り過ぎさせる機能を果たしてしまうに違いない。
 わたしもそれに気づいて、これまでに上述の古典・漢文以外にも、数学の参考書、生物、もちろん日本史、英語など数多くの通り過ぎてしまった宝関係の基本書籍を愚かしく入手して楽しんだりしたものだった。そんな時、一方では楽しいんだからそれでいいと感じるとともに、もう一方でこれが学生時代であったなら、どんなにかしないでも済んだ苦労が多かったことかと一抹ションボリとしたものである。

 もうひとつ、若い時期というのは、正真正銘に猶予期間(モラトリアム)なのである。試行錯誤と言い直してもよい。そこでは、決して成果を急がせてはならない。まして、高得点などもってのほかのはずである。が、受験体制もそうであるし、自由市場のこの経済環境は、猶予期間人たち若い世代に、とかく人々からの注目という結果先取りへ向かう心境を肥大化させてしまうようだ。むしろ、過剰なそうした雰囲気は、若い世代を不健全な苛立ちへと追い込むだけとなっているのかもしれない。
 「好きなことを早く見つけて」という当たり前なことも、そうした雰囲気とそして渦巻く苛立ちにあっては、ただただ悪循環に陥る危険さえあるだろう。

 冒頭の小柴さんの祝辞に戻るなら、わたしはむしろ「いろいろ経験してみて」という部分を、条件つきでお勧めしたいと考える。その条件とは、短気に(短期に)結論を急ぐべからず。仮にも「これぞと衝動を感じた対象」については、少なくとも対象に面白さが見いだせるまでは食らいつくべし、と言いたい。離れるなり、切るなりはそれからにすべきなのであろう。百パーセント嫌いだと思えて決着をつける判断は、常に未熟である場合が圧倒的に多いと思える…… (2003.01.14)

2003/01/15/ (水)  「部分」に芽生える「春の兆し」をこそ凝視したい!

 昨日までの「春の兆し」と思い込んだものが、今日は冷たい風で吹き飛ばされている。まだまだ、春の訪れは遠いのだろう。しかし、植物たちの振る舞いを覗き込んでみると、そこにはやはり「春の兆し」とも見える命の息吹が見出せなくはない。ろくな手入れもせずに放ってある庭の盆栽の梅の木には、米粒ほどのつぼみが数多く芽生え始めた。

 低迷するわが国のリーダーシップ状況の中で、いまや鬼才を放つ指導力だと見られている、日産自動車のカルロス・ゴーン社長は、日産復活のカギは「将来の方向を示すビジョンを単純明快にしたこと」だと述べているという。複雑で、こじれた環境にあってこそ、「単純明快なビジョン」が、全体を束ねるリーダーによってトップダウンされる必要があることを念押ししている姿だと思えた。

 これだけシステム化され、巨大なシステム側にその制御機能が移行している環境にあっては、「全体」システムにおける指導的位置にある者によって、「全体」が直面している問題の解決方向が、軌道修正されなければならない。それが事実として最も解決に近いはずであるから。
 しかし現実は、「全体」の動向が最も「春から遠い」ように見えてしまう。逆に、「全体」が、「部分」の掴んだ小さな「春」を横取りさえしているかに見えてしまう。( ex. 企業努力によって低廉な価格の「発泡酒」が売上を伸ばしたら、増税に及ぶという姑息な発想!)
 いつの時代も、「末期政権」やその勢力が時代の新しい息吹の足枷(あしかせ)にしかならないことは言い尽くされてきた。今、政治がおもしろくない、見ていて不快感だけが誘発されるという事情はこうした文脈にあるに違いないだろう。

 もうだいぶ前から、わたしは正直言って「全体」の動き、特に政治の動向を見つめる気にはならなくなっている。ひょっとしたら、自身が批判の目を向けていた若い世代の政治へのアパシー(apathy:無関心)に限りなく接近しているのかもしれない。
 そうした「全体」の動きよりも、「全体」からの拘束を受けつつも、腐り切った「全体」などにあろうはずもない時代の新鮮な空気にこそ寄り添っていたいと思っている。あるいは、そのような新鮮な空気が次第に蔓延してゆく一助に自身がなれればありがたいとさえ思うようになった。

 もう何回も反省を込めて書いてはいるのだが、自己満足にさえならないような、虚しい「全体」批判や「犬の遠吠え」のようなことなんぞに時を費やしている場合ではないことを痛感している。「部分」に確実に芽生え始めている貴重な事実こそを凝視してゆくべきだと、そんなふうに確信する。そうした存在への感度をこそより高めてゆくべきなのであって、いくらかかっているテレビだからといって、三流俳優、三流監督によるどうでもいい古い映画を、引っ張られて見ていることはないのだ…… (2003.01.15)

2003/01/16/ (木)  中高年の男性は、日本民族、一足先の難民みたいジャン!

 今日は書きたい事柄が一向に浮かんでこない。しばらく放り投げていた自前の "Linux" サーバに再度ネットで繋ごうという作業でダラダラ手間取ってしまったこともあるにはあるが、実を言えば、昨日強調してみた「『部分』に確実に芽生え始めている事実」に目を転じようという目論見が足踏みをしているのだ。

 マスコミのニュースねたや、一次加工、二次加工された情報を避け、自身の体感的な「もぎ立て」的情報のようなものをもとにして書こうと想定していたのだが、これが何とも難しい。起床して、ラジオを聞いたりテレビをみたり、そして新聞に目を通すこと、これらすべては「全体」発の「汚染物質」(?)で満ち満ちている。北朝鮮放送ではないので「汚染」という表現はやや不穏当かもしれない。しかし、こうしたメディアが報じる内容はとにかく倦怠感を増幅させるだけだ。それに対して、明日への希望の栄養素となるような含有物は探すのに骨が折れるほどだ。まして、加工食品ではないが、重層的に加工された情報に接し続けることは、感覚と思考の不確かさを知らず知らずに増大させるように思えてならないのだ。「〜らしいですね」とか「〜みたいですよ」という「超」間接話法づけになるのだろう。「ナンカ……みたいなカンジ、って言うかー、よくワカンナイけどー……」という女子高生のように、だから何だって言うの? になっちまいそうだ。

 かと言って、身体をはってウォーキングに出かけたからといって、際立つ目新しいことに遭遇するわけでもない。そういえば、今日は「ミーちゃん」が見かけない年配のおっちゃんに甘えていたっけな。おっちゃんもさびしそうな雰囲気の人で、防寒服をまといフェンスに寄りかかり枯草にどっかりと腰を下ろしていた。ミーちゃんに向かって、ここへおいでとでも言ったようで、猫は恐縮しながらもおっちゃんの腹の上に這い上がって、丸くなって落ち着いていた。
 最近は、ペットを飼う人がやたらに目につく。加えて、ご婦人や、若い女性が室内犬を散歩させている姿に混じって、中年から年配の男性の姿も珍しくはなくなりつつあるようだ。テレビのコマーシャル(何と消費者金融!)でも、さみしさのやりどころのない彼らの心境を突いたものがあったようだ。ペットショップへ娘について行ったと思しき父親の中年男性が、じっと見つめる小型室内犬と目を合わせ、子犬とのハッピー・イメージを夢想するのだ。海岸の砂浜を子犬と一緒に少年のように楽しそうに駆けているといった絵なのである。(加工情報から離れると言いながら、小憎らしい加工情報に言及している自分が情けない……)
 この際ついでに言及すれば、「強がってる男の人もかわいいって言えばかわいいけど、弱さを見せれば許しちゃうんだけどね……」と女性が独り言を言うコマーシャルもあったっけな。とにかく、中高年の男性は、ナンカ、ボロボロっていうカンジ、って言うかー、よくワカンナイけど(いや、ホントはよくわかるけど)日本民族、一足先の難民みたいジャン……

 こんなふうだから、今年のNHK大河ドラマが「宮本武蔵」ってえのは解せないのだ。(またまた、言ってるそばから「超」加工情報の話になってしまった。)違うでしょ! と言ってみたい心境なのだ。武蔵は、反面教師的意味ならともかく、この時期には手本となる人物ではないと思っているからだ。そんな真似はできないはずなんだけど、寂しき中高年の男性が何を勘違いしてか「オレはムサシだー!」って、パチンコ屋の商品交換所かなんかの中で力み始めちゃったら、NHKはどう責任とるつもりかなあ…… (2003.01.16)

2003/01/17/ (金)  わたしも「きたない好き」などではないことを示そう!

 どうも自分は貧乏たらしい。何のかんのと言って、モノを捨てたがらない。だから、自宅の書斎は、蔵書(といえるほどの高価なものはすくないが)も膨らみ、モノやパッケージの箱類で物置同然のありさまである。家人もあきれ返って何も言わなくなった。むしろ、わたしの書斎を物置だと見なしているようで、他の「公共」スペースに置き去りにしたわたしのかさばる本などを、密かに「捨てに」来たりする。街の汚い一角に、夜な夜な粗大ゴミを投棄する不逞の輩のようだ。

 事務所の「社長室(ブース)」も、いつのまにか自宅の書斎と双子の顔つきのようになってしまった。どちらかと言えば「きれい好き」なタイプが多い社員の、密かな顰蹙を買っていることは容易に想像できる。
 たぶん、テレビドラマや映画で登場したりする映像の「社長室」を頭の中に描く普通の人にとっては、思わず「ダメダ、コリャ!」と言うに違いないだろう。以前、雑誌の取材で、
「じゃあ、社長が社長室でパソコンに向かって作業している絵を撮らせてください」と、とんでもない申し出をした編集者がいたものだ。わたしは、もったいをつけて、
「いや、社長室にはいろいろと機密上問題となるものがあるので……」と言ってはぐらかしたこともある。確かに、貧乏学生の下宿のような、はたまた二、三流国立大学の文系教授室のような書籍で洪水となった空間などは「機密」にするほかないのだ。

 わたしも「きたない好き」などではない。スッキリとした空間で、涼しげな挙動とクールな思索に浸りたいと思うこともないわけではない。だから、そろそろ片付けようかとも思い始めた。昨日、ちょっと片付けてゴミを出したら、「きれい好き」ピカイチの社員から、「この際、一気に整理しては?」と言われたりもしている。

 自分を「貧乏たらしい」と思うのは、モノを捨てたがらないという点も確かにあることはある。これは、どうも祖父の代からの遺伝であるのかもしれない。小中学生時代を過ごした北品川の祖父の家は、とにかくモノが多かったのだ。箪笥の上の空間はもちろんのこと、廊下や階段の上方には必ず棚が据え付けられ、ビッシリとモノが詰まっていた。祖父は、大工仕事を初めとして、いわゆる「廃物利用」の天才であったので、捨てるべきモノがなかったというべきなのだろう。そんな祖父も、だいぶ前になるが突然亡くなり、主のいなくなったモノは、単なるゴミとして一気に処分されてしまった。

 母も、祖父同様に器用なたちであり、「自給自足」型人間であるため、捨てるモノが少ない。小奇麗な箱類は絶対に捨てない。そうした箱が傷むと、新たに上張りをして楽しんでさえいる。が、何度もの転居の過程で少しずつ「捨てる技術」を身につけてきたようでもある。
 で、わたしも「器用タイプ」目「自給自足」科に分類される人種である。いや、そうであった。が、進化したというべきか退化してしまったというべきか、「リサイクル加工」にほとんど目を向けなくなってしまった。自分で手を下すよりも、安価となった他者のサービスでまかなうことを躊躇なく選ぶナマケモノになってしまったのだ。したがって、かつては、捨てないで置いておいたモノたちの顔は、再び「社会復帰」しようと待ち行列しながら期待感に満ちあふれた顔つきにも見えていたものだが、昨今は、粗大ゴミ回収日に向けた待ち行列の顔つきと見えるようになってしまった。

 わたしがまるで「きたない好き」もどきであることのひとつの原因は、ある奇妙な錯覚に起因しているのかもしれない。いま時は考えられないが、かつては「学タレ(学問周辺にぶら下がって生きている者たちが自嘲ぎみに自称することば)」の多くが、文士気取りで書斎中を書籍で満たしその書籍で埋もれながらあーだ、こーだと悩む(振りをする)イメージを自分のイメージだと見なしていたかもしれない。確かに、それがホームグラウンドの居心地良さだと感じていた時期もあるにはあった。書籍に埋もれる姿は、無数の書籍の著者たちどもを、軍配団扇を手にして従えている、といった自己満足の錯覚だったのであろうか。かつての先輩や同輩の半分くらい、いや三分の一くらいはそんなふうであったかもしれない。中には、「掃き溜めに鶴」さながらに、その環境だからこそそんな立派な論文が飛び立つのだと納得させられるケースさえあった。
 しかし、現在は、物理的法則に反する(!)書籍の積み重ねなどやってる場合ではなく、キーボード一枚でデータベースやインターネットにアクセスしさえすれば多くの知的作業はスピーディに遂行可能なのである。部屋の中は、喫茶店『ルノアール』のようにタバコの煙を浄化した空気の流れ、バッハの旋律などを運ぶ空気の響き、そしてコーヒーの香りなどがありさえすればいいのかもしれない。

 言い訳じみたことに終始していてもしょうがないのだが、もうひとつ整理整頓に消極的であった理由を上げれば、その時間が惜しいということかもしれない。そんなことをしたって、アウトプットには繋がらないんだ、そんなことをする暇があったら新企画のアイディアのひとつでもひねり出すべきだ、新技術の理解のための学習に精出すべきだ、というほとんど焦りと開き直りにも似た心境が支配し続けていたのだろう。
 しかし、そうは言うものの、知らず知らずのうちに体力や気力を低迷させていたことがすべての足を引っ張っていたのかもしれないとも思う。昨今、こんなことをも前向きに考え始めたのは、もしかしたら日々継続するウォーキングによって調が上向いているせいなのかもしれない…… (2003.01.17)

2003/01/18/ (土)  "Green" の草原で自然とともにあったアメリカ人たちが懐かしい!

 "Brothers Four" のCDはどこへ行った? と探していたらほこりをかぶっていたのが見つかった。このニ、三日こればかり聴いている。ウォーキングに出かける時まで、ジャンパーのポケットに SONY の CD WALKMAN をつっこんで、古き良き時代のアメリカ人たちのハーモニーに気持ちを洗われている。今も、"Lady Greensleeves" を BGM にしてこれを書いている。

 "Brothers Four" の歌には、わたしが好きなアメリカ人のイメージが潜んでいる。「大草原の小さな家」と同様に、好感が持てるアメリカ人たちは、"Green" の草原で自然と親しみ、そして葛藤して生きていた。確かに、原住民たちを追い詰め排斥したが、彼らと同じように、大地や自然への畏敬の念を捨てはしなかったように思う。カントリー・ミュージックやフォークには、「ジーンズ」に象徴される大地に根ざしたアメリカ人たちの素朴な逞しさ、健全さの香りがいや応なく感じられる。また、地に足のついた実直さ、聡明さ、誇りなどの匂いもあった。三十年代の少年時代に憧れたのは、そんな自然の中で輝くアメリカ人たちだったのかもしれない。

 そんなアメリカ人たちも、もはや戻りようもなく変わってしまったのだろうか。
 "The Green Leaves of Summer" は、日本でいえば忠臣蔵の位置づけにある「アラモ砦」の肉弾戦で約二百名のテキサス独立軍が、メキシコ軍の前に全滅した事実を主題としたものだ。「風さそふ花よりもなお我はまた 春の名残をいかにとやせん」との辞世の句を遺した浅野内匠頭にも似て、死を目前にした兵士たちが自然や家族たちとともにあった自分たちの過去をいとおしむ姿が悲痛に伝わってくるような気がする。

 自然からはるか舞い上がり、現代兵器がふんだんに投入される戦争の事情は、人間の生み出す悲劇の姿をも変えてしまった。湾岸戦争やアフガン戦争に見られたような、まるでテレビゲームの戦争のごとき「バーチャル」的印象をかもし出す状況は、やはり戻りようがないだけに恐ろしい。
 予定されているというイラク攻撃では、定番の空爆、しかも過去の水準よりも圧倒的に「高度化!」した兵器は、一週間足らずで十分に目的を果たしてしまうのだという。(奇しくもちょうど今、町田上空を厚木基地へ向かう米戦闘機が轟音を立てて通過した……)たぶん、その一週間足らずの殺人は、人間が人間を殺すという感触が伴わず、システムがモノをクラッシュさせるといった淡々とした運びとなるのであろう。どうもそれは、ナチスが、強制収容所のガス室で、ユダヤ人たちを「大量処分」したこととどれほどの違いがあるのかと首をかしげてしまうのだ。
 「強さ」というものが、ここまで誇示されてしまうと、「強さ」が自然から離れてしまった分、正義からも離れてしまったという直感が拭いきれないでいる。やはり、今必要なことは、それでどうなる、というお利口ぶった問いを発する前に、「強さ」への生理的拒絶と、人間をも含めた自然の緩やかな「弱さ」が持つ尊さにうなづきたいと思っているのだが…… (2003.01.18)

2003/01/19/ (日)  強者たちの盲点とも言うべき誤算!

 消費税を年々何%かずつ上げていけば、買い急ぎ感が生じて消費が喚起され、デフレ克服に資するという馬鹿が考えそうな議論があるという。馬鹿かどうかはさておき、最近のわたしの関心のひとつである「強さと弱さ」の問題に引き寄せるならば、強者の盲点とも言うべき誤算が見てとれると思う。
 経済的弱者は、年を経るごとの消費税増大化という事態を目の前にするならば、買い急ぐことによる「得」を計算するであろうか。日本人の貯蓄心理は、名古屋で暮らしたことのあるわたしから見れば、将来のいざという際への準備だと見える。誰にも頼れない庶民が、かろうじて不安を鎮めるための生活の知恵なのだろう。だとすれば、消費税の上り階段的上昇は、暗雲垂れ込める将来への不安がますます色濃くなることを意味する。ますます、貯蓄に精出さなければならないという心理が加速するのではないだろうか。まるで、「北風と太陽」における北風の愚を上塗りしているとしか思えない。

 今ここで、国家財政赤字とその対策に言及するつもりはない。そんな知的作業まで、無能で怠慢な政治家や官吏たちの肩代わりをする義理はないはずなのだ。ただ、サーバント(servant)たる彼らの間違いだけを指摘して、再考を促すことが重要だ。
 思うに、こうした消費税増税策を考える者たちこそは、強者たちの論理と感覚を駆使しながら、致命的な盲点に気づけない者たちだと言える。
 今や、国民的消費水準の上昇こそが国の経済を左右する状況となり、国民大衆がキャスティング・ボート(casting vote)を握ってしまった。しかも、「枯れ木も山の賑わい」のごとく消費を下支えする名もなき大衆、経済的弱者の数量的消費が馬鹿にならないことが認識されているはずである。そんな庶民は、オイル・ショック時の際の生活必需品である洗剤やトイレット・ペーパー入手なら血眼になるであろうが、将来の事態と比較考慮していろいろな商品の買い急ぎ、買いだめには走らない、いや走れないと見るべきではないだろうか。
 買い急ぎの論理の根底には、強者たちが慣れ親しむ「投資」の論理が下敷きになっていると思える。時間経過が生み出す利益という点が共通しているからである。しかし、「投資」のいろはが、生活最低資金以外のカネの運用! ということだとすれば、これに当てはまる庶民はどのくらいいるのだろうか。
 仮に、タンス貯金などをしている「小金持ち」庶民を想定するなら、これらの人々は「投資」に敏感であるのかもしれない。しかし、彼らの関心は消費ではなく、カネの価値であるはずだ。デフレでカネの価値が停滞しているから動かさないのであって、端から消費する意図などないのであろう。ひたすら、カネがカネを生むインフレ傾向をじっと待っているはずである。
 だとすれば、消費税の階段的上昇の圧力は、ただただ全体消費の元気をさらに失わせるだけであって、結果責任を棚上げにした無責任サーバントの自己満足だとしか言いようがない。

 「構造改革」とは、まさに強者の論理と感覚とに親和的な方向であるが、強者たちが最も警戒すべきことは、時代は全体の社会や世界がいや応なく弱者たちに依存せざるを得ない方向へと歩んでいるという事実ではないだろうか。強者たちの圧倒的勝利と見える束の間は、盲点だらけの危うさに立脚していること! この点に、強者たちはいかに接近できるのだろうか…… (2003.01.19)

2003/01/20/ (月)  「弱さ」の持つ意味を、少しずつ見つめ直してみようか、と……

 「良寛」禅師のように、まるで空気さながらに人と接することができれば、と願うのはわたしだけではないだろう。悟りに至った実質的な強さを決して表面化させることなどなく、柔和さと飾らぬ軽妙さが、周囲の人々をそして子どもたちを安心な気分とさせ、生き生きとさせたという生きる姿勢は、途方もなく難しいことだと思う。
 この逆の姿勢の人は、掃いて捨てるほどいるものだ。この自分も、真っ先に目をつけられ掃いて捨てられる口であるに違いない。こんなことで威張ってみてもしょうがない。

 「能ある鷹は爪隠す」ということわざがある。これは、いかにも損得を計量した処世術の匂いが鼻につき過ぎる。「出る杭は打たれる」ような状況下でのある種の戒めなのであろう。「良寛」禅師の場合は、そうした文脈での姿勢ではなかったはずである。それを自然だと見なしたのであろうし、そしてそうあることがより悟りを深いものとすると感じ取っていたに違いない。

 現代人はと言えば、上記のことわざでさえ首肯しないのであろう。ただ、懐かしきオールド・ジャパニーズの方々は、処世術という観点というよりも、謙遜という美意識の点から力を見せびらかす挙動を抑制したはずである。
 しかし、現代人は、「自分をアピールする」から始まり、「パフォーマンス」万歳を通過して、そして張ったりと力の誇示とこけおどしに至るパターンが圧倒的に多いと言えるのではなかろうか。

 わたしが、「フラジャイル」や「弱さ」という観念に、松岡正剛氏の著作に触発されて関心を持つのは、同氏もそうであるに違いないと思うのだが、決して倫理の勧めをやろうとしているわけではない。古風な美意識を懐古する意図でもない(多少はあると言える)。むしろ、認識論的な関心なのだと言った方がいいと思われる。
 「低い目線から見る」という表現に時々接するが、悪くはない視点かもしれないと思っている。ただ下世話な話で、目線をビデオに置き換えて活用し盗撮とやらで恥をさらした者もいたりしたから、もひとつな表現であるような気もしないではない。
 つまり簡単に言えば、高飛車な姿勢からは真実は見えないし、強さを誇示する者にはリアルな情報が流れ込まない、というしばしば言われてきた道理だと言ってもよい。古来、多くの強きリーダーたちの失敗は、こうした道理の罠にはまってしまったがゆえだとも思われる。

 しかし、いま一歩踏み込んだ思索をするならば、やはり処世術レベルの問題ではなく、いま少し奥行きがありそうなテーマだという予感がしているのである。
 振り返ってみるに、人間の身体にしても、機械、電子システムにしても、重要な部分はみな「弱さ」で構成されてはいないだろうか。外部のかすかな刺激を感じ取る感覚部分はすべてか弱い粘膜や、どうみても危なっかしい壊れもの寸前の形態が担っている。脳細胞の活動を支える血液中のエネルギーも、ブドウ糖(グルコース)しか受け付けないという繊細さだ。
 また、さまざまなシステムの精巧な機能を果たす部分は、レンズから始まり超LSIに至るまで、その機能の膨大さに較べて何と華奢な形態をとり続けていることか。何も好みで華奢な形態をとっているわけではなく、微細であることが高速性を可能とさせるという論理でもある点を思うなら、「弱さ」が「強さ」を生むという摩訶不思議な道理さえ考えたくもなるというものなのである。

 そろそろ、「強いことはいいことだ!」という平面的な世界観に、人々は飽き始めているのかもしれないと思ったりするのだ。少なくとも、「逆さ」バブルの時代で、これまで無意識に信じ込んでいた「強さ」を、いや応なく恨めしく眺めざるを得なくなったことを潮時に、「弱さ」の持つ意味を見つめ直してもいいのかもしれない…… (2003.01.20)

2003/01/21/ (火)  科学という青二才をバカにするところから始めてみては?

 頭が疲れるような事態ばかりが頻発するものだと思っていたら、またまた奇想天外なニュースときたもんだ。「日本国内の某所で(日本時間の)21日にも、代理母が日本人のクローンベビーを自然出産する予定だ」と、世界初のクローン人間を誕生させたと主張する新興宗教団体ラエリアン・ムーブメント(本拠・スイス)の関連会社クローンエイドが述べたというのだ。
 話によれば、「数年前に事故で死亡した男児の体細胞を母親(41)の卵子へ移植してクローン受精卵を作り、代理母(25)の子宮に入れて妊娠させた。代理母は日本人ではないという。父親は40代の科学者で、男児が昏睡(こんすい)状態に陥った時、『クローン人間をつくって息子をよみがえらせたい』とクローンエイド社に要請。男児はその1カ月後に死亡した」という。(朝日新聞 2002.01.21)

 父親が願った『クローン人間をつくって息子をよみがえらせたい』という点をどう理解するかである。人さまの悲劇に介入するつもりはないが、事が今後の人類が向かう方向性に関係しているので、率直な感想をしたためたいと思った。
 子を亡くした親の悲しみはいかばかりのものかと深く同情する。夢の中でもいいから再び会いたいとさえ願う気持ちなのであろうと思う。が、どうも釈然としないでいる。

 まず、クローン人間はDNAは同じではあっても、息子さんとは別人格だという点だ。クローン人間で生まれてくる子は、たとえ息子さんとDNAは同じであっても、息子さん自身では決してない。それを「よみがえった」、いや「よみがえらせた」という表現や、そう思い込む心境は、わからないことはないが、やはり間違いだと感じる。
 もし、親御さんは息子さんが「よみがえった」と思ったとして、亡くなった息子さんの愛しく切ない記憶はどこへ行ってしまうのだろう。センチメンタルかもしれないが、先立つものへの生き残ったものの愛情表現とは、いつまでも忘れない、という記憶ではないのかと思っている。それに、もし、魂というものが存在するのなら、息子さんは、「それはボクなの? じゃ、こうして死んじゃったボクは一体だれなの?」と困惑するかもしれないじゃないか。
 また、息子さんの死が与えた重要な事柄、つまり人間にとっては死が避けられない定めであるという冷徹な事実を、わが身に引き付けてしっかりと見つめながら生き続けることが、先立ったものへの供養であり、人間の宿命だと考えるのだが……

 DNAという生命の根幹にかかわる操作にまで目を向け始めた現代科学が、すぐそばに存在しているのがわれわれの時代なのだ。現代科学は奇想天外なことを可能とさせる。ならば、次のふたつの平凡なテーマについて「万人を納得」させてもらいたいものだと思う。
 ひとつは、人間の幸せとは何であるのか? について科学自身(科学者自身)はどう考えているのか。ふたつめは、科学はどう展開し、発展していくのかについての「シミュレーション」である。どうせ、どうあるべきか、という評価的、当為的テーマに答えようとしないのはわかっているから、得意なはずの「シミュレーション」を担ってもらいたい。

 それにしても、行く先も知らずに駆け出す「慌て者」の科学が、後先省みずに事を進めてしまう現代にあって、ヒューマンな思考としての哲学や宗教は、もっと「慌て者」の動向を視野に入れた汗の流し方をしなければいけないと痛感する。これは、無責任集団たる「官僚」に対して、政治家たちが卓抜した洞察力を養わなければならない事情と酷似している。そのためには、まずは現代科学に対する妙なコンプレックスを払拭すべきなのではないだろうか。もっと、科学という青二才をバカにするところから始めてみてはいかがなものだろうか……(頭が疲れてとんでもないことを口走っている!) (2003.01.21)

2003/01/22/ (水)  消費低迷現象に潜む重要な時代的問題!

 需要の低迷が指摘される中で、低価格商品や「新分野」の商品に目が向けられている。また他方で、高級品や、ブランドものが根強い支持を受けている事実も関心の対象となったりしている。しかし、大方の企業関係者はいまひとつ決め手を欠く印象の中で、途方に暮れているというのが実情ではないだろうか。
 もちろん、こうした「各論」的レベルの難問が、「不況だから、デフレなのだからモノは売れないさ」という「総論」的レベルにしがみつく人たちとは無縁であることは言うまでもない。また安直で、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のような賭け事にも似たマクロ経済対策だけにしがみつく人たちの発想とも位相が異なるはずだ。

 消費者需要、市場購買力が日に日に落ちてゆくこのデフレ現象=不況を、これまでと同様にマクロ経済の一般論だけで観察してはいけないことは、かねてから指摘されていた。わたしもそう感じてきた。もちろん、それらが間違いだというのではなく、「複合」的原因で生じているに違いない事象に対して、一般論だけで迫っても空転する可能性が高いということなのである。
 「複合」的原因の主な項目としては、ひとつは日本の固有な国民性に関した問題であり、もうひとつは、「消費」そのものの変化の問題だろうと思っている。いずれも、一般論や理論をそのまま当て嵌めるだけでは済まない「特殊」な問題だと言える。
 日本の固有な国民性に関する点とは、「貯蓄癖」とも言える貯蓄傾向の高さの問題である。米国人たちが、借金をしても消費に明け暮れる傾向、株などへの旺盛な投資傾向と較べるならば、貯蓄傾向という特徴は無視できないとともに、もっとその特徴が分析されたり、それに基づいてデフレ対策が検討されてもいいはずだ。(貯蓄しないでも安心できる社会!)

 「消費」そのものの変化の問題については、以前にも関心を向けたが、要するに「大量生産・大量消費・大量販売」(以下「三大」と略す)が終焉したと宣言されていながら、それではポスト「三大」とは何なのかが決して具体的なイメージで詰めらてこなかったと言えるのかもしれない。
 「個性化」時代に対応した「多品種少量生産」だと耳にしたこともあった。しかし、「個性化」自体が、わが国の現状では眉唾だとささやく者たちも少なくなかった。だから、商品のオプションの幅をやや広げておけばOKだと見なされたかもしれない。
 だが、「多品種少量生産」の技術的整備、インフラ整備だけは追求されてきたと言ってよいのだろう。工場におけるフレキシブルなライン整備や、POS(コンビニなどの販売時点の売れ筋管理システム)の精緻化、そしてWebにおいても「XML」仕様を駆使した個別ニーズに対応した情報提供のシステムなどなどである。

 今日、サイトで情報収集をしていて、ある情報から現代の消費者は商品購入へのチェックが恐ろしく高まっている! という印象を受けた。(東大教授 片平秀貴「デフレ時代の企業改革」NIKKEI NET『日経ニュース解説』)詳細はおくとして、現代の消費者は、商品購入に対して、まるでベスト・ハーフ選択、いやそこまで言うと大げさかもしれないが、少なくとも恋人選びくらいの関心を盛り込んでいるのだなあ、という驚きを得た。
 片平教授は、現代の企業は消費者に対する「おもてなし」という要素が必須となっていると述べていた。要するに、移ろいやすい固定客から信頼を得続けていくためには、家庭への訪問客をもてなすごとく、将来に向けたヒューマンな対応姿勢が必須だというのであった。
 やや過剰な表現と聞こえないでもなかったが、そう聞こえてしまう耳は、「生産者主導型」の悪癖がこびりついているからなのではないか、とふと思ったものだ。
 「消費者主導型」の時代到来と言われて久しいが、言葉では受け入れても、心底からそう納得してこれに向けた大変革を実施した企業は意外と少ないのかもしれない。どうしても、「苦節何十年のキャリアに基づく専門性!」という発想が消しがたいのかもしれない。また、見識のある消費者ばかりではないという経験則もあるのだろう。

 「消費者主導型」時代の根拠を探る場合、ふたつの点に注目してみたい。ひとつは、原理的な問題として、商品の完成は生産者のもとではなく、消費者のもとで行われるはずだという点である。ソフト・システムでも、ユーザによって活用され、おまけにバグまで発見されてこそそのリリースに一区切りがつくのだし、意味あるアップ・グレイドは、ユーザ側での使い勝手の良さへの新たなニーズと、ソフト・ベンダー側の技術的向上の両者が相俟ってこそ達成される。父母という両親の愛情と世話が、良き子どもを育てるように、商品は、生産者と消費者の共同作業でこそ完成するという点なのである。
 もうひとつは、現代情報社会では、消費者への情報公開が進み、消費者が持つ情報の量と質は生産者の水準に勝るとも劣らない可能性が生じてきたという点である。また、生産者が「苦節何十年のキャリア」なら、消費者のある者は「苦節何十年のオタク生活」であったかもしれないのだ。損得抜きで「オタク」を続けてきた者は、ひょっとすれば企業のサラリーマン研究員よりも腰が据わっていることだってあながち否定できないかもしれないだろう。

 いろいろ考えると、現在のわが国経済の「病状」は、まさに「合併症」なのであると意を強めたくなる。マクロ経済の不調という一般的な「肺炎」と見てそれに大きな関心を向けるのか、それもあるとしても、決して見過ごせない大きな問題である「成人病体質」がどっかりと居座っていることに着目するのか、ではないだろうか。
 「成人病体質」とは、糖尿、コレステロール、血圧などに関して「血管」が損傷を受けやすい体質だとすれば、経済社会においては「意思や権限の通路」が狭隘化していることが致命的な病状だと言えるのかもしれない。「許認可制度」や「お上の指導」といったやたらに多い「関所」が、肝心な脳細胞に新鮮な血液を送り込めないでいる、といった想像をしてしまうのだが…… (2003.01.22)

2003/01/23/ (木)  「所有」しなくても「使用」できればいい! が「ソフト化経済」!

 衆院予算委員会の総括質疑が始まり、民主党の菅代表は小泉政権の羊頭狗肉傾向を厳しく批判していた。やはり、団塊世代が持つ過激さが必要なのかなあ、と思わせた。論戦の中で、「経済のソフト化進展」の中で政府は相変わらず旧態依然とした公共投資策(「土建国家」的発想! これは筆者の註)に留まっている点が指摘されていた。同じ「土建」政策であっても、コンクリートの塊でしかないダム建設ではなく、夢のある老後生活を可能とさせる公共老人住宅建設などに目を向けるべきだ etc.……と。

 通勤途中でも、あいも変わらず道路のアスファルトを掘り返す「土建」工事に遭遇する。思わず「貧しい!」という印象が脳裏をよぎってしまう。いろいろと工事の必要性には理由をつけるのであろう。しかし、「そんなワケないだろ〜」と一蹴したい心境となる。必要であることに屁理屈をつけるのはそんなに難しいことではあるまい。まして、優先順位を決めるであろう現状認識、将来ビジョンが混乱している状況では、針小棒大な屁理屈だって市民権を得てしまうかもしれない。
 問題は、道理のある経済効果をにらんだ公共投資であるはずだ。関連業従事者やその家族のことを考えると語弊があるかもしれないが、この時期に「土建」領域に税金を注ぐことは、少なくなった資金が生きない! と誰もが判断しているはずだ。と同時に、高まりつつある別なニーズを我慢させられることを考え合わせるならば、その非合理さが政治の貧困に目を向けさせてあまりある。

 経済が、現代状況にフィットして健全に発展していくことを願うならば、言い尽くされてきたにもかかわらず立ち遅れている「経済のソフト化」推進策に抜本的で目玉的なてこ入れをするべきである。各省庁の既得予算額などゼロベースにして状況に即応した手当てをすればいいじゃないか。それを、こんな時期にとりたてて特徴のない予算編成に終始するのは、能がないことをさらけ出しているに過ぎない。

 ところで、ざっくりと言うならば、「経済のソフト化」というか、モノ離れ・「非」モノ志向の傾向はもはや歴然としている。誤解を恐れず端的な例を出すならば、ほとんどの業種が低迷し、「曇り」「小雨」「雨」という天気状況に例えられる中で、「アミューズメント」が「晴れ」、「精密機械」が「薄日」だという。(日経 「主要30業種業況見通し1―3月・業界天気図」)
 「精密機械」は、「デジカメ」の増産、「高額複写機」によって活気づいているという。「デジカメ」はパーソナル需要における映像情報へのニーズ、「高額複写機」は、企業活動における上質なイメージ情報制作へのニーズと読み代えられるであろう。それぞれのニーズの根底には、上質なビジュアル情報という「非」モノ的存在への強いニーズがあると言える。

 「アミューズメント」は、ゲーム市場での豊富な新作ソフトが支えているという。ディスカウントの家電ショップを覗いてみても、最近ではゲーム・ソフトの売り場面積が馬鹿に広いことに気づかされる。
 自分は、ゲーム・ソフトにはまってはいないし、「ゲーム脳」の問題に危惧の念を抱いたりしているのだが、ゲーム・ソフトユーザのニーズはわかりそうな気がしている。
 人の生きがいにとって、「実感」や「リアリティ」は大きな意義を持つであろう。そして、それらは、感覚に依拠する度合いがきわめて大きいようだ。また、もともとゲームとは、「自由」の観念(もちろん個人の観念)を背骨とし、血肉とし、それが爪先に至るまでしみわたった構成物なのであろう。付帯する条件や拘束とて、その自由が際立つための小道具であるに過ぎない。
 現在のゲーム・ソフトは、@ 「バーチャル・リアリティ」の見事というほかない実現で、リアリティ感覚を完璧に魅了するとともに、A 技術向上=コスト・ダウンによる「パーソナル」環境の実現によって「個人」の「自由」感を最大限に演出することに成功していると言える。

 ゲーム・ソフトが「経済のソフト化」のすべてだとも、代表だとも思わないのだが、氷山のこの一角に氷山(ソフト化された存在)の重要な部分が現れているのだろうと思っている。
 少なくとも、消費にまつわる「所有」概念に重要な変更を迫っているとは言えよう。ゲーム・ソフトは買って持っているということには何の意味もなく、自らがエンジョイすることがほとんどすべての商品なのだ。つまり、ゲーム・ソフトは「使用権」にこだわって購入するものであって、「所有権」にこだわるものではない対象なのである。
 ここから、いろいろな未知の問題が派生するはずであるが、ひとつだけ気づく点を指摘すれば、消費者の視点が所有することだけを動機とする商品から、それが十分に活用できる商品へと雪崩的にシフトするという点である。これは、昨日のテーマ:商品とは生産者と消費者の共同制作! とも合流する点でもある。骨董品などを例とした投資・投機的な商品は別であるが、「消費者の商品活用能力!」を度外視しては商品は流通できないとも言える。昨日の話ではないが、商品ベンダーは消費者を育てたり、消費者に育てられたりする緊密な相互性を持たずして次期商品のリリースはあり得なくなっているのだろう。単なるサービス(奉仕)などではない「ユーザ・オリエンティッド!」の実質的意義が、差し迫っていると言える。

 「経済のソフト化」が、わが国にあっては遅れていることは、商品の含有物を消費者から隠し通せばそれでいいとする企業が存在したことでも十分にわかると思う。現在のデフレ原因の一角には、消費者による「沈黙の一揆」(「沈黙の戦艦」ではない)的側面が潜んでいたりするのか? 無意識的な抵抗を含めてではあっても…… (2003.01.23)

2003/01/24/ (金)  心臓のように、勤勉の看板を掲げて抜け目なく休養をとるべし!

 健康問題については、「早期発見、早期治療」ということが常識のようである。当たり前といえば当たり前のことなのであって、「へぇ〜、そうなんですか〜」などと誰も驚きはしない。
 しかし、実態は意外に守られてはいないという。さらに、大事(おおごと)な病ではなく、いわゆる「疲労」についてはなおさらのこと「早期発見、早期治療」は実践されてないらしい。そんなのん気なことが言っていられないいろいろと厳しい環境が存在するのだろうが、どうも肉体的・精神的な「疲労」に関しても「早期発見、早期治療」が鉄則だと聞いた。

 ある医者、「医者の不養生」ではないまともな医者の話では、疲労は軽い状態の時に休養をとれば極めて効果的に回復できるのだそうである。とことんまで擦り切れ状態に入ってしまうと、回復力が乏しくなるのだそうだ。
 最近のバッテリー(充電池)は、追加の充電が可能となっているようだが、ひと昔前は、百パーセント空の状態にしないとうまく充電できなかったり、バッテリーそのものの寿命が短くなる原理を持っていたようだ。
 しかし、バッテリーと同じような休養のとり方を、人がしていたのでは、回復はままならないというのである。その医者の出した例は、心臓であった。心臓が死ぬまで動き続けるバイタリティは、瞬間瞬間に半分は休んで休養をとっているからだと言っていた。

 聞いていて、コンピュータのマルチタスクで使われている「タイム・シェアリング」の原理を想起したものであった。瞬間瞬間をタイム・スライスしながら、複数のタスク(仕事)を同時にこなしているかのような状態を作り出すという原理である。
 心臓はといえば、収縮と弛緩を繰り返しているわけだが、弛緩という部分も実稼動の仕事と見なせないこともないのだろうが、医者が言うには、そこは心臓にとっての休養時間だということなのだ。心臓は、一瞬一瞬に疲れを回復させる「早期治療」「早期休養」を地でいっているのだということだ。そんなわけで、心臓は、傍から見れば四六時中働く近所の豆腐屋のおやじのようなのだけれど、生理的には半分は手を抜き、休養している抜け目のない臓器なのだそうだ。

 で、自分も要領のいい心臓を見習わなければならないと思った次第なのである。
 自分は若い頃から、何かにつけて「瞬発力」に頼る癖があった。まあ、そこそこの瞬発力と集中力を持っていたのではないかと自負はしてきた。その分「持続性」に難ありという点も「自負」せざるを得なかった。どういうものか、長距離は走ることも、泳ぐことも、飛ぶ、これはないか、とにかく苦手であった。スポーツ以外でもどちらかと言えば「三日坊主」となりがちであっただろう。
 それでも、自分には瞬発力と集中力という強い味方があったのだ、と横柄に構えてきた。ところが、寄る年波には勝てず瞬発力が不発に終わりがちとなるわ、集中力が高まるまでにはえらい時間がかかるわと、古い電気製品に匹敵する自覚を持たざるを得なくなってしまっていたのである。こうなると、「持続性」がダメなのだから、残る人生を「丸腰」状態で臨まなければならない。これは一大事だと気がついたのだ。

 「継続は力なり!」と言ってくれていた中学時代の先生の言葉を恨めしく思い出したり、「雨垂れ石をも穿つ(うがつ)」ということわざと急に親しくなりたがったりしたのだった。が、どうも、いろいろなことわざ各位にはなんだが、心臓の抜け目ない仕事ぶり! という科学的かつなるほど的話が、今もっとも自分の胸の内に響き渡っているような気がするのである。
 ウォーキングの際にも、右足が遊歩道を蹴る仕事中には、左足を休ませるように言い聞かせばいい。その反対も然りである。ビジネスの作業にしても、右脳くん登場の作業と、左脳くん登場の作業とを適度に混ぜ合わせていけば、どちらかに「非番」が生まれ休養となるはずであろう。
 肉体的問題だけではなく、「精神的」疲労にも目を向けなくてはならないはずだ。この「長引く不況」の中で、ダラダラとした灰色の緊張感! が持続し続けてきたような気もする。「特価」の正札をいつの間にか定価にしてしまったしがない商店主のようでもあろうか。

 ただ、自分はどういうわけか、休養という「労基法」的言葉によらずに、抜け目なく実質的休養をゲットしているとも言える。小説まがいを書いたことも、知らず知らずに休養的要素を求めてしまっていたのかもしれないのだ。また、こうして文章を綴っているのもいわば「積極型」の休養であると言えないこともない。意外とと言うか、額面どおりと言うか、抜け目なく、かつずうずうしくやっているのが自分の正体なのかもしれないと感じたりしている…… (2003.01.24)

2003/01/25/ (土)  「おカネ」vs.「時間」という経済大原則の光と影!

 「ペット犬の散歩屋」さんはビジネスになるのだろうか? ペット・ブームでもあるし、飼い主さんたちは忙しいに決まってるのだし……
 が、ここで目を向けるべきは、飼い主にとってペットを散歩させることは単にわずらわしいことであるのか、という点であろう。自分のことを振り返ると、わずらわしくないこともないが、意外と「癒し」的な事柄だと言える。何のあても、目的もなく大の大人がブラブラ歩くことは何とも所在がない気分であろう。いや、自分は毎日歩いているが、人からは見えないだろうがウォーキングする際には、身体中がウォーキング気分一色なのである。その気分が所在なさを振り払っているとともに、観察眼のある人ならわたしの顔に書いてあるウォーキングの文字をしっかりと見落とさないはずである。
 ウォーキングの話はともかく、所在なく歩きたい、そうして新鮮ではなくとも外の空気を吸ってみたい、また近所の家々やご町内の環境にちょっとした変化はないかもついでに確かめたい、といったあっても不思議ではない心境となった場合、そのままブラブラと歩くことは現代ではやや難しい、特に中高年の男は。容易に「不審人物」と見まがわれる可能性が高いからである。
 そこへいくと、犬の散歩は「葵の御紋」ほどの明瞭な看板となる。キョロキョロとしようが、他人さまの庭を覗こうが、犬と一緒に用を足そうが(そんなことはしないが)、「犬につき合ってのことだな、大変だな……」と思ってもらえるのだ。そして、当人はパチンコで損をして嘆くこともなく、相応の気分転換となる。

 手間取ってしまったが、関心を向けようとしているのは、犬の散歩の勧め、ではない。 このご時世、誰も彼もが「ニュービジネス」めいたものを考えたりしているに違いないと思う。そして、現代の商品における重要な価値部分に「時間」の節約という部分があることに気づいたりする。あらゆる製品の謳い文句には、「速度、弊社製品との従来比は3.5倍!」とか「あっという間に完了する超スピード!の自動化!」など、省力化=省「時間」化が前面に押し出されている。
 そもそも、おカネのある人は、自分のおカネや自由時間をさらに増やしたいがために、仕事を他人に発注する。おカネの無い人は、自己能力や自分の「時間」とおカネを交換すべく仕事を引き受ける。そして、現代の特徴は、個人という存在が凌駕した分、個人の「時間」の貴重さが鋭く自覚された時代だと言える。片や、「おカネで買えないものはない!」というリアリティが絶頂化した時代だとも言えそうだ。
 ここに「おカネ」vs.「時間」という経済大原則が、これまでになく大衆化した時代現象が生じるのだと思える。たとえマルクス主義運動が盛んで、労働力の交換価値が時間によって云々されていた頃よりも、現代の方がはるかにこの大原則を実感とさせているのではないか。
 たぶん、若いフリーターたちの頭の中には、単位時間の内で得られる個人的価値(趣味的楽しみ、学習的情報 etc.)と、その時間を働いておカネに換えた場合のつり合わない天秤の図が色濃く投影されているはずだと思う。もちろん、前者の方が圧倒的に重いということであろう。

 こうした状況から、もちろん「時間」の節約に資する商品やサービスの提供は「カネ儲け」の原則となる、いやなっている。今後もさらに進むのであろう。
 だが、ここでいくつかの問題というか矛盾が発生することにも気づくのである。ここで「犬の散歩」に戻るのだが、世の中には、わずらわしい「時間」とも見えながら必ずしも削除したくない、あるいは削除してはいけない「時間」というものがありそうだということなのだ。「若いうちの苦労(の「時間」)はしておけ!」という論法を持ち出すほどの勇気はないが、人の楽しみを奪ってしまって結局商売にはならない、というようなことが意外とありそうだとも思えるからである。現に、今「スロー・ライフ」というキーワードが人々の心をとらえ始めてもいる。
 「はた(端・傍)」を「らく(楽)」にさせるのが「働く」ということなんだと、結局は黴の生えた言い草をしてしまうのだが、しかしながら、何がその人にとって「楽」であるのかは一概には言えないことではないか。同様に、「時間」の節約といっても、どんな「時間」を節約すべき「ごみ箱」的時間と見なすかはそんなに簡単なことではないのかもしれない。クルマという「移動時間節約マシン」に高いカネを出して、その結果太ってしまった身体に処しかねて、毎日ウォーキングというとんでもない時間を費やしている自分を振り返ると、一体なんじゃこりゃ、と思ったりもしているのである…… (2003.01.25)

2003/01/26/ (日)  「隠し看板」の陰に表看板が寄り添う時代のあれこれ!

 「石焼きいも屋」は商売になっているのだろうか? 時々、いまだに町内に鳴り響く拡声器によるあの耳に馴染んだ売り声を聞くと、反射的にそんなことを考えてしまうのだ。いくら熱く香ばしく、そしてほろ甘い石焼きいもだといえども、現代の副食品には競合するものが多過ぎるではないか。一体どんな人が、どんな目論みでやっているのだろうか。荷台に、角材をくべた「石焼き」釜を背負う小型トラックをちらほら見かけるところをみると、それなりに商売が成り立ってはいるのかもしれない。

 そんなことに思いを寄せていたら、不意に妙なことを考えるに至った。商売というものは、必ずしも看板に描いているものを売っているわけではないのかもしれないぞ、というものだ。と言っても、「石焼きいも屋」が裏であやしげなモノを売っているという意味ではない。すいた小腹(こばら)の足しになる石焼きいもの現物を売りながら、実はそうしたものがありがたかった古い時代への郷愁や、懐かしい思い出などの、そのイメージを売っているのではないかという推測だったのである。

 食べ物というのは、落語「目黒のさんま」ではないが、空腹だと忘れられないほどにうまかったりして、けっこういろいろな事情に左右されがちなものである。逆にその事情をこそ重視したくなったりするのも人情だ。満開の桜の下での宴会、絶景地で食べる弁当などがうまく思えるところがおもしろい。
 もはや、路上の焚き火さえ不可能となり、寄せ集めた落ち葉での焚き火から出てくる焼きいもなどが日常生活では稀有(けう)な存在となってしまった昨今では、「石焼きいも屋」は、現物の「おいも」を売る以上に昔への「おもい」を売り歩いているのだと思えたのだ。

 こうした角度で振り返ってみると、商売というものは、大げさな表現ではあるが「重層的」な構造を持っているのかもしれない。看板に掲げている何かだけでは決してなく、それ以外の何枚かの「隠し看板」を駆使して勝負している、といった事情が実相なのかもしれないのだと。客とて、やがて、看板に掲げた何かを買いはするにしても、買い物の目的が「隠し看板」の側にあることを、薄々どころかしっかりと認識するに至ったりする。そんなことって大いにありそうな気がするのである。

 そう考えてみると思い当たるふしがいろいろあるものだ。
 子どもの頃によく買った「グリコ」の飴は、とにかくおいしいからとか、「一粒で百米(メートル)」走れるからとかで買ったわけではないはずなのだ。ひとえに「おまけ」のおもちゃが欲しかったからに決まっていた。月刊雑誌類、たとえば『少年』にしてもそうだった。「少年探偵団」のバッチが付録だったり、幻燈器の組み立てキットが付録についていたりしたことで購買意欲をそそられたのだった。今でも、用もないのにビニールの「ビーチボール」が付録になっていたりすると、どうせいるのだからとそのカメラ・フィルムに手を出したりする自分があさましい。こうした付録というのは見え見えではあるが「隠し看板」(?)の一種なのだと表現したい。

 もちろん、店の人が「愛想がいい」「サービスしてくれる、アフター・サービスしてくれる」「良心的だ」「情報が得られる」「雰囲気がいい」というのも、りっぱな「隠し看板」なのであろう。昨今注目されている「セレクトショップ」は、ショップ側のセンス=選択眼が重要な「隠し看板」となっている好例だと言えるのだろう。

 また、さらに踏み込んで考えてみると、「デザイン」「キャラクター・イメージ」「ブランド」「話題性」なども「隠し看板」というか、「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」類の、表看板(商品実質)より陽の目を見過ぎた「隠し看板」だと言えるのかもしれない。「キャラクター・グッズ」とは、「隠し看板」の陰に表看板が寄り添うという本末転倒の図なのである。
 そうなのである、この類の「隠し看板」がこのご時世できらびやかにかつ「濡れ手で粟」の機能を果たしている事実こそが、いまさらのように注目されなければならないはずではなかろうか。これを称して、「モノばなれ」だとか「ソフト化」だとかと言われているわけであり、いまや表看板一枚では誰も見向きもしない時代なのだから…… (2003.01.26)

2003/01/27/ (月)  表看板とは「当面の専門性」! では「隠し看板」=ソフトとは何と言うべきか?

 休日は、気分転換に家電ディスカウント・ショップにふらふらと出向くことがある。PCショップ経営の経験もあるので、行けば新製品のチェックだけではなく、他人の店ながらショップ経営のあれこれを気にしたりもする。
 先日は、いま時のショップの掟のいろはを知らない店員がいたもので、思わず激怒に近いものを感じてしまった。昨今の若い世代は、ふらふらとしたスタンスでショップを覗いたりはしない。買う気のない者、その中には買う気が熟していないビギナーもふくまれそうだが、そうした者は相談相手として店員が寄り添ってくるのを望む場合もある。しかし、大抵の若い潜在顧客は、ショップに出向く前に大方の商品情報を仕入れ、ショップで店員と応答するのはレジの店員と、さらなるディスカウントに応じる可能性のあるなじみの店員だけだと言えるのではなかろうか。
 また、もとより昨今の若い世代は、見ず知らずの者と気軽に口をきくようなスタンスは持ち合わせていない。わずらわしい気持ちが先に立つわけで、身銭を切ってまでそんなわずらわしいことを望むわけがないのだ。PCショップ経営当時も、店員たちとその点を鉄則にしたものだった。絶対に、店内でヒマそうにしないこと! まして、客に寄り添ったり、押しつけがましい対応はいっさいしないこと! 客側が声をかけやすい雰囲気の中でそしらぬ作業などをやっていて、声をかけられたら気持ちよく対応を始めること! etc. であった。その間合いをみんなで学び、また楽しんだりもしたものだった。

 それが、先日のショップではちょっと商品を手にしようものなら、すかさず寄って来てべたべたしがちだったのである。担当ノルマでもあるのかもしれない。かといって、商品知識に長けているわけでもなく、ちょいと踏み込んだ質問をしようものなら、首をかしげたり、「ちょっと待ってくださいね」と言ってどこかへ情報を仕入れに行くのがお定まりだったのである。
 ある時、自分も何やら苛ついていた時だったかと思う。ウォーキング時にどうかと思って、軽量タイプのCDカセットなどをチェックしていた。こうしていると、きっとまたまた店員が、迫ってくるだろうなとの予感を持ちながらであった。それは、むかしの本屋で、はたきを持って立ち読み客を追っ払う店員の接近を予感するような鳥肌もののいやな感覚であったのだ。と、案の定、「ソニーのCDカセットをお探しですか?」ときた。自分は、もういたたまれない気分となっていた。「ヨドバシさん価格は¥これこれのところを当店ではこれこれ!」といって、売り値だけはリキんでいるくせに、商売のいろはに無神経な経営指導に耐えられなかったのだ。思わず、「来ないでもイイヨ!」とさり気なく言いのけてしまったのだった。こんな時の自分の言い草、言い様は、相手に取りつく島のない印象を与える実にイヤミものなのである。言ってしまったあと、あっ、かわいそうなことをした、と思ったが、店員は「あっ、そうですか」とさり気なく立ち去った。自分も、興醒めしたので、商品を置いてその場を立ち去ったものだった。

 このようなみんながさみしく損をするような状況を作ってはいけないのだ。いくらディスカウントで勝負していようが、どんなショップでももはやいろはとしているようなドシロウト対応をやっていたのでは三ちゃん小売店とかわらないではないか。
 で、本題に入るならば、ディスカウント・ショップの表看板はとにかく他店に負けずに安いことである。しかし、表看板だけでは通用しないのが商売というもの。なぜと言えば、安売りだけしていたのでは、いくら売り数で稼いでも身を細らせるだけだからである。目玉以外の通常商品もさばいてこその儲けのはずである。とすれば、表看板だけを振りかざすのではなく、「隠れ看板」も充実させるべきなのである。上記の例で言えば、顧客を「自由奔放に泳がせる!」仕掛けを用意するのである。商品知識のない店員に「はたき持ち店員」のような逆効果など決してやらせてはならない。監視カメラを存分に設置して無人店のようにしてでも、まずわずらわしさを撤廃させること。
 次に、いま時の若い客でもショップという場でなければ不可能であるはずの、現物商品を存分に試用させてやるのである。ウェブや、カタログの情報はどうしても、詳細な部分で不可解な部分、疑問を残してしまうからだ。それが、購買意欲にブレーキをかけさせるのであろう。価格に疑問のない客に一気に決心させるのは、この点を氷解させる以外にないからである。

 裏の「隠し看板」とは、「顧客の最も痒い部分を、さり気無く、事も無げに掻いてあげること」なのかもしれないと思っている。ソフトとは、実は「気が利いている!」ことなのであり、ウヒャーと言わせる「センスが良い!」ことなのであるかもしれないと思っている。決して「自動化」や、「省力化」や、はたまた単なる「知識過剰産物」なんぞではないのである。余りにも、属性だけが云々されて、本質が度外視されているのかもしれない。いや、その誤解が実は現代なのかもしれないが…… (2003.01.27)

2003/01/28/ (火)  時代のニーズに応える「ソフト」企業、技術者とはどんな相貌なのであろうか?

 「ソフト」需要(情報化投資)が数字に表れて低減しているらしい。銀行の合併などに伴うシステム統廃合が一段落したからだという。また、もとより製造業関連領域におけるそれは停滞気味であった。いわゆるIT(情報通信技術)領域もバブル後遺症を引きずって冴えないのはいうまでもない。景気の先行きへの警戒感が如実に表れていると言える。
 かつて、ソフト開発と言えば、とにかく技術者数を投じての人海戦術が採られていたことは、知る人ぞ知る事実であった。そうした物量作戦がもはや通用する状況ではなくなったということなのであろう。相変わらず優秀な技術者の不足の声は途絶えてはいないところを見ると、技術環境の高度化・複雑化という事情が一方にあることは事実だろう。全般不況のせいで予算がつかないというのも事実のはずである。さらに、ユーザというか、「ソフト化」ニーズの形成自体が足踏みをしているという事情も推測される。先日も書いたとおり、まあ、ゲーム「ソフト」だけはまずまずのようだという、そんな状況なのであろうか。

 しかし、こう書いてみると、やはりとらえどころのない「ソフト」という言葉が気になる。もちろん、「ソフト」の意味には、二種類ある。狭義では、コンピュータのプログラムやその周辺のシステム関連情報を指す。また広義では、情報を表現・伝達する媒体(フィルム、CD、電波 etc.)とは区別して、情報の内容自体を指す。これが昨今では、「コンテンツ(contents)」と呼ばれることも多いが、そうした内容に目を向けた言葉だと言える。
 そして、上記の「ソフト」需要(情報化投資)低減状況を振り返ると、どうも狭義の「ソフト」化への需要が低迷しているのではないかと、荒っぽく憶測されるのである。ゲーム「ソフト」は、より「コンテンツ」の面に比重のかかったプロダクツなのであろうし、「ソフト化」ニーズの形成自体が足踏みという事情は、決してシーズという技術面での問題というよりも、システムに担わせる「コンテンツ」(アプリケーションの構想!)が煮詰まりにくいということだとも想像されるからである。

 景気の低迷の中、製造業といったハード分野がダメで、おまけに「ソフト」もダメだと見えそうでもあるが、実は、「ソフト」もダメなのではなくて、狭義の「ソフト」が足を引っ張られているという表現が適切なのではないかと見ている。
 むしろ、広義の「ソフト」は、本来ならばさらに悲惨な低迷に落ちるハード分野に色を添えているというか、ハードのさらなる低迷に一定の歯止めをかけていると思われるからである。クルマの売れ行きの原因は、ハード分野の技術向上のせいだと見るよりも、デザインや、オプション整備やらのまさに「ソフト」による結果だと考えてもいいのではないだろうか。おそらく、ますますもって、本質的な「ソフト」というものが商品の重要な部分を占めつつ、「ソフト」化経済というものが本格化していくのだろうと見ている。

 しかし、ここへ来て、従来から指摘されてはいたが先送りとされてきた「ソフト」企業のあり方という問題が再び日の目をみることになりそうである。もちろん、「ソフトウェア技術者」のあり方も、否応無く見直しをかけられないで済むわけがなくなるはずでもあろう。時代のニーズに応える「ソフト」企業、「ソフト」技術者とはどんな相貌なのであろうか…… (2003.01.28)

2003/01/29/ (水)  文章力練磨のために、「口述筆記」もどきに目を向けたりする!

 何度も念仏のように唱えてはいるのだが、文章を書く上でのひとつの願いは、具体的でリアルな臨場感のある文章を書くことである。もちろん主観を通しての作業であるため、客観的、写実的というわけには行かないはずだ。そんな上等なことを考えているわけではなく、今少し、観察的事実を増やせないものかと望んでいるのである。
 よく聞くことは、「メモ帳」を持って歩き、気づいたことをすぐさま書き留めておくという方法である。確かに、その方法がベストであるような気がしている。「メモ」された材料があるならば、否が応でも書く文章は具体性で満ちてくるように思える。
 ところが、自分は日頃から「メモ帳」というものをあまり活用していない。愛用する手帳にこまめにメモをとる人などに遭遇すると思わず感心してしまう。次ページに跡が残るような筆圧で、小さな鉛筆でぎっしりとページを埋めている人などを見ると、それだけで尊敬さえしてしまう。
 「メモ帳」を活用しないことに特別な理由があるわけではない。単にわずらわしさを感じるだけである。それでもサラリーマンに成り立ての頃の一時期は、スケジュールの記録や、当面の課題を忘れないためにシステム手帳などに凝ったこともあるにはあった。
 また、ある時期には、「メモ」を記録する代わりに「小型テレコ」や「ICレコーダ」に吹き込むという奇策を採用しようとしたことがあった。しかし、何とも気恥ずかしい気分が邪魔をして長続きはしなかった。
 どうせ今回も途中で放り出す予感がしないではないのだが、「小型テレコ」や「ICレコーダ」などを駆使して音声での文章化を試してみようかと思っている。パソコンによる音声入力などを考えているわけなのではない。手が使えないような境遇となったらそうしようとは想定しているが、現在はむしろ手、指を活性化させるためにもキー入力をすべきだと思っている。
 では、何ゆえの音声による文章化なのか? 
 冒頭で書いた具体性に欠ける文章づくりという問題は、書くという体勢と、ものを観察したり、それに触発されてふっと何かを感じたり考えたりする生々しい現場感覚とが離れているところに、大きな原因が潜んでいるのではないかと気づいたのである。
 このように、毎日文章を書いていると、一日中その材料探しに知らず知らずに目を向けることとなる。そして、気分の乗る時はいたる所、時に何かに触発されることもある。が、残念なことに、いざキーボードに向かうとサラリと消し飛んでいたりするのである。そして、打ち込むことは、現場の臨場感が伴わない抽象的な屁理屈に終始するというケースが少なくない。この不毛さを何とかしたいと思っているわけなのである。
 小説家の中には、「口述筆記」のできる人がいるらしい。いや、太宰治は『如是我聞(にょぜがもん)』をこの方法でしたためたようだ。この「筆記」に携わった人の話では、太宰は流れるような口調で語り、句読点やカッコなども正確に指示したという。ワープロという文明の利器に頼ってこうして文章づくりをやっている半端者からすれば、「口述筆記」ができるということは、これはやはり実に大変な能力であると感嘆せざるを得ない。太宰治と張り合ってもしょうがないことは言うまでもないが、「口述筆記」もどきに挑戦することは、文章能力を別な角度からトレーニングすることになりはしないかと思いついたのである。
 以前、大学院で論文作成で悩まされていた折、ある教授に言われたものであった。学会発表で口頭で発表したのを聞いたその教授曰く、「あなたは、書くとワケのわからないことになるのに、話すと実によく理解できる。話すように書くことができればいいナ」と。 多分、書くとなるとどうしても格好をつけたくなり、それが習慣化するうちに、脳の働き方に話すことと、書くこととが分離するというおかしなことが発生してしまったのかもしれない。日本の英語教育ではこうした問題が発生していると指摘されてきたが、自分の脳内で、ひょっとしたら、こんなあほらしいことが発生していたのかもしれない。
 そんなこんなで、「口述筆記」もどきを「小型テレコ」活用でやってみるのは意外と妙案かもしれないと思いついたのであった。
 ただ、どんな場所でそれをやるかが問題だ。公共的場面で下手にやると、不審人物が犯罪のための下調べなんぞをやっているのではと勘繰られたり、独り言を言って歩くかわいそうな人だと思われたりもしないではないからだ…… (2003.01.29)

2003/01/30/ (木)  「詐欺事件」もややこしくなるのが「ソフト」化時代の特徴か?

 詐欺事件が後を絶たない。「濡れ手で粟」めいた途方もない話の場合、「下手人」はもちろん悪いが、引っかかる方も慎重さに欠けるという謗りをまぬがれない。しかし、生活に密着した領域における、非現実的でもなく、そこそこありそうな話での巧みなだましという詐欺は、早期発見、早期逮捕という段取りであって欲しい。
 「テープ起こしの内職あっせんをめぐる詐欺事件」は、そんなことを考えさせた。決して目新しいものではないが、時期がこんな庶民を苦しめる時期だけに、大量の被害者が発生していたようだ。全国で約三万四千人、被害総額約二十四億円にのぼるそうだ。
 約十三万もの高額の研修教材を買わせて、教材を使った研修を行い、基準達成合格者に内職をあっせんするというものだったらしい。ところが、合格率はわずか0.2%だそうで、仕事をあっせんされた人はほとんどいなかったという実態だそうだ。
 どの家庭も家計が厳しく、主婦が自宅で可能な仕事であるなら、多少高額の投資と努力が必要でも挑戦してみようという健気(けなげ)な気持ちは百もわかる。それだけに、こうした経済混乱と世情不安を逆手にとったような火事場ドロボウのような仕業が許しがたいと思うのだ。

 もちろん詐欺というのは、一般人がちょっと見過ごしてしまう「盲点」を最大限に生かして手口を構成するに違いなかろう。上記の事件も、「高額な教材購入・研修受講」と「内職あっせん」の狭間にその「盲点」が潜んでいたと言える。このふたつの事実の間には、「男と女の間には〜♪」以上に暗くて深い谷が歴然として存在していたはずである。
 先ず、学習というものは、教える側や教材のよしあしも重要な要素であるに違いないが、学習者側の素養や努力という個別の条件が無視できないのである。いわゆる入学試験が存在してきた理由はここにあったと言うべきなのであろう。
 自分もセミナーなどを企画・運営してきた経験から言えば、セミナーの効果というものは、医療で言えば「診断」という部分にあたるであろう受講者側の実態把握なしには成立しないはずである。だから、良心的なというか、まともな教育機関や修行場(ex.禅寺)は、厳しく入口をかためるのである。
 これは、また出口を保証するための大前提であるということができる。昨今のまともなセミナーや教材では、修了すればどのような水準となるかをできるだけ明記するようになっている。いわばこの責務を果たすためにも、上記の入口での絞込みが必要なのであろう。
 ところがである、この下手人たちの手口は、この辺の問題を完璧に顧客の甘い「思い込み」を作動させるに任せていたと思われる。だいたい、「高額」な教材が提示され、自社だか関連会社だかが「内職あっせん」をするという状況を知らされれば、「たぶん、自分もがんばれるはず!」と思い込み、そして、「たぶん、自分は教材費くらいは取り返せるはず!」、「ほかの人は脱落するかもしれないけど、自分は……」と思い込みがちなのではないだろうか。
 下手人側は、官憲の追及でも言い逃れに奔走するに決まっている。その際には、上記の「盲点」ともいうべき「暗くて深い谷」における顧客側の努力不足が一見詐欺のような結果をもたらしたのだと言うに違いなかろう。

 法律的な専門知識は知らないが、教育機関的企業の一般的現実がどうかという物差しも重要な判断材料となるかもしれない。つまり、一般の教育関係業者の教育責任の果たし方と較べて、今回の下手人の段取りはどうであるかという視点である。
 少なくとも、教材を売らんかなの意図が強かっただけに前述の入口の手順が消し飛んでいたこと、さらに通常は出口という晴れの舞台は別団体が扱うところを自前で行っていたこと(さじ加減がいくらでもできてしまう!)などは、言い逃れが難しい点ではないだろうか。

 なぜこんな問題に目を向けるかといえば、これも「ソフト」に絡む問題のひとつだからである。「ソフト」という無形の商品の問題は、未来に向けた明るい問題であるとともに、悪い奴らにかかるととんでもない複雑で手間のかかる犯罪をも構成してしまうものなのである。
 今回、この下手人の頭(かしら)を、日本商工会議所主催のセミナーは"SOHO"問題の講師として迎えていたと報じられているが、こうした犯罪は、「権威」づけが重要な要素であるだけに、古い組織の関係者は、十分に視野を広く持ち、洞察力を身につけてほしいものだと思った…… (2003.01.30)

2003/01/31/ (金)  こんな時期だからこそ、「試行錯誤」の空気を醸成すべきなのだ!

 自分は今、どんな「試行錯誤」をしているか、と考える。また、人々はどうかと。
 なぜならば、「試行錯誤」は「創造性」発揮の大前提だからである。そして、もはや現時点まできてしまったわが国の総合的な苦境は、「創造性」による打開策以外では突破口が見出せないだろうと思われるからである。

 失業率も過去最高の5.5%を記録し、赤字国債発行額も記録を作り、犯罪増加と検挙率の低下(二割を割る!)でもそうである。まさに未曾有の時代環境を迎えてしまっているわけだ。不良債権対策を例にとっても、従来レベルの対策水準ではマイナス要因(デフレの昂進!)によって成果が食われてしまう、というのが実情のようである。だからこそ、「創造性」の発揮と言えるような画期的な対策が必須となっているのだ。

 まず思い当たるのは、悪い予感なのである。「貧すれば鈍す!」のことわざどおり、苦境の中ではどうしても守勢に立ってしまうのが定石なのかもしれない。「試行錯誤」による問題解決や挑戦という選択ではなく、目に見える表面的な部分の改善を無難な方法で対処する、という選択がまかり通ってしまいがちだ。現政府も長期展望に立つ政策を放棄しつつあるように見えるし、リストラという数字の帳尻合わせだけの対策に奔走してきた大手企業の事業計画も、ますますシュリンク(縮小)してゆくかのようだ。
 こうしたスケールの大きい存在が、リスクを嫌って「試行錯誤」を回避しようとしている時に、誰が一体「試行錯誤」による挑戦を挑むものだろうか。「ねずみ取り」が予想される一般道路で、各車がスピード抑制をしている時に、一台だけダントツのスピードで目立ち生贄になることを恐れるムードが完全に支配しているのではないだろうか。

 ところで、ベートーベンのような「苦悩」を突破しての「歓喜」というイメージは信じたいものではある。ドイツ語での「苦悩」とは「ライデン」といい、この語尾に「〜シャフト」という言ってみれば「整序して構造化する」というほどの意味を持つものを添えると、何と「ライデンシャフト」=「情熱」となるのである。これをもって、苦境に挑めば「歓喜」に至るというのがドイツ流の思考なのであろう。
 わが国でも、「苦労人」という言葉があるように、「苦労」は「知恵」を授けるという発想があったかと思われる。しかし、「苦労」=「知恵」でないことは、われわれは実体験で了解しているはずである。昨今では、「苦労」=「犯罪誘発」? の実感すら湧き上がってきているやもしれない。
 ドイツ流思考に助けを借りるなら、「苦労」も裸のままではいけないのであって、それが「整序して構造化」されなければならないのではなかろうか。「苦労」が「構造化」して定着したのではかなわない、というそうした意味ではなく、「苦労」を、何のための「苦労」であるのかとか、単に打ちひしがれひがむ姿勢ではなく、自己向上のための試練として受け止めるとか、要するに「苦労」というものを自分なりに最把握し直すことが必須だという意味なのである。首相が、「痛み」に耐える意味を丁寧に説明しないものだから、こんなところで説明が必要となったりするのである。

 希望的観測をするなら、現在の苦境は忍耐力だけではなく、必要性に迫られながらさまざまな能力を高めることになるのだろう。まさしく、「必要は発明の母」さながらに、「創造性」の力を振り絞るきっかけともなる。
 しかし、そうであるためには、あらゆる場面において「試行錯誤」のチャンスが確保されていなければならないだろう。泥縄的な「セイフティ・ネット」対策などは当たり前のコンコンチキなのである。また、少なくとも、メンタル、マインドの両面における「試行錯誤」の空気だけは枯渇しないようにしなければならないだろう。「土建国家」流のタダモノに公共投資するくらいなら、国民が熱狂するような「巨大な祭り!」でも企画してみてはどんなものか? ダムや高速道路なんぞを作るより、国民が今「貧すれば鈍す!」の滝に落ち込んでゆかない支えが必要だと思える。これらの条件が無いところでは、「苦労」=「知恵」は成り立ちようがなく、安直な「苦労」=「忍耐」が蔓延し、かつ薄暗い場所では「苦労」=「犯罪誘発」の等式が成立してしまうのではないか。
 ズータイの大きい社会的存在は、自己保身的なことばかり考えるのではなく、「先憂後楽」という粋(いき)でかつ道理でもある挑戦策を講じてこそ、庶民は元気づくんじゃないんですかい?…… (2003.01.31)