こうやって毎日文章を書き綴っていて、留意しなければならないことがありそうだ。
リアルな場面、情景こそを冷静に観察して描くことを中心にできればいいと思っているのだが、文章化するとどうしても、抽象化や単純化が行われてしまう。そして、事実の複雑さが失われてしまい、紋切型となったり一方的で極端な思い込みに陥ったりしがちとなるのである。
日々の思いをスナップショットのように切り取ろうとすれば、思考の「デザイン」(=簡略化や省略などの処理……)が避けられない。まして、何かを言い切ってしまおうとする衝動が働くと、現実から遊離した観念上の一人芝居となる危険もある。
大晦日の『天声人語』に、ちょっと考えさせられる視点があった。
<F・フェリーニ監督の映画で主人公役のM・マストロヤンニがシャワーを浴びながらこんなせりふを言う場面がある。「『純粋』に逃避するんじゃない」。自分にそう言い聞かせる。そうやって自分の矛盾だらけの人生に向き合おうとする。
ジレンマが多い時代だ。去年の同時多発テロ以来、多くの国で安全と自由とが秤(はかり)にかけられた。安全のために多少の自由を犠牲にするか。自由のためには少々の危険も辞さないか。
拉致事件でもジレンマが鮮明だ。事件解明のためには交渉をしなければならない。しかし交渉相手は事件を起こした当の国家である。解明か、断罪か。小泉政治の「改革なくして成長なし」もそうだろう。短期的には「改革か成長か」のジレンマに直面する。
そんなときピューリタン(清教徒)の国の大統領ブッシュ氏のように「善と悪」の二元論に逃げ込めれば楽だ。そして、自分が「善」の側にいると確信できたら安心だ。「PUREであることは何と容易であることか」(飯田善国)。そのピュア(純粋)への逃避である。……>(朝日新聞『天声人語』2002.12.31)
冒頭のように、ひとつは、文章を書いて考える際の問題点、つまり、簡略なある種の観点で事実を切り捨てて『純粋』化してしまう危険という問題が思い起こされたのである。 そして、もうひとつが、『天声人語』の筆者が危惧する時代風潮の危険な問題である。社会や世界が複雑怪奇となると、人々は、しっかりと事実をトレースして、根気良く分析しつつ判断することを怠り、「エイヤッ!」と両極にぶれ過ぎた極端な判断をしがちとなる。わかりやすい極端な表現を好む人々も多くなり、『純粋』であることが価値あることだと決めつける風潮も幅を利かすようになる。マスコミ陣(ex.田原総一郎氏)も、「国民にわかり易く言えばどうなるの?」とか「だから、どっちなの?」という常套句を使い、事の単純化を急がせる。
人間は、もともとが矛盾のかたまりであることを実感的に思い起こす必要があるのだろう。純粋なものを求めつつも、人間の行為は矛盾そのものであり、人間の織り成す世界も矛盾だらけでしかない。だから、なおさらのこと純粋さに憧憬すら抱くのであろうが、純粋であり過ぎようとした際に、まさしく「『純粋』に逃避する」こととなり、観念の世界へと紛れ込んでしまうこと、さまざまな可能性の坩堝である込み入った現実を、奇麗事の観念の枠に押し入れてしまうことになるのを、大いに警戒しなければならないのだろう。
現代という複雑な時代にあっては、冷静に、静かに、迷いを含んで語ることしかありえないという気がしている。少なくとも、聡明な人々の耳にはそうした言葉しか届かないのかもしれない。スッキリとして、耳ざわりのよい『純粋』さを装った言葉や観念をこそ、空の空き缶がガラガラとがなり立てるような騒音と同じように疑ってみるのも重要なことかもしれない…… (2003.01.01)