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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年07月の日誌 ‥‥‥‥

2003/07/01/ (火)  「質素にみすぼらしく」が、物騒なご時世の処世術!
2003/07/02/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… 「何を」への問いを助ける「間接的・媒介的」な方法
2003/07/03/ (木)  「焚書(ふんしょ)」を超えた「焚考(ふんこう)」へと突き進む現代?
2003/07/04/ (金)  波風が立たずに「足を引っ張る」存在にも警戒したい!
2003/07/05/ (土)  「身体の贅沢」を振り返り遠望する年配者の……
2003/07/06/ (日)  「縄文文化」継承の地だと言われる、沖縄にも……
2003/07/07/ (月)  キレる相手が間違っている!?
2003/07/08/ (火)  自身のためにも、経済全体の活性化のためにも新市場開拓が!
2003/07/09/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… 「監視カメラ」やら「ICタグ」やら……
2003/07/10/ (木)  「情報ビジネス」雑感 …… 「自分以外はみんなバカ」という心性!?
2003/07/11/ (金)  PCウイルスから人間の「悪意」について考える……
2003/07/12/ (土)  とにかく思考力と感性を「active」もしくは「run」の状態に!
2003/07/13/ (日)  現在生じている「犯罪」の根は、意外に深いのかもしれない!?
2003/07/14/ (月)  「情報ビジネス」雑感 …… 「商品情報」、そして「いい企画」
2003/07/15/ (火)  「情報ビジネス」雑感 …… 「人を見て法を説け」「機に因りて法を説け」
2003/07/16/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… ウイルス撃退が必要なのはPCに限らない!
2003/07/17/ (木)  樹木の「下草」を枯らす政治はいらない!
2003/07/18/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 「オーバーヘッド」概念を考える(1)
2003/07/19/ (土)  ジグゾーパズルの断片のようなさまざまな事件と「構造的危機」!
2003/07/20/ (日)  全国民こぞっての朝一番「始業セルフ点検」運動!
2003/07/21/ (月)  スマートな「脳化社会」の栄光と挫折?!
2003/07/22/ (火)  「責任倫理」の現実世界に相変わらず「心情倫理」で挑むわれわれ?
2003/07/23/ (水)  現代版「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ……」への対抗法?
2003/07/24/ (木)  「特殊な」問題解決が本質のビジネスに対し「最大公約数」的な「スキル」とは?
2003/07/25/ (金)  良い「循環」というものは、どこからやってくるのだろうか?
2003/07/26/ (土)  納涼盆踊り大会は永遠に不滅です!
2003/07/27/ (日)  もはや死語となりつつあるかに見える「やり甲斐」について考える!
2003/07/28/ (月)  「やり甲斐」の無視できない構成要素たるヒューマン・ファクター
2003/07/29/ (火)  「管理社会」で「やり甲斐」を探すドンキホーテであり続けること!
2003/07/30/ (水)  「カラ元気」もうっとうしいが、「カラ消沈」もまた避けたい!
2003/07/31/ (木)  「……脳のつくり方」という表現が照らす現代の操作主義?!






 今朝は朝一番から大工仕事をすることになった。正確に言えば、屋外のちょっとした電気工事である。
 それというのも、つい最近、近所の家に荒っぽい空き巣ねらいの事件が発生したため、予防のために裏庭付近に赤外線感知灯を付けることにしたからだ。泥棒の話は、近所の奥さん連中の口コミで家内にも届き、日頃薄暗がりになってしまう裏庭付近に明かりが欲しいということになったのである。

 かつて、玄関方面向けに取り付けていた赤外線感知灯を、配線を延長して裏庭付近に移動することにした。この赤外線感知灯は、センサーがついていて人影などの動きを感知したらライトを照らすというものである。ただ、庭に放し飼いにしている犬(レオ)が庭の中をチョロチョロと動き回るたびに、その動きに反応して杓子定規にも照明されてしまうのが如何なものかということになり、休眠させていたのだった。
 もうだいぶ使用せずに放置していたため、傷み始めていたことと、大型の脚立を必要とする高い場所への取り付け工事であったことから、予想を上回る工数となってしまった。まして、出勤前の作業なので、何となく気が急き、おまけに朝から蒸し暑い天候ときて、あまり気持ちの良い作業とは言えなくなってしまった。
 が、どうにか目論見どおりの出来栄えに仕上げることができた時は、予定よりも一時間程度のオーバーとなっていた。所定の箇所付近を通ると、まぶしいほどの照明がきちんと点灯した。レオを通らせてみたが、反応しなかった。まずまずの仕掛けが完成した。

 それにしても、前述の泥棒は、住人が外食に出かけた隙に、雨戸を外しガラスを割って侵入したとのことである。そして、家の中を荒らし放題に荒らしまくっていったそうだ。あちこちで殺人事件やその他の不穏な事件が発生している折り、空き巣ねらいも「みんなで渡れば怖くない」風に罪意識を薄め始めているのかもしれない。

 わたしは以前、駐車中のクルマを車上荒らしされたことがあった。クルマに戻った時、社内が異様に散らかっており、一瞬「そんな馬鹿な!」と思ったが、やられていたのだった。手口は、後部座席の後方の小さな窓のガラスをぶち破り侵入する荒っぽい本格的な仕業だった。それで、助手席に置いたアタッシュケース風の大きなカバンが持ち去られていた。中のめぼしいものは、銀行カード類とパスポート、コンパクト・カメラなどであった。財布は持ち歩いていたので無事であった。とりあえず、交番に届け出たが、何と、同日に町田街道沿いの駐車場で連発していたとのことであった。
 自宅に戻ったあとは、早速、銀行カード類の運用差し止め手続きをとった。が、無性に腹が立ってその晩は寝つかれなかったのを覚えている。

 翌日、現場に出向いてみた。と、明るい現場に立った時、その周囲の環境が目に入ってきた。駐車場のちょっと奥は、背丈のある野菜類が植えられた畑となっていた。わたしは、その畑の方に足が向いた。あくまでもフラフラとであった。ひょっとして、証拠となってしまう大きなカバンなどは、中身を漁ったあとこんなところに放り出すのではないかという直感めいたものが働いたのかもしれなかった。
 と、その時、トマトの苗の足元の草むらに見覚えのある色のカバンの一角が頭を出していたのである。何とも言えない興奮した感情がこみ上げてきた。近寄ってみると、まさしくわたしのカバンであった。合掌屋根のような半開き状態となり、中身がその下に散乱していた。この時ほど、自分の半分無意識めいた推理にゾクゾクとしたことはなかった。
 本や、書類の類は夜露を吸って膨らんでしまっていた。が、銀行カード類やパスポートも無事であり、どうも持ち去ったものはさして高価だとも言えないコンパクト・カメラくらいのものであった。さぞかし、泥棒(たち)もがっかりしたのではなかろうか。ずっしりと重い、見てくれはりっぱなカバンなのに、重さの大半はわけのわからない書籍や書類関係で、カネ目のものはカメラだけか……と。

 結局、ガラスの修理を含めて、被害は最小に抑えることができたのは幸いであった。その後、車内にカバン類を置く場合も外から見えないようにする注意を忘れないことにしたものだ。また、クルマもいつもピカピカという状態ではない方がいいとも考えたりした。とにかく、見栄を張るのは論外であるが、そうでなくとも無用にその種の者たちの盗癖を刺激しないに越したことはないようだ。むしろ質素にみすぼらしくして、郵便箱に「札」でも投げ入れてやるかという心境にさえさせるのが、この物騒なご時世の処世術なのかもしれない…… (2003.07.01)


 「クリエイティブ」な発想や思考が貴重だと言われる。わたしも、これまでに何度もこのテーマの周囲をグルグルと徘徊した覚えがある。しかし、いつも思うことだが、「愚者のあと知恵」という言葉が言い当てているように、「クリエイティブ」だと評されたり「創造的」であると称賛されたりする成果を見せられると「なるほど!」と感嘆はさせられる。だが、なぜそれが生み出されたかのリアルなプロセスを推測することへはなかなか踏み込めないのが実情だ。そこは、「クリエイター」の独壇場であり、他者からはブラックボックスでしかあり得ないかのようだ。いや、ひょっとしたら「クリエイター」自身にとっても、閃きの瞬間構造は認識し難いものなのかもしれない。

 混迷した時代にあって、それが打開策の突破口となるような「何を」=< What >を見出すことこそ最も「クリエイティブ」な営為であろう。たとえば、モノが売れないこんな時代で「何を」売れば売れるのか。いっこうに前進しない政治改革、財政改革という流れで「何を」すればいい循環が始まるのか。見通しの悪い将来に向けて、若い世代は「何を」学び、力をつければ生き残っていけるのか。希望が失われたとされる時代にあって、人々は「何を」縁(よすが)にして生きていけばよいのか。そうした回答があるのかどうかは知らないが、「何を」という問いに託す期待は余りあると思える。

 すると不思議なことに、こともあろうに< What >へのアプローチに関する< How to >という問いが生じてきたりする。的確に「何を」という問いを発するための方法というものがあるのではないか、という疑問が生まれてくるということだ。
 以前、「セレンディピティ」=「思いがけず大きな発見をする能力」(ex. 2002.09.04)をテーマにして書いたことがあったが、こうした能力が取りざたされるということは、逆に、「何を」といった大きな発見をするためにはそれなりの思いを込めた、用意周到な準備、すなわち方法=< How to >が存在するのだということを物語っているはずである。KJ法がどうだのといった仕掛け類から、「R&D」の諸策までの方法論議のことである。

 ところで、これは以前書いたかどうかわからなくなってしまった――毎日、こうやって思いつくままに駄文をしたためているのだから重複は禁じえない――が、こんな話を聞いたことがある。
 どの企業も、ヒット商品を思い描いて「何を」製品化するかの体制づくりには余念がないと言われる。開発部隊は「何を」を四六時中必死で考える。だがそんなに簡単な事業ではない。すると、自分たちでクリエイティブに考えること自体もさることながら、そうしたことができる人材を探した方が早いのではないかということに気づいたりする。いわゆる発想の転換である。かなり重要な転換だと思われる。しかし、クリエイティブな思考のできる人材とはどんな人材なのかという難問に遭遇することになった。そこで、やむを得ず、そんな人材をキャッチできる人事能力を持った人材を探し出すべしとなったという。 ここで詰められている策とは、つまり、困難な課題を咀嚼(そしゃく)するためには、「直接的」な方法を暫時ひっこめつつ、「間接的・媒介的」な方法に望みを託すということではないだろうか。

 まるで、確か『ネズミの嫁入り』とかいうあの堂々めぐりの童話のようでもあるが、それはともかく、その「直接性」から「間接性・媒介性」へというアプローチ転換は、結構本質的な重要さを持つもののように思われる。難しい問題は、段階的に迫ればよいという常識の再評価というよりも、むしろ脳におけるインスピレーション発生の構造に見合っているように思えてならない。もちろん、そうした構造を実証したわけではなく、あくまで推測の域を出ない。
 たとえ話をしてみたい。歳をとると「ど忘れ、物忘れ」が頻出する。悔しいので想起しようと必死となったりする。そんな時、例の「アイウエオ」想起法が有効だったりするのだが、そうしたアプローチとは要するに「ど忘れ」してターゲットがブランクになってしまっているその対象を得るために、その周囲の「間接的・媒介的」な領域に手掛かりを模索している図だと言えないだろうか。直接的に、ブランクとなっている部分にフォーカスしたところで、何も反応は返ってこないだけでなく、おかしな心境にさえなりかねない。ブランクに隠れた対象の影は、その周囲のおぼろげな範疇に潜んでいる、という気がするのだ。

 ところで、現在のところ、地震予知は達成されていない。ある時に発生するそのある時に関しての情報はブランクのままだと言える。が、「間接的・媒介的」な情報はいろいろと確認されているようでもある。たとえば、ナマズの騒ぎ方であったり、またネズミたちのうろたえ方――最近も新しいこの事例が報道されていた――であったりのことである。もし、その因果関係が判明するならば、これらに基づく方法は「間接的・媒介的」方法ではなく、「直接的」方法だと言われるようになるのであろう。ただ、この因果関係の究明には膨大な時間が掛かりそうな気がする。
 しかし、両者の強い相関関係にしっかりと「着眼」した人がいたのは事実だ。その「着眼」の背景、裾野にはその人の経験とともにあったであろう鋭い観察や洞察、いろいろな試行錯誤が堆積しているに違いないと思う。
 「何を」への問いにしても、またそれと密着しているような「どのように」という視点も、それだけが単独で働くものではなく、ムダとも見える日常のさまざまな経験が意外と重要なことであるようだ。そんな観点でわれわれの日常生活を振り返ると…… (2003.07.02)


 ここしばらく、ウォーキング時に英語CDを聞かないようにしている。取り立てての理由があるわけでもないのだが、どうもイヤフォーンに耳がふさがれているとふと気になったことを考えるということが妨げられることに気がついたからかもしれない。おまけに、両手は鉄アレーでふさがっているため、途中でイヤフォーンをはずすわけにもいかない。そんなことで、英語CDは一時中断することにした。

 ひるがえって目を向けてみると、一日の中で、職場を除き「沈黙」の中で思索することがいかに少なくなっているかに気がついた。帰宅するとテレビがついている。食事中は見るともなくどうでもいい番組を見て、聞いている。風呂に入る時も、いつの頃からか浴室用ラジオを持ち込み、賑やかに入浴している。そういえば、NHKの寄席番組を聴きながら汗をかくのが常習になったりしている。
 クルマの中でも、何とはなしにサウンドに頼ってしまっている。通勤時間はきわめて短いにもかかわらず、FMラジオをかけたり、テープをかけたりととにかく音に幾分かの神経を振り向けることとなっている。

 われわれの年代でもすでに「ながら族」という言葉を使っていたはずであり、わたしも受験勉強を、ラジオの深夜番組を背景にして進めた覚えがある。特に、聴き「ながら」というスタイルが思考を妨げるものとは自覚しなかったようだ。ただ、読書をしたり、ものを書いたりする場合には、音楽といえどもボリュームを下げ、やがては消したりしていたような気がする。
 最近は、特別に興味をそそられる音でない限りは、沈黙に「耐え」ようと思うようになった。この「耐える」というのが、奇しくもこれまでの「ながら」の正体を表しているような感じだ。要するに、何となく「寂しい」気分となるのがイヤだったからなのかもしれない。それだけのことなのだろう。
 が、まともに考えるならば、この習性はとんでもないまやかしに過ぎないと感じ始めた。言うまでもないことだが、ラジオから人の声が聞こえていたからといって、あるいは音楽が聞こえていたからといって寂しくなくなるというのは、やっぱり変なのだとじわじわと感じるようになったのであろうか。それもあるが、昨今は、ラジオの向こうの取ってつけたような味気ない会話が、逆に寂しく思えるようになったのかもしれない。
 と同時に、沈黙の中で一人考えるとはいかないまでも、目に入る光景をじっくり観察したり、何を感じつつあるのかを自問したりすることの貴重さを自覚し始めたのかもしれない。

 思えば確かに、考える対象から辛さを呼び起こされるものが増え過ぎている時代であるように思う。深刻に考え始めると悲観の挙句、鉄アレーを握ったまま川に飛び込んでしまいたくなるような危険があるやもしれぬ。むしろ考えないで、考えそうになったらワケのわからない騒音まがいの音で気分をそらして何気なく過ごすのが処世術かもしれない。しかし、それではあまりにも自己蔑視に過ぎる。そんな時間を連ね始めるならば、一日そして一週間、一ヶ月さらに一年と、何も考えることなく時を流してしまいそうな感じではなかろうか。

 先日、八王子方面で、路上に寝転んでいた者を注意した若い男性が、逆ギレした若い者たち四人によって暴行を受け、殺された事件があった。ニ、三日して犯人たちは捕まったが、その時のセリフに驚かされたものだ。
「報道を見て、大変なことをしたと思った……」
とあったからだ。じゃあ、犯行に及んだその時には何を思っていたのか? 当然何かを考えたり、感じたりしていたに違いなかろう。
 でも、上記のセリフはまんざらウソではないのかもしれないとも思った。なぜならば、常日頃考えることを放棄してしまった者にとって、自分の行動は夢遊病者の行動にも似たところがあっても不思議ではないからだ。選び抜く判断や、意を決する決断などあろうはずがなく、粗暴となってしまった感情レベルの条件反射の連続しかないと言っても言い過ぎではないのかもしれない。感情以前の感覚を刺激するものだけは、この時代はどの時代よりも寛大に提供している。しかも、考えなければ済まない辛いことをカネで除去する方法も惜しみなく紹介し続けている。
 時代は、「焚書(ふんしょ)」という言葉を死語とした以上に、「焚考(ふんこう)」――こんな言葉はない! が、考えることを抹殺しようとしている現実はありそうな気がしている!――を猛スピードで進めてしまっているようではなかろうか…… (2003.07.03)


 「足を引っ張る」という慣用句がある。その意味は「他人の成功や前進を陰でひきとめ、邪魔をする。また、物事全体の進行のさまたげとなる」(広辞苑)ということらしい。 こうしたことを、妬み、嫉みから露骨に行なう者もいることはいる。「出る杭は打たれる」のたとえのとおり、往々にして失敗というものがこうした悪意によって「足を引っ張られる」ことによってもたらされることは少なくないだろう。
 ただ、結果的に「足を引っ張る」機能を果たしたかと見えるような、明白な悪意はないが「足を引っ張られた」としか言いようがないような要因も考えることができる。世の中には、悪意を持たなくとも、どういうわけか十分にそれ以上の効果を果たしてしまう人もいないわけではない。
 また、他人ではなく、自分自身が知らず知らずにそんな得体が知れないブレーキをかけてしまうケースも意外と少なくないようにも感じている。

 もともと、感情の動物でもある人間同士が紡ぎ出す世界はやっかいなものと相場が決まっている。しかし、シロクロだとか、善悪といった単純な関係の問題を通り越し、複雑で微妙な関係がクローズアップするかのような混迷した時代には、プラスの動きだけに着目していたのでは足りず、マイナスの動き――たとえば、この「足を引っ張る」機能――にも細心の注意を払う必要があろうかと考えるのだ。

 さしあたって、時代が大きく変化しようとする現在のような時期に、従来からの古い方式や発想にしがみついたり、依拠したりする者たちが、この「足を引っ張る」という張本人だと見なしてよいのだろう。自分たちの既得権、利権を何が何でも維持し続けようとする勢力が、改革や新しい動きを阻止しようとするのが好例である。自らの組織、権限、予算を何が何でも温存しようとする官僚機構もあるし、いわゆる「構造改革」の動向にブレーキをかける「抵抗勢力」という表現もあることだ。

 時代の改革に対して明々白々に「足を引っ張る」そうした勢力は、もちろん問題であるに違いない。しかし、それらは、ある意味で氷山の一角に過ぎないのではないかと考えることが重要であるように思える。そうした勢力は孤立して存続しているわけではないからである。それなりに多くの支持者がいたり、あるいはそれらを黙認する裾野が存在すると考えるのが順当だからである。そうした者たちの中には、決してギラギラとした利害意識や悪意めいたものとは無縁とも見える人たちもいたりするかもしれない。持っているのは、ただ変化への恐れや拒絶であったりするのかもしれない。しかし、悪意はなくとも、時間を争うはずの改革――未だにはっきりしない「構造改革」のことだけを言っているわけではない――にブレーキをかけ続けていることになるのは事実であろう。

 したがって、「足を引っ張る」勢力の現象は決して通り一遍の表面的な把握では済まないのであろう。さらに、無意識に踏襲しているように見える「従来どおりの形式」という、さし当たって特に問題ではないような事柄にもひょっとしたら「足を引っ張る」機能が温存されているのかもしれないと思い始めている。
 これは報道という場面で気づくことなのである。テレビ、ラジオのニュース報道にしても、あるいは新聞や雑誌の活字報道にしても、その形式はさまざまな試行錯誤をかいくぐり、そんな経緯から今日のスタイル、形式に至っているのかもしれない。だから、容易に代替案が出せるわけでもないが、何ともマンネリ的な雰囲気が漂い、それが視聴者や読者の思考や感性がはばたく動きの「足を引っ張る」機能を果たしてはいないか、とそう感じることがあるのだ。

 先日も、その種のことを感じた。弊社の新企画サービスに関する地域新聞の取材に対応した折りに気づいたが、新製品の紹介というジャンルにはそれなりの形式があるようなのである。新製品のねらいは何かから始まって、従来製品との違いや、価格面での特徴、そして最後にどの程度の販売量を見込むかという点で締めくくられる。まるで、データーベース向け情報のアイテムのようにお定まりなのである。
 特に、最後の「どの程度の販売量を見込むか」という点は、いつも引っかかる。こうした不透明な時代だから、正直言って不明ですと言うのだが、何らかの数字に着地させられてしまうのである。「こんな時代だから、販売数は不明だと社長は述べる。それでもリリースするというのが同社のスタンスである」とでも書いてもらった方がよりリアリティがあるし、「そうなんだよな。みんな目算が立たなくても開発しようと挑戦しているんだよな」という前向きな受け止め方を鼓舞するのではないかと、思ったりしたのだ。とかく、新製品の紹介などという記事は、ハッタリ基調となり、その分同業他社に限らずその種の読者には「コンニャロー」と思われがちとなりそうである。まあ、だからということでもないのだが、あまりお定まりの形式に固執せずにリアルに伝える手法でこそ、始まるべきものが始まるのではないかと考える次第なのだ。
 とかく何気なく、この形式が長い歴史の風雪をくぐって残り続けた最上のものだと盲信しがちなのが人情ではある。しかし、時代の変化は、そんな常識をすら吹き飛ばそうとしているとするなら、常識に依拠すること自体が変化の「足を引っ張る」役割りを果たすことになりはしないか、と…… (2003.07.04)


 昼時の強い陽射しの中、クルマを走らせていた。街路樹が途切れた道路沿いに、その日差しを受けた赤いテントのひさしが目に飛び込んだ。中華〜店という白い文字が浮き上がっている。「冷し中華」と書かれたポスターも目についた。カウンターに座ると汗が滴り落ちるようで、入ってみたいとは思えない。しかし、なぜか突然、懐かしい感触がよみがえってくるのを感じた。何でもない、夏の陽射しのもとのありふれた中華店の店先の光景が、遠い日の何かを思い起こさせるのだった。

 いつだったかという定かな記憶があるわけでもない。ただ「若い頃」であるに違いない。栄養がどうのとか、カロリーがどうのとかそんなことは関係がなかった頃、とにかく目先の空腹が、財布の中身でおさまればそれでよしとした若い頃であったはずだ。ギラギラとする夏の太陽の下、まぶしそうにしながらそんな中華店にころがり込む。さすがに汗を吹き出させてラーメンをすする気にはなれず、冷し中華に目を向けるがどうもそれだけでは足りなさそうで、チャーハンを併せて注文した頃の話だ。
 そんな当時は、注文したものが出来あがるのを待つちょっとしたその間、一体何を考えていたものなのだろうか。そんなことをふと想像してしまった。

 「青天井」というほどにのびやかな可能性と自信に満ちていた覚えがあるはずはない。むしろ、当時は当時でそれなりの不安や、苛立ちで若い気分に手に余る光と影の濃淡を作っていたに違いない。
 しかし、今から思えば、若い頃の夏の日々は、懐かしいというよりも嫉妬心さえ刺激されるほどに素敵なものであったように思えてしまう。幸いにも身体には何ひとつ気にかけることはなかった。悩むべきものを何ひとつ持たない贅沢過ぎる状態であったと言える。けれども、そんな価値の自覚があったとはとうてい思えない。現時点で羨む贅沢な状態、それが当然のことであり、自然なことだとしか感じられなかったのであろう。
 現在のように、何かにつけてちょっとした不具合を自覚させられるようなことは何ひとつなかったのだ。かえって、若い頃からそんな自覚のひとつでもあったなら、身体とのつき合い方にもう少し手馴れた部分が用意できたのかもしれないとさえ思ってしまう。

 そう考えると、青春という時期には、決して当事者には自覚できない奇妙な「仕掛け」が埋め込まれていたのかもしれないと思えないこともない。
 不幸にも、大病を患ったりした者のみが、幸運にも青春という時期の「身体の贅沢」にリアルタイムで気づかされることになる。しかし、大半の若者たちは、極端に言えば、あたかも「宝の持ちぐされ」という言葉にも似た経緯、つまり自分のその時期の希少価値には決して気づかされることなく青春を過ごしてしまい、後日思い出の中でのみその宝の存在に気づかされるといった経緯を歩まされるという「仕掛け」なのである。

 ここニ週間ほど、しばらく忘れていたまあ持病のひとつと言えるのであろう偏頭痛を被っている。いつであったか、最初に被った時には気にしたものだったが、何回か経るうちに「ああ、やっかいなお客さんが来たな」という構えで迎えることになった。
 こんな時期であるから、なおのこと「無傷」な青春の頃を羨んだりもするのであろう。しかし、片や、その羨望の的たる青春時が決して楽園であったと考えるほどに形式的な見方をしない自分でもある。青春時というものは、「身体の贅沢」のその上に、蜃気楼のような「自意識の地獄」ともいえる楼閣が打ち建てられていたことを、自分も含めた少なくない大人たちは忘れていないはずなのだから。

 であれば、「身体の贅沢」をもはや遠い過去に置いてきてしまった年配の大人たちは、意識の上だけでも人生のベテランらしく落ち着いた悟りっぽい心境に近づいていかなければ間尺に合わないと言うべきか。しかし、これもまた至難のわざと言わなければならない…… (2003.07.05)


 沖縄で、中学生が中学生を殺して埋めるという残忍な事件が発生したようだ。この時代、どこで何が起きても人々は受け容れてしまう、そんな荒れ果てた空気が充満していそうだ。しかし、「沖縄で」という点、そして死体遺棄の現場が「沖縄特有の墓」(母体をかたどったものだと言われている)であった点などから、わずかに衝撃を受けた。

 考えてみれば沖縄だけを特別視する理由などはないはずだろう。むしろ、米軍基地として「占領」され、相変わらず米兵たちの暴力沙汰が頻発している点、そして最近では、この経済低迷やSARSの影響で観光客も減り、沖縄の経済状況は辛酸をなめるごとくだったとも聞く。さらに、昨今は沖縄にも暴力団の影が濃くなり、青少年たちも邪悪な影響に晒されているニュース報道に触れたこともある。沖縄も、汚染されつくした本土諸都市と何ら変わらないと言える。
 それにもかかわらず沖縄だけは今日の悪しき文明に汚されない空間であって欲しいと勝手に思い込んでしまう。終戦時に本土の楯として沖縄とその多くの住人たちを犠牲にしたという経緯も関係している。本土にはない美しい海と海岸の存在もある。が、もうひとつ、沖縄は日本の基層文化(縄文文化)の重要なひとつを引き継いでいるという点がどこかで働いているのかもしれない。

 沖縄文化が、アイヌ文化と並び、現日本文化(稲作文化・弥生文化以降)以前の日本の基層文化(狩猟採集文化・縄文文化)だとする説は、柳田民俗学などを踏まえた梅原 猛氏の研究である。
 梅原氏の縄文文化への関心の原点は、まずもって「現代文明のいきづまり」を洞察することにあったとされる。そして、これを救う原理が、「東洋の文化、特に日本の文化」に含まれているのではないかと推論された。それが「仏教」ではないかとの研究もなされたが、むしろその渡来以前から日本の地にあった縄文文化こそがその大役を担う原理ではないかと考えられるという。

 「現代文明のいきづまり」とは、「人間中心主義」による自然環境の泥沼的な破壊を意味し、さらに「人間中心主義」の帰結としての近代の「自我中心の文化」が歴史にもたらしたいく度もの惨い戦争や社会混乱などを意味するようだ。
「私は、近代文明は人間中心主義という大きな病に悩んでいるように思われる。西洋文明の大きな柱は、ギリシャ哲学とキリスト教であるといわれるが、どちらにも人間中心主義の原理がその基本にある。近代科学の基礎となったギリシャの哲学は、人間の理性への大いなる確信からはじまった。人間は、理性をもつことによって、はるかに動物より優位にたつ。キリスト教は、一見、神中心の宗教のように思われるが、しかし、……神は、最後に人間をこの地上の支配者としてつくったというのである。いってみれば、人間は神の似姿である理性をもっているので、それはすべての動物を支配する権利をもっているというのである」(『甦る縄文』)

 こうして「人間中心主義」の発想原理が「現代文明のいきづまり」をもたらしていると見なす梅原氏は、人間が自然と共棲した狩猟採集文化としての縄文文化とその知恵に注目することになるのである。
「人類はもう一度、自分の出発点から歴史を考えなおさなければならない。もう一度原点に戻って、人類が長い間続けた狩猟採集文化を考えなおさなければならない。狩猟採集文化の中には、人間が生きていくための健全な知恵がある。その知恵が、短期的にみれば人間の生活を飛躍的に発展させた農耕牧畜文化の中で見捨てられていったにちがいない。工業文明の発展とともにその知恵は未開社会の世界観として完全に無視され、忘却されたのではないか。しかし、その無視と忘却は、人類を危険な破滅に追いやるのではないか」

 現在、信じがたいほどに日常茶飯に繰り広げられている人間の愚行を見聞きする時、やがてそれらは沈静化すると楽観視する人々が多いのだろうが、わたしはどちらかと言えば梅原氏の危機感と知的冒険に共感を覚える。梅原氏は、ご自分の立論をアナクロニズムでもあると承知の上でなおかつ展開されているのだが、展望なき将来と知りつつ時代の趨勢に黙々として迎合していく決定的矛盾よりかは、はるかに魅力ある姿勢だと思える。
「縄文文化は、すべての生きとし生けるものは、本来同じものであるという世界観を根底にして、そのような生きているものは永久におおいなる生死循環をくり返すという世界観である。私はこの世界観が、近代世界を支配した人間中心的な、そして歴史を循環ではなく一方的な進歩と考える世界観にとって代わらなければならないと思う」(同上)

 冒頭の沖縄の少年たちは、自分で自分が何をしているのかわからない、そんな地獄に落ち込んでしまっていたのではなかろうか。大人たちが諭すはずの冷静で、理性的であること、それはそうなのだが、問題はそうあることができれば地獄から抜け出すことができるのか、ということなのかもしれない。大人たちも、今現在地上に広がっている現実が、名称だけは異なってはいても、その実は地獄とかわらない現実なのかもしれないと想像することではないかと、ふと感じるのだが…… (2003.07.06)


 誰もがキレてやりたくなるような不満鬱積する時代だ。そんな中でもとくに「20代と50代」がキレやすいのだそうだ。JRの駅員や車掌らが乗客から受ける暴力事件のうち、20代と50代が全体の半分近くを占めるという。また、98年度以降、ずっと50代がトップだったが、02年度は8年ぶりに20代が取って代わったのだそうだ。JR東日本の幹部は「リストラを心配する中高年と、将来の展望が持てない若者にストレスがたまっているのでは」とみているらしい。(『朝日新聞』2003.07.07)

 不特定多数の乗客を相手とする駅員さんたちも大変なことだと思ったが、自分の属する50代が、縁日のヨーヨーすくいのこよりのようにキレやすかったとは意外というか、なるほどというか……。
 しかし、ストレスがたまりにたまっていることは重々自覚できる。つい先頃も、家庭の中で、後で悔やむようなキレかたをしてしまい、瞬間湯沸し機だのと言われたり、自己嫌悪に陥ったりしたものだった。振り返ってみるとキレる瞬間というのは、もう人格も何も吹っ飛んでいて、感情的というよりも生理的な超自我状態に突入しているようだと反芻したものだ。それを制止する努力をするよりも、そうした連鎖に踏み込む愚を回避することが大事だと、年甲斐もなく反省したりした。

 しかし、本来ならそうした教訓は、国の、あるいは世界の第一人者と呼ばれるお歴々たちが示して、馬鹿な庶民たちのお手本となるべきところであろう。真偽のほどは定かではないとしても、「古き良き時代」にはそんなことがあったと聞いている。戦時中には、法を司る者としては「ヤミ米」は絶対に食わぬとして餓死した裁判官もいたとかいなかったとかである。リーダーたちのそんな身を賭けた所業が、右も左も一緒くたにする庶民に行動の指針を与えたのかもしれない。
 ところが、現代は、リーダーたちが身をもって悪行の限りを尽くし、庶民たちが力なきがゆえに無謀を自粛して、秩序を維持している、といった恰好ではなかろうか。国際状況を見ても、先のイラク侵攻にしても、中東のテロ応酬にしても、はたまた北朝鮮のぶっちギレにしても、いわば米国のパワー・ポリティックスが諸悪の根源だとしても、余りにそれぞれのリーダーたちが抑止無き勝手放題をやり過ぎているではないか。国内にしても、小泉まやかし政権のもとで、これまでの自民党無策政治のつけのすべてが、大胆にも国民への痛みとして転嫁されている理不尽なありさまである。その分、庶民たちは言い知れぬストレスを抱え込み、キレる寸前で身体をこわしたりしているに違いない。

 そんな状況でも、窮鼠、猫を噛むのようにキレて暴れるのが「20代と50代」ということなのであろうか。自分の(経済的)存在そのものを脅かされるとなれば無理もない、と言いたいところだが、やはり間違っているのだ。つまり、キレる相手が間違っているのである。JRの駅員や、自分と同類の庶民、そして家族なんぞにキレたってしょうがない。キレて、蹴倒してやらなければならない相手をシッカリと見定め、然るべき手をキチンと打たなければいけない。それにもかかわらず、ムダなキレかたをしている者に限って国民の所定の政治的権利(参政権)を有効に行使しなかったりするから馬鹿馬鹿しい話となってしまうのだ。

 それにしても、ふと思うのは、社会事象の「原因」というものを明確にしていくことの重要さである。特に、日本のように責任の所在が常に曖昧にされる風土にあっては、より注目されていいと思うのだ。
 それというのも、どうも、現代という時代は、社会事象の「原因」を不透明にする要素に事欠かないように思われるからである。官僚機構にせよ、情報操作にせよ、さらに言えば人格的要素が技術的要素の陰に潜みがちな趨勢などがそれであり、狂牛病にしても、各種薬害事件にしても、その責任究明がもたつく現象は、それを裏書していると言える。
 だから、時代劇ドラマのごとく「悪玉代官」のように文字通り征伐の対象がはっきりしているならば、庶民のストレスももう少し解消されるのだろうが、現状では持って行き場のない憤りなどが渦巻くゆえに、JR駅員たちも八つ当たりされてしまうのだろう…… (2003.07.07)


 日経平均株価が続伸して一時は1万円台にも這い上がったという。ただし、こうした動きの受けとめ方は一様ではなく、楽観論と悲観論・現実論が入り乱れているようだ。それというのも取りざたされてきた諸々の経済・金融問題が解決されないどころか、抜本的な手が打たれた形跡もないからである。いわば、米国株式状況や国際的マネー動向によって降って湧いた話だと見えるからである。
 しかも、株価は経済全体の状況を代表するものとは考えられないだろう。とくに日本では、株価に表現されるとする大手企業のほかに、膨大な数の中小零細企業が存在し、実のところ大手企業を下支えしてきたはずである。その層が今、大手企業のリストラ策、合理化策の過程で破格の痛みを背負わされ、踏み台にされたりしているのが現状だと聞く。大手企業下支えの中小企業層が、これまでにない苦境に追い込まれている最中の株価回復傾向を額面通りに受けとめ難いのは至極当然のことだと思われる。

 それにしても、われわれ中小零細企業にとっては厳しい状況が続いている。
 中小零細企業が、ピラミッド型下請け構造の中で常に受け身として継続していくのではなく、リスキーでも新しい市場を開拓する方向は、これまでにも幾度となく叫ばれてきた。そして、多くの同経営者たちは大なり小なりその方向を追及してきたし、追及しているに違いない。
 それなりの事業経験を踏まえた経営者ならば、ピラミッド型構造の底辺にあり続けることは、そこそこの「安定」の名目で、その実「かろうじて回る」以外に何のメリットもないことを重々承知しているはずだろう。しかも、昨今は、ボディの大きな大企業自体が、この不況の中、この「構造改革」基調の状況下で七転八倒している。自身のサバイバルで手一杯といったところなのであろう。デフレ経済がおさまる兆しもないため、デフレを口実にした発注額の切り下げもまかり通っている実情だと聞く。

 何から何までがドラスティックに変貌を遂げている現在、旧態依然としたピラミッド型構造の下で、「額面割れ(コスト割れ)!」したささやかな稼ぎに甘んじていくことも、当然もう変わってゆかなければならない。いや、たぶん、そうでしかあり得ない事態に直面しているのだと考えられる。 
 しかし、新市場の開拓、新事業へのシフトが簡単でないことは火を見るよりも明らかなことだ。事業となるほどの市場を発見することが容易ではないのは当然ともいえる。スケール・メリットを狙う大手企業も、それらのネタ探しには血眼であろう。
 ただ、従前の狭まりこそすれ広がるはずのない市場に群がれば、過当競争が強まり、デフレも強まるだけのはずである。しかも、余剰従業者を吸収していくこともできなければ、経済が好転する兆しもつかめないと言うべきなのだろう。困難でも、苦しくても新市場とニュー・ビジネスの開拓は、わが身がサバイバルするためにも、経済全体の活性化のためにも差し迫った重要な課題なのだと思う。
 いずれにしても、中小零細企業群が、規模のスケールによってのみ蔑視される状況から、その独自性によって「スモール・ビジネス」と呼ばれ始めるように変貌してゆかなければ、たぶん日本の経済にも将来はないのだろうと思う…… (2003.07.08)


 ネットで日経の『 IT Business & News 』などを閲覧していると、大手企業が種々の儲け話で先手を打とうとしている様子が垣間見える。実のところ、そんな閲覧はわれわれのような立場からはあまりおもしろくないと言える。が、大きな動向を視野に入れておく必要はある。
 日本の「電子政府」化(e-japan 計画)の具体化をねらって、ビル・ゲイツ氏が来日してデモンストレーションを繰り広げているとからしい。それというのも、日本政府側の動向として、無償OSのLinux採用の傾向が強まってきたからだという。日本の大手企業も、にわかにLinux陣営に雪崩れ込んでいくのだろうか。確かに、「電子政府」化の動向意外にも、家電製品など、組み込み型OSが必要な場面でLinuxが持てはやされていることはかねてから伝えられていた。

 いまひとつ目に飛び込んできたのは「ICタグ」という構想だ。現在の物流はもっぱらバーコード・システムが担っているわけだが、商品にICでできたタグを組み込ませて、JRの「Suica」のようなというか、商品から離れた読み取り機からでも無線方式で商品データが読み取れるようにしようとするものだ。
 狂牛病事件で騒がれた際に、牛たちがその出生や飼料などの状況に関する情報を収めた「ICタグ」を確かその耳にセットされたとかされないとかと報道されたかに思う。商品の移動軌跡がトレースされるという「トレーサビリティ」が着目されているらしい。食料品などの責任管理・安全管理上の必要性とともに、物流管理上の透明性が目指されているようだ。
 ただ、「ICタグ」の埋め込まれた商品が広域で管理されるということは、その商品の保持者であるユーザーも管理されかねないというプライバシー問題が一方で懸念されているとも言われる。

 ところで、このところ急速に「管理社会」化が強まっていると見受ける。先の「個人情報保護(?!)法」といい、住民票との関係での「国民総背番号」制といい、まるでプライバシー問題や個人の自由の問題が視野の外におかれたような個人情報管理が目立つ。
 かと思えば、あちこちに設置された「監視カメラ」によって犯罪者が検挙されるケースも報道されている。立体駐車場から落下させられ、殺害された幼児の事件も、商店街に設置された「監視カメラ」が大きな手掛かりを与えたようだ。こうしたケースは理解しやすいと言えるし、また潜在的な犯罪者たちへの抑止効果もあると思われる。
 だが、こうしたケースが露払いとなって、国民全体が潜在的な犯罪者であるかのように監視される環境は、如何なものかと思わざるを得ない。いずれにしても肖像権が侵されることにかわりはないのだから、一体「誰が」、「何のために」監視するのかがケースごとに厳しく問われなければならないはずだ。その点は、自分は悪いことをするつもりはないのだから、気にしないというような甘い問題ではないように思うのだ。
 「誰が」という点では、権力層であることは間違いないのだが、「何のために」という点では、権力層がいつも公明正大な目的のためだけに情報を使っているかについては間違いないとは言い切れないのが実情ではなかろうか。
 イラク戦争をめぐって、英国でも米国でも、戦争への誘導のためにさまざまな情報が間違って利用された可能性が問題視され始めてもいる。イラクによる大量破壊兵器保持に関して、自分の論文が無断で、しかもその主旨をねじ曲げられて悪用されたことを嘆く大学院生の記者会見場面もあったようだ。こうした事情からブレア首相も窮地に追い込まれているという。米国でも、ある調査委員会報告の内容について同様のケースがあったと先頃発表されたはずだ。
 こうした事実は、権力層こそが監視されなければならないという、民主主義の大原則をいまさらのように示すものではなかろうか。しかし、わが国ではどうも「誰が」、「何のために」監視するというテーマについては鈍感であるのかもしれない。一連の政治的不幸と密接につながった問題なのだろう…… (2003.07.09)


 養老孟司著『バカの壁』については以前ここでも取り上げた。(2003.04.17)
 そこでは、わたしは「バカの壁」というものを次のように解釈した。
「養老氏は、話し合う媒体である知識や情報があったとしても、それで即座にわかる、わかり合うことにはならないそんなメカニズムがあるのだという。たとえ知識・情報が与えられても、人の頭の中では、わかる場合と、いわば馬耳東風、馬の耳に念仏、猫に小判のように意に介さずというような、わからない場合とが生じるらしい。これらの境に『バカの壁』とでもいうべきものが想定できるというのである。つまり、知識・情報などの言葉でわかる範囲の限界には、その向こう側は言葉のみではわからないという『バカの壁』が立ちはだかっているということのようである」
 そして、いたるところで「バカの壁」によって生じている不毛な悲劇を克服するためには、「知識と常識は違う」ことを理解して、「知識」でわかろうとするのではなく「人間であればこうだろう?」という観点で事に迫るべきなのではないかと、養老氏は述べていた。さらに、「人間であればこうだろう?」という観点の内実が崩れ始めている原因として、「無意識」「身体」「共同体」という今や忘れられたり、軽視されている対象の持つ意味へと関心を誘ってくれた。大いに共感の持てた叙述であり、このことはわたしだけではないと見え、現在ベストセラーとなっているという。

 この著書が受けているからでもないのだろうが、最近は「バカ」という言葉をどうもあちこちで耳にするようになった。確か、この言葉はちょっと前に「差別用語」だとかに「認定?」されたかのようであったが、現在の人々の、混乱した頭の中、虫の居所の悪いハラの中でどうも渦巻く言葉であるのかもしれない。もちろん、その場合その言葉は自分に向けられているはずはなく、他人や社会や要するに「外」に向けられているに違いない。

 昨日の新聞の文化欄に、『「自分以外はバカ」の時代』(吉岡忍、2003.07.09『朝日新聞』夕刊)という頷ける記事があった。
「しかし、二十一世紀の初頭、不景気風吹きすさぶこの国で個々ばらばらに暮らしはじめた人々の声に耳を傾けてみればよい。取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友だちや先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち……。
 ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが『自分以外はみんなバカ』と言っている。自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中がうまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる」
 筆者の吉岡氏は、わたしと同年生まれの団塊世代でもあるためか、現実への視線の向け方に他人事ではないものを感じてしまうのだが、同氏の抱える危機感はほぼわたし自身のものとも共通している。
 同氏は、「この国から地域社会と企業社会が蒸発し、人々がばらばらに暮らすようになった現実」に危惧し、これらの原因が「バブルが崩壊したあとの不況のせい」だけではなく、「不況が原因と思っているうちに、じつは私たちはもっと大きなものを失ってきたような気がする。そして、その喪失の意味をうまく自覚できていないのではあるまいか」と考え抜いた末に表題の問題に至ったようであり、以下へと続く。
「この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感したりすることもなく、まして褒めることもしない。こちらをバカだと思っている他人は他人で、私のことを心配したり、励ましてくれることもない。つまり私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま日々を送りはじめた――それがこの十余年間に起きた、もっとも重苦しい事態ではないだろうか。……そこに私は、この国がこれからいっそう深く沈み込んでいく凶兆を読み取っている」

 地域社会がさまざまな原因で崩壊していく趨勢に、不況による企業や商店の瓦解が加わって、人々のつながりがことごとく寸断されていった事実の指摘は言うまでもなく重要課題だ。そして、その過程で、狭い了見の「ジコチュー」の極限とも言えそうな「自分以外はみんなバカ」とする心境が蔓延したと見る観察もリアルで妥当だと思われる。
 だが、わたしは、同氏が若干触れるにとどまった次の点に執着したいと思っている。
「高度産業社会を経験した人々は、こういう心性を抱え込むのかもしれない。そこでは、だれもが何かの専門家として学び、働き、生きている。……かぎりなく細分化した一分野に精通しているという自負はだいじだが、それがそのまま周囲や世間に対する態度となる」という点である。
 これはまさしく「情報(化)社会」のひとつの病理に違いない。情報・知識を持つことによる万能感、それらがやってくる「外部」機構(マスメディアなど)の神格化(=自己内部の空洞化!)、その「外部」機構との一体化のチャンネル(橋渡し)だと錯覚する自分の「専門性(知識)」。これらのバーチャルな道具立てが、人々の本源的なよすがである「共同体」(そして「身体」「無意識」も加えておこう)からの離脱を軽んじさせ、空疎な唯我独尊的な振る舞いを増幅させているのではなかろうか。やはり、「情報(化)社会」―「グローバリズム」というテーマは、その日陰の部分をもしっかりと含めて考察してゆくべきなのに違いない…… (2003.07.10)


 マイクロソフトが、Windows 98 以降のすべてのOSに、インターネット関連における「緊急度」の高い「セキュリティ問題」があること、緊急に修正プログラムをインストールすべきことを発表したとの新聞報道があった。さっそく、「Windows Update」サイトからのダウンロード、インストールを行っているところだ。
 このところ、メールボックスに、ウイルス・チェック・プログラムでウイルス侵入の警告の発せられる見知らぬメールが届くことが頻発している。もちろん、開かずに即座に削除し、念のため「ゴミ箱」からも削除している。
 自社のHPにはメール送信機能も設定していることから当方のメール・アドレスは公表してきた。加えて、さまざまなプログラムのダウンロードのためにメール・アドレスを入力したりもしてきた。その結果当然のごとくか、それらが「悪用」され、悪質なメールとなって届くのであろう。
 海外でも、このところメールによるウイルス侵入と、パソコン内のデータやファイルの持ち出しから、システムの破壊までさまざまな被害が増加していると聞いている。そんな中でのマイクロソフト側からの「セキュリティ問題」でのOS不備に関する発表であったので、ややゾッとしたものだった。

 マイクロソフトのサイトの修正プログラムの説明文中には、「悪意のあるユーザー」とか「攻撃者」という言葉が出てくる。ハッキングとか、ウイルス送信などを行う者を指しているわけだが、やはりそうした言葉を今さらのように凝視してしまう。
 今や、この日本の日常生活での身近な場面でも、「悪意のある」人間や、他者への「攻撃者」の存在が残念ながら顕在化するようになってしまった。
 「世界一安全!」と称されてきた国の住人、われわれにとっては、どうも「悪意のある」人間というどぎつい表現に関する実感的なイメージはしにくいものなのかもしれない。ただ、昨今はそんな感性の是正を迫るような凶悪犯罪の発生に不足はしなくなってしまった。しかし、それでもなおかつ、「悪意のある」人間という言葉が持つリアルな視点を自分のものにしているかどうかは疑問であるような気がする。それが、日本人のセキュリティ感覚やリスク感覚の甘さだと指摘されてきたものなのであろうか。

 「悪意のある」人間という表現に関してしっかりと再考する必要がありそうだと感じている。それは、われわれ日本人がしばしば使ってきた「ひと(他人)を疑う」というニュアンスとピッタリ重なるわけでもないような気がしている。
 また、よくチャリティ何とかの場で口にされる「善意の人々」という表現の単なる裏返しと考えても、シックリとこない。
 はたまた、ここニ、三日話題となっている「長崎幼児殺人事件」の「触法」少年のことを考えても、さらに混乱するだけだと思える。
 要するに、「悪意のある」人間の「像」というものに対して、われわれはきわめて漠然とした印象しか持っていないというのが実情であるように思えるのだ。いや、これにまともな回答をだそうとすれば、神とは何か、悪魔とは何かなどという神学論議、あるいは人間にとっての善悪に関する哲学論議になりかねないのであまり深入りはできない。

 善悪論議に迷走することを避けたいのだが、そうすると「選択可能性」という状況を想定することになるように思う。
 人間の「悪意」が「証明?」されたかに見えるのは、それが「行動として選択」されてしまったことによる、といっていいのだろう。とすれば、「行動として選択」されない、つまりそんな「選択肢」がないような環境を作り出してしまえば「悪意」は実証されず、すなわち抑制されてしまう、ということである。
 「悪への選択可能性」があるにもかかわらずそれを選択しない、というのははなはだカッコイイ話しではある。しかし、「神よ、われわれを試みにあわせず……」という祈りをするのが人間であり、そんな「悪への選択可能性」の前に立たされることを歓迎してはいけないのではなかろうか。

 冒頭の「悪意ある」ハッカーの話題に戻れば、彼らの「悪意」を抑止させるための効果的方法は、道徳教育よりも、侵入し難いセキュリティ・ガードをとことん固めてしまうことなのであろう。彼らの「研究」が徒労に終わる、もしくはその「努力」がペイしないほどにセキュリティ策を完備していくことが、「悪意」を消滅させることに繋がっていくように思うのである。
 ある党の政治家が、酒の席で「セクハラ」をしたとのことで議員辞職をして、その党組織内では、「自宅外での飲酒は慎もう」という話題が出たという。いろいろと議論もあるだろうが、これも「悪への選択可能性」の「選択肢」から断ってしまうという方法のひとつであろう。
 で、ここしばらくわたしの頭にこびりついていたあの「長崎幼児殺人事件」の件である。被害者の親御さんからすれば、もちろん当該の「触法」少年には明白な「悪意」があったとされるはずである。もし、自分が親であったら、いや祖父であったらきっとそう感じるにちがいないことも想像できる。
 しかし、この歳となるまで、人間の「悪意」の深さというものを数々見せられてきた者にとっては、「触法」少年の「悪意」をその行動どおりには承認しにくくなってしまうのである。その少年の行動結果は、言うまでもなく「悪意」に匹敵する。しかし、である……
 大人でもそうだと思うが、行動の適切な選択能力である判断力を超えたさまざまな選択肢がありすぎる環境について、もう少し目を向けていいのかもしれないと感じている。個人の自由は根源的テーマではある。しかし、その自由を大人は駆使しなければならないのだが、青少年にとってははっきりいって荷が重いに違いない。判断能力を培う教育はもちろん重要ではある。しかし、もう一方で大人たちがすべきことは、教育的配慮ある選択肢の制限をしっかりすることではないか。それが、教育というものではないかと考える。
 要するに、大人たちの持て余した自由を余りにも無造作に青少年たちにぶつけ過ぎている無責任さが気になるのだ。

 常日頃、わたしは人に内在する思考力(判断力)を重視してきた。これが希薄となっているかに見える現状を問題視してきた。しかし、今日は逆のことを言っているような気がしないでもない。矛盾が潜んでいるかもしれない。
 ただ、人間の思考力は絶対などではありえないし、人の善悪判断とてあぶないものだと思わざるをえない。だからこそ、判断環境をそれにふさわしいものとしなければならないと考えるのである。
 不況が強まると犯罪数が増大するのは、人々の善悪判断能力が低下するからではない。国政の舵取りをする者たちの視野には、こんな問題はどう映っているのだろうか…… (2003.07.11)


 まだ完全回復とまではいかないが、ようやく和らいできたようだ。今回も、このトンネルからいつ抜けられるかとヤキモキしたものだ。といっても経済不況の話ではない。「偏頭痛」のことだ。三週間位続いたのであろうか。
 通常の頭痛薬とてさほど効かないことはわかっていたので、ただただ血管のバランスが回復するのを待つ以外なかった。そう言えば、コーヒーが効き目があると聞いて試してきたが、なるほどズキンズキンの痛みがいくらか緩和するような実感があった。たぶん、脳の毛細血管を拡張して、動脈血管の膨張とのバランスを幾分回復させるからなのだろうか。

 「偏頭痛」はおさまりつつあるものの、相変わらず事業経営に関しては頭が痛い。これこそ、出口の見えないエンドレスのようなトンネルで不安となっているようなものだ。しかし、こういう類の問題を煩わしいと思ってはいけないはずだ。所詮ビジネスとは大なり小なりこうした課題や不安を抱えることであるはずだし、さらに言えば、生きることとはそれらを当然のごとく処理していくことであるはずだと言うべきだろう。
 ここしばらく、体調の異変とそれへの対応でややうつむき加減となっていたかもしれない。とかく身体の調子の低迷は、否が応でも不安を増幅させるものだ。まして、「一匹狼」的な処世の道を選んでしまった者にとっては、これしか頼るものがない身体が頼りにならないとなると情けなくなって当然であろう。が、早朝ウォーキングの習慣づけをごり押ししてきたことで、なんとか身体のコントロールは方向付けができたかのようだ。

 そこで本腰を入れて取り組まなければならないのが、長期展望づくりだということになる。もちろんビジネスの維持は欠かせない。そのための勝算ある事業計画の建て直しにひと工夫もふた工夫もしたい。
 安直な企画が奏効しないことは十分に承知しなければならない。いや、それについてはもはやあり余る実感があるといっていいだろう。かと言って、決して選択してはならないことは、新しい一歩への躊躇であり、実のない古い皮袋への逃避だと考えている。

 「溺れるものは藁をも掴む」とある。藁を掴むくらいなら溺れろとは決して言えないのだが、藁ではなくもっと「浮力のあるもの」を必死で探せ、とは言いたい。いや、他人事ではないのだから、そうしたものをこそ溺れながらでも眼を凝らして探したいと考える。必死で探そうとする願望がなくては、「水中で」何かに引っかかって没している板切れさえ見つからないのかもしれないからだ。

 「浮力のあるもの」=需要・市場をどう探すか、あるいはそれをどう作り出していくかが差し迫った課題である。既存のそれらの残りかすを、足で稼ぐ営業努力で探すのも一手ではあるはずだろう。それを選ぶしかない場合には、藁にすがるがごとくそうするしかない。
 しかし、この時期に足で稼ぐ営業努力がはたして妥当かどうかに疑問を持つ者は、労を惜しむ動機をもってしてではなく、「浮力のあるもの」=需要・市場が既存の空間ではない「別なところ」に隠れていることをこそ詰めていくべきだと思う。そして、それを発見するには、再々度となるが「セレンディピティ」がそうであったように、目論見をもって動き回ることが必須となるはずだと思われる。求め続けて、思考力と感性を「active」もしくは「run」の状態に持ち込んでおくことが大前提だと考えている。
 まあ、考えているだけではダメなのだが…… (2003.07.12)


 散歩させられている小型のダックスフントが気に入ってか、白い毛のこれまた小型のスピッツ系の犬がつきまとっていた。どうも、自宅から飛び出た犬が、思いにまかせてついて来たような気配だった。散歩をさせている人も困り顔をしている様子だ。
 ウォーキング中で、急ぐ旅(?)でもないので、一役買おうと思った。ストーカーの犬がやや距離をあけたところに割り込んで、「シッ!」と脅してやった。すると、やや身を引いたものの、ちょこざいにも「ウー」と唸ったりする。しかし、ひるまず、足でバタンと音を立てて再び「シッ!」と言ってやったら、尻尾を丸めてもと来た方向へ逃げて行った。
 やれやれ、と思い歩き始めた。と、後方から、「ワンワンワンワン」とさっきの犬が吠えているではないか。悔し紛れといったところか、「よくも人の恋路を邪魔したな、バカー」とでも言っているようで、思わずふき出してしまった。迷子になって帰れなくなったら困るだろうと思い親切心でやってあげたことを、逆恨みするとはおまえこそ「バカー」と思ったものだ。が、しばらくの間、その犬は絵に描いたような「犬の遠吠え」を続けていたのだった。

 一昨日も、「旅の途中(?)」でそれに似た光景に遭遇していた。ウォーキング・コースの帰路は、地域の高校の自転車通学路と重なっている。時刻が合うと、男女の高校生たちが自転車で登校する姿を見かける。
 一昨日は、角を曲がると前方から何やら「奇声」が聞こえてきたのである。ふざけているような、叫んでいるような、はたまた脅しているような、何とも表現しがたい女の子の声がするのだ。声がする方に目を凝らすと、二台の自転車がやってくる。右側の自転車には、声の主の女学生が、左の自転車には男子学生が乗っていた。女学生は相変わらず、「奇声」を発し続けているのだった、自転車をこぎながらである。しかし、何と言っているのかが判然としない。すれ違いざまに、顔を覗くと涙目で真剣な顔をしていたようだ。わたしは、何をするわけでもなく、呆然と歩き、そして振り返ったりしていた。
 とその時、彼らが走り去る方向から、一台の自転車がやってきた。人の良さそうなおばさん風の女性が乗っており、その人が私に向かって言うのだった。
「何を言ってるんでしょうね」
「さあー……」
 まったく、人騒がせな二人であった。
 彼ら二人を、ストーカーの男子学生と、それを興奮して拒否し続ける女子学生と見ることもできる。あるいは、カップル同士の喧嘩、ないしは別れ話と見ることも不可能ではなかろう。が、彼女が何を言っているのかが、「おばさん」と同様にわからないとなれば、通りすがりのおじさんにとっては、ただただ「蚊帳の外」にいるしかないのだ。
 わたしがふと思いをよぎらせたのは、こんなわけのわからないシチュエーションが五万とあって、そして突如マスコミで取り上げられる「女子高生死体遺棄事件」などがあったりするのだろうか、という邪推であった。

 ここに存在する歯にものの挟まったというか、歯に衣を着せたというか、その苛立たしい脈絡は一体何なのであろうか。むしろ、冒頭の犬との関係の方が事態はわかりやすいくらいである。
 どうもこうした脈絡こそが、昨今の惨たらしい犯罪の温床にもなっていそうな気がしたのである。つまり、第三者が「蚊帳の外」に置かれてしまい何もできないという脈絡のことなのである。
 犯罪の抑止力として「世間の目」「傍目」と言えるものがあることは容易に想像できるところだ。第三者の介入の可能性が、犯罪未遂者にとっては当然脅威であるに違いないからである。
 しかし、今日の日常生活の環境は、異常なほどに孤立したプライベート環境が蔓延している。犯罪とクルマという小道具の関係はかねてから指摘されてきたが、今ではそれに加えて「ケータイ」があるというべきだろう。もちろん、プライベートに関する権利意識や個人主義尊重の気運の高まりが前提にあることは言うまでもない。
 警察が犯罪の未然防止において手ぬるいと批判されたりすることがあるが、民事未介入を大原則とする警察にとっては、勇み足の動きをしようものならば、個人の人権侵害問題として非難されかねないという問題があるのだろう。

 もちろん、個人生活重視やプライベート尊重の権利や気運は否定すべくもない。しかし、気づくべきは、そうした個人尊重のスタイルには、大前提が存在するということではないかと思うのだ。いわゆる個人の自立(自律)であり、他者との齟齬のない意思表示・伝達関係づくり、つまりコミュニケーションである。これらがお座なりにされたところでの個人尊重という掛け声がさまざまな不具合を発生させるのは当然といえば当然のことなのかもしれないと思うわけである。
 国家権力に対抗的に個人尊重主義を打ち出すことの政治的重要性は相変わらずありそうな気配ではある。だが、もはやそれだけでは済まない時代なのであろう。個人同士が生活の場レベルで意思表示・伝達関係づくりを実質的に進めることが、とてつもなくクローズアップしてきた時代なのだろう。残念ながら、今それらは空洞となっているようだ。
 今、「共同体」的な文化が、本格的に崩壊し始め、これまで「共同体」的文化がか細く補填していた人と人との関係性が、無造作に巷(ちまた)に放り出されている図だと見える。それは、あちこちに違法投棄されている粗大ゴミと似ているかもしれない。
 心が痛んで余り書く気もしないのであるが、少年犯罪にしても、そうした大きなロスト・チェーン的環境で咲いたあだ花のように思えてならないのだ。
 ようやく見えてきたわが国の将来像とは、まずはどうも「犯罪多発国家」ということになりかねないという予感が、杞憂ではなくわいてくる昨今だ…… (2003.07.13)


 「浮き足立つ」という言葉がある。「期待や不安など先が気になって、今のことに気分が集中できなくなる」(『広辞苑』)という意味だ。経済不況から、社会混乱まで、人の心を不安にさせる材料に事欠かない時代であり、誰もが右往左往しつつ「浮き足立つ」心境となりがちなことだろう。決して他人事ではなく、自分にも十分当てはまる警句と考えたいと思っている。
 思いっきり古い話である。あの福沢諭吉は明治維新直後の、戦乱(戊辰戦争)時、上野寛永時から轟く大砲の音で「浮き足立つ」塾生たちを、今こそ真剣に学ぶ時だと諭したと言い伝えられている。なぜかそんなことを思い起こす昨今である。

 やはり「情報」なくしては身動きのとれない時代だと再認識する。福沢諭吉の時代のごとくすべての手本がまず間違いなく欧米にあった時代と現代は異なる。手本なき時代にあっては、状況を広く鋭く観察しながら、手探りで前進するしかない。そんな時代にはやはり、状況認識のための「情報」収集は欠かせない。
 ビジネス環境における「情報」では、まず「商品知識」の充実という課題が重要だと思われる。「新製品」情報をマークしているとさまざまなことが見えてくるし、自社の挑戦ターゲットのイメージもよりリアルなものとなってくるからだ。

 最近目をとめた「新製品」のひとつに、「紙に書いた絵や文字が、そのままパソコンに」という新方式の手書き入力の道具である「ゼブラ」の「手書きリンク」というものがある。従来から、デジタル機器のボトルネックは、そのデータ入力にあることに関心を持ってきた。そして、とりわけ手書き入力への未練は小さくなかったと言える。
 ペンタブレットの方式があることはあったが、ペンの動きではなく、PC上の軌跡を見ながらという入力はやはり辛いものがあったはずだ。
 これに対して、ゼブラの新製品は、手元に任意の用紙を置き、そこに所定のペン(ボールペンのように描ける)で描くとそれが画像として入力されるというものである。たぶん、従来型のタブレットと較べればはるかに使い勝手がいいものだろうと想像できた。思わず衝動買いを刺激される「新製品」なのであった。

 しかも、わたしが感心したのは、筆記用具、ボールペンのあの「ゼブラ」が、筆記というホームグラウンド上でデジタル化筆記製品に挑戦して、人目を引く「新製品」をリリースしたということであった。自社が馴染んだ領域で、時代が求めるモノを提起するのは、理想的な企画だと思えたからである。
 また、ちなみに販売ルートも調べてみると、とかく値崩れを誘うことになる一般チャンネルを避けて、「ゼブラ」の従来からの卸先だと思われる全国の「文房具店」の名と所在が記されていた。中には、自宅近所で時々通りすがりに見るさびれた「文房具店」の名も見つかったりした。「なるほどなあ……」と感じ入ってしまった。この「新製品」で、見捨てられつつあったかもしれない地域に張りついた「文房具店」が新しいキッカケを掴めるのなら、「ゼブラ」とあわせて結構なことだと推測したのである。まるで、これまでお世話になってきた一族郎党に対して律儀に恩返しをしているようなイメージさえ彷彿(ほうふつ)として描かせたのだった。

 この「新製品」は売れる可能性のあるものだと感じたものだが、とかく「新製品」のヒットというものは難しいもののようだ。時代のニーズとの遭遇のタイミングの問題も大きいし、類似商品による撹乱もあり得る。攻めと守りの双方に目配りをしつつ、兵糧(コスト)もしっかりとにらまなければならない。まるで戦(いくさ)そのもののようであり、だからこそその種の企画人たちを虜にするものなのだろう…… (2003.07.14)


 最近はPC、インターネット関連の書籍が書店に山積されている状況だ。まあ、その種に限らず、この不況だというのに新刊本が目まぐるしく出版されているのに驚く。そこそこ売れているのだろうか。
 売れているとすれば、人々はさまざまな不安解消のためにやはり知識や情報に期待し、依存したいという傾向が強いからだろうか。

 ひと昔前、練り歯磨きのTVコマーシャルで、「あなた、歯茎から血が出ませんか?」という視聴者の不安感を煽るようなものがあった。不安を喚起させ、購買心を刺激したものだと言える。ブランド品などへの購買意欲が優越感に根ざすのに対して、まさに逆の不安感が購買意欲のトリガーのひとつだと考えられたのであろう。そして、現在のような人々の不安感が渦巻く時代には、再度これに依拠した商品販売路線が追及されているのかもしれない。その点書籍は、マッチポンプのように、一方で、題名や紹介文などにおいて激しく不安感に火をつけておき、本文でそれらを沈静化させるには格好の素材のように見える。いや、仮に本文を読んで読者の不安感がおさまらなくとも、出版側はさして困らないという仕組みまであると言えようか。とりあえず第一版で返本が少なければそれでOKというひどい出版社の存在も十分に想像できるからである。

 不安感に訴えるという商いはともかく、正攻法だと思われるユーザー・オリエンティッドな商売姿勢を考えてみたい。すると、「サービス第一」といういかにも抽象的に過ぎる方針では済まない要素がいろいろとありそうな気がするのである。
 紋きり型の言葉を使えば、マーケット・セグメンテーションを考慮するということになるのであろうか。あるいは、やや誤解を招きそうな表現をすれば、「人を見て法を説け」(他人にものを説くときには、相手の性格などをよく見きわめて、相手に適した説明の方法を取れということ)とか「機に因りて法を説け」(時や場所をわきまえず、むやみやたらに道理を説いて聞かせてもむだだ。その道理にぴったり合った機会をとらえて説かなければ効果は上がらないということ)とかということになりそうである。

 コンピュータのソフトウェアに関してもそのマーケット・セグメンテーションというものが結構重要であるような感触を持っている。
 ところで、現在は、コンピュータ関連領域でもますますユーザーの二極化が進行している気配を感じる。「先行ユーザー」と「置いてきぼりにされた人たち」だとひと先ずは言えそうである。「デジタル・ディバイド」の進行なのであろうか。
 PC関連の書籍群を鳥瞰してみても、先行ユーザー、マニア向けと一般ビギナー向けとに、やはり明らかに二分されているのがわかる。技術関連書の場合、専門用語や基礎概念の有無によって理解できる、できないがクリアに仕分けられてしまう部分があるため二極化が際立ってしまうのかもしれない。

 先行ユーザー、マニア層は、書籍やネットなどによる技術情報の公開や交換によって、セミプロ、いやプロ顔負けの水準域に踏み込んでいるようだ。領域は異なるが「手製爆弾」を作る者が登場する時代でもある。
 ただ、この層も「ノン・プロ」である以上当然拙さを持っていることに変わりはない。「自爆」させてしまうようなアクシデントなどを起こしがちなのである。そうした「非体系的」で「経験未熟」な部分をどうサポートするかが勘所なのであろう。もちろん爆弾作りのはなしではなくコンピュータのソフトウェアの話である。

 片や、一般ビギナー層であるが、詳細に見ればこの層はさらに二つの層に分ける必要があるかもしれない。先ず、対象への関心や動機すら定かでないために、モノの価値が皆目わからない「ビギナー以前層」が最底辺にいそうだ。この層にとって必要なものがあるとすれば、「動機づけ」であろう。それ以外に「わかりやすさ」を目指して『サルでもわかる……』とか『一から始める……』という解説本をぶつけてもぬか釘となるのが落ちなのかもしれない。
 そして、もうひとつのビギナー層は、何らかの確たる動機がありつつも躓いている文字通りのビギナー層であろう。この層の人々は、自分の動機の充足という価値基準を持っているがゆえに、書籍や情報サービスへの積極的姿勢、購買意欲もそれなりに持っていそうだと言えよう。
 もし、ビギナーに対して書籍や情報サービスの仕事をしようとするならば、この層をこそねらう(サポートする)べきに違いない。

 こう考えると、コンピュータのソフトウェアに関するマーケット・セグメンテーションとは、大別すれば「先行ユーザー層」、「ビギナー層」、「プレ・ビギナー層」ということになる。表現してみると簡単なことではあるのだが、現実の場ではいたるところでミスマッチを生じさせているような気配がありそうだ。教育の場が然りであり、製品リリースの場が然りである。マニュアルが粗雑という点もあるにはあるが、それ以前に「人を見て法を説け」「機に因りて法を説け」から逸脱した商品リリースやサービス提供が災いを生み出している風潮もあり過ぎるのではなかろうか。
 で、わたしにとっての本命のテーマは、「どんな人を見てどんな法を説くべきか」という新事業企画ではある…… (2003.07.15)


 以前、「時間の使い方」についての著作を読んだ時だったか、始業一番で新聞を読むのはもったいない、というようなことが書かれてあったのを思い出す。
 その理由は、通常、朝の始業時近辺の頭脳は疲労度がなく、まさに頭脳活動に適している時間帯であり、その時間にどうでもいいような新聞記事に目を通して貴重な時間をムダにすべきではない、ということであったかと思う。

 昔の自分は、「夜型」頭脳を自認していて、朝の立ち上がりが悪くその分夜の時間帯でかせいでいた。そんな時代は、朝一番に新聞を読むことにさほど抵抗感はなかった。どっちみち朝の時間帯は頭脳にとってさほど重要ではないと考えていたからである。
 ところが最近は事情が違う。夜十時には就寝してしまうとなれば、朝から頭脳を使い始めなければ、活動時間が不足気味となってしまうからである。しかも、六時起床を続けていると、夜の頭脳は眠さで、はなはだ心もとないものとなってくるようだ。

 そんなこんなで最近は時間の使い方について意識するようになってきた。
 また今、「情報(化)社会」なんぞについて目を向けているわけだが、天邪鬼な自分は、情報インプット、情報収集にウエイトを置く一般的な姿勢に対して、その逆のアプローチ、すなわち考えるということ、情報処理にとことんウエイトを置いてみたいと思っている。そのアプローチこそが、現在の「情報(化)社会」で欠落している点だとの直感が働いているからである。情報収集が必要ではないと思うのではなく、野放図なそれによっていかにムダなことをしているか、あるいは、ただでさえ貧弱な情報処理能力(=思考力)に多大な負荷をかけているかを痛感しているのである。

 先日、ウォーキング中にCDを聴かなくなったことを書いた。(2003.07.03) 静かに考える時間を増やしたいと思ったからだった。だが、どうもこの路線が定着、拡大しそうな気配なのである。テレビ、ラジオなどをできるだけシャットアウトしたいと思い始めたのである。
 もとより、最近の番組はクダラナイものが多すぎると認識してきた。無意味という点でクダラナイだけではなく、「毒する」というマイナス面も馬鹿にならないと気づき始めたわけである。一言で言えば、大事なことや切実なことから目を逸らさせるという重大犯罪行為だと勝手に感じたりしているのだ。

 思うに、この現代という時代で注意を要するのは、豊かさという美辞の陰で、不要無用なモノが貴重な空間を占めていることではないかと直感し始めている。
 現代人が苦悩しているとすれば、それは、必要なものが不足しているからなのではなく、不要無用なものによって撹乱され拘束されているからなのだと考えてみるのも重要なことなのではないかと思い始めたわけである。
 多くの人が、自分の居住空間に不満を感じていそうだ。自分自身を考えても、書斎が不要無用なモノで溢れ、不快な空間と化していることを常々自覚する。が、面倒くさくて放置しているありさまである。
 先日、ある知人からノートPCの「リソース不足」のアラームはどのように解消できるのかという質問をメールでもらったことがある。とかく、OSやソフトがプリ・インストールとなっているノートPCでは発生しがちな不具合だ。まさに不要無用なデバイス・ドライバーやアプリケーション・ソフトが、「常駐」することで発生するものなのである。所定の箇所を操作してそれらを外せば解消することになる。

 きっと、頭の中や心の中もまったく同様なのだろうと想像してしまう。
 忘れ去ってしまえばいい記憶、捨て去ってしまえばいい情報、こだわっても始まらない感情としての不安、植えつけられた根拠の無い恐怖感などもろもろの不要無用な情報やデバイス(感情)が、生きる元気の源であるリソースを圧迫しているのではなかろうか。
 そんなことを考えながら、特に、無責任なマスコミが巻き散らかす情報に対しては、必要最小限の玄関口しか許さないようにしようと思ったわけだ。とりわけ、週刊誌やそれと同様なニュースショー番組の荒れ放題は目も当てられない。正義の第三者面(ヅラ)をして、人を傷つけたり、馬鹿な波紋を無責任に広げたりと、自分たちを客観視できていない無責任さは、PCウイルスと同格だと断定する。
 どうも、この現代の地獄の三丁目では、情報分野で気をつけるべきは、PCウイルスだけではなく、メンタル・ウイルスにも十分にウイルス撃退スタンスが必須のようだ…… (2003.07.16)


 表通りに面した店舗である。シャッターは閉じている。午前九時前なので開店前なのであろうか。シャッターの上には、特にひさしとなるようなテントもなく、二階との間の壁に白く塗られた間口いっぱいの看板が張り付いている。
 そこには、黒のペンキで、か細く拙い手の文字が描かれてある。
 比較的大きく「……商店」、そしてその脇には縦書きでお品書きのように「竹ボーキ、チカタビ、シート、ロープ、グンテ」とある。「チカタビ」というのがほほえましい。
 通勤途中、渋滞で一時停止した際にいつも目に入る光景なのである。
 先ずは、誰が描いたのであろうか、と想像させる。昔から商ってきた金物屋の年寄り主人が無いのはまずいということで描いたのだろうか。土木関係の仕事に携わる主人が、家人に商わせるために休みの日にでも描いたものなのだろうか。しばしば不快感を誘われるスプレーで描かれた壁の落書きなどの手とは比べ物にならないほどに、弱々しく、そして実直な描きぶりである。
 十時になればシャッターを上げて営業を始めるのだろうか、とも推測させた。いや、開店休業の日々が続き、やがて換気のためだけに明けるシャッターとなってしまったのではなかろうか、と思わせた。

 多くの商店街が、この不況と商売の大きな変化の中でシャッターを降ろしたままとなっている話は、よく聞くところである。しかし、じっくりとその店舗を眺めると寂しい気分にさせられる。現代的なデザインと、大々的なコマーシャルで集客する大手チェーン店とイメージを対比でもしようものなら心が逆撫でされる思いがする。「歳をとったら小さな商いをして余生を過ごすさ」とも言えなくさせてしまったこの現代という時代の凄まじさがなんとも情けなく思えてしまった。いいじゃないか、やらしてあげれば! と思わず呟く。

 現在の不況はデフレ・スパイラルの型だと言われている。一般消費者の需要が異常に低迷しているのが原因だと言えるのだろう。モノからサービスや情報といった新需要への移行期という難しい要素も関係しているからややこしい。
 しかし、一般消費者の需要は、なんと言っても手持ち所得の欠乏や将来の生活費の不安があったままでは伸びるわけがない、と考えるのは誰にだってわかることだ。将来の生活費の不安は、現在の破綻した年金制度では解消されるべくもない。
 そして、今もうひとつ注目すべきなのは、スモール・ビジネスが必ずしも進めやすい環境ではない、という点である。よく昔の人々は、「裸一貫で出直せばいいさ」などと口にした。終戦直後の国民生活が悲惨であったことは間違いないとしても、少なくとも当時は数え切れないほどの「隙間」というものがあり、その「隙間」で弱小者たちが商売をすることができたのではなかったか。あるいは、その「隙間」で何とか生き続けることができたのではなかったか。

 「隙間」と言えば、ホームレスに目が向く。ホームレス問題の解決は、彼らを公的施設に収容することだと信じている人がいそうだが、果たしてそうだろうか。それも一手には違いない。
 ホームレスを、しかたなくそうしている人と解釈して、だから施設提供と収容という解決策を描くのが一般的なのではあろう。しかし、どうもそうとばかりは言えないような気がしている。ホームレスであることを望む人も中にはいるのではないか。茶化して言えば、「出家」というりっぱな言葉だってあるのだから……。
 そんな人にとっては、現在のような空間管理過剰な社会、「隙間」撲滅社会は息苦しいだけでなく、事実上寝る場所を探すのにも骨が折れるのではなかろうか。
 これと同様なことが、商売やビジネスの地平でも実現されているような気配を感じないわけではない。エスタブリッシュメント(既存体制)が、小さな「隙間」さえ見逃さずに埋めているかに見える。もちろん、「規制緩和」などとは言われつつも、既存官公庁の存立とリンクする許認可など、規制の林立もある。加えて、大手企業がサバイバルを賭けて「隙間」の囲い込みにも踏み込んでいる実情もある。

 樹木の下草を枯らせば、樹木自体が枯れる道理を諭すのが政治(政権)のはずであろう。それが不能な政治であれば、今真っ先に不要なものはその政治だと言うほかなくなる…… (2003.07.17)


 給与に占める「控除額」がますます増えることに不安、不快を覚える人は少なくないだろう。各種税金、年金、保険 etc.と。さらに、ほぼ毎月、定常的に支出される金額、たとえば電気代・水道代、そして情報化時代にあっては電話料金やプロバイダー料金も馬鹿にならないだろう。住居費としてマイホーム・ローンや家賃もあろう。
 これらは、収入に占めるいわゆる「固定支出」である。これらが漸増しているのが現代生活のひとつの特徴だと言って差し支えないはずだ。

 ところで、PCの話となるが、Windowsはひと昔のOSと較べるとお任せ的な便利さを持ち、先ずはありがたいシステムだと言えよう。しかし、そのOSを稼動させるハード・インフラ規模がますます膨張している点には注意を向けざるを得ない。
 ここニ、三日も、昨今は悪質なウイルスが頻繁に出回っているので、ウイルス対策ソフトのみならず、システムのバックアップを怠りなくやるべしと思い、現在利用しているWindows2000システムのホームドライブのバックアップをした。
 わたしのバックアップ策は、ストリーマーを使ってバックアップ、リストアという一般的なやり方ではなく、ホームドライブのHDDをパーテーションごとバックアップ・ソフトでデッド・コピーしてしまう方法なのである。そのために、PCのHDDは、ケースの内部に固定せず、リムーバブル・ケースを設置して安直に取り外しが可能なようにしている。これだと、バックアップのみならず、LinuxやWindows98などの異種OSへのチェンジにも楽だからでもある。
 そんなことはいいとして、バックアップ作業をしてみて再認識させられるのがOS、Windowsのインフラのデカさなのである。昨今のプリ・インストールPCでのHDDは20GB〜40GBであろう。これのバックアップをとることは一大作業に違いない。自分は、このバックアップ作業のことを考慮して、ホームドライブのCドライブは10GBに抑えてはある。しかし、それでも「デカイなあ」と痛感する。

 PCユーザーが、アプリケーション・ソフトを手軽に使えることを目的とするならば、当然そのお膳立てとしての仕組みが膨張してしまうのが道理なのであろう。
 システムではこれを「オーバーヘッド」(コンピュータのオペレーティングシステムで、ユーザーのプログラム実行に直接関係しない時間や処理をいう。間接費。生産・販売に共通して必要な経費のこと)の肥大化と言っている。
 この道理は、PCシステムに限らず、物事の仕組みに共通する点ではないかと見ている。冒頭の、生活費に占める「固定支出」というのも、ある意味では現代人の生活の「オーバーヘッド」を表現していると言えるのではなかろうか。当月、特別に消費したわけではなくても、生活上いわばランニング・コスト的に支出されていくからである。

 マクロな話に目を向けるならば、昨今常識的に指摘される国家財政・地方財政の逼迫という問題である。無用な公共投資や、無法なダーティ・マネー、そして既得権維持と自己存立維持を自己目的化した官僚機構は言わずもがなであるが、この「オーバーヘッド」という観点がもっとシビァに見つめられなければならないように思う。
 「大きな政府」「小さな政府」という議論があるが、前者はこの「オーバーヘッド」が大きい政府という観念なのであろうか。つまり、名目的には国民の私的生活・活動への「大きなお世話(調整・支援?)」をするということであろうか? もちろんその分国民の負担分も大きくなり、諸個人の「オーバーヘッド」も大きくなるのであろう。
 現在の基調は「小さな政府」方向のはずであろう。福祉領域は切り詰められ、既存の条件は悪化させられている。にもかかわらず、国民の負担増という「オーバーヘッド」拡大だけが進行している。消費税上昇という荒業まで追加されようともしている。これらが不思議というか、間違いと言うべきである。

 国も地方も財政難、そして経済はデフレ不況。そして、少子高齢化傾向が強まり、経済は弱体化しつつある。新設した地方高速道路を誰が走るのか、新設された一点豪華主義の施設を誰が使うのか。こうした理不尽は、バブル時の悪癖であり、ただただ国民生活と国民経済の「オーバーヘッド」拡大をもたらし、国民の快適な生活、活性化された経済活動というアプリケーション運用の足を引っ張るだけではないのか…… (2003.07.18)


 わたしが現在のマスメディアに苛立ちを隠せないのは、先ずは次のことによる。
 これだけ世の中が危機的状況になっているにもかかわらず、そのことをまともに取り上げずに、一方では興味本位、下衆志向で大衆に迎合しつつ商売優先に走っていること、もうひとつは、暗いご時世に明るさをとばかりの老婆心か、これまた大衆の気晴らし派への迎合か、能天気な内容で事態を覆い隠す結果となっていることなどである。確かに、気晴らしとして、ストレスをほぐすようなものが欲しいとは思うものの、もう少し現在の危機的状況に関して啓蒙的であっていいのではないかと思わずにはいられない。

 もうここまでくれば、日本の危機は重い事実であるに違いないであろう。ある人は、危機にはふたつあると言う。
「危機には大きく分けて、ある日ある時期に突然眼前に出現し目に見え知覚される形で展開する『突発的危機』と、目に見えにくい形で進行する『構造的危機』とがある」(宮脇磊介『騙されやすい日本人』新潮文庫、平成十五年三月一日)とし、「『構造的危機』は目に見えない形で進行するだけに気付かれにくい。利害関係者により、意図的に隠蔽される場合さえある。……例えば、陳腐化した『キャッチアップ体制』からの脱却と『グローバリゼーション』への転換において対応を迫られる諸問題は、目に見えにくい『構造的危機』である」と述べている。
 まさに、その「構造的危機」が、経済的領域の問題群のみならず、社会や文化領域などの潜在的問題群と一緒くたになってわけのわからないような事態となって発酵していると見える。もはや一々列挙する必要はなさそうに思う。

 にもかかわらず、マスメディアはピントはずれな情報ばかりを選び抜くように展開しているように思え、情けないというよりも腹立たしくなるのである。
 同上の筆者はその点にも触れ、小気味よく次のように述べる。
「国民の『知る権利』を専権的に行使する立場にある以上、マスメディアは特別に大きな『権力』『職権』を保有しているのである。マスメディアは、その影響力の巨大さから『第四の権力』と言われるが、それだけではなく、『知る権利』の専権的行使者としても『権力機関』であると言って過言ではない。国民の知るべき重要事件・重要事項を新聞が『知っていながら一斉に全く書かない』など、国民が期待する機能を果たすことを怠った時は、国民の『知る権利』を『職権濫用』によって意図的に『妨害』したとみなして、マスメディアは道義的な非難を免れることはできないであろう」

 社会的「危機」と、それへの対応の甘さを論じる同上の筆者が、マスメディアの現状に厳しい目を向けるのは上記の視点があるからなのだ。権限を与えられ、その立場にある機関が、権限以上のことを行い扇動することは文字通り『職権濫用』として咎められなければならない。しかし、本来すべきことをしないということも、いわば「不作為の作為」として『職権濫用』なのだという主張は正当だと思える。
 最近、わたしはふと次のようなことを考えたりする。以前から、戦前、戦中のマスメディアが戦争に加担したことをいぶかしく思っていたのだが、現在の風潮、推移を直感も働かせて受けとめていると、「いや、こんな風にして、次第になし崩し的に『突発的危機』へと突っ込んでいくのかもしれない」と感じ始めるようになったのである。杞憂であることをひたすら願うのだが、あまりにも気になる点が多過ぎる。

 もちろん、マスメディアだけを聖人君子たれと無いものねだりをしてもしかたがないだろう。マスメディアをいぶかしく思う視線は、当然、その向こう側というかこちら側というか、マスメディアを受け容れる一般大衆にも向けられなければ現実的ではないと思われる。
 たとえば、「長崎幼児殺害事件」に関する某大臣の全く大臣としての知性をかなぐり捨てた発言「市中引き回しの上……」があったかと思えば、これに一理ありとする非常識な週刊誌が二、三あった。かと思えば、触法少年の顔写真や実名をインターネットの掲示板やメールで得意げに公表する考え違いをする者も少なくなかった。
 わたしはむしろ、あなた方のように、キーボードを前にしたプライベート空間だけが世界だと錯覚している風潮自体が諸悪の根源なんですよ、その社会性、想像力の無さこそが問題なのであり、あわせてそうした環境づくりしか導けない成り行きまかせの指導者たちこそが問題なのだと感じたものだった。

 いずれにしても、それなりの直感で確かな度合いで受けとめられる人たちだけに相貌が見える「構造的危機」は、後戻りなく確実な足取りで拡延し続けているのだろう。不可解と見えるさまざまな社会的事件は、決して「危機」の全体像までは語らない、いや語れないはずだ。それらの断片を、あたかもジグゾーパズルを直観力と根気で組み上げようとする者だけがその全体像を予感するのに違いない。仮に、出来上がったパズルの全体を見てもそれをそれとして認識できない者が現状少なくないがゆえに、「危機」は足取りを速めているのかもしれないと懸念する…… (2003.07.19)


 やはり最近は、言葉のど忘れがはなはだしいのに気づく。イメージが先行して記憶にあるはずの言葉が突如として行方不明となってしまうのだ。その顔写真を公開して、「あいうえお」捜索隊によって脳内一斉捜索を開始するのだがままならない。ひょっとして記憶喪失に陥ったのではないかと、かすかな不安がよぎったりもする。
 昨日の就寝時にも、落語、志ん生のあるせりふが唐突に思い浮かんだのだが、それがどんな話のどんな文脈であったかが思い出せずに悶々としてしまった。眠い時だとそんなこともままある。
 眠さと言えば今朝もそうだった。休みの日といえども早朝ウォーキングは欠かせないので六時前に起床した。鉄アレーを引っさげてのウォーキングからの戻りで、手にしていたアレーのことをふと思い、ある人が「そんなもの持って歩いていると人から怖がられませんか」と言っていたのを思い出していた。そうだよな、凶器を両手にしているようなものだからなあ、などと考えふとその手にしたアレーを見つめた時、急に名前が出てこなくなってしまっていたのだ。情けないことに「ア」だけは思い出せるのだが、何としてもあとが出てこない。あれ〜、と感じたかどうかは別にして、身体は汗まみれで活性化されているのに脳がまだ眠さでまどろんでいるような気配であったのだ。

 コーヒーをすすりながら思ったものだ。クルマの免許をとった時、もう何十年も昔の話だが、確か「学科」の中に「朝一番、乗車前には『始業点検』をしましょう」という、当時からバカにしていた一文のあったことを思い出した。
 タイヤ空気圧、ヨ〜シ! フェンダーミラー、ヨ〜シ! ルームミラー、ヨ〜シ! エンジン音異常ナ〜シ! というあれである。自慢にはならないが、そんなこと一度もやったことがないと言う人が多いと思われる。最近では、バスやタクシーの運転手でさえひょっとしたら怠っているのではないかと思ったりした。なんせ、酒気帯び運転のバス運転手が問題となったりするご時世だからである。
 「始業点検」という言葉を思い起こした理由は、歳をとり身体に何かとガタ(金属・勤続疲労?)がでてくるようになると、車庫入りの就寝から「社会復帰」する朝一番には、身体の各所と頭脳の諸機能がしっかり回復しているかどうかをまさしく「始業点検」して、問題のないことを確認してから凄まじい娑婆へと出向くべきではないかと考えたのである。
 身体の機能もさることながら、頭脳においては、とくに記憶に問題はないか? 日常生活に支障をきたさない程度のIQはキープされているか? キレたり暴発したりしない範囲の心の平静さは確認できるか? などなどの自己「点検」が必要ではないか、とそう思ったりしたのだ。まさしく人間の「始業点検」なのである。これは、健康管理の要諦でもある不具合、異常の「早期発見」にもつながるであろうし、円滑な社会生活にとっても重要なことだと思えた。

 そんなことを考えていたら、いやまて、この必要性は何もガタのきた中高年だけのことではないぞ、とかく世間を騒がす青少年にも義務づけるべきではないか、いや、さらに昨今とかく見苦しい失言というか、ありのままの発言というかで問題視される政治家たちにも義務づけたらどうか、と思い始めた。
 そうすると、何か「チェック・シート」のようなものがあった方が便利だということになりそうだ、とも考えた。病院へ初診で行くと書かされる問診アンケートのような二十項目くらいのセルフ・チェック項目が書かれた用紙が必要かとも思ったわけである。できればその項目は「日替わり」であった方がいいだろうとも……

 中高年用の「朝一番諸能力セルフチェックシート」には、「ど忘れ抑制項目」なるものがあり、「あなたの家の現在の飼い犬の名前は? では、先代の飼い犬の名前は?」とか、「歌謡曲『別れの一本杉』を歌っていた歌手の名は?」とかで、記憶力のストレッチ体操を行わせるのである。
 青少年向け「朝一番心の平静度セルフチェックシート」では、「あなたは、幼稚園児のころどんな遊びを誰としていましたか?」とかいって、あらぎがちな現在の心境から幼少時の穏やかな頃のことへと視線をむけさせたりするのだ。
 政治家向け「朝一番自覚強化セルフチェックシート」で記すことは決まりきっている。「あなたの立場は何ですか? その立場の義務とは何ですか?」とか、「もし、次の選挙で落選したらあなたは何で生計をたてますか?」とか、「あなたの悪事はバレていないと思いますか?」とかいって揺さぶったりもする。

 時々刻々と変化する時代にあっては、そしてとかくいろいろな意味で自分というものを見失いがちになっている現代にあっては、全国民がこぞって朝一番「始業セルフ点検」なるものをやるべきなのである…… (2003.07.20)


 今朝は、気圧が低いせいであろうか調子がすぐれず、ウォーキングの最中から気分はいまひとつであった。食事後、書斎に入ってから、コーヒーを飲んだりタバコを吸ったりともう二時間も何もせずボーッとしてしまった。
 もう子どもたちの夏休みが始まったというのに、梅雨明けにならず、不順な天候が続いているようだ。九州では集中豪雨で何人もの人が行方不明となる被害が発生しているらしい。夏は、多少暑すぎるくらいでも、カラーっとした夏らしい天候であってほしい。

 身体はまずまずであっても、気分が乗らなくてウダウダしている自分に気づいてみると、同時に最近の自分自身の行動萎縮ぶりにも気づかされてしまうような気がする。
 考えることは重要なことだが、それを絶対視はしたくないと思っていたはずが、いつの間にか考えるために考えるという不毛なサイクルにはまっていたかもしれない。
 この日誌にしても、書くために書くというようなことであっては意義が乏しいはずであり、座して動かぬ隠居老人の観念的たわ言であることを望んではいないはずなのだ。端的に言えば、行動志向、行動を基軸とした観察、分析、指針づくりとなるべきなのである。
 昨日だったか、養老孟司氏が出演していたのであるニュース・ショーを見ていたら、昨今の異常事件多発の世相について語っていた。特に目新しい視点というよりも、同氏が常々書いている持論であった。現代の都市社会が、頭の中で考えて作り出された「脳化社会」なのであり、それが絶対に正しいと思い込むところにさまざまな不具合や、事件もまた発生するのではないか、という超越論(?)である。司会者や周囲が期待したもう少し具体性のあるコメントではなく、正面切っての正論であったため、一瞬皆が、頷きかねた沈黙もあったようだ。
「もっと、自然に接するということなんですかね」
と、司会者はつないでいたが、真意をつかんではいなかったかもしれない。

 しかし、現代社会は、そして現代人は、あまりにも唯我独尊の観念世界(意識世界)にどっぷりと浸かり過ぎているのかもしれない。「科学的」な考え方をするとは言っても、自らが「科学的」法則などを実地検証したわけでもなく、単に知識化、観念化された言辞を流用しているに過ぎないのだろう。だから、非「科学的」な現象を批判、非難するという場合ですら、おばけがおばけをあざ笑うがごとく何となく迫力に欠けたりする。
 しばしば、現代に生きるわれわれは「信念」というものに欠けるという言い方がなされたりもするものだが、その真意は、「信念」の欠如ではなく、「信念」を得るための実際的な経験や行動というものの欠如ということなのかもしれない。
 自分の身体と脳のすべてを駆使して、外界の自然であれ人工物であれ、そして他者なりとがっぷり四つに組んで悪戦苦闘することによってこそ、場合によっては「信念」とも呼べる精神的よすがを入手できるのかもしれない。
 が、あまりにも、知識や情報の先行によって、「がっぷり四つに組んで悪戦苦闘すること」を軽んじるところから、「信念」などと呼べるものが浮上してくる余地がなくなっているのだろう。
 別に「信念」などという仰々しいものを想定しなくてもいい。何が起こるかという想像力にしたって、自身の身体をも含めた内在物のすべてを実感的に駆使していなければ、展開しようがないのではなかろうか。他者への想像力、死への想像力、現行世界の将来への想像力、そして他国での戦争への想像力。そうしたもののすべてが、マスメディアの与える単なる一過性の情報レベルだけでしか実っていないところに、現代の空恐ろしい薄っぺらさがあるのかもしれない。
 決してスマートではないようにも見えるが、何かにつけて「がっぷり四つに組んで悪戦苦闘すること」が求められているのかもしれない。それを「がんばる」という言葉が担うのであればがんばってみたいものだ…… (2003.07.21)


 一瞬、ここは基地か? と思ってしまった。今朝、駐車場へクルマを入れる際、その脇を二十名近くの男たちが、掛け声をかけ縦列でジョギングをしていたのだ。ネクタイ姿のビジネスマンたちなのだがいずれも緊張した顔つきであった。このビルのテナント会社か、近所の会社の従業員たちなのであろうか。
 たぶん、景気低迷に足をとられ意気消沈しているフロアーに喝(かつ)を入れようというマネージャークラスの者による発案なのであろう。

 確かに、そんなことをしたって始まらないよ、という向きもあるだろう。しかし、不況風の中、これといった打開策も思い浮かばない状況で、社内が暗く淀んだ空気に支配されがちとなっていることは、どこの企業も同じなのではないかと推測する。そして、不安と疑心暗鬼の顔と顔が、ますます職場の雰囲気を悪くしているのかもしれない。そこで、
「朝一番、ラジオ体操というのも月並み過ぎるので、『海軍士官学校』風、リチャード・ギア風に、掛け声付きジョギングってぇのはどうだ? 」
などと、『愛と青春の旅立ち』を再放送で見た課長さんが提案したのかもしれない。まあ、悪くはないのかもしれない。右翼の街宣車ほどの迷惑にはならないし、夏休みに入った子どもたちへの、厳しいビジネス環境レポートという意味でも悪くはないのかもしれないし。軍隊風なのはどうも……という向きの人には、じゃあ、自衛隊の戦場イラクへの派遣はいいの? と言ってやればいいのだし……。要するにこれといった画期的な打開策が見当たらないのだ、この時代の袋小路には。

 そう言えば、今朝の朝刊の週刊誌の広告記事の、「スキル偏重の人事方針は会社をダメにする」とかという見出しが目についた。買って読むなり立ち読みするなりしたわけではないので何とも言えないが、大体は推量の範囲内であろうと思う。
 数値化し易いかたちでのスキル評価、さらにわかりやすいと言えばわかりやすい取得資格、そんなものがリストラ、配置転換でゴタゴタしている職場の中で幅を利かせているのであろう。が、他方で現場責任者から言わせれば、
「誰だよ〜、こんなバカ採用したヤツは〜!」
と結実している現状。いわば、確信を欠くままの、とりあえず人事担当者が「責任回避」できる方式としてのスキル認定や資格認定の環境がまかり通り、皆が「結果責任」を棚上げにしているのであろう。

 ふと、昔勉強した、黴が生えてしまった言葉を思い起こした。「心情倫理(Gesinnungsethik)」(価値合理的行為の根底にある倫理で、目的合理的な「責任倫理」の対概念。結果の成否よりも倫理的行為そのものに価値をおく、行為者の心情の純粋性を尊重する倫理)と「責任倫理」(特定の価値理念の規範性に自分の行為がかなっているという意識のみに満足せず、常に特定価値の実現のためにその現実的諸前提を冷徹に観察し、結果に対する責任をもって一種の倫理的命令とみなす義務感のこと。以上、有斐閣『社会学小事典』より)についてである。
 どうも、われわれは相変わらず「心情倫理」の世界観に浸りつつ、グローバリズムというハードボイルドな「責任倫理」だけの世界に立ち向かおうとしているかのようである。平たく言うならば、厳しい他者評価の世界にあって、「自己満足」の原理だけで生きているようなものだといえるのかもしれない。「自分を褒めてやりたい」というウェットさにも閉口するが、国会答弁で「ああすればこう言う批判をし、こうすればあのような批判をするとなれば、一体どうすればいいの?」という小泉首相もまた、「責任倫理」とは無縁の人のように思われる。

 しかし、もうとっくに過去の化石となっているものだと信じていたM・ウェーバーの基本概念が蘇ってこようとは…… (2003.07.22)


 時々、状況のわからない集会、フォーラムなどに出席して、自分の発表などを前にして気持ちが萎縮(畏縮)するといったことがある。「あがる」とかというようなものではなく、状況や意味の文脈などがつかめず、それだからと言うべきか先行者や周囲の人々がやたらに威勢がいいと受けとめてしまい、その結果わけもなく自己卑小感のみが煽られてしまうからなのであろう。
 こうした心境に陥る原因は、何と言っても冷静な状況認識の欠落だと思われる。
 誰しも、人前で話をしようとすれば、多少なりとも誇張気味のパフォーマンスとなるだろうし、人によってはハッタリ的とさえなるだろう。それなのに、それらへの「割引」感覚もなく額面どおりに受けとめてしまうとなると、ズルズルと萎縮感へと引きずり込まれてしまうことになる。
 かといって、周囲の形ばかりの威勢の良さに対抗してこれまた形ばかりの見栄を張ってもいい結果とはならない。必要なのは、状況や文脈の実態を冷静に推し量り、その平面を自分のものとすることに違いない。

 なぜこんなことを書くかと言えば、どうもここしばらく気分が畏縮してならないからなのである。目の前に立ちはだかるさまざまな苦境をどう捌(さば)いていくかについて、どうも畏縮した気分が先立ってしまうのだ。
 経営然り。健康問題然り。人生然りといったところか。世間に報じられるそれぞれの「華やかな」情報群に振り回され気味となっているかもしれない。それぞれの情報の、その水面下までを見通し客観視する冷静な想像力が希薄となり、ただ「威勢良く」見えてしまう。そして、それに比して当方の無力さだけがクローズアップされたりするわけだ。
 「威勢がいい」ように見える、いや、そう見えるようにアレンジされた諸々の企業新製品情報や、その他の人目を引く情報が、実はそれ相応の問題や影を伴っていることは、なかなか部外者からは見えないものなのであろう。いや、決して自分を慰めるつもりでそう見ているのではなく、報道とはどうしても日の当たる部分のみを描きがちだからなのである。またちなみに、もし「華やかに」報じられる情報がそれがかもし出すイメージをも含めて事実それ自体だとするなら、こんなにモノが売れない不景気であるわけがない、と思われるのだ。

 しかし、今現在、いろいろな事情はあろうが、気分を萎縮させてしまっている人々は少なくないのではなかろうか。重度の場合には、ノイローゼや鬱病にさえ接近しているのかもしれない。そして、思うのだが、そうした人々(自分も半身くらいは属しているのだろうか)は、自分と外界との関係で言えば外界の過大評価と、自身の過小評価とに陥っているのではなかろうか。
 そんな人々にとって、ハッタリ気味傾向の情報環境はいささか辛いものがあるかもしれない。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」(啄木『一握の砂』)とは叙情的な表現であるが、現代ではもっと過酷な仕掛けが広がっていそうだ。かといって、外界の情報がもっと正直になるべし、と叫んでもいたしかたない。
 ここは一番、やはり「情報つう」になるしかないのだろう。「華やかな」情報に振り回されずに、「足元を見る!」、情報の足元をしっかりと見てやる構えがなくてはならない。しかし、これを実践することは並大抵のことではなさそうだ。だから、「情報(化)社会」というのは怪物じみているのだろう…… (2003.07.23)


「スキルなど形に表されるものばかりを評価の対象にしていると、ハウツー人間が量産されるだけになってしまいます。ハウツー人間には『何をやるか』という問題発見能力がありません。良い条件では働くが、苦しくなるとそれを乗り越える勇気や意欲、創造力の面で劣っています。このため、困難に直面したとき、立ち向かわないで逆に逃げてしまう傾向が強い。これでは、本来の力が発揮されません」(柳平彬・GDI発言、「企業人材育成・スキル偏重に異議あり」『週間朝日』2003年8/1増大号より)
 これは先日触れた「スキル偏重」に関する週刊誌の記事の一部である。
 ビジネス環境、とくに技術環境の激変という状況にあって、企業側は新規案件に関する即戦力を求める一方、リストラその他で巷に溢れた人材側は再就職のために売り能力のブラッシュ・アップに傾注する。そこで着目されるのが、目に見える形とされる「スキル」(または「ハウツー知識」「資格」など)ということになる。

 「スキル」とは要するに「技能」という意味であり、より体系的、総合的な膨らみを持つ「技術」に較べると、部分的、要素的なコンパクトさを持つ能力だと言える。幅広い見識と、多くの経験を持った技術者の「スキル」というケースも当然考えられるので、「スキル」そのものを過小評価してはいけないだろう。
 ただ、昨今一般的に取り沙汰される「スキル」というのは、JIS規格のコンポーネントではないが、誰が見てもとりあえず外見上はそうした水準だと評価しうる技能、「普遍性」と言えば大げさになってしまうので「最大公約数」とでも言っておくと、それに力点を置いた技能だと言っていいのではなかろうか。だから、「資格試験」の対象とされたりもする。
 「資格試験」の対象となれば、実技面も対象とはされるが、もちろん対象の大半は保有する「知識」の記憶如何ということになる。ここから、「スキル」とは限りなく「知識」の保有へと大接近してしまうのであろう。

 ビジネスの現場にあって、当該の実務に関する予備「知識」もないビギナーがうろつくことは耐えがたいはずである。そんなことは常識なのであって、「スキル」の有無以前の問題であろう。
 で、「スキル」というものが期待されるとすれば、まさしく実務の現場に踏み込んだ場における「個別問題」が錯綜する「特殊な問題環境」を打開するパワーだということではなかろうか。そもそも、ビジネス、仕事とは、一言で言って「問題解決」だと解釈して差し支えない。しかも、大体が一過性の「特殊な問題」を解決することが求められているはずであろう。
 まして、昨今のビジネス環境では、新奇性のない、従来パターンの繰り返しをこなしたところでビジネス成果が上がらなくなっているのは周知の事実である。新奇性のある「特殊な」案件に挑んでこそ、それなりの成果が期待できそうなことは常識化しつつある。この実情をこそ出発点としないならば、そもそも「スキル」だ「資格」だと言って新規人材への熱い視線を向けてもいたし方ないと言わなければならない。

 そうした実際的なビジネス現場で、リアルに必要とされる人材とその能力とは、現場環境の維持ではなくて、イノベーション(革新)でなければならない。そのためには、現場の停滞にメスを入れる「問題発見能力」や、それらを打開しようとする「問題解決能力」だと言わなければならない。
 そもそも、「普遍性」や「一般性」に棹差すところの「スキル」には、そんな能力は付随していないのである。その可能性があるかないかどまりだ言っていいのだろう。いや、どちらかと言えば、個別・特殊問題で紛糾する事態に一般論で口を差し挟み議論を停滞させる人と似て、現場にとってのお荷物となる場合の方が多いとさえ言えるかもしれない。

 どうも、「スキル」「スキル」と騒ぐ人たちの頭の中では、肝心なテーマが吹っ飛んで、形や従来の視点という部分だけが一人歩きしているような気がするのだ。採用しようとする側も、良く言って、現状のビジネス環境が持続するはずだという思い込みがあったり、それに追随していれば何とかなるという目先主義がありそうだ。
 また、採用されようとする側も、とりあえずこの「スキル」で採用されて…… という目先主義が仄(ほの)見える。以前からも同様であったと思われるが、「スキル」のみで採用されれば、まさに「使い捨て」処遇にしかありつけないはずだ。まして、企業が慢性リストラ体質となった現在ではなおさらのことだと思われる。

 確かに、目先の経営こそが逼迫するような厳しい時代となっている。われわれも他人事ではない実感を共有している。しかし、現状の本質的な課題への挑戦は、どうも目先主義とは両立し得なくなっているとの予感が日増しに強まるのだ。従来型ビジネスに未練を残せば残すほどに、将来が遠のく図だと見える。
 しかし、ホント〜に苦しい時代となったものだ…… (2003.07.24)


 ツキのある人はうそのように次々とラッキーをものにできるし、その逆にツキのない人は底なしのアンラッキーに見舞われてしまう。「運も実力の内」というが、この言葉の中に合理性を見出すとすれば、それは良い「連鎖」とか「循環」ということになるのかもしれない。
 ツキのある人は、性格の話ではなく状態の話であるが、とかく明朗快活となり余裕で事をなすことができるはずだ。その状態はとりもなおさず、良きことを招来する器となるに違いない。そして、良きことが訪れれば当人の状態はさらに明朗快活、余裕寛大となることは目に見えている。その逆は、一言で言って、「貧すれば鈍す」であり、また、暗闇とオバケの関係であり、「類は類を呼ぶ」の悪循環なのだと言えよう。

 何が言いたいのかといえば、良い「連鎖」とか「循環」とかをどう作り出すかという、誰もが関心を持っているテーマなのである。いや、誰もというばかりか、現在の日本社会自体がこのテーマの悪いケースの方に嵌まり込んでいるとも言える。
 つまり、デフレ・スパイラルのことであり、それは悪い「連鎖」であり「循環」であるからだ。モノが売れないから、利益を度外視までして販売価格を下げる。それで売れるかといえば、それでもままならず、そのことよりも企業側のシュリンク(リストラ、賃下げなどなどの縮小傾向)が強いられ、それゆえに消費者でもある従業員の所得がどんどん減ってしまう。だから、ますます消費を抑制してしまうことになる。その結果、ますますモノが売れなくなる…… という悪循環のことだ。どこかで、仕切り直しをしなければ未曾有の底なし沼に突っ込んで行くのだろう。もう幾度も叫ばれてきた議論である。

 「連鎖」とか「循環」とかに注目しているのだが、考えてみるととくに複雑な流れがあるというよりも、二極一対の関係があると見なした方がわかりやすいのかもしれない。上の例で言えば、「気分の持ち方」と「運」という関係であり、「物価」と「消費」との関係だということになる。こんなことは人間関係でも当たり前のように見出されることだろう。「自分」と「他者」との関係であり、「夫」と「妻」という夫婦関係に当てはめたっていいかもしれない。これを寓話的に表現したのが、あの「囚人のジレンマ」(ex.2001/12/15) だということになるはずだ。

 今、注目しようとしている話題は、実は昨日の話とつながっており、どうしたら目先主義から脱却できるのかであり、なぜ脱却しにくいのかという問題でもある。
 本質的な課題に挑戦するのではなしに、目先の売上や成果にこだわりその種の選択をしてしまうのは、二極のもう一方の側にも問題がありそうだと思うのだ。たとえば、将来を切り拓くような画期的な製品を作るのではなく、現在売れ筋の凡庸な製品を作る選択がなされるとき、もちろん一方ではそうした選択しかできない企業側の現状追随傾向が問題視されて当然だが、他方で、凡庸な製品のみを安値で追っかけている消費者もまた直視されていいのだと思うわけだ。
 よく、落語などの芸は「客が作る」のだと聞いたりする。つまり、芸人と客とは共同作業をしながら良い芸を作り上げてゆくのだという考え方である。また、文芸「批評」の役割りも同じことなのであろう。
 同様に、もし、わが国の経済が従来のモノ経済から、文字通りの「ソフト化経済」へとなかなかテイク・オフしない状態だとするならば、その理由は、企業やベンダー側だけにあるのではなく、そうした需要を先取りし、予感し、接近してゆかない消費者側にもあるということである。
 確かに、生産者主導で引きずりまわしてきたこれまでの推移からすれば、生産者たる企業やベンダーにこそ大きな責任があると言わなければならない。しかし、需要あってこその生産だというリアルな現実も否定できない。まして、今生産者側は予想以上に低迷して、弱体化している。一般消費者の方がパワーを持っていると言う人さえいる。

 消費者主導型で、こんなものを作れ! こんな新しいサービスを提供せよ! と動いてもいいのではないかと思ったりする。いや、そこまではともかくとしても、企業側にとっての消費者の位置付けに関しては根本的に改める必要がありそうだと思う。
 生産者主導路線にあぐらをかいてきた企業側は、ややもすれば消費者を「従属」させることに主眼を置いてこなかったであろうか。少なくとも「対等」な関係だとの認識があったとはとても思えない。
 現在のモノが売れない状況の中にはさまざまな原因があることは承知するが、そのひとつとして、「生産者側」と「消費者側」との二者の関係の「循環」がまずいという点も潜んでいないかと思うわけだ。「対等」な関係において、製品を巡る相互の意見交流が活発化すれば、良い「循環」のきっかけが作り出されるというものではないか。

 現在のわが国の危機は、全体に及んでいるはずだ。しかし、危機感を持っている人は意外と限られていたりする。誰かが何とかするだろうという「観客」を決め込み、涼しい顔をしながら、他方で不安ばかりを募らせているのかもしれない。一気に変革がなされることや、それを誰かに期待する「英雄待望、ヒーロー待望」を捨てて、自分が望む環境や社会の実現に向けて、自分の役割というものを自分なりに自覚する地味なことから始めなければ、底は見えてこないような気がしている…… (2003.07.25)


 あちこちの町内の広場に、納涼盆踊り大会のやぐらが立てられ始めた。
 最近よく見かけるものは、軽量鉄骨でこしらえられた組み立て式のものだ。若い頃アルバイトで鉄鋼溶接の作業をしたことがあるが、幅数十ミリくらいのアングルという鋼材を使った簡単な形状をしたやぐらである。多分、町内会で所有しているというよりは、そうしたやぐらを貸し出したり、組み立てたりする業者がいるものと思われる。

 今朝は、やや寝坊をしたためウォーキングの時間帯がずれてしまった。九時前後であっただろうか、道すがら、ある町内会の会館付近で盆踊り大会の準備が始まっていたのに遭遇した。男たちは、すでに立ち上げられたやぐらを中心にして提灯をぶら下げるためにコードを張り巡らせたり、広場や、道路にゲートを作るべくあわただしく、まためっぽう気を入れたそぶりで動き回っていた。
 女たちは、会館の中の座敷に上がり、茶や酒、そしてつまみなどの準備であろうか、これまた甲斐甲斐しく動き回っていた。広場に面した引き戸をすべて取っ払っていたのでその様子がよく見えた。

 想像するに、この準備の参加者たちは、確かに日常のこまごました仕事に、こんな寄り合いの作業が加わるのだから正直言ってうっとうしいと思う気持ちもないではないのだろう。しかし、何と言っても孤立した自宅で、昨今のこれまたうっとうしい世情に気を滅入らせていたとするならば、何となく「ハレ」の場という受けとめ方もあるのかもしれない。女たちのことは定かではないが、コードを持って走り回ったり、テントを組み立てたり、ゲートの柱を設置したりしていた男たちは、なぜだか嬉々とした様子であったように見えた。

 そうした中高年の男たちこそ、自宅でも居場所というか、心の座り場所というか、大義名分や何某かの甲斐を与えてくれるそんな空間がなかったと言うべきなのかもしれない。じっとしていれば胡散臭く扱われ、何かをすれば余計なことをしたと小言を言われ、何とも身の置きようがない心境が、中高年の男たちの共通する点ではないかと、そんな想像をした。
 だから、男たちは、何となくうれしいに違いないのだ。これから始まる、みんなが間違いなく期待しているに違いない行事のために、自身の身を粉にすること、間違いなくみんなの役に立つと確信できることをするその久々の充実感が、涙の出るほどうれしいに違いないのだ。
 ここしばらくというか、最近は、自信や確信の持てることが何もなかったのかもしれない。
 孫の言動が気になり、ちょっと口を出すと、
「お父さん、今はねぇ、そんなこと言うのは古いのよぉ。今の子どもには、こんなことはもっとどんどんさせるべきなのよ」
とか娘に言われてしまい、二の句が出ない寂しさ、悔しさ。
 テレビのモーニング・ショーで、料理などをいとも簡単にこなしている男性が出てくると、妻からジロリと睨まれ、
「ああゆう風に、ウチのことをこまめにやってくれる旦那さんているのよね」
などと皮肉を言われて席を立ったかもしれない。
 会社でだって、昨今はついぞ尊敬の眼差しで見つめられることがなくなってしまったかもしれない。
「あっ、いいんです。パソコンの処理の話ですから……」
などと、話の輪にも入れてもらえなくなってしまった切なさ。

 が、どうだ、今日のこの日は、みんなが自分たちのやることを是認しているばかりか、期待までしている。やっていいのかどうかを迷い続けておどおどとしていた姿勢をかなぐり捨てて、胸を張ってやれるのだ。会館の座敷でうろちょろしている女たちには、とてもオレたちのような力仕事や、「危険な電気工事」はできるはずがあるまい。今日は、何という遣り甲斐のある環境設定なのか。こんな環境が欲しかった。だから、毎日が日曜日ではなくて、毎日が町内盆踊り大会であって欲しい……

 などと、今時、子どもでさえ抑止するわがままを脳裏によぎらせているかもしれない、そんなかわいく、切なく、頼りない男たちが汗をかきかき走り回る町内会会館付近の光景なのだった…… (2003.07.26)


 ウォーキング途中で見かけた町内盆踊り大会は昨日一日だけで終わったようだ。今朝はもう後片付けが始まっていた。どうも鉄骨やぐらを他の町内会に回す都合もあるようだ。やはり、業者がトラックで回収に来ていた。
 「やり甲斐」のあると思しき準備で走り回っていた町内の男たちの姿は少なかった。昨晩の片付けで張り切り過ぎて、今朝はダウンしているのだろうか。

 そんな町内の男たちの姿から、「やり甲斐」というものをふと考えることになった。
 誰もが「あって当然」と見なすであろう町内会主催の盆踊り大会の準備を手伝うということは、日頃、何となく虚脱感に打ちひしがれていた中高年の男たちに「大義名分」を与えたと見えた。と同時に、大げさとなるが、久しく遠のいていた「やり甲斐」というものを思い起こさせたのではなかったかと、思ったりしたのだ。
 大げさついでに言うなら、幕末の一部の武士たちが、各地で官軍との小競り合いを起こした事情と似ていると言えないこともない、と。幕末時には、武士たちは帯刀をして武士の誇りという意識は残存していたが、太平の世の中となってもはや刀が何の意味も持たなくなったとともに、武士という立場に多くの庶民たちは何の期待もしなくなってしまった。そして武士たちは、「武士は食わねど高楊枝」と見栄は張ったものの、空洞化がやまない自分たちの立場というものに悲嘆していたに違いない。武士の「生き甲斐」と裏腹であったに違いない「死に場所」ももはやなくなってしまったのだ。そんな武士たちがかろうじて「やり甲斐」を確保しようとするかのように、上野寛永寺などに立てこもったりしたのかもしれない。

 馬鹿なたとえはおくとすれば、現代版の武士、浪人と言えば、失業というさみしい立場に立たされてしまった者たちなのかもしれない。食い扶持が途絶えるという絶対条件も厳しいが、人から、社会から、たとえ名目的なものではあっても依頼されたり、期待されたりする自分の公式的な役割りというものが無くなってしまうということ、その寂しさはたとえようがないのではないかと思える。他者や、社会からの期待こそが「やり甲斐」の原点だと思われるからである。
 以前、ある年配の人が言っていたものだ。
「わたしは、朝がいやでね。早い朝食を終え、窓の明かりで新聞を読んでいたりすると、窓の外をサラリーマンたちがあわただしく通勤に向かう足音が聞こえるんです。すると、なぜだか涙が出そうになってしまうんです。あの人たちには、自分を待つ職場があり、いそいそとそこへ向かっている。だのに、自分には行かなければならない職場も、自分を待つ同僚もいない。そんなことを考えてしまうからなんです……」

 失業という決定打は、もちろん人から「やり甲斐」や「生き甲斐」を剥奪してしまうことだろう。ただ、現代という時代環境でのそれらをめぐる事情はもっと深刻なのかもしれないと想像したりする。
 職にあってもそれらを実感できない人たちは決して少なくはないのではないかと想像するからである。確かに、定職のない人からみれば贅沢な話であるのかもしれないが、人間は常に相対的な感覚の中に置かれているため、職に就いていれば就いていたで、その状態の中で感じるものを感じるからだろう。
 「やり甲斐」とは何なのかと見つめるならば、決してそうしたものばかりではないとしても、他者からの期待であり、評価だと言えそうな気がするのだ。というのも、「やり甲斐」という言葉自体、これは他者に向けた会話の中で使ってこそ意味がありそうな気がするからだ。
「なんてったって『やり甲斐』がありましたよ。長年の苦労の甲斐がありました」
と、熱い眼差しで見つめる他者に向けた発言でこそ生きる言葉であるが、
「うん、『やり甲斐』があった。これでよかったんだ」
と、独白しても、もうひとつピンとこないものだ。
 ところが、現代という時代は、職場でもどこでも、「そんなことできて当然!」と見なし合う醒めた人間関係が広がり過ぎている。人間組織はシステム化され、期待などという柔らかき概念を廃棄して、義務、職務などという冷たいコンセプトで敷き詰めている。いわゆる「減点法」的環境がいつの間にか支配的となってしまっているのだ…… (つづく) (2003.07.27)


 高校時代に、誉めることがすこぶる上手な教師がいた。
 もう髪の毛が少なくなり始めた年配の美術担当教師であった。誉める際のそのしぐさに特徴があったのだ。相手の生徒の真正面に立ち、生徒の両肩に手のひらを乗せ、軽くポンポン叩き、
「いやぁ、素晴らしい、素晴らしいですよ。ねっ、実にいい、いいですねぇ……」
とくる。級友のあるシニカルな男などは、「いいんだけど、ちょっとキモチワルイぜ」などと言うくらいであった。
 その後、何十年も経って、管理者向けのセミナーに参加したとき、「管理者は部下を誉める際には思いっきり派手に誉めなければならない」とかで、実地訓練をやらされたことがあった。そこで、トレーナーが範を垂れたジェスチャーがまさしく、両手を両肩に置きの、両手ポンポンの、歯の浮くような誉めゼリフ攻めというものであった。
 わたしは、一気に何十年もタイムスリップして、石膏像やイーゼルで囲われたあの美術室に滑り込んでいたものだ。(そう今思い出したが児玉先生であった)大仰なそぶりで誉められている自分を思い出していたのだ。
 自慢するつもりではないのだが、その先生からの「大絶賛ポーズ」は何度もいただく自分であった。ややうっとうしくもあったが、そのうち課題の絵が完成するころになると、何となくその先生のその「ポーズ」が目にチラツクようにさえなっていたからおかしなものだ。ちょうど、ご主人が投げたフリスビーやボールをくわえて尻尾振り振り、誉められようと舞い戻ってくる忠犬の心理と比較になりそうだったかもしれない。その先生のその「ポーズ」が、精一杯思い入れをした絵を描くことの「やり甲斐」に結びついていたことは否めないようであった。

 人の「やり甲斐」とは、何かを達成したときに感じられる感慨であり、それを事前に予感することからくる意欲に関わるものだと言えよう。「やり甲斐」感の大きさが、事の達成度を高めるとともに、また当人の能力伸張をも促進するといった重要な要素だと思われる。
 もちろん、「やり甲斐」は他者から誉められたり、評価されたり、喜ばれたり、期待されたりといったヒューマンな要素のみで成り立つものではない。
 「やり甲斐」について考えることは、「職業選択」について考えることとかなりの程度オーバーラップしていると思われるので、それを念頭に置くならば、「無給」で働く人が少ない(ボランタリーというケースがあることはある)ように、金銭的な報酬が不可欠であろう。「やり甲斐」もまた、物質的報酬が重要な要素となっているはずである。
 また、「職業選択」でもそうであるように、他者からの評価という観点のみならず、自己の願望、たとえば趣味嗜好や自己実現への願望といった主観側の要素も決して小さくはない。自己の強い関心対象であるならば、それを行なう「やり甲斐」は相応に増大するものと考えられる。
 いや、現在の「職業選択」(=「やり甲斐」)について概観するならば、金銭的報酬と、自己実現などの主観的要素がむしろ大半であるように見えるかもしれない。企業側の人事制度もこの両者に焦点を合わせているようだし、求職側の個人も報酬額と望むジャンルがほとんどすべてとなっていそうだ。特に若い世代ではその傾向が強いかもしれない。
 考えようによっては、これらの両者にヒューマンなレスポンスが織り込まれているとも思われないわけではない。高額を支給することは高い評価を意味すると考えられるであろうし、望むジャンルとは、あらかじめヒューマン・レスポンスが想定された上での選択だとも考えられるからである。(ex. 客商売)

 しかし、金銭的報酬と望みのジャンルとのゲットによって、それをすかさず「やり甲斐」に「換算」できる者は、数少ないプロフェッショナルではないのかと思ってしまう。いや、優れたプロフェッショナルでもヒューマンな評価を度外視するほどに超越はしていないのではないか。師と仰ぐ自分の尊敬する存在からの評価とか、あるいは大衆からの評価とか、そんなものにプロフェッショナルといえども縛られ続けるものではなかろうか。
 「やり甲斐」の構成要素であるに違いないヒューマン・ファクターにもう少し関心を向け続けてみたいと思う…… (2003.07.28)


 もうだいぶ以前の話となるが、老婆心からこんなことを言ったことがあった。
「あの選択では、みすみす失敗してしまうよ。だれか忠告してあげた方がいいんじゃないか。まあ、プライベートなことだから個人の自由には違いないのだけど……」
 すると、ある皮肉な部下が言ったものだった。
「失敗するのも個人の自由の内ですよ」
と。「確かにそうではあるけどね……」とは言ったものの、老婆心の老婆心たる思いがくすぶり続けたものだった。
 だが、よくよく考えてみれば、その皮肉な部下の言ったとおりなのである。当人が成人であり、当人の生死に関わる選択でないのなら、いや仮にそれに関わる選択だとしても、失敗するか、成功するかの問題以上に、自分で選択して引き受けていくことが何よりも貴重なはずだったのである。失敗したとしても、自分の意志を貫いたことによるその「やり甲斐」は残るはずだからである。しかも、成功だ、失敗だという評価づけの根拠ほど相対的なものはないと思われるからだ。苦労の道を選んでしまうことが失敗だとしても、それは絶対的な失敗ではない。現に「若い時の苦労は買(こ)うてもせよ」ということわざもあるくらいだ。
 むしろ、「やり甲斐」というものは、やはりそこまで自分の主観に食い込んだ意識と感覚だというべきなのではなかろうか。
 昨日は、他者からの誉め言葉、評価というものが「やり甲斐」の重要な構成要素だと書いた。だが、それに匹敵するほどに、いやそれ以上に不可欠なのがこの主観的選択、主体的選択という要素であるのかもしれない。

 ところが、この個人の主観的選択、主体的選択というものを現代という時代はどの程度育んでいるだろうか。現代という時代は、一見すると個人の主観が寛大に是認されているごとく見えはする。また、現代は、数々の犠牲を払いながらそうした時代に到達したのだと公式的には表明されたりもしている。しかし、その内実は、一般に思い込まれているほどに充実しているとは思えない。
 もちろん、大量生産と大量消費で明け暮れたひと昔前などは、大衆は消費生活をはじめとして個人の主観的選択、主体的選択などを持ちようもなく、画一的選択の環境に埋没していたと言っていいのだろう。
 そして、個性化だの多様化だのとはやし立てられ、多品種少量生産と個性を強調した販売戦略が広がり、ようやく個人が「主観的選択」というものを意識し始めたのかもしれない。しかし、消費生活の場での、たとえば商品のカラーがレッドではなくブラックを選択したからといって、それがどれほどの「主観的選択」だと言えるのかどうかは誰だってわかっていたはずだ。決して「やり甲斐」に結びつくほどの選択肢ではないこと、またそうした消費生活を舞台とした「模擬」選択肢が増えてゆくにつれ、本当は切実な選択肢であるはずの人生にも関わる選択肢、たとえば進学、就職、生活スタイルの選択、政治的選択などなどがどんどん画一化していったのではなかったかと思う。高度消費社会となるにおよび、組織や社会のシステム化の進行や、画一的で操作的なマスメディアの影響などによって人々の選択肢は明瞭かつ単純化していったかに見える。いわゆる社会の「管理化」の進行である。

 社会の「管理化」とは、社会全体にとっての予測可能性の拡大であり、それに基づく社会秩序の制御だと言うべきだが、このことはとりもなおさず個人生活においても「先が見えてしまう」ということなのであり、奇想天外なハプニングの可能性が消去されてしまうということでもある。明瞭かつ単純化された選択肢のみが提示される生活と人生が始まったということにもなるのだろう。
 個人の主観的選択、主体的選択と親和性を持っていたであろう個人の「やり甲斐」、「生き甲斐」とは、ある意味では選択における予測不可能性、ハプニングの到来可能性、どんでん返しもあり得るという生(なま)の現実が大前提であったのではなかったか。
 スポーツ・ファンやギャンブル・ファン(?)なら当然視するだろうが、熱狂と興奮は「管理されたシチュエーション」からもっとも遠い場でこそ生じるものなのだ。

 システム化、管理化されつくされたかに見える現代にあっては、見果てぬ夢のように「やり甲斐」、「生き甲斐」を追い続ける者は、まさしくドンキホーテだと言わなければならないであろう。
 しかし、人間が「やり甲斐」、「生き甲斐」を放棄してしまったあとには、一体どんな荒涼とした世界が待ち受けているのだろうか。いや、すでにわれわれはその世界を知り始めているのかもしれない。少なくとも青少年たちは察知しているに違いない。
 そんな世界の始まりにおいて、なおかつドンキホーテを笑うつもりのない者は、一体何をしたらいいのだろうか…… (2003.07.29)


 私の母はもう80歳となろうとしているが、まだまだ気力十分である。様子を見ていると、若い人たちとのつき合いを好んでいるようだ。わずかな教授料で若い人たちに習字などを教えたりしている。ある時、次のようなことを言っていたのを覚えている。
「あたしは、若い人たちとつき合う方がいいね。若い人たちと接していると老人扱いされたりしてバカにされたりすることもあるけど、そんな時はしっかり言い返してやるからね。でも元気がもらえるからいいわ……」

 ついさっき、ある知人に電話をして互いに「気合」を入れ合ったが、その知人からわたしは今の自分にとって最も適合した言葉をいくつも引き出すことができた。彼氏曰く、
「ひろせさんね、変な表現だけど、わたしは『狂人』としかお付きあいしないんですよ。やる気があるかないかわからないようなダラダラした人とつき合ってていいことはないですよね。何を言ったって理解されないし、逆にこちらまで緊張感や思い込みが萎えさせられたりしますからね」
 「狂人」とはキワドイ表現であるが、要するに異常なほどのテンションをもってやるべきことを進める人のことのようだった。
 また、次のようなことも言っていた。
「80対20の原理というのがありますが、みんな80に属することばかりをアリバイづくりのようにやってるんですよね。いっさいそんなことはやめて、今日一日をたったひとつのことに集中すべきだと考えていますよ」

 わたしが、その知人と話したくなったのは、どうも現在のビジネス界、いやほかでも同じだと見ているが、経済の低迷だけが問題ではなく、人々自身がそうした低迷状態を言い訳にして惰性に足を取られた雰囲気に嫌悪感を感じているからである。そんな雰囲気に自分自身も汚染されてはいないかと危惧の念を持ったからだったかもしれない。
 成せば成るのかどうか、そんなことを問うべきではない。そもそも、成る、と決まったものをやるのなら役者に不足はせず、そんな過当競争市場に入りこんだってウマイものがある道理がない。また、成る、という結果だけが関心の対象であるような臨み方では、プロセスは心もとないかも知れぬ。プロセス自体が魅力に富むものであってこそ、収穫が大きいというふうに考えなければならないとも言える。

 「カラ元気」という言葉がある。根拠や実態もなく元気ぶることだろうが、「カラ消沈」「カラ落ち込み」という言葉も作るべきかもしれない。足元のネガティブな材料ばかりを拾い集め、それで納得するようにして意気消沈する情けない傾向を指せばいい。
 厳しい客観情勢などと評論家みたいなことを言うべきではないのだ。もし、客観情勢を言うのなら、当事者たちの主観的ボルテージをこそ先ずは客観的に洗い出すべきなのかもしれない。外界の客観情勢の分析以前に、主観的ボルテージそのものにやる気なしとかの遜色が認められたなら、それこそ「カラ消沈」もしくは、健康上の異常と判断すべきなのであろう。
 なぜ「カラ消沈」に注目するかと言えば、「カラ消沈」のようなネガティブなフィルター、色眼鏡は、とかく客観情勢を「非」客観的に捉えがちとなってしまうからである。否定的材料の裏には、ポジティブな素材が必ず付着している道理まで見捨てるのが、「カラ消沈」の「カラ」たる部分だと見たいのである。

 上記の彼氏も、「元気のない会社、元気になろうとしない会社の人とは話したくない」と言っていたが、わたしもまったく同様だ。客観情勢を慎重に観察することと、それらの否定的側面だけを拾い集めて悲観することとはまったく違うことだからである。
 しばしば、景気のよくないことを「あ、おたくもやっぱり……」といったふうに確認して、ホッとしているような電話があったりもするが、そんな方とは話したくないものだ。「カラ消沈」の病なんぞをうつされてはならないからである。
 そろそろ、客観情勢の否定的側面に隠された、自分たちにとっての思わぬチャンス、ポジティブな契機というものを精力的に掘り当てていきたいものだ…… (2003.07.30)


 通勤の帰りに立ち寄る書店での衝動買いも減らないが、最近は、ネットの「アマゾン」からそこそこ買い込んでしまう。「アマゾン」のサイトは、CGIやXMLでも使っているのか、アクセス者の購入履歴や検索履歴に対応した書籍を「サービス精神」でご丁寧に表示紹介するのだ。
 曰く、「この本を購入した人はこんな本も購入しています」といったふうにして、同一著者の著作や、関連テーマの本を並べるのである。何となく気になってクリックしてしまい、詳細情報を覗いてしまうことになる。そして、じゃあついでに買っちゃうか、となってしまう。うまいものだなあと感心している。とともに、サイトというものは、言われているようにこのようなパーソナル・レスポンスでアクセス者を迎えるべきだと再認識させられるのだ。
 最近の街の書店は新刊本中心の販売で、お目当てのものとなると注文取り寄せとなり、これがまた二週間とかかかってしまうのが通常だろう。いたってせっかちな自分としては、待ち切れなくて、ならいいよ、と拗ねてしまう。その点、ネット通販だと早ければニ、三日、遅くとも一週間以内には届けられるのでありがたいと感じてついつい活用してしまうのである。

 今日も、ある企画テーマのサーチをしていてあちこち執拗にネット・サーフィンをした挙句、仕上げ(?)に「アマゾン」を覗くことになった。そして、新刊本で興味を惹くものに出会うこととなった。
 ただでさえ「脳」という不気味なものに関心を持っている自分なのだが、以前、「ゲーム脳」(c.f. 2003.05.30)について書いて以来、現代という時代は「脳」への攻撃(?)が日常化したのではないかといぶかしがってきたものだ。しばらく前に、あのオウム事件で人々を震撼させた「洗脳」という言葉もあった。
 知識を覚えさせたり、教えたり、示唆したり、教唆したりという範囲は、まだ平静な気分でいられるのだが、本人の人格的自由を飛び越えて、生理的な「脳」に直接的に働きかける気味悪さが「洗脳」という言葉のニュアンスだったのだろう。そんなことってありにくいと勝手に思い込んでいる、そんなのん気さの隙を衝かれた言葉だったはずだ。そうした悪を仕出かすヤツはいるものだったのであり、振り返って考えれば、たとえタテマエ上の表現は穏やかではあっても、そんなことはいろいろとあったのかもしれないと、ふと気づかされたものだ。教育という名の「洗脳」然り、マスコミという名の「洗脳」然りだと思わされた。

 上記の興味を惹いた新刊本とは、『オブジェクト脳のつくり方』(牛尾剛 著、翔泳社刊)という書名の本であった。
 この著作は、最近のシステム構築、プログラミングで、もはや常識化しつつある「オブジェクト指向」のアプローチに、どうしたら慣れることができるかを焦点にしたもののようだ。実はまだ手にしていないのだが、筆者曰く、
「オブ脳の芽生えはエンジニアとしてのあなたの人生の転機だ!
オブジェクト指向を要領よくマスターするには、まずいろいろな知識を勉強する前に、あなたの脳に『オブジェクト脳』を目覚めさせてしまいましょう。そうすれば、オブジェクトの神はあなたに微笑みかけてくれるはずです。そして、UMLやFJRなども分かりやすい便利なものに変わってくれるでしょう。
この本はオブジェクト指向を効率よくマスターする『要領本』です。この本で『オブジェクト脳』をもった技術者が増えて、仕事で得をしてもらえれば私は本望です。
さあ、いっしょにオブジェクト指向やUMLやEJBを難しいと思っている人に差をつけましょう」とある。

 わたしがこの本に興味を持ったのは、確かにソフト開発においてますます「オブジェクト指向」が一般化しているといった事情がある。しかも、多くの解説書が出版されたにもかかわらず、いまひとつ「オブジェクト指向」という考え方のスタイルが咀嚼され尽くされないかのような実情への懸念もある。そしてというか、だからというか、個々のプログラミング事情もさることながら、この新しく特殊な考え方を、従来からの日常思考とじっくりすり合わせる必要がありはしないかと想像していたのだ。単なる小手先のハウツウで済まそうとするからギクシャクするのであって、まさしく「洗脳」的(?)な迫り方こそが必要であるのかもしれないとさえ予感してきたわけだ。

 しかしそれにしても、最近の書籍の題名は、アイキャッチを狙ってセンセーショナルなものが多くなってはいるが、「……脳のつくり方」とは、まさに「脳」と心にズキンとくる表現であろう。
 が、人間の身体の統合司令本部でもある「脳」自体をハウツウや操作的思考の対象としてしまおうというラディカルさというか、ドライさというか、そんなニュアンスにとりあえず興味を覚えたのであった。

 環境の変化によって考え方、感じ方がジワジワと変化していくというイメージがフツーであるだろう。しかし、当世は、まるでケミカルな薬を服用するように、あるいは「洗脳」されてしまうように、あるいは梅酒をつくるかのようにある種の方向に向けた「脳をつくる」ことが要請されているのであろうか? そこまで急激な変化が押し寄せていることはわかるが、梅酒や糠づけのこうこをつくるほどに「脳のつくり方」は簡単にはいかないような気がしている。それでも注文した本の到来を楽しみにして待っている自分である…… (2003.07.31)