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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年06月の日誌 ‥‥‥‥

2003/06/01/ (日)  「うなぎの蒲焼」でも何でもやってみるのも必要か?
2003/06/02/ (月)  「情報ビジネス」雑感 …… 行き詰まり不況と「知識」のあり方へのメス!
2003/06/03/ (火)  多々ある不安の、そのほんの一部を解除してもらった……
2003/06/04/ (水)  「野生」の小動物たちは生命の基本を生きている!
2003/06/05/ (木)  悪を問いただすとともに、明日の自分を今日作り始める!
2003/06/06/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 「形式知・経験知(暗黙知)」以前の「知識」と主体!
2003/06/07/ (土)  「朝は龍のごとく、夜はネズミのごとし」のモード変換とその余波!
2003/06/08/ (日)  「情報ビジネス」雑感 …… 「ポイント・カード」は現代庶民宗教の教祖?
2003/06/09/ (月)  「情報ビジネス」雑感 …… 「関心を逸らす!」が時代の合言葉?
2003/06/10/ (火)  「情報ビジネス」雑感 …… 「グローバリズム」とセットの「情報(化)社会」
2003/06/11/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… 巨悪に噛みつかず小ネズミを追うネコ社会!
2003/06/12/ (木)  「情報ビジネス」雑感 …… 「情報(化)社会」と「自分だけは」主義者
2003/06/13/ (金)  「富の再配分ができなくなった権力」と「置き去りにされる人びと」!
2003/06/14/ (土)  三メートルの護岸壁を飛び降りた(?)マガモの雛たち!
2003/06/15/ (日)  今、これが自分にとっての貴重な時間だと感じるべきなのだろう!
2003/06/16/ (月)  「情報ビジネス」雑感 …… ニュース報道における「事実」とは?
2003/06/17/ (火)  「情報ビジネス」雑感 …… ディスプレー上のフォントと、紙の上の活字
2003/06/18/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… ハラに染みる「人間の会話」
2003/06/19/ (木)  「情報ビジネス」雑感 …… 新しい事象に対する新しい視点と発想の重要さ!
2003/06/20/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 天下り「情報」から、求める「情報」へ!
2003/06/21/ (土)  不安の中で、庶民たちは優しい自然に眼を向ける!
2003/06/22/ (日)  十年来、主人の視野に入れてもらえなかった梨の木の発奮!
2003/06/23/ (月)  噛まずに、グッと一息で飲み込んでしまってください!?
2003/06/24/ (火)  どう「がんばる」かの前に、「何を」をという問いをしっかりと見つめる!
2003/06/25/ (水)  突然やって来た男と、「ガンバリズム」再論!
2003/06/26/ (木)  香具師の寅さんのカバンにノートPCが入っていてもいい!?
2003/06/27/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 何かとためになる「生(なま)」の情報!
2003/06/28/ (土)  「情報ビジネス」雑感 …… 「何を」と問う視点=「着眼(点)」の現代的背景
2003/06/29/ (日)  潜伏した疲れから飛躍させた「自由」論議あれこれ
2003/06/30/ (月)  「やっぱり、動物って最後の最後までちゃんと飼ってやらなくちゃね」






 自宅の近所に、たぶん地元に張りついてきたのだと思われる家電製品店がある。一時期には「電化」の波に乗り切ったある家電メーカー専門の店である。近所であるため、その店の前は、クルマで通り過ぎたり、バス停へ向かう際に通ったりして、いやでも営業の様子が見えてくる。
 今日も、その電気屋さんに、安い傘を買いに行った。電気屋さんに傘とは妙なものだが、その店では「うなぎの蒲焼」や「まぐろの刺身」、採りたて野菜まで売っていることもある。中国や台湾から安く仕入れたと思われるちょっとした家電関連小物や日用品なども客寄せのためにいろいろと展示しているわけだ。今日買いに行った傘は、以前にその店で380円で購入したものが、取っ手のすぐ上でポキリと折れてしまったため、まだ置いてあるかと見に行ったのだ。見事に折れてしまうようなものを再度買いに行く自分も変だとはうすうす感じながら向かったのだった。

 家電製品販売では、「ヤマダ」だ、「コジマ」だとチェーン・ショップがまるで地域消費者に投網をかけるようにすさまじい販売攻勢をかけている。そんなショップがあちこちに開店し、テレビCMに、毎週の新聞折込広告といった宣伝活動が始まる前には、おそらく地元の消費者から信頼の眼差しで迎えられていたものと思われる。それというのも、家電製品はいつ何時に故障を起こすかも知れず、冷蔵庫にしてもクーラーにしても嵩(かさ)張る「白物」の場合は買う時の割安感だけでは済まないからだ。
 その店も、チェーン・ショップが出始めた頃には、そのセールス・ポイントを最大限にアピールしていたような覚えがある。メインの店舗のほかに修理専門の店舗を設け、その店特有の彩色を施した小型車を走り回らせていた。まだ、チェーン・ショップの経営姿勢も安く「売り切る」方針が前面に出され、アフター・サービスが行き届かない頃には、地元店のそうした修理お任せ! 強調はそれなりに消費者への訴求力を持っていたのだろう。
 しかし、他店の価格より百円でも安く! を競い始めたチェーン・ショップは、やがて修理などのアフター・サービス体制も万全だと主張し始めた。と言っても、家電製品の修理は基本的にメーカー預けなのだから、デリバリーの合理化さえ推進すればできないことではなかったのだろう。しかし、チェーン・ショップ側のこの改善策は、地元店にはこたえたようだ。セールス・ポイントが横取りされてしまった格好だからである。

 その頃からである、その電気屋さんの店頭に「うなぎの蒲焼」や「まぐろの刺身」まで並び始めたのは……。もとより、その店の固定客は馴染みの地元年配層であったのだろう。そうした、固定客を「農協祭」か「地神祭」にも似たイベントでお出でいただこうという意図が分からないわけではなかった。
 しかし、どうなのだろうか、新興住民や若い世代には、やはり奇妙な電気屋さんという印象の方が強かったのではなかろうか。彼らにしてみれば、買う時に安いことの方が何よりの魅力なのではなかったかと思われる。故障修理については、メーカーのサービス・ステーションを当てにしているかもしれないし、安い購入価格であったのなら故障すれば捨てても構わないと考えているのかもしれない。それなのに、オマケ的な事がらばかりで客寄せをねらう電気屋さんとくれば、どうしても敬遠してしまうのかもしれない。

 だが、こうした事例は決して特殊なことではないようだ。スケール・メリットを享受できる大手の量販店が販売価格を信じられない水準で示すのに対して、わずかな地元顧客を相手にした地元小売店は、どのようにして価格競争力を発揮すればよいと言うのだろうか。それ以外での地元顧客への訴求力を、何としても形成したいと思う気持ちはわかり過ぎるほどよくわかる。
 こうした問題と構図は、地元小売店に限らず、スケール・メリットねらいで仕掛けてくるあらゆるビジネスと小規模ビジネスとの対比というかたちでどこにでも見出せるもののようである。判官(ほうがん)びいきなどではなく、多彩な小規模ビジネスが栄える環境であって欲しいと願うのだが…… (2003.06.01)


 先日ある評論家が、「不況ボケ」という言葉を使っていた。企業経営者たちが「何をしていいのかわからない」という心境となっていることは聞いたことがあった。度外れた経済危機と将来への展望が描きにくい現状にあって、多くの経営者やその関係者たちがなすすべなく萎縮してしまっている実情は想像に難くない。しかし、経営者たちは取り乱して騒ぐことができない立場にあることも事実だろう。また、おそらくは、営業強化などの並みの方策はし尽くされ、いわば人事は尽くされているに違いなかろう。そして、まるで巨大な岩を押すように何の手応えもない経験を繰り返しているうちに、言いようのない虚脱状態に陥るのだろうか。それが「不況ボケ」とも見える情けなさなのかもしれない。自身の心境とも照らし合わせると、そんなバカな、とあながちはね除けることはできない。

 妙なたとえで言うならば、あれは映画『ロッキー』の何作目であったのだろうか、ロシアの巨大なボクサーを相手とするあの話が引き合いに出せるかもしれない。そんな相手に対しては、攻めが必要なことは言うまでもないとして、相手のパワーのインパクトがさほど効かないことを示すことが最大の(心理的)攻撃となるようだ。不況の環境は、決して人格ではないので、心理的攻撃など無意味のようにも考えられる。が、敵はどうあれ、言うまでもなくこちら側が人間そのものである。そうである以上、心理的かけひきは敵側だけの問題なのではない。敵のパワーに耐えきれずマットに沈もうとしている自分を自覚するのか、必死に堪えて敵にダメージを与え続けている自分を自覚するのかの違いによって、戦況は大きく変わる可能性があるというものだ。
 心理や、精神のあり様で形勢を挽回しようとするのはいかにも古臭く思えたりはする。しかし、かと言って形勢不利と見るや評論家よろしく小利口に振舞って何をやってもダメと早合点していく今風の「知識」過剰傾向はいかがなものだろうか。

 いや、現況の「行き詰まり」環境の最大の原因は、「知識」のあり方自体に問題があったからなのではないかとさえ感じている。そう言って悪ければ、「知識」もどきが、いかがわしい連中とつるんだ結果だと言うべきか。長いものには巻かれろ! 強きを助け弱きをくじく! 濡れてで粟! など札付きの連中とぐるになってきた結果、一朝一夕には打開し難い難局へとこじらせてしまったと言うべきなのかもしれない。
 早い話が、「知識」人と呼ばれてきた者たちは、こんな場合にこそさまざまなジャンルでの効果的な提言をすべきであろう。手弁当でさえやるべきである。が、そんなことはできはしない。所詮、売文家、売「「知識」」屋でしかなかったからであろう。「知識」の本来の役割を捨てて、「売り映えのする」「知識」の紹介と加工に奔走してきたからである。「知識」を食い物にしてきたと言って何の誤解もないほどではないか。

 ところで、昨今は株価が不安定となり、奇妙な一事が起こっているという。かつては、各企業同士が互いに株を持ち合ってメリットを享受し合ってきたとはよく知られている。しかし、昨今ではこのあり方が逆にリスクや疫病神に転じているというのである。非常に象徴的な推移のように感じられたものだ。
 未曾有の不況として括られるこの大変化の中で、暗黙のうちに価値ありとされてきたものが逆転しつつある。それは神話の崩壊と呼ばれたりもしている。そんな現象の中で、いまだに「知識」だけには無傷のごとき顔をさせているようにも見える。しかし、その「知識」のあり方の洗い出し、見直しこそが最も現状にふさわしい緊急時なのではないかと予感している。とりわけ、創造性の貧困問題がお家事情のようにささやかれる国にあっては、創造性の底辺に位置する「知識」自体のあり方への抜本的なメスが入れられなければならないのかもしれない。
 さしあたっては、一般的な「知識」と主体自身との関係の問題が気になるところである。主体自身との関係を絶った「知識」の一人歩きがあまりにも事態を混乱させているかに見えるからである。SARS問題ではないが、「知識」の一人歩き「外出禁止令」でも出せばいいと思ったりする…… (2003.06.02)


 特に異常感があるといったわけではなかったが、まったく不安もないと言い切るほどに自信があるわけでもなかった。タバコももう三十年も吸い続けたことになるし、頭の方もそろそろ何がしかの不具合が現れてもおかしくはない歳だからである。
 昨日、一日人間ドックふうに、肺と脳のスキャニング検査に行って来た。結果は、さしあたって何の不具合も発見されず、先ずは安堵した。
 最近家内が諸検査に凝っていて、今回も家内が行こうとしたのでじゃあついでに行くかという程度の動機だったのである。

 いざ、出向くことにしたのはいいが、朝食時にかけていたテレビ番組で、シンガーソングライター・小椋佳の癌闘病談を見てしまったのである。小椋佳は、ニ、三年前だかに、たまたま勧められて受けた一泊二日の人間ドックで胃癌を発見し、早期発見の部類でその四分の三を摘出したという。おまけに胆石のため胆のうまで切除したそうなのだ。身体に四本ものチューブを挿し続ける痛さと苦しさの術後生活が語られていた。
 ほかの日に見たのなら、「ほー、大変だったんだあ」であったところだろうが、この日の自分の予定が予定であっただけに、何とも他人事ではない滅入った気分となってしまったのだった。人間ドックというのは、何気なく参加した者から意外と大変な病が見つけ出されたりしそうなんだよなあ、などと良くない想像をしたりして、虚ろに持った箸をパタリと落としたり…… まではしなかったが、沈む気分は抑えようがなかった。

 しかし、それにしてもCTスキャニング・システムというのは、現代のハイテク水準をいやというほどに感じさせる代物(しろもの)である。
 検査中の「トンネル」は、まだまだマン・マシーン・インターフェイスにおいて改善の余地を残してはいる。とりわけ、脳のスキャニングにおける「トンネル」の中での不動の二十分は辛い。さらに、音が何とも不気味である。ギリギリギリギリギリーと唸る、まさに頭を回転ノコギリでスライスにされているような騒音はいただけない。感受性が強すぎる人ならば気絶してしまう恐れはないだろうか。ないとは思うが……
 しかし、検査後の画像解析は目を見張る素晴らしさであった。担当医が、脳と肺のスライス画像を映し出した二枚の液晶ディスプレィを操作しながら説明していったのである。スキャニングで収集したデジタル・データを計算加工して、シミュレーターふうに画像化したのであろう。アナログのX線写真とは比べものとならないほどに鮮明で、かつ三次元グラフィック処理がなされてわかりやすいものであった。
 自分の脳や内臓の様子を、示されるままに見るのが何か不思議な感触であった。1mm〜1.5mmのピッチでスライスされながら得られたデータで構成された画像は、きわめてリアリティに富むものだったので、まるで死体解剖の場に立ち会っている印象さえなしとはしなかったのである。落語『粗忽長屋』の落ち、粗忽者が行き倒れとなった他人を自分だと思い込み、「これはオレだよな。そうだオレだ。だけど、オレを抱いているのはどこのダレなんだろーなあー?」というセリフをふと思い出したりしていたものだ。

 愛煙家のそばで暮らして肺癌の恐れを心配していた家内も問題はなかった。問題がない今の時点で、喫煙停止についても真剣に考えなければならない…… (2003.06.03)


 川を覗き込む人がいた。川と遊歩道とを仕切るフェンス越しに、植木の枝を掻き分けて身を乗り出していた。珍しい野鳥でも訪れているのだろうかと思い、わたしはウォーキングの足を止め目をやってみた。
 目に飛び込んできたのは、マガモの雛鳥たちだった。母鳥の周辺を、コマ落としの映像のように、忙しく動き回っていた。浅瀬の水面に顔を突っ込んで、川底の餌をついばんでいるものもいる。チョロチョロと水面を行き来しているものもいる。数えてみると八羽の雛鳥たちであった。

 この時期になると、しばしばテレビの報道番組などで、カルガモの雛たちのかわいい姿が紹介されてきた。本人たちは緊張の連続なのであろうが、傍目から見ると何もかもが愛らしく、顔がほころび、心が和んでしまう光景であった。
 まさか、地元の川、しかも決して清流とは言えない川でマガモが雛をかえすとは思ってもみなかった。いざ、目にしてみるとかわいいという実感とともに、無事に成長できるだろうか、という心配と、そうであって欲しいという思いがこみ上げてくる。

 人間界の少子化現象の背景には、若いカップルたちによる現在の子育て環境への危惧の念が潜んでいるとも聞く。どうなのだろうか? マガモたちとて、本能的なかたちで「環境アセスメント」はしているのではなかろうか。この川で安全に子育てができるかどうかを、母鳥は観察していたのではないかと思う。そして、その結果、まずまず大丈夫だと判断したのかもしれない。
 そうした視点で、あたりを見回してみると、川のこの当たりには堆積した土砂に根ざした葦のような草の茂みが点在している。雛たちを隠す場となるに違いない。それらは、川岸だけではなく、川の中央にもある。

 この近くは、あのみんなで飼われている捨て猫のミーちゃんがいるところだ。毎日えさが「支給」されるため、昨今ではミーちゃん以外の捨て猫たちが寄り集まるようにもなっている。そんな猫たちが、ニ、三メートルもある護岸を昇り降りするかどうかは見たことがないが、その心配がないわけではない。しかし、仮にそんなことがあったとしても、川の中央の草の茂みまでは、水嫌いの猫たちも出向くことはないだろう。そう思うと、マガモの観察も意外とクールでシビァなのかと思えた。
 ただ、心配なのは川の流れの増水である。ちょっとした雨量でも上流方向から集まった水量が、草の茂みを水没させてしまうことはよくあった。そんな場合には、八羽の雛たちが溺れることはないにしても、ばらばらにさせられてしまう可能性が無くもない。例年にない早い時期からの台風も来ているし、折りしも梅雨を迎えつつある。心配といえば心配である。

 むかし、貧乏学生の頃、もはや賞味期限の過ぎた古い家屋に住んでいたことがあった。床下や、物置などは近所の野良猫たちの恰好の棲家となっていた。時々、かつおぶしをかけたご飯を与えたりしていた。そして、その猫が子を産むこともあった。
 ある年の夏の早朝、一週間ほどの間、毎朝その家の表の空き地で子猫たちがはしゃぎ回っていたのを感じていた。が、一匹減り、また一匹減りしたのであろう、とうとう毛並みの悪い母猫だけが寂しそうに残ったのを覚えている。きっと、母猫もそんなふうに思っていたのかもしれないが、つかの間の生を駆け抜けて行った子猫たちが、言い知れなく不憫に思えたものだった。

 「野生」の小動物たちにとって、生存し続けることは並大抵のことではないようだ。しかも、彼らは恨み言を口にするわけでもなく、ただただみずからの運命を甘受していく。しかし、そうであるからこそ、その生きる姿は文句なく美しい…… (2003.06.04)


 今日のウォーキングでも、昨日書いたあのマガモの雛たちが気になって川面に目をやりながら歩いていた。いっこうに見当たらず小さな不安がよぎったりする。が、昨日見た近辺の橋の下付近で見つけることができた。川の中央の二つの石の上、片方の石には親鳥がしゃがみ、もう片方の石にはところ狭しと八羽の雛鳥たちが身を寄せ合ってしゃがんでいた。こんなところにいたのか、と思わず顔がほころんでしまった。

 その場所の真上に当たる橋の上から見ると、雛たちの柔らかい羽毛がそよ風でそよいでいるのがわかった。身体の大半はコーヒー色で、風にそよぐ表面部分は薄黄色がかっていた。ふわふわとした愛らしい風合のようであったが、いかにもこの上ない頼りなさを感じさるものだった。
 親鳥は、おちついた様子で雛たちの方を向いてくつろいでいる。雛たちも、同じ石の上には上れなかったものの、ニ、三十センチほど離れた石の上で互いの身をくっつけ合い親鳥ほどの大きさの塊(かたまり)を形成していた。母鳥への信頼とともに、多くの兄弟という仲間たちがどれほど彼ら勇気づけていることかと想像させた。さてさて、彼らの今後は一体どうなってゆくのやら……

 それにしても、マガモの親子たちの姿は何か大事なことを感じさせてくれているようだ。何かを訴えているというような傲慢さなどは微塵もない。人間たちの投げ遣りな生活の痕跡を多々流した川であるにもかかわらず、マガモたちはそんなことを責めるはずもなく、眼前にある環境の中からひたすらより良きものを探し出し、それらを淡々と享受しているように見えるところがいい。そんなあり方、生き方が何とも見上げたものだと思えたのだ。

 人間界には、抗議して当然の事態が多過ぎる。抗議しなければならないことが多過ぎる。泣き寝入りしている人たちも多過ぎる。だから、もっともっと権利意識と闘争心とを持つ必要性もある。それは、自分のためだけにあらず、同じ立場にある人たちに橋頭堡を提供するためにも必要なことだと言えるわけだ。
 政治の貧困は言うまでもなく大問題であるし、加えて「消費者金融」などに典型を見るごとく暴力団がらみの犯罪的行為が昨今では目にあまり始めている。弱い者いじめと弱者にツケを回す風潮の拡大が嘆かわしい限りだと思われる。

 社会の不正に抗議して権利を勝取ることが推進されなければならない。だが、そのためには、泣き寝入りをやめよとか、権利意識を持てとかの分かりきったスローガンを叫ぶだけではなく、パワーを培うことが極めて重要だと感じている。いわゆる「カウンター・パワー(対抗力、代案)」とでもいうべきものを、したたかに培う必要があるのではないかと。
 時代は、問題解決の担い手、主体をこそ待っているのであって、「何とかしてくれー」と叫ぶ人ではないと言ってもいいのかもしれない。このあたりの議論は、「(変革)主体形成」といった視点で、もうだいぶ以前からなされていると思われるが、今こそ省みられてもいい。
 それと言うのも、「何とかしてくれー」というだけの姿勢(多くの先進的運動組織は決してそうではないと信じてはいるが)は、こんな時代にあっては悲観色の重みで沈みかねないからである。そうではなくて、この悲観色濃厚な時代環境にはあっても、より良きものをしたたかに見つめ、時代の悪を加速させている者たちよりも可能性に富んだ人間性と諸能力を培うことがなければ、次の時代は来ないはずだろう。

 「人間たちの投げ遣りな生活の痕跡を多々流した川」でもしたたかに育つマガモたちが明日の日本を作るとは誰も考えはしない。もちろんのことだ。しかし、これほどまでに立ち腐れした日本に明日が来るとしたら、そのマガモたちのように悪環境の中でもタフに生命力を発揮する若い世代があればこそのことに違いないと思ったりした…… (2003.06.05)


 ますます深まるかに見えるこのデフレ不況においても、街を歩いていると新しい店舗の開店に遭遇したりする。今日も、駅前食堂での昼食を済ませてブラブラと戻る際に、あっと驚いてしまった。駅前のロータリーに面した一等地にあった某銀行が、なんとリサイクル・ブックのチェーン店に衣替えしているではないか。生々しい時勢の一端が明瞭に示されていると見えた。
 銀行はまさしく遅ればせのリストラクチャリングを迫られ、店舗の統廃合が急がれていると聞く。片や、リサイクル・ショップは売る人、買う人の両面から好感を持たれていそうだ。

 さらに言えば、銀行 v.s. リサイクル・ショップの「下克上」(?)劇からは、いろいろなことを考えさせられるかに思える。動かしている金額の桁が違うとも言えるが、そのことと関連して給与や人件費も桁違いであり続けたのであろう。こんなことを言ってはなんだが、その人材たちの生きる世界も異なるといってもいいのかもしれない。銀行の従業員たちは、身元調査でも折り紙をつけられた「エリート」階層たちだと言って間違いない。方や、フツーの人たちなのであろう。いや、リサイクル・ショップで働こうとするのだから、どちらかと言えば「モノを粗末にすることが嫌い」な質素堅実、工夫大好きな人たちかもしれない。

 さらにさらに言うならば、銀行マンたちは「形式」を重んじ、リサイクル・ショッパーたちは「実質」をにらむ人たちだと考えても誤解にはあたらないのではないか。
「担保は出せないんですが……」
と銀行マンたちに申し出るならば、
「そうですか。それではまたの機会ということになりますね」とさりげなく形式的処理をするのが彼らである。これに対して、リサイクル・ショッパーたちの場合は、
「いろいろとアンダーラインを引いたり、メモ書きをしてるんですが……」
と申し出て古本を差し出すと、
「いいんじゃないっすか。そこが大事なトコだなっ、と思って買う人もいるかもしれないし……」と、実に実質本位、実質本屋の姿勢であったりする(しないか)。

 わたしには、この両者の栄枯盛衰を仕分けたものは、ひとえにその姿勢が「形式」主義であったか、「実質」主義であったかの違いによるものではなかったかと大胆に推理するのである。シリーズものの都合に強引に引きつけるならば、両者が業務を推進するにあたり、専ら「形式知」を重視しようとしてきたのか、「経験知(暗黙知)」(「知識」の分類については、『「職人」や「徒弟制度」の問題と「暗黙知」と「形式知」! (2002.09.12)』を参照。)を尊んできたのかという、その差が「城(ビル)の明け渡し」劇を生み出したのではないかと、またまた大雑把に推理するのである。

 一般的に口にされる「知識」とは「形式知」のことである。これに対して「経験知(暗黙知)」(できるのに説明できない、わかっているのにうまく言えない、そんな知識のこと)が注目されたのは、端的に言えば、企業活動や組織活動における「創造性」の発揮、イノベーションによるバリューアップ、知的生産性向上などの課題に関して、この「経験知(暗黙知)」を生かすことができないか、そのためにいかに明示化して共有するかなどが着眼されたからである。逆に言えば、「形式知」の操作だけでは望ましい成果が得られにくいとする現状認識があったからなのであろう。
 確かに「形式知」には問題がこびりついているかに思われる。先日も、「『知識』の一人歩き『外出禁止令』でも出せばいい (2003.06.02) 」と書いたが、「知識」はとかくそれを担い操作する主体側の側面が度外視されやすい点がアブナイのだ。
 もともと、「知識」と「情報」との違いは、前者がその担い手である主体との関係を緊張感を伴って保持しているのに対して、後者がその条件に拘束されないことにあったはずである。ところが、この「情報(化)社会」の中にあって、主体との緊張関係が薄れることで「知識」と「情報」の区別はあいまいとなってしまったかに見える。
 「下手な考え休みに似たり。結果(情報)はすべてテレビが教える!」かのような風潮にあれば、主体に根ざす本来の「知識」は「情報」にとって替わられてしまうのであろうか。

 こんなご時世だからこそ、主体(個人、集団)にしか内在しないとされる「経験知(暗黙知)」の存在が輝いてくるのだと思える。そして、そうした主体、たとえば「熟練工」、「伝統技術者」、「伝統芸能者」などが、後継者を作らなければ、「種の絶滅」状態となる現時点の状況は深刻だと考えられるのである。
 また、「経験知(暗黙知)」の共有化という研究の前進は、その逆方向の「知識」の主体化という学習・教育のあり方にも光を投げかけるに違いない。この問題も現在のような「知識」の一人歩き現象が生じているかに見える時期には重要視されてよいと思う。いわゆる「わかる」ということの何であるかが突き止められないうちは、すべての知的活動は上滑りせざるを得ないと考えられるからである。創造性発揮の問題は重要ではあるが、その前提問題でもある「知識」と主体との関係が十分に研究されるべきなのであろう…… (2003.06.06)


 以前、「夜は龍のごとく、朝はネズミのごとし」に生まれついた自分!(2002.08.11) と題して夜更かし型の自分を嘆いたことがあった。ところが、最近はと言えばまったく逆転するようになってしまった。
 ほぼ午後十時には床につき、十時半には就寝している。そして、だいたい六時にはほぼ自然に目覚めるようだ。ただし、四、五ヶ月続いているだけのこの習慣が、何十年も続けて来た習慣を反故にして安定を確保しているとまでは言い切れない。
 仕事の都合などで夜八時、九時とやや遅くまで頭を熱くしていると途端に脳の方が昔へ戻るのかと早合点するようで眠りに入りにくくなる。それだけでなく、睡眠が浅くなり、翌日は一日中集中できないできそこないの一日を作ってしまうことにもなる。

 しかし、睡眠というものは実におかしなものだと思う。良質で深い睡眠は、翌朝以降の自分を、明るく建設的な姿勢の健康優良児にさせてくれるのだが、その逆の、浅くて細切れに起きてしまう劣悪な睡眠は、虚無的でまるで能無しの人間失格者を作り上げてしまう。おまけに、当事者は何とかしなければいけないと悪あがきするものだから、気持ちが不安となったり、孤立感に陥ったりで、生きた心地のしないさんざんな気分となってしまうのだ。ちょっとでも仮眠をとればいいようなものの、そんな時にかぎってうたた寝するつもりにもなれない悪循環にはまり込んでしまうのだ。

 そんなわけで、今堅く守ろうとしていることが二つある。ひとつは、どんな犠牲を払っても、脳に良質な睡眠を確保してやること。
 また、もうひとつは、「リキまない!」ことだ。意識が曇ると、何とかしなければとついリキんでしまう。しかし、それは逆効果のようで、そんな時はジタバタせずにありのままを受け容れなくてはならないようだ。これも結構難しくて、いまさらのように自身の了見の狭さが思い知らされたりする。頭で意志すれば何でもできると自意識過剰で生きてきたのかもしれないが、睡眠不足で頭が不調の際などにはかえって事態をこじらせてしまうかのようだ。
 しばしば耳にすることとして、鬱病となる人は「几帳面な人」が多いらしいが、さもありなんと思う。「几帳面な人」というのは、当人自身の脳が不調であるにもかかわらず、その不調な脳の働きで、脳の不調を直そうという涙ぐましい挑戦を試みるタイプなのだと言えようか。しかも、生兵法な知識をもって、「雨垂れ石をも穿つ」を念じるような精神主義を奉じてのことである。これはよくない。せいぜい、手負いの獣のように穴倉にでもこもって静かにしていた方が良さそうだ。

 良質な睡眠の確保に関しては、いろいろと考えさせられることが多い。先ずもって、こうして考え過ぎることが良くないのである。より正確さを期せば、夜になってもなお考えるという習慣は禁物なのである。早寝早起きの生活習慣こそがベースになければならないのだ。しかし、そこへ持っていくまでがそれはそれで大事業だとは言えよう。
 ある人が言っていたが、人は、目を醒まそうとする意志は通せても、さあ眠ろうとする意志は働かないのだそうだ。つまり、睡眠「業務」というものは「脳政省」の管轄ではないのだそうだ。日頃何かと「脳政省」が牛耳っている、その身体全体を司る「省庁」の合同管轄範囲にあるらしい。それもそのはずなのであり、睡眠とは「脳政省」に「一時的業務停止」を与えるものだからである。
 常々、「オレたちが全省庁を掌握し、支配するのだ!」と息巻いている「脳政省」に期限つきとはいえ「業務停止」処分を執行するのはなかなか難しい。何やかやと言い訳、口実、弁解を弄して、そうした執行を面子をかけて拒否するからである。
 そこで、「各省庁」の合同対策本部は苦肉の策として、自分たちが率先して「業務停止」することを申し合わせてしまってはどうかという結論に達したのである。変な話だが、いわば公務員のゼネストである。こうなれば、「脳政省」としても動きようがなく、あきらめて自主休業に入るはずだとの読みなのである。

 というようなわけで、身体の「各省庁」が率先して「業務停止」するような状態、つまり身体の適度な疲労状態を作り出すことが、睡眠「業務」執行の決め手だということになる。そこで、日中の運動不足解消が必須科目となるのである。起き抜けウォーキングの日課がそれなのだ。また、多少長風呂ぎみな入浴も効果的であることも確認済みとなった。 それから、照明にも気をつけた方が良さそうだ。これまで、夜更かしだった頃には出張でビジネス・ホテルに泊まった際にもいつも、何と照明が暗いではないか、これでは仕事ができないじゃないかと愚痴っていたものだが、それは自分の間違いだったことに気づかされた。安眠に至るには、暗い程度の照明でクール・ダウンしていった方がよさそうだからである。加えて、照度過剰なテレビなんぞは見るのはもってのほかなのである。心和むコンテンツならばまだしも、そんなものは今時あるわけがない。刺激に刺激をまぶしたような内容を、過剰極まりない照度の画像で見つめていては、でしゃばりの「脳政省」は引っ込みがつかなくなるに決まっているのだ。

 まあ、いろいろと安眠に向けた習慣作りに余念がない。ただ、過渡期ということもあるのかもしれないが、日が暮れると安眠に向けた準備作業のスケジュールでなんとなくせわしい気分になってくるのが、果たしてこれでいいのかなあ、という疑問と言えば疑問として引っかかっている…… (2003.06.07)


 「ポイント・カード」っていうやつはわずらわしい。いろいろなショップやガソリンスタンドでの支払い時に、「今キャンペーン中なのですが、カードお作りしましょうか?」とくることがよくある。これまでは、たいてい黙って右手のひらを左右に振って断っていた。何がいやだといって、ただでさえ「自由人」気取りの自分にとって「縛られる」という拘束が御免なのだ。たぶん、「縛られる」ことがイヤなはずのフリーターが全国に四百十七万人もいるとされる時代に、リピーターとして「縛る」こと、顧客を「囲い込む」この制度を拒否する人は少なくないのではないか……
 が、どうも実情は、これを歓迎する人の方が少なくないようである。かく言う自分も、今では自由人としての節操がなくなり、いつの間にかわけのわからない「ポイント・カード」で財布を厚くしてしまっている。カメラ関係、PC関係の買い物が重なるので、この制度の元祖「ヨドバシカメラ」のカードにはじまり、「YAMADA」「NOJIMA」「KITAMURA」「Sofmap」「北里」(いやこれは診察券であった)などが目につく。ほかにも、Drug Storeの「CREATE」、PACHINKO&SLOTの「Jumbo」などというものも財布に紛れ込んでいる。それぞれが銀幕の一角にポイントの数字が刻印されていたり、ハンコが押されてあったりする。

 考えてみるに、この制度は「情報(化)社会」時代の輝ける「落し子」のような気がする。マスメディアを通じて広範囲に商品のディスカウント・データが撒き散らかされる環境にあっては、当然顧客たちは「最安値」をめがけて突進し、なじみの店で買うという穏やかな習性を廃棄するに至る。「浮動票」化するといってもいい。
 そして、各ショップ側は次から次へと業界一の「最安値」を打ち出し続けなければ、安定した集客ができないという地獄に遭遇する。そこで、身を削る苦しい「最安値」連打以外にリピーターが作れる方法はないかと思案した結果、苦し紛れに発案されたのが、この「ポイント・カード」ということなのであろう。これとて、確実に収益を圧迫する方策であるには違いないのだが、意外とリピーター確保に貢献する実情とともに、既得「ポイント」を「雲散霧消」させてチャラにしてくれるありがたいお客様も確実に生じるとなれば、採るべき手だということになるのであろうか。

 この制度の小憎らしいところは、いつの間にか顧客をその気にさせ、場合によっては「一所懸命」(この際、「一生懸命」よりも「一所」のほうがふさわしい!)にさせてしまう心理的仕掛けが弄されている点ではなかろうか。
 確かに、七ポイントだ、十ポイントだかが次期購入時にディスカウントされるという「欲得」心理も十分に刺激されるには違いない。だがそれにも増して、あるポイント数が貯まると、「抽選」権利なり、「豪華」商品なりのサムシングが与えられるという鼻先の人参ふうの仕掛けが、意外と奏効しているように思われる。
 振り返れば、「情報(化)社会」の中で何百万、何千万人のうちの一人としておとなしく埋没させられている庶民にとって、また、激しい変化に伴う「指針なき不安」に溺れる一庶民にとっては、「何か手ごたえのある取っ掛かり!」というものが実に少ない。マジににらめる数字、気にできる数字は皆無といってもいい。給料なんて上がるわけもないし、子どもの成績も楽しみにできる種類のものではない。もちろん、「日経平均株価」なんぞ関係ない。せいぜい、涙ぐましい家計簿の数字か、このところ注意を要すると言われた自分の血圧や血糖値の数字くらいのものかもしれない。

 そこに颯爽(さっそう)として登場するのが「ポイント・カード」である。とにかくわかりやすい。そして、今の社会に横行している不透明さもなく、不公平さもない。千円買えば確実に一個のハンコというその公明正大さが限りない信頼感を刺激する。また、自分に関する実績と業績が一目瞭然なのだ。自分探しなんぞに紛れ込む余地がない。このあとどうすればどうなるという不動の理屈が、小さなカードながら疑う余地なく明示されている。昔の夏休みのラジオ体操の増え続けるハンコの思い出が脳裏をよぎったりするのもまた信頼感増幅につながったりする。
 こう考えると「ポイント・カード」は、「情報(化)社会」という荒れ狂ったボーダレスの大海の波間で、行方知れずに頼りなく漂う庶民に、ささやかながら「目標感覚」「やりがい感覚」を単刀直入に指し示す庶民宗教の教祖のように見えないでもない…… (2003.06.08)


 内政(経済)の失策を外交で「逸らす!」小泉首相は、「情報(化)社会」時代にふさわしい政治家だと言える。聞くところによれば、中曽根元首相でさえ「小泉クンはついている。支持率が下がると拉致問題だ、イラク問題だと外交問題で生き延びられるのだから……」と言ったとか言わないとからしい。
 確かに、国民生活にとって最大課題である経済問題を丸投げにして、年金制度や消費税にからむ財政問題も成り行きまかせ、おまけにこれまでの自民党でさえ手をつけられなかった有事法制化や自衛隊法の改変まで(憲法改悪までもう一歩だ)事もなげに推し進めていられるのは、みな国際問題のお陰さまと言うべきだろう。
 しかし、古い手といえば古い手に違いない。大名たちの関心を海外へと逸らす秀吉の「朝鮮出兵」政策と変わらないからだ。常に権力者たちというものは、被支配者たちが覚醒して一丸となることを恐れ、被支配者たちの関心があらぬ方向に向いていることをよしとしてきた。どうも現首相とその周辺の手口はそれをにおわせる。そして、その周辺の中には、マスメディアも連座していると言うべきなのだろう。北朝鮮の拉致問題、核問題、万景峰(マンギョンボン)問題など、恰好の「国民関心事」をいかんなく流し続けているからだ。北朝鮮側のやり口や反応は確かに常軌を逸しているとしか言いようがないが、そんな事実を手を替え品を替え報じて国民の不安感だけを煽ることにどんな意味があるというのか。まさに、有事法制化の伴奏曲でしかなかったと言うべきだろう。

 「関心を逸らす!」という古くて新しい「手口」を、この「情報(化)社会」の時代には、再度注目することが必要なようだ。バカ正直でかわいい御仁は、口論になればとことん当該の紛争事に拘泥し、喰らいついて放そうとしないものだ。ところが、小利口な輩は、自分が形勢不利となれば必ずといっていいほど相手の「関心を逸らす!」手口に及ぶものである。そして、問題をすり替えて急場をしのごうとする。
 「情報(化)社会」は、一見、当該情報への人々の関心を引き寄せる機能が飛び交う社会のようであるが、それは素人考えでさえあるのかもしれない。むしろ、情報を駆使してコアな問題から目を逸らさせる、関心を逸らさせることに主眼があると言ってもいい。商品コマーシャルにしても、その商品の実質的本体から、今売れているとか、これを持つ人は優雅な人だとか、要するに副次的というか直接関係のないイメージによって関心を逸らさせていると言えまいか。もはや、CF[commercial film]タレントと商品との関係に疑義をさし挟む野暮な人はいなくなったが、一体、当該商品とどんな関係があるというのだろう。平たく言えば、忍者の「目くらまし」以外の何ものでもない。

 ところで、「情報(化)社会」とは、言ってみれば端(はな)から人々の「関心を逸らす!」ことを貫徹して行く構造を持っている、というべきなのかもしれない。というのも、しばしば主張されるところの、情報が多過ぎて情報の洪水のただ中で人々は「情報アパシー(無気力、無関心)」となる、という側面があるからだ。多くの情報は、一見選択肢の豊かさから充実した思考と判断を誘うようでもあるが、実は迷いと煩わしさだけを誘い、逆に情報からの逃避の姿勢を促すことになりかねない。これこそ、人々の「関心を逸らす!」ことではないのかと思える。
 また、「耳タコ」効果という面もばかにならないだろう。たとえば、あの、不良銀行への「公的資金注入」にしても、長期にわたって耳にさせられてきた国民は、当初の強固な反対意思表示をどんどんと低減させているとのことなのである。何気なく頻繁に聞き流している言葉に対しては、次第に事の本質から目が逸らされて抵抗感が失せていくというメカニズムがあるのかもしれない。

 本格的な「情報(化)社会」と呼ばれるようになってますます社会も国家もおかしくなったと見えるその不思議を、いろいろと詮索しているわけなのだが、国民がバカになったのだとは思っていても口には出せない。すると、考えることの「手抜き!」を推定する以外に道はないのだが、そのひとつとして挙げられるのが「関心が逸らされる!」という構造なのである。以上のほかにも、私的生活に「関心が逸らされる!」、他人との比較・競争に「関心が逸らされる!」」、ハイテクなど技術主義に「関心が逸らされる!」などなど気になる事象が絶えない。すべての肝心なことから「関心が逸らされている!」自分自身にしっかりと関心を向けてみなければならないような気がしている…… (2003.06.09)


 NYダウが9000ドルという水準も実勢経済にそぐわないように感じ続けてきたが、それよりも解せないのが日本株の日経平均水準が8800円という高値であった。
 こうした「錯綜した情報」が「情報(化)社会」のひとつのワナのように思えてならない。ただ、意図的な「情報操作」ではなく、それなりの実勢があってのことのようである。新聞(朝日新聞 2003.06.10)もようやく「異常事態」だとの警告的記事を出したが、そうでなければならない。どうも、カラクリは次のごとくだそうだ。
「今回の株価上昇の要因が、日本経済の先行き期待感からではなく、欧米での利下げ観測の要因が大きいためだ。世界的な低金利から欧米の株式市場に資金が流入。欧米の機関投資家がリスク分散のために、割安感のある日本株を買い戻しているという構図だ」(同上)
 しかし、背景はどうあっても、株価水準=景気と短絡して株価に注目してきた者たちにとって、少なからぬ影響を与えることは間違いなかろう。ただでさえ、外部依存癖の強い日本人にとって、無策でも景気は回復するというまたぞろの思い込みをもたらすかもしれない雰囲気はいいことではないと思える。

 株価や景気に直接的な関心があるわけではない。意図的であるかないかは別にして、実態とはかけ離れた情報が流布することの危険を問題視したいのである。昨日書いた「関心が逸らされる!」という「情報(化)社会」の一特徴も、同種の問題であった。
 「情報(化)社会」では、文字通りのリアリティと「バーチャル・リアリティ」とが交錯し、「バーチャル・リアリティ」の方が「ハイパー・リアリティ」を持つとされる現象さえ生じていることは常識化さえしている。そんな環境では、人々の判断や行動の指針となるはずの情報の真偽が注意深く観察されるべきだし、どのようにして紛らわしい情報が発生したのかについても注意を向けられていいだろう。

 今回の「異常」株価水準のカラクリは、結局「グローバリズム」のなせる業だと言えるのではないか。グローバルに蠢くマネーが、足元の環境との相対的関係でジャパンに流れ込んできたのだ。日本株が絶対評価されたわけではないことを踏まえるならば、それらのマネーは追っつけ旅人のように立ち去ると考えるのが妥当なのであろう。
 それはともかく、「グローバリズム」に彩られた現代の「情報(化)社会」では、情報がボーダレスに飛び交い、ヒト・モノ・カネの移動の露払いをする。情報は、決して入り込む先々の個別事情などを斟酌しない。いや、市場を狙うビジネスにあっては、現地の環境に見合うようなカスタマイズ、たとえば「日本語化」とか、特有文化に近づけるためのアレンジなども施されたりするのであろうが、概ね単刀直入な侵入というケースが一般的だと見える。
 ここに、情報がもたらす予想外の影響力とリスクが伴うわけだ。それらの中には、当然のごとくミスリード[mislead]や誤解があったとしても不思議ではないだろう。いや、むしろそれらが起こる確率の方が高いとさえ言えるのではなかろうか。それというのも、まったく文化環境の異なるエリアに唐突に異文化の情報が流通すれば、まともに受け容れられることの方がむしろ不思議だと言わなければならないからである。

 概して言えば、「グローバリズム」への対応として日本はあまりにも表面的でかつ安直であるように見えてならない。元来、言葉というものは生活習慣や、さらには人が生きる上での信念をも託す、言ってみれば「肌着」のようなものでもあるのかも知れない。それほどに人の生き方と密着しているという意味である。
 それを、アルファベットをカタカナに替えればものにしたかのような錯覚に陥っているわれわれは、能天気な存在以外の何ものでもないのではないか。いや、それで自身の存在感が得られるのであればそれはそれでいいわけだが、決してそうではないと見えてならない。海水を飲むように、飲めば飲むほどに喉が渇き、渇きの地獄にもだえ苦しんでいる者たちが、グローバリズム化された「情報(化)社会」の観客たちなのかもしれない、とふっと思ったりする…… (2003.06.10)


 すべてが「壊れた」という漠然とした寂しさを感じさせるこの時代、もはや忘れかかっていた輝く人間性を見せられる思いがした。
 すでに伝えられていたソニー元会長・社長を歴任した大賀氏が退職慰労金手取り分16億円を辞退という話が、長野県は軽井沢町に音楽ホールを寄贈するという話に実ったという新聞記事(朝日新聞 2003.06.11)である。もとより音楽家であり、芸術に造詣の深い同氏ならではの素晴らしい対処だと思えた。日本の古き良き時代の話に触れたように思えた。「子どももいないことだし……」と言われたそうだが、同氏の「お金に対する正しい感覚!」が、人間性の深さを推測させずにはおかない。

 それにしても、一々列挙し難いほどに日常茶飯事となりはててしまった現代の「欲ボケ人でなし」所業は、真っ当に生きようとする大人、子どもたちを窒息寸前にまで追い込んでいるようだ。力なき大衆の一部が仕出かす破れかぶれ的な犯罪も度外視はできない時代となってしまったが、何と言っても力を隠れ蓑にして悪逆非道、極悪無道(どっちにしても道を壊していることに変わりはない!)を働く連中が許し難い。
 政治家や高級官僚たちが、いくつもの行政法人、特殊法人の退職を「はしご」して、濡れ手で粟の高額退職金を持ち去る現実はパーフェクトな不具合だ。公共投資案件を私的に裁量して見返りにあつかましく収賄する政治家たちの卑しい根性は、できれば製造物責任法抵触のかどで神を訴えたいほどだ。あたかも国民の公共財産を、私的利権奪取向けの「草刈り場」として狙っているかのような輩たちが、この日本をいつまでも腐敗堕落列島から立ち直らせないでいるに違いない。

 ちょっと無理がないわけでもないが、こんな話があったとしよう。これまで先代が采配していた時分には村一番の豊作農園だと評判の高かったりんご農園の収穫が、息子の代に替わってめっきりと衰えてしまったという話だ。息子をはじめとして農園の従事者たちは、やれ害虫のせいではないか、土質の劣化ではないか、遺伝子組み換えの苗に植えなおすべきだ、大学研究室の教授にアドバイスをもらってはどうかなど若い世代にふさわしく技術面にばかり関心を向けた。が、どの方策をあてがっても事態は改善されなかった。そんな推移を、ネコの背をなでながら見つめていた先代が、ある時息子を呼んで言ったものだった。
「先端の農業技術のことはおまえの方が詳しい。しかし、おまえは人の心を知らな過ぎるようじゃな。今夜一晩、農園で頭を冷やすがよいじゃろう」と。
 何のことかわからず、息子は農園の真中で夜を徹することにした。すると、早起き鶏が鳴き始めた夜明け前、何人もの盗人が手に手にかごをもって見栄えがし始めたりんごのみをもいでいたのだ。あわてふためいた息子がその一人を捕まえてみると、何と以前この農園を追われるように出て行った弟の仲間たちであった……

 現在の日本の経済をはじめとするさまざまな分野での惨憺たる状況は、確かに古い発想に起因している問題もあり、新しい発想と技術の導入により改善されなければならない場合もあろう。しかし、その前に一掃しなければならないのは、癌のような病に蝕まれていることを知る必要がありそうだ。人為的な悪行の一掃である。それは、政治家、官僚たちの厚顔な巨悪であり、仁義もなくなった暴力団の暗躍などである。特に、前者は時折しっぽが掴まれたりもしているが、後者についてはマスコミも腰を引く嫌いがありそのネガティブ・パワーは国民の目に曝されることが少ない。
 しかし、今日の不況と同一視さえされる不良債権問題にしても、暴力団の影が色濃く染まっていることは知る人ぞ知るところだ。総会屋問題に見られるような大企業とのグレーな癒着も地下空間で継続しているとも言われる。また、この混乱に乗じて消費者金融業や覚せい剤流しなどで巨利をむさぼってもいる。保守政党と彼らとのつながりは時折陽の目を見るが、遠くて近いは男女の仲と同等と見る向きもある。日本経済のマフィア化を憂える人もいないわけではないようだ。

 もはや死語の雰囲気さえ伴うようになってしまった「構造改革」が、まずは着手すべきであったのはこうした巨悪を叩くことであったはずだ。小手先の技術論に奔走し、古くて新しい問題から「関心を逸らさせている!」のは、「新しい酒を古い革袋に入れる」〔マタイ福音書九章〕の愚をしていることにほかならない。
 しかし、それにしてもマスメディアの役割は大きく、実情の機能は無責任に過ぎる…… (2003.06.11)


 人がなぜ生きられるかといえば、「自分だけは……」という思い込みが可能だからだ、と言えば皮肉に過ぎるだろうか。自分だけはそんなアクシデントには遭遇しないとか、理不尽な不幸には陥らないとか、さらに欲張りな人は自分だけは最後の最後に宝くじが当たるなどのラッキーが掴める、とかで自分に対する贔屓(ひいき)目が少なくない習性そのものが人を生かしているのかもしれない。利己主義ほどの凄みがあるわけではなく、どちらかといえば「ジコチュー」に近く、「ジコチュー・マイルド」とでも言うか。それを支えているのは、一寸先は未知でしかないという将来の不確実性なのだろうか。
 それが悪いというわけではない。むしろそうだからこそ生きられるのが人間なのかと思うのである。「そんなことはない、自分は、『自分だけは』そんな独りよがりはしない!」と、多くの人が、言ってるそばからの自己矛盾を曝け出すに違いないと思われる。だがそれはそれでいいのかも知れない。そうでなくては、自己を苛むごとき比較情報が過剰に溢れ、多くの事柄に予測可能性が追求されている「情報(化)社会」にあっては、心安らかに生きてはいけないであろう。

 自分自身も、何ほどかの「自分だけは」主義者だと自認せざるを得ないでいる。「エリートになろう!」とリキんだ若い頃もないではなかったが、リアルな現実から「まあまあまあ……」と肩を叩かれながら、荒い鼻息は沈静化させられてきたものである。今ではすっかり何の変哲もない一庶民を自認するようになった。
 だが、それでもなお心の底、ハラの底を覗き込むとその片鱗、といっても「選ばれしもの」なんていう若気の至りゆえのかけらなんぞではなく、自分は自分といった自意識が、横着にも居座っているのを発見したりする。
 いや、そんな自己分析をしようとして書き出したのではなかった。「自分だけは」主義者と、「情報(化)社会」との関係をこそ吟味してみたいと思ったのである。

 昨今では、TVが茶の間に登場した昭和三十年代の頃のように、家族が揃ってTVを鑑賞するといった場面を思い描くことは難しくなった。確かに、家族の皆が揃うかもしれない朝食時、夕食時にTVがかかっていることもあるにはあるだろう。しかし、それは朝なら時計代わりであったり、あるいはBGM代わりであったりするだけのことで、皆が真剣に見ているのではない。もっとも、そもそも食事に皆が揃うこと自体が難しい時代だと言った方がいいのかもしれない。
 つまり、どういうことかと言えば、もはやTVもパーソナルTVの時代であり、たった独りでTVを見るケースが一般化してきたということだ。この点は、電話についても、一台の卓上電話を家族の皆の耳を気にしながらかけるのではなく、独りになってケータイを使うことが多くなった時代環境と符合している。
 たぶんこの変化が「情報(化)社会」の必然なのだと思われる。なぜならば、IT機器が廉価になったからというよりも、情報は受け手の差異に従って個別化、細分化されていくものであり、当然受け手もより自在にそれらにアプローチしたいがために個人ユースのIT機器を求めるからであろう。

 ここから、「情報(化)社会」にあっては「メディアからの情報」対「孤立した個人」という図式光景が一般的ではないのかと想像される。なおかつ、メディア情報に接する場合だけが「独り!」なのであって、それ以外の時間帯はコミュニケーション豊かな対人関係の中にある、という状況でもなさそうである。もともとが「独り!」と言っていいような孤立環境が、同時にこの「情報(化)社会」の特徴でもありそうではないか。現にケータイは、孤立感を消さんがため、知人・友人とつながっている感触を得るために使われている形跡が濃厚なのである。
 ところで、かつてはマス・メディアからの情報は、個人がストレートに受容するのではなしに、家族や仲間うちのリーダー、たとえば父親や近所の物知りなど(「オピニオン・リーダー」)の影響下で、いわばその「フィルター」を通して情報を受け容れていたと言われている。たとえ、マス・メディアが「一方通行的」な偏った情報を流したとしても、受け手側がその偏りを是正する「装置」が存在したことを示す例であったわけだ。
 しかし、現代の環境ではそうした「オピニオン・リーダー」の存在も希薄となり、マス・メディアやIT機器の前に立つ個人は、飛び出してくる情報に対して孤立無援の個人として立ち向かっているのかもしれない。
 しかも、TVのワイドショーやトーク番組では、かつてはブラウン管のこちら側で一緒に見て意見を述べていたような親しみやすく信頼感も持てそうな「オピニオン・リーダー」的存在が、送り手側の画面の中で語っているのである。これは、ある意味で受け手側の身の回りに「オピニオン・リーダー」的存在がいなくなったことを見透かした「老婆心」であるとともに、受け手をある方向へ誘導する「お為ごかし」だとも言えないわけではない。
 たとえばワイドショーを見ていたとして、受け手個人は、極端な見解を述べるタレントには反感を持ったとしても、こうした番組の舞台設定自体がおかしいとまで自立的に踏み込んだ視野は持てないだろう。いつの間にか、登場するタレントたちの発言が視野、選択肢のすべてなのだと錯覚してしまいがちではなかろうか。何せ、ブラウン管の中は多勢で騒ぎ、こちとら一匹である。多勢に無勢の勝負である。弱気の疑問などはすっ飛んでしまいがちだ。そして、こんなことが続けば、どうしたって「純ちゃんにもう少しがんばってもらうしかないのかな」と、ワケのわからない結論に落ち着いてしまうのではなかろうか。

 で、「自分だけは」主義者の話に戻したいが、実はこの手合いは決して独立独歩、唯我独尊、独りさみしくもの凄く、なんぞでは全然なさそうである。むしろ何の根拠もなく「自分だけは」と思い込んでいる人にかぎって逆に「敵の思うツボ」にはまってゆくものらしい。「敵」は、今日の環境で最も多いかもしれない「自分だけは」主義者に、しっかりと照準を定めている気配さえないでもないからだ。
 もともと、そんなものが存在するわけもない「個性」という幻想を振りまいたのが商業主義のマス・メディアではなかったか。そして、それは増加の一途をたどる「自分だけは」主義者の存在を知った上での仕掛けであったに違いないと思う。「個性派が求める……」「あなただけの……」「みなが振り向く個性的な……」などが個性だと思って引っかかってゆくのは、皆、「自分だけは」主義者なのであり、街で同じ姿の他人に出会ったりするとまだまだ修行不足に違いないと思い、ますます底が見えている浅瀬という深みにはまっていく。

 「情報(化)社会」と個人の孤立環境と、そして人知れず増加する「自分だけは」主義者たちが、あいまって理解しにくい社会現象を作り出しているのではなかろうか。近々、全国民が一同に会する場を設ける必要がある。そんなこと無理か…… (2003.06.12)


 能天気な政府が、イラクに自衛隊を派遣しようとする「イラク新法」にご執心かと思えば、膝元の自民党内部では慎重論も続出してゴタゴタが続いているようだ。それもそうだろう、現状のイラクでは散発的に手榴弾が炸裂して米兵たちが死亡したりしている。既に現地から反感を買っている日本なら、その自衛隊が逆恨みされたとしても不思議ではなかろう。「後方支援」に限定というのん気な表現がどこまで現地では通用するのだろう。米軍司令官も「軍事的には全土が戦闘地域で、しばらくその状態は続く」と語ったといわれている。
 また、イラク戦争の口実とされた「大量破壊兵器」の存在をめぐって米国国内でもさまざまな議論が噴出してきたという。今日も、次のような記事が報じられた。
「ブッシュ米大統領が1月の一般教書演説で引用した『イラクのウラン購入疑惑』について、米中央情報局(CIA)が昨年、事実無根であることを突き止めていながら、ほぼ1年間も隠していたことが分かった。12日付の米ワシントン・ポスト紙が、米政府高官らの話として報じた。」(朝日新聞 2003.06.13)

 日米の権力層は、事実の重みの分別もつかず、もちろん思想などありようもなく、ただただ「急ぎ働き!」(鬼平犯科帳!)に突っ込んでいるように見える。よほど事を急がなければ誰かから邪魔をされかねないとさえ踏んでいるかのようだ。「急ぎ働き!」で成し遂げようとしていることは、一言で言えば、大多数の人々を「置き去り」にして、一部権力者層が揺ぎない立場を確保してしまう「超格差」社会であり、世界なのであろう。
 ただ、こうしたとんでもない推移がありながら、まるで「金縛り(かなしばり)」(「カネしばり」と読んでも差し支えない。経済だけに目が向いた人々が多いのだから……)にあったかのように身動きしない、できないわれわれ庶民側もどうしたことなのかと訝しく思ったりする。

 「置き去り」という言葉は、村上 龍『置き去りにされる人びと―すべての男は消耗品である。〈Vol.7〉』(KKベストセラーズ)から得た。その「出版社/著者からの内容紹介」は次のように述べている。
「『取り残されたと感じる人々の怒りが 世界に、そして日本に充ちている。』
作家・村上龍の代表作である好評エッセイ・シリーズ第7弾!
9・11、イラク戦争、北朝鮮、底なしの不況……。いまや『格差』はますます拡がり、『均一な日本人』など、どこにもいない。世界の枠組みが大きく変わっている今、変化をどう捉え、『わたし』をどう生き抜くのかが問われている。 逃げ切るのか、取り残されるのか、それとも? テロと戦争、不況と不安と格差の時代に、村上龍が放つ直球・曲球・剛速球! 最新エッセイ26連発!」と。

 ちなみに章立ては次の通りだそうだ。

●勝ち組と負け組という嘘
●富の再配分ができなくなった権力は滅ぶ
●日本、日本人という主語の限界
●個性化を強制するという矛盾
●改革の痛みは全国民均一ではない
●特殊法人の社員は底抜けに明るい
●テロと戦う…、でも、どうやって?
●パシュトゥーン人は道を譲らない
●戦争報道で試される想像力
●もう小説を書かなくても済むという思い
●カルザイが象徴するもの
●どうでもいいゆとり教育
●昔は決して良い時代ではなかった
●宮本武蔵に学ぶことなど何もない
●五十歳にもなって尊敬されない人は辛いという真実
●今、元気がいいのはバカだけだ
●趣味からは何も生まれない
●日本経済なんかどうでもいいという態度
●純朴な日本外交
●北朝鮮とチョコレート
●恵まれていない作家としてのわたし
●金正日以外に交渉相手はいないのか?
●客観的事実・又聞きの情報・個人の意見
●国家とは何かという憂鬱な問い
●すべてをわかっている人はいない
●置き去りにされる人びと

 買って読んだわけではないが、「すべての男は消耗品」シリーズの一部を読んだことがある者にとっては、章立てを見ただけで何となく「同感だなあ〜」という気がしてくる。特に共感を覚える言辞としては、「富の再配分ができなくなった権力」「個性化を強制するという矛盾」「改革の痛みは全国民均一ではない」「特殊法人の社員は底抜けに明るい」「テロと戦う…、でも、どうやって?」「戦争報道で試される想像力」「どうでもいいゆとり教育」「宮本武蔵に学ぶことなど何もない」「今、元気がいいのはバカだけだ」「趣味からは何も生まれない」「日本経済なんかどうでもいいという態度」「純朴な日本外交」「客観的事実・又聞きの情報・個人の意見」「国家とは何かという憂鬱な問い」「すべてをわかっている人はいない」「置き去りにされる人びと」となる。まあ、ほとんどすべてとなってしまった。
 マジにこの現実を見つめれていれば、自然に口に出る言葉ばかりだと思えた。要するに「富の再配分ができなくなった権力」が、「矛盾」だらけのことを「日本経済なんかどうでもいいという態度」で「急ぎ働き」し、一方で「特殊法人」などの特権解放区を保護育成しながら、大量の「置き去りにされる人びと」を生み出している素晴らしい国、日本! ということであろう。そして、「今、元気がいいのはバカだけだ」のバカたちが、日章旗を掲げて行進しているということになる。いつの間にか、何とも吐き気のする時代となってしまったことだ…… (2003.06.13)


 今年は、境川に生息するマガモたちのちょっとしたベビーブームのようだ。ニ、三日前にも雛が二羽という新たな親子を見つけた。また、今朝は七、八羽の雛を引き連れた親子たちとも遭遇した。しかも、そのうちの迷子になった二羽を助けることまでしてしまったのである。
 いつもどおりのウォーキング中に、前方を中年夫婦の歩いているのが目に入った。と、その時、ご主人の方は何かを追いかけでもするように速足となり始める。その後を奥さんが歩いていて、
「あなたになんかつかまりはしないわよ」
などと声をかけていた。ご主人の足元の前方に目をやると、スズメのような小鳥が二羽、ちょこちょこと逃げて行く。良く見ると、それはスズメではなく、どうもマガモの雛のようなのだ。
「何で、こんな道にいるんですかね」
と言ったそのご主人の言葉で、まぎれもなくマガモの「はぐれ」雛だと了解できた。
「こっち側はまかせてください」
と、わたしはそのご主人に声をかけ、二人ではさみ込んで雛たちの捕り物をすることになった。今朝はいやに暑かったし、こんな遊歩道で雛たちがちょろちょろしているのは誰の目から見ても危険だと思えただろう。そして、川に戻してやるのが妥当だと誰もが考えたに違いない。
 ところが、小さな雛たちを見くびっていたことになってしまった。大の男二人が両手を広げて追いつめたものの、ものの見事にその包囲網を破られ、二羽ともが川のフェンスに沿って植えられた背丈の低い植木の中に逃げ込んでしまったのである。そのままでは、われわれがいなくなるとまたアスファルトの道の方へ出てくるに違いないと思われた。この道は、ウォーキングの足だけでなく、通勤通学の自転車も結構なスピードで往来している。引き殺されてしまう心配が十分あった。
 そこで、再び二手に分かれて追いつめ、捕まえることになった。しかし、何ともすばしっこい連中で容易には捕まらない。そのうち、ウォーキングのウォーカーたちが「何だ、何だ」と足を止めちょっとした人だかりとなってしまった。
「あっ、飛び込んだ」
という声がしたので目をやると、どうも一羽がフェンスの下から川へ飛び込んだというか、転がり落ちたというか、どちらかと言えば後者が似つかわしい状態で、三メートルほどはある急な護岸壁を「転がって」川にポチャリと着水していた。
 その時、川面でマガモの親鳥と他の数羽の雛たちが、行ったり来たりしているのがわかった。まるで迷子の雛を捜すかのように水面を「捜索」している気配だ。着水した雛は、特に異常はなかったようで、その群れをめがけて一目散に水面を滑って行くのだった。
 とりあえず半分の重荷は降りたわけだ。が、さて、もう一羽が捕まらない。すると、ウォーカーの一人のよその奥さんが、
「あっ、その枝が動いてる」
と植木の茂みの下を指さすのだった。どれどれというふうに、他の枝を掻き分けてみると、突然の捕り物騒ぎに怯えたのか、心細そうな格好で小枝に挟まった雛がようやく見つかった。用心しながら手にした。問題はなさそうだった。
 しかし、一瞬どのようにして川に戻してやるかに迷う。水面までは三メートルほどはあるからだ。しかし、迷っている暇はなさそうであった。それというのも、さっきのマガモ親子たちが、迷子の子が見つかったと早合点して、さっさとその場を立ち去ろうとしていたからである。わたしは、フェンスから乗り出して、石などが無い川面に落下させることにした。先ほど落下した雛も問題なかったことを思い出していた。
 ポチャリと着水した雛は、何を考えてか草が生い茂る対岸へ向かって泳ぎ始めている。しかも、途中から潜水で泳ぎ、しばらくして岸に這い上がって行った。その様子は、とにかくとんでもないパニックから逃げるのが先だという本能的な動きのように見えたものだった。だがわれわれには、親鳥や、仲間たちとすぐにいっしょになれるのかどうかの心配が残ることとなってしまった。

 別に急ぐウォーキングではなかったのだが、いつまでも見守っていてもしょうがないので、わたしはその場を離れ、残りのルートへと向かった。
 しかし、なぜ、あんなところに雛たちがいたのかという解せない気分が消えないでいた。まさか、遊歩道の脇の植木の中で孵化したということではなかろうと考えていた。そして、雛たちがみな三メートルもある護岸壁を転がって着水したとは考えられないとも思えた。ことによると、遊歩道からもっと離れた畑の中という事情なら考えられないわけではないなあと想像していた。
 一時の間、わたしの手のひらの中で一瞥させた雛の顔が愛しく思い起こされた。スズメのような小さな頭、小さな目であった。しかし、くちばしだけは丸く平たい格好でマガモの特徴を顕示していた。そんなあどけない顔を、歩きながら思い浮かべていた…… (2003.06.14)


 当初のウォーキング時には、歩くこと自体がそこそこ大変であった。疲れてくる足を意識したり、呼吸の乱れに気づかったりもした。だが最近はそれらをほとんど意識しない。それどころか、今では両手に二キロづつのダンベルを握り、両腕、両肩に「負荷」をかけて歩いている。下半身の筋肉化はほぼ達成できたのだが、めっきり上半身の筋肉が落ちて基礎代謝量が縮小したような心配から、そんな「負荷」をかけ始めたのだった。最初は1キロづつから始め、慣らしてから二キロにアップした。どうやら肩の筋肉が引き締まってきたようである。

 そんな「負荷」も加えながらのウォーキングなので汗の出かたは尋常ではない。ウインド・ブレーカーふうの上着の下に、ランニング・シャツと長袖の前ボタンシャツを着込むが、それらはいつも汗で水をかぶったような濡れ具合となってしまう。
 そこで、水分補給を効果的に行なわないと疲れを残すことになってしまうわけだ。もう一週間くらい続いているだろうか、コースの終盤、自宅の百メートルほど手前の自販機で「健康飲料水」500mlを補給することにしている。
 ちょうど、そのタバコ屋の自販機の前には、一休みするに適した観音堂があるのだ。春には境内が十本ほどの桜の満開で別世界となったり、夏には盆踊り、秋には祭の屋台が埋め尽くすそんな観音堂なのである。

 早朝の観音堂の境内は人っ子一人見かけない静寂が支配している。古い桜の大木の枝には大きな葉が生い茂って、時折り野鳥がもぐりこんでゆく。野鳥の鳴き声だけが境内に響き、静けさが十分に堪能できる。
 わたしはといえば、観音堂正面の縁に腰掛け、二段ある階段に足を置く。観音堂は幅四間ほどで、小さくはないがさほど大きいともいえない手頃な大きさの建物だ。正面を含む三面に廊下のように回る縁が設えてある。
 正面の縁に腰掛けると、前方には入口に向かった石畳が延び、左前方は桜の古木に囲まれた境内が広がっている。また、右手には町内会の集会所があり、この観音堂が町内会によって管理されていることを知らされる。

 腰掛けるが早いか、わたしは顔の汗をポケットのタオルで拭い、「健康飲料水・アクウェリアス」の口をプチッと開け、燃える喉に冷水を流し込む。で一息ついたところで、タバコに火をつけ、桜の枝から聞こえてくる野鳥の声なんぞを聞きながら「至福」の一時を味わう。
 確かにその気分は、「至福」と言って間違いない。いや、あえてそう表現したいと思ったりした。これは、何かのための手段なんかではない。この一時自体が目的そのものなのであって、今日一日の活動のための休息とかというものなんかではない。考え直せば、ウォーキングにしたって、健康増進という大義名分を見出すことはできるが、それ自体が十分に目的となりうる手ごたえのある時間ではないか。そうなんだ、何かのためという意識を先行させて時間を経過させるのではなく、今、これが自分にとっての貴重な時間だと感じるべきなのだろう、とそんな「哲学」に思いを寄せたりしていた。

 立ち上がって、堂の脇に置いてある丸い大きなくずかごに向かった。手にした空き缶を投げ入れた。すでに、この一週間ほど同じことをしているので、そのくずかごの中にはアルミの青い空き缶ばかりが数個たまっていた。この調子で、「アクウェリアス」の青い空き缶でこのくずかごは溢れてしまうのはいかがなものかと、幾分恐縮し、気にしながら帰途に向かうのだった…… (2003.06.15)


 最近は、テレビでもラジオでもニュースにはできるだけ接触しないようにしている。政治理念もなく、緊迫感もなく、ただただ見当違いの政権しがみつきと政権抗争だけに明け暮れ、そんなもの放っておけばいいものを「床の間」のような位置付けで放送されるのが不快でかつバカバカしく思えてならないからだ。北朝鮮のテレビニュースを笑うものは多いが、NHKニュースとてさほど水準に違いはないと思える。五十歩百歩の違いでしかないとあえて挑発したい気がする。
 「事実」を伝えるべきなのだ。「事実」とは何かという問いは厄介といえば厄介だ。しかしNHKニュースのごとき、ドライフラワーのようなNHK語を重ねた無味乾燥なメッセージが「事実」を伝えているものとは思えない。「公正中立」「不偏不党」を建前としながら、一途に人間から離れてしまい、人間的「事実」から遠のいてしまっているようだ。人間の頭脳と心に届くコミュニケーション姿勢でニュース内容を編集すべきである。

 現に、とことんおかしくなっているこの日本を哀しく憂えている人々の誰が一体NHKニュースに好感を抱いているか。いや、ニュースにそんなことを期待してもらっても困ると言うかもしれない。あくまでも「ニュースとは『事実』を淡々と伝えるものだから……」と役人答弁を繰り返すに違いない。しかしである。いま時、「事実」は淡々と語れるものであるのだろうか。とっくにその限界が曝け出されたはずの写実主義やリアリズムが可能だとでも言うのだろうか。どんな角度、どんな視点、どんな冷静さで眺めれば「事実」は口を割り、真の姿を披露するとでも言うのだろうか。冗談はよしたまえ。その姿勢は、誰からも相手にされない「空文」を振りまくことにしか至っていないではないか。いや、それだけならまだ我慢できよう。大事な時間を使って振りまかれる「空文」だったら、素直な一般庶民は大事なことだと勘違いするではないか。そこに人名、保守政治家たちの名が登場すれば、何だか偉い人々であるかのような受けとめ方になってしまうではないか。「空文」の報道をもって、先入観を増幅させてはいけない。「不偏不党」の建前はどこへいったのだ。と、リキみたい。

 要するに、NHKには現代における「事実」へのアプローチという問題をもっと真面目に考え直してもらいたい。いや、そんなことは百も承知なのかもしれない。ただ、じゃあどうすればいいのかがわからないだけのことかもしれない。だから、旧態依然とした「公正中立」「不偏不党」の写実主義やリアリズムがあるはずだと無理やりに信じ込もうとしているのではないのか。「王様は裸だ!」と言えない袋小路に紛れ込んでしまったのではないのか。
 いままでならばそんな「化石」的な姿勢でも何とかやり過ごせたであろうが、これからは難しいのではないか。確かに、競争相手の民放もバカだし、政府の後押しもあったりして、そして中にはまずまず馴染める番組もないわけではないから、放送局が破局と名前を替えることにはならないかもしれない。
 それにしても、庶民、国民から離反していくことへの危機感を深める必要があるようには見える。大胆に言ってしまえば、「公正中立」「不偏不党」という立場の理解、認識が、「足してニで割る!」という安直な水準に留まっていることに問題がありそうだと感じている。年末の「紅白歌合戦」にせよ、「大河ドラマ」にせよ、「朝連」にせよ、コンテンツの斬新さや気迫で勝負しようとはせずに、幅広い年代の人気タレント総出演によって、ごみ集めのように視聴率を稼ごうとする「ちまちましさ」が何よりもそれを象徴しているかに見えるのである。

 まあ余計なことまで書いてしまったが、いま最も関心があるのは、ニュース報道において、何を国民に伝えるべき「事実」として選択し、どう「事実」としての重みを確保するのか、という点である。新聞社の「番記者」と同じように、政府側のニュース材料提供だけで事足れりというスタンスを続けるならば、ニュース視聴率は限りなくゼロに接近していく時代になることもあながち考えられないわけではないだろう…… (2003.06.16)


 最近は、文字を読むにしても液晶ディスプレーの上の「フォント(font)」を読むことが多く、ペーパー上の活字を読む比率が下がったようだ。こうして日課としている文章化もキーボードを操作してのフォント入力である。
 眼性疲労などの問題も心配しなければならないが、それよりもこうしたディスプレーの画面を凝視し続けるスタイルが問題はないのであろうかという懸念がよぎる。
 ペーパー上の活字も、ディスプレー上のフォントもどちらも文字にかわりなく、脳における概念把握の段階に入れば同じことだと見なしてもいいものなのだろうか。ひょっとしたら、知らないうちに何か大きな違いを被っていたりする、ということはないと言い切れるのだろうか。漠然とそんなことを感じたりした。

 おとついの晩であったが、寝床で井上ひさしの文庫本『自家製 文書読本』なるものを、インクの臭いを意識しながら読んで寝た。すると、どうしたことだろう、その中の一箇所がまざまざと夢に現れたのである。おまけにその直後に「トイレ休憩」で起こされてしまったものだから、そのあと再び眠りにつくのに苦労してしまった。だいたい鮮やかな夢の途中で目が覚めると、睡眠と覚醒が葛藤しているようでどっちつかずの奇妙な意識となりがちなので、わたしは警戒している。
 で、その夢というのは次のようであった。
 場所は、子どもの頃に住んでいた北品川であったようだ。悪童たちと遊んでいたのだが、その中に何とビートたけしが仲間にいたりした。わたしは、たけしを挑発しようとして、次のように言うのだった。
「ダスキンって知ってるだろ? その会社のライトバンには活動地域ごとに名前がつけられているんだってさ。たとえば、ここなら『ダスキン品川』、江東区なら『ダスキン江東』っていうわけだ。じゃあ、多摩地域のライトバンには何て書いてあるか言ってみろ」
と。どうも、そこでトイレ休憩に入ってしまった。たけしに「ダスキン多摩」という刺激的な言葉を言わせる前に目が覚めて残念な思いがしたのだった。
 これが、実は、井上ひさしの『自家製 文書読本』の「言葉のつながり」云々の箇所に書かれてあり、わたしは寝床で吹き出してその直後に眠ったのだった。以前にも書いたとおり、夢とは、不要な情報を削除したりする機能を持っているというから、わたしの脳はこの下品なくだりを削除しようとしていたものと思われる。が、その途中で目覚めたものだから、結局は削除不能となってしまったようだ。

 井上ひさしのおかしさを強調しようとしているわけではなく、ペーパー上の活字の方が脳へのインパクトは強いのではないかと思ったのである。確かに、モノが何であれ、睡眠直前のインプットが脳により痕跡を残すという「定理」は、しばしば強調されてきた。学生時代の一夜漬け受験対策で奏効した経験もある。
 それはそれとしても、どうもわたしには、ペーパー上の活字の方が印象深いのではないかという思い込みが強い。それは、そうしたものに長く慣れてきたせいであろうか。
 ある人は、本という存在感と人間の五感との密接な関係は重要な要素だと指摘していた。表紙という扉を手で開く行為、印刷物のインクの臭い、指でページを繰る動作、押さえておかなければページが戻ってしまうような相手(本)からの抵抗感…… これらすべてが、活字が脳のひだへと浸透していく流れを促進しているような気がしないでもない。

 それに較べて、ディスプレー上のフォント、文章は、何としても「はかなさ」というか「軽薄さ」というか、「仮の姿」とでもいうものをどこかで感じさせはしないか。スクロールすれば、ホイホイと姿を隠してしまう。記憶の中で、「確か前の方のページの、そうそう右側のページの左下の方に書かれてあったはずだ」といった覚えられ方を拒絶しているとしか思えない。さらに、「×」アイコンをクリックしようものなら、「台紙」まで消し飛んでしまう念の入りようだ。軽佻浮薄な生き方にそこまで徹するか、という哀れささえ喚起される。
 ペーパーレス時代に馴染めない中年管理職が、
「悪いけど、そこんとこ印刷しといてくれる」
と言いがちなのに対しては、バカ〜と言いつつもなぜだか共感してしまうものだ。大事な文章は、手で触りながら読みたいものなのだ。それでこそ、文章と一心同体となれた気がするのに違いないのだ。
 これらを、デジタル時代にあってのアナログ世代のアナクロニズムだと笑い飛ばすさりげなさを、わたしは持ち合わせないでいるのである。「ちょっと違うんじゃないかあ? ひょっとしたら、思いっきり違うんじゃないかい?」という実感を、人知れず捨てきれないでいるのだ…… (2003.06.17)


 空腹で飛び込んだ食堂では、いろいろなものがハラに染みわたってくるものなのかもしれない。他人の食べているものが何もかもうまそうに見えたりして、その匂いがハラに染みたりする場合もある。そうなってしまえば何を注文しようかの思考が千々(ちぢ)に乱れたりもするだろう。また、若い連中のうるさい軽口が向っ腹(むかっぱら)に染みたりする場合もあろうか。
 そんなハラに染みるものの中には、「人間の会話だなあ〜」としみじみ感じさせられるお客たちの場面もあったりする。その場合というのは、食堂とはいっても決して高級レストランなどでは見受けられにくい。どちらかといえば寂れたラーメン屋、よくても駅前中華飯店あたりであることが条件となるかもしれない。

 昨日、駅前中華飯店に昼食をとりに行った時のことである。混んでいてレジ付近で待たされ、やがて奥まったテーブルに案内された。さて何にするかと考える余裕も取らず、「Aランチ!」と口走っていた。混んでいる時は、ランチ類に限る。そうした定番モノが早く仕上がるはずだからである。で、あとは待つことになった。
 ボオーとにぎやかな店内の様子に視線を泳がせていたら、隣のテーブルから、ぼそぼそとした会話が聞こえてくる。
「……そしたら、六万だって言うだよ。冗談じゃないよって思ったネ。……そんでよ、こんだ、……だって言うからよ、こん人はとんでもねえひでえ人だなって思ったさ……」
 店内は騒がしい上に発音のはっきりしない低い話し声はなんとも聞きづらかった。もちろんどうでもいいのだけれど、話の内容がつかめない。そして、つかめないとなると、何だかふつふつと興味が湧いてきたりするから不思議だ。わたしの真横に座っているので、どんな人なのかを首を振って確かめることもさすがにはばかる気にさせられた。が、気になる。ちらっと横目をやると、職人風の身なりで、顔は赤ら顔の三十半ば過ぎと見える男だった。いかにも、仕事を求め地方から出て来ているといった様子であった。ラーメン定食らしきものを食べている。食べているにもかかわらず、片時も話をやめることはない。前に座っているのは中年過ぎの太った女性だった。通りいっぺんに、夫婦かと見なそうとしたが、男のどことなくしっかりとしない風情に対して、暗く沈んではいたが落ち着いた貫禄の女性とを夫婦と見るのには無理がありそうだった。親子のようでもあるし、姉と弟のようでもあった。男の話をただ黙って聞き(流し)ながら、野菜炒め定食をつついていた。
「……それで、電話番号を教えろっていったのさ……だけんど、オレは断わったさ。あぶねぇもんネ……」
「そうさ、教えんでいいんだよ、そんな人には……」
 女性の方がそう応えていた。男は、自分の皿が空になったものだからか、女性側がおかずを残すことを知っていたからか、何気なく手を伸ばして女性側の野菜炒めをつまんだりするのだった。相変わらずぼそぼそとした話を続けながらである。

 やがて、
「Aランチになります!以上でご注文の品は揃いましたか? ごゆっくりどうぞ!」
と言って、アルバイト風の女の子がわたしの頼んだものを持ってきた。わたしは、食べながらも、なお隣の二人に関心を注いでいた。
 女性の方も食べ終わったようで、脇の手提げから小さな白い紙袋を取り出し、その中身をテーブルの上に広げている。何種類かのカプセル入りのクスリであった。食後に服用すべき持病の薬なのであろうか。
 これを見た時、わたしは何ということもなく、この二人は親子なんだと決めつけていた。と同時に、どうして、そんな見ず知らずの二人に自分は関心を向けているのだろうか、と自問していたのだ。これという決め手が見つからなかった。だが、わたしのハラに染みていたものは、何とも言えない懐かしい人間の会話であったのかもしれない。
 「言語明瞭、意味不明!」であることが多い現代人たちの会話や、さほど変わらない報道のメッセージばかりの中で、その二人の間には、生身の人間の会話があったように思えた。思い入れかもしれないが、ぼそぼそとして言語不明瞭ではあっても、何かへの憤りや不満などを切々と語り、そしてそれを親身に受け容れるという人間と人間との会話があったかに思えたのである。そうだからこそそれらが、とても懐かしくハラに染み渡っていたのかもしれない、とそう感じていた…… (2003.06.18)


 昔は手の届かぬ遠い存在だったものが、にわかに身近な存在となっていることに気がつくというようなことがある。もったいぶって言うほどのことでもないが、ラジオ体操なのである。
「六時二十五分からはニュースをお伝えし、六時三十分からはラジオ体操の時間です」と聞く頃には、起き抜けのコーヒーも飲み終え、ウォーキングの仕度も整っていたりする昨今なのだ。聴くともなく聴いていると、ふと耳に「希望」という言葉が飛び込んできた。「希望の朝!」とでも聞こえたようだった。ウーム、時代に似つかわしくはないと思えるが、論理的にそう言うことはできるはずだ、と思ったりしていた。

 すがすがしく目覚めるならば、どんなにマンネリの日常生活であれ、確かに「新しい一日」を迎えたという「希望」めいた心境にはなりそうである。まして、今朝のように、ここ何日か続いた梅雨空とは打って変わった明るい日差しであったりすると、まずまず「希望」という言葉は埒外ではないという気がするものだ。決して、仕事関係でのその種の明るい話がありそうなはずもなければ、今日何か楽しい予定があるというわけでもない。ただそう感じただけの話である。
 自分も随分と謙虚となったものだと思った。どうということもない朝を迎えて、「希望」という言葉に頷けるのであるから……。まあ、健康であることの価値をあらためて実感しているということなのであろうか。

 が、この「希望」めいた心境、とくに根拠があるわけでもなくいわば年賀状か、義理チョコのように形ばかりが訪れたといったこの心境を、この一日、どう持続させていくのかこそが大事な問題なのだろう、とぼんやり感じたりしていた。
 幸せな人には、だいたい「希望の朝!」という気分的にはリフレッシュされた好機が与えられるものだろう。場合によっては、漠然とした形ではあっても、いろんなことが可能であるような期待感の付録も添えられてあるかもしれない。
 ところが、日常活動が始まっていくと、いつの間にかその「希望」めいた心境が、マンネリの川の流れに流されてしまい、どこかへ消失してしまうという不思議が起こってしまうようだ。

 なぜだろうと考えるのだが、思うに、それは「怠惰な脳」の仕業であるに違いない。せっかく生理的なリフレッシュで「希望」めいた心境が与えられたにもかかわらず、「怠惰な脳」は生活環境のすべてを昨日とまったく同じ姿でしか見ようとしない。まして新たな働きかけなどは言語道断のようだ。変化を発見してしまうと、とにかくいろいろと面倒なことになりそうだと臆しているから、トラブルを嫌う役人のごとく、無理やり「変化な〜し〜!」と見なそうとするかのようである。波風なく、つつがなく一日が過ぎていくことを願うかのような「怠惰な脳」こそが、「希望」潰しの下手人なのだと、そんなふうに考えたのである。

 閉塞した時代環境は、確かに人々から「希望」を剥奪している。今朝の朝刊にも、何百万人と増加してしまったフリーターたちを憂える社説があったようだ。時代は、中高年には「不安」を注入し、若い世代からは「希望」を抜き取っているといった印象がある。
 しかし、そう認識する一方で、他方では、もういい加減に環境のせいだけにするのはやめなければならないだろうなと、つくづく思ったのである。自身が、他者や、社会環境から不当に「奪われている」という不公正感を持つことはあってもいい。そしてそれらを是正していくのも必要だ。だが、それですべてではないような気がするのだ。まして、折り重なり累積された社会的不公正は一挙に正されるものではなかろう。それらとは別次元の自分をどこかで見つめることも重要だと思うのだ。

 「希望」を持つということは、それが持てる環境を外に向かって要求する必要もある。とともに、環境に対して、そこで生まれている新しいもの、変化したものを読み取ろうとしない自身の怠惰な「読み取り装置」=脳を、自分なりに鍛錬することも不可欠だということが言いたいのだ。いや、自分はそうありたいと願っている。他人の一日ではなく、自分自身の一日をどう生かすのかという視点で考えるならば、変わり映えのしない一日の時間の中で、新しく見えるものを発見し続けたいとそう思う。
 こうした実感を踏まえて、現在の「情報(化)社会」の実情を見直す時、ひとつの気になる問題点として、「情報リテラシー」関連の問題が見えてくる。情報対象が新しくなっているにもかかわらず、旧態依然とした視点で取り扱われ、処理されているがゆえに、新しい環境の到来が阻止されているといった事情がありそうだと見える問題である。実はまったく新しい視点が必要であるにもかかわらず、新事象を古い視点や発想で、「処断!」しているとするならば、「情報(化)社会」の可能性は決して十分には実現されていけないのかもしれない…… (2003.06.19)


 経済が悪化している状況の中で、企業は人件費圧縮に神経を使い、なおかつ「実力主義」の人事対策に余念がない。しかし、一見理にかなった方針とも見える「実力主義」路線にも問題面もあるようだ。
 企業の「創造力」は、個人のそれとは異なり、集団・組織のあり方がものを言う。だから、「グループウェア【groupware】(集団作業を支援するためのコンピューター・ソフトウエア。また,そのシステム)」がかねてより注目されてもきた。
 だが、「実力主義」人事環境の職場では、必ずしも「グループウェア」の成果が発揮されているとは言い難い実情もあるらしい。個人各位は個人成果に力点をおかざるを得ないので、ホンネでは自分のアウトプットをグループの場へ提供しないのだそうだ。

 ソフトウェア企業では、かつて似たような問題が取りざたされたことがあった。ソフトウェア生産性向上のため、ソフトウェア部品の「標準化」を進め、部品類のデータベース化を整備して、それらの「再利用」をしようという目論見なのであった。
 ところが、これがなかなかうまくいかなかったようなのだ。「標準化」部品の提出もさることながら、DB化されたものの活用、再利用が思ったようには歓迎されなかったというのだ。理由はと言えば、できるソフトウェア技術者ほど、部品とて自分自身で作り上げたいという願望があったからだと聞いた。「情報」をめぐる個人と集団との葛藤は一様ではないようだ。

 いわゆる「情報」というものは、それが一般的な水準のものであれば水のように自然に流れるのだが、個人的労作と密着した「創造的」な「情報」となると、いろいろな理由で容易には「共有」レベルへと這い上がってはいかないものなのであろう。
 まして、ネットワークだ! ネットワークの時代だ! と、そこにぶら下がっていさえすればメリットがあると信じ込んでいる受益志向のみの参画者が多い実情では、価値ある「情報」がネットワーキングの輪に投じられることは難しいのかもしれない。ちょうど、公共の場所に粗大ゴミが投棄されるように、ゴミのような「情報」だけが投げ出される可能性も懸念されないわけではない。

 民主主義社会というものが、無前提には成立しない ―― 個人の自立性、権利と義務などが必須 ――と同様に、「情報(化)社会」というものも、「情報」というものの基本的性格を踏まえた、その社会の参画者である人々の「情報」処理姿勢というものが重要ではないかと思う。いや、それを度外視するならば、個人にとっても社会にとっても弊害だけが増幅されかねないと言ってもいいかもしれない。
 「情報公開」が拒まれ、「知らしむべからず、依らしむべし」という古風な封建的対応の「情報(化)社会」という姿だってなきにしもあらずである。だがそんな社会は、「情報(化)社会」の本来の可能性をスポイルして、国際的には後進性を曝け出し続けるに違いない。日本がそうならなければいいと望んではいるが……

 で、望まれる人々の「情報」処理姿勢とは何かである。各論的レベルではさまざまなことが想定されようが、とりあえず二つの点に目を向けたい。
 ひとつは、「情報」とは与えられるものではなく、求めてこそ得られるものだという基本原則。ふたつ目は、「情報」とは誰のものでもなく、「共有財産」なのだという大原則である。
 これらそれぞれについては、日を改めて検討しようとしているが、どうも現在のわが国の実情では、これら両者のエッセンスがおざなりにされているように見えてならない。もし、「情報(化)社会」の一形態である「IT」社会という面で日本が超一流国を目指すのであれば、「知識を与える(切り売りする)」現行教育制度こそを即座に、抜本的に改変しなければならないはずである。そして、名ばかりの「広報活動」でお茶を濁し、実際は相変わらずの「知らしむべからず、依らしむべし」に汲々(きゅうきゅう)としている官僚機構、役所体質こそを徹頭徹尾破砕しなければならないはずだろう。そうした問題点を棚上げにして目的が叶うと考えるところに底の浅さがあると思える。
 また、庶民、市民の「情報天下り意識」をも払拭しなければならないと思われる。雛鳥のように上を向いて口を開けているような「情報」に対する固定観念ほど、この時代と不似合いなものはないのだ。改善のためには、生活をリセットして「情報ゼロベース」生活から再スタートしてみたらいいと、無責任な想像をしている。つまり、必要な「情報」に気づくために、お茶断ち! ならぬ「情報」断ち! をしてみるのである。そうすれば、これまで何と無用な「情報」に引きずられてきたかがわかると同時に、求める「情報」とは何なのかが次第に見えてくるのかもしれないと思ったりするのだ。テレビなんてものは、一度壊してみるといいのかもしれない…… (2003.06.20)


 今日は「夏日」となるとの予報だったが、そのとおり朝から暑い真夏のような一日だった。梅雨はまだまだこれからのはずなのに、夏の「手付金」を渡されたような感じであった。
 今朝は寝覚めも悪く、おまけにウォーキングではちょっと無理をしていつもより1キロづつ重いダンベルを持ち出したため、身体に効いてしまったようだ。そんなこんなで、その後は、暑さとかったるさでダラダラと過ごした一日であった。日が暮れて、ようやく気を取り直したようにパソコンに向かっているが、何を書いたものやらと見当がつかないまま見切り発車をしている始末である。

 先ほど台所 ―― キッチンと言うよりもこういう古風な言葉が好きだ ―― へ行ったら、果物のいい香りがした。何かと思えば、梅の実の袋が置いてあった。そう言えば、家内が昨日、友人といっしょに知り合いの農家に「梅の実狩り」に出向いたことを思い起こした。
 わたしが最近「梅干は身体にいい」と言って、毎朝朝食時に一粒食べることにしているので、自家製の梅干でも作ろうとしているに違いない。あるいは、二人とも嫌いではない梅酒をも作ろうとしているのではなかろうか。

 先日、近くに住む姉が農地を借りて作ったものだといって新鮮な野菜を持って来てくれたらしい。建築設計を生業としてきた義理の兄は、もともと鹿児島出身で農作業には関心があったようだが、仕事が手薄となった昨今、もっぱら農作業に入れ込んでいるようなのである。以前は、相模原市が仲介する小さな農地を借りて耕していたらしいが、今は相模湖寄り方面にそこそこの広さの農地を借りてしっかりと農作業に精を出しているとのことである。近くには、地元の人たち向けの温泉もあるらしく、農作業をしに行ってはその温泉に浸かり、ちょっとした旅行気分にもなれるそうなのだ。

 義理の兄が農作業を好むのは、子ども時分の懐かしい経験が大きいと思われるが、ことによったらこの不安定なご時世ゆえに、「自給自足」の生活への憧れという点もあるのではないかと推測している。実質的な「自給自足」を追求することは無理だとしても、自分たちが食べる野菜を自分が手をくだして作るという行為は、心のどこかに「自給自足」という自立、そして安堵感などに通じるものをも作ることになりそうな気がしている。それほどまでに、今のご時世がかもし出す不安は深刻だと思えるのである。

 二桁消費税実施もカウントダウンが始まっている模様である。不透明で場当たり的な政治の結果が、庶民生活への責任転嫁というかたちでどんどん進められている気配が濃厚である。そんな中で庶民は、心細い心境になりながら、優しい自然の恵みに眼を向けていたりするのであろうか…… (2003.06.21)


 もう十年も経つのかもしれない。背丈ほどの苗木を買って来て、いつか実を実らせるといいな、と思いながら庭の片隅に植えた梨の木であつた。今では二階の屋根の高さほどにまで成長してしまっている。
 その梨の木が今年の春には、白い可憐な花を枝と言う枝に惜しみなく咲かせ、まるで桜の木の満開のような光景を見せたのだった。日当たりが悪くぱっとしなかった庭が、見違えるようなあでやかさになった印象があった。いや、今年に限ってのその狂い咲きのような華やかさからは、不思議な雰囲気さえ感じたものだった。
 病気がちとなっていたのを見るに見かねて、去年の秋口に、大胆な剪定をしたことがよほどうれしかったのではないかと想像した。そして、ここしばらく前から、庭に出ると実の痕跡がみつけられないかと思い、手をかざして見上げるわたしであった。

 今朝、その梨の木の枝々に、さくらんぼほどの梨の実がちらほらとなっているのを発見した。背景の明るい空の光がまぶしく、最初はそれとは気づかなかった。小さな丸い格好をしたものがところどころに見えたのだが、また病気で葉が丸まってしまったのかと思ってしまった。が、よく見るとそれは球体であり、まぎれもない梨の実だとわかったのだ。

 今朝は、昨日とは打って変わって寝覚めもよく気分好調であったため、ウォーキングから戻ると、庭の植木の剪定をした。門扉付近の植木が伸び放題となり、雨の日にはそれらが葉に湛えた水滴の重さで通路をふさぐいたずらをするからだった。くちなしや、竹の葉、こめつがなどをざくざくと切り込んだ。
 そう言えば一昔前には、植木の手入れに凝った時期もあったにはあった。もとより、すがすがしい植物たちは好きなほうである。が、ここしばらくはパーフェクトなノータッチを決め込んでいた。思うに、見通しのよくない経済状況にあって、四六時中重っ苦しい気分でふさぎ込んでいたためなのであろうか。まあ、今でもその心境に変わりはないが、いくぶん開き直り始めたのかもしれない。

 そして、剪定ばさみやほうきをかたづけていた時に、何気なく梨の木を見上げ、かわいい梨の実たちを見つけたのだった。だが念のためと思い、双眼鏡を持ち出してその実をバードウォッチングよろしく観測してみた。すると、確かに大きさはちょうどさくらんぼほどではあったが、何と、当たり前ではあるがあのぶつぶつの梨の肌をしていたではないか。それはちょうど、先日手のひらの内で見たマガモの赤ちゃんがマガモのくちばしをしていたことと通じるものがあると感じた。
 これまたバードウォッチングよろしく個数を数え始めたりしたものだ。見える範囲だけで十数個、いやそれ以上であったかもしれない。何だか胸がときめくのを抑えられなかった。で、そのあとわたしが何をしたかといえば、バケツいっぱいに水を湛え、木の根元に水やりを始めたのであった。さらに、水が流れてしまわないように、シャベルで外堀まで作ったりする始末であった。そんなことをしながら、ふと自分のしていることを振り返ったものだ。これはまるで、嫁に孫ができたと知った舅(しゅうと)が、にわかに嫁の身体を気づかうようなそぶりとなる現金さと同じではないかと……。まあいいじゃないか、ほくそえみながら、わたしは初秋の収穫時、梨園とは事情が異なるが、高過ぎる梨の木によじ登りながら梨をもいでいる自分の姿を思い浮かべていたのである…… (2003.06.22)


 ある陶芸家が、自身の作品を前にして、
「焼き物は使われた時点で完成する。料理が盛られてこそ完成なんです」
と言っているのを聞いた。含蓄のある言葉だと受けとめた。それじゃこの時点では未完成品ということで、お安く譲っていただけるものですか? とあげ足を取ってはいけない。陶芸家としての立場で可能な最大限の営為に対して報いるべきなのであろう。

 ちょうど、「情報」の発信、受信について関心を寄せていた折りだったため、「情報」との類似性に興味を覚えたのだった。「情報」もまた、受信者によってそれがそれなりに享受されてこそワン・サイクルが完成するのであろう。受信者による享受とは、発信者の意図したものが了解されるとともに、受信者側による独自な読み込みがなされ、付加価値的なものが生み出されることを想定したいところだ。

 元来、「完成」という言葉は現実の流れを考慮すれば、やはり無理のある発想だと思わざるをえない。どんなものであれ、何をもって「完成」とするのかを議論するならば、議論そのものが「完成」(終了)しなくなるかもしれない。
 商品を例にとっても、自社の製品の「完成」と販売は、他社にとっては素材の仕入れであり出発点の場合が多い。教育の場でも、教師による講義の終了(「完成」)は、受講者の学習・研究のスタートであることが容易に想像できる。
 つまり、「完成」とは限られた立場における暫定的な「カンマ」――「ピリオド」ではなく!――なのであって、エンドレスな流転の一プロセスでしかないと言える。そして、そのプロセスには、数多くの主体が関与するものだ。

 こうしたメカニズムは、「情報」にあってはとりわけ顕著だと言わざるをえないのではなかろうか。「情報」とは、決して「完成」することのない永遠の「素材」的存在ではないかという気がしている。「万物は流転する」の「万物」という言葉を「情報」に置き換えても一向に差し支えないはずだと思われる。
 しかも、「情報」は時間の流れにおいて「流転」するだけでなく、発信された「情報」は、個人という主体の違いによってバラエティに富んだ受信がなされ、変容が加えられていくという点においても「流転」という言葉が似つかわしい。

 こんな原理的なことに思いをめぐらすと、「画一的、静止的」な「情報」が、なおかつ「一方通行」の流れで伝播して一定の影響力を発揮していくという事態――現代のマスコミ! 古くはお上の「お触書」!、新しくは官公庁からの「通達」!etc.――が、きわめて特殊なことであり、そういう事態が機能してしまう特殊な事情が働いていることに目を向けざるをえないと思うのである。決して自然なことではないと感じてよいと思うのだ。
 いろいろな理由や仕掛けがあると推測されるのだが、それらはまた別においおいと考察するとして、こうした環境を黙認することになっている個人主体側の問題に注目したいと思っている。先日、「『情報』とは与えられるものではなく、求めてこそ得られるものだという基本原則!」と書いたが、現代のおかしな環境を是正していく上では、個人主体側の「情報」への対応のあり方を省みることなしには済まないと思えるからなのである。

 そもそも「情報」の発信者は、受信者の想定なくして発信することはないと考えていいはずだろう。「情報」の「完成」とは言わないまでも、「情報」の自然な展開にとっては、発信者と受信者との相互関係が大前提のはずなのであり、さらに言えば、両者の「対話性」こそが不離一体の関係ではないかと考えたい。
 それにもかかわらず、あまりにもこの「対話性」は、発信側機構の肥大化と、受信側諸個人の無力化というアンバランスの状況によって形骸化してしまっているのが現状であろう。その結果、個人は「情報」とは与えられるものという諦念さえ抱くようになっているのではなかろうか。いや、より正確に言えば、自身で考えるための「素材」としての「情報」――本来、そうでしかありえないはずである!――を求めるべきところを、考えなくても済む「完成」された「情報」、「最終情報」をねだる(?)ようになってしまっているのではないかと危惧するのである。
 週刊誌にせよ、出版物にせよ、昨今マスコミがしばしばアイキャッチ風に使う「これが真相だ!」「永久保存版!」「これですべてがわかる!」などなどは、マスコミならではの売り込みゆえの姿勢だとはわかるが、どうも、受信者側の安直な受け容れ姿勢を見透かしている気配も濃厚に感じるのである。
「どうせあなたたちは、生の『情報』を咀嚼するアゴの筋肉もなくなってしまっているのだから、噛まなくても済む柔らかいものにしましょう、グッと一息で飲み込んでしまってください!」と言いたげなそぶりが見えるようなのである。そこまでなめられてしまっていいのだろうか…… (2003.06.23)


 相変わらず「がんばりま〜す!」という言葉を耳にする。すぐに思い出せるのは、NHKの歌謡番組などで「明るい」タレントが客や視聴者に向かってそう言っている情景。選挙運動でも気になった。「△△候補でございます。最後の力をふりしぼってがんばっております。必死でがんばっております」
 思わず「勝手にがんばってれば〜」と言いたくなってしまう。「何を」の問いをすっぽ抜けさせて、ただただ「がんばる」という姿を称賛するその能天気さには閉口してしまうのだ。まるで、幼児たちの行動を激励する親心を、誰かれになく適用してはばからない馬鹿がとにかく多いようだ。
 先日も、与党の政治家が暴力団と関係していたことが問題となった折、福田官房長官が、
「まあね、暴力団だからといって何でも拒むという理屈はないのでしてね、彼らも市民ですからね……」といったわけのわからないことを述べられていた。福田氏にすれば、
「彼らもかれらなりに『がんばってる』んですからね」とでも言いたげな、そんな雰囲気を感じたものだった。国会議事堂を職場とする方がこんな調子なのだから、ガンバリズム称賛の汚染度は推して知るべしである。

 現在のダメ日本の原因は多々あろうが、この見境のないガンバリズム称賛の悪癖がダメ日本の事態をこじらせているように思えてならないのだ。一生懸命にがんばりさえすれば、その対象が何であっても、その結果がどうであっても許すというのはあまりにも人間の崇高さを馬鹿にしてはいないか。強弱だけで音楽を奏でよと言っているのとさほど変わらないような気がする。
 現代は、自然資源から財政までさまざまな分野が欠乏にみまわれ、選択や優先順位づけがクローズアップしている時代のはずである。つまり、「何を」という問いこそが時代のキーワードだとさえ言えるに違いない。そんな場合に、「何を」はともかくとして、「がんばる」ことが大事なのです、とのん気というか寛大というか要するに方向感覚のない心情が日本の病状を悪化させているに違いない。

 いま人々が眉をしかめている二大社会現象――無責任体質! と凶悪犯罪! ――は、ひょっとしたらこのガンバリズム称賛の悪癖に起因しているのではないかとさえ感じている。「まあ、彼も彼なりに『がんばった』んだから、いいじゃないか……」というわけ知りオヤジ的な曖昧さが、狡賢い連中のワル知恵と呼応しあって一大無責任社会ができあがってしまったに違いない。この点は、かのマックス・ウェーバーの「責任倫理」と「心情倫理」の後者とも似ていないわけでもないが、そんな高尚なものではなく、雰囲気レベルの甘いものだと見える。

 最近の犯罪の凶悪化は目に余るものがある。誰もが不安に感じているはずである。もはや殺人を何とも思わなくなった気配さえ読み取れてしまうから恐ろしい。社会不安や、覚せい剤の蔓延、銃器の流通など、背景にはいろいろな要因があろうかとは思う。しかし、どうも推測してしまうのは、「何を」してはいけないかという「境界」――折りしも時代はボーダレス時代! ――に関する意識がいまひとつ甘い体質が日本人にはありそうではないか。神(一神教)のいない国日本だからと言えないこともないが、ここにもガンバリズム称賛の悪癖が潜んでいると考えるのは見当はずれだろうか。
 犯罪者たちも彼らなりに「がんばって」悪事を働いているのだからいいじゃないか、と取ってつけたことを言おうとしているのではない。「がんばる」ことのみを称賛する社会は、「何を」という問いの重要さをはぐらかし、ぼやけさせることが犯罪への道を広くしていると思うのだ。
 犯罪心理は専門ではない、いや何も専門ではないのだが、現代の犯罪を遠目にながめる時、昔の飯の炊き方ではないが「初めチョロチョロ、中パッパ」なのだろうな、と強く推察するのだ。つまり、ちょっとしたきっかけで「その道」に迷い込むと、奈落へと突っ走る速度が極めて速くなる「仕掛け」が特徴であるように思うのだ。イニシアライズ(初期起動!)さえなされれば、あとは「親切な水先案内人」たち――消費者金融、クスリ売人、来る者拒まずの暴力団下部組織、その他多彩な犯罪遂行ツール類入手ルートetc.――が効率的加速化を図ってくれるからだ。問題は、踏み込めばエスカレートするに違いないワルへの坂道との境界をどう認識するかということなのであろう。ところが、ここが甘いときているから問題なのである。

 実は、今日書こうとしたことはガンバリズム称賛の問題ではなかった。「何を」という意識が不鮮明かもしれないわれわれの意識の方に主眼があった。だが、「がんばる」姿が、一方で他者から称賛され、他方で自身でも満足してしまうといういわば日本人同士の合言葉のような機能を果たしているとするなら、この「呪縛」から解き放たれない限り、現代が緊急に提起している「何を」、そして「どこへ」という問いの前にはまだまだ立てないのではないかと危惧したりする…… (2003.06.24)


 昨日、「ガンバリズム称賛」をけなしたばかりである。そんな今日、「ガンバリズム」だけといった男――もちろん、それだけのはずはないが――が来社した。以前、うちの会社にいて辞めた男だ。ソフト関係には向く男ではなく結局辞めたのだった。しかし、自身が持つ長所を生かし、そういった方面での仕事を始めて、こうした時期にまずまずサバイバルしているから大したものだと思った。
 しかも、今日来社したのは、その仕事は人に任せられるようになり、自分は新しい別の仕事を開拓し、その新商売に関連したソフトで相談があるというのだった。ますます感心させられてしまった。

 確かに、その彼は、荒っぽくてアブナイ要素に満ちている。うちの会社にいた時もそんな点が気になってはいた。しかし、当時さらに気になっていたのは、そうした点とも重なり合って、ビジネスで常に問われる責任に関して無頓着とさえ見える言動であったかもしれない。ソフトウェア開発ではそうした責任問題に触れるシビァな局面が多いため懸念させられていたのだ。
 だが、自分が経営者となって四年近く過ごしただけあってか、そうした部分は削り落とされているようであった。そして、こうした暗い環境となった現在、どんな経営者も失いがちであるに違いない「明るさ」「楽観性」という希少価値的な資質を、何よりも彼は持っているように思えたのだった。加えて、「ガンバリズム」を何ら疑わない子どものようなナイーブさがうかがえた。

 昨日書いたように、「何を」という視点こそが目の前に立ちはだかる厚い壁をぶち破っていくためには必須だという考えに間違いはないと思っている。また、「何を」という視点を欠く行動が、ややもすれば過剰に仕掛けられた世間のワナにはまっていく、そんなこのご時世の危険からも目を逸らすわけにはいかないだろう。
 だが、もうひとつのワナにも注目しなければならない。つまり、「何を」という小難しい設問に足を取られ、自縛の上に身動きができなくなるというワナのことである。全体重を載せられるような「何を」をそう簡単に見出せる時代ではないだろう。またその設問に傾注していくならば、多くのエネルギーと時間を割かなければならなくなる。その間に環境変化はさらに先へと進んでしまうのが現実であろう。「何を」という視点で動くことを推進することは容易ではないのである。

 「無理が通れば、道理引っ込む」のような「ガンバリズム」は選ぶ手ではなかろう。だが、逆にハムレットとなることを推奨してはならない。行動や挑戦心を蝕む役割りを果たすだけの知識もまた蔓延している現在、ハムレット型スタイルをとることはいってみればイージーであるのかもしれない。
 むしろ、四角い部屋を丸く掃くようにして出来上がったかもしれない既成の知識、情報を疑い、隅に掃き残されている現実にこそ挑戦していかなければならないとさえ言える。いわゆる「ニッチ(隙間)」対象への着眼である。

 前述の彼が始めようとしていたこともその「ニッチ」であった。ただ、何の現実的な脈絡のない机上のアイディアではなく、現に実施しているビジネスや、自分のよく知った対象との絡みから覗ける「隙間」だとわたしには思えた。机上の知識ではなく、行動の結果得られた経験的知識、情報から紡ぎ出した「隙間」なのである。決して、伏兵が潜んではいないと言い切ることはできないが、それでも空疎なアイディアとは区別されるべきだと感じた。また、「生活がかかってますからね」とホンネを吐く彼からは、「ガンバリズム」の雰囲気が否応なく漂ってきた。

 わたしは、「ガンバリズム」に距離をおきたいと思う自分の思いの中に、むしろどっかりと腰を据えている「ガンバリズム」の影があることを、彼を見ていて逆に知らされてしまったような気がしているのである。「何を」の視点をクールに見つめていく分には、「ガンバリズム」をあえて拒絶する必要はないのかもしれない…… (2003.06.25)


 パソコンなどのエレクトロニクス、ITツールが、庶民のリトル・ビジネス開業にとっての強い味方となるような構想を練り上げたいと望んでいる。
 つい先頃も、いわゆる「オンライン・ショップ」を、素人の個人であっても手軽に始められる、そんなシステムをリリースし始めたところだ。パソコンに慣れていない者にとってのボトルネックである商品データの更新作業を、可能な限り簡素化することに留意したシステムなのである。

 こうしたことに関心を持つのにはいくつかの理由がある。
 「デジタル・ディバイド」(インターネットやコンピュータ等の情報通信機器の普及に伴う、情報通信手段に対するアクセス機会及び情報通信技術を習得する機会を持つ者と持たざる者との格差)には、否が応でも関心を向けてきたが、わたしは、むしろ社会的弱者こそが、エレクトロニクス、ITツールなどのデジタル機器を使いこなして社会参画、ビジネス進出をすべきだと考えている。
 ただでさえ、今後の社会は所得を初めとしていろいろな「格差」が強まりそうな気配である。米国社会を手本として進められようとしている「構造改革」が真っ先にもたらす社会事象は「格差」だと言っていい。そんな流れの中で、「デジタル・ディバイド」も歯をむき出すようなかたちで進んでいくに違いなかろう。
 だからこそ、弱小庶民がエレクトロニクス、ITツールを逆手にとって、戦乱の世を跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)とは言わないまでも、五分と五分の関係を目指して挑むべきだと先ずは願うのである。

 ところで、「昨日の男」が持ち込んできた話なのであるが、詳しいことはともかく、言うならば「香具師、的屋商売のデジタル化(!?)」という類だと言えるのだ。商売ネタの都合からパソコン、スキャナー、プリンターを使うものの、香具師のように大道商いの範疇なのである。ちょっとした技が売り物とはなるものの、熟練というほどのものではない。だから「的屋商売のデジタル化」なのだと言っていい。
 昔、子どもの頃の祭りで、裸電球の明かりのみの概して薄暗い露天商に、あれは何という名前だったかは忘れたが、鮮やかな光を放つヨーヨーが登場したことがあった。これは決して「デジタル」の仕掛けなんぞではなかったが、一種異様な興奮を覚えたものであった。夜店の革命児であったかもしれない。

 確かに、祭りや夜店で商われるものは、アナログもアナログ、泥臭い伝統的なものであることが多いだろう。植木や、瀬戸物や、古本など何となく風情があって悪くはない。しかし、そうしたものを望んだりするのは、通行人の勝手なノスタルジーなのかもしれない。売(ばい)が成りたたなくては食っていけない香具師たちにとっては、埒外であろう。彼らにしてみれば、売れて利益が出るものこそを商いたいはずに違いない。しかも、時代環境も変わり、世代も替わってきた現在では、露天商に期待するものも変化してきたかもしれない。「デジタル」技術を助っ人にしたブツが、ちょいと訓練した「ニュー」的屋によって商われても一向に差し支えないのではなかろうか。
 いや、香具師、的屋商売もノスタルジーの対象となるようなものだけを商っていたのでは、やがて後継者がいなくなり、寂しい祭りや夜店となりかねない。ここいらで、子どもも若いこも自然に喜べる「デジタル」レパートリーを登場させるのも一手かもしれないと思う。

 そこまで行かなくとも、デジタル機器がSOHO(ソーホー)というお定まりのスタイルで使われるだけでなく、露天商も含めて庶民のちょっとした商売、小ビジネスでもっと活発に使われてもいいはずだと考える。
 要は、どんなかたちで利用するのかというイマジネーションの問題、使うにあたっての気が利いていて扱いやすいソフトの問題、そして価格の問題などが解消されるべきなのだろう。
 パソコンとは、家電製品に埋め込まれた専用マイコンに対して、「汎用」コンピュータなのである。使い方の想像力(創造力)を駆使するならば、奇想天外なことをやらせることも可能なのであろう。やっぱり、「何を」という問いに情熱を燃やすことが必要なようである…… (2003.06.26)


 自社の会計処理は以前よりなじみの会計事務所にみてもらっている。もちろん、日次の経理処理などは内部の担当社員が行なっているが、月次処理や決算などは月に一度訪問してくれる会計事務所が受け持ってくれる。
 会計事務所の人が来ると、わたしは世間の会社事情などをしつっこく聞くことにしている。会計事務所の担当員は当然うちの会社だけを担当しているはずはなく、さまざまな業種の会社を受け持っている。だから、そんな実情をそれとなく聞かせてもらうのである。彼の肌身で感じている情報を聞く方が、「日銀短観」だの「月例経済報告」、「経済動向指数」などの公式的な情報に目を向けるよりもずっと経済状況の実態が想像しやすい。

 「どんな業種が羽振りがよさそう?」とか、「どんな業種が辛そう?」とか言って、ヒヤリングの口火を切るのだ。彼も、顧客情報流出という面を気遣ってか、さらさらとは言い出さないのだが、あれやこれやと揺さぶっていくうちに手持ちの情報を「一般化」しながら話し出す。
 前に聞いた中小の建築関係業種の話では、もちろん芳しくない部類の話なのだが、それでも何とか一戸建て住宅建設の引き合いなどで食い繋いでいる実情を聞いた。退職金なのであろうか、年配夫婦が一括払いでオーダーする例がこんな時期でも少なくはないのだと言っていた。
 わたしは頷きながら、ウォーキングの際に見かけるある分譲地の建築現場のことを思い起こしたりした。遊歩道のすぐ脇の農地を、外壁工事と盛り土工事を手っ取り早く済ませて三、四軒の住宅が新築された現場のことである。わたしは毎日見るともなく見てきたので、その工事の推移は誰よりも知らされていた。いくら外壁を設えたとは言え、盛り土直後に建築工事が始まったのである。世間でよく話題になる地盤沈下、床の傾きといった情景が何となく脳裏をかすめたものだった。そして、いち早く入居した住人というのが、まさに退職金での一括支払組とおぼしき年配の夫婦のようであったのだ。
 こんな不景気な時期であろうがなかろうが、一生に一度は持ち家に住んでみたいという思いはわからないわけではない。まして、長年、宮仕えで自分を「殺して」きて、気がついてみると身体も心も痛み始めて「余命」を意識させる歳になっていたと知るなら、ここでひとつ! という「決断」となっても全然おかしくないかもしれない。しかし、今後の生活費の問題もあろうし、足元の「盛り土」の問題もあるし、前途は必ずしも「磐石(ばんじゃく)」だとは言い切れない……

 会計事務所の担当員から聞いた最新の話は羽振りのいい方の話であった。
「『カイロプラクチック』っていうのは儲かってそうですね」
「脊椎のゆがみなんかを治療するあれでしょ。そんなところを担当してるの?」
「いや、自分が通ってるんです。一回三十分で五千円。週二回来いと言われてそうしてます。四十肩の痛みがきついもんで……」
「月に四万円じゃ大変だ」
「いつ行っても、客(患者)が待合室にびっしりですよ。儲かってるんでしょうね」
「いいなあ〜。今のキーワードはやっぱり『健康』なのかねぇ……」
「健康と言うより、関節の痛みっていうやつは耐えがたい痛みですからね」
「うん、わかる。わたしも四十肩、五十肩の両方とも知ってるからね。余程医者にかかろうかとも悩んだけど、いつの間にか直っちゃったね。それにしても、医療関係というのは患者さんに感謝されるし、儲かるしだからいいよなあ。『痛み解消!』とか『不便解消!』とか、とにかく効能がハッキリした仕事でないと人はおカネを出さないもんなんだよね。さあて、うちはどうやって効能をハッキリさせていくかだなあ……」 (2003.06.27)


 最近は、「何を」と問う視点に関心を向けてきたが、これを別表現するならば「着眼(点)」ということになろうかと思う。そして、「着眼(点)」とはさまざまな要素が入り乱れ混沌としている状況なり、対象のある部分に眼をつけることであろう。もちろん、それで終わるわけではなく、その着眼した部分なり一点なりを基点にして、それを含む全体の状況や対象が抱える逼迫した課題なり、問題なりに解決への突破口を見出すことだ、と言えるだろうか。

 「何を」という問いに並ぶ問いとしては、「どのように」という視点があるはずだ。< What >と< How to >の関係だと思えばいい。これまで、しばしば指摘されてきたのは、われわれ日本人は< How to >の視点は強いが、< What >の視点は弱いということではなかったかと思う。明治での開国以来、なすべき< What >は、欧米社会にお手本があり、それらを「どのように」=< How to >吸収して実現するのかが近代、現代日本の一貫したテーマであったからであろう。

 ところが、日本は経済を初めとしていろいろな分野において欧米の水準を追撃、キャッチアップし、大雑把に言えば同水準に到達してしまった。なおかつ、世界はボーダー(国境)が相対化して、ひとつの土俵、ひとつの大部屋とも表現できるボーダレス・ワールドに突入してしまった。グローバリズムのうねりによってである。その結果、世界各国は各国が共通した同時代的課題に向き合わざるをえなくなり、お手本を探す暇がなく、あえて言えばみずからがお手本とならなければならない環境に遭遇した、といったところであろうか。
 日本もこうした事情から一挙に< How to >志向から< What >志向への転換を迫られていると見える。また、同じことが、国や社会というマクロなレベルだけではなく、個人の生き方というミクロなレベルでも進行してしまった観がありそうだ。多様化という事実認識を超えて、より積極的に「個性化」とか「創造性」とかが強調され始めたのはそうした事態を裏書きしているように思われる。こうして、< What >=「何を」という問いこそが、現代の「キー・クエスチョン」となってしまったのだと思われる。で、これは冒頭で述べたように、「何に着眼するか」という問いだと言い換えてもいいかと思うのだ。

 ところで、「何に着眼するか」という問いには、特殊な状況認識が暗黙のうちに前提とされている気配を感じる。ひとつは、多様化に伴う混沌とした現実であり、もうひとつは
どこか「急かされて急ぐ」雰囲気ではなかろうか。そうだからこそ、個々を詳細に吟味する手法に向かうのではなく、直感をも生かした選び抜かれた「何か」に「着眼」することへと駆られるのだという気がする。
 この辺に見合う現実を見わたすならば、国際問題、国内の政治・経済問題から、各企業の実情、そして個人生活に至るまで、それぞれがそれぞれのレベルで何となく混迷し、かつ時間的にも緊迫化しているといった特徴のいろいろが思い起こされたりするのである。
 「何に」着眼し、「何から」着手すべきかが、いわば今後の命運を左右するのではないかという予感に満ちているのが現代であるかのように感じるのである。

 多分、こうした「何に着眼するか」という問いは、従来は「優先順位(プライオリティ)」づけという知的作業によって処理されていたのだろうと推測する。そして、こうした作業が淡々と行なわれるためには、事の重要度を判断させる価値基準が安定していることが大前提であったはずだとも想像する。
 しかし、現代のもうひとつの特徴は、価値観の多様化であり、そのスクラップ&ビルドであるのだろう。つまり、現代にあっては、事の「優先順位」づけは想像以上に難しいと言わざるをえない。現代政治で生じている葛藤とは、社会問題とその解決に関する異なった「優先順位」づけ同士の葛藤だと表現してもいいくらいなのではなかろうか。

 こうして、< What >=「何を」と問う視点、「何に」と「着眼」する眼力が、無いものねだりのようにクローズアップしてくるのが現在の辛いところだという気がしてならないのである。「情報(化)社会」の中での「情報収集」とその処理においても、この「着眼(点)」を度外視するならば、確実に大海で溺死するか、砂漠で針を探す徒労に至るかのどちらかであるに違いない…… (2003.06.28)


 昨日は久しぶりに近所にある「トロン温泉」に浸かった。案の定、日課のウォーキングの疲れがドッと自覚されるようになってしまった。
 これまでにも度々経験してきたが、日常的な疲労というものはどうも隠されているかのようだ。みんなが緊張してホンネの出せない職場のように、身体の疲れもご当人が張り切っている状況では泣き言など漏らせないというところなのであろう。

 しかし、細胞の活性化を促すとある「トロン」効果の湯に一定浸かっていると、さすがにその影響なのだろうか、帰宅した頃には急速に足腰がだるくなってくる。おかげで、昨晩は堪えきれずに九時には就寝してしまった。今朝も、疲れの自覚が消えない。
 そう言えば、昨日、温泉の脱衣場で年配の客たちが大声で馬鹿なことを言っていた。
「どういうもんなんだろうね。毎日入ってるとどうも調子がよくないんだよね。胃の具合も良くないし……。一日おきくらいがいいのかね」
 わたしはタオルで汗をぬぐいながら聞いていたものだが、その人は多分もう取り返しがつかないほどに身体がいたんでいるんじゃなかろうか、胃なんかは慢性疾患に違いない、湯なんかに浸かってる場合じゃなくて、入院すべきなんじゃないかと、他人事だから勝手なことを考えていた。
 効能のある湯というものは、身体の患部を治すには治すようだが、一気に治すというよりも、潜伏している痛みなどを顕在化させ、治す部分に旗印を掲げるもののようだ。そうすれば、身体全体からの支援、協力の手が得られることとなり治りが早くなるというものだ。もともと、痛みとは火災警報のようなもので、自然治癒を促進するために脳や身体全体の関係部署に緊急連絡書を発行するようなものではないかと思っている。

 確かに、慣らしているとはいうものの、十代、二十代ではない身体にとって鉄アレーを握ってのウォーキング、しかも早朝のそれはいささかハンパではないのかもしれない。脳からの指令なのでいたしかたなく従っている手足ではあるが、実のところホンネが漏らせない辛い日々であったのかもしれなかった。
 しかし、こういった潜伏した疲れというのが危ないはずだ。「過労死」もこういった状況の延長線上に現れるのだろうし、スポーツ中の突然死なども同じなのであろう。さらに拡大解釈をするなら、社員の突然の退職、あるいは逆の解雇、夫婦の突然の破局なども大なり小なりこの潜伏し続けた不具合があってのことなのかもしれない。そして、これらの災いの原因は、クレームを潜伏させてしまう「恐怖政治」的空気にあるのかもしれない。 自然な発露が許される自由な空気の重要さとともに、以前にも関心を向けたことのある「ガス抜き」の不可欠さが肝要だということになるのだろう。
 ただ、身体の、たとえば筋肉などの場合は、一定の負荷をかけなければ強化されないと聞く。また、ダイエットにしたって身体への負荷と食生活での忍耐なくしては達成されない。ホンネ重視とともに、鍛えること自体も忘れられてはならないはずなのだろう。
 先進国でのこうしたバランスについては、自堕落で肥満体であり続ける成人が多い実情を眺めるに、どちらかと言えば、自由が自律をまで食ってしまっている雰囲気がなきにしもあらずなのかもしれない。

 さらに話を飛躍させてしまうと、景気が悪くなっただけで、凶悪残忍な犯罪が目白押しとなる日本の昨今は、人を危めたり殺したりすることにまで自由という名の放縦が染み広がり、節度と信念の側の自律性という課題が消し飛んでしまっているようにも見える。
 ついでに言えば、イラク戦争に関する一連の国内での「無風」の情勢や、アジアから懸念される日本の右傾化に関する日本国内での能天気な社会意識を片側に見て、もう片側で、戦争への道を開かないためにとにかく自由が第一だと主張する人々を見るならば、現時点での自由という意味をもっと内実をもって考えようと言いたい気がする。今むしろ危ないと思うのは、政治というより自分たちの将来に関しても関心を持たない、そんな「自由」が蔓延してしまい、戦争国家へと限りなく接近している動きを阻止できないことではないのだろうか…… (2003.06.29)


「やっぱり、動物って最後の最後までちゃんと飼ってやらなくちゃね」
 犬の散歩から帰った家内が、やや興奮気味の口調で言った。近所の飼い犬のタローのことだった。タローは、うちのレオを散歩させる道すがらのこざっぱりとした家で飼われているもうだいぶ高齢のオス犬である。レオは散歩途中でタローの小屋が見えるといそいそと近づいてゆき、親しげに挨拶をしたものだった。タローの方も、レオが近づくと澄んだ黒い瞳を輝かせて見つめていた。
 ところが、タローは歳ゆえに身体をこわし、そして失明してしまったのだ。失明後のタローは、なぜ見えなくなったのかに納得がいかないかのように、首をうなだれ地面を舐めるような恰好をし続けていた。正視し難い光景であった。

 家内が言った意味は、そのタローがそこのご主人に散歩をさせられている姿が実に感動的だったというのだ。目が見えないにもかかわらず、とてもうれしそうに、明るい素振りで散歩していたという。
 実は、すでにわたしもその光景を見て、少なからぬ感動を覚えていたのであった。
 その家のご主人の姿は、わたしがウォーキングで帰路につく頃、しばしば見かけていた。毎日、年末の大掃除の時のような恰好、つまり、作業用の身なりと長靴という念の入った恰好であった。家の周囲をくまなくめぐらせた多数の植木鉢に丹念に水をやり、手入れをするのが日課のようだった。だから、その植木は生き生きとしており、通る人の目を楽しませてもくれた。タローはそんなご主人のこまめな姿を見るとはなく見ていたようだ。
 タローの失明後、しばらくタローはいじけてしまっていた。小屋の周囲で上述の恰好をして、そしておしっこを垂れ流してもいた。
 が、ある時、わたしはすごいものを見たのだった。
 ウォーキングからの帰り道、わたしが見たものは、一本道のはるか前方に、立ち上がりいななく馬のような恰好をする犬とその飼い主の姿であった。やがて、それらがタローとそのご主人であることがわかった。
 タローは、繋がれていながら、両前足で宙を掴むような恰好をして飛び上がり、着地してはまた同じ事を繰り返しながら嬉々として前進していた。それはあたかも、翼を持った馬、ペガサスが大空へ向かって飛翔する恰好だと思えないこともなかった。ご主人も満足そうな表情だった。わたしは、目頭を熱くさせ、滴り落ちる額からの汗に加えて涙が目に滲むのを感じていた。

 誰だって、突然の失明で遭遇する漆黒の闇は恐怖であるとともに、生き続けることを打ちのめされる打撃を被るのではなかろうか。それは、犬であっても同様であるに違いない。首をうなだれ、不可思議そうな表情で地面を見つめていたタローは苦しかったに違いない。
 しかし、あの両前足で宙を掴もうとするかのようなタローは、どうも鮮やかな、新しい自分の世界を見つけ出したのではなかろうか。生命は、きっと、暗闇の中からも輝くものを見つけ出す、そんな不思議な存在なのだ、と信じてみたいと思った…… (2003.06.30)