旅行先でもないにもかかわらず、今朝は六時半に目覚め、起床した。体内時計の調整を意図して、昨夜は十時半に寝入ったためだろう。決して寝覚めは悪くなかった。
天気予報では低気圧が接近していて、まもなく雨となる予報であったため、とにかくウォーキングに向かうこととした。出発前に、このところ定番にしているインスタントのコーン・スープをすすっていたら、家人も、今日は歩いてみると言い出した。結局、犬のレオの散歩もかねて、にぎやかに出かけることとなったのだ。
わたしはといえば、レオまでいっしょだとのんびり旅となってしまいスポーツ効果が望めないため、片足一キロのウェイトを装着してゆくことにした。こうすると、たとえゆっくりした速度でもそこそこの運動になるからだ。むかし、若い頃には、こともあろうに武道修行者が使う「鉄下駄」を履いて鍛えたこともあったが、さすがにアスファルトの舗道をそれで歩くのはアナクロである。そこで、足首に巻きつけるウェイトを時々使うことにしていたのである。
戻ってきて食事を済ませてもまだ九時半という時刻だ。休日に、こんなに早い出だしは、まず旅行にでも出かけて前夜からのスケジュール立案でもなければありえないことである。これで天候が、いざ春の到来とばかりの晴れであれば言うことはないのだが、あいにくの曇天である。
しかし、こういった「たらふく感」のある休日を過ごしてこそアグレッシィブな労働力が再生産できるはずなのだろうな、と水彩画の画集なんぞをパラパラめくりながら考えていた。
このところ考えることは、職業的パワーのあり方と養い方というテーマである。
現在のような不況で、かつどんな領域でも価格破壊が進行するデフレに遭遇していると、おカネを払ってもらえる職業的活動というものは並大抵のものではないはずだと実感する。まさしく専門的プロでなければならない。「でもしか」的動機なんぞは言うにおよばず、資格取得でさえ効を奏さないご時世だと言えようか。
先ずは、「身過ぎ世過ぎ」の感覚が通用しなくなっており、「この道一筋」のような全体重のゆだね方が要求されているかに思われる。極端に言えば、イチロー、マツイ、タカノハナ、タイガー・ウッズたちのごとく、いやそこまでは無理としても、その意気込みだけは必要であるのかもしれない。そしてそのためには、とにかく私生活もその道にぶち込めるほどに、その道への思い入れが可能でなければならないのかもしれない。つまり、職業、仕事以前にそのことが趣味であると豪語できなければならないのかもしれない。
これが一点目であるが、加えてもう一点留意したいことがある。それは、「出力」のために必須なのは、言うまでもなく「入力」であるという点だ。
かつて、「労働力の再生産」過程という用語が気になっていたが、現代のようなより高度な労働力生産性が求められる時代にあっては、それが枯渇せずに再生産されるとともに、なおかつ拡大再生産されるために、より大きな配慮がなされなければならないと思われるのである。加えて、まともな再生産をさまたげるようなストレスの蓄積などは当たり前のようになっている時代にあっては、それらを癒し、昇華されなければならないはずである。
ここなのである、問題は。ただ、消耗した体力を回復させるといった、労働力の単純再生産だけを考える時代ではないと思われるのである。傷ついた心、精神を回復させることも必須であるし、要請されるより高度な職務に見合う質の高いパワーを養成することも事実上必須だと思われるのである。
つまり、労働、勤務、出力、放電に対して、休暇、入力、充電の側面の飛躍的充実が何としても重要な時代となっていると考えざるをえないのだ。生産といえば、職場でのモノの生産ばかりに目を向けてしまう習慣から、労働力の生産という局面、その高度化にもしっかりと目を向けるべきなのである。
休日にたまに早く起きるとこれだけの能書きをこいていると笑われそうであるが、老いたりといえども、この老骨をまだまだ世のため人のため、自分のためにご奉仕することを目指し、長持ちさせる努力をしたいと思う。そのために、OFFの時間を積極的に活用したい……
ひょっとしたら、現経済の抜本的改革、真の構造改革とは、たとえば公定の休日を年間百日ほど増やすことがトリガーとなったりする、なんてことはないかな…… (2003.03.01)