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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年03月の日誌 ‥‥‥‥

2003/03/01/ (土)  休暇の過ごし方を馬鹿にする者は、職場で泣く!?
2003/03/02/ (日)  「清兵衛」=「藤沢周平」=「山田洋次」の映画『たそがれ清兵衛』!
2003/03/03/ (月)  いい言葉だ!「着眼大局、着手小局」! これが「戦略」的行動か?
2003/03/04/ (火)  たまには、古くて新しい方の言い分を聞くのも悪くない!
2003/03/05/ (水)  何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である!
2003/03/06/ (木)  「弱さ」のままで闘うこと……
2003/03/07/ (金)  職人のプライドを、別角度から眺めてみると……
2003/03/08/ (土)  自分と他者とが異なることをシビアに自覚している人と、そうでない人!
2003/03/09/ (日)  「昭和レトロ」ブームの背後にあるものを追跡せよ!
2003/03/10/ (月)  フィクショナルなコンテンツによる「ガスぬき」を必須とする現代!
2003/03/11/ (火)  厳しい正念場でこそ浮かび上がるお偉いさんたちの愚かしさ!
2003/03/12/ (水)  「ナットク!ナットク!ナットク!」と机を叩く単純なおっさん!?
2003/03/13/ (木)  自分が持つ分には「大量破壊兵器」もいいワケ?
2003/03/14/ (金)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その1)流浪の民?
2003/03/15/ (土)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その2)「赤い傘」の持ち主?
2003/03/16/ (日)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その3)幻想
2003/03/17/ (月)  いまだに冥府魔道を彷徨う日本には一体何が欠けているのか……
2003/03/18/ (火)  国民による情報に対する鑑定眼の練磨こそ!
2003/03/19/ (水)  「いつか」ではなく、「今」が重大な岐路であることをしっかりと意識したい……
2003/03/20/ (木)  「ありがとう、ブッシュ大統領」と言える機知と気骨!
2003/03/21/ (金)  兵士たちに、人間の殺戮を勇気づけるような大義名分はあり得るのか?
2003/03/22/ (土)  操作された戦況報道でも隠れた反面が露出してしまう現実!
2003/03/23/ (日)  イラク国民の被害最小化=戦争の早期終結=精密誘導兵器等での空爆という等式は?
2003/03/24/ (月)  現実を感じ取れない「オッサン」たちが事態を悪化させている!
2003/03/25/ (火)  「我々はこの戦争に反対だ。小泉よ、恥を知れ。お前の持ち時間は終わった」
2003/03/26/ (水)  「ブラックボックス」化された世界の亀裂としての戦争状況!
2003/03/27/ (木)  米国の「ダブルスタンダード【double standard】」路線?!
2003/03/28/ (金)  「破壊されるのは私みたいな子供」 13歳米少女が反戦スピーチ
2003/03/29/ (土)  「フツーの市民」たちが臆病なイマージンを武器にしていいはず!
2003/03/30/ (日)  若気のいたりの暴走族たちの、そのリーダーのようなブッシュのスピーチ?
2003/03/31/ (月)  「ピンポイント」思考で「世界の正義」という「ブランド」が台無しに!





2003/03/01/ (土)  休暇の過ごし方を馬鹿にする者は、職場で泣く!?

 旅行先でもないにもかかわらず、今朝は六時半に目覚め、起床した。体内時計の調整を意図して、昨夜は十時半に寝入ったためだろう。決して寝覚めは悪くなかった。
 天気予報では低気圧が接近していて、まもなく雨となる予報であったため、とにかくウォーキングに向かうこととした。出発前に、このところ定番にしているインスタントのコーン・スープをすすっていたら、家人も、今日は歩いてみると言い出した。結局、犬のレオの散歩もかねて、にぎやかに出かけることとなったのだ。
 わたしはといえば、レオまでいっしょだとのんびり旅となってしまいスポーツ効果が望めないため、片足一キロのウェイトを装着してゆくことにした。こうすると、たとえゆっくりした速度でもそこそこの運動になるからだ。むかし、若い頃には、こともあろうに武道修行者が使う「鉄下駄」を履いて鍛えたこともあったが、さすがにアスファルトの舗道をそれで歩くのはアナクロである。そこで、足首に巻きつけるウェイトを時々使うことにしていたのである。

 戻ってきて食事を済ませてもまだ九時半という時刻だ。休日に、こんなに早い出だしは、まず旅行にでも出かけて前夜からのスケジュール立案でもなければありえないことである。これで天候が、いざ春の到来とばかりの晴れであれば言うことはないのだが、あいにくの曇天である。
 しかし、こういった「たらふく感」のある休日を過ごしてこそアグレッシィブな労働力が再生産できるはずなのだろうな、と水彩画の画集なんぞをパラパラめくりながら考えていた。

 このところ考えることは、職業的パワーのあり方と養い方というテーマである。
 現在のような不況で、かつどんな領域でも価格破壊が進行するデフレに遭遇していると、おカネを払ってもらえる職業的活動というものは並大抵のものではないはずだと実感する。まさしく専門的プロでなければならない。「でもしか」的動機なんぞは言うにおよばず、資格取得でさえ効を奏さないご時世だと言えようか。
 先ずは、「身過ぎ世過ぎ」の感覚が通用しなくなっており、「この道一筋」のような全体重のゆだね方が要求されているかに思われる。極端に言えば、イチロー、マツイ、タカノハナ、タイガー・ウッズたちのごとく、いやそこまでは無理としても、その意気込みだけは必要であるのかもしれない。そしてそのためには、とにかく私生活もその道にぶち込めるほどに、その道への思い入れが可能でなければならないのかもしれない。つまり、職業、仕事以前にそのことが趣味であると豪語できなければならないのかもしれない。

 これが一点目であるが、加えてもう一点留意したいことがある。それは、「出力」のために必須なのは、言うまでもなく「入力」であるという点だ。
 かつて、「労働力の再生産」過程という用語が気になっていたが、現代のようなより高度な労働力生産性が求められる時代にあっては、それが枯渇せずに再生産されるとともに、なおかつ拡大再生産されるために、より大きな配慮がなされなければならないと思われるのである。加えて、まともな再生産をさまたげるようなストレスの蓄積などは当たり前のようになっている時代にあっては、それらを癒し、昇華されなければならないはずである。

 ここなのである、問題は。ただ、消耗した体力を回復させるといった、労働力の単純再生産だけを考える時代ではないと思われるのである。傷ついた心、精神を回復させることも必須であるし、要請されるより高度な職務に見合う質の高いパワーを養成することも事実上必須だと思われるのである。
 つまり、労働、勤務、出力、放電に対して、休暇、入力、充電の側面の飛躍的充実が何としても重要な時代となっていると考えざるをえないのだ。生産といえば、職場でのモノの生産ばかりに目を向けてしまう習慣から、労働力の生産という局面、その高度化にもしっかりと目を向けるべきなのである。

 休日にたまに早く起きるとこれだけの能書きをこいていると笑われそうであるが、老いたりといえども、この老骨をまだまだ世のため人のため、自分のためにご奉仕することを目指し、長持ちさせる努力をしたいと思う。そのために、OFFの時間を積極的に活用したい……
 ひょっとしたら、現経済の抜本的改革、真の構造改革とは、たとえば公定の休日を年間百日ほど増やすことがトリガーとなったりする、なんてことはないかな…… (2003.03.01)

2003/03/02/ (日)  「清兵衛」=「藤沢周平」=「山田洋次」の映画『たそがれ清兵衛』!

 藩命を受け果し合いを前にした井口清兵衛が、粗末な朝食を済ました後、かゆをすすっていた椀に柄杓で湯をそそぎ、たくあんの一切れでその縁を拭う。湯とたくあんを口にして、食器類を布で拭き食器箱にしまう。
 監督山田洋次、原作藤沢周平の『たそがれ清兵衛』は、禅が何でもない日常を大事にするように、武士の時代の日常を低い視線でリアルに見つめようとする映画だと思われた。
 昨日、一日中雨だと知らされていたので、久しぶりに映画館に足を運ぶこととした。わが事務所のある裏手に、シアター渕野辺という異色の映画館ビルがある。数階建てのビルの二フロアーに、学校の教室ほどの広さの上映室が四つあり、最新映画の配給を受けて上映しているのである。各上映室には、まるで応接室のソファーのような椅子を初めとして四十席程度の座席が設えてある。また、スクリーンも普通の映画館の四分の一程度の大きさであろうか、全体がきわめてささやかな作りなのである。
 映画の日だからということで、入場料は千円だとされ思わぬ割引を受けて待ち合いのフロアーに向かった。小さなフロアーに溢れる人たちの面々を見ながら、へえー、結構、山田・藤沢ファンが多いんだな、若い人も関心があるんだ、と思いきや、
「『戦場のピアニスト』をお待ちのお客様は、もうしばらくお待ちください」
との案内係の声がした。向かい側の上映室がそれだったのだ。
 『戦場』組が向かい側に消えたあと、『たそがれ』組がフロアーに残された。見回してみると、皆「たそがれ」顔をした中年以降の人々であった。真面目そうな面持ちではあるが、どことなく疲れているような、山田・藤沢の親戚、知人・友人といった雰囲気の人々だと感じたものだ。その中にもちろんわたしもいる。

 しかし、監督山田洋次、原作藤沢周平とは何と素晴らしい取り合わせなのであろう。若く貧しかった頃、近所の定食屋でさっぱり味のきつねうどんとチキンかつ、半ライスとがセットになったうどん定食を有難がって毎日のように食ったことがあった。失礼ながら、いやもちろんうどん定食に対してではなく「山・藤」コンビに対してであるが、安心感と充実感において、まるで、その定食のようなピッタリコンビだと思ったものだった。また、どことなく実直さと抑制とをただよわせる真田広之というキャスティングも理解できたので、久々に見る映画は『ロード・オブ・ザ・リングU』ではなく『たそがれ』だと心に決めていたのだった。
 ちなみに、家人はタダ券をもらって『リングU』を見に行ったようだ。わからぬわけではないのだが、とにかく、家人や多くの人たちは地味な映画は敬遠しがちなようだ。たとえば、『戦場』にしても、「おすぎ」を初めとして「感動! 感動!」の連呼宣伝で多くの若い女性たちが大動員されているようではあるが、感想はというと「感動はしたけど、ドドーッと沈む暗さが苦しかった!」と聞く。暗くて重いストーリーには耐えがたい人々が多いのが実情なのかもしれない。

 暗くて重いと言えば、藤沢周平『たそがれ清兵衛』の原作は、決して軽快なストーリーではない。どちらかと言えば、地味の二乗であり、おまけに自民党政治を彷彿とさせるカネと権力がらみの「藩政」の葛藤が下敷きとなった、今どきのギャルがシカトする内容である。まあ、藤沢周平ものの中ではハッピー・エンドの部分だけが救われる作品なのかもしれない。
 ところが、わたしは映画を見て驚いた。病気で臥せっている妻女と二人きりのたそがれ清兵衛こと井口清兵衛に、二人の幼い女の子がいるではないか。さらに、もうろくして息子清兵衛に対してさえ「どなたでしたかの」と対応する母上がいるではないか。話が違うのだ。思わず「聞いてないよー」と言わぬばかりであった。
 おまけに、てっきり善玉家老の屋敷で、悪玉家老への対策を練る談議のシーンから切り出されるものとばかり思っていたら、岸恵子ナレーションで、幼子であった過去を振り返るかたちで、母親の葬式場面からオープニングするではないか。
 「わたし的」には、どちらかと言えば、原作の政争がらみで翻弄される、といったシチュエーションが嫌いではないだけに、「何だこりゃ?」と先制パンチをくらってしまったのだった。
 山田洋次脚本・監督は、要するに『たそがれ清兵衛』をメイン・ストーリーとしながら他の藤沢周平作品をブレンドして新ストーリーを練り上げていたのである。そして、見ているうちに、山田洋次の確信、「清兵衛」=「藤沢周平」という思いが全編を支配していると気づき始めたのだった。娘たちがいたのも、藤沢周平の実人生の結果なのではなかったかと思うし、藩内政争という下敷きを限りなく抑制して描いていたのも、藤沢周平の関心の焦点が、下級武士(庶民)同士の日常的な心の触れ合い自体であったことを映画的に処理するための結果によるものであったのだろう。
 そして、さらに上記等式の後に=「山田洋次」と付け足すべきであるとも感じたのだった。時代劇とはいうものの、通常のそれらとは異なり、武士たちを生かしている農民たちや、いつの時代にも大人たちを勇気づける子どもたちの姿、また生きとし生ける物たちへの優しい視線がそれである。さらに、その否定できない影としての死という事実をも、忘れずに抑えられた色調で描き出していた。不作続きを苦にした農民親子のむくろが川に流されていたり、クライマックスの果し合いで相手の侍が死ぬ直前の場面など、現実のシビアな局面からも目を逸らさない知性がそこにあった。

 ローマ人たちが求めたごとく、カタルシスのための刺激のように斬新なアイディアによる3Sの刺激を排除せよとは言わない。それらによってしかこじれたストレスを解消できない者もいないわけではないだろうから。また、ただただ明るい、露出オーバーな写真のような映画を期待することもそれはそれでいい。
 しかし、日常生活をフォーカスして地味でありながら、じわーっと心に染み込んでくる映画が、それとして受け容れられてゆくそんな環境であり続けて欲しいものだと思った…… (2003.03.02)

2003/03/03/ (月)  いい言葉だ!「着眼大局、着手小局」! これが「戦略」的行動か?

 日本経済(日本企業)閉塞の打開は、一重に「戦略」構築以外にはない! と森谷正規氏(『「勝ち組」企業の七つの法則』ちくま新書、2003.02.20)は言う。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と評された70〜80年代の日本経済の大成功は、言うまでもなくモノ作り技術と現場主義による勝利であったという。しかし、その成功要因(成功体験)それ自体が、90年代以降の停滞と敗北を水路づけており、そこには一貫した「戦略」の欠如、「戦略」との無縁性が見て取れる、というのである。

 この論証のために、技術畑に詳しい筆者は、さまざまな例を引いている。韓国・台湾勢に出し抜かれた「半導体領域」、輝かしい情報技術を誇っていたにもかかわらず大きな遅れをとってしまった「IT領域」、東南アジア、中国の低コスト攻勢にもはや太刀打ちできないほどの状況となってしまった「先端技術製品領域」、さらに国内レベルで自滅的に衰退して行ったトヨタを除く「自動車メーカー」各社。さらには、国際的競争力を持ちえない高コスト体質となってしまった金融・輸送・電力などの「サービス」、「建設業」、食品・日用品などの「軽工業」。

 これらの低迷と敗退の根底には、「戦略」欠如という共通した敗因が潜んでいると筆者は見ている。たとえば、「半導体領域」にしても、追い上げてきた韓国の推移の背景には、「後発国は製造装置を日本から購入すれば日本の高度な技術を入手」可能なのだという現代的事実がある。また、突然この領域に参入してグングン伸びている台湾が、極端な低コストを実現する「ファウンドリー(受託生産のみを行う新ビジネス方式)」という目論見で効を奏しているという事実がある。半導体製造装置の領域でも、製造能力にだけに目を向けてきた日本勢に対して、台湾勢などの新規参入組への「ソリューション」提供を併せて進める海外装置メーカーに水を空けられてしまったのだと。
 「IT領域」では、どうしてもハードウェア志向となり、コンセプトやソフトウェアの弱点を補い切れないわが国の産業体質が、そのまま弱体ぶりを示してしまった、という。「先端技術製品領域」では、人件費が何十分の一という強みを持ち続ける中国と、現代の電機製品の多くがエレクトロニクス技術のおかげで組み立てプロセスがシンプルになっているという時代の追い風もあり、中国の低コスト生産を押し上げているという。また、上記の「ファウンドリー」と共通点を持つ「EMS(エレクトロニクス・マニュファクチャリング・サービス)」(電子機器の受託生産専門形態)という新方式が、中国、台湾の安い労働力と見事に結びつき始め、ビジネス的成果を上げているという。

 要するに、モノ作りこそ! と自負して注力してきたために、逆に時代の変化に柔軟に対応してその変化を活用するという「戦略」に目が向かなかった。そして、それらを周辺諸国に持ってゆかれたということのようなのである。
 また、こうした「戦略」性欠如ゆえの敗退は、対海外の関係に限られず、国内的にも目につくという。それが、「戦略」なしにトヨタの動きに追随したゴーン氏以前の「日産」であり、同様に独自「戦略」を持たずに他社と同じ売れ筋製品でシェアだけを競おうとした「マネシタ電器」いや松下電器である、と。
 「サービス」、「建設業」、「軽工業」などの高コスト体質企業群は、本来ならば、深慮遠謀の「戦略」をもって来るべきグローバリズムに備えた動きを促す役割でもある政治家=自民党政治が、逆のことをしてきたと指摘する。
「自民党の族議員が、政治資金獲得と集票の見返りに産業に手厚い保護を加え」、競争を排除させるために「さまざまな規制」を設けたためである、と。

 日本が、「戦略」に乏しい国であるとの指摘は、決して目新しいものではないだろう。工業立国、技術立国、モノ作り大国と言われてきた言葉自体に、すでに、問題は「戦略」などという「小賢しい」スタンスではないのだ! という「美意識」めいたものを感じたりしないでもない。
 しかし、「戦略」というものを「小賢しい」と感じる感性は、あまりにも幼過ぎると言わなければならないだろう。あるいは、あまりにも情緒的に過ぎると言ってもいい。さらに言えば、考えるという行為、広い視野と長期の見通しを推し量って考えるという人間だけの能力への、過小評価が著しいと思える。
 また、これらの感性の根底には、自己と他者の「同質性」にばかり関心を向ける(=集団性 > 個人性)日本人の原感性(?)とでもいうべきものが潜んでいるのだろうか?
 そういう意味では、今、関心を呼びつつあるNHK大河ドラマの宮本武蔵(戦略家というより、戦術家のような気もするが、深くは詮索しないこととする)は、甘えん坊の日本人にとって、一面でのこれからの生き方、考え方の手本となるやもしれない。
 場合によっては、イラク攻撃への小泉首相のあいまい発言は、ひょっとして巌流島で佐々木小次郎を待たせたイライラ作戦のつもりなのだろうか? そんなワケないね。単なる二枚舌だとしか見えないもんね…… (2003.03.03)

※ <よびかけ> 「台場小同窓」ページの「何でも投票」の選択肢に『「イラク攻撃」反対!』の項目を入れました。いよいよ接近するとにかく馬鹿げた戦争に反対したい方は、どなたでもどうぞ一票を投じてください。何の意味もないかもしれませんが、自分はあんなやり方はイヤだという意思表示をかためることにはなるはずです!

2003/03/04/ (火)  たまには、古くて新しい方の言い分を聞くのも悪くない!

「民主主義の本質は、それは人によっていろいろに言えるだろうが、私は、『人間は人間に服従しない』あるいは、『人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない』それが民主主義の発祥の思想だと考えている。」

 この一文の出典が何であるかを即座に了解する人に対しては何も言うべきではなかろう。
 しかし、たとえこの人のことを良く知っていて当然な、国文学の道を小走りに通過した人でさえ、この人曰くの「あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライド」にわざわいされ、首をかしげているのではなかろうか。
 まあ、そんなことはいいとしても、世はまさに、地球を覆うほどの大局面から、猫の額ほどの狭さの個人空間にいたるまで、あるいは赤絨毯の上方からダンボール敷きの下方にいたるまで、この人曰くの「民主主義の本質」が踏みにじられている。

 「本家・民主主義」の看板をデカデカと掲げている米国が、今ややっていることは何兆円もの膨大な武力を投じた「服従」の強要であり、子どもを含む人間たちを破壊しての油田源の征服だ。また、日本政府のやっていることは、朦朧とした知性で思い描く別の恐怖(北朝鮮による核攻撃?)を回避すると口走りながら、イラク周辺の他国の人間たちに恐怖を転嫁することを少しも恥じないバーバリズムの「ポチ」であろう。
 加えて、各国で人間らしい人間たちがそれでも足らぬと「人間の証明」をしているにもかかわらず、どこ吹く風のわが国民。「ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか」とこの人は喝破したが、この国の誰もが「家庭のエゴイズム」に埋没し、そして国家のエゴイズム(いや、それほどの自己主張もないか)をひたすら支えてしまっている。
 その結果、わが国の存在感の無さときたら、日本海と太平洋が地続き、いや海続きとなっていたとしてもさほどの変わりがないと、思われているのではないか。もし、わたしが「ブッシュ」なら、アジア大陸の手前の小島には瓦屋根の「犬小屋」だけがあると思い込むだろうし、もし、わたしが、「将軍様」であったなら、東の大海を望んで目に入るのは、遥か米国の西海岸なのであり、その手前は、存在感なく霞んで何も見えないと言うに違いない。まさしくジャパン・パッシング(passing)! だ。

 民主主義なる言葉を「御紋」にして、「征服」「服従」「親分」「子分」という古風な関係を温存、推進している欺瞞の世俗がほとほと厭(いや)になる。だからだとも言えるのであろう、この人は五十四年前の昭和二十三年、奇しくもわたしが生まれた年であるが、その年の梅雨に入水自殺でグッドバイしてしまった。
 今、直前にしたためていた生の声(口述筆記原稿!)である『如是我聞(にょぜがもん)』を読むと、戦後の偽善的な国家状況と、戦争荷担に口を拭う文壇大御所たちの偽善、そして「強さ」ばかりへと雪崩れ込む時風に対するこの人、太宰治の絶望的な苦悩が、現状の同一世相と共鳴しながら不気味に蘇ってくる。もっとも、自分は太宰ほどに「弱さ」に対する鋭敏さを持ち合わせていないことと、色男でもないため心中の選択はあり得ないが、太宰が感じとった理不尽な世俗への嫌悪感だけはたっぷりと共有できる。

 しかし、それにしても太宰治という作家は、時代の空気をあますところなく洞察する卓抜な感性と知性を持った人だと思える。この『如是我聞』の中だけでも、十分に現代の風潮に当てはまる箴言(しんげん)がうごめいているような気がする。(明日に続ける)
 昨今、特に言葉の乱れや、活字文化の低迷が言われているが、半世紀以上前に次のような洞察をしていたのが太宰なのである。

「国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる」

「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」

 裏返して言えば、この半世紀、わが国は何も変わっていなかったとも言えるとするならばなんと、なんと情けなや…… (2003.03.04)

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2003/03/05/ (水)  何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である!

 太宰治のような「したたか」でもあるような作家については、軽々しく引き合いに出してはいけないのであろう。だが、やはり今、なぜか再び太宰治を語る時代でもあるような気がしている。
 そんなことを感じていたら、「『太宰治シンドローム』が現代の病弊であると同時に、実はすぐれて普遍的な文学の課題でもある」と睨む本が目についた。(安藤宏著『太宰治 弱さを演じるということ』ちくま新書、2002.10.20)
「互いに過度に干渉したくない。周りの人間と違う自分を、無用な接触を避けつつ、絶えずどこかで確保しておきたい。けれどもそこだけに閉じこもることも不安なので、他者への窓口は開けておきたい。疎隔の度合いを絶えずチェックし、知悉(ちしつ)しておかなければいられない。へだたっていると同時にどこかでつながっていたい。そういったバランス感覚で勝負していく」(上記安藤)現代人一般の悩みを、太宰はひそかに癒してくれる存在なのだそうだ。

 太宰治は、各時代の若い読者からの支持を維持し続けて来た作家である。そして、現代という時代は、概して「若い」ことの辛さを肥大化させ、加えてその辛さを他の年齢層にも浸透させているようだとも思われるが、そうだとすれば、「今なぜ太宰なのか?」がわかるような気もするのである。
 核心の問題に迫ることは、いま少し材料を集めてからにするとして、昨日に引き続き『如是我聞』での太宰に触れておきたい。

「人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。」
 この指摘は、たぶんそのまま現代の若年世代に、いや、大多数の現代人の心の叫びであるかもしれない。そして、「構造改革」によって進められるこれからの時代が、さらに「ただ、人と争うこと」となってゆくことを誰もが予感しているはずである。
 そこで、「私たちは、何かおいしいものを食べなければいけない」のだが、「おいしいもの」とは何であるかがわからない。あるいは、「おいしいもの」を求め続けると、「負け組」に与(くみ)することになってしまうのではないかというこ利口さが働いてしまうのかもしれない。

「何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の(この日本という国号も、変えるべきだと思っているし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思っている。)この人たちは、ダメだと思う。」
 日本の国旗や国号を、「おいしいもの」とは見なせない太宰は、明る過ぎ、強すぎるそれらとは反対側に「おいしいもの」としての何かを見つめているのかもしれない。「人間の弱さ」を軽蔑する者を軽蔑し、「強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ」「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ」と強がる!(?)
 そして、「人間の弱さ」を起点とする文学=「おいしいもの」の相貌を次のように描き出すのである。
「文学に於て、最も大事なものは、『心づくし』というものである。『心づくし』といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、『親切』といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、『心づくし』なのである。作者のその『心づくし』が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う」

 そんな「おいしくない」話には手を染めたくないね、とほざいたり、文字通り「おいしいもの」に貪欲なあまり、がたいばかりを大きくしている、もう片側を歩み人生を素通りしようとしている一部現代人には、無縁の話と言うほかない…… (2003.03.05)

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2003/03/06/ (木)  「弱さ」のままで闘うこと……

「所謂『若い者たち』もだらしがないと思う。雛段(ひなだん)をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ。私は、新らしがりやではないけれども、けれども、この雛段のままでは、私たちには、自殺以外にないように実感として言えるように思う。」(『如是我聞』より)

 この際ついでだから、とことん太宰治に現代批評を代弁してもらおうと考えた。
 自殺をした人、自殺癖のあった太宰に自殺を思い留まらせる役を任ずるのは見当違いかもしれない。しかし、このところ相次いだ若い世代の集団自殺(インターネットで知り合っての、一酸化炭素中毒自殺!)が、気になっているのだ。預言者気取りでものを言うつもりは毛頭ないが、なぜだか、現代の日本の「ビョーキ」が最悪のかたちとなって現れ始めた予兆のような印象を抱くのである。

 それでなくとも、デフレ不況に起因すると思われる失業倒産自殺や、その周辺での過労による自殺、鬱病(うつ病)による自殺などがあとを絶たない暗い世相である。
 真の自殺の原因は、誰にもわからない。言うまでもなく、わかっていた人が向こう側へ逝ってしまうからである。しかし、自殺を選択するプロセスはやはり「病気」なのだと考えたい。いかに、理路整然とした理屈が添えられようと、他の動物には不可能なこの選択は、人間が他の動物に比類ない素晴らしい存在である分、掘り込んでしまった闇がもたらした「病気」の結果だと言うほかない。要するに、「精神」、プラス部分とそれと同じだけのマイナス部分を持つ「精神」の、マイナス部分がなせるわざなのであろう。

 最近、ひそかに増加し続けている鬱病(うつ病)に他人事ではない関心を寄せているのだが、ものの本によると、鬱病周辺で自殺をする人は、重い患者ではなく、中程度の人に多いという。重い患者の場合、自殺という一大決行をするエネルギーさえ失われているということなのである。自殺には、それなりのエネルギーが必要となるという指摘は言い得て妙な感じがしたものだった。
 ここから飛躍して推論するならば、自殺は「病気」によって選ばれてしまうものだとしても、身体性の「病気」などではなく、「精神」側の「病気」であり、しかもマイナス部分の「精神」のエネルギーによって引き起こされるものであろうということだ。いわゆる「憑依(ひょうい)」という古来から口にされてきたイメージが近いようにも思える。

 人間が、他の動物とは異なって「精神」界を初めとする文化を創り出したのは、他の動物たちが一体化している自然界から離れ、個人と集団との緊張関係の中で観念世界を拡張してきたからにほかならない。この観念世界である文化が、個々の個人にも違和感なく受け入れられている場合には、人間は何にもまして強く、安定している。
 しかし、文化自体が矛盾を曝け出す時代には、あるいは、本来が文化にしても人間自身にしても社会的存在でしかないにもかかわらず、個々の個人が極度に孤立した環境に追いやられ続けると、到底個人の「精神」は安定しえなくなる。
 こうした場合、その不安定な「精神」、その葛藤が、逞しい自立性に支えられ新たな文化を創造してゆく場合もある。いわゆる天才芸術家の「ゲージュツは、バクハツだ〜!」である。しかし、多くの平凡な個人は、その孤立性の地獄の中で、すがるものもなくますます不安定な感覚に陥り、極端な「思い込み」の螺旋階段を駆け上っていくのかもしれない。あたかも何ものかに「憑依」されたかのように。
 問題は、現代の「不当」とも見える個々人の孤立性環境にあるような気がしている。「不当」な孤立性環境のもとでは、ケータイなどのインターネットを通じた世界が、虚構性を秘めていてもその真贋(しんがん)を鑑定できず、「思い込み」路線でしか処理されないのであろう。

 太宰は、「『若い者たち』もだらしがないと思う。雛段(ひなだん)をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ」と叫びながらも、結局は「自殺以外にないように実感」に「憑依」されてしまった。
 作家にとっての社会性である文壇を敵に回した太宰は、退路を断ってしまった。決して、後世に身を託し超然孤高を志向するタイプでもないにもかかわらずである。また、「ドーピング」常習者であった太宰の側面も気になるといえば気になる。人間の身体という内的自然、「精神」的に闘う者が最後の拠点とすべき自然を、結局撹乱してしまう薬物への依存は、IOC的観点とは別に、やはり進路をも崩すことになってしまったのかもしれない。
 ここで、わたしは太宰論を論じているつもりはない。そんな資格があるわけがない。そうではなくて、わたしが関心を向けているのは、決して作品こそしたためはしないが、孤立し、自意識を処理しようがなく悩み、そしてさまざまな薬物にもたっぷりと依存している「隠れ太宰」が、現代には蔓延していると見えるからなのである。
 複雑な現代にあってどうすべきか、答えはひとつであるはずはない。ただ、働きかけずしては、「路(みち)」も朽ちるはずである。「雛段(ひなだん)をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ」と、「メロス」のように叫ぶ、一面での太宰に今切ないほどの共感を覚えている。「弱さ」のままで闘うことに…… (2003.03.06)

※ <よびかけ> 「台場小同窓」ページの「何でも投票」の選択肢に『「イラク攻撃」反対!』の項目を入れました。いよいよ接近するとにかく馬鹿げた戦争に反対したい方は、どなたでもどうぞ一票を投じてください。何の意味もないかもしれませんが、自分はあんなやり方はイヤだという意思表示をかためることにはなるはずです!

2003/03/07/ (金)  職人のプライドを、別角度から眺めてみると……

 先日、あるテレビのドキュメンタリー番組で、料理職人のプライドに関する、考えさせられるものがあった。
 板前といえば、しばしば伝統的で本格的な味にこだわる職人の代表格のように見なされてきた。頑固に自分の味にこだわり、それがわからない客を軽蔑さえする姿勢が、逆に珍重されたりもしてきた。店のオヤジから
「テメイなんざこれを食うには十年早いてんだよ! チャラチャラしたファースト・フーズにでも行ってガキと一緒するがいいや!」
なんて啖呵(たんか)を切られると、傍にいるものは余計にうまがったりもしたかもしれない。客もまた、まるで「マゾ」なのであった。

 しかしそのドキュメンタリーは、そんなこだわり職人が悲惨な境遇を迎えたことを伝えるものだった。「こだわりの味」を売り物にしてきたチェーン店が、立ち行かなくなり、ビジネスの新しい流れに乗ろうとする、話題性のある店舗ムードと「創作料理」を売りにした企業に買収され、「こだわり職人」たちが雇われることとなるのである。
 「創作料理」とは、平凡で低コストの食材を使って、とにかくファースト・フーズに負けないほどの短時間調理を目指し、利益を上げるもののようだった。「こだわり職人」たちは、オーナー側主催の一ヶ月にわたる研修に参加することになったのだ。そこでの短時間調理の訓練は、「こだわり職人」たちの姿勢の根底を揺るがし、かれらのプライドを真っ向から粉砕するものだったのである。こんなものつくれるか、という思いや、要求されたスピードについてゆけない頭と身体。とうとう、研修半ばで脱出するものまで現れた。
 引き戻しに向かった仲間が逃亡者と交わした緊張間あふれる会話。
「あんたがこだわっているのは、プライドだろ? なら言うが、オレは、プライドを『捨てる』と腹を決めたわけじゃないんだ。そいつを棚上げにしようとしているんだ」

 なんとも切ない話である。上のセリフは、そうとでも考えなければ出口なしというぎりぎりの瀬戸際に立たされた男たちの大見得切りのように見えた。
 だが、この悩ましくも切ないシチュエーションは、決して、決して他人事なんぞではないのだ。おそらくは、大多数の従来の仕事師たちが、現代の状況のただ中で大なり小なり感じ取っている苦悩なのだと思う。
 苦節何十年のモノ作り仕事師たちのことが、まずは思い浮かべられなければならないであろう。ただただ良いモノを作ろうとし、そこに全人生のウエイトをかけてきた。そして、苦しいながらもそのあり方はまずまず報われてきたであろう。
 しかし、事情が一変してしまったのだ。中国製の超低価格製品の流入が原因だと決めつけることも不可能ではない。価値観・感覚の多様化による市場構造の激変を理由とすることも可能である。

 だが、わたしが、冒頭のドキュメンタリーで感じとったものは、パラダイム(枠組み)の変換ともいうべき事実である。簡単に言ってしまうなら、料理職人にプライドがあるのならば、客には客のプライドがあるということを当たり前のように見つめる視点の問題である。モノを作る側だけに優位性を置き、それらの者のプライドだけに目を向けていた常識自体が覆されようとしている時代の問題と言ってもいい。
 これは、すでに、男と女の関係において、「ついて来るか〜い♪」という男性主導型、女性ポチ型の歌謡曲や、「男のなんたらかんたら……♪」という男の自己満足世界の歌謡曲を、男ですら相手にできなくなっている「時局」とリンクしていることなのであろう。
 冒頭のオーナー企業の目指すところが首尾よく行くかどうかは知らない。たぶん、年寄りのわたしの舌は、伝統の味を求めたりするので、そうした店の先行きは微妙な問題であるかもしれない。
 が、職人のプライドだけを重視するといった「生産者論理」=「消費者蚊帳の外」的な発想ではなく、顧客のニーズに細心な注意と敬意をはらってゆく姿勢は成功確率を高めているはずである。
 それに較べると、従来の職人のプライド云々という発想が、何と向こう見ずだったのであり、「サービス」精神に欠けていたかと痛感させられるのだ。

 こうした「生産者論理」脱却の現代的動きに対して、これを拒絶するオールドファッション派も相変わらずいることはいる。「客に迎合してどうなる!」とか、「専門家ではない素人の言いなりになってどうする!」とかを相変わらず繰り返す人々である。官僚機構の人々、既成権力者たち、自民党的勢力などがそれであろう。「(政治に素人である国民の)世論は間違えることもある!」とぬけぬけと言いのける首相もこの派であろう。専門家だけが正しいと見なす根拠はなくなっただけではなく、専門家たちの自家中毒こそが問われている時代環境であるはずなのだろう。「説明責任」という時代的言葉もこうした文脈から生まれていると思われる。

 ところで、今日で一応太宰治の『如是我聞』から離れようと思うが、太宰は、志賀直哉などの文壇の大御所たちには、職人のプライドのような「エゴイズム、冷たさ、うぬぼれ」こそあれ、「サービス」がないことを本気で憤っていたのだ。
 半世紀も前、ふんぞり返っていて誰も疑わなかった時代に、芸術家とて「サービス」姿勢がなければならない、「渡辺崋山の絵だって、すべてこれ優しいサーヴィスではないか」と言い放った太宰が、いかに先見性があったかと驚かされるのだ。
 しかし、なぜ太宰にそうした先見性が可能であったかを推測するに、「弱さ」の視点に視座を定めていたからなのだろうと考える。「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るように努力せよ」と叫べる視座からしか見えない世の真実や時代の流れというものが確実にあるように思われる。大地震や、森の大火災を小さな動物たちがいち早くキャッチする話と似ていると言ってもよい。松岡正剛氏着目の『フラジャイル(fragile)』なものの持つ積極的な意味が、太宰治を通して見えてきたような気がしている…… (2003.03.07)

2003/03/08/ (土)  自分と他者とが異なることをシビアに自覚している人と、そうでない人!

「あなたに忠告しておくと、他人(ひと)は自分の考えとは違うのだ、と先ずは見なした方が無難よね。それで、だからどうすればいいのかを考えるのよ」
と、これは、リスク・テイキングが絡むビジネスの現場での、自己主張が強く、リスクに甘い若者に対するある「経験者」のアドバイスである。
 なるほどその通りに違いないと、うなずいてしまった。

 人の中には、自分と他者とが異なることをシビアに自覚している人と、そうでない人がいるようだ。どちらかと言えば、最近の若い世代は、前者だと言えるかもしれない。また、いわゆる「団塊世代」の多くは後者だという気がしないでもない。加えて、団塊世代以前の伝統的日本人、長く集団的行動・生活になじんだ年配の方々も後者なのかもしれない。
 さらに、言うまでもなく、自己中心的でしかありえない幼児や小さな子どもが後者であることは誰もが知っている。そして、
「あの人、痛がってるのにどうして泣かないの?」
という幼児の言葉はかわいいが、
「だってそんなこと当たりめぇじゃねぇか! 誰だってそう思うにちげぇねぇよ!」
と息巻く後者の大人たちは、とかく若い世代から鼻つまみものとなってしまう。自分自身そのきらいがあるだけに、用心用心と思うわけだ。

 昨日は、「職人のプライド」について能書きを書いた。つまり、そのプライドは、職人の「思い込み」が許されていた環境で成立していた、という点が要点であったかもしれない。つまり、自分らが腕を磨き、その道に精進することを自分らが尊いことだと「思い込む」のは当然だとして、顧客をはじめとする周囲の人々も同様にこれを期待しているのだと「思い込む」ところに、現代の環境変化とのズレが生じてしまうというわけなのである。悪気がないだけに、あるいは自覚が伴わないだけに、状況は悲惨さを増してしまう。そして、こんなことが、現代のわが国の環境ではいたるところで繰り返されているような気がしてならない。
 今、窓の外から、「街宣車」によるあいも変わらない愚行、「チャラチャラチャラチャラ、ニッポーン男児〜♪」が強い風に飛ばされて聞こえてきた。彼らだって、カネのためももちろんあるだろうが、「これを支持する人がいる!」という自分本位の「思い込み」によって動いているのであろう。

 問題は何なのか? 「思い込む」こと、さらに飛躍して言えば「信念を持つ」ことは悪いことなのか?
 いや、たぶん、そうではなくて、事の「プロセス」がマズイのかもしれない。特に下調べといった状況把握もなしに、いきなり結論へと走り込むその性急さがマズイのであろう。他者たちが何をどう感じ、考えているのかを「目配り」するなり、自分なりに調べるなりをしないのがマズイのであろう。そうした下調べでは、多くの他者たちとの具体的な接触も必要となるはずである。統計的数値を弄ぶだけで済むはずはないのだ。
 民主主義とは「手続き」であると言った人がいるが、その眼目が民意への接近のための限りない「プロセス」だということなのであろう。

 で、自分と他者が同じだと考えてしまうことは確かに、現代という特殊な時代にそぐわないはずである。平気でそれを押し通そうとする輩たちによって引き起こされている問題は無数にあると思われる。
 だが、それでは、自分と他者とは異なる! という立場に立ちさえすれば事は済むのかと言えば、それもそうではないような気がしている。それは、単にスタートラインに立っただけのことであって、問題はそこから始まるはずである。
 だから、団塊世代以前の者たちの性癖も問題であるが、若い世代の「自分と他者とは異なる!」と「思い込む」姿勢も問題なのであろう。どう異なるのか、とか何が結局同じであったのか、とかを自分で了解してゆくための対人関係、できれば「人なつっこさ」があればいいのにと感じている。そうした下調べというか、対人関係検証プロセスというかが充実するならば、ネットを通じた「アンビリーバブル!」な犯罪なんぞは起こりようがないと思うのだが…… (2003.03.08)

2003/03/09/ (日)  「昭和レトロ」ブームの背後にあるものを追跡せよ!

 今、「昭和レトロ」がブームのようだ。以前にも同じテーマで書いたことがあった。(2002.11.05)「子ども時代をなつかしむ団塊世代と、そしてその子どもたちの世代という両世代をダブル・ターゲットとして狙い撃ちできる」という商業主義的なねらいについてと、そして「『昭和三十年代』頃までは残っていたであろう、『生活空間の中の人間味』を、そんなものが見事に脱色されてしまった時代に登場した若い世代が、人為的に再現された空間の中でさえ何となく『残り香』を嗅ぎ取ったりしてはいないか」というようなことを書いた。

 どうも、「昭和レトロ」ブームはそこそこ根強く継続しているかに見える。昨日も、あるテレビ番組で、さびれてしまった地方の町おこしが、この「昭和レトロ」によって成し遂げられつつある事情を報じていた。大分県は豊後高田の商店街が、もともと昭和三十年代頃に施された佇まいを、それ以後の看板その他の改築部分を取り払う模様替えをして、当時の姿に戻すイメージ・チェンジの上、「昭和の町」商店街と銘打ったところ、全国各地からの観光客があとを絶たない盛況ぶりとなっているらしいのだ。新たに「テーマ・パーク」のように創られた各地の模擬「昭和通り」のフィクションを凌駕して、そのリアリティが好評なのだそうだ。
 現代の目覚しい環境変化に追いつきつつ独自なセールス・ポイントを作り出すことは到底無理であると認識した役所が、過去に目をつけるといった着眼で今のところ奏効しているようである。背水の陣というべきか、抜け目のない姿勢というべきか、そうした思い切った発想転換による企画に感心させられたものだった。

 しかし、もうひとつ目を向けさせられた事実は、いやあ、そうした場所に押し寄せる人々が結構いるんだ! という現実なのである。その人々の姿を見てみると、どう見ても団塊世代以前の年配者、しかも女性たちが多いように思えた。そしてみな嬉々として楽しんでいた。要するに、テーマ・パーク訪問なのであり、その「テーマ」がより共感的であり、リアリティに富んでいるということと思えた。

 見ていていろいろなことに思いをめぐらせた。自分のふるさととも言える旧東海道品川宿の北品川商店街も、現状のさびれた状況脱却にこの手が使えないものかとか、推進役には相当の実行力が必要であるはずだろうとか、町がさびれるにはそれだけの頑固な理由があるのであって、旧態依然とした水垢のような旧世代が重石となっているごとき地域や環境は無理だろうなとか……

 が、いまひとつ関心を向けたのは、もはやビジネスの定番商品となりつつある「テーマ・パーク」の「テーマ」についてであった。確かに、今、「昭和三十年代」がいろいろな事情によって「テーマ」可能性を高めていると言える。しかし、これはもっと詳細に分析されていい命題なのかもしれない、と思っている。もし、漠然として「昭和三十年代」を掲げ、「アース」の看板や、駄菓子類や、旧い街並みを並べるだけならば、早晩行き詰まるのかもしれない。バブル期に粗製濫造されたテーマ・パークの多くが閑古鳥が鳴き、破綻したことは周知の事実だが、それは、この形式に問題があったというよりも、「テーマ」の煮詰め方、抽出の仕方が甘かったからではないかという気がするのだ。

 今、人々はなぜテーマ・パークに関心を持つのか? テーマ・パークの発展した姿はどうイメージできるのか? こうしたある種普遍的な命題が一方にある。そして、特殊、素材的な命題として、現在ある「昭和三十年代」への人々の関心の根底には何が横たわっているのかという興味深い命題がありそうだ。
 これらの命題に迫ることは、従来の経済が「閉塞」状況にある現在、きわめて重要なことのように感じている。
 この不況でも唯一活気のあるゲーム業界が依存している柱に、「ロール・プレイング」の方式があることに注目すべきかもしれない。今は飽きられたが「カラオケ」がブームとなったことも、ヒントとなる。そう言えば、志ん生の落語に、遊郭「吉原」の通りをテーマにした、まるで「テーマ・パーク」のような『二階ぞめき』があったこともちらりと覚えておきたい。「個人的シミュレーション」の問題と言うべきなのか? あるいは、もはや現実では求めようもない「自由」を、薄められた環境であっても追い求めたい人間の性(さが)の問題だと言うべきなのか…… (2003.03.09)

2003/03/10/ (月)  フィクショナルなコンテンツによる「ガスぬき」を必須とする現代!

 「ガスぬき」という言葉、組織人しかもわけ知り者同士が使う言葉がある。もともとは、炭鉱などで、ガス爆発の予防のためにガスを取り除くことにあったようだ。しかし、昨今ではもっぱら比喩的に、組織内、あるいは個人に鬱積した不満などが不測のかたちで噴出しないように解消させることを指している。
 しかし、もはやこの言葉は、わけ知り者同士が使うなどという限定はなくなり、インフォーマルな集団での誰でもが日常的に使っているのかもしれない。それほどに、現代人はいたるところで爆発寸前にまで充満するストレスを受け続けているということなのであろうか。

 そして、「ガスぬき」として採用される方法とは、たとえば「無礼講」の飲み会であったり、羽目をはずしたばか騒ぎであったりして、そこでは若干の小規模な犠牲者発生は止むを得ないものとして甘受されたりする。大事の前の小事という道理が是認されるのであろう。中にはひどく酒癖の悪いガス充満人物がいたりすると、周囲に座った者は「無礼講」なんぞでは済まない被害を被ったりもする。しかし、「ガスぬき」プロデューサーは決してその事実をしらふとなった翌日に咎めたりしてはいけない、というのが鉄則のようだ。知らぬ顔をして、あくまでも「無礼講」というゲーム・ルールに従い、現実とは別のフィクションの世界の出来事として処理しなければならない。それでこそ、「ガスぬき」処理はつつがなく全うされるのである。

 こうした習わしを思い浮かべるにつけ、ストレスとフィクション(ないしゲーム)との相互補完関係と言うべきか、酒飲みと塩辛との関係と言うべきか、いずれにしても両者の切っても切れないつながりを知るのである。
 確かにストレスの抜本的な解消は、そのストレスの発生源の現実を覆すなり、容赦なく叩きのめすことであるべきだろう。しかし、考えてみれば、それが実現可能であるならば、そもそもストレスなんかという持って回った心身症状などは発生しない。身動きのとれない、一歩でも動こうものならば、パックリと開いた破局口に足を取られてしまう按配だからこそ、現実の重みが堪忍袋を歪ませるのだと言わなければならない。

 だからこそ、結構無理のある環境設定だと言うほかない「無礼講」などという超法規的架空状況などが、古来の知恵者によって編み出されたものと思われるのだ。しかし、ある意味でそいつは、どのサイドにとっても救いの使者なのかもしれない。まるで、茶碗と箸を持ったまま固唾を飲んでフリーズするドラマ視聴者の目に、急に飛び込んでくるCMのようだと言ってもいいし、見るに耐えない壮絶なボクシング試合に投げられるタオルだと言ってもいいだろう。要するに、正当な決着がつくのを望みながらも、どこかでそれを望まない矛盾の存在としての人間の、優柔不断さの結晶なのである。一言で言えば、「まあまあまあまあ」ということになろうか。

 それこそ随分と持って回ったまくらを書き並べてしまった。書きたかったことは、まさにパックリと開いた破局口がいたるところに仕掛けられた現代人の環境にあっては、「無礼講」のような安全弁というか、「無礼講」のような「安全地帯」のフィクションというか、要するに現代人のストレス解消のための「ガスぬき」方策が、非現実的な、フィクショナルなかたちで珍重されざるをえない、という事実なのである。
 多くのエンターテイメントの含有物は、要するに「ガスぬき」効果物が98%なのだと言うほかなかろう。そして、競争原理だ、構造改革だ、そのためのシステム化だと、ますます現実が身動きのとれないあり地獄のようになっていくならば、その時代傾向の推進速度と推進量に比例して、さまざまな姿の「ガスぬき」効果物が求められていくのだと思われる。そうした「ガスぬき」効果性抜群の商品、サービスが世界を埋め尽くしていくように見えるのである。これが、「商品経済システム化」と「ガスぬき」という二極原理で突き進むグローバリズムの、今のところ確かな現実ではないかと感じている。

 しかし、現代の「ガスぬき」商品、サービスのほとんどすべてが、決して小さくない数字での「有償」であることを忘れてはいけない。「負け組」の落伍者は、「ガスぬき」さえできなくなってしまうのは辛いなあ…… (2003.03.10)

2003/03/11/ (火)  厳しい正念場でこそ浮かび上がるお偉いさんたちの愚かしさ!

 春とはいえ、寒気流が吹きすさぶ、今なお厳しい昨日、今日には、ここ町田からは西方の丹沢や、西北の高尾、奥多摩の峰々が、透明度の高い空気を通してくっきりとその姿を現す。そんな光景を眺めながら、ふと、思うことは、正念場ともいえる厳しい環境においてこそ、ものの姿や人の姿勢は隠しようもなく浮かび上がるという鮮やかな事実……

 いよいよ、米国によるイラク攻撃の「策動」がカウントダウンされる局面になってしまった。もはや、全世界の良識のある人々が、「その方法は誤りでしかない!」と認識し始めているにもかかわらずである。そして、こんな時局だからこそ、明瞭な姿をとって立ち現れてきた事実をしっかりと凝視したいと思った。

 国際世論から丸裸にされた、米国というよりもブッシュ政権(「新保守主義」路線!)とは、国際世論を敵に回す軍事力そのものであるという事実がひとつ。「9.11」の「翌日に」おいて、すでにイラク攻撃が政権首脳部で議論されていたという信頼度が高いと思われる情報があるが、これは、国際世論がイラクに対して抱く懸念(大量破壊兵器の保持への懸念)の次元とは異なる次元での、何か別な意図がブッシュ政権にあることを物語っている、としか言いようがない。悲しみに沈む「9.11」直後の米国民のヒューマンな感情が渦巻いていたその時に、「反テロ」のスローガンを拡大解釈して、虎視眈々と別次元の「策動」を模索していたと報じられたブッシュ政権は、おそらく米国民自身によってやがて拒否され始める時が必ず来るような気がする。
 なぜならば、米国民たちが、「9.11」からのショックで、直後は異様な憎悪に凝り固まっていたにもかかわらず、現在では、未来をしっかりと見つめ良識的な判断を持つ人々が着実に増加し始めていると思われるからだ。これも、厳しさの中でこそ姿をとり始めたもう一方の重要な事実なのだと思えた。

 一方、馬鹿馬鹿しいほどに低次元なわが国国内に目を向ける時、やはり小泉政権が「羊頭狗肉」の政権でしかなかったことが、何重にも刻印され始めているのではなかろうか。経済政策での完敗に加えて、従来の自民党と何ら変わらない外交政策、米国追随の「ポチ」路線でしかないことがようやく暴露され始めたからだ。
 それにしても、日本経済のこの惨憺たる状況は、まるで藪医者病院の藪医者たちに「丸投げ」オペをされた上に、たらい回しにされ、全身ボロボロとなってしまった挙句に、知り合いの医療費(イラク攻撃関連何兆円!)まで請求されようとしている図だと見える。
 もともと、ポーズ能力はあっても、政治理念や信念など微塵もない首相にとっての続投は、厳しい課題噴出が連続する推移にあって、まさに綱渡り芸のようだった。そして、ついに苦し紛れにその綱を支えてきた国民世論に唾してしまった。それは政治理念の基本への無理解を奇しくも暴露してしまったことになるが、そのことで綱は取り返しようのない緩みを招いてしまったはずである。マンガチックに言うならば、もはや人気挽回の道は、唯一フセインや将軍様と巌流島での決闘することしかないと睨んでおられるのではなかろうか。いつも冷静ぶっている福田官房長官を立会人として連れて行くがよかろう。たぶん御身大事のご本人は断る公算が高いであろうが……。

 しかし、経済界首脳たちは、何を手をこまねいているのだろうか? それとも、「丸投げ」された日本経済だから、ついでに「投げやり」な対応をしようとでも考えているのだろうか? 行く末は「やりっ放し」にするほかないとでも思っているのだろうか?
 「こと!」が始まってしまったら、日本経済は重篤な病人となってしまっているがゆえに、確実に取り返しのつかない事態となることは誰の目から見ても明らかではないのか。現政権の選択方向と経済活動との間に激しい亀裂が生じていること、いや両者が相反するベクトルを描き始めている事実をしっかりと凝視すべきではないのか。株価下落分を日銀対応によって補填するなどという小手先技などに期待するのはやめて、現状経済が引導を渡されるような政治選択に異議申し立てをこそすべきだと思うのだ。そんな抜本的な発想転換をすることこそが、低迷し続けてきた日本経済の突破口であり、ブレイク・スルーの道筋ではないのだろうか…… (2003.03.11)

2003/03/12/ (水)  「ナットク!ナットク!ナットク!」と机を叩く単純なおっさん!?

 このところ夜は遅くとも十一時には寝床に入り、朝は七時以前に起床するようにしている。今朝は六時に起きてしまったためやや眠気に煩わされている。
 普通の人なら当たり前の時間帯なのだろうが、自分の場合は長い間、ニ、三時間は後ろへズレ込んだ生活をしてきた。体質的に夜型であることもその誘因となってきたのだろうと考えている。そんなことで、家族の生活時間リズムも、後ろへ後ろへと引っ張り続けてきたようだ。だが、そんな自分が、ここしばらくは「早起き一番鳥」となっている。飼い犬のレオですら、「えええっ、何なんですか?」といった顔つきでひとの顔を見上げたりしている。

 こんな豹変の原因は、ニ、三週間前あたりに、自律神経失調気味というか軽いうつ症状というか、とにかく気分の悪さを自覚したことにある。そして、いろいろと思い巡らせてみるに、睡眠の質が劣化し続けていることを、長らく放置してきたことに問題がありそうだと判断したのだった。
 先ごろ、JR運転手の居眠り運転の原因が、「無呼吸」なんとかという睡眠障害に起因していることが話題となったが、どうも現代では水面下で蔓延する睡眠障害という現代病がいろいろと悪さをしていそうだ。
 自分もそうだったが、アルコールに頼って眠るという一見ありふれた光景が、この睡眠障害の害悪を隠蔽しているかもしれない。酔って寝た場合、当の本人は「いやー、よく眠った」などとその気になったりするのだが、自分の経験を振り返ってみると、本来熟睡によって払拭されるはずのだるさや倦怠感などが確実に残り、頭脳活動も低迷しているという確かな覚えがある。要するに、脳の休息にはなっていないようなのである。これを、長く続けてきてしまったのだが、おそらく年々アルコール消費量が増大しているような現代では、この種のご同輩が少なくないのではなかろうか。

 自然に眠くなっていつの間にか眠るスタイルがベストのようである。だがそのためには、いろいろと条件整備が必要となる。さらにその条件整備のためには、生活リズムの抜本的改革という一大事が必要となる、ということを認識ではなく、自覚したのであった。ニ、三週間前あたりの「たとえようもない不快感」が十分にその自覚を促してくれたと言えそうだ。怠惰で、面の皮の厚いバカなおっさんの生活改善には、理論よりも恐怖にも似た痛みの実感が必要なのだろうか。(たぶん、フセイン、金正日そしてブッシュにも言えそうだ)

 しかし、アラーム信号というか、予兆のメッセージというか、とにかく何か起こりつつある状態を知らせるそうしたメカニズムには十分に留意すべきだと思った。高を括って過小評価をしがちであることや、いわゆる誤解をすることなどが問題となるわけだ。人間世界の多くのトラブルの原因は、追求してみるとこうした信号、記号のやりとりやその読み違いということになるのではなかろうか。モノの世界や動物の世界では少ないはずの、こうした「通信・伝達エラー」は、解釈の自由度が高い人間だからこそ逆に発生させてしまうのかもしれない。
 社会現象にしても、あるいは大地震のような自然現象にしても、根拠のない憶測を排して、あることの予兆のメッセージを敏感に読み取れればありがたいと思う。

 しかし、その前にやるべきことは、致命的な誤解を生み出してしまう偏見や思い込みの克服であるのかもしれない。
 今日、ある雑誌の記事で、空腹感というこれまたダイエットに強い関心を持つ現代のキーワードに関して、目の覚めるような叙述に出会ったのだ。空腹感が血液中の血糖値の低下によって引き起こされることまでは多くの人が知るところだ。しかし、空腹感という身体からのメッセージの原義が、「さあ、活動をしなさい!」であったというのだが、そこまでは知らなかった。
 つまり、「原始時代、人類はお腹が空くと次の食事を確保するために、狩りや採取に出かけました。そしてその生活習慣は、現代人である私たちのカラダのなかにも、いまだ脈々と生き続けています。……食べ物がいつでもどこでも手に入る現代人は、『空腹感』を『食べなさい』という信号だと思っています。しかし、本来『空腹感』は、『活動しなさい』というサインだったのです」というのだ。カラダに残された仕組みと、現代人の生活環境との乖離が、「空腹感」への誤解とともに、大量の肥満現代人を生み出しているというわけなのである。
 で、「逆に、お腹が空いたまま活動をすると、(筋肉や肝臓、脂肪細胞などに)蓄えられたエネルギーが使われるばかりではなく、血液中にブドウ糖の量も増え、空腹感もなくなるというわけです」とあった。だから、『ヴァーム190』を飲んでダイエットに励みましょうというCM記事であったのだが、「ナットク!ナットク!ナットク!」と思わず机を叩いてしまった単純なおっさんなのであった…… (2003.03.12)

2003/03/13/ (木)  自分が持つ分には「大量破壊兵器」もいいワケ?

 米国が、対イラク戦向けに新型爆弾をお披露目したそうだ。
「非核兵器では史上最大となる新型の空中爆発爆弾『MOAB(モアブ)』の爆発実験を米フロリダ州で初めて実施し、成功したと発表した。地上付近で爆発し、高さ約3000メートルのキノコ雲を生じる巨大爆弾で、地表面に強い圧力がかかる。
 イラク戦の際、砂漠地帯に展開しているイラク軍の地上部隊や地下施設破壊などへの使用を想定している模様だ。戦意喪失などの心理的な効果も期待できるという」(『朝日新聞』2003.03.12)
 どうも好きにはなれないラムズフェルド米国防長官が、「『イラク軍は戦闘意欲を失い、フセインにとっては亡命を促す動機となる』と同爆弾の破壊力を誇示した」とある。とっさに想起したのは、米国が第二次世界大戦終戦の駄目押しとばかりに、広島、長崎に落とした非人道的な「新型爆弾」のことであった。
 「抑止力」とか、「リアル・ポリティックス」などという戦争玄人筋の能書きは一応頭ではわかる。しかし、全世界の平和主義者の柔らかき感受性に向けて、米国は「そこまでやるか!」
 そのやり方では、イラクの「大量破壊兵器」武装解除のスローガンを旗印にして、世界各国に渦巻くイラクへの不信や脅威が仮に払拭されたとしても、各国の恐怖感は殺人狂のような米国国防総省へと集中するではないか。平和解決の可能性をかなぐり捨てようとして、もう片方で兵器マニアチックに「新型爆弾」開発を誇る米国が恐ろしく、そしておぞましい。その兵器依存癖が、「憎しみの連鎖」を形作ってきたのだし、さらに二十一世紀の世界を不安定にするのだと見える。

 東洋には、「窮鼠猫を噛む」という発想があり続けてきた。これは、動物の本能的逆襲を見つめたものであろう。ならば、人間は恐怖に対して理性的な計算、妥協などを粛々と進める存在であって動物の行動とは別ものであるのだろうか? いや、むしろ人間こそが「窮鼠猫を噛む」の好例なのだとこのことわざは力説しているように思われるのだ。
 現に、鼠は死を知りながら猫に向かっていくのではないはずだが、非欧米圏では死をもってことに臨む「殉死」が存在したし、現時点でも存在する。それが、「テロ」と呼ばれるものの怖さであり、そしてまた「悪の枢軸国」と米国が名づけた独裁国の怖さではないのだろうか。

 「恐喝」し合う関係には、冷静に考えるならば強烈な「ジレンマ」が発生するものだと思う。これだけ脅せばきっと折れてくるはずだと、次々に脅しのエスカレートを図ってゆくわけだが、そこでは、想像できる相手の忍耐力とそれを上回る脅し手段という天秤が思い浮かべられていよう。そのため、より残酷な脅し手段を考案してゆくことになる一方、敵側の忍耐力や「そこまでは逆襲しないはずだ」とみる何らかのリミットが想定されるはずだと思う。そうでなければ、積み上げてゆく残虐手段が有効性を持ち得ないからだ。
 ところが、「そこまでは……」という発想は、自分側を起点にせざるを得ないと思われるが、やがてある時、自分側が止めどなくリミットの壁をぶち破って人間の非情さを実現していることに気づくことになる。とするならば、同じ人間である敵側の、想定される非情さや忍耐性のリミットも際限なく拡大せざるを得ない。これを「チキンゲーム」というのだろう。これが、核兵器使用と、地球破滅への選択を押し留めるものが見出せなくなる人類の地獄だと思う。

 最終兵器の使用までは選択するはずがないと言えるのは、敵方に何らかの「出口」が残されている場合に限られるのではなかろうか。
 今、米国がイラクに向けてエスカレートさせている軍事路線の姿は、言うまでもなく北朝鮮によってわが身に加えられた非道だとして凝視されているに違いない。だとすれば、壊滅的なイラク攻撃という軍事戦略は、いたずらに北朝鮮を核使用という危険水域へと追い込む荒業としか見えないのだが…… (2003.03.13)

2003/03/14/ (金)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その1)流浪の民?

 どんな「小さな舞台」であっても人間は登場する。関心さえ持って見つめれば、その人たちから人生の片鱗が垣間見える。
 わずか四キロ程度の早朝のウォーキングにおいても、毎日継続していると否応なく視界に人間の姿が入ってくる。もちろん、七時台の街角には通勤を急ぐ多くの人々の姿が目につく。しかし、そうした匿名の人々は、人間というよりも人影と言うべきかもしれない。
 が、同じ場所で、同じ人に出会うことが重なると、「また……」という思いからやがて小さな芽が吹き、わずかな根が生えてきたりするようだ。「一体、どういう人なのだろうか?」という自然な関心とともに、その人の人生へのおせっかいなイマジネーションがかき立てられてしまうのである。

 その男に気をとめたのは、吹きすさぶ寒風がきっかけであった。
 ようやく現在は、北風もおさまり、さわやかな朝日が川べりを包み始めている。しかし、この三、四ヶ月は別であった。南北に走る川ゆえに、強い北風が川の流れとともに吹き込み、川沿いの遊歩道やその周囲はほかの街角にはない冷たさを身にしみさせる空間であった。
 歩きながら、ふと対岸を見ると、川の流れに面して設えられた凍えるような小公園に、小柄な男がいるのがわかった。歩き疲れて休んでいるようではなく、ただ佇んでいる。防寒ジャケットをはおり、野球帽をかぶっている。近くには、その男のものと思われるニ、三のバッグと自転車が目に入る。男は、寒風の中で堪えるように足踏みしたり、身体を小刻みに動かしたりしていた。
 凍えるような寒さに抗して佇む姿は、普通に眺めれば誰かと待ち合わせをしているとしか思えなかった。きっと、そうなのだろうと、早足による荒い息づかいをしながらわたしは思い過ごしてきた。

 が、翌日も、そのまた翌日も、以降何日もずっと同じ光景を目にすることとなったのである。ある時、わたしの脳裏をかすめたものは、いわゆるホームレスという言葉であった。そう考えると、頷けたのだ。はち切れるようなニ、三のバッグや、モノが詰まった自転車のかごなどは圧縮された家財一式とも見えた。
 しかし、もしそうなのだとしたら、北風にさらされるこのような居心地が良いとはいえない場所しかないのだろうかと、若干のいぶかしさがこみ上げてくる。が、とっさに思い浮かんできたのは、少年たちによるホームレス襲撃の事件である。無情な風をしのげる囲われた場所というのは、同時に人の目が行き届かず、隠れて暴力をふるうものたちに絶好の機会を与えてしまう危険な場所でもあるに違いない、というおぞましい現実にも目が向いたのだ。現にわたしなり、他のウォーキングで行き交う人の多いこの場所なら、そんな危険が少ないと思われた。小柄なその男のこじんまりした背中に、わたしは、男の精一杯の慎重さを想像したりしていた。

 昔の話だが、勤務先が新宿であった頃、昼食に出かけた帰り道で、あるホームレスの男と遭遇したことがあった。
「オイ、キミー、ソーシタアプローチガモンダイナノダヨ!」
という朗々として通る声が、通りかかったガード下に響き渡ったのだった。わたしは、一瞬、加熱するプロジェクトが展開するビジネスの現場にいるような錯覚を覚えてしまった。振り返ると、汚れで彩色を失った衣服に、髪を振り乱した男が、あらぬ彼方の虚空を指差し叫んでいたのである。いかにも、現役であった頃には職場でのモーレツ管理職であったことをうかがわせた。正常な意識を踏み外しながらも過去の栄光にすがるその男の零落した姿に、切なくて、熱いものが胸に込み上げる思いがしたものだった。
 すべて、何かがあった上での現在の境遇なのであろう。そして、その人にとっては、よんどころない事情が絡まってできあがってしまったのが人生だとも言える。かえって、そんなよんどころない事情こそが、人生において「査収」すべきすべてだとも言ってみたい気がする。並べて比較などしようもないのが人生のはずであるのだから。
 ガード下の元管理職にも、また寒風の中に佇む彼にも、さまざまな事情と人生とがあるに違いない。わたしにわたしなりの人生があるように……

 そして今日、その男と出会った。対岸ではなく、彼はバッグなどの荷物を満載した自転車を引きながら、わたしと同じ側の遊歩道を歩いていたのだった。
 おそらく、この川の川岸を移動しながら流浪の一日を過ごしているのだろうという推量が深まるわたしであった。
 あいかわらず、川面にはマガモたちがなんの屈託もなくスイスイと浮かんでいる。そのあっけらかんとしたシンプルなマガモたちが、実に逞しく見えた。そしてなぜだか、わたしと同様にその男も、この川のこのマガモたちの屈託なさから、少なからず勇気づけられているに違いない、という確信めいたものが脳裏をよぎった……(明日もつづく) (2003.03.14)

2003/03/15/ (土)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その2)「赤い傘」の持ち主?

「ミーちゃん、元気かい? 今朝は暖かでよかったね」
と、わたしはいそいそとその猫に近づいた。

 ウォーキングをする遊歩道に面したその場所が目に入り始めると、わたしはさらに早足となってしまうのだ。集合住宅の植え込みの一角で、ひっそりと「飼われた」「捨て猫」のミーちゃん、いわばホームレスのミーちゃんの存在は、もはやわたしのウォーキングにとって不可欠なものとなっていた。
 小雪が舞う寒い朝には、ミーちゃんはダンボール製の仮設小屋におさまり、繰り抜かれた入り口から戸外を覗いていた。小さな仮設小屋は樹の根元に作られているのだが、雪や雨の日には、その樹の枝が利用されたかたちで女性ものの「赤い傘」が小屋への雨雪の吹き込みを防いでいた。
 朝日が照る晴れた日には、大体が、「お立ち台」の上で背を丸め日向ぼっこをしている。芝生の上に置かれ、厚手の布で包まれたひとつのブロック材は、あたかもミーちゃんが遊歩道を行き交う人たちにその姿を拝謁させる「お立ち台」のように見えたのだった。現に、わたしを含めた、多くのウォーカーたちの人気をミーちゃんは獲得しているようである。
 人間の勝手な事情によって捨てられた猫が、情感篤い人によって変則的なかたちで戸外で飼われるようになったと想像されるのがミーちゃんなのである。まだ一度も、この配慮を実施し始めた方にはお目にかかっていないのだが、わたしはもとより賛意を感じていたし、場合によっては杓子定規で野暮な役人と一悶着あるやもしれない仕掛けに、あえて挑んだこの方の蛮勇に感じ入ってもいた。
 そして、そんな事情を知ってか知らずか、与えられた仕掛けにおとなしく従っているようなミーちゃんが、健気だともかわいいとも思えてならなかったのである。

 久々に晴れたその日、明るい薄茶色と白の毛のミーちゃんは、フェンスをはさんで仮設小屋とは反対側の「お立ち台」の側の芝生にうずくまっていた。やっぱり、「お立ち台」に座るべきだと余計な思いを持ち、わたしはミーちゃんを抱えたのだった。とその時、
「おはようございます!」
という女性の明るい声が耳に入った。周囲には誰もいないと感じていたので、ぎくっ、とした。声のする方に視線を向けると、フェンスの向こう側、大きな樹の根元の仮設小屋の近くに女性が座って、明るい表情でこちらを向いていたのだ。
 わたしは、誰もいないと思って無防備にミーちゃんに話しかけていた気恥ずかしさや、突然の挨拶の驚きにとまどってしまっていた。
「ああ、おはようございます」
という小声を発したにとどまり、ミーちゃんを「お立ち台」に座らせるという大して意味のないことをしてその場を立ち去るしかなかった。

 わたしは確かに驚いてしまったのだが、その原因は、このミーちゃんの環境の「仕掛け人」が比較的若い女性であったことによるものであった。それと言うのも、わたしは、実に何の根拠もなく「仕掛け人」が「優しいお婆さん」と決めつけていたからであった。
 「赤い傘」が仮設小屋の上に差しかけられていたことや、小屋の入り口に「ミーちゃんの家」と記されていたことなどから、女性の「仕業」だとは了解していた。が、そのあとは先入観と偏見に完璧に支配されていたのである。振り返れば、この「仕掛け人」はお年寄りであるという証拠を何ひとつとして残してはいなかったはずである。わたしは勝手に誤解したのだ。よくある図、「お婆さんと傍らに座る猫」という絵に、あまりにも単純に引きずられていたのかもしれない。あるいは、いま時の親切は、年配者によるものに限られる、という思い込みが強かったのかもしれない。

 その後、一度だけこの女性がミーちゃんの世話をしている姿を見かけた。
「ミーちゃん、ミーちゃん、こっちにおいで。お鼻をきれいにしないとね」
とか言っていた。また、ミーちゃんは、この女性が心底甘えられる人だと了解しているのであろうか、媚びる様子もなく逆に感情を露わにする甘え方をしているような気配を感じたものだ。
「今は、お散歩がしたいの!」
とでも言うように、ミーちゃんはちょっと振り返っただけでその女性から離れて行くのだった。
 その女性は、風邪でも引いたらしく、大きなマスクをしていて顔は見えなかった。この集合住宅に住んでいるとは思われるが、一体どんな人なのであろうか? 想像と興味は尽きない。こうして、ミーちゃんに加えて、この飼い主の女性の素性を知ることも、今後のウォーキングに伴う喜ばしい付帯事項となってきたのである…… (2003.03.15)

2003/03/16/ (日)  遊歩道という「街道」で出会う人々 (その3)幻想

 この遊歩道を、わたしに「街道」だと感じさせた理由はほかでもない。中・熟年の三人組みウォーカーにしばしば出会うからである。他人(ひと)のことは言えないが、その三人の格好は、どうもわたしに、江戸時代に東海道を往来したであろう町人(職人)の三人連れを想像させずにはおかなかったのだ。

 深々とかぶったくすんだ色の野球帽は、手ぬぐい仕立ての被り物のように見えたりするし、小柄な身体に似つかわしくないグレーのジャンパーは、ほこりで汚れた旅人の羽織のようにも見える。裾がすぼんだジャージーや抑制された色調のズックは、これまたほこりっぽく黄ばんだ脚絆や股引とわらじのように見えないでもない。揃って寒さしのぎに身につけている軍手などは手甲(てっこう)である。
 そうして、ちらちらと聞こえてくる会話も、落語で垣間見る江戸時代の旅人たちのせりふだと決めつけても、さほど違和感がないかもしれないのだ。
「それで、なんだね〜。こうコロコロと陽気が変わったひにゃあ、身体にこたえていけねぇやね」
「そうゆうこったね。アッシなんざぁ、風邪が抜けねぇでまいってるわね。空気も乾きっぱなしだもんなあ」
「火事が多くて、『め組』の頭(かしら)も今年ゃ忙しくてならねぇ、と愚痴ってたぜ」(ここまでは聞こえなかったが……)

 実に三人がお互いにいたわりながら歩き、そして腰掛けられる場所の所々で休んだりしている姿は、『まてよ、ここは東海道の小田原あたりだろうか?』という錯覚を与えるに十分な雰囲気なのである。
 彼らがどういった「素性」の人々だかは今のところ検討がつかないでいる。仕事仲間か、同じ町内の自営業者たちなのか…… ただ、運動不足が身体に悪いと気づいてか、一念発起の早朝散歩を励まし合って続けているといった格好である。

 世の中には似ている人というものがいるものだ。よく見かける年配のウォーカーなのだが、わたしが大阪での幼かった時分に記憶に留めた「いかいの(姓)の叔父」に似ているのだ。それでどうだということもないが、そんな印象を持っていたところ、ある日少なからず驚かされる出来事があったのである。

 その叔父というのは、亡父の一番上の兄で、さほどかわいがってもらった記憶はなく、むしろどちらかと言えば身勝手で情の薄い人だという覚えがあるくらいだ。その叔父の相貌が記憶に残っていたのは、写真のせいなのであった。「耳の被いがついた帽子」を被って、眼鏡をかけた叔父の写真が、どういうわけか印象に残っていた。
 それでその年配のウォーカーが、ある寒い日に、なんと、その「耳の被いがついた帽子」を被って歩いて来たのである。わたしは驚いた。いや、彼はわたしを驚かすためにやって来たようにも思えたくらいだ。

 もともとその人の歩き方というのはちょっと特徴があった。両腕をほとんど振らずに、滑るように歩んでいるのだ。だからというべきか、上半身が不動であり、不動の上半身にこれまたまっすぐ前を向いた頭が乗っかっているという、全体が静止画的な格好なのである。わたしには、まるで、幼かった時分のその叔父の写真が前方から歩いて来るような、そんな感覚に襲われてしまったのだ。

 「叔父の写真」が通り過ぎたあと、わたしは、一体あの人はどういう人なのだろうかと考えながら歩くことになってしまった。人のいい弟さんがいて、兄貴たちの仕事の不始末をその弟に尻拭いさせるという因業なことをやってはいないだろうか。その弟の家族たち、小さな姪や甥のいる家族は晴れない気持ちで苦しんではいないだろうか。もう一人の羽ぶりがよい弟に対しては、見苦しいほどの追従の日々を送ってはいないだろうか……
 いつしか、そのウォーカーとは無縁な、その叔父のことを振り返ることとなってしまっていた。そんな叔父も、その下の叔父も、そして父も今はもういない。
 振り返ると、とぼとぼと歩むそのウォーカーの小さな後姿が、大きく左へと湾曲した「街道」の先へと消えて行くところだった…… (2003.03.16)

2003/03/17/ (月)  いまだに冥府魔道を彷徨う日本には一体何が欠けているのか……

 やり切れないほどに陰々滅々とした月曜日である。
 ブッシュ米大統領、ブレア英首相、アスナール・スペイン首相という好戦国三首脳が、アゾレス諸島でいよいよ着手する大量殺人のための禊(みそぎ)を行ったという。
 そして、日本政府は、新たな国連安保理決議がなくてもイラクへの武力行使に踏み切るとする米国を、国民世論の大多数の反対を押し切って、支持すると表明した。

 イラク高官は、この間の経過の中で「日本は米英に次ぐ三番目の敵」と発言したと言われているが、国民の意思を世界に伝えるべき首相が、それを捻じ曲げてイラクの敵意ナンバー3のランキングにこぎつけてしまった。小泉首相は、これでブッシュ大統領に顔が立つと能天気なご気分であるのだろうか。ブッシュに対して振っている尻尾がちぎれそうになっているのが、首相の座がちぎれそうになっているのとダブル・イメージで見えてくるようである。

 それにしても、歴代随一に卑劣で、情けない首相である。すべての国民の命が、無条件に自分に預けられているとでも錯覚しているのであろうか。日本国民まで、米国に「丸投げ」するとは、そのワンパターンは堂に入ったものだ。
 世界が変わり、東西冷戦構造時では無難だったかもしれない日米同盟関係を、ワンパターンで固執する姿勢は、単純なスローガンを口にして思考と行動をストップさせている本質と見事な同根ぶりを示す。

 国際連合だ、国際平和などと、歯が浮くような欺瞞はともかく、もう少し国際的な趨勢を凝視したらいいのだ。もはや国際世論から浮き上がっている米国に追随して損か得かぐらいのリスク計算はやったらいいではないか。身内を抱える親分というものは、自分の身もさることながら、ひ弱な身内の誰かが無用な遺恨を背負わないように細心の気配りをするものだ。わが身の見栄のために、日本国民への危険を度外視するなんざあ、親分としてはフセインや金正日と同格だと言わなければならないだろう。

 ところで、イラク問題に対する日本のスタンスと北朝鮮核問題が極めて巧妙にリンクさせられている現状は注意すべきだと思う。ややもすれば現状は、北朝鮮の脅威があるからこれを阻止してくれる米国と一体でなければならない、という論理が強調されている事実だ。
 しかし、これははっきり言って、ヤクザが商店などから、部外のヤクザから守りましょうとしてショバ代を巻き上げる論理、同じく総会屋が手に余る質問者を封じ込めてやるからカネを出せという論理と何と似ていることであろうか。
 こうした暴力への依存が企業会計においても極めて不健全であることは指摘され続けてきたはずだ。毅然とした姿勢を示すこと、斜に構えた輩に口実を与えないことが原則のはずである。まして、小泉首相は、北朝鮮と日朝トップ会談まで実施して国交回復への道を一時は志向したのではなかったのか。単なる人気回復策でしかなかったのか。それを今度は、脅威があるから米国に寄り添うべきだと考えているようで、やってることが支離滅裂であり、節操なんてものが微塵もないと見える。
 しっかりと見極めれば、ここで米国を支持して一体性を示すことの方が、日本にとっての危険を増幅させているんじゃないんだろうか。同一民族の韓国が、北の脅威を睨みながらも将来の希望としての統一を望み、北を刺激することを抑制してきた配慮を、隣国としてもっと親身になって考慮すべきだと思われる。

 いやはや、デフレ不況への無策に加えて、実が無い以上に日本を苦境に導く国際外交ときては、小泉内閣の幕引きを早めるに限ると確信するばかりだ。もはや、不良債権問題にしたって手をつける好機を完全に逸してしまっているのではないか。韓国の同問題に対する処理は「ハードランディング」方式を採ったことで、現在は「V字型」回復が軌道に乗りつつあるというではないか。政策のあり方と進め方によっては、難問も氷解してゆくのが現実だと再認識させられる。いまだに冥府魔道を彷徨う日本には一体何が欠けているのか…… (2003.03.17)

2003/03/18/ (火)  国民による情報に対する鑑定眼の練磨こそ!

 ブッシュ米大統領の宣戦布告演説を聞いていると、跳ねる言葉の空しさを感じざるを得ない。表面的な言葉面(づら)の擬似整合性はいくらでも演出できよう。大事なことは、言葉の背後の事実であり、そうした事実をしっかりと射抜く聡明な人々も少なくないという現実なのである。
 国連決議は「既に十分だ!」といまさら言うなら、なぜ国連内でパウエルにあそこまでの悪戦苦闘をやらせたのだ。単独開戦はあまりに露骨過ぎると懸念して、米国が御用組織と見なし続けて来た国連を再び煙幕として利用しようとしたはずだ。その意図が成就しなかったがために、子どもが、落としたアイスクリームを踏んずけて「本当はこんなもの食べたくなんかなかったんだ!」と叫ぶ図だと言える。
 どうも現在の米国の権力は「落ち目の三度笠」のようで、裏目裏目のツキの無さを招き、恥の上塗りを重ねて転がってゆくように見える。ハイテク兵器を最大限投入しての独壇場であるはずのバトルも計算通りでなかったら、いやバトルは残虐を極めて推進させるのだろうが、果たして中東地域の「民主化」などという傲慢で図式的な思惑は難航しはしないであろうか。そんな無謀なことに顔を突っ込むアメリカ帝国を思うと、ふと塩野七生著『(ローマ帝国の)終わりの始まり』という表題がちらりと脳裏をかすめてゆく。

 これまでのイラク問題に対する各国の動きを注目して来た過程で、わたしがいぶかしげに思ったことは、いわゆる「自虐的」テーマとなってしまうのだが、日本はダメだ! という悲観そのものである。各国が、現状と将来を見つめて危機感を抱き反応していたのに対して、どこまでも、観客やお客様であり続けようとしているかのような日本全体が、やはり異常だと見えてしまった。
 あるマスコミは、各国が「反戦」「反米」などの意思表示をする中で、日本の関心の向け方は「『笑』米」という姿勢だと揶揄していた。「シニカル」に笑うことでしか現実に対応できない日本の老いた精神、心理が寒々しく思えた。
 「なんでだろー」などという他愛無いギャグに現(うつつ)を抜かす日本人は、ジョークではなくて、遭遇している現実の前で途方に暮れて、ただただ空虚な心に向かって弱々しく「なんでだろー」と独白しているのかもしれない。

 確かに、現実が見えなくなってしまっているのだと思う。
 飛び交う情報、裏付けのない言葉などの過多状況にあって、自分自身の思考の手がかり、足がかりとなるはずの実感が伴う言葉を掴みかねているのかもしれない。情報は、過多であるばかりではなく、常に「距離」が置かれて流されている気配でもある。
 一方で「あなたとは直接は関係ありません!」というように情報が流れて行くとともに、他方では「オレとは、直接は関係ないんだ!」と決め込む個々人の姿勢とが、見事な共犯関係を作り出しているようにも見える。そして、何があっても平然としていると言えば聞こえはいいが、一度何かがあれば「孤立」的に耐えたり、キレたり、あきらめたりするほかないという孤軍奮闘しか残されていない、文明国の国民としては情けない状況なのかもしれない。

 今、ちょっと異色の視点でおもしろいかもしれないと思って読み始めている文庫本がある。宮脇磊介著『騙されやすい日本人』(新潮文庫、平成15年3月1日)である。
「今の日本国民は、自分に提供される情報に対して、信じられないほど無警戒である。ちょっと考えれば情報の評価・選別ができ、間違いない認識を得ることができるのに、情報に隠されている意図や思惑に気づかない。あるいは、気づこうとしない。『情報』というものへの本質的な理解を、多くの日本人は欠いているのだ。情報を提供しようとする者には、必ず何らかの意図や思惑がある。『騙す』『煽動する』『錯覚させる』等々、さまざまな手段を弄して接近してくるのである。情報とはそういうものだとの認識と、それに基づく警戒心、そして情報を確認する作業の習慣が著しく欠け落ちている。情報に対して受動的なのだ」
 そして、筆者はこうした日本人の欠陥と相補的な関係でのマスメディア、ジャーナリズムのあり方が、今日の日本の構造的危機を形成しているとの論を展開している。
 マスメディアに対してインターネットなどのローカルメディアがインフラ的には浸透してはきたが、実質的な「孤立化」環境とそれを基盤としたテレビなどのマスメディアが相変わらずというか、ますますというか影響力を持っていることは容易に想像できる。
 奇しくも「時として世論は間違えることもある!」というそのままのかたちで、実のない人を首相にしてしまった危険が、満ち満ちているのが現在の日本であるような気がする。

 「米国大使館を通じて海外運用し、1か月25%の利益」という誘い文句の「またぞろ」の詐欺が摘発されたそうだ。こんな騙し商法に多くの人々が易々と引っかかってしまう状況(五十台以上の人々千五百人以上だとか)においては、国民の情報に関する脇の甘さの是正こそが、この構造的危機の第一歩なのかもしれない…… (2003.03.18)

2003/03/19/ (水)  「いつか」ではなく、「今」が重大な岐路であることをしっかりと意識したい……

 思い返してごらん、自分が、些細な事で感情の坩堝に引き込まれ、なすがままに冷静さと理性を手放し始める時のことを! どんなに沈着で立派な人でも、一度(ひとたび)憎悪と激怒に身をゆだねてしまうと、そこでは人間の尊厳はもはや跡形もなく消え失せてしまうはずだ。解き放たれてしまった感情の野獣は、まるで全世界を食い尽くすまでその牙を隠そうとはしなくなるようだ。すべてを台無しにしたって構わないとする未来なき衝動だけがすべてを支配する……

 人間は、個人であってさえ理性を手放して激怒してしまうならば恐ろしい闇へと落ちる感情の崖っぷちに立たされてしまう存在だ。そして、そうした常軌を逸した者達が群集となれば、増幅される力学が働いてしまい地獄絵図のパニックの口火が切られる。
 今、ドラマや映画で描かれた虚構の戦争ではなく、現実の戦争の怖さを極力冷静に想像する必要があると思う。戦争の惨さを表現したとされるあの「プライベート・ライアン」でさえ、壊れた人間のボディしか描けなかったが、現実の戦争では、頭脳や心が壊れた人間たち、つまり「非・人間」たち、本能によって許しあう仕組みを持つ動物未満の惨さを平気で仕出かす「非・人間」たちが、ありったけの修羅場を仕立て上げて行くことになるのが避けられない。戦争状況に合理性などあるはずがないと考えなければならない。
 さらに、最新の大量破壊兵器が駆使されるとともに、最新の情報操作が画策されるはずの戦争では、無数の戦場において「証人無き残虐さ!」が炸裂するに違いない。まして今回の戦争では、第三の国際的チェック機構(ex.国連)が侮辱され、蔑ろ(ないがしろ)にされているのだから、何が引き起こされても検証されることがない暗闇が設えられていると見なければならない。

 米国が糾弾し続けていたイラク側の「大量破壊兵器」(「核」は不明だとしても、生物・化学兵器の存在は不透明!?)の処分は、たとえ隔靴掻痒(かっかそうよう)の感があったとしても、査察などを初めとする交渉による平和的方法しかあり得なかったはずだと思われる。
 もし仮に、イラクが生物・化学兵器などを隠匿していたとして、しかしながらイラクによるその使用と着手前に、軍事的に破壊し尽くすことは極めて小さな勝算でしかないのではなかろうか。米国は、理性的であることに「未練」を持ち続けた観がなきにしもあらずであるが、イラクは、国際世論の追い風を受けていることを生かし、もし生物・化学兵器などを保持していてもそれらを使わずに「身の潔白」を晴らし続ける、といった良識的で大局的な選択をするであろうか。それはとても考えにくいことだと思われる。既に、「最後」という言葉を交えたメッセージを送るイラクの姿勢には、最悪の選択を視野に入れていることが垣間見えたりする。これらを洞察したフランスが、その時には「参戦」せざるを得ないとしているのが妙に現実的な響きを漂わせている。

 しかし、だからといってイラクへの先制攻撃の選択が正当化されるという論理に軍配が上がることには決してならない。そうではなくて、むしろ、そうした「破滅的選択」を強いてしまう方法が賢明なやり方であるのかという、まさにその疑問こそが大きいと言わなければならない。人間を「非・人間」たちに変えてしまう戦争の、その口火を切ってはいけないのである! 「大量破壊兵器」の起動ボタンが権力者の指先に置かれた時代の戦争にあっては、もはや後戻りが不可能な人類の破滅的事態が、常に並存することを十二分に承知すべきなのである。未来を創る理想に燃えた両陣営が牽制し合う冷戦時代とはまったく異質の国際環境では、不測の事態こそを大国は大国らしく注視すべきなはずである。

 人は、理性の下で冷静でいる時には、人間が潜在させている、他の動物が持ち合わせていない狂気の獣性を実感として想像できない。また、人は、起きていない不祥事に対しては、何と鈍感で想像力を欠如させてしまうものだろうか。そこで、権力者たちは、日常人たちが陥りがちな、こうした人のよい欠点を巧みに操りながら「なし崩し」の戦争への道を敷き詰めてゆくものと推測される。
 戦後「半世紀」以上も、戦争の「反省期」として見なしてきた日本人は、あまりに長い期間であったがために何を「反省」していたのかを忘れるというとんでもない過ちを仕出かそうとしているのではないか。
 戦争への道に「標識」など立ってはいない。ただ、半ばまで進めば「一方通行」の標識がデカデカと掲げられているであろうが、入り口はディズニーランドやショッピングセンターなどへの道案内と何ら変わらないカモフラージュ(!)がなされている、と考えて間違いないだろう。国民が自分自身で判断するしかないのである。

 すでに、米国追随主義を国連中心主義という言葉のオブラートで包み続けて、「説明責任」を放棄し続けてきた小泉首相の欺瞞があった。事が、人と人の子を殺し、泥沼化してゆくであろう戦争への加担であるだけに、単なる言葉のあやを超えた重大責任だと断定したいと思う。
 それにしても、「いつか」ではなく、もはや「今」が重大な岐路であることをしっかりと意識しなければならないようだ…… (2003.03.19)

2003/03/20/ (木)  「ありがとう、ブッシュ大統領」と言える機知と気骨!

「ありがとう、偉大なる指導者ジョージ・W・ブッシュ。
 サダム・フセインが体現している危険をすべての人に知らせてくれて、ありがとう。……
 しかし、私があなたにお礼を言いたい理由はほかにもある。……
 ありがとう。トルコの国民と議会とが、たとえ二百六十億ドルを払っても買収できないことを全世界に見せてくれて、ありがとう。……
 ありがとう、あなたの態度のおかげで、フランスのドミニク・ドビルパン外相は、戦争に反対する演説によって、国連総会の場で万雷の拍手を受けるという名誉に浴することになった――これは私の知るかぎり、国連の歴史上、これまでにたった一回しかなかったことであり、それはネルソン・マンデラが演説した際だった。……」(朝日新聞、2003.03.19 夕刊)

 これは、ブラジルのベストセラー作家パウロ・コエーリョ氏による機知に富んだメッセージである。というより、戦争へと向かう世界を憂え、反戦を願った世界中の聡明な人々が一時的に陥った「無力感」に対するヒューマンないたわりと励ましなのだ、と感じた。
 同氏は、次のように叙述しながら、『現実は一面的には突き進まない!』ことを示しているかのようだ。
「ありがとう、今世紀、ほとんど誰にもなしえなかったことを実現してくれて――世界のすべての大陸で、同じひとつの思いのために闘っている何百万人もの人を結び合わせてくれて。その思いというのは、あなたの思いとは正反対のものであるのだが。
 ありがとう、再び私たちに、たとえ私たちのことばが聞き届けられることがなくとも、少なくとも自分は黙ってはいなかったのだ、と感じさせてくれて――それは将来において、私たちにより以上の力をあたえてくれることになる。
 ありがとう、私たちを無視してくれて。あなたの決断に反対する態度を明らかにしたすべての人を除け者(のけもの)にしてくれて。なぜなら、地球の未来は除外された者たちのものだから。……
 ありがとう、すでに起動してしまっている歯車をなんとか止めようとして街路を練り歩く名もなき軍勢である私たちに、無力感とはどんなものかを味わわせてくれて。その無力感といかにして戦い、いかにしてそれを別のものに変えていけばいいのか、学ぶ機会を与えてくれて。……」

 作用と反作用という物理的原理を引き合いに出せばわかりやすいのかもしれない。反作用を伴わない作用というものがこの地球上では起こりえないように、管理、支配、抑圧といった力の作用が、一面的・一方的に貫徹してゆく道理は、この地上にはない。常に、さまざまな形でのカウンター・パワーが蓄積されていく。決して、テロのような憎悪の連鎖のことを言っているのではない。憎悪の連鎖を、血で汚れた手を持つリアリストたちが警戒することはわかるが、そんな部分的な問題ではないだろう。
 いかに時の権力が詭弁と策を弄しても、世界中には、事実を事実として見据え、人間の未来のために「支持しない!」「戦争に加担しない!」と言明する人々が多数生まれてくる、というのが重い現実なのである。

 「アメリカン・グローバリズム」が軍事力を交えて全世界を席巻しつつあり、ようやく昨今ではこのうねりに賛否両論が生じてきたようだ。が、確実に言えることは、やはり『現実は一面的には突き進まない!』ということではなかろうか。「アメリカン・スタンダーズ」が全世界を覆うその時、そこが「終わりの始まり」となり、それを超える見直しの動きが起動し始めると推測せざるを得ない。
 イラクや中東地域を手中におさめつつあると当事国は思い込んでいるに違いないが、世界の内実には、すでにその意向とは正反対の回転力が起動し始めているのかもしれない。 少なくとも、サダム・フセインが正義でないという全世界が周知の事実をもって、大仰な素振りで、巨大な軍事力を誇示する野蛮さで強行する国の姿を、全世界がさめた不快感で見つめてしまったことは打ち消せない事実だろう…… (2003.03.20)

2003/03/21/ (金)  兵士たちに、人間の殺戮を勇気づけるような大義名分はあり得るのか?

 今日は、春分の日。昼夜の長さがほぼ等しいとされる日であり、冷たく長かった闇の夜が次第に後退し始めることとなる日である。奥ゆかしくも静かに訪れた春の光景は、今朝のウォーキング途中でもいたるところに見受けられた。
 早春の到来を告げた梅の仲間の樹木は既に咲き誇り、ジンチョウゲはふくいくたる香りを漂わせている。紫陽花など剪定された植木にも、柔らかい新芽が吹き出し始めている。もう、大きな後戻りはないと言わぬばかりの春の訪れが、「愚かしい人々の選択」によって打ちひしがれた者たちの、傷ついた心を癒していることだろう。

 この戦争に至る過程で、人々が注目することになった出来事のひとつに、「公(おおやけ)」と「民意」との関係の問題があったかと思う。「国連」の安保理決議をめぐる動向であり、世界に向けた日本の意思表示の問題である。
 国際状況における「公(おおやけ)」とは、言うまでもなく「国連憲章」を具現する「国連機関」のことである。もちろん、複雑な国際関係が背景にある以上、完全無垢な機関として見なすことはできないかもしれない。しかし、二極冷戦構造から、混迷しつつ多極化する国際情勢にあって、その存在意義はますます高まってきているはずであった。現に、今回のイラク問題に関しても、大多数の国々が「国連」の場による解決をこそ望み続けてきた。

 つまり、「国連」は各国の「民意」によって正当な「公(おおやけ)」機関として尊重されていたと言えよう。そうであるからこそ、米国自身ももパウエルによって「公(おおやけ)」機関における米国の選択を正当化しようとしたはずなのだ。
 だが米国は、ああだこうだと見え透いた屁理屈を言いながら、既存の「公(おおやけ)」の尊厳を破壊して自らがその地位に取って代わる暴挙に打って出た。それはまるで、日本の歴史で言えば、信長による『比叡山焼討』のごとき狂乱だと思える。事ほど左様に、時代は、民主主義を原則とする現代だとはとても思えない、まるで中世や古代の出来事のように人々の目に映ったのではないだろうか。歴史が累々と積み上げてきた国際関係における「公(おおやけ)」的存在を軽視し、蔑視する発想は、政治外交思想としては稚拙でしかない。なぜならば、この戦争による甚大な影響の、その修復困難さとその後の国際関係の展望が暗澹(あんたん)たるものだと誰もが想像するからである。

 わが国の、この戦争への加担の「選択」もまた、一国にとっての「公(おおやけ)」というものを揺るがす暴挙であったと見えてならない。もとより、戦争をめぐる問題とは全国民的な最重要課題であるはずだ。時の内閣に一任された裁量権の範囲を超えた問題ではないだろうか。まして、世論調査においても大半の国民が米国支持を拒否している事実が明らかである時に、英国のブレア首相のように世論の矢面に立って説明責任を果たそうともせず、小泉首相の個人的な「雰囲気センサー」によって、「やっぱ、ついて行くってゆーか、支持ってゆう感じかなあー」なる「選択」は、「公(おおやけ)」というものへの不信感をいたずらに増大させてしまったように見える。なぜなら、「政府は、『米国支持』かもしれないけど、オレは反対だよ!」と平然と言い放つ国民の存在は、政府という「公(おおやけ)」的性格の機関が限りなく希薄化しているということを表してはいないだろうか。ブレア首相が進んで国民の矢面に歩み出た理由は、政治家としての当然の自覚と洞察があったからにほかならない。
 これに対して小泉首相の判断と行動は、政治家とは思えないほどに自閉的、独断的であった。すでにその傾向はキレたように行動した「靖国参拝」問題で顕著に表現され、「思い込み」経済政策の杜撰(ずさん)さなどで、国民の目にも興醒め感をもたらしているところであろうが、やはり一国の最重要課題に向けた独断専行の罪は重いと思う。

 現代は、言うまでもなくイデオロギーの時代ではない。言ってみれば、右も左もなく時代が提起する難問に対して「最適解答」を打ち出さなければならない時代環境なのであろう。その場合に最も重視すべきことは、さまざまな関係者に潜在する知恵とパワーを最大限に引き出す方策ということにはならないだろうか。ましてわが国の国民各位の秘められた能力の総量は、たぶん並大抵のものではないと推測できる。
 これらの知恵とパワーが残念にも、「死んだふり」状態に放置されている、いやそうでしかありえないように規制と抑圧のシステムで雁字搦めにされていることが、現代日本の深刻な病巣を作り出しているはずである。

 昨日、奇しくも教育基本法の改革案が中教審から答申されたようで、そこでは、子どもたちの「公共心」をどう育成するかがひとつの焦点とされていたようだ。「公共心」とは、要するに私的な範疇とは次元の異なる「公(おおやけ)」というものへの関心と責任とを自主的に育てていくことではないのか。
 現代という時代は、ハイテクと不可分な複雑な相互依存関係が社会全体を被っているだけに、私的な行動をベースとする市場原理の推進とともに、どこかで「公(おおやけ)」というもの、その原理が何らかのかたちで機能しなければならないかもしれない。しかし、それは個人意識が低い過去の時代とは異なって、個人の自主性に支えられてこそ機能するものであるに違いない。実質的な民主主義でしかこの難問を解決する方法はないということなのではなかろうか。
 面従腹背の「公共心」はいくら作り出しても、公共的に必要なパワーの足しにはならないというリアルな現実を、指導者たちは再認識すべきなはずである。

 戦争のような惨い極限状況の中では、個人に内在する「公(おおやけ)」の要素と一個の私的な人間としての要素との葛藤が表出せざるを得ないはずだ。米国軍らの前線兵士たち、イラク軍の兵士たちは今それを経験しつつあることを想像する。そして、ブッシュもフセインも、遅ればせながら兵士たちの「公(おおやけ)」の要素を、ありったけの華麗な言葉で刺激しようとしている。しかし、見ず知らずの他国の兵士の殺戮、または自身の戦死を勇気づけるような、そんな「公(おおやけ)」の要素というものが果たしてあり得るものだろうか。先ずはイラク兵たちの投降が予想しやすいかもしれない…… (2003.03.21)

2003/03/22/ (土)  操作された戦況報道でも隠れた反面が露出してしまう現実!

 どんな戦争であれ、その報道筋の立場や性格を問わず、流される戦況報道を淡々と受け容れることができないのは常識だと言っていい。特にイラク戦争の戦況報道について言えば、開戦自体が国際世論に抗した「アン・フェア!」なものであっただけに、米国連合軍側による戦争「正当化」操作の可能性を見ないわけにはいかないはずだろう。
 連合軍側の戦死者は、ヘリの事故での死者を除けば二名ほどであり、イラク側は終戦にならなければ掌握できないそうで不明とされている。「最小コストでの最大効果!」が達成されていると強調されているわけだが、この一方的な情報掌握を報道と言っていいのだろうか。世界各国の人々が知りたい事実は、フセインの死であるよりも、自分たちと同じ庶民であるイラクの人々、子どもたちの安全のはずである。こうした傾向の中に、イラク国民への被害は最小に抑えるとの表明が、単なる世論操作上の美辞麗句であり何の裏付けもないものであるかがわかってしまう。
 こんな報道を、世界各国の人々はどう受け止めているのだろうか。巨大な軍事力をベースにした既成事実としての戦争を眼前にして、何があってもしょうがないという無力感に飲み込まれてしまっているのだろうか。それとも、人間としての尊厳を守ろうとして、萎えそうになる理性を奮い立たせて監視しようとしているのだろうか。
 
 「内通者」からの情報に基づき、フセイン一族の所在場所をその抹殺のために先制爆撃したとされる事実を人々はどう受け止めたのだろうか。早期決着のための有効な方法だと賞賛することも十分可能ではあろう。確かに、フセイン一族の抹殺は、もしイラクに「大量破壊兵器」が隠匿されているとすれば、その使用可能性を低めることにはなろう。しかし、「大量破壊兵器」の危険性は、フセイン一族と同値である保証はない。米国でさえ、それらがテロ集団に渡ってしまう危険、つまりフセイン以外の危険分子が使用する可能性を指摘していたのではなかったか。戦争の目的は、フセイン一族の抹殺というより「大量破壊兵器」の探索と処分である、という公式的声明が妙に薄れて見えてしまった。
 米国によるイラク侵攻のターゲットは、「大量破壊兵器」の探索、処分というよりも、フセイン政権を潰し、米国の傀儡政権樹立による中東アラブ地域の全面的支配にあるという観測に、妙にリアリティが添えられてしまったかのようだ。

 しかし、それにしても圧倒的な軍事力の差がわかっている戦争の場面を見るのは辛いものだ。クウェート方面から、無数の戦車が砂漠を北上して行く光景の報道は、「解放軍」としてのパワフルな壮観さを人々に与えているのだろうか。かつて、ヨーロッパを大量殺戮者たちから守るために進軍した第二次世界大戦時の連合軍の、「解放軍」としての感動的な姿と等しいものを、どれだけ人々は感じることができたであろうか。わたしには、砂煙を上げ猛スピードで疾走する戦車軍団の図は、アニメに出てくる盲目的に突っ走る巨大な甲殻類の群れのように見え、何か哀しいものさえ感じることになってしまった。
 人々が恐怖を押し殺して静まりかえる深夜のバグダッドの街に、リモート・コントロールされたミサイルの砲撃が不気味に炸裂する夜景。着々と悪が滅び行く断末魔を溜飲を下げる思いで見る人々もいるには違いなかろうが、恐怖に怯えて眠れないバグダッド市民に同情する人々も少なくないにちがいない。耐えられない恐怖に、小さな脳活動を狂わせてしまったアフガンの小さな男の子の「笑い顔」を思い出す人々もいたことだろう。

 ひとつの光景を、まったく別の角度から見てしまう、あるいは見えてしまうという事実こそが、報道やメディアがいくら操作しても操作し切れないヤヌス(双面神)としての現実の一面なのだと思われる。途方もない力を誇示すれば誇示するほどに、その力への人々の共感を失ってゆくという逆説! 世界の良識ある誰もが許容なんぞしていない非道な独裁者を、ややもすれば哀れにも見せてしまう逆説! 少なくとも、イスラム圏の人々の反米感情を何よりも効果的に増幅させている逆説! どこかの国の国政と同様に、実のところ問題自体を増幅させて先送りにしているにしか過ぎないようだ。間違った目論みをテーマとするシナリオは、なんとどこまでもちぐはぐな現象を撒き散らかすことであろう。

 それにしても、世界中の人々がリアルタイムで注視する舞台において戦争を始めてしまった軍勢は、何と至難の業のプロジェクトを起動させ、背負い込んでしまったことか…… (2003.03.22)

2003/03/23/ (日)  イラク国民の被害最小化=戦争の早期終結=精密誘導兵器等での空爆という等式は?

 今回の米英両国による事実上のイラク「侵略」の背景のひとつに、イラクが保有する石油資源があることは周知の事実だ。現状における石油消費量世界随一の米国にとっては、遠からず訪れる自国の石油不足に関する問題が見過ごせないはずであろう。
 そこには、地球における資源の有限性については認識されている。しかし、米国のスタンスは、その有限資源を人類という立場でどう保護して、どう共有するかではないようだ。力の論理によってそれらの限られた資源を「占有する!」ことが、有限資源問題への解答だと目論んでいるようだ。すでに、地球温暖化ストップに向けたCO2規制に関する「京都議定書」をブッシュ政権が黙殺したことは記憶に新しい。

 なぜ環境問題をこの時点で引き合いに出すかと言うならば、このイラク「侵略」戦争で、米国が湯水のように投入している一連の兵器、新兵器の使用、そして破壊されるイラク国土、さらに放出されるCO2などを、有限な地球資源と環境という観点から凝視するならばとんでもない非合理以外の何ものでもないからである。
 そもそも、避けられない戦争ではなかったことを、国連の活動を見ながら世界中の人々が知っている。それだけに、上記の地球資源の喪失は、どんな政治的なプロパガンダが自己弁護をしても決して埋め合せされない喪失であろう。

 加えて、今現在、「イラク国民の被害最小化」=「戦争の早期終結」=「精密誘導兵器等での空爆」という、まったく手前勝手な自己欺瞞の論法がまかり通ろうとしている。マスメディア自身もうかうかと乗っかってしまっている、この一見まともそうにも聞こえる論法が、多くの点で間違っていることに気づくべきではなかろうか。自主規制などせずに「戦争の即時停止!」という言葉をこそ提示すべきなのである。

 わたしは、ふと人間の病気治療の光景を思い浮かべたものだった。癌治療のジレンマの問題である。昨今も、抗癌治療新薬のルーズな認可によって、その副作用から多数の患者が死亡した事件が報道されていたはずである。
 抗癌治療というものは、癌細胞自体を局所的に攻撃して、他の正常な細胞を傷つけないで済むものではないのだ。すべての正常細胞の生命力を抑えることによって癌細胞を非活性化していくという道理が基本となっている、と聞いている。ある知人の体験談においても、抗癌剤を取り入れた時の苦痛は例えようがないということである。痛みとだるさと、そして脱毛と……、要するに最低限の生命活動を強いられるということなのだ。
 「効果的」な抗癌治療は、稜線を歩むような危険である副作用なしでは進まないということである。

 「自由のイラク」へ向けた「衝撃と恐怖」作戦だのと、似非「戦略研究家」たちの歪んだ知性から出てきた理論(『新・保守主義』)のもとに、推進されている現実は、人間の殺戮に加えて、しなくてもいい地球資源の効果的、集約的な破壊でしかないのだ。
 他人の痛みは痛くない、のが人間である。まして、ただでも鈍い感性や硬直した想像力しか持ち合わせない者たちが、ハイテク技術を悪用して自分の手が血で染まることを避けられる、そんな兵器を駆使するならば、殺人と破壊の「コスト・パフォーマンス」は極大化するように見えよう。
 しかし、その「コスト・パフォーマンス」も本当に高いものなのであろうか? さまざまな取り返しのつかないマイナス資産としての「副作用」がすでにリストアップされている。国連機能の台無し! 国際秩序の不安増幅! テロ・エネルギーの増幅!……
 そして、コストという端的な視点でも、好戦家ではなく、グローバリズム戦士である米国経済人ならば、不況であるだけに今回の対イラク戦で投入された膨大な軍事費、高コストの事実にめまいをしているのではなかろうか。予定通りに進んで当たり前、不測の事態を迎えて「納期」が遅れるならばその「コスト・パフォーマンス」の観点での評価すら見るに耐えないものとなると悲観視しているに違いない。
 まあ、コストの点では、自国の経済が破綻寸前にあっても前回の湾岸戦争時と同様の二兆円位は工面しようとして「支持します!」と叫んだおっちょこちょいの国も控えていることから、米国政府も安心しているのかもしれないが……
 しかし、こんなふうな最終的なツケでにわれわれの「血税」が消えてゆくことを、いつまで「おしん」のように耐えなければならないというのか……(2003.03.23)

2003/03/24/ (月)  現実を感じ取れない「オッサン」たちが事態を悪化させている!

 「やむをえないんじゃないの」(米国のイラク侵略に関して)
と、いつもの他人事(ひとごと)スタイルでものを言うオッサンをなんとかしたい、とそう思う。自分も年齢と風貌ではオッサン以外の何者でもないことはわかっている。しかし、あまりにも長い「なれ合い」と「従属」の日本的環境の中で、自分というものを去勢(?)してしまったオッサンたちを、わたしは自分と同世代として「いいかげんに目を覚ませよ!」と言いたいのだ。
 「寄らば大樹」だの「長い物には巻かれろ」という奴隷根性が得をする時代が、とっくに過ぎ去ってしまったことを、ボケッとしてないでしっかりと見つめるべきじゃないの? タブロイド判の似非新聞なんぞに目を通して、無責任な論調を頭に突っ込んだって、自分で考えたことにはならないっちゅーの。自分で考えるっちゅーことは、一切のしがらみを断って、自分は何を大事にしたいのか、何を失いたくないのかを、ちゃんと自問しながら騙しに満ちた環境をまじまじと見つめるってことなんじゃないの? それで、誰が歯の浮くようなことを白々とほざいているか、誰が張り詰める思いを胸に秘め涙さながらに語っているのかを見抜くことなんじゃないの?
 「わかってるさ、だけどみんなそれぞれには立場っていうものがあり、『苦渋の決断』をしなけりゃならない場合だって……」
 そんなアホくさいこと言ってんじゃないっちゅーの! 会社には会社の、人事部長には人事部長の立場っちゅうものがあるのだから、リストラされることもやむをえないと考えたあなたの事情は知ってます。「苦渋の決断」なんていう浪花節用語にイカレルあなたの「苦渋」に満ちた人生に、少しは同情もしてみたくなるけど、デジタル時代の意思表示に、くどくどしい言い訳なんか誰も相手にしないじゃないですか。「苦渋の決断」を国際的にわかってもらえるように英語で言えばどうなるのか考えてみたことがあるんですか? 現に、小泉首相による「苦渋の決断」なんて部分は翻訳上パスされてしまって「支持する」が、"approve"なり、"agree"なり、"support"と解釈され、米英と一蓮托生の国というもっぱらの評判じゃないですか!

 ふぬけ同然のオッサンたちはそっとしておくべきかとも思ったのだが、世論調査の結果を見ると黙ってはいられなくなったのである。
 朝日新聞社が実施した、イラク戦争開始直後の20日から21日にかけて、緊急の全国世論調査(電話)によれば、米国の軍事行動を支持した小泉内閣の支持率は42%(前回44%)で、不支持は45%(前回40%)であったそうだ。低下は当然として、これを、男女別、年齢別でみると、なんと男性は支持率45%(前回44%)だったが、女性は支持率39%(同44%)であり、男性の支持率はわずかながら増えている。女性の賢明さが、戦争Noと小泉内閣イヤ! を表明していたということになる。また年齢別では、支持率が「特に20、30代での下落」が目立ったそうだ。
 これが、オッサンたちに苛立ちを覚えた理由なのであり、女性たちの聡明さに関心し、頼もしさを感じたものだった。こう言うと、未練たらしいオッサンたちはひょっとしたらさらに恥の上塗りをするのかもしれない。
「おんなっちゅーものは、正義と悪に関係なく戦争が嫌いなだけなのさ」と。
 そこまで言うならば、オッサン連中は、それこそ絵に描いたバカになっちゃうちゅーの。戦争に正義なんていうものがあるということをあんたたちはどこでならってきたの? それは正義ではなくて、正義だと言い張る言い訳だということを見抜くくらいの洞察力をもたなきゃ、ホントにバカだと決めつけられてしまうじゃないの!

 やっぱり、オッサンたちは時代の急激な変化に取り残されているのだろうか。いや、ファッションや流行語などどうでもいい表面的なことに対応しているつもりで、その奥底で進行してきた根っこの変化に何も気づいていないのかもしれない。生活の中に忍び寄る本当の変化、底辺でこそ炸裂しながら進むうねりとしての変化を黙殺して、職場でも、市民生活でも「上ばっかり」見て来たからだろうか。どんなジャンルでも「上」はとかく既得権にものを言わせて旧態依然としているのが常でしょ。そんな古臭いレジーム(枠組み)ばかりを見せつけられ、従属を余儀なくさせられてくればその路線を引きずるのも無理はないのかもしれない……
 そんな時代の変化の中でやはり最も大きな変化といえば、「東西冷戦構造」の消滅であり、その国内政治版である「55年体制」の再編であったはずだ。誤解を恐れずに言ってしまえば、価値観の二極対立関係が、価値観の多極化と相互依存の関係にシフトしたことだと言えそうだ。そして、日本は「安保条約」によって米国側の「一要素」としてその価値観一辺倒でもなんとかやってこれたのだ。対米従属関係を維持しさえすれば自民党はほかにやることは何もないというシステムなのであり、社会党も、企業労組を基盤とした万年野党として惰眠をむさぼることができるシステムだったと言える。まともな国会議論を封殺する、影の「国会対策」サブ・システム(カネで決着!)が機能すれば、誰もが「自分で考える」ことを放棄し続けられるシステムだったのではないか。
 そして、オッサンたちの環境に照らしていえば、自分を虚しゅうして、所属企業と一体化した勤務と生活をしていさえすれば、お家存続所領安堵が図れたはずである。自分の考えを起点にして口はばったいことを言ったりして物議をかもすことはご法度だったのだ。
 が、そんな虚構は、ブッシュではないが "The game is over !" となっていたのである。それにもかかわらず、今なお「東西冷戦構造」時のさめやらぬ余熱で対米関係一辺倒で小泉首相らのオッサンたちは、危険な橋をトコトコと渡ろうとしている。「ついて来るか〜い♪」と言われたって、聡明な女性たちは、決して「連れて逃げてよ〜♪」とは言わなくなってしまった…… (2003.03.24)

[P.S.]
「我々はノンフィクションが大好きだ。なのに今は、イカサマ選挙で決まったイカサマの大統領をいただいて、作りものの世界に生きている。イカサマの理由によって戦争が始まった。イカサマの情報が流れている。我々はこの戦争に反対だ。ブッシュよ、恥を知れ。お前の持ち時間は終わった」
 これは、第75回アカデミー賞のドキュメンタリー部門賞受賞(銃社会を激しく批判した映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」)したマイケル・ムーア監督が、受賞スピーチでぶち上げた何とも痛快なメッセージである。
 ムーア氏の著作では、ジョージ・W・ブッシュ大統領をこき下ろし、返す刀で近頃の民主党をも一刀両断にしたノンフィクション『アホでマヌケなアメリカ白人』は全米でベストセラーとなっているとのことだ。(23日夜=日本時間24日午前)
 米国の「ふところの深さ」を再認識させられた!

2003/03/25/ (火)  「我々はこの戦争に反対だ。小泉よ、恥を知れ。お前の持ち時間は終わった」

 米軍側ミサイル、パトリオットやトマホークの誤爆が表面化してきていると伝えられている。これに対して「フランクス米中央軍司令官は24日の記者会見で、米英軍の攻撃に誤射が続いていることを認めたうえで『予想を超える事態ではない。それが戦争だ』と話した」とされている。(朝日新聞 03/25 08:25) また、戦争だから情報戦も当然というムードの中で、不確かな情報が「プロパガンダ」や「デマ」という危険なかたちで垂れ流されている。

 「なるほどねぇ」と聞き過ごすこともできる動向ではあろうが、これが火蓋が切られてしまった戦争の、ジワジワとエスカレートしてゆく怖さなのだと感じざるをえない。すべてのサイドが、ブレーキを焼きつかせて制御不能のパニック状態で急坂を疾駆していってしまったのがこれまでの戦争の現実であった。そして、今また、まったく同じことをトレースしようとし始めているように見える。
 始めてはいけなかったのだ、この戦争を! ハイテク技術によって制御された戦争などというのは妄念でしかなかったようだ。プロの軍部でさえ、やってみなければわからない、実戦の場が最新戦略、最新兵器の総合テストだ、とそう見なしているに違いない。だから、冒頭の中央軍司令官のような発言が淡々と出てくるのだろう。要するに「誤算があっても当然」というのが戦争の実態であり、ハイテクであろうが何であろうが制御しえないのが戦争なのだという戦争の本質が、滲み出すようにその姿を現し始めているのではなかろうか。

 それにしても、開戦国の当初の読みは、次々に裏切られてしまっているかに見える。「イラクの自由」を掲げ、民衆の解放と民衆による歓迎を信じていた米英軍兵士たちの予想を裏切られた悔しさはいかばかりのものであろうか。国際世論も日に日に「反戦」「反米」「反ブッシュ」色が濃厚になっているとしか見えない。
 また、ブッシュ政権による暴挙からすれば必然的な帰結のように、もうひとつのイラクである北朝鮮が、徐々に不透明な動きを取り始めていると伝えられている。
「米英軍はイラクを攻撃したのみならず、朝鮮半島への軍事攻撃の準備も整えている。我々はこれに対しどのように自衛すべきか、検討を余儀なくされている」(在モスクワの北朝鮮大使館が公表した外務省報道官声明 朝日新聞 03/25 01:09)
 要するに、綿密な「プロジェクト」として開始されたはずの計画は、至るところでほころびを見せ始め、計算不能、制御不能という戦争が内在させた野獣としての性格だけが頭をもたげ始めていると見えてならない。

 今後、攻防戦が始められるバグダッドが、類を見ない悲惨なものとなるのではないかという予想には、多少ともこの間の世界の動きを見つめてきた人ならば容易にたどりつくものではないだろうか。
 イラク側は、「ジハード(聖戦)」を叫び、米英側は両国ともに現政権を賭けた「短期決戦」という隘路を追求する。そして両者の最終カードは、「自爆」であり、「バグダッドのジェノサイド」であるのか?
 イラク側による「化学兵器」使用への衝動と、米国による最新兵器,空中爆発爆弾『MOAB(モアブ)』初使用への衝動(ブッシュ政権を支える「ネオ・コン(新保守主義)」勢力は、イラク占領政策とかつての日本占領政策をオーバーラップさせていると聞くが、終戦直前に広島・長崎に投下された原爆の事実を思い返すならば、バグダッド上空で『MOAB(モアブ)』の「総合テスト」が実施されることも視野の外には置けない……)とがかろうじて抑止される事態まで限りなく接近するのかもしれない。

 これ以上イラクの悲劇を放置することは、イラクの問題だけには留まらず全世界を巻き込む悲劇への導火線に着火することになりかねない! まるで台風が過ぎるのを待つかのように、ポスト・イラク支援を口にしている小泉政権の能天気さには開いた口がふさがらない。中国のように「即時停戦!」が口にできないか。それこそわたしも、マイケル・ムーア監督にならって、怒りを堪えつつ笑い飛ばしてやりたい。
「我々はこの戦争に反対だ。小泉よ、恥を知れ。お前の持ち時間は終わった」…… (2003.03.25)

2003/03/26/ (水)  「ブラックボックス」化された世界の亀裂としての戦争状況!

 息を殺してイラク戦争の報道を見守りながら、さまざまなことを考える。とりわけ今回は、どんな言い訳をしようが戦争への明確な加担国であることに違いないだけに、自然現象を眺めるような無自覚さで見過ごすことができない。
 一刻一刻推移する情勢を間接的に知る過程で、「自分ならどういう判断をするのか」と問いかけ続けている。こうすることが、無力感を伴う虚しいことだと、そう思い込むことは何としても避けたいと考えている。できるだけの想像力を働かせ、同時代の地球人として感じるべきことを感じ、考えるべきことを考えたいと。何のためか? もちろんビジネスとは無縁であり、当面の生活平面とも関係がない。ほかでもない、そうすることが今を生きることの本来的なあり方だと思えてならないからだ。

 現代は、情報が溢れる時代だとは言われながら、人間に関わる重要かつ多くの問題が「ブラックボックス」化された時代だと感じ続けてきた。そして、その「ブラックボックス」化された世界環境が、戦争という極限状況の過程で、部分的にではあるが「種明かし」されざるをえないために、凝視し続けたいと考えるのである。
 現代人の生活を振り返るならば、なんと「ブラックボックス」化された存在に取り囲まれていることだろう。科学技術の活用によって快適な生活が追求される過程で、かつての人間たちが生活の中で直面した生死に関わる行動やその場面を初めとして、身体を駆使する日常的な行為すら、割愛され、「ブラックボックス」化された電子機器に置き換えられているということがわかる。

 「ブラックボックス」化されたものに置き換えられているのは、生活の中の道具環境だけではない。社会生活の方針を決定する政治活動も、個人の意思を代議員制度などに託すことでまかなわれているが、個人の意思は往々にして個人たちには了解できないような「ブラックボックス」的な展開へと紛れ込まされていくような実感を持たされている。たとえて言えば、多くの国民が反戦の意思を持っていたにもかかわらず、代表者である小泉首相が戦争支持を表明したようにである。国民の意思と、国の最高責任者との間には、「ブラックボックス」化された機構が累々として積み上げられているということなのだ。

 また、われわれがものを考えたり、判断したりする際の観念自体も「ブラックボックス」化されていると言えるだろう。「自由」や「民主主義」という観念、言葉を、いちいちその場で定義づけなどせずに、誰もがわかりきった内容として使っている。しかし、いざそれらは一体何なのかを自問するならば、とたんに困惑へと落ち込んでしまうのではなかろうか。これは、その中の構造がわからなくても「おい、『電卓』で計算してみてくれよ」という「電卓」、その内部構造は「ブラックボックス」化されている「電卓」の場合とさほど違わないのではないか。
 「国際協調」という観念にしても同じだろう。このイラク戦争開戦にあたっては、「国連主導」型のそれと、「米国主導」型のそれとが交錯しながら使われ、そして実際の国際関係の展開を混乱させた。能天気な日本政府は、従来どおりにそれらを同一視して、そしてシビアな現実によって「梯子をはずされ」てしまった。暗黙視(=「ブラックボックス」化)してきた現実が、戦争というような危機的状況となれば、「何なの? どっちなの?」というシビアな解答を迫るものなのであろう。
 だからこそ、こうした現場は見過ごすことができないのである。そこでは、言うまでもなく、人間の生と死のはざ間の凄惨さが表面化する。国と国との関係、国と国民との関係、国が掲げる観念の内実、人間と人間との結びつきの強弱、そして兵器などの軍備に凝縮された現代科学技術文明の力と脆弱さも、それらすべてがその姿を曝け出さずには済まないのだ。

 すでに指摘され続けているように、現代戦争は「情報戦」でもあり、虚虚実実の情報が飛び交う。情報操作が当然のごとく行われる。しかし、だからといって凝視していても騙されてしまうのだとあきらめることはない。深い洞察眼が求められているということなのだと思っている。常に事実はその片側の一面だけの姿を現すことはないと確信するからだ。
 さらに、事実は、それを解読する者の「デコーダー(解読器)」の精度に依存して全貌を現すわけだから、解読者が抱く人間や世界のあり方へのビジョンが重要だと言えるのではないだろうか。「下衆の勘繰り」の言葉どおり、「下衆」の「デコーダー」には、彼に応じた姿の事実しか現れないものなのだ…… (2003.03.26)

2003/03/27/ (木)  米国の「ダブルスタンダード【double standard】」路線?!

 イラク戦争は多くの人々にいろいろな疑問を投げかけている。「何故、戦争でなければならなかったの?」「イラクが『大量破壊兵器』を持っているからと言っても、核兵器を持っている国々はたくさんあるじゃないの。」さらに、「フセインを目の敵(かたき)にしているけど、ラムズフェルドがフセインと握手して応援していた時期があったじゃないの」とか、根拠なしとはしない疑問が渦巻いている。
 とくにアラブ地域の人たちは、「イスラエルだって持っているのに黙認している米国は『ダブルスタンダード』そのものだ!」と憤慨している。

 「ダブルスタンダード【double standard】」とは、「対象によって適用する基準を変えること。二重基準。二重標準。」とある。その内容は決して小難しいものではなく、別表現するならば、「不平等」「えこひいき」であり、場当たり的な「ご都合主義」「状況倫理」のことだ。なぜそういう発想がぬけぬけとできるのかを考えれば、「エリート(選民)主義」「超大国主義」が足場となっているはずだ。そして、その足場を支えているものは、経済力と圧倒的な軍事力だと推察される。

 イラク戦争に関する米国の行動への疑問の大半は、この言葉によって説明されるのが最もわかりやすいのかもしれない。
 そもそも、イラクへの軍事行動の正当化を国連安保理での提案可決で臨みながら、それが不可能と判明するや、何もなかったかのように平気な顔をして単独強行路線を掴み直してはばからなかった。ここですでに、国連中心主義という顔と自国優先主義という顔の「ダブルスタンダード」が駆使されていた。
 「大量破壊兵器」問題にしても、前述のとおり近い関係にあるイスラエルが持つ分には何ら問題無しかのようである。また、わが国が懸念する北朝鮮が明示的な核保有への動きを示し、これを察知していながらあえてこの問題をイラク問題の陰の問題に追いやっている判断には、そもそも「大量破壊兵器」問題よりも重視したい問題があるかのようである。「大量破壊兵器」問題を第一義的問題だと表明しながら、石油資源占有というさらに重視したい「基準」が優先されているかのようである。国際世論向け「基準」と政権スポンサー向け対応の「基準」が見事に使い分けされている「ダブルスタンダード」の好例だと思える。
 「9.11」テロ問題にもこの視点が密接に絡んでいた。テロ撲滅、オサマ・ビンラディンを殺せと、リベンジとしてのアフガン攻撃がなされたわけだが、オサマ・ビンラディンの素性が明らかにされる経過の中で、多くの人々が驚いたことは、結果的には彼を育て上げたのは米国自身であったという事実であろう。これは、サダム・フセインにおいても同様の事情が潜んでいたことは、もはや周知の事実となっている。
 米国は、遠い他国である中東地域の紛争に介入しながら、戦略上、自国の「敵勢力の敵」を随時「ご都合主義」で軍事支援し、強大化する育成策を講じてきたわけである。それが、ビンラディンであり、フセインだったのだ。軍事支援された「鬼っ子たち」が、不相応な軍事力を独善的に利用し、マイウェイを疾走し始めることはありがちといえばありがちな経緯なのであろう。
 場当たり的な政策が採られたことは、長期一貫した「スタンダード」を堅持しようとする体質のない米国の基本姿勢だとは言えないだろうか。「ダブルスタンダード」と同種のスタンスが、将来に禍根を残してしまったのだと見える。

 そして、このイラク侵略戦争では、自ら採用した「ダブルスタンダード」路線が生み出した混乱を、再び「ダブルスタンダード」路線で解消しようとしているとしか見えない。論理矛盾がどうこうと青臭いことを言っているのではなく、米英日の国民が最も懸念しているテロ再発問題が、「今回のやり方」で、フセイン政権壊滅プラス「大量破壊兵器」除去が達成されたとしても、解消されるのかどうか、という点なのである。日本にとってのテロの危険は、北朝鮮の脅威もさることながら、もはやイラクなどに明確な敵という印象を与えてしまった事実を忘れてはならないのだろう…… (2003.03.27)

2003/03/28/ (金)  「破壊されるのは私みたいな子供」 13歳米少女が反戦スピーチ

 戦争の続行と、戦争停止をめぐって、世界の大人たちがさまざまな理屈を並べたてている。そんな理屈が「将来を盗まれ」二度とこの世には戻れなくなった小さな子どもたちに通用するとでもいうのだろうか。
 今日は、大人としての口をつぐみ、心を洗われたいと思った。 (2003.03.28)

<asahi.com> http://www2.asahi.com/special/iraqattack/TKY200303270225.html より
「イラクの子どもたちはどうなるの?」。米北東部に住む少女のスピーチがインターネットを通じて世界中を駆けめぐっている。
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 イラク爆撃というと、何を思い浮かべますか。軍服を着たサダム・フセイン、あるいは銃を持つ口ひげの戦士たち、それともアル・ラシッドホテルのロビーの床に「犯罪者」という言葉と一緒に描かれたジョージ・ブッシュ元大統領のモザイクでしょうか。

 でも、考えてみて下さい。イラクの2400万人の国民の半分が15歳より下の子どもなんです。1200万人の子どもです。私みたいな。私はもうすぐ13歳になります。だから、私より少し大きいか、もっと小さな子どもたちです。女の子じゃなくて男の子かもしれないし、髪の毛の色も赤毛じゃなくって茶色いかもしれないけれど、とにかく私みたいな子どもたちです。だから、私のことを見て下さい。よく見て下さいね。イラクを攻撃するときに考えなきゃいけないことが分かるはずです。みんなが破壊しようとしているのは、私みたいな子どものことなんです。

 もし、運が良かったら、一瞬で死ねるでしょう。91年の2月16日にバグダッドの防空壕(ごう)で「スマート(高性能)」爆弾に殺された300人の子どもみたいに。そこでは、爆風による激しい火で、子どもと母親の影が壁に焼き付けられてしまいました。

そんなに運が良くなければ、じわじわと死んでいくのでしょう。ちょうど今、バグダッドの子ども病院の「死の病棟」で苦しんでいる14歳のアリ・ファイサルみたいに。アリは湾岸戦争のミサイルで劣化ウランによる悪性リンパ腫ができ、がんになったのです。

 もしかしたら、痛みにあえぎながら死んでいくかもしれません。寄生虫に大事な臓器を食われた18カ月のムスタファみたいに。信じられないことですが、ムスタファは25ドル程度の薬で完全に治ったかもしれなかったのに、制裁で薬がなかったんです。

 死ななかったとしても、外からは見えない心理的な打撃に悩みながら生き続けるかもしれません。91年にイラクが爆撃されたとき、小さな妹たちと一緒にやっと生き延びた恐怖を忘れられないサルマン・ムハンマドみたいに。サルマンのお父さんは家族みんなを同じ部屋で寝させました。そうすれば一緒に生き残れるか、一緒に死ねると思ったからです。サルマンはいまだに空襲警報の悪夢を見るのです。

 アリみたいに独りぼっちになるかもしれません。アリは湾岸戦争でお父さんが殺されたとき3歳でした。アリは3年間毎日お父さんの墓を掘り返しました。「大丈夫だよ、お父さん。もう出られるよ。ここにお父さんを閉じこめたやつはいなくなったんだよ」って叫びながら。でもアリ、違うの。そいつらが戻ってきたみたいなんです。

 ルアイ・マジェドみたいに何の傷も負わなくてすむかもしれません。ルアイは、湾岸戦争のおかげで学校に行かなくてもよかったし、好きなだけ夜更かしできたと言います。でも、教育が受けられなかった彼は今、路上で新聞を売ってやっとなんとか生きています。

 これが自分たちの子どもたちだったらどうしますか。めいだったら? おいだったら? 近所の人だったら? 子どもたちが手足を切られて苦しんで叫んでいるのに、痛みを和らげることも何もできないことを想像してみて下さい。娘が崩壊したビルのがれきの下から叫んでいるのに、手が届かなかったらどうしますか。自分の子どもが、目の前で死ぬ親を見た後、おなかをすかせて独りぼっちで道をさまよっていたらどうしますか。

 これは冒険映画でも、空想物語でも、テレビゲームでもありません。これが、イラクの子どもたちの現実なのです。最近、国際的な研究者の一団がイラクに行って、戦争が近づいていることが、向こうの子どもたちにどう影響しているかを調査してきました。

 彼らが話した子どもたちの半分が、これ以上何のために生きるのか分からないと語っていました。本当に小さい子どもたちでさえ、戦争のことを知っていて、心配していました。5歳のアセムは「銃や爆弾がいっぱい来て、お空が冷たくなったり熱くなったりして、みんないっぱい焼けちゃうんだよ」と言いました。10歳のアエサルは、ブッシュ大統領に「たくさんのイラクの子どもたちが死にます。それをテレビで見たらきっと後悔する」と知ってほしい、と言っていました。

 こちらの小学校のことを話します。私は、人とけんかをしたときには、たたいたり悪口を言ったりするんじゃなくて、「自分がどう思うのか伝えなさい」と教えられました。相手の身になったらどう感じるのか、理解してもらうのです。そうすれば、その人たちはあなたの言うことが分かって、やめるようになります。

 いつものように私は、どう感じるか伝えたいと思います。ただし、「私」ではなく、「私たち」として。悪いことが起きるのをどうしようもなくただ待っているイラクの子どもたちとして。何一つ自分たちで決めることはできないのに、その結果はすべて背負わなければならない子どもたちとして。声が小さすぎて、遠すぎて届かない子どもたちとして。

 私たちは、明日も生きられるか分からないと考えるとこわいです。

 殺されたり、傷つけられたり、将来を盗まれると思うと悔しいです。

 いつもそばにいてくれるお父さんとお母さんがほしいだけなんです。

 そして、最後に。私たち、何か悪いことをしたでしょうか。わけが分からなくなってるんです。

 (文中の数字などは原文のまま) (03/27 18:34)


2003/03/29/ (土)  「フツーの市民」たちが臆病なイマージンを武器にしていいはず!

 「東京では来月5日午後1時から代々木公園でデモが計画されている。これまで以上に多くの家族連れや高校生らが集まってくるだろう。なぜなら、戦場報道によって『フツーの市民』には逃げ場がないことを知ったからだ。バグダッドの市民にも、名もない米兵にも、そして自分たちにも。 加えて、行動をやめたら自分が『フツーの市民』でなくなって、戦争を勝手に始めた側の一人にされてしまうのではないか、という恐れもある。だから、冬が去り春が来ても、人々は集い、歩き続ける。 それでも、これを『ブーム』と呼ぶのか。その判断力が、いま政治家には問われている。」(木瀬貴吉/ピースボート・スタッフ、朝日新聞、2003.03.29)

 今朝の朝刊の記事だが、日本でも各地で「フツーの市民」たちによる反戦デモが「ブーム」的な動きとなっていることと、その意味が語られていた。テレビの報道番組でも、「デモ」とは言わずに「パレード」と呼んでいた女子高校生の姿が印象的だった。それでいいんだ、黙っていないで意思表示することが大切なんだ、と共感した。

 先日も、鶴見俊輔(哲学者。ベトナム戦争時に小田実氏らと「ベ平連」をつくる)氏が「京都のピース・ウォーク」について述べ、「三十八年前のベトナム戦争反対のデモ行進とは違う」今度の戦争反対デモについて述べていた。(「『殺されたくない』を根拠に イラク反戦に見る新しい形」 朝日新聞、2003.03.24)
 同氏は、その特徴を次のように述べていた。参加者の「男性には、共通の性格があり、女にひっぱられる男だった。もう少し踏み込んで言うと、女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受け容れる男たちのようだった」と。これはこれでまたいいんでしょう。
 また、歴史を見わたし、哲学者としての鋭い洞察を加えていた。
「大正から昭和へ、教授たち(反戦の言論を張った知識人たち)は、はじめは平和を説き、やがて戦争を支持した。……日本の知識人全体の、この連続転向を問うことが必要だ。戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求めるほうがいい。理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは自分の生活の中に根を持っていないからだ」
 人類の、世界の、観念のと大げさな見得(みえ)を切ることでしか立てない危うい理論じゃなくて、生活に根を張った反戦「感」を大事にすべきだと納得できた。

 こういう時期にはどうしても「べ平連」の顔としての小田実氏を思い出す。この戦争が始まる前に、同氏はあるテレビ番組で、ベトナム戦争時に較べて今回は反戦運動が静かだとの見方に対して、「そやないんだ、見る見るうちに拡大していくやろ」と語っていた。まさにその通りの動きが現在、世界中、そして国内でも広がっている。単なる理論家ではない実践家の同氏の眼力を改めて知る思いであった。
 その同氏が、この時期にあって重要な点をいくつか指摘している(週刊朝日 2003.4.4)が、その中の二点を注目したいと思った。

 一点目は、日本の報道へのクレームである。同氏は「日本のデモは低調」と印象づけてきた報道姿勢を批判していたが、確かに日本のジャーナリズムの戦争に対する無神経さは改めて注目されていい。今回の小泉首相による「米国支持」=「戦争肯定」を社説で反対表明と批判をしたのは『朝日』と『毎日』だけであり、「苦渋の選択」だとして肯定したのが『読売』『産経』であった。
 ジャーナリズムが戦時においてどんなに重要な役割を果たしてしまうかは、現在のイラク戦での情報戦を見ればわかるし、過去の第二次世界大戦への序章での言論統制への雪崩現象を見ても一目瞭然である。「有事法制」化が火事場泥棒的に今進められようとしている時期でもあるだけに、戦争を嫌う者はなおのことマスメディアの姿勢を監視する必要があると思う。

 同氏による第二の主張は、「目指せ『良心的軍事拒否国家』」だ。ヨーロッパの多くの国々が「良心的兵役拒否」が法制度化されているように、唯一の被爆国で平和憲法を持っている日本は、「平和主義の延長として『良心的軍事拒否国家』を目指せ」と述べている。正しい主張であり、現実的な見解だと思えた。
 ある信頼できる識者が、日本が核武装することを米国は拒否しているとの情報、そして日本は「臆病」に徹して平和主義日本の看板において国際世論の中でポジションを発揮すべきだと述べていた。
 今、北朝鮮の「脅威」をテコにして、日本の脱「平和主義」を目論む者たちは最終ターゲットを自衛軍備から核武装へのなし崩し的軍事力拡大だと設定していると推測される。こうした流れが、冒頭の「フツーの市民」が望むところでないことは明らかだろう。現政府でさえ、「日朝声明」を結んだのは平和的外交による展望を持とうとしたからではないのか。

 イラク戦争が始められてしまって以降、予想される経済的大混乱を含めて世界は一気に不穏な危険水域に突入してしまった。そして、その世界というのが、これまでがそうであったように傍観者的に接することができず、確実に巻き込まれていることも事実だ。
 「思えば、私たちの内面もまた米英軍に爆撃されているのであり、胸のうちは戦車や軍靴により蹂躙(じゅうりん)されているのだ」(作家・辺見庸氏)とあるが、「胸のうちの蹂躙」である間に、最大限の想像力(イマージン!)と推察力を働かせて、より愚かな選択を避けてゆかなければならない…… (2003.03.29)

2003/03/30/ (日)  若気のいたりの暴走族たちの、そのリーダーのようなブッシュのスピーチ?

 近所の観音堂の境内を被う桜が五分咲きとなった。ウォーキングの帰り道に毎日見届けるため、日々の変化がよくわかる。新興住宅地の通りには、百メートルほどの街路樹の並木があり、桜のような淡紅色の花が満開となっている。早朝だとクルマも人通りもほとんどなく、その光景は、小旅行にでも出かけたような気分を与えてくれる。旧い地元の家々の庭には、いろいろな樹木を目にすることができるが、ひときわ真っ白なコブシの花々が目を引く。いよいよ待ちに待った春が訪れたようだ。

 この冬の寒さと冷たさを、例年になく身に感じただけに、それらが終り「お待ちどうさま!」とばかりの気配を強めている春の到来がうれしい。
 ある方との会話の中に、成人病克服のためにダイエットをしていたため皮下脂肪が少なくなったためか、今年の冬は寒さが身にしみた、とあった。自分も、七、八キロの減量を成し遂げた冬であったためか、あるいは毎日戸外の冷気に接していたためか、寒い冬をしっかりと記憶に残したものだった。
 また、これまでに経験したことがなかった意識の不調、軽い鬱的状態を自覚したために、陰鬱な冬というイメージを刻印してしまった。ただ、その自覚があったために、睡眠の質への関心を急遽高めることとなり、早寝早起きという得がたい副産物を得ることができた。わざわい転じて福となす、ということばどおりだったかもしれない。これからの季節、早朝はますますすがすがしさが期待できるので、早寝早起きという「年寄り」の習慣(?)を定着させてしまうことになりそうだ。

 思い返してみると、図らずも自分が真に望んでいるように自分を変えているようにも感じる。さまざまな理由から、「人工的なもの」に気が許せず、残された「自然」への憧憬を強く意識し始めていた昨今だった。「自然主義者(?)」への傾斜を感じていた自分が、「自然」がもっとも「自然」らしく振舞うはずの夜明け、早朝時に参加することはまさに理に叶う話なのである。
 夜型生活とは、都市生活者や若い世代の生活スタイルなのであろう。眠りという自然のサイクルを過小評価し度外視さえできる若さが帰結する生活スタイルなのであろう。さらに言えば、「人工的なもの」となじみ、そしてそれらを信じてやまない姿勢の人たちにふさわしい生き方なのであろう。
 自分も、若い時代には目いっぱいの夜更かしをして、朝を台無しにしてきた。朝には凡庸な価値しか存在しないと決めてかかり、闇が照らし出された夜、深夜にこそダイナミックな新しい価値が生み出されると思い込んでいたようだ。「人工的なもの」が溢れ、それらに魅了され続けて育ってきたものにとって、照明環境やマス・メディアなど「人工的なもの」が威力を発揮する、そんな夜こそが生きる時間帯だと信じていたのだろうか。
 いや、そんなに大げさに表現する必要はないかもしれない。要するに、「人工的なもの」としての意識と、身体という「自然」とのバランスなのである。若い時代は、身体という「自然」はまるで無尽蔵であるような印象を与え続ける。どんなに酷使しようが、「ちゃんとちゃんと」に復帰してケロッとする。視野の外に置いておいても差し支えないかのごとくであっただろう。
 しかし、やがて徹夜にしても、キツイ肉体作業にしても、その疲れが直後に現れない年齢に差し掛かる。ニ、三日経ってから現れるという「疲れの発酵期間」(?)を要するようになって初めて身体という「自然」の有限性が自覚できるようになるのだ。
 しかし、意識は常に「人工的なもの」とともにある。いや、意識とは「人工的なもの」そのものである。

 イラク戦争を「文明の衝突」(宗教・生活様式・価値観の異なる西欧社会とイスラム社会との衝突を指摘したサミュエル・ハンチントンの論)だと見る、あるいはそれへ向けての足早な接近だと見る見方がある。
 そんな悲劇に至らない人類の聡明さが求められているが、今、ひとつ感じていることは、地球資源の問題もにわかに現実的な懸念が抱かれる時代となった今、価値観や視野においてどちらかと言えば「自然」を蔑視し、「人工的なもの」を絶賛し続けてきた西欧文明が確実に曲がり角に到達しているということである。個人においては不可避的に訪れる「老い」(=自然)という問題を、西欧文明は棚上げにし続けることによって成り立ってきたような気がする。どこかで「軟着陸(ソフト・ランディング)」せざるを得ないのではないかと……。若気のいたりの暴走族たちの、そのリーダーのようなブッシュのスピーチを見聞していると、そんな危うさを感じてしまう…… (2003.03.30)

2003/03/31/ (月)  「ピンポイント」思考で「世界の正義」という「ブランド」が台無しに!

 選択の余地もなく「自爆」攻撃にまで辿り着くイラク兵も、砂嵐に襲われ一日一食で耐えつつ、死の恐怖や不鮮明な戦争の大義と向かい合う米英の上陸兵も、権力のための「消耗品」であることにおいては共通している。
 お互いに、個人的、具体的な憎悪を持ち合うわけではないにもかかわらず、人間としての最大の野蛮行為たる殺人を、命の破壊の遂行を命じられた兵たちは哀れである。何らかの事情をもって特殊部隊を志願した兵であっても、人間が生きるというまともな論理を破綻させている事実は辛いに違いない。そこに人知れず生じる空隙に、打ち消しがたく潜む荒涼とした地獄を癒せないでいることは、どんなに荒ぶれた男たちではあってもこの上なく辛いに違いないのではなかろうか。

 「自爆」を辞さないイラク兵たちは、きっと勇猛果敢でも死に対する鈍感さでもないはずだ。まして闘い慣れしているとか、またそんなことがあるわけがないのだが死ぬことに慣れているとかという荒唐無稽なことを言ってはならないだろう。歴史が結晶化させてしまった米国への累積された憎悪や、また自国で背後から射殺されるという権力機構への恐怖や、そして祖国では生きる権利さえ剥奪されかねない恐怖政治の環境などのすべてが、彼らの行動を決定させているに違いない。もちろん最大の要因は、フセイン独裁国家特有の残虐な恐怖のシステムだと一括しても間違いではないように見える。
 しかし、それならばなぜ「イラクの解放」「イラクの自由」を前面に押し出す米英同盟軍に対して「自爆」攻撃におよぶまで抵抗するのだろうか。

 現在、兵の派遣を倍増しなければならないほどに、米国の戦略に誤算があったと観測されているが、その原因は、やはり米国政治指導部が、兵を含めたイラク人たちの心の動向を完全に読み違えた点をおいてほかないと思われる。米国は、独裁者フセインという視点の「ピンポイント」で開戦論理を構築してしまったようだ。その論理では、当然のことながらフセインを抹殺する同盟軍が、独裁国家イラクの「解放軍」としてイラク国民から歓迎されるという読みしか出てこなかった。一見妥当な読みのようにも見える。
 ところで、米国の戦略はなんと何から何までが「ピンポイント」であったことか。国連と国際世論を振り切って、単独で先制攻撃に突き進んだのも「ピンポイント」的であったし、まさに「精密誘導ミサイル」が「ピンポイント」攻撃であった。そして、最初の第一弾が、フセイン彼自身へ向けた「ピンポイント」爆撃でもあった。こうした、「ピンポイント」戦略が現在の誤算の最大要因であったのではないか。
 もし仮に、第一弾の「ピンポイント」爆撃でフセインを取り除いたとして戦況は激変していたものだろうか? その可能性はないとも言えないが、もしかすると現況とさほど違わないという推定も不可能ではないかもしれないと思える。

 二つの点に注目したい。一つは、他国の権力構造を複合的に観察せずに、まさに「ピンポイント」でしか見ていなかったのではないかという点である。第二次世界大戦時に、日本を占領するに当たり社会諸科学の成果をも踏まえて「天皇制」を温存させる統治方法を選択した米国とは雲泥の差を感じてしまうのだ。
 たとえ独裁国家ではあっても、現存する権力は被支配者からの相応の支持を得ている事実を慎重に見なければならないはずなのだ。複雑な政治状況の中東地域にあってはなおさらのことかと思われる。
 日本でも、こんなに惨憺たる政治・経済状況ではあっても、わたしは理解に苦しむのだが、最新の小泉内閣支持率は未だに40%台(何と男性は46%)である。イラク戦争支持に関しても女性は16%であるのに、男性は38%だという。社会心理の中には、通りいっぺんの論理や推理では理解しがたいものが潜むと言わざるをえない。
 二つ目は、他国を「ピンポイント」で観察する目は、敵国の非を強調する余り、自国米国がイラクや中東地域全般に振舞ってきたこれまでの過去と、それが生み出したはずの彼らの反米感情をすっぽりと見過ごしているという点である。イスラエルに執拗に肩入れしてパレスチナ問題をこじらせてきた経緯がまるで見据えられていないかのようである。

 今、国際世論が米国を支持できないと表明し始めているのは、圧倒的な軍事力での支配を押しつけているその方法にほかならないが、加えて言えば、その判断に曇りが出てきていることも大だと言える。支配を受け容れる民は、支配の方法のあり方と、何を目指した支配なのかの両方をしっかりと見ているに違いない。イラク侵攻を始めたブッシュ政権は、「ピンポイント」思考のその杜撰(ずさん)さで、米国が培ってきた「世界の正義」という「ブランド」を台無しにしつつあるように見える…… (2003.03.31)