[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年05月の日誌 ‥‥‥‥

2003/05/01/ (木)  優しく育てられた動物たちが示す人懐っこい動作に似ている……
2003/05/02/ (金)  またまた、この日誌は何のために書くのか、に目を向けてみる!
2003/05/03/ (土)  「他者依存」「甘え」大いに結構、結構毛だらけ猫灰だらけ!
2003/05/04/ (日)  「合成の誤謬」に居座る「厚顔にも既得権益を守り抜いている輩たち」!
2003/05/05/ (月)  今日は、寺山修司に一手ご指南いただいた……
2003/05/06/ (火)  仕事の「意味」、『男たちの旅路』、「大きな物語」喪失の現代……
2003/05/07/ (水)  落語『二階ぞめき』と、オタク世界とは似て非なるもの!
2003/05/08/ (木)  文化の劣化を嘆く自分は、まるで人家にまぎれ込んだ「枯葉虫」?
2003/05/09/ (金)  現代文明によって形成される「感覚」(≠「感情」)至上主義人間?
2003/05/10/ (土)  個人の内なる「感覚」が、外部システムによって「オブジェクト」化される?
2003/05/11/ (日)  履き違えられた「個人の自由」を感づかさせる現状のひどさ!
2003/05/12/ (月)  もう議論なんぞしている場合ではないことを誰もが知っている……
2003/05/13/ (火)  「明確な原因は見いだせなかった」小中学生の学力低下傾向!
2003/05/14/ (水)  「袖なしのシャツから出た、短く、プックリとした腕」の幼児たちへ!
2003/05/15/ (木)  「What(何を)」という問いが殺ぎ落とされてしまった?
2003/05/16/ (金)  元気な時や景気の良い時しかお付き合いできない医者や銀行!
2003/05/17/ (土)  「そつ啄同時」というニーズ対処法をビジネスに生かすとは?
2003/05/18/ (日)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報と対価
2003/05/19/ (月)  そろそろ「表紙」の写真に工夫が欲しい、と言えばいい!
2003/05/20/ (火)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報と目的 <その一>
2003/05/21/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報と目的 <そのニ>
2003/05/22/ (木)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報と目的 <その三>
2003/05/23/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報と「一人勝ち」現象
2003/05/24/ (土)  「情報ビジネス」雑感 …… 高い情報技術と未熟な情報活用
2003/05/25/ (日)  「情報ビジネス」雑感 …… 「情報(化)社会」での「検索」、「質問」
2003/05/26/ (月)  「情報ビジネス」雑感 …… 情報とシミュレーション(「もどき」!)
2003/05/27/ (火)  「情報ビジネス」雑感 …… ムダや偶然性が排除される「「情報(化)社会」」
2003/05/28/ (水)  「情報ビジネス」雑感 …… 視覚情報と「前頭前野」のβ波低下
2003/05/29/ (木)  「情報ビジネス」雑感 …… 「情報(化)社会」の「時間と空間」と「動物化」
2003/05/30/ (金)  「情報ビジネス」雑感 …… 「視覚情報」は「情報(化)社会」を象徴する!
2003/05/31/ (土)  いろいろな芳香や匂いが思い出を連れてかえって来る……






 その少年は、さあ、どうぞ! というような合図を手で示した。自転車のサドルに跨ったまま、左手でハンドルを握り、右腕を右上から左下方へ大きく滑らすような動作をしたのである。わたしは素早くお辞儀をして、交差点中央で止まらせていたクルマを右折させた。
 その時、わたしは交差点を右折しようとしていたのだった。自転車に乗ったその少年は、右前方の歩道を走って来て、わたしのクルマが横切ろうとする横断歩道をまさに渡るかに見えたのだった。横断歩道の信号は青の点滅に変わっていた。右折時のこのようなケースが危ないことを意識していたわたしは、その少年を渡らしてから右折しようと待機していたのだった。そこへ、思いがけない少年側からの大きなジェスチャーがあったというわけである。

 最近は、クルマを運転していて不快な気分とさせられることが多い。とくに右折の待機をしていて、信号が黄色や赤となってもごり押しに直進してくる「ジコチュー」のドライバーが少なくないからである。そんなに急ぐこともないじゃないか、別に楽しくもない次の現場へ向かうだけなのに…… と、シニカルな思いを吐き捨ててやったりする。
 そんな日常の積み重なりの中で、意表をつかれたのだった。別に急ぐこともなく、我(が)を通して危ない目に会おうともせず、しかも相手側へのしっかりとしたメッセージを出すフェアな少年の姿に、絶大な好感を抱くことになったということなのだ。そのあと、ハンドルを握りながらしばらくの間すがすがしい余韻が残り続けたものだった。

 何がうれしかったのか。進路を譲ってもらったことか。それもあろう。だが、それよりも心に共鳴したのは、あの大きなジェスチャーであったかもしれない。よく見かける、指先だけで、さあ、行きなさい! というような人を小馬鹿にしたような仕草ではなかったのだ。あたかも王様の前で跪いて敬意を表する際の、その右腕の動作のようなジェスチャーがことのほか気分をよくさせてくれたのかもしれない。そんなふうにさりげなく人を喜ばせることができるその少年は、きっと知らず知らずのうちに周囲の者たちから引き立てられ、幸運をも掴むこととなりはしないか、とさえオーバー気味に思ったりした。

 いや、実のところ心に染みた本当の理由は、別な文脈にあったのかもしれない。
 「ひきこもり」「自閉症」などという言葉が、最近はめずらしくなく使われるようになってしまった。何も、その言葉が振り向けられる対象は、少年、少女に限られなくもなった。年齢に制限なく、リストラにあった中高年の「ひきこもり」現象もアリの時代である。
 そして、そうした要注意水域に踏み込んでしまった不運な人々の背後には、その予備軍ともいうべき「潜伏期間」にある人々の待ち行列が見えるような雰囲気でもある。みなが、「我、事において後悔せず!」という武蔵にあらず、「我、他人に会っても関知せず!」とでも言いたげに、うつむきかげんであったり、視線を宙に舞わせていたり…… そうして、「潜伏期間」が満了となるにおよび文字通りの「ひきこもり」人生に突入していくことになる。
 実を言えば、わたしも、決して他人事ではないと感じている。いや、わたしの場合は、「ひきこもり」などという生易しい表現ではなく、「隠遁」願望と言ってもいいし、かの武蔵が晩年に『五輪書』をしたためた「洞窟」ごもり所望と言ってもいいかもしれない。こんな世界「もう、うんざりなのよ」と、最近の歌謡曲かなんかで聞いたセリフが思わず口をついて出るからである。

 それはそうと、そんな時代環境にあって、最も壊滅的に失われたものが、あの少年のような何げない他者への発信行為なのだと思われたのであった。あたかも健全な共同体が存在し続けているかのように、また、その共同体の一員に向けての当然の対応であるかのように、さりげなく何げなくメッセージを発信していく柔らかい姿である。『男はつらいよ』の寅次郎が見ず知らずの行き交う人に軽い言葉を発するイメージに通じるところがあるかもしれない。あるいは優しく育てられた動物たちが示す人懐っこい動作に似ていると言えるかもしれない…… (2003.05.01)


 過ぎてみれば早いもので、来週の日曜、5月11日でこの日誌も三年目を迎えることになる。この間、結局一日も穴を開けることなく継続させてきた。健康状態が優れずに激しい痛みに堪えてのキー・パンチという記憶がないわけでもない。そこまで継続にこだわることもないはずなのだが、元来が怠け者であるので、一日休むことがそれだけでは済まなくなりそうな、そんな悪い予感がして、ついつい駄文ながら帳尻を合わせようとしてきた。

 最近、あることに気づかされた。それというのもこの粗末な日誌を読んでいただいた方からの感想のメールが届いたり、アクセスの痕跡などから、あながち一人相撲ではないことを知らされたからである。日誌と名乗っている点もあり、ややもすれば開き直ってしまい、あくまでも自分自身のために書けばそれでいいんだ、と自閉的スタンスに落ち込みがちとなるものだ。
 しかし、仮にも「公開」日誌として、第三者の読み手を想定している以上は、たとえ数少ない読み手しか存在しないとしても、やはり読む方とのコミュニケーションを度外視してはならない、いや読み手への伝達をしっかりと意識してこそまともな思いが綴れるはずだと、そう再認識させられたのである。

 このところ謙虚に痛感していることがある。つまり、この時代環境は、自分自身をして、この時代に「不適応」な人間なのだと十分に知らしめていると。平たく言うならば、どうも自分はこの時代風潮とはうまくはやってゆけないなあ、という自覚である。いつの間にかそうなってしまった。脱哲学! の風潮はいたし方ないとしても、脱思想! 脱文学! とでもいう乾き切った無機質な風が、平成の巷を満たし始めてしまったようだ。それは単なる主観的な受け止め方だけの問題ではなさそうで、構造的にも根拠らしきものが見出せる風潮だと感じ始めたのである。しかし、多くの人々が、満足はしていないにせよ、仮にも我慢できているのだから、自分は「不適応」症の人間なのだと思い始めたわけなのである。
 しかし、不思議なことに、何ら落胆する気持ちが思い当たらないのである。まあ、いいか、という気分なのかもしれない。いや、あえて「適応」などする必要はないぞ、いや決して「適応」などしてはいけないぞ、と叫ぶ声さえ聞こえないでもない。いい歳をしていながらまるで青臭いじゃないか、と感じる自分もいるにはいるが、どうせ「不幸な時代」なら、「納得できる不幸」を選びたいと思っているのだからしょうがなかろう。

 で、なぜわたしがこの「公開日誌」にこだわり続けているかなのだが、「ムダな抵抗」をしていると言ってもいいだろう。醒めた皮肉の響きが伴うのを承知だが、底抜けのかたちでメルト・ダウンして行くかにしか見えないこの社会、この世界を前にして、とにかく是認の言葉だけは与えたくないと思っている。かといって、悪化してゆくそれらをくい止める手立ては、容易には描き切れないと踏まざるを得ない。まさに閉塞状況である。
 ものを書くとは、こうしたいたたまれずの胸の内、止むに止まれずの思いの中で、何がしかの手掛かりをもがいて得ようとする、そうした行為のことではないのかと感じているのだ。それ以外は、すべて邪道とは言わないまでも無くてもいいものではないかと考えている。いや、そこまで言ってしまうと、無くてもいいものばかりのただ中で暮らしているわれわれが、あまりにも情けないことに気づきそうになってしまうが……。

 「ムダな抵抗」と書くと、やや湿り気の多すぎる印象を与えかねない。ただ、無神経で、卑屈さと表裏一体となっている「支持します!」という明るさよりかは遥かにましだとは思っている。
 そもそも、「ムダ」ではない「有効」な事象が人間世界に存在すると信じ込むことが大きな間違いの始まりではないのかと感じている。そう言ってしまうと身も蓋もなく、「それを言っちゃおしまいよ」となりそうだが、あまりにも時代は「有効」もどきに囚われ過ぎていると言いたいだけなのである。
 いちいち例示している暇はないが、「ムダ」「有効」とは、何か「暗黙の目的や基準」を前提にして結論づけられるところの評価の言葉ではないだろうか。もし、その「暗黙の目的や基準」が共有されていない場合には、「ムダ」も「有効」も言葉としての市民権を得ないのである。
 そして、この時代の最大の問題は、かつては存在すると感じられていた「暗黙の目的や基準」が無残にも風化してしまったことにあると言えそうである。いや、そう言うよりも、かつては一部の特権層が、自らの「目的や基準」を社会全体の「暗黙の目的や基準」として押しつけ、それがまるで床の間の置物のように何となくおさまっていた状況に、あらゆるものの大衆化の進行過程で、「ちょっと待ってよ、それっておかしいんじゃないの?」と異議申し立てをする動きが多発するようになったから、と言うべきなのかもしれない。
 おまけに、国内ならばまだしも、多民族と多宗教が林立する世界に、「グローバリズム」と称する「無謀な」一律化運動が登場してきた。しかも、もっともらしい雰囲気はあるのだが、かと言って決して万能とは言いがたい「民主化」というスローガンが唯一絶対の、一神教の神だと言わぬばかりの裏打ちをしながら押し広げられた。
 実は、「ムダ」「有効」加えて「効率化」という言葉も、ここまで遡って考えなければならないはずなのではないか。唐突に言うなら、現に、「グローバリズム」の支流で起こっている農業分野での自由化の波は、国内農業における田畑や農業生産物の「廃棄」というとてつもない「ムダ」を強いている事実がある。まさに逆説的な現象も発生しているのだ。
 われわれが直面している鋭い問題とは、「ムダ」「有効」などという表面的な言葉周辺にあるものではなく、何が「目的」なのかという包括的なレベルでの問題となってしまっているのではなかろうか。

 そこで、今日の日誌を締めくくるならば、相変わらず人間世界の「目的」を、暗黙の前提のように当然視し続ける社会と世界の現状に対して、何が「目的」なのかというとてつもない野暮な疑問を引っさげて、「ムダな抵抗」をするためにキー・パンチし続けたいと思っているのである。やや、肩に力が入り過ぎて暴走球となってしまったが…… (2003.05.02)


 夢の中での感情というのは、実に純粋で鮮明なのにはいつも驚かされる。それに反して、醒めた現実においては、感情は理屈をつかさどる分別の僕(しもべ)となり、オブザーバーからの感想といった程度の位置づけに甘んじさせられているようだ。感情の発露は、現実においてはさまざまな事情で蹂躙(じゅうりん)されているとさえ言えるのかもしれない。だが、それにしても、人は夢の中では何と激情家となれるものかと常々思う。

 今朝も、そうした夢の途中で目覚めたものだ。すっかり醒めきった現実の人となった今思い起こすと、喉元過ぎれば熱さ忘れる、とでもいうのだろうか、夢の時点での感慨は夢のごとく(?)希薄となっていることに気づく。
 夢なのだから脈絡なんぞがデタラメであることは承知の上で振り返ると……、やっぱり言葉にならないデタラメさなので詳細は割愛するしかない。それで、いたく感じ入っていた場面というのが、もう二十年以上前に亡くなった父親のことなのである。

 「オレが生きていたならなあ……」と父が言ったのか、あるいは「おやじが生きていたならなあ……」と自分が思ったのかは定かではない。ただ、頼ることができる、甘えることができる、そんな存在として父が思い出されていたのである。実際の父は、現実の醒めた感覚からすれば必ずしもそうした頼り甲斐のある類の人ではなかったかもしれない。しかし夢の中での自分は、まるで幼子が当然のごとく抱くはずの、そうした父への信頼と、頼ってよしと、微笑んで頷く父のイメージが蘇っていたのだった。
 たぶん、昨今の自分のことであるから、夢の中でも手に余る苦境の中で立ち止まる心境となっていたものと思われる。そんな最中(さなか)に登場した父なのであった。そして、心底、頼りたいと思う自分もそこにいた。この辺が夢であるため、実に感情の趣きは粗野で大らかなのである。何をどう頼るだの、頼れるものなのかといった現実の小賢しさなどは入り込む余地がないのだ。

 しかし、思い起こせば、そのように「粗野で大らか」に父への信頼感に満たされ、甘えていた幼少時のあったことは事実なのである。そして、現実の小賢しい計算、判断能力が生意気な思いを巡らせるようになってからも、そうした思いは、心の隅のどこかで、か細い小川のようにチロチロと流れ続けていたことを否定することはできない。
 自分は、とかく、他者を頼りとすることをよしとしない、できない性分であっただろう。だから、他人(ひと)から狷介(けんかい)な性格だとのレッテルを貼られたこともなかったわけではない。自立的だと言えば聞こえはいい。また、昨今はこの自立的な生き方がご都合主義的に推奨されるご時世でもある。
 確かに、いいかげんにして欲しいと思われるほどに他者依存癖の強い人たちも少なくはない。そんな風潮の問題を「パラサイト」という視点でつい先だっても書いた。が、正直に言って、昨今のわたしの関心は、自立にではなく「他者依存」にこそ向きつつあると言える。もっと言えば「甘え」まで含んでいいとさえ思っている。まるでアナクロニズム、先祖がえりのようでもあるが、「他者依存」や「甘え」をこそもっとまともに見つめるべきではないかと思っているのだ。そのデレーッとした見苦しさの中に隠されているそこはかとなき何かを丁寧に析出すべき時なのだと感じているのである。

 父の夢に戻るが、甘える対象として浮上した父のイメージではあったのだが、それは当然ながら、鋭く反転していく思いにかき消されてしまうのだった。つまり、夢の中で「父はいないのだ。もういないのだ。甘えることは永遠に不可能なのだ……」と自覚するに至り、そのことの悲しさが夢独特の純粋な誇張となって自分を責めてきたのだった。
 世間のみんなが、「自立!」「他者依存撲滅!」と言い始めた折りでもあるので、そろそろ「自立」の旗印を狷介さとともに引き下ろそうかと思い始めてもいる…… (2003.05.03)


 連休の後半は、よい天候に恵まれており、初夏と言っても差し支えない陽気が続いている。これで、この国の今後と庶民の生活が人々の心を曇らせることがなかったならば、この陽気は、どんなにか人々から目いっぱい歓迎されただろうに、と思ったりした。いや、たとえ将来に何が待ち受けていようとも、人々にとって大事なのは今日であり、今であるのだろうか。

 しかし、そうとばかりは言えないであろう。出口なしのデフレ不況の足元に横たわる頑固な消費需要の低迷の原因は、欲しいモノの消失であるとともに、やはり将来を憂えた「買い控え」の結果が大きいと見込まざるを得ない。
 あいも変わらず、マスメディアなどでは「景気回復」という安直な言葉が使われているのだが、果たして実感で生きる庶民は、そんな事態をなおかつ信じているのだろうか。
 今朝の朝刊(朝日)にも、これから訪れる少子高齢化が、経済の「縮小」を余儀なくさせること、さらにただでさえ満身創痍となっている年金制度を完璧な破綻へと引き込む危険が報じられていた。また社説では、十年を超えていまだ出口の方向さえつかめないこの国の経済の病根は根深いことが力説されている。現状の世界で最悪のケースだと目されているアルゼンチンと肩を並べる日が遠くないとの観測もされていた。問題は、政策技術論というよりも、政府をはじめとして国じゅうがこぞって「責任」の自覚のないこと、それが最大の問題点であると論じられていた。連休中の社説としては辛口であり、業を煮やした様子がよく伝わってくる。

 「自由と責任」という言い古されたフレーズが上記の社説でも論じられていたが、それは要するに「他者との関係性」の問題に帰着するのだろうと思う。
 「自由」とは、個々人の内発的可能性に着眼した概念かと思われるが、その発露は必然的に「他の」個人の「自由」を制約せずにはおかないはずだ。幸運な場合には、ある個人の「自由」の発露が、他の個人の「自由」と衝突しないこともあり、予定調和的な秩序が生み出されることもないではない。しかし、それはあまりにも虚構じみた話と言うべきであろう。
 そこで、「自由」の概念をより現実的に運用させるものとしての「責任」、それは「責任感」という内部装置(モラル)と、「法的責任」という外部装置(法体系)のニ形態をとってであるが、その「責任」の概念が生み出されたものと考えられる。もちろん、その根底には人間生活が個人と個人との「関係」を抜きにしては成立しないという共通認識があったと考えざるを得ないだろう。

 青臭い「原論」を振り返ったのは、現在のわが国の実情が、まさに「原論」レベルでの共通認識が得られないほどの立ち腐れに至っている印象が拭えないからなのである。よくもまあ、こんな稀有な醜態が出来上がってしまうほどに、見事なボタンの掛け違いが行なわれたものだと感心(?)してしまうのである。経済学の格言、「合成の誤謬」の適例だと指摘できたとして、ただただ虚しさだけが残ってしまう。
 この立ち腐れた状況で厚顔にも既得権益を守り抜いている輩たちについて云々するよりも、この立ち腐れた状況で苦悩する者たちのことを考えるべきであろう。ただ、その際に立ちはだかる問題もまた、「他者との関係性」の問題以外ではないと思われる。

 「関係修復」という言葉が、日朝関係でもしばしば使われてきた。米欧関係も然りである。行き着くところまで行き着いた主体間の関係は、「責任」だ、「義務」だなどという積極的な概念以前の、荒廃そのものであり、先ず着手されるべきは「関係修復」という地味な作業しかないのかもしれない。
 他国との関係どころではなく、現在のわが国の庶民レベルの問題もまた、どうも「関係修復」から着手しなければならないほどに、それぞれが奇妙に分散して、孤立しているように見えてならない。いわば、「厚顔にも既得権益を守り抜いている輩たち」はまさにこの庶民の分散・孤立状態を手頃なクッションにして居座っているイメージなのかと推測できるのである…… (2003.05.04)


 小型ナイフのようなアブナイ(!)詩人、作家として寺山修司を意識してきた。学生時代に映画『初恋・地獄篇』を見た時の鋭利な印象が忘れられない。
 もう没後二十年も経つそうだ。新聞の新刊広告に寺山修司ならではの「アフォリズム」のひとつが、アイ・キャッチふうに掲載されていた。
「この世でいちばん遠い場所は 自分自身の心である」と。
 寺山修司の「アフォリズム」には、奇妙な感覚を抱かされてきた。唐突なイメージで言うならば、あたかもシャープな小型ナイフで素早くボディを切開され、本人が気づかずに抱え込み続けてきた鉛の弾丸かなんぞを取り出された感じとでも言おうか。おまけに、
「こんなものを抱えていたんじゃね……」
とつぶやきながら、血糊で染まった掌の上の弾丸を見せられる、というようなイメージと言えば多少懲り過ぎていようか。

 もとより、「自分自身の心」は歯痒いほどにわかりにくいとも言えるし、もどかしいほどに制御しにくいものであろう。だから、わかりにくいとか、制御しにくいとかと表現しても当たらずとも遠からずの印象となってしまい、ぴったりとはこない。ここはやはり、「この世でいちばん遠い場所」というのが正解なのだと合点するのである。
 自分のことは自分が一番よく知っているのだと、単純に楽観している人が少なくない。逆に、自分とは何かという問いに過剰な期待を込めて、「自分探し」という放浪の旅に出る人もいる。やはりそのどちらも、自分のこと、その心を閉じて動かぬもの、だから把握することが可能なものだと、性急に決め込むことを前提としている点において誤解をしているということになりそうだ。

 ところで、わたしは最近、以前はよくやったものである自分が見た夢を積極的に詮索することを避けるようにしている。思い出せないのを無理やりにでも思い出そうとしたり、それぞれの断片の脈絡を吟味しようとしたりすることをやめるようにしたのだ。そっとしておくべきなのだと認識したからである。
 夢というのは、無意識が覚醒時に得た諸々の情報を整理するという機能を果たしている際の副次的画面だという説がある。意味論的な深さの整理ではないとは思うのだが、それにしても、脳の無意識が縁の下の陰で働いていることを、日向(ひなた)に引きずり出して査問にかけるというのは、生真面目な脳の努力に対する冒涜(ぼうとく)のような気がし始めたのだ。自分の見た夢を詮索するというのは、せっかく整理整頓をしたものを、混ぜっ返すことになるのではないかと危惧したのだとも言える。また、自分の脳内の動きを自分の脳が詮索するというのは、どうもトートロジー(同語反復!)でさえありそうな気がして、やめた方がよさそうだと感じたと言ってもいい。

 つまりというか、そんな夢の詮索のことを思い起こすと、自分(の心)というのは、詮索され、考える対象とされた自分と同時に、何か対象を詮索している、考えている自分(これを自意識と言うのだろうか)とが区別されるわけなのであり、後者に着眼するならば、その正体をつきとめることはまず不可能なことだと言っていいのではないかと思うのである。あえて表現するならば、脳内の総合的な活動の結果だとでも言うべきなのであろうか。もちろん経験に基づく記憶的要素もあろう。その中で最近関心を向けているのは、身体(当然、五感を含む)が実感的に覚えた記憶の比重である。これが、「自分」を形成する過程で重要な役割を果たしているような気がしているのである。(その点で、五感活動の比重低下と脳内知識優先かに見える現代の「デジタル虚構」世界が、人々の認識や、自分の自覚に及ぼす影響如何の問題には大いに興味がそそられている……)

 2003年はあの鉄腕アトムの誕生の年とかで、ロボットの話題が賑わっている。介護ロボットへの期待はそれとして、ロボットにとっての永遠の課題は、やはりロボット自身の心ということになるのであろうか。
 ただ、ロボットの心という課題を考えてみると、一面では、要するに自身の経験的学習を限りなく積み重ねさせていけば心らしきものを培うのではなかろうか、と楽観したりもする。が、他方、その学習のための前提条件設定が、人間の赤子のような完璧に「開かれた」条件設定に向けてどう行なわれるのか、に疑問の余地が生まれる。また、一概に学習と呼ばれる行為の頂点には、人間ならではの「創造的」学習が控えていよう。人間の心とは、もしかしたらこの「創造的」学習の側面によってこそ心と、さらには魂と呼ばれるにふさわしい存在であるのかもしれないからである。
 もっとも、現代人に心や魂が存在するのか、という皮肉な問題もあるにはある……

「危機という名の鳥は、政治的、経済的状態のうちにではなく、人間の魂のうちにのみ見出される」(寺山修司『あゝ、荒野』)


 大型連休明けの今朝は、大方の人が不機嫌なのではなかったか。早朝のウォーキング時にしばしば出会う通勤途中の何人かの人の顔色も冴えなかった。寝不足顔というか、「やれやれ、また『終わりなき日常』(宮台真司)を生きるのか……」とでもつぶやいているのか、含み笑いがあったかもしれない連休前の表情とは打って変わっていたようだ。
 連休があるからといって、自分の人生が転機を迎えるだろうなんて誰も考えたりはしなかったはずだ。にもかかわらず、とにかくわけのわからないうれしさと期待感が、肩といわず首筋といわず、あるいは顔の筋肉といわず慢性的に凝った部分を和らげたに違いなかっただろう。それは多分、たとえ有限の、わずかな休暇であろうとも、とにかくその時間帯にあっては、「意味」なんぞ見出しがたい割りには、よくぞ詰め込まれたとしか言いようがないわずらわしさばかりの仕事やら、それと同系色の職場の人間関係から解放されるのだという、あえぎの中の安堵感であったに違いない。
 そして今朝、安堵感で始まったあっという間の時間帯から、再びあえぎの日常への戦線復帰なのだから、不機嫌であって何の不思議もない話である。サラリーマンたちが整然と乗車している町田駅へ向かう通勤バスなども、さながら「捕虜収容所」へ向かう軍用バスと見えないわけでもなかった。

 無理を承知の売上高増進や、目標達成を強いられる仕事、作業も辛かろうが、もっと辛くて耐えがたいのは、仕事の「意味」が、勤務条件の悪化の割りにはかげろうのように情けなく雲散霧消していることなのかもしれない。
 ただ、この辺の問題は、年齢によって、また人によって幾分事情が異なっているかもしれない。仕事とはそうしたものと割り切る「達人」もいないわけではないだろう。世の中はそんなもんだよ、と生まれた時から『終わりなき日常』で育てられてきた若年世代や、「仕事に辛さ以外の意味なんて考えさせてもらえなかったよ」という高齢者などが「達人」の域に近かったりするのだろうか。
 その点、団塊の世代あたりが、危なかったりする。仕事の「意味」なんてものにこだわったり、職場の人間関係なんていうものにも「意味」づけをしたがる傾向が強いからである。そして、当然のごとく場違い感と浮き上がり感とをしっかりと返球されたりしている嫌いがあるのてはなかろうか。

 仕事の「意味」、生きる「意味」などとして使われる「意味」について関心を向けようとしている。「意味」はどこからくるのか、というやっかいなテーマについても再考してみたいと感じ始めたのだ。ヤバイことはわかり切っている。オーソドックスな「意味」、押しつけや虚構などではない実感的な「意味」というものが、もうとっくに現実の世界から、まるで町内一斉害虫駆除の成果のように撃滅されているであろうことは、うすうす感づいているからである。
 口幅ったく言ってみるならば、「意味」にも大別すれば二種類の区別がなされるだろう。それを「外在的意味(extensional meaning)」と「内在的意味(intensional meaning)」と呼ぶ人もいるが、もちろん関心事は後者である。
 前述の「仕事の『意味』」に関しても、「外在的意味」ならば揺るがないどころか、ますますのっぴきならない精緻さを増しているはずである。交通整理の警備員の姿はあちこちで見かけるが、彼らの仕事の「外在的意味」は「所定範囲の交通の安全と円滑を維持する」という意味は確固たるものがあろう。また、この仕事の「外在的意味」を実現することによって、警備員が報酬を受け取り、生活資金とするという「外在的意味」も実現されるはずである。が、この警備員にとっての仕事のやり甲斐、満足感という面において、「内在的意味」なるものが浮上してくるのである。

 今、警備員と書いて、ふとあるテレビドラマのことを思い起こした。70年代後半に放映され人気を博したNHKのドラマ『男たちの旅路』(山田太一脚本、鶴田浩二主演)のことである。『おしん』再放送での好評に気をよくしてか、このドラマも再放送されるそうである。特攻隊生き残りでもある主人公が、次第に世の中が「意味」よりも機能を優先させ始める時代風潮の中で、自分にとっての「意味」を問いつづける姿を描いたこの作品は、確かに当時は警告的なニュアンスがあったものだ。
 だが、これをこの現代に再放送することは、当該世代のノスタルジー陶酔に親切な材料を提供する以上に、前向きな「意味」があるとは思えない。たとえば、現在の十代の世代の空虚な心にどう響くかははなはだ疑問だと予想するのだ。

 高度経済成長、バブル崩壊、冷戦構造の終結などなどを経て、すっかり社会情勢と時代風潮は激変してしまった。その過程で、人々が自分自身の生活環境に関して(内在的)「意味」を問う姿もまったく変わってしまったと言っていいだろうと思う。
 鶴田浩二の名が出てきたからではないが、それはちょうど、「人生」という言葉が死語あつかいに近くなり、それに替わって「生活」という機能的な言葉が座を占めてしまった推移と酷似している。ややもすれば「意味」にこだわることは、「人生」という言葉を使い、よっぽど演歌かぶれしているのだと思われるような、そんな誤解がなされかねないご時世なのかもしれない。
 「意味」、「意味づけ」というものは、確かに主観的な要素を色濃く備えたものではある。だから、どんな時代、どんな環境と変わっても好きなように構築していいものでもある。ただ、社会ないしは世界が構造的な変化を遂げ、その結果人々による「意味」、「意味づけ」の比重が大きく変化している事実は無視し得ないと思われる。現代が被ったこの変化の事実認識なしには、社会もそして個人も言い知れない困惑に留まるだけのように思うのだ。

 たまたま連休中に、「オタク」と現代に関する手ごたえのある著作(東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』)を読んだ。上記のような「意味」に関する現代的特長を模索してのことである。オタクは決して限定された人たちの心理構造ではなく、「大きな物語」を失った現代の多く人々に共通する特徴だと筆者は述べているが、「意味」を「物語」に関係づける発想に共感できた。なおかつ、わたし自身が日頃懸念していたいろいろな問題について示唆的でもあるので、これは別な日に書いてみたい。

 それにしても、最近はちょっと書くテーマがヘビーになっているので、どこかで路線変更をしないと身がもたなくなりそうだ…… (2003.05.06)


 志ん生の落語に『二階ぞめき』という一風変わった話がある。「ぞめき」とは「騒き」であり、「二階での騒ぎ」というほどの意味である。何の騒ぎなのか。思い起こすままに振り返ってみると……

 実は、あるお店(たな)の若旦那、日ごとの吉原通いの末に、大旦那も「あいつは勘当だ!」と叫ぶ始末となる。そこで番頭が仲を取り持つこととなった。
「若旦那、いけませんやね、毎晩っつうのが。三日に一度とかになさいましよ」
「いや、いけねぇ。毎晩でなきゃいけねぇんだ」
「じゃ、こうしたら如何です。お気に入りの子を、然るべきところに囲うってぇのは?」
「そうじゃねぇんだよ。オレは、女の子がどうこうってわけじゃねぇんだ。吉原そのものが気に入ってるんだよ。吉原をうちへ持って来てくれるんならありがたいがね」
「そんな無茶な……。……。ようございます。吉原がうちにあったらおさまるんですね。じゃ、二階に吉原をこしらえましょ。腕の確かな頭(かしら)ならきっと何とかしてくれるでしょう。アタシが頼んでみますよ」
 で、ムチャクチャな話だが、吉原の通りが二階に再現されてしまったのである。
「若旦那、できました、できました。早速、二階に上がって冷やかしてきたら如何です?」
「ほー、楽しみだね。でも何だよ。気に入らなかったらすぐに降りてきて、吉原へ行っちまうからね。じゃ、その箪笥からさしっこ(刺子)を出しておくれ」
「二階なんだから、そのままでいいじゃないですか」
「そうじゃねぇんだ。吉原へ冷やかしに行くには、冷やかし刺子、『冷刺』ってぇのじゃなきゃいけねぇんだよ」
 そして、若旦那はいそいそと二階へ上がり、
「へぇー、吉原そのまんまだね。頭(かしら)の腕は大したもんだが、番頭もエライね」なんぞと独りごちながら、さっそく鼻歌混じりの冷やかしを始める。
「おい姉さん、こっち向いておくんねぇな。えっ、上がれってぇかい? よせやい、今来たばかりじゃねぇか。また来るよ〜てぇんだ」
 そして、「御茶を挽く」(客がつかない)こと三日というようなこ(遊女)と上がれ、上がらないの末に口喧嘩となり、若い衆も出て来て取っ組み合いの大喧嘩となってしまう。
「さあ、殺せ! (ドタンバタンドタンバタン)」

「おいおい、二階が騒がしいですよ。うちの馬鹿は何してるんです? 一人じゃないようだね? さだ、行って見ておいで」

「うぁあ、きれいだなあ。明かりまでついて、本物の通りのようだ。あれっ、あそこで誰かが暴れてる。泥棒かな? なんだ、若旦那だ。何してるんだろ? 一人で自分の胸倉(むなぐら)を掴んだりして大声出してら。若旦那!若旦那!」
「ねやろー、さぁ殺せー。殺せー…… あれっ、さだじゃねぇか。何でおまえがこんなところに? まあ、いいか。だが、オレとこんなところ(吉原)で会ったことはオヤジには内緒だよ」

 とまあ、記憶の中にある『二階ぞめき』を引っ張り出してみたのだが、わたしはこの話に奇妙な印象を持ち続けてきたものだった。江戸の小噺というには、妙に現代的なニュアンスを感じていたからである。まるで、その道にはまりきった現代の凝り性というか、オタクというかが、自宅に自分専用のシミュレーターかなんぞを作ってしまう図を思い起こさせるからである。鉄道模型に凝った者が、縦横にレールが走るひとつの街をこしらえてしまったり、キャラクターオタクが部屋中にキャラクターを並べ切ったりという虚構空間をでっち上げ、自己満足に浸るという「哀しい」現代ならではの図をイメージしてしまうからなのである。江戸ないしは明治というそんな時代に、実態的な人間関係を逃れ、虚構の空間に浸るタイプのオタク的人間がいたのであろうか、あるいはそんな話が理解されたのであろうか、と疑問視していたのである。

 もし、オタクたち(あるいは少なくない現代人たち)は、「シンボルの交換を中心とした深さを欠いたコミュニケーションと、限定された情報空間の内部でかろうじて維持される自己像」に特徴を持ち、「彼らが虚構的なシンボルの交換を重視するのは、『かつてよりも希薄なものになったコミュニケーション前提を、いわば人為的に埋め合わせるため』だ」(東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』)とするならば、オタクの特徴とは、一方での虚構的な空間への過剰なのめり込みと、他方での現実におけるコミュニケーションへの不信、軽視、離脱というセットである、と暫定的に言っていいのかもしれない。
 そして、こうしたオタク的特徴は、決して特殊なものでもなく、「アメリカ型消費社会」(「消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。従来ならば社会的なコミュニケーションなしには得られなかった対象、たとえば毎日の食事や性的なパートナーも、いまではファーストフードや性産業で、きわめて簡便に、いっさいの面倒なコミュニケーションなしで手に入れることができる」)の中で、「面倒なコミュニケーションなし」で欲求を充足させることに慣れてしまっている一般現代人と、実は「地続き!」の関係にある、と思えてならない。
 「面倒なコミュニケーションなし」という契機をどう理解するかが鍵だと思われる。同書で、動物の「欲求」と人間の「欲望」との差異は、前者が「他者」を必要とせずに満たされるのに対して、「人間の欲望は本質的に他者を必要とする」との、鋭い指摘があった。人間は「他者の欲望を欲望する」存在だと小難しく表現されていたが、要するに「愛されたい」(=他者が自分を必要とすることを望む)という一事を想定しても、人間の欲望は他者との関係を度外視できない構造を持っているのだ。「面倒なコミュニケーション」とは他者との関係の入り口に過ぎないと言えるはずである。
 つまり、オタクや、そして現代人の多くは、人間としての欲望を動物の欲求に引き下げることによって「動物化」している、との表現がなされていたのである。人間たちの外の装置や設備が飛躍的に機械化され、また虚構としてのシンボル・情報空間が肥大化され、元来が他者と向き合うはずの人間たちが、そうした外在的環境にのめり込む時、人間たちの欲求は限りなく動物たちのそれへと近づいていく、という構図なのである。

 ところで、『二階ぞめき』に戻るが、よくよく考えてみるならば、若旦那の心境は決してオタク的でも現代的でもないことがわかってくる。若旦那が最も望んでいたのは、「女の子がどうこうってわけじゃねぇんだ。吉原そのものが気に入ってるんだよ」なのである。「吉原そのもの」とは、「冷やかし」というまさに「面倒な(?)コミュニケーション」それ自体、いやその妙味を楽しみたいという人間的欲望丸出しなのである。たまたま「リアル空間」への接近がご法度となったために、やむを得ず二階の「虚構空間」で一人芝居を演じて、代償行為に甘んじたというわけなのであった。
 やっばり、落語って本当にいいですね。日本人の心の故郷であることに変わりませんね…… (2003.05.07)


 いつの間にか「暑い」とさえ感じる陽気になってしまった。クーラーをかけるには抵抗感があるため、窓を開けることになってしまう。すると、やたらに虫たちがまぎれ込む事態となる。
 昨晩も、一匹のうるさい「五月蝿」が居間に侵入していた。最近はどうもむやみに殺生(せっしょう)をする気にはなれないため、窓の外に誘導するのに骨が折れた。
 今朝は、洗面台の鏡に付属する蛍光灯の付近に、一匹の見慣れない虫がへばりついていた。よく見ると、まさに「一寸の虫にも五分の魂」の五分(1.5センチ)程度の大きさで、枯葉を模した「隠蔽的擬態」を生存術とする昆虫であった。
 わたしは整髪をしながら、その昆虫をしばし見つめた。ご当人は、これまで他者の目を欺いて生き残れたのだから、自分の「擬態」術を信じ切っているのだろうなあ。
「あっ、人間がこっちを見てるぞ。でも、だいじょーぶだあー! オレは虫じゃなくて、何の変哲もない枯葉なんだもんね。でも、さっきからずっと見てるようだぞ。何だかちょっと不安になってきたな……。もうちょっとじっとしながら様子を見てみよう……」
なんて、思ってるのかもしれない。しかしなあ、おまえが今どこにへばりついているのかを考えてみたか? おまえがよく知っているアウトドアじゃないから無理もないけど、蛍光灯カバーのその白い部分にへばりついていたんじゃ、見え見えじゃないか。枯葉がこんなとこにくっついているとは誰も思わないぜ。そいでも、隠れてるっつう思い込みを通す気かい? 何だか、その虫が冷や汗をタラ〜ッと流しているイメージが浮かんだりした。

 こんなことに関心を寄せるだけじゃなくて、おまけに文章にまで書くというのは、多分その「枯葉虫(?)」の戸惑いに多少なりとも共感を覚えているからなのかもしれない。何がといって、この現代日本の文化に対しての違和感である。いやいや、そう大げさに構えることはよそう。大げさを装えば、その分この日誌がヘビーになってしまい、心ならずも負荷が大きくなってしまう。日誌なのだから、軽く、軽く、ライトにマイルドに、「ニコチン含有量 0.1mg」ふうに書きたいのだった。だから、小さな、取るに足らぬ「枯葉虫(?)」なんぞに今日の題材を求めたはずでもあった。

 わたしの世代はと言うべきなのだろうか、なんだかんだと批判をしながらも、それでいてテレビ(番組)を未だに買いかぶったりしている。くだらないのだから、見なければいいものを。幼少時にテレビが華々しくデビューした光景が、カルガモの脳に刷り込まれた母親像のように、ついて行けばどうにかなる信頼できる存在として刷り込まれてしまったのだろうか。
 はっきり言って、昨今のテレビ(番組)は視聴者をなめてかかっているとしか言いようがない実情である。じっくりと腰を据えた報道番組も消されてしまった。そして、やたらに増えているのが、「白装束」と「タマちゃん」を追っかけるようなワイドショーの類であり、さぞかし制作費が浮くだろうと推測される、忘れちまったタレントを引っぱり出しての旅番組である。あとは、ミステリーなんてもんじゃなくて、視聴率競争でヒステリーとなったプロデューサーによる「京都信濃路OLサラリーマンの哀しい喜劇」といったわけのわからないサスペンスドラマの類だろうか。
 NHKも、歴史や科学ものを除けば、当世ふう視聴者からのうけ狙いに徹しているようで、なんとも嫌味以外ではない。うけてるタレントを持ってきさえすれば、そのタレントが知人、友人、親戚一同を視聴者として引き連れてきてくれるに違いないと読むその根性のちまちましさが鼻につくのだ。
 ドラマというものは、自ずからその手の役者たちが必然的に精選されるものであり、唐突なキャスティングがなされれば、カレーにきざみねぎを振りかけたり、もり蕎麦をフォークで食わせようとしたりする壊滅的アンバランスに至るはずだと、誰も注意するものがいないかのようである。今朝も、朝連テレ小説「こころ」を見ながら納豆ごはんを食べていたが、「これっておもしろい?」と家人に尋ねたら、「そこそこ楽しめる」と答えたので「信じられない!」とつぶやいてしまったのだ。岸恵子もよくもこんな「少女漫画」に出ることになったものだと同情したものだ。
 『鬼平犯科帳』の制作スタッフたちが、もう本格的時代劇が作れる環境がない、中でも役者の劣化がこう著しくては話しにならない、と嘆いていたというが、まさにそのとおりかもしれない。そして、NHKの主流派たちは、『紅白歌合戦』に象徴される「うけタレント依存体質」を漫然と推進して、役者潰しに一役も二役も貢献していると断じる。
 だが、それもこれも官民問わずの視聴率獲得競争という市場原理の帰結なのであろうか。どこだかのご都合主義者が、「いつも世論が正しいとはかぎらない」と大見得を切ったことがあったが、何が正しいかに議論の余地はあるものの、現在の視聴者たちが、文化を育むつもりがあるのかないのかについては大きな疑問だと感じている。いや、要するに、いいものに接する機会に乏しかったと言うべきなのであろうか…… (2003.05.08)


 最近はもう見ないようにしているのだが、アメリカ映画のアクションものには主人公が頭痛薬などのクスリを飲む場面がさり気なく登場する。『ダイハード』のブルース・ウィルスが、起こされた朝っぱらの電話を受けながら、コップを手にして頭痛薬らしきものを飲み、二日酔いを抑えようとしているごとき場面の記憶がある。アメリカ的な機能主義、合理主義の典型なのだと受けとめられる。

 だが、クスリを服用し、痛みを対処療法的に消し去るスタイルは、もはやアメリカ的生活の専売特許ではなくなっているはずだ。われわれだって、風邪を押さえ込むのに抗生物質が何の不思議もなく処方されることに対して慣れきっている。早期に治してしまい、忙しい日常生活に支障なく復帰しなければならない事情が、この治療法を是認していると言える。他の病気などでも、副作用の極小化は配慮されてはいるのだろうが、痛みを止め、局部的に治癒効果の高いクスリが処方されるのは常識にさえなっている。不眠症を訴えれば、神経を沈静化させる催眠剤さえも容易に処方される。
 わたしも先頃、自律神経失調気味で睡眠不調を訴えた際、医者は新種の催眠剤を勧めようとしたものだ。入眠効果と、睡眠持続の両方の効果が期待できるクスリだと言っていた。が、わたしは断わらせてもらった。「ただでさえ習慣性となり易いクスリなのに、そんなに手の込んだものはやめとくことにします」と言って。

 クスリ依存(薬物依存と言うと別な話になってしまう)の問題は、現代人の特徴を見事に表現していると思われてならない。クスリで対処療法しようとする方法とは、統一体、構造体としての人間の身体を、それではまどろっこしいとして、機能単位に細分化した上でコントロールしようとする発想、アーキテクチャーである。漢方薬の場合は、人間の身体の統一性、構造性に訴求して治癒を図ろうとするもののはずだが、化学系のクスリは、まるで「精密誘導ミサイル」のように当該の局所をターゲットとする点に特徴があると言えるのだろう。
 ここで注目してみたいのは、人間の身体(だけではなく、有機体生物はみな共通していると思われるが)は「構造的」な「統一体」だという点なのであり、それを無視するかのように「統一体」の当該部分に対して外部コントロールを加えるという手法に無理はないのかという懸念である。あたかも、「統一体」としての地域コミュニティの自治問題に、外部の国家権力がズカズカと介入していって果たして穏便な問題解決が図れるのか、と同じケースだと言ってもいい。

 医学的なジャンルは文字通り素人なので深入りできない。わたしが関心を抱いているのは、心理や意識の問題なのだが、「感覚」と「感情」についてなのである。私見によれば、「感覚」とは「統一体」としての身体の中でも比較的に身体部分密着型の、いわばローカルな機能だと思われる。だから部分麻酔などが可能なのだと言えよう。
 それに対して、「感情」とは、どうも「統一体」寄りの機能であり、さらに言えば人間の身体の首都のような脳と密着した中央集権的傾向が強い機能だと言えるのかもしれない。妙なたとえ尽くめではある。
 そこでなのであるが、結論先取り的に言えば、現代人は「感覚」至上主義へと変貌しつつあり、「感情」の動物との定義からも逸脱しつつあるのではないか、と感じているのである。「感情」に左右される水準も動物だと古人は判断したようなのだが、その点で言えば現代人は、動物よりもさらに動物的な存在になり下がりつつある、と言えるのかもしれない。個人のアイデンティティの危機が議論されたりする現代である。意識の上での「主体性」が云々の域からははるかに遠のいてしまったのかもしれない。そして今、身体の「統一性」が希薄となり、身体の各部分の「感覚」だけが、身体の外部の文明環境と密着した関係を取り結びつつあるのではなかろうか。ここから容易に想像できる事態は、「人格」の崩壊と、「多重人格」的問題なのかもしれない……
 とりあえず、イメージ的な叙述だけをあえてしてみたので、後日煮詰める必要があると考えているのだが、それにしても恐ろしいというか、とにかく従来の人間とは異なった人間が、現代文明によって形成されている予感がするのである…… (2003.05.09)


 システムに携わったり、関心を持つ人にとって、「オブジェクト指向」や「オブジェクト」というタームは、どの程度の理解が行き届いているかは別として、これらがシステムの新規開発やメンテナンス、あるいは新規データの採用などにおいて効率性を発揮するアーキテクチュアなのだと了解されているのではなかろうか。まさに今風の性格を秘めた手法だと先ずは見なされているのだろう。

 ここでその詳細を吟味する暇はないが、ここでの話に関係する部分だけを触れておくならば、大胆に言って、全体への依存が小さいように部分を自立的なかたちで設定する方法とでも言っておきたい。従来のシステム構築(構造化プログラミング)は全体構造を大前提に部分を個々に定義し、それらの機能実現のために個々個別に手続き的な手順を設計、製造していた。それはあたかも、旧い日本の企業組織のようなもので、特殊な社風や事務手続き慣例に基づいて、個々の部門や社員個々人の行動が根堀り葉堀り指示、教育されていた実情と酷似している。おまけに、社外環境との共通性が著しく乏しく、再就職した社員はそれまでの経験が役に立たない、といった事情まで似ていたかもしれない。

 それに対して、「オブジェクト指向」では個々の構成部分を一定程度自立した「オブジェクト」として設定して、これらを全体システムの何らかの機能実現に向けてコントロールしていく手法なのである。もちろん、自立した「オブジェクト」といっても、不透明さを持った自立であってはならないのであって、そのために「オブジェクト」たちはその性格(「プロパティ」)と行動様式(「メソッド」)という形式に関しては標準規格化されて前提作りがなされていると言える。そして、「オブジェクト」はこの形式に沿いさえすれば、「オブジェクト」間であっても、メインの流れとの関係であっても、要請された機能実現のためのメッセージのやりとりをスムーズに進めることができる、といった具合なのである。
 たとえれば、気の利いた現代風の企業の組織関係だと言えるかもしれない。社員個人も各部署も、内容における特殊性は保持しつつも、「プロパティ」や「メソッド」その他の実務執行形式の共通性を備えているために、自立性と連携とを両立させた効率的なアクションを進める、というイメージであろうか。また、「オブジェクト」的な人材は、仮に他社へ移動したとしてもそこそこ無理なくやってゆけるという点も指摘しうる。

 こうした対比イメージは、絶大な権限を持った汎用機を頂点として、単なる手足でしかない端末をぶら下げていたピラミッド型の従来のコンピュータシステムと、そこそこ自立的なパワーを備えたインテリジェント・コンピュータ同士がネット・ワーキングを構成する現代のネット・ワーク・システムとの対比イメージにきわめて相似的であるとも言えよう。
 で、わたしの関心の焦点は、昨日に引き続き、「感覚」と「感情」の差異、さらに言えば、有機体としての人間の「部分」と「統一性」との関係の問題である。もちろん、その「統一性」とは、個人の身体によって担保され、脳活動の自意識によって発現している個々人の自立性のことを指している。
 ところで、冒頭の「オブジェクト」指向の話に沿って言えば、いくつかのアナロジーが指摘できる。先ず、個人が社会というシステムの中で、自立的な「オブジェクト」のように行動することが要請された時代環境なのだ、と言って言えないこともない。特に、ビジネス・ジャンルにあっては、ワーカーは、標準的な能力と行動様式を身につけ、どこを職場としたとしても卒なく働けるようにすべきだ、というようなことも指摘できようか。

 しかし、わたしが凝視しようとしているのは、そのようなノーマルな事象ではなく、アブノーマルな現象なのである。従来、個人の「感覚」はあくまで個人の実経験によって培われ、その分個人による特殊性もあっただろう。また、それらの「感覚」は個人内部で閉じていて、個人の「統一性」の傘下にあったと考えてよかった。つまり、自分なりの「感覚」が息づいており、自分の経験の産物である自分の「感情」と分かちがたく結びついていたのではないかということである。母親が作った味噌汁への「感覚」が、母親との実生活での「感情」と不可分であったというような事例を想像してもいい。
 が、どうも現代の個々人の「感覚」は、極論すれば、個人内部の経験や個人の「統一性」との結びつきよりも、個人の外の環境との結びつきを優位にさせてしまったのではないかと、そう感じるのである。
 個人のもとでの「オブジェクト」であった「感覚」が、その個人を頭越しして、社会環境システムの「オブジェクト」として機能し始めたのではないかと邪推するのである。もちろん、こうしたことを考えさせる背景は、食品を初めとして全領域に及ぶ生活関連商品が並び揃う市場であり、また個人の「感覚」を捕縛しようと駆使されたマス・メティアを通じた手の込んだCM攻撃なのである。そして、これらに座を明渡すかのように萎んでしまった個人の場での生活実態の変化である。
 自分自身の「感覚」機能でありながら、トロイの木馬かなんかのように、号令がかかると(刺激に出会うと)個人の統一的な思いとは別次元のことのように反応していくという、そんなイメージを想像することは馬鹿げているであろうか。
 こうしたイメージが想定されるサンプルのひとつに、現代人の性行動を挙げることができるかもしれない。
 先日紹介した東浩紀(『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』)は、宮台真司の活動に触れながら、オタクと共通項の多い「コギャル」たちについて次のように述べている。
「彼女たちは、自らの性的身体を主体的なセクシュアリティから切り離して売買することにはほとんど抵抗を感じず、知り合いは多いが本質的には孤独なコミュニケーションのなかで、欲求の満足に対してはきわめて敏感な生活を選んでいた」と。
 また、このジャンルを重要視し続けた宮台の「コギャル」たちへの観察視点である「意味から強度へ」というキーワードを指摘している。

 個人とは、"in-dividual" とされ、これ以上分割不能な存在という原義であるが、どうも現在進行している事態は、個人の内に存在するさまざまな「感覚」を、個人を超えたシステムが、「オブジェクト」のごとく自立させコントロールしようとする、そんな気配を感じてしまうのである…… (2003.05.10)


 この13日で二十三回忌を迎える亡父の法事を昨日行なった。健在な母が牽引役となった格好で、わたしが寺や食事の席などの手配を受け持った。母はこうした行事に関しては人一倍律儀な受けとめ方をし、ルーズとなりがちなわたしなどは檄を飛ばされかねないほどだ。二十年以上も前に仏となった人を偲ぶ行事に集まる人数は多いわけがない。家族など内輪の親戚八名ほどで行なうことになった。
 食事の団欒時に、わたしは話のついでに次のようなことを言った。
「こういった集まりっていうのはね……」と一息いれ、「大事だと思うんだよね」
と言った時、姉や姪っ子たちが大笑いしたのだった。
「どうして?」とたずねたら、
「てっきり無意味なことだって言うと思ったの」
と笑った者たちが言った。日頃の「合理主義者」然としたわたしの口から肯定的な言葉なんぞが出るとは思わなかったようなのだ。
「いや、わずらわしいようだけどね、こうしたものまでなくなったら、人と人とのつながりはますますさみしいものになっちゃうだろうということなんだよね」

 実際、このところわたしが心の底流で打ち消しがたく感じ続けている問題とは、日本の悲観的な政治経済状態とともに、日本人たちの人間関係の崩壊状態(?)だと思えるのだ。後者の問題こそが緊急であり、前者の問題も後者に起因するところが大きいのではないかとさえ感じている。
 もちろん、個人の立場を圧殺してはばからないような封建的な共同体を支えた人間関係の復元を望んでいるわけなどではない。ただ、そうした関係を払拭するあまり、無防備に孤立主義にしか至らない、そんな時代傾向にこぞって雪崩れ込んでしまった現状を、ただただうらめしく思っているのである。

 社会的な権力装置(マスメディア、公共施設 etc.)が駆使できる者たちにとっては、庶民の孤立状態は必ずしも悪くはないはずである(「孤立分断」統治!)しかし、個々人では非力な庶民にとって孤立分散するということは、自らの墓穴を掘るに等しい最悪の事態のはずだ。
 ところが、時代風潮は「個人の自由」を名目にして、個人をあらゆる集団から解き放つ流れを促進したかのようである。当然、時代的な実質的役割を終えてしまって足枷だけでしかない伝統的な集団からの離脱はあって然るべきだろう。保守政党の「票田!」でしかない地域組織(旧い町内会!)などは、生活の諸問題に密着した自治会などの新しい地域コミュニティに置き換えられていくことが実際的だと思われる。

 もちろん、「個人の自由」は大前提である。ただ、現状、誤解されているように思われるのは、「個人の自由」を主張するものが真正面に見据えなければならない対象とは、周辺の隣人たちや、通りすがりの人々ではなく、権力者たち、より正しく言い当てるならば国家権力なのだという点なのにもかかわらず、見間違われている点である。
 この理屈は、そもそも「個人の自由」という観念が歴史上で培われ、闘い取られてきた推移に目を通すならば明瞭に見ることができる。しかも、現在でも、「個人の自由」を犯したり制約を加えたりすることができるのは、それを措いてないはずなのである。現在立法化されようとしている「有事法制」などは、基本的人権という「個人の自由」にまるで投網をかけるほどの荒業ではないだろうか。それに較べれば、近所のわからず屋の住人が仕出かすわがままな所業や、ストーカーのいやらしい行為などは、「個人の自由」侵害のささやかな一部でしかないと見えるのだ。

 本当に警戒しなければならない対象に油断して、場合によってはエールさえ送り、本来は仲良くできるはずの庶民同士が「個人の自由」の誤解のもとに角を突き合わせたり、無関心をよそおいあって互いに砂粒のごとく孤立状態でバラバラになっている、というのがおぞましい現実なのだと観る。最も悲惨なのは、「山アラシのジレンマ」のように、寄り添い合うがゆえに互いに傷つけあう家族関係であり、DV(ドメスティック・バイオレンス)なのかもしれない。
 なぜわれわれが不幸なのかを見破る「聡明な人々」を増やしていく以外に、立ち枯れ、立ち腐れしていくこの国を変えることはできないような気がしている。どうも、いわゆる「知識」だけを頭に詰め込んでも「聡明」にはならないようだ…… (2003.05.11)


 先週の後半、NHKは「経済の回復」へ向けた特集番組を三日連続で組んでいた。あまり真剣に見る気にはならず、時々覗く程度であった。それというのも、この期に及んでまだピントがズレている印象が拭い切れなかったからである。

 荒っぽく言って二点の問題を感じていた。
 そのひとつは、この惨憺たる事態に行き着いた原因は、決して "How to" の問題なんかではないはずにもかかわらず、相変わらず「策」を提示しようとする政府関係者の発言が苛立ちを喚起せずにはおかなかったからである。
 姿勢の問題などという精神論を言うつもりではない。そうではなく、これまでにも提起されていた基本策、たとえば不良債権問題の早期、徹底的な解消や、道路公団問題に象徴されるような不健全かつ不透明な行政関連組織の改革など抜本的な緊急課題をうやむやにしているような状態で、新たな小手先のきれい事を並べるのが馬鹿馬鹿しく見えたのである。
 若い世代の失業率の高さへの対応として、教育機関と職業訓練校とのシームレスな関係をどうのこうのとか、新産業を育てるために「一円資本金」制度に期待をかけてくれだのと、聞いていて思わず「なめんじゃねェーぞ!」と口汚い言葉を発してしまった。
 むかし学生の頃、家庭教師で「いいとこの坊ちゃん」方をお教えしたことがあったが、彼らに共通した問題は、決して頭が悪いことではなかった。要するに、「何のための勉強か」が皆目わからないという点、また「ラクをして親の期待に沿う」こと、その際には「小手先のあらゆる学習関連用具に頼ろうとする」などの点であったかと思う。あるパチンコ台メーカー社長宅の息子などは、本棚には豪華な百科辞典が収まっており、机の周囲にはテレビからテープレコーダーからありとあらゆるエレクトロニクス最先端がひしめいていた。まだ当時、PCは出回っていなかったが電子教材なども転がっていたはずだ。ひょっとしたら、現在の華やかなデジタル・パチンコ台は「そいつ」が親の後を継いで製造したのではないかと推測したりもする。
 こんな話はどうでもいいとして、課題に向かって対処するにあたり、なんと政府関係者と「そいつ」とがよく似ているものだと思った次第なのだ。「そいつ」に危機意識はなくともしょうがないかと思えても、政府責任者たちにそれがないのは、先日、寺山修司の言葉を引いたように決定的な問題である。

「危機という名の鳥は、政治的、経済的状態のうちにではなく、人間の魂のうちにのみ見出される」(寺山修司『あゝ、荒野』)

 もうひとつ感じた問題点は、やむを得ない環境もあるのだろうが、相変わらず「モノ作り」路線の復活、「技術立国」の再現というトーンが耳についた点なのである。決して間違いだと騒ぎたくはないのだが、なぜかつての「技術立国」日本が今日のようになってしまったかに、今少し注意を払うべきだと思われるのだ。
 誤解の生じないうちに言っておけば、「モノ」の対極にあるかに見える、投機的要素をなしとはしない「金融」領域に力点を置けと言っているのではない。
 いわゆる「シーズ」=技術と「ニーズ」=「需要」との関係で言うならば、「技術立国」を唱える人たちは、どうも後者に関してのアプローチを前者に比して軽視する嫌いがありそうに思えるのだ。これは、技術というものに比重を置けば置くほどに、偏りがちとなる傾向のように、わたしは思い続けてきた。そして、現在、国際市場においてかつての「技術立国」日本の位置が揺らいでいるのは、「ニーズ」=「需要」への取り組み、これは広い意味でのソフトと言ってもいいかと思うが、この部分で他国に較べて遅れをとったことが否定できないと考える。米国における基本ソフトへの執念、中国におけるマネージメント戦略のしたたかさなどはその表れだと見える。
 相変わらず、価値(バリュー)はモノから生まれる(銀行が担保として扱うのが土地というモノでしかなく、特許や経営計画などではない旧い日本の慣習!)と信じ続ける環境では、接木(つぎき)のような「策」は大半が頭打ちとなってしまうと思われる。

 あとひとつ、前述の番組でも、銀行は変われるのか変われないのかという議論に目が向けられていた。が、今日のようなボトムの経済環境の中での社会的「役割り」に応えていこうとしない銀行であるならば、たとえ形は維持できたとしてもやがては社会から切り捨てられてゆくことになりはしないだろうか…… (2003.05.12)


 小中学校の子どもたちの学力の低下問題が懸念されている。
「文部科学省は12日、全国の小中学生約45万人に実施した学力テストの結果を分析した報告書を公表した。前回テスト(93〜95年度)と同じ問題の多くで正答率が下回った小学校の算数では、『明確な原因は見いだせなかった』としつつ、基礎知識や思考力をつける指導が足りなかった可能性を指摘している。」(朝日新聞 2003.05.13)とあったが、中でも、
「小学校の算数では、三角形や円の面積計算や<思考・判断を必要とする問題で正答率が低かった傾向>をあげた。」(カッコは筆者)が気になるところだ。

 先日、「感情」と「感覚」についての試論を書いた。極端に言えば、「感情」が「全人的」傾向を持つのに対して、「感覚」は一人の人格に担われながらも人格の「部分」としてまるで「オブジェクト」のように「自立」し、外部環境とリンケージを持ってしまうのではないか、と。つまり、「感覚」は、自分のものでありながら、自分のコントロール下から外れていくような感触について懸念したのであった。
 これは、個人のアイデンティティの危機がささやかれる今日にあって、精神的なレベル以前に、フィジカル(physical)な面において危険が差し迫っているのではないか、という心配だったのである。いくつかのことを考えてみた。先ず、人の「感覚」が立ち上がるはずの日常生活での実践的行動(共同の感覚を培う共同作業を含む)が貧困化している事態。また、その人固有な「感覚」と結びつくはずの生活関連グッズが、加工食品を初めとして、規格商品としてしか入手できなくなってしまった現状。そして、何よりも圧倒的な広がりを見せる情報空間が、実感的な従来の「感覚」とは異なる、擬似「感覚」を埋め込んでいるかのような環境。そんなことが、何の不思議もなく受け容れられていくうちに、いつしか自分の五感から自分らしさが消え失せていく……
 こんなことを考えたのは、現代人たちは「尋常ではないのではないか」との予感が働き、その原因は、一見常識的と見えながら、じわじわと慣れていってしまう現代の生活環境そのものにあるのではないかと見当をつけたからなのである。

 この「感情」と「感覚」の問題以前に、「知識活用力(≒知恵!)」と「知識」の問題が控えていたはずである。あるいは、創造性研究の分野で使われる言葉である「暗黙知」と「形式知」の対比と言ってもいい。「暗黙知」とは、「経験知」とも言われ、われわれが経験を通して獲得した「知識」である。「わかっているのにうまく言えない」「できるのに説明できない」という場合の「知識」である。
 「形式知」とは、言うまでもなく、われわれが日頃「知識」と呼んでいるものであり、「まあ、知識としては知っていますがね……」「知識だけじゃダメなのよ」と、その限界も織り込み済みである「上っ面」存在なのである。
 冒頭の小学生たちの学力の問題、<思考・判断を必要とする問題で正答率が低かった傾向>という問題は、多分、「知識」=「形式知」と教えられ、それをしか信じない一般風潮の結果以外ではないと推測する。文部科学省が『明確な原因は見いだせなかった』と表明しているのも当然なことであり、それほどに「知識」=「形式知」という把握が常識化しているからであろう。

 こうして、坂を転がっていくようにひどさが深刻化していくのだろうが、わたしにもどうすればいいという確信はない状況だ。ただ、身体は正直なもので、人々の身体の不調が環境のおかしさを指摘し始めているような気がしているのである。
 昨今、いたるところで「うつ」という活字を見かける。もはや「ストレス」という言葉を通り越して、「睡眠障害」と双璧をなし始めた観がある。高齢化社会がいよいよ始まっていることとも関係しているのだろうが、かなり深度の深い文明病がアラームを上げているのだとも考えなければならないのではなかろうか…… (2003.05.13)


 夕暮れの街角、クルマで信号待ちをしていた折り、かわいい光景が目に入った。
 幾分太ったお父さんか、おじいちゃんだかが両手に小さな女の子の姉妹の手を取って信号が替わるのを待っていたのだ。
 まだ幼稚園前とも見えたより小さい子が、手を繋ぎながら、反対の手で何やら空を指差し始めた。袖なしのシャツから出た、短く、プックリとした腕で、星であろうか夜空を指し示し、父親だかに話かけている。距離があったのでもちろん話し声は聞こえなかった。すると、もう片方の小さな姉と思しき子も、反対側の夜空を指差し始めた。父親だかは、うんうんと頷いて両側の子たちに対応していた。何ともほほえましく目に映った。
 父親だかの表情は決して明朗というわけではなかったかもしれない。この時期、よほど例外的な立場でない限り、大人たちは悩みや不安から無縁であろうはずがない。そんな大人たちの暗い胸の内に、幼い子どもたちは、その天真爛漫な様子で光の一筋を差し入れるのだ。たとえ、その子らもまたやがてじわじわと被害を被ることになるのだとしてもである。

 「言うまいと思えど今日の」という口ぶりで、このご時世のビョーキを見てしまう。
 今朝も、ウォーキングに出かける前のコーヒーを飲む際に、テレビをかけたら、朝の六時だというのに、もう「米国株反落……」がどうこうといった経済時評が飛び込んできた。経済番組が多いチャンネルになっていたから、別に不思議でもないのだ。が、いつも大抵はNHKとなっており、今日の天気は……とか、農村風景などが映り、寝ぼけた頭にふさわしい何ということもない画面であったのに、イングリッシュがペラペラの女性アナウンサーが、詳細な株価変動の数字をまくし立ててくる。寝ぼけた頭がついてゆけない。不快感がこみ上げてくる。いっそのこと、だらりとしたNHKにチャンネルを戻すなり、テレビのスイッチを切るなりすればいいものを、寝ぼけ頭でテレビ番組に突っかかったりしている。
「世の中、経済がすべてじゃないんじゃないの? 朝っぱらからネ、カネが得した損したと騒がしいじゃないか! もっとネ、人々の幸せの深さについて問題にしなさいよ! そういうものを数字の指標にできないもんかね? えっ? それが『株価』だと言うのかい?……」
と、馬鹿な自問自答を繰り返し、ようやくコーヒーが効いてきたのか、目覚め始めた。

 それにしても、何とカネにとらわれ過ぎる世の中、ご時世になってしまったものだろう。そう言っている自分の汚染度のひどさにも痛み入る。
 先日も、いつものように、こんなにモノが売れない時代に、これならというほどに人々すべてが欲しがるモノは何だろうかと、タバコを吹かして考えた。「癒し」系商品、「介護」関連商品、いやいや「儲け」に繋がるツール類だろうかと、誰でも思いつくような愚策を一巡した。そして行き着いたのが、やっぱり「カネ」ということになってしまうか、というオチであった。
 もちろん、人々が文句なく欲しがるカネを、日銀を差し置いてこしらえることはできない。だとすれば、と行き当たるのが、カネがカネを生むという金融であり、金融関連商品なのだ、ということになってしまう。現に、銀行は特殊事情がわざわいして「落ち目の三度笠」であるが、消費者金融業は、「どうする?!」どころではなくべらぼうに「業績」を伸ばしているようだ。そんな推移を見ていると、やっぱりこのご時世はビョーキ以外の何ものでもないとつくづく思ってしまうのである。

 「袖なしのシャツから出た、短く、プックリとした腕」の幼児たち! カネと欲とが蠢く場所からしっかり離れた場所で生きて行くんだよ! …… (2003.05.14)


 「着眼」とか、「切り口」という言葉が好きである。
 絵画でも、フォトでも魅力を感じさせる大きな要因は、対象という存在でもなければ、その表現手法でもない。いや、それらも重要な要素であることには違いないが、決定打は「構図」ではないかと思っている。たとえば、存在感のある山岳を描く場合にも、優れた画家たちは山の重厚な存在感に「着眼」して、その「構図」は、大体が張り出す山の稜線に突き上げられ、空は画面上方にわずかなスペースしか与えられていないことが多い。逆に、素人画家の「構図」はといえば、空が広々と描かれ、それによって山の存在感がなくなるだけでなく、何とも間が抜けた印象に終わってしまっている。
 フォトでも同じことであり、明るすぎて白くとんでしまった空がほとんどの風景写真をダメにしているケースが多いようだ。「こんな感じかなあ〜」と、「着眼」も「切り口」もあったものではなく、漫然とシャッターを切ってしまうからなのだろう。

 多分、あらゆる芸術が同じことではないかと推測する。芸術だけではなく、科学も仕事も、あるいは生活さえ同じことなのかもしれない。
 つまり、われわれの遭遇する世界は、自分というちっぽけな存在からすれば、空間的にも時間的にも、決して丸呑みなんぞすることができないほどに巨大である。したがって、当然手に負えない巨大な対象を部分として取り出す、あるいは部分として受け入れなければならない。その際、どの部分を全体の印象なり、本質なりの代替として「切り取る」かが問われることになるのだと思う。

 これらに関して二つのことを考えてみたい。ひとつは、何であれこうした対象の「切り取り」に当たっては、自分自身の印象というか眼力というか、とにかく自分は見える範囲の全体をどう受けとめ、何にその象徴なり代表なりを見出していくのかという自覚の問題ではないかと考える。誰が見たって同じ対象であり、同じ光景じゃないか、という先入観は先ず捨てなければならない。強調して言うならば、どんな対象であれ、寸分違わずに、まるで高級コピー機を使った成果のように同じものとして受け入れられるということはあり得ないと見なすべきなのだろう。対象についての自分の印象が、他者とまったく同じであるということが、どんなに奇跡的なことなのかに思いを巡らせるべきなのである。

 ふたつ目は、対象というか外界側というか、われわれが随時直面する現実の問題である。ここにもふたつの関心事がある。そのひとつは、現代のわれわれは、情報を初めとして豊饒というか過多というか、まるで「溢れる」ような膨大な事象の広がりを前にして、視線というよりも視野さえが定まりにくい環境に生きている、という点である。だからこそ、膨大な広がりから、自分なりの「切り取り」が上手になされなければならないことにもなる。が、実情は、そうしたやっかいなことは避け、「漫然とシャッターを切って」いるように思われる。ここが、「人気スポット」だよと言われればパチリ、これが「常識」のようだといわれればパチリ、といった具合であろう。
 いまひとつ気になる点は、われわれの眼前の世界の事象が、「規格化」の度合いを強めて、われわれは知らず知らずのうちに、「同じモノに違いない」とか、「同じパターンに違いない」という「悪い習慣」「悪知恵(?)」を身につけてしまったことではなかろうか。「それって、こういう事でしょ。大体見当はつくのよ」といった調子である。歳をとればその傾向はますます強まるようだ。自身から、世界を退屈なものとして見ようと努力しているようでさえある。「大量規格商品」や「規格」的処理の一般化という風潮もあるのだろうが、土台、人というものは、「新規な」事象に遭遇すると「疲れてしまう」ために、あざとく自らマンネリ志向となるということも考えられよう。

 今日、書こうとしたポイントは、実はこの日誌についての自己確認なのである。なぜ書くか、いろいろな動機が確認できる。そんな中で、今、最も現代人が苦手としつつあるのかもしれない「自分は『何を』考えるのか?」という、世界の「切り取り」作業は思いのほか重要なことだろう、という点なのである。
 「どうする?」という「How to」という問いも重要でないわけではない。しかし、「What(何を)」という問いが殺ぎ落とされてしまったかのような時代に生き甲斐を確保するには、この問いを発し続けるしかないように思えるのだ。
 自分は、この世に奇跡的に登場して、一体「何を」得て、一体「何を」残して行くのか? まあ、そんなにシリアスに考えているつもりもないが、「何を」書くという日常作業を継続させることで、鈍磨させられていく現代人の「What」感衰弱に抵抗し続けたいとは願っている…… (2003.05.15)


 汗かきな自分は、暖かくなると汗疹(あせも)に悩まされる。首筋や、胸、腹などに突如として汗疹が現れその痒みに夜中に目を覚まさせられることもある。
 今年は、ウォーキングのせいで多く汗をかくからなのか、早くもそいつに悩まされ始めた。市販の塗り薬で手当てしていたが、埒があかないので事務所の近辺にある医者を尋ねた。医者は近くがいいなあ、と楽観してのことだったが、尋ねてみて若干驚いた。
 さして待たされることがなく、その点はありがたかったのだが、何とスピーディであり過ぎたことか。診療室に入り、診断を受け、出るまでに五分とかからなかったのである。
 医者が患部を見たりして、湿疹や痒みの状態が聞かれ、いろいろな可能性があることが示唆され、そして総合的に判断するに、「やはり汗疹でしょう」とくるものとばかり想像していた。現に、以前に別の医者にみてもらった時にはそうした流れであったのだ。
 ところが、今回は、事前にアンケートふうの症状などに関する「自己申告書」を書かされ、顧客の意思尊重とばかりに、その「申告」がそのまま「採用」されたのだ。診療室に入るや否や、汗疹以外の何物でもないと即断されてしまったのであった。自分の胸の内には、世に言う「アトピー性皮膚炎」とか、神経炎に絡むやっかいなものかもしれないといった雑念がなかったわけではないのであった。それらの「無用な(?)」素人の雑念を払拭してくれるのはありがたいと言えばありがたいのだが、余りの速さに「えっ、これでほんとにいいのか?」という疑問が残ってしまったのだ。それというのも、患部を見ようともせず、あんたみたいな暑苦しい顔した者の痒みは、汗疹に決まっている! と言わぬばかりの即断即決、まるでスピード違反でチケット切られるような素早さであったからだ。やや、ムッとした自分は、ワイシャツの胸のボタンに手をかけたら、ようやく
「ちょっと、その部分を見ましょう」
と、アリバイづくりを始めたものだ。痒みで人は死なない! という金科玉条を掲げてきたと思われるその医者の強気には負けたと思い、胸につかえたものをそのままにして診療室を出た自分であった。そして、負け犬のように首をうなだれ、薬の処方がプリントされた用紙をヒラヒラなびかせながら、隣の建物にある薬局へ薬を買いに向かったのだった。
 それにしても、当世の街医者の所業は、大したものだ。「医は仁術」という言葉何ぞは、「赤ひげ」の江戸時代のうわさ話だと考えているに違いない。医は、「特殊な」ビジネスなんだと信じているに違いない。こちらから言わせれば、その特殊という場所に、「保護」貿易の「保護」を入れて、「医は保護ビジネス」だと言ってやりたいくらいだ。
 他のビジネスに較べて競争原理が希薄である上に、昨今は任務をお任せできる多種類の薬という道具立てがラインアップしている。その薬だって、医者の研究心の賜物というより、薬会社の営業マンたちによる熱心なアプローチに負うところが大だと言えるのではなかろうか。
「ほんとに効くのかい? そうなんだ。しかし、あたしもビジネスだからね、キックバックの方もしっかりと効かないと処方しないことになるよ」
なんていう会話も聞こえてきそうだ。

 どっちが間違っているのかはじっくり議論に及びたいところではあるのだが、ビジネス姿勢丸出しの現代の医者たちに、「医は仁術」という古風な姿勢を求めることは、こちらが間違っているような弱気になってしまうものだ。
 まあ、命とりにはならない痒みだからいいようなものではある。だが、これが苦しい自覚症状と、死亡率の高い病かもしれなかったらどうなるというのだ。命預けますの相手である医者先生たちが、信頼性に乏しかったら何と不安なことだろうか。「なら、いい! 自分で治す!」とばかりの気力が刺激されそうな気もしないではないが、それは元気な時だからこそ言えるのであろう。元気な時くらいしかお付き合いできないのは、景気のいい晴れの時にしか傘を貸さない銀行と、何だか似ているような似ていないような…… (2003.05.16)


 人でなくとも、情報でもいいわけなのだが、「偶然に」自分の関心事と「出会う」ということは、うれしいことであろう。これだけさまざまな情報が飛び交っているにもかかわらず、当人が関心を寄せていたり、自覚・無自覚を問わず欲しいと望んでいる情報に遭遇することは意外と困難なことなのかもしれない。何気ないひとつの事実ということに限らず、この辺に、ちょっとしたビジネス・テーマのヒントが潜んでいるのではないかなどとも考えたりした。

 ラジオのトーク番組の再放送で、作家の森村誠一氏がいろいろと興味あることを話していた。そんな中で、「誰でも、書き続けていれば文章はうまくなる。しかし、問題は『何を』書くかでしょう。ネライとでもいうのでしょうか」と話していた。ことさら特殊な言い回しでもないそれを聴いた時、自分は思わず溜飲を下げたものだった。それというのもまさに自分が、一昨日書いた趣旨そのものであったからである。
 それはそれとして、上述の「偶然に出会う」情報とは、こうしたことを指しているわけだ。人の関心というものは、時とともに移ろい、深くなったりも希薄となったりもしていろいろである。だからこそ、関心の高まった時機に偶然にその種の情報に遭遇すると無類にうれしいものなのだろう。

 禅の言葉に「そつ啄同時(そつたくどうじ。『そつ』は口偏に卒と書く)」という言葉がある。「そつ」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音であり、「啄」は母鶏が殻をかみ破ることなのであり、禅宗において、師家(しけ)の教えと弟子の働きかけが合致することを指している。広く教育分野でも、教えることと、学ぶ者の動機が一致した時に教育成果が上がるとしてこの言葉が引用されるのである。
 求める動機と求められるモノが機を同じくして出会うことが、何ごとにつけ重要であるということなのだが、「ファーストフード」を初めとして、顧客のニーズを即座に充たすという視点は、すでに多くのビジネスで採用されているはずである。スピーディさや効率を重視する現代ならではの対応であろう。
 しかし、ここでちょっと考えたい点がある。確かに、求めるモノ、ニーズの正体が明確な場合には、「ファースト」であることは、とにかくセールス・ポイントに違いなかろう。しかし、人が何かを求めるニーズはいつもその輪郭がはっきりしたものとは限らないのではなかろうか。空腹という、一見シャープな輪郭を持っているニーズでさえ、その空腹というニーズが正確には何を目指しているかは定かではない。

 落語『目黒のさんま』は、その昔殿様たちの狩りの場であった目黒で、美味いものには食べ飽きた殿様が、空腹に空腹を重ねた上でとある民家でご馳走になったさんまを食した話である。そして空腹ゆえの美味さに感激し思わず「さんまは目黒に限る!」と言ったわけだ。多分、家来の誰かが、「殿、時もそろそろでございますので、狩りの前に食事を済ませておかれては……」などと配慮して、さほど空腹でもないうちにそのさんまを食することになったとしたら、「変わった魚じゃが、もひとつじゃのう」となったかもしれない。なんせ、口には肥えた殿様のことなのだ。
 グルメ現代人は、いわば「口には肥えた殿様」と同じであろう。空腹といっても、そのニーズは複雑至極なのであり、場合によったら当人でさえニーズ・ターゲットが何であるかわからなくなっている可能性も無きにしも非ず、かもしれない。また、空腹「度」が増せば何でも食べるかといえば、今度はそのわがままぶりでキレてしまうことだってありそうだ。

 何が言いたいかといえば、食べ物だけではなく、マインドなジャンルに至ればなおのこと複雑怪奇で当人でさえ掌握し切れていないニーズ・ターゲットであるのに、「そつ啄同時」ふうに「そのニーズ感が絶好調の時に充足物を提供する」という技は並大抵のことではないぞ、と思うわけなのである。
 しかも、情報や知識へのニーズに関して言えば、これらは当人の「時間」の流れ、成熟度によって大きく左右されるもののように思われる。仮に、関心あるものを横並べに列挙したからそれでその人の関心の「成分」がわかるというものではなく、時の流れの中でそれらの比重は著しく変化するもののはずである。ほこりを被らせていた本棚の本を、ある時急に有り難く読み直すということを経験した人ならわかるはずである。
 人のニーズというものは、まさに「そつ啄同時」的に、時間的視点を配慮して考えられるべきものだと思われる。が、必ずしも、現代ビジネスではここまでを視野に入れた対処法はないのではないかと観測する。現に、大多数の教育機関はこの点を度外視することで効を奏していないようだ。
 だからこそ、これを叶えるようなニーズ対処法が検討されれば、有効なビジネスとなるのだろうか、と無い知恵を絞ったわけである…… (2003.05.17)


 睡眠のサイクルはほぼ九十分だと言われている。体験的にも確認しているため、最近は起床時間から逆算して九十分の倍数となる時刻に眠れるように心掛けている。しかし、いつもうまくゆくとは限らず、倍数時刻からズレて起きなければならなくなると目覚めが悪い。今朝も三十分ほどズレて、まだ夢の最中であったためいやな気分であった。しかも、見ていた夢がよくなかった。
 高校時代の定期試験前日という場面であった。やれやれ、また一夜づけのために徹夜になりそうだと気を滅入らせていたようだ。が、おまけに、どういうわけか試験範囲の確認も済ませていなかったのだ。友人に確認してみると、明日の試験は、「英作文」「日本史」「化学」三科目ということで、暗記ものの前二者と、興味が持てずに遅刻とさぼりを繰り返していた「化学」であり、これに関しては試験範囲を聞くまでのこともないかと半ば捨てる覚悟さえしている始末だった。
 いろいろと心配事が重なる最近の事情からか、どうも最近見る夢には学生時代の試験や単位で「脅かされる」場面が頻出したりする。夢は記憶情報の整理だというが、思うに、脳が新しい不安要素の記憶を削除するに当たり、削除対象の関連記憶情報の整理をする過程で古い関連記憶情報を検索している様子が夢となっているのではないかと、勝手に想像している。だから、そんな脳の裏方作業の最中に覚醒したのがまずかったのだろう。が、汗ビッショリとなるウォーキングで、いつものようにすっかり眠気の残渣は消し飛んだものだ。

 さて、昨日に引き続き、「情報ニーズ」について思いつくことを書きとめていきたいと思う。ターゲットは、ビジネスとなる「情報」についての追跡である。この領域が、ニュー・ビジネスのターゲットだと目されてもいるし、インターネット自体の存在価値の品定めにおいても、こうした検討は不可欠だと思われるからである。
 予断的に言えば、どうも個人向けの情報ビジネスはいろいろな事情で難しく、むしろ企業向けが正攻法でありそうな気がしている。ともかく、雑談ふうにいろいろと試行錯誤してみようとしているのである。

 個人の場合、モノへのニーズの自覚も、実情は思いのほか不鮮明でありそうだが、無形の情報となるとさらに茫漠としていそうな気がする。加えて、何かある情報が知りたい、接したいと思った場合にも、そこから先が意外とやっかいで、てこずっているのかもしれない。インターネット環境も含め、「情報検索」のあり方にもっと手が加えられるべきなのであろう。
 いや、もっと実情に即して言えば、そもそも何かある情報に関してニーズを感じるということが、日常頻繁に発生しているのか、という本源的な問題さえあるかもしれない。ただ、前述の「情報検索」のあり方が不備な現状だから、思いつくこと、気のつくことがあっても、情報アクセス自体を軽視したり、あきらめたりする可能性も低くはないようにも考えられるが…… 
 さらに言えば、対価を支払ってまで得たいと思う情報というものが、果たして存在するのかという問題だってありそうな気がするのである。

 先ず、一般的な材料となる事実を列記しておこう。
 1.われわれが対価を支払って購入している情報の例
  @新聞購読
  A本、雑誌の購読
  BNHKテレビ視聴料
  Cレンタル・ビデオ
  D映画、舞台、コンサート鑑賞
  E教育関連の受講料(宗教関連の寄付やお布施を含む)
  Fインターネットによるデータ・ベース使用料
 2.日常接することの多い情報
  @テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスメディアの情報
  A携帯・インターネット情報
  B仕事関係者などとのコミュニケーションによる情報
  C家族、知人・友人などとのコミュニケーションによる情報
 3.得る、得たい情報の種類
  @仕事関連情報(求職、求人情報を含む)
  A生活関連情報(広告などの特売品情報を含む)
  B趣味関連情報(音楽、芸能を含む)
  C感情的コミュニケーション(情報というより、交流と言うべきか?)

 ざっと思いつくままに任意に挙げてみたのだが、個人が対価を支払ってまで情報を得ようとする新しい流れは余り想像できないかもしれない。むしろ、現状、どういうつもりで対価を支払っているのかを分析してみることが、先ずは欠かせないかもしれないようだ…… (2003.05.18)


 ブルー・マンデー(憂うつな月曜日)という言葉は、小雨降る今日のような日のことを言うのだろうか。しかし、早朝のウォーキング時に通るいつもの遊歩道は、若葉茂る木々がそぼ降る小雨で薄っすらと滲むように映えていたし、植物たちの吐息をたたえた空気も味わい深く、思わず「悪くない」と感じたものだった。「悪いのは社員じゃありません」じゃなくて、「悪いのは自然じゃありません。怠慢なくせに欲深な人間たちです」と言うことになる。

 りそな銀行への2兆円規模の公的資金注入(実質国有化!)が決まり、いよいよ金融業界の不安定さが正念場を迎えている気配だ。しばし8000円台に積み上げていた株価も、今日は前場終値の時点で割り込んでいる。
 にもかかわらず、日本経済新聞社が15〜18日に実施した全国世論調査では、小泉内閣の支持率が前回3月の緊急調査より6ポイント上昇して48%になった、とある。口汚い表現だが、親もバカなら子もまた貧すれば鈍す、と言わざるを得ない一億総勘違い事情が日本沈没の露払いをしていると見える。そして、おそらく事態はもっと深刻なのではないかと容易に推測される。情報操作が当然とされている現代国家にあってもこれだけ国民の眼前に不安材料が繰り広げられているのだから、水面下の懸念材料に日の目を見させるなら……と想像してしまうからである。

 「バカな親」は追っ付け退場の憂き目を見るとして、やはり目が離せないでいるのは、苦境の中での国民の意識動向である。
 やはり、国民意識は過去との単純な比較を許さないほどに変容してしまったと言った方が現実的なのかもしれないと感じている。
 簡単な例を挙げるなら、社会環境が厳しくなれば、人々は社会変革を望むはずだと見る希望的観測は、必ずしも一様には言えないのではないか。徳島県知事選では自民などの推薦する候補が、改革を旗印とした候補を破り、経済的危機感を煽りながら景気対策強調という姿勢が勝敗を分けたのではないかと見られている。
 こんなに展望の開けない不安定な経済環境にあって、誰もが第一義と考えてしまうのは「目先」の仕事の流れであるのかもしれない。この辺の事情が最大限誇張されるなら、先々の齟齬には目をつぶってしまうことは想像に難くない。
 これは、先のイラク戦争に対する国民の反応にもうかがえたはずだ。北朝鮮の核脅威問題が最大限に指摘される中で、米国による侵略への支持表明が国民のある部分から支持されてしまった事実である。問題に対してふさわしい対策が講じられるよりも、とってつけたようではあっても、効き目がありそうに見える手近で「目先」の策へと走ってしまう大衆の短絡的傾向のなせる業である。いわゆるパニック心理と限りなく類似しており、デマもそれがありそうな説得性が伴うならば、大衆は容易に加担してしまうのかもしれない。それは、現代人には…… という何の根拠もない楽観論は通用しないと思われる。むしろ、「孤立」し「連携」を苦手としているような現代人ほどその可能性が高いとさえ言える推測も成り立つ。
 現在、保守反動勢力さえこれまでに手をつけられなかった「有事法制」などや、「ちょっと待ってくれよ」と言いたいような法制化が「効率的に!」進められているのが事実だ。にもかかわらず、それに見合ったような反対・阻止勢力の芳しい動きは国民の目に届きにくくなっている。いや、むしろそうした空気を織り込み、国民をなめてかかった政権側による運びだと見た方がリアルなのかもしれない。
 そして、その政権の「表紙」が、何となくマイルドで物分かりのよさそうな印象を与える小泉氏であることを、いつになったら国民は認識するのであろうか…… (2003.05.19)


 「情報(化)社会」とは、情報が巷(ちまた)に溢れる社会というのでは定義不足だそうである。いつの時代も、そこそこに溢れんばかりの情報が存在したからだそうだ。「情報(化)社会」の特徴とは、確か「dedicate(人や目的に捧げる)」された情報が普及する時代、社会だという定義であったかと思う。政治にせよ、軍事にせよ、はたまたビジネスにせよ明確な目的を持っているはずである。それらに貢献するかたちの情報や、情報処理、そして情報システムがクローズアップしてくるというところにその特徴があるとする定義は、なるほどそれなりの説得力を感じさせられるものだ。

 この定義から考え直してみると、見えなかったテーマが見えてくるようだからおもしろい。<その一>は、われわれが接しているさまざまな情報とは、何らかの目的に「捧げられた」情報なのだという点である。言い直せば、何にでも捧げられる汎用的なかたちで、いわば「無色、中立」で転がっている情報なんてものは存在し難い、ということになろうか。もっと言えば、今日の情報とは、何らかの「目的」との関係での「ひも付き!」的存在なのだと言い切ってしまおう。
 なぜ何らかの目的に「捧げられた」情報が現代の情報として着目されるのかであるが、おそらく、システム化して効率的に情報処理する現代の動向や事情と不可分なのだろうと思う。これは「機械化」「デジタル化」が推進し易くなるようにゼロイチ的区別や択一という形式に馴染まされるという点で先ず気がつくはずだ。しかしそうした形式面だけではなかろう。もっと内容的な面においても、そのジャンルごとのシステム化を目指した、目的設定、構造分析、要素分析などがあり、それらとの関係でそのジャンルに捧げられる情報の基本的性格が定められるはずである。こうした面は、各ジャンルごとの「専門用語」辞典などを思い起こすと了解しやすいのかもしれない。専門用語という情報たちは、その分野が目指す「目的」との関係においてこそ輝き、またそこから「リストラ」されると途方に暮れてしまう運命にあると言える。

 ところで、しばしばいろいろな場面において、
「とにかく『情報』を集めるのだ。何でも構わない。どんな小さなことでも、関係無いと思われるようなことでも聞き出してくるのだ!」
などと口角、泡を飛ばす現場責任者の乱暴な発言に遭遇することがある。気持ちはわかる。しかし、ここには二重の過ちがありそうだ。ひとつは、収集された情報は、もし正しく整理されるとするならば膨大な時間を要するという点であり、その結果、多くの場合がとても情報整理などとは言えない杜撰さに落ち着いてしまうもったいない実情である。かけ声倒れとなってしまうのである。
 また、もうひとつの誤りは、情報とは自動的にいろいろなことを饒舌に話始めるものだと勘違いしている点である。情報は、「猫に小判」の譬えとなるケースこそがあまりにも多いのである。人を見たら多弁に話しかけてくる一人住まいのお年寄のような存在では決してないのだ。むしろ、「山」と聴いて「川」と応えるような然るべくき御仁に対してでなければ、一切口を開かない赤穂浪士のようだと考えた方がいい。つまり、情報とは何らかの「目的」との緊張関係の中で生き生きしたり、死んだふりしたりするものだということである。
 先ほどから、現場責任者と言いながら密かに警察の特捜一課の部屋などを思い浮かべていたのだが、聞き込み情報を収集する際には、先ず予想犯人像というビジョンというか、目的というかが暫定的にではあっても描かれることが必須だと思われるのである。「犬も歩けば棒に当たる」という譬えのような聞き込みは、ラッキーだけを頼りにしているとの謗りを受けかねない。いや、「初動調査に先入観は禁物!」という言葉を引っ張り出す刑事ものファンもいることかと思われるが、もちろん安易な先入観は論外である。そうした傾向がある人は、そもそも殺人課の刑事になんぞなってはいけないのだ。それよりも、「目的」の前でこそ口を割る情報たちの片意地の性根をよく知り、「目的」の解析、ここでは犯人像の暫定推理こそ旺盛に展開し、その裏づけとしての聞き込みという段取りとすべきなのではなかろうか。情報収集に当たっても、「目的」の自覚は不可欠だと思われるのである。

 われわれは、どういうものか日ごと遭遇する情報は「無色、中立」、汎用的な姿で巷をさまよっているものと思い込みがちである。現に、「情報が一人歩きする」という否定的な響きの表現は、もともと情報とは何らかの「文脈」(=「目的」との関係!)にこそあるべきものだという認識を指し示しているのではないのだろうか…… (2003.05.20)


 最近、繁盛しているせいか「消費者金融」関連のテレビCMの頻度が高まり、いやでも目に入ってしまう。同業種への一般的な悪いイメージ払拭をねらってか、「トイレの百ワット」電球のように、必要以上に「明るく」見せようとしている心根(こころね)が何とも嫌味なのである。
 ある同業種のCMでは、若い女子社員が宣伝用「ティッシュ」を街頭で「情熱的に!」配るというのがある。しゃにむに元気で張り切り、まるでむかしの『キューポラのある街』の吉永小百合のように(?)振舞っているのである。わたしは思わず、つぶやいていたものだ。
「何でも努力すればいいというもんじゃないんじゃないの? 自分がどんな目的、どんな文脈の中で努力しているのかを考えなきゃねぇ。あなたが明るく頑張れば錯覚する人が現れて『自己破産』に近づく人が増加するかもしれないもんね……」と。

 情報と目的というテーマを考える上で、このCMは好例だと思えた。
 情報とは、ある種の「目的」に「捧げられた」ものという性格づけを持つことは昨日書いた。これは、システム化時代が云々と小難しいことを言うよりも、極めて常識的なことだとも言えそうだ。人が情報を発する場合、その情報が自他ともに何の影響力もない場合というケースはむしろ考えにくいからだ。杓子定規に「目的」とは言わないまでも、何らかの意図をもって発するに違いないからである。
 これも、TVのCMであるが、電話料金のCMで、二人の男女の片方の女性が「家族みんなで加入すればみんなが得をする……」と強調している。すると黙って聞いていた隣の男性が一言言うのである。「それは、おまえが半額になるからだろ」と。するとその女性がやや気まずそうにではあっても「そ〜なのよ〜」と隠さない、という調子なのだ。
 このCMのおかしさは、発せられる情報というものが大体誰かの利害に絡んでいるという歴然とした事実と、しかもそれを見破る人もいるという事実、さらに言えば、見破られても決して悪びれずにはぐらかすというのが当世風だという点などを、それとなく知らせるからなのかもしれないと感じたものだ。
 そう言えば、似たような当世の風潮にウソや虚構をそれがバレることも含めて楽しむという視点もあるそうだ。たとえば、「やらせ」番組なども誰も信じてはいなくて、むしろそれとわかっていながらその推移を楽しむという心理なのだそうである。リアル感を求めるあまりの「舞台裏」覗き志向とか言うらしいが……
 冒頭の「消費者金融」業のCMも、この当世流儀の結果である可能性もにおわないわけではない。それにしても、ねじれた風潮というか、手が込んだ時代となったものである。

 で、情報が「目的」と連(つる)んでいることが、一方では大衆に「見え見え」なのかと思えば、その代表とも目される「出会い系サイト」を通じて騙される者が跡を絶たなかったり、教祖の意図も読めずにカルト集団に結集したりもするのが現代である。事や対象によって非常にバラついているようで、概して言えば、情報と「目的」(意図性、文脈、立場 etc.)とが密接な関係を秘めている事実を軽視というか、楽観視しているような気がしてならないのである。
 「人を見たら泥棒と思え」というのはどぎついニュアンスなので誰しも好感を持たないが、「情報に遭遇したら発信者の意図(「目的」)を推し量れ」というのはどうであろうか。当世はデフレ時代で、どんな商品も「割り引いて」もらえる時代である。情報に関しても、発信者の意図、目的を斟酌してそれをもってしっかりと「割り引く」ことが肝要だと思うのである。
 実は、この辺に関するルーズさが、現代の日本のいろいろな混乱や犯罪を「下支え」しているようだとも思えるからである。欧米人たちは、自分と他者とは異なる存在だという自覚からスタートしていると言われる。これに対して、相変わらず日本人は自分と他者とは同じだと見なしがちとなり、だから人の意図することはみな同じだと軽く流してしまい、その結果他人が発した情報の意図を詮索したり吟味したりすることを怠るという解釈は、はたして可能であろうか…… (2003.05.21)


 ようやく「フリーター」問題に社会的な関心が向けられるようになってきた。問題という言葉を使うのは、その膨大な数が将来の「経済社会の活力低下」(竹中経済財政相)や年金財政への悪材料(厚生労働省)に直結するからであるが、それ以前に考えるべきは、社会の「当たり前感覚」が崩壊したのだという事実ではないかと思う。
 「当たり前感覚」とは、「暗黙の前提」と言ってもいいだろう。従来の日本人たちが、就学期間を終えたら就職(実は「就社」)するのを当然だと見なしてきた「暗黙の前提」が、引き潮によって運び去られる海岸の砂のように、消え失せてしまったのである。
 「フリーター」たちのすべてが、積極的にその「暗黙の前提」を度外視しているわけではなく、やむを得ずという場合も少なくはないのだろうが、いずれにせよこれまで当然とされてきた社会的な「暗黙の前提」が崩壊しつつあることは否定できないだろう。

 就学時にあっても、「登校拒否」児童生徒たちの数が社会現象化していることは周知の事実となっている。これもまた「暗黙の前提」がほころび始めている現象に違いない。また、まだ「しぶとさ」を残しているような「東大神話」や受験競争も、実社会のアナーキーな変化の最中でひところのような盲信性は影をひそめたようだ。そこにも、日本中が一枚岩となって信じてきた「暗黙の前提」のごときが崩れ始めているのを見ることができる。要するに、その替わりのものがしっかりと見つけ出されているわけではないのだけれど、従来の「暗黙の前提」が反故にされようとしているのが現状ではないかと見える。そして、次のものが確保されていないだけに、いわゆる過渡期の混乱ばかりが浮上しているのだろう。

 従来の日本人の意識に深く染み付いていたこの「暗黙の前提」という感覚が今後どう変わっていくのか、変わっていかないのかに関心がある。この「暗黙の前提」感覚とは、「世間」とか「世の中」と呼びながら、自分の価値判断や行動様式をそれとなくコントロールしてきたものととりあえず同じものだと考えている。
「そんなことは『世間』では通用しないよ」といった「世間」である。既にこの概念というか観念が変質していることは、『渡る世間は鬼ばかり』というドラマの皮肉な当てこすりからもうなずけるところだろう。
 しかし、その内実がどう変わったかという点よりも、「世間」というはなはだもって漠とした対象を、人々が価値判断の拠りどころとしてきたこと、していることの事実の方が興味深いのである。それというのも、本来は先ず自分の価値基準なりがあって、概ねそれに基づいていろいろな判断をするところを、その部分がほぼ空白となっておりその真空状態を外部の漠とした「世間」という観念で埋めようとするかのような思考構造は、やはり特殊だとしか言いようがないからである。
 これは何も「旧世代」だけの話ではないように見える。茶髪ブーム然り、知人・友人関係といった小さな「世間」に振り回されているかのようにも見える若い世代たちも、りっぱに「世間」教の信者ではないのだろうか。

 で、なぜ「暗黙の前提」とか「世間」という観念などに突っかかるかと言えば、これらが日本の個人の価値判断に大きな影響力を持ってきたし、今なお持っているのではないかと思うからである。そして、それらが個人の総合的な「目的」意識形成の少なからぬ構成要素となっていると思えるからである。
 情報に接したり、それらを吟味したりする際に、それらがどんな「目的」に「捧げられた」ものでありどんな文脈にあるのかを見ることが重要だと述べた。情報というものに対して当然持って然るべき「批判意識」だと言ってもいい。
 現代のわれわれは、洪水のような情報群に接していながら、どうもこの対情報「批判意識」についてはからっきし無防備であるような気がしてならないのだ。あたかも、何の「ウイルス対策」もしないパソコンでインターネットを楽しんでいるユーザーのような光景ではないか。
 そして、この対情報「批判意識」に関しては、おぼろげながらでも個人は自身の「目的」意識のようなものをどこかで自覚する必要があるのではなかろうか。経済社会からの情報チャンネルは、「売らんかな」の「目的」に絡めた情報の機関銃を撃ちまくり、政治社会からの情報チャンネルは、支持者としての「取り込み」を「目的」とする手練手管の情報をばら撒いているわけだ。冷静で、中立な情報などというものはない、と言っても過言ではなかろう。
 これらに拮抗して、われわれが情報を「割り引く(?)」ためには、自分なりの「目的意識」とそこから生まれる対情報「批判意識」を、「ウイルス対策」ソフトのように当然のごとく備えていいと思うのである。

 一概に決め込むつもりはないが、わが国の現在の「情報(化)社会」においては、旧来の「暗黙の前提」や「世間」が崩壊しつつあるにもかかわらず、マスメディアによってその新たな類似補完物が用意されようとしているように見えてならない…… (2003.05.22)


 ぞっとするような情報だ。「SARS『今冬に大流行の恐れ』」(朝日新聞 2003.05.23)とある。「新型肺炎SARSが、今年の冬に猛威をふるうとの見通しを、米国の感染症研究の第一人者が米議会で証言した。衛生当局の責任者たちも同意した。風邪ウイルスの変種のSARSウイルスは、低温で空気が乾く時期になると急速に広がる恐れが強いという。」現在、沈静化にむかっている動向も「冬になれば復活し、今よりはるかに急速に広がるだろう」と証言されているそうだ。何とも、二重三重の暗雲が垂れ込めたものだ。 何かにつけて「急速に広がる恐れが強い」わが国では、突破口が開かれてしまうと蔓延の危機が訪れはしないかと不安が打ち消せない。

 さて、情報に関して「急速に広がる恐れが強い」わが国の社会現象についてである。やはり、わが国の社会については、「『これからは多様化の時代』というウソ」(大前研一『「一人勝ち」の経済学』1999.08.30)というのが、実情を言い当てているように思われる。
「消費者が自分の頭で考えず、『売れ筋』に飛びつくことが、『一人勝ち』をもたらしている」のであり、「自分の判断基準を持たず、みんなと同じものを求めるという一点集中ぶり自体が危険だし、さらに、その殺到する方向も大問題なのである」と筆者は述べる。そして、商品から、スポーツ・ヒーロー、政治家に至るまで「計画的なプロデュース」を推進する「歪んだマスメディア社会」の責任は大きいと警鐘を鳴らしているのだ。

 またまたTVのCMの話となってしまうが、最近のCMは、質の悪いお笑い番組のギャグのようで「無視の居所が悪い」時(昨今はどうも「虫の居所が良い」場合が皆無に近いが……)には、TVに向かってものを投げつけたくなるような対TV「DV」衝動に駆られたりしてしまう。
 「そんなバカなことマンガにだってないよ」という場面を恥ずかしくもなくCMにしている某人材派遣会社、相変わらずの歌舞伎役者姿で押し捲っているビジネス・パッケージベンダー、加えて一昨日も書いた「かわいがられよう」とぶりっ子丸出しでしかない消費者金融業。それぞれのCMは、人間の感性の高みに訴求するのではなく、単に奇をてらっているだけである。だから、そんな企業の業績はCMの程度にふさわしいものだろうと考えたりするのだが、そこそこ続伸しているようだから恐れ入る。
 よくポッと出の商品を、街頭販売のセールス・マンが「テレビでお馴染みの……」と自慢げに宣伝する光景があったりする。そうした「謙虚な」商品がテレビでの紹介を引き合いに出したりするのはかわいくもある。
 しかし、上記のような「奇をてらう」だけ、社名「連呼」ふうといったCMでとにかく知名度を上げ、ビジネスのスプリングボードにするやり口は、涙が出るほどに情けない。が、振り返れば、こうした発信側がいるだけではなく、これに追随していく受信側があることを忘れるわけにはいかない。自分の頭で考えずに、全国放送のCMがしばしば流されているのだから「売れ筋」企業だと思い込み、飛びついてゆく受信側の存在である。

 やはり消費者自身が問題か? 視聴者自身がマヌケなのか? 確かにそれも重要過ぎるくらい重要な問題であろう。しかし、その前に公共的な情報を扱っていながら無神経な「マスメディア」の姿勢がもっと問われていいと考えている。
 まさに、消費者や視聴者が自分の頭で考えることを妨げてきた「旧来の『暗黙の前提』や『世間』が崩壊しつつあるにもかかわらず、マスメディアによってその新たな類似補完物が用意されようとしている」というのが、残念ながらの実情ではないかと思っている…… (2003.05.23)


 最近はどうなのか知らないが、昔は祭りや縁日の出店で「十徳ナイフ」なるものをよく売っていたものだ。とりわけ「十徳」機能のうちのガラス切りの部分については、香具師の「見事な熟練手さばき」が見ものだった。思えばそうなのだ、「十徳ナイフ」店の売りものは「十徳ナイフ」ではなく、その「見事な熟練手さばき」であったことになる。
 その証拠に、それを買って持ち帰っても、そんなに見事にガラスを切りさばけるわけはなかった。ガラスに対する何某かの恐怖が災いしていたはずだが、「十徳ナイフ」のこの部分の活用には、ほぼ確実に訓練が必要だったのである。怪我の経験さえしたかもしれない香具師のような、訓練に訓練を重ねた熟練でなければモノの機能は発揮できなかったと思い起こしている。

 「IT革命」という言葉を最近はあまり聞かなくなってしまった。森内閣の際にはわけもわからず大騒ぎされ、森首相も、ジョークともホンネともつかない「イット革命」などと言ったものだった。
 日米ともに迎えてしまった「ITバブル崩壊」という社会現象があったためだと、了解されているようだが、やはり積み残された根源的な原因を押さえておくべきなのだと思っている。要するに、「情報技術」の飛躍的発展に対して「情報」自体が立ち遅れ続けたからである、と。誰の目から見ても「IT(情報通信技術)」がインフラとしては画期的な技術であることは確かなことだ。インターネット技術の成果はまさに「革命」と呼ばれるにふさわしい技術の幅と深さを提供したはずである。
 だが、PCにせよ、インターネットにせよ、さらに言えば「情報」を生活・ビジネスで生かすという点などにおいて、あまりにも未成熟な状況が足を引っ張り続けたのだろう。 「十徳ナイフ」の香具師の手さばきに引き込まれてそれを買った者がやがて失望したように、「IT」インフラ環境に足を踏み入れた者もほどなく興ざめとなり、大なり小なりの失望感を味わってしまったのであろう。

 思うに、その主たる原因は、技術的・操作的なハードルの高さなどではないと推測している。現に、ケータイでの「Iモード」は大いに活用(?)されているようだ。わたしなどから見れば、ケータイの操作の方が、指先でチョコチョコとはるかに技量を要するように見えるからだ。
 問題は、まさに「情報」活用のあり方に関する不案内と想像力(創造力)の欠落だと思える。企業活動ではともかく、個人ユースにあって、従来の新聞・雑誌・電話・Fax・ラジオ・テレビといった水準のメディア以上の可能性を秘めたメディアであるインターネット環境は、果たしてどの程度の「切迫性!」を持ち得たのか、持ちえるのかという点なのである。
 もっと言えば、従来のメディアの水準でさえ、そこに溢れた「情報」をどの程度活用していたのかということにさえなる。わが国で多くの人々から珍重される「情報」とは、広い「情報」の中のほんの一部でしかない「接触情報」(ともにいることを確認し合う情報! 「いま、何してたあ?」のような)と「挨拶」情報、「通知」情報に限定されているようだ。とくに、「接触情報」に偏っている実態が、ケータイを何よりも普及させた原因だと思われる。

 「情報(化)社会」の成熟が明日の経済発展の大前提だと言われて久しいわけが、インフラ面での「情報技術」ばかりが、一人駆け出していて、まるでアンバランスな夫婦のご主人の早合点のようでは、先行きが自ずから想像できるというものではないか。
 昨今流行の「ユーザ・オリエンティッド」というスローガンだけは、ハード・メーカーを初めとする「情報技術」ベンダーも口にしているのだが、目を向けているのは「操作の簡易化」だけのようだ。それも必要なのだが、一般家電製品と同様に見なしていては決定的に不足なのではなかろうか。「情報」の活用というテーマは、決して情報機器の操作という矮小化された範疇の問題ではないからだ。もっとユーザー自身の生活のあり方、ライフスタイル、さらに言えば信念・信条にも関係していくかもしれない複合的な範疇に関わるテーマではないのだろうか。その辺のイノベーションを抱き合わせにした推進が必須であるように思えるのである。

 本当の意味での「情報(化)社会」とは、政策などによってそういう社会に「する、させる」ものなのではなくて、「なる」ものだという気がしないではない…… (2003.05.24)


 日課としているウォーキング中、当初はもっぱら風景に目をやることにしていた。だが、いまではイヤホンをあてて英語のテープを聴くことにしている。毎日というかたちで継続する時間なので、目に見える変化のために使おうとたくらんだのである。なかなか目に見えるような変化にはいたらないでいるが……。
 毎日聴くとなると、心地よくなければいけないと思い、先には音質のいいCDカセットで聴いていた。だが、時々走ったりもするうちに故障してしまい、同じ内容をテープにコピーしたものを聴くことになってしまった。

 ところで、同じ内容のものをCDとテープで扱ってみると、いやでも両者のメディアの差異が自覚される。先ず、言うまでもなく音質の良否である。しかし、ものが音楽ではないこともあって、雲泥の差を感じるほどではない。しかも、現在は安いテープ・カセットでも「重低音」機能などが搭載されチープな雰囲気が一掃されている。
 しかし、どんな工夫が凝らされようと、まるで「氏(うじ)より育ち」の氏がかえられないように変化不能のものがある。CDには可能である瞬時の「スキップ」機能である。これはデジタル・メディア特有の「検索」機能だと考えられる。
 アナログ・メディアのテープも「頭出し機能」とかいって内容のブロックの始まり部分をサーチすることはできるようだが、まどろっこしい。

 「情報(化)社会」の立役者とも言えるデジタル・メディアやデジタル情報についてのこの「検索」という機能に着目する時、「情報(化)社会」の際立った特長が浮かび上がってくるように思われる。
 多くの情報から、特殊な条件をつけた情報を瞬時に選び出す「検索」は、必ずしもデジタル情報の世界に限ったことではないかもしれない。例えば、ある犯罪での目撃者が、犯人の姿や顔というアナログの記憶を条件にして、複数の容疑者から真犯人を選び出す「検索」も十分に考えられるだろう。
 しかし、アナログ情報の世界は、「検索」条件と検索結果とがパーフェクトに一致するケースは考えにくい。人間の感覚や現実のモノの世界は、いわゆる「個体差」というバラツキが自然の実情であるからだ。近似値はあるとしても、パーフェクトな同一物は存在しないからである。その意味では、アナログ世界は「パーフェクト・ワールド」ではあり得ないわけだ。

 ところが、デジタル情報の世界はいわば「パーフェクト・ワールド」だと言っていい。なぜならば、「デザイン」された世界、しかもまさしく「ゼロイチ」の符号でクリアカットされた「デザイン」の世界だからである。コピーされたデジタル情報は、もはやオリジナルと何ら異なるところはあり得ないのである。(この点は、「シミュレーション」世界というテーマで明日検討する予定)例えば、画像処理ソフトでコピーされて再表示された画像は、アナログ写真でネガフィルムから複数枚焼かれた写真同士よりもオリジナルとの同一性は高いということになるのだ。
 だから、母集団の情報から、何らかの条件づけによって当該情報を選び出すという「検索」機能にとっては、この上なく望ましい環境なのである。パーフェクトに一致した対象に、「検索」システムのあり方次第では、瞬時にたどり着けるということになる。

 「情報(化)社会」には、くめども尽きぬ現実ではない「デザイン」された情報と世界が繰り広げられるという点で、注意しなければならない点が多い。極端に言えば、「フィクショナル」で「サイバー」な世界と地続きの世界なのである。勘違いやビョーキ的次元に落ち込んだ者たちによって引き起こされる犯罪や社会現象がいつでも起こり得る社会でもあると考えなければならないわけだ。
 しかし、積極面に目を向けるならば、この現代ならではの突出した「検索」機能を最大限に活用できる、という点が重要ではないかと考えている。一昔前ならば、「検索」とは「探索」というほどに、時間とカネのみならず危険を冒すことをも伴った一大事業が、優れたデータ・ベースやその連携プレーの恩恵によって可能となったと思われる。まして、インターネットの「ハイパー・テキスト」機能(関連事項へのリンク)も生かしようでは同程度のパワーを発揮するものとも思える。

 しかし、なのである。この「検索」機能を武器にするには、相応の態勢が必要だという点なのである。
 ある人は、現代において必要な能力とは「質問する力」だと言っている。これを「検索する力」だと言い換えてもいいような気がする。そして、「質問する」には、自分なりの問題意識が前提としてなければならないのも同様だと思えるし、相手から当を得た回答を引き出すには適切な言葉選び(「キーワード」の設定! )も重要である。そして、何よりも、とらえどころのない情報世界に対して、みずから食いついて解き明かそうとするエネルギッシュな根性が必須なのではないかと感じている。自立性の時代でもあると言われることに意味があるとすれば、こうした局面ではないかと思えてならない。

 「デザイン」された世界とは、表現を換えれば「(利害関係を持った)誰かによってデザインされた」世界のはずなのである。得てしてその「誰か」は、「情報公開」を拒むことで自身の利害関係を隠蔽することも常套手段として使いがちだ。
 手元に届けられる情報が「真相を含む全部です!」と鵜呑みできる時代なんかでは決してないことを十二分に意識したいと考えている。しかし、実情は、無意識な領域も含めて、あまりにも情報が「鵜呑み」にされる環境で満ちているようだ。現に、「鵜呑み」しかしようがないメディアである一方通行のテレビが相変わらず独走しているからである。
 例えば、NHKニュースなどを視聴した場合、「はい、質問があります! 小泉内閣では本当に金融危機は起こらないのですか? その辺の情報をもう少し詳細に報じてください!」と、フィードバックできてもいいのではないかと思ったりするのだが…… (2003.05.25)


 先日、「へぇー、そんなことがあったんだ」と思う報道があった。
 お茶の包装袋に、その名称として「静岡茶」とか「宇治茶」とかが明記されているわけだが、それらは静岡県内や宇治のお茶の葉が100%使われているのかと思っていたら、原産率は数十%で周辺地域産や他地域産のお茶の葉がブレンドされ、生産する工場が静岡なり宇治なりにあるというのが実情らしいのだ。そんなことでいいのか、と問題視され生産者と消費者の代表たちが協議したというのだ。
 最近は、狂牛病問題や遺伝子組み換え問題(世界中で、この食品を多く食しているのは家畜に次いで日本人だと言われている!)などで食品関係ジャンルでの「不当表示」が問題として取り上げられることが多くなった。正直言って、消費者の疑心暗鬼は頂点に達している模様だ。
 かつては、流通を初めとするさまざまな障壁があったり、未加工の自然食品が主流であったことや、あるいはウソつきが多くなかったこと(?)、またあるいは消費者が無頓着であったことなどからこんな問題が取り沙汰されることはなかったのかもしれない。そのうち最も大きな環境変化は何だろうかと考えてみるに、食品「加工」という部分の肥大化と、流通範囲の拡大ではないかとの見当がつく。いずれも、生産者・提供者側にしか見えないブラック・ボックス経路が存在するため、勢い生産者側の自主規制に委ねられてしまうからだと思える。消費者側からは、事の真偽のほどが見極めにくいのである。

 ところで、こうしたモノの「加工」により事の真偽のほどが見極めにくい実情は、加工食品だけではない。「情報(化)社会」における情報の真偽のほどもまったく同様だと言っていいと思われる。ここでも、「ウソつきが多くなった」と言って言えないこともないようだが、やはり大きな原因を情報の「加工(編集)」という点に求めてみたいと考える。
 元来、情報とは「加工・編集」されてきたものだと言える。簡単な話というか馬鹿げた話だが、古代から現代にいたる歴史的事実に関する情報、歴史学は、当然要点把握の上圧縮整理されてわれわれの前に提供されている。もしそうでなく歴史的事実まるごとを対象としようとするならば、古代から現代にいたる何千年の実時間を費やさなければならなくなってしまうからだ。こうした「要約」が最も頻度の高い情報の「加工・編集」だと思われるのだが、それでこの「要約」という知的作業は誰がやっても同じかといえば、まずは千差万別と言ったほうが現実的ではないかと思う。それではまずいということで、妥当性、客観性を高めるために、諸科学は、恣意性を抑制するための自主規制的な手続きをいろいろと定めてきたのだと思われる。いずれにしても、情報が現実対象の「加工・編集」の結果であることには違いない。

 以前、「情報(化)社会」とは「何らかの目的に『捧げられた』情報」が比重を増す社会だと書いたが、それらを特徴とする溢れるばかりの情報群が飛び交い始めると、人々はそのすべての情報に対応することをギブアップして、より簡略に対象を「要約」したダイジェスト版のようなものを求めるようになったようだ。要するに、現実の複雑さからどんどん離れて、現実「もどき」を相手にし始めることとなったわけである。
 ところで、情報技術、情報諸科学の発達は、コンピュータの計算力を活用しながら現実環境の分析を現実環境の模擬環境を作って実験する方向へと辿ることになっていった。これが「シミュレーション」と呼ばれるものであり、選挙結果の当落判定から、飛行士訓練のフライト・シミュレーション、さらに恐いものでは核実験もそうである。速さ、コスト削減、リスク回避という時代の要請のもとにこうしたシミュレーション技術が、社会のいろいろな分野に進出してきたのである。
 その過程で、アミューズメントの世界、たとえばTVゲームであったり、映画の特撮なども現実「もどき」制作に雪崩れ込み、「情報(化)社会」の内実はにわかに「もどき」性=フィクション性を高めていったように見える。そして、現実の対象とフィクショナルなシミュレーションを比較すること自体が時代遅れであるかのような印象さえ広がりつつあるのかもしれない。先日書いた「オタク」たちにとっては、現実の女性よりもキャラクターにリアルなセクシュアリティを感じる世界も片方では生まれているのだ。「もどき」が現実よりもリアルさを持ち始めるという倒錯した事態が「情報(化)社会」の中で実現されつつあるのだろうか。

 ここで言っておけば、シミュレーションと現実とはあくまでも別ものであり、シミュレーションとはどこまで行っても現実「もどき」であるに違いないのである。にもかかわらず、「もどき」情報社会がますます人々の感性をとらえ、現実社会をあらぬ方向へと誘導しつつある気配を感じないわけではない。たとえば、経済領域の問題でも株価の動向を見ているとそんな逆転現象を感じることもあるのだ。経済、企業の実勢を評価するはずの株価が、経済外要因、しかもかなりの操作可能性の高い政治動向によって逆に大いに左右されている実情のことである。現に、米国の以前のITバブルは、実勢というよりも人々の心理が貢献した(操作された)結果だという見方に強い説得性があったものだ。

 いずれにしても、「情報(化)社会」の進展の過程で、「シミュレーション=もどき」環境が優勢を占め、人々の従前の感覚や価値観、発想などを根底から揺さぶっていることは事実だと思われる。ではどうすればいいのか。それよりも先ずは、それに気づいいるかどうかがさし当たって事の焦点であるような気がしている…… (2003.05.26)


 落語の魅力、たとえば志ん生古典落語の魅力は、何と言ってもその語り口の妙だと思っている。話の筋はどんな噺家が演じようと概ね変わらない。噺家の個性と技量は、まくら話と語り口によって発揮されると言っていいのだろう。一言に語り口といっても複雑であり、話し方の速さ遅さ、場面展開の運び方、間(ま)や抑揚などいろいろとあろう。
 そんな中で、いつの頃からかわたしは、志ん生の話癖ともいえるある口調に関心を持った。たとえば、
「おいおい、いやに元気がねぇじゃねぇか。えーっ」
といった、語尾や話の区切り目で入る語尾上がりの「えーっ」という発語である。相手が想定されている場合だけでなく、独り言の場合にも発せられている。なんと言うのだろうか、やはり間投詞と言うのだろうかそれなのである。文字面で見るならば、無くてもいいというか、むしろ奇異にさえ感じる部分でもある。ところが、これが志ん生の場合、見事に決まっていて、蕎麦に不可欠な葱や唐辛子というか、ドラマのBGMというか、場の表現に不可欠な役割を果たしていると、わたしは受けとめている。

 これが古典落語、江戸落語というものなんだよなあ、としみじみ思ってしまうのだ。無くても差し障りはない言葉なのである。それがいい。そもそも、落語自体が無くてもいい芸能なのだと言ってもいいのかもしれない。落語はいったいどんな「社会的意義」があるというのか。笑いは健康のためだと言う人もいるが、ほかにいくらでもスマートな健康法はあるはずである。志ん生が『お直し』という郭(くるわ)話で文部大臣賞をもらったことを「何でこんなものがいいんでしょうかね」とまくらで話していたことがあったが、そのとおりなのだ。政府ごときが推奨するような要素を何ひとつ落語は持っていないのである。まさに、ムダのかたまりなのだ。それでとてつもなくいいのだから不思議なものだ。こうした不条理が、語尾上がりの「えーっ」という「ムダ」な発語に象徴的に表現されているわけなのである。
 ちなみに、もうひとつ言えば落語というのは実に「偶発的」(アドリブ的)なものでもある。確かに、「落ち」に至る話運びは実に巧妙で「計画的」でもある。しかし、高座にかける演題は、その日の客の顔色を見て決めるという按配の「偶発的」芸能なのである。木目が細かいと持ち上げてもいいが、いい加減だとけなすこともできる。この辺の、かあちゃんによる朝飯メニューの思いつき!にも似た内輪感覚がまたいいと言えばいい。
 さて、古典落語の能書きを書くつもりではなかった。スマートな「情報(化)社会」について書かなければならなかった。

 スマートはスマートにちげぇねぇが、何と「情報(化)社会」っつう世の中は、味気ねぇもんなのかねぇ、「えーっ」。でいいち、ムダってぇものが、貧乏人ちの米びつの底みてぇに、なけなしだときてらぁ。よくもこうやって、いらねぇものと決めつけて外しちまうかねぇ、えーっ。そのうち、あっしらなんざ、年寄り猫みてぇにいてもいなくてもいいんだとばかりに切り捨てられてしまいそうだってことよ。

 確かに「情報(化)社会」は、養老孟司氏の言う「脳化社会」(現実に対して人為的に、人間の「脳」が生み出した世界、社会)の典型であって、人間が徹頭徹尾デザイン(抽象化!)し切った社会だと言えるし、その抽象化のプロセスでは多くの「ムダ」な部分が切り捨て=捨象されてきたわけなのである。
 「リストラ」された職員とは、「情報(化)社会」がより構造改革された効率的な企業社会となっていくために「ムダ」な人材として捨象された人々のことだと言い直せるのであろう。いや、歯に衣を着せぬなら、「トカゲの尻尾切り」の尻尾ということにもなる。ただ、トカゲにとって尻尾は「ムダ」な部分とは考えられないが……

 とにかく「情報(化)社会」とは、「効率性」を旗印に世界の「ブリーフィング(briefing、要約!)」を目指して突っ走る社会であろう。誤解を恐れずに言ってしまえば、現実の実態(たとえば、「地球環境問題」の実態!)なんか問題にされないのだ。人為的に「ブリーフィング」された情報によって構築された世界こそが熱い視線の対象となっているのである。これは、現実の庶民の実生活の実態など問題ではなく、抽象化された統計的数字こそが隠れ蓑の道具の意味も含めて重視されるお役所仕事と、何と似ていることであろうか。ここに、現実とフィクションの倒錯について度々指摘してきた「オタク」たちの性感覚と同様の倒錯現象との類似性が読み取れないわけではないと思われる。
 そして、この「ブリーフィング」の過程では、「ムダ」と罵られて捨象されていく膨大な「廃棄物」が生み出されることとなる。それはあたかも、生物の、取り返しのつかない「種の死滅」と酷似しているとさえ言える。
 脇道にそれるが、「種の死滅」を憂える心ある人々がいるそうである。彼らが未開の森林に分け入って未発見の生物を探索する理由は、それらが人類の難病の治療に効果がある可能性を期待してのことであるらしい。翻って考えるならば、これまで「ムダ」として捨象してきた存在の中にもそうした可能性があったかもしれないということになりはしないのかと推測するのである。(治療が困難なウイルス性の病気、エイズ、エボラ出血熱、そして「新型肺炎」などは、保菌動物からの感染経路が問題視されているようだ。遡及するならば、人間界以外の世界にワクチン生産の可能性があることにはならないのだろうか)
 要するに、「情報(化)社会」は、「情報」による現実世界の「ブリーフィング」であり、それに基づく管理化だと言えるのだが、それは同時に、現実世界に「ムダ」を見つけ出し、攻撃的にパージしていく動向だとも言わなければならない。果たしてそれでいいのか? という声があまりにも小さいことに危惧の念を感じているのである。誤って定義され、閉じられた世界からは、そこで生じるトラブルへの有効策が見出しにくくなる可能性が高いことを、杞憂じみて感じるのである…… (2003.05.27)


 テレビゲームに過度に熱中する子どもたちが、人間としての「「意志・思考・創造」」をつかさどる「前頭前野」(大脳皮質の前頭葉前部)の活動低下がもたらされ、キレる子や、そこまで至らなくとも人間らしさを表す理性・道徳心・羞恥心などを希薄にさせられる傾向を持つと言われてきた。その医学的な妥当性もありそうだ。テレビゲームが「前頭前野」から生じやすい脳波であるβ波を著しく少なくさせること、そしてそれがやがて常態化していくことなどの実証的な事実が示されているのだ。(森昭雄『ゲーム脳の恐怖』2002.07.10、NHK出版)これもまた、「情報(化)社会」ならではの懸念される社会現象だと思われる。

 とかくいろいろなマニアたちの生態観察(?)からは、時代の予兆が見出されたりするものだ。このテレビゲームといった過剰な「視覚情報」への対応という問題についても、テレビゲームに夢中となる子どもたちだけの問題ではないように感じてきたものだ。
 すると、前述の『ゲーム脳の恐怖』には以外な叙述があったのである。
「テレビゲームをしている子どもたちの脳波の状態を調べようと思ったのは、ある意味で偶然でした。この機器を製作する過程で、機器の調子をみるため実験的にソフトウェアを開発していた人たち八人の脳波を記録してみたのです。すると、八人が八人とも、痴呆者と同じ脳波を示したのです。……これは機器のせいではなく、ソフトウェア開発者の前頭前野の機能低下が生じていたわけです」
 そして、なぜなのかが次のように推測されていた。
「ソフトウェア開発者は、視覚情報が強く、前頭前野が働くのは勤務時間内でもほんの一瞬で、ずっと使いつづけているわけではありません。開発といっても設計図を描くわけではなく、画面をみてつくっていく仕事です。朝九時に席に座り、夕方五時までずっと画面をみています。ひらめいたり、集中しているのはわずかな時間で、ただ画面をみている時間のほうが圧倒的に長いのです。しかもこの人たちは、ほとんど会話をせず一日を過ごすパターンでした。コミュニケーションがほとんどなく、昼休みもひとりで弁当を食べるだけです。……」

 わたしの関心は、ふたつの問題へと向かった。そのひとつは、自分がこのソフトウェア業界で働いているという点からの苦い思いである。しかも、実を言えばこの事実についてはもう二十年も前から感じとっていた。
 頭脳作業のソフトウェア技術者! とは、外部からの憶測では成り立ってはいても、内部で実態を知る限りでは必ずしもそうとは思えなかった。いや、中にはそんな頭脳作業、思考作業をする技術者もいないわけではなかった。が、圧倒的多数は、キーボードとディスプレーを前にして、「機械的」作業をやっている者たちが大多数であった。
 「機械的」というのは、本来のプログラミングによって思考活動をするのではなく、「コーディング」という記憶と条件反射に頼った作業の域をでないケースが多かったからである。まして現時点のような「ビジュアル」な開発ツールが普及した開発環境では、なおのこと薄まった思考活動で作業が進められていそうな気がしている。
 その作業にあっては、たぶん、「意志・思考・創造」といった部署たる前頭前野は「パス」され、視覚情報回路とキーボードの上にある指先の運動神経のみが稼動しているのかもしれない。いわばテレビゲームを高速で操作する子どもたちと決定的な差というものはない、と言うべきなのかもしれない。
 しかも、ソフトウェア技術者たちに関しては、かねてから「コミュニケーションがほとんどなく」という異口同音のマイナス評価があったものだ。プロジェクト内にあっても、ユーザーとの関係においてもコミュニケーションの場にこそ「意志・思考・創造」の出番である課題が噴出するにもかかわらず、だからこそと言うべきか、そうした場を回避しようとし続けてきたのがソフトウェア技術者たちであったし、現在もそうなのであろう。
 ソフトウェア開発者たちの前頭前野から出るβ波が「痴呆者と同じ」という実験結果に対しては、わたしはただただ頷くしかないのが実情であった。

 もうひとつの問題とは、「意志・思考・創造」と力まないまでも、それでは負荷を背負う思考をしている業種なり、人々というのはどこにいるのだろうか、という悲観じみた思いなのである。
 現在のあらゆる職場では、IT環境化と称し概ね視覚情報化されたITツールが職員個々人にあてがわれるようになっている。しかも、従来のコミュニケーションの場や機会を削減する方向においてであろう。一概には言えないが、本当に仕事の中身を考えるという機会が「パス」されがちとなっているとは言えないだろうか。
 そしてまた、茶の間ではどうなのであろうか。テレビゲームの影響をいうのなら、本家本元のテレビ番組の劣悪化に伴う悪影響にもっと目が向けられていいのではないかと常々感じている。劣悪化した内容はもちろん問題であるが、最近は、映像的にも「思考殺し!」の水準に入っている。普通に聴いていればわかる会話なのに、わざわざ「噴出し」のようなスーパー(字幕)を入れるのがはやったり、CMはもとより一般番組でもやたらにスピードを上げ細切れな情報を脈絡無く打ち出す手法(「MTV的手法」)が使われたりしている。その結果、「思考が一分間と続かない人間が大量に作り出されている恐れすら出てきている。いわばMTV的な人間の大量発生である」(大前研一『「一人勝ち」の経済学』)との指摘もあるくらいだ。

 こう考えると、「情報(化)社会」の最中で、スピードを伴った「視覚情報」が機関銃のように打ち出される環境によって、「意志・思考・創造」を担う脳の部位(前頭前野)が迂回されてしまい、「視覚情報」と運動神経とをショートさせているスポーツマンのような人々が増産されているのかもしれない。GUI(Graphical User Interface/グーイ。アイコンのような操作画面)時代ならではの、アブナッカシイ現象だと感じている…… (2003.05.28)


 われわれ人間は、現在を生きるにあたって過去を思い起こし、将来を展望するなり憂えるなりしているはずだ。あるいは過去の苦い思い出に立脚して現在を生き、将来に備えたりする。
 いずれにしても、他の動物たちのように、過去や将来と溶け込んだ未分化な永遠の現在を生きているわけではない。動物たちは、人間と同様に生・老・病・死を体験することはする。しかし、それらを思い煩うことをしないのは、生きる現在以外に何もないからである。これに対して、人間は過去にあった親しい人々の死の記憶から、将来必ずその死が自分にも訪れることを予期しながら生きる。それが人間を人間らしくしているのだとも思われる。

 しかし、抽象的な表現ではあるが「情報(化)社会」の特徴のひとつとして、限りなく現在に優位性をおくということがありそうだと直感している。過去からの離脱・決別と、将来の先取り、と言えば聞こえはいいが、過去を忘却し、将来を封じ込めてしまうという恐ろしい面も兼ね備えていそうな気がしている。
 先ず「情報(化)社会」では、今日という現在と明日という将来とを区切る夜が消滅させられている。自国の夜が、情報がリンクする他国・他地域のデイタイムによって埋められてしまっているからだ。夜はもはや空白の時間帯やセミコロンの役割りなどではあり得なくなってしまった。それは、イラク戦争の戦況にせよ、メジャー・リーグのゲームの推移などのウォッチにせよ、われわれが深夜や早朝に経験しているところだ。そんな企業活動が本当にあるのかどうかを確かめたわけではないが、地球上のデイタイムを追いかけ続けるかたちでオフィスを設け、ビジネス活動をオリンピックの聖火のように絶やさないということもあるとかいう。もし、植物の苗をそうやって移動し続けるならば、植物たちに夜を味わわせず成長を促進することになるのだろう。もっとも、そんなことなら人工光で足りるわけだが……
 要するに、時間の流れを空間上に展開、変換しているといった印象なのである。確かに、従来ならば解決に時の経過を余儀なくされた問題が、情報社会のグローバリゼーションによって地球上の他地域に問うことで解決するケースも生まれているはずである。

 また、情報を初めとするヒト・モノ・カネのグローバリゼーション(空間の拡大!)は、何かにつけて事柄の波及と進展を加速化して、時間の流れを圧縮している。「十年一日のごとく」という言い回しがあるが、まさにそうした感触かもしれない。実際、次から次へと世界中で引き起こされる事件や事象の目まぐるしさで、過去一年前のことはもちろんのこと、ひと月前の記憶さえかき消されそうな状況ではなかろうか。実際上の時間の流れを圧縮もさることながら、人々の心理感覚でも同じことが生じていることになる。こうした点で、時間軸が空間に塗り広げられてしまったようなイメージが思い浮かぶのである。「ビッグ・バン」とは、サッチャー首相が名づけた証券制度の大改革であったが、むしろ「情報(化)社会」における情報空間の大爆発と大膨張とをよく表現しているように見えてしょうがない。

 さらに、過去の集積である歴史や伝統などが軽視される風潮そのものにも、「情報(化)社会」が現在に優位性をおく傾向が表れているように思われるのだ。それはある意味ではいたし方ないこととも考えられないわけではない。それと言うのも、同時代の現在が、グローバリズムで「膨張した空間」に処理しきれないほどの情報を抱え込む時、それ以上に情報を増やすべく過去に目を向ける暇なんぞがない、と言ってしまえばそれまでだからだ。子どもたちの学習・教育にしても、現在の世界のことを学ぶことで精一杯で、過去の歴史的事実などが頭に入る隙間がないという事情もあながち否定できない。
 ここら辺にも重大な問題が潜んでいるような気がしてならないのだ。つまり、戦争や虐殺などの歴史上での過ちが難なく繰り返される可能性が懸念されるからなのである。また、歴史が軽視される時、時代の課題に対する妥当な選択が曇る可能性も十分あり得ると推測される。

 今朝の新聞の書籍広告で『「原因」と「結果」の法則』という米国でのベストセラーが紹介されていた。(表題で関心を持ったが、どうも「願えば叶う」?系の本のようで見当がはずれた)その内容とは無関係なのだが、「情報(化)社会」では、時系列の「因果関係」もまた軽視されつつあるように感じている。むしろ重視される「関係」とは、「相互関係」や「敵対関係」といった現時点の空間での「関係」なのではないかと直感している。
 詳細は省くとして、これは歴史的視点が軽視され、「構造や機能」(構造機能主義)に熱い視線を向ける傾向と重なっているのだろう。人間関係的な事象でも、その人の履歴よりも今の実力が優先されることと似ているのかもしれない。

 とにかく、「情報(化)社会」では、現在を至上と錯覚する新しい「刹那主義」が大規模に「造成」されている、そんな気配を禁じえないのである。そういう時間軸の希薄化という点では、まさしく「動物化」する側面を持ちながらこの社会は突き進んでいるのかもしれない…… (2003.05.29)


 イチロー選手や松井選手は、百数十キロの速さで繰り出された豪速球が見え、運動神経が瞬間的に対応するらしい。これは、もはや訓練の結果というよりも、視覚神経からの刺激が脳活動をへることなく運動神経へと流れる天才的な身体ゆえの技なのだと聞いたことがある。
 一昨日書いたテレビゲームによって「ゲーム脳」となった子どもたちも、脳の「前頭前野」のお休み状態と引き換えに、「視覚情報」と指の運動神経との直結状態を作り出していたのだから、現象的には天才スポーツ選手と似ていないわけではないことになる。

 これらは、ともに特別なジャンルには違いない。しかし、「情報(化)社会」での情報の流れは、豪速球やテレビゲームの画像速度に見劣りしない猛スピードのはずである。情報の先取りが、経済やビジネスその他において「勝ち組」「負け組」を色分けする背景もあるのだから当然のことかもしれない。
 そして、そんな猛スピードの情報流通環境の中で、「視覚情報」がますます比重を高めているように思われる。端的に言って、「視覚情報」はスピードと相性がいいと言えるのだろう。どんな水準の人ということなく、また条件反射的な対応が必要となる交通の現場などで、シンボリックな道路標識が使われているのはその好例であろう。また、昨今ではスピード感のある操作が望まれるPCで、「アイコン」をはじめとする「視覚情報」が多用されるのも良く知られている。(これが、「GUI(Graphical User Interface/グーイ)」!)

 また、人々の「視覚情報」(画像)への関心も極めて高いと想像される。
 こんなデフレ不況時における消費需要低迷にあっても、デジカメの売れ行きだけは底堅いようだ。最近では、デジカメ機能搭載のケータイにも人気が集まっているらしい。購買の定かな動機はわからないが、「視覚情報」(画像)への関心が低くないことは確かだ。 容易に想像がつくことは、「考える負荷の省略!」である。昔から、「カメラを持った日本人」は観光地での定番だとされてきた。それは、記念と言えば聞こえがいいのだが、観光地での自分の印象を自分の脳と心で刻み込む負荷を避けて、カメラに代理的に記憶させようとした魂胆ではなかったかと邪推してしまうのだ。行く先々で、その印象を俳句に残そうというのはちょっと辛すぎるが、仮にそうであってもいいところを、安直なスナップ・ショットで肩代わりするのは、やはり「考える負荷の省略!」だと言えるのではなかろうか。
 また、「考える負荷」の結果の自分の言葉による印象については、人に伝える際にも骨が折れないとは限らない。「コミュニケーション負荷」とでも言えようか。それよりは、とりあえず万人に理解されやすく、アピールさえできる写真という「視覚情報」(画像)に頼った方が波風が立たないし、はるかにラクなのであろう。
 思うに、現在のデジカメ人気、加えて画像送信のケータイ人気は、こうした「負荷」の軽減という動機と密着しているように見える。

 「百聞は一見に如かず」(Seeing is believing.)とは言う。そして、とかくスピードが求められる「情報(化)社会」にあっては、この「視覚情報」(画像)のメリットに頼んで、「視覚情報」(画像)に過剰な期待をしてはいないかと懸念するのである。
 たとえば、2001年9月11日の世界貿易センタービルへの衝撃的なテロの様子を伝えたテレビ画像は、一体何を饒舌に語ったのであろうか。結果的に考えれば、米国民の単純で荒々しい愛国的心情を刺激したに過ぎないとも言える。「視覚情報」(画像)は、情報量は大きいとはいうものの、元来が複雑でリアルな事情を語りかけてくるようなメディアではないのだ。フォーカスされた一事を強調することで精一杯というか、それが本来の特徴のはずである。だから、無関係なコンテキスト(文脈)の中に置かれたとしても、一兵卒のごとく従順に役割りを果たしてしまうに違いない。
 したがって、「視覚情報」(画像)の長所と短所が見据えられた上でこそ活用されるべきなのであろう。しかし、スピードと、より多くの人々へのとりあえずのアピールが要請される「情報(化)社会」にあっては、「視覚情報」(画像)が乱用されがちとなっているのが実情のようだ。そして、こうした傾向を受け容れる人々の心理にも十分に警戒が必要だと思われる。
 交通標識レベルでの単純さで、人間関係や、社会関係、政治、そして国際関係が展開するとするならば、とても人間の世界だとは言えなくなるに違いない…… (2003.05.30)


 今朝は4時過ぎに用を足すべく起き、そのまま起床することにしてしまった。もちろん眠気は存分にあったが、さりとて再度自然な眠りに入れるような気がしなかった。そこで思いきって起きてしまうことにしたのだ。
 昨夜の天気予報では、台風四号の影響で今日は朝から雨天とのことだったが、窓から覗くとまだ降り始めてはいなかった。そこで、降り出す前にウォーキングを済ませようと急いで支度をすることにした。

 このところ、天気がいいと六時台でも陽射しが強くなり、すがすがしいというよりも暑ささえ感じるほどである。しかし、さすがに今朝は台風到来を前にした曇天の上に、空気は湿気を含み、実に朝らしい雰囲気に満ちていた。午前五時なのだから当然といえば当然のことだ。幾分、ひんやりとした空気の感触が気持ちよい。通りには、新聞配達のバイクだけが走っていた。

 ウォーキング中には周囲のいろいろな光景が目に入ってくる。だが、どうもこう毎日のことだと見慣れてしまったとしか言いようがない。近頃では、通過する場所に漂う香りや匂いに関心が向く。先ず、今朝のような天候だと、露を湛えた青臭い匂いが草木の存在を意識させる。また、強い香りを発する花の植木のそばを通ると一瞬はっとさせられたりもする。このニ、三日、その場を通ると強烈な芳香を自覚させられていた垣根があった。ものの本で調べてみたら「スイカズラ」であった。香りと情景とは、しばしば結びついて記憶の奥に残るようなので、後日このスイカズラの芳香に接した時にこの道のことを思い起こすことになるのだろうかと思ったりした。
 他人の家の朝食の準備で漂う鰹だしの匂いや、干物を焼いているらしい煙の匂いものどかな気分を感じさせ悪くはない。その家々独自の匂いというものがありそうで、いかにも生活のゆとりを思わせるそんな匂いの家があったりすると、うらやましい気分ともなる。別に、鼻をクンクンさせて歩き回る犬ではないのだけれど、結構、匂いを自覚して歩いているようだ。

 幼い子どものころであった。家に新しい茶だんすがやってきた時、扉を開けると不思議にある匂いがして叫んだことを思い出す。
「あっ、百貨店の匂いだ!」
 確かに、百貨店(デパート)の地下食品売り場特有の匂いがしたことを覚えている。当時、百貨店などへはめったに連れて行ってもらうことはなく、たまに行くと目白押しの高級食品で圧倒されていたはずだ。そんな憧れの百貨店の匂いが突如として自宅に訪れたのだからうれしい驚愕であったのだろう。たぶん、その匂いが消えてしまうまで、幾たびとなく扉を開けて鼻先を突っ込んでいたのだろうと思う。

 匂いで思い出す場面の有力なひとつとしてあるのが、子どものころに大阪から転居してきた北品川の祖父の家の朝の場面だ。夜行列車で夏休みの時期の早朝に品川駅にたどり着き、向かったのが、まだ住人たちが寝静まっていた祖父の家だった。その時、蚊取り線香の強い匂いが漂っていたのをしっかりと記憶に残してしまったのだ。
 目黒川下流の近くにあった祖父の家では、連日、「ぶた」の陶器に蚊取り線香の火を絶やすことがなかったようであり、その後祖父がその陶器に蚊取り線香を差し入れている姿を幾度も見たものだ。
 大阪から東京への転居で何から何までも環境が変わって、やはり不安な心境に支配されていたのであろうか。そんな不安な心と奇妙に混ざり合ってしまったのが、蚊取り線香の匂いなのであった。しかし、その後何十年も蚊取り線香を愛用するうちに、北品川の祖父の家や、あの時の不安などと蚊取り線香の匂いとの結びつきは解きほぐされてしまったようだ。その匂いはいろいろな懐かしさと結びついているのだろうか、概して嫌いではない現在である…… (2003.05.31)