その少年は、さあ、どうぞ! というような合図を手で示した。自転車のサドルに跨ったまま、左手でハンドルを握り、右腕を右上から左下方へ大きく滑らすような動作をしたのである。わたしは素早くお辞儀をして、交差点中央で止まらせていたクルマを右折させた。
その時、わたしは交差点を右折しようとしていたのだった。自転車に乗ったその少年は、右前方の歩道を走って来て、わたしのクルマが横切ろうとする横断歩道をまさに渡るかに見えたのだった。横断歩道の信号は青の点滅に変わっていた。右折時のこのようなケースが危ないことを意識していたわたしは、その少年を渡らしてから右折しようと待機していたのだった。そこへ、思いがけない少年側からの大きなジェスチャーがあったというわけである。
最近は、クルマを運転していて不快な気分とさせられることが多い。とくに右折の待機をしていて、信号が黄色や赤となってもごり押しに直進してくる「ジコチュー」のドライバーが少なくないからである。そんなに急ぐこともないじゃないか、別に楽しくもない次の現場へ向かうだけなのに…… と、シニカルな思いを吐き捨ててやったりする。
そんな日常の積み重なりの中で、意表をつかれたのだった。別に急ぐこともなく、我(が)を通して危ない目に会おうともせず、しかも相手側へのしっかりとしたメッセージを出すフェアな少年の姿に、絶大な好感を抱くことになったということなのだ。そのあと、ハンドルを握りながらしばらくの間すがすがしい余韻が残り続けたものだった。
何がうれしかったのか。進路を譲ってもらったことか。それもあろう。だが、それよりも心に共鳴したのは、あの大きなジェスチャーであったかもしれない。よく見かける、指先だけで、さあ、行きなさい! というような人を小馬鹿にしたような仕草ではなかったのだ。あたかも王様の前で跪いて敬意を表する際の、その右腕の動作のようなジェスチャーがことのほか気分をよくさせてくれたのかもしれない。そんなふうにさりげなく人を喜ばせることができるその少年は、きっと知らず知らずのうちに周囲の者たちから引き立てられ、幸運をも掴むこととなりはしないか、とさえオーバー気味に思ったりした。
いや、実のところ心に染みた本当の理由は、別な文脈にあったのかもしれない。
「ひきこもり」「自閉症」などという言葉が、最近はめずらしくなく使われるようになってしまった。何も、その言葉が振り向けられる対象は、少年、少女に限られなくもなった。年齢に制限なく、リストラにあった中高年の「ひきこもり」現象もアリの時代である。
そして、そうした要注意水域に踏み込んでしまった不運な人々の背後には、その予備軍ともいうべき「潜伏期間」にある人々の待ち行列が見えるような雰囲気でもある。みなが、「我、事において後悔せず!」という武蔵にあらず、「我、他人に会っても関知せず!」とでも言いたげに、うつむきかげんであったり、視線を宙に舞わせていたり…… そうして、「潜伏期間」が満了となるにおよび文字通りの「ひきこもり」人生に突入していくことになる。
実を言えば、わたしも、決して他人事ではないと感じている。いや、わたしの場合は、「ひきこもり」などという生易しい表現ではなく、「隠遁」願望と言ってもいいし、かの武蔵が晩年に『五輪書』をしたためた「洞窟」ごもり所望と言ってもいいかもしれない。こんな世界「もう、うんざりなのよ」と、最近の歌謡曲かなんかで聞いたセリフが思わず口をついて出るからである。
それはそうと、そんな時代環境にあって、最も壊滅的に失われたものが、あの少年のような何げない他者への発信行為なのだと思われたのであった。あたかも健全な共同体が存在し続けているかのように、また、その共同体の一員に向けての当然の対応であるかのように、さりげなく何げなくメッセージを発信していく柔らかい姿である。『男はつらいよ』の寅次郎が見ず知らずの行き交う人に軽い言葉を発するイメージに通じるところがあるかもしれない。あるいは優しく育てられた動物たちが示す人懐っこい動作に似ていると言えるかもしれない…… (2003.05.01)