いつまでたっても泰然自若(たいぜんじじゃく)とした風情にはなれないことを、ふと情けなく思うことがある。いい歳をして瑣末な事柄一々にこだわってしまう自身の了見の狭さとでも言おうか。
そう思うと、歳を重ねるのが単に重箱のようでしかないのは一体どうしたことだろうかとの疑問に行き当たる。子供の頃に見上げたお年寄りたちはみな、なんとも言えぬ平穏さの内にそこはかとなき重みを湛えていたではないか。仮に、重ねたその歳が重箱のようであったとしても、その内側にはいぶし銀のつぶがぎっしりと詰まっていたようでもあった。空の重箱を、ただただ積み木のごとく上乗せしている自分とは断然異なる、という実感が消えない。
かねてから、現代にあって失われたもののひとつにお年寄りたちへの敬意があると懸念してきた。また、その原因はまさしく「情報(化)社会」における知識・情報の外在化と自由な伝播(でんぱ)の環境にあると考えてきた。つまり、古い時代のムラのような閉鎖社会では、価値ある知識・情報を古老たちが生き字引のように保有してきたがために、必然的に生き字引としての存在は敬意をもって仰がれたはずではなかったのか。
しかし、現代では価値ある知識・情報は、生き字引に求めるまでもなく、TVを代表とするマスメディアが、あるいはインターネットのサイトが、あるいはものの本が微に入り細にわたり伝え尽くしている。古老よりもTVの方が重宝がられる時代となってしまった。老人たちへの敬意は、過去への感謝といった気持ち上の水準だけに依拠することとなってしまった観がある。
では老人たちは、価値ある知識・情報の保有をやめてしまったのか? そうとも言えるが、そうとは言えない。
ポイントは、どんな知識・情報に価値を認めるのかという時代側のあり方だと思われる。言うまでもなく現代は、「新しさ」そのものに文句のない価値を見いだそうとしている。「新バージョン」、「新」何とかが売れるのであり、関心が持たれるのは「新聞」なのであって「旧聞」ではなく、「ニュース」であって「オールズ(olds)」ではない。老人たちは、こうした現代的価値のある分野には構造的に疎いと言わなければならない。
しかし、サムシング・ニューに価値ありと目星をつけ追っかけ回す現代人たちは幸せそのものなのであろうか? 実態は、幸せであると思いたいだけのことであり、幸せの「し」の字も真面目に問うたことがないような気がしている。
お年寄りたちが強いジャンルは、まさに「旧聞」である。当然のことである。
しかし、それだけではない。いや、もしそれだけだとしたならば、現代という偏った時代における老人たちは、無用の長物そのものとなってしまう。
かつてのお年寄りたちが、継承された知識・情報以外に保有していた「サムシング・オールド」の中には、現代科学なんぞが及びもつかぬ貴重なものが含まれていたはずである。それを「経験」という一語で言うのはややためらいが残る。そんな薄っぺらなもの、「知識 vs 体験」という文脈で軽んじられる次元の言葉では表現し切れないように感じている。「経験知」「暗黙知」といえばいくらか正解に近づくが、それでもこぼれ落ちるものが多すぎる。やはり唐突にもお年寄りたちの「人生」と言っておくべきか。
たぶん、そんな重みがお年寄りたちへの敬意を支えていたのではなかったか。
が、そんな話もすでに過去のものとなりつつある。老人への敬意が過去の話となったということではなく、現代のわれわれ「非」老人たちが、老人になっていく事情はかつてとは様変わりしていると思われるのである。
サムシング・ニューの知識ばかりを、時代の子たちと同じになって追っかけまわし、いやそれはそれでいいが、そうして得られた知識・情報だけをストックする習性まで身につけてしまっているならば、あまりにも手抜かりに過ぎるような気がするのだ。「サムシング・オールド」も「人生」のかけらも持たない、ただの重箱と成り果てていくだけではないか、と懸念するのだ。
ビジネス界では「年功序列」制度慣習は完璧に廃棄されつつある。年金制度も軽視されつつある。すでに老人候補生たちには王手が掛かっていそうだ。別に「上」に就いたり、敬意を受けたりすることは問題ではないとしても、自身に誇りをもって生きる、生き続けるためには「サムシング」が必須だと思われてならない。しかし、時代に抗して「重箱老人」候補生たちが「年寄り」になっていくための、そんなマニフェストは書かれていそうもなく、自身でしたためる以外にない…… (2003.10.01)