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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2003年09月の日誌 ‥‥‥‥

2003/09/01/ (月)  プレゼンテーション・ツールに対する「思考支援」ツールは?!
2003/09/02/ (火)  「急がば回れ!」以外に方法がないこともありうる……
2003/09/03/ (水)  昼時、中華飯店での「悲劇の人」とその共感者……
2003/09/04/ (木)  初めに人間関係ありきの「ネットワーク」こそが有効!?
2003/09/05/ (金)  高台に登ってみてこその視野の広がり、発想の転換!
2003/09/06/ (土)  「我慢すること」と人間らしさ!
2003/09/07/ (日)  「非」悲観的気分、「非」鬱的気分を自家生成する方法は?
2003/09/08/ (月)  個性的にしか生き残れないということの実質!
2003/09/09/ (火)  久しぶりの神田、御茶ノ水界隈で感じたこと
2003/09/10/ (水)  「別の世界を提示していただけませんか?」
2003/09/11/ (木)  「アンバランス・ウォーカー」に見る時代のアンバランス!
2003/09/12/ (金)  肝心な時期に効果があがっていないという「人事考課」制度
2003/09/13/ (土)  時の流れを止めてしまうように燃焼して生きたいもの!
2003/09/14/ (日)  「『身代り』地蔵なんですよ。享保年間に作られたようです」
2003/09/15/ (月)  じわじわと当事者に近づく「敬老の日」を真面目に考える!?
2003/09/16/ (火)  阪神タイガース優勝の陰には時代適合の関西文化が?
2003/09/17/ (水)  「自爆」的犯罪は非難すべきだが、続発することがもっと怖い!
2003/09/18/ (木)  自分にしか書けないことを書く!
2003/09/19/ (金)  斬新な視点が決め手となる「リニューアル」!
2003/09/20/ (土)  もの言わぬ老犬レオが語りかけてくるもの……
2003/09/21/ (日)  ペットたちが、通気性特殊加工のカッパを着せてもらえる日も遠くない?
2003/09/22/ (月)  またまた巨大な「まやかし」局面が進行しているのか?!
2003/09/23/ (火)  今日は「すがすがしい」お彼岸の中日……
2003/09/24/ (水)  低成長期の中でのソフト技術者たちの評価制度は?
2003/09/25/ (木)  「臨機応変」のパワーが立脚する不可思議なメカニズム?!
2003/09/26/ (金)  自嘲気味のフレイズ「いよいよ、ばかである。」は現代世相によく似合ふ!
2003/09/27/ (土)  片半身四キロで四キロの道を行く「いよいよばか」!
2003/09/28/ (日)  湯殿に立ち込めた湯煙と檜の香りだけが……
2003/09/29/ (月)  DNAでも国家財政でも「操作」できないものはないのだソウサ!
2003/09/30/ (火)  「ガン病棟」を住みかとしてしまっていることに微塵も気づかずに……






 最近のWebサイトは何かと「リッチ」になっている。中でも、滑らかなアニメーションや、インタラクティブな動きなどがスマートに展開するページを見ていると、Webサイトだとは思えないほどである。
 こうした「リッチ」な構成を支えているのが種々のテクニカル・ツールであり、単なるHTMLスクリプトだけでは飽き足らないとばかりに、Java、CGIやもろもろのスクリプトなどが巧みに駆使されている。
 「リッチ」といえば先ずはアニメーション画像に目が向くことになろう。URLをクリックして最初に開かれるWelcomeページで、まるで映画のオープニングを見るような滑らかな動きの華麗な画面を見ることも少なくなくなってきた。

 ひと昔前なら、画像はそうした「リッチ」なものではなく、実にぎこちなく、「動いてんだかんね」と言わぬばかりのアニメーションが、Gifファイルの合成などで作られていた。「パラパラ漫画」の原理による動画である。自分も制作したことがあるが、手間がかかり、ファイル・ボリュームも大きくなるその割りに、出来上がりはダサイものに落ち着いてしまうのである。まあ、人目を引くことにはなるかもしれないと、不承不承で採用することになる。
 ところが、最近注目できるテクニカル・ツールのひとつに「Flash MX」というWebアニメ制作ツールがある。かつて、動画などに関心を寄せる者たちを惹きつけた「Director」というオーサリング・ソフトを提供した会社マクロメディアが、ここまで普及したWeb環境に即してリリースしているユニークなツールである。
 より高度で複雑な動きをするアニメ制作を「オブジェクト指向」方式で可能とするだけでなく、滑らかで美しい画像を拡大縮小にかかわらず確保するためベクター方式という計算値によって画像描画する新しい方式を採用している。一点、一点をぎこちなく置くように並べた従来のビットマップ方式とは画期的に異なるものだ。そして、ファイルサイズも割合に小さいのでさほど迷惑にもならない。
 従来から、画像やストーリー・コンテンツに興味を抱いてきた自分としては、実のところ、年甲斐もなくこの「Flash MX」を使いこなしてやろうかと触手をのばしたりもしている状況なのである。試用ソフトをダウンロードして使ってみたりもしたが、結構楽しめそうな印象を受けている。

 ビデオ動画にしても、MPEG-4方式などの圧縮処理が採用されたり、ストリーミングと呼ばれる非ダウンロード方式の工夫などによって、ブロードバンドのインフラ上でかなり実用的レベルでの使われ方がなされるようになった。まさに、現在のWebサイトは、動きを売りとするテレビ画面に限りなく肉迫しているようでもある。
 また、ついでに皮肉を言えば、Webサイトは、そのコンテンツの質においても、見てくれは「リッチ」もどきでありながら、日毎に低俗化している、そんなテレビ番組にこれまた限りなく追随しつつあるとも言えようか。
 こうした状況を見ていて思うことは、Webサイトに限ったことではないのだが、時代全体が中身と乖離したビジュアルな表層をいかにもっともらしくこしらえるか、という課題に奔走しているかのようだ、という点である。
 確かに、表層の構成、画像の制作などに役立つ表現ツールやプレゼンテーション・ツールは飛躍的に豊かになった。そして、その成果としての溢れるようになプロダクツ群を日ごと目にするようにもなった。まるで、われわれはきらびやかな舞台やショーウィンドウの前に立たされているような気さえする。
 それらによって目や感性が肥え、自らの表現水準がアップすることは悪くはないだろう。だが、表現方法に対して「思考そのもの」のパワーアップはどうなっているのだろう。そう言えば、表現に関するテクニカル・ツール類は不自由しないほどに普及しているのに対して、考えること自体を直接支援するツール類は、意外とエアーポケットになっている実情かもしれない。そういうツールこそがもっと旺盛に創り出されていいような気もするのである…… (2003.09.01)


 何でも「思い通り」にいかないのが相場なのである。
 ところが、便利な世の中になり、モノと言わず人と言わず対象を「コントロール」することを当然視するようになると、不思議なことになおのこと「思い通り」にいかない不都合さが強く意識されたりするようになるのだ。たぶん、現代人ほど、あるいは自立心旺盛な人ほどそんな意識が強くなるのではなかろうか。
 「思い通り」にコントロールすることが標準なのだと思った瞬間にこそ、「イライラ地獄」にはまり込むのかもしれない。もっとも、現在のビジネスは、「思い通り」以上に効率的に、効果的に事を処理しなければならないがゆえに、溜まり放題にストレスが溜まるのであろう。
 なかなかそうもいかない轍にはまっているのだが、物事、「思い通り」にいかないのが通常なのであって、時たま「思い通り」になった時こそ、大喜びするなりツキ過ぎる運に警戒すべきだ、と思った方がいいのかもしれない。

 むしろ、「思い通り」にはならないことをしっかりと凝視してはどうかと思い始めている。そして意図的となることが却って災いを招くというケースをいろいろと想定しようとしている。
 などと言えばまるで悟りを開こうとしているようにも聞こえないではないが、とんでもないことで、単に「八方ふさがり」となっているだけなのだ。
 とりわけ、昨今強く意識するようになったことは、脳を含む身体という自然は、意図や意識をアクティブにする脳の人為的部分が躍起になっても、「思い通り」にはならぬ、ということなのである。
 以前にも「睡眠」について書いたことがあった。人間の脳や身体には、「随意的」(「思い通り」になること)でない側面が多々あり、「睡眠」もまた「よし眠るぞ!」と意気込んで可能となるものではないのだ。
 もし、「随意的」には叶わない側面を望む方向にもってゆきたいのだとしたら、いわゆる「媒介的」に働きかける以外にないと言える。あたかも、本命のお偉いさんを攻略するにあたって、その親しき友人の口添えをいただくような恰好であろうか。「睡眠」で言うならば、身体の筋肉から力を抜いて神経を和らげていくといった「媒介的」手立てに迂回するしかないのである。

 最近注目しているのは、「創造的な閃き」なのであるが、これもまた「よし閃かすぞ!」と意気込んでも堂々めぐりか、空転に陥るのが関の山である。「閃く」ための精神的前提作り(脳の「α波」状態!)を意図的に、旺盛にやることはよしとしても、決して「現場」にまで「やるぞやるぞ!」の熱いものを持ち込んではならないようである。
 とかく、現時点のようなシビァな時代環境にあると、「火の玉となってがんばれ!」の主義が、クリエイティブなものを生み出す現場にまで浸透しがちである。また、そうした旗振りをする者を持ち上げがちである。が、たぶん結果は、「よし眠るぞ! がんばって眠るぞ!」と力みながら朝まで悶々とすることになるのと同じ惨めさに終わるのではないかと思う。

 今、ふと「閃いた」のだが、クリエイティブなものを生み出すとは、ひょっとしたら「農作業」によって収穫を期待することに似ているのかもしれない。種を撒き、問題設定をしたならば、種を小突き回してまで管理しようとはせずに、周囲の雑草むしりなどにとどめる。雨が降ったり陽が照ったりするのを眺めながら、追肥をやったり再度草むしりをしたりと「媒介的」な働きかけに終始するのがいいのかもしれぬ。決して、工場のライン作業のように手をかけ過ぎてはいけないものなのかもしれない、と。
 要するに、田畑の植物たちも自然であるなら、クリエイティブなものを生み出す脳の機能も自然であるに違いないと思われるのだ。ニュアンスはやや異なるような気もするが、「人事を尽くして天命を待つ」という中国古書の言の意に近いと言えようか。
 何もかも分析し尽くした上で操作主義的に事を解決する西欧的方法の効用と限界を知る思いがしたりしている…… (2003.09.02)


 レンズの厚い眼鏡をかけたその男性は、奥さんと思しき女性と向かい合って座っていた。どことなく棟方志功に似ている印象を受けたものだ。
 二人ともリュックを空いた席に置いて、注文した品を待っている。正午過ぎの中華店は、入り口で待つ客がいるほど混んでいた。
 "棟方志功"は赤い野球帽をかぶり、半ズボン、キャラバン・シューズ風のズックといういでたちであり、奥さんらしい人もまた軽装である。どこかを二人してハイキングにでも出かけた帰りなのであろう。ここ淵野辺駅前からは、八王子に出れば自然と親しめる箇所はいくらでもある。
「そんなこと決まってるじゃないか。バカ言ってるんじゃないよ」
 突然、そんな頭ごなしの言葉が聞こえてきたので、再び目をやると、"棟方志功"は池波正太郎あたりの文庫本をテーブルに開いて読みながら、奥さんに向かって横柄な口をきいていた。奥さんは、首根っこをつままれた猫のようにきょとんとして、そして不服そうな顔つきをした。

 よくある光景なんだよな、とわたしは思った。注文したものが届くまでは、いつも手持ち無沙汰なので、畢竟(ひっきょう)、周囲の人物観察で時間をつぶすことになる。

 目を伏せると昨日、就寝前に読んだ文庫本(小此木啓吾『「困った人たち」の精神分析』)の一節がよみがえってきたりした。
「なぜセワ子さんにはあんなに激しく当たるのだろう。それは、セワ子さんには自分の自己矛盾の全体を見られているという意識があるからだ。……とにかく近くにいる人から見ると、あまりにもタテマエ部長のタテマエと実像の格差は大きすぎて、どうにもその矛盾についていけない。しかし、タテマエ部長にしてみると、一つ一つに自分の理屈がついている。自分ではそれを一向に矛盾だとは思わない……」

 自分自身その種の人種だと言わざるをえないが、どうも中高年の男は身近な者に対して粗雑な言動をするものだ。一言で言って、「自分の自己矛盾の全体を見られているという意識があるから」ということになるのだろうか。
 相応に「秩序」や「体裁」を気にするくせに、日常生活ではそれらに反した矛盾を曝け出している。そればかりか、身近な者にはそれらを丁寧に点検され続け、非難までされている。遠望の富士は美しくとも、足元に山積するゴミゆえに「世界遺産」に認定されないという富士山の実態に通じるものがあるのやもしれない。

 そう考え込んでしまうと、空腹が思索を「悲劇」めいたことへと導いていった。
 夫婦というのは、互いに身近で「自分の自己矛盾の全体」を見せ合っている関係なのだろうか。公式的には最愛の関係でありながら、実のところ最も過酷な仕打ちを重ねあう関係なのだろうか。誰だかの箴言に「離婚の最大の原因は結婚それ自体である」とあったことも追い討ちをかけてくるようだった。
 これはまるで、「ヤマアラシのジレンマ」(ニ匹のヤマアラシが寒さのあまり、お互いに身をよせあって近づく。しかし、お互いのトゲがあたって痛くてたまらない…… それではということで離れると、やっぱり寒い! でもくっつくとトゲが痛いし……困った! 結局、お互いのトゲがあたらずしかも寒さもしのげる適当な距離を見つけて、めでたしめでたし!というショウペンハウエルの寓話)そのものではないか!

 夫婦というのは結構大変なことなんだなあ、と食欲さえもが減退し始めた時、"棟方志功"がいろめき立った。奥さんの注文が届いてしばらくしてからだった。
「おい、オレの冷やしバンバンジーはどうなってるんだ? レシートにちゃんと書いてあるか?」
「変ね…… あたしの炒飯定食しか書いてないわ……」
「ちぇっ、あのアルバイトが聞き漏らしたんだ。うーむ、もういい!!」
 奥さんが食べ終わり、仏頂面して立ち上がった"棟方志功"は、つかつかとレジへ向かい、そのおさまらぬ憤慨を爆発させていた。
「おい店長! 待たせた挙句に注文とってなかったじゃ話にならんヨ! もうこんな店二度とこないゾー!」

 私も以前にバカバカしいほどの間違いをされた覚えがあったため、「お怒りごもっとも……」と内心共感し、その"棟方志功"がリュックを背負い、文庫本片手に身を震わせて店から出て行くのを、あたかも「悲劇の人」に同情するような目つきで見送ったりしていた…… (2003.09.03)


「廣瀬さん、ご無沙汰しております!」とのテーマのメールが入り、ちょっと再認識させられたことがあった。
 ここしばらく、あるビジネス案件で腐心していることがあった。その糸口を求め、当たるべきところには当たり、ネットでも検索したりしていた。ところが、上記のメールがきっかけとなって、事態はいい方向へと開かれつつある。
 そのメールの主とは、仕事面で以前にそこそこ丁寧な対応を講じたことで、喜んでもらえた人であった。不思議なめぐり合わせかなと感じ入ったりしたものだった。

 「ネットワーク」なる言葉が持てはやされて久しい。しかも、IT=情報通信技術という言葉が日常茶飯で使われるようになると、その言葉と同義のように「ネットワーク」という言葉が口にされ、あらゆる付加価値がここから生まれるかのような風潮が広がっていったようだ。
 かつて、「ネットワーク」への過剰で勝手な思い込みに対して皮肉を書いた (c.f.2002.10.29) が、その時には、自分側の「Give」の役割りを意識せずに、ただただ「Take」に与ろうとする自己本位な「ネットワーク」観を揶揄したつもりだった。
 今回注目したい点は、「ネットワーク」の「二重性」とでもいうものについてである。

 昔、まだインターネットというインフラがなかった時分、「パソコン通信」という形式の、マニア同士のいわばメール・システムがあった。われわれも、ホームページ・モード以前には若干経験したものであったが、通信の仲間は時々「オフ会」という顔合わせを開いたものだった。通信が、「On-Line」であるのに対して直接会う会合をそう呼んだのである。多くの「パソコン通信」サイトが実施していたようだ。
 さしあたって、「ネットワーク」の「二重性」というのは、「インフラ」上での通信関係と、「じか(直)」の関係とのことだとしておきたい。
 思うに、この後者の関係は、前者の関係を補足する意味合い以上にやはり重要なことなのだろうと考えるのである。冒頭の一事は、豊富なネット上の情報よりも、生身の人間関係の有効性を示してくれたような気がしたのであった。

 なぜ、こんなことに関心を持つのかといえば、心を持たない「ネットワーク」の技術的インフラに、どうも過剰な期待と思い込みがなされているように見受けられるからなのである。IT=情報通信技術は、その種の産業と一体となって、インターネットを初めとする通信ネットワークのインフラを画期的に発展させ、整備している。それはそれでいいのだが、それは事の端緒でしかないことを十分に知るべきだと思うのだ。以前の公共投資が全国各地に「ハコモノ」ばかりを林立させ、その活用方法や中身を軽視した結果は、現在に至り大いに顰蹙を買っているはずである。

「それゆえネットワークの本質にはオーガニゼーションとコミュニケーションの互換性と交流性がふくまれる。先に線が引かれるからネットワークができるのではなく、(両端の)点の内側にすでに線が萌芽しているから、それがネットワークを形成する」(情報文化研究フォーラム編、松岡正剛+戸田ツトム構成『情報と文化 多様性・同時性・選択性』NTT出版)
 ついでながら、同著はITなど無縁であった日本史の過去に、「"闇"のネットワーカー」たち、「山伏、マタギ、木地師、薬売り、草の者−忍びの者−、また……遊行僧、高野聖、勧進聖、巡礼、護摩の灰……」などが、ヒューマン・リレーションによる「ネットワーク」を濃厚に実現していた事実の、その重みを指摘している。

 インターネットを初めとするIT環境は、確かに「ネットワーク」空間を飛躍的に拡大し、可能性もどきを展開した。だが、この空間が自動的に何かを「生み出す」とは決して期待しないほうがいいと、いまさらのように痛感しているのだ。「インターネットは空っぽの洞窟」(クリフォード・ストール)だとバカにしてやるくらいがちょうどいいのかもしれない。やはり、「じか(直)」の人間関係の重みに優るものはないと…… (2003.09.04)


 今朝は秋晴れだ。
 そういい切るにはやや抵抗のある残暑ではあるが、さわやかで透明度の高い陽光と、照らし出された光景全体が秋晴れだと感じさせる。こうした天候は、けだるくくすんだり、ささくれ立った気分をもしっかりと塗りかえてくれるようだ。

 気分をかえると言えば、「発想の転換」という言葉をしばしば聞く。閉塞感が漂う時代環境にあっては、誰もが倦怠感に滲む眼前の光景を、部屋の壁紙を張り替えるようにチェンジしたいと思うのであろう。その衝動が、その言葉の足元に潜んでいるような気がしたりする。
 とは言っても、長年なじんでしまった自身の「発想」はそう簡単に変化させられるものではないというのが実情だろう。壁紙や、あるいは照度が落ちてきた蛍光灯のサークル・ランプのように、物理的処理で取り替えられたらどんなにか晴れ晴れすることだろうかと思ってしまう。

 ニ、三日前に、ウォーキング・コースの途中の家にご不幸があった。民家のような佇まいながら碁会所を営んでいる家であったので、かねてから印象深かった家だ。最近の葬儀は自宅では行なわないことが多いはずなので、昔ながらの運びに、通りすがりながら目が向いたのだった。
 ふと考えたことは、思えば現代生活からは、人間の根源的条件のひとつである死がことごとく隠蔽されてしまったという事実なのである。葬儀も生活の場から離されたし、臨終の場もほとんどの場合が病院ということになってしまった。その理屈はわからないわけではない。だが、その現代風の扱いによって、われわれ現代人が精神のよすがというものをとらえそこなってしまっているのではないかと、そう危惧したのだった。死という、人間にとっての厳粛な事実があるからこそ、人は心の視座を得ることができるのではないかと想像している。忌むべきこととされている人の死は、実は人を人たらしめるための基点的な事実だと感じている。

 話を「発想の転換」に戻すならば、今必要な発想や視点の「転換」とは、モノのデザインのあれがいいかこれがいいかという水平的な選択間の「転換」ではないように思っている。いや、そんなことは「転換」などではなくて、気まぐれに属することではないかと思う。そのことによって変わることがほとんど何もないと思われるからである。
 勝手なイメージなのであるが、「発想の転換」とは、「層(レイヤー)」の移動であるような気がしている。地上界と天界とまで言えば責任の持てない話となってしまうが、少なくとも、ごみごみとした街の地平から、展望のよい高台に登ってみるくらいの垂直的移動によってもたらされるものではないか、とのイメージがある。

 しばしば、ビジネスジャンルでは次のようなことが言われたりする。
 問題解決でてこずる際には、問題設定の地平を一段上位に上げてみると視界が広がってくる、と。たとえば、店舗の売上が伸び悩み、改善策も出尽くしてしまったとする。その時、「店舗の売上増進」というテーマは、より上位のテーマであるはずの「会社全体の収益向上」という「層」に含めて考え直すということなのである。そうすれば、「店舗販売」という固定観念で思考停止となっていた発想の視界が、自然に広がる可能性があるということなのだ。「出前」とか「通販」というような条件変更の可能性が見えてきたりするのも、その結果だと思われる。

 最近、現状の矛盾深まる世相を前にして、新しい風潮も生まれてきているようだ。もっとも、「発想の転換」なしの従前どおりの視点は、あいかわらず「景気回復はいつ? どうやって?」の問いに膠着しているはずだ。
 しかし、もう片方で、「発想」の「層」をさわやかに上位シフトさせて、「生きる豊かさとは何? それはどうやって?」と問い、文字どおりの発想の転換を進めようとしている人々も増えつつあるようだ。そこでは、健康の問題が重視されたり、自然が見直されたり、人と人との関係が凝視されたり、そして死の問題についてもはぐらかすことのない自然な眼差しで見つめることなどがなされているに違いないと思われるのだ…… (2003.09.05)


 最近、「そこまでやるか」と憤らされることに、農家から果物や野菜を「こっそり」とではなく「ごっそり」と盗み出す泥棒が頻発していることがあげられる。どんな泥棒も許せないことにかわりはないが、農家の人たちが丹精こめて育てたものを持ち去る泥棒たちは、血も涙もない悪党だと罵りたい。
 それにしても、凶悪犯罪や強盗に、暴力事件に性犯罪と、毎日の新聞やニュースで伝えられる犯罪は目もあてられないひどさである。

 なぜこんなに? という疑問が当然のごとく生じる。分析的に考えればさまざまな原因や背景を取り上げることができるかと思う。
 そんなひとつに、不況による貧困化を原因として並べることも不可能ではないかもしれない。だが、あえてこれについては脇に退けたいと思っている。経済情勢の悪化の影響を受け、生活苦に陥れられた人々は多数いるはずである。そんな人々がこぞって犯罪に走っているわけでは決してないからである。犯罪者たちは、生活苦にある人々の絶対数からすれば、ごく限られた比率でしかないだろう。しかも、昨今の犯罪者たちは、生活苦とは無縁な者たちも少なくないと思われる。

 多発する犯罪に限ったことではないと思われるのだが、犯罪、種々のトラブル、そして日常生活での不快な出来事などの背景には、何か「失われてしまったもの」があるような気がするのである。誠実さ、人情、親切心、大らかさなどなども失われたに違いない。
 そんな中で、自分を含む現状の世の中を見渡して、ことさらに強い喪失感を感じるのは「こらえ性、我慢すること、忍耐心」の喪失なのである。
 こうした言い方をすると「古臭い」発想だという人も少なくないはずだが、むしろそういう風潮が広がっているほどに、忍耐することの価値が目減りさせられてしまった、と言うべきなのかもしれない。
 戦後一貫して継続してきた右肩上がりの日本経済の成長、そしてバブル経済、いやもっと本筋的に表現するならば、モノへの欲望を肥大化させることによって成長を遂げてきた高度資本主義社会は、片時も人々の欲望への刺激を途絶えさせたことはなかった、ということである。成長し続ける人々の消費欲こそが、経済成長の大前提であったからだ。だから、消費欲を刺激してきたのは、単にCMだけではなく、文化全体が消費文明を支援する役割りを遂行してきたのだと言って差し支えないだろう。われわれは、まさしく消費文化と手を携えてここまで歩んできたと言っていいのだろう。

 物質的な貧困を克服する経済発展のためには、「我慢すること」はむしろ消極的な姿勢、いやうしろ向きの悪い姿勢だと主張せざるをえなかったはずである。欲すること、それを強く自覚して追い求めることこそがあたらしい生活姿勢として称賛されたのだった。
 戦前に「欲しがりません勝つまでは!」という窮乏生活を強いられた人々は、勝ったわけでもないにもかかわらず、戦後から今日に至る半世紀を、もっぱら「欲しがる」姿勢を解放し、強化することに努めてきたのかもしれない。そこでは、「我慢すること」は、まるで水子のように不問に付されたのかもしれない。「失われた」と言うべきか、「捨てた」と言うべきかが定かではない扱いだったのであろう。

 本来は、「こらえ性、我慢すること、忍耐心」などは、単にモノだけに向けられたものではなく、人間の心や精神を育み、強化する重要な要素であったはずではなかろうか。どんなに科学技術が高度となっても、人間とその世界の有限性を無限に変えることができない以上、人間の根源的条件のひとつであるに違いない「我慢すること」を消去することはできない。
 いや、もし「我慢すること」を不必要とする世界ができた時、世界は楽園となると同時に、人間の心や精神そのものが消滅することになるのだろうと想像する。

 現在、目の前で、いや自身も含めなければならないので、目の内側でも生じているさまざまな人間界の不具合は、つまるところ「我慢すること」を希薄にさせてしまったことに起因しているのではないかと感じている。言い方をかえれば、「我慢すること」を希薄にさせたその分、人間が心や精神という元来不可欠なものを放棄し始めたからだと言えそうな気がする。そう言えば、「動物化する……」という表現を思い起こすし、われわれは現にそういう表現に値するかのような世情を見聞しているのではないだろうか…… (2003.09.06)


 子供が親の血をひくというのは当然のことだ。
 自分も両親の遺伝子をしっかりと継承していると思うことがある。顔や身体つきはすぐに実感できる。が、気性となると、概ね父母のどちらに近いかはわかっても、手にとるようにはわからない。「混在」しているような自覚がないわけではなかったりする。
 もっとも、気性や性格となると、誰にとっても自身のそれらを分析的に自覚すること自体がそう簡単なことではないかもしれない。他人の性格なら、対象として外にあるだけにわかりやすい気もするし、他人事ということもあってか、まあ気楽に決めつけたりするのが常なのだろう。そこへいくと、自身の気性や性格というものは、客観視しにくいのに加えて、欲目もあったりでとかく自覚しにくいものなのだろうか。

 自分は、身体つきと同様にどちらかと言えば母方の血が濃いのではないかと感じてきた。血液型も母と同じである。楽観的、外交的で、どちらかと言えば大雑把な性格なのだろう。だが、必ずしもそうではない部分をしばしば気づくことも少なくないのが実情だと言える。
 独り暗闇に沈潜していくことを妨げない「ネクラ」的な自分を見つける時がないではない。沈む気分に身をまかせて、悲観に明け暮れることもないではない。そんな時、母親の「ネアカ」丸出しの立ち振る舞いを思い起こすと、亡父の遺伝子継承なのかと父には悪いが想像してしまうこともあるのだ。
 亡父は、「大人しくて誠実そうな……」という定評があった。確かに、開けっ広げで、うるさいほどの母親に較べるとそうした評価に落ち着くはずである。が、多少辛らつな口調で言うならば、母親が楽観的タイプだとすれば、亡父はやはり悲観的タイプだということになるだろう。「押してもダメなら引いてみな!」ふうの母親の挙動に対して、「押しても引いてもダメなものはダメ!」というのが亡父の悲観性であったかもしれない。

 人間、気分は常に一様であるわけはなく、舞い上がる時があれば沈む時もあるはずだ。だから、性格を一色に塗りつぶして確定してしまうのは粗雑過ぎる判断なのではあろう。いろいろな側面を持っているというのが、誰にとっても真実なのかもしれない。
 それにしても、自分を振り返る時、楽観と悲観が目まぐるしく入れ替わってきたような印象を記憶として持っている。わかりやすく言えば、「躁」的気分と「鬱」的気分とが小刻みに現れては消えるといったありさまだったかもしれない。良くない性格だとつくづく思う。若い頃などは、家内から突然言われたものだった。
「まるで、剣山(華道用具)のよう」と。針先のピークがあるかと思えば、基盤のボトムがあり、そのピッチが小刻み過ぎるということのようだった。
 思うに、父親の遺伝子と母親の遺伝子が、うまく混ざらずに小麦粉を溶いた際にできる「だま」のようになってしまっているのでは、と思い描いたこともあった。

 小麦粉「だま」などどうでもいいのだが、最近自覚することは、「悲観的」気分、「鬱」的気分の「だま」が、(頻出英単語ではなく)頻出することなのである。世の中、不況やその他の袋小路のような状況で、誰もが暗くなり、運の悪い人は「うつ病」にまでなってしまうようだから、自然といえば自然なのかもしれない。
 ただ、こんな時期だからこそ、楽観的とは言わないまでも「非」悲観的な言動に終始したいと望むのである。もともとが天邪鬼で、他人が舞い上がっている時には醒めていたいと思うタイプなので、みんなが落ち込んでいる際には、うそでも明朗快活でありたいと願ってしまうのだろう。周囲の人たちから浮き上がらない程度に明るくあって、暗い世間の一角をいくらかでも照らせればと……

 真実を言えば、この暗い世相、社会が鉄の足枷を足元にはめられているような重っ苦しい時代をこそ改革することが本命だとは思う。それ以外は自己満足のまやかしとなってしまいそうだ。たとえば町内の人々の気分だけでも明るくなればと有志一同で計画するような「何とか元気大会」なんぞをぶち上げたって、あまり意味はないようにも感じたりする。できれば単に雰囲気が明るくなるだけではなく、本当の希望が生まれてくるような世直しが必要なはずなのである。
 だが、現状は、世直しをする元気すら萎み始めているのが実態のようにも見えるのが怖い。とすれば、まるで「卵が先か鶏が先か」の問いではないが、いっさいが始まらない「出口なし」のごとき最悪を想像させられたりもするのだ。
 そこで、もはやこうなれば明朗さなり元気なりを「自家生成する」しかなかろう、とそんなやむにやまれない思いがこみ上げてきたのであった。
 しかし、どうやって「悲観的」気分、「鬱」的気分を一掃すればいいのだろう? 「抗鬱治療薬」を服用するような、取ってつけたような方法、たとえば安直な「お笑い」などに期待してはいけない。ペットなどの「癒し系」に期待するのも悪くはないが王道ではないような気がする。さてさて、ここが重要な課題である…… (2003.09.07)


 「コア・コンピタンス(core competence)」経営の必要性、重要性が叫ばれている。
企業が持つ独自の強みや、他社にマネできない技術、事業、商品を持ち、経営資源を集中投下することによって、競合他社との差別化を生む、という経営戦略のことだ。
 そんなことは当たり前と言えば当たり前のことであり、これは企業に限らず、競争原理が濃厚となってきた現代社会に生きる者が大なり小なり意識せざるをえない行動原理だと言えるのかもしれない。

 より小さく絞り込まれたターゲットに、限定された能力を集中投下することは、言うまでも無く効果的な結果を期待することができる。この点がこの戦略の眼目だと思われるが、そうした対外的な効果もさることながら、同時に組織にせよ一個人にせよ内部のパワーが集中することのメリットに注目したい気がしている。
 あらゆるモノが多様化し豊饒であることを現代の特徴のひとつとしてあげることができようが、それは同時に「拡散」するという副作用を伴わずにはおかないはずだ。つまり、有限のパワーを多くの対象に「拡散」させれば当然それらの「収穫」が期待薄となるからだ。

 特に一個人の意識の上では、拡大し続ける視野が、集中、凝集されたパワーの出力を妨げる結果を招きがちとなるのは容易に想像できるところである。広く浅く気が散ってしまい、いずれも「帯に短し!」にとどまってしまうということだ。
 何も、こうした仕組みは、成果の良し悪し、大小がシビァに問われるビジネス領域だけの問題でもなさそうである。
 しばしば、注目される問題に、現代の青少年たちの「やる気」や、それとつながった「職業選択」の問題も、多様化現象の中での意識の「拡散」という見方で考えてみることができるのではなかろうか。増えつづける「フリーター」現象は、他の原因もあろうが、就労イメージの「拡散」と、収束し切れない意識という見方も可能ではなかろうか。一頃の「モラトリアム」現象の延長線なのだろう。

 もとより現代の「病状」のひとつに「情報アパシー」(過剰な情報が逆に情報への関心それ自体を減退させてしまうこと)が指摘されてきた。要するに、個々人の情報処理能力が過剰な情報によってオーバーフローを引き起こし、情報への拒絶反応さえ引き起こすのだと言える。
 人間の知的関心(情報への関心)は、「知りたがり」の言葉が示すように拡大し続ける「遠心力」のように広がってゆくものであろう。しかし、「遠心力」は常に「求心力」とのバランスによって正常化されているはずだ。「求心力」の失われた「遠心力」は、物体を行方知らずの放逸へと誘うことになる。

 現代は、文字通り「遠心力」に誘われるごとくあらゆるものが広がり続けているようだ。(グローバリズム!)こうした「遠心力」現象がどのように収束されるのか、制御されるのかはわからない。
 だが、微細な有限性によって閉じた条件づけをされている人間個々人は、「遠心力」だけに身を任すことはできない存在ではないかと考えている。「求心力」に値する何かによってこそ、能力も発揮されるだろうし、充足感も得られるだろうし、生き甲斐という現代人が手放しかけている貴重なものを奪還できるのではなかろうか。
 さしあたって、自分の身丈と相応なターゲットを明確にすることに努めたい。そしてそれに自身の能力すべての体重をかけること…… (2003.09.08)


 久しぶりに昨日は、都心は神田に出向くことになった。
 仕事の打ち合わせがあり、JR神田駅で降りたのだった。神田、御茶ノ水界隈は、大学時代には表も裏も(?)慣れ親しんだ空間である。また学生当時、駅前に祖父の古ビルがあり、しばしば立ち寄ったこともこの地域に親しげな印象が残る理由なのであろう。
 当時からそうであったが、今なお駅周辺の猥雑さには目を白黒させられてしまう。若い時分は、そうした雰囲気がこれまた何がしかの血を騒がせる向きもないではなかったはずだ。だが、この歳となると、いやおそらくは歳のせいではないかもしれない、昨今ははっきりと自覚している「自然への憧憬」の、その裏返しである「自然の欠如」以外ではない目の前の光景から、ひどく居心地の悪さを感じさせられたのだった。

 予定時間にまだ間があったため、あの祖父の古ビルの場所がどうなっているのかを、ちょっと確認してみたい衝動に駆られた。といっても、もはやその古ビルはあるはずがなかった。もう十年以上も以前に、新幹線路線の拡張用地としてJRに買い上げられてしまったからである。そして、その祖父ももういない。残されたのは、今なお続くその補償金などをめぐる遺産相続に関する骨肉の争いがひとつと、その時遠く目に入った新幹線高架下に新設された代替の窮屈な建物であった。「あそこに、あの古ビルがあったんだなあ……」とまるで浦島太郎のような心境になっていた。

 当時、自分はその神田駅で降りたり、御茶ノ水駅で下車したりして大学に通ったものだった。もっとも、入学したその年から荒れ狂った学園紛争で、校舎が「ロックアウト」されたり「閉鎖」されたりして、四年間の半分近くは通うことが意味をなさなかったのではある。
 この神田、御茶ノ水界隈に親しみを感じていたのは、この地域が古本屋街であるだけではなく、学生街と言えるほどに多くの大学が集中し、学生たちを客とする一連の店が建ち並んでいたからかもしれない。どことなく、ビジネス街とは異なる寛容さが感じられたというか、杓子定規さが希薄なような印象を受けとめていた。いつまでも粘っていても差し支えないような喫茶店が溢れてもいたし、商売にならなくてもいいといえばいいというような書店や、裏通りの出版社などもあったような気がする。

 多分、バブル期の地価高騰を契機に、この地域からも「のんびり」とした住人たちは追い出されてしまったのであろう。高い地価に相当する稼ぎをあげなくてはならないという都心の非情な道理が、街並み全体をピリピリとした経済論理一色に塗りつぶしてしまったのだろうか。
 そう言えば、立錐の余地なく建ち並ぶ高架線下の店々なども、日々の稼ぎを得ることだけを意識して肘をぶつけ合っている様にも見える。「歩行喫煙禁止」地区に指定されたからでもないだろうが、歩行者たちもすべからく「行儀」がよくなり、その分「管理対象」としての従順さ、去勢された大人しさにすっかり落ち着いてしまっているようにも見える。もうこの街では、何ひとつ「ハプニング」など起こりようがないんだ、という思いがふと頭をよぎったりした。
 計算と管理によって路地の隅々までが照らし出されてしまい、小さな計算間違いをも許容しない非寛容さが雑草一房の生えることも許さない、そんな空間が現在の都心の街のスタンダードになってしまったということだ。
 かつて、都市とは若者たちの空間と見なされたが、今はまさしく狡猾な容貌に姿を変えた「資本」が、零コンマ二桁までをにらんで身じろぎをする空間に変貌し尽くした観がある。

 何を青臭いことを言っている自分かと自覚しないわけでもない。が、もはや都市は自分の生きる場ではなくなってしまったというわがままな気分がジワリと胸を満たすのを感ぜずにはいられなかった…… (2003.09.09)


 中学生当時の話である。当時ちょっと関心を持った先輩がいたのだが、人づてにこんな話を聞いたことがあった。
 授業中に先生から質問された際に、次のような返答をしたのだという。
「すみません。その問題はわかりませんので、別の問題を出していただけませんか?」と。
 何とも人を食った対応なのだが、当時の自分は「さすが先輩だ!」と感服したものだった。普通ならば、「わかりません」と言って屈辱的に座るはずのところであろう。そこを切り返してねばったその余裕、根性、いや何よりも慣習や形式をものともせずに実質的な人間関係を追及したと思われる点がエライ! と感じたのだった。別の問題もまたまたわからなかったらどうしたのだろうか、と考えないわけでもなかったが、たぶん彼のことだから正答できるまで同じことを繰り返したに違いない。

 今になって思い起こしても、その彼の対応は一理あると思わざるをえない。
 教師と生徒との関係は、決して裁くものと裁かれるものとの関係であるわけがない。また授業という場は、教師と生徒とがともに学ぶ場であり、その目的に向けて両者間の対話(そう! 対話なのだ)は柔軟に展開されて然るべきであろう。仮に、教育・学習の成果を確認するテストだったとしても、同じことであろう。本来ならば、「視力検査」のように、検査側・出題側が、一段上のより大きな「欠けたわっか」を指して、「じゃあ、これはどうですか?」と対応してもいいくらいだからである。
 生徒への「質問」を、場合によってはその結果生徒に屈辱感のみを与えてしまうかもしれないことを無造作に行なっていた教師側の能天気さに対する、あっても当然な対応を彼はしたというべきなのではなかろうか。

 しかし、こうした視点で振り返るならば、これまでの(受験)教育の一切が「裁くための教育」であったとしか言いようがないのかもしれない。指導側が、まさに「一段高い教壇」に立ち、「できが悪い」「たちが悪い」と決めつけられた生徒たちを「裁きながら教える」というのが実態ではなかったかと思える。
 そして、これを成立させていたのが何あろう「答はひとつ!」という「神話」だったのではなかろうか。ちょっとでもものを考える人であれば、疑問や質問に対する答えは、いつも決して一様ではないことを自覚できているはずである。複数の答えが出てくるからこそ、人の世は苦しくもあり、楽しくもあるはずなのだ。
 それを、まるで参加視聴者より先にシナリオを見ているからこそ知ったかぶりの振舞いができるテレビ番組の"みのもんた"じゃあるまいし、「ひとつの答」が絶対だとするお膳立てがあるからこそ「お裁き」に似た授業が進められたのではなかろうか。水戸黄門の「ええーい、静まれぇー。この印籠が目にはいらぬかー」ではないが、「ひとつの答」という「葵の御紋の印籠」があったればこその授業成立だったのかもしれない。

 いまだに、「葵の御紋の印籠」という「ひとつの答」主義をテコにした指導や教育が尾を引いていることは、多くの人が憂えるところだろう。いや「尾を引いている」どころではないかもしれない。
 個性だ、創造性だと言われながらも、結局「ひとつの答」探し術になだれ込んでしまっていると見える学校教育をはじめとして、ビジネス界でも既存の売れているモノ、人気のあるモノを「ひとつの答」として信じ込むうねりも何ひとつ変わっていない。腐っても自民党という風潮にあるのも、あるいは「ひとつの答」教の信者が多い結果なのに違いない。その自民党でさえ、派閥主義という従来からの「ひとつの答」が消しゴムで消されかかっているようだ。
 もとより、そんなはずがありようのない「神話」としての「ひとつの答」幻想が、あちこちでそのメッキを剥がし始めているかに思われる。

 ともかく、先生にせよ、政治家にせよ(これもセンセイか)、システム関係者にせよ、営業マンにせよ、NHKにせよ、もちろん"みのもんた"、"水戸黄門"にせよ、要するに人をどうにかしたいと思う者たちは、相変わらず、そして今後も引き続いて「答はひとつ!」を布教し続けるに違いないはずだ。ただ、それは彼らだけの責任ではない。「答はひとつ!」であることを切に望んでしまう人たち、「ひとつの答」の隠れ信者たちがとにかく多いからだと言うべきなのだと思う。

 冒頭の"彼"は、今現在何を考えているのだろう? ひょっとしたら、その"彼"のことだからこの世界の創造主に向かって次のようにほざいているのかもしれない。
「すみません。現行の世界はどうも行き止まりのようなので、別の世界を提示していただけませんか?」と…… (2003.09.10)


 毎日こうして文章を書き綴っているとネタが尽きそうになってしまう。
 そして、いざ何を書こうかと「構えて」しまうと、もういけない。そんな時には、頭の中が「在庫払底」状態になっているからこそ「構えて」しまうはずなのであろう。なのに「構えて」しまうと、ガラーンとした倉庫をしつっこくもくまなく探そうとするからなおいけないのだ。中身が無いと知りつつも財布の中を覗き込むような空しさやら、何もないにもかかわらずどう見つけるかという道理に合わない無茶苦茶な思いやら、時間だけがどんどん過ぎてゆくことへのいらだちやらと、何とも不毛な渦に巻き込まれてしまうことになる。で、藁をも掴む気分で、どうでもいいような些事(さじ)に飛びつくことになったりする。

 自分がウォーキングを日課としているためか、軽装で歩いている人を見るとつい注目してしまう。
 その人の印象が残ったのは、一言でいえば「アンバランス」ということになる。(以降、この方のことを「アンバ・ウォーカー」と呼ぶこととする)何がといって、頭部とその下の身なりが何とも不釣合いに見えたのだ。首から下の身なりはそれはそれで見慣れたコンビネーションであった。膝あたりまでのダボダボのショートパンツに、ゆったりとしたTシャツをかぶり、その裾は「ダラシナク」というか「昨今では普通」となってしまった「垂れ流し」風なのである。

 この、シャツの「垂れ流し」風(註.「着流し」とは似て非なることを強調!)の着込みに関しては一言言っておこう。自分は、相変わらずシャツの裾はズボンの中に仕舞う「大原則」を堅持しているからだ。それはあたかも、社民党・共産党における「護憲」姿勢の堅さに等しいといえよう。断じてシャツの裾はひらつかせることなかれ! と土井氏や志位氏のような厳格な口調で申し述べなければならない。理由はといえば、……特にない。単に「ダラシナク」感じるから以外のなにものでもない。ただ、セーターやジャケットや、ブレザーなどの裾まで、ズボンの内に仕舞うべきだなどという慎太郎知事のような暴言を吐くつもりはないが、シャツの類については「内装」して然るべきだと堅く信じているのである。
 仮に、サラリーマンがスーツの下のワイシャツを「垂れ流し」風に着込み始めたらどうであろうか。後ろ姿のスーツの上着の下にワイシャツの尻尾がのぞいているのもゲンナリであるが、オフィス街の昼どきに、大勢のサラリーマンが、まるで「今トイレから出てきた」ような「垂れ流し」風の恰好で闊歩していたら、恐らく、自分は気が狂ってしまうに違いないと思う。

 それはそうと、「アンバ・ウォーカー」氏の件である。もし、その姿が、街路樹の枝かなんかで首から下しか見えなかったとしたら、自分はことさら記憶にとどめることはなかったはずである。問題は、頭部、いや厳密に言えばその「お顔つき」にあった。
 その際にも思ったのだが、その頭部に似つかわしい衣装を、そう、子供の頃の雑誌の付録にあった「着せ替え人形」のいろいろな衣装から選ぶとすれば、断然「軍服」であっただろう。しかも、その胸にはパッチワークでできたマットのような勲章セットを付けた軍服でなければならない。
 心もち涼しげな頭髪をきちんと整備して、その後頭部を敵にさらすまいとするかのように後ろに引き、その分顔が上向き加減となり、決して足元なんぞ見ないぞと言わぬばかりに視線は遠方に投げている…… 要するに、常日頃「威厳」を誇張することに慣れていると思しきそんな「お顔つき」なのである。もちろん、歩く素振りは「お顔つき」の「威厳」を損なわぬ「エラソウナ」一挙手一投足と映ったものだった。
 そんな「お顔つき」と動作が、何ともラフ過ぎる身なりと見事なほどの「アンバランス」をかもし出していた、というだけの話なのである。

 ただ、根っから「考え過ぎ」のきらいのある自分には、その光景がなぜか暗示的なイメージに思えたのだった。現代の大人たちは、ファッションや言辞という安易にまとえるものはホイホイとまとって装いながら時代へと迎合していくが、長年の中身の古さはどうしようもないのかなあ、と…… (2003.09.11)


 「構造改革」で改革されるべき構造が、公的な行財政の組織・制度だけでないことは誰もがわかっている。経済の実質である民間企業の、その組織・制度、そして体質に残された非合理的な残渣(ざんさ)もまた、「構造改革」という時代のうねりの過程で塗り替えられていく必要があるはずだろう。
 これらがあいまって推進されてこそ、国際競争力も高まり、「構造改革」を掲げたことの意味が表れるのだと思われる。
 ところが、現状の「構造改革」がきわめて「跛行(はこう。釣合のとれないこと)」的にしか進んでいないことは、マクロ・レベルからミクロ・レベルまで共通しているといえるのではなかろうか。行財政分野の改革もお粗末だが、民間企業とて、形だけの改革を推し進めているように見える。つまり、過剰人員の削減だとされる「リストラ」と、「ITインフラ」の整備だけが先行する動きである。
 本来の「リストラ」、つまり「リストラクチャリング」(M.ハマー)とは、文字通り「構造改革」であったし、市場・顧客への最短距離を目指した仕事の流れをねらった組織・制度の抜本的改革であったはずだ。むしろ人員削減は、そのひとつの結果でしかなかったはずであり、仕事の進め方をもドラスティックに改革する考え方であったと思う。そこでは当然「職務権限」の見直しもなされなければならないだろうし、それに伴っていわゆる「人事考課」制度の見直しもなされなければならなかったはずであろう。

 確かに、バブル崩壊後の1990年代に入って、従来からの日本企業の人事制度慣例であった「年功序列」(加えて「終身雇用」)は急速に否定的なニュアンスで受けとめられるようになっていった。そして、その代わりに「能力主義」「実力主義」「成果主義」という実質本位の評価制度が注目されるようになったといえよう。
 当然といえば当然の推移であったはずだ。ただ、「集団主義」的な職場組織を特徴としてきた日本企業のこれまでの体質の克服の問題や、人事評価の難しさという問題などは、じっくりと煮詰められたというよりは、持ち越され見切り発車したというのが実情であったかもしれない。が、ともかく「成果主義」的「人事考課」制度が歓迎されていくこととなった。たとえそこに、人員削減や人件費削減推進の露払い的な意味合いの動機が見え隠れしていたとしてもである。

 で、現時点での実情なのであるが、どうも「成果主義の崩壊」という判断が広がりつつあるという。少なくとも、「日本企業は成果主義のツールをうまく使いこなせていない」ということになるらしい。(「成果主義の『崩壊』 給料と直結やめた1部上場企業も」『AERA』:2003年08月29日号)
 すでに、早い時期に「成果主義」的人事考課制度を実施して短期間でそれを見直し、撤回してしまった富士通の例は、記憶に新しい。目標管理による成果主義を進めた結果、「社員がチャレンジングな目標に取り組まなくなった」「短期的な目標ばかりが重視され、長期的な目標が軽んじられている」などの弊害が生じたからだとされる。
 同レポートによると、目標管理による成果主義の制度は、「そもそも年功序列を打破するために成果主義を入れたのに、その運用が依然として年功序列を引きずったものになっている」=「運用の形骸化」と、そして成果の評価をめぐる不透明さなどの「運用への鬱積する不満」によって、すでに「崩壊」過程にある、とされているのである。

 こうした事態をどう考えればよいのか、ということだ。
 先ず、「運用」のまずさという表現に当然目が向く。そこには、「成果主義」としての原理の正しさらしさへの、あるいはそうした原理以外には代替物が考えられない、という思いが込められているようだ。
 確かに、「成果主義」だから当然のこと「結果」重視がクローズアップすることになり、「結果」だけではなく「プロセス」評価も、という原理補足的な見方もある。ただ、その場合、何をもって「プロセス」評価を行なうのかというまたまた難問が発生するのが避けられない。下手をすれば、従前の「結果はともかく、本人も努力してがんばったのだから……」という主観的情実主義という非合理な泥沼をなしとはしないことになってしまう危険もあろう。それこそ、原理の骨抜きとなるのかもしれない。

 同レポートには、被考課者たちを含めた生の声も掲載されていたが、それを読むと、どうも「成果主義」という原理がどうこうというよりも、その原理が制度の仕組みの中にうまく展開されているのだろうか、という疑問や、上記のとおりの「運用」の不備などを見ないわけにはいかなかった。
 もし、そうした実態をもって、原理そのものをコロコロと取り替えていくとするならば、その朝令暮改的な企業姿勢自体が果てしない混乱を増幅していくのではないか、と感じたものだった。

 ところで、同レポートの末尾にて、「コンピテンシー」(「高業績者の行動特性」のことで、これによってプロセスを評価する。要するに、できる社員から仕事の進め方など具体的な「行動」の特徴を聞き取って文書化し、皆でその「行動」を見習おうというもの)という評価手法が着目されていた。
 私の見るところ、主観化されやすい評価基準の客観的具体化に資する手法だと思われたが、そんなことならば、私がかつて設計した『ソフトウェア技術者のための人事考課』は、まさしくその発想をコアとしていたことを思い起こした。
 そう思うと、「空白の十年」はマクロな経済だけではなく、企業の人事考課制度についても同様であったのかと感慨にふけることとなったりした…… (2003.09.12)


「廣瀬さんは変わらないですよ。だけど、みんな変わっちゃった。△△にしても、□□も変わっちゃって別人のようになった。廣瀬さんは変わらないなあ」
「器用じゃないっていうだけのことですよ」
 前回会ったのがいつだったかの記憶が薄れるほどに、Nさんとの対面は久しぶりであった。数年は経っていただろう。確か、数年前の折りにもその前に会った時から数年の時間が流れていたかもしれない。さらにその前も……。手紙や電話では時々連絡しあってはいたが、会うのは数年に一回という結果が続いたのである。

 突然に事務所に電話が入り、そこで約束した時刻をも待ちきれなかったかのようにNさんは訪れたのであった。前回会った際の印象とは大分異なっていたため、Nさんのイメージと目の前の人物とを結びつけるのに若干の戸惑いがあった。
 声やその口調はまがいもなくNさんであったが、目の前の人物はラフな恰好をしていたこともあり、街ですれ違う小太りなおじさん以外ではなかった。髪を短く刈り込んでいたこともそんな印象に拍車をかけた。

 Nさんとの出会いは、確か会社を設立した当時であった。電話でアポをとり、設立間もないごたごたした事務所を訪問してくれたはずだ。
 彼はその時、長年勤めた外資系の最大手コンピュータ会社を辞め、一旗あげようとして、さしあたってはコンサルティングをしていたようだった。そして、当社が、ソフト開発業務と平行して関与していたソフトウェア技術者向けの人事考課システムに関心を持たれたのだった。ちょうど顧客であるソフト会社からの依頼で人事考課制度の検討と提案に直面していたとかであったかと思う。後日談では、その時の当社から入手したシステムを顧客に提案したところ、大変喜ばれ、Nさんのわたしに対する関心は深まったのだと言っておられた。Nさんも、ソフトウェア技術者という新しい人材に対する人事考課制度というテーマにかねてから興味を抱いていたとかを聞かされた覚えがある。

 その後、しばらく、数年くらいであったか、音信が途絶えていた。そして、再会したのは、Windows95の発売によって一般庶民のパソコン熱の高まりをにらんで、われわれが「Dos/V」ショップというパソコン・ショップを開店した時であったはずだ。 関係者への開店通知のはがきを見たNさんは、ショップにとんできたのだった。その際の彼の開口第一声は次のようだったと記憶している。
「どうして廣瀬さんは、私がやりたいと目論んでいることを先手先手でやっちゃうのかなあ。技術者考課然り、そしてパソコン・ショップ然りですよ……」
 だが、検討中であり着手間近だと言っていたNさんのショップの開店通知はその後いつになっても届かなかった。届いた知らせは、しばらくいろいろと思索を深めるために海外生活をしてみる、という私からすれば何とも羨ましい話であった。

 その後の関係は、年賀状のやり取りとそれを契機とした電話による相互の状況報告といったところだっただろう。最新情報では、どうしたことか東京から離れた近県に在住しているとのことであった。もう、ニ、三ヶ月前であっただろうか、ソフト関連の仕事がらみでその地域に近い企業が技術者を必要としているとの情報を聞いた際に、唐突にもこちらから連絡を入れたことがあった。多分、時期もこんな景気の時期であり、おまけに「地方」という条件では彼の動きも封じ込められているやに想像したからである。
 その話は結局実ることはなかった。だが、今回の私の事務所へのNさんの訪問はそれがきっかけとなっていたと言えるのだろう。

 応接室での彼との対話はあれやこれやと広がった。やや話題の焦点が定まらないふうでもあったかもしれない。
 あっという間に月日は流れ、私の記憶の中では颯爽としていたNさんも、聞いてみるとはや還暦を越したという。そして、私と出合った頃にそうであったビジネス上の「フリー」の立場が相変わらず継続しているかのようであった。
 ただ、仕事に関することでは、現在、ある分野に関するソフト作りをしているという話がやや熱の入った調子で語られた。また、食ってゆくための便法として「危険物管理」の資格を取ったとの話も聞かされた。ガソリンスタンドの管理の職にありつけるとのことらしい。もっとも、スタンド勤務は三交代制であり深夜勤務は物騒な時代だからということで、取った資格は眠っているらしいが。
 そうした取りとめない話題が続く中、Nさんは次のような言葉を口にしたのだった。
「時間もないので、率直に言ってしまうと、今日こちらへ来たのは人生相談の話を聞いてもらいたかったということになるかもしれない……」

 そうこうしているうちに、あらかじめ予定されていた次の来客の声が応接室の外から聞こえてきた。そのことはすでにNさんにも伝えてあったため、Nさんは帰り仕度を始め、そして言った。
「また寄せてもらってもいいですかね」
「もちろんいいですよ。どうぞおこしください」
 ホントにいいですか、と再度確認しながらNさんはいとまごいして立ち去ったのだった。
 形式的な仕事がらみの次の来客を迎えながら、私は、心ここにあらずといった調子でNさんの現在の立場を推し量っていた。
 正直に言えば、非常に「難しい話」だということになる。そして、その「難しさ」は現在の経済状況が生み出している部分もないではないが、やはりNさん自身が作ってしまったように思えてならなかった。
 考えてもしょうがないことではある。だがこの十数年間に、今よりもずっと可能性のあるチャンスがいくらでもあったのではなかろうか。Nさんに必要だったものは、腹を決めて一歩踏み出す実践以外の何ものでもなかっただろうと、感じざるをえなかった。
 だが、このねじれた現代の環境にあって、出口がなかなか見つけられない苦境に遭遇してしまうことは、決して他人事ではない。それは、自分をも含めた多くの者にとっての辛い現実に違いないはずだとも思わされるのだった…… (2003.09.13)


 ウォーキング復路の一部は、「旧」町田街道としている。距離の点と、比較的静かな雰囲気だということで、いつの間にか固定してしまった。
 「旧」街道は、ひと昔前には、古い民家やうっそうとした大木による木陰などもありそれなりの風情があったものだが、今では何の変哲もない舗装道路となっている。
 が、「旧」という名残がないでもない。資産を持ちこたえている旧家の化粧直しをした白壁の土蔵や塀が目に入ったり、ニ、三の古い寺もあり、境内が歴史のある桜の樹で被われている「観音堂」もそのひとつだ。

 その「観音堂」のすぐ近くに、こじんまりしたお地蔵さんが祀ってある。いつからであったかは忘れてしまったが、私は、ウォーキングの途中だということもありそのお地蔵さんを拝むようになった。別段、特別の動機があったわけでもない。しいて言えば、毎朝のウォーキング路のほとんど終わりに近い地点であったことから、「今朝も無事で済ますことができて感謝します」といったところであったかもしれない。
 早朝とはいえ、道行く人もいるため、当初は気恥ずかしい気がしないではなかった。
 しばしば、お婆さんなどが道端のお地蔵さんを拝んでいるのを目にしたりするが、お婆さんが手を合わせる姿は、それはそれで万人を納得させるものがあろう。しかし、私のような頑強な体つきの男が、スポーツウェア姿でしかも鉄アレーをもったままの恰好で拝んでいる図は、何とも他人の目からは解せないのではないかと想像してしまうのである。だからいつも、そそくさとした手の合わせ方となってしまうわけだ。

 今朝は、さらに素っ気ない拝み方となっていたはずである。それというのも、そのお地蔵さんのすぐ脇に、人が二人もいたからであった。
 私がいつものように、そのお地蔵さんが見えるところまで、汗しぶきを放ちながら歩いてきた時、その近辺で二人の人が何やら言葉を交わしていたのだった。
「そうねぇ、…… あっ、あの方に聞いてみたらいかがです?」
「あっ、ちょうどよかった」
とかが、断片的に聞こえてきた。自分に何かが振られているような気配であった。
「なんでしょうか?」
と私はやむ終えず応えていた。
 すると、なんだか瞬時には飲み込めない話が展開したのである。
 一人は、杖を持ったお婆さんであり、もうひと方は、どうも祀られたお地蔵さんの隣家の奥さんのようであり、チリトリと箒を持って周囲を掃除しているところと見えた。そしてその奥さんに、お婆さんが何かものを尋ねていたようなのである。しかも、この早朝だというのに、「お米を買いたいのだけれど、この近くにそのような店があろうか」ということのようであったのだ。
 おそらく、その奥さんも私と同様に、この時刻にお米を買いたいという、そんな話に先ず当惑してしまっていたのではなかったかと思う。ところが、ちょうど私という第三者が到来したことで、奥さんは冷静さを取り戻したのであろうか、お婆さんに再度応え直し始めたのだった。
「そうそう、セブンイレブンあたりならお米も扱ってるでしょうね。それなら、ここをまっすぐに行って……」
 それでどうも決着がついたような気配であった。

 そこで私はいつものように、お地蔵さんの前に進み軽く手を合わせた。二人の視線が気にはなったが、今日だけは省略というのも気がひけると思ったからである。すると、振り向いた時、その奥さんが機嫌良さそうな面持ちで、話しかけてくるのだった。
「『身代り』地蔵なんですよ。享保年間に作られたようです」
 その奥さんの顔は、さもそのお地蔵さんはウチがお世話させていただいているんです、と言わぬばかりに笑みをたたえていた。
 そういえば、私はうかつにもお地蔵さんの「素性」も知らずに拝んでいたのだった。この同じ街道のちょっと先にあるお地蔵さんは、確かこのあたりにかつてあった大火の後に祀られた「鎮火」の地蔵だったとかを聞いた覚えがある。なのに、毎日拝むことにした地蔵の「素性」、「専攻(?)」を何も確かめなかったのはうかつといえばうかつで、私の信心はなんともいい加減なものだと自覚せざるをえなかった。ただ、それは「縁結び」地蔵なんですよ、とか説明されないだけ良かったとホッとしたものである。そうか、じゃあ、私の無病息災を叶えてくれるということで、まんざら「窓口」違いではなかったわけだと溜飲を下げたりしている。
 それにしても、私のウォーキングには、いやだというのではないが、いろいろなお婆さんがしばしば絡んでくるものである…… (2003.09.14)


 今日は「敬老の日」である。この祝日が定まったのは1966年だそうだ。
 その当時、私は青春真っ只中であった。同様に日本の最多人口である団塊世代が、青春を謳歌するとともに、揺ぎない数の「生産年齢人口」を形成し始めたのだ。時も高度経済成長期であり、日本の将来には何の心配もないかのように展望されていた。
 六十五歳以上と定義づけられた高齢者福祉にしても、あるいは年金にしても、何の問題もないかのように受けとめられていたのだろう。少なくとも、当時のわれわれは、現在の若年世代が「老後」への不安を抱いていると言われるような意識状況にはなかった。もっとも、この現在となって、年金問題の破綻や深刻化する少子化とその経済的波及などから、今の若い世代とともに「老後」への不安を共有することになってはいる。

 今の、そして今後の日本での老人や高齢者への社会的・政治的な対応は、「敬老」などという綺麗事では済まされない事態となっていると思われる。
 そもそも「敬老」とは、現時点での老人や高齢者を、その歴史的貢献ゆえにねぎらい、敬うことであるのだろうが、それは同時に不可避的に老人となっていく全ての国民が安心して歳を重ねてゆけるひとつの保障でもあると考える。
 子供の日が、単に子供を一日楽しませるだけの日ではなく、児童憲章にふさわしい子供たちの環境づくりを改めて確認する日であると同様にである。
 確かに、現世情は、かつてのように老人を敬う姿勢をなし崩しにしてしまっているので、再度、その人生経験、社会的貢献などを再認識して、老人たちへの敬意を復権させる必要はあると思われる。
 だが、それは「敬して遠ざける」ような形式的なものであってはならない。そうではなくて、高齢者の貴重な実質をそれとして評価できる環境づくりが必要だと思うのである。
 決定的に見直しを図るべきは、生産の場も含めた高齢者の社会参加の条件整備だと思われる。各論的問題のいっさいは保留にするが、本質的な論点だけに絞りたい。
 先ず第一点は、今後の圧倒的少子化傾向にあって、しかも、海外労働力をスムーズに流入させていない日本の環境は、今後の経済の維持をまかないきれるのか、という疑問である。まして、高齢者人口が増えるということは、高齢消費者が増えるということなのであり、世代文化の異なる少数の生産人口がそうした世代のニーズにどう対応できるというのかと疑問視するのだ。
 第二点は、この点と関係しているのだが、時代はモノの時代からソフト化経済へ、さらには文化的ニーズが前面に出てくる時代へと進むのではないのか。その時、当然のごとく大量の高齢消費者の文化ニーズがクローズアップするものと思われるが、果たして、これまでの日本には、「老人文化」というものは存在してきたのだろうか?
 時代劇ドラマだ、寺社ツアーだとかいう瑣末な事象を言っているのではなく、西洋文明、東洋文明などのレベルに匹敵するようなマクロな問題として考えているのである。これまでの近代文化=西洋文明は、どちらかと言えば若者を中心イメージとした文化ではなかったかと思う。つまり、人生の前半期をターゲットとしてもっぱら「成長」をキー・コンセプトとしてきた文化だと考える。それはそれで悪くはないとしても、事の半分でしかなかったはずである。(ふと、米国における消費文化とベビー・ブーマー世代の高齢化との今後がどうなるか、という関心がよぎった)
 地球規模での資源の有限性問題が文明問題の議論のテーブルにのり始めている現代、人の生の後半期を凝視した文化が見つめられても一向に不思議ではないと思うのだ。

 相変わらず、バカなTV関係者たちは「若者向け」番組を粗製濫造し、メーカーも「若者向け」戦略を続けているように見える。それでデフレ不況が克服できるのかと訝しく思っているのだが、ひょっとしたら高齢者たちが「若者」たちの有力なスポンサー(資金を出す親)であることまで読み込んだ上での戦術なのであろうか。そうだとすれば、現高齢者たちは完全になめられていることになる。自らの固有なニーズを主張せず、子供たちのありがたがる笑顔だけが欲しい人種なのだと。
 しかし、言うまでもなく高齢者たちは固定しているわけではない。常に新しく入れ替わっている。やがて、十年もすれば団塊の世代が仲間入りすることになる。おそらく、団塊の高齢者たちは、子供の喜ぶ顔だけで満足できるそんな人種ではないだろう。その人生は紆余曲折もしたがゆえに、今までの老人とは異なった高齢期の生活を望み、ある者たちは高齢者文化なるものを作り出していくのではなかろうか…… (2003.09.15)


 阪神タイガースが独走の末に、昨日ようやく最後のマジックを消し優勝に辿り着いた。この優勝をまちわびた地元関西の阪神ファンたちの様子は連日のようにテレビをにぎわしてきた。
 出口なしのような不況下で、「どないでもしーや」というように開き直った関西人たちが、地元阪神の大勝利を我が事のように受けとめ、のめり込むのはとてもよくわかる。
 あの関西弁が「開放的」な言葉の仕掛けを内蔵しているように、関西人たちは他者への呼びかけとそれへの呼応において実に優れているのだ。関西の漫才におけるボケとツッコミのやり取りがそれを誇張して表現しているが、日常でも基本的には言葉遣いに「フック」とでも言うべき引っ掛け合いがあり、何かと絡み合い、じゃれ合うことを楽しんでいるようだ。子供ごころを、いつになっても残し続けているのだとも言える。

 阪神優勝のご祝儀で関西を持ち上げているつもりはない。しいて言えば、私自身が関西は大阪の出身であるのだから、関西びいきとなっても不思議はないということになろう。生まれて十年ほどの期間を関西弁が飛び交う世界で過ごしたのだ。幼少期の環境であったから、実期間以上の浸透度があったのかもしれない。(ただ、母親が関東は品川出身であったため、割引効果があったやもしれないが……)加えて亡父は、東京に来てからも生涯関西弁を押し通したため、私の言語中枢は確実に第二母国語としての関西弁で浸し続けられたことになる。
 もうだいぶ以前の話だが、ある保険会社系のソフト会社の合宿セミナーの講師を仰せつかった際、大阪支社のメンバーも合同での開催となり、大阪出身メンバーも合流したのだった。彼女たちが関西弁で応えたり、会話をする様子に、まるで親戚の子たちを見ているような親近感が伴ったのを覚えている。さらに、そこそこ辛い課題を設定したにもかかわらず、わいわいとじゃれ合いながら辛さを乗り越えていた姿も印象的であった。
 また、出張で大阪に出向いた際、大阪環状線の車内で自然な関西弁による和気あいあいとした会話が聞こえてきたのだった。まるで密閉してきた記憶の蓋をそっと開けたように、懐かしさがとても芳(かぐわ)しく私の胸を満たしたことも忘れられない。

 この都市化、現代化、管理化が徹頭徹尾推進された時代でありながら、頑強に不況が動かないという難しいのが今という時代である。そんな時代に、時の象徴でもあるかのような首都東京のジャイアンツが低迷し、ホットというかヒートする星野監督に率いられた難波(なにわ)チームが18年ぶりで優勝したのである。何か、時代の裏側に潜むある事実を暗示していると感じているのは私だけではないような気がしている。
 それが何かは定かではない。ただ、「勢(せい)に求めて人に責(もと)めず」(孫子兵法。戦上手は何よりもまず勢いに乗ることを重視し、一人ひとりの働きに過度の期待をかけないという意)という言葉が浮かんだりしてきた。
 そして関西人たちの、他者をねちっこく意識する言葉遣いや気性は、「勢」を掴むにあたって実に効果的であったと考えることもできようか。少なくとも、個々バラバラで苦しみながらも、醒めた涼しい顔でいることを常とする東京人たちよりも、はるかに時代に適合していたと…… (2003.09.16)


 「事実は小説よりも奇なり」と言われるが、そのとおりである。
 昨日の名古屋での「事務所ろう城爆発炎上」事件のことだ。各報道は、犯人の男が「給料支払」を催促したとの動機には触れているものの、真の動機については不明としている。また、報道された事実をもってして推測しようとしても、事件の悲惨な「結果」を説明する理解可能な「原因」がどうにものみこめない。

 一昨晩であったか、ラジオの文芸番組で、多分アンコール放送であったと思われるが、山本周五郎の『さぶ』を聞いた。濡れ衣の罪を着せられ「寄場(よせば)」送りとなった主人公「さぶ」が、娑婆(しゃば)に戻されすべての事情を知ることになった時、「さぶ」は「寄場」での人生経験を自分にとっては貴重なものだったと回顧するくだりがある。(北海道の国会議員の場合はクスリにならなかったようだが……)
 「寄場」送りとなった同類たちの事も思い起こすのだが、彼らを根っからの悪人たちとは考えず、人に騙されたり、ひどい仕打ちを受けた末に悪事に走ってしまった哀れな者たち、という表現で振り返るのである。これが、実に暖かく洞察力に富んだ山本周五郎の人間観なのだと感じさせた。

 不可解で残忍な事件が多発する現代、山本周五郎と同様に、犯罪者たちを、そうした悪事へと突き落とされた者と考えることは、はなはだ物議をかもすし、またあえて不利な立場を選ぶ結果になりかねない。TVのワイドショー出席者たちのように、鋳型で作られた安手のプラスチックの「正義のお面」をとりあえず被って、「妄想だ、狂気だ」と騒ぐべきなのであろう。少なくとも数多くの視聴者からの共感を確保するためには、決して犯行者のサイドから考えたりしてはいけない、ということになろう。
 私も、巻き添えを食らって死に至った人たちのことを思えば、犯行者を弁護する気には到底なれないでいる。だが、そのことと、原因への考察を封じ込めてしまうこととは別だと認識している。一つひとつの凶悪な犯罪を「特異体質者」の手による犯行と決めつけてしまうことほど、安直に人々からの共感を得る説明はなかろう。だが、この説明は決して再発を防ぐ力にはなり得ないことを承知しなくてはならないのだ。

 ところで、私は、犯罪の原因を一律に世の中のせいにしたり、社会の不合理に原因を還元したりする発想をあまり好まない。というのも、所詮社会なんていうものは…… というほどに社会正義に諦めを抱いているわけではないにしても、「九十点、合格!」といえるような社会など安易に想像しようがないからである。
 ただ、現時点の社会と世界が、半端でない異常な方向へ驀進していることだけは目をそらせたくないと思っている。世界で起きている「自爆テロ」は言うにおよばず、現在の国内の犯罪も、次第に「自爆」的というか「自暴自棄」の色彩が濃厚になっているのかもしれないと感じるのだ。
 今回の名古屋での事件では、給与の振込み云々については錯乱した考えの中でかろうじて取ってつけた体裁なのであって、当人はどうも「自爆(テロ)」を目論んだ気配があるように見える。いや、もっと穏便な表現(決して現実の事態はそうではなかったが)をするならば「無理心中」だと言えるのではなかろうか。しばしば、ガス自殺が大爆発へとエスカレートしてしまい、巻き添えの死者まで出す事件がある。その延長だとも言えないことはない。

 要するに、庶民の一部を「自暴自棄」へと追い込んでしまうような世情が気になるのである。自殺者が年に何万人も発生するような状況に対して、政府も国民もかなり無神経だという気がしてならない。希望もない状況での過酷な条件設定は、「窮鼠猫を噛む」非合理的行動を誘発するのはいつの時代も変わらないはずだ。
 今の時代が何よりも「低コスト!」を旗印にしているのなら、あらゆる犯罪の未然防止こそがどんな後付けの策よりも「低コスト」策であることを重々注目すべきだと思う…… (2003.09.17)


 この日誌について、しばしば人から「よく、そんなに書くことがありますね」と言われる。実態は、書くことが思い浮かばずに悶々とすることもあれば、書く気力が萎える時もある。さらには、ギブアップ気味で何とかかたちだけを繕い無内容な処理でうめることもないではない。だから、毎日がこんこんと湧く泉のようなものでは決してないのだ。
 ではなぜ毎日書くのかということになる。これも別に確固たる理由があるわけでもない。気が向いた時に書けばよさそうなものだ。「日誌」としているから、杓子定規に継続させているだけのことかもしれない。ただ、体調や気分の優れない場合にもとにかく書き続けてきた経緯を振り返ると、「気を失う」などの自分の意志が働かなくなった場合や、「拉致」されてしまい自由を奪われてしまった場合など、先ずありそうもない場合をのぞき、継続させたいと思ってしまう。

 実を言えば、書くこと、文章化すること自体はさほど苦にならないのだ。確かに、「良い文章」を綴りたいという願望はあり、その点を見つめるならば苦悶することになろう。しかし、中身もないところで「良い文章」を望んでも虚しいとする判断があるため、結構、書きなぐる毎日を続けている。逆に、難しいことだと痛感するのはテーマ設定の方だということになる。
 作家の井上ひさしが、素人の作文の要諦をどこかで書いていた。自分にしか書けないことを、人(他人)にわかりやすく書くことだ、と。この点は、妙に記憶に残り続けている。
 「自分にしか書けないこと」とは、自身の独自な体験であり、独自な観察であり、そしてそれらに裏づけられた自分なりの考えということになると思う。そしてこれらのうちでも、自身の全身による観察が、結構困難であるがゆえに最も重要なことだと思わざるをえない。

「いいか、――自分の勘にたよってはならない、理論や他人の説にたよってもならない、自分の経験にもたよるな、大切なのは現実に観ることだ、自分の眼で、感覚で、そこにあるものを観、そこにあるものをつかむことだ」(山本周五郎『正雪記』より)

 若い時分には、わりと素直に目の前の現実を「知りたがり屋」のように見つめ、肌身で感じたりしていたはずである。ところが、現実に対する倦怠感をも伴う年齢になると、さまざまな原因によって現実をまじまじと観察することもなく紋切り型の言辞で一刀両断に裁断しようとしがちとなっていそうである。
 現実に立脚した表現ではなく、ステロタイプ化した脳内の記号群(≒知識!)を組み合わせた表現「もどき」で、変化する現実の鮮やかさを塗りつぶしてしまいそうになる。脳内の記号群はどちらかといえば過去において固定したものであり、目の前の変化する現実をカバーし切れる道具ではないはずだと思える。リアルタイムを実践できない道具なのである。
 要するに、大人たちの通常はとかく目をつぶって歩き、そして目をつぶって仕事「もどき」をするのであり、日がな一日をそうして流してしまう。だから発見もなければ、感動もありはしない。あるのはマンネリ感と裏腹なつつがない安心感と、そして倦怠感だけだというべきか。いや、大人たちという限定ははずすべきかもしれない。現代文明は、と言って然るべきなのだろう。便利さや効率化を原理とする現代は、その時その時の個人による観察という行為を、結果的に排除しているといってよいのだろう。わたしが嫌い続けている「官僚主義」の弊害とは、まさにそうした傾向の累積の結果だと思われる。自身の眼で観察し、自身の判断を行なうことが責任の大前提だとすれば、そうした回路全体がすっぽりと抜け落ちてしまったのが、悪しき「官僚主義」の組織だからである。

 いつもそうだが、話は大袈裟となってしまった。当面のテーマは「自分にしか書けないこと」であり、それに必須な観察についてであった。
 私は、日常での自分の眼による観察を促すために、この日誌を書いているのかもしれない。今日は、どんな観察をしたのか、今日もマスメディアが垂れ流す紋切り型情報を脳内に詰め込んで事足れりとしていないか、そんな虚しいことを重ねたって人生に何も残りはしないぞ、本当に新鮮で新しい何かを生み出すことにもつながらないぞ……、と。

 それにしても、早とちりなのかもしれないが、問題感・問題意識のない空気があちこちを覆い尽くしている…… (2003.09.18)


 「サウンド・オブ・サイレンス」「明日に架ける橋」などは、われわれ団塊世代には懐かしいヒット曲である。そのサイモンとガーファンクルは60〜70年代に世界中の若者たちを魅了したのだったが、再結成され、来月18日からコンサートツアーを始めるのだそうだ。歳がいくつになったかなど野暮なことは言うまい。

 リバイバルというべきか、リニューアルというべきかはわからないが、そういえば最近、かつて一世を風靡したタレントがカムバックしたと聞くことが少なくないように思う。中には、「あの人は今」とかの興味本位な番組をきっかけとして再度注目され始めた者もいそうだ。
 風物のジャンルでは「昭和レトロ」と呼ばれる動きが相変わらず五月雨的に人目を集めているようだが、タレントのカムバック組は、決して「レトロ」趣味に乗ったということではないだろう。別にマスコミの照明を浴びでいなくとも、元タレントたちも時代の流れの中で生きている以上、常にリニューアルして生活しているはずだ。たまたまそのリニューアルの結果が、時代の感性と合致したりすると「再度!」ということになったりするのだろうか。

 クルマだけでもないが、流行のデザインは一定のサイクルで変化させられていると聞く。周期があるのだったら、持ち堪えていれば何周かの遅れながらも最先端のポジションを得ることができそうなものだ。だが、それはどうも叶わないようである。復活するデザインは単なる過去の再現というものではなく、何がしかの新趣向が凝らして斬新さを付加されたものであったりする。

 元来、新しいものが過去とは無縁で唐突に登場することなどは考えにくい。新しいものは、過去の経緯を踏まえたかたちで姿を現すのであろう。まして、「閉塞状況」と形容される時代にあっては、過去に効き足を置きながら新しいものを生み出していくというケースが多くてもやむを得ないのかもしれない。
 ただし、「レトロ」趣味の対象を除けば、リバイバルが「昔のまんま」というのは、やはりいただけない。「レトロ」の場合は、妙に修理・改造の手が加わっていない方が、懐かしさと価値が増幅されるのは骨董品に対する『お宝鑑定団』の言うとおりだが、いわゆるリバイバルはリニューアルなくしては受け容れられにくいのではないかと思う。
 過去と現在との間の時の流れを彷彿と感じさせる、そんな「斬新な視点」が欲しいということになりそうだ。

 そこで、その「斬新な視点」がどう定められるかが問題となるのだが、これはそれなりに難易度の高い課題だと思われる。それというのも、過去の素材を十分に活かしつつ、コンテンポラリー(Contemporary 現代的)であることを印象づけるというふたつの要請に応えなければならないからである。
 そういえば、北野武(ビートたけし)監督の時代劇「座頭市」は、勝新の「座頭市」に素材を求めたリニューアル以外の何ものでもないはずだが、ベネチア国際映画祭で監督賞がもらえたほどに「斬新な視点」があったということになるわけだ。彼の作品にはあまり好意的な評価を与えたくない私だが、コンテンポラリーなものへの彼の勘は鋭いのだろう。案外、「斬新な視点」という課題は、言ってみればほとんど勘の世界の話だということになるのかもしれない…… (2003.09.19)


 飼い犬レオが歳のせいでだいぶ弱ってきたように見える。
 今週は、朝のウォーキングの後、私が散歩させることにしてきた。気持ちのどこかに、いつまで散歩を喜ぶ姿が見られるかという懸念が生じたからかもしれない。
 去年はウォーキングに連れていく考えもまんざら無理ではない様子であった。ただ、散歩でレオを連れ出すと、当然のことながらやたらにあちこちで立ち止まってマーキングをするため、これじゃあ自分のウォーキングにはならないと悟り、両方を一緒に済ますことはしないことにしたのだ。

 ウォーキングから戻り、「サンポ、サンポ」と言えば、相変わらず尻尾を振って嬉々とするのは変わらない。しかし、去年やその前のように、まるで準備体操でもするように走り出して裏庭のほうまで駆け回ってくるような素振りはなくなってしまった。なんだか寂しい感じとなってしまうのだが、やはり歳のせいだと思われる。

 散歩させる道は決めていて、途中、草を食べさせるためちょっとした囲いのある野原に放してやることにしている。囲いは、坂に面していて低いところはブロックが二段程度積んである。そこを乗り越えさせ野原に入れてやるのだが、一昨日は驚いたことが起きた。 以前は難なく飛び乗り飛び越えていた二段程度のブロック塀が今のレオには障害物となってしまっていたのだ。何と、前足をかけ、後ろ足を上げた際に前のめりで転げ込んでしまったのである。すぐに立ち上がりはしたものの、「ああ、もうそんな歳になってしまったんだ……」としんみりとした気分となってしまった。帰り道の坂でも、はあはあと息をして、のんびりした歩調となってしまった。私の意識の中では、食い意地の張った元気なレオというイメージが残り続けてはいたのだが、目の前のレオは姿かたちだけはさほど昔と変わらないにもかかわらず確実に老犬となっていたのだ。
 レオは、確か13歳となるはずだ。人間の年齢に換算するには犬の年齢を六倍すればいいと聞いたことがあったが、そうするともはや80歳の高齢ということになる。母親と同じくらいなのだと思い直すと、私の頭の中で勝手にこしらえていたレオに対するイメージが一変する思いがしたものだ。

 レオには、つい最近まで同い年の姉妹がいた。近所のNさんの家で飼われていた。レオは、実はそのNさんが知り合いからもらってきた二匹の子犬の片方なのであった。
 Nさんの家の犬は、一ヶ月ほど前に癌の治療も効を奏さず、痛みに苦しみながら死んでしまったのだ。いつも散歩をさせていた奥さんの落ち込みようは、気の毒なほどであった。Nさんの奥さんは、犬が姉妹同士であったこともあり、しばしば散歩の帰りにわが家に寄ったりして、家内とは、犬同士を媒介にした親戚のように親しくしていたものだ。後日、聞くところによれば、火葬をしてあげたそうなのだが、翌日はその犬の遺骨を抱いてそれまで毎日散歩させていた道をいっしょに歩いてあげたのだそうだ。どんなにか哀しく虚しい思いであったかと推察できる。

 そんなこともあり、レオを散歩に連れて行く際にNさんの家の前を通る時には、出くわすことがないようにと願ったりもしている。多分、レオを見ればかつてのことを思いおこさずにはいられないと思うからである。
 ところが、実はレオ自身も腹部に良性ではないしこりを抱えており、どうも癌ではないかとの疑いがある。Nさんの家の犬と同じ血を引いているのだからあり得ることだし、老犬には少なくないケースのようなのである。ただ、Nさんの家の犬が、そうした患部の外科手術を受けたところ逆に転移を早めてしまって悪化したとの話も聞いているため、レオの場合はとりあえず様子を見るほかないと考えている。

 歳についての懸念は、もちろん飼い犬に関してだけではない。犬と親とを一緒にして考えるわけではないが、私の母親も、また家内の両親も高齢となりわれわれ子たちができるだけのことをしていかなければならない状況にある。
 やはり、他人事というか、あたかも別世界のことのように軽視してきたかもしれない老いとその周辺の問題が、いまさらのように現実感を増してくるのを自覚しないわけにはいかない…… (2003.09.20)


 台風接近の影響で、今朝は昨夜から降り続く雨がなお続いている。
 六時前に目覚めた。枕もとの上の障子を通した窓の外は薄暗い。しとしとと雨脚の音も聞こえてくる。やはり雨か、と合点する。妙に肌寒かった。その寒さで四時過ぎには一度、起こされたものだ。おーさぶさぶ、と思いながら、脇にはいでいた掛け布団を被った覚えがある。
 布団の上で手足をストレッチしながら、久々に防水のトレーナーを着てのウォーキングになることを思い描いた。あのトレーナーは通気性特殊加工ということでちょっと割高ではあったが、買っておいて良かった、とちまちましたことを考える。クスリの糖衣錠ではないが、苦味のあることに対してはそれを封じ込めるような何か甘味を用意しておくのが極意というものなんだ、とやや得意げになったりする。

 階下に下り、居間に向かった。玄関では、レオが後ろ足で腹の痒いところを掻く仕草を忙しそうにしていた。今朝はもう起きていたのだ。昨夜は涼しかったのでよく眠れたからだろうか。レオはいつの頃からか玄関の土間を自分の居場所と決め込んでしまった。庭はどういうわけかやたらに蚊が多く、レオはかっこうの餌食とされるのでそういうことになった。
 そういえば、昔、両親が飼っていたペスという犬がフィラリアにかかりかわいそうなことになったことがあった。当時在住していた名古屋から戻った際、ぜいぜいと喘ぐペスを訝しく思い、近所のペット医に連れていってみた。すると、医者はひと目見るなり、
「フィラリアだね。おそらく心臓の中が寄生虫でいっぱいになってるはずだ」
と言い、手の施しようがない旨を告げ診察料も取らなかった。その帰り道、ペスは歩道に座り込むほどの悪い容体となっていたのだった。

 冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを取り出し、カップにインスタントコーヒーを作った。そんな様子を、テーブルの上のリンが黙って見つめている。頭を撫でてやると目を細めてあごを突き出すかっこうをする。
 新聞を取りに表に出ると、やはり冷たい雨が降っている。いつもは物音や話し声が聞こえてくる隣近所も、今日は日曜ということかまだ寝入っているように静かだ。
 居間のお膳の前で、飲み物を口にしながら脇に広げた新聞に目を通す。自民党総裁選の結果が報じられている。新鮮な朝の気分が、ぬかんだ道を歩いた泥靴で踏まれるように一瞬にして不愉快な気分に変わった。小泉氏もそうだが、どうも核心の問題に蓋をして国民の目を欺く現在のこの国の情勢が思い起こされたからだった。株価や景気が持ち直したと言われてもいる。それらが、深まる現状のひどさを反映しない結果となっているのは、さまざまな人為的操作のまやかしであることがどうして強い世論とならないのか、それがもどかしくてならない。

 このところ、自分の関心がひたすら邪心なき自然とでもいうものに向かっていることをいろいろなことで気づいている。自然の風景然り、身体の中の自然然り、意識の内の無意識然り、そして子どもたちや動物たち然りである。これほどには人為の手で虚構としての撹乱が持ち込まれなかった過去への郷愁も加えていい。
 今、巷間に溢れるものは人間の叡智という美名のもとに、人間の邪心、邪気で汚されたものが多すぎる。多くの人々が癒しを求め、ペットをそばに置かなければ生きられないのも、邪気のない存在(無邪気な動物たち!)に触れることなくしては辛すぎると感じているからに違いないと推察する。

 雨の中、ウォーキング中に目にとまったものは、カッパを着せられ散歩させられている小型犬たちの姿であった。彼らのカッパが通気性特殊加工のものであるかどうかは知らない。だが、雨の中を散歩をさせてもらえるほどに、ペットたちの存在価値が高まっていることだけはまがいもない事実だということだ…… (2003.09.21)


 株価が一万一千円前後を推移し、あたかもこの国の経済が回復基調に向かっているかのような雰囲気の中、小泉「空人気」と米国ブッシュ政権の後押しによってシナリオどおりの内閣が再スタートする。
 虚構は、そのカラクリが暴かれなければ虚構ではない、と言わぬばかりの状況がエスカレートしているようだ。自分党と読み違えても一向に不思議ではない自民党の「看板」選びなど、端から茶番劇であった。特に実績らしきものもない小泉氏の「空人気」が茶番劇を主導したのは、一万一千円前後の「張子の虎」に豹変した株価以外ではないと言い切っていいはずだ。なぜ、宣告されていたそれらしい大手術もしないうちに、あたかも治癒したかのごとく株価が上がってきたのだろうか。この国の企業経済がやったことと言えば、リストラというダイエットによる減量だけではないか。それで、病状が見る見る変化し、回復したかに錯覚させる株価の上昇は、「毒まんじゅう」ならぬ、何かありがたい「秘薬」でも授かったようである。解せない話だと訝しく思い続けてきた。

 先日、次のような新聞記事が目にとまった。本来ならばもっとマス・メディアは注目しなければならない種類の内容だと思うが、こうした本筋のニュースが黙殺されるところにこの国の危うさがあると思われる。

「政府・日本銀行が円高阻止のため行なう円売り介入が、1月からの類型で10兆円を史上初めて突破した模様だ。この巨額資金は、米欧の機関投資家を通じ、日本の株式市場に還流していると見られ、外国人投資家による日本株の買い越し額の累計は9月第1週までに5兆7700億円に達した。円売り介入が、巡り巡って株高を裏支えしている構図が浮かび上がる」(『朝日新聞』2003.09.18)

 要するに、@現行の株高は経済の実勢というよりも加工されたものだという点、A「米欧の機関投資家」たちが日本株を買っているという点、Bもとはといえば「政府・日本銀行」が巨額資金を使っている点、に留意する必要がある。簡単に言ってしまえば、現在の株高のシナリオ・ライターは「現政府」なのであり、まるで先生に「毒まんじゅう」を進呈して通知表に下駄を履かせてもらったものと同じではないか、と下世話にはそう言えそうである。

 ところが、話はさらに大奥がありそうなのである。
 当初、「米欧の機関投資家」(ヘッジファンド!=高収益を目的とするファンドの一。株式,債券,為替など多様な変動商品を投資対象として,空売り・空買いなどをしながら投機的に運用して高利潤を得るファンド。<三省堂提供「デイリー 新語辞典」より>)が日本株を買い込んでいるのは、他地域の株に較べて「割安感」があるからと聞いていた。しかし、実勢が実勢なのだから「割安感」というのも変な話ではないかと首をかしげていたものだった。ただ、株価の上昇と下落の両面で貪欲な利を追求するヘッジファンドならば目をつけるやも知れぬとは思っていた。
 ある金融経済関係者(副島隆彦『預金封鎖―「統制経済」へ向かう日本』祥伝社. 2003.09)によると、米欧のヘッジファンドの背後には、二期目の大統領選挙を控えた現米国大統領ブッシュが控えているそうなのである。この国の首相小泉氏の総裁選もそうであったように、いや米国大統領選の場合はさらにシビァなはずだが、なんと言っても経済問題が重要となる。米国の株価や米国債が見栄えのする水準でなければならないわけである。
 その問題に密接に関係するのが日本経済であり、とりわけ米国債を大量に握っている政府・日銀および日本の銀行筋の動向だという。日本経済が沈み、米国債が投げ売られれば、綱渡りの米国経済と財政がバランスを崩すことになるからだという。
 詳細はおくとして、ブッシュ政権は、タスク・フォースを結成して、米英のヘッジファンドが日本株にアクセスすることの促進をかけているという。
 ブッシュにとっては、親米という以上に「ポチ」とすら形容されたりする小泉氏の政権が安全弁だと考えられているのだろう。日本株の株高は、武士は相身互い(あいみたがい)となるため、ヘッジファンド動員ということになるのだそうだ。

 以上から、現時点での日本株の「回復的」水準が「加工された」姿であるらしいことが透けて見える。それでも、これが良い循環へのきっかけとなるならばという一縷(いちる)の望みをかけたい気もしないわけではなかろう。
 しかし、ヘッジファンドはNPOでもNGOでもないれっきとした利益集団、いや「はげ鷹」とさえ呼ばれる獰猛な純粋利益軍団である。すでに、利益確保を随時行なっているようであるし、最終的には「売り抜ける!」に決まっている。株高幻影に追随した国内個人投資家たちが泣きを見るのが一、ニ年後に予想されて不思議はないことになる。しかも、その時点ではまたまた先送りされた深刻な経済問題のすべてが再度表面化する。前述の副島氏は、その時点では米国発の世界恐慌も懸念されるとも警告している。

 やはり、「「情報(化)社会」」としての現代の恐ろしさは、肝心なことが国民に何も知らされないで操作されることだと思われる。イラク問題のように、後になって情報操作の不明朗さが表面化してきても、多くの人々はもはや忘れたりしているのが実態だとすれば虚しさばかりが募る…… (2003.09.22)


 「天高く……」という言葉が当てはまる、気持ちのよい秋晴れである。
 その名称を知らないのが残念なほどに、漂う何種類かの雲が美しい。聳え立つ古木の姿もいつになく颯爽として見える。また、西方には、ひときわ高い大山や丹沢の峰々がくっきりと形どられた輪郭をあらわしている。風もひんやりとして、すべてが「すがすがしさ」をかもし出す。神聖と言えば言い過ぎになるだろうが、正月の初詣の気分には匹敵する。
 日本人はこうした「すがすがしさ」への憧憬が強いのだそうだ。山折哲雄氏であったか、「神道」とは詰まるところ、そうしたけがれなき「すがすがしさ」の気分なのではないかと書いていたように思う。
 自分も、日常の猥雑さ、気だるさに埋没しながら、そんなものに関心を寄せる時がしばしばあったように思う。そんな時は、表現力乏しきゆえに「正月のような」という形容で済ませてきたものだ。もはや現実の正月は決してそんなものを伴っていないのではあるが。

 だが、振り返ってみると「すがすがしさ」への感性には日本人の美意識が根ざしていたのではなかろうか。江戸っ子気質の粋(いき)も、まさにその感性と重なると思えるし、潔さを旨とする武士道もどこか通じるところがあるように推察する。
 戦前、いやそこまで遡らなくてもわれわれの世代の学生時代の制服姿は、男子も女子もやはり「すがすがしさ」で光り輝いていたと思っている。時々、TV画面にもかつての学生たちの姿が映し出されることがあったりするが、そんな時は痛感したりする。

 それに対して、現在の学生たちの姿は目もあてられない。制服姿の高校生たちは、わざと崩した着方をしているのであろうが、もっとスマートに着崩せないものかと感じてしまう。単に、だらしなさが誇張されているにしか過ぎないようだ。
 また、大学生たちの格好も目を背けたくなるありさまである。通勤途中のクルマから、ぞろぞろと通学するA大学学生たちの姿を毎朝見かけるのだが、私はできるだけ正面を見つめて、両脇の歩道を埋める彼らの姿を見ないようにしているくらいだ。とりわけ、女子学生たちの「国籍不明的なファッション」(スカートとズボンを併用!)や、水商売の方々顔負けといったきわどいファッションが、朝の「すがすがしい」気分をよく壊してくれるのだ。男子学生たちも、茶髪頭だけは入念に手入れしているようだが、姿ときたら歩く姿勢の悪さもあってかつてのチンピラヤクザ以外のなにものでもないのが悲しい。

 まあ、こうしたことはどうでもいいといえばどうでもいい。
 「すがすがしさ」の美意識の本質は、何といってもアクションのあり方であろう。以前にも書いたとおり「侠気」(義侠心)というものが反故にされたかに見える風潮はなんとしても寂しい。みんなで渡ればこわくない風に悪事を働く輩たちが、老いも若きも変わらない風潮が嘆かわしい。
 じゃあ、お前達は死ぬ時も一緒か! と叫んでみると、「そうです」といって練炭囲んで行動を共にしたりする者もいるから始末に終えない。お前達には節操も政治理念もないのか! と怒りをぶつければ、「選挙に勝ってこその政治家なんだよ」といってはばからぬ老人たちにも手がつけられない。

 今日は「すがすがしい」お彼岸の中日だ。墓参りに行くことになるが、じっくりとこの世も末だということを、「すがすがしい」時代を過ごした仏さんたちにご報告することにしよう…… (2003.09.23)


 もう十年以上前に設計したソフトウェア技術者向けの評価ツール(『ソフトウェア技術者のための人事考課』)の見直し、リニューアルの作業に着手し始めた。

 この間、当時の当社の活動を覚えていただいていたソフト会社から、何度もリニューアルについての問い合わせをもらった。なんせ、累計で全国のソフト会社約400社が何らかの目的で購入してくれたのだから、そんなことがあっても不思議ではないだろう。
 だが、一貫してアップ・バージョンについては距離を置く意向を示してきた。なぜかと言えば、あの90年代の十年は、何から何までが実に不透明であったからと言うほかない。先ず、ソフトウェア技術環境は、ウィンドウズの登場に象徴される爆発的な変化に見舞われた。インターネットの普及、ネットワークやオープン・システムの一般化、汎用機からワークステーションやPCへダウンサイジングの進行、そしてマルチメディアの活用(以上を「ネ・オ・ダ・マ」と称した人がいた)などであり、システム開発は一挙に様変わりしていった。

 また、この動きに促進をかけたのが、マイクロソフト社を初めとする開発ツール類の矢継ぎ早なリリースであっただろう。技術者たちは、「新」開発言語やツールなどの開発環境をマスターするのに急かされたはずである。
 ソフトウェア技術者たちを取り囲むこれらの激変する環境、技術のスクラップ&ビルド的環境は、当然のごとく企業内の評価・教育・人事関係の制度と組織を揺さぶらないはずがなかった。

 変化はこうした技術環境のみならず、バブルへ向けて登りつめてきたこれまでの景気上昇傾向が反転して、不況・低成長の長期化という大きな変化にも襲われていた。ソフト業界とてこのあおりから逃れるわけにはいかなかったはずだ。
 もとより、ソフト会社は技術を売りとするがゆえに、「実力主義」的な風潮は早くから着目されていたが、前述の技術環境の激変に加えての低成長期への突入は、概してこの風潮を強めたはずではあった。

 しかし、そうした風潮一色に塗りつぶされ切れない泥臭いさまざまな事情も散在していたと思われる。何と言っても、ソフト業界はいつまでも「新しい業界」風の不安定さを残し続けてきたようだ。一言で言えば「派遣業務体質」の残存となろう。また、ソフトウェアとは何であるかに疎い経営層という問題や、人事や経営の問題に疎い技術者上がりの経営者という問題もあったかもしれない。また、技術者志望の人材たちの能力や感性の偏りという問題も明に暗に作用したかもしれない。

 さらに、システム開発という作業の特殊性の問題もある。「実力主義」「能力主義」は、数値化できる職種、しかも個人的業績の数値化が可能な職種、たとえば営業職などに対しては適用し易い。ところが、システム開発には数値化になじみにくい質的作業分野があるとともに、プロジェクト形態という集合パワーの発揮という課題も無視できない。過度の個人実力主義の推奨は、フォーメーション・プレーとしてのプロジェクトをぎくしゃくさせかねないからである。

 こうしたさまざまな不透明な問題が、どこにソフトランディングしていくのかは早計には見極められないと思われたのであった。現に、いち早く「能力主義」(の掛け声!)へと飛びついた企業がその制度の撤回を行なった例も見なかったわけではなかった。
 だがそろそろ、変化や潜む条件のカードも出揃い、時代も残念というべきなのだろうが低成長という傾向で落ち着いてきたようにも見える。そして、いよいよ本当にクリエイティブなソフトウェア技術者の育成と評価が問われる時代を迎え始めたのであろう。
 こんな認識が、十年以上前に手がけた課題に再度着手する動機なのかもしれない…… (2003.09.24)


 一時的な現象なのだろうとは思うが、この一日ふつかの天気はまるで初冬のようだ。
 うっとうしいご時世だけに、天候なりともすがすがしくあってほしい。この夏もずっと不安定な異常気象であったし、人間界の変化の激しさに加えて、自然界も不安定となると心と身体の休まる暇がない。不規則な変化の頻発は、体調や心のバランスを崩すきっかけとなりかねないと言える。

 ちょうど今、ソフトウェア技術者の能力評価について腐心しているだけに、ふと「変化対応能力」という評価項目に関心が向いてしまう。
 この能力のオーソドックスな眼目は、発生しうる変化を見越した事前準備だということになるはずである。「備えあれば憂いなし」なのであり、その「備え」が必要となる事態をどれだけ想定できるかという想像力の問題だとも言える。
 また、変化の予兆をいち早く発見していかに先手先手の対処を施してゆけるか、という観察力や感受性の問題でもあろう。
 いずれにしても、余裕があればこそ可能だといえる対応力であるが、とかく現実の現場作業にはそんなものは与えられていない。極端に言えば、順当な必要時間さえ与えられない環境の中であくせくすることになる。そして、そんな中でまるで「もぐら叩き」のもぐらのように、小憎らしくも突如として登場する「もぐら=仕様変更、伏兵の発覚などの唐突感を伴った変化」にきりきり舞させられるのである。

 事前の準備、直前の前倒し対応などはいわば当然のことなのであり、むしろそうした対応をさえあざ笑うかのように発生するハプニングのような事態にどう対処できるか、がこの「変化対応能力」のエッセンスであるのかもしれない。難易度を高めて表現するならば、いわゆる「危機管理」能力である。
 もちろん、シミュレーションすることやそれができる能力が必要なことはいうまでもない。だが、いまひとつ「怪しげな領域」に踏み込んでみたい気がしている。先ほど想像力や感受性と書いたが、もともとこれらの能力の根っこには「第六感」的な能力の塊が潜んでいるのではなかろうか。「臨機応変」というアバウトな表現には、そんなものも含まれているように思われてならない。

 「勘」に頼ることは危険なことではある。まして、経験の浅い者が単なる偶発的な心理現象をそれだと思い込むことのリスクは甚大だと言うほかない。
 にもかかわらず、「勘」を研ぎ澄ますこと、そうしたジャンルに関心を持つことが重要だと、私は直感している。
 それというのも、知識や言葉、あるいは合理性という原理などで構成された事象は、物事の氷山の一角であるとしか言いようがないからである。あらゆる物事に対する、知識や言葉による合理的な把握は、対象のトータリティをカバーし尽くせるものであろうはずがない。

 不確かな類の話を追い詰めていっても明晰さが得られるわけではないと考えているが、言語能力を駆使した合理性の追及とともに、それらをも包摂する総合的な感覚に耳を傾けてみたい心境なのである。それを「第六感」と言うもよし「勘」と呼ぶもよしだが、こうした内的メカニズムとの交感にも関心を向けざるをえないと思っている。翻れば、創造性がブレイクする最後の局面にもこうした現象が確実に鎮座しているのでもあるし…… (2003.09.25)


――― 私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆(しつかい)の事情を告白した。ときどき演説口調になつて、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたやうに思はれた。娘さんは、落ちついて、
「それで、おうちでは、反対なのでございませうか。」と、首をかしげて私にたづねた。
「いいえ、反対といふのではなく、」私は右の手のひらを、そつと卓の上に押し当て、「おまへひとりで、やれ、といふ工合ひらしく思はれます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑ひながら、「私たちも、ごらんのとほりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
 私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思つた。
 かへりに、娘さんは、バスの発着所まで送つて来て呉れた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
 きざなことを言つたものである。
「いいえ。もう、たくさん。」娘さんは、笑つてゐた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。 ―――

 これは、太宰治の『富岳百景』の一部である。
 昨夜、事務所から帰宅する途中のクルマの中で、ラジオ番組「通信高校 現代国語」であったか、ふと耳にしたのだった。
 わざわざ引用したのは、末尾の「いよいよ、ばかである。」という自嘲気味の表現に笑ってしまったからなのだ。

 もとより、太宰の作品の中でも、この『富岳百景』は気に入っている。
 有名な「富士には月見草がよく似合ふ」というくだりがある。
「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」
 ここには太宰特有の「反俗」スピリットが息づいている。次の節と併せて、まるで和紙に水を垂らしたごとく今の自分の心境に無理なく染み広がってくるような気がする。
「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無い」

 太宰治の感性のスマートさは、江戸の感性の「粋」に通じているかもしれない。彼が密かに「江戸落語」(三遊亭 円朝の全集)を読み込んでいたことは知られている。そんな背景もあってか、「いよいよ、ばかである。」という表現は、落語「通」(?)の私の笑いのつぼを見事に射抜くのであった。
 それだけの話なのである。だが、この言葉は縁日の「十徳ナイフ」のように、現在の世相に出没するバカたちを、思う存分に切り捨て御免のできるハイパー・フレイズだとひとりほくそえんだのだった…… (2003.09.26)


 今朝も惰眠の誘惑に屈してしまった。何だか身体がだるくてならなかった。一昨日もそうで、朝のうちは雨との予報を聞いてもいたので、潔く朝の日課を取りやめたものだった。
 何もそう律儀になり過ぎることもないはずなのである。新聞配達のように、朝一番を楽しみにしているお年寄りが待っているわけでもなし、バス停に客を待たせた早番のバスの運転手でもない。まさに一身上の問題でしか過ぎないからだ。
 しかし、こうした自分本位の「お仕事」こそが、取り扱い注意なのであろう。長年、人間をやってるとよくわかる。タダより高いものはない、という逆説的なことわざがあるが、自分本位でよしとか、任意でとかという条件こそはくせものである。みんなそれで失敗してきたに違いない。通信教育の教材販売などは、人のそうした弱点をしっかりと見据えているのだろう。
 そんなわけで、日課の早朝ウォーキングに対しては納税義務以上に緊張感を持とうとしている。一度許せば、自堕落な自分に歯止めをかけるものは何もなし、死して屍拾う者なし(関係なし)であるからだ。

 何を思ってか、この一週間前あたりから「大リーグギブス」(?)着用でウォーキングに臨んでいることが災いしてのだるさであるかもしれない。「いよいよ、ばかである。」以前にも試用したのだが、両足首に1キロづつのウェイトを着用させ、おまけに常用している両手の鉄アレーニキロづつを三キロづつに替え、都合片半身四キロの負荷で、四キロの道をふうふう言って歩くのである。まさに「いよいよ、ばかである。」と言うほかない。それで、「身体がだるい」と泣き言を言っているのだから目も当てられない。
 今朝も、ふうふう顔で遊歩道を気張って進軍していたら、前方から涼しげな娘さんが腕を振り振りウォーキングして来るのが見えた。すると、視界に入った娘さんの顔には、笑いを必死になって堪えている表情があったではないか。それは、どう贔屓目に考えても決して激励のエールを送ってくれているものとは見えなかった。むしろ、やっぱり「いよいよ、ばかネ。」とおっしゃっているとしか見えなかったのが非常に残念であった。

 なぜこんな「いよいよばか」になってしまったのかを振り返るに、三浦雄一郎プロスキーヤーの逸話を知ったことがきっかけかもしれない。彼は、五十歳代の登山の折に、自分の足腰の弱さを自覚して、六十を過ぎてから毎日両足にニ、三キロのウェイトをつけて歩き続けて鍛えたのだそうだ。そして、七十歳でのご存知エベレスト登頂とあいなったわけである。九十六歳での現役ブロスキーヤーという父親の方も凄いものだが、雄一郎氏のいぶし銀の努力姿勢に感銘を受けたものだった。
 言っておけば、ちなみに私には七十になったらどこどこへ登頂しようなどという大望は全然ない。まあ、いつも目にしている大山(1251m)にはまだ登ったことがないので、いつか大山参りをしようと思ってはいるが…… (2003.09.27)


 爽やかな秋風に運ばれ、芳しい檜(ひのき)の香りが漂っていた。
 ふと歩道の左手に目をやると、今時めずらしい板塀が数間続いている。庭石を土台にし、屋根をもあしらえ、贅を尽くした板塀であった。もう何年も経ているふうではあったが、檜の香りは落ちていない。何度もウォーキングでこの前を通っているが、今日ほどその香りの強さを意識したことはなかった。

 ものの香りは奇妙に記憶を呼覚ますもののようだ。その芳しい檜の香りを手繰ってゆくと、四、五歳の頃であったはずだが、大阪での一頃のことを思い起こした。
 真新しい湯殿には、夕日が差し込み白い湯気が浮かび上がり、檜作りの湯船の香りが湯殿全体に立ち込めていた。子ども心に至福のひと時であったに違いなかった。

 父方の叔父の家の一角に、一家揃って移り住むことになった頃の話である。元の自宅からは、私鉄で一駅ほど離れた場所であった。元の家は、叔父たちの仕事がらみの資金上の問題から、人のよい父が手放してしまったのだ。もちろん、幼かった当時の自分は知るよしもなく、後日聞かされた話ではある。
 叔父や父たちは、ガット(gut,腸線。羊・豚などの腸から作った糸や紐のことで、ラケットの網、竹刀の締め緒、楽器の弦などに用いる)を作る仕事をしていた。郊外でなければできなかった仕事である。糸状に裂いた腸を、大人の背丈の二倍ほどの木枠に張り巡らせ天火干しする作業は、あたり一面に特有な匂いを振り撒いたからである。
 そのため、叔父は広大な庭を持っていた。その木枠を並べるためである。その敷地の片隅に、仕事場に隣接した六畳一間で土間がついた建家があった。土間には竃(へっつい。かまど)が設えてあったが、どう振り返っても小屋という表現がぴったりした。そこが、一家四人の新居だったのである。
 理不尽な環境であった。叔父の住いは、仕事場に隣接した新築の住居である。仕事上の借金を弟の家を担保に入れて賄い、その返済が滞って家を失った一家を迎え入れる環境としては、あまりにも道理に合わない仕打ちであったとしか言いようがない。

 竃を使ったり、七輪(しちりん)を用いたりして食事の仕度をしていたことを覚えている。小雨けぶる夕刻、七輪の火を任されて煙ばかりを出す火に向かって団扇を扇いでいた自分の姿が目に浮かぶ。
 ただ、子どもは天才的な楽天家である。「小屋」での生活は苦にはならなかった。まるで子猫のように、両親の布団を転げ回ってはしゃいでいた朝晩のことが懐かしく思い出される。夏の夜には、「小屋」の湿った裏庭で花火をしたこと、その買ってもらった花火はその日一日中神棚に保管されていて待ち遠しくてしょうがなかったこと、そして夜、調子に乗って花火を振り回して父から叱られたこと、そんなことが無理なく蘇ってくる。
 夕刻、当初は銭湯に通っていた。ちょうどテレビが登場し、プロレスの力道山の試合の際には銭湯が満員になった頃である。
 が、しばらくして叔父の家の敷地に内風呂ができたのだった。それが檜風呂であった。 とはいえ、父を初めとするわれわれが入れる順番は末尾であった。決して美人とはいえない叔母が、風呂上りのてかてかした顔で、
「八ちゃん(父親、喜八郎のこと)、上がりましたでえ」
と知らせにきたことが脳裏にある。記憶に残っている、湯殿に夕日が差し込んでいた光景とは、特殊なケースであったがために刻印されたものか、あるいは記憶のミスプリかのどちらかなのであろう。

 思えば、私の生家を人手に渡しておきながら、その後間もなく檜の湯船をあしらった内風呂を作る叔父の懐具合と胸の内は、今振り返っても想像を絶するものがある。が、まあいい。その叔父も、そして父ももういないのだから。あの広大な「〜ガット研究所」の跡地もとっくに人手にわたり宅地化されたという。
 湯殿に立ち込めた湯煙と檜の香りだけが、わたしの遠い記憶の中で生き続けている…… (2003.09.28)


 円高が進み、日経平均株価が続落している。
 111円台という円高が続いているのは、それまで政府・日銀の為替政策により推進されていた「円売り介入」という人為的調整ができなくなったからであろう。
 G7(7カ国財務相・中央銀行総裁会議)の共同声明がストッパーとなっているようだ。日本の円売り介入をけん制する表現が盛り込まれたため、政府・日銀が円を売ってドルを買い、米国債を買いつつ外国人投資家たちに日本株を買ってもらうという、「風が吹けば桶屋が儲かる」ふうのカラクリが、もはや回らなくなってしまったのであろうか。
 ただ、聞くところによれば、米ブッシュ大統領が再選されるまでは、このカラクリは継続されるはずだそうなので、ちょっとした一時的な「軟調」なのかもしれない。

 しかし、以前にも書いたのだが、現在の経済は実勢からかけ離れた金融・通貨「操作」によって実体の色合いが捻じ曲げられてしまういかがわしさがあるように見えてならない。それは、古典経済学に対峙するケインズ学派による修正・調整といった実経済への介入などともはや比べものにならないほどの荒っぽさだと思われる。
 端的にいえば、株価は仕手株屋のヘッジファンドによって操られる可能性が高い。日本株が現在、そのターゲットとされていることはすでに書いた。また、国家財政に関しては、国債という天下の宝刀が頻繁に顔を現すのも解せないといえば解せない。米国債にせよ日本の国債にせよ、言ってみれば国による借金なのであり、通貨とほぼ等しいものを大量に持ち込んで実経済を混乱させていると言えるのではなかろうか。

 要するに、庶民が血を吐く思いで苦労して積み上げる経済の傍らでは、紙幣なり国債なりの輪転機をバシャバシャと回して帳尻を合わせようとする乱暴が許されているのだ。
 今日も、郵便局の前にお年寄たちが行列をなしていた。何かと思って調べると個人向け国債(第4回)募集の最終日であった。いいのかなあ? と訝しく、また気の毒なようにも思えた。もっとも、お金持ちのお年寄の中には、あの青山墓地が売りに出された際、こんなことを言っていた人もいた。
「抽籤なんていう方法ではなく、入札制にしてくれれば一億でも二億でも落札するのにね」と。気の毒に思わなければいけないのは人様のことではなく自分自身なのかもしれないとふとわれに返ったりした。

 余談はさておき、積もり積もった赤字国債は一体どうなるのか、ということである。
 もはや制御が効かなくなったかのようにも見える現在のデフレ・スパイラルの現実をも睨むならば、予想できることはひとつ、「ハイパー・インフレ」(インフレ・ターゲットによる!)以外にはないかと思う。これによって、天文学的数字となった赤字国債もほどよくリサイズされることになる。いわば平成の徳政令と言うべきなのであろうか。
 先日も触れたある著者(副島隆彦『預金封鎖―「統制経済」へ向かう日本』祥伝社. 2003.09)は、2005年あたりにそれが予想されるとも書いている。これまでにも幾度もこの種の推測はなされてきたので、割り引いた受けとめ方も必要であろう。
 しかし、この冷え切った経済の実勢時に株価が凧のごとく天高く舞い上がったつい最近のことを思い返すと、もはやどんな操作だって可能な時代なのだと背筋が寒くなるのである…… (2003.09.29)


 奥さんふうの女性が、ウォーキング姿のその左手に、キンモクセイの花が鈴なりとなった小枝何本かを携えていそいそと足を運んでいた。うちの家内ではないが、玄関の下駄箱の上の小さな花瓶にでも挿すのだろう。
 キンモクセイの香りが、ようやく遊歩道に漂うようになった。
 昨日はまだつぶつぶでしかすぎなかった花が、今朝はつぶながらふっくらと膨らみ、風にその芳潤(ほうじゅん)さを運ばせている。しばらくはこの香りが楽しみだな、とまるで野鳥にでもなったかのような心境である。

 もうすぐ十月になろうとしている。先の日曜日には町内の秋祭りが催され、子供神輿が繰り出された。農家の庭先の柿木には、コバルト色に透きとおる空を背景に、賑やかに点在する朱色の柿の実が映える。夕暮れともなれば、鈴虫の鳴き声が染みわたる。すっかり秋の気配となった。
 昨晩も、湯上りで床に就き窓を開け放していたら、虫の音色とともに忍び込む秋風が心地よかったものだ。
 ふと、つまらぬことを考えていた。ある年配の著名人が、自然の中で死を迎えたいと言っていたが、まったく同感だと思えた。もちろん、まだまだ遠い先のことだと確信しているが、そうであればなおのこと、街からはいっそう自然が失われているであろう。もとより、人工と科学の牙城である病院、その一室で旅立つことだけは願い下げにしたいものだ、などと縁起でもないことを考えたりしてしまった。

 それにしても、自然を放逐し過ぎてはいまいか。いつの間にか過剰ともいえるほどに自然を追い出してしまっている。しかも、それで満足のゆく結果が得られているのなら頷けもしよう。犠牲にされるもの、失われるものが大き過ぎると言える。
 そして、事をなす動機も貧弱過ぎるように思われるのだ。何のため、どこまでという問いには決して答えられないような、ただただ前のめりの姿勢で、「開発」されているのではないかと思われてならない。かろうじて見出されるのは、経済的価値の自己増殖くらいではなかろうか。言うまでもなく、そいつは、よって立つ人間世界全体(地球環境)のことなんぞこれっぽっちも考えてなどいないはずだ。そういう意味では、現代の経済的価値の自己増殖とは、生物の体内で自己中心的に異常増殖を繰り広げる癌細胞のようなものだとたとえてもおかしくはない。

 エコノミック・アニマルと称されてきた日本人たちは、今なお経済的価値の自己増殖に見果てぬ夢を抱き続けているのかもしれない。自分たちが「ガン病棟」(ソルジェニーツィン)を住みかとしてしまっていることに微塵も気づかずに…… (2003.09.30)