ウォーキングをしたり、犬の散歩をさせていたりすると、次第に見かけなくなってきた「安普請の木造一戸建て平屋住宅」が取り壊されている現場に遭遇することがある。かつて地元の農家が家賃収入を得るべく安いコストで建てた賃貸住宅である。そんな住宅の取り壊しを見るのは、あまりいい気持ちのものではない。
ここの住人は、どんな新住居へと引っ越したのだろう? 飼っていた犬はちゃんと連れて行ってもらえたのだろうか? という余計な想像や心配をさせられてしまう。自分もそんな住宅で暮らしたことがあっただけに、妙に他人事ではない感情移入が起こってしまうのであろう。
経済的に楽ではなくて住居をまかなうとすれば、アパート住いとなるのが通例であろう。そう言えば、昔ながらのアパートというのも最近は少なくなったのかもしれない。いや、名称だけがマンションと換えられただけで、両隣や階上・階下の物音が筒抜けとなる環境状態に変化はないのかもしれない。
この他人の物音というのが気にする人には堪らなくいやなもののはずである。そんな人にとって、目が向くのが「安普請の木造一戸建て平屋住宅」ということになるのであろう。たとえ安普請であろうが、また、地理的には繁華街からは離れていようが、他人さまとのいざこざがあるとすれば、唯一家主との間だけに限られるという、気の休まる住居だと目されるのであろう。
ただ、その気の休まり以外は、現代人にとってはいろいろと辛いものが伴ってしまうのがこの種の住居の宿命である。そこが「安普請」ということになるのだろうが、先ず、外気の熱を遮断するような配慮は棚上げにされて建てられただけに、冬の寒さは言うに及ばず、夏の暑さも堪えがたいものがある。どこから吹き込むのか、冬場の隙間っ風のその寒さ、屋根にホースで水を浴びせたくなるほどに蒸し風呂となる夏場の暑さときたら、冷暖房器具があってもそれらの無力さを知らしめられたりする。
また、元は畑であったりしたことや、近くに畑があったりすることが多いためか、夜ともなれば、蚊をはじめとして、いろんな虫が訪れもする。居ながらにして昆虫採集といったところだ。虫に限らず、かえるやへびの出没も否定できない。ある住居に住んだ時なぞは、毎年梅雨時になると床下の所定の場所からがまがえるの鳴き声がグェグェグェと聞こえてきて、「そう言えば梅雨に入ったんだなあ〜」と思わされたものだった。
イメージ的に言えば、あの「大草原の小さな家」なのだと恰好をつけて言ってみることもできるであろうか。となると、大体、小さくはあっても庭が付随していたりするから、犬が同居仲間となったりするし、植木を植えたり、まめな人なら野菜を作ったりして、俄然、自然と親しむ風情となったりする。万事がコンクリートの共有スペースとならざるをえないアパート、マンションの生活に較べてこれが概してありがたいことになるのだと思う。
小さな子どもがいれば、土いじり、砂遊び、花壇などに親しませることもできて悪くない。狭かろうが、安全な庭で、ござやシートを敷いて気分を変えて遊ばせたり、三輪車遊びをさせてやることもできよう。日の当たる手近な戸外という環境は子どもにとって必須だという気がしている。
都市での「共同生活」に慣れ、他人と一緒に暮らす知恵を身につけていくことも重要であろう。しかし、拘束感だらけのアパート住いに対して、庶民が持ち家もどきの生活感を味わうことができるのがこの「安普請の木造一戸建て平屋住宅」なのである。高いローンを支払いながら、高々何十年だかしか使えない持ち家でなくとも、気ままな生活ができればそれはそれでいいような気もする……
ところで、犬を飼うことができるのはこの種の住居の最大の喜びなのかもしれないと思っている。いや、犬なぞがいてくれると、単に防犯上の懸念からだけではなく、寂しさ全般をいなすことができたりするのである。主人がどんなにか人生の惨めさ(?)に取り付かれていたとしても、ワンちゃんはそんなことお構いなしだからだ。大威張り、かつ明朗に吼えるものだ。そんな同居犬(?)のエールは、何となく頼もしかったりするものだ。
レオを散歩させていて、そんな住宅の飼い犬とレオはしばしばお馴染みさんとなったものであった。が、ここ立て続けに、レオにとってのそんなお馴染みさんが急にいなくなってしまったわけだ。レオは、その更地になってしまった地面の匂いを嗅いだり、取り壊し中の建物をキョロキョロと見つめたりしていたが、わたしとて、その空間で、地味ではあれ健気に継続されていたに違いない人の生活というものに、何がしかの思いを寄せずにはいられなかったのである…… (2004.04.01)