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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2004年08月の日誌 ‥‥‥‥

2004/08/01/ (日)  今どきの子どもたちの間で評判の「ムシキング」!
2004/08/02/ (月)  ひどく「乱反射」しているこの国のこの夏!
2004/08/03/ (火)  「学者が政治を批判しなくなった理由」!?
2004/08/04/ (水)  「答えは決まりきっている。彼らは高齢者を切り捨てるだろう」!
2004/08/05/ (木)  猛暑の中で「トンボ」たちが告げること?!
2004/08/06/ (金)  「知」的まやかし時代の撃退策は、「何が何でもノー!」という姿勢!
2004/08/07/ (土)  ひとから喜ばれることを自己満足でやれる喜び!
2004/08/08/ (日)  ボケ防止の脳の活性化には、小学生用計算問題がいい?!
2004/08/09/ (月)  「技術要素」(=道具)が溢れる環境で「必要な力」とは何か?
2004/08/10 (火)  「消耗品」であるに違いないことをどう受けとめる?
2004/08/11/ (水)  日大三高(西東京)、「8対5」の勝利の「わたし的」な意味?
2004/08/12/ (木)  「ビオトープ(Biotop)」、それは「本来の生態系が保たれた空間」!
2004/08/13/ (金)  今夜は、恒例の「盆の迎え火」!
2004/08/14/ (土)  割れなべに閉じ蓋! 「不機嫌」女房と「自閉的」亭主?
2004/08/15/ (日)  酷暑続きにストップをかけた「終戦記念日」の今日!
2004/08/16/ (月)  自分の設定したPCが「原点」だと思ってしまう錯覚と、現代の個人の錯覚?!
2004/08/17/ (火)  「執念」、「臥薪嘗胆」などの言葉を避けたいのが現代人か?!
2004/08/18/ (水)  人は、失ってからのみ失われたものの重みを実感できる存在?!
2004/08/19/ (木)  何てったって、この世界は「ちえだぜ ねばりだぜ」!
2004/08/20/ (金)  「限りなく魔法の王国に近づいている」この国、この社会?!
2004/08/21/ (土)  「ネット」を信じ、「ネット」を疑う?!
2004/08/22/ (日)  軽過ぎるし、淡過ぎるような幸せ、それでいてじわーっとくるような……
2004/08/23/ (月)  今、いろいろな事柄での「現状復帰を図る対処」が求められている?
2004/08/24/ (火)  「アンドゥ(undo)不可」というメッセージ表示!
2004/08/25/ (水)  「オーバー・スペース」が教える「新旧交代」の必要性!
2004/08/26/ (木)  「素晴らしい常識感覚」は、希少価値溢れる「清涼剤」!
2004/08/27/ (金)  「うそつき病」と「過剰な市場主義」とは、事の両輪なのか?!
2004/08/28/ (土)  夏休みの今ごろは、「反省! 反省!」の時期?!
2004/08/29/ (日)  「火」と「焦げ」と「醤油」と、そして「香ばしさ」が懐かしい……
2004/08/30/ (月)  「好きなことだけ」とは、実は「生き延びたい一心だけ」と言い換えてもいい!
2004/08/31/ (火)  昂進し続ける「デジタル世界」と後退し続ける団塊の世代?!






 近所の家の、日陰となった駐車場のコンクリートの上で三、四人の子どもたちがトランプ・ゲームのようなことをやっていた。
「『ムシキング』かい?」
と近寄って聞いてみたらどうも別のカードのようだった。
 わたしとて、別に「ムシキング」なるものをよく知っているわけではなかった。先日、あるTV番組で知ったのだった。今子どもたちの関心を寄せ集めている「セガ」の新しいゲーム・ビジネスなのである。
 ゲーム・センターや西友などにゲーム機を置くという点では従来のゲーム機と変わらないが、ゲームをするたびにトランプ状のカードがもらえること、そのカードにはゲームに必要なデジタル情報が埋め込まれていて、ゲームをやる際にはそのカードを読み込ませて楽しさを倍加させられること、そして何よりの特徴は、焦点を合わせられた対象が「甲虫(カブトムシ、クワガタなど)」たちだという点であろう。

 ベンダー側の「セガ」の話では、いつの時代でも子どもたちが好きなカブトムシやクワガタなどをゲームの主役にしたのだという。振り返ってみれば、子どもたちの人気者の「仮面ライダー」にしてもその仮面やコスチュームは「バッタ」なのであった。子どもたちが好むものを素材に選定しなければならないようである。
 また、単に、昆虫図鑑の一ページのようなカードと、それを表示するだけでは、いくらおよそ30種類のバリエーションがあったとて到底子どもたちを熱狂させることは不可能であるはずだ。そこに持ち込まれたのが、「ムシカード」に加えた「ワザカード」というもので、これは「ムシ」たちをバトルさせる時の「ワザ」が記載され、これまたデジタル情報として埋め込まれている模様なのだ。

 要するに、単にカードを収集する楽しみだけを提供するのではなく、カードの、バトルゲーム実施上での「実用性」をもビルトインしている点がミソなのであろう。
 「ムシカード」には<実在>の甲虫たちが写真と属性情報とで紹介されている一方、「ワザカード」にはプロレスワザのような、実在の「ムシ」とは言ってみれば無関係な<サイバー>で<フィクショナル>なバトルワザが、これまた30種類ほど設定されているのだ。そして、どうもこれらを据え付けられたゲーム機上で組み合わせてゲームを楽しませるという趣向のようである。
 現代ならではの、結構、システマティックな遊び方となっているわけだ。子どもたちは大人と同様におカネを使うユーザーとなり、ベンダーは、物質的なモノを売ることでというよりも、「新しい仕組み」を考案し、それを提供することによって儲けるという、そんな消費システムなのである。

 考えてみれば、季節になれば近所の公園の樹にだって生息したカブトムシたちを、それこそ汗と努力で自然採集した頃の状況は望むべくもない。虫かごと採集網さえあれば、おカネなんて不必要であった時代とはまったく異なるわけだ。
 百円玉が何個もなければ、友達仲間に顔を利かせることができないという点に懸念しないわけでもない。またムシたちへの関心も<実在>的な属性から、さしあたってムシたちとは無関係な<サイバー>に設定されたワザ情報へと移行してしまうということへの危惧の念も生まれる。
 が、しかし、まったく荒唐無稽なヒーローではなくて、大人たちが子どものころに十分に関心を向け夢中ともなったカブトムシやクワガタなどという命あるムシたちに、今の子どもたちも目を向けているのだという点だけは、溜飲を下げる思いなのである…… (2004.08.01)


 ギラギラと照り返すこの太陽光では、クルマの運転時にサングラスが必要となる。
 そこで、メガネ用の偏光サングラスを装着すると、まぶしさが抑えられるだけでなく、見慣れた景色が実に新鮮な光景に変わる。白っぽく感じられた青空が冴えて奥の深いコバルトブルーに変容し、太陽光を持て余すかのように白く光っていた街路樹の葉が、丹精なグリーン色となり、光景全体がなぜだか立体感に富む雰囲気となる。
 「釣り」の際にも、水面のギラギラした乱反射を抑え、「浮き」の動きが良く見えるようにとこの偏光サングラスを使用する。要するに、日差しが強い場合には、モノから反射する光が秩序を失うとともに、そうして乱反射した光線が再び反射したり、互いに干渉し合ったりするのであろうか、モノの姿が撹乱されてしまうのであろう。
 良くはわからないが、偏光サングラスは、そうした反射方向が入り乱れた光の中から、単一な方向の光だけを通し他を妨げるフィルターとしての機能を果たすようだ。したがって、実にスッキリとしたモノのかたちや、乱反射で撹乱されたモノの色が正されて鮮明度の高い彩度が得られるのであろう。
 そう言えば、カメラで夏の風景を撮影する時にも、しばしば「偏光フィルター」を使用したものである。それを使うと、まず、青空と白い雲との対比が鮮やかとなる。空はどこまでも深いスカイブルーとなり、雲は白く存在感のある姿となる。白っぽくとんでしまいがちな樹木の葉も、一枚一枚が青々とした精気を取り戻す。ただ、度が過ぎると、不思議っぽい印象の色合いになってしまうこともある。

 今年の夏は、過剰な暑さや唐突な雨量など、やや天候が「乱反射」しているかのような動向がある。もちろん気象に意思があるはずもないため、自然環境への人間の悪い意思がそのまま跳ね返されているのだろう。
 いまひとつ「乱反射」という言葉で思い当たるのは、弱肉強食の傾向を強めている理不尽な社会情勢が、人々の行動を「乱反射」気味にさせているかのような気配がすることだ。偏光グラスから見えてくるような、スッキリとして秩序だった人間模様、そうであるがゆえに見渡しの利く未来は、なかなか見えてこない。
 最も悲惨だと思える「乱反射」は、この社会の悲惨さが然るべき社会的悪意によってもたらされているにもかかわらず、その原因を鋭く糾弾するに至れない歯がゆさであろうか。
 その社会的悪意が何重にも覆い隠されていること、その悪意の秘匿のために加担するものが想像以上に多く、場合によっては無知のため、自身の首を締める結果になることにさえ加担し手を貸す愚かさがまかり通ってもいる。あるいは、その悪意の正体が見抜けず、鬱積する悪意から被った負の衝動を見当外れの相手に八つ当たりする行動が常態化してもいそうである。
 悲惨なドメスティック・バイオレンスにしても、相手を選ばぬ残虐な犯罪にしても、はたまた生きる将来を選ばぬ無数の自殺にしても、多くがこの秘匿されたその悪意によって「乱反射」させられた結果ではないと誰が言えるだろうか。
 無力で偶発的でしかない個人は、決して、過激に逸脱した行動を冷静に選べるはずがないと思う。あるとすれば、より大きな悪意が人を絶望へと慣らし、錯乱の「乱反射」へと誘う結果であるに違いないのだ。

 期待されるべきは、「乱反射」で錯乱した世相を、「知」の偏光グラスを発揮して、事実としての光景を凝視して、社会的悪意が操る糸をことごとく暴くことであろう。さもなければ、この国は悪意の持ち主たちにさえ将来のない荒んだ事態へと驀進すると予感している…… (2004.08.02)


 昨日は、「『乱反射』で錯乱した世相を、『知』の偏光グラスで……、社会的悪意が操る糸をことごとく暴くこと」なぞと思いっきり真っ当なことを書いてしまった。
 が、あえてこんなことを書く根底には、どうも昨今の「知識人」たちの動きがおかしい、「知」というものが<批判力>(変革力)を欠落させてしまっているのではないかというわたしなりの状況判断が打ち消せないでいたからなのである。
 憲法改悪の動きをさり気なく受けとめる異常さを頂点として、現政権のでたらめぶりをも現状追認する知識人層の腰抜けぶりには、常識的感覚で不信を抱いてきたのだった。
 そんな懸念を「知識人たち、そしてマスメディアが『相対主義』のワナにはまってしまっている実情」(2004.07.05)だと書いたり、ひょっとしたら思想史の流れである「ポストモダン」に関係しているのかとも推理していた。それはそれで詰める必要のある問題だとは思うが、もっと直接的な原因がありそうなことを気づかされた。

 いま「知識人」たちは「御用学者」(学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者)へのレールをいろいろと用意され、政府批判・体制批判の刃を効果的に懐柔されているとのことなのである。仕掛け人は、「官」=「官僚機構」であり、加えて今や社会的使命をかなぐり捨ててしまっている「マスコミ」であるらしい。わたしの常識感覚、下衆の勘繰りからしても十分にうなずける観察だと思えた。
 その観察者とは、大前研一氏である。最新著作『日本の真実』(2004.07.20 小学館)の中で、「学者が政治を批判しなくなった理由」を次のように書いている。
「私の知る限り、今や本気で政府を批判している学者は日本に1人もいない。なぜなら、政府に逆らったら、学者として生きていけないからである。政府に批判的な学者のところには文部科学省の予算が来なくなり、逆に政府べったりの "政商学者" になれば、その人の研究に対して何十億円もの予算が付いたりするのである」
 国民から預かった税金を、国民や国民の将来の幸せのためにではなく、政権維持のために使っていることは言語道断だと思われるが、さらに同氏の追及は続く。
「細川政権の誕生によって『鉄のトライアングル』※1 のほうは一段と危機感を強め、その後の10年間は官僚が敵になりそうな人や組織を自分たちの利権システムの中に取り込んでいく作業をいっそう賢明かつ巧妙に推し進めた。その結果、『鉄のペンタゴン』※2 、さらには『鉄のオクタゴン』※3 の形勢に成功し、政策論争が全く起こらない状況になってしまったわけだ」

 ※1『鉄のトライアングル』……「利権によって強固に結び付いた政・官・財の(三角形の)関係」
 ※2『鉄のペンタゴン』……「政・官・財に大マスコミと御用学者を加えた(五角形)」
 ※3『鉄のオクタゴン』……「『鉄のペンタゴン』に検察庁と国税庁が組み込まれて『鉄のセプタゴン』になり、さらに(産業再生法の関係で)弁護士も加わって『鉄のオクタゴン(八角形)』」

 つまり、利権によって癒着した「政(=自民党)・官・財」が、「非」自民政権であった細川政権の誕生によって危機感を抱き、「関係」温存のために、「官」=官僚機構が、政府批判の学者たちを懐柔しようとして内部に取り込む方策を進めたというわけなのだ。
 同氏は、その例として、民間臨調などを通じて政治改革を求めていた東大の佐々木毅教授が「エスタブリッシュメント」としての東大学長に就任させられ懐柔されたこと、政府に批判的な意見を積極的に発言していた上智大学の猪口邦子教授が、ジュネーブ軍縮会議大使とさせられ大人しくさせられてしまったことなどを挙げている。
 さらに、「小泉政権に批判的だった植草一秀早稲田大学教授は公安が1か月尾行して現場逮捕された…… 個人的にはあまり買っていなかった人物だが、条例違反であそこまで徹底的に追い込む『国家権力』のおぞましい執念を見た思いがする」と書いている。
 また、次のようなことまでつけ加えている。
「その結果、" 霞が関の天敵 " ナンバーワンの座を最長不倒距離で20年間保持している私からみると、周りはみんな取り込まれてしまった。まさに四面楚歌である」と。

 わたしもかつては、学タレの末席を汚した者であるが、学者先生方がけっして強靭な「節操」をお持ちでないことは肌身で感じてきた。男を「試す」には「酒、女、カネ」に限るとは古来より囁かれてきたものだが、これらを超越された先生方にお目にかかったことは極めて少なかったと記憶している。それらにどちらかと言えばフレンドリーな方々はやたらに多かったかとも記憶している。「官・官」接待などで推測できるように、官僚諸君たちは、人がそれらに極めて脆いことを骨身にしみて知っているはずであろう。そんな彼らが、これまた世間知らずの域を出ない学者先生たちを懐柔、篭絡(ろうらく)するのだから、まあ、常識感覚から言えば、みんな大人しくなってしまうってぇことよ…… (2004.08.03)


 「冷やし中華、ならぬマスメディア『不買運動』を始めました!」(2004.06.11)というマスメディアへの不信感を露わにしている自分である。また、マスメディアと一緒になって、政権擁護のサイドで歯に衣を着せた言動に終始している現行の知識人たちへの不信感についても、感じるままに書いてきた。
 そんな自分であるから、昨日書いた大前氏のような見解が、ことさら奇異に感じることはなく「なるほど」と納得でき、すんなりと了解できてしまうわけだ。何も詳細なデータや情報を入手していなくとも、要するに、これといったしがらみを持たずに常識的感覚を緊張させ、研ぎ澄ましているだけで、ヘンな事象はヘンな感触で伝わってくるということなのであろう。何かヘンだ、という第六感的な感触である。

 しかし、何もそうした感触はわたしだけのものではないはずであろう。結構多くの人々が、まるで波間に見え隠れして漂う漂流物の姿のように気づいてはいるのだろうと思う。だが大抵の場合は、日常生活の波間に見失っているのかもしれない。
 まして、この十数年間は誰もが自身の経済的足元を不安にさらされ、注意力の大半は経済的自力救済の方策に向けさせられていただろう。そこへ持って来ての、一色に塗りつぶされたかのような政府擁護的な情報垂れ流し環境である。加えて、ここニ、三年はそうした「洗脳」的傾向を増幅して仕上げをするかのような、いい加減この上ない「小泉マジックショー」もあった。
 普通の人々が、「破綻寸前」のこの国の状況を客観的に認知することができず、不安感を漂わせながらも何とかなるはずだと高を括る心境で来たのは、どうも「情報操作」の結果であったように思われてならない。末期的な病状が隠し通されてきたのだ。
 それは、大前氏の指摘するように、『鉄のトライアングル』に始まり『鉄のオクタゴン』という総エスタブリッシュメントがこぞって進めてきた「国民囲い込み」方策の結果なのであろう。際どい表現をするならば、あの悪夢である戒厳令下での「大本営発表」的事態が、静かに日常生活状況で展開されていたといっても過言ではないのかもしれない。そんなわけはないでしょ、という感想が返ってくるほどに巧妙に仕組まれてきたのだととりあえず言うことができそうだ。

 「破綻寸前」とはもちろん国家財政のことであるが、国の借金である国債を含む公債の残高は483兆円程度(ちなみに年間の国家予算歳出額は約82兆円だからおよそ年間予算の6倍の借金があるということか)と膨れ上がっている。借り換えの繰り返しによる「先送り」が生んだ累積である。また、これも破綻状態としか言いようがない年金資金の債務額は実に800兆円! 若年世代が未納に走るのは、ある意味では先を読んだ常識的感覚だとさえ言えてしまう。そしてこの年金問題も、抜本的な改革は「先送り」され当面の帳尻合わせでごまかされそうな推移となっている。
 破綻に至るすべての問題が「先送り」にされているのが現状の最大の特徴なのである。が、その先に待っているのはどんな地獄なのであろうか。大前氏は、その辺をきわめて乾いた表現で述べている。
「30年後に先送りした国鉄の債務もあるし、50年後に先送りした道路公団の債務30兆円もある。国債も借り替え借り替えで先送りしている。25年後には高齢者が国民の4人に1人となる。その時、甘やかされて育った現役世代(今の子供たち)が、これほど先延ばしをやりまくった高齢者(今の現役世代)のために難儀するだろうか? 答えは決まりきっている。彼らは高齢者を切り捨てるだろう。余裕のある今の世代が解決できない問題を、次の世代が解決できるわけがない」

 想像するにやぶさかではない光景ではあるが、こうして断言されるとドキッとするのが実感であろう。だからこそ、「いつか誰かが努力してくれる」というような度し難い他力本願の習性から抜け出さなければいけないのだ。
 わたしは、リアリスト大前氏の予断を心して受けとめたいと思っている。

「苦しい時代を生き抜いて何がしかの蓄えがある今の世代が問題を先延ばしすることなしにすべて解決してしまわなければ、日本の未来は絶対に良くならない。次の世代は数も少ないし、苦労もしてきていない。高齢者を敬うという教育も受けていない。そうした人々に付け届けをすることは無為なことであるだけでなく無謀なことだ。彼らは自分たちに襲いかかる不幸に耐え忍ぶことはしない。力の弱い者にすべてをかぶせてグッドライフを満喫するように育ってきているのだから――」(以上引用は、大前研一『日本の真実』より) (2004.08.04)


 もちろんこの暑さは、猛暑、酷暑と呼ばれるにふさわしい。しかし、秋の訪れを示すと思われる「トンボ」の姿をあちこちで見かけるようになった。緑が比較的多く残された市街地はずれでは、結構な数が見出される。
 奇妙な場所で見かけた覚えがあるのは、先日通勤帰途でとあるショップに寄った時であった。そのショップは、いわゆる古物を扱っており、店内には雰囲気を出すためか、昭和30年代の茶の間風景が再現されていたり、壁には、あの「水原弘のアースの看板」が掲げてあったりで、ちょっと時代がかった雰囲気があった。
 と、そこへ「トンボ」が飛んできたのである。ええっ、そこまでやるかあ? と一瞬色めき立ったものだ。
 が、よく考えてみれば、大きな入口はドアが開放されていたのだ。明るい店内、そして冷房が効かされて「とんぼ」好みの涼しさに誘われて、紛れ込んできたものと思われた。加えて、まだまだ緑が残されていた当時の「水原弘のアースの看板」まであるとなれば、「トンボ」も我が意を得たりと思ったのかもしれない。
 自宅で虫類を見かけた時には、捕まえてできるだけ戸外に逃がしてやるようにしているものだが、広いショップ内を飛び交う「トンボ」はさすがに手に負えず、餌や水がなくて困るだろうとは想像したがいたし方なかった。

 この暑い時期に何故「とんぼ」かと一瞬考えてしまったが、推測されるのは、日照時間であった。ちなみに、6月半ばで日の出時刻が4時25分だったものが、今日あたりは4時52分となり、今月半ばには5時台へと遅れていく。確実に、日の出時刻が遅れてきており、今週の土曜日7日はいわゆる「立秋」なのである。
 たぶん、成虫でいられる間の寿命の短い「トンボ」たちにとっては、猛暑であろうが冷夏であろうが、日照時間に沿う時の流れに敏感なのではなかろうか。そんなことを考えたものだった。
 それに対して人間さまたちは、日照時間なんぞどこ吹く風であるかのようだ。24時間営業のショップも増えたし、電気さえあれば深夜であろうがメディアには不自由しないご時世となっている。その分確実に、身体の自律神経系を「失調!」させているはずではあろう。

 身体の「失調!」も由々しき問題ではあるが、最近わたしが気になっているのは、人間同士の「ルール観」の混乱であり、風化である。
 わたしのようなわがまま人間が「ルール観」なんぞを云々してはいけないのかもしれないが、どう見ても現時点での人々の「ルール観」は危機に瀕しているとしかいいようがない。おそらく、いまさら例示する必要もないほどであろう。
 確かに、人々を不自由にして、社会経済の発展を妨げるような「ルール」も少なくなかったかに思う。いわゆる「封建的な遺制」と目されるのがそれであろう。
 封建主義的な集団主義が、市場原理の根幹である個人主義へと大きく移行した現代にあって、なおかつ超・現行世代もいれば、戦後派世代もいるし、戦中派世代に戦前派世代もいるという「多民族」社会にあって、みんなが納得できる「ルール」というものは一朝一夕には見出しがたいはずだ。
 いまさらこんなことを言わなくとも、政治状況や毎日毎日引き起こされているさまざまな事件に触れていればわかることではあろう。しかし、いつまでこんな「過渡期」的(そう思いたい!)な軋轢は跡を絶たないのであろうか。問題の原点は何なのであろうか。

 こんな途方もなく大きなテーマに不用意に入りこんではいけないのはわかっている。
 ただ、昨日も書いたが、この国はこれから何らかの「ルール」や共通認識なしでは確実に地獄と化す状況を迎えようとしている。「高齢者が国民の4人に1人となる」という凄まじい社会である。経済的問題と医療・介護問題が重ね合わさってやってくる。
 かつてこの領域の問題は、家族内問題という非合理的なかたち(家族内の誰かが無理を強いられる!)ではあったが、いい悪いは別にしてそれを支える文化(封建的、家族主義的諸制度、文化)とともに維持されてきた。いわゆる長男が家督相続をする制度であり、高齢者である親たちの問題は相続「一式」に組み込まれていた。
 いや、現在でも概ね継承はされているものの、経済的構造の大幅な変化、「核家族」形態の一般化、そして個人主義生活文化が主流となって家族集団を支える文化が衰える中で、高齢な親たちの問題は、やや「宙に浮いた状態」に傾いていそうである。

 「トンボ」などの生き物たちは、市場原理はもちろんのこと、個人主義や核家族という目新しきものにはいっさい走らず、相変わらず自然の摂理にしたがって生きている。しかし、人間たちは多くの踏絵を踏んで現代というライフ・スタイルを選んできた。
 が、差し詰め「高齢化社会問題」は、確実に中間テスト、中間決算の重みを持った低くないハードルだと考えないわけにはいかない。
 まして、団塊世代にとっては、待ったなしに迫っているリアルな親世代の介護問題があり、その先には自分たちの問題も控えている。まずは前者の課題で試され、自分たちへの処遇水準はその出来栄え水準を決して上回ることはない! と心得なければならないのだろう…… (2004.08.05)


 偏光サングラスを通して見える夏空は、深い色の青空に存在感ある雲を浮かべている。わずかに開けたクルマの窓越しにせみの鳴き声が聞こえてくる。物静かな夏の日である。59年前の広島もきっとこんなふうに何事もない夏の一日であったのだろう。そして、一瞬のうちにひとつの街が焼却され、一気に十数万人の人々が地獄へと突き落とされた。今日は、被爆地広島で平和記念(祈念)式が行われる「原爆の日」だ。
 時代や社会はどうあれ、「大量虐殺!」が行われたことをわたしは決して忘れたくない。この場合、「時代や社会はどうあれ」の部分にこだわりたいと思っている。「ダメなものはダメ! 厭なものは厭!」とあくまで固執する。ひと(他人)がどう言おうと、どう屁理屈をつけようと、十数万もの、たった一度の命と希望とを奪い去った狂気、しかも人類が培った科学の力を悪用した卑劣きわまりない所業をわたし自身は決して許さない。
 とにかく、こうしたジャンルの問題にあたっては、スマートな知的会話よりも鈍重なほどの「意思表明」こそが大事だと思っている。

 何か錯覚しているのではないかと思うことがある。世の中のすべての事象のコントロールは可能であると勝手に思い込んだり、そのコントロールの手法は「知」的作業であり、その知的作業は、まるで住いの床の継ぎ目のように「バリアフリー」方式で万事うまくいく、と思い込む風潮に関してなのである。
 そんなわけはない。もし、「知」の作業だけを重ねていけば、いや、もうここで「重ねる」というようにアンチ「バリアフリー」方式に目を向けてしまっているのだが、無理なく解答に近づけるとするならば、人間は不必要だということになりかねない。なぜなら、水平的な論理展開だけで知的作業が進むのであれば、人間の脳よりも遥かに高速かつ間違いなく計算処理をするコンピュータという存在があるからだ。
 コンピュータが出力した結果をただ追認するだけの人間だとすればあまりにも情けない。しかも、現代では、自然科学領域のみならず社会科学、人間科学など従来はコンピュータになじまないとされてきた領域まで、対象の現象を数値化してコンピュータでの計算処理になじませようとしている。それはそれでいいとしても、そのプロセスでかなりの「無理」をしていることをやがて忘れてしまい、コンピュータから出力された結果を手放しで礼賛してしまうバカはやっていないであろうか。

 つまり、いかにサイエンスとテクノロジーが飛躍した現代だからといって、人間がやるべきことは相変わらず積み残されているということである。いや、コンピュータのような「擬似知性」が現れた分だけ余計に人間のやるべきことは増えたというべきかもしれない。コンピュータがもっともらしい出力をして、あたかも人間の判断が不必要だとさえ思わせる分、警戒をして監視しなければならないという難しい作業まで加わっているはずなのである。
 要するに、人間ならではの「価値判断」作業は相変わらず何によっても肩代わりはされていないはずなのである。にもかかわらず、多くの人々は、「価値判断」を初めとして、自身の「意志」を持つことまでコンピュータなどの何かが肩代わりしてくれていると錯覚してしまっているのではなかろうか。それ以前に、自身の頭で考えるという作業を放棄してしまっている人々は少なくないご時世となったようだ。

 人類を複数回滅亡させるに足る数量に膨れ上がってしまった核兵器の問題は、人間の「意志」によってしか廃絶されないものだと考える。何が何でも厭だ! というだだっ子のような反対意思表明から、知的に武装された高度な意思表明まで含む人間としての意思表明以外に、何も肩代わりして核兵器廃絶を促進してくれる存在はない。
 わたしが、今の日本という社会を危なく感じる理由のひとつは、保身に走って腰抜けとなってしまった知識人たちもさることながら、一般庶民もサイエンス&テクノロジー万能風潮にのまれて素朴な人間感情を吐露しなくなったのではないかと感じているからなのである。
「テロ撲滅だか集団自衛権だか何だか知らねぇが、再び武力を持たねぇって誓ったんじゃねぇのかい? それを解せない動きばっかやってる米国の言いなりになって金魚のふんみてぇになって、自衛隊にてっぽうかつがせるのはいけねぇーよ!」
と、誰が聞いたって正論に違いない道理を吐く庶民がこの上なく貴重なのだと思う。本人でさえ命懸けなんぞにはなっていない「知」的屁理屈を並べ立てる無責任な輩に対して有効な反撃となるのは、小奇麗な理屈ではなく、「一票」に託された「何が何でもノー!」という意思表示以外ではないと思う…… (2004.08.06)


 クルマで5分程度の近場に住んでいるおふくろとは日頃ゆっくりと話すこともない。しばしば顔は出すものの、長話をする話題もないままにやり過ごしている。同じ程度の距離に姉夫婦が住んでいて、姉は女同士ということもあり頻繁に顔を出しあれこれと長話もしているようだ。
 気丈夫なおふくろではあるが、大工仕事じみた不都合が発生すると連絡してくる。わたしの方から、忙しくても都合をつけてやるから何でも連絡してくるようにと告げているからである。

 午後になって、おふくろからその「緊急連絡」が入った。姪が結婚準備でいらなくなった洗濯機をくれたのはいいが、水道のジョイント部分がうまく合わないことや、排水などに関してヤスオでなきゃわからない、と警報を出してきたのだった。まさに、TVコマーシャルの「トイレの水漏れ何千円!」といった類の問題だったのである。
 わたしは、先日おふくろの古い洗濯機をリサイクル処分してあげていた。だから、おふくろが洗濯に困っていることを承知していたので、「ヨシ、わかった」と言って、必要と思しき道具類を持ってはせ参じたのだった。たまには、おふくろデーがあってもいいはずだと思っていた。

 実は、おふくろとは今日午前中、一緒にお盆前の墓参りに出向いたばかりなのだった。お盆の際には、おふくろの住いにわたしの家族と姉の家族が集まり、亡き親父を「出迎える」ことになっている。親父が亡くなって以来、毎年そうしてきた。「迎え火」を焚いて霊を迎える小行事に好奇心を持っていた息子や姪たちも、もう30歳となり、嫁いだり所帯を持とうとする年頃になってしまった。光陰矢の如しとはよく言ったものである。
 みんな、亡き親父の供養を目的にはしていたものの、おふくろを励まそうとする意図を持っていることは言わずもがなのことである。いや、明朗快活なおふくろに逆に元気づけられるというのが実情だということもできようか。

 わたしは大工仕事、電気関係など生活関連の営繕作業は苦にはしていない。ただ、最近は自分がやらなければならない「別の任務(稼ぎ)」があることと、餅屋は餅屋という事実を踏まえ、距離を置くようになってはいる。
 だが、おふくろの住いに関しては自分が手を染めるのが筋だろうと考えている。まして、不穏な昨今では、下手な業者に頼むと老人の一人住いだと見くびっての不埒(ふらち)な所業がないとも限らない。
 今日の「作業依頼」は中古洗濯機のインストール作業ということになる。留意点は、水道の蛇口と自動洗濯機からの入水ホースとのジョイントがひとつと、風呂場へと流す排水のための高さ設定という点であった。
 ジョイント部分は、水道側の蛇口は開放状態となるために水圧がかかる。そのため良質なジョイント部品がないと水漏れが発生する。この点に関しては、つい先日、自宅で家内がアラームを上げたため、折をみてたまたまそうした部品を買い置いていたのだった。そいつを思い出したので持ち込んだところ、実に最適解答を得たのだった。
 次に、洗濯機からの排水をスムーズにするための設置場所の高さという課題であったが、これは「ブロック(軽量コンクリート)」を敷くしか手がないと判断された。すぐに、近くのホーム・センターにクルマを走らせ、一個百円のものを四個購入してくることになった。これらを、古い絨毯マットの上に並べ、その上に小奇麗なビニール・シートを敷きパーフェクトな据え置き台ができたのだった。

 脇で見ていたおふくろは安堵して冷たいジュースなぞを入れてくれたが、わたしは念のために電源を入れ、テスト稼動をしてみた。水漏れの発生はナシ、排水の流れもきわめてスムーズ、テスト完了。依頼電話が入ってから、その完了までの所要時間は一時間強というところであっただろうか。まずまず「業者水準」の結果に持ち込むことができた。
 だから何だと言われれば、どうと言うこともないのではあるが、わたしのこうした作業の満足感とは、ひとつが予想された問題点の完膚なきまでの貫徹と、もうひとつがより短時間で完了させるという段取りと仕事運びなのである。どこかに、職人仕事への憧れがあるのかもしれない。

 満足感に浸ってこれを書いていると、戸外でザーと夕立が降ってきた。雷も鳴り始めた。今夜は涼しくなって良かったと思ったが、今夜、明日はこの近辺の町内の盆踊り大会であったことを思い起こす。しかし、この間続いている熱帯夜のことを思ってか、かわいそうだけどしょうがないよなあ、なんせ天気のことだもんなあ、涼しい方がいいもんなあ、と突っ放した薄情な気分を決め込む自分であった…… (2004.08.07)


 頭は使えば使うほど衰えないとはよく聞くところだ。
 ところが、その筋のある専門家に言わせると、脳の活性化、とくに老人の痴呆症の防止にとっては、簡単な算数計算程度が一番効果的とのことである。より込み入った事柄よりも、「何々、足す、何々」というような小学生の算数問題くらいが良いとのことなのだ。それは、理論的にと言うよりも、実証的な結果のようだ。脳の稼動状況が測定できる方法を使うと、そうした算数問題を考えている状態は、ほかのことを考えている場合よりも脳の広範囲が活動しているらしい。逆に、ある特定の難しい事柄などを考えている時には、脳の活動部分はきわめて部分的な箇所に限定されていることもわかるらしい。
 最近は書店を覗くと、「脳の活性化」とかと題するドリルのようなものが平積みされているのを見かける。パラパラとページを手繰ってみると、まさに小学生の夏休みの宿題のような計算問題が目に入る。こんなものでどうにかなるものだろうかといぶかしく思っていたのだが、どうも上記のような理由で売り出されているようだ。

 どうして、やさしい算数計算が脳の広範囲の部分を動員させるのか気になるところだが、ちょっと見当がつかない。
 脳も身体の筋肉と同じような性格を持っているはずだと思われるが、そう考えると、部分的な筋肉のトレーニングをするよりも、全身の筋肉を満遍なく使う運動の方がよさそうなことはわかる。ウエイト・リフティングのような、動きが単調で筋肉への負荷ばかりが大きいようなスポーツはいかにも身体に悪そうな気がする。
 身体の動きにバラエティがあり、さまざまな筋肉が動員され、かつその組み合わせが適時変化していろいろな事態に即応しなければならないような、そんな運動がよさそうだ。水泳は全身運動だとは言われるが、やや単調な気がしないでもない。サッカーなどの相手チームと対戦するようなスポーツは好例だと言えそうな気がする。個人技の柔・剣道や格闘技などもいいかもしれない。
 つまり、筋肉トレーニングにおいても、問題は強度だけではなく、いかに全身の筋肉が連携しながらその時その時の状況、環境に即応していけるかが重要な課題であるように思える。そして、そうさせるようなスポーツこそが大事だと言えそうな気がする。

 で、脳と計算との関係の問題に戻ると、数の計算というものは、ヘンな表現だが予断を許さない、そのケースそのケースの一過性的な緊張をともなうものとは言えないだろうか。
 だいたい脳というものは、怠け者というか、小利口というか、常に手抜きをしようとするものだと思っている。同じようなことを何度もしないために、対象や環境の共通性をのみこんで、それを応用しようとするような動きである。いわゆる工夫をするというのは、まさにそのことなのだろうと思われる。
 コンピュータもこの原理をいろいろと活用しているはずである。頻繁に発生する計算構造というものを「キャッシュ」というようなメモリに記憶して、そのケースが発生した際には、最初からその計算をするのではなく、その記憶を援用して計算処理過程を短絡するというわけである。今、わたしはワープロを打っているが、このワープロにしても、使用頻度の高い漢字を上位に並べて表示するというメモリを活用しているはずだ。
 人間の脳がものを考える時にも、おそらくこうした過去の記憶に基づく「手抜きの短絡」をやろうやろうとしているはずである。
 しかし、数字の足し算などの計算は、どう考えても記憶に依拠する処理ではなく、その時その時に唐突に示された数字ごとに処理していかなければならない、脳にとっては「突然の出来事」なのかもしれない。つまり、一回一回新しい考え事として対応してゆかなければならない、意外と骨の折れる処理だと言えるのかもしれない。

 もしそうだとするならば、脳は、小学生用の計算問題でも、まるで初対面の人に対応するごとくいろいろな想像力を働かせ、緊張して対応せざるを得ないため、意外と広い範囲の脳の部分を動員するのではなかろうか。これは、あくまでわたしの個人的推測の域を出ないものではある。
 だが、脳への刺激という点でしばしば言われることは、新しいことに遭遇することだというのがあるが、理屈は、とかく過去の記憶に頼ってまかなってしまいがちな脳も、新しい個別ごとの現象には襟を正さざるを得ないからであろう。
 だから本来は、新しいことへの挑戦という経験が、脳の活性化には最もいいことになりそうだが、この経験の手軽な置換えが、小学生水準の算数計算だということになるのだろうか…… (2004.08.08)


 先日、仕事用にもう一台プリンタをを購入した。CDレーベルが印刷できるプリンタである。印刷が可能なようにレーベル部分がホワイトとなったCD(ホワイトレーベル)に、直接ドット・プリントができるもののことだ。
 これまでは、専用用紙にレーベル部分のデザインを通常のプリンタで印刷した上で、裏が粘着仕様となっている用紙を円盤状にはがしてCDに貼り付けるという方法を採ってきた。それはそれで昔のレコードのような感触が出て悪くはない。だが、貼り付けるという作業にバラツキが出て、最悪はズレたり、しわができたりする可能性が十分にあった。
 CDにダイレクトに印刷するプリンタが登場した最初の頃、「ホホー、いい発想だ」と注目はしていたが、価格の点もあって手は出さなかった。が、あちこちでホワイトレーベルのCDが売り出されているのを確認して、ようやくそうした機能付きのプリンタを入手することにしたわけだ。ちなみに、かなりの高性能でありながら、実売価格一万数千円ということで、ずいぶんと安くなったものである。
 こうしたプリンタが大衆化したのは、音楽CDのダビングの普及やデジカメ普及によるところだとは容易に推測できるが、わたしの使用用途はビジネス・ユースなのである。
 昨今のソフトウェアは、一頃のようにこじんまりしたプログラムをフロッピィ・ディスクに収納して手渡すというわけには行かなくなってしまった。何メガバイトというサイズになってしまうとどうしてもCDに焼き付けるといことになる。
 また、売れるかどうかがわからないシステム製品をCDに収納する場合、CDのセッティングをある程度の量でその種の業者に発注するというのはきわめてリスキーだということになる。社内で加工して出荷し、様子を見るという方法が安全であろう。
 しかし、製品である以上、レーベルやジャケットに製品らしいデザインを施したくなるのは人情である。と言うより販売促進には不可欠であるかもしれない。そこで、こうしたプリンタが重宝するということになるわけだ。

 いろいろと問題の多い現代ではあるが、それにしても、唯一ありがたい側面といえば、さまざまなツール類が手軽に入手できるということではないかと思う。何かちょっとしたモノを作ろうとした場合、大抵それなりの道具が必要となるものである。ところが最近は、ちょっとした道具類というものが、その気になればその種の市場から容易に入手でき、しかも低価格ときている。趣味などによって素人ユーザがそこそこいるために、低コストが叶い、価格が下げられるからなのであろう。
 周りを見ると、どんな領域でも道具だけは「玄人はだし」という人々がうじゃうじゃいるものだ。スポーツにしても一人前の恰好をしたビギナーが少なくないし、カメラでも、クルマでもみな同様だ。釣のジャンルにしたところが、凄い竿に高性能なリール、そして魚群探知機までが出回っている。一方的に水をあけられるさかなたちが不平を言っているのではないかとさえ思う。
 もちろん、システム・ジャンルでもいまや一般の市場そのものが秋葉原となってしまったほどにハード、ソフトの道具類が溢れている。

 ところで、こうした環境、ご時世を、プロを指向する者やビジネスを志す者たちはどう受けとめるかという問題である。素人が、高級なツール類を活用してこなしてしまうので仕事が減っちゃって困るよ、という向きも当然あるものと思われる。
 たとえば、「腕時計の電池交換セット」なるものが980円で売っていたりする。もちろん、電池だって3〜400円で入手可能だ。近所の時計屋さんに頼むと2〜3000円程度は取られるであろう。となると、時計屋さんの仕事は減りこそすれ増えることはない。とまあ想像されるのだが、必ずしもそうとは限らない。
 PCショップを張っていた頃、作業を依頼してくるお客さんは、どちらかと言えばビギナーに毛の生えた部類が多かったように覚えている。いろいろな道具があって、自分で挑戦するクラスの人たちがしくじってさじを投げるケースが少なくないのだ。
 要するに、現在市場に出回っているツール類は、確かに「腕のある人」にとってはありがたい道具ではあるのだが、誰でもがバカチョン的にできるというものでもない。あの、祭りや縁日の夜店で香具師が売っていた「ガラス切り付き十徳ナイフ」みたいなもので、切れないわけではないから詐欺には当たらないが、かと言ってベテランの香具師ほどにはうまく扱えない、といったところであろう。
 道具メーカーにしても、数が想定されれば安くは作れるとはいうものの、プロ向けのような精巧なものを作って価格を落とすというわけにはいかない。当然ほどほどの水準仕上げとして低価格をねらうであろう。買う側だって、プロほどに頻繁に活用するものではないかもしれない道具に高額出費をしようとは思わないであろう。「腕時計の電池交換セット」にしても、一、二年に一回使うかどうかで、もし価格が千円以上であれば、時計屋に出す方を選ぶであろう。

 「ドゥ・イット・ユアセルフ」のムードで、さまざまな道具類が市場に溢れている現代ではあるが、だからといって、プロたちは決してびくつく必要はないのではないかと思っている。もちろん、素人でも容易にできてしまう水準でおカネを取っていた業者はその限りではない。だから当然、素人技に水をあける技量を磨くことは必要だとは思われる。「やっぱりプロは違うわあ」と言われるような技量が必要ではある。
 ただ、プロとは、そうした技量/スキルの深さだけなのだろうかと考えてしまうのである。器用な素人ならばその道具を使えばこなせてしまう状況というのは、その道のプロにとってはやはり警戒すべき事態だと考えた方がいいのかもしれない。技量を磨き続けるとは言ってみても、人間技に限界がある一方、現代の道具製造技術の向上速度はバカにならないからである。そもそも、これは道具に置き換え可能と目されたこと自体が、プロに対して「王手」がかけられたことと見なしていいのかもしれない。
 そこで思うのが、道具なんぞに置き換えられない「人間技」を、熟成した技量の上に上乗せすることが本当のプロの必殺技なのかもしれない、ということなのである。「それは何だ」と言うならば、「それはネ、プロの心意気ちゅーもんでネ」なんぞと間違っても悦に入ってはいけない。もっと手堅く、重要なものがあるのであって、わたしは「コーディネイト」「アレンジ」の力ではないかと考えている。
 つまり、技量を積んだ自己のジャンルのメリットを、他のジャンルのメリットとうまく「コーディネイト」していく力のことであり、システム思考力、システム構築力だと言ってもいいのかもしれない。
 この点はまた改めて書きたいと思っているが、こういう観点で現代の市場環境を眺望するならば、素人、プロに関係なく、様々なジャンルでのメリットが他のメリットと引き合わされることに焦がれているような状況にも見えないではない。いわゆる「起業」「ニュービジネス」というのは、こうした文脈で登場するものではなかろうかと…… (2004.08.09)


 「すべての男は消耗品である」とは、作家村上 龍氏の人気エッセイ集のメイン・タイトルである。確かに、いい着眼だと思う。
 だが、男たちが「消耗品」であるか、あったかについては、いささか「微妙な」問題であろう。もちろん、戦争、戦(いくさ)という視点で振り返るならば、先の大戦時においては「学徒」まで含む男たちが戦う「消耗品」として取り扱われてきた。また、それ以前の歴史においても戦(いくさ)の「鉄砲玉」として「消耗品」であり続けてきたはずだ。加えて、ビジネス戦線においても、多くの男たちが、ムダ死に、犬死させられたり、そこまでは行かなくとも、過労死に追いやられたり、飛ばされたりと、まさに企業の「消耗品」として位置づけられてきた観がある。
 にもかかわらず、上で「微妙な」問題と言ったのは、確かに事実上、男たちはあたかも「消耗品」として取り扱われて来たのではあるが、意識の上では必ずしも「そうは思ってこなかった」という点がありそうな気がするからである。
 天下国家を論じ、それを動かしているのは「男社会」だという思いが、男の妙な自尊心を紡ぎ出し、やらされていることはまさに「消耗品」のようであっても、はたまた家庭でも月々の自動振込のための「人質」としての「消耗品」扱いをされていようが、「『消耗品』? いや、それはちょっと違うなあ……」と異を唱えたい男たちが多いのではなかろうか。
 こうした、事実と意識とのズレがあるからこそ、「すべての男は消耗品である」とのメッセージは際立ち、インパクトを与えるように思える。

 実は、こんなことを考えることになったのは、地元の新聞の記者が、「アドホクラット」という社名の由来や、思い入れについて取材をしたいと言ってきたからだった。
 「アドホクラット」とは、Alvin Toffler が『未来の衝撃』の中で、ビュロクラシー(官僚組織)に対して、プロジェクト・チームやタスク・フォースといった組織が社会全体に広がる時代の特徴を「adhocracy(アドホクラシー)」と名づけたのをいただいたのであった。つまり、「変転きわまりない複雑な現代社会にあって、相次いで生じるさまざまな問題に対し、そのつど、その問題の性格に応じた柔軟な取り組みで対応し、臨機応変の解決を図る体制」(『アドホクラシー』R.H.ウォターマン・ジュニア)を推進していく者たち、という意を込めて語尾変換をした造語なのである。
 現在の日本の社会経済の諸悪の根源が、「官僚組織・機構」にあることはますます明瞭になってきている中で、当社の名を「アドホクラット」と命名したのは、実体はともかくとしても看板としては正解であったと自画自賛しているわたしである。
 しかし、今一歩踏み込んで考えた際、そもそも組織とは何かを達成するための「手段」以外ではない、達成すべき目的のための「手段」であること、を再認識したのだった。プロジェクトとはそうした認識で純化された組織であるはずだ。そして、そうした認識から最も遠い存在が「官僚機構」である、と思った時、ふいに「すべての男は消耗品である」のフレーズに思い当たり、次に「すべての組織は消耗品である」と思い至ったのだ。

 もちろん、この世に存在するものはすべて「消耗品」に違いない。「色即是空」や「無常観」を引き合いに出さなくとも、存在するものは消滅する。だから「消耗品」だと言っていいはずなのである。
 ところが、男もそうだし、官僚組織・機構も、素直にはその点を受け容れたがらない。もっと言えば、文明それ自体が、みずからを「消耗品」だとはおくびにも出さない。そしていずれもが、解き難い問題を生み出しているかのようでもある。<男たち自身の脱力>であり、<財政破綻>であり、<戦争やテロ>である。いずれも抜き差しならぬ現代の難問だと言わざるを得ない。
 しかし、どうしてこんなことになってしまったのであろうか。答えになるかどうかは知らないが、また同語反復なのかも知れないが、マクロに考えるならば、<時代の流れとそれらと齟齬>だと言えようか。
 つまり、決して男たちにせよ、官僚組織・機構にせよ、はたまた文明にせよ、元来が悪者というわけではなかったはずである。それぞれに、ある時代においては独自な役割りというものが託され、時代との最適関係、蜜月関係を持った時期があったはずである。それが、自己矛盾に陥ることになったのは、ここでこそ注目しなければならないのだが、みずからも「消耗品」であることを、その当たり前の事実を、視野の外に追い払ってしまったからなのかもしれない。

 こう書いて来ると、まるで「老兵は去るべし」というちょっと悲惨な雰囲気となるようだが、いくらか角度を変えて考えてみたいと思っている。
 つまり、「消耗品」としての「消耗」の含意とは、消滅ではないということだ。それこそ「エネルギー代謝」や「エネルギー保存の法則」(良くはわからない面もあるが)を援用するならば、無を意味する消滅ではなく、形態の変化である「変換(transformation)」に至ることだと理解したいわけである。
 だから、「消耗品」であることを自覚することとは、何も嘆くことに終始するだけではなく、時代の流れとの間の齟齬をなくすべく「変換」形態を模索するということになろうかと思う。
 たぶん、村上 龍氏の美意識に基づく「消耗品」に託された含意からすれば、緩やか過ぎる解釈であろう。しかし、むしろ(過去の)美意識が多少減じたとしても、事実に即して穏やかに、リアルに考えるべきかと思っている。
 今朝の朝刊の書籍広告に、石原慎太郎氏の『特攻と……』というのがあった。読む前(読む必要を感じないが)の推定であるが、「消耗品」を潔しとした「特攻」をもって現代の日本の風潮を煽ろうとするようなものだとするならば、それこそ過去の消耗品の美意識で何かを言っているつもりになってはいけないと思う。三島由紀夫氏が言ったのならばまだしもであるが…… (2004.08.10)


 つい先ほど、対PL学園戦(大阪)の初戦で、日大三高(西東京)が「8対5」で勝ったようだ。町田という地元であること以外にさしたる関係があるわけではない。あえて言うならば、あまり好感を持っていない親戚筋の者がそこの出身であること、中学時代のスポーツでの友人がそこへスカウト的に入学したが怪我をして野球部を退いたこと、などであろうか。
 そんなことを言えば、わたしはもともと大阪の出身なのだから、PL学園だってまんざら縁がないとは言えないことになる。もっとも、生まれて十年間未満の地付きでしかなかったが……。
 しかし、高校野球夏の大会というものは、だれが最初にプロデュースしたのかは知らないが(朝日新聞社?)、悪くはないイベントだ。少なくとも、すったもんだのプロ野球よりも、コンセプトがしっかりしている。地元の人々の応援を担うかたちもいい。この「乱れて、崩れた」ご時世にあって、キビキビとした点を売りにしようとするのもよし。最もいい点は、当人とサポーターたち、そしてまあ身内といっていいような場内観客たちがうだるような暑さの中で頑張っているのを、見たり聴いたりする側がクーラーの効いた涼しげな場所に構えている、というその落差、まるでローマ時代の「奴隷」と「貴族」のような落差がこたえられない。多少語弊をなしとはしないが、それがホンネでもあるのではなかろうか。

 誰だって、「奴隷」のような経験はしてきたものであろう。「今がそうなんです」と言われたら話が先に進まなくなってしまうのだが、まず、若い時には、ひと(他人)には言えないような「奴隷」的状態に身をやつした経験のひとつやふたつはあるものだ。実生活で、スポーツで、アルバイトでといろいろなケースの違いはあってもである。
 だから、高校野球夏の大会での当事者たちの踏ん張りを、涼しいところから観戦できると、「なんだかんだ言っても、今は幸せなのかなあ……」といった「落差」観で仕切られ、触発される奇妙な「優越感」に満たされるのだろうか。まあ、幻想でしかないのだが……。
 で、次に訪れるのが、「奴隷」的状態に身をやつしたことのある自分の若き時代への抑え難い郷愁だということにでもなるのだろうか。
 「そう言えば、あの頃のオレは、みんなが夏休みだと言ってうつつを抜かしている時に、汗だくだくで稼いでいたっけなあ……」とか、「しかし、よくもまあ、真夏にあんな距離を自転車で走破したもんだ」とか、「そうそう、当時は、今のように不眠がどうたらこうたらなんてウソのようで、寝床に倒れたらあっというまに寝込んじゃったはずだ……」、「何かとあばれるもんだから筋肉痛はあったようだけど、疲れなんてものはなかったはずだよなあ……」など、青春の証しをいろいろと指をくわえて思い起こしたりする。
 そして、「いや、そうはいうものの、今のオレだって順序立てて鍛え直していけば、何とかならないとも限らないぞ!」なんぞと、奮起する地点に着地したりする。
 まさに、高校野球夏の大会は、高校生たち自身のためにあるというよりも、その親たちへの親コウコウのためにあると言うべきなのかもしれない。

 しかし、それにしても高校野球のような「超大動員型」イベントというものの成立が次第に難しい時代になってきたようだ。サッカーくらいであろうか。そう言えば、サッカーも「地元応援型」ということになる。それがポイントかと思いきや、「国体」は今ひとつだから必ずしも「地元応援型」が決め手だとは言えそうにない。「地元応援型」で政界を牛耳ってきた自民党は、もはや根無し草になりつつあるとも聞くから、「地元」に依拠しようとする方式は、ムリが募ってきているのかもしれない。
 冒頭でも書いたように、わたしとて自身を振り返れば、地元志向が強いとは思えない。町田に住んでいるから、日大三高だ、桜美林だという意識はさほどない。現代人にとっては、「地縁」というものはさほどのものではなく、まして何か心を熱くさせる駆動力を持ったものとは思えない。
 むしろ、個人史に潜む過去の思い出にフックするような切り口を持つことが、「動員」を促す重要な要素なのかもしれない。その点高校野球は、誰にでもあった青春期のそれぞれの「汗」に見事にフックしているような気がする。
 もうひとつ注目したいのが、あの『冬のソナタ』のブレイクだ。不勉強にも一度も見ていないで能書きを言ってはいけないのだが、これもまた人々(特にオバサンたち)の青春期のそれぞれの何かにきっちりとフックしているからではないかと推定している。もちろん、ぺ・ヨンジュンの魅力など、構成要素の粒揃いという点も当然あろう。
 先日、中高年女性のファンたちの生態をTVで見たのだが、TVの前のテーブルの上に涙を拭くためのティッシュを用意して、ひとりTVに見入る女性が、盛んに口にしていた言葉は「初恋」なのであった。しかもプラトニックなものと拝聴した。男の青春の証しが「汗」ならば、女性のそれは「初恋」ということになるのだろうか。

 いずれにしても、現代という個人個人がウェートを占める時代にあっては、個々人の「心の琴線」とも言える何か、例えば青春の何かなどに触れるようなものでなければ、人々は重い腰を上げないというのが事実なのかもしれない。十把一絡げ(じっぱひとからげ)で、顧客なり、有権者なりに投網をかけようなんてことは不可能な時代であることは確かだ……。しかし、「心の琴線」というものは、細すぎて外からは見えにくいし、また当人にとっては切れ易くもあるし…… (2004.08.11)


 就寝前、風呂から上がると火照った身体を持て余してしまう。そこでクーラーの風を浴びながらクールダウンさせることになるが、そんな時、ちょっとした本を開いたり、落語CDにみみを傾けたり、あるいはTVをちょいとつけたりする。しかし、眠る前なので騒がしいだけの民放は敬遠する。NHKの総合か、教育のチャンネルに落ち着く。
 昨夜は、教育テレビの『目覚めよ 小さないのち ―自然再生に取り組む子どもたち―』という番組が楽しめた。
 元来、就寝前のテレビ鑑賞は注意を要する。安眠を妨げる結果になることがあるからだ。子どもじゃあるまいにと思うのだが、結構影響を受けてしまうからである。

 そこへ行くとその番組は、安眠を誘うには持って来いの内容であった。渡良瀬川(利根川支流)周辺の湿地に埋もれ眠り続けた湿地植物の種を、大学の研究者指導による地域の小学生たちが、見事に蘇らせるというドキュメンタリーなのである。
 昨今の河川は、災害防止とか開発とかの理由で何かと人の手が加えられ、大きな変化を被っている。理由は何とでもつくようだが、要するに従来の自然環境がドミノ倒し的に改変され、破壊されてしまう。
 当該地域は、かつて湿地帯としてその種の植物と野鳥や昆虫の宝庫であったらしい。ところが、現在では湿地の湿地たる源である水そのものがなくなってしまった。したがって、植物生態ががらりと変わってしまったのだ。

 しかし、自然を壊す人がいれば、憂い蘇らそうとする人もまたいる。
 「絶滅」に瀕する植物種を研究する研究者や、現状の惨憺たる状態に危機意識を感じる地元の人々が協力し、そして地域の小学校も力を合わせて「あること」にチャレンジしたのだ。
 ところで、植物というものは、想像を絶するような生命力を持っている。たとえば、あの「大賀ハス」の種は、縄文時代に生まれたものであり、それが二千年間地中で眠り続け、覚醒すべき環境に遭遇するまでただただ「死んだふり」して待ち続けていたわけだ。そして、自身にふさわしい環境が整えば、静かに晴れ舞台での演技を披露することになる。
 さらに、もっと遠大なスケールの話では、これは植物以前の微生物水準の話であるが、地球の地表が不安定な環境であった頃のことだ。一度地表に誕生した生物は、灼熱の高温や氷河期のような超低温の環境に見舞われた時、地表から避難して地下深くで生息し続けたり、または深海で生息し続けのだという話も聞いたことがある。
 ひとたび、奇跡の重なりで発生することとなった生物は、自然環境の激変をかわしたり、いなしたりする術(すべ)をもまるで心得たかのようなのである。

 これと同様に、過去の渡良瀬川湿地の植物たちも、しっかりと種の保存を図っていたらしいのである。つまり、すでに湿地ではなくなってしまった不遇に、「やぶれかぶれ」となるのではなく、彼らは、その種子をそう深くはない地下何十センチかの場所に貯蔵していたのである。
 番組では、こうした事実を読み取っていた研究者の洞察によって、当該地域の堆積土が掘り返され、その土で、小学校の校庭の一角に人工的な池が作られたのである。それは「ビオトープ(Biotop)」(※)と呼ばれていた。
 (※「本来の生態系が保たれた空間」、「もともとギリシャ語で『bio=生き物 + top=住むところ』という意味のドイツの造語です。広い意味で捉えれば森林や海洋などもビオトープと言えますが、一般的には“人間が生活・活動するところで”という但し書きがつきます。ドイツで高等教育を受けた人や環境保全に興味のある人は必ずといっていいほど知っている言葉で、この分野では欠かすことのできないキーワード」ドイツ環境情報のページ http://www.tiara.cc/~germany/index.html より)
 この「ビオトープ」に半年の歳月が過ぎると、そこは湿地帯としての植物生態がパーフェクトに蘇り、それとともに昆虫たちや蛙たちまで集結して、温存されてきた湿地帯光景が復元されたのだった。単なる土くれとしか見えなかったものの中に、無数の植物たちの種が保存されていたのである。

 近頃は夜更かしをあまりしなくなり、零時過ぎまで起きていることは少なくなった自分であったが、昨夜は充実した夜更かしをしてしまった。
 昨今、文部科学省は、青少年がいのちを軽んじる傾向を危惧して、いろいろな対策を採ろうとしているようだ。(泥縄的に!)その動き自体に異論はないが、その課題は、それこそ地中に避難して待機する植物の種たちが物語るように「根が深い」問題であり、表面的な小手先わざではうまくゆかないのだろうという気がしている。
 解決方法は、人間社会の「ビオトープ」化、つまり北米産の「セイタカアワダチソウ」(計算能力に長けた植物!)ばかりが繁茂するそんなやせた社会的土壌を見直して、多くの動植物が共存できる土壌づくりをこそするべきだと思うのだが…… (2004.08.12)


 昨日から、もう八〇歳にもなろうというおふくろは、例年のごとく「盆」の準備で忙しそうにしている。
 昨夕、家内から事務所に電話があり、急におふくろが座卓を購入したいと言っているとの連絡が入った。今日が、例年おふくろの住いで「盆」の「迎え火」を焚く慣わしとなっているため、おふくろは座卓を新調したいと考えたようなのだ。
 しかし、家具店なども七時を過ぎると営業しているかどうかが懸念された。しかし、思い立つとじっとしていられなくなる性分のおふくろだから、応じることにはした。
 クルマに乗せ、ニ、三箇所の家具店を当たってみたがいずれも営業終了、もしくは半端なものしか置いてなかったりした。
 当然、おふくろはがっかりしていた。たぶん、今日は今日で、掃除や料理などいろいろとスケジューリングをしていて、頭の中がいっぱいなのだろう。だから、解消できるものから順次片付けていきたいと思い、それが昨日の時点での座卓購入ということであったはずだ。わたしは、おふくろの気性を多く引き継いでいるためか、そのような段取り上での気のもみ方というものが重々想像できるのである。
 しかし、相手が店を閉めてしまっているのだからいたし方がない。結局、
「明日、十時にもう一度迎えに行くから、明日ということにしよう」
ということにしたのだった。

 そして、今朝、開店一番の家具店に押しかけることになった。
 幸い、最初の店で、おふくろもわたしも「うん、これならいい」と言える、形も色も文句なしの座卓が見つかった。ホッと胸をなでおろしたものだった。
「これならね、カオルやエツコのとこが夫婦揃ってきても、並んで座れるもんね」
と、おふくろはつぶやいていた。姉の娘たち(姪たち)が嫁いだり、嫁ぐことがしっかりと頭の中を占めているらしいことがうかがえた。
 そう言えば、昨夜もクルマの中で、この秋に嫁ぐことになるエツコが、マンションを町田近辺にしたことをうれしそうに話していたものだった。エツコが、彼氏におばあちゃんに可愛がられていることを話していたためか、その彼氏が「それじゃ、新居は△△にしよう」と言っておふくろの住いから遠くない場所に決めてくれたのだと、うれしそうに話していたのである。事実のほどはともかく、慕ってくれる孫の存在、そして孫のダンナの優しさがうれしかったと見える。
 確か、エツコは、年子の姉のカオルが病気だったため、その乳幼児だった頃おふくろがしばらく面倒をみていた記憶がある。赤ん坊を抱く腕が痛いと言っていたのも覚えている。それだけに、そんな孫が嫁ぐことになり、そして自分のことを慕ってくれることが心にしみるのであろう……

 明る過ぎることもなく、かといって暗過ぎることもない、シックな木目模様の座卓を、わたしはおふくろの居間に運び込み、据え付けた。やはり、気に入った家具が収まると気分がいいようで、おふくろは上機嫌であった。
「これで、ひとが来るといっても安心。この先ずっと使えるしね。それにあたしが死んだあとはあんたが使えばいいんだから……」
 きょうの午後は、姉や家内が駆けつけて、料理やその他雑事を手伝うことになり、そして夕刻みんなが揃ったところで例年の「盆」の行事、「迎え火」が焚かれることになる。

 わたしは、おふくろのところから事務所へ向かうクルマの中で、これまでの「盆」のことを振り返っていた。今は亡父を「迎える」ことが中心となっているが、と思った時、その亡父が存命の時のことを思い起こしたのだ。
 わたしが名古屋在住の頃、「盆」休みにはポンコツのカローラで東名高速を飛ばして町田に戻ったものだった。おやじが生きていたその当時、やはり「迎え火」を焚いたものだった。が、その時は一体誰を「迎えて」いたのかを、少なくともわたしらはあまり意識していなかったように思い出したのだった。
 というのも、おやじ方の祖父母とわたしは面識がないからである。おばあさんの名「保江」からわたしは一字をいただいたとのことは知っているが、亡父は末っ子だったため、孫であるわたしは祖父母との面識を持つことができなかったのである。
 おふくろとエツコとのことに気づいたからということなのか、今夕の「迎え火」の際には、亡父の後に保江おばあちゃんが控えているかもしれないことを意識してみることにしよう、と思った…… (2004.08.13)


 「『不機嫌』女房、『無気力』わが子――『強い母親、父親不在』の家族心理学」という雑誌の特集記事が気になり続けていた。(『プレジデント』8.30号)
 いつもながら、新聞の雑誌広告が目に入っただけであり、購入して読んだわけではない。しかし、この雑誌はいつもながら「うまい切り口」を提示するものだ。現在という時代の事情を実にうまく照らし出すものだと思う。
 『不機嫌』という形容が実にリアルで凄い。思わず頷いてしまうほどの訴求力を持っている。わが身に照らしてもである。年配であろうが、若かろうが、多くの亭主たちのほぼ共通する実感ではないかと思う。
 先日も、ある年配の知人と話しをしていたら、どんな文脈であったかは忘れたが、奇妙なことを言っていた。
「かあちゃん達っていうのは、どうしてああうるさいのかね。女っていうのは、何でも支配しないと気が済まない動物なんだろうね。だからオレは最近、『女房、子どもはいない! オレは一人なんだ!』と思うようにしてるよ。 おまけに、いろんな人間もわずらわしいから、口をきく動物がわいわい言ってるんだと思って、極力いなすようにしてるよ……」
 とまあ、随分と「引いた」姿勢で話していたのだ。冗談半分ではあったのだろうが、まんざら冗談ばかりではなく、ホンネのある部分はそんな「自閉的気分」に浸されているように感じられた。現に、わたしにそんな気分がまったくないとは言い切れないような気がしてもいる。
 たぶん、この事実と「不機嫌」女房(そして「無気力」わが子)という現象とが一対になっているのだろうと考えている。

 一時期、あれは確か、「モーレツ社員」だの「ワーカーホリック」という言葉がマスメディアを賑わした頃であったか、「父親不在」なぞという言葉で亭主たちがあげつらわれた時期があったかと思う。確かに、世の父親たちは、仕事にかこつけて家庭との間に距離を置いてきた。「母子家庭」状況をさえ作っていたと言える。
 その事実を、企業のせいにする視点もあった。しかし、真実はそんなものではなかったのかもしれないと思っている。もっと奥深い問題があったような気がしないでもないのである。
 また、家庭を空ける状態(「父親不在」)から、父親の「権威」が薄まったのだとの評論もなされたかに思う。確かに、「不在」状況は、不利な条件づくりであっただろう。しかし、これもまたちょっと違うのではないかという気がしている。というのも、戦前の亭主たちは、家庭にべったりと居続けることによってその「権威」を維持していたのかといえば、必ずしもそうではなかっただろう。結構「父親不在」状態を決め込んでもいたのではないかと思えるのだ。

 要するに、今日の父親たち、亭主たちの「自閉的」状態(⇔「不機嫌」女房)の率直な理由はと言えば、家庭をないがしろにして不在を続けてきたという素行不良も災いとなっていないとは言えないのだが、何よりも「男性主導型文化」のじわじわとした崩壊だとした方がわかりやすいような気がしている。
 この「文化」の衰退は、自民党の衰弱以上にじわじわと緩やかに進行してきたようだ。本来を言えば、封建的文化が終息したとされる終戦後に壊滅するはずであった。しかし、民主主義を持ち込んだ米国文化とて、「レディ・ファースト」の看板の陰では、「男性主導型文化」のホンネが消せないでいたはずである。(これはこれで重大なテーマなので深入りはしないでおく)
 結局、「男性主導型文化」は温存され続けてきたのであり、それはあたかも、経済における「生産者主導型」(⇔「消費者主導型」)と両輪的なペアであったのかもしれない。まさに、経済繁栄とペアであったからこそ、「男尊女卑」的な「男性主導型文化」も社会から背かれることがなかったと考えられる。青少年の非行その他の社会的問題が生じ始めていた時期にも、「父親不在」状態が黙認されていたのは、そうした文脈であったのであろう。
 ところが、この十数年で、経済はガタガタとなり、またそのプロセスは経済が「消費者主導型」へと大きく舵を切り始めた時期であった。「消費」を牛耳る主婦をはじめとする女性の意向が経済社会的に急浮上してきたわけだ。
 そして、経済の表面的な現象にばかり目を向けてきた亭主たち、男たちは、自分たちを乗せて運んでくれていた文化の絨毯と言ってもいいし、風と言ってもいいそんなものが急速に頼りないものになって行ったのに、気づくのが遅すぎたのだった。
 気づいたのは、それは無情に激変した経済がリストラなどによって亭主たちを切り捨てた時であり、「波止場」なんだと勝手に思い込み続けてきた家庭に急いで目を向けたならば、そこには「不機嫌」さを隠さない女房がつれない顔をしていたという時だった、となるのであろうか。

 書いていても何ともじめじめした話であるが、概ね世の亭主たちに共通した事実ではなかろうか。少なくとも、現時点では「自閉的」にしかなれない道理なのである。「鬱」病にならないだけでもお目こぼしとさえ言える状況なのだろう。(だろう、なんぞと他人事を気取っていてはいけない……)
 この国の経済の立て直しも緊急の問題には違いないのだが、そのためにも、急浮上している課題というのが、「亭主たち、男たちの建て直し問題」であるように思われるのだ。だが、こう言ったからといって、「慎太郎」や「(寺内)貫太郎?」ふうの「父親復権」論では到底ムリであることを言っておく必要があるだろう。もはや「張りぼて」の権威もどきでは通用しない時代環境となっているからだ。
 じゃあ、亭主たちは「自閉的」でもなく、「『両』太郎」ふうでもない、はたまた一時期はやった友達ふうパパでもない、一体どんな存在になるべしというのだろうか。ちょっと、当てにしてみたい「材料」があるのだが、後日に持ち越したい。
 しかし、こうした問題は、特にこの国にあっては、きわめて重要な課題であるように受け止め始めている。この課題の解決が、政治問題(戦争!)、経済問題、はたまた頻発している社会問題に大きな影響を及ぼすはずだろうとにらんでいる…… (2004.08.14)


 今朝は、のんびりと朝寝坊をしてしまった。
 早朝目覚めた際、あれっクーラーをつけっぱなしで眠ってしまったか? と思った。それほどに涼しかったからだ。窓の外からは、存在感のある雨音が聞こえていた。昨日までのあの酷暑と較べると、まるで、いながらにして「避暑地」にでも来たようなうれしい気分となった。しかし、「避暑地」はあいにくの雨に見舞われたということになる。
 いつもは、日が昇ると東側の窓からの陽射しで部屋の中はむっとする。一度目が覚めると、再度そのむっとした寝床に横たわる気がしなくなるので、否応なく起床しなければならなかった。

 だが、今日は違う。涼しいというよりも、掛け布団をはいでいたためか、薄ら寒い思いすらしていた。ということもあってか、布団が心地よく思えたのだった。そこそこの雨だから、ウォーキングを中止にする理由も整っていた。こんな朝こそ、ゆっくりと「寝だめ」をすべし、という心のささやきが聞こえてきたりした。
 それで、今朝は十分堪能するような朝寝坊をしたのだった。
 再び身を起こした時にもまだ雨は降り止まないでいた。今日は、雨の日曜日ということになるんだな、と思い、階下に降りる。
 茶の間の猫たちも、今日はいつもと違うと感じていたのであろうか、ちょっと素振りが異なるように見えた。一匹は、このところ、キッチンの比較的冷たい床に熱を奪わせるように張り付いて伸びていたのが、今朝はわたしの座布団の上で横になっていたのだ。また、もう一匹は餌をねだるという意味もあったのだろうが、べたべたと擦り寄ってくる。わたしの方も、いつもの暑い時には、擦り寄ってくるそんな感触は拒絶気味であったのだが、今朝は猫の体温が懐かしい感じさえしたからおもしろいものだ。

 しかし、とにかく、ほっとした気分で始まった一日であった。おそらく、また明日になれば、あの暑さが舞い戻ってくるのだろうと思うと、さて、この涼しい今日は何をやるべきかと考えたりしたものだ。
 結局、以前から家内に頼まれていながら、のびのびにしていた大工作業をしなければならないことに気づき、そんなことに落ち着くのだった。大工作業は嫌いではないにしても、酷暑の中だと、汗だくになる様子をただ想像するだけでおっくうになってしまうのだった。物置に行き、整理されていない雑多なモノの中から必要な道具などを探すことに伴う、頬を伝わって、首筋に伝わって落ちる汗のことを考えると、いやな気分で首を振り、結局、先延ばしにしよう、ということになってきた。
 ところが、今日は違った。ゆっくりと熟睡したという点もあるのだろうが、考えた作業手順どおりに、身体はてきぱきと動く。要するに、動く前に、いやーな気分が妨害するというようなことがなかったのだ。
 作業途中の正午に、市役所から聞こえてきた「今日は〜、終〜戦記念日で〜す。黙祷〜をささげて〜くださ〜い〜」という放送にも、何のためらいも、抵抗もなく黙祷している自分であった。酷暑続きに突然与えられた心地よく涼しい天候は、なんだか、人を限りなく素直にさせるものであるようだ。
 あっという間に、作業も終わってしまったので、裏庭に出たついでということで、伸び放題に伸びてしまっていた植木や、つるをばっさばっさと「散髪」までしてあげたのだった。

 天候にここまで左右されるのが人間なのかなあと思うと、人間の動物的側面というか、自然的側面というか、そんな不変の人間性のようなものがいじらしくも感じられた。人間が、自然に対抗して「人工の道」を走るのもやむを得ないが、自然から離反してしまうとろくなことにはならないんじゃないか、まして、自然を撹乱するようなことをし続けるのは、結局人間にとって悲劇なのだろう、と感じたりした。
 終戦記念日である今日が、連日続いた酷暑の中での突然の涼しい一日であったこと、それは偶然以外の何ものでもないのではあろうが、なぜだか暗喩的な意味を探したりしてしまうのだった…… (2004.08.15)


 比較的簡単な「ソフト・ツール」を使って、その代わりむしろ「コンテンツ」にこだわってみる、というのがわたしのひとつのポリシーだと言える。
 その最もいい例は、言うまでもなく「インターネット・サイト」であり、その際の「ソフト・ツール」とは、「HTML スクリプト」であったり、「CGI」の「Perl」であったり、「Javaスクリプト」であったりする。こうした、比較的安易に扱えるツールを駆使して、どんなメッセージの提供や機能の実現を図るのかという点こそが重要だと思えるからなのである。

 そうしたコンセプト優先の「ソフト・ツール」にはいろいろなものがあろうが、オンライン領域での「HTML スクリプト」と並んで、オフライン領域では、「MS PowerPoint」に従来から注目してきた。また、自分なりに結構その活用可能性を実地で模索もしてきた。
 「MS PowerPoint」は、いわゆる「プレゼンテーション」ツールだと認識されてきたわけだが、「プレゼンテーション」というとすぐに販売ツールのみに限定されがちかもしれない。しかし、それは実用目的のほんの一部であり、わたしは広く「インストラクション」ツールだと考えている。学習教育はもちろんであるが、作業手順でもいいし、ものの構造でもいい。また、ものの考え方でもいいのだが、何か他者に伝えたい、わかってもらいたいという場合に、言葉だけでもいいと言えばいいのだが、より他者がわかり易くなるのは、やはり形や動きが確認できるビジュアルなメディアや、理解度を促進させるサウンド・メディアが駆使されることではないかと思っている。
 その点で言えば、「MS PowerPoint」は、そんな豊富な機能を持っていて、しかも、手軽にコンテンツを構築できる。そんなことで、自分は楽しみながら「試作品」に毛がはえたようなものを作ったりしている。

 別にマイクロソフトに肩入れするつもりでもないのだが、「MS PowerPoint」のもう一つのメリットは、作ったコンテンツを他者に有償、無償で配布する際、それを閲覧するツール、つまり「ビューア」が「無償」だという点であろう。配布された側に「負担をかけない」ということは重要な点だと思われるからだ。とかく、発信側はわかってもらいたいという動機や、購入してもらいたいという動機があるから、受信側の負担や苦労がどうしても過小評価されがちとなる。多少の金銭的負担や、ちょっとした努力はあって当然だと考えがちである。
 しかし、それは、もしかしたらそのコンテンツを納得した後でそう思うことがあるかもしれないだけである。しかし、それ以前に、発信側と同程度の動機なぞはあるわけがない。とすれば、受信側、受け手側の金銭的負担や注がれる努力は小さいに越したことはないと言うべきだろう。
 昨今のインターネット上の通信販売の「ソフト」が、一定期間、機能限定で「試して」から、ご購入くださいというスタイルとなっているのも道理のあることだと感じる。

 ところで、今日このようなことを書いたのは、何度も書いてきたことを繰り返そうと思ったわけではなく、別の理由があったからだ。
 わたしは、「MS PowerPoint」の「製品版」を自分のPCにインストールして、いろいろなコンテンツを作っている。そして、他者への配布に際しては、「無償」の「ビューア」が自動的に起動するように仕掛けている。誰もが、製品版を購入して、インストール済みだとは限らないからである。
 ところが、こんなPC環境で作っていると、「製品版」の機能がベースとなってしまい、「無償版」の「機能限定」のことがつい軽んじられてしまうことになる。よく知られているように、ウインドウズは、データであってもクリックすれば、「拡張子」に関係づけられたソフトが自動起動して、そのデータを立ち上げてくれる。そして、「MS PowerPoint」の「.ppt」という「拡張子」を持つデータは、「製品版」のそのソフトを立ち上げてしまうので、どうしても「無償版」のソフトの「機能限定」が意識されにくいというわけだ。
 で、大半ができたところで、「無償版」のソフトの「.exe」ファイルを起動して、当該のデータを呼び起こしてみると、な、なんと、結構様子が違うではないか。なるほどなあ、と思わされたりするのである。

 そんな時、わたしの頭をよぎる言葉は、「我田引水」であり「自家中毒」なのである。自分のPC上では問題なくうまくゆく。それは、「製品版」をはじめとして、「拡張子」の関連付けの設定やその他、うまく行って当然のお膳立てがされているからである。
 これはあたかも、ひと、個々人が、自分で思い悩んだり考え続けたり、感じ続けたりしてきたことは、言わずもがなでわかるから、ついつい他人も同じだと錯覚してしまうことと結構似ているのではないかと、そう感じたのだった。
 自分の頭や心で発生していることを自分がわかった気になるのは、(本当は違うとしても)当然と言えば当然だと思われる。しかし、他人の頭や心の中で、自分と同じプロセスが展開している保証など何もないはずであろう。たとえ、同一の現象を見たり、遭遇したりしても、人それぞれの「受信装置」は、それぞれ異なった受けとめ方をするのが事実のはずである。だからこそ、他人とは「揉み合って」自他の相違と、共通性を検証し続けなければならないのであろう。

 そうした「揉み合い」というのが、人間の接触、交流、関係であり、社会性ということになるのであろうか。「貧しさ」に特徴づけられた過去の社会にあっては、何かにつけて共同的な生活事象が多かったため、それは自然になされてもきた。
 しかし、「豊かさ」に特徴づけられた現代では、個人優先傾向が強まり、それはそれで悪いわけではないのだが、人間関係というものを極力排除する流れに入り込み、個人の孤立化傾向が強まっている。
 ここから、どうも自分と他者との相違と共通性がのみこめなくなっているのではなかろうかと推定するのである。一方で、自分と他者とは違う! と言い切ってみたり、あるいは、逆に、「だってみんなそうでしょ? みんなそう考えているに違いないよ」と思い込んでしまったりということが、いたるところで頻発しているような気がする。
 まるで、世間を知らない子どもが他者との関係でギクシャクしている事情が、そのまま大人社会にも蔓延している、と言ったら言い過ぎになるのだろうか…… (2004.08.16)


 大したシステムでもないにもかかわらず、久しぶりに遭遇したテクニカルな不具合に、昨日、今日と引き回されてしまった。大体、こうした不可解さに直面すると意地を張る性質(たち)なので、どうにもならない。
 昨日も、スケジュールの都合で入れ込んでいる社員と一緒になって、深夜まで頑張ってしまった。で、今日こそはと意気込んだものの、同じようなテストを何回となく繰り返し、途中、ツール側にさしたる断わりもない選択肢の分岐の差異に気づき、その点を踏まえて試行錯誤した結果、ついさっき無事当面の不具合をクリアすることができた。
 大したシステムでなくとも、さすがに、自分の思い描いた機能が先ず先ずその通りに実現するとうれしいものである。

 ところで、現在のソフト・システム構築作業では、大なり小なり、「中身が不明」のソフト・ツールを使って作業を進めることが多いように思われる。「中身が不明」というのは、そのツール・ソフトの「ソース・コード」が公開されていないこと(公開されていてもそれが読みこなせるかどうかも問題ではある)や、ベンダー側の解説書やサポートが必ずしも十分に揃っていなかったり、要するに、道具としての使い勝手にいろいろと問題点が潜伏していることが少なくない、ということである。
 もちろん、道具というものは、どんな便利なものでも、それを使う側の習熟度や力量が無関係というわけにはいかないだろう。どちらかといえば、わたしは使う側が力量を高めていくべきだろうと考えている。
 ベンダー側が、極力使い勝手を良くする努力を惜しんではならないのは言うまでもない。しかし、あとは、ユーザー側がバトンタッチしたつもりとなることも大いに必要ではないかと思っている。

 落語に、遊びほうけて親父から説教を食らうドラ息子が、
「こんなあたしを作ったのは誰なんですかね。そちらにも製造責任というものがありゃあしませんか。良かったら自分のものにし、悪かったら勘当だというのは無責任過ぎやしませんか……」
と、屁理屈を言う場面がある。一理はあると言うか、親子関係はともかく、一般の商品である製造物に関してはPL法というれっきとした法律があるくらい製造側の責任が重いのが実情である。それはそれで当然な理屈であろう。
 だが、製品が「危害」を及ぼすのはその理屈で対処されるべきだとは思うが、製品がプラス面でどこまでの可能性を秘めているかという側面は、専らそれを使う側の工夫次第ではないかと思っている。
 落語の中のドラ息子だって、親から貰った命と、煩わしかったかもしれない躾教育は、いわば抱き合わせなのであって、そうした材料をもとにして、さて自分がそれをどう活用するかに気づいていないと言うべきだろう。まあ、そんなことはわかっていての屁理屈なのではあろうが。

 翻って見渡してみると、現代という時代環境は、道具と材料に溢れかえっているわけだ。ソフトウェアの領域でもまさにそのとおりだと思えるし、デジカメ、ケータイなどの家電領域でも同じことが言える。問題は、それらを使いこなすユーザ側のパワー不足以外ではない。時間もないといえばそうだし、根気もあるはずがない。まして、何か、自身の固有の目的や願望が鮮明になっているわけでもない。つまり、道具の高度化に匹敵する人側のポテンシャルが乏しいということになる。こうしたパワーやポテンシャルが急速に上昇するとは考えにくい。
 そこで思うのは、道具類を使って何か不具合に直面したら、すぐに身を引くのではなく、とことんこだわってみてはどうかと思う。人間の心理は、ネガティブな事象に直面してみないと、その裏返しとしてのポジティブな願望やビジョンというものが自覚できない仕組みとなっていそうだからだ。昔の人々が苦労というものを持ち上げた表現をしたのも、実に理に叶った見識だと思える。

 わたしの場合、そんな理屈で目の前の不具合に食らいつくのではなく、性分としてそうでしかあり得ないのだが、それが何がしかの駆動力となっていることは確かなような気がする。
 今、ちょうどオリンピックで、「スポ根」的な言辞が飛び交っている。この間、アナウンサーや評論家の口から、「執念」という言葉を何度聞いたであろうか。が、単なる物言いのファッションレベルではなくて、事実、人の可能性を引き出す何かとは、ひょっとしたら「執念」以外にはないのかもしれない。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という避けて通りたいような言葉があったが、まったく現代とは異質のようなそんなモードの中に、重要なものが隠されているのかもしれない…… (2004.08.17)


 猛暑がぶり返した。午前八時前ですでに三十度を超えた。この二日間の涼しさでほっとしていただけに、うんざりとした気分で閉口している。この間は、昼は昼で、蝉たちがここぞとばかりに鳴き騒ぎ、朝夕には涼しさに心地よくした秋の虫がこれまた気持ち良さそうに鳴いていたものだ。
 そんなことはないと予想しつつも、このまま秋になりあの暑さが来年までお預けとなるのか、あとはどんどん涼しくなり、やがて心も萎縮しがちな冬となり、春の来るのを待つ姿勢か……。ちょっと惜しいというべきかな……、なんぞとおさまり返っていたら、今朝のこの暑さだ。
 ちょうど、バカで騒がしいフーテンの寅の不在を、寅屋のおいちゃん、おばちゃんが、「なんだねぇ、あんなバカでもいないっちゅうと何かさみしい気がするもんだねぇ」
「そうだねぇ、いないとなると妙になつかしくなったりしてね」
なんぞと、団子にあんこをまぶしながら、絶対帰って来ないことを前提にして話をしていると、
「ヨーッ、おいちゃん、おばちゃん元気かぁ」
なんて、あの恰好で安物の土産包みをぶら下げて店先に立つ、といったイメージであろうか。
 あればあったで煩わしいし、無けりゃ無いで心淋しいこの暑さである。

 思えば、そんなジレンマというのが人の世のならいとでも言うべきなのかもしれない。 「青春時代が 夢なんて 後からほのぼの思うもの 青春時代の真ん中は 胸に刺さすことばかり」(『青春時代』森田公一とトップギャラン、1976年 c.f. http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/seishunjidai.html)という例がわかりやすいかとは思う。
 また、仕事でもそうだ。あればあったで、スケジュールに追いまくられうれしい悲鳴に辿り着く前に、本物の悲鳴をあげることとなる。ところが、途絶えると、本物の悲鳴をあげていた時期をふるさとのように望郷したりする。
 身体の健康にしても同じことであろう。健康な時というのは、不思議といえば不思議であって、何の兆候や、何の証しというべきものもないのだ。健康! というメッセージが到来して自覚されるというようなことがない。まあ、あるとすれば「今日も元気だ、タバコがうまい!」というお仕着せのフレーズどおり、タバコがまずくない感覚があるくらいであろうか。いや、そんなこととて意識していないであろう。
 むしろ、健康な時には、当然のごとく他の不満や悩みへとしっかりと意識が移行していて、そんなことで右往左往しているはずなのである。健康であることとは、昔の徴兵制での「甲種合格」ではないが、「名誉」にも「お墨付きで戦死できる」ように、この世の苦労を「お墨付きで背負い込むことができる」以外の何ものでもないのかもしれない。
 ところが、一度(ひとたび)健康を害すると、これは強い自覚となって表れずにはいない。痛みやそれに伴う不安感が、いやというほど病を自覚させる。と同時に、そんなものが何も無かった健康な時のことをなつかしく照らし出さずにはいない。

 突然ヘンな話となるが、「刑務所」というものに関心がある。そんな状況を紹介するTVドキュメンタリーがあったりすると、興味深げに見ていたりする。そんな本を書店で見つけたりすると、「ショッピングカート」に加えていたりする。
 なぜかと考えるに、いわゆる「恐いもの見たさ」というのだろうか、つまり、最も自分が貴重だと思っている自由というものが、どの程度束縛されるのかという点に興味津々だということになるのかもしれない。
 若い頃、名だたる思想家や革命家が、「獄中手記」とかいうものを著わしたりしたものを緊張感をもって読んだ覚えもある。そんな時、身体は拘束されていても精神は束縛されないことに感動したり、果たして自分ならどうだろうかと戦慄を覚えたこともあったようだ。
 また、「塀の外」での日常生活では持て余すほどの自由の中にあって、結局、自堕落な生活をしているのに対して、「塀の中」では、束縛されることがかえって意識の自由を制御し易くなるのかもしれないなあ、なぞと能天気なことを想像したりもしたのだ。
 残念にもと言うべきか、幸いにもと言うべきか、未だに「塀の中」の経験をさせられたことはない。まあ、生涯、経験しないでいた方がいいのだろう。
 ただ、当たり前のように受けとめている自由というものを手堅く受けとめ直してみたいという衝動は消せないでいる。

 人は、失ってからのみ失われたものの重みを実感できる存在なのであろう。なぜなのだろうか。なぜ、「リアルタイム」で事実を事実として、存在を存在として受容したり認識したりしにくいのであろうか。いろいろとその理由は考えられないでもない。
 しかし、そんな理由よりも、それでは、人は不幸過ぎるじゃないか、という思いが募るわけである。だからこそ「一期一会(いちごいちえ)」(一生に一度しか会う機会がないような縁であること。「一期」は、仏教で一生のこと。千利休の弟子、山上宗二の言葉で、本来、一生に一度の出会いと心得て、真心をこめて行うという茶会での心得をいったもの。――『広辞苑』より)の言葉によって、「リアルタイム」で得るべきものを得なくてはいけないということにもなるのであろうか。
 常に、失うことを予期しつつ事に当たる、と偉そうなことを言ってもみたくはなるのだが……。それにしても、この暑さはもういいなあ、あとでゆっくりと思い返してみたい類のものだなあ…… (2004.08.18)


 通勤途上の裏道に入った正面に、おっと、と思わされる大看板が目に入る。
「ちえだぜ ねばりだぜ」とあるのだ。そう真っ当なことを、真っ当に主張されるとひるみがちとなってしまう。しかも、「……だぜ」と乱暴に突きつけられると、そりゃそうだけどさあ、昨晩見たオリンピックの試合にしたって、何てったって「ねばり」だよね。ただ、それがうまく引き出せないからみんなあくせくしてんじゃないのお?
 クルマがその大看板に近づくと、そこは何と小学校の裏門であり、その裏門越しの正面校舎のてっぺんにそんな看板が掲げてあったのだ。
 しかし、小学校なら「……だぜ」とはいささか粗雑すぎるのではないか、と良く見ると、とんでもない見間違いであり、正確には「みんなで ちえだせ ねばりだせ」というスローガンなのであった。「みんなで」という部分が遠くからは見えなかったし、「……だぜ」とは手前勝手な思い過ごしであったのだ。なんだ、そうか、と妙に胸をなで下ろして左折した。

 しかし、「みんなで ちえだせ ねばりだせ」とは良く言ったものだと思えた。今の子どもたちにとって、いや大人たちにとってもそうだと言いたいが、「知恵」を働かせること、「粘り強く」事に当たるということは、強調してもし過ぎることはない。しかも、「みんなで」という「協働」部分がさらに重要かもしれない。
 そう言えば、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあった。「凡人でも、三人集まって考えれば、知恵をつかさどる文殊菩薩の知恵のような一人ではとうていでない、いい知恵が出るということ」(広辞苑より)だそうだ。どうも、このことわざの中には、知恵の出方だけでなく、「粘り」も含まれているような気がしてくる。一人では、知恵そのものが出にくいだけではなく、その前に「まあ、いっか」というあきらめの方が出やすいのかもしれない。そこへ行くと複数人なら相互に助け合ったり、牽制し合ったりして「粘れる」という事情も十分ありそうである。
 あの『プロジェクトX』の世界は、概ねこの「みんなで ちえだせ ねばりだせ」を地で行く世界なのであろう。そして、中高年世代のファンが圧倒的に多い事実は、残念ながら、そんな世界が今希薄となってしまっている現実を反映しているのかもしれない。

 言うまでもなく、現代は「個人」に焦点が移された時代である。「知恵」を出すのも、「粘る」のも「個人」としてやるべきだと叫ばれているようだ。「集団主義」としての甘えや依存を抑止しようという視点は了解できる。しかし、それを強調し過ぎる人々は、ひょっとしたら自身が多くの人々や、集団によって支えられている、あるいは支えられてきた歴然とした事実を忘れ去っているのかもしれない。自分一人で現在の位置を築き上げたという貧しい錯覚に陥っているのかもしれない。容易に想像できる事情であろう。
 昨夜、オリンピック競技(柔道)を見ていて、思ったのだが、勝者は確かに恵まれた身体や資質を持ち、また並大抵ではない努力もしたはずであろう。しかし、おそらく一人で達成できる偉業ではないであろう。コーチはもちろんのこと、さまざまな支援、応援体制があってこそ実る事業だと感じた。だから、勝利を掴んだあと、素直にそうした事実を表明しようとする選手の姿は素晴らしいと思えた。
 また、敗者の姿にも美しさがあるように感じたものだ。
 勝者がガッツ・ポーズをとるのは、わからないではないが、見ていてあまりいい気分とはならない。むしろ、大人しくゼイゼイいっていた方が、よくがんばったとの一言を与えたい気がする。
 それに対して、敗者の沈み込む姿は、判官びいきという心理も働くのだろうが、抵抗感なく見つめられる。いや、昨夜は、なぜか敗者の表情や姿に大きなリアリティと美しさのようなものを感じたりした。なぜだかはよくわからないが……。

 いわゆる団体競技は当然のことであろうが、個人競技にしても、決して個人単独の事業でないことを示しているのが現代スポーツ競技というわけだが、これは人の世を照らし出していると考えたいと思った。スポーツは現実を象徴する面があるような気がするのだが、それは極限に挑むと、やはり事実に即した運びに近づかざるを得ないからなのだろうか。単なるサイエンスだけでも済まないし、もちろん精神主義だけで成し遂げられるものでもなさそうだ。その両者が見事に融合した、まさしく現実の道理に符合した際に成果が結実すると言えるのかもしれない。
 その重要な一つが、人間は集団とともに得るべきものを得るということであるような気がしている。
 今、経済社会をはじめとする社会全体が、まるでスポーツ競技さながらの競争状況になってきている。しかも、「成果主義」という「個人主義」の空疎な原理が持てはやされてもいる。しかし、これで、実りある創造的成果に近づけるのであろうか。どうも違うような気がしてならない…… (2004.08.19)


 自慢じゃないが、わたしは「ブランド」に関しては疎い。そもそも「ブランド」ものにどんなものがあるのか良くは知らない。だから、欲しいという衝動が生まれない。それはそれで構わないとは思っているが、必ずしも正解だとは心得ていない。
 それを入手するかしないかは別問題として、世の「ブランド」に何があるのか、その傾向とは何なのかくらいは知っていて当然ではないかと、反省する部分がある。
 というのも、自分が欲しいかどうかだけではなく、他人が何を欲しがっているのかを知ることは無益ではないと思うからである。どうも自分は、自分は自分、他人は他人と思って超然としがちな傾向が強いかもしれない。独立独歩、唯我独尊も悪くはないと思っているが、己を空しゅうして人(他人)様の胸の内を慮る(おもんぱかる)度量がなくてはいけない、とも思ってはいる。まして、時代は、モノの実体がどうかということよりも、人々がどう感じているかがウエイトを占める時代でもある。ここら辺をうまく処理できないと、「儲けたり」「成功したり」することはおぼつかないのだろう、という予感がしないわけではない。

 同じ「ヤスオ」でも、『何となくクリスタル』を書いた田中康夫氏は、その著作でもいわゆる「ブランド」名を頻発させていた。たぶん、そんな感覚と姿勢が、一方では自己主張の強い彼でありながら、県民の感覚をとらえることにもなって現状を維持しているのであろう。
 つまり、「ブランド」というものは、わたしに言わせればモノの実質・機能とはかけ離れて、到底必死になって追い求めるものではないのだが、世の中はこんな自分みたいな意固地な人間ばかりではないようだ。実質・機能なんていう「古風」な基準に縛られずに、「……ていうカンジ」という「カンジ」の部分を何よりも重視する人々が少なくないようだし、そのロジックをうまく運用して抜け目なくカネという「最高の実質・機能」を手にする人々も多い。
 だが、わたしとて、実質・機能という基準にしがみついているばかりの人間ではない。モノよりも、デザインやコンセプトに価値が見出される、いわゆる「ソフト化経済」の趨勢くらいは了解しているし、そんなビジネス姿勢を採ろうともしているわけだ。
 だが、広い意味での「ソフト」であっても、外延が広げられて「ブランド」という「極致」にまで突き進むと、ええーっ、そんなのありかあ、と感じてしまうのである。その辺の、「境目なし」というルーズさというか、横着さというか、ハッタリというかが呑み込めないのである。ここが、自分の「清濁、併せ呑む」鷹揚さの足りないところであるのかも知れないと自覚はしている。

 しかし、どうも「日本人は『ブランド好き』」であるらしい。(朝日新聞 文化欄記事「うつろう 100年目の大衆社会 他者の欲望が誘うブランド熱」)
 社会のニーズに敏感なはずの「欧米の機関投資家」でさえ、「ブランド」商法で急成長した「コメ兵(こめひょう)」などには、「自分の国では考えられない」と驚いているらしい。
 もちろんそんな気がわたしもするのだが、なんせわたしはその日本で生きているのだから、その事実を事実として見つめるほかないわけだ。
 同記事の論点をかいつまむと、「ブランド」志向というのは、「自分が欲しいモノが欲しい」という気まぐれな個人の欲望の結果だけではないというのだ。何かを欲しがる心理は、「自分の個人的な欲望のように見えても、そこには他者の欲望が入り込んでいる」というのである。
「高級ブランド品は、名前や価値を多くの人々が知っていることで初めて記号としての意味を持つ。『他人も欲しいもの』だからこそ、競って手に入れようとする。そこで意識されるのは常に『他者のまなざし』なのだ」そうである。
 そして、こんなロジックが展開するのは、
「希薄になった人間関係の代わりに、モノとの確かなつながりで自己を確かめようとしている」現状ではないかというのである。
 さらに、
「いつの間にか心の中には他人の欲望が入り込んでいる。その欲望を満たすために消費し続ける。現代人は寓話のような不思議な世界に迷い込んだのだろうか」と問い、
「実は、我々が生きている社会は、ますます魔法の世界に近づいているのです」という学者の言葉を紹介している。「問題は魔力を見抜く力」であるにもかかわらず、この力がこの国では衰退していて、「限りなく魔法の王国に近づいている」と示唆しているのだ。

 わたしが率直な感覚で思うことは、やはりこの国は「郷に入っては郷に従え」の処世の法が強烈な社会なのかという点だ。そして、経済という枠が、この法をしっかりと支えているのだろうという悩ましい事実でもある。
 「除け者」「よそ者」となってしまっては、経済活動がままならず、その呪縛が「内輪(うちわ)」の意向、欲望に対して、過度に神経質にさせるのかもしれない。
 TVに出て知名度を上げたがる学識者、TVコマーシャルの連呼だけでのし上がる新参企業、購読者・視聴者が離れることを極度に警戒して迎合報道をし続けるマス・メディア……、皆「郷に入っては郷に従え」という「鎖国的倫理」を後生大事に守り続けているのが、「魔法の王国」の実態なのであろう……。「ブランド」志向は、氷山のほんの一角にしか過ぎないわけだ…… (2004.08.20)


 出不精で、ホテル・旅館探しなぞをあまりやり慣れない自分が、急遽対応せざるを得なくなった。親戚筋十名ほどの参加者で、秋の行楽シーズンの土曜日宿泊という結構難易度の高い条件で探すという課題である。もちろん、費用は低価格に越したことはない。
 こんな時こそ、インターネット検索かと思い、さっそくチャレンジしてみる。
 先ず気づくことは、得体の知れない業者が旅行代理店まがいのサイトを張っていることだった。当然、警戒するに越したことはない。要するに、仲介業者が、旅館・ホテルなどと「斡旋枠」の契約をして、サイトで客を探すというビジネスのようだ。
 もちろん、気の利いたホテル・旅館では、自前のサイトを開いて、そこで「空き紹介」の検索まで運営しているケースも少なくない。こういう場合は、まずまず安心できそうだと思える。
 ただし、最も安心できるのは、かつて自分が滞在して経験的情報を得ている場合であることは言うまでもない。旅行の「幹事役」を果たそうとするならば、自身の旅行とは異なっていろいろと気を揉まなければならない。もし、事前情報と大きく異なったホテル・旅館だったりした場合には、一人旅での自身の不運を嘆くだけでは済まないからだ。面目や信頼が損なわれることは避けられないであろう。

 サイト情報で、まあ信頼性の高そうな案件をやっと見つけることができたのだが、予約の前に、念のためということで、知り合いの旅行業に携わる人にも探してもらう手を打つことにした。
 日頃、自分はインターネットを頻繁に活用していながら、どうもネット上の情報や、ネット関係者を疑心暗鬼の目で見ているのが自分なのである。ネットというものは、疑って疑って、警戒して警戒して活用すべきものだと戒めているのである。
 確かに、インターネット環境は、広範囲の無数とも言える情報を瞬時に束ねることができる優れものである。もはや、これを利用せずして現代の「急用」などに対処することは難しくなっている。「急用」の最たる部類のビジネスにあっては、これを活用してスケール・メリットを追及しないならば相応の苦労を背負い込むことになりそうな気配である。
 しかし、技術環境の優秀さと、これを利用する人間側の良心の問題とは切り離して考えるべきなのであろう。それが現代の大きな問題なのだろう。わたしは常々そう感じている。
 つい先頃も、どうもこのサイトに侵入してイタズラをされた形跡が複数回あった。簡単な修復で済んでいるので、むしろイタズラしようという動機を与えているほどには一応の存在感があるのかなあと思い、目くじらを立てないことにしている。
 しかし、「姿を隠して」悪事を企む卑劣さが横行するのがインターネットであることは、重々承知していなければならないと思っている。人間は、限りなく素晴らしい面とその裏面とを併せ持った怪物以外ではないのだろう。

 さて、当該の案件に関しては、旅行業者の知人から早々にレスポンスが入った。そして、吟味の上で、その紹介を採用することに決定した。案件が悪くなかったこともあったが、不透明な「デジタル」情報と、フェイス・トゥ・フェイスの「アナログ」情報のどちらを採るといえば、断然後者だと判断したのである。
 そして、この、自身の判断は、今、肝に銘じておきたいとも考えている。つまり、インターネットを活用している者(自分のこと)でさえ、慎重な判断が要求された場合には、泥臭い人間関係の上での情報のやりとりの方を採用するという事実である。
 何でも、手軽にネットで済まそうとし、ネット上で十分にビジネスが展開できると妄想している者たち(自分も含まれるかもしれない)にとって、反芻すべき事実なのかもしれないと…… (2004.08.21)


 夜、帰宅すると庭でスズムシやらコオロギやらが盛んに鳴いている。気づくというよりも、もはや主役気取りでの大合唱である。植木などを丹精に手入れする方ではなく、植木も雑草も伸び放題にしているため、虫たちにとっては居心地がいいのかもしれない。
 頼んだわけでもないのに、草むらのどこかに陣取り、秋の気配の演出に一役買ってくれていると思うと、なんとなくかわいい気がしてくる。彼らは、誰の家だとか、誰の家の庭だとかには当然無頓着である。この世に生を受けた場所が、誰に対しても遠慮や気兼ねをすることもない自分たちの世界だというわけだろう。
 それでいい。だが、その代わりすべてを「自己責任」的に生きなければならないのが彼らである。野良猫なんぞに捕まえられないように身を潜めることも必要だろうし、もちろん食べ物や水は自分で調達する以外にない。怪我をしたり、身体に変調を来たして病を背負い込めば、ただただ不運だと思うしかないはずであろう。
 わたしは、そんな「天涯孤独」と「自己責任」を宿命づけられながら、決して悩むようでもなく元気はつらつの、そんな生きものたちをいとおしく思う。いや、自身の持って行き所のない塞ぐ気分を、彼らによってどんなにか癒され、勇気づけられていることかと、心密かに感謝さえしている状態だ。

 時々、偶然に彼らの死骸を見つけると、憐憫の思いが込み上げてきたりもする。
「この世はどうだった? 満足できたのかい? 今度は何に生まれてこようとしているんだい?」
 そうした言葉を掛けてもやりたくなる。もうしばらくすれば、路上に落ちたセミたちの姿を目にすることになるのだろうか……。
 実は、先日朝のウォーキングの際に、畑の脇のアスファルト歩道の上で一羽のスズメの死骸を見つけてしまった。野鳥たちはめったに死骸を曝さない習性を持っているようだから、よほどのことであったのかもしれない。たぶん、この連日の猛暑をしのぎ切れなかったのかもしれない。小枝にとまっているような恰好で、翼を閉じ、小さな両足の指は広げるでもなく、何かを掴むような形で小さく横たわっていた。死んでもなお、片隅の謙虚さであり続ける存在だと思えた。目は白濁の幕が半閉じの状態となっていた。その内側には、この世で見たどんな光景が保存されているのかと……。手にすると、いかにも何グラムというほどの軽さであり、彼らが占めるこの世界での位置づけを思い知らされたような気がしたものだ。
 すぐ脇の畑の枯草の上に下ろしてやり、その上に、身が十分に隠れるほどの枯草を被せて覆ってやることにした。
「今度は、ハトくらいのものに出世して生まれといで……」
というような思いが浮かんだようだった。

 ウォーキングをしているとスズメたちとは、馴染みになる。
 歩いている遊歩道のニ、三メートル先をチョンチョンと跳ねていたり、川べりのフェンスの上や、フェンスの網目に止まっていたりする。虫のようなものを咥えて得意気な様子のスズメもいる。
 先日も、つがいのような様子の二羽がかわいい感じであった。コロコロと太った一羽が、フェンスに斜めになってつかまり、他の一羽にさえずっていたのだ。もう一羽の方も、やや下方に同じく斜めになってつかまりながら、コロコロスズメを見上げていた。それは、たぶん、そのスズメたちの短い生涯の中での至福の時であったのかもしれない。見ていた自分にもその幸せそうな雰囲気が十分に伝わってきたのである。

 自分がこんなことを思うのは似つかわしくないとも承知するのだが、こんな幸せ、言ってみれば、軽過ぎるし、淡過ぎるような幸せ、それでいてじわーっとくるような、そんな幸せな気分を、心底大事にできるようになるべきなんだろうなと、ふと思った。なぜなら、人もまた、現代社会だ、システムだとどんなに堅牢な環境に身を託そうと、生きものとしての軽過ぎて、淡過ぎる「本籍」を変えることは不可能であるからだ…… (2004.08.22)


 現在、各人のPCは、ますます悪質化するハッカー(クラッカー)が操るウイルスによって、危ない状態に置かれている。もし、ウイルスに侵入されたなら、これを発見して取り除くことが急務となる。
 幸い、こうしたウイルスを検出したり、ウイルスを取り除きPCを修復するソフトもまたウイルス・チェッカー(ワクチン)というかたちで活用されている。インターネットに接続しないわけにはいかないのだから、こうしたソフトは必需ツールだと言える。

 PCが曝されている危険は、ウイルスほどではないにせよ、ほかにもいろいろとあるのが現状だ。
 先日も、自分のPCに以前はこうではなかったはずだと思われる小さな「不具合」が生じていた。極めて小さな「不具合」であったため、よくよく注意しないとわからないものである。しかし、そうした目で見ると、確実にある種の機能が阻害されており、その分手数が掛かる状態となっていることがわかった。
 当該のこうした類の「不具合」は、「レジストリー」のエラーによって引き起こされることが多いため、早速、レジストリーを点検してみたが異常は見当たらなかった。そこで、インターネット検索で、同種の「不具合」が問題にされていないかを調べることとした。丹念に調べていってみると、PCにインストールした他のソフトが邪魔をしてそういう現象を引き起こす可能性があるとの情報を得た。
 しかし、この情報を生かして、いざ自分のPCでインストールしたどのアプリケーション・ソフトが当該の「不具合」の原因を作っているかを究明することは至難の業である。既に、相当数の数のアプリケーション・ソフトがインストールされているからである。
 だが、取り掛かった以上究明したかったため試行錯誤を繰り返してみた。それなりの推理によって目星をつけた、さほど使用しないソフトを所定の方法によって「削除」したところ、見事に「不具合」を解消することにつながった。
 事態の詳細な事情は結局わからないわけだが、「あるソフト」のインストールが、「他のソフト」の内部機能に確実に影響を及ぼしていたという点だけは判明したのだった。考え様によっては、これは結構由々しき問題である。そして、「不具合」の現象を限定しなければ、これまでにも何回かこんなことを経験した覚えもある。

 PCの問題から離れて、こうした「不具合」、つまり、他から受ける偶発的な要素との遭遇によって思わぬ「不可解な」事態に直面してしまうという「不具合」について、今関心をむけようとしているのである。
 込み入った話であるかのようだが、たとえれば、「食べ合わせが悪くて(ウナギと梅干?)」腹痛を起こすといった現象を想像すればいい。個々の食べ物に問題があるのではなく、それらの偶然の組み合わせによってちょっとしたアクシデントが発生してしまうというケースである。
 薬物の場合には、そんなことが発生しないように厳格なチェックがなされていると聞くが、ある意味では、偶然が多発する日常生活において「禁忌(きんき/タブーのこと)」の組み合わせを完全に回避し切ることは、およそ不可能ではないかという気がするのである。とすれば、どうすればいいかと言えば、前述のPC修復作業のように、事後処理で「現状復帰を図る対処」しかないと思われるのだ。

 あれこれと書いてきたが、わたしの関心の焦点は、この「現状復帰を図る対処」ということなのである。再度、整理をするならば、次のようになる。
 PCに関することに限らず、現代のわれわれの日常生活においては、こうした「不具合」を結果する偶発的な事態との遭遇は避けて避け通すことは不可能なことが多い。さらに敷衍(ふえん/意義を広く押し広げていうこと)するならば、人の行動の誤りでさえ、「撲滅!」することは不可能に近いと想像する。時代は、個々人に相応の行動の自由が許された現代なのだ。
 とすれば、事後処理で「現状復帰を図る対処」しか方法らしい方法はないのではないかという考え方に導かれることになる。しばしば、「未然防止」であるとか、「水際作戦」であるとか、想定される悪しき事態を未然に防ぐことが大事だと言われる。まさにそれはその通りであろう。それが一番いいに決まっている。その方針で防げる領域では徹底的にその方針が貫かれるべきである。
 しかし、わたしが「敷衍」して考えていることの中には、人の生き方の問題をも含んでいる。誰であっても、現在の自身をパーフェクトだと感じているわけではないと思う。いやもしそんな方がおられたら、そう信じることがそもそもパーフェクトなんぞでない証拠だと伝えてあげたい。
 つまり、最善の選択だと信じたものを重ねてきたにもかかわらず、なにがしかの「不具合」に心を曇らせているのが人なのかもしれないと思っている。そして、そんな「普通の人々」(少なくなっていそうだが……)にとっては、どこでどう間違えたのかわからないにせよ「現状復帰を図りたい!」と願う心がありはしないかと推し量る。少なくとも、中原中也はそうであったのではないかと思う。(※ 註)
今、唐突に「浄化」という、最上の「原状復帰」を意味する言葉が妙に気になっている自分なのである……

※ 註
「汚れつちまつた悲しみに……」    中原中也

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 (2004.08.23)


 パソコンのアプリケーション・ソフトには、大抵、直前の処理を「取り消し」にする安全弁というものがある。たとえば、"Microsoft Office"の"Word"や"Excel"には、「編集」-「元に戻す」があり、わたしがこの日誌の入力でお世話になっているエディター「秀丸」にしても、「編集」-「やり直し」という機能が備わっている。「Photoshop」では、「編集」-「取り消し」があり、そのほかのソフトでも「編集」-「アンドゥ(undo)」が設定されていたりする。さらに、「Windows」自体が、ファイル操作で「削除」処理を行っても、「ごみ箱」に入った当該ファイルを選んで、「ファイル」-「元に戻す」を実行すれば容易に「元に戻る」のである。
 つまり、パソコン上では、パソコンのパニック状態である「暴走」や「フリーズ」などが発生しない限りは、すべての処理は「白紙に戻す」ことが可能なのである。
 しばしば、人の会話で、
「よしわかった。では、この話は『無かったことにしよう!』」
というフレイズがある。しかし、どうであろうか、人の会話にあっては、実のところ「無かった」ことにはなりにくい実情が潜んでいたりするように思われるが……。
 だが、パソコン上での「アンドゥ」「取り消し」はほぼパーフェクトである。さまざまな「編集」をこそ本命とするパソコンであってみれば、試行錯誤に対して寛大な構造でなければ意味をなさないからであろう。

 ところで、現代人は、仕事でも日常生活でも頻繁にパソコンを使用していると言えるだろう。そして、パソコン以外の類似ツールを含めると、思考や行動にパソコン的モードが浸透していると考えても不思議ではない。
 現に、わたしなぞも、夢の中で、夢の中に登場した何かを「ファイル保存」しようとしていたり、いやいやこの「ディレクトリ」では保存できないのだ、とか躊躇して、目が覚めて、何とバカなことを考えていたのだろうと気恥ずかしくなることもある。
 つまり、パソコン的思考モードが人の意識の中に浸透しているとするならば、パソコン処理の最大の特徴かもしれない「アンドゥ」「取り消し」機能こそが、現代人の意識のある部分にしっかりと浸透しているのではないかと想像するのである。
 わたしも、いつぞや小さな対物の交通事故をやらかした際、思わず意識のどこかで、「プレイバック! アンドゥ!」という思いが駆け巡った覚えがある。しっかりと意識をして為したことではない過失の出来事なぞに対しては、たぶんこうした「アンドゥ」願望は結晶化しやすいのではないかと思う。日頃、パソコンでちょっとしたケアレス・ミスを「アンドゥ」処理で切り抜けている習慣を持っていれば、ある意味ではほとんど反射的に発生する心理状態なのかもしれない。
 話が横道に逸れそうなので深入りはしたくないが、青少年の犯罪の中には、ゲームなどの「デジタル空間」における手軽な「アンドゥ」処理に慣れきってしまったがゆえの、現実世界での錯綜という面もありそうな気がしている。

 さきほど、人の会話での「この話は『無かったことにしよう!』」という「アンドゥ」もどきについて書いた。どうも、現実の人の世界にあっては、デジタル世界で当たり前のことのように展開されている「アンドゥ」という機能や観念は、ひょっとしたら成立し得ないのではないかという気がしてならないのである。
 それは、「記憶」というものについての、デジタル世界と人間の脳との決定的な違いなのかもしれない。パソコンのメモリは、外部操作によっていかようにも処理可能である。しかし、人間の脳や心は、そう簡単なメカニズムにはなっていないように思われる。
 たとえば、あることを忘れたいと考えることで忘れることはできるのだろうか。たぶんできないのが人間なのだと認識している。また、心乱れることは誰にでもありそうだが、心の乱れを作り出すいわば「妄念」のようないやらしい想起を、人間は自由にコントロールできるかという点も気になる。それが可能なのは、たとえば宗教的な修行生活を重ねた者に限られるのではなかろうか。そうした者とて、困難を極めているようだ。
 要するに、人間とは、良くも悪くも「不可逆変化」(⇔可逆変化)という存在だと思われてならない。一度経験したことは、「可逆的」に、経験しなかった状態に復帰することができない存在ではないかということなのである。
 このことは、まさに「良くも悪くも」なのであって、だからこそ「一度覚えた自転車マスター」は一生忘れないのであり、「すべての経験は身になる」わけでもある。

 だが、わたしが今関心を寄せているのは、「良くも悪くも」のうちの後者の方なのである。人間は、良きことも覚えると同時に、悪いこともしこたま覚えてしまい、忘れられないという面を持つこと。このことに注意を向けたいと思っている。
 ところで、なぜこんなことに関心を持つのかという点である。昨日、唐突にも「浄化」という言葉を書いたのも実は同じ文脈なのである。
 あくまでもわたしの直感でしかないが、「不可逆変化」で特徴づけられる人間とその世界にあって、人間はいつの時代も「本来」の姿への復帰というチャンネル(経路)を確保したいという願望を抱いてきた。それは宗教であったり、芸術であったりすることが一般的であった。(ちなみに「本来」という言葉と「未来」という言葉は「対(つい)」であり、「本来」があるから「未来」があるということになるらしい)
 が、現代という時代は、とっくの昔に「神」も「自然」をも「殺してしまった」現代という時代は、「本来」というキー・ステーションを「削除」してしまったと同時に、その「本来」へと回帰する技である「浄化」機能をも「削除」してしまった、というイメージがある。
 あまりにも抽象的な次元で書いているが、まとまらない段階でも、例示できるのは、「核」の問題も一つである。「核」兵器廃絶という「可逆的」な歴史は成立するのだろうか? 地球規模での自然環境破壊・「温暖化」現象も然りである。また、「遺伝子操作」もそうだし、さまざまな場面での「薬物使用」(覚醒剤を含む!)、そして地球各地の地域文化をことごとく根扱ぎにする「グローバリズム」経済の暴走も挙げられる。
 こうしたことはすべてが、まるで幻想でしかない「アンドゥ」機能を振りかざしながら、「不可逆変化」を加え続けているのだと観測せざるを得ない。
 そして、現代人個々人の意識も、もはや「原状復帰」するポイント(「本来」の場所)なぞ埒外のことのようにして、目先主義で目をシロクロさせているのが実情なのか…… (2004.08.24)


 サイトの動きに不安定さが見受けられるといぶかしく思っていたら、アップロード済みのファイルボリュームがいつの間にか、限界を超えていた。プロバイダーとの契約スペースをオーバーしていたのだった。
 契約スペースには多少のゆとりはあるのだろうが、どうもその域をも越えていそうだった。ローカルPCでも、HDDにその量的規模を超えるファイルを収納しようとすれば、メッセージが出て処理が抑止されてしまう。
 プロバイダーのサーバーからは、直接メッセージこそは出されなかったが、機能障害が発生してしまった。まさか、量的なオーバーであるなぞと考えてもみなかったので、最初はあれこれと試行錯誤を余儀なくされた。
 プロバイダーのサーバーのLinuxに直接アクセスできる「仮想端末」ソフト( TeraTermPro )で、自分に割り当てられたスペースにアクセスしてはじめて「オーバー・スペース」だということがわかった。

 さっそく、現行のコンテンツから削除すべきものを探すことになった。
 はっきり言って、一度公開し、幾度も更新をかけてきたコンテンツを引き降ろすのは、忍びない。他人の目からみればゴミであっても、そこはやはり思い入れというものがあり、判断が鈍ってしまうわけだ。
 サイト・マネージャーであれば誰しも同じであろうが、新しいページをアップロードする際には、そこそこの期待を込めるものだ。掲載するオブジェクトにもそこそこ手を掛けたりもする。だから、金持ちの「預金」と同様に、一度預けたらなかなか引き降ろすことにはならない。
 だが、機能障害除去には換えられないため、鉈(なた)を振るうことにした。また、他のの方法も駆使することでどうにか所定の契約スペース以下の量に削減することができたのだった。
 作業を進めながら、本来これでなくてはいけないなあ、と感じていた。ホームページは「物置」ではないのだ。何でも突っ込んで、突っ込みっ放しというのはあまりにも杜撰でしかない。タイムリーさを失ったコンテンツや、訴求力が衰えた題材などは潔く降ろして、新たな内容作りのためにスペースを空けなければならないはずである。
 そんなことはわかってはいるのだが、おざなりになってなってしまうのが実情なのであろう。
 しかし、今回、「オーバー・スペース」が原因で、機能障害に陥ることがわかったことを契機に、サイト編成の見直しを図ろうと促されたことは確かだ。

 それにしても、身の回り、そして世間全般には、「賞味期限」の過ぎたゴミのような存在が、新鮮な新たなものの登場を必然的に阻害するという事態が横行しているのかもしれない。「おまえがそれなんだよ!」と囁かれていそうな気がしないでもないが、それはそれとして、これから涼しくなっていく折、新たな貴重なものを確保するためにも、不要なものを潔く捨て去る作業に傾注しようかと思っている…… (2004.08.25)


 今日は、夏休みの残り一日分を消化することにした。会社の規定では望む日程で三日とることができる。既に二日分は使っていた。「カレンダー」とは直接関係しない立場ではあっても、通常勤務日に無闇に休むことはしたくない。
 たぶん、暑さによる疲れがようやく表れてきたのだろう。昨日あたりから体調が悪く、今朝も気分が優れなかった。こんな時はムリをしない方がいいかな、と思い、ウォーキングも取り止めとして、休暇をとる算段に入った。特に、今日は人に会う約束もないようだったので、事務所に連絡をして休暇とした。

 休暇とはいえ、昼間に眠ることは生活リズムを崩すことにしかならないので、ぶらぶらとしていることにした。差し当たって、クルマを馴染みの整備工場へ持って行かなければならない案件が思い当たった。
 本人も、夏バテ気味となったのだが、ちょうど昨日クルマにも異常が発生していた。クルマのラジオがプッツンとなってしまったのだ。最初は、オーディオ関連の回路のヒューズが切れたのかと推測して、手当てをしてみたが容態は変わらなかった。そこで、これは整備屋さんにみてもらうしかないと判断していたのだった。
 クルマだって、この連日の猛暑には耐えられなかったのかもしれない。事務所の駐車場は青空駐車場のため、炎天下で一日中歯を食いしばっていたのだろう。

「代車借りられるかなあ」
 わたしは、整備屋さんに、クルマを預けてちょっと買い物でもしようかと思い、代わりのクルマを借りることにした。
「まず、状況を調べてみて、ラジオ本体がイカレてたら携帯に連絡しますよ」
との整備屋さんの言葉を聞きながら、わたしは代車を借りた。
 何となく頭がフラフラする感触ではあったが、書店やら、ディスカウント・ショップなどをぶらついた。そこそこの時間をつぶしたが、携帯には何の連絡も入らなかった。
 たぶん、ちょっとした回線の支障だったのだろうと推測して、整備工場へ戻ることにした。「開けてみたら、コネクタが外れてましたよ。暑さで、コードが緩んだのかもしれませんね」とか、いう言葉が待っているような気がしていた。

 が、工場へ着くと、わたしのクルマのボンネットが跳ね上げられたままであることがわかった。あれっ、まだ直っていないようかな、と思った。
「いやあ、まだ直ってないんですよ。それよりも、ちょっと困ってしまいましてね」
整備屋さんは、申し訳なさそうな話しぶりであった。
 事情を聞くと、このクルマのオーディオ部分は、フロント・パネルから簡単には取り外せなくて、フロント・パネル全体を外してから取り出すという厄介な構造になっているらしいのである。
 そこで、「外す作業」で一万円、「元に戻す作業」で一万円、しかも、ラジオ自体の修理が必要な場合には、メーカーお預けとなり、その場合にはメーカー側がニ〜三万円の修理費をとるだろう、とのことだったのである。つまり、あまりにもコスト高となり過ぎるようなので、依頼主が戻るのを待っていたというのであった。
 車内のラジオ付近をいろいろと手探りしている整備屋さんと、わたしはしばらく相談気味の状態となった。一度は、それでもいいから直してほしいとは言ってはみたものの、良心的な整備屋さんは、わたしに無言の圧力を掛けている気配であったからだ。
『新車ならともかく、たかがラジオ位で五万も六万も出しちゃいけませんよ。おカネは大事だよ〜、って言うじゃありませんか……』
と言う声が聞こえてくるような雰囲気だったのである。いい整備屋さんなのである。
「メーカーが悪いんですよ。純正品以外に取り付けさせない腹が見え見えっていうところですね」
 と、整備屋さんは、メーカー仕様に問題があることを嘆いた。
 で、結局、わたしは前言を翻し、「ラジオ無しクルマ」で我慢することに決めた。テープ・カセットは生きていたため、これを利用したラジオ・アダプターもあることだし何とかなる。もしどうしてもラジオを聞く必要があればトランジスター・ラジオを助手席におけばいいことだし、などと考えていた。
 それにしても、その良心的な整備屋さんの「素晴らしい常識感覚」は、とかく儲け主義に走るこのご時世で、希少価値溢れる「清涼剤」だと痛感したものであった…… (2004.08.24)


「うそつきは成功の始まり――もうこの国では正直者は生き残れない」、「過度な市場主義が生んだ極端な弱肉強食社会、現代アメリカの病理」とアピールされた新刊本が目についた。例によって、新聞の新刊本広告である。
 それは、『「うそつき病」がはびこるアメリカ』[デービット・カラハン (著), 小林 由香利 (翻訳),NHK出版]という書籍である。
 Amazon の「出版社/著者からの内容紹介」では次のように評されている。
「いまやアメリカではあらゆる人がうそをつき、ズルをしている。罪悪感はほとんどない。理由はただ『みんながやってるから』。そうしないと生き残れない極端な競争社会になってしまったのだ。この国のいたるところに蔓延する不正は、どんな将来を指し示しているのか。現代人の不安を的確にとらえ、アメリカ精神の喪失を浮き彫りにした、注目の文化論」

 アメリカに限らず、この日本の現状を見ていても、<カネとウソとの結びつき>の昂進状態が気になっていただけに、興味をそそられてしまった。
 昨今のニュースからわかりやすい例を挙げるならば、例の「ニセ温泉表示」である。全国津々浦々、またぞろ的に発覚する「うそつき温泉」宿が現れると、この国だってりっぱな「うそつき病」患者国だと思えてしまう。
 こうした「うそつき病」は、食肉や加工食品の不当表示などでいやというほどに思い知らされてもいるし、政府の一連の発表や、首相の発言にさえ、うそと地続きの「グレーゾーン」内容が、国民のうちの正直者たちをを悩ませてもきた。
 前述の著作は、「過度な市場主義」という社会構造に焦点を合わせているような気配であるが、どうもわたしも、モラルハザード(倫理の欠如)の大きな原因は、その辺にありそうだと目星をつけている。

 「うそつき病」にもさまざまな軽重があるのだろうと思う。
 子どもが、自分の願望と事実をごっちゃにしてしまうかわいいうそから、見栄っ張りがちょっと自身をお化粧して飾るうそ、「嘘も方便」(嘘をつくことはもちろん悪いことだが、時と場合によっては、ものごとを円滑に運ぶための手段として必要なこともあるということ。広辞苑より)という、周囲に向けられた善意を動機とするものもある。
 しかし、昨今の「うそつき病」の動機は、極めて簡潔明瞭であろう。「カネという利益」を得ることと表裏一体としてのうそが連発されているのだ。うそが、いい悪いという以前に、「カネ儲け」という行為が、歯止めを失って<絶賛>されてしまっている社会的現実があるのだと思う。「カネ儲け」を超える価値基準が、まるで潮が引くように人々の意識から薄らぎ始めているようにさえ感じられるのである。
 人々のホンネのうちでは、「カネ儲け」という行為が金メダルに匹敵する最上位に登りつめてしまった現実があるような気がしている。「カネ」よりも大事なものがあることを、落ち着いてでなければ思い出せなくなってしまった「おカネは大事だよ〜」症候群や、「カネこそ力!」と信じて止まない「金権」病などが蔓延してしまっていること。これらの現象を抜きにして、「うそつき病」の治療はどうも奏効しないのではないかとさえ悲観視させられている。

 「うそつきは泥棒のはじまり」というが、泥棒のことを考えてみると、しばしばおもしろい鉄則を耳にしてきたものだ。つまり、「ペイしない泥棒行為は発生しない」という<合理性>である。盗むモノの価値よりも、盗む行為のコストが上回るようなことは先ずしないということなのだろうと思う。命懸けがわかっている条件では、いくら入っているかわからない他人の財布を狙うことはしない、ということである。
 何が言いたいかといえば、泥棒行為にしても、「うそつき」にしても、その動機の<合理性>を潰さなければ(成り立たないようにしなければ)あとを絶つことはできない、ということである。
 「うそつき病」の話題に戻るならば、うそをつくことのコストと、うそをついて得られる利益とのバランスにおいて、現在は圧倒的に後者の比重が大きい状態に留まってしまっているような気がしてならない。

 かつての秩序ある時代(そんな時代があったかどうかは不明)には、うそをつくことのコストの中には、自身の誇りや名声に傷がつくという要素が歴然として含まれていたはずではないか。もちろん、それが機能するためには、多くの人々が誇りや名声を貴重なものだとして共有していることが前提であっただろう。「うそつきは泥棒のはじまり」と言われていたくらいだから、うそつき者からの価値剥奪の強度は絶大であったのかもしれない。
 しかし、現代では、うそつき者に対して寛大だとは言えないにしても、「カネ儲けのためならありそうなことだ……」という雰囲気で、緊張感を欠いているような気配ではなかろうか。
 ここには、人々の意識における、一方ではカネ以上に重要なものの存在への確信が揺らいでいること、他方において、自身も「カネ儲け」路線にしっかりと加担してしまっている「共犯(?)」感覚がなしとはしないこと、そんな危うい構図があるのではないかと思ったりするのだ。
 本来は、こうした構図が打ち壊されてゆくことで、「うそつき病」が駆逐されるべきなのだとは思う。しかし、これは、時間のかかる課題だとも思える。
 とすれば、「うそをつくことのコスト」が多大なものであることを、人為的に(法律的に)構築する以外に手はないのであろうか。「うそつき」罪は、<舌を抜く>残虐刑を復活させるか、うそで得た利益の<一万倍返し>とするとかである。が、これはもはや文明国家の仕業ではなくなってしまうのだろう…… (2004.08.27)


 八月最後の土日は、薄ら寂しい天候となりそうだ。今も、白けるような空から小雨が降り、気温も夏とは思えない涼しさだ。南方に台風16号が居座っている影響らしい。
 宿題だけを積み残した子どもたちや学生諸君はさぞかし、問題「先送り」、積み残しという高を括った自分の怠惰をうらめしく思っているに違いない。
 わたしにもそんな学生時代があった。高校生のころである。自分の通っていた高校は、前期、後期の二期制であったため、夏休みの宿題というのは、取りも直さず夏休み明けに控えた前期期末テストの課題範囲ということになった。だから、宿題を消化せずに夏休みも今ごろとなるとわびしさもひとしおだったわけだ。数学の問題集、英作文文例の暗記、古文古語の暗記などなど、よくもここまですっぽかしてきたものだと自分でもあきれ返り、悔やむことしきり……。

 当時のことを振り返ってみると、大きな反省点に気づく。いまさら気づいて何になるものでもない。
 夏休み当初は、くそ真面目なことを思い描いたりはするのだ。日頃放置している、今ひとつしっくりと理解できないでいた各教科のモヤモヤ部分を一気に解消してみようとか、苦手意識が捨てきれないでいる教科を抜本的に是正しようとか……。しかし、開放感が先立ち、事は一向に進まない。
 で、最も反省すべき点は、どうせやらない轍を歩む(?)のならば、そうした事実を凝視するリアリストに徹して、何か自分なりのまとまったことをやっちまえば良かったという点なのである。例えば、普段はなかなかムリであるスポーツに徹底的に時間を投入するとか、思い切った旅行をしてしまうとか、あるいは一ヶ月まるごとアルバイトにぶちこんでしまうとか、さらには、徹頭徹尾読書三昧にしてしまうとかである。
 それを成し遂げられなかったのが大きな反省点なのである。では、なぜできなかったのかを振り返ると、いわゆる「自主規制」というバカげた抑制意識が働いていたように思い出す。
 つまり、やりもしないくせに、「宿題をやらなければならない、夏休み明けのテストに備えなければならない……」という「べき論」が先立ち、「思い切ったことをやっちまえ!」という衝動はもとより、対して時間も労力もかからないことでさえ、「いやいや、勉強があるではないか」ともっともらしい「べき論」で握り潰してしまっていたように思う。まるで、官僚主義にはまり込んだ役人もどきであったと言える。

 単刀直入に言って、十代半ばから二十代半ばくらいまでのまさに青春と呼ばれる時代に最も必要なことは、切れ切れとなりがちな時間と、とかく青春期ゆえに散漫ともなりがちな意識を何かに集中投下することだった、と今でこそ痛感している。
 青春期というものは、心身ともにパワフルであり、かつ「鉄は熱い時に打て」という言葉どおりに柔軟かつ強靭な時期だ。その可塑性と密度は、その後の成人期の何十倍もに値する。
 そんな時期にこそ、まさしく「イベント」的な体験を重ねることが、青春期だけではなく、人生を生かすことになるはずなのだ。
 しかし、こんなことは、青春の当事者は意識しにくいものでもあろう。青春の当事者は、役者で言えば、ただただセリフを覚えることだけで精一杯の心境でいるはずだから、自分をぶつけた表現を! と言われてもなかなか実践できないのだろう。

 こうしたことを振り返る時、青春期には、「人生の先輩」からの適切なアドバイスや指導が必須ではないかと、最近痛感するのである。青春期は、溢れるパワーは内在していても、方向性を吟味できる「ジャイロスコープ(羅針盤)」機能は薄弱であると言えよう。「どこへ」とか、「何を」という側面において、説得力のある影響を与える先輩なり、指導者なりがなくてはならない存在なのである。
 特に、男の場合、どうもこの部分が決定的であるようだ。
 先日書いた「割れなべに閉じ蓋! 『不機嫌』女房と『自閉的』亭主?(2004.08.14)」でも触れたが、男の子というものは、子どもの時期にも手が掛かるとともに、大人へと変貌していく時にも、しっかりと同性の先輩や指導者から生き方の伝授を受けなければならないやっかいな存在のようである。この点については、別に書きたいと思っているのだが、青春期に必要なのは、身近な存在として影響力を発揮する父親的存在のようだ。ただ、その父親的存在もまた同様の豊かな影響を受けて立ち上がってきたことが前提でありそうだ。
 こう考えると、「父親不在」的家庭環境や、人間関係の影響度が薄まりそれぞれが孤立しているかのような現代の状況は、青春の当事者たちにも辛いとともに、今後の世代継承の上でも問題含みだと言えるのかもしれない。
 八月の月末のこの時期、皆それぞれに反省の材料は尽きないのか…… (2004.08.28)


 今日のように涼しさを通り越して、薄ら寒くなると、いろいろと恋しくなってくるものがある。
 寝具にしても、夏用の薄手の掛け布団では頼りなく感じ、しっかりとした分厚い掛け布団が欲しくなったりもする。暑ければ暑いで、掛け布団なぞうっとうしいだけのものだが、こう涼しいと、今夜は暖かい布団にくるまって寝るかな、なんて考える始末だ。

 日中も、この涼しさに刺激されてか、食べ物は、妙に「香ばしい」ものが恋しくなっていた。昨夜も、電子レンジで暖めれば済むうなぎの蒲焼を、わざわざ魚焼き網を使ってガス台の火であぶったりした。醤油のタレが焼ける香ばしい匂いが欲しかったように思える。
 今朝も、冷蔵庫にゆでたトウモロコシを見つけ、すかさず、そうだ、醤油タレで焼いて食べようと思いついた。さっそく、見た目にはまるでうまそうには見えないゆでトウモロコシを皿の上に置き、醤油をたっぷりとかける。全身(?)を満遍なく醤油で濡らしたあと、ガス台の網の上に寝かせた。早くも、垂れ落ちた醤油が焼ける匂いがキッチンに立ち込めた。
 その匂いは、排気ファンで追い出してもなお立ち退かない。追い出された香ばしい匂いは、おそらく近所の家をさまよい、
「あれっ、何だかうまそうな匂いがしてくるなあ」
なんぞと、年配者たちに言わしめているのかもしれないと想像していた。
 おまけに、途方もないことをも考えたりした。確か、日本が北朝鮮に何万トンかの救援物資を贈る際、米(こめ)は善からぬ者に換金されやすいので、半分以上をトウモロコシにするとか言っていたはずである。もちろん、元の姿のトウモロコシではなく、実をほぐした粒なのだろうけれど、いくらかは丸ごとの姿のものを持ち込んではどうなのだろう。そして、NGO"Yatai"とかの兄ちゃんたちが現地に渡り、ひもじい思いをしている子どもたちに「日本製焼きトウモロコシ」を焼いてあげても悪くないんじゃないか……、と。
 網の上でやがて、つぶつぶにジワジワと焦げ目が広がっていくのを見ながら、わたしはそんなバカなことに思いをめぐらせたりしていた。
 焼き上がった自家製焼きトウモロコシを、漂う香ばしい香りを鼻から、口から吸い込みつつ、ハフハフと言いながら熱い思いをして、わたしは一気に食べてしまった。

 涼しさと直接、関係があるのかどうだかはわからない。が、自分の生活体験の中では、醤油の焼ける香ばしさは、秋や冬と結びついているのかもしれない。
 思えば、涼しい曇天の日などに、突然、「餅」が食べたくなることがしばしばあった。しっかりと焦げ目をつけて、醤油や、甘醤油に浸して食べたくなる。焦げた餅と醤油がかもし出す何とも柔らかく香ばしい香りが、食欲を満たすというよりも、失われて空洞化しているようでもある懐かしい生活体験を呼び覚ましてくれるような感じなのである。
 こうした香ばしい匂いが象徴する光景は、何と言っても秋祭りの屋台、あるいは秋の行楽地での屋台ということであろうか。そこには、現代には失われた何かが当たり前のように充満していたように思い起こす。また、貧しくも、どこの家にもあった、火、醤油、焦げという香ばしい香りを漂わせる生活風景も、それはたとえみすぼらしくはあっても、捨て難く、忘れ難い何かを含み持っていたように思える。
 たぶん、身体の記憶が香ばしい匂いを通して指さすものは、そうした柔らかい温もりの感覚なのかもしれない…… (2004.08.29)


 「好きなことだけやりなさい」と言われると面を食らいがちであろう。
 そんな「わがまま」なことをして生きられるわけがないじゃないの! と先ずは思うはずだ。しかし、今一歩考えを進めてみる。もし、「好きなことをいっさい絶つ」人がいるとするならば、その人の生きざまはどんなふうであろうか。あるいはまた、「好きなことが何もない」という人の場合はどうだろうか。たぶん、いわゆる「腑抜け」ということになるのではなかろうかと思う。
 この表現は極端なケースだが、かと言ってまんざらわれわれにとって無縁なことでもないような気がしている。どうも、われわれは、「好きなことだけをやる」という一見「わがまま」だと早とちりする見解の中に潜む当たり前の事実を見失っているのかもしれない。その当たり前の事実とは、それが、自分と他者とを幸せにする「正しい出発点!」だということだ。と、わたしは感じている。

 先日、TVドキュメンタリーで、今年82歳となる漫画家・水木しげる氏のインタビュー番組を観た。(NHK土曜インタビュー「好きなことだけやりなさい」2004.08.28)
 水木氏とは、あの妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の著者である。思えば、あの漫画には、いささかの怯み(ひるみ)もないイメージのストレートさがあった。あんな妖怪たちがいる、いないなぞというような疑問をいっさい抱かせないで、「いるんです! それが大前提なんです!」とでも言うような思い切りの良さが先ず独特の雰囲気をかもし出していたように思う。
 つまり、その雰囲気が、漫画家を天職と定め、「好きなことだけをやる」人生をプログラミングして、その通り稼動させてきた水木氏そのものだったようだ。現に、同氏は番組中に、「(漫画家になることは)ベビィの頃から全部予定どおりだった」と豪語していた。たぶん、はったりではなく、「好きなこと」を一途にやってきた者のすっきりとした感想と言うべきなのかもしれない。

 「好きなことだけ」という言葉の裏側には、論理的に言って当然「好きでないものを他人のために」という他者への慮り(おもんぱかり)の問題があるはずだ。これに対しても、同氏は誤解を恐れず大胆に言い切る。水木さんはどういう人たちに向けての漫画が書きたかったんですか? というインタビュアの質問に対して、
「結局は自分自身ですよね、結局。人のために描くという考えは私はなかったものだから。自分のために描くというあれでしたね。人のために描く、そんなのないですよ。私のために面白がって描くいうのは。人のために描かないですよ。自分が面白がってやるの。自分で話を作って自分で面白がるわけですよ。だから続くわけですよね」
と応える。
 しばしば、他人思いを「売り」にしている人が、むしろ自分のスケール、自分の狭量をただただひと(他人)に押しつけているだけに過ぎないことに気づかない場合がある。余計なお節介をせずに、やりたいようにやりなさい! と叫びたくなるような人がいたりするものである。水木氏は、そんな逆説を百も承知しているのだと感じた。
 人は、自分を基準にしてしか他者に向かえない以上、事の良し悪しを測る「テスター」は自身しかない存在なのだ。だから、徹底的に自身というテスターで好結果が出るように努める以外に手はないと言えばそうなるはずだろう。同氏にとっては、自分というプロの漫画家を面白がらせることが、最高のハードルだったはずではなかろうか。

 水木氏といえば、戦争で左腕を無くしていることを、知る人は知っている。
 その時のことを語りながら同氏は、
「そう。生きるか死ぬかが重要なんで。手足ないというのはそれから後の問題だから、二、三か月先になってから、あっというようなことです。また死ぬと消えるようにパッとなくなるからね、びっくりするんです」
と述べ、自身の人生観を披露しておられた。
 この点も、わたしはまったく同感したものであった。幸いというか不幸にというか、わたしはいまだかつて生死の境を彷徨ったことはないが、「生きるか死ぬかが重要」という大原則の重みはわかっているつもりとなっている。その問題以外に、何の重要な問題が人間にとってあるものかと確信しているつもりだからだ。
 「好きなことだけやりなさい」と言い切る同氏の迫力の半分以上は、この「生きるか死ぬかが重要」という「悟り」から来ているのではなかろうかと思えたのである。

 冒頭の「好きなことだけやりなさい」と言われた場合の反応として、「でも……」とか「しかし……」とかと言って、言葉を返したくなる気持ちは共有できるものではある。
 だが、言葉を返す人自身が心底生きる喜び、幸せを切望しているのかのどうかの不明瞭さまでも共感したいとは考えていない。少なくとも言葉において「好きなことだけやる」と言い放つことができないならば、幸せの60%は諦めると言うに等しいような気がしている。
 野生の草原で、小動物が野獣の敵に追いかけられた際、恐怖のあまり追っ手を振り返る衝動に駆られるものらしい。しかし、その衝動を押し殺し、生き延びたい一心だけで突っ走り続けるヤツだけが明るい生命を維持するのだそうだ。「好きなことだけ」とは、実は「生き延びたい一心だけ」と言い換えてもいいのかもしれない…… (2004.08.30)


 ほとんど話をすることのない息子と話した話題が、「堀江ライブドア」についてであった。わたしは、もちろん「気に入らない!」と言う。
「あんな買収とヘッジファンド的経営を進めるライブドアは気に入らない! 第一、買収した会社『ライブドア』の名をそのまま使う無神経さは好かん! 経営倫理も何もあったもんじゃない!」
と、団塊世代丸出しの泥臭いセンスを吐露すれば、
「堀江社長は、著作の中で、団塊世代はすぐに倫理がどうだとかこうだとかと言う、と書いていたね」
と揚げ足を取り、ほとんど年齢の変わらない堀江氏に大きな関心があることを話す。
 わたしは、「堀江」は堀江でも、あの根性一筋「太平洋ひとりぼっち」の「堀江謙一」氏に好感を抱いても、堀江貴文氏には違和感、嫌悪感を持ったとしても好意など持ちようがない人間であろう。
 その背景には、彼個人がどうこうではなく、彼のような存在を潮に乗せて運ぶ「時代の潮流」への決定的な違和感があると言うべきかもしれない。たぶん、そうした「潮流」に沿わなければ、大きな「成功」(c.f.村上 龍『人生における成功者の定義と条件』)がないことを実感しているにもかかわらず、違和感を違和感として携帯し続けようとしているのである。
 だから、息子が、そんな現代に「擦り寄る」こと、わたしに違和感を抱くことはそれはそれでいいのだと思うことにしている。これからサバイバルしていかなければならない者が、環境のメジャーな傾向に適応障害・不全となることの方が心配なのかもしれないからである。

 しかし、時代の潮目(しおめ)は大きく変わったものである。その変化を好感をもって迎えるのか、違和感を抱くのかは別にして、事実を事実として見据えなければならないとは思っている。偉そうに言えば、その上で、違和感の対象が必然的にはらむ「急所」への注意を喚起したり、あるいはそれとなく突いてやるべし、ということになろうか。
 今日のTV番組紹介でも、ネットでの株取引で、親から借りた300万円を一年半で一億六千万円にした二十歳の青年、とかいう文面が目についた。PCのディスプレイ表示を見ながら、数字の変化で瞬時に売り買いの処理をする作業は、ほとんど、ゲーム・ソフトに興じる者の姿を連想させる。そこで必要なのは、数字の変化、しかもビジュアルに確認できる変化を認識するシンプルな感覚であり、それに対して反射的に反応して売り買い処理に結びつけていくスピード感ある動作であろう。このシークェンス(一連動作)に不要なものは、曖昧さをかい潜る総合判断や、そんな過程から生じる迷いや不安なんぞである。デジタル機器よりもデジタル的に対応することが要求されるはずであろう。
 もちろん羞恥心や忸怩(じくじ)たる思いや、それらを生み出す信念や誇りなんぞはいらない。周囲にうっとうしく居るかもしれない団塊世代からの、説教や、くさい話なども断然不要に違いない。そんな、デジタル的アクションやゲーム的なノリがあってのみ、親の汗水垂らした結晶の300万円が、錬金術のように一億六千万円也に変貌する。まるで、芥川龍之介『杜子春(とししゅん)』の自粛、自戒なんぞ「青い青い」とあざ笑う地平のようでもある。

 いつの間にか、矛盾と曖昧さの塊(かたまり)であり、またそうであるがゆえに深遠さと希望の宝庫でもあった現実世界が、比較的シンプルで明確な要素で構成されたデジタル世界に、さらに言えばゲーム空間によって取って代わられたような気さえしてしまう。
 とりわけ、経済現象の世界を、「デジタル・ゲーム空間」としての世界というふうに見なすならば腑に落ちることが多々ありそうである。そして、経済現象が他のジャンルの現象に大きな影響を与え続けている現状では、さまざまな社会現象があたかも「デジタル・ゲーム空間」の中で発生しているかのような印象を与えてもいそうだ。
 要するに、もはや「古典的な現実世界」、つまり自然などの、人為の及ばない領域が比重を占めていた世界がはるか後方に退き、ゲームのように人間が架空に設定したルールで構成された曖昧さが排除されたデジタル空間こそが「リアル・ワールド」となった観がある。
 ちょっと話は変わるが、オリンピックもこうした観点で振り返ると、何となく解せるのである。柔道にしてからが、かつての現実世界的感覚からすれば、強い柔道家というものは、「巴投げ(ともえなげ)」やら「背負い投げ」などの技で、相手に完膚なきまでのダメージを与える者ではなかったかと思う。そうした者こそ勝者と呼ばれるべきだと信じてきた。
 しかし、どうだ、まるでラッシュアワーに駅で小競り合いの喧嘩をしているようなみっともない試合で、解説がないと判別しにくいルール上の技アリで勝者、敗者が決められている。デジタル・ゲームなんだなあ、と思わずにはいられなかった。
 タイムにしたって、「0.00」単位というデジタル世界ならではの「非」現実的競争である。「0.01」秒速いというパワーは、一体どのようにして現実世界にフィードバック(役立つ?)するのだろうとバカな疑問を抱いたりもした。
 ふと思ったのは、そのうちマラソンも、いち早くゴールに到達するということだけではなく、新たな人為的ルールが持ち込まれ、途中で苦しそうな顔をしたら、一回につき「1ポイント=5秒加算」とかいうようなものが組み込まれるのではないかとか、余計な想像をしたりもした。

 振り返れば、団塊の世代たちは、現在の「デジタル・ゲーム的世界(=架空世界、人為的取り決め世界?)」に馴染めるような何を吸収してきたのであろうか。私見では、何かにつけて競争社会での数字争いで育ってきたとは言うものの、その数字とはアナログ的数字なのであり、実を言えば、どっぷりと「古典的な現実世界」に浸(つ)かり切ってきたのではなかろうか。いや、戦後の実利主義的な合理主義浸透の中で、どの世代よりも実利にしがみつきつつ「古典的な現実世界」を色濃く意識に刻み込んでしまったのかもしれない。
 何が現実なのかをこだわっているのは、意外と団塊世代だけなのかもしれないと思うことがある。もちろん、団塊世代ジュニア以降の若い世代は、「人為的架空」であろうが何であろうが目の前に広がる世界だけが唯一の現実なのであり、また戦中、戦前派世代は「日本文化」という「壮大な架空世界」と共にあってひょっとしたら「架空現実」には慣れていたりするのかもしれない。
 ところが、そうは言いつつも今思い当たることは、自分たちが「古典的な現実世界」だと信じた世界もまた、人為的に取り決められた架空の世界なのであって、決して「素地」としての自然世界などではなかったのではないか、ということなのである。それを自分たちが勝手に、「素地」としての世界だと思い込んでいただけなのかもしれない、と。
 つまり、人の世界というものは、いつの時代も「架空」としか言いようのない、人為的ルールで構成された世界でしかないということである。ただ、デジタルという基準が急速に浸透したことが、現代という時代の「架空性」を際立たせているのかもしれない。

 それにしても、「沈黙の戦艦」(?)になってしまったかのような団塊の世代は、怜悧な現状認識に立ってやるべきことをやる必要があると実感している。現状に積み残されている問題は、決して現行の若い世代だけで担える大きさではないはずだからである。
 再び引用することになるが、大前研一氏の言葉を借りれば「そうした人々に付け届けをすることは無為なことであるだけでなく無謀なことだ。彼らは自分たちに襲いかかる不幸に耐え忍ぶことはしない。力の弱い者にすべてをかぶせてグッドライフを満喫するように育ってきているのだから――」(大前研一『日本の真実』より)ということになろうか…… (2004.08.31)