「うそつきは成功の始まり――もうこの国では正直者は生き残れない」、「過度な市場主義が生んだ極端な弱肉強食社会、現代アメリカの病理」とアピールされた新刊本が目についた。例によって、新聞の新刊本広告である。
それは、『「うそつき病」がはびこるアメリカ』[デービット・カラハン (著), 小林 由香利 (翻訳),NHK出版]という書籍である。
Amazon の「出版社/著者からの内容紹介」では次のように評されている。
「いまやアメリカではあらゆる人がうそをつき、ズルをしている。罪悪感はほとんどない。理由はただ『みんながやってるから』。そうしないと生き残れない極端な競争社会になってしまったのだ。この国のいたるところに蔓延する不正は、どんな将来を指し示しているのか。現代人の不安を的確にとらえ、アメリカ精神の喪失を浮き彫りにした、注目の文化論」
アメリカに限らず、この日本の現状を見ていても、<カネとウソとの結びつき>の昂進状態が気になっていただけに、興味をそそられてしまった。
昨今のニュースからわかりやすい例を挙げるならば、例の「ニセ温泉表示」である。全国津々浦々、またぞろ的に発覚する「うそつき温泉」宿が現れると、この国だってりっぱな「うそつき病」患者国だと思えてしまう。
こうした「うそつき病」は、食肉や加工食品の不当表示などでいやというほどに思い知らされてもいるし、政府の一連の発表や、首相の発言にさえ、うそと地続きの「グレーゾーン」内容が、国民のうちの正直者たちをを悩ませてもきた。
前述の著作は、「過度な市場主義」という社会構造に焦点を合わせているような気配であるが、どうもわたしも、モラルハザード(倫理の欠如)の大きな原因は、その辺にありそうだと目星をつけている。
「うそつき病」にもさまざまな軽重があるのだろうと思う。
子どもが、自分の願望と事実をごっちゃにしてしまうかわいいうそから、見栄っ張りがちょっと自身をお化粧して飾るうそ、「嘘も方便」(嘘をつくことはもちろん悪いことだが、時と場合によっては、ものごとを円滑に運ぶための手段として必要なこともあるということ。広辞苑より)という、周囲に向けられた善意を動機とするものもある。
しかし、昨今の「うそつき病」の動機は、極めて簡潔明瞭であろう。「カネという利益」を得ることと表裏一体としてのうそが連発されているのだ。うそが、いい悪いという以前に、「カネ儲け」という行為が、歯止めを失って<絶賛>されてしまっている社会的現実があるのだと思う。「カネ儲け」を超える価値基準が、まるで潮が引くように人々の意識から薄らぎ始めているようにさえ感じられるのである。
人々のホンネのうちでは、「カネ儲け」という行為が金メダルに匹敵する最上位に登りつめてしまった現実があるような気がしている。「カネ」よりも大事なものがあることを、落ち着いてでなければ思い出せなくなってしまった「おカネは大事だよ〜」症候群や、「カネこそ力!」と信じて止まない「金権」病などが蔓延してしまっていること。これらの現象を抜きにして、「うそつき病」の治療はどうも奏効しないのではないかとさえ悲観視させられている。
「うそつきは泥棒のはじまり」というが、泥棒のことを考えてみると、しばしばおもしろい鉄則を耳にしてきたものだ。つまり、「ペイしない泥棒行為は発生しない」という<合理性>である。盗むモノの価値よりも、盗む行為のコストが上回るようなことは先ずしないということなのだろうと思う。命懸けがわかっている条件では、いくら入っているかわからない他人の財布を狙うことはしない、ということである。
何が言いたいかといえば、泥棒行為にしても、「うそつき」にしても、その動機の<合理性>を潰さなければ(成り立たないようにしなければ)あとを絶つことはできない、ということである。
「うそつき病」の話題に戻るならば、うそをつくことのコストと、うそをついて得られる利益とのバランスにおいて、現在は圧倒的に後者の比重が大きい状態に留まってしまっているような気がしてならない。
かつての秩序ある時代(そんな時代があったかどうかは不明)には、うそをつくことのコストの中には、自身の誇りや名声に傷がつくという要素が歴然として含まれていたはずではないか。もちろん、それが機能するためには、多くの人々が誇りや名声を貴重なものだとして共有していることが前提であっただろう。「うそつきは泥棒のはじまり」と言われていたくらいだから、うそつき者からの価値剥奪の強度は絶大であったのかもしれない。
しかし、現代では、うそつき者に対して寛大だとは言えないにしても、「カネ儲けのためならありそうなことだ……」という雰囲気で、緊張感を欠いているような気配ではなかろうか。
ここには、人々の意識における、一方ではカネ以上に重要なものの存在への確信が揺らいでいること、他方において、自身も「カネ儲け」路線にしっかりと加担してしまっている「共犯(?)」感覚がなしとはしないこと、そんな危うい構図があるのではないかと思ったりするのだ。
本来は、こうした構図が打ち壊されてゆくことで、「うそつき病」が駆逐されるべきなのだとは思う。しかし、これは、時間のかかる課題だとも思える。
とすれば、「うそをつくことのコスト」が多大なものであることを、人為的に(法律的に)構築する以外に手はないのであろうか。「うそつき」罪は、<舌を抜く>残虐刑を復活させるか、うそで得た利益の<一万倍返し>とするとかである。が、これはもはや文明国家の仕業ではなくなってしまうのだろう…… (2004.08.27)