最近は、ネタに窮して書くべきことではないことまで書くようになってしまった。ただ、プライバシー侵害、名指ししての個人攻撃などは間違ってもするつもりはない。
寄付などの善意の行為についても、公表すべきでないことも知っている。
昔、PCショップも行っていた頃、ある雑誌がショップ紹介の取材に来たことがあった。いろいろとインタビューされる中、奉仕活動のジャンルの話となり、わたしはうっかり勇み足となり、PC二台を地域の孤児院に届けたことを話してしまった。すると、若い記者は、
「そうしたことは伏せておいた方がいいですね」
と、さりげなく言ったものだった。わたしは虚を衝かれうろたえたが、同時にコイツは若いにもかかわらずデキタヤツだと思ったりした。
ただ、この悪事に満ちた時代にろくでもない現象ばかりにこだわるのも嫌気がさしている。チィーとはまともな話に触れたいがためにあえて書くことにした。
「みなさまのご支援(募金)でできるユニセフ活動の一例」として以下のような記述が、ユニセフの支援依頼のパンフレットにある。
「
○3,000円のご支援で
肺炎にかかった子どもを治療する抗生物質を100人の子どもに5日間投与することができます。
○5,000円のご支援で
下痢になった子どもの脱水症状を緩和する経口補水塩(ORS)681袋を提供することができます。
○10,000円のご支援で
8つの感染症(はしか、結核、百日ぜき、ジフテリア、破傷風、ポリオ、黄熱、B型肝炎)から子どもの命を守る予防接種ワクチン166人分を提供できます。
○30,000円のご支援で
衰弱した子どもの体力を回復させる栄養補助食ユニミックスを2083食分提供することができます。
○50,000円のご支援で
母親の清潔で安全な出産を手助けする器具、消毒液、医薬品など一式を31人分提供できます。
」
実にスマートで合理的な支援要請アピールだといつも思う。で、「予防接種ワクチン166人分」の願いを込めた協力を個人的にさせてもらった。また、後日、法人としては「3,000人分」ほどの子どもたちを苦痛から解除する支援をと考えている。
ちなみに言うならば、「下手でおまけに悪意さえある政治と行政!」によって失われた国の財務=赤字財政を埋める義務を感じるよりも、悪意がないばかりか、未来のある子どもたちの命を救うことの方が、遣り甲斐があるし、優先されるべきだと直感するからである。
わずかな募金で偉そうなことを言ってはいけないが、そもそも「お布施」とは「主観的」行為が重要なのだと思っている。客観的結果はもちろん重要ではあるが、もしその点が唯一重要だとするならば人の善意などという掴み所のないものに依拠せず、強制力のある方法を目指すべきであろう。
つまり、「お布施」とか「募金」とは、それに同意する者の「主観」に意味があるととりあえず考えたい。結果的にそれらによって救われる者がいることは、言ってみれば「望外」の幸せということになる。というのも、「お布施」とか「募金」に同意する者は、される者たち以前に先ずは「救われる」ということになるからなのである。
現代の人間は、幸せを求めてあくせくしているにもかかわらず、残念ながら幸せにはなれないように思われる。というのも、「お布施」とか「募金」に同意できないからであり、そうした意識構造が日常(経済)生活の場で培われてしまうからである。
生活の中で経済行為をメインに据え続けるならば、合理性とは「経済的合理性」以外の何ものでもなくなり、現行経済システムには沿わないながらも人が生きるにあたって必要な精神的価値や、その価値が持つ合理的な側面は確実に頓挫してしまうはずであろう。その行き着く先に、振り込め詐欺、保険金詐欺殺人、うそつき・ごまかし金権政治などなど、さらに言えば暴力と性の一連の犯罪といったまさに「人でなしたちの地獄」があることは言うをまたない。
「施す」という驕りを持っては効果が半減することになるのでそれは戒めたいが、相手にわずかながらも小さな幸せが向かうのだろうと想像できることは、どんなに有り難い、つまり得難い一事であることかと思うのだ。それが救われるという意味なのだ。そうした感情浄化がないならば、現在の貪欲な経済論理はわれわれの人間的な心を片っ端から食い尽くしてしまうに違いない…… (2004.12.14)