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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2004年12月の日誌 ‥‥‥‥

2004/12/01/ (水)  駅前商店街の光景と小規模経営のゆくえ……
2004/12/02/ (木)  今、小康状態のニーズがある「派遣」業務……
2004/12/03/ (金)  惰性を断ち切って、TVのスイッチも断ち切って……
2004/12/04/ (土)  苦労のし甲斐のあることをこそ選ぶべきだ
2004/12/05/ (日)  結婚式、披露宴は難しいものかも?
2004/12/06/ (月)  余った処理能力を有効活用する「グリッドコンピューティング」!
2004/12/07/ (火)  結局、偏頭痛とはDNAの欠損なのだろうか?
2004/12/08/ (水)  「読解力」低下問題でも「各論」にこそ本質が潜む!
2004/12/09/ (木)  「馬の骨」であしらうとは言語道断!
2004/12/10/ (金)  官民そろって「だまし」の横行が目に余る!
2004/12/11/ (土)  自分の気分を「だまし、だまし」……
2004/12/12/ (日)  「負けっぷりの良さ」が現代の新しい価値なのかも……
2004/12/13/ (月)  「省電力型」デバイスへのデバイス!
2004/12/14/ (火)  「支援」できることは何よりも幸いなり!
2004/12/15/ (水)  あっけなく終わった「老兵」の退陣劇……
2004/12/16/ (木)  「あなたねぇ、そのお歳では『偏頭痛』にはなれないの!」
2004/12/17/ (金)  「パーソナル」・コンピュータのゆくえ……
2004/12/18/ (土)  破廉恥「マッチョ」や、「中性」洗剤にならないために?
2004/12/19/ (日)  年末行事、障子の張り替え、今年の場合は……
2004/12/20/ (月)  「碁盤」にたとえた「勝手読み」のNHK?!
2004/12/21/ (火)  ビジネス活性化努力と現状の税制度……
2004/12/22/ (水)  「冬ソナ」現象を考えるために二時間のお付き合い?!
2004/12/23/ (木)  師走の休日一日、そこそこ元気で目いっぱい動き回ってみる!
2004/12/24/ (金)  クリスマス・イブだというのに、やたら警戒心ばかりが……
2004/12/25/ (土)  ケミカルに依存せず、自然に慣れ親しむのを極意としたい!
2004/12/26/ (日)  和やかで愛すべきものたちと、恨んで、祟ってやればいいものたち?!
2004/12/27/ (月)  ゴテゴテ日誌の効用?!
2004/12/28/ (火)  自分を勝たせるための「土俵」作り?!
2004/12/29/ (水)  律儀で鈍重な自然だけが、「パワー・ロス」に対する異議を……
2004/12/30/ (木)  年末の墓参り、母の独り住まい、襖を破りまくるウチ猫……
2004/12/31/ (金)  この国は「情報(化)社会」の驀進とともに軽佻浮薄の度を強めている!?






 矢部の駅前商店街はあっさりとしている。常日頃、何がどうなっているからこのようにあっさりとしているのだろうと考えさせられたりする。いや、むしろ駅前商店街だと見なすから不思議な気分となるのかもしれない。
 そんな商店街もどきの駅前も、それでも師走の月に入った今日は、人々が行き交う様子が何となく年末の商店街風の気ぜわしさめいたものを感じさせた。
 それぞれの動機や目的を持ち歩く人たちが、ぶらぶらという余裕ある気配なぞを微塵とも感じさせず、それぞれの目的に向かってまっしぐらに歩を進めているかのようだ。
 のんびりさを感じさせるのは子どもだけで、
「おさかなくわえたどらねこを……♪」
なんぞと気分良さそうにかわいい声を張り上げていた。
 わたしは一瞬、子ども時代の品川の商店街のことを思い浮かべていた。当時、活気のあった商店街の雰囲気は好きだったように思う。そうした商店街の賑々しさを、何度も、楽しんで絵に描いたことも覚えている。
 好感を持ったのは、昼の商店街ではなく、いろいろな照明が灯された夕刻から夜にかけた商店街であったような気がする。「賑やか」と言ってしまえばそれまでのことであるが、灯された明かりの中で売る人買う人が活気を帯びたやりとりをする光景、特に、裸電球にアルミの笠という明かりが普通であった八百屋、魚屋、乾物屋などの店員たちの威勢のいい光景が良い思い出として残っている。
 今、そんな光景を見ようとするならば、祭りの際や、年末・年始といった特別な時期の、特別な場所での屋台の連なりでしかお目にかかれないのではないかとさえ思う。
 つまり、現在の商店というものは、往々にして、クールな照明である蛍光灯の下で、ビジネスライクな雰囲気で、かつ上品に行なわれるものとなってしまったかのようである。また、こうデフレ不況が長引き、どの商店も青息吐息の低迷ぶりであっては、物理的環境のみならず、人的空気も醒めたものとなりがちなのではなかろうか。このお店はまともに生計が成り立っているのだろうかと心配させるような個人商店が増えているように思われる。

 昔の商店街、それもたとえば昭和30年代の日本経済が上り坂にさしかかっていく頃の商店街と、現在のそれとは何がどう異なるのかということなのである。
 印象的レベルで言えば、当時は地元商店の人々の「人間の息遣い」というようなものがいやでも感じられたし、また、何やら「安心感や信頼感」というものが商店街に満ちていたかのように思う。おそらくは、土地に張りついてきた地元の人々が腰を据えて商う商店とそうした街であることが、そのような印象をかもし出していたのであろう。
 ところが、やがて土地柄とは縁のない資本による大型店舗が地域に参入して来るにおよび、商店街の内実はさまざまな面で変質をよぎなくされていくことになったわけだ。短絡的に言うならば、「人間の息遣い」が消えたことと量をさばくことによって、価格が安くなったということであろうか。つまり、コストに反映される人影(人件費)が省かれ、消費者を吸引する低価格が導入されていったということになる。
 この仕組みが、従来からのやり方を継続している商店街に及ぼした影響力というか、破壊力は凄まじいものであっただろうことは想像に難くない。
 モノが高い安いよりも、「人間の息遣い」を介して「安心感や信頼感」で商ってきたに違いない地元の個人商店は、対抗的な手段なぞ講じられるわけがなかったはずだ。とくに、どこで買っても同じというような、たとえば家電製品であったり、一連の既成製品を扱ってきた商店にとっては、まるで従来のくねった道の脇に直線的なバイパスが急にできてしまったかのようであっただろう。従来のくねった道を通って欲しいと願うこと自体が無理な話だということになってしまうからだ。

 ただちょっと注目すべきは、矢部の駅前商店を見ても、先ず先ず営業できている店はと言えば、お団子・巻き寿司店、パン屋、床屋、そば屋、薬屋、レストラン、弁当屋、クリーニング屋といったところだということである。これらに共通している点は、「最寄り品」(消費者が品質・価格をあまり比較検討せず、最寄りの店で買うことが多い日用必需品などの商品。⇔ 買回り品)とそのサービスということになろうか。といっても、八百屋であるとか、魚屋、肉屋というオーソドックスな店はすでにない。そう遠くないところに食品スーパーがあるためだろう。
 だから、「最寄り品・サービス」といえども、「人手作業」をメインとする店が、辛うじてサバイバルしているということになろうか。しかも、その領域は必要条件でしかなく、この種の店ならば何でもうまくいくということではない。現に先日は、良心的だとは思えたパン屋が店仕舞をした。
 考えてみれば、安い既成製品としてのモノが流通する環境にあっては、こうした「人手作業」を生かした領域にしか、自営業者が生き残るための道は残されていないようであり、しかも他を振り切るような対顧客訴求力を持たなければ続かない。

 子ども時代であったから、思い出の中の昔の商店街はただただ明るく、活況を帯びて賑々しい印象なのかもしれない。しかし、寂しく感じるその変化は、何も商店街の光景だけにとどまるものではないかもしれない。
 グローバリズムとインターネット環境によって構造変化がもたらされた経済環境全体は、産業全体をまるで震度6、7の激震で揺さぶっているのだと思われる。耐震構造のない小規模経営は、どこにニッチ(隙間)があるのかを、あるいはどこに突破口づくりができるのかを虎視眈々と睨まなければならない…… (2004.12.01)


 自衛隊の「派遣」が問題視されているが、国内では「派遣」社員の急激な増加が目を引く。見通しの悪い景気状況にあって、正社員採用は重荷であるとの企業側の判断が根底にあることは言うまでもない。(c.f.「『人材派遣健保』27万人超 NTT健保抜き日本最大に」asahi.com 2004011.30)

 また、超スピードで激変する産業経済にあって、人材は社内育成よりもテンポラリーな即戦力導入の方が合理的と見なす企業が増えていることもあろう。そう言えば、終身雇用慣行が健在であった頃の社内教育制度は日ごとに形骸化している気配がある。
 これらの企業側の意向に加えて、「派遣法」がこの流れに沿うかたちで「改正」されたことも派遣社員増加傾向に拍車を掛けているものと思われる。昨年、平成15年6月6日に以下の三点が「改正」されたわけだ。
 @ 派遣期間の原則1年から3年への延長。
 A 製造業務への派遣解禁。
 B 紹介予定派遣における事前面接の解禁。
 これらは、いわば派遣社員という分の悪い労働者を保護しようとする意図で規制制限されていた条項が、時勢に寄り添い解禁されたということだと理解していい。規制緩和と言えばそうなるが、誰が得をして誰が損をするのかの問題は残る。

 「派遣」とは今に始まった業態ではなく、日本にも「口入れ屋」という名で古くからあったわけだ。
 落語『化け物遣い』の中にも、地方から出て来た奉公人志望者が、
「おらあ、『桂庵』(けいあん)から来たもんだが、奉公人が欲しいというのはこちかあ?」
というくだりがある。
 演目の中でも解説されるのだが、「桂庵」とは要するに当時の「口入れ屋」のことなのである。承応1652〜1655の頃、江戸京橋の大和桂庵という医者が、よく縁談の紹介をしたことから、縁談・奉公などの紹介者、口入れ屋、また、雇人の請宿(うけやど。奉公人の身元を引き受ける家)のことをそう呼ぶのだそうだ。
 が、この「桂庵」とはあまり公明正大な生業(なりわい)とは見なされていなかったようであり、たとえば「桂庵口」という慣用語があり、これは、双方の間をうまく言いつくろうこと、周旋を業とする者の言葉が信用するに足りないことを揶揄した言葉なのである。 実際、過去には肉体労働者(ex. 港湾労働者)などが、暴力団がらみの「口入れ」業者によって不当な扱いを受けていたこともあったわけだ。そうした経緯もあって、「派遣法」という労働者保護法が設定された。
 今回の「改正」のたとえば「A 製造業務への派遣解禁」というのは、「派遣法」の主旨から言ってもかなりきわどい「改正」だという意見もあるほどなのだ。おそらくは、製造業業界における「コスト削減」の意向が、ある種の政治家たちを動かしたというのが水面下の現実なのであろう。

 ところで、「派遣法」に関係する業種は少なくないが、ある種の腐れ縁があり続けてきたのが、「ソフト開発」業界であろう。
 もとより日本の「ソフト開発」業界は、「ソフト技術者の派遣」によって産声をあげたと言っていい。というのも、自社で保有することなぞ不可能であった「大型汎用コンピュータ」は、ユーザの現場にしかなかったという事情もあったに違いない。
 そして、成長期の経済が急速なコンピュータ化を要請するに至り、ソフト技術者不足が現場からだけでなく一般的にも唱えられたのである。いわゆる「コンピュータ・クライシス」であった。そうした実情こそが、電話さえあれば事務所も不要という、派遣業務主体の「ソフト開発」会社が、巷に雨後の竹の子のように生まれた培養土だったのである。
 派遣業務に傾斜した「ソフト開発」業界は決して順風満帆続きであったわけではなかったが、概ね、産業界のニーズによって支えられてきたのかもしれない。そして、今、また景気の小康状態の中、また各企業が、リストラで中堅技術者を吐き出したり、新規正社員の採用を渋る中で不足する人材を補おうとするニーズに呼応して、そこそこの繁忙ぶりを迎えているのであろうか。
 しかし、辛口筋に言わせるならば、派遣業務主体型「ソフト開発」会社の将来は暗い。 もとより、派遣業務には特別の経営手腕は必要ではないし、もちろん「コア・コンピタンス」なぞあったものではない。ということは、ニーズの翳りと競合関係の激化が進めば、価格と利益の際限がない低下に見舞われるということである。そして、今は小康状態に踏みとどまっていても、すでにこの間、「ダウン・コスティング(全般的な価格低下傾向)」の第一波が訪れていたのである。

 「派遣」という場合にも、本当にスペシャルな能力をお貸しする場合と、いわゆる「期間派遣」的な代替人材的な場合とで多少は事情が異なるのかもしれない。しかし、後者のケースでしか経営できない派遣会社は、それこそ、派遣当事者側にとっても所属会社は「代替可能」と見なされているはずで、所属社員の大量離脱というドミノ倒しの危機は避けられないのではなかろうか。働く側にとって魅力のある派遣会社という矛盾に満ちた課題に対しては、まだどこの会社も回答していないように思われる。まして、派遣社員が増加している状況は、考えようによっては、派遣業務がはらむ避けられない矛盾に多くの者が気づき、対処法が向上することでもあるはずだろう。
 弊社も、ユーザ関係から不承不承派遣業務の認可を受けているが、その限りのことであり、経営としての遣り甲斐がいまいちのこの業務についてはペンディング状態にある。何だか、自衛隊のイラク派遣と似たような意味合いがないでもない点が困ったところだ…… (2004.12.02)


 健康維持を目的に朝のウォーキングをしている。ある時は、体力をつけようと鉄アレーなんぞを持って歩いたこともあったが、最近では手ぶらで歩き、歩調速度の負荷だけを加えるようにしている。
 いよいよ冷え込みを感じるようになってきたものの、何回かの真冬のウォーキングを経験してくるとさほど苦にはならない。
 この何日かは小春日和が続いて朝の戸外は実にすがすがしく、気持ちがいい。奇声を発するかのように鳴く野鳥(その名を調べようとしてそのままになってしまっている)や、カラスの鳴き声を聞きながら歩き、澄み渡った青空を目にしていると、日中の刺々しい気分とは異なった別世界の心持ちになれる。こうなれることが朝のウォーキングの本当の目的なのかも知れないなあ、と思ったりした。

 実際、身体もさることながら、精神的側面での疲労回復の努力が大いに必要となっていそうだ。もちろん自分もそうなのであるが、この現代の環境に生きる者すべてにとってである。
 どうも「間違った努力」が「真顔で」推進されているところに過剰・慢性ストレス社会の源が根を張っているのではないかと思ってしまう。
 ある経済学者が、「資本主義とは、要するに "かっぱらい" だ」と言ったというが、まるでそんな気がする。語弊はありそうだが、みんなが隙あらば「かっぱらう」ことをねらい、また「かっぱらわれない」ように神経を尖らして一日中を過ごす。
 「かっぱらう」という言葉を、お金や目に見える財物と見なせば物議をかもす話になってしまうわけだが、いろいろな観点での「アドバンテージ(advantage/有利、優勢)」を獲得する、奪うと解するならば、この現代での日常茶飯の話となるはずである。度を越した過激な競争社会の本質は、まさしく「かっぱらう」ことのように思えてくる。

 昨晩のTVのニュース・ショー番組で、広告宣伝メディアに血眼となる業界の話題があった。たとえば公共の乗り物である電車の、その車内に「吊り広告」や新種の広告メディアを「張り巡らす」というアプローチである。
 とかく、退屈となりがちな車内であるから退屈しのぎで目に入る広告メディアがあっても目くじらを立てるほどのことではないかも知れない。しかし、考えてみれば少々度を越しているのではないかと感じないわけでもない。公共空間であるのだから、そこでの一般市民の「視界」を勝手に「かっぱらわないでほしい!」という言い分も十分成り立ちそうである。見たくない権利を行使したければ目をつぶればいい、というものじゃないだろうと思える。
 番組に出演していたある識者は、ヨーロッパでは公共空間に広告を出すのはたとえ資金を出したとしても、景観の観点などから厳しい制限が伴うものであり、日本はちょっと…… と紹介していた。その通りなのであり、こうした点の無神経さが、今の日本を精神的に住みづらくしていそうである。

 この辺のことを言い出すなら、公共電波を使ったTVでの、「CMの間に」本命の番組を報じているとしか言いようがなくなった現在の民放のあり様は、視聴者の生理的限界に挑もうとでもしているかのような気がする。
 露骨なサブリミナル効果(潜在意識への刷り込み効果)はないとしても、脈絡のない超スピードのCM映像が機関銃の弾丸のように打ち出され続ければ、何かノーマルな精神に悪影響を及ぼさないとは言い切れないのではなかろうか。しかも、もちろん現在のCMは、視聴者に静かに考えさせる材料を提供するといった行儀のいいものではなく、「攻撃的」な調子であることが多い。どこか、視聴者から何かを「かっぱらう」という姿勢が感じられないでもない。

 まあ、政治もそうであればマス・メディアもそうであるとしか言いようがないが、要するに、相手側が悪いだけでなく、やり放題を黙認している視聴者側にも半分の責任があるというものである。惰性を断ち切って、TVのスイッチも断ち切って…… (2004.12.03)


「この秋に嫁ぐことになる孫のひとりが、マンションを町田近辺にしたことをおふくろはうれしそうに話していたものだった。孫が、彼氏におばあちゃんに可愛がられていることを話していたためか、その彼氏が『それじゃ、新居は△△にしよう』と言っておふくろの住いから遠くない場所に決めてくれたのだと、うれしそうに話していたのである。事実のほどはともかく、慕ってくれる孫の存在、そして孫のダンナの優しさがうれしかったと見える。」
 今年の盆の頃にこう書いた姪っ子が今日、結婚する運びとなっている。式場は、明治神宮ということでわれわれも招待されている。
 わたしの姉の娘(姪)は二人であるが、上の子はすでに嫁いで今年女の子が生まれている。そんな姉の幸せそうな姿を見て、年子の姉妹の妹は、姉の結婚とその後に刺激されなかったとは言えないだろう。
 実際、看護婦の道を選んだ姉と同様に、その子も大学卒業後看護婦養成学校へ入り直し、同じ道を進んだのだった。姉の行動が妹の心に影響を与えていた例だろう。
 そして、冗談混じりに、誰かいい人がいたら紹介してほしい、とも言っていたところをみると、自分も早く結婚して家庭を持ちたいと望んでいたのであろう。
 考えてみるに、年子の姉妹と言えば、ほとんど双子のように相互に意識し合うものと思われる。
 看護婦としての道が出遅れたため、この何年かはその立ち上がりのために邁進していたようだが、それが一区切りついた途端に縁談の話がまとまったということらしい。

 姪の結婚のこともさることながら、その父親である義兄は、これで二人の娘を嫁がせることとなったわけだ。
 先日、一緒に旅行に行った際、飲んで話をしたが、鹿児島出身の気丈夫な性格の男は、はったりめいた発言をしていたものだった。
「娘というものはね、育てる期間だけ預かっているというものなの……」
と、大見得を切り、
「その代わり、二人の息子ができるんだからね。これは大もうけだよ」
と。まあ<公式発言>としてはわかるが、果たしてどうなのであろうか。
 わたしは、正直言って一人の子どもが娘でなくてよかったといつでも思っている。自分のようなものは、きっとその娘が嫁ぐとなれば内心大騒ぎとなること必定だと思わざるを得ないからである。いや、意外と醒めていたりするかもしれないが……。

 しかし、現時点において結婚に踏み切るという事実は、何はさておき歓迎すべきことだと考えたい。愛があれば…… という面が重要であることはもちろんだが、結婚して家庭を持つという一大事をまとめあげられるということが、何はさておき幸せだと考えたいわけである。その幸せの中には、経済的な現状へのまずまずの読み、家庭づくりへの肯定的なビジョンなどなどが当然含まれていると思われるから、幸せだと思うのだ。
 おそらく、結婚へ踏み出すその一歩に、外的、内的なさまざまな足枷を感じざるを得ない若い世代の人たちも少なくないと思われる。
 統計によれば、「都市部の未婚率の高さも無視できない。東京23区では、30代前半で男が55.8%、女が40.6%。30代後半では男が34.2%、女が24.6%」( asahi.com )だそうで、言われているように、結婚という事実が当然の選択とは見なされなくなっているようである。
 ちなみに、わが息子も30代となったが、(相手はいるようではあるが)クリアできないと感じる障壁があると考えているように見える。いずこの親も同然で、わたしも孫の顔が見たいという思いはあるものの、余計なことは言い出せないという気分で支配されているようだ。もちろん本人が決意をすること以外に何もないのではあるが。

 矛盾が満ち溢れたこの時代にあっては、たぶん、何を選択しても大変でないことはないはずだと考える。要は、苦労のし甲斐のあることをこそ選ぶべきだということか…… (2004.12.04)


 昨今の過剰な商業主義に苛立つ自分としては、結婚式さえも決してその例外ではないことにげんなりさせられた。おそらく、当事者たちや、多くの来賓は所詮そんなものだと思って受けとめていたに違いなかろう。
 いわゆる「大手」の結婚式場というものは、万事が式場の都合というものが優先され、何と言えばいいのか、全体として、お仕着せの流れ作業なのであり、そしてまたその拘束感から言えばまるで「集団検診」でも受けに行ったようなニュアンスが拭い切れなかったほどだ。結局ほぼ一日の時間を費やしたことにもなったため消耗感が大きかったのかもしれない。
 神前の挙式自体も今さらのように空々しさを感じないわけにはいかない。日頃何の関係も、意識もあるわけではない神さまとやらの前で誓詞もへったくれもなかろうに、と思ってしまうわけだ。しかもそのもったいぶり方にはとにかく閉口してしまう。
 まあ、儀式なのだからそれはよしとして、披露宴とやらがまたそのワンパターンぶりにうんざりさせられる。進行内容もマンネリであれば、式場お抱えの司会者によるありきたりの雰囲気作りも好感が持てない。万事が安物のショーそのものである。
 安物さを非難しているわけではなく、それが当事者の仲間たちによる素人芸であればそれはそれでいいのだが、立派にカネを取っているビジネスであり、プロであるにもかかわらずマンネリ感を平気で漂わせるのがいただけなかったということか。

 要するに、もうちょっと事の内実に眼を向けるべきではないのかと思ったのかもしれない。神様をお借りし、所詮ビジネスである業者の拙い能力を借り、既製品としての思い出を作るくらいであれば、こんな時期であるのだからおカネを遣わずに「手作り」で実のある結婚記念式をやることができるはずだと思ったりした。
 大学院生の頃、友人の「手作り」結婚式に参加したことがあったが、実に心温まる思いになれたものだった。普段着での参加、会場も特別気取った場所でもなく、その代わり参加者たちからの祝福のスピーチが抱負であったのが特徴だった。

 そう言えば、昨日の式のスピーチでも完全に時代錯誤だと思われるものがあったりした。職場の上司による、「会社説明」やら仕事の話がメインとなった例のあれである。
 気の利いた上司であれば、自身の個人的生活に根ざしたパーソナルな話でもするのだろうと思うが、まるで「職縁関係」が個人生活をも被い切っていた異常な時代さながらに、仕事を素材にしてしか話を構成できない様子には不快感さえ感じた。
 確かに、生活を成立させるために職場は必須には違いないが、昔のように職場の上司が部下の個人生活まで面倒をみた時代では毛頭なくなっている。むしろ、個人生活に圧力をかけるかのような職場が敬遠されている時代だと言ってもいい。
 そんな時代の風潮を想像する能力もないかのように、まるで社内でのスピーチを引きずるかのような内容には恐れ入ったものだった。

 しかし、結婚式は若い人たちが主役だからやむを得ないといえばそうなるが、若い人たちの感性も随分と目減りしてきたものだとも感じてしまった。スピーチだけでなく、披露宴での出し物もいわゆる「ギャル受け」するようなネタばかり。まるで「合コン」的な雰囲気以外ではない。

 といったことで、もはや結婚式といったような場には、自分はそぐわないことを痛感した次第なのである。心ばかりのお祝いをすることはさせてもらっても、こうした場への出席は今後遠慮することを心ひそかに考えたものだ…… (2004.12.05)


『グリッドコンピューティング』の実用化が産業界で進んでいる」というニュースが眼に入った。( asahi.com 2004.12.05 )
 「余った処理能力を有効活用」という部分が何とも刺激に富んだ感じである。
 大きく構造変化した経済社会では、大量の失業者を作り出している一方、他方では専門能力を必要とする人材の枯渇が叫ばれている。いわゆるミス・マッチ状況の発生である。で、そこには、「余った処理能力」とも言えそうな人材が潜伏していそうな気がしてならないわけだ。そんな人材を、スマートに社会的ニーズの充足に向けて活用できないものかと思わざるを得ない。

 ところで「グリッドコンピューティング」とは、インターネットなどを経由して数十万〜数百万台に及ぶたくさんのパソコンをつないでスーパーコンピューターを超える性能を引き出し、膨大な量の計算に対応しようというアーキテクチァなのだ。パソコンの処理能力は通常90〜95%ほど余っているとかで、これを数百台集めるとスパコン並みの処理能力となるらしい。
 これまで計算量の爆発的な増加に対応するには、スーパーコンを使うのが当たり前であったが、スーパーコンは価格が1台数十億円にも上るのに加え、技術進歩に追い抜かれ性能が陳腐化する運命を免れない。「グリッドコンピューティング」では、1台当たりの計算処理能力ではスーパーコンにはるかに劣るものの、計算処理を各パソコンにうまく振り分ければ、総合的性能では引けを取らないというのだ。

 「『グリッド』とは“power grid”(高圧線送電網)から来た言葉であり、地理的に分散したコンピュータを組み合わせることで、その処理能力を、あたかも電気のようにその発生場所を気にせずに使用できるようにしようという発想から来ている」("@IT"より)とのことである。
 既に米IBMなどが、この技術を新薬開発のバイオ事業に利用する計画を進めているほか、エイズやアルツハイマー病の治療薬の開発、宇宙から降り注ぐ電波から地球外生命体を探索するといったプロジェクトも始まっているらしい。

 ただし、いろいろな制限もあり、計算処理内容も限られそうだ。

「現状で主流となっているグリッドコンピューティングの形態、つまり、多くのパソコン、ワークステーションや部門サーバをインターネットやイントラネットで接続するという形態(これを第1世代のグリッド……)では、以下のような制限が存在する。

1.並列性が極めて高い処理でなければならない。

2. コンピュータを接続するネットワークが比較的低速であり、信頼性が低い状況(特に、インターネットの場合)でも動作できなければならない。

3. 各コンピュータの処理能力や信頼性がそれぞれ異なるレベルの状況でも動作できなければならない(例えば、デスクトップパソコンであれば、計算処理中にいきなりシャットダウンされる可能性も十分にある)。

4. 計算結果を盗み見たり、プログラムを改変して、わざと不正な計算結果を送り出すような悪意のユーザーが存在しても、問題が発生してはならない。

5. 各コンピュータのI/O能力が高くないことを前提としなければならない。

 このような条件下でもうまく動作できる計算処理のタイプとしては、乱数アルゴリズムによる計算処理、モンテカルロシミュレーション、パターンマッチングなどがある。つまり、CPUインテンシブな科学技術計算の一部に限られるのである」("@IT"より)

 夥しい迷惑メールにその他悪質なインターネット利用などが目につくインターネット環境にあって、インターネット発祥の頃のように文字通りみんなで手をつないで望外の大仕事ができる、というそんな観点が先ずは注目に値した。
 とともに、こうした技術的アーキテクチァと同様なアイデアが、富が偏在し、孤立分散傾向だからこそ不幸が蔓延している現代の社会生活にも応用されないものであろうかと思ったりしたのだ…… (2004.12.06)


 ここ三、四日、再び偏頭痛が起き上がってうっとうしくてしかたがなかった。そして、今朝は、朝から重っ苦しい気配が拭い切れないため、さほど効くわけでもない頭痛薬を飲んでいたしかたなく在宅とすることにした。偏頭痛というのは、脳の血管の太いものと毛細との双方の流れの間でアンバランスが生じて起こる。太い血管を、幹線道路にたとえるなら、その道路にクルマが溢れ、生活道路や裏通りが閑散とするといったイメージらしい。そして、幹線道路の渋滞によってズキンズキンという痛みが発生するとかである。
 頭痛の治療薬というものは、こうした血流のアンバランスを調整するところまでは治療対象としていないため、ほんの少しは痛みが和らぐ感じはするものの、飲んで効いたという実感が持てたことはない。時たま、コーヒーで緩和することもないではないが、芳しくはない。ひどい場合には、ニ、三週間も苦しめられることもあるが、まさに、台風が通り過ぎるのを待つ心境でいるしかなさそうである。特殊な治療薬もあるようには聞いているが、まあ持病として生涯抱え続けることになりそうだ。

 きっと遺伝性の不具合なのだろうと考えていたら、亡父が頭痛を持病として悩んでいたことをはたと思い起こした。
 亡父は五十代の頃、とうとうクスリ依存症のようになっていたようだ。今でも市販されているかと思うが、ある頭痛薬を毎日朝一番から飲み始めていた。その粉薬は、まるで昔の街医者が出すように、正方形の紙で五角形に折られて分封されていた。それを、コップを片手に台所の天井を見上げる恰好で、のどに流し込んでいる姿をしばしば見たのを覚えている。
 実を言えば、そんなことからわが家には常備薬としてそのクスリがあったことから、わたし自身も一時はそのクスリに頼ることもあったのだ。まだクスリというものが持つ依存性の怖さというものが注目されていなかった時期ということになるが、飲めば何となくスッキリする気分となることがあってか、寝不足でちょっと頭が重い感じとなったりした折に飲み出して、いつしか自分でも常備薬として購入していた時期があった。
 今思えば、ぞっとする経緯であるが、ある時、ある薬局の店主から軽い忠告を受けたのが幸いで、それ以降ピタリと悪癖を断つことにした。

 が、亡父はどうもそのクスリの服用を十年来の習性としてしまっていたようだった。
 医者に行って診てもらうことができればよかったものの、元来医者が嫌いで、自家治療のつもりでそうしていたのであろう。
 今思えば、亡父の頭痛とは、まさにわたしが今やっかいだと思っている偏頭痛そのものであったはずである。しかも、痛む部位も後頭部の片側の下というのも同じである。しばしば、そんな箇所に湿布薬なんかを貼っている姿を見た覚えもある。さぞかし、痛みとうっとうしさと不安感でやり切れない思いをしていたのだろう。
 わたしは、「生兵法」ではあるが、不具合の正体を一応想像して認知しているからまだしもであるが、そうしたことが叶わない場合の持病の痛みというものは、心痛も伴い手におえないものだったのだろうと思う。

 いつの時代にかは、偏頭痛(わたしの場合は、プラス「閃輝暗点(せんきあんてん)」もある)のようなDNAの欠損すらも、比較的簡単に治療できてしまうことになるのであろうか。それはそれでひとまずいいことのように思えるが、人の痛みというものが、大体がDNA組み換えというレベルで対処されるような人の世とは、一体どんなものになるのか空恐ろしい気がしないでもない…… (2004.12.07)


 もうそろそろ「世間一般」を前提にした愚にもつかない議論は見据えなおす必要がありそうだと思う。われわれ日本人は、いろいろな意味で「均質的」な国民であったことから、「みんな同じ」という感覚をベースにして、「世間」=「同一なみんな」という発想に流されてきた嫌いがありそうだ。国民の大半が「中流意識」を持っていたなんていう社会は他にはなかったはずである。また、NHKの年末目玉番組「紅白歌合戦」に国民一同が興じるなんていう国なぞは他に例を見ないのではないか。
 そうしたことが、まったく良い面を持たないとは言えないが、これが妙な集団主義の空気を作り出し、いろいろな場面で集団主義の横暴を後押ししていた張本人でなかったとは言えない。
 しかし、どうも今その「大きな塊」(「均質一体型社会」!)が崩れようとしている気配である。すでに、経済環境は、いわゆる「二極分化」がジワジワと進行することによって、<遅れがちな「意識」のあり様>とは別に、貧富の差が広がろうとしているようだ。そして、そこから「ディバイド」(「デジタル・ディバイド」の「ディバイド」!)の現象が多発していくのかもしれない。

 そう、この<「意識」と現実との乖離>が広がりつつあるということが重要な問題ではないかと感じているのである。おそらく、現在の政治経済の流れでは、経済面での貧富の差は拡大する一方であろう。
 にもかかわらず、この時期にあって政治構造は、基本的には弱者を度外視する「二大政党」時代へと突き進もうとしている。また、時代迎合的でしかないマス・メディアは、富裕層を核とした仮想の「均質一体型社会」のイメージ作りに奔走している。その結果、庶民の重苦しい日常感覚は行き場を失いかけて途方に暮れ、ややもすれば自分の身丈には合わない上記仮想の既成カルチャーを羽織ったりしてしまう。
 今、重要なことは、全体がどうだという視点ではなく、全体という言葉が議論の引き合いに出される際には、全体という抽象的議論ではなく「誰が」どうなのだという具体的事実に関心を向けるべきなのだと思う。それは、国内問題に限らず、グローバルな問題においても、「国際諸国が」という場合でも、実際はどの国とどの国なのかを問うべきであり、また「国際平和」という場合にも、その主体は「国連」なのか、「米国」なのかを問わなければならないのと同じであろう。
 唐突であるが、昨夜、山本周五郎原作・黒澤明脚本の「雨あがる」をTV再放送で見ていて、なるほどと感じ入った場面があった。主人公の浪人が掛け試合をしたことを理由に、仕官の話が拒絶された際、浪人の妻が相手の侍にぶつけた言葉である。
「何をしたかが問題ではなく、何を理由としてしたかが問題なのです」と。
 その浪人の掛け試合は、貧しい者を助けるための苦肉の策であったのだ。
 事ほど左様に、聡明なる者は、事実の本質を射抜くのであり、底意地悪き者は通りのいい屁理屈を平気で言う。

 さて、いつも本題に入る前の能書きが長くて困る。我ながらそう思うのだが、その理由は、自分がどんな文脈で当該の事実を捉えたいと思っているのかを確認するためなのである。
 で、今回の当該の事実とは、「読解力低下」という文部科学省を困らせた事実なのである。(41カ国・地域の計27万6千人の15歳対象とした、経済協力開発機構[OECD]実施の国際的な学習到達度調査結果。朝日新聞の記事による)
 この調査が意味を持つのは、「知識量ではなく、将来、社会生活で直面する課題にその知識を活用する力があるかどうかをはかる」点である。
 日本は、「読解力」で前回8位が14位へ、「数学的リテラシー(応用力)」は前回1位から6位へと、学力大国(国民が概して平均的な学力を得ている?)日本が、初めて「世界のトップレベルとはいえない」水準に陥没してしまったという。
 とりわけ、「読解力」と呼ばれるジャンルの落ち込みが著しく、「出題形式別にみると、日本の正答率が低い10問のうち、5問は『自由記述』で、論述する能力の弱さが露呈した」「文章や図を論理的に解釈してそれを表現するのを苦手とする日本の生徒の姿が浮かびあがる」と評されている。
 これらは、「なるほど」と思わせるに足るものであったが、わたしが関心を向けたのは、さらに統計の内実が精査されると、そこに「学力格差の拡大、従来の日本社会の特徴であった皆が平均的な学力を持っているという点が崩れる」という事実が潜んでいた、という事実なのである。
 ある識者は次のように懸念を表明していた。
「国が義務教育の時間数や財政補償の水準を下げると、塾に行けない家庭の子や財政力の弱い地域の子がよりいっそう不利になる。格差がさらに広がり、深刻な事態になるだろう」(苅谷剛彦・東京大学大学院教授)

 「富裕層の子弟にも困った子はいるじゃないか」というとってつけた反論もありそうだが、概してまずそんなことはないのが現実的な話であろう。富裕層ほどその既得利益を維持すべく教育投資をするのは世の常であろう。
 いまさらのように「デジタル・ディバイド」(インターネットやコンピュータ等の情報通信機器の普及に伴う、情報通信手段に対するアクセス機会及び情報通信技術を習得する機会を持つ者と持たざる者との格差の拡大。すでに、先進国と発展途上国及び先進国内のデジタル・ディバイドが、経済格差を更に大きくしてしまうおそれがあると警戒する声も上がっている)という時代象徴的な事実に思いが至る。

 政府の中山文科相は次のように語ったという。
「低下傾向に歯止めをかけなければならず、競い合う教育をしないといけない」と。
 むしろ、歯止めをかけなければいけないのは、政府閣僚たちの「自由記述」能力のお粗末さではないのかなあ、という見解で大多数の国民は一致しそうだ…… (2004.12.08)


 北朝鮮による拉致問題での横田めぐみさんに関する公式回答で、北朝鮮が想像を絶する対応をしたことは日本の国民感情を大きく逆撫でした。
 日本では、どこの誰だか素性のわからない人のことを「馬の骨」と言ってののしってきたが、北朝鮮は、人の親の切ない気持ちを踏みにじり「馬の骨」をもって人間の尊厳に、二重のかたちで唾をした。ひとつは言うまでもなく横田さん夫妻に対してであり、もうひとつは、「馬の骨」扱いをされてしまったその骨の当事者に対してである。
 腐敗し切った権力というものが、人間らしさというものをここまでかなぐり捨てるものかと、ただただ驚きと怒りが込み上げる。

 腐敗権力について考える場合、その頂点のみを問題にしても始まらない。多くの場合、頂点の人物は、「煮詰まった周辺環境」を最大限に悪用する能力を保持しているのであり、問題はその「周辺環境」にこそ眼を向けなければ、「頭」のすげ替えが繰り返されるだけのこととなりそうだ。
 現時点の当該権力もまた、非難に値するに違いない頂点の人物の個性もさることながら、「周辺環境」を考察することこそが意味のあるアプローチだと考える。
 その点から言えば、ふたつの側面に眼が向く。ひとつは北朝鮮をめぐる国際環境であり、もうひとつは、拉致問題に対する国内世論の動向である。

 その国際環境といえば、とにかく緊張した米中関係が気になる。変なたとえであるが、現在の米中関係は、不仲な夫婦関係に似ていなくもない。腕っ節の強さに自信過剰となってきた「米太郎」という夫と、最近、綱渡りの財テクで変な自信を持ち始めた「中子」という妻である。そこに、手におえない悪童ぶりを発揮している「金太郎」が介在しているわけだ。
 「金太郎」は、さほど頭は良くないが、自身が欠点だらけの性格であるため、人の弱みを凝視する妙な能力は持っている。いや、両親、「米太郎」と「中子」の長年の醒めた牽制関係の下で育てられてきたことに由来するのかもしれない。
 「金太郎」は、父「米太郎」の唯我独尊、猪突盲信の性格を恐れてはいる。先日も、取引先の会社に、内部に不正があるということを口実に、周りが制する声も聞かずに殴り込みをかけて、とうとうその会社を乗っ取ってしまった。その会社の社員たちは、以前の社長にも手を焼いていたが、それ以上に言ってることとやってることとが食い違う「米太郎」に不満と恐れを持ち始めているという。
 とりわけ「米太郎」を恐れ続けてきた「金太郎」は、そうした、自分の悪事をはるかに上回るスケールの暴挙を淡々とやってのける父「米太郎」に顔色をも失うほどの恐れを感じていたに違いない。
 そんな父に対して自身の立場を作る上では、母「中子」に取り入るしかないことを痛感するのが「金太郎」の抜け目のない点だったのである。「中子」は、財テクで変な自信を強めてはいるものの、「金太郎」が警察沙汰にでもなり面倒なことになれば、微妙な財テク判断に狂いが生じ易くもなるし、夫からどんな乱暴な突っ込みを招くかもしれないと内心ビクビクしていることを見抜いていたのだ。母「中子」は、絶対に自分をないがしろにはしないと読んでいるのである。
 つい先日も、母に取り入る方策として相談したところ、ツッパリを見え見えにやっていたのではかばいようもないと言われ、居間に、これ見よがしに掲げていた自分のポートレートを外したりすることとなった。

 こんな奇妙な家族関係を現在の北朝鮮をめぐる国際関係としてたとえることができようかと思うが、やっかいではあるが、今ひとりの親戚をつけ加えなければ国内世論の問題が語れない。
 「米太郎」には、「小米次」という腹違いの弟がいたのである。「小米次」は、義兄の会社の傘下でそこそこの規模の会社を営んでいた。傍目には仲がいい兄弟とも見えたが、辛口の者に言わせれば、義兄にはいっさい逆らえないポチなのだそうだ。
 そういうこともあってか、自分の会社の女子社員が性悪の「金太郎」に何かと被害を受けても、歯に衣を着せた対応しかできないでいた。とにかく、万事が、義兄「米太郎」の一挙手一投足に配慮する姿勢以外ではなかったのだ。
 そんなことは、狡猾な「金太郎」は百も知っていて、叔父「小米次」に対しては高を括ったあしらいで終始するのが「金太郎」であったのだ。
 「金太郎」に対する「小米次」の手ぬるい抗議に対して、「金太郎」の申し開きは杜撰かつ誠意を欠くものであり、真っ赤なうそが乱発されていた。「小米次」の会社の社員たちで一連の事情を知る者は、社長「小米次」の姿勢に問題ありと睨み始めてもいた。ポリシーも信念もないくせに、とかくお手柄主義的なパフォーマンスを取りがちなやり方にうんざりし始めていたのである。そしていつしか、会社一同での「毅然」とした抗議と、対抗措置を取るべきだという声が充満し始めたのだった……

 変なたとえ話で、実は深刻である北朝鮮による拉致被害者救出の問題を振り返ってみたのだが、やはりここは、人権と国家主権という国際的基本課題を国際世論に向けて正攻法で打ち出すしかないと思う。もし、そうした時代を超えて筋の通った政治行動が採れない政府であれば、そうした政府をこそ先ずは作らなければならない。どうもわれわれはミスキャスティングによって貴重な時間を多大に浪費しているのではなかろうか…… (2004.12.09)


 書店で奇妙な表題の本が眼に入ると一応手に取ってみる。昨今は、タイトル倒れの書籍も少なくないので、警戒すべきではあるが、人目を引くタイトルを編み出した編集者の感性には一応感応しておこうと思うわけだ。
 『だます心 だまされる心』(NHK人間講座テキスト)がそのひとつであった。手厳しい言い方をするなら、今問題とされている事件の内部告発なのかと、いやそれは皮肉以外ではないのだが……。
 人間の意思疎通やコミュニケーション、そして認識のあり方などにとかく関心を向けてしまう自分としては、その裏側の、影のような問題としての「錯覚」や「だまし」そして「詐欺」といった倒錯した認識の問題にも当然関心が向いてしまう。念のために言っておけば、何もそれを悪用しようというつもりではない。むしろ、そうした手法が乱用されているこの現代に対して何がしかの警戒心を抱いているからである。

 それにしても、現在の社会状況は「だまし」の横行が目に余るものがありそうだ。
 つい最近、例の「オレオレ詐欺」の公式名称(当局関与?)が「振り込め詐欺」という、どう考えても流行語大賞からは程遠い響きの言葉に変更された。その被害の凄まじさを考えると、いわゆる愉快犯並みのニュアンスがないではない「オレオレ詐欺」という呼び名よりは実感が伴うかもしれない。
 とかくマス・メディアは、「援助交際」にしてもそうだったが、事実の生活実感よりも<話のネタ>提供的なけしからんところがありがちであった。思うに、これこそがある種の「だまし」だとも感じさせられてきたものだ。つまり、世間の手厳しい非難の声を潜り抜けさせてしまうオブラートの役割りをきっちりと果たしてしまうからである。
 おそらく、その犯罪名変更は、現場の刑事たちの士気にも影響することだろうと想像したものだ。
「事件発生! 都内豊島区……の無職○○△△72歳が」の後、「『オレオレ詐欺』にて780万円を詐取……」と伝えられれば、「オイオイまたかい」となるやも知れず、「『振り込め詐欺』にて……」と聞けば、刑事の頭の中では「ヨーシ、ホシをムショへ<ブチコメ!>」と繋がりやすいのかも知れない。

 現代の「だまし」問題は、何も「民間主導」で横行しているだけではない。そこが悲しいわけだが、前述書の前書きにも次のような一句が書かれてある。
「国家がある政策を誘導するために国民を『だます』などということは『あってはならないこと』ですが、現実には戦争政策の遂行などのなかで、『真実を写す』はずの写真でさえ捏造された歴史があります。 詐欺事件の場合には、……」
 むしろ、民間の詐欺よりも国家が行なうその種の錯乱の方が恐ろしいことを奇しくも暗示しているようでもある。
 たとえば、現今の「自衛隊派遣延長」問題にしても、閣議決定の直前に、政府責任者たちがまるで「サマワ参詣ショート・パック」旅行のように出かけて、「治安安定」の御札を貰ってくるようなパフォーマンスは、ほとんど国民「だまし」、猫だまし以外ではなかろう。わたしは、一瞬、何十年も前の米国による月の軟着陸の映像をフラッシュ・バックしたものだった。さらに、待てよ、この「パック」旅行でさえひょっとしたら本当は鳥取砂丘かどこかの国内ロケだったりして……と勘繰ったほどである。それにしても、既に、過去8回も迫撃砲で敷地内を攻撃されている事実を頬かむりして、安全安定だなどというのは夜店の的屋(てきや)や香具師(やし)以上の口からでまかせの「だまし」だということである。

 結局この「テキスト」は購入することにした。「だまし」横行の現代の状況を、くれぐれも肝に銘じるためにであった…… (2004.12.10)


 余りこんな話題を公開の場で書くのは適していないと感じるが、新たなことに気づくとどうしても書きたくなるものだ。
 「男性の更年期は一般に40歳から65歳くらいまでです。この時期はリストラや定年などで社会的なストレスも重なるため、精神的にも不安定な環境にあります」という記事にハッと眼がとまったのだった。(『週間朝日 増刊号』2004.12.5 『予防医学の権威がすすめる健康食 決定版 がんをなくす食事!』「男性更年期障害」の項より)
 「男性の更年期には精巣と前立腺がかかわっている。加齢によって男性ホルモン(主に精巣ホルモンのテストステロン)の分泌量が低下すると、前立腺が肥大し、頻尿、残尿感、尿のキレが悪くなるなどの排尿障害や、性欲減退、勃起不全などの男性機能の低下が現れる。気力の消失、不眠、イライラなどの精神・自律神経症状も顕著となる」
 わたしが眼をとめたのは、男性機能の低下云々ではなく、精神面での不調についてなのであった。ちなみに、「男性ホルモン低下テスト」とやらの「問診表」がついており、セルフチェックしたところ、何とほぼパーフェクト・ワールドであった。愕然とした。

1.性欲の低下がありますか?
2.元気がなくなってきましたか?
3.体力あるいは持続力の低下がありますか?
4.身長が低くなりましたか?
5.日々の楽しみが少なくなったと感じていますか?
6.物悲しい気分となったり、怒りっぽくなったりしていますか?
7.勃起力は弱くなりましたか?
8.最近、運動する能力が低下したと感じていますか?
9.夕食後うたた寝をすることがありますか?
10.最近、仕事の能力が低下したと感じていますか?


 この一、ニ年の精神面を振り返ると、概して「物悲しい気分となったり、怒りっぽくなったり」という、だれが表現したか知らないが実感のこもった気分となった覚えが否定できない。また、もろに、自律神経失調だと自覚できるような症状すら覚えがあった。
 確かに、ろくなご時世ではないことも疑いないはずであるが、極端にそれらを悲観的に受け止める自分自身にも気づかずにはいられなかった。何か身体の変調があるのかもしれないとは思いながらも、正体不明でしかなかった。
 が、「一般に40歳から65歳くらいまで」が「男性の更年期」だと示され、精神面でのメルクマール(指標)が突きつけられると、「ハハー、恐れ入谷の鬼子母神」と相成ってしまった。

 話は、これで終わりではない。更年期該当者の割りには好奇心の強い自分は、「イソフラボンが男性ホルモンの『代役』をする! 症状軽減に役立つ可能性」という副題に色めき立ったのである。
 曰く、「イソフラボンが体内に入ってくると、女性の場合は、細胞にあるレセプター(受容体=特定のホルモンなどを認識して結合する蛋白質)が女性ホルモンだと勘違いします。ところが、男性の場合は、イソフラボンが男性ホルモンと勘違いされて、それと同じ働きをしてくれるのです。これが、天然のホルモン様物質ならではの優れたところです」
 そこで、好奇心旺盛な自分は、試しにと思い吸収が良いとされる「アグリコン型イソフラボン」という大豆サプリメントを購入し、服用を続けてみたのである。ただし、念のために言っておけば、決して「バイアグラ」的期待感を動機としたのではなく、あくまでも男性ホルモンが精神面にどう影響を及ぼすものであるのかの検証のためである。
 まだ確証は持てないのではあるが、服用一週間の経過からすれば、オイオイ、ひょっとしたら効き目があるのかもしれないぞ! 何だか気分が上向いてきた気がしないでもないのである。それも、偏頭痛と奥歯抜歯を間近にした体調の最中でありながら、妙に気力らしきものを感じるのである。自分は、もともと若干躁鬱的体質があるため、単に躁的サイクルに入ったに過ぎないのかもしれないから予断は許されないが、まあこの調子が進めば、ひと(他人)にもお勧めできるかもしれないと思っている。まあ、「イソフラボン」を女性ホルモンだと早とちりするレセプターが、わたしの体内にいないことを祈ってはおきたいものではあるが。

 しかし、暮らしにくいご時世にあって、自分を「だまし、だまし」元気づけるというのも、結構努力が必要だということになるのか…… (2004.12.11)


「自分は負けてばかりだ……」
「そうですね、負けっぷりがいいって言うんでしょうか」
という会話に、大人としての人間らしさが窺えた。
 これは、昨日の朝日TV開局45周年ドラマ「にんげんだもの・相田みつを物語」の中の主人公・相田と妻との病床での会話である。相田を演じたのは、タレント木梨徳武、妻役は薬師丸ひろ子。薬師丸の落ち着いた演技による、上記のセリフが実によく効いていたかと思った。そう言えば、薬師丸ひろ子は、昔のあの「セーラー服と機関銃」以来であった。
 ちなみに、TV番組欄の「口上」には次のように書いてある。
「つまづいたっていいじゃないか日本人の心を癒すあの言葉はこうして生まれた! 極貧人生、壮絶夫婦愛、嫁姑それぞれの苦悩……知られざる涙と感動の実話」
 弱音も漏らす人間らしいつぶやきを、それにふさわしい毛筆書体で書き続けた相田みつを氏の半生を綴った物語なのである。

 書道家からは、庶民にわかるようにとする意図だけでは芸術とは言えないと批判され、出世をしたかつての先輩からは、「世の中は皆上を向いて発展しているのに、人間の弱さを前面に出して、うつむき加減となることはやめるべきだ。お前も本当は勝ちたかったはずなのに……」と非難される。
 そうした言葉に、自分の心根に実は潜んでいたかもしれない不純なものを気づかされたりしながら悶々とする相田。しかし、薬師丸、いや妻が、淡々とそして一歩も引かぬ毅然とした面持ちで相田を支える。
 冒頭の会話は、脳内出血で倒れ、出版された自分の本を病床で妻といっしょにながめながらのものであった。自分の人生を振り返り、いつも負けてばかりの人生だったとつぶやくわけだが、薬師丸、いや妻が、決して否定するわけでもなく、もちろん咎めるわけでもなく、かと言って二人して落ち込むはずもなく、
「そうですね、負けっぷりがいいって言うんでしょうか」
と、コペルニクス的反転の言葉をもらすのである。
 ハイ、カット! よし、決まった! ごくろうさま! とわたしはディレクターになったかのような気分でいたものだ。
 まさに、相田みつを氏の作品と、同氏の人生を一言で言い表すとすれば、その「負けっぷりの良さ」に尽きると思えたからである。

 昨今、勝ちっぷりのいいヒーローも少なくなってしまったが、「負けっぷりのいい」御仁もとんと見なくなってしまったのではなかろうか。とかく、寡黙で美しいヒーローもいなくなったし、矢面に立てば往生際の悪い奴ばかりが目につくいやな渡世になったもんでござんす! そう言えば、史上まれに見る「負けっぷりのいい」ヒーロー「義経」が来年はNHK大河ドラマになるとかで、世の流れは、勝つことばかりに力まずに、潔く負ける美学の見直しへと向かいつつあるのだろうか。
 というよりも、「勝った、負けたと騒ぐじゃないよ〜♪」「勝つと思うな、思えば負けよ〜♪」的に、勝敗を超えて泰然と生きることへの郷愁が立ち上がりつつあるのだろうか……
 そうなんだよねぇ、勝った勝ったと騒いでみても、短い人生、三途の川を越すには心ひとつ、腹ひとつ以外は何も持って行けないんだもんねぇ…… (2004.12.12)


 街を歩くと、液晶画面が一段と大型化したケータイを並べたショップがいやでも眼に入るものだが、それを見ると、ケータイの消費電力のことを煩わしく思い起こすことになる。今や、ケータイは電話とメールの機能以外にデジカメやゲーム器としても重宝がられ始め、ますます充電の問題がクローズ・アップしているかに見える。
 そんなことを睨んでか、ケータイへの充電の新グッズもあれやこれやと現れてもいるようだ。AC電源からの充電器は当然として、クルマの電源を使うもの、PCのUSBポートから流用するもの、そして、どこでも入手できる乾電池でまかなうもの、さらに、ソーラー発電や手動式発電の充電器まで登場している。
 災害時やフィールドでは容易に電源が確保できないことは誰でも心配するところであろう。緊急用のライトやラジオの電源として、言ってみれば自転車の発電と同様の自家発電の原理が応用されたものも製品化されている。そして、これと同じ構造のケータイ用充電器もあるらしい。いざという場合には役に立つのかも知れない。

 加えて眼のつけどころを、充電の問題から、そもそもの課題であるデバイス側の消費電力の問題に転換した動きもあるらしい。
 ケータイの表示機能を受け持つ液晶ディスプレーはどうしても消費電力がかさ張ることは知られている。デジカメでも、液晶画面をオフにしておけば撮影枚数が増やせるというのもそのためであるはずだ。
 液晶の電力消費については、すでにモバイルPCでの課題として注目されてきてはいたようだ。ノートPC、モバイルPCのユーザなら誰もが明るいシャープな画面を望むものだが、それは同時に消費電力を増大させることとなり、「モバイル」のネックであるバッテリーに負荷をかけてしまう。
 そこで、液晶メーカー各社は、省電力型で照度が高い液晶の開発に精を出してきた。
 先日、PCショップで文字通り人目を引くような鮮やかな照度であるノートPCの画面を見た。ちなみにシャープ製であったかと記憶しているが、とにかく並んでいる他社の製品に較べてダントツに明るい液晶画面であった。PCも、価格の安さを求める動きに加えて、次第に目が肥えたユーザ向けに、こうしたプラスアルファの特化が必要となった時代なのだと認識させられた。自分自身も、そんな明るい画面のノートPCなら新たに欲しいと感じたくらいだから、購買意欲をそそる誘因とはなるのであろう。

 もうひとつ、なるほどと思わされたデバイス側の消費電力抑制の動きであるが、今日の報道で、「携帯用LSI、消費電力10分の1に・日立とルネサス」というのがあった。(NIKKEI NET)
「日立製作所とルネサステクノロジは携帯電話の待ち受け時間を最長30日程度に延ばせる省電力型のシステムLSI(大規模集積回路)技術を開発した。消費電力を10分の1に減らし、同じ充電量で10倍長く使える。2007年にもこのLSIを搭載した携帯電話の実用化を目指す」
ということで、咄嗟に思ったことは、やや売上が横ばいになり始めたケータイ市場への刺激材料なのだな、ということだった。いや、PCにしても、IBMの身売りに見られるように「成熟製品」となってしまうと、売上の頭打ちと価格競争との両条件によってメーカーにとっては魅力的な商品ではなくなってしまう。これを食い止めるには、エンドレスにも似た製品のイノベーションが要請されるのかもしれない。
 「ユビキタス(ubiqutous)コンピューティング」(あらゆる機器にコンピューター、もしくはその操作が可能な装置が組み込まれ、相互にデータを交換し合い、情報を利用できるネットワーク環境への動向)が唱えられる時代にあっては、いろいろな課題が待ち受けてはいるのだろうけれど、そのひとつとして「モバイル」デバイスの宿命としての課題、電源調達=バッテリー=省消費電力型、という問題がますます重要なテーマとなっていくのだろうと思えた。
 バッテリーの改良とともに、決して電力の「大喰らい」ではないデバイスへのデバイス(「工夫」という意味もある)が、商品の魅力を保持して需要を獲得し続けるのであろうか…… (2004.12.13)


 最近は、ネタに窮して書くべきことではないことまで書くようになってしまった。ただ、プライバシー侵害、名指ししての個人攻撃などは間違ってもするつもりはない。
 寄付などの善意の行為についても、公表すべきでないことも知っている。
 昔、PCショップも行っていた頃、ある雑誌がショップ紹介の取材に来たことがあった。いろいろとインタビューされる中、奉仕活動のジャンルの話となり、わたしはうっかり勇み足となり、PC二台を地域の孤児院に届けたことを話してしまった。すると、若い記者は、
「そうしたことは伏せておいた方がいいですね」
と、さりげなく言ったものだった。わたしは虚を衝かれうろたえたが、同時にコイツは若いにもかかわらずデキタヤツだと思ったりした。
 ただ、この悪事に満ちた時代にろくでもない現象ばかりにこだわるのも嫌気がさしている。チィーとはまともな話に触れたいがためにあえて書くことにした。

 「みなさまのご支援(募金)でできるユニセフ活動の一例」として以下のような記述が、ユニセフの支援依頼のパンフレットにある。

○3,000円のご支援で
 肺炎にかかった子どもを治療する抗生物質を100人の子どもに5日間投与することができます。
○5,000円のご支援で
 下痢になった子どもの脱水症状を緩和する経口補水塩(ORS)681袋を提供することができます。
○10,000円のご支援で
 8つの感染症(はしか、結核、百日ぜき、ジフテリア、破傷風、ポリオ、黄熱、B型肝炎)から子どもの命を守る予防接種ワクチン166人分を提供できます。
○30,000円のご支援で
 衰弱した子どもの体力を回復させる栄養補助食ユニミックスを2083食分提供することができます。
○50,000円のご支援で
 母親の清潔で安全な出産を手助けする器具、消毒液、医薬品など一式を31人分提供できます。

 実にスマートで合理的な支援要請アピールだといつも思う。で、「予防接種ワクチン166人分」の願いを込めた協力を個人的にさせてもらった。また、後日、法人としては「3,000人分」ほどの子どもたちを苦痛から解除する支援をと考えている。
 ちなみに言うならば、「下手でおまけに悪意さえある政治と行政!」によって失われた国の財務=赤字財政を埋める義務を感じるよりも、悪意がないばかりか、未来のある子どもたちの命を救うことの方が、遣り甲斐があるし、優先されるべきだと直感するからである。

 わずかな募金で偉そうなことを言ってはいけないが、そもそも「お布施」とは「主観的」行為が重要なのだと思っている。客観的結果はもちろん重要ではあるが、もしその点が唯一重要だとするならば人の善意などという掴み所のないものに依拠せず、強制力のある方法を目指すべきであろう。
 つまり、「お布施」とか「募金」とは、それに同意する者の「主観」に意味があるととりあえず考えたい。結果的にそれらによって救われる者がいることは、言ってみれば「望外」の幸せということになる。というのも、「お布施」とか「募金」に同意する者は、される者たち以前に先ずは「救われる」ということになるからなのである。
 現代の人間は、幸せを求めてあくせくしているにもかかわらず、残念ながら幸せにはなれないように思われる。というのも、「お布施」とか「募金」に同意できないからであり、そうした意識構造が日常(経済)生活の場で培われてしまうからである。
 生活の中で経済行為をメインに据え続けるならば、合理性とは「経済的合理性」以外の何ものでもなくなり、現行経済システムには沿わないながらも人が生きるにあたって必要な精神的価値や、その価値が持つ合理的な側面は確実に頓挫してしまうはずであろう。その行き着く先に、振り込め詐欺、保険金詐欺殺人、うそつき・ごまかし金権政治などなど、さらに言えば暴力と性の一連の犯罪といったまさに「人でなしたちの地獄」があることは言うをまたない。

 「施す」という驕りを持っては効果が半減することになるのでそれは戒めたいが、相手にわずかながらも小さな幸せが向かうのだろうと想像できることは、どんなに有り難い、つまり得難い一事であることかと思うのだ。それが救われるという意味なのだ。そうした感情浄化がないならば、現在の貪欲な経済論理はわれわれの人間的な心を片っ端から食い尽くしてしまうに違いない…… (2004.12.14)


 この半世紀、わたしと苦楽をともにし、文字通り「歯を食いしばる」努力を一緒になって協力し続けてくれた「友」と、昨日「離別」した。その晩年は、喘ぎ喘ぎの生き様であり、わたしも執拗な苦痛を強いられたりもした。が、あっけない最期であった。
 ころっ、と横たわる姿は惨めといえば惨めではあった。が、見ようによっては、満身創痍のその姿は生涯の壮絶な闘いの跡をとどめ、誰からも後ろ指を指されることのない、それはそれなりの完璧さとでもいうものが見てとれた。生きとし生けるものが宿命とする、闘いと消耗の末に迎える御仕舞という荘厳さが見てとれないわけでもなかった。
 わたしは、しばし眼を閉じ、ともに闘い続けてきた長い過去の日々に想いを寄せた……。

「どうします? 持ち帰りますか?」
「いやー、手厚く葬ってやってください」
「で、今晩はお風呂には入らないようにしてくださいね。そのほか、注意事項はこれに書いてありますから、後でよく読んでおいてください」
「えーっと、この最後に書いてある『うがいはしないでください』というのは何ですか? どうして、しちゃあいけないんですか?」
「それはですね、『抜歯』後は、止血がうまくいかない人がいまして、そんな場合、うがいをすると止血の役割りを果たす血の塊が流されてしまうんです……」
 こんな会話を歯科医の女医さんとしながら、わたしは治療用の椅子に足を投げ出して座っていた。いや、座らされていた。
 交差店に面した角地のビルの二階にあるこの歯医者の部屋は、全面がガラス張りとなっている。治療が終わり椅子が起こされると、窓外に忙しく走りすぎるクルマの群れがよく見えた。
 治療前も、そのクルマの流れを見るとはなく見ながら、今日の「抜歯」手術(?)の推移について不安気に思いを巡らせていた。昔、反対側の奥歯を抜かざるをえなくなった際には、結構大変な思いをしたことが蘇っていたのだ。

 先ず、麻酔の注射がニ、三本歯茎に打ち込まれたはずだった。それがそこそこ痛かったと記憶していた。そして、いよいよ「抜歯」手術(?)が始まると、ペンチのような道具が口内に差し入れられるのが、先ずは恐怖を誘う違和感をかき立てたものだ。瞬間、大人でも、閻魔大王に舌を抜かれるイメージが走るから変なものだ。
 いよいよ、当該の歯がそのペンチで挟まれた。いや、そんな感触がする。もちろん麻酔が施されているため鈍い感触でしかわからないわけである。
 力が加えられ始める。が、歯の方は抵抗する。まるで、デモ隊から機動隊によってゴボウ抜きされつつある市民さながら、体重を落とし腰をふんばって抵抗するごときだ。
 ミシミシという音がする。歯根と周囲の骨との軋轢なのであろう。それが気味悪い感じなのである。歯科医の手元が狂って、あご側の骨がベシッと折られやしないかという臆病な想像力が働いたりするわけだ。
 で、ゴボウ抜きが終わると、確か、血が噴出す(?)ことになったかと記憶している……。
 そんな、記憶をたどりながら、唐突に、昨晩だかに見た「忠臣蔵」の赤穂浪士たちが白装束で切腹を待つ場面を思い起こしたりするのだから、臆病具合もほどほどにせい! という心境なのであった。

 ところがなのである。手術(?)は、わたしの記憶やごてごてした想像をことごとく裏切り、手抜き坊主のお経のようにアッという間に終了してしまったのである。「案ずるよりも産むが易し」のサンプルさながらであったのだ。
 麻酔注射も、三回に小分けして行なわれ、「ズブリ感」は覚えがなかった。
 そして何よりも、ペンチで挟まれた歯には、デモ隊員としての誇りなんぞ何もなく、抵抗はいっさいなかったのである。「ヌルッ」という感触で隊列から抜けたようで、ホッとでもしていたかのようでさえあった。
 どうしてこんなにイージーであったかと言えば、歯科医曰く、
「もう、行き着くとこまで行ってましたからね。グラグラしましたでしょ。もう何の役にも立っていなかったはずですよ」
 まことにその通りなのであり、ここニ、三年は、その歯で噛むことは不可能となっていたのである。しかし、抜くことを躊躇う意思というか、妄念が残留にお墨付きを与えていたのだった。何度も、医者は遠まわしに抜歯を勧め、その都度わたしははぐらかしてきたのだった。そして、痛み止めや化膿止めのクスリを処方してもらってきた。
 今考えてみるに、この辺に自分自身の「後ろ向き」な精神といった一種の病みがあるのかもしれない。継続してきたものをそのまま継続させようとする度し難い「保守反動の精神」が潜んでいるのかもしれない。日本人なのかなあ、と反省したりするわけだ。

 が、とにかくわたしの口内からは「老兵」が去った。一抹の寂寥感が漂わないわけではないが、そんなこと言ってはいられないご時世でもある…… (2004.12.15)


 やはり「餅屋は餅屋」、医者の見解も大事だと思った。
 今朝は起きぬけから、またまた頭痛に取りつかれていた。いつものやつである。ウォーキングで汗を流したら何とかなるだろうかと、勇んで出かけたが結局戻っても変化がなかった。
 このところ、大体、夕刻から夜に痛みが出てきていた。まあ、夜更かしせずに早く寝ろよ、というサインだと心得ていたが、朝から始まったのでは話にならない。思い切って、医者に診てもらうことにした。ちょうど、通勤途中に「脳神経外科」という、ちょっとした頭痛には大げさではあるが、手頃な病院があったからだ。
 実を言えば、つい先頃、「偏頭痛」には「トリプタン」という特効薬があることをインターネット・サイトで知ったのだった。そういうものがあるのなら、重っ苦しい日々を過ごさなくても済むと思ったのである。単なる鎮痛剤ではなく、血管の膨張・収縮に対して調整作用を与えるというその「トリプタン」とかを処方してもらおうと意図したのだ。
 ところがなのである。わたしが、「偏頭痛」という自己診断をその医者に伝えたところ、頭痛だけに頭っから否定されたのだった。
「どうしてそう思うわけ?」
向う気が強そうなその医者は、挑戦的な口調で言った。
「脳の血流異常でおきるはずの閃輝暗点(せんきあんてん)も経験していますから……」
わたしも、抗弁した。すると、デスクのPCに向かっていたその医者は、わたしの方に向けて椅子を回して、では説明して進ぜようとばかりに話し始めたのだった。
「それはそれだけど、先ずね、あなたのような歳では『偏頭痛』ということはあり得ないのよ。つまりね、『偏頭痛』というのは一時的な血流オーバーが原因でね、歳とると、動脈硬化が起きるくらいだから血流がオーバーするなんてことはないわけよ。『偏頭痛』は十人中一人、二人くらいの割合かなあ。おそらく、『緊張性頭痛』という類でしょ。要するに、首や頭の筋肉が凝って血流が悪い部分が痛みとなってくるのよね。」
 わたしは、この間「偏頭痛」説を採り続けてきただけに、呆気にとられてしまった。勝手なこと言うなぁー! という衝動がなかったわけではないが、待て、こいつは医者なんだ、専門家なんだ、おまけに実にリーズナブルな論拠で武装している、うむ、正しいのかも知れないな……、と納得し、
「へぇー、そうなんですか。いわゆる肩凝りの延長なんですか……」
「そう、そう思えばいいね。まあ、ほかに問題がないかどうか、MRI検査と首の部分のX線撮影をしてみましょう」
となったのである。
 結果は、当該の痛みに繋がる取り立てての問題はほかにはなく、結局、『緊張性頭痛』ということに落ち着いたのだった。
 その後、デスクワークに一日終始する生活をしていると、どうしても肩や首筋の筋肉の血流が滞るため、運動が必要とのアドバイスをもらうこととなった。
 しかし、勝手に自己診断していた「偏頭痛」という病名が朝日に照らされた霜のように消え去ったわけである。自分は何と「思い込み」の激しい人間なのかと自嘲する一方で、「餅屋は餅屋」、やはりケースワーク(経験事実)の多い人に事情を確認することは怠ってはならないことを痛感したわけである。
 しかし、それにしてもMRIというデバイスは、優秀ではあるけれどその検査費用は「高い!」。健康保険を使っても 8,000 円を超えてしまうのだから……。今日は、病院へ出向く前にちょっとした買い物をして手持ち残金僅少となっていたため危なく恥をかくところであった。
 高い医療費を払わないためのコツは、ただただ汗を流す運動・スポーツに精を出すことのようだと再認識した…… (2004.12.16)


 昨日書いたとおり、「頭の不具合」(?)を直すクスリを飲んだお陰で、今日は一日中晴れやかな気分だ。あの重っ苦しい頭痛が消え去ることがこんなにも爽快であるのかと不思議な心境でいる。ただ、今は当該の「緊張性頭痛」とやらが完治しているわけではなく、鎮痛薬を併せて飲んでいる結果なのだろうから、安心し切るわけにはいかない。しかし、それにしても、まるで後頭部に喰らいついていた悪霊が落ちたようで快適な気分である。

 さぁて今日は仕事の計(はか)が行くことだろうと意気込んでいたのだが、今度は、My PCが朝から不調に陥ってしまった。
 よくあることと言えばそうなのだが、メモリの増設のためにケース内をちょっといじった拍子に、不具合が誘発されてしまったという感じなのである。使い込んできたハードディスクが不調となり、まるで「そっちを診るのなら、こっちも診て頂戴!」と言わぬばかりのありさまであった。
 で、あちこちの気になるところをいろいろと手直ししていたら思わぬ時間を食ってしまった。

 ところで、PCをアッセンブル(組み立て)したり、長年つき合ってきている者でも、いざPCが駄々をこね始めると手を焼くものである。まして、ボンネットを一度も開けたことがないというドライバーのようにPCを使っている一般ユーザにとっては、PCは便利ではあるが、相変わらず「厄介者」という印象が拭い切れない代物(しろもの)なのだろうと思う。しかも、アプリケーション・ソフトとて、慣れれば何でもないことなのではあっても、そこそこの自己啓発心や集中力、忍耐力なしで済むわけにはいかない。クルマのように、多少の注意力は必要だとしても操縦感をはじめとして快適な充実感がイージーに味わえるモノとはやはり違うのかなぁ、と感じさせられたりする。

 先日、とうとうコンピュータの老舗IBMが、パソコン事業を中国のパソコン最大手・レノボ(聯想)グループに売却するとの報道があった。なるほどなぁ、という第一印象であった。PCは、グローバルな価格競争の結果、メーカにとっては、以前のような魅力的な製品ではなくなってしまったというのが実情なのであろう。デル、ヒューレット・パッカードなどのように圧倒的な「通販体制」を整えなければなかなか従来のような売上と利益を見込むことは難しくなっているのだろう。やはり、PCは「成熟」製品となり、一気に価格のみが争点となってしまった背景の問題が大きいのだろう。
 と同時に、わたしが思うのは、昨今目まぐるしく登場している他のITデバイスと較べて、PCはやはりユーザにとって手が掛かり過ぎる製品であったのかもしれないという点である。もちろん、使い慣れたユーザにとっては別の評価があろうし、また一頃に較べればずっと手がかからなくなった簡便さが雰囲気を変えたことは確かだ。
 しかし、結局、問題はそれを活用するユーザとの関係に尽きるのであり、現在のユーザは、一頃に較べてさらに「横着」となっているようにも思えるのである。とにかく便利なデバイスやツールと日ごと遭遇しているのが現在のユーザであろう。もはや、ちょっとした程度の使い勝手改善なぞは眼中にはないと言ってもいいのかもしれない。
 要するに、「頭を使うこと」は勘弁してよ! というのが、残念ながら現在のユーザの最大公約数のようにも見える。そして、PCとは、所詮「頭を使う」ツールとして出発し、比較的「頭を使わない」ツールへと改良されてきたモノなのだろう。だから、まるっきり「頭を使う」必要がない製品にはなかなか勝てないという恨みが残るといえば残るのだと思える。

 こんなことを言うのは、PCの対極的存在としてTVを想定するからである。
 わたしは、インターネットが普及し始めた頃、この勢いではPCは近い将来、TVを駆逐することになる、と予想した。ところがどうだ、事態はまったく逆であり、一般大衆のTVへの関心は衰えないどころか、今やPCでTVを見ることができたり、録画できたりしないとPCが売れないという状況にさえなっていると聞く。
 また、インターネット活用にしても、ケータイによる活用はやがて下火になるのかもしれないと思いきや、どうもケータイによるメールをはじめとするインターネット活用はますます大衆化しているかのようである。
 PCのとかく煩わしい環境に較べて、まさしくどこへでも携帯でき、指先のみで操作でき、加えて、この日誌のようにごてごてした内容なんぞ不要であり、タームだけで満足できるような人々が多くなると、自ずから勝敗は決してしまうのかもしれない。

 そう考えると、PCというのは、まさに「パーソナル」・コンピュータなのであり、個人という意味であるとともに人間としての人格を思わせるものだということにいまさらながら眼が向く。そして、パーソナル・コンピュータが頭打ちとなりつつある時代状況というのは、ほかにも理由があるにせよ、人間を指す「パーソナル」というものの比重が曇っていくかのようなこの時代を奇しくも照らし出しているような気がしないでもない…… (2004.12.17)


 ここしばらく「鉄アレー」を持ってのウォーキングは手控えていた。別に、関連「事件」があったからというわけではなく、ちょっと疲労度が激し過ぎるのかなとの懸念からであった。
 だが、ただ歩くだけではいかにも運動量が少なすぎるし、上半身の運動不足が頭部筋肉の血流にいい影響を及ぼさないようなので、再び「鉄アレー」携帯でウォーキングをすることにした。
 久しぶりにそれを携帯して歩くと、やがて腕の筋肉が、継続する負荷のために愚痴をこぼし始めるのがわかる。ダラーッと下げているのではなく、肘を曲げて保持しながら前後に振っているため、特に上腕二頭筋(いわゆる力こぶを作る筋肉)が不平を言い出すのである。

 わたしが、「筋肉」というものにこだわるのは、若い時とは異なり、健康上の理由が二つあるわけだ。若い時は、単純に力持ちでありたい、腕っ節が強くありたい、筋肉体型でカッコよくありたいなど、他愛もないことを願っていたかもしれない。
 だが、昨今は、太り過ぎ解消のため基礎代謝量を大きくするためには、そこそこ筋肉を付けておかなければならないという意味合いなのである。相変わらず糖尿病の「境界型」のラインを行きつ戻りつしている自分にとっては、ある意味で筋肉質の体型は不可欠だと考えているわけである。
 もうひとつ、これは最近知らされたことなのだが、自律神経失調などを誘発する例の「更年期」は、ホルモン分泌の低下に基づくものらしいが、男性の場合、筋肉への負荷が少ない生活をしているとどうしてもホルモン分泌低下傾向が進行しやすくなるとのことである。
 別に、「男らしさ」なぞといった色褪せた美意識を持っているわけではないが、男性が男性ホルモンを失うと、意識・感性の面において消極的となったり、場合によっては鬱状態に陥らないとも限らないそうなので関心を払うわけなのである。

 これに関連した話題では、現代の青年、中年の男性は、男性ホルモン分泌が抑制されてしまっているのだという。それは何も、文化的雰囲気に男性的な色合いが薄れてきたからとかいうことではなく、もっとシビァな現代環境があるというのである。
 ホルモン分泌というものは、脳の中の、「大脳辺縁系」と呼ばれる部分に大きく依存しているらしい。ところが、大脳の思考回路が緊張を続けると、「大脳辺縁系」によるホルモン分泌のための指示が極端に低活動になるとか、なのである。たとえば、組織の中で上役から小言を食らってストレスを受けたりすると、著しく低水準となることが計測結果でも判明しているらしい。大脳の思考回路を酷使して、何かとストレスをため込む現代人は、とにかくホルモン分泌をカスカスにしていると言ってもいいようである。
 こうした傾向について、いろいろと想起させられる社会現象などとを関連づけて考察してみるのも面白いかもしれないが、それはおくとして、ここでの関心は、男性の場合には筋肉を適度に使うことが、はかない抵抗となり、予防措置となるという点なのである。

 「マッチョ(macho)」であることを一概に肯定しようと考えているのでは決してない。どこだかの体育会系マッチョたちが、破廉恥な犯罪を犯して世間を騒がせ続けているのを見聞すると、「履き違えるなよなぁ」と言いたくなる。その種の行為に向かうだけが、男性の男性たる特質ではなく、身体の中では人間としてのトータルな営みが展開されているのだよ、と言ってやりたいわけだ。あんまりエキセントリックなことばかりしていると、早く更年期が来てしまってつまらない晩年を過ごすことになるよ、って言ってやりたい。また、同時に、小市民会系(こんな言葉はなかったか?)の歯車志望者たちにも、あんまりストレスばかりをため込んでいると、「中性」洗剤になっちゃうよ、って言ってやるべきなのだろうか…… (2004.12.18)


 師走の一日を、今日は目いっぱい活用した。
 早朝ウォーキングもこなし、自宅PCのアップグレード作業も合い間をぬって行い、そしてメインイベントは猫がボロボロに引っかきむしっていた障子の張り替えであった。
 今年は、既にその障子紙の筒を事前に買い込んでいたのである。しかも、「特製」障子紙をである。
 例年、障子を張り替えるとすがすがしい気分となるのはいいのだが、その後で「谷底気分」を味わわされることになる。早ければ翌日に、遅くとも正月前にそれはやって来た。 猫たちが、爪研ぎを障子の桟で仕出かし、ついでに障子紙まで引っかいて爪あとを残すのである。猫の爪にかかっては、並みの障子紙なぞは鼻紙みたいにたやすく破れてしまう。何度か破られた末、毎年、障子紙を買う際には「破れにくい!」とか「四倍丈夫!」とかが謳われている商品を選ぶくせがついてしまった。しかし、そのいずれもが無残に破られ、徒労感を味わってきたものだった。
 そこで、去年の年末は、少なくとも正月までは破られないようにと、苦肉の策を弄したりした。透明ビニールを画鋲で留めて防御したのである。しかし、その策も当初は効を奏したが、やがて同じ結果となった。そればかりか、そんなものが留めてあるだけに汚らしさが倍増して、ほとんど「どうにでもしやがれ」気分になってしまったほどである。
 家内なぞは、密かに障子というスタイルを反故にしたいと考え、レースのカーテンを買い込む始末であった。だが、わたしが障子の部屋を好みとするものだから、わたしの出方を待っているという寸法のようだ。
 で、わたしもほとほと精魂が尽きたという状況になっていた。レース・カーテンにしようか、という言葉が口に出かかっていた。その「特製」障子紙と遭遇するまでは。
 それは、つい最近、郊外の郊外(町田も郊外なので)にある大型スーパーに出かけた際、季節がら、障子、ふすま紙がたくさん展示してあった。いくら丈夫でも、猫の爪にかかっては鼻紙同然なんだよなぁ、と醒めた気分でそこに近寄ってみたのだった。と、えっ、と思わされる文字が目に入ったのである。「猫」の文字である。その筒には、「破れない!」「猫の爪にも強い」と謳われていたのである。蕎麦屋、すし屋などの店舗座敷の障子用として販売されているもののようなのである。今まで「猫の爪にも強い」と書かれたものは見たことがなかっただけに、わたしの足は止まり、その障子紙の筒を手に取ったままわたしは謳い文句をじっと見つめたままとなってしまった。
 よし、今年はこれに望みをかけよう! と小さな決意をしながら、なぜだか興奮気味となっていた。興奮を高めていたのは、そうした逸品に遭遇したことと同時にその値段の問題でもあったのだった。高い、通常品の確実に倍はするのである。いや、今までが通常品より丈夫なものを購入していたので、三、四倍に値するのかもしれない。それも、一本では済まず、最低四本は必要なので、ゼイタクかなぁ、という気持ちが沸き起こっていたのだ。その気持ちを跳び越えた決意であったために、多少の興奮状態になっていたのかもしれない……。
 そんなわけで、今日は、その「特製」障子紙を貼る! という「偉業」を行おうとしたのであった。先ずは、ボロボロ障子を洗い剥がすという前段作業が待っていた。
 今年はここでも、イノベーションを図った。去年までは、カーポートの寒い場所で、洗車用のホースを使って敢行していたのだったが、風呂場へ障子を持ち込み、お湯が出るシャワーを使うことにしたのである。今回は、「特製」障子紙を貼るという「偉業」が待ち受けているため、前段作業で労力をムダにしてはならない(?)と思ったのであった。
 が、洗い落とした障子を干すのはどうしても戸外でなければならない。そして、干すこと二時間、その間もタバコを吹かしてボケーッとするのは、この年の瀬もったいないと思ってか、以前より懸案のPCアップグレードの作業に勤しむ。
 そして、いよいよ、「偉業」を始めたのである。が、いやーな予感を余儀なくされてしまった。ノリやら、はけやらを揃えたり、作業台などを準備している際、二匹の猫たちがヒマなものだから、「何してんの?」と言わぬばかりに足元をチョロチョロしたり、ノリを溶いた鍋に鼻っ面を近づけたり、実にいやーな予感を漂わせていたのである。また、やられるのかな…… という不吉な予感である。
 しかし、その予感は、「特製」障子紙を撒いた筒のパッケージを外し、現物を確認した時、その「特製」たるゆえんを実感した時、その時に潮が引くように消え去っていったのであった。何と表現すればいいのかわからないが、とにかく謳い文句に偽りはなかった。そう、「堅牢」な紙、いや、もはや紙の域を超越した神業としか言いようがない代物であったのだ。
 桟への丹念なノリ付け、その「特製」様の貼り付けを、傍で冷ややかに見つめる猫たちの視線を浴びながら粛々と進めること二時間。すべてが完了した時、毎年、わずかな充実感が込み上げてきたが、今回は、ひとしおであった。さあぁてこの後どうなるのかなぁ、という期待感がもちろん伴っているわけである。が、15%くらいの不安感がないと言えば綺麗事になってしまうか…… (2004.12.19)


 囲碁がおもしろいと感じはじめている。就寝前の小一時間、「詰め碁」問題の本を広げ、碁石をいじっていると、荒れた気分が落ち着く。
 「詰め碁」だけではないのだが、囲碁の興味深い点は、相手に「そう打たざるを得ない」手を繰り出していくことではないかと、ビギナーのわたしは思う。つまり、将棋で言えば、王手、王手で攻めながら、相手を追い込んでゆく戦術である。いわば、当方ペースで戦局の成り行きをコントロールしていくことが妙味だと思うのだ。
 とは言っても、その妙味が味わえるためには、「先読み」ができなければならない。碁の場合、「アタリ」というあと一手で石を取ることになる手を繰り出していくわけだが、相手がどう対処するのかを正確に先読みしなければ意味がない。「こう来るに違いない」と、勝手に思い込みで先読みすることを「勝手読み」と言い、戒められている。
 しかし、今のわたしの場合は、そうした「勝手読み」が少なくない。要するに、自分に都合のよい相手の出方しか想像し切れないという誤算なのである。あれっ? そうきたか? なぞと度々面食らうわけである。これでは、「先読み」にならず、まして、相手の出方を誘導するなぞという妙味なんかを味わえるわけがない。

 現在、世間には悪い奴が跡を絶たないで困ったものである。新聞の社会面を賑わす凶悪化する犯罪から、相も変らぬ政界の不祥事、そしてインターネットに巣くう、隙あらば他人に危害を加えたり、盗みを働こうとするものなど、事態の悪化は日常化している。
 そんな中で、悪を区別するのも妙な話ではあるが、追い詰められた者の犯行と、「確信犯」とも言うべき、悪を承知の上で進めたり、居直ったりする者たちとは分けて考えるべきだと思ったりする。そして、後者に関しては、憤りひとしおとなるのであるが、今一歩踏み込んで考えてみるならば、そうした者たちが出没することや、そうした者たちが逃げおおせてしまうことに対して、周囲や社会が甘いという点も併せて考えるべきではないかと思うのである。そういう悪者が身動き不可となるような手を、「先読み」できっちりと打ち込んでいかなければならないはずだ。
 確信犯の輩たちは、世間が寛容な「勝手読み」をして自分たちを見逃してくれることをしっかりと、「先読み」しているようにも見える。要するに、完璧に見くびっていることになる。そんな輩たちには、碁で言う「アタリ」「アタリ」という相手を追い詰める手を打ち続けて、陣を奪ってしまうなり、陣が広がらないように囲い込むことこそを願いたいものである。

 昨晩は、この間視聴者の逆鱗に触れ続けたNHKの腐敗経営層が、汚名挽回を目指してか、風当たりをいなすためか、生中継での謝罪番組を行なっていた。わたしも一部だけは覗いたが、決して視聴者国民の溜飲が下がるようなものには仕上がっていなかったように感じた。むしろ、パネリストのひとりの鳥越氏が奇しくも最後にぶつけた言葉、「これでは受信料不払いが逆に増加するのではないか」というリアルな発言が、妙に説得力を持ったようにさえ感じた。
 要するに、一連の不祥事が発生した根幹には、会長の専横を許すような組織の「ノー・チェック」体質のあったことが否めない。それこそ、「構造改革」の政策が何よりもターゲットにしなければならない公共的組織の腐敗そのものだと思われる。
 視野を広げれば、この種の腐敗問題は何もNHKに限られないことをじっくり見据えたいという気がする。各種公団が大なり小なり同様であったし、さらに言えば、各省庁を含む官僚機構それ自体が、「密室性」という腐った匂いで充満しているかのようだ。
 問題は、公共的組織の腐敗を律するに違いない一般国民のチェックの「手」が届かないほどに、「碁盤」が高層化(?)されてしまっていることにあると思われるのだ。言ってみれば、もはや碁石は白黒の二種類ではなく、一種類の黒い石だけが勝手に碁盤の目を埋めているようなものだとは言えまいか。
 NHKについての話に戻れば、受信料不払いという現象は、高層化「碁盤」で一人相撲しているところへ、視聴者たちが、まるで運動会の「玉入れ競技」のように下から碁石を投げ上げるイメージに相当するのかもしれない。視聴者にゲームをさせない(チェックをさせない)高層化「碁盤」(組織体質)に対するヤケクソの抗議なのだと見える。
 どうも、このままだと、「年金」と並ぶ「二大不払い」運動の風が吹き荒れないとも限らないのではないかと懸念している。

 公共的組織という碁盤は、国民という対戦相手がまともに石が打てる当たり前の高さにしなければ、最悪の場合、碁盤そのものが引っくり返されるというとんでもないことにもなりかねない…… (2004.12.20)


 「節税」とは、「各種の所得控除や非課税制度を活用して、税金の軽減をはかること」とある。(広辞苑より)
 中小零細企業にとって、税負担の軽減は、死活問題のひとつであろう。「節税」は、所得隠しや架空発注などの「脱税」とはまったく異なり、<広義の社会的義務>と<狭義の社会的義務>との最適化だと考えられる。
 <広義の社会的義務>とは、いうまでもなく納税である。企業が、いろいろな意味で社会のリソースを活用させてもらっている以上、そのリソースのコストを負担するのは当然の義務だと思える。たとえ、税金の使途に不明朗な部分があったり、ひと(他人)のカネ扱いでぞんざいに浪費されたり、税金が平和を損なう可能性が高いジャンルに振り向けられ、不快感を惹起させられることがあったとしても、とりあえずそれらは別問題だと認識する冷静さを持ちたいものである。
 ただし、企業とはその存続が、社会に貢献するだけでなく、その消滅が社会を撹乱する点で、存続に向けた内部努力がとことんなされなければならない存在であるとも考えている。
 それは、経営の傾いた大企業がその破綻によって周辺経済を撹乱しないようにあらゆる支援措置が講じられている実情を見ればわかる。それは大企業の話であって、いてもいなくても大差のない小企業の場合はどうでもいい、とホンネでは思っても、公式的に言える人は多くないはずであろう。小企業といえども、潰れてはいけないものなのだ。
 だからといって、小企業が甘やかされていいというわけではない。そうではなくて、だからこそ小企業は、自らの安定と継続のために、可能な限りの努力をすること、これが社会に対する義務でもあると考えるのである。それを<狭義の社会的義務>と呼んだまでなのである。

 今、国の巨額な財政赤字(国民一人あたり4〜5百万円の借金だとか)という事実を前に、政府は税金をはじめとした国民負担を闇雲に増やすことで帳尻を合わせようとしている。まったく能がない、役人仕事そのものだ。
 従来からの減税措置(定率減税)を縮小撤廃したり、消費税アップもカウントダウンに入っている。当然心配になるのは、まやかしでしかなかったわけだが、仮にも主張された「景気回復」が、それらの実施によって元の木阿弥となる可能性が高まることであろう。増税傾向だけではなく、社会福祉関係予算も圧縮されたり、国立大学の授業料が値上げされたり、踏んだり蹴ったりの状態に国民生活が置かれれば、何がどうなるかについてどうしてリアルな推測ができないのであろうか。政府関係者たちは!
 ここで一般消費を冷やせば、景気が急速に後戻りするだろうことくらい誰だって想像できるはずだ。
 もちろん正すべきは、歳出の中身であり、ムダガネ流出の元を叩くこと以外ではなかろう。十分にそうした精査と改善がなされた形跡は乏しい。厚生省の外局である社会保険庁にしても一体何がどう変わり、どのような財政改善策がとられるようになったのであろうか。そのほか不正支出で問題となった省庁(外務省etc.)にしても、あってはならないことをどうあリ得ないようにしたのであろうか。そうしたことが、いつの間にか曖昧とされて、前年水準キープの予算づけがなされ、増税措置に及ぶは、地方給付金は引き下げるはと、国家機関や役人たちは全然「痛み」を引き受けてはいないのが実態だと言うべきだ。
 わたしが言いたいのは、こうした状況は、納税者の「納税意欲」(?)に減退をもたらすのではないかという点である。国民の<義務>である「納税」を拒絶したり、脱税したりすることは跳ね上がり者しかしないであろうが、「より多くを」「より気持ちよく」納めようとするものはいないだろう、ということである。
 つい先頃、養老看護施設に入った元不動産業者夫婦が、九億何千万円だかを、「日本赤十字」に寄付するとのニュースがあった。大したものだと思ったと同時に、事実はどうであるのかは知らないが、「国庫」には入れたくないという意思のようなものを感じたりしたものだった。「使途」がはっきりした対象にこそおカネを使ってほしいと考えるのは誰だって同じ気持ちではないかと思う。
 極端なたとえをするならば、酒や博打などで身持ちの悪い者にはびた一文貸したくないという良識ある庶民感情と似た感情が、今の政府に向けられてもいたしかたないような気がするのである。
 こんな考え方をするのは差し出がましいと言うに違いなかろう。政治家や役人たちは!
 しかし、国民の血税だから自分のカネ以上に大事にしなければならない、とまともに考えるような政治家、役人たちばかりならば、現状のような惨憺たるありさまにはなっていなかったはずではなかろうか。どうせ搾れば搾れる国税だといったとんでもない埒外な人種が蠢いたがためにこうなったに違いないと判断する。

 で、話を元に戻すならば、「節税」についてなのである。
 税法に背いてまで納税額を切り詰めようなぞとは毛頭考えてはいけないが、現代の経済状況と企業活動をめぐる実態に即した税法解釈については議論の余地があると思っている。いや、そこまで行かなくとも、現状追認型の民間会計事務所の「自粛」主義傾向には疑義を唱えていいと考えたい。
 たとえば、何を「必要経費」と見るかについてである。現代のように、もののジャンルのボーダーが溶解し始めている状況にあっては、いわゆる「研究開発費」にしても一律な判断では済まないと見ている。特に、(アプリケーション)ソフトウェア開発という業種では、新規のソフト開発やその試行錯誤で、さまざまなジャンルの知識情報を得る必要がある。
 それなのに、ソフト開発と「……」とは、経営上一体どう関係するのかという愚問が出がちなのが現状であるように思われる。それでいて、「ニュービジネス」だ、「ビジネス特許」だと結果ばかりに目を向けるのが現状なのである。
 従来のように、定まった業種が安定している時代ならともかく、流動的な経済状況にあっては、まさに「研究開発」という水面下の活動ウェイトが大きくなって当然だと思われる。また、そういう部分を重視することがなければ、サバイバルできないというのが現代なのではないかと思っている。
 こうした問題に関しても、時の政府の発想は貧困だと言わざるを得ない。税制優遇措置についても、コンピュータやソフトを購入すればどうたらこうたらとタダモノ主義的な対応しか考慮せず、知識情報時代の「奥行き」への配慮が足りなさ過ぎると思える。アイディアが生成されるプロセスにどのようなコストが発生するのかに着目されるべきだと考えるわけなのである。そんなことはカウントできないと言い放つならば、そんな新しい経済はわからない、と言うのと同じではないかと思われる。

 そんなわけで、「節税」という範疇の枠内で、ぎりぎりニュー・ビジネスへのチャレンジと、必然的にそれに伴う新たな経費の発生についてもっと精力的に試行錯誤すべきではないかと思っている…… (2004.12.21)


 「日本人 『冬ソナ』心の定番になる理由 つましさと慎ましさを忘れた日本人の免罪符」(AERA 2004年12月27日号の記事表題)というフレーズが目についた。いつものとおり新聞広告である。
 「慎ましさ」という言葉があっただけに、「つましさ」という言葉の意味に一瞬困惑を覚えた。前者が「つつましい」という読みであるため、ひとつ「つ」が無い「つましい」ってどんな意味だったかな、などと朝一のボケた頭は混乱したのだった。おまけに、「慎ましさ」の意味も、同じ漢字を使う「都知事」の名を思い起こしたら、意味が反転するようでまたまた混乱させられてしまった。
 交通整理をしておこう。
 「つましい」とは、「倹しい」とか「約しい」と書き、「倹約である。また、生活ぶりが地味である」(広辞苑より)とある。また、「慎ましい」とは、「その行為が他から見て控え目である。慎重である」(同)とあり、どう考えても「都知事」の言動とはなじまない。まあ、それはどうでもいいが……。

 「冬ソナ」への日本人の関心の高さは、やはりこの時期の日本の風潮の「何か」を照らしているような気がし続けていた。もっとも、流行的な人気というものはそうした部分を持っているわけではある。
 そんな関心の文脈に、冒頭のような週刊誌の記事の見出しが目についたのだった。
 「つましさと慎ましさを忘れた日本人」という切り口は、さすがに「なるほど!」と感じ入らせるものがあった。この時代の周囲を見回して「つましさと慎ましさ」を滲ませた同胞日本人を見出すのは、砂漠で失った針を探すのにもにて困難この上ないことになりそうである。
 わたしは、犬や猫という動物が好きだが、そのひとつの理由は、彼らがまさに「つましさと慎ましさ」を毛皮の中に背負っているからであった。しかし、当世の彼らは、もはやそうした存在には見え難くなってしまった。彼らの責任ではないが、飽食と装飾(?)という点で、ごてごてした人間生活と同列に並べられたかのようだからである。
 だから、今は、野鳥たちや野良猫に「つましさと慎ましさ」を見出し、ほっとしたりしているわけである。
 どうも、われわれは便利と快適と快感を浴びるように享受しながら、スーッと心の隙間を吹き抜ける冷たい風に気づかざるを得ない心境を抱え続けていそうだ。便利と快適と快感をむさぼればむさぼるほどに、その風がしみる辛さを味わっているのかもしれない。
 そして、そんな時、「つましさと慎ましさ」で生活しなければならなかった頃が、意外にも心に「ぬくもり」を保持していたような気になってしまうのだろうか。
 確かに、記憶というのは、「再加工」されてしまう筋合いのものであり、「つましさと慎ましさ」で暮らさざるを得なかった頃の、「辛さ」「わびしさ」はご都合主義的に拭い去られているのだろう。でも、真底「辛い」体験であったなら、おそらく「ぬくもり」なぞを思い浮かべるはずもない。やはり、どこかに歴然たる「ぬくもり」があったに違いないと想定しなければならない。

 実は、昨晩、たまたま「冬ソナ」の再放送の一部に目を通したのである。NHK・BSで、シリーズにて二話づつ、吹き替えなしの「完全版」がオン・エアされているのである。わたしが、チェック(?)したのは、「第3話 運命の人」と「第4話 忘れえぬ恋」の二話であり、二時間にわたりお付き合いしてみたのだった。
 先ず、当該の視点「つましさと慎ましさ」についてである。わたしが見たのは、主人公たちが、現在の時点で描かれているためか、「つましさ」という光景はもはや見出せなかった。街の風景もファッションも、東京と何ら変わらない超近代的な水準である。時たま、昭和30年代の東京をにおわせるような光景も無くはなかったが、物質環境的な「つましさ」云々については自覚できなかった。
 では「慎ましさ」についてはどうかと言えば、先ず気づくべきは、人の会話が「丁寧」だと言えようか。自分の気持ちを表現することに粗雑さがないように思われた。いや、これが普通であるのかもしれない。むしろ、われわれの日常でのそれらがあまりにも荒れているがためにそう感じるのだろう。
 そして、「丁寧」な会話が、出演者たちの豊かな表情のクローズ・アップとともに、これまた「丁寧」に描写されていたような気がした。つまり、人間の感情や心理が、オーソドックスに前面に浮き上がり、見ている者を惹きこむ効果が高いと言えるかもしれない。実に「古典的」だと思われた。つまり、大事なものは人の気持ちなのであって、それ以外のモノの類の存在に対しては「控え目」であるという意味での「慎ましさ」とでも言えようか。
 この辺は、とかく日本の現在のドラマや映画(米国製!)が、どこか重点を物的環境側や、それにまつわる欲心などに傾きがちとなるのと対照的なのかと思えた。
 また、全編にわたりBGMとしてピアノ曲が流れ続けていたことも印象に残った。これも「古典的」といえば「古典的」だが、おそらく人の感情・心理の文脈がメイン・ストリームとなるならば当然の構成なのかもしれない。
 中でも、主人公チョン・ユジンの感情がクローズ・アップされる場面で流れる曲は、まあ優れものであり、見ている者を共感させ、それを増幅させるのに実に効果的な役割りを果たしていたかに思えた。日本のオバサンたちの涙腺を刺激するには十分な曲であろうかと思った。
 あと、出演者の評価であるが、やはり「ヨン様」(カン・ジュンサン/イ・ミニョン(二役)のぺ・ヨンジュン)の存在は、このドラマでは必須だっただろうと感じた。その輝かしい笑顔は、古い表現だが「千両役者」と言うほかなかろう。

 これまで、意味もなく韓国の文化を度外視してきた日本に、いまや「韓流」とか言ってもてはやす動きが出てきたのは、最近隣国であるだけに何はともかく好ましいことだろうと思う。
 ただ、もうひとつ向こう側の国も気になるし、心とやらを豚に食わせてしまった日本の文化の現状の一面を思うと、複雑な心境となる…… (2004.12.22)


 年末のこの祭日、朝から丸々目いっぱいフル活用の一日として過ごした。ウォーキングにはじまり、先ずはトコヤに出向き散髪してもらう。今日あたりが「散髪日より」であるのか、結構混んでいた。が、運良くほとんど待つことなく済ませた。いろいろと気が急いているのに、例のサービスである「パック」なんぞしている暇はないと感じ、
「時間がないから、パックはなしでいいから」
と告げた。
「今日もお仕事なんですか?」
とオヤジが言う。事務所へ行くわけではなかったが、面倒なので、「そう、暮れで忙しいんだよね」と応える。

 帰り道、リサイクル品を扱っているショップに寄り、通常のPCショップでは品薄気味となっているメモリを入手する。つい最近、DVDドライブを自宅PCに取り付けたのだが、DVDを扱うとなるとどうしても従来のメモリでは不足を感じるようになっていたのだ。
 ところで、最近はリサイクル・ショップの元気がいいようである。景気が悪い時には古道具屋が繁盛するとは昔から言われてきたことではある。それにしても、デフレ事情の中、モノの価格は万事低くなっているのに、さらに安く! というのが庶民感覚なのであろうか。わたしも、興味がない方ではないため時々覗くが、いつも売る人買う人の客で賑わっている印象がある。モノを見ると、概して新しい感じのモノが多く、かつての古道具屋のようなかび臭さはない。モノに飽きた人たちが手放すという傾向の帰結なのであろうか。

 のんびり気分ではいられないことを思い起こし、購入したメモリを持ち急いでクルマを走らせた。それをPCに取り付け問題のないことを確認したあと、いよいよ本日のメイン・イベントたる「襖の張り替え」を始めるのだった。
 先日は「猫の爪にも強い」・「特製」障子紙を完了させ気をよくした勢いで、本日は、居間の襖を新調しようという算段だったのである。タバコの煙で黄ばみ始めていることもさることながら、障子と同様にこれもまた「猫の爪とぎ」の被害を被っていたのである。去年、おととしはそれに補修をかけて間に合わせた。しかし、そろそろ何とかしなければと考えていたのである。
 今年の襖紙は、障子紙と同様、若干趣向を凝らしてみた。動機はやはり「猫の爪」対策である。どういうものか、猫たちは、襖のちょっとした傷を見つけてはその部分をキッカケにしてむしり始めるのだ。糸入りの襖紙で、糸がちょっとほつれたりしている箇所があるとそこが攻撃目標とされてしまうのである。
 そこで、今回の襖紙は、表面がビニール加工が施されたこれまた「特製」のものを購入したのである。日本間で、襖の表面に光沢があるというのはいささか変な感じではあるが、模様はまともな襖模様であるためこれに決めることにしたわけだ。
 おまけに、従来の襖紙は裏にノリが付いていて、水を含んだ刷毛を当てて湿らせてそれで貼りつけるというスタイルであったが、今回のものはいわゆる粘着テープふうの形式である。先週に障子貼りでさんざんノリと刷毛で奮闘したので、ややノリ関係を敬遠したい気分もあったことも確かである。
 こうした作業を進めてみては、いつも思うことなのであるが、この種の作業は先ず年に一度のことである。だから、毎年、作業のコツがのみこめ習熟した時点で完了となり、そして一年の間が空く。だから、やり始めは昨年得たはずのコツを思い出せずに「ゼロ・スタート」気味なのである。
 今回も、はじめの一枚は、我ながらもたついた。失敗はしなかったものの、やっていてイライラするほどにもたつき試行錯誤してしまった。投げ出したくなったものだ。が、そこを突破すると、コツの感覚も蘇り、また新たな工夫やアイディアを投入する余裕も生まれ、やがて職人気取りの余裕のよっちゃんとなるのだから変なものだ。
 一気にすべてを仕上げるところまでは計(はか)が行かなかったが、もはや先が見えるところまでは、つい先ほどまでに完了させることができた。

 師走の休日一日、そこそこ元気で目いっぱい動き回ってみると、心地よい疲労感と、何とはなしの充実感が訪れたりする。先への不安やなんだかんだがないわけではないものの、先ずはよしとするか…… (2004.12.23)


 今日は何かと「警戒心」が刺激される一日であった。
 朝一、家内が外出したあとで、家内がケータイを充電中のままにして携帯するのを忘れて行ったことに気づいた。家内は最近、週に一回、高齢となった実家の両親のケアをするために出かけている。片道二時間以上をかけて出向く。わたしの朝食の支度などでバタバタしていたため、持ち忘れて行ったようなのだ。
 ケータイを忘れては、何かと不便であろうと、わたしは急いでバス停まで小走りに走った。が、気づくのが思いのほか遅かったようで、渡してやることができなかった。
 昨今はウォーキングで鍛えているため、朝一で走ったからといってどうということはなかったが、渡してやることができなかったばかりか、ケータイに付けていた飾りのストラップを途中のどこかで紛失したのだった。そんなことで、何だかイヤな気分となった。

 事務所へ来て、さて仕事だとPCを立ち上げると、不具合をアラームする「ブルー・スクリーン」が現れてしまった。これまでにもしばしば遭遇したことなので、大したことはなかろうと再立ち上げや、「セーフ・モード」立ち上げを試みてみた。しかし、思うように復帰しない。詳細にチェックをしてみると、先日対処して完治したと判断したHDDのエラーが思いのほか深刻であったようで、その後遺症が残っていたのだ。それは、バックアップをとる際にも悪影響を及ぼすことが予想されたので、HDDを新調すべし、と考えた。ちょうど、町田中心部への所用があったので、ソフマップででも購入すべきと思った。
 その所用というのは、一昨日、「クレジット・カード」でややまとまった備品をオンライン・ショップで手配したのだが、どうも入力データに齟齬があったようで、カード会社から「認証」が得られないとのショップからのメールを受け取っていたのである。これもまた、ひとつのヒューマン・エラーであって、今朝は、これが何となく心に引っかかっていて事務所に来たのだった。
 「カード偽造詐欺」が社会問題となっている折り、ちょっとした入力データの誤りが黙認されずに、拒絶されることは逆にカード会社の信頼性を確認できたというものであったが、それでも、漠然とした不安めいたものが心に漂っていた。
 実を言えば、クレジット・カードという仕組みにわたしはあまり好感を持たない人種なのである。いたるところに「セキュリティ・ホール(安全性の欠陥)」がありそうな気がして、個人でも法人でも現金持参を第一義としてきた。まして、これまた「セキュリティ・ホール」だらけだとしか言いようがないインターネットでのオンライン・ショッピングなんぞは警戒に警戒を重ねてきた。個人で活用し始めたのはついこの一年のことであり、法人で活用することもほとんどなかったのである。
 が、そう言ってばかりもいられないため、今回はオンライン・ショッピング方式を採り、そしてエラーとなってしまったというのが実情であった。
 エラー個所を修復して利用可能な状態にはしたものの、それを使っていたのでは時間がかかってしまうため、しかたなく町田中心部の当該ショップへ、クレジット・カード持参で直接向かおうとしていたのである。

 町田中心部は、年末、しかも今日はクリスマス・イブということもありごった返していた。何かとエラー続きの昨日今日ということもあり、わたしは、今や何が起こっても不思議ではなくなってしまった街中の雑踏を、漠然とした「警戒感」を抱きながら所用を足したものだった。
 それにしても、ご時世が何でもありかのように不安定で、アナーキーな危険状態であると、人の精神状態は緊張と不安が基調色となり、とかくナーバスとなるもののようである。いや、いろいろな対象に対して「警戒感」を持つというのがもはや当たり前となっているのかもしれない。
 それというのも、インターネット環境に日々触れて、ウイルスを送りつけてくる多くのメールや、得体の知れない「スパイウェア」を流し込んでくるケースなど、油断も隙もならない昨今の状況に接していると、悪意が善意を駆逐している時代だと痛感させられたりもするのである。
 ふーっと、思うことは、無防備だらけでも何の心配もいらなかったかつてのこの国が、確実にその「安全神話」を崩壊させ、これまでの反動もあってか、想像を絶する「危険大国」に変貌しつつあるのかもしれないと…… (2004.12.24)


 「緊張性頭痛」の方は、少しづつ改善しているようなのでほっとしている。
 ところで、先日、病院へ出向き、MRI検査までやらされてしまった上に、三週間分もの大量のクスリを与えられたことに対して、わたしは密かな懐疑心を抱いている。まあ、MRI検査は、多少高くとも、実施の上でことさら問題のないことがわかったのは悪くはなかったかもしれない。しかし、正直言って、そこそこ高額な検査をいとも簡単に押しつける医療はあまり歓迎できるものではないと思っている。端的に言って、貧乏人が受けられないような水準の医療はとにかく一考されるべきだと堅く信じている。
 加えて、最も疑心暗鬼となるのは、年末年始の時期だからと言って、鎮痛剤を含むクスリを三週間分も処方する医者の姿勢であった。実を言うと、わたしはそれらのクスリを二日分だけを言われたとおりに飲んだが、多少痛みが残り続けてはいたものの、もう飲んではいない。
 確かに、それらを服用すると、夜もグッスリと眠れるしありがたいと思う人もいないではないだろう。だが、そうして「効く」のが逆にコワイのである。
 わたしは、クスリが処方される際、医者に尋ねたものだった。
「先生、これらは『習慣性』が伴いませんか?」と。
 すると、その医者は、それを否定することはなく、まあ大丈夫だよ、といった表情を示すにとどまったのだった。わたしは、
「そうですか……」
と言いながら、その時点で、『そこそこで止めるべきだな』と考えていたのである。

 以前も、不眠症を心配した時であったか、別の病院で、ある医者から催眠剤の処方がなされたことがある。が、警戒心が強いわたしは、一日二日だけ服用して、後は医者の指示にはしたがわなかった。いや、自分の主義を尊重したのである。
 鎮痛剤や催眠剤が何ら「習慣性」を持たないなぞというわけがないと思う。堪え切れない状態の際、緊急避難的に使うのはやむを得ないとしても、それらを常用するならば、自然な神経・感覚がバランスを崩してクスリ依存的となることは目に見えていると思う。
 そんなことで、今回もクスリ漬けなんぞになってたまるか、とばかりに、クスリ袋を棚上げにしてしまった。
 その代わり、首の血行を良くすることや、枕の高さを調節することなど、「習慣性」となっても何ら差し障りのないことに気を配るようにしている。

 「習慣性」と言えば、この一ヶ月ほどあることを「習慣」としてみて効果を実感していることがある。自分は、「そういう人間」なんだな、と笑ってしまうが、昨今世間が騒いでいるあの「黒酢」服用に挑戦してみたのである。ダイエット効果だとか元気になれるとかいろいろと言われているが、わたしが着目したのは、血液中のヘモグロビンが大きくなり、酸素運搬量が増加する、という点であった。と言っても試してみなければ何とも言えないので先ずは一月、騙されたと思って飲み続けた。コップの底に、ウイスキーのワン・フィンガー程度の「黒酢」を注ぎ、はじめの頃は水で数倍に薄めていたが、やがて以前から愛飲している「アミノ式飲料」で薄めるようにして、鼻をつまんであおるのである。
 実感できた効果は、まさに運動能力が向上した感触である。鉄アレーを持ってのウォーキングで速度アップすると呼吸が激しくなるものだが、これがかなり緩和された実感が生まれてきたから不思議である。各筋肉部分への酸素供給が潤沢に行われるようになったのではないかと、じぶんでは勝手に推定しているのである。「鰯(いわし)の頭も信心から」と言うが、勝手にありがたがっていないとも限らないが、いいかげんに止めてしまおうとは思っていないところをみると、実効を感じ取っているのかもしれない。

 この危なっかしいご時世を生きつづけていくために、先ずは大仰なポリシーよりも、自身に関することでできるだけ無意識のうちに「依存癖」を作るようなことをせず、逆に自然に根ざした事柄(「黒酢」は「瓶」の中で自然発酵されて造られる!)を愛用するなどの習慣づけをすること、まあそんな他愛もないこと、「年寄りくさい」ことが意外と重要かとマジに思ったりしている…… (2004.12.25)


 冬の陽射しがあまりにも明るいので、望遠ズーム付きのデジカメを持ってウォーキングに出かけた。
 時々、冷たい風が畑の乾いた土を巻き上げたりすることはあったが、畑の青菜にしても、常緑樹にしても、明るい陽射しの中で、凛とした姿勢であるかのように思えた。葉を落とした木々も、あたかも骨をさらすようでありながら、枝々を冷たい風をものともせずに冬空めざしてすくっと伸ばしている。

 お目当てのマガモなどの野鳥も、川面を吹く冷たそうな風にもまるで無頓着な様子であった。川底の藻を食べるため首を水中に突っ込む恰好は、こんな季節だと思わず寒気がしそうである。彼らの温度感覚はどうなっているのだろうかと、一瞬考えたりした。
 水面のその姿をバード・ウォッチングのように、ファインダーから覗き見ると、カラフルな羽毛が詳細に確認できる。非常に美しいと思えた。
 つがいのマガモは、群れから離れて二羽で寄り添いながら浮かんでいる。首を何度も上下させ、何か伝え合っているような素振りに見えた。明るい陽射しと、澄んで緩やかな川の流れが、マガモたちに安らぎの一瞬を提供しているような雰囲気である。

 白黒のモノトーンの姿をしたスズメ大の大きさの野鳥は、ハクセキレイだと見えたが、のんびりとしたマガモたちの動きとは対照的に、川べりの石から石へと敏捷に飛び回っている。餌となるムシでも追いかけているのであろう。
 うぐいすのような、同じくスズメ大の緑がかった野鳥が、日当たりの良い護岸のコンクリート壁ををチョコチョコと這い登っていた。残念ながら、名称がわからないでいる。ちなみに、双眼鏡でのバード・ウォッチングではなく、カメラにおさめようとするのは、後で野鳥図鑑などで確認したいがためなのである。鳴き声や、その姿を見るだけで野鳥の正体がわかるようになれれば結構楽しいことだろうと思う。

 子どもの甲高く元気な声がするので、川の対岸に目をやると、4〜5歳くらいの男の子が、おそらく祖父であろう年配の人と、フェンスから川面を覗き込んでいた。いや、その男の子は、何か小さなものを祖父らしき人からもらっては、それを川面に投げ入れていた。川の流れを見ると、コイが投げ入れられたものを追うようにしてバシャバシャと蠢いている。持参してきたパンか何かをちぎってコイに与えているようである。
 男の子が「すげぇーぞ、……」と興奮した声を張り上げていたのは、どうも川にオレンジ色に光るコイがいたからのようであった。望遠カメラのファインダーで彼らの姿を覗いてみると、男の子は、フェンスに鼻がぶつかるほどに近寄り、後ろにいる祖父らしき人に右手を後ろに出してはパンのかけらをもらい、もらったかと思うとフェンス越しにそれらをコイたちに向かって投げ入れている。アルファベットのロゴが入ったしっかりとした防寒ジャンパーを着込んでいる。きっと、祖母や母親から、「川べりの遊歩道は寒いからジャンパーを着ていかないと……」とでも言われたのであろう。
 それにしても、明るい陽射しや、めずらしいと思っているに違いないオレンジ色のコイを見たことなどから、その子は大層上機嫌のようで元気な声を張り上げて騒いでいる。年配の人も、そんな孫と一緒に散歩できることがこの上なく幸せだと思っているに違いなかろう。

 ただ漫然と歩いているウォーキングと異なり、カメラ持参の場合は、目を向ける対象にいろいろと思い入れが生じる。こうして、あどけない対象らを観察して、思いがけず心が和んだウォーキングであった。
 が、その終盤で、がっかりとすることにも遭遇してしまった。わたしのお気に入りの光景のひとつであったある大木が、見るも無残に豊かな枝葉が殺ぎ落とされていたのだった。それは、新しくバイパスが建設される箇所に聳え立っていた古木であり、夏のウォーキングの際には、何度か写真も撮ったことがあった。何となく、森の雰囲気を漂わせていた感じのいい古木だったのである。それが、いつの間にか、切り倒したも同然の姿にさせられていたのである。そこにあったはずの鬱蒼とした空間は、冬の青空だけが見える真空と化していた。
 わたしは、口汚くも、呟いていた。「恨んで、祟ってやればいい!」と。
 おそらく何十年も、あるいは百年近く生き続けた樹であったに違いない。なぜ、残す工夫ができなかったのか。要するに、想像力が欠落している者たちの仕業以外ではないはずだ。樹の生命に対する想像力、こうして街の中の歴史ある緑を次々と失っていけば、街がどんなにか味気ないものに変貌してしまうのかに対する想像力、そんなものが皆無の連中の仕業に違いない。そんな連中ならば、「恨んで、祟ってやればいい!」のだと、わたしは密かに思った…… (2004.12.26)


 去年の今ごろはと言えば、移転したあとの事務所がまだまだ片づかずに、落ち着きのない状態であり、そのまま年末年始を迎えたはずだった。年甲斐もなく、引越し作業で重い荷を運んだり、動かしたりしたものだから、全身の筋肉がパンパンに張って、確かその後身体に異常が自覚された覚えもある。
 それに較べれば今年の年末はラクであり、落ち着いてもいる。いろいろな懸案事項はなくはないが、ドタバタとした心境や過度の疲労からはまぬがれた、まあまあ平常感を伴った年末であるのかもしれない。
 つい先ほど、若い社員と一緒に、事務所内に増設した壁板に壁紙を貼り終わったところだ。業者に頼むほどの面積もなく、自前で処理作業をしても大したことはなさそうなので社内の手間で済ましたのである。自分は、つい先日自宅の襖の貼り替え作業をしたばかりだったので、その作業のカンを活かしてあっという間に終わらせてしまった。身体を使った年末の作業といえばそれくらいであろうか。明日が仕事納めで、そのあと来年4日までの一週間の年末年始休暇に入る。

 年末も今ごろとなると、人々というかマス・メディアなんかは、「今年一年を振り返る!」とかいって、今年に起きた事をいろいろな視点で洗い出し、何やかやとコメントをつけたりしがちである。そして、あなたの今年一年はいかがでしたか? というようなことになったりする。
 そんなことで、さてさて自分の今年一年はどうであったのかと振り返ってみたりする。 しかし、正直言って、過ぎてしまったことにさほどの関心は赴かない。また、これまた正直言って、何があったのかという事実の詳細を事細かく記憶していない。というよりも、記憶に留まるほどの特別な、陰影のはっきりした経験が少なくなってしまったという情けなさが先に立つのかもしれない。これも、四十、五十と重箱のように歳を重ねてしまっているからなのかもしれない。

 わたしのように、ゴテゴテとした日誌を毎日書いていたとしても、その内容がそのまま記憶として蓄積されているわけでもないのである。いや、どちらかといえば、よりしっかりと覚えるために書いているのではなく、よりしっかりと書く際の自分自身を確認するために書いているのだから、書かれた内容の記憶は副産物扱いなのかもしれない。まあ、忘れた場合には、検索すればよいのだと考えていたりする。
 今年を振り返ろうとしている今も、「公開日誌」のサイトを開き、各月のアイコンをクリックしたりしているありさまなのである。
 しかし、そんなことをしてみると、現在の自分が過去の自分のどんな部分を知りたいのかが自覚されたりする。そして、その自覚は、これからも毎日この日誌を綴っていく上での、ひとつの指針になるのかもしれないと気づかせたりするのだ。
 この日誌には、概して、何が起こったかとか、何を経験したのかとかという「事実」はあまり書き込んでいない。後になって読むには、とりあえずそうしたことが興味のあることであるはずだが、「公開」という条件である以上自ずから限定され、フィルタリングされてしまうのは止むを得ないだろう。
 むしろ、そうした「事実」に向かって、自身が何を感じ、何を考えたのか、そこに焦点を合わせているのがこの「日誌」のつもりなのである。ただ、そうしたものの一年分を振り返るというのは、とてもじゃないが重っ苦し過ぎる。一週間分、いや一日分でも、まじめにその中身を追うという作業は決して軽くはない。
 この辺の事情からは、当然、日々の「日誌」内容をもっとスマートに凝縮して、スリムにすべきだな、という思いに駆られる。加えて、日々の日誌の表題は、中身の重点をうまく照らし出すような努力がさらに必要だな、とも感じる。もっと言うならば、一日一日に「キー・コンセプト」なり、「キー・ワード」なりが設定できればそれに越したことはないのかもしれないな、とも考えたりする。そうすれば、毎日毎日に緊張感も生じるし、あと読み返そうと検索する際にもわかりやすく、かつ便利ではないかと……。ただ、そんなプラスαの思考努力を毎日続けるのは骨が折れることも事実であろう。

 来年の5月となれば、早、この「日誌」も継続5年目に突入することとなる。だからどうだということもないが、「石の上にも三年」(石の上にも3年続けてすわれば暖まるという意から、辛抱すれば必ず成功するという意)の試練(?)は、いつの間にかスルーしてしまったが、ことさら「サクセス(成功)感」はなかった。あえて言えば、この間、何かとストレス過剰で、かつ身体の方も変調を来たす時期であったにもかかわらず、何とか「正常」にやり過ごすことができたのは、この「日誌」を書く日課が少なからずの支柱になっていたからではないかと感じている。いわゆる「ボケ防止」と「正常感覚潰しへの抵抗」には、多大な貢献をしてもらったという気がしている。
 さし当たって、今日は、今年一年を何も振り返らなかった…… (2004.12.27)


 仕事納めの今日となって、「やり残し感」に引きずられ、バタバタといろいろな手配をしたりしている。われながらバカな仕草だとあきれる。
 おまけに、喉が痛み鼻水が出たりし始めたものだから、あわてて「風邪専門医」(勝手に自分がそう決めつけているだけである近所のクリニック)に飛び込んで所定のクスリをもらってきたりもした。風邪はひきはじめにモグラの頭を叩くごとく叩きたいと……。

 昨日、年末の挨拶に訪れた外注さんと世間話をしていて、わたしは日頃の持論のようなことを息巻いていた。
「勝つためには、相手が設定した『土俵』にノコノコと上がって行っちゃまずい。自分で『土俵』を設定して、そこで勝負に挑まなければ……」
と、実のところ自分にとっても絵に描いた餅のようなことを、恥ずかしげもなくまくし立てていたのだった。
 ただ、それを願い続けていることは確かなのである。「土俵」ともいうべき、勝負をすべき環境は、必ずしも誰にとっても公平なものであるとは限らないのが常だ。「土俵」設定そのものが、すでに選別のはじまりとなっていることが多いのではないかと認識している。
 たとえば、採用のための面談などもその類であろう。面談において何としても勝とうとするならば、定められた既定の「土俵」を、自分側で改造(?)して、自分が設定したものであるかのような「土俵」へと再構築しなければならない。無味乾燥なお定まりの質問事項に回答しながらも、あたかも自分が設定した「土俵」へと移動したかのような「土俵」改造をするくらいでなければ、勝ち目を生み出したことにはならない。
 お定まりの質問事項だけに応えて、それで選別に勝ち抜こうとするのは虫がいい話過ぎる。その範疇で差をつけられるほどに人の能力というものはばらついてはいない。人の能力は五十歩百歩のはずではなかろうか。差をつけるべきは、お定まりの質問事項が見落とした視点にに基づくジャンル、独壇場での強烈なアピールではないかと思うわけである。いわゆる「個性」「特異性」によって先方にいかほどのインパクトが及ぼせるか、それが勝負どころだと思う。そして、それらが際立つのは、どうしても既定の「土俵」ではなく、自分が設定した「土俵」でなければならないだろう、というロジックなのである。

 勝負といえば、かの宮本武蔵を出さざるを得ないのがオジサン的発想である。
 武蔵が強かったのは事実であろうが、彼が最も強かったのは何を隠そう勝負の場である「土俵」作りであったと言えるのではなかろうか。しばしば指摘される巌流島の対決は、一言で言えば、小次郎側が設定したともいえる「土俵」の仕掛けをことごとく反故にして、自身が勝つための仕掛け(心理的、物理的)を最大限投入した結果の勝敗であったような気がする。
 計算通り大幅な「遅刻」をして行ったこと、序盤戦において鞘を投げ捨てた小次郎に対して、
「小次郎、敗れたり! 」
と、意表を突く揺さぶりをかけたこと、中盤戦では太陽を背にしたポジショニングをキープし続けたことなど、これらは明らかに勝つための勝負環境構築以外ではなかったと思われる。真剣による試合という既定概念を真っ向から無視して、船を漕ぐ櫓を改造した長大な木刀で挑んだことも、自分なりの「土俵」作りの一環であったと言うべきだろう。
 ただ、武蔵が生きた時代の精神は、「終わった時代」、徳川「管理体制」が始まった時代であるだけに、「既定」の価値観が大勢を占め、個性派剣豪を遇する土壌が希薄であった。そこから、武蔵自身は剣豪という名を取ることだけで終えてしまったのだ。

 現代という時代も、どの時代よりも強固な「管理体制」を誇る環境の時代ではあるが、同時に、いたるところに「管理」が及ばない「亀裂」が忍び這っている状況であることも実情だと見える。その「亀裂」にこそ、現代の武蔵たちが蠢く可能性があるのかもしれない。
 現代の「管理体制」的環境は、無数の「指標」群、それらを扱う「インジケーター」の装置群によって、「亀裂」から生まれるであろう武蔵たちを封じ込めようとしている。
 だが、そうした数値管理環境に「イジケタラ(インジケーター?)」おしまいだと言うべきなのである…… (2004.12.28)


 目が覚めると、窓の外が白っぽい感じであり年の瀬だというのに妙に静かな気配である。よもや初雪ではあるまいかとガラス戸をわずかに開けた。外は屋根も木々の枝も雪をかぶり、静かに雪が舞っている。空は、寒々しく味気ない乳白色が支配していた。
 今日の天気が悪いことは、既に昨日から想定していた。母と一緒に行く年末の墓参りも、今日ではなく明日にということを事前に決めていたくらいである。
 それにしても、今日から休暇だというのに、まさに出鼻をくじかれた観がある。去年は確か、積もるほどではなかったが27日に初雪が降った。今日の雪も、やがて雨に替わりそうな雰囲気がしないでもない。
 年の瀬は、たとえ寒くはあっても、明るい陽射しの日々であってほしかった。掃除や片付けなど何かと行動的でなければならない時に、雪という天気は、人の行動に気分的にも、実際にもブレーキを掛けるかと思われる。戸外での作業を予定していた家々は、きっと番狂わせを嘆いているに違いなかろう。
 幸い、わたしは、障子の貼り替えとか一部戸外での作業を必要とするものを前倒しで済ませていたため、実害を被ったという感覚はない。やはり「先手必勝ということだ」なぞと、我田引水、自画自賛の気分に浸ったりしている。

 しかし、それにしても今年は「自然」の動向が人々を右往左往させた一年であった。中越地震が今年の最後の自然災害だろうと思っていたら、26日に、今年という時系枠に「駆け込む」(?)ようにスマトラ沖地震・津波という巨大な自然災害が発生してしまった。「死者約5万1千人、史上最悪規模」と伝えられており、その悲惨さを憂えざるを得ない。
 地震の原因は、地球温暖化現象のような人為的問題の結果とどう関係しているのかは定かではない。だが、無縁であるような気はしない。どこかで繋がっていそうな気がしてならない。そうだとすれば、この一年に生じた天変地異は、現代人たちの文明生活のあり方に向けた重大で、緊急な自然からのメッセージ、場合によってはアラームだと考えられなくもない。

 自然からのアラームという場合、自然は、眼で見えるごとく人間の外側にあるとともに、人間の身体という点で、人間の内側にもあることに眼を向けなければならない。そして、この人間の内側の自然自体もかなり危ないことになっていそうである。
 人間内側の自然という場合、身体の物的側面としての自然があり、それをベースとした精神的な側面での自然も考えられうる。生きものとして、命をいとおしむ心情や、共感・同情という感性も、人間の自然な本性ではないかと思う。
 これらが、決して健全ではなくなってしまったかに見えるのが、今年というか、昨今の嘆かわしい時代現象だろうと観測する。推理小説にもなり得ないような単純な動機で、人の命を抹消してしまう犯罪が眼につくということである。たとえ、どんなに深い動機があった場合にでも、殺人という行為には「ストッパー」が掛かるというのが人間の精神的側面の自然であったはずである。そこに異変が生じ始めている気配を感じるわけだ。人間にとっての内側の自然もまた、重大で、緊急なメッセージ、ないしはアラームを発していると考えたほうがいいのだろうか。

 人為的な文化と文明になじみ過ぎてしまった現代人にとって、「自然へ還れ」とは言いようもないことはわかっている。もはや、人為性を発揮し続けることしか道はないはずであろう。
 だが、それにしては、人為性の核ともいうべき思考力が心もとない状態であるかのように見えるのはどうしたことだろうか。それがどの程度の指標になるのかはわからないが、この国の青少年たちの学力がかんばしくないと報告され続けているのも昨今の特徴であったかと思う。
 思うに、決してここへ来て急に、広い意味での人間の能力が落ち込んだのではないはずではなかろうか。そうではなくて、パワーの多くが、「ロスしている」のではないかと想像するのである。土台「ムリがあること」に向かって、無理やりに眼を向け、関心を持とうとしていることによって、自前のパワーを「ロスしている」というのが実情ではないかと……。
 卑近なたとえで言えば、受験生が、その高校なり大学なりに入ることの動機が不鮮明であり、だから真底の学習意欲も湧かないにもかかわらず受験勉強をしているフリをすること、そのプロセスで多くの真実のパワーが「ロスしている」ことと似ているのではないかと……。

 国の経済も、政治も、そして人々の生活も、どうもパワーを「ロスしている」状態で成り行きにまかせて突き進んでいるのが、今年であり、去年でありここ最近の顕著な特徴であったような気がしてならない。律儀で鈍重な自然だけが、そうした「パワー・ロス」に対して異議を申し立てているのであろうか…… (2004.12.29)


 昨日とは打って変わった冬晴れの今日である。西方に連なる大山をはじめとする丹沢の連峰がくっきりと見える。雪で被われた部分とそうでない部分とのコントラストが、山の地形を浮かび上がらせ、実在感を与えている。
 特に予定がなかったならば、カメラを持って走り回っていたところであろうが、今年最後の墓参りに行く予定となっていた。このような写真撮影日和は、これからの冬晴れの日にいくらでもあるはずだと、自分に言い聞かせた。

 年の瀬の買い物であろうか、やたらに道路はクルマで混んでいた。お定まりの墓参りでもなければこんな時にクルマを走らせたくはないものだった。普段はめったにクルマを使わない人たちまでが、繰り出しているといった感じである。開放的な気分となる年末年始休暇であり、昨日は出鼻をくじかれたその翌日が冬晴れともなれば、クルマでの買い物に殺到するのもわからないわけではない。
 しかし、町田は、週中はさほどでもないにもかかわらず、休日ともなればにわかにクルマが道路に溢れる。駅付近の繁華街なぞにクルマで出向くことは、あまり利口な判断ではなくなる。
 墓参りのあと、母を送って母のところに寄る。
 ガス・レンジを新調したけれどガス管の取り付けが不安なのでやってもらいたいということであった。母の住むところは、わたしの自宅からも、姉の家からも近い場所である。わたしよりも姉が訪れることの方が多いが、姉の手にあまるちょっとした大工作業などについては、わたしの手を待つのが母のいつものことであった。
 何でもやってほしいことがあったら連絡するようにと伝えてあるため、洗濯機の取り替え、食器棚の地震対策、そして今回のガス・レンジの設置などなどをこなすことになるわけだ。
 先日、自宅の障子や襖の貼り替えを行った際、ふと、母のところもしてあげなくてはいけないのに……、と思ったものだった。というのも、母のところにも「やんちゃな猫」が飼われていて、襖などはいつも大被害を受けていたからである。
 今日も、襖を見回してみるとあちこちに、几帳面な母が補修した跡が見受けられた。中には、姉の知恵も加わってであろうか、厚目のビニールシートが活用され、猫の爪でも引っかきむしれないような工夫もされていた。
「襖を貼り替えてやれればよかったんだけどね」
とつぶやくと、
「いいのよ、どうせマミがすぐに破るんだから」
と母は言っていた。
 わたしの家の「ウチ猫」二匹も、キッチンと居間でほぼ一日中を過ごすこととなり、さぞかし世間が狭くて退屈なのだろうと想像する。だから眠るしかないとばかりに、食べている時以外は寝ているような実情である。
 「ウチ猫」というのは、どうしても力が余り切ってしまうものだから、家の中に未知の空間を探したがり、そこを住処としたがるもののようである。猫の立場になれば、そんなものかも知れないと思わないわけでもない。
 猫のことはともかく、八十一歳となった母の独り住まいについては、何かと気を配っていかなければならないと……。

 自宅に戻り、この日誌に着手し始めた時、以前、奈良県で起きた例の「幼児誘拐殺人」の容疑者が逮捕されたという報道に接した。
 ほっとする一方、正直言って、ちょっと別なことを感じたものである。国民的休暇となり、多くの国民がおそらくTVを見ているに違いないこの時期の今日、こうした逮捕の運びとなったのは果たして自然な推移であったのだろうかという思いなのである。
 それというのも、わたしは今年ほど「情報(化)社会」ならではの<情報操作>や<情報の一人歩き>という危なさを感じたことはなかったからなのである。
 これについては、明日改めて書くこととしたい。 (2004.12.30)


 今日は、一日中降雪となり、支障が出るほどの積雪もありそうだという昨日の時点での天気予報を真に受けてしまった。だから、昨夜は念のためクルマにタイヤ・チェーンを装着させるというオーバーな備えまでしてしまった。
 だが、朝は思いのほか晴れており、陽射しまであった。タイヤ・チェーンまでは余計であったかと妙な落胆をしていたら、昼前にとうとう雪が降り出す。午後いっぱい降り続けたとしても、とても積もるというような気配ではなさそうだ……。

 時代がはらむ特徴が、あたかもそれが化身となったごとく、とある人物によって体現されると考えることは、あながち荒唐無稽なことではないように思う。
 とくに、現代のように「マス」(大衆)の意識動向を掌握することもできれば、さまざまな演出をありとあらゆる方法を使ってこなすことも可能であるならば、とある人物の言動やイメージと、時代がはらむ特徴とを共鳴させ、増幅させるということもさほど難しいことではなさそうである。
 この一年を振り返った時、どうにも気になり続けた現象のことなのである。つまり、小泉首相の言動と、この国での「情報(化)社会」が陥っているネガティブな特徴(その場かぎりの印象主義? 軽佻浮薄?)とが、不思議な共鳴関係を作りながら、従来では考えられなかった最悪の政治選択を次から次へとなし崩し的に許してきた経緯のことなのである。

 昨日、いささか考え過ぎかもしれない感想について触れた。奈良での幼児誘拐殺人事件の容疑者逮捕の報道が、暮れのこの時期になされたことには何か裏があるのではないかと「憶測」めいて書いたことである。捜査の進展が、たまたま国民が職場から離れTVに接する機会が多くなるこの時期に、容疑者逮捕として結実したのかもしれない。まさに自然な流れとして、あるいは「年内解決」という捜査陣の目標達成であったのかもしれない。 が、昨今シニカルになりがちにさせられてしまっているわたしは、ある二つのことから、今回の報道を斜に構えて受け取ってしまったのである。
 そのひとつは、今年の5月の出来事である。国会では「年金問題」が「未納問題」へとこじれて発展し、国民の前に政府閣僚や多くの政治家たちの「未納」不祥事が、まるで「ブルータス、おまえもか!」さながらに暴露されていったあの時期のことである。そして、とうとう、小泉首相自身の「年金未加入」問題までが明るみに出され、後に「人生いろいろ」という「迷言」まで披露されることになったわけだ。まさに、政府にとっては窮地に追い込まれたかに見えたその時、突如としてマス・メディアは「サプライズ」を報じたのだった。北朝鮮拉致問題に関する「首相再訪朝」が前倒し的に実施されるという報道のことである。
 醒めた国民の一部は、「年金問題」で矢面に立つ政府が「目くらまし」対策に打って出たと当然解釈したものだった。しかし、その後の世論調査での「内閣支持率」は、V字型回復を成し遂げてしまうのだった。「目くらまし」が奏効したのである。
 しっかりと煮詰めた政策としての「訪朝」でなかったことは、現在の拉致問題状況と結果を見れば一目瞭然である。世論操作のため、年金問題「目くらまし」のための演出的なタイム・スケジュールであったということになる。
 こうした歴然とした事実があっただけに、マス・メディアが何かを報じる時期というものを無批判には受け容れがたくなってもいたのである。

 そうした点こそが今日の注目点なのではあるが、いまひとつわたしがこだわっている別の観点も書いておきたい。
 国民を犯罪者の手から守る警察を、われわれは心から信頼したい。できればのことであるが。しかし、官僚機構のひとつでもある警察が、「裏金づくり」(北海道!)など不透明な疑惑を招いていることも事実のようである。わたしの知るところでは、官僚機構という組織のあり方の前には、正義や道徳という議論は無力となり得る可能性が極めて高いのであり、政府だ、警察だ、何々だという違いはないと思われる。
 したがって、警察がマス・メディアへの発表情報を任意にコントロールすることなぞ別に不思議なことではないと思われるのだ。いつ容疑者逮捕を行うかは、どんな上位目的を達成したいのかという警察組織にとっての任意性の範囲内のことなのではないだろうか。市民、国民思いの警察が、新年を迎えるその前に市民、国民に安心してもらおうと考えたのかもしれないし、不祥事の続く警察が、汚名挽回を大々的にアピールしたいがためにこの時期に照準を合わせたのかもしれないし、それはわからないことだ。
 先日、シリアスな映画である『半落ち』(横山秀夫原作、佐々部清監督、寺尾聡主演)を鑑賞し、アルツハイマーの妻をめぐる「嘱託殺人」という悲しい問題に注目させられたわたしであるが、この映画のもうひとつのポイントは、官僚機構としての警察は、発表情報を操作し得る立場にもあるという点ではなかったかと受けとめている。

 奈良での幼児誘拐殺人事件の容疑者逮捕の報道は、被害者家族や周辺の人々にとって朗報であるには違いない。その点については文句なく警察側の捜査努力に拍手したい。
 また、その点は「首相再訪朝」によって、拉致被害者の家族数名が解放されたことでも同じことが言える。
 問題は、こうした成果、朗報までもが、それ自体を目的とすることだけに終わらずに、何か別の目的のために利用される可能性が高まっている点こそが重大だと言いたいわけなのである。もし、その目的が、国民にとっての重大な政治的争点に関わるものだとしたならば、そうした利用のされ方は「フェアではない」どころか、むしろ「ダーティ」だと感じないわけにはいかないからだ。
 そして、そうした事態の推移を国民が聡明に見破ってしまえるのであれば、こんなことをごてごてと書く必要はなかった。だが、一方で、この国での「情報(化)社会」の現実は、「その場かぎりの印象主義(軽佻浮薄)」というネガティブな症状を思いのほか悪化させているようにも見えるのが残念なところなのである。
 わたしは、とかく「相互的関係」という論理に説得力を感じてしまう。物事は一方的に展開するのではなく、一方に受け容れ素地があり、そこにきっかけが飛び込むような、そんな相互的関係で展開していくのではないかということなのである。
 小泉首相の言動の特徴と、この国の「情報(化)社会」の現状とは、「その場かぎりの印象主義」という共通項で見事にコラボレート(協働)して、ありていに言うならば「無責任」な風潮を形成してきたこと、これがこの国の今年の顕著な特徴であったのではなかろうか。この国の「情報(化)社会」的趨勢はさらに突き進むであろうことは確かであるため、この視点からの観察がないがしろにはできないと思っている。

 TVのあるお茶の間向けニュース・ショー番組で、今年番組が取り上げた人物の回数ランキングを面白半分で発表していた。何と、ダントツ第一位が小泉首相であり、第ニ位がブッシュ米大統領であったのだ。彼らは、この一年間誰よりも多く働いたがためにそうなったのであろうか、あるいは、不気味な地獄の黙示録実現への露払い役として、陰のプロデューサーが意図的にメディアにおいてキャスティングし続けたためにそうなったのであろうか…… (2004.12.31)