比叡山の酒井雄哉阿闍梨(あじゃり)は、二度の「千日回峰行」を達成されたことで知られている。ちなみに、「千日回峰行」とは以下のようなものだそうだ。
<「論・湿・寒・貧」は比叡山の名物といわれるが、その厳しい環境の中で厳しい修行に励むのが、比叡山の僧のありかたである。最澄が『山家学生式(さんががくしょうしき)』のなかで十二年間叡山に籠って修行せよと定めてから約四十年後、慈覚大師の弟子相応和尚(そうおうかしょう)が始めた行脚運心の礼拝行が千日回峰行だ。
比叡山には昔から三大地獄といわれる極限的に厳しい宗教的修行がある。西塔の「掃除地獄」、横川の「看経地獄」、そして東塔の「回峰地獄」である。
その回峰行の流派として、東塔無動寺谷の「玉泉房流」、西塔の「石泉坊流」、横川の「恵光坊流」があり、酒井雄哉大阿闍利は「恵光坊流」を満行した。
千日回峰行は、回峰行を満行した先達たちで認められた者だけに許される。まず、「前行」でどこで何を礼拝し、何を唱えるのか、など「手文」という美濃紙に書き記し、道順と礼拝の場所や所作を頭の中に叩き込んで行に臨む。
千日回峰行は七年をかけておこなわれる。三年目までは年に百日間、四年目、五年目は各二百日間、六年目には百日、七年目で二百日、「恵光坊流」は他の流派よりも一日につき10qほど長い。行中は病気や怪我などいかなる理由があっても休むことは許されない。親の死に目にもあえない。途中で止める事はすなわち死を意味する。
一期百日のうち、七十五日目に「切廻り」といって一日だけ京都大廻りをする。七百日を満行すると、その日から「堂入り」という千日回峰行中最大の難行がある。九日間、不眠不臥、断食断水で不動明王に祈りを捧げる荒行である。親しい人とのこの世の別れの儀式をしてからお堂に入るというもので、普通の人ならほぼ死に至るという過酷な行である。
織田信長の比叡山焼き討ちでそれ以前の千日回峰行の記録を知ることはできないが、焼き討ち以降、回峰行を二千日満行したのは僅かに三人である。>(http://members.at.infoseek.co.jp/mangiku/index-50.html より)
「千日回峰行」について唐突に書き出したのは、実は、この「日誌」が今日で継続千日目を迎えることになったからである。引用文を読んでわかることは、「千日回峰行」の筆舌し難い苦行のさまと、この「日誌」のイージーさとの対照である。が、2001/05/11/ (金)から、一日の穴を開けることもなく継続できたことがうれしくないことはない。
たぶん、この上ない怠け者の自分だから、「公開日誌」というかたちを採らなかったらとっくに放棄していただろうと思っている。また、幸いにも、当初より引き続いて読み、読むだけではなく誤字脱字の指摘をもし続けてくれる方がおられたことがどんなに継続の支えになったことかと、心から感謝している。
冒頭の酒井雄哉阿闍梨が色紙にいくつかの言葉を記している。その中のいくつかを引用しながら「日誌」千日到達の感想を書いてみる。
「回峰行で得たものは何もない
だけど、おかげで今がある」(酒井雄哉阿闍梨)
これが私の実感でもある。別に当初から千日継続を目指したわけでもないし、これが達成されたからといってどうというわけでもなかろう。正直に言えば、途中気掛かりとなったのは、こんな不況時であっただけに、自身の根気もさることながら、会社が危なくなりこのサイトを閉じなければならなくなることがありはしないか、ということであった。そんなことが無く、こうして無事であることだけでも「おかげで今がある」という実感が与えられている実情である。
もうひとつ、「おかげで今がある」と感じる点は、もしこの「日誌」を書き続けなかったとしたら、ひょっとして精神的挫折(?)に陥っていたかもしれない、という点であろうか。決して現時点でも何かが吹っ切れた境地に到達などしていないわけだが、いろんな意味で苦しかったこの三年を何とか「正常」もどきでやってこられたのは、日々文章を綴り、自身の内側から眼を逸らさなかったからかもしれないと感じている。
「とにかく続けること
そうすれば必ず何か見えてくる」(酒井雄哉阿闍梨)
何かが見えてきたか、といえば心もとない次第ではある。あえて言えば、「自然というものの再認識」ということになるのかもしれない。システム・ベンダーとしての仕事に携わりながら、この三年間日毎に意を強めることとなっていたのは、そのことだったと意識しているのである。極端に言えば「自然回帰」「自然主義」であるが、少なくとも自然が保持する神秘ともいえる道理に対する憧憬が強まるばかりなのである。それは、人の身体や脳、それを基点とした社会のあり方など諸々のことに対してそんな思いが累積してきている。
文章を綴ることに関して言えば、まだまだだなあ、というのが実感である。ただ、ようやく自身が感じて、考えて書き始めているかな、とは思えるようにはなってきたようだ。ますます確認できることは、文章を綴るとは決してテクニックではなく、考え方の見直しなのであり是正なのだということだろうか。
「知ろうと思ったら実践すること」(酒井雄哉阿闍梨)
今、私が課題としたいことはまさにこれだと思える。最近、再び「知行合一」という言葉をちらほらと耳にするようになってきたが、「情報(化)社会」にあって、言葉や情報を宙に舞わせないためには可能な限り実践の機会を追求することが必要だと痛感している。
自信、確信、信念などを持たずにものを言う人が多くなっているご時世であるから、実践に根ざした見解が重みを持つのは当然である。
またいつも実践に及ぶことができる気力と、そのための体力が必要となる。口先だけが達者な年寄りだとは言わせないようにしたいと思っている。
「こだわらなければ
自然に心おだやかになれる」(酒井雄哉阿闍梨)
この三年間の「日誌」継続の過程で書いた「小説もどき」(『心こそ……』)にしても、焦点のひとつはまさにこれであった。人間は自由を求めながら、それを阻害している厚い壁が『バカの壁』ではないが、自身の内にある「こだわり」以外ではないようである。 この歳になって、何十年もの間に凝り固まった心のあり方に「てこ入れ」するのは、実にしんどいことではある。
だが、酒井雄哉阿闍梨の得度(出家)は四十歳を過ぎてからであったということを知らされると、人間の可変性というものをとことん信じたくもなる。
さて、明日からは、二回目の「千日回峰行」が始まるわけだ…… (2004.02.01)