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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2004年02月の日誌 ‥‥‥‥

2004/02/01/ (日)  「千日回峰行」と「千日間日誌」とを並べてみる厚かましさ!
2004/02/02/ (月)  柴火(しばひ)の批判では対処しようのない現実!
2004/02/03/ (火)  「地頭(じあたま)」の良さ、「潰しが効く」人!
2004/02/04/ (水)  「ドクター・ストップ」のタオルはどこからも飛び込まない!
2004/02/05/ (木)  なぜ今「黒赤鉛筆」なのかをじっくりと考えてください?
2004/02/06/ (金)  うしろ姿の背(せな)は多弁に語る……
2004/02/07/ (土)  助演男優渡辺謙も大したものだが、やはり主演のトム・クルーズか!?
2004/02/08/ (日)  この世はとかくジレンマだらけ?
2004/02/09/ (月)  「コンテンツ」の革新をこそ望みたい「情報(化)社会」!
2004/02/10/ (火)  ニュー・メディアの主たる役割りは「アーカイブス」?
2004/02/11/ (水)  久々に自転車に乗ってみる……
2004/02/12/ (木)  「大きな大人たち」は、その振る舞いの余波にも気を配って当然!
2004/02/13/ (金)  「モジュラー型」と「インテグラル型」という視点!
2004/02/14/ (土)  小学生の頃、パナマの「閘門(こうもん)運河」に驚嘆した!
2004/02/15/ (日)  歓びを実感させる言葉との出会い……
2004/02/16/ (月)  現実に「立ち会い」さえすればいいのか……
2004/02/17/ (火)  ITを過大評価して、貴重な「知恵の発生装置」を解除・解体?!
2004/02/18/ (水)  「迷子」気味なのは、猫ちゃんだけじゃないかもなぁ……
2004/02/19/ (木)  古くて新しい「あいまいな日本の私」という問題!
2004/02/20/ (金)  政府発表の「GDP」速報に物申す!
2004/02/21/ (土)  うだうだ言わず、せっかくの命を黙々と燃焼させているノラ鳩!?
2004/02/22/ (日)  ハイエンドのデジカメ入手で現代を見直す……
2004/02/23/ (月)  いいかげんにマス・メディアは本来の役割に立ち戻るべし!
2004/02/24/ (火)  錯覚している会社はそれはそれでいいんでしょう……
2004/02/25/ (水)  「IT神話」は躊躇なく突き崩せ!
2004/02/26/ (木)  もはや、「精神」的空隙の反乱は見過ごせない!
2004/02/27/ (金)  幸いな久々の木漏れ日の中で、「起業」を凝視する!
2004/02/28/ (土)  「起業」への道には、飛び越えるべき亀裂あり?!
2004/02/29/ (日)  頭を使うのは、朝晩の三十分ずつ程度でいい!






 比叡山の酒井雄哉阿闍梨(あじゃり)は、二度の「千日回峰行」を達成されたことで知られている。ちなみに、「千日回峰行」とは以下のようなものだそうだ。

<「論・湿・寒・貧」は比叡山の名物といわれるが、その厳しい環境の中で厳しい修行に励むのが、比叡山の僧のありかたである。最澄が『山家学生式(さんががくしょうしき)』のなかで十二年間叡山に籠って修行せよと定めてから約四十年後、慈覚大師の弟子相応和尚(そうおうかしょう)が始めた行脚運心の礼拝行が千日回峰行だ。
比叡山には昔から三大地獄といわれる極限的に厳しい宗教的修行がある。西塔の「掃除地獄」、横川の「看経地獄」、そして東塔の「回峰地獄」である。
その回峰行の流派として、東塔無動寺谷の「玉泉房流」、西塔の「石泉坊流」、横川の「恵光坊流」があり、酒井雄哉大阿闍利は「恵光坊流」を満行した。

千日回峰行は、回峰行を満行した先達たちで認められた者だけに許される。まず、「前行」でどこで何を礼拝し、何を唱えるのか、など「手文」という美濃紙に書き記し、道順と礼拝の場所や所作を頭の中に叩き込んで行に臨む。

千日回峰行は七年をかけておこなわれる。三年目までは年に百日間、四年目、五年目は各二百日間、六年目には百日、七年目で二百日、「恵光坊流」は他の流派よりも一日につき10qほど長い。行中は病気や怪我などいかなる理由があっても休むことは許されない。親の死に目にもあえない。途中で止める事はすなわち死を意味する。

一期百日のうち、七十五日目に「切廻り」といって一日だけ京都大廻りをする。七百日を満行すると、その日から「堂入り」という千日回峰行中最大の難行がある。九日間、不眠不臥、断食断水で不動明王に祈りを捧げる荒行である。親しい人とのこの世の別れの儀式をしてからお堂に入るというもので、普通の人ならほぼ死に至るという過酷な行である。

織田信長の比叡山焼き討ちでそれ以前の千日回峰行の記録を知ることはできないが、焼き討ち以降、回峰行を二千日満行したのは僅かに三人である。>(http://members.at.infoseek.co.jp/mangiku/index-50.html より)

 「千日回峰行」について唐突に書き出したのは、実は、この「日誌」が今日で継続千日目を迎えることになったからである。引用文を読んでわかることは、「千日回峰行」の筆舌し難い苦行のさまと、この「日誌」のイージーさとの対照である。が、2001/05/11/ (金)から、一日の穴を開けることもなく継続できたことがうれしくないことはない。
 たぶん、この上ない怠け者の自分だから、「公開日誌」というかたちを採らなかったらとっくに放棄していただろうと思っている。また、幸いにも、当初より引き続いて読み、読むだけではなく誤字脱字の指摘をもし続けてくれる方がおられたことがどんなに継続の支えになったことかと、心から感謝している。

 冒頭の酒井雄哉阿闍梨が色紙にいくつかの言葉を記している。その中のいくつかを引用しながら「日誌」千日到達の感想を書いてみる。

「回峰行で得たものは何もない
  だけど、おかげで今がある」(酒井雄哉阿闍梨)
 これが私の実感でもある。別に当初から千日継続を目指したわけでもないし、これが達成されたからといってどうというわけでもなかろう。正直に言えば、途中気掛かりとなったのは、こんな不況時であっただけに、自身の根気もさることながら、会社が危なくなりこのサイトを閉じなければならなくなることがありはしないか、ということであった。そんなことが無く、こうして無事であることだけでも「おかげで今がある」という実感が与えられている実情である。
 もうひとつ、「おかげで今がある」と感じる点は、もしこの「日誌」を書き続けなかったとしたら、ひょっとして精神的挫折(?)に陥っていたかもしれない、という点であろうか。決して現時点でも何かが吹っ切れた境地に到達などしていないわけだが、いろんな意味で苦しかったこの三年を何とか「正常」もどきでやってこられたのは、日々文章を綴り、自身の内側から眼を逸らさなかったからかもしれないと感じている。

「とにかく続けること
  そうすれば必ず何か見えてくる」(酒井雄哉阿闍梨)
 何かが見えてきたか、といえば心もとない次第ではある。あえて言えば、「自然というものの再認識」ということになるのかもしれない。システム・ベンダーとしての仕事に携わりながら、この三年間日毎に意を強めることとなっていたのは、そのことだったと意識しているのである。極端に言えば「自然回帰」「自然主義」であるが、少なくとも自然が保持する神秘ともいえる道理に対する憧憬が強まるばかりなのである。それは、人の身体や脳、それを基点とした社会のあり方など諸々のことに対してそんな思いが累積してきている。
 文章を綴ることに関して言えば、まだまだだなあ、というのが実感である。ただ、ようやく自身が感じて、考えて書き始めているかな、とは思えるようにはなってきたようだ。ますます確認できることは、文章を綴るとは決してテクニックではなく、考え方の見直しなのであり是正なのだということだろうか。

「知ろうと思ったら実践すること」(酒井雄哉阿闍梨)
 今、私が課題としたいことはまさにこれだと思える。最近、再び「知行合一」という言葉をちらほらと耳にするようになってきたが、「情報(化)社会」にあって、言葉や情報を宙に舞わせないためには可能な限り実践の機会を追求することが必要だと痛感している。
 自信、確信、信念などを持たずにものを言う人が多くなっているご時世であるから、実践に根ざした見解が重みを持つのは当然である。
 またいつも実践に及ぶことができる気力と、そのための体力が必要となる。口先だけが達者な年寄りだとは言わせないようにしたいと思っている。

「こだわらなければ
  自然に心おだやかになれる」(酒井雄哉阿闍梨)
 この三年間の「日誌」継続の過程で書いた「小説もどき」(『心こそ……』)にしても、焦点のひとつはまさにこれであった。人間は自由を求めながら、それを阻害している厚い壁が『バカの壁』ではないが、自身の内にある「こだわり」以外ではないようである。 この歳になって、何十年もの間に凝り固まった心のあり方に「てこ入れ」するのは、実にしんどいことではある。
 だが、酒井雄哉阿闍梨の得度(出家)は四十歳を過ぎてからであったということを知らされると、人間の可変性というものをとことん信じたくもなる。

 さて、明日からは、二回目の「千日回峰行」が始まるわけだ…… (2004.02.01)


 濡れた車道を行くクルマがシャー、シャーという金属音にも似た冷たい響きを立て続けているのが聞こえる。窓ガラス一面には細かな水滴がまぶされている。その外には、シルバー色の空を背景として、寒々とした家屋とその屋根が、降る雨を静かに耐え忍んでいる光景が見える。
 朝からしとしとと降る雨は、気分を否が応にも引き下げる。腕を組み所在なく雨の戸外を見つめていた。一仕事を終えたあと、長らくそんな意味のない時間に引きずり込まれていた。

 この不幸な時代にあまりかっかとするのはやめよう、と昨日も思ったものだ。とにかく身体によくない、と。客観的な評価の上では、矛盾に満ち満ちたどうしようもない時代であり、貶し(けなし)始めたら切りがないのが実情であろう。だから、意図的に自制心を働かせないならば、四六時中、憤りが込み上げて「憤死」しそうにもなりかねない。そうでなくとも、ストレスが募れば身体の方はろくなことにはならないようなので、心を静めることに配慮しなければならない。

 環境(特に政治環境!)の矛盾に目をつぶろうとしているわけではない。
 ただ、直情的に反応するスタイルはやめたいと考えている。そんな柴火(しばひ)(⇔「熾火(おきび)」)で燃え尽きる程度の矛盾などではないからだ。
 柴火といえば、パッと明るく燃え上がり、メラメラという間もあったものではなくすぐさま火の気がなくなってしまう燃え方というのは、何と今のマス・メディアそのものであることか。本質的な変革力などにはつながろうはずもなく、喉元過ぎれば熱さ忘れるのたとえどおりであろう。要するに、そうした関心の向け方というのは、いわゆる「ガス抜き」に過ぎないのである。

 今朝も、朝食時にワイドショーの一部を見て感じたのだが、やはり巧妙な「ガス抜き」以外ではないなあ、と。江戸町民にとっての、興味本位な「勧善懲悪」メディアそのものであり、見る者に考えることを促すものなど何もないと思えた。何ら、事の解決をリアルに追求させるものなんかではないと再認識させられた。
 事件モノなども、とにかく容疑者や犯人を悪玉の典型と設定し、思う存分に石を投げつけたくなるように刺激し続ける。ナレーションでは、「二度とこのようなことが起こらないように……」とは流すものの、それは飾りに過ぎない。再発防止のための手立てなどは消し飛び、ただただ特定人物への憎悪と、被害者の不運という二極構造が際立たされる。そして、当面そのような不運には遭遇していない自身の幸運と、しかしいつそんなものに見舞われるかもしれない不安感とが増幅させられるのだ。
 振り返ってみれば、こうした仕掛けは何もワイドショーだけに限ったものではなさそうである。国内政治、国際政治自体が、奥行きのある知性に訴求しようとするものではなく、単純な感情に訴えるところの柴火(芝居?)と化しているのかもしれない。そうした現状が、「劇場国家」とか「ポピュリズム(大衆迎合)」という言葉で指摘されるのであろう。

 ところで、ふと気づくのは、偉そうなことを言う自分自身もまた、こうした仕掛けにまんまと乗っけられているのではなかろうか、ということなのである。いろいろと現状を厳しく批判するのではあるが、それが表面的に流れているのではないかという自責の念なのである。
 たとえれば、かつての「社会党」のようであっては滑稽なことでしかないのではないかと思ったりする。あるいは、口先では権利意識を行使するかのようでありながら、それが柴火の照度以外ではないかのような「団塊世代」の行動様式もまた気になる。総論反対! 各論なし!(もしくは各論すべて賛成!)といったいい加減さについてなのである。

 鉄をも溶かすような熾火のような静かな根強さがなければ、ここまで累積した現代の矛盾には立ち向かいようがないと感じている。そして、感情的レベルで身をゆだねる前に、なぜこうなってしまっているのか、という現状を怜悧に探る、ということしかないのではないかと…… (2004.02.02)


 通勤途中で出会う道路工事の進捗に歯がゆいものを感じている。道路利用者側の勝手な感覚とも言えるが、もう一方で、現在の土木建設業にいろいろと危惧の念を抱いてしまう。役所を初めとする中間の手続きやら、下請け縦型構造など、いろいろと理不尽な問題が多いのであろうか。公共工事のシュリンク(縮小)を初めとした需要低迷で覇気が失われてしまっているのだろうか。波及する単価低迷で、現場従事者の調達にも事欠くような事態となっているのだろうか。そんなことを考えながら、一時停止解除の合図が出るのを待っていた。

 土木建設業に目を向けると、先ごろ発表された「失業率」が4%台に回復してきたというニュースが空々しいものと思える。関連従事者たちが既存の職場に復帰できたなどと想像するものはよほど能天気な者であろう。大半が、就労意欲を失い就職意向自体を放棄したのではないかと推測せざるを得ない。また、幸運なほんの一部が、他業種へと転職できたのであろうか。昨今、政府は当該従事者たちの転職支援の政策実施に着手したとあるが、どの程度効を奏するものであろうか。

 「潰(つぶ)しが効(き)く」という慣用句がある。その意味は、「(地金にしても役に立つ意から)現在の職業・仕事を離れた場合、他の職業・仕事に十分適応し得る」(広辞苑より)とある。
 激変する現在にあって、意識するかしないかは別として、この言葉に縁のある人、企業が決して少なくないのではないかと、ふと思うのである。
 順当な経済社会の変化であれば、「潰し」を効かせるほどの尋常ではない事態まで想定する必要はなかったであろう。積み上げてきた既存の職業的経験、ノウハウを、新しい職場環境に合わせて再利用すればよかったからである。ただ、笑い話ともなった、「何ができますか?」と聞かれ、「はいっ、『部長』です!」というのは論外ではあったが。
 しかし、現時点では、リストラや会社廃業という事態が、個別的な現象として発生しているのではなく、属してきたその業種そのものが斜陽産業と見なされるような大変化の中で生じているのである。いや応なく既存職種からの転出と、未知なる職種への転入が迫られているということなのである。この文脈において、好むと好まざるにかかわらず、従来の職業的能力をチャラにしてもなお何が残るのか、という点で「潰しが効く、効かない」という設問、閻魔(えんま)大王の前で問われるような詰問に向き合わなくてはならなくなっているのであろう。

 そこで、関心の焦点なのだが、「潰しが効く」人とは、あるいは会社とはどんなものなのか、ということなのである。
 ところで、今ひとつ注意を向けておく必要があるのは、こうした「詰問」に対峙しなければならないのは、なにも「建設業」云々といった個別業種に限定された話ではない、という点である。荒っぽく言えば、現在売上低迷に陥っているあらゆる業種が無縁ではない自問自答なのであろう。少なくとも、それほどの深度において将来を見つめる必要アリということである。もちろん、ITベンダーとて例外ではなく、ここはここで新規参入組やインド、中国などの海外勢の参入など激戦区の様相を呈しているため従来どおりにはゆかないのが目に見えている。

 「潰しが効く」の原義が示すところは、「地金にしても役に立つ」価値ある金属ということだが、それを人や会社に例えれば何になるのだろうか?
 最近、「頭が良い」ことよりも、「地頭(じあたま)」が良いことを尊重したい、という声を聞く。就職選抜の戦線からの声であったかと思う。
 要するに、(専門)知識に長けているという意味での「頭の良さ」よりも、あらゆる仕事の根底で機能している能力(ex.コミュニケーション能力、論理的思考力etc.)こそが光っていてほしいということであるようだ。
 そのとおりなのであろう。コミュニケーション能力、論理的思考力などの自分自身で思考を進めてゆくための能力こそが、職業領域を問わず大きな武器だと言わなければならない。それが注目すべき「地頭」の良さだというのは言いえて妙である。

 たぶん、「潰しが効く」人とは、専門分野に挑むにこうした「地頭」の良さを発揮し、また専門分野の仕事の過程でもこうした能力に磨きをかけている人だということになりそうである。会社と置き換えても同様であろう。
 常日頃から、知識や専門性に過重に期待を寄せる風潮に違和感を感じ続けている私としては、「地頭」を良くすることや、「潰しが効く」人になろうとすることに大いに共感を覚えたりするのである。そして、ますます変化が常態となる時代において、これらの視点が実質的に重要視されていくはずだと確信している…… (2004.02.03)


 風呂から出て床に就こうとしたところだった。
「まだ『豆撒き』してないけど、どうするの?」
と言って、家内が袋詰めの煎り豆と飾り紙を敷いた小皿を持ってきた。
「どこのうちからも聞こえてこなかったけどね……」
 なんとなくわかる気がした。
「もちろん、やろう!」
 パジャマの上にジャンパーを引っ掛け、先ず、裏庭側の障子に向かった。開けてみると、雨戸が閉まっている。このところの朝晩の冷え込みに備えて、家内がそうしていたのだった。
「ここは、いいことにしよう」
と、勝手に決め込んで、玄関に向かうのだった。
 玄関には、これもまた朝晩の冷え込みに備えて、老犬レオが屋内に退避させられている。小皿を持って向かったものだから、レオはてっきり夜食でももらえるものと思ってか、尻尾をふって期待している。
 あっ、そうか、これで豆を撒くと、片っ端からこいつが拾って食べまくるに違いないな、という思いがよぎった。例年そうであったからだ。
「鬼は外!鬼は外!」
 まずまずの気合を入れた声を張り上げた。ただ、もう十時を過ぎていたので、若干声を抑えるといった斟酌も働かせていた。案の定、レオが飛び散る煎り豆を追って暗闇に飛び出した。ムシャムシャ、ジャグジャグという忙しい食み音が聞こえてきた。

 昨晩の節分豆撒きを越して、今日は立春。もう暦の上では春ということになった。まだ二月の初旬なので、これから雪に見舞われることも十分に予想され、文字通りの春が到来したとは誰も思ってはいないだろう。それにしても、政府が強調する景気回復という言辞に較べれば、自然が為すわざのため確かな内実が備わっているように受けとめている。
 幸いに、今日は、戸外の明るさは春めいた光景だ。空気の冷たさは予断を許さないものがあるが。

 そう言えば、この明るさと空気の冷たさという組み合わせは、ある特定の記憶を呼び覚ますのである。もう二十年の前のちょっとした経験、二月の富士山麓で二週間を過ごしたあの『十三日間地獄の特訓』である。
 さすがに長い年月が経ち、しかも以前とは質の異なったさまざまな苦境を否が応でも経験することになっている現在では、その記憶は相対化され、かつ薄れ始めてはいる。むしろ、あの時のゲーム感に浸された「度外れた苦痛」に郷愁さえ感じたりする。どんなにその苦痛が「度外れ」てはいても、所詮は訓練であり、必ず終わる。言うまでもなく生命も保証されている。確かあの訓練の最中にそこそこの地震があったのだが、その時、恥ずかしながら考えたことを今でもよく覚えている。
『あっ、地震だ。これで建物倒壊、訓練中止とならないものか……』
 その地震は何ら事態を変えなかったのだが、瞬時ではあっても抱いた逃げの心境は、はからずもそこでの苦痛というものが架空に設定された状況であること、逃げようと思えば逃げられないわけではないことが、頭の奥深くでは確認されていた、ということなのではなかったかと思う。

 ところで、このような商業的なセミナーなどは、わたしが感じたようにどこかに「ドクター・ストップ」とでも言うべき人為的配慮というものがある。いや、なければならない仕組みとなっている。そして、こうした仕組みにわれわれは慣れ切ってしまっている。何か異常な事態に直面すると、心の中で「ウッソー! こんなことって許されるはずがない」と咄嗟に感じるに違いないのだが、これは一体何なのであろうか?
 神のような存在が自分にこんな試練を与えるわけがない、と信じている人は少ないと思われる。むしろ、これだけの文明を生み出し、それらをコントロールしている人間たちが、自分に対して、あるいは自分たち全体に対して襲う理不尽な破局を決して見逃すはずはない! という実に漠然とした信仰を抱いているのではないかと想像するのである。それは、幼い子供たちが、見上げるしかない大人たちはきっと自分たちを保護してくれるはずだし、それだけの力を持っていると漠然と信じていることと似ているのかもしれない。
 また、日本の場合は、その立派な人間というイメージが、「お上」という観念とダブっている、いや、少なくとも過去においてはそうであってきたと思われる。「『お上』のすることに間違いはない」という信仰である。
 それはもうないんじゃないの、という声が聞こえてきそうだが、果たしてそうなのだろうか、という疑問が残るのである。それは、性懲りもなく再び戦争への道が踏み固められている動きでもあるのに、自衛隊イラク派兵を黙認する部分的な国民、自分たちの命と生活がしっかりと掛かっている年金行政の破綻に憤りを抱かない国民、ほかに当てがあるわけでもないのに、選挙では棄権に回る国民。これらに、諦めという要素を見ることも不可能ではないだろう。しかし、その諦めのすぐ脇には、「誰かが最悪の破局を救うに違いない」とか、「『お上』もバカであるはずはない」とか、とにかく自分以外の「不特定」な存在が「良きに計らう」に違いないと盲信しているのではなかろうか。

 ナチス・ドイツによるユダヤ人たちの大量虐殺や、米軍によるヒロシマ・ナガサキでの核地獄は紛いもない歴史的事実だった。そうした悲劇を食い止めることができなかったのも歴然とした歴史的事実である。自分以外の「不特定」な存在が「良きに計らう」ことなどを想定する根拠など何もない、ということを聡明に見つめたいと思う…… (2004.02.04)


 パソコンで仕事をするようになってから、筆記用具を使って文字を書くことがめっきり減ってしまった。ほとんどの文書はワープロで済ましてしまうからだ。仕事関連の書面はもちろんのこと、備忘録でさえ簡単なファイルを作りディスプレイの「デスクトップ」上に貼り付けてワープロで打ち込んでいる。だから、一日中、一度も筆記用具を手にせずにキーボードだけで済ませてしまうこともめずらしくない。一時期には腫れ上がってもいた右中指の「ペンだこ」も、いまでは見る影もない……

 毎朝、パソコンに向かうと先ずは新聞社のサイトにざっと目を通すようになってしまった。それは、どちらかと言えば、不承不承(ふしょうぶしょう)の心境を伴っての習慣であるかもしれない。ニュースとはいえども、どうせ、新鮮さを欠いた飽き飽きするような事柄ばかりなのだと、頭の中に折り込み済みであるからだろう。
 でも、何か新鮮なモノを探したくなる。魚河岸を訪れた買出し人のような目付きでコンテンツのリストを視線で追ってみる。別に経済記事でなくともいい。政治記事は記者クラブ経由の御用記事が多く、むかつくだけなので敬遠気味となる。社会面は、よほど気丈夫で臨まないと、新鮮な朝の気分がねっとりとした陰惨さに反転させられてしまう危険がある。スポーツ欄は何となく空々しさが否めない。

 今朝は、スッキリとしたかわいい記事を見つけた。
「『あるようでなかった』黒赤鉛筆、トンボ鉛筆が9日発売」(asahi.com 2004.02.05)という二色鉛筆発売の記事である。
 先ず、カラー写真が目を引いた。一ダース入りの箱と、取り出された一本の鉛筆の姿が映っている。その鉛筆は、両端が削られて芯がとがっている。左側の三分の二は、表面と芯が黒であり、反対側の三分の一は赤となっている。今まで良く見かけた、あの青赤半分半分の「競馬鉛筆」(?)のニュー・バージョンなのである。
 その写真の鉛筆は、「あるようでなかった」とのキャッチフレーズが添えられているからか、意表を突き颯爽とした様が感じられる。「どーです!」とでも囁いて、胸を張っているかのようだ。鉛筆の胸がどの辺になるのかは難しいところだ。まして、トランプの絵札のように上下が共に頭となればなお難しい……
 「かわいいなあー」と思わず頷いたものだ。1ダースで960円だと書かれてあったが、きっと売れる、と思った。売れなくとも、自分は必ず買うだろうと確信した。何に使うかはあとでゆっくり考えればいい。飾って眺めているだけでもほのぼのとするはずだ、と。

 最近は、「何かが原因」となり、盲点のような恰好で陽の目を見ないモノが商品として登場することがままあるようだ。奇をてらうこと、話題を提供することで買ってもらおうとする魂胆なのであろう。各企業はもはや「破れかぶれ」となってもおかしくない窮地に追い込まれているから、アイディア合戦は花盛りと言うべきなのだ。
 この「黒赤鉛筆」がなぜ「あるようでなかった」かと、ふと考えてみたが、たぶん製法上のボトル・ネックがあったからではなかったかと思った。それから、固定観念もあったのだろうか。
 つまり、芯の太さの問題である。推測するに、あの「青赤・競馬鉛筆」が世に出される時、発案者の第一印象は、この「黒赤鉛筆」ではなかったかと推測するのだ。が、いざ「企画稟議書」を書く段になって、待て、苦しい問題があるなあ、と気づいたはずなのだ。色鉛筆の芯の太さは、折れにくさが配慮された直径三ミリである。それに対して、通常の黒炭鉛筆の芯は二ミリである。これらを一本の鉛筆に半分半分のスタイルで仕込むことは、軸の溝の加工からいってほぼ不可能である。困った。よし、黒炭鉛筆の黒色にこだわるからいけないのだ。思い切って、色鉛筆の青あたりにして芯の直径を共通としたら問題はないじゃないか…… という流れではなかったかと想像するのだ。そして、この時、「青赤・競馬鉛筆」が陽の目を見るとともに、「黒赤鉛筆」はお蔵入りとなってしまった、のではないかと、推測するのである。

 しかし、この類推には大きな疑問が残ることも事実だ。つまり、じゃあなぜ今の時期にお蔵入りが解かれたのか、という単純な疑問が出てくるからである。製法技術の低コスト化時代という点もあるにはある。各企業が「破れかぶれ」となっているという事情もあるにはあるだろう。が、今ひとつ決め手がほしい気がする。何なのだろう? 「青赤」に加えて、「黒赤」にこだわった理由というのは? ひょっとしたら、鉛筆に郷愁を感じる団塊世代たちを、こうやって悩ませ、購入して、机の上に置いてじっくりと考えてもらおうという魂胆でもあるのだろうか…… (2004.02.05)


 うしろ姿というのは悪くない。顔の表情が見えてしまう正面よりも、首の傾げ方や肩のあり様などが、そこはかと無く内面の様子を伝えてくるからかもしれない。
 ご婦人方のうしろ姿の話ではないのが残念である。野良猫の話なのだ。
 書店をうろついていた際、年が明けてもう大分経ってしまっているのに、野良猫の写真集を題材にしたカレンダーが気に入ってしまい買って帰った。自宅の所定の箇所、たとえばテレビの近辺とか、キッチンの壁とかには、すでに、何がしかのカレンダーが収まってしまっていて当然の時期である。空いているところがなくなっていたのだ。そこで、しかたなく、トイレに座った際に見えるようにと、そのドアに収めることとした。
 用を足すたびに、眺めている。
 先月の写真は、日向の塀かなんかを背景にして、薄茶色と白の「ニ毛」猫が、大写しにされていた。片足を垂直に掲げて、その足の裏を目を細めて舐めている図である。猫の下のとげまでがとらえられているシャープさである。足の裏だからくすぐったい感覚もあるのだろうか、気持ちよさそうなその顔と目付きは、見るたびに微笑みを誘うものであった。いい買い物をした、とご満悦気分とさせられているのである。

 で、今月二月の写真はというと、これがまたいい。手前の中央に、やや小太りの白っぽい猫がうしろ姿で座っている。何やら前方が気になるようで、そんな緊張感をたたえた姿勢で見つめているのがわかる。前方にそんなものがあるのか、いるのか、と目を凝らすと、いるいる、黒っぽいやくざ風(?)の野良猫が、所在ない様子で立ち去るうしろ姿が小さく写っているのだ。手前のメインの白っぽい猫に焦点があっているため、遠くのやくざ猫は、かすんで写っているのだ。
 周囲を見ると、そこは地方の古い通りなのであろうか、左片側に水路とでも言えそうな側溝が見える。二匹の猫は、その側溝に沿うような線上にいるのだ。
 何をどう想像しても差し支えない光景の写真である。私の想像は、先ず手前の白っぽい猫は、もちろん「ご新造(しんぞ)さん」である。遠くを歩くのは渡世人の「おあにいさん」といったところか。しばし、逢瀬を重ねたあと、「おあにいさん」は突然言うのだ。
「とんだ長居をしちまったぜ。おれっちは、もう行くぜ。なあに、あてがあるわけじゃねぇやな、気の向くままさ。世話になったな……」
 「ご新造さん」にの胸の内には、未練も愚痴もほとばしるほどであったが、何も口にせずただただ見送るしかない定めだった。男も愚かなら、胸の内を一言も明かさず別れの門出に立つ(猫は座っているが)女もまた愚かで、憐れであった。そんな、愚かさと、憐れさと、そして、何ともそこはかとない切ないものがそのうしろ姿からは溢れている。
 と、勝手なイマジネーションを働かせて、私も用が済むと、「世話になったぜ」と言ってその場から立ち上がるのだ。

 で、これで終わっては身も蓋もなく、いささか美しくないため続けようとするのだが、うしろ姿というのは、それを眺めるものの想像力にいっさいを任せるがゆえに、逆に大きな訴求力があるのだと思える。このこぼれ落ちるほどの哀愁というのは、当事者が普通は意識しない背後という方向だけに、逆に純粋な姿でアピールされるのかもしれない。
 また、「背(せな)で鳴いてる唐獅子牡丹」ではないが、その種の人たちが尻をまくって背を向けて啖呵を切るのは、背負った刺青を見せたいだけではないだろう。むしろ、「好きなようにするがいいや!」と相手に下駄を預け、命を預けて、それで揺さぶりをかけるという破天荒な演出なのであろう。
 つまり、対面して、口角沫を飛ばす正攻法だけが表現法や説得法なのではない、ということである。むしろ相手の自由意志に任せるかのような方法こそが、効を奏するということなのであろう。

 ただ、こうした「うしろ姿表現法」は、それに呼応できるギャラリーが大前提となるはずである。どうも時代は、そんな大前提が崩れ、過剰なセルフ・アピールやディベイトなどが氾濫する、「表通り」だけがあって「裏通り」がふさがってしまった味気ない街となってしまったのか…… (2004.02.06)


 多分、そうなのではないかと目星をつけていたことが、そのとおりだったと意を強められることがあった。国際経済なぞに関係するような大事ではないが、それでも自身にとっては重大事な事柄である。ここしばらく一進一退の状態が続いた「五十肩」の、その原因なのである。
「……多数の患者にくわしく病気の背景を質問していくうちに、私と仲間の医師たちは、原因にたどりつきました。片側寝による肩関節や腕の圧迫、つまり、右か左のどちらか片方ばかりを下にして寝ているために、肩の関節や腕が圧迫されて、五十肩が起こっていたのです。たとえば、右側ばかり下にして寝ていると、右の肩や腕の血流が止められて、組織障害を起こします。頻度は少ないですが、右寝、左寝の療法を繰り返して、両肩が五十肩になることもあります。したがって、五十肩を治すには、なるべく仰向けになって寝る時間を長くすることです」(安保徹『免疫革命』講談社インターナショナル)
 確かに、どういうわけか「右肩下がり」(?)で寝ることが多かった。最近も、いつの間にかそうなっていて、ただし、痛くなってくるものだから反転するというケースに、ありありと覚えがある。いろいろと五十肩の原因を詮索し、歳のせいだからしょうがないか、と諦めはじめてもいたところだった。何のことはない、要するに「血流障害」であったことになる。これで、治療のめどが立ったというものである。

 自分の五十肩なんぞはどうということもないのだが、高齢者の「腰痛」の場合は気の毒なものである。自分もむかし一度「ぎっくり腰」を経験したことがある。その時の痛みと煩わしさは言語を絶するものがあったと記憶している。これは急性であり、一時的なものであったが、慢性の腰痛となるといかばかりの心痛かと思う。
 ごく親しい年配の方がその「腰痛」を患っており、つい最近もその方と電話でお話したのであるが、言葉にはなかったものの、その潜む不安が十分に察せられたものだ。思うように外出ができないこと、画期的な回復が望めず長期化していることなどが不安の影を濃くしているように推測された。
 上記の安保氏の著作に感銘を受けていたこともあり、その方には、対症療法の「消炎鎮痛剤」は、交感神経優位状態をつくり出すためご法度であること、ストレスを解消させて副交感神経活性化を図る策が良策であること、そして何よりも「血行をよくする」ことが大事であるようだとアドバイスをした。知ったかぶりのお節介ではあった。

 しかし、何の変哲もない「血行をよくする」という処方は、何やら多くの重要なことを暗示しているように思われる。
 安保氏によれば、そもそも「痛み」や「発熱」とは、身体の部分的異常(=患部)に対して、リンパ球などの免疫組織が「救援活動」にはせ参じ、正当防衛的闘いを挑むからだという。もちろん、そのリンパ球などの輸送路とは血流以外ではない。
 ところが、現代医学の対症療法とは、まず患者の苦痛除去を最優先として、消炎鎮痛剤の投与に及ぶ。もちろん、患者もそれを先ず期待するからであろうが、それが説得力のある報酬に直結し、医がそろばんに直結するからなのだろう、というのが私の実感である。 しかし、そうした対症療法はほぼ確実に、身体の自然な「血行」を阻害したり、交感神経優位状態を生み出し、さらに血流を滞らせることになるらしい。つまり、患部の痛みが緩和するということは、痛みが生じる原因となっている「救援活動」を一時見送るべく、血流を絞り込んでいるということになるのだそうだ。
 それで、「痛み」を覚えるたびに対症療法たる薬物服用を重ねていると、いつまでも「救援活動」が先送りにされるため、根治には至らない、ということになるというのである。まことに道理そのものだと思われる。

 ここで、再確認しなければならない点は、そもそも人の身体というものは、自然それ自体だということであろう。われわれは、病気はクスリによって治されるとカン違いしているのだが、治している立役者は自然の身体の治癒力なのであって、クスリは助演男優渡辺謙以外ではないのだ。いくらノミネイトされたとしてもである。やはり、トム・クルーズを見てやらなければいけないのである。いや、話の腰を折ってはいけない……
 このマッチ・ポンプ的本末転倒こそが、現代人から幸せを奪っている張本人だと言わざるをえないのではなかろうか。人々から、夕べの涼風を奪うような都市化を推進しておきながら、もう片方では高価なクーラーを買わせるといった流れ、近郊田園地をさんざん破壊しておきながら、遠くの自然観光地への旅行を斡旋する流れ、もう今は誰も知らないであろう「入浜権」を地域住民から奪っておきながら、海水浴ビーチを商品化する流れ、森林伐採を放置しておきながら、水資源の撹乱と大水害を引き起こさせている流れ、ようやく是正されてはきたものの、自然の土壌では消滅しない製品物質(有害物質、プラスチックその他)を是認しておきながら回収のルートが完全ではなかったゴミ行政、などなど「部分最適」を放任して、自然の「全体調和」という最も低コストな状態を撹乱しているのがこの現代の最大の不幸だと言えよう。
 これらと同じパターンの推移が、人の身体においても起こっているというか、行われていることが、もっともっと注目されなければならないと思っているのである。

 昨今、「医療ミス」問題が衆目を集めているご時世であるが、現代医療の最大のミスは、対症療法万能主義を疑わず、結果的には「マッチ・ポンプ」的な役割りを演じ続けていることだと言えば言い過ぎになるのであろうか…… (2004.02.07)


 ウォーキングの途中で、「たぬき」に出会った。
 全身が深い褐色で、鼻先と目やその周辺が黒ずんでいる。地面をくんくんとかいでいる様子である。まさかと思い近寄ってみると、そいつは私を見ると頭をうな垂れてすたすたと行過ぎて行く。ジャラジャラと鎖を引きずっていたのがわかった。どこかの飼い犬だったのだ。遠目には、全体が黒っぽく、野性的な相貌で怖そうな印象であったのだが、人の顔を見るや「こりゃ逃げるしかない」とでもいった臆病な様子で立ち去るのが妙におかしかった。
 「たぬき」うどんではなく「たぬき」ドッグが、繋がれた鎖ごとひとりで散歩したくなるのがよくわかるほどに、今朝は冬晴れの上天気であった。
 事前の天気予報も晴れだと伝えていたせいもあってか、小学校の運動場にしても、地域の運動場や町内会管理のグランドにしても、スポーツ姿の子供や大人、中高年までが朝から詰めかけて賑わっていた。みんな、いい汗をかく一日になるだろうと思えた。

 私はといえば、いつもは物々しく鉄アレーを握るその両手を空け、久々にスナップ写真でも撮ろうと、小型デジカメを首にぶら下げてのウォーキングと決め込んだ。
 寒くて風のある冬場には、通勤途中のクルマから雪化粧をした丹沢の峰々がよく見えるので、そんな風景が気になってもいた。いつものウォーキング・コースからは外れるが、それらが良く見える坂まで出向いてみようと思いたったのだった。

 最近はパターッとアナログ・カメラをしょって歩くことがなくなってしまった。色彩が乏しく、寒々とした冬の戸外の風景がそそらないということもある。また、アナログ・カメラは好きなのだが何せ重いということもある。
 そして、極めつけの理由は、リアル・タイムでは完結しないという難点である。つまり、現像、焼き付けにニ、三日間が空いてしまうというまどろっこしさがそれなのである。撮る時の感情と期待感があっても、ニ、三日後にそれがかたちとなって返ってくるという事情はいかにも非現実的だと感じてしまうのだ。もとよりせっかちという性格も問題であるが、何でも「クイック・レスポンス」が当然となっている時代にあって、「インターミッション(幕あい)」が長過ぎるのは耐えられない。それで、アナログ・カメラからは遠のく羽目となっているのかもしれない。ただ、画像のシャープさや、操作性・操作感などアナログ・カメラの本体の魅力は変わらないので、また思い立ってのめり込む時が必ず来るのだろう。

 デジカメの評価すべき点は、言ってみれば「巧遅拙速」である。確かに、デジカメの画像は、少なくとも自分が現在保有しているカメラにおいては、満足できるものではない。まあ、「シャープらしく」良くごまかしてはいると思うが、その「らしく」に誘われて期待すると、突き放されるような失望に襲われたりしてしまう。その時には、「だって、時間がないんだからしょうがないでしょ!」と、聞こえてくるようでもあったりする。それは、「クイック・レスポンス」のために、犠牲にするものは犠牲にするのです、という現代特有の言い訳なのである。
 こうして考えてみると、現代とは、「時間」や「スピード」のために、「クウォリティ=質」が第二義的な位置づけとされる傾向にあると言えるのだろう。意図的に犠牲にしているのではなく、やむを得ずであることはもちろんであるが、この事実は否定できないのではなかろうか。
 そして、これと同様に生じているように思われるのが、価格低廉化のために「クウォリティ=質」が犠牲にされるという事実であるのかもしれない。ちょうど、朝食時に見たTV番組で、イトーヨーカドー/セブン・イレブンの社長が、現代人には、価格よりも質へのニーズという傾向が生まれているのは無視できない、と語っていた。イトーヨーカドーは、中国でこの商法を推進して効果を上げているという。

 「撮れたて」のデジカメ・データをPCで再現しながら、私は、「時間と質」、「価格と質」という現代が抱えたジレンマについて思いを寄せていたのである。その時、ふと、今朝会った「たぬき」ドッグのことを思い出したのだった。あいつも、ひょっとしたら鋭いジレンマを抱えて過ごしているのかもしれない、毎日餌は欲しいし、気ままに散歩はしたいし、というジレンマを…… (2004.02.08)


 今、DVD(※)がかなりの人気で、レンタル・ビデオ・ショップでも従来のカセット版の貸し出しは減っているとかである。

 ※ Digital Versatile Disc<Versatileは「用途が広い」という意味>の略とする場合と、Digital Video Discの略とする場合がある。高密度化により、1枚のDVD-ROMメディアに、現在のCD-ROMの約7倍にあたる4.7Gbytesのデータを記録可能。さらに、2層記録では8.5Gbytes、両面記録では9.4Gbytes<両面各1層>もある。

 従来のビデオ・カセットは「磁気テープ」のため、耐久性が悪い。操作によってはテープそれ自体が絡まって破損することもあるが、データの劣化も心配だ。記録容量が小さく、保存のためのスペースが馬鹿にならない点も気になるところだろう。
 これらに対して、新しいメディアとしてのDVDは、記録方法もデータの劣化がほとんどない、レーザー光線を活用した「光ストレージ」である。そして、12センチの円盤に驚くほどのデータが詰め込めるとなれば、軍配がDVDに上がるのはやむを得ない。

 いまさらDVDに驚いていてもしょうがないのだが、「コンテンツ」と「コンテンツ」、つまり「内容」と「入れ物」に関心が向いたのである。
 「情報(化)社会」が高度化して、確かに「コンテンツ」の時代だ! と叫ばれはしたが、目覚しく発展を遂げたのはそれではなく、むしろ「コンテンツ」「入れ物」の方であっただろう。これは、釣りでもスポーツでも、とかくビギナーが、「技」よりも「道具」を揃えることに走り、凝るのと似ていて面白い感じがする。いや、まさにそうした人々がいるからこそ、新しい「メディア」が売れ、そして次々に商品化される流れができるのであろうか。
 もっと、本質的に言えば、より技術的「シーズ」に関係する「メディア」が、「シーズ」過剰気味で先走り、より「ニーズ」に関係するのであろう「コンテンツ」が新しい焦点が結び切れずに後追いをしている、ということなのかもしれない。たとえば、ショップへ行き、DVDの「コンテンツ」に注目してみるならば、従来のビデオ・カセットに搭載されていたおなじみの映画であることがわかるからである。「古い」内容が、「新しい」入れ物に入れ替えられて並んでいるのだ。
 より耐久性があり、よりコンパクトな入れ物に「移し変える」ということに意味が無いとは言わない。それもありがたい要素であるには違いない。

 実を言えば、自分も、一周遅れ、二週遅れの「入れ物交換」(メディア変換)をしたりしている。ひとつが、かつて録音したり、かつて購入した「落語」テープをPCを使ってCDに焼き直そうとしていること。テープの劣化が著しいことが動機であった。たぶん、どんなに社会変化があろうとも、歳をとるごとに「落語」鑑賞への気持ちは高まるはずだという読みもある。ところが、先日、デジタル変換して貯めておいたデータを、PCの不調で台無しにしてしまったことを悔やんだりしている。
 もうひとつが、サウンドCDをMDに焼き直す変換である。この動機は、CDプレイヤーの容積の大きさである。携帯するにはやはり大き過ぎると実感し始めたのだった。若い子たちのように、この歳でMDプレイヤーを買うのは気が引けはしたが、思い気って入手して使っている。使用目的は、音楽というよりも、英語であったり、サイトでちょっと気に入った文章などを音声データに変換して焼き、聴くというようなことである。

 ただ、こうした「メディア」変換は、何か小手先わざという感触が拭い切れないでいる。何となく、「入れ物」過剰な状態での、「内容」後追い、「内容」貧弱という事態が目についてしょうがないわけなのである。
 だが、よくよく目を凝らしてみると、これが(日本の)現代という時代なのかとも思う。「入れ物」「器」「かたち」のイノベーションは実に旺盛であるのに対し、「中身」がついてゆけない情けない現象のことである。そう言えば、「箱もの」行政(建物や施設にばかりに公共投資して、今や、閑古鳥が鳴いている?)への反省もあったかに思う。
 どうすれば、「コンテンツ」優位、「内容」優位の時代を到来させることができるのだろうか? その実現への道筋が見えてこないうちは、文字通りの「情報(化)社会」とは言いにくいような気がしている…… (2004.02.09)


 世代の断絶という現象の背景には、活用「メディア」の相違という面が少なからず潜んでいるのであろう。さまざまなカルチャーは何らかの「メディア」で運ばれるのであるから、活用する「メディア」が異なれば、受容するカルチャーも自ずから異なってくるからだ。
 先日、かねてより、「Faxは使っていません、多くの<LP>を大事にしているので、CDプレイヤーもありません」と言ってはばからない年配の方に、近頃特に安くなっているスピーカー付きCDプレイヤーを送りつけた。近頃当たり前となっている、多機能のプレイヤーではやたらにボタンやスイッチがあり、ただただ使う者を悩ませるのに対して、単機能バカチョン方式というめずらしいプレイヤーを見つけたことと、あるCDを聴いてもらおうと望んでいたのでそれと併せて、差し出がましいことをしたのである。
 なぜそこまでするのかと反芻するならば、その方とのコミュニケーション欲求があるにもかかわらず、メディア・レパートリー(どんな「メディア」を使って、どんな「メディア」を使わないかということ)の相違が、何か壁を作っているかのように思われたことがあるのかもしれない。そんな気がしている。

 昨日も「メディア」について書いた。そこでは、過去の「コンテンツ」を「ニュー・メディア」に変換することについて触れた。これも、いろいろな興味深い点を芋づる的に引き上げるそれなりにおもしろい問題だと思っている。
 私は「落語」テープをCDに、CDをMDに変換したりしているが、このところ米国では、『iPod』(アイポッド)を活用するために、音楽CDをデジタル・データの「MP3」へと変換することを、個人に代わって行う業者が繁盛しているともいう。情報によれば、これは「お金はあるが時間がない」という人たちが利用しているらしい。

 どうも「メディア」変換(古い「コンテンツ」のニュー・メディアへの変換)に、私は関心を向けているようなのだが、その動機は大別して二つありそうな気がしている。ひとつは、ビジネス面に及ぶもので、もうひとつは時代を愁う観点から生じるものである。
 前者については別の機会に回すとして、ここでは後者に関して書きたい。
 昨日は、「メディア」の革新に対して「コンテンツ」が追いついていないのではないかと皮肉めいたことを指摘したが、なぜかその傾向は当分是正されることはないような気がしている。宮崎駿監督が、その素晴らしい「コンテンツ」で、ニュー・メディアを駆使して制作している映画などはむしろ希少価値だと言ったほうがいい。それ以外のカルチャーは、十把一絡(じゅっぱひとからげ)にしてはいけないが、端的に言って、ニュー・メディアと遊んでいるような気がしないでもない。

 NHKは、「NHKアーカイブス」として、保有する映像や音声のコンテンツを保存している。デジタル・データ化して保存しているのであろう。時々、時代がかった古い映像の再放送を見ると、単に郷愁という点ばかりではないと言いたいが、感動することが多いのだ。
 そして、痛感することは、こうした「コンテンツ」はデジタル化によって劣化しないようにして後世に確実に伝えるべきだ、という点なのである。
 現代は、文明という点では過去を乗り越えて進化しているのは間違いないが、文化という点、人間のすべての能力に関する点においては、発展、進化したなぞとは決して言えない、だから「種の絶滅」ではないが、文化の絶滅とならないように過去の資産を現状維持・保存すべきだと痛感するのである。この時代は、歴史(教育)をあまりにも軽視し過ぎる傾向を持っていることがあるためなおのことそう感じさせられるのであろう。
 「暗黙知」(⇔現代主流の「形式知」。2002.09.12 を参照。)が、直面する多くの矛盾を解決するためにも、ますます貴重だと思わせる時代風潮となっているように思っているが、過去の「コンテンツ」は、そうしたものの片鱗を少なからず埋め込んでいると思われてならないのだ。

 昨日は、新しい「メディア」にふさわしい新しい「コンテンツ」の到来を期待した。しかし、そんな無いものねだりをするよりも、新しい「メディア」の当面の主たる役割りは、消え行く過去の「コンテンツ」をとりあえず状態のいい水準で保存することだ、と言った方が現実的なのかもしれない。現代文化を、いっそのこと「古典主義」ないしは「新古典主義」だと言いたくもなってしまうが…… (2004.02.10)


 気持ちよく晴れた天候に誘われ、自転車で買い物に出かけてみた。
 出かける前に、先ずはタイヤの空気を補充しなければならなかった。また、ほこりを被ってとことん汚れていたため雑巾がけも必要であった。前回はいつ乗ったかを忘れてしまうほどに放置していたため、フレームのパイプの隅の方には薄っすらと緑色のコケまで生えているありさまだった。
 しかし、きちんと掃除をしたら見栄えも戻ったし、作動にも問題はなかった。
 さっそうと走り出したのはよかったが、一、ニ年も乗っていなかったための不具合は、自転車側にではなく、どうも乗り手の方のボディにあることがわかった。日頃ウォーキングで足は鍛えているつもりであったが、歩くことと、自転車をこぐこととはまったく別の動作であるようだ。使用する筋肉が異なるのだろう。
 ほどなく、町田特有の坂に差し掛かった。初めから歩くのはしゃくだったので、心して平気な顔をしながらこぎ続けてみた。が、身体は正直なもので拒絶反応を示し始めたのである。どの筋肉がどう痛いというのではなく下半身全体にジーンとしみわたる表現しがたい痛みというか、気持ち悪さが訪れることになった。考えようによっては、結石のあのいやらしい痛みに通じる、不快感である。
 とにかく町田はいやな所だ。緑がそこそこあるのはいいのだが、その気になって自転車を持ち出すと、あちこちに待ち構える坂が、試練を与えるのである。まあ、箱根や伊豆の峠超えほどのスケールなぞないのだが、ないようであちこちに坂があるという地形の魂胆に腹が立つのだ。さぞかし、あの「電動自転車」の売れ行きは全国有数ではないのかと、本気で想像してしまう。

 坂、坂とやつ当たりしてみるのだが、よく考えてみれば、かつて住んだ場所にもそこそこ坂道はあったかもしれない。そして、クルマもバイクも持たなかった若い頃の自分は、そんな地形をものともせずに自転車を疾走させていたはずである。
 埼玉に住んだ頃には、わが身を運ぶだけでは満足せず、うしろの荷台と前のカゴに新聞を山積みにしたこともあった。新聞配達のアルバイトの話である。
 大森に住んだ頃には、何を思ってか、京浜国道を、いや正確にはその歩道を都心へと突っ走り、都心を通過して両国橋を渡り千葉までサイクリングをしたこともあった。
 名古屋に移り住んだ頃には、これまた坂が少なくない街を、自転車で大学(院)に通ったものだった。アルバイトの都合やら、子供が生まれたことなどから、さすがに自転車ではまかない切れず、バイクに乗り換え、やがてクルマに乗り換えたものであった。

 こうして振り返ってみると、生活の足をクルマに切り替えてからが身体の堕落のスタートであったかもしれない。クルマがあると、どんなに近い先でもついついそれを活用してしまうからいけない。身体を使うことがおっくうとなるだけでなく、馬鹿馬鹿しいと感じるようになるのが恐ろしい。そうして、体重を野放しにして、体調不良に嘆いたりする。そして、ジョギングだ、ウォーキングだと、思い立っての緊急措置を講じるのだから何をしているんだか……
 きっと明日、いや明後日になると普段使わない下半身の筋肉が痛んだりするのだろうな、と思いながらも、これからは努めて自転車に乗ることにしよう、春めいてゆく街を、身体中でそよ風を浴びながら走らせるのは、必ずや気持ちがいいに違いない、と思ったりした…… (2004.02.11)


 午後、10分間ほど、自社のサイトとFTPが突如として「不通」状態となってしまった。最近は、悪意に満ちた「英文メール」が飛び込み、中には「おまえのサイトのコンテンツを削除するぞ!」という脅しめいたものも届くため、一瞬、プロバイダーのサーバが侵入されたかとドキッとした。
 プロバイダーに電話連絡してみるも、話中で通じない。うちだけではない被害が出て、問合せが殺到したりしているのでは…… 、という悪い予感が増幅されてしまった。
 と、ほどなく、自社サイトがつながり、やがてFTPも回復した。が、念のため原因を知ろうとプロバイダーに電話をして確認してみることにした。電話はつながった。
「この10分ほど、サーバに何かあったの?」
と訊ねると、
「はいっ、ちょっとした機材の不調がありました」
と何事もなかったかのような極めて涼しい口調が返ってくる。
 自分が取り越し苦労をしていたことがわかったのだが、気がおさまらずプロバイダー側のセキュリティに関して若干問いただしたりして電話を切った。

 もはや、インターネット環境に対しては、疑心暗鬼となっている。今朝も、ウィンドウズの緊急対策ファイルを、先週に引き続き更新したばかりであった。重篤なセキュリティ・ホールが立て続けに発覚し、緊急対策ファイルのダウンロード、インストールは今や日常茶飯の出来事となってしまった観がある。
 しかし、なぜこんなに「不穏な事態」となってしまったのであろうか? 悪いヤツはどこにでも、いつでも後を絶たないとはいうものの、このところのコンピュータ・ウイルスは、ウィンドウズへの攻撃が目立つようで、マイクロソフト社が標的とされ続けてきた推移がある。また、『マイドゥーム』系のウイルスはSCO社(オープンソースであるOS、Linuxの中核部分に、自社が知的所有権を有する技術が不正に使われているとして関係各社を提訴している会社)が標的とされているようだ。そして、両社は、情報提供者に対して25万ドルの謝礼金を出すと発表しているそうである。
 が、いずれにしても、一部の勝ち組企業が、恨みを買い多くの一般ユーザを巻き添えにしているという構図に変わりはなさそうだ。

 ここで、すぐに想起されるのが、相変わらず止まないイラクや中東での自爆テロである。この10日、11日で、バグダッド南部とバグダッド市中心部であわせて約100名のイラク人が死亡したという。反米武装勢力が、米軍だけではなく、米国に協力する者は「裏切り者」として攻撃するという構図のようである。
 イラクの一般国民からすれば、継続する失業と貧困の中で、募る反米感情も生きることには換えられないという切羽詰まった状況があるはずだ。それで、米軍よりの行動をとると「裏切り者」として死に追いやられるというのだから、何とも地獄の舞台が繰り広げられていることになる。

 何をどう考えればいいのだろうか? 同国人を巻き添えにする自爆テロを止めさせるべきなのであろうか? もちろん、それが可能であればそうかもしれない。しかし、「力」によってそれが可能なのであれば、とっくに選ばれなくなっていたのではなかろうか。イスラエル v.s. パレスチナの終息無き闘いを思い返せば、「力」は無力だという逆説に思い当たらざるを得ない。

 現代は、「力」を集積した存在が「一人勝ち」する時代だと言われている。それは、企業でも、国でも同じようにその典型を思い浮かべることが可能だ。そして「勝者」たちは、「ノーブレスオブリージュ(高い地位や身分に伴う義務)」なぞには無関心であるかのように、なおも「力」の誇示をいっさい疑うことができないでいる。また、「勝者」たちには、不条理にも巻き添えとなり、死やその他の被害を被り続ける者たちのことを想像することもできない。もちろん、「勝者」たちは、歴史が繰り返し示してきたように、集積された「力」を誇示する者たちはことごとく「自滅」することになったという、自身の運命にかかわる冷徹な事実なんぞも一向に目に入らないようである…… (2004.02.12)


 ある「ITコーディネーター(ITコンサルタント)」(戸並隆)によると、製品へのアプローチには、「モジュラー型(オープン規格)」と「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」とがあるという。
 「モジュラー型」アプローチとは、パソコンを典型とする、オープン規格に準拠した標準・汎用部品の組み合わせ製品であり、CPUとOSなぞは「ウィンテル」という一人勝ちのスーパーモジュールだという。他の周辺機器にしても、標準インタフェース上の製品なので、その中で低価格・高品質のものを選りすぐって大量購入することで、驚異的な低コスト化を可能にした。パソコンが、アッという間に現在ほどに安くなったのは、この「モジュラー型」アプローチが徹底されたからだということになる。

 これに対して、「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」とは、従来の日本企業が行ってきたお家芸であり、標準規格にとらわれない各社独自の作り込みの世界だということになる。言ってみれば「プロジェクトX」の世界なのであろう。
 何よりも「反オープン」=企業内「囲い込み」に特徴があり、終身雇用や企業内組合をベースとした社員の囲い込みとその忠誠心によって求心力の強い生産体制が維持される。それは、系列下請構造によって社外にまでの広がりを作り出すこととなる。そして、社員の暗黙知に頼った経営と大勢の技術者による擦りあわせインテグレーションを進め、徹底的に製品を洗練して差別化を図る、といったアプローチであったということになる。

 グローバル・スタンダード(=アメリカン・スタンダード)が席巻したグローバリゼーションは、すなわち「モジュラー型」アプローチの急速な日本への浸透であったということになる。そして、このうねりによって、日本のパソコン業界がデルコンピュータなどの米国企業に価格競争で太刀打ちできなかったように、高コスト体質の少なからぬ企業が破格の低価格化競争の前で壊滅的な被害を被ることになったのだった。
 しかし、ここにきて「モジュラー型」アプローチ企業に若干の変化が見られ始めるとともに、製品を洗練して差別化を図る「インテグラル型」日本企業に陽射しが差し込むようになったというのだ。それは、デルコンピュータがコンピュータ専業を止め、デジタル家電のマーケットに参入し始めたことや、日本メーカーがデジカメ、携帯電話、さらに液晶テレビを初めとするデジタル家電などで活況を呈しつつある兆しが見受けられるということだそうだ。
 つまり、「モジュラー型」アプローチ一辺倒かに見えた状況に、「インテグラル型」アプローチの「部分的」巻き返しが現れてきたのかもしれない、というのである。

 この傾向は非常に貴重なものではないかと、私も考えたいと思っている。
 「モジュラー型」アプローチといい、グローバル・スタンダード(=アメリカン・スタンダード)といい、確かにそれらは、低コスト化という面での恩恵は小さくはない。また、閉鎖的で淀み腐ったローカルな関係を打破する効能も否定できない。しかし、だからといってこの傾向を万能であるかのごとく見なすのは、浅はかと言うほかないし、米国追随主義だと言われても無理がない姿勢ではなかろうか。
 私の視野の中では、この「モジュラー型」アプローチと「インテグラル型」のそれという興味深い対比視点を通して、一連のグローバリゼーション現象が見えるとともに、市場主義万能という原理も見える。もちろん、「IT」の動向がピッタリと重なるし、米国型民主主義とその押し付け以外ではないイラク問題も覗ける気がしている。一辺倒な米国依存でスタートした小泉「構造改革」も、この視点によってより鮮明にトレースできそうでもある。
 さらに言えば、またまた例に出すことになるが、小人の国日本に巨人ガリバーが到来して、小人たちが身動きがとれずに萎縮し続けた「失われた10年」にしても、この視点からやっと我に返った冷静さで凝視できるようになるのかもしれない。

 誤解を恐れずに言い切るならば、現在、人々のタイプは二つに大別できそうな気がしている。ひとつは、米国が煽動する「時代の主流(?)」に迎合して「勝ち組(?)」へと妄走(こんな言葉はない)する人々であり、もう一つは、走ることは愚か歩くことすら止めてしまった「降りてしまった人々」である。これが、言ってみれば、前述の「モジュラー型」アプローチ一辺倒の「共同幻想」風潮が生み出すこととなった「勝ち組」・「負け組」時代というか社会の、その実相であるような気がするのである。
 しかし、ひょっとしたら、この流れが秘めていた「無理」が、突貫工事ででっち上げた堤(つつみ)の外にジワジワと水が染み出すように、今崩れ始めているのではないか、という予感がしないでもないのである。なぜそんな予感が生まれ始めたのかを、ビジネス、経済領域に限らず思いつくままに書きとめてみたい…… (2004.02.13)


 「モジュラー型(オープン規格)」と「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」という、生産体制の話だけにはとどまらないであろう興味深い視点に関係していろいろと書いてみようと思う。

 「モジュラー型(オープン規格)」アプローチは、決して今に始まったわけではなく、そもそも工業化とともに発展してきた方法なのであろう。そして、大量生産・大量販売路線の過程で精緻化されてきたものであるに違いない。
 ただ、この間の新しさとは、これを空間を越えたスピードで限りなく支援した助っ人がいたということなのである。それが「IT」だったと思われる。これまで、工場内、企業内でコントロールされていた水準のマネージメントを、地球の反対側の他社との間でも可能としたのが、インターネット環境をベースとする「IT」だったからである。
 その意味で「IT」は、「モジュラー型」アプローチの革命的な推進要素であり、自らもまた「オブジェクト指向」などによって「モジュラー型」アプローチで再編されていくことになったわけである。
 もちろん、「モジュラー型」アプローチは、製品や部品というモノに対してだけ当てはまる方法ではなく、とりわけ米国では、人の組織もまた「モジュラー型」で機能していたと思われる。「取り替え」可能なほどに自立的標準能力を持つ個人とその連携というのが、標準部品と標準インターフェイスというモノの基準と同様に実現されていたと言っていいのだろう。
 グローバリゼーションという「第二次アメリカナイゼーション」の正体とは、「IT」をテコとした高度な「モジュラー型」アプローチが、企業経済を中心にして、組織・文化といった社会領域全体にまで拡大して行った現象であったのだろう。
 これまで、さまざまな部分社会は、何らかの障壁(ボーダー)があったからこそ成立していたという事情があったと思われるが、壁の取っ払いとともに、世界標準の前に放り出されたということになり、その衝撃が、これまで日本経済を下支えしてきた中小零細企業群を大量に倒産させ、従来、天下の宝刀とされ回避されてきたリストラを平然と行うというアナーキーとなって表れたと言っていいのだろう。
 本来、その名に値する政治家がいればこの衝撃のイメージをとことん想像力を働かせて予測し、「産湯を捨てて赤子を流す」ような愚を犯さずコントロールしたはずだと思われる。だが、不幸にも短絡的でかつ米国の言いなり首相しかいなかったことが、事態を最悪にこじれさせてしまった。ここまで判断するのは、この路線の結果は、ここですべてが出尽くしているわけではないと見なすのが妥当だからである。今後、予想外のマイナス副産物が現れると推測するのは、私だけではないだろう。

 ところで、ふと、小学生の頃、パナマ運河が水位の高低を調整する水門を持つこと(閘門[こうもん]運河)を知り驚嘆したことを思い出したりした。現在日本にも、亀戸からお台場まで走る江東水上バスがこれを利用しているらしい。原理は、異なった水位の川や海の隘路を船舶などが安全に航行できるように、両側の水門を交互に開閉して、人工的な中間水位の空間を作り出すことで船舶の安全航行を確保しているのである。
 これを国際経済に当てはめると、すぐに関税措置による「保護貿易」となってしまいそうだが、それだけに限らず、考えられることはほかにもあったはずである。一時期には、「セイフティ・ネット」対策などが取って付けたように取り沙汰されたが、そうした建設的な制度調整策こそが「閘門運河」の知恵のごとくになされて然るべきであったと思われてならない。
 こう言うと、「ソフトランディング」ではなく、「ハードランディング」でなければ奏効しない問題なのだ、と主張する人が出てきそうだが、そうした言葉の遊びをしているからこそ事態がこじれるのではなかろうか。
 ちなみに、一体、これまでの小泉「構造改革」のどこが「ハードランディング」であったかと思う。「道路公団問題」の行方にしたって、最高に曖昧な水準で棚上げされたのだし、地方自治体財源委譲にしても然りだ。そのくせ、国民負担増を招く医療費保険料率のアップであるとか、これまた国民負担に直結する年金制度改変とか、とにかくこれらの領域、この方向での推進策だけは「ハードランディング」であったことは確かであったからだ。問題は改革の内実なのであり、ハードだソフトだというのはまさに言葉の遊びでしかない。
 人の命が軽く扱われるようになったと同様に、一国の将来を左右する政策が、今日ほど軽々しく弄ばれている時代はなかったのではないか。いや、この軽々しい傾向は、戦争に関する問題などで、まだまだ継続する模様だ。「自民党をぶっ壊す!」と大見得を切った首相は、いま確実に「日本をぶっ壊す」狂乱を演じているようだ。

 要するに、グローバリゼーションや、これとリンクした「構造改革」を推進するための仕掛けは、あまりにも杜撰でしかなかったと痛感するのである。その結果が、市場主義原理の全面導入! という荒っぽい掛け声をかけつつ、悪化の一途をたどる「失われた10年」プラスα(=右往左往と惰眠!)であったのだろう。
 思うに、古い話となってしまうが、こうしたことになった根底には、「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」(アジアから脱して、欧米諸国の仲間入りをすること。日清戦争前後のアジア観の一つとしていわれた言葉。1885年(明治18)の福沢諭吉の「脱亜論」が代表的。--「goo辞典」より)という、恥ずかしいくらい軽々しい発想(!)が、未だに尾を引いているのではないかと思ったりする。
 特に、人間個人や、その集合としての組織や共同体に関する洞察力の無さが致命的であったと思う。「グローバリズム」の前提たる「個人」を用意するのに、「自立!」という言葉を連呼するだけで一体何が可能となるのだろう。欧米個人主義というものは、何世紀にも渡って、欧米という特殊文化の過程で生まれた特殊なケースだとなぜ考えてみようとはしないのであろうか。なぜ、それがすべての人類が通過しなければならない里程標だと最初から思い込むことができるのであろうか。ミーハー気分の為せる業だと思わざるを得ない。
 今、目の前にある貧しい現実は、欧米個人主義にも到達できず、かといって壊滅的に破壊し尽くした共同性の再建もおぼつかず、国籍不明のスラム化がジリジリと進行する情けなさなのだろうか。それでは、希望に満ちた「明治の開国」以前に舞い戻ったことになってしまう……

 話を急に小難しくしてしまい、我ながら裸足で冬山登山を始めてしまった気がしないでもない。ただ、現時点の状況認識をしようとすれば、日常生活で見聞する事象の奥を読み込んでいかなければ難しいのではないかと感じているのである…… (2004.02.14)


「人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち会っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ」(保坂和志『生きる歓び』より)
 久々に溜飲が下がり、意を強める言葉に出会ったと感じた。
 この言葉の前後をさらに引用しておく。
「人間というのは、自分が立ち会って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。人間の思考はもともと『世界』というような抽象でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。(ここに冒頭文が入る)そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない」
 また、この言葉が次のようにあとがきで解説されているのも、まさに当を得たものだと頷かせる。
「それは言い換えるならば、思考力を推し進めずにいられないほど激しい感情の海に投げ込まれたということだろう。おぼれないために、すぐに思考のエンジンをかける必要があった。加工を待つ余裕のないほど切羽詰ったものが彼の中に渦巻いていた」(上記書のあとがき解説/大竹昭子)

 小説家・保坂氏は、生死を彷徨う捨て猫を拾い、自分が面倒を見るくだりで上記の言葉を書いている。だが、これはその文脈を離れて現代への警句そのものになっているかのように感じた。
 間接的な知識・情報ばかりに接し、自身のしなやかな感情を久しく棚上げにしてしまい、その挙句に、本当の思考力というものを萎えさせてしまっている多くの現代人に、鋭く突き刺さる警句のようだと思えたのである。
 しばしば、現代人は情緒に欠けるとか、感情が抑制気味だとか言われたりする。その通りだと思うのだが、それが取りも直さず思考力の停滞をもたらす結果となっていることに思いを巡らせる人は少ない。それは、真に有効な思考と、そうではない「型」としての思考の区別がつかないでいるためなのであろう。
 武道には、「型」というものがあり、また多くのスポーツに「フォーム」というものがある。それらの熟達者たちは、「型」や「フォーム」の重要性を強調はするが、実戦そのものとの差異や距離は忘れていないはずだ。
 にもかかわらず、教育の現場では、思考力の「型」や「フォーム」のみの習得が叫ばれ、生きることの実戦との乖離は広がるばかりであるかのようだ。

 「感情」を蔑視し、理屈もわからず「クール」であることを心地良しとする風潮にもいささか抵抗を感じるのだが、そうした風潮の担い手たちは、ほぼ決まったように物事に、現場に「立ち会う」ことを軽視しているようだ。もっと直接的に言えば、煩わしいこと、生々しいこと、見るに耐えないことに「立ち会う」ことを拒絶する。
 つまり、現実に「立ち会う」ことを拒絶しながら、人間ならば現実に直面するなら当然のごとく生じる感情そのものを抹殺していることになる。多分、感情以前に、感覚そのものが機能低下しているはずである。さまざまな感覚や、感情の躍動がパワーとなる逞しい思考力が不全となるのは極めて当たり前の事実だというほかないのだろう。

 人間にとっての深い歓びや哀しみが洞察できるかどうかなどの高尚なことはさておいたとして、追い風を受けて世の中が明るい騒音で満ちている時代には、逞しい思考力なぞどうでも良かったかもしれない。「クール」な観察者、観客で、そこそこ人生をやり過ごすことができたであろう。ほんの、十数年前までのように。
 しかし、時代は突如として、思考力なしでは済まない環境となりつつある。言うまでもなくその思考力とは、「クール」さと表裏一体となった知識・情報の保有やそれらの操作力なんぞではない。それらだけでは事態の解決がはかばかしくゆかない「亀裂」がいたるところに現れてきたからだ。端的に言って、これだけ知識・情報の保有とその操作力を累積してきたこの国が、なぜデフレ不況を長引かせ、そのほかの社会を暗澹たる状況のままで手をこまねいているかを思い返すだけで、それらの「亀裂」を疑うことは不可能だと思われてならない。
 思考力と感情との自然な連携、豊かな感情が何よりも現実に「立ち会う」ことに根ざしている事実、そうした本来あるべき人間的な構造が、失われているというよりも、根こそぎ別な何ものかに置き換えられつつあるような予感さえするのが現代なのだろうか。
 そうした中で、冒頭の小説家保坂氏のような言葉に出会うと、まさに歓びというほかない…… (2004.02.15)


 「自分が立ち会っている現実の全体から受け止めた感情の力」によって「思考力」を推し進める、という保坂氏の姿勢に賛同する、と昨日書いた。現実に「立ち会う」ことを逃れて一観客であり続け、必然的な力である感情の作用に気づこうとしない「思考」の脆さを懸念したがゆえだった。そして、これは現代が抱えた小さからぬ特徴ではないかと。
 それが現代の特徴でもあると思えるのは、こうした「思考」スタイルを助長しないではおかない環境が蔓延しているからである。自身が直接的には関与し得ない情報によって、判断が迫られるという、いわゆる「情報(化)社会」の仕組みが念頭にあるわけだ。
 権力による「情報操作」という問題が、幾度となく衆目の目にさらされる現代であるが、言ってみれば「情報(化)社会」とは、端からそうしたことが起こり得る可能性を内在させた構造を持っていることになるのだろう。自分の人生に深く関わる判断材料としての情報群が、確かめようのない間接的な経路、言ってみれば「ブラック・ボクス」を通過して届くという、奇妙な時代だからである。
 米国の教育では、まるで外から帰ったら手を洗いうがいをするのが当然のごとく、マスメディアやインターネットなどからの情報への批判力を高めることが常識化しているようだ。悪意に満ちた「ヘイト・サイト」などが無視できないからなのであろう。そうした成果が効を奏しているのか、「ヘイト・サイト」ならぬ「ガバメント」の戦争選択(イラク侵攻開始選択)の是非についてもようやくフィードバックされているようだ。

 この国はと言えば、マスメディアが無能、無責任だからなのか、国民が能天気だからなのか、自衛隊派兵という既成事実が出来あがってしまった以降の内閣支持率はアップしていくという不可解な現象が起こっている。これでは、やがて、サマワで異変が起こってもなお、観客でいるかのような受け止め方をするのであろうという予感がする。
 なぜ? という疑問が炸裂するわけだが、それは「情報(化)社会」における情報の間接性という一般的な問題に由来しているばかりではないような気がしている。また、遠い外国の出来事だから「観客」性が強く働くというわけだけでもなさそうだ。
 結局、われわれ日本人の視野は著しく狭いのではないかという思いに落ち着いてしまうのである。戦争といえども遠い外国のことであれば、無きに等しいのかもしれない。事実には内在するはずの、抽象度の高いロジックや論理というものなど苦手で、まるで見えないのかもしれない。むしろ、狭い日常生活での直接的環境の事柄の方が目に色濃く映るのだろう。

 では、「自分が立ち会っている現実の全体から受け止めた感情の力」によって「思考力」を推し進めるスタイルそのものではないかと、見えたりもしないではない。しかし、それはどうも異なるようだ。「自分が立ち会っている現実の『全体』」という「全体」を視野に入れるのではなく、「自分が立ち会っている『限りの』現実」に拘泥していくのが、われわれ日本人の習性ではないかと見える。
 「『ウチ』の会社」とか「『ウチら』のムラ」とか、はたまた「鬼はソト、福は『ウチ』」と口にしがちな日本人には、『ウチ』という言葉で限定していく閉鎖性が抜け切れないでいるのかもしれない。「自分が立ち会っている現実」は、本来、「のぞきカラクリ」の穴のように世界の隅々までをものぞかせるパースペクティブを持っているはずだと思うのだが、『ウチ』で限定された閉鎖性が現実への視界を狭く絞ってしまっているかのようだ。その弊害が、いつまでも後を絶たないあの組織「ぐるみ」、企業「ぐるみ」の隠蔽事件なのだろう。

 ところで、日本人が関心を傾け、すべての行動基準にしがちなこの「ウチ」という観念は、どうもわれわれ日本人がしばしば口にして、かつ重要な判断基準とする「世間」という観念と同一平面にあるように思われる。いや、「ウチ」を包むかたちの同心円的な広がりで「世間」が想定されていて、そのソト側には認識と責任の範囲外のどうでもいい世界がある、と見なされているのかもしれない。「旅の恥は掻き捨て」られるのは、その場所が「ウチ」ではないだけでなく、「世間」と見なされた場所でもないと判断されているからなのに違いない。また、相変わらず散乱する粗大ゴミ投棄の問題やら、はたまた電車の中で平気で「化粧をする」女子高校生などは、当事者がその場所を「世間」とは見なしていないからだという単純な事実によって説明されるものだと思う。当事者たちは、決して「無法者、ならず者」なのではないどころか、女子高生にあっては、自身が「ウチ」や「世間」と認める仲間うちにおいてはきわめてメンバーシップを大事にする存在だったりするとのことである。問題は、「限定された視野」という点にあるのだろう。

 こんなことにこだわっているのは、現実に対して「立ち会う」ことの重要さを強調しただけに、それじゃその条件さえ満たせばそれで事足りるかが気になっていたのである。多分、机上の空論に対して「経験主義、現場主義」の重要さが指摘される一方で、それらが反面、理論的視点を欠いた偏狭な性格を持ちがちだと警戒されることと同じ問題なのではないのかと予想している。
 一方で、現実に「立ち会う」ことが希薄となる「情報(化)社会」環境が広がり、もう片方ではその反動でもあるかのごとく手堅い現実を渇望するように、限定された小さな現実へと視界を狭めていく人々がいるこの国。
 個別の現実に「立ち会い」ながらも、普遍的な何かを掴み、普遍的であるがゆえに抽象的な世界に入ろうとも、決してそのリアリティを見失うことがない個人、そんな個人を現代は求めているのではあろうが、そんな「哲学者」はこの国にあっては稀有な存在のような気がしている…… (2004.02.16)


 「行違い」に基づくミスやトラブルは日常茶飯である。日常生活の場でも、社会生活の平面でも、そしてそこそこのルールによって制御されたビジネス現場でも、「行違い」は容易に生じるものだ。
 恥ずかしいことながら、身近な社内でもそんなことが発生して若干立腹気味となり、気を引き締め直しているところだ。

 「行違い」に基づくミスの原因は、むかしから、ある当を得たイメージが引き合いに出されてきていた。バレーボールの守備での「お見合い」エラーである。特に鋭角的なシュートでもない攻撃なのに、二人の選手が何を根拠にしてか相手の選手がレシーブするに違いないと思い込み、そして、両選手の真中にボールが静かに落ちる、という場面のことである。
 ビジネスの現場でも、とかく「まさかそんなことはないはず!」との複数関係者たちの思い込みの空隙に、アクシデントというボールがあざ笑うように落ち込むことがままあるわけだ。

 なぜこんなことが発生するのかを検討してみることは結構重要であるだろう。単に、「詰が甘い」という慣用句を持ち出し、「気合い」不足だとしてみても、おそらく事態の根本的な改善に至ることは望めないのではなかろうか。
 それと言うのも、こうしたミスは、ハプニングというものではなく、組織集団の質に根差しているかもしれないからである。いや、もっと正確に言うならば、組織集団がどんな特徴、原理を持っていてもとりあえずは差し支えないのだが、問題は、その特徴、原理が生かされるような「均質性」がないことではないかと思われる。

 「モジュラー型(オープン規格)」組織のように、個々人の職務分掌が明確となり、その連携手続き(インターフェイス!)が見事に定まっているのなら、その原理が徹底されているならば当該ミスは極小化されるであろう。
 また、従来の日本の企業組織に例を見るごとき「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」組織であるならば、累積し継承されてきた「暗黙知」的な共有感覚(文化!)が、その場その場に必要な暗黙情報(想像力!)を喚起させ、柔軟な機動体勢を発揮させることとなり、これまた当該ミスなどを未然防止するはずである。

「ひょっとしてお前が調子悪いような気配だったから、余計なこととは思ったけれど、事前に手を打っておいたよ……」
「ユーザー側のあの担当者はうかつなタイプの上に、今てんてこ舞いの状況だから、思いっきり注意を喚起する形式を採っておいたよ……」

といった、臨機応変なセイフティ・ネット行動である。

 しかし、問題なのは、これらの原理が混在している場合である。公式的には「モジュラー型」組織を標榜していながら、実態は「インテグラル型」組織そのものであったり、「インテグラル型」組織の中に、「モジュラー型」組織であれかし、と望むメンバーが混入していたり、といった場合が想定されよう。こうした場合には、やたらにギクシャクとする日常が引き起こされ、そしてそれが連携ミスとしてのトラブルに結実するであろうことは議論をまたない。

 こうしたことに今関心を向けているのは、ビジネスにおける「凡ミス解消十か条」とかを書こうとしているがためではない。先日来考えている「モジュラー型(オープン規格)」と「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」というホットなテーマとの関係で、ヒトの組織集団に今起こっていることを考えたいがためなのである。
 仮設的に言うならば、コミュニケーション手段の急速なIT化などにより、ヒトの組織集団は、「カタチ」だけは「モジュラー型(オープン規格)」へと驀進しているが、内実、実態は、情感の共有がなくなったとかというセンチメンタルなレベルの話はさておき、ビジネス遂行上で不可欠な「協働」の質を著しく低下させているのではないか、という点なのである。
 もちろん、検討に値するのは、デリバリーの問題レベルなぞではない。そんなことは、高価なIT投資をしているならばとりあえず順調であって当然なのだ。簡単に言えば、あの「プロジェクトX」のような「熱い連携!」「熱い協働!」なのである。
 最近は軽薄なフレーズである「コラボレイト」などという言葉が宙を舞って、何がコラボレイトだとむかつくことしきりであるが、そんなものは「モノのデリバリー」程度の話だとしか思えない。肝心なのは、「ナレッジのシナジー効果」などがガンガン生み出される質の「協働」のはずである。これらが、うまくいかずに手がつけられていないのは、未だ「暗黙知」の正体が解明されず、また「グループウェア」とて画期的なシステムが登場していないことを見れば簡単にわかるというものである。

 こう考えてみると、ITを過大評価して、自分たちの貴重な「知恵の発生装置」を解除・解体してしまったかにも見えるこの間の経過がいかにも残念に思えたりする…… (2004.02.17)


 昨晩、帰宅して門扉を開けると、犬小屋の上から、見知らぬ猫がヒラリと飛び降りてニャオニャオと鳴きながらわたしの足元に擦り寄ってきた。珍しい客に私の気分はにわかに一変したものだった。
 抱き上げてみると、見かけぬ三毛模様のストレンジャーであった。猫というか、「子」猫というか区別のつけにくい大きさである。この地域の一角に登場したあの捨て猫たちのどれかではなさそうだった。と言っても、彼らは生まれつきの捨て猫であるために慎重なためか、容易にその姿を確認させない。だから、彼らの模様や顔つきにはなじみがないのである。
 顔をほころばせながら、その猫を抱いたまま玄関へと向かった。
「どうしたの? この猫は」
と、家内を呼んでわたしは尋ねた。
「首輪がついてるから、迷い猫だと思うんだけど……。通りの入口付近でうずくまっていたので、ちょっと声をかけたらついてきちゃったの」
 玄関の照明下で眺め直すと、なるほど、首には、ピンク色の首輪とキラキラする一センチほどの鈴がついていた。頼りないほどに軽い身体からすれば一歳前後の子供猫といったところか。
 家の中に入れるのを制するかのように家内は言うのだった。
「リンが、すごい剣幕でフゥーって脅すから、あそこに場所を作ってあげたの。レオも噛みつきそうに興奮してたから」
 変わり者の内猫(うちねこ)の飼い猫リンが、興奮して取り乱すのは頷けた。そして、このところ体調が悪く、玄関の土間で養生していたレオが見知らぬ新参者にこれまた取り乱すのもわからぬわけではなかった。
 そこで、わたしはその猫を抱いて、犬小屋の上に設えられたその猫用の寝床にそいつを戻すことにした。明らかに人にかわいがられ、馴染んだその猫は、自然に人に媚びることができるようだった。その場に降ろすのだが、すぐに足元へ飛び降りてついてくる。軒下に作ってもらった「ホカロン」入りの「猫蔵(?)」では、充たされず、人と一緒に家の中に居たいと懇願している気配が強いのである。
 しかし、迷子猫だとすれば、ここであまりなつかせてしまっても罪つくりだと心に言い聞かせ、「猫蔵(?)」の奥の方にそいつを押し込み、わたしは小走りに玄関へと向かったのだった。
 晩御飯を食べながら、わたしは考えていた。ほんとに迷子になったのだろうか? 確かに、今日は春のように気温が上がり、おまけに風もなく穏やかな一日だった。めったに表に出してもらえないその猫は、あまりのいい陽気に誘われておずおずと外出し、そして後先を考えずに歩き始めてしまったのだろうか。気がついてみると、どこがどこやら見当がつかない。途方に暮れていると、よそのおばちゃんが、「どうしたの?」なんて飼い主のような優しい声を掛けてくれた。じゃあ、ついて行くしかないなぁ、とひょこひょことついて来た。とまあそんな筋書きだったのか……
 表の徘徊に慣れた猫であれば、決して迷子になるなどということはない。一、ニキロ四方くらいの空間の模様は頭に入っているとも聞く。しかし、内猫として飼われているリンのような猫とか、「こどな(子供大人)」猫にあっては、迷子になることは大いにあり得ることなんだろうなと思えた。
 しかし、よくよく考えてみれば、見当がつけにくい環境の中で「迷子」気味になっているのは、猫だけじゃないよなぁ、と実感しながら、仕上げのお茶をグィとのみ干す自分なのであった…… (2004.02.18)


 かつて、大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞した際、記念講演をしたそのテーマは「あいまいな日本の私」であった。当時、そのテーマを今ひとつ理解に苦しんだ覚えがあったが、そのままになっていた。日本人の「ファジィー」な表現と態度といったくらいにしか受け止めていなかった。いまさら何を、というニュアンスで受け止めていたものだ。
 その「謎(?)」を、河合隼雄氏がある本で手際よく進めていたのに出会った。(大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎『日本語と日本人の心』岩波書店、2002.3.15)

 先日来、ビジネス領域での「モジュラー型(オープン規格)」と「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」との対比に関心を寄せてきた。もちろん、前者がグローバリズム時代たる現代の主流であり、後者の典型は従前の日本のスタイルだと言える。これを極論すれば、前者を欧米型アプローチとし、後者を日本型アプローチとして、その対比関係の問題として眺めることもできる。
 さまざまなジャンルにおいて、前者がまさしく現代のメジャーであることは疑う余地がないところではあるが、随伴させている問題も少なくはないと見える。かと言って、後者のアプローチが単独で復権することは先ずあり得ないと思われる。しかし、その原理が秘めた可能性はあまりにも度外視され過ぎているような気がしてならない。然るべく見直されて、採用するところはしっかりと採用していかなければ、現状の風潮は荒っぽ過ぎるのではないか、というのが自分の正直な実感なのである。

 河合氏の叙述(講演)は巧みである。
 先ず河合氏は、近代化を推進した欧米と、日本との違いは、言語に見出せるとする。そして、「腹が立つ」というような「腹」という「身体」の部分になぞらえることが多い、そんな日本語の「身体性」に着目しながら、「身体」と「心」を明確に分離する近代の欧米との差異を示唆している。そして、自身の立場を以下のように表明する。
「しかし、このごろは私自身は両方のジレンマの中にいます。西洋人のようにあれだけ明確に思考して論理的に積み上げていくのはすごいなと思う。すごいとは思うけれども、はたしてそれだけでいいのだろうか。つまり近代の欧米のなし遂げたことを、日本はいまもいっぱい輸入している、ほとんどそれの真似をしているのですが、それだけではどうもだめで、われわれ日本人が昔から持っていること、これをなんとか保持したいという気持ちもあって、すごく迷うのです」
 この「迷い」こそが、冒頭の大江氏の「あいまいな日本の私」の底意と通じていくことになるのだが、その前に、「日本的なものの深層にある仏教」というテーマに言及している。日本語はまた、仏教的発想に多くを由来しているからである。
 仏教は、個々の存在に区別された世界の日常的姿は妄想であり、それを超えた「ひとつの世界」を捉え、それを「真如(しんにょ)」としている。それは言葉では表現できないため「離言(言葉を離れた)真如」(=禅では「不立文字[ふりゅうもんじ]」)ということになる。一方、妄想として生じる諸々の姿は、言葉に頼って表されるため「依言真如」だということになる。
 言ってみれば、言語明瞭な西欧近代は「依言真如」の代表選手なのであり、片や仏教の国の日本と日本語は、「離言真如」の総本舗だとされるわけである。
 そこで、大江氏の「あいまいな日本の私」の話になるのだが、大江氏のノーベル文学賞受賞の前に、川端康成が同賞を受賞したことは周知である。そして、その受賞の際のスピーチは「美しい日本の私」とされた。決してナルシズム(?)がテーマだったのではないが、要するに「言葉による真理表現の不可能性を主張」するものであったという。「あなた方ヨーロッパの人にはわかるまい」との意が込められていたのだそうだ。
 大江氏の「あいまいな日本の私」とは、実は題からして川端康成のパロディを思わせるが、内実もその通りなのだそうである。もはや「あなた方ヨーロッパの人にはわかるまい」といった自閉(?)では済まない時代状況を、大江氏は痛感していたのだという。が、そうした状況認識にいざ立った時に、必然的に直面せざるを得ない苦境として「あいまいな日本」という事実があったということのようだ。

 ところで、ここで急いで補足した方がいいと思うことは、大江氏、河合氏の両氏が「あいまいな日本(語)」という事実をどう考えているかという点についてなのである。短兵急に想像されがちなのは、「じゃあ、日本も速やかに『言語明瞭』となればいいじゃないの!」ということなのであろうか。しかし、それでは、いつぞやの総理のように、「言語明瞭、意味不明」に終わり、日本の文化が消滅することになりはしないであろうか。
 さらに、日本の文化のみならず、近代の嫡子である欧米自体がさまざまな解き難い問題を抱え、近代超克の課題に直面している現代に、「あいまいな日本」は何ら資することができなくなってしまうのであろう。

 思うに、現代の欧米そのものが、近代の負の遺産をどう克服していくのかというテーマにより大きなリアリティがあるように感じている。それというのも、アメリカン・スタンダードのグローバリゼーションが、地球の多くの部分を過激に「欧米化」しようとしているからである。悪意をも込めて言うならば、自然を破壊するに効率化原理を導入する! というのが欧米化の実態ではないか。破壊的創造とは綺麗事に過ぎない。

 また、知的活動の分野でも、現代が喉から手が出るほどに焦がれているクリエイティビティ(創造)の、その揺りかごは、近代特有の区別主義(ex.肉体と精神、心と身体、善と悪・ならず者……)の概念装置では編むことができないのではなかろうか。
 言葉の遊び的表現をするならば、ビジネスでも関心を向けられている「暗黙知」というのは、河合氏が上記で指摘した仏教における「離言真如」と何と似ていることであろう。
 「言語明瞭、意味不明」であることを拒絶するならば、明るい創造への可能性があると同時に暗い迷い道も付いてまわりそうな気がする。それが生きることそのものであるはずだ。要は、そうではあっても、「意味不明」や「意味不在」であるよりは好ましいと思えるかどうかなのかもしれない…… (2004.02.19)


 ますます陽射しが春めき、寒さも和らぐ気候となってきた。何はなくとも、優しい季節となっていくことを想像すると、かたくなになりがちな気分が解(ほど)けるようだ。

 しかし、人間界の情勢はどうなっていくのだろうか? 経済の動向は、自然界の優しさのような推移が期待できるのだろうか?
 政府が18日発表した03年10〜12月期の国内総生産(GDP)速報によると、「物価変動の影響をのぞいた実質GDP(季節調整値)は、前期比1.7%増(年率換算で7.0%増)とバブル経済期の90年4〜6月期以来13年半ぶりの高い伸び率となった」とされ、景気回復の動向が強調されている。

 ここで、怜悧に軸足を定めておかなければならないことは、かつてと基本的な事情が大きく変化していることだと考えている。つまり、パイの大きさ、総生産性が伸び悩む時期にあっては、たとえ他の経済指標が「上向いた」とされても、その意味はじっくりと吟味されるべきだと思うのだ。変質している可能性が高いと推定されるからである。
 わたしが「パイの大きさ、総生産性の伸び」として注目したい指標は、ひとつが、物価変動の指数なのであり、デフレ傾向が解消されつつあるのかどうかという点なのである。「GDPデフレーター」とかいう指数では、相変わらずマイナス2.6%に滞っているという。要するに、需要に裏づけられた生産になっていないから価格が下がるのであり、デフレとなるのだとすれば、経済活動は拡大しようがないのではなかろうか。

 もうひとつの関心は、景気動向に大きな影響力を持つ国内一般消費者や、これまた多数を占める中小零細規模企業者たちの景況感なのである。昨日のマスメディアの報道にしても、この点での否定的ニュアンスが懸念されていたものだ。一般庶民は、政府が報じたGDPの「伸び率」を生活実感していないのである。私も実感していない。
 ある番組では、現状認識に関して共感できる視点を打ち出していた。
 これからの景気動向というのは、上層一部代表企業群の動向が、あたかも全体の動向であるかのごとく喧伝される、という表現であったかと思う。つまり、過激なリストラによってスリム化し、経営指数を向上させた優良企業群は、新たに雇用を増やすわけでも、下請けを拡充するわけでもなく、結果的に周辺へのプラスの経済波及効果を拡大しない。グローバリズム経済の中で、競争力を高めるために、ますます経営効率化を図り、その傾向を強化していくのが予想される推移だというのである。

 私は、これを聴いていて、あることを思った。
 ひとつは、プロ・スポーツ界の水準の飛躍である。未曾有の記録が次々に達成され、ファイン・プレーがますます洗練されていくスポーツ界である。見ていて心踊らされ、それはそれでいいのではあるが、一般人との関係で言うならば、一般人の「スポーツ振興」という観点がはなはだ形式的なものになりつつある、とさえ感じているのだ。あまりにも技量に格差ができてしまい、少年たちの夢を育てたり、一観客として観戦する分には熱くなれても、自分がスポーツに興じるということとはかけ離れてしまっているからである。
 いや、プロ・スポーツとは端から観戦する類のものだということなので、取り立てて言うことではないと言えばない。だが、経済における「勝ち組」トップ企業群をそんなふうに観客のごとく見つめさせられることは、どのように受け止めればいいのかと逡巡(しゅんじゅん)させられたのだった。
 もちろん、スポーツ観戦をしていて、ご贔屓のチームが勝つことは気分を晴らすことにはなっても、自分の体力が増強されると繋げるバカはいない。別物だと誰でも了解している。しかし、これまでの経済環境では、トップ企業群の景気がよくなれば、周辺企業がプラスの恩恵を受け、そして社会全体の景気がプラス方向へ牽引された。そう実感してきたものが大半であったと思う。だから、「一刻も早い景気回復が欲しいですなあ」と中小企業のオッチャンたちは言うことになっていたはずなのである。

 ところが、ここがどうも変質してきているように思われるのだ。景気のジャンルの動向が、国民全体に関係していくのではなく、プロ・プレイヤーたる「勝ち組優良企業」のプライベート範疇の出来事に収斂(しゅうれん)していくような印象が深まるのである。
 まあ、超競争の時代であるのだから、それはそれでいいとしよう。であるならば、国は、国民から税金を徴収して国全体の政治を行っているのだから、文字通り全体経済の発展という課題にもっと真摯に取り組むべきであろう。何兆円もの公的資金を導入した銀行(旧日本長期信用銀行=新生銀行)の再建処理過程で、その回収を不能にして、外資企業(米リップルウッド)に一千億円以上のハイリターンを与えるようなバカなことをしていてはいけない。
 国は、一流プレーヤー(勝ち組優良企業)のマネージャー役をやるのではなく、やはり一般国民の「スポーツ振興」推進役を果たすべきじゃないのか。そう言うと、「公共投資」云々という、これまたバカな政治家や役人が出てきそうだが、要は、いいプレーヤーが育つ土壌改善に意を凝らせ! ということなのである…… (2004.02.20)


 事務所のあるJR矢部駅から町田へ向かうべく、ホームで電車を待っていた。駅の北側に向かって立つわたしの視界には、鉄塔のように聳え立つ複数本のクレーンがワイヤーを操っている。「駅から一分」という触れ込みの大型マンションの建設中であった。
 家内が、ちょっと前に、歳をとって暮らす住いは駅から近いに越したことはないのよね、と言っていたのがこのマンションのことだったんだな、などとぼんやり考えて見つめていた。
 確かに、身体が不自由になるのが避けられないのであれば、公共交通が難なく利用できる住いは安心感この上ないと言えよう。クルマの活用も考慮できるが、クルマとてやっかいと感じる身体状況の場合も想像できない話ではなかろう。
 つい先日電話で話した高齢となった方のことを思い出したりもした。しばしば、一人で海外旅行にも出かけていた元気な方であったが、昨年来、予期しなかった腰痛に悩まされ始めるようになったと弱音を吐く気配がうかがえたのだ。
 慢性腰痛の痛さや煩わしさは想像できないが、仮に、経験したことがあるギックリ腰の痛みにたとえたとするなら、そんなものが四六時中襲ってくる生活は、気丈夫な人をしても気弱にさせるに違いあるまい。そうだとすれば、「駅から一分」の住いは頼もしい限りなのかなあ…… などと、取り留めのない気分となっていた。

 とその時、しばしば飛来する米軍のジェット機ならぬ、ノラ鳩が一羽ホームに飛来した。かわいそうだけどエサなんか何も落ちてないよ、とつぶやくように見るとはなく見ていると、なんとびっこを引いて歩いていたのだ。障害者向けに設えられた凹凸のある黄色の敷石を、カタンカタンと揺らぐように歩いていた。良く見れば、右足の中指がもげて無くなっている。あれあれかわいそうに、と思わずそう感じた。それでは電線に留まる時にも不安定なんだろうね、と次に思い巡らせたりもした。
 やがて、その鳩はわたしの視野からはずれて反対側の方へと歩いて行ってしまった。と思いきや、後方からバサバサと飛んで現れ、わたしが立つすぐ左手にある水飲み場の上に着地したのである。噴水のように水を出す水道の口の脇に降りていたのだ。
 が、もちろんその口は噴水ではないのだから、しっかりと閉まり一滴の水も噴出してはいない。水道の口の前に陣取ったその鳩は、その口をじっと見ている。そして、わたしの顔も見ているようだった。
「何だ? 水が飲みたいのか? じゃあ、開けてやろう」
 わたしは、そんなことを言いながら、わずか一センチくらいの高さに水がせり上がるように取っ手を調節してやった。中指がもぎれたその足が接している水飲み場の底に溜まるその水でも飲むのだろうと高を括っていた。
 するとどうだ、その鳩は、人間がせり上がった水に口を近づけて飲むように、わずかにせり上がった水のかたまりにくちばしを突っ込んで、ゴクゴク、ではなかったクチュ、クチュといた感じで、実にうまそうに飲み始めたのである。
 わたしは、その芸当を特等席で眺めることになった。その巧みさと、またうまそうに飲むその恰好を見ていたら、目から熱いものが滲むほどにおかしくなってしまった。ホームにいる見知らぬ人々を呼んで見せてやりたいとも思ったほどだ。
 しかし、わたしの小賢しい頭をよぎったのは、あの「鳥インフルエンザ」騒動である。野生の鳩とて、そのインフルエンザ・ウイルスのキャリアーだと懸念する人も中にはいるかもしれない。そんな鳩に、人間が口を近づける水道口にそのくちばしを触れさせるのはけしからん、と言う者もいないとは限らないと……
 でも、その姿のおかしさが、ただ見ているだけではもったいないほどだと思えたわたしに、ポケット・デジタル・カメラを持参していることを思い起こさせたのだった。幸い、鳩は、よほど喉が渇いていたのか、まるで腰を据えたかのようにいつまでも飲んでいた。 そこで、もうちょっとそうしているんだよ、と言いながら、わたしはカメラを準備してその光景をまずまずのアングルで撮ることができたのだった。(※ この写真を見たい方は、「台場小同窓」サイトに入り、左上の「校章」アイコンをクリック!)

 足の指がもげていても、しっかりと生きているノラ鳩、おまけに人間さまに水道の水の開閉操作までさせるその逞しさ!
 やがて、喉を十分に潤し満足したノラ鳩は、晴れた空へと飛び去って行った。その方向には、またあの聳え立つクレーンが見えた。つい先ほどまでは意味ありげな作業をしているように見えていたそれらが、何だか金儲けのための小賢しい動きをしているかのごとく感じられたから、不思議であった…… (2004.02.21)


 春めいた天候になってくると、やはり、カメラ愛好の心がうずいてくる。以前から気になってしかたがなかった手ブレ補正機能付きのデジカメを、あと先省みず入手したこともあり、試写のつもりでぶらぶらと近所の散歩に出かけてみた。
 先日も書いたが、本来アナログカメラが気に入ってはいるのだが、如何せんフィルム・カメラは、撮ることと結果を見ることとがシンクロではないため、今ひとつ気持ちの「のり」が悪いのだ。つまり、意をこめて撮ることとその画像を確認するという連続すべきことが、現像時間によって中断されるのが何とも耐えられなくなってしまったのである。クイック・レスポンスが日常的感覚となった現代に慣れてしまうと、どうしてもデジカメ&PCの組に目を向けてしまうことになるのだ。

 とは言っても、これまでデジカメにはいろいろな不満を持っていた。そのひとつは、言うまでもなく「画質」である。アナログカメラでもフィルムの粒子を気にして、ISO感度の高いフィルムは絞りが稼げていいにはいいが、その粒子の粗さが気になったりしていた。ところが、昨今のデジカメの「画質」はどんどん上がってきた。ちなみに、今回入手したものは400万画素を発揮する。17インチ液晶ディスプレイでも最大画面が映し出せない2304×1728画素で描写する。A4サイズくらいの大きさでプリントする際にはこうした画素数が頼もしい限りなのである。
 デジカメへの不満の第二は、「望遠」機能の制限であった。スナップ・ショットではそんなものは必要ないといえば必要ないが、野鳥の姿を撮ろうとした時など実に悔しい思いをしてきた。望遠倍率のない、どちらかといえば「広角」よりのレンズが組み込まれたデジカメで撮った距離のある野鳥の姿なぞは、あとでどこに居たのか探すのに苦労してしまう。いくら、PC上で拡大が効くとしてもそれは画質の粗さと引き換えになってしまう。
 また、「望遠」機能があったとしても、小さなレンズで絞りが小さい場合には、無理をして望遠対象に挑むと、シャッター速度が遅くなるため、いわゆる「手ブレ」という写真を台無しにする現象が起こってしまう。アングルも良し、明るさもまずまずという気にいった対象の画像が、何重にもブレているのを知った時の情けなさはたとえようがないものだ。

 この二大不満を解消していると謳われていたデジカメであったから、好奇心を刺激されてならなかったのである。
 そして、今日始めて使ってみて、先ず、「おおー、そうかそうか」と感心してしまったのが、シャッター音であった。通常のデジカメのシャッター音は電子音特有のへらへらした音で、もうちょっとなんとかならないものかと思ったこともあったし、機嫌の悪い時には、品悪く「ナメンナヨー」と思ったこともあった。
 ところが、今回のデジカメのシャッター音は、当然電子音ではあるのだが、アナログ・カメラのシャッター音の「ヴァシャッー」という音を見事に模擬しているのだ。その、くすんだメカニカルな響きが心地よいのである。通常のデジカメの電子シャッター音が、若い女の子の黄色い声援とたとえるなら、この音は、指南役のプロカメラマン、さしずめ「土門拳」氏あたりが、「まあ、イイデショー」とささやいてくれているようなニュアンスだと言えようか。撮ることに張り合いが生まれるのだ。

 「望遠」機能の試写をしたいと考えて今日は出かけたのだが、一応三脚ならぬ、ハンディな一脚を念のため持って出た。いくら「手ブレ」防止機能があるとは言っても暗い対象を撮る際には必要となるかもしれないと思ったからである。
 春めいた風景や、川の付近にいる野鳥たちを試し撮りして、帰宅後、何はさておきすぐにPC上で確認する作業に入った。それがねらいといえばねらいであったのだ。
 大きな明るいレンズが使用されているため、やや暗い光景も問題ない明るさで写っていたのでほっとした。何よりも、全体のシャープさには「なるほど」と感じさせられたものだった。「望遠」機能を使った場合の光景もずまずの出来であった。
 ただ、まだ使用法に慣れていないためだろうと思ったが、動く野鳥などを「超望遠」機能で撮ったものはいずれも今ひとつの結果に終わっていた。まあ操作に慣れてゆけばやがて思い通りのものが撮れるようになるだろうと楽観はできた。

 さまざまな社会事象では同意できないことが多く、確実にストレスが溜まることばかりなのではあるが、こうして、かつては望むことができなかった技術の進展とコスト安の恩恵を与えるのも、また現代なのだ、とそんなことを噛みしめたりした…… (2004.02.22)


 西方に、丹沢の峰々がくっきりと見える日は大気が澄んでいる証拠だ。
 昨夜は夜になって降り始めた雨が深夜まで降り続けた。おまけに、春一番のような風も吹き、雨が横殴りとなって雨戸を叩いていた。そんな天候が、大気のチリを拭い去り、もやもやとした水蒸気をも払拭したのであろう。
 まるで水晶のように空気が澄み、明るい春の陽射しに照らされた地上の光景が、実にシャープで美しい。丹沢の峰々も、青紫色の明瞭な山影を見せている。何はさておき、このような風景は無条件に満喫すべきなのだと思えた。これが昨日であれば、一日中デジカメをぶら下げて歩き回るところであっただろう。
 とは、言うもののみすみすそんな光景を見捨てるわけにもいかないので、通勤途中でのショットと、事務所についてからのビルの屋上からのショットを、手持ちの別なデジカメで試みたりしたものだ。

 とにかく透明感のある光景が見渡すかぎり広がることは、光景として素晴らしいことは言うまでもなかろう。加えて、それは精神衛生上においても好ましいはずなのである。あまりにも、理解に苦しむ不条理な事柄や不透明な事象で、社会と時代が満ち溢れているからだ。物事はもっと単純明快であるべきところを、策を弄し、屁理屈をつけて煙幕を張る人間が多過ぎるのだ。
 生物の進化とは、その機能が複雑多岐に分化していくことだと言われている。確かに、感情の分化にしても、繊細な感情とは、まるで大木の枝の、そのまた枝の、そのまた枝の枝先の若葉が揺らぐ場面のような類の細やかさが、進化した人間の感情なのだと思われる。ただし、それは大木全体がみずみずしく活性化していて、その証しであるかのように末端の枝葉が生き生きとしていてこその話であろう。若葉は若葉でも、大木は枯れてしまい、ひこばえとしての若葉であったならさびしい。

 不透明感を拭い切れない現代の複雑さというものは、何とかならないものかと思ってしまう。木を見て森を見ず、どころか、枝葉を見て森を見ずというアンバランスな積み重ねで増殖を許しているからであろうか。官僚機構や役所の仕事を見ているとつくづくそう思うし、人間界の出来事は、自然界の素直さに較べて、小賢しい作為が加わって事が運ばれるだけに、複雑さは尋常ではなくなってくるのであろう。
 そもそも、行財政機構の「構造改革」とは、そうしたムダで固められた作為的ジャングルをリーズナブルに整理することではなかったのか。民間企業は、放っておいてもラディカルな市場原理、競争原理が働くために、旧い構造は改変されていく。しかし、行財政の官僚機構は、選挙のようなチェック&バランスがないためと、ひときわ保身術のたけた輩たちが外部からの制御を阻むため、大なたが振り下ろされない限り、「聖域」同然となるのだ。
 一般国民への逆風は強まり、その苦境が透明感ある空気を通して明瞭となってくるのに対して、一体、官僚機構とそのパラサイトである外郭組織はどの程度「構造改革」されたのであろうか。また、昨今不思議に思うのは、以前ほどにマス・メディアもこうした「ブラック・ボックス」をまじめに暴かなくなった感触のあることである。
 最新の話題でも、北海道警察の裏金づくりというとんでもない官僚機構ならではの不祥事の一角が露見しつつある。しかし、その解明の進展は、なんとも歯がゆい限りだ。こんな馬鹿げた不正が行われるのは、組織機構上に問題が潜伏しているからなのだと誰にでもわかる。こうしたことに甘い風潮こそが、行財政機構の「構造改革」が一向に機運となっていないことを物語っている、と言えるのではないのか。

 今日は、「不透明で風通しの悪い」時代に関心を寄せているわけなのだが、そして、その代表的よどみが官僚機構だとにらんでいるわけだ。しかし、もとより官僚機構には「自浄能力」はない。そして、無能・無責任な政治家たちは多くが官僚機構を指導する力なぞ持っていないどころか、それなしでは済まないありさまだ。そのために、屋上屋(おくじょうおく)のかたちで「不透明さ」の煙幕を張っている。それを、マス・メディアは見て見ぬ振りをしているはずである。
 結局、われわれは十メートル先の見通しも効かないような霧の中に放り出され、ただただ不鮮明な将来に嘆いているという環境に置かれている。変化の時代だから将来が不鮮明だということばかりではないことに気づきたいと思ったのである…… (2004.02.23)


 マスメディアやネットというチャンネルでの間接情報にばかり接していると、生身の人間の生(なま)情報というものがことさら貴重に思えるものだ。まして、その人が勘が悪くない人であったりすると、興味深い生情報がいろいろと聞き出せるのでありがたい。昨日、今日と立て続けにそんな機会があったのだ。

 昨日は、かねてからジョブでの協力関係を持ってきた技術屋さんが、久しぶりに来社した。
 ハードウェアよりのソフト開発に携わってきた四十代のひとり社長の技術者である。技術分野の動向での話題も当然持ってはいるのだが、会社形式で活動し続けてきたこともあり、彼が生き抜くために関与せざるをえない経営がらみの話題などが、自身の問題として、あるいは周辺の問題として伝わってくるのが興味深いといえば興味深いのである。
 同じ年代の技術者と話をすることも少なくないが、もちろん人によって出てくる話題は千差万別である。日頃悪戦苦闘している純・技術エリアの苦労話に終始する人が多い。環境の話といえば対応している極めて狭い人間関係での愚痴になる人もまた多い。そんな中で、小さくとも経営体を担っている技術者だと、ようやく環境に関する幅と厚みのあるそこそこ手堅い確度の話題が登場することになる。
 彼の場合は、そうした話題が聞き出せるので、話が興に乗ることにもなる。

 興味深い話のひとつは、「仕事の発生の仕方」についてであった。
 IT(ソフトウェア)ベンダーが、ジワジワと苦境に追い込まれつつあることは、共にわかっていた。現に、彼は、国内の不況環境に見切りをつけて、東南アジアの現地邦人企業に目星をつけた活動をしていたのだった。が、それも芳しくない結果となり、現在は国内のある中堅企業の現場に常駐して、今後の仕事の契約推進に向けた地ならしをしているとのことであった。それもまた、「仕事の発生の仕方」の定石のひとつだと言えよう。何といっても、仕事とは、処理能力を含めたヒューマンな信頼関係に尽きるからだ。
 昨今は、インターネットでのチャンス獲得への過剰な期待が高まっていたりする。「SOHO」の形式で、自営独立志向の者たちはとかく、そうした観念的な期待を抱き易い。どこで買っても同じ商品の単発買いであれば、見ず知らずのサイトで安いモノを買うことも十分あり得るだろう。だから、画一商品を扱うショップ・サイトの路線であればまだしも、中身の見えないサービスを商売にするならば、インターネットのサイトはあくまで第二義的な位置づけの活用しかできないはずである。どうしても、直(じか)に顧客と接触する場を作り、その場での等身大的な信頼関係を築く方法以外に手はないのである。インターネット時代とはいっても、この点に変わりはないのだ。

 彼が東南アジアに目を向けたいきさつをかつて聞いたことがあったが、これもまた仕事の発生の仕方に注目した内容であった。つまり、企業の設備投資に絡む話であり、不況時には、新規製造ラインに投資するリスクを避け、従来の既存ラインを部分的に更新して安価な投資で賄おうとする動きが予想される、というのであったと覚えている。
 確かに、われわれのテリトリーである半導体製造領域でも、最新の製造装置導入とは別に、いわゆる中古の装置を導入する動向がかつてないほどに活況を帯びていると聞いている。
 しかし、彼の失敗談はというと、装置によっては、既存装置を部分的にアップグレードするコストと、新規装置によるコンバート(入れ替え)のコストが微妙な関係になることもあり、中にはコンバートの方が、機能も増強された上に低コストとなる場合もあったりする。そうした場合には、もちろん最新装置の導入が選択肢とされてしまうのである。彼の目論見は、この辺の文脈で奏効しなかったと言っていた。
 最新装置を売り出すメーカも、「買い替え」需要がねらえるためには、既存装置の改修コストも視野にいれた戦略を練っているはずであり、また昨今は、本体を売り切ることもさることながら、シェア獲得によるその後のランニング・コスト稼ぎというテーマも重視されている。たとえ、値引いても商談成立に持ち込みたいはずなのである。

 そのほかに、もろもろのビジネス文脈の話に花を咲かせたが、まさに「仕事の発生の仕方」という「業者間のうら話」という種類の話であったかもしれない。むかしは、どちらかと言えばそんな泥臭い話にあまり関心はなかった。要はいい商品、いいサービスを提供することであり、そのために一心不乱となることが決め手だと信じていた時期もあった。
 しかし、仕事とは、「広い視野での総合競技」であるに違いない。フィールド全体に展開している無数の要素を的確に把握していかなければ、ウイニング・シュートはおぼつかない類のものであろう。そんなことは当然と言えば当然の話であるのに、過剰期待を寄せられた単なる「ITツールとその環境」に、まるで引き回されているかのような現実もまたあるわけだ。専門知識だけでなんとかなると信じる動きは従来からあった。
 私が願うのは、多くの企業がそんな現実から覚醒することではないかもしれない。幻想を追う企業は、どこまでも追い続けていてくれていた方がいい。その間隙を縫い、われわれがチャンスをものにしていく。実のところ、それがホンネであるような気がしている…… (2004.02.24)


 昼食に出た足で、事務所の近辺にある家電量販店をのぞくことが習慣になりつつある。たまにサプライ品を買うこともあるが、あくまでも気晴らし散歩の意味合いでぶらつくのである。
 先日、店内の一角に、「380円」と記された大きな値札が乗せられたカゴがおいてあり、はんぱもののバーゲンのつもりであろうか「縫いぐるみ」の子犬であるとかその他が放り込まれてあった。もとより、気晴らし、時間つぶしの立場なので、座り込んでカゴの中のものを引っくり返して眺めたりした。すると、デジカメのプリント用紙の束がニ、三個見つかった。「380円」なら安い、と思えた。そこで、それだけ買うのは心苦しい気がしたので、メモリー読み取り機を1980円で買うことにしてレジへと向かった。
 と、担当者が、380円のところを、バーコードから780円と読み込んだのである。
「あれっ、それは380円というカゴから持ってきたんだよ」
と私は言った。すると、
「えっ、そうですか? ちょっと調べて来ます」
と言い、その場を離れて店の奥へと消えて行った。で、そのあと5分、10分と待たされ、戻って来た時にこう言ったのだった。
「誠に申し訳ございません。手違いで、380円のカゴに紛れ込んでいたもので、780円でございました」
 私は唖然としたものだった。そして、気分を害したため吐き捨てたものだ。
「じゃ、いらない」と。
 あきれたものだと思ったのだ。もし、レジのカウントをチェックしていなかったなら、発覚しなかったことだろうし、いくら「手違い」とは言っても、この種の手違いは店員たちの杜撰(ずさん)な勤務姿勢を裏書きするようなものだと感じ取れたからだ。

 昨今、量販店では、ポイント・カード制もあってか、レジ業務や商品管理がITシステム化されることが一般的となった。ところが、その処理を進める店員たちの作業がどうもぎこちない。顧客の前で、レジ操作に迷ったり、打ち間違えたりといった按配なのである。加えて、見ているとヘンな話であるが、その操作に慣れた若い店員が比較的大きな顔をして、販売経験が長いと思われる年配店員がおどおどしていたりするのに気づく。
 つまり、「IT化」されたことによって、店内組織の「秩序感」に変動が生じているようなのだ。そんなことはオフィスでも見受けられたことであろう。PC操作の不得手な管理職が、それを難なくこなす若い女子社員に媚びるような風潮である。
 私はこうした風潮をはびこらせている職場はろくなものではないと思い続けてきたものだ。PCなどに要領を得ないままで勤務し続ける管理職もどうかと思うのだが、それに加えて気掛かりなのは、PC操作などに慣れた者を必要以上に「崇める」ような「秩序感」のバカバカしさなのである。仕事というもの、さらに言えば経営というものを一体どう考えているのか、ということになるからだ。

 こんな風潮の中で、「売価」という、店と顧客が緊張感を以って切り結ぶ最も大事な結節点において杜撰なミスを曝け出すという凡ミスが生まれるのではなかろうか。
 業務のIT化も結構ではあるが、客商売の原点は、店員教育だという初歩的テーマが胡散霧消していては話にならない。「どの他店よりも安く!」のスローガンも結構だが、それは接客対応の質と引き換えに進めては、客離れが始まりはしないかという危惧の念を抱いてしまう。しかも、接客対応の質とは、遂行業務の確実性と直結しているはずなのだから、凡ミスの発生頻度ともつながり、実経営にも影響を及ぼすはずだと推測される。

 業務のIT化環境に振り回されているような愚は回避すべきだと痛切に思うのである。ホーム・オートメーションは、煩雑な家事労働を確かに緩和した。しかし、そのことが家庭内の人間関係をより充実させたり、より質の高い家庭生活を実現したか? という耳の痛い問題を思い起こさざるを得ない。
 業務環境のIT化は万能でなぞありはしないのである。ひょっとしたら失われるものもバカにならないのかもしれない。効率化された時間がより高い次元の課題へと挑戦することに直結するとも言い難い。今こそ、IT化のコスト・パフォーマンスを凝視すべき時なのではないかと……
 いや、すでに堅実なユーザ・サイドではこの動きが始まっていそうである。だからこそ、IT(ソフトウェア)ベンダーは、自身の生業のあり方を抜本的に見直さなければならなくなっているに違いない…… (2004.02.25)


 栄養素やビタミンについての欠乏状態などは、それなりに気配りされるものだ。もっとも、よほど偏食しない限り通常の食生活でそこそこ補われるようでもある。
 これらに対して、精神衛生面ではどうなのであろうか。かねてより関心を向けざるをえなくなってきているのがこの領域であった。健全な精神状態にとって、必要なもの、一日にあって「摂取」すべきものとその量、避けなければならない種類のものとその強度、などがもっとまことしやかに語られてもいいように思うのだ。

 たとえば、こんなことが学校の「保健体育」の授業でも指導されていいように思う。
 一日に一回が難しいとしても、感涙がほとばしるような「感動」は、週一が最低「摂取」量となります。できれば、週にニ、三回の「摂取」があれば、精神面における損傷は生じません。もちろん、精神面における損傷は決してバカにできないものであり、時間的な個人差はあるものの、ほぼ確実にフィジカル面(身体)に実害を与えることになります。 この逆のケースも、重要であり、恐怖心が呼び覚まされる情報「摂取」(メディアを通じた恐怖、ホラー映画など。残酷事件の報道も該当する)は、その頻度が問題となります。月に一度程度の恐怖体験(恐怖情報「摂取」)であれば、適度に精神の柔軟体操効果も得られるでしょうが、過度の「摂取」は、「感動」の「摂取」を相殺するだけでなく、無自覚なかたちで精神にダメージを与え、フィジカル面での機能障害を誘発することになります…… と。

 最近、私は、以前にも記したとおり、「免疫力」と心の状態(ストレスの存在!)との関係に注意が喚起されている。もとより、クスリなどを初めとしたモノレベルの因果連関ばかりが陽の目を見るかたちで重視され、それらしか存在しないかのような偏った常識も気になってはきたものだ。はっきり言ってしまえば、医療ビジネスの問題である。病気が、精神面をてこにした自然治癒力で治る可能性が高いと認めるならば、オペや薬剤投与でこそ立場を維持してきた特権医療ジャンルが立つ瀬がなくなるとかいう類の問題である。近代医学(近代科学)は、中世の「魔術」からの離脱だと言われるが、反対の極へのその揺れは極端過ぎたのかもしれない。中世の<精神的>「魔術」は止揚されたというよりも、<モノ世界的>「魔術」へと反転してしまったような気もするのである。
 ところで、こうしたジャンルに関心が向かった動機は、ひとつが、従来の通念からは逸脱しているとしか言いようがないエクセントリックな最近の犯罪発生であり、また、もはや社会現象とさえなってきた観がある「鬱病」などの現代人の精神的障害蔓延の現象がもうひとつだとも言える。
 要するに、「有って無いがごとき」の扱いをしてきた精神的次元の諸々が、今、無視できない反乱を起し初めているように感じるのである。
 そうした社会現象に対して、モノに偏りすぎた世界から「心」の世界へ、という表現をする人々も出てきたことは出てきたのだが、当たらずとも遠からずだと思うが、ちょっとピントがズレているような気がしないでもない。「心」という表現をする方たちは、ややもすれば「モノ」と「心」の対比を強調し過ぎる嫌いがありそうだし、その上で「心」の圧倒的優位性を主張しがちな傾向を感じてしまう。多分、「心」の由来が宗教的なものにあるからではないかとも思っている。
 人間という存在にあっては、<モノ>的側面と<精神>的側面とが、渾然一体となっていると、とりあえず考えるのが妥当なのではないかと見ている。両者を対比させるのも、またどちらかにどちらかを還元してしまうのも妥当性を欠くように思われる。

 今日、こんなことを書き出した理由はふたつあった。ひとつは、自身のものの考え方、感じ方に関する性癖をどうにかしたいと思ったこと。世に言う「ポジティブ思考」にもうちょっと傾斜してもいいだろうと感じているのである。どうしようもないご時世を、「ネガティブ思考」で突き回しても何も出てこないぞ、という声も胸の内から聞こえてくるのである。人間の内的世界の「ポジティブ」なものをもっと注意深く探りたいと思えたのである。
 そして、もうひとつの理由は、明日の出来事にある。あの「オウム事件」で主犯者に判決が出されるのだ。この事件は未だに「解明されていない」と言うべきであろう。だが、いつの時代の奇異な事件も、決して特異な個人の力だけで引き起こされたわけではなく、「時代が秘めた盲点」に乗じるかたちでのみ、個人的引き金が引かれるのだろうと、私は思っている。
 そして、その「時代が秘めた盲点」というのが、結果的には<モノ>がすべてと見なしてはばからなかった現代風潮、<精神>的な存在を「有って無いがごとき」の扱いに終始してきたその風潮ではなかったかと感じている。既存の宗教界ですら、日本人たちのエアポケットとなった空隙をきちっと埋めることができなかったのだ。まして、「高学歴」で知的感覚をそこそこ持つ若者たちの<精神>の空隙は、そもそもが危険なほどに「無防備!」となっていたのであろう。免疫力無きレセプターが、あんぐりと口を開けていたに違いない。そこへ、凶暴なウイルスである主犯者が横滑りして来たとでも言うべきなのだ。
 正直に言って、明日判決が下される事件は、結局、この国に何の教訓も残さなかったような気がする。たぶん、社会的次元では最も気づきにくい人間の<精神>の空隙という問題が、きちんとテーブルに乗せられるようになるまでは、何度でもこの種の事件は繰り返されるような気がしている…… (2004.02.26)


 最近、書店の店頭で目につくのは、相変わらずの『バカの壁』の平積みと、超若手芥川賞受賞作品、そして、「免疫力」云々に代表される癌や難病に関するもの、「年金」関係解説書。と、もうひとつが、「独立」、「起業」などの「指南書」ということになろうか。
 改めてこう振り返ってみると、出版業界は社会現象と結構歩調を合わせているものだと感心したりする。もう一歩踏み込んで考えれば、それが可能となるような「ジャーナリスティック」な出版、「時代ニーズ迎合」的な出版に徹し始めたということでもあるのだろう。じっくり読ませるというよりも、時代が人々に撒き散らかす不安に、ちょっとした「応急手当」を施すような類の本を企画していると見える。だから、新書版形式であったり、雑誌形式であったり、とにかく「工期短縮」が図れる装丁の本ともなるのだろう。

 出版関係の動向はともかく、人々の思惑が、来るべき不安というか、すでに訪れている不安というか、そうしたものへの自衛策の模索に向いていることがいやというほどよくわかる。どうにも見当がつけづらくなった時代の相貌に対する不安、予告されて迫り来る(経済的)津波に対する不安、そして常態化するあせり、そうしたものが人々の心に何か手掛かりを見出したいという欲求を生み、そしてその反映としてどこの書店にも同じような傾向の書籍を並ばせるという現象につながっているのであろう。

 どの傾向も、興味の対象とならないものはない。中でも、「独立自営」とか「起業」(中には「週末起業」といったリアルな実情を思わせるものもある)とかが、とりわけ強い関心を引く。なぜなら、サラリーマンでなくとも、経営者であってもこの時代変化の無軌道ぶりには参っているからであり、将来への不安が掻き立てられ、何か将来への布石の一端でも見出さなければ、と内心苦慮させられているからである。
 この日誌にも書いてきたが、もう何年も前から、「ニュービジネス」への関心は深めてきた。にもかかわらず、これといった具体化を見ないのが情けないといえば情けない。今ひとつ、切迫感に欠けていたということであったのかもしれない。
 弊社はITベンダーとして、何とか継続できる状況ではある。まして、久々に巡ってきた弊社のドメインたる半導体製造領域は、現在ものすごい活況を帯びている。この間の受注は何年来かのラッシュとなっている。だから、何も新事業などに目を向ける必要もなさそうなものでもある……。
 しかし、もう十数年以上手掛けてきた仕事であり、仕事環境を熟知する者から見れば一言で言ってこれが何年も継続する安定性を持っていないことは十分予想できるのである。これまでも、この領域の小刻みな景気変動に対処するためのリスク分散が、以外と大きな課題であったのだ。そんなものがあるのかは定かではないが、新事業を手堅く企画しなければならないのは絵空事の話ではないというわけだ。

 それにしても、経済界はまさに変化変動が常態と化し、おまけに長期的展望を易々とは描かせないありさまである。先日も引用したダーウィンの言葉、<「最も強い者が生き残る訳ではない。最も賢い者が生き残る訳でもない。唯一変化できる者が生き残る!」>が限りなく説得性を持つ時代なのである。
 産業構造がドラスティックに変動し、それは「産業革命」という言葉に十分匹敵する内実なのだろうと考える。であれば、むしろ従来型の事業が維持されていることの方が不思議だと考えるべきなのであり、当然時代に適合した事業対象なり、スタイルなりに変貌を遂げていって当然なのだろう。
 不幸にも既存経営体から放逐された者にとっては当然差し迫った課題のはずであろうが、既存経営体を維持している立場にあっても、「起業」という視点は必須になりつつあると見ているのである。「企業内起業」という言葉がかねてから囁かれていたが、まさしく「起業」というアクションを取り入れることなくして、生き残るに足る「変化できる者」にはなり得ないということであろう…… (2004.02.27)


 消費の世界ほど、プライベートでかつホンネがまかり通る世界はないのだと思う。いろいろと不自由なことも多い現代ではある。しかし、最も自由だと受けとめられている分野が消費の場だと見なされていることは間違いないだろう。ただし、最も不自由だと自覚させられるのが、その消費活動を制約して止まない元手のさびしさであることと表裏一体となってのことではあるが。

 ウチの飼い猫は、ちょっと怒られたりしてストレスを受けると、すぐにキッチンの一角に設えられた餌場へ向かい、キャッツ・フードの皿に顔を埋め、黙々と食べる。どうも、パプロフの「猫・条件反射」とでも言いたくなる行動である。
 しかし、われわれとて、ストレスで立ち枯れしそうな自分自身を、何によって救済しているかといえば、結構、ショッピングであったりするのではなかろうか。額の大小とは限らない。誰にも首を突っ込まさせず、自分の気の向くまま、まさに自由感に漂いながらショッピングすること、これがストレス解消にそこそこ役立つことを身をもって知っているはずである。職場やいろいろな人間関係にあっては、何かと不自由ではあるが、何を買うのか、あるいは買わないのかという点においては、「べき論」をかなぐり捨ててホンネ自由主義を謳歌していると見ていいのだろう。対価さえ支払うならば、どれを選ぼうが自由というのがこのご時世だと思われる。

 つまり、消費活動こそは、人の意識のタテマエ部分の影響が限りなく薄く、ホンネが曝け出されるところの行為だということなのである。いまさらそんなことは再確認する必要もないかのようであるが、ニュー・ビジネスや、「起業」ということをリアルに考える場合、この点の認識が結構重要であると思えるのだ。
 人は決してホンネをすべて曝け出して生活しているわけではないだろう。体裁や見栄でホンネを隠した行動をしがちなのが人間であるのかもしれない。しかし、いざ出費と引き換えである消費ということになると、俄然、その動機はホンネに擦り寄るかのように思われる。
 ただ、ホンネという場合、何か特別に欲しいモノやサービスといったことが基準となっているとは限らない。いやむしろ、そうしたことが明確となっている人の方が少ないとさえ言えるのかもしれない。つまり、下世話に言えば、あらゆるモノやサービスがとりあえず自由となる、モノの中の「王」とさえ見える「貨幣」、「カネ」への欲求が、ホンネと渾然一体となっているのが実情なのかもしれない。「カネ」を使うのは、は「カネ」が「カネ」を生む時だけだ、というのが「金持ち父さん」であるらしい。「らしい」などと言うより、これだけ株への個人投資家が多くなり、財テクが取り沙汰されている世の中を見ていれば頷ける話である。

 何が言いたいかといって、要するにそんな世の中で、他人にモノやサービスの対価を支払ってもらい、商売をするということは尋常なことではない、ということなのである。あらゆる「甘さ」から離脱することが要求されているのだと思える。
 「甘さ」にはいろいろ考えられるが、先ず、タテマエに寄りすがりがちなタイプは、これを払拭しない限り何ともならないはずだ。昔、いや今でもそうなのかもしれないが、クルマや保険のセールスの人材が、素人でも採用されたりするのは、誰でも親戚や知人・友人といった縁故を持っているからだと言われる。こうした縁故は雇い主から言わせれば、言うならば取引以前の人間関係なり、社会関係がホンネを出しにくくさせ、商談成立の可能性を大きくさせると見られている。こうした関係者のタテマエ姿勢に寄りすがるセールス員は、すぐに「持ち札」がなくなり、雇い主の思惑どおり、その時点で使い捨てとされてしまう。

 タテマエに寄りすがりがちとは、こうしたみえみえの例ばかりではない。意外と多いケースというのが、さまざまな「常識」を額面どおり「常識」として信じてしまうことかもしれない。「常識」というものがタテマエの空間を浮遊している場合も往々にしてあることが想像できないケースである。もう古い話となってしまったが、あのソニーの「ウォークマン」が、その好例となる。歩く時に両耳にイヤホーンをつけることは危険だとされていたタテマエ的「常識」ではなく、いつもステレオ音楽を聴いていたいというホンネと共鳴したからこそ大ブレイクしたのだった。
 この例などは、新製品開発という場面で必須の創造性発揮について議論される際に、「常識的発想の超越」という観点で引き合いに出されるわけだが、「常識的発想の超越」とは、「常識」からの「逸脱」でもあるのだから、結構「きわどい」話だといえばそのとおりなのだとも思われる。一歩間違えると世間から謗りを受けることにだってなりかねない場合もあろう。
 「常識」の中には、それがタテマエだとわかってはいても、あえてそのタテマエの下にホンネを隠すことに意味ありとするものもあるかに思う。この窮屈さを衝いたのが、たとえば関西の「吉本興行」の笑いだったのかもしれない。常識的には隠すべき下品な振る舞いを、あえて表現することで、観客のタテマエ意識の下で行き場を失っていたホンネを解放したということがあるように見えるからだ。

 誰にも咎められず、誰にもバカにされず、タテマエのメジャーの一員となって埋没していく生き方、それがとりもなおさず「甘さ」なのかもしれない。そして、そうした「甘さ」に染まっている限り、ニュー・ビジネスとも、「起業」とも無縁だということになりそうだ。
 ふと、芥川龍之介の「杜子春」や「魔術」などを思い起こすのである。そこでは、繰り返しある種のテーマが展開されていたかと思う。つまり、仙人や魔術師などの超能力の発揮というものは、凡庸な人間らしさと引き換えなしには得られない、というドキッとする洞察である。ニュー・ビジネスや「起業」の話で、芥川のこんな超能力への洞察を引き合いに出すのは大仰だとも思えるが、何か類似性が感ぜられるのだ。「甘さ」を払拭するには、最も貴重だと見えていたものを踏み越えていかなければならない、とでも言うべきなのだろうか…… (2004.02.28)


 今年が四年に一度の「閏年(うるうどし)」だったのだということを、ついさっき知った。今日はその2月29日だ。どうということもないのが実感であるが、そう言えば、自社設立の'88年も閏年であったことを思い起こした。その年の2月21日が日曜日であったため、22日を登記上の設立日とし、閏日の29日は一週間を経て迎えた。営業やその他設立後の雑務であわただしくしていたはずである。
 そして、はや、十六年が経過して十七年目を迎えている。人の人生にたとえても意味はないが、思春期まっ最中の十六歳だということにでもなるのだろうか。まだまだこれからという意気込みで挑戦したいところである。

 変化の激しい時期に、十六年もの間、何の後ろ盾もないにもかかわらずやってこれたことは、ひとえに運が良かったのだと言わざるを得ない。正直言って、自身に特別の経営の才があるとは毛頭考えていない。他の分野の才のかけらは多少はうぬぼれても、経営という非情な分野に才などあるわけがないと見ている。だから、社員に恵まれたことも含め、運が良かったとしか言いようがないのだ。
 中でも、事業の柱を半導体製造ライン関連のソフトウェアに絞ったことが、幸いであったのだろうと思っている。しかし、これとてあらゆる検討と試行錯誤の上で定めたというよりも、ある種の「出会い」であったと言うべきなのだ。
 「起業」(新規事業開始も含む)というテーマに現在関心を向けているのだが、当然、何を柱とするのかという絞込みの課題は極めて重要である。どうであろうか、およそ50%強はこの課題への対応に掛かっているとさえ言えそうである。これを誤ると、ほかに全精力が投入できたとしても、思いどおりの結果が得られないという不幸に見舞われがちである。この課題に潜む最もシビァな要素とは、結局、競合関係だということになるのだろう。絞り込むジャンルに多数の競合他社があるとするならば、自ずからビジネスチャンスはスタートの時点から制約を受けることになるからである。そして、競争は切磋琢磨の好材料だと言われるのだが、同時に消耗戦でもあることを知らなければならない。とかくありがちな値引き、ダンピング、「特価」へと雪崩れ込むことになればその業種全体が焼け野原ともなりかねない。
 何度も強調するように「特価」ではなく「特化」こそが、業種の絞込みにおいては必須の条件となるはずなのである。可能であればの話だが、独壇場(どくだんじょう、どくせんじょう)が設定できれば申し分ない。
 常に追随者の現れるのが世の常であるが、したがって、これをかわすべく前進的変化を忘れないならば、ほぼ先行者が有利であり続けられるはずなのである。この辺にもし、昨日書いたような「甘さ」が残っていたとするならば、先行の利は保証されないが。

 では、どのように対象を絞り込むのかという難しい問題となるが、これはどうも観念的な思索で済むことではないように思われる。それはちょうど、陸(おか)で水泳を習得しようとすることに酷似していよう。
 しばしば、ビジネスは行動力だと言われるのだが、むしろ、「生きざまそのもの」だと言った方が妥当なのかもしれない。身体と心のすべてが関与する活動が生業(なりわい)なのであって、頭脳活動だけでアプローチできるジャンルであろうはずがないのだ。
 ビジネス界で成功者と目されている連中に共通した特徴があるとすれば、かなり早い時期からビジネスの実戦に入り込んでいるということであろう。高卒、または大学在学中から泥臭いビジネス領域に顔を突っ込み、肌身でこの世界のシビァさといい加減さとを自分のものにしてきていたようだ。今、いい加減さと書いたが、手抜き箇所と言ってもいいし、遊び機能と言ってもいい。要するに、どんなジャンルにも、人間が行う業には強弱というものが必然的に生まれ、肝心な部分には力が注がれる一方、つなぎとも言えるポーズ部分ではそこそこ投入力が留保されるものである。この強弱を掴むことがコツを飲み込むということなのであろうが、世の成功者たちは、これを人生の早い時期から実践してきたということになる。

 「生きざまそのもの」と書いてしまったのだが、ひとつは、自身の身体と心とが実感をもって得たものでなければ、他者への訴求力に欠け、そんなものは対価を支払って買ってくれる人はいないだろう、ということである。
 また、もうひとつは、手堅いきっかけというものは、頭で考えて思い当たるようなものではなく、生々しい現実と切り結んだ時に、「受け側がスタンバイOK!」であれば飛び込んでくるもののような気がしている。誤解を恐れずに平易に言えば、いわば、成り行きや運が与えるものなのかもしれない。要するに、考え過ぎずに、行動しながらその出会いを待つしかない、と言ってもいい。
 こんなことを書いていると、あたかも成功者がその秘訣を語る会のような恥ずかしい状況を思い浮かべてしまうが、とんでもないことである。私は今、今後の新事業展開に向けて、必死に自身に言い聞かせているところなのである。
 とかく歳を重ねると、行動力が目減りして能書きばかりが多くなるのが怖い。頭を使って稼ぐという表現がとかく安易に受容れられがちであるが、それは要するに怠け者が多いからであろう。そして、事の真偽はともかくとして、そうした怠け者メジャーにとって耳障りのいい表現が、商売として言いふらされるのが、「頭で稼ぐ」という表現であろう。しかし、そんなことは信じてはいけないのであり、稼ぐ人は身体も心も、またプライドすらクタクタにしている。だが、他人に聞かれてその実態をさらけだしたのでは仕事上よい宣伝効果は得られないと知る頭があるから、涼しく頭で稼いでいます…… と言うのだ。言ってみれば、あくまで広報用の言辞なのである。

 とにかく、目星をつけた対象の実態に直接ぶつかってみること、これが現在ほど貴重なものはないはずである。経済を初めとして日常生活も含めて、われわれが今閉塞感で苛まれているのは、プラスチックのおもちゃである「ロゴ」のようなきれいな切り口しかない知的部品で、生き生きした生物のような対象を創り出そうとしているからではないかと想像する。不可能に決まっているのである。生き生きした部品をこそ、身体と心を使って拾い集めなければいけない。頭を使うのは、朝晩の三十分ずつ程度でいいのではなかろうか…… (2004.02.29)