今朝は、正月の祝いを遅らせてしまうほど朝寝をしてしまった。あわただしくウォーキングに出掛け、これまでにないスピードで戻ってきた。足腰はまったく疲れを感じさせない状態であった。今年もこの調子を維持すべきだと戒めた。
昨夜は、九時過ぎから茶を啜りながらTVを見ていた。家内は、おせちの準備でいつまでも台所に詰めていた。
「紅白」は見る気がせず、氷川きよしの「白雲の城」の熱唱だけを見るつもりで、「曙」v.s.「ボブ・サップ」の対決を、血に飢えたローマ人(?)のような心境で待ち構えた。誰もが「曙太郎」の勝利を予想できなかったはずだが、それでも万が一勝てたら来年には予想外の新しい展開が始まるのではないか、と期待していたのかもしれない。
しかし、冷徹な現実は、そんな思い込みを惨めな光景でぶち破ってしまった。土俵の上で一瞬の間うっ伏す姿はまだ許せたが、白いマットの上で「死体」のように、しかも場違いなほどに「似つかわしくない肢体」で伏す「曙」の姿は、やはり、「なぜ、こんな無謀な挑戦をしたのか?」という疑問を生み出さずにはおかなかったのではなかろうか。
いろいろな事情は斟酌し得る。あの若さで、閉ざされた日本の伝統的閉塞性の中で窒息したくはない、という思いもわからないわけではない。また、世の動きの速さを見れば、あと一年、十分に鍛え上げて「K-1」に臨むというには遅すぎ、今! でなければいけない、という読みもわからないわけではない。
しかし、それにしても、あの「相撲体型」を十分に残した身体で、あの筋肉の塊のボブ・サップに臨むとは、「計算間違い!」が甚だしい、と思わざるを得なかった。ファイト・マネーというリアルな要因が潜伏していたことももちろん推測されるが、勝負師としては、それはやはり副次的問題として視界から外すべきであったはずだ。
「曙太郎」の転身劇が、自衛隊のイラク派兵問題とどこかアナロジカルなことを感じた人も少なくなかったのではなかろうか。いや、そんなバカなアナロジーを思いつくのは自分くらいのものであろうか。
私には、どうも「曙」が、非情で獰猛な「興行師(プロモーター)」たちの口車に乗せられたような気がしてならない。もちろん、地方から出て来た中学生のように騙されたわけなどであろうはずはなく、「曙」側にも相応の野心があったことは十分想像できる。
これらの文脈の大半が、「興行師」ブッシュの手中で、アナクロニズムの夢に酔う操り人形小泉が嵌って身動きがとれなくなっていく様と何と類似しているか、と初夢の悪夢さながらに類推するのである。
しかし、「曙」は、自身の決断とその結果を自身の人生で贖ってゆくことになるのに対して、小泉氏は、自身が想像できない自衛隊員たちの苦悩と、重い生命を「軽々しく動かし」、後日の不慮の際には、またまた歯の浮く詭弁を弄して言い逃れるだけに違いないと思われる。
私が、昨晩夜更かしをしてしまったのは、ついつい、NHKの深夜番組「年越しトーク」に引きずられてしまったからだった。そこでは、犬飼道子女史と、養老孟司氏のシリアスな対談がなされていたのである。
いろいろとほかのことにも触発されたが、司会者による「現代のリーダーとは?」という質問に、養老氏が端的に答えていたことが印象的であった。
「部下たちの心が想像できることです」とあった。
一般的に、リーダー論ではさまざまな能書きがこかれるものだが、この言葉にはさすが養老氏だと思える重みが感じられたものだ。私は、これを時の総理にぶつけたいと思った。国民の「痛み」などという軽口を叩き、何でも起こり得る現代のここへ来て、国民のテロから被る危険の可能性と、生身の人間たる自衛隊員の生命を弄ぶ責任者は、果たしていかほどの「想像力」をお持ちなのかと疑ってやまないからである。そんな小泉氏が、今朝、まるで正月の猿回しの猿のような紋付袴姿で「靖国参拝」の暴挙で、国民のすがすがしい新年の心に砂をかけた。そんな者に多くの人間たちの心が想像できるわけがない、と思うのは私ひとりであろうか。
「歴史は繰り返す!」という言葉が、昨今の私の脳裏にはしばしば蘇る。
「今年は良い年でありますように」ではなく、そうする「意志」をこそ持たなければならないのだと思っている…… (2004.01.01)