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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2004年01月の日誌 ‥‥‥‥

2004/01/01/ (木)  「今年は良い年でありますように」ではなく、そうする「意志」をこそ!
2004/01/02/ (金)  風呂敷の広げ方だけを喧伝して、「畳み方」を示唆しない世!
2004/01/03/ (土)  無情な「繰り上げスタート」が現実?
2004/01/04/ (日)  「心の中の躍動」=「意味」はどのように取り返す?
2004/01/05/ (月)  <ブログ 【blog】>の浮上は、「IT」環境での新ニーズか?
2004/01/06/ (火)  新しい仕事と「ニュー・コンセプト」!
2004/01/07/ (水)  悲喜こもごもの「川崎大師」初詣!
2004/01/08/ (木)  「知識」でなし崩しにされたマインド・ファクター?!
2004/01/09/ (金)  基本フレーム(枠組み)の見直しと「ガラス戸の桟」?
2004/01/10/ (土)  夢を食うのが「獏(ばく)」ならば、想像力を食うのは何?
2004/01/11/ (日)  一時的、偶発的な誤りというよりも、その誤りは「氷山の一角」!
2004/01/12/ (月)  自分とは「異質なもの」に見る「それなりの論理」や「必然性」!
2004/01/13/ (火)  現代のこの不安を乗り切るには「乾布摩擦」(?)しかない?
2004/01/14/ (水)  他人の「精神的下着」を身に付けて平気でいられる?
2004/01/15/ (木)  現場の「一次」情報と、空疎化する「高次」情報!
2004/01/16/ (金)  巷(ちまた)に溢れる外国人たちとわたしたちは……
2004/01/17/ (土)  「わたしの周囲では絶対起こるはずがない!」という盲信!
2004/01/18/ (日)  唯一変化できる者が生き残る!?
2004/01/19/ (月)  ウソと不透明さでまみれた危険なご時世!
2004/01/20/ (火)  「かわいい」時代だから振り返られる昭和三十年代!
2004/01/21/ (水)  団塊世代にとっての最後の歴史的課題?
2004/01/22/ (木)  自己の「客観視」をウヤムヤにする「お為ごかし!」の「ぬるま湯状態」!
2004/01/23/ (金)  「BSE」(?)こそが求められている?!
2004/01/24/ (土)  恰好つけて、「まあーね」と言うのが流行り?
2004/01/25/ (日)  可愛いペットたちまで狂わせてはいけない!
2004/01/26/ (月)  日本にも「ノーブレスオブリージュ」があったはず……
2004/01/27/ (火)  「特化」こそが「特価」を強いられない防波堤!
2004/01/28/ (水)  問題は、「十分な」情報が提供されているか、なのだろう!
2004/01/29/ (木)  「部分最適」時代を象徴する「抗生物質」常用時代!
2004/01/30/ (金)  よく食って「タフ・ガイ」となろう!?
2004/01/31/ (土)  個人主義や自立化ではなく、「コミュニティ」こそ!






 今朝は、正月の祝いを遅らせてしまうほど朝寝をしてしまった。あわただしくウォーキングに出掛け、これまでにないスピードで戻ってきた。足腰はまったく疲れを感じさせない状態であった。今年もこの調子を維持すべきだと戒めた。
 昨夜は、九時過ぎから茶を啜りながらTVを見ていた。家内は、おせちの準備でいつまでも台所に詰めていた。

 「紅白」は見る気がせず、氷川きよしの「白雲の城」の熱唱だけを見るつもりで、「曙」v.s.「ボブ・サップ」の対決を、血に飢えたローマ人(?)のような心境で待ち構えた。誰もが「曙太郎」の勝利を予想できなかったはずだが、それでも万が一勝てたら来年には予想外の新しい展開が始まるのではないか、と期待していたのかもしれない。
 しかし、冷徹な現実は、そんな思い込みを惨めな光景でぶち破ってしまった。土俵の上で一瞬の間うっ伏す姿はまだ許せたが、白いマットの上で「死体」のように、しかも場違いなほどに「似つかわしくない肢体」で伏す「曙」の姿は、やはり、「なぜ、こんな無謀な挑戦をしたのか?」という疑問を生み出さずにはおかなかったのではなかろうか。
 いろいろな事情は斟酌し得る。あの若さで、閉ざされた日本の伝統的閉塞性の中で窒息したくはない、という思いもわからないわけではない。また、世の動きの速さを見れば、あと一年、十分に鍛え上げて「K-1」に臨むというには遅すぎ、今! でなければいけない、という読みもわからないわけではない。
 しかし、それにしても、あの「相撲体型」を十分に残した身体で、あの筋肉の塊のボブ・サップに臨むとは、「計算間違い!」が甚だしい、と思わざるを得なかった。ファイト・マネーというリアルな要因が潜伏していたことももちろん推測されるが、勝負師としては、それはやはり副次的問題として視界から外すべきであったはずだ。

 「曙太郎」の転身劇が、自衛隊のイラク派兵問題とどこかアナロジカルなことを感じた人も少なくなかったのではなかろうか。いや、そんなバカなアナロジーを思いつくのは自分くらいのものであろうか。
 私には、どうも「曙」が、非情で獰猛な「興行師(プロモーター)」たちの口車に乗せられたような気がしてならない。もちろん、地方から出て来た中学生のように騙されたわけなどであろうはずはなく、「曙」側にも相応の野心があったことは十分想像できる。
 これらの文脈の大半が、「興行師」ブッシュの手中で、アナクロニズムの夢に酔う操り人形小泉が嵌って身動きがとれなくなっていく様と何と類似しているか、と初夢の悪夢さながらに類推するのである。
 しかし、「曙」は、自身の決断とその結果を自身の人生で贖ってゆくことになるのに対して、小泉氏は、自身が想像できない自衛隊員たちの苦悩と、重い生命を「軽々しく動かし」、後日の不慮の際には、またまた歯の浮く詭弁を弄して言い逃れるだけに違いないと思われる。

 私が、昨晩夜更かしをしてしまったのは、ついつい、NHKの深夜番組「年越しトーク」に引きずられてしまったからだった。そこでは、犬飼道子女史と、養老孟司氏のシリアスな対談がなされていたのである。
 いろいろとほかのことにも触発されたが、司会者による「現代のリーダーとは?」という質問に、養老氏が端的に答えていたことが印象的であった。
「部下たちの心が想像できることです」とあった。
 一般的に、リーダー論ではさまざまな能書きがこかれるものだが、この言葉にはさすが養老氏だと思える重みが感じられたものだ。私は、これを時の総理にぶつけたいと思った。国民の「痛み」などという軽口を叩き、何でも起こり得る現代のここへ来て、国民のテロから被る危険の可能性と、生身の人間たる自衛隊員の生命を弄ぶ責任者は、果たしていかほどの「想像力」をお持ちなのかと疑ってやまないからである。そんな小泉氏が、今朝、まるで正月の猿回しの猿のような紋付袴姿で「靖国参拝」の暴挙で、国民のすがすがしい新年の心に砂をかけた。そんな者に多くの人間たちの心が想像できるわけがない、と思うのは私ひとりであろうか。
 「歴史は繰り返す!」という言葉が、昨今の私の脳裏にはしばしば蘇る。
 「今年は良い年でありますように」ではなく、そうする「意志」をこそ持たなければならないのだと思っている…… (2004.01.01)


 地元の神社への初詣に出かけた。例年は、元日の午後遅くが常であったが、昨日はそれを見送った。その時すでに、ある種の選択が始まっていたのかもしれない。
 午後の陽射しがあるうちにと思い、家内と、クルマで町田駅方面に向かった。が、町田天満宮に至る町田駅近辺は、嫌気のさすほどの混みようである。信号が変わっても、カメのようにしか進めなかった。これほどまでにして選択すべき行動であるのか、という反省めいた思いが心をよぎっていた。
 だがどうにか、例年駐車していた通りにたどり着く。しかし、その通りは交通規制で駐車が不可であることがわかり、離れた箇所の有料駐車場を探し探しクルマを滑らせた。が、どこも満杯状態である。例年は夕日がさすくらいに時間帯が遅かったのに対して、今日はまだ十分に時刻が早かったためかと悟らされてしまった。
 本気で駐車場を探すつもりがあれば見つけられたはずであったろう。ところが、私は家内に言ったものだ。
「やめよう」
「どうせ、川崎大師へ行くことになるんでしょ?」
「そう。本命以外に、気休め地味た付録を付けるのはもうやめた方がよさそうだ……」

 わざわざクルマを出したこともあり、そのまま帰るのもしゃくであったため、ファミリー・レストランに寄って食事をした。

 事が成さない場合、何かと理屈をつけて「合理化」する癖がある自分だったが、必ずしもそれだけではなかったかもしれない。食事をしながら考えていたのは、年末から、心の中で浮き沈みする浮遊物のように見え隠れしていた言葉、「絞り込み!」、「一点突破、全面展開!」であった。
 あれもこれもと関心を散らすのではなく、選択し切ること。時代は無定見にあれもこれもと散漫に選択肢を並べ立てるが、その時代こそが、そのどれひとつとして満足に達成し切れないほどにパワーダウンさせているではないか。自分とて、ますますもって若い時代の気負った「万能感」をやせ細らせているではないか。幻想としての「拡散」ではなく、手堅い「収束、収斂(しゅうれん)」をこそ見つめる時なのだ…… と。

 「どうしたらいいのかわからない」
というのが、今の時代のひとつの括りであると言った人がいたが、そうなのかもしれない。多くの人々がさまざまなかたちで右往左往しているのがこの国の現在であり、あたかも「一意専心」しているかに見える人たちだけが、「スター」「ヒーロー」として輝いているかのように見つめられている。ただ、そんな者たちでさえ、そう見えるだけであって内実は右往左往であることには違いがないようにも思われる。
 「不幸」の原因のひとつは、何によらず、「畳み方」を教わらずに、広げていくことだけに邁進する、そうしたライフ・スタイルに問題がありそうに思えるのだ。言うならば「畳み方」とは、充足であり充実なのである。もちろん、それらは、自分の外にあるモノにのみ依存するのではなく、自分側に半分以上依拠しているはずである。にもかかわらず、外にあるモノにのみ解答を求めようとして、あれもこれもと悪循環を繰り返す。

 仏教的な真理にも関心は向くが、むしろここでは、些細な差異とバリエーションとによって、「枯れ木も山の賑わい」のごとき「拡散」を繰り返す「情報(化)社会」の「わな」を警戒すべきかと感じている。その「拡散」は、良い悪いではなく必然的な展開なのであろうが、それらが自動的に人を幸せに導くものではないことを、重々承知する必要があるかと思うのである。
 これはちょうど、『杜子春(とししゅん)』(芥川竜之介)において、自身の感情を「収束」させ得ない光景(父母への虐待!)を見せられ、仙人になることを放棄した主人公の杜子春と、同じような環境にわれわれが置かれている、ということなのかもしれない。
 仙人などにはなり得ない人間が、不死身の仙人ならば耐えられる無限空間もどきに置かれているのだと、どこかで悟ること、それが現代人が幸せになる秘訣なのかもしれないと思ったりする。
 それにしても、風呂敷の広げ方だけを喧伝して、「畳み方」を示唆しない世というのはどうかと思うのだ…… (2004.01.02)


 「繰り上げスタート」というルールは、無情だ。昨日、今日と熱戦を繰り広げている「第80回東京箱根間往復大学駅伝競走」においての話である。
 所定の時間内で到着できない大学の走者の「たすき」は、次走者に渡されることがない。次走者は決められた時刻に主催側が用意した味気ない無地の「たすき」を背負ってスタートを切らなければならないのである。
 昨日からこのイベントを見ていて率直に感じ続けていたことは、中継点で前走者が燃焼し切って転げ込む姿を、次走者たちが待ち受けるすがすがしい笑顔であった。自分のこれから始まる苦痛を不安がる顔というよりも、「よーし、よくがんばった! あとはまかせてくれ!」という若さそのものの輝きだと思えた。若さを頂点で謳歌するものたちの、うらやましいかぎりの光が眩しかった。

 しかし、そんな輝きにも影がつきまとうのが人の世か。つい先ほど、今回初出場の城西大学が、三十秒ほどの差でこのルールを適用されてしまった。ルール適用時の直前でこの無情さを回避できた国士舘は、「たすき」を渡す者も渡される者も喜び勇む光景を繰り広げた。(その国士舘にも、次の中継点では涙をのむ場面が訪れた……)それに対し、城西大は、次走者は無地の「たすき」を握りながら、前走者の制限時間内での到来を期待して後方を見つめ続ける。一方、前走者は、正確な制限時間がわからないため、肩の「たすき」をはずし、次走者に手渡すべく手に握りしめ死力を尽くしてラストスパートを図る。
 やがて、無情な制限時間の到来は、自走者を機械的に送り出す。前走者は、状況の推移を認識できないまま、中継点を目指し、そして次走者が待ちわびるその場が、アンビリーバブルな空白であることを知らされることとなる。
 この無情なドラマを演出しているひとつの仕掛けは、中継点が走行路からやや奥まった場所に設置され、前後の走者たちが直前まで相互の姿を確認できないことにあるのかもしれない。そんなことはともかく、こうした非情なすれ違い場面は、不幸でありがちな人々に、視聴者たちに、自身の人生で経験した悲しい何事かを呼び覚まさずにはおかないのではないかと感じたりしたものだ。

 以前、「まだ見ぬ我が子へ」というような切ないドキュメンタリーがあったものだ。妻の出産に間に合うことができずに不治の病でこの世を去る若い父親の実話である。涙を誘わずにはおかなかった。ひと目、我が子に出会いたかった父親の最期の願望は、誰にでも想像できたはずだ。
 しかし、思えば無情で、非情な「繰り上げスタート」とは、人の世の常というか、人間という存在の宿命なのではないかとさえ思えてくる。親と子、人と人、時代と時代との伝達や継承の関係は、時間のずれを初めとして、さまざまな差異によってその成就が阻まれているとしか言いようがない。そう考えると完璧な伝達・継承こそが、幻想ではないのかとさえ思えてもくる。
 「みなバラバラでしかあり得ない! 継承もコミュニケーションもあり得ない!」などと、決してそう見なそうとしているのではない。そうではなくて、伝達や継承を阻む現実の壁は、思っている以上に厚い、壁などを意識することなく融合できた過去の幻影を現実のものと取り違えてはならない、と思うのである。
 グローバリズム、個性化のうねりが驀進し、そして即時的な(自然な)共同体が跡形もなく崩壊しつつある現状で、伝達と継承という人間の秘儀が、この上なく困難になりつつあるのが現代だと思わざるを得ない。
 ふと、「一期一会」という、高感度な仏教徒たちのインスピレーションを思い起こしたりしてしまう。そのリアルな構えなくしては、人と人との関係の何ものも始まらないということなのであろうか。
 今、息子の母校、駒沢大学の走者が日本橋を渡った。私の母校、中央大学は今どこを走っているのか、TVは映してくれない…… (2004.01.03)


 年末に、やや力んで片付けを済ましておいたため、今日、訪れた事務所では気分が良かった。これまで、年が改まるからといってろくに年末大掃除もしなかった年が続いていただけに、新しい環境と、そこそこ整理が行き届いた部屋は、久々に迎える新たな年といった感じにさせてくれた。
 ならば、新たな年にふさわしい新たな抱負が胸を突き上げているか、といえばなかなかそうもいかないのが残念なところだ。とにかく、「醒めた現実」が「心の中の躍動」を妙に鎮めてしまう威力がいまいましい。

 「心の中の躍動」とは、心の中の「波風」とは区別している。些細なことで感情が乱されることを「波風」と考え、そんなものはなくてよいと思っている。かといって、心の中が、一点の曇りもない鏡のように静寂そのものであったらと願っているわけではない。それでは、「生」というものがないことになる。
 「心の中の躍動」というのは、やむにやまれぬような大きな「うねり」であり、「潮流」のことを指している。やむにやまれぬ、のであるのだから、小賢しい計算や、上記の「波風」などを凌駕していることになる。身をまかせる、まかせないもなく、身を運ばれてしまうイメージだと言っていい。
 今年も、正月TV時代劇では「坂本竜馬」が題材とされていたが、「竜馬」こそは、ある種の時代と、ある種の人間に訪れる「心の中の躍動」に見事に身と心を預けることのできた人物であったかと思われる。

 しかし、現代は、「心の中の躍動」といったものを起動させない仕組みで満ち満ちているかのようだ。「躍動」を促す導火線の一つは、明暗がくっきりとした明瞭な価値観だと思われるが、現代にそんなものはない。「イデオロギー」はかなぐり捨てられて久しく、「宗教」も風俗の一つとして以外に人々の心をとらえることはできなくなった。人々の「心の中」に明暗の濃淡を施す価値観の山岳が消え失せたか、視界から消失することにより、「心の中」にはコントラストの乏しい「淡い画像」しか投影されなくなってしまった、と言えようか。「淡い画像」群は、どんなにそれらを組み合わせても、躍動的なドラマを構成することはできない。「心の中」に「躍動」が起動される道理がないと言える。

 「心の中」の「躍動」を鎮静化させる仕組みに貢献したものは多々あるが、その一つに、「科学」があり、もう一つに「拝金主義」の「経済」があるのだろうと思う。元来、科学とは、価値判断とは「視線を合わせず!」が習性であったはずだ。しかし、現代の風潮としては、「天下の宝刀」を抜くかのような擬似説得力を発揮してしまっているかのようだ。そして、身を守る術(すべ)に疎い価値たちを、「切り捨て御免」としている。自身が「価値破壊」という価値を担ってしまっていることに気付いていないところに重罪があると感じる。価値とは、往々にして「意味」を宿す巣であることなど知りようもないのであろう。

 「心の中の躍動」を司る価値観が後退したご時世に、まるで空き巣狙いのように忍び込んだ悪党は、「拝金主義」の「経済」であろう。そして、誰もがこれを正面切っては指摘し得ないのがそいつの強みだと言える。誰もが、その一翼を担い、加担してしまっているからである。
 それはともかく、現代では、「心の中の躍動」といえば「金銭換算」できるモノとの関係、またはその関係行為をしか想像できなくなってしまった観がありそうだ。それはそれでいいのかもしれない。生きる「意味」感を失いかけた現代人が、人為的支援の仕組みとしての欲望喚起物である貨幣・金銭のために躍起となることは当然と言えば当然なのかもしれない。まして、大半の環境の仕組みが貨幣・金銭の浸透を受けているとするならば何をか言わんやである。

 ただ、「意味」(=「心の中の躍動」)を蹴散らしたり、「意味」の代替物(=貨幣・金銭への欲望?)のみを追求することの「しっぺ返し」を一掃するほどに、現代は親切な時代ではないようだ。ひょっとしたら、「意味」を薄ら覚えのカナリヤたち(高齢化する団塊世代の一翼)が、そうした事実を叫び始めるのかもしれない。いや、経済的チャンスを奪われ、「意味」をしか追求できない若者たちの方が先であるのかもしれない…… (2004.01.04)


 この「公開日誌」をどのように位置付けるかと考えたことはあまりなかった。いい加減と言えば、実にそのとおりである。強いて言えば、「成り行き」だとも言えそうだ。
 ひと昔前ならば、「成り行き」などを許せる自分ではなかった。が、今は、いろいろな「成り行き」こそは貴重な成果だと思うようになっている。
 むしろ、ゴリゴリにロジックで固めたものこそが、うそっぽくて、かつ脆い(もろい)とも感じている。

 <ブログ 【blog】>という言葉があるそうだ。
 <NIKKEI NET(日本経済新聞社)>に、<IT BUSINESS & NESWS>というサイトがあり、その特集レポートに「2004年IT展望 〜識者34人に聞く〜」というものがあった。 その中のひとつに、「2004年、ITにおける注目のテーマやトレンド、キーワードは? 」という共通のクエスチョンがあり、各識者が回答しているのである。そこで見つけた言葉なのである。 
 どうせ、というシニカルな心持ちでチェックしてみたが、やはり、「了見が狭い」と思えた回答が多かった。つまり、「識者」と言ったって狭い専門分野で目先主義で仕事をしている方々が多いため、
「へぇー、そうですか。そんなの関係ないなあー。メモ用紙の片隅に、殴り書きでもしておいたら?」
で済ましたくなるものが多かったということである。
 仮にもソフト会社の社長がそんなこと言ってていいのかと言われそうだが、何のためのITであり、何のためのテーマなの? という私の関心にフックしてこないような「技術バカの壁」に囲まれたような回答は願い下げだということなのである。

 その識者たちの回答のひとつに、<ブログ 【blog】>に注目するものがあった。
 はじめは何だろうと思ったが、用語辞典で調べてみると次のような説明があった。

「〔ウェブ(web)とログ(log)との造語ウェブログ(weblog)の略〕
ニュースや事件,趣味などに関し日記形式で自分の意見を書き込むインターネットのサイトやホーム-ページ。開設者が個人の意見を表明していくことを基本としている点が掲示板と,閲覧利用者が自由に意見を書き込める点がこれまでのホーム-ページと異なり,個人ジャーナリズムとしても注目されている。作成や管理が非常に簡単に行えるソフトが公開され,1999 年頃からアメリカで広まった。」(『goo辞書』より)

 そして、ブログを開設する人のことを<ブロガー 【blogger】>ということであるらしい。そうか、「管理人」などというダサイ名を自称していたが、<ブロガー>ということだったんだ! と得心したものであった。
 それはともかく、これを回答した識者は、コミュニティ運動を実践している女性であったが、さすが、実践家らしく生きた世界をよく見ていると思ったのである。
 現在のというか、そもそも「IT」のリアルな課題は、一般大衆レベルでの新たなコミュニケーション手段以外にはないはずなのである。産業界での新製品、新商品にどうしても関心を向けがちとなるようだが、そうした産業界主導の発想に限界があることを示したのが「IT」ではなかったのかと考えている。なぜならば、産業界に視点を置くならば、今に始まったことではなく、遠い昔から「情報通信技術」は援用されていたからである。 また、「IT」は常に景気刺激策の観点でながめられるわけだが、その成果を昨今の日本の現実において注視するならば、「ケータイ」の普及以外ではないことがわかる。つまり、一般大衆レベルでの新たなコミュニケーション手段としての「IT」が、大きな景気刺激効果を生んでいるのである。

 つまり、内容はともかく、「一般大衆のコミュニケーション欲求」と「最新技術」とがマッチングした時にこそ「IT」は結実するものだと見える。そして、やっかいな問題は、「最新技術」が糸の切れた凧のように上昇を続けるのに対して、「一般大衆のコミュニケーション欲求」が、地を這う犬のように変化が少ないかのようであることではなかろうか。
 そんな状況で、「今年の、ITにおける注目のテーマやトレンド、キーワードは?」と問い、きらびやかな「最新技術」を列挙したところで滑稽さが拭いきれない、というのが私の実感なのである。
 むしろ、「最新技術」の動向もさることながら、「一般大衆のコミュニケーション欲求」の実態にこそ視線を向け、そこで芽生えつつある現象を凝視することが技術サイドの人間たちには必要なことだと思えてならないのである。
 そう考えると、「IT」環境を弄ぶレベルであった従来の「掲示板」に対して、「開設者が個人の意見を表明していくこと」という<ブログ>は、新しい質の高まりだと思えるし、こうしたコミュニケーションの質の高まりが新たな「IT」の発展を確実に要求するようになるのだと想像できるのである。

 古くて新しいテーマ、「ニーズ」と「シーズ」の関係! コミュニケーション・ニーズの、現時点での実態をこそ見つめるべきだと確信している。もういいかげんに、「IT」における「シーズ」だけを「狭い了見」でいじり回すのはよした方がいいと思う…… (2004.01.05)


 やはり、この時期に挑戦したいし、すべきことは、「仕事を創る」ということではないだろうか。それは、決してニーズがあるという事柄に目を向けることにとどまらないはずだろう。ニーズが想定できるという点に限定すれば、それは山ほどあるに違いない。
 「できればそうあってくれればありがたい」という対象は無数にあり、しかし、それが有償だとなると、にわかに霜が解けてなくなるように消失してしまうものだろう。
 吟味すべきは、「有効需要」(実際の貨幣支出の裏づけのある需要、ニーズ)だということになるのかもしれない。つまり、「相応のお金を払ってでも、そのモノを入手したい、もしくはそのサービスを受けたい」という条件つきだということである。
 さらにこの条件を分析するならば、事態は決して単純ではないように思われる。
 現時点においてそんなことは想定しにくいのではあるが、自由にできるお金が豊饒にある場合、いわゆる「財布の紐がゆるむ」ということに直結するのであろうか? こうした不安定な時代にあっては、現在の豊饒さは、未知数の将来によって相殺されるように思われる。つまり、「将来への備えに回す」である。
 また、バブル時に、持てる人々が高騰してゆく土地の売買に投資したような行動を思い起こすなら、所持するお金の豊饒さは、「さらなる豊饒さ」を目指すことが容易に想像できるところである。

 では、保有するお金はともかく、ニーズが途方もなく大きい場合はどうであろうか? ふと、思いつくのは、趣味嗜好関係に見境のない人々であり、また、最も大事だと想像される生命の危機にさらされるような病気などを背負う人々のことである。こうした人々のニーズは、実に「かけがえのないもの」として存在しているかのようである。「金に糸目は付けぬ」と想像できそうな気もする。
 しかし、論理的に考えてみて、こうしたニーズは決して一般的なものではない、つまり、こうしたニーズを充たすものをどうやって用意するのかが至難の業であることを知るべきだろう。だからこそ「金に糸目は付けぬ」切迫さが生まれるのであろうから。

 両極端のケースを除くところに、最頻値(モード)としてのケースがあるわけだが、一体そこに何を見るべきかである。
 今時こんな言葉を使うものはいないと思われるが、あえて「使用価値」と「交換価値」という言葉を出してみたい。前者は、モノが持つ使用上のメリットとしての価値であり、後者は、モノが他のモノと交換などのために比較される時の価値だと言っておきたい。 もちろん、現代にあっては後者が前者を上回る位置づけにあると言えよう。作られ過ぎた野菜は、食するという「使用価値」に遜色はなくとも、輸送費にも見合わない「交換価値」の低さゆえに廃棄処分されてしまうがごとくである。
 この正月、マス・メディアは多くの小売業が熱を入れた「福袋」商戦を取り上げていた。「平時」には売上額が芳しくないさまざまな小売業が、この「福袋」商戦にねらいを定める事情はよくわかる。
 この「福袋」こそは、「使用価値」を「度外視!」した「交換価値」視点での売買だということではないだろうか。つまり、「使用価値」の眼目は、「当人にとって」の価値という面だと思われるからだ。確かに、不特定多数の任意のユーザにとっての「使用価値」を想定することもできることはできるが、商品はそんなふうには作られていない。
 「福袋」のポイントは、購入価格以上の額相当の商品を入手するという、「交換価値」視点の意味以外ではないはずなのである。

 もうひとつ「交換価値」視点が突出した商品分野として、いわゆる「ブランドもの」がすぐに思い浮かぶ。そして、これもこんな不景気なご時世でも、根強い売上が達成されているのだという。ただ、これは「交換価値」という点のみで構成されているのではなく、「使用価値」の中身が、「満足感、優越感」などの心理的な範疇にまで拡大された例として見なすことがてきるかもしれない。

 しかしいずれにしても、現代にあって売れるモノとは、さし当たって「交換価値」の側面が圧倒的に凌駕しているのが大きな特徴だとは言えそうだ。そして、「交換価値」の大小は、限りなく「世間の風評(=人気)」に依存することになる。もちろん、このロジックがすべてではない。相変わらず「使用価値」としての側面が評価されて売られ続けているものも少なくはないだろう。「モノづくり」とは、まさにそうしたジャンルであるはずだ。にもかかわらず、この国とこの時代にあっては、「使用価値」の担い手よりも「交換価値」に目がくらむ人々が増大しているように見えてならない。

 で、冒頭の「仕事を創る」というテーマに戻ることになるが、「新たな仕事」とは、いいモノを創り出すことはもちろんのことであるが、それだけでは圧倒的に不足しているのであり、そのモノなりサービスなりが、広く話題を呼ぶものでなくてはならない、という過酷で、新しい条件がついているようである。それを「ニュー・コンセプト」と呼んでもいいのかもしれない。
 自身を含めて人々は、モノだけによっては満ち足りないことを重々承知しているに違いない。グリコの「おまけ」は、キャンデーの「おまけ」であったが、今や、「おまけ」に託された「ニュー・コンセプト」なくしてモノは売れなくなった時代だ。新しく創り出す仕事も、同じことが言えそうな気がしている。
 古いコンセプトさえ消えかかった「高速道路」建設で仕事を増やそうとする発想は、まさに「拘束」道路であろう。古い経済に「拘束」されているとしか言いようがない。

 新しい仕事、新しい経済が、「ニュー・コンセプト」を携えて雨後の竹の子のように登場するために、まだ政治は何もしていないという気がする…… (2004.01.06)


 朝の寒さが身にこたえるこの頃となった。そんな中、恒例となっている「川崎大師」への初詣に向かった。護摩を焚く間の本堂での寒さ、冷たさを思うと幾分尻込みする気分ともなるが、そこは、今年一年の「事業繁栄」と「家内安全」を願うとなればうだうだ言ってはいられない。厚手のソックスや、オーバーコートで身をかため、一路大師線「川崎大師」へと向かった。

 今年は、地元の神社への初詣を取り止めにしたため、文字通りの初詣となる。
 「並行出願(?)」を止め、一本に絞り切ったその「誠意」が買われたのか、不思議なことがあったのである。何と、本堂は最前列の中央に座ることとなったのだ。本堂内の賽銭箱が額に付くほどの場所であった。これまでに、もう十回以上の参拝をしているのだが、いつも、中ほどの列の左右よりであり、中途半端といえばこの上なく中途半端な場所から参拝してきた。
 ところが、今日は、どういう巡り合わせか、最前列となり、しかも先に並んでいた人が中央を避けたためそこへ座るはめになってしまったのである。もっとも、「衆生」の席は、本尊の前で僧侶たちが護摩を焚く場所から一段低くなっており、おまけに中央には大きな賽銭箱が鎮座しているため、決して見晴らしがいいというわけでもない。後方には多くの「衆生」が座しているため、中腰となって覗き込むわけにもいかないから、賽銭箱とにらめっこする位置なのだとも言える。
 しかし、何はさておき、「衆生代表!」といった位置に座せたことは、何とも「ありがたい」気分ではあった。護摩焚きの時間まで行なわれる「ありがたい」僧侶の話も、その僧侶の何の変哲もない顔をまじまじと拝みながら聞いたものである。話の中身はといえば、地声は聞き取りにくく、またスピーカーの位置も遠すぎたため、結局聞きづらかった。たぶん、聞こえていてもすぐに忘れてしまうような話のような気がしないでもなかった。

 ここの護摩焚きでいつも感じ入るのは、大太鼓の響きである。僧侶たち十名ほどの読経のハーモニーも捨てたものではないが、太鼓の響きは感動的である。「ドドン、ドン、ドドン、ドン……」と、本堂の天井といわず壁といわず、床といわず衆生たちのドタマといわず、手当り次第に共鳴を促す説得力、強制執行的にがなるエネルギーには、いつも腹の底から参ってしまう。さぞかし、ご本尊、弘法大師、空海はそんなふうであったのではないかと、思わせるのである。
 一般「衆生」の席は「満席」であったが、「大護摩」を依頼する方々の席はと言えば、確か両翼に別れてあったはずが、片翼の席が「空席」となってしまっていた。自分も一時はそこに座ったこともあったのだが、ある時から一般「衆生」席で十分だと思い切り替えたのだった。
 「大護摩」依頼主というのは、中小企業経営者や羽振りのいい自営業者たちが多かったようだが、その「空席」状況は、厳しい世相をしっかりと反映したものなのであろうか。

 帰りには、これも恒例としている「久寿(くず)餅」をみやげに買った。おととしまでは、誰もがしがちな、山門を出てすぐのみやげ店で購入したものだった。しかし、去年からは、参道を出て駅に向かう途中の「郵便局の隣」の店、「小倉屋」で買うことにしている。地元の人の話では、ここが文字通りの「元祖」であり、未だに「手作り」を守っているということだからだ。確かに、他店の、妙にあっさりとした味ではなく、餅らしい粘りがあり、それがうまさを引き出していると思える。

 初詣の締めくくりは、京急川崎の「銀柳商店街」のとある中華飯店で遅い昼食をとることであった。今日も、何の迷いもなくそこへ向かった。迷いがないのは当然なのであって、そこは中国系の店でありながらとにかく安いのである。
 が、驚いたことに、その店がない! 年に一度しか訪れないので、場所を忘れてしまったのかと、あたりを探してみたがやはりない! がっかりした。空腹で、かつ四、五キロもある「久寿(くず)餅」をぶら下げて歩いていたからということもあったが、毎年あったはずのその店がなくなったことが妙に寂しく思えた。周囲には、ファースト・フード店やそれに類する立ち食いそば店、牛丼店などがひしめき合っていた。
 昔ながらの店構えで、丁寧な料理でかつ安いといったその店が、この一年の間に成り立たなくなるほどに、商店街にも得たいの知れない不況の渦がやってきていたことになる。想像できないことではないにせよ、わが恒例初詣から、右腕をもがれたような、そんな寂しさを禁じえなかった…… (2004.01.07)


 今、派遣要員への需要が高まっているようだ。リストラが一段落し、景気がやや持ち直すかのような状況で、棚上げにしていたジョブをようやく始動し始めたことによるのだろうか。あるいは、過度のリストラで、仕事量に追いつけない逼迫状況をテンプ・スタッフによって補おうとするものであろうか。

 景気が本当に回復基調に乗っているのならば、正規スタッフの採用への動きとなるはずであろう。スタッフ不足が起こっている業種では、今後ますます深刻な不足が発生するであろうことは十分に予想されるからである。IT、デジタル関連の技術者、周辺スタッフ、そして営業職などは、そうそう「転がっている」わけではない。
 なのに、正規スタッフではなく、テンプ・スタッフを要望するところは、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のたとえどおり、景気低迷時の人件費の重さによほどこたえていると見える。また、現在の景気持ち直しが、まだどこか信じられていないことの証拠でもあるように思われるのだ。さらに言うならば、今の対処が、「模様眺め」以外の何ものでもないことを言外に語っているのではなかろうか。
「お薬、三日分を出しておきます。それで様子を見てください!」
という、はなはだ心もとなくもある景気状況なのだと思われる。

 「死んだふり」をしていたり、「先のことより、今の重荷」とばかりにリストラ一途であったつい先頃までの状態、に較べればましではある。しかし、「模様眺め」とは、まさに「内なる戦略」が無く、外の動きにばかりに気を配る姿勢以外ではなかろう。今、何を為すべきかが、相変わらず悶々と模索され続けているという状況なのだと言える。
 確かに、「今、何を為すべきか」はそう簡単なテーマではない。みんながみんなそう感じているのだから、当該のラインがくっきりと浮かび上がってくるわけがないのだ。つまり、消費者、ユーザでさえ、何が欲しいのかまるで自覚できない混沌とした心理状況にある。もっとも、消費者、ユーザなるものは、いつも製品が目の前に置かれてからそれへの欲求が自覚されるというものであったから、ことによったら、今も潜伏してそうしたニーズが存在しているのかもしれない。ただ、消費者、ユーザは未曾有のスピードの環境変化にさらされているのだから、ひと頃よりも、さらに移ろいやすいニーズとなって捉えどころがなくなっている気配を感じる。
 こう考えると、「模様眺め」のスタンスを堅持する企業側の対処法がますます現実的なもののように思われてきてしまう。「踊るあほうに見るあほう」の後者に回る企業群が利口だとする空気が支配していそうだ。

 ところで、派遣スタッフに仕事を消化させる傾向については、ふたつのケースがあることを前提にしなければならない。
 その一つは、前向きなものであるはずだ。一言で言えば、ますます強まる「プロジェクト」型ジョブの採用にとって、専門能力を持つテンプ・スタッフは不可欠な存在だという点である。特殊な専門能力を持つ人材を、各社が一様に抱えることは不可能であるし、また非効率的でもある。そこで、企画されたジョブに潜む「特殊専門的な部分」をテンプ・スタッフに補ってもらおうとするわけである。
 この場合、専門能力を持つテンプ・スタッフが担うジョブの目的と範囲が明確化されていることが、スタッフの能力を引き出し、またプロジェクト全体が成功するための鍵となるに違いない。
 が、実際は、企画が明確なかたちで熟しておらず(=仕様が凍結されておらず)、「生煮え」状態を承知で協力してくれるスタッフを求めるケースが多く、またまたそれに応じるスタッフも多い。

 もう一つは、とにかくオーバー・フローしたジョブを、低コストで消化するためにはテンプ・スタッフを活用せざるを得ないという、どちらかと言えば量的性格の問題である。いわゆる「助っ人」であり、このケースが圧倒的に多いと思われる。かつての、ソフト開発での「人海戦術」はまさにこれであった。
 ここでも、問題がある。ジョブのオーバー・フローが、たまたま生じるというのではなく、「常時」発生しているケースが少なくないことなのである。要するに、低コスト化だけが見つめられた結果だと言えよう。ならば、「請負型」でアウト・ソーシングすれば良いものを、前述のように、仕様を凍結できない事情(能力的、時間的問題!)から「派遣型」を選ぶことになるのだ。

 実際には、両ケースが混在したかたちでテンプ・スタッフが要請されているようであるが、共通した問題点だと思われるのは、下世話な表現をすれば、「安かろう、悪かろう」のお買い物をされていると思われる点ではなかろうか。
 仮に月額「単金」が高くとも、短時間で良質な成果をアウトプットするならば、十分にペイするはずである。それを選ばすに、いや、それを選ぶのならば「請負型」の発注をしさえすればいいことにもなる。そうではなく、比較的「値ごろ」なテンプ・スタッフを求めるのは、どこか違うような気がしてならないのである。
 極端に言ってしまえば、ジョブの質に向けられた関心よりも、「予算(内)消化」が優先するという本末転倒が生じているのかもしれない。で、こうしたことに鋭く切り込めないのは、ジョブの責任主体がはっきりとしていない企業体質に問題があるのかもしれない、と強く感じている。

 NHKの人気番組『プロジェクトX』が、クールでない分「臭い」という評価をする人がいる。確かに、当時と較べれば、醒めた要員が多くなった時代であり、同じようには行かないであろうと思う。しかし、思うのは、現代版『プロジェクトX』が存在し得ない理由は、そんなに多くはないと考える。要は、リーダーの影が薄く、リーダーの「使命感」があまりにも希薄となってしまったことなのだろうと思っている。思えば、ニッサンの再起は、ゴーン氏が、日本の実態に染まらずに、果敢にこれを発揮したこと以外にないと考えている。「知識」でなし崩しにされたマインド・ファクター(精神的要素)であるリーダーの「使命感」なるものを、改めて注目すべきだと思っている…… (2004.01.08)


 通勤途中のクルマから、まだ雪を被っていない丹沢の峰々の後方に、雪で覆われた山岳の頭が垣間見えた。ひょっとしたら八ヶ岳、もしくは大菩薩であったかもしれない。「こっちはもう真冬なんだぞー」という声が聞こえるようだった。山梨や信州の山々はすでにしっかりと雪で覆われている模様である。
 今朝も、北風が残り、寒い朝であった。が、「心ひとつで〜暖かくなる♪」という吉永小百合の精神主義にてウォーキングに出かけたものだった。空気は冷たくとも、まぶしいほどに朝日が照りつけているので、気分が滅入る隙間はない。
 いつぞや文章にも認めた「かもめ」が、境川上空を流れるように飛んでいる。毛並みにツヤがあり、いかにも群れを抜け出した「一匹狼」のごとくエネルギーが充満しているように見えた。あのようでなければいけない。自分の身体を信じ、自分の命は自分で養ってゆくべし、なのだと思ったりした。

 もう、若い時のように自分の身体が「無傷」であるというわけにはゆかない。気にすれば切りがないほどにあちこちに支障が潜む。結局、皮膚科の医院のお世話になってしまった「蕁麻疹」はようやく消えかかってきたが、相変わらず「五十肩」で右肩に時々痛みが走るのが気になってしまう。「肉体派」の自分としては、主力の右腕がその付け根から痛むのは何としても切ないものだ。これでは、いざという時(そんなものがあるのかどうか……)に切っ先が鈍るというものである。何とか早く治したい。

 寝ている時に、右肩を下にして痛みを感じるからなのかどうか、奇妙な夢を見た。
 親と暮らしていた当時の家で、玄関かどこかのガラス戸の「桟」が、ガラス自体はどうということがないのに、全体的に崩れ出していたのである。触ると、ガラスを留める力もなくなり、ガラスがずり落ちてしまうのだ。
「こりゃ、『桟』を全部取り替えないといけない!」
と、自分はおふくろに向かって話していた。
 その後、自分はすぐに商店街へと向かって、さもガラス屋、建具屋に目星がついているかのように歩き始めている。とある、建具屋らしき店を覗き込み、
『「桟」だけを売っていたりするのだろうか?』
と考えていた。店主が顔を出したので訊ねてみると、一時奥へと引っ込み、出てきたかと思うと、
「こういったものね。今、全部は揃っていないのでこしらえるのにちょっと時間がかかるよ」
と言うのだった。
 とその時、財布も持たずに飛び出してきたことに気付いた。それもあって、
「じゃ、こしらえておいてくださいな」
と言い残して、来た道を戻る、といった按配なのであった……

 昨今、ありありと夢を覚えていることが少なくなったが、昨晩の夢は妙にリアルに覚えていた。一体何を意味しているのだろうか、と思った。若い頃には、覚えていた夢の解釈を楽しんだものだが、今は、どうも夢とは脳による記憶の「在庫確認」もしくは「在庫整理」ということらしいので、意味あり気な解釈は無意味だと思うようにはなったのだが……。
 それでも、あえてこじつけるならば、「ガラス戸の桟」=「物事のフレーム」と見なし得ようか? つまり、本来は中身(ガラス)よりも耐久性があるはずのフレーム(=桟)が、頼りなく崩れ落ちるイメージだということか。しかも、そうしたフレームを、有識者たちが代替を作るのではなく、建具屋といった庶民がいとも簡単に作ってしまう、ということになる。なんとも暗示的といえばそうも言えそうだ。

 そう言えば、いたるところで基本フレーム(枠組み)の見直しが行われたり、その必要が実感を深めているようなご時世なのである…… (2004.01.09)


 ふと、先日の川崎大師初詣の際に、護摩焚きの「前座」にあった「ありがたき説教」を思い起こした。
「お母さんたちはよくお子さんに向かって言いませんか? 『お母さんの身にもなってよ!』と。しかしね、それは無理というもの。だって、お子さんたちは、お母さんになった経験がないんですから! ねっ、そうでしょ、違いますか」
といったくだりである。
 まあ、経験の問題でもあり、また想像力の問題でもあるのだろうが、いずれにしても、この手の意思疎通の不具合というか、相互理解の挫折が、現在いたるところで人々を悩ませていることは事実であろう。

 私自身、経営者としての立場その他で、そう思うことがないではない。とりわけ、何にせよ責任者としての立場にあれば、起こり得るすべての事柄に関心を持たざるを得ないことが、それぞれの限られた守備範囲の立場の者には理解も想像もできないものなのであろう。まして、環境が厳しくなり、各々の立場自体がきゅうきゅうとしたものともなれば、経験したことのある立場のことでさえ等閑視(とうかんし)するに至るのであろう。
 たぶん、養老孟司氏の『バカの壁』がベストセラーとなった背景には、こうした事情が潜んでいるに違いない、と感じてきたものだ。そして、この事情に対しては、残念ながらはなはだ悲観視している。

 すべての人が同じ経験をすることなどは考えられようがない。また仮に、同じ経験をしたとして、同じ感情や考えが生まれるはずもない。人は、頭脳や心の構造の違いによって、それぞれ別個な解釈が可能な存在だからである。
 かつてのこの国では、人々の生活経験というものにさほどの差がなかったのかもしれない。農業社会であった当時はもちろんのこと、工業化社会となっても、生活経験には共通点の多い均一性が見受けられ、その環境が、交わす言葉が少なくても相互理解を可能とさせていたのかもしれない。
 が、現代では、人々の生活時間帯ひとつ取り上げてみても、千差万別の差異に気付かざるを得ない。職業の種類も多様化しているし、あれやこれやの差異をひっくるめると、まさに、価値観の多様化と見えるほどのバラエティがありそうだ。
 異なった生活経験をしている相手に、想像力を働かせ妥当なイメージや理解を得ることはかつてないほどに困難となっているのではなかろうか。

 加えて、気掛かりなのは、人々の想像力の内実なのである。
 現代人が想像力豊かであると考える人は、まず少ないだろうと思う。ラジオという、聴くことでそのイメージを想像しなければならなかった時代は終わり、「百聞は一見に如かず」の「一見」が汎用的になってしまったテレビ時代である。「一見」でもわからない人のためには、「字幕スーパー」まで用意されたりもする。テレビだけでは不便とばかりに、昨今では「画像送信」の「ケータイ」が普及し始めてもいる。あたかも、想像力などを働かせる余地などないほどに、事実は「多弁!」となってしまったのだ。
 と言っても、本当は、「一見」というビジュアルなものが事の実体と本質を伝えることは難しく、ビジュアルなものをもってそれらを想像する(思考する)ことでなければならないはずだろう。しかし、「一見」は、わかった気にさせる妙な説得力というか、強制力というかの力を発揮するところが恐ろしい。いずれにせよ、人々の想像力と思考力は、窒息気味となるのだと思われる。必要のない能力は常に退化する道理である。

 だが、現実は本当に想像力というものを要求していないのであろうか?
 自明の理の塊(かたまり)であるようなシステムさえ増殖してゆけば、想像力などという柔らかく、不確かな人間力に頼らなくとも済む、とでも見なされているのであろうか?
 事実、あらゆる領域で推進されているデジタル・システム化は、それを目指しているに違いない。「改札駅員」の改札は、多分の想像力に支えられた観察力によってなされてきたと思われるが、自動改札装置、さらに「Suica」などのシステムがその場を奪うことになってしまった。JRの駅員たちの想像力はどうなってしまうのだろうか。新幹線の運転中に「ケータイ」通信をしてはいけないということも、身に照らしてまともに想像できなくなっていなければいいが、と思ったりする。

 人間の想像力の麻痺、欠落をバーターとしたシステム化の進行が、予想もつかない大惨事を呼ぶのではないかと杞憂する人もいないではない。その通りではないかと思う。
 が、それよりも、日常生活において「何を考えてるのか?」と感ぜざるを得ない実情がもっともっと痛々しい気もする。これらは、決してたまたまの出来事なのではなく、現代という時代環境の必然的結果なのだと考えている。
 かつて、夢を食うのは獏(バク)という想像上の動物だと言われた。今、その想像上の動物獏を、その由来ともどもシステムが平らげようとしているような気がする…… (2004.01.10)


 反射的にカチンとくるような人に遭遇することがある。しかし、そういう人は、得てしてたまたま「道を誤る」というよりも、誤った道に突っ込んで右往左往している、と言ってみたくもなる。一時的、偶発的な誤りというよりも、その誤りは「氷山の一角」ではないかと思われることが以外と少なくないかのようだ。よく言われる、交通事故とは、アクシデントであるよりも、構造化した悪相運転の結末だというように……

 今朝も、日曜とはいえ、事務所に来てみると、事務所前の弊社専用と断り書きをしている駐車スペースに、とある「宅配便」のワンボックス・カーが止めてあった。しかも、隣のスペースにまたがる横付けのかたちの中途半端な駐車であった。いくら休みの日とはいえ、「絶対にここの使用者は来ない!」と決めつけたかのような横着さにカチンときた。隣に止めることも出来なかったのである。「宅配便」の名前が入ったクルマであったので、どうせ近所の家に飛び込んでいるのだろうと思い、クラクションを鳴らしてみた。案の定、中年の男が頭を下げ下げクルマに戻って来て、その場を空けた。

 私は思ったのだが、「宅配便」の名前が入ったクルマではあるが、「軽」であり、そしてプロらしからぬ駐車をするところを見ると、本筋の「宅配便」ではなく、個別「契約」をして自営でやっているケースではないかと推測した。「社名」入りのクルマを分割支払で購入し、あるエリアの荷を任されるというやつである。確か、そのことを知ったのは、そうそう、ビルのフロアーにガソリンを撒いて窓ガラスをも吹き飛ばす大爆発を起こした犯人が、そうした「契約」をしていたのだった。そして、思ったほどの収入にもならず、支払サイトも長かったことに腹を立てた…… とかであったかと思う。
 私はクルマを所定のスペースに止めながら、やれやれ、と感じていた。

 上述の業務契約は、一見、サイド・ビジネスとしては合理的で、そこそこ期待が持てそうな気もしないではない。しかし、それほど甘くないのが現実であろう。
 私も学生時代に、デパートの商品を中元・歳暮の時期に配達したことがあった。定かな条件は忘れたが、朝一から、真っ暗になるまで配り続けて、普通のアルバイトの日当と大した差が無かったと記憶している。問題は、配達先を探し出すことと、おまけにちょうどその家の住人が在宅であることというきわめて不確かな条件に依存していることなのである。新聞配達のように、身体に覚えこませたルートで、住人が居ようが居まいがポストに投げ込めばいい、というようなものではない。要するに、割りに合いにくい作業だと思える。
 以前、ある「宅急便」の本職をしていた者が、そこを辞め、私が勤めていたソフト会社の営業職に応募してきたことがあった。話を聞くと、確かに、うわさ通りに月収50万円以上を手にしていたのだそうだ。しかし、継続してはやれない過酷な条件であったと話していた。自分でなければ時間内にはこなせない目いっぱいの作業を、毎日継続するということは、生身の人間ではなく「機械」とならなければならないからだったと言う。
 そこへいくと、「契約」で行う業務は気がラクなのかもしれない。任せられる仕事量も任意性がありそうでもある。勤務日の選択も可能だとかいう。
 しかし、そうした条件緩和こそが逆に足枷となりそうだと思えるのだ。先ず、収入が圧倒的に少ないに決まっていよう。購入したクルマ代の返還もしなければならない。また、そもそもが、一見「イケそう」という安直さがあったために、本職の「飛脚」のような張り詰めた姿勢が端から生まれようがない。冒頭の「チョイ止め駐車」の中年男の行動は、まさに「チョットやってみる」姿勢がありありだったかと見えたものだ。これが、致命傷となりかねないのだと思う。自己満足や気の緩みにストップをかけることが、時間経過とともに至難の業となりかねないからである。

 こうした「逆説」は、結構ありそうな気がする。あの自宅勤務を特徴とする「SOHO」なども好例である。また、妙な例では、「気軽さ」で突破口を開かせる「消費者金融」もこの手のワナを仕掛けているし、少しずつ分けて購入させるシリーズ的なものの販売もこの種のものだと言えそうだ。
 そして、今最も危険な対象はと言えば、「行き掛かり」のような機会を以って、「なし崩し」的に戦争への道を「舗装」して行こうとする政府の動向ではないかと…… (2004.01.11)


 新しいゲームなり、新しいアプリケーション・ソフト、あるいは馴染みのなかった開発言語に取り組む際、手当たり次第、闇雲に立ち向かう人は大体失敗するものだ。その対象が秘めた「ルール」というか「構造」といったものを手探りして会得しようとする人はまずまず無難な入り口を見出すことになる。「郷に入れば郷に従え」のたとえそのものだと言える。
 そんなことはわかっているようだが、必ずしもそんな道理に沿っていない場合も少なくない。惰性的で、勝手な思い込みで、いきなり判断へと勇み足となり、挙句の果てにとんでもない誤解へと突入してしまい、対象の姿がまるで見えなくなってしまうようなケースのことである。

 先入観、偏見というものがあり、多くの場合それらは「特殊なケース!」なのだと見なされてきた。少なくとも自分はそんなわかり切った認識上の過ちは犯さないと信じ切っているはずである。
 しかし、こう、環境変化が規模においても速度においても著しいと、知らず知らずのうちに、結果的には先入観や偏見の類に陥ってしまっているという場合がありそうに思えるのである。
 ただ、あらかじめ一つ断っておくとすれば、かつて先入観、偏見とは、明らかに「王道的な、正しい」ものの見方があり、そこから外れた受けとめ方をそう呼んでいたように思う。いわば、常識的なものの見方に対する歪んだ、非常識ともいえるものの見方を非難する時に使われていたかのようである。
 だが、「王道的な、正しい」という基準自体が、現在では揺らいでいそうである。そうした変動期が現代なのかもしれない。そうすると、何が「王道的な、正しい」基準であるのかが自明でない分、何が先入観で、偏見なのかも簡単には言えなくなっているはずなのである。ここら辺が実にややこしい問題だと思える。

 先日、NHK ETVスペシャル「"心の闇"を超えて 〜作家・重松清の少年事件をめぐる対話〜」(1月10日)という興味深い番組があった。
 昨今指摘される「少年犯罪の多発と低年齢化・凶悪化」という現象を、どう受けとめていけばいいのかを扱っていた。
 いろいろと触発されたことの多かった番組であったが、やはり、宮台真司(社会学者)氏のスタンスに共感を覚えた。
 とかく、大人たち、そしてマスコミは、「奇異な」事件を起こす青少年たちを、自分たちとは異なるという点のみを強調して異端視する。しかし、数量的に言っても、決して現在の少年犯罪数は増加してはいない。また、何よりも、なぜという点を事実を追って詳細な調査を進めていくならば、以外とそこに「それなりの論理」や「必然性」らしきものさえ見えてきたりするもの。むしろ、大人たちが、自分たちの経験とそれに根ざす発想を固定させ、それらに合わないものを排斥するかたちで、不安がったり、非難したりするところにこそ問題が潜伏しているのではないか…… といった論旨であった。
 宮台氏は、かつて「ブルセラ」女子高生たちと対話に基づいた調査をしたことで知られてもいる。そこには、疑問となる対象に対して、自分側の論理で裁断することを留保して、対象側の独自な論理を模索しようとする、ある意味では社会学者の真摯な姿勢が存在したのだと思っている。

 今日も、「成人式」ということで、各地の成人式の模様が報じられた。彼らの髪形にしても、晴れ着にしても、さらに話す言葉づかいや歌う歌などすべてが、変化の時代をかいくぐってきたものである。一見しただけでは、その光景は、「異様」さとして見ることもできる。あまりにも、かつてのわれわれの時代との差異が著しいからだ。
 正直言って、そんな光景と「お付き合い」することはまっぴらごめんである。疲れてならないからだ。しかし、排斥することは抑止したいと思っている。きっと、彼らのスタイルには、また生きるスタイルには、現代の環境がそうさせる「必然性」に近い論理が潜んでいるに違いない、とまずは思いたい。そのことは、それを是認したり、賛同したりすることとは異なる。自分たちの論理だけが、論理なのではなく、事態には事態特有の論理が内在している、と考えようとしているのである。

 われわれの世代は、ややもすれば「同一の状況」「同一の経験」そしてそれらに貫かれた「同一の論理」を過剰に求めたのかもしれない。極端に言えば、「内」と「外」、「身内」と「よそ者」の論理で終始した農民習慣から一歩も出ていなかったのかもしれない。 しかし、グローバリズムを持ち出すまでもなく、われわれの周囲には、そうした「同一性」を切り崩す「異質性」の事象が日常茶飯で発生している。もし、それらを自分とは同一ではないからといって排斥し続けるならば、どんなに忙しいことになってしまうか、どんなに不安を亢進させてしまうか、ということなのである。
 むしろ、「異質性」と気楽に接触して、表面からは窺い知ることがない「それなりの論理」を覗かしてもらうのも楽しいのかもしれない。
 ともかく、激動の環境にあっては、「異質性」との遭遇の仕方というものを自分なりに会得しておく必要がありそうだ…… (2004.01.12)


 今朝のウォーキングは、とにかく手がしびれるほどに冷えた。両手に握る鉄アレーが、氷の塊のように思えた。靴用の「ホカロン」を両手に装備しても、暖かく感じたのは最初だけであった。冬山で遭難した人はさぞかし大変であっただろうと、唐突な思いがよぎった。当然だろうが、シトシトと冷たい小雨が降る遊歩道を散歩する人は誰もいない。ペット愛好家も敬遠している気配だ。通勤で自転車を走らせる人でさえ、降り注ぐ雨で顔をゆがめている。内心では、『何も連休明けにこんな天気とならなくたっていいじゃないの……』と思っているに違いなかろう。本格的な冷え込みはこれからなのであろうか。

 ニワトリたちがとさかのついた頭(こうべ)を垂れて死ぬ様は、哀れに思えた。「ニワトリ・ウイルス」(鳥インフルエンザ)で大量にニワトリたちが死滅した報道である。
 家内がポツリと言った。
「今年は大変なことが起きる、って牧師さんが言ってた」
 家内が通っている教会の牧師は、私も知っている。「霊感」能力を持っているとしか言いようがない女性の牧師さんである。その「霊感」について信じざるを得なくなったのは、プライベートなことで事実を見事に「透視」したことがあったためである。
 その牧師が、年初めの説教で、今年の概況について触れた言葉が「大変なこと」であったと言うから、何とはなしに思わずドキリとしたものである。

 「今年は明るい年になるに違いない!」などと、どんなハッタリ屋の評論家でも口にしない暗い世相である。まるで「通奏低音」のように、途切れることのない「不吉な」低音声部が、通常なら楽観的な人々の心の底辺をも這っているかのような時代である。
 そう言えば、コイを死滅させたウイルス、米国でも発生した狂牛ウイルス(BSE)、そしてニワトリ・ウイルスと、人間のそばで生きる動物たちの不可解な奇病が不気味である。もとより、「新型肺炎SARS」の再燃が懸念されてもいる。
 これら以前に、テロ・戦争や、経済不況などを併記するならば、「通奏低音」どころではなく、不安の「独奏」、もしくは複数の不安楽器による「コンチェルト」の様相を呈しているとさえ言いたくなる。

 そう言えば、あのゴーン氏(ニッサン)があるところで話していたのを思い起こした。「『不安』は必ずしも忌み嫌うものではなく、それは挑戦への入口、前奏曲のようなもの」という意味の言葉であった。
 たぶん、人間が環境から何がしかの危機を察知した時、それらへの応戦体勢として生み出されるのが不安というものなのかもしれない。「アドレナリン」の分泌のなす業だと言ってもいいのかもしれない。
 別に、「高見盛」のようにビシ、バシ、エイッ、ヤッと、オーバーに気合を入れなくても(入れてもいいが……)、とにかく不安のあるところには応戦体勢なり、臨戦体勢なりがあった方が良さそうかもしれない。と言っても、自衛隊が軍隊となることを指しているのではなく、思いっきり「自身で感じ、自身で考える」そんな体勢を築くということかと思う。

 この冷え込んでいく寒さにしても、そんなものは無いかのような暖房環境ばかりに依存せず、それをそれとしてしっかり感じ取る経験もまたあえて選択してゆくべきなのかもしれない。まるで、「古人曰く」のような言い草ではあるが、どうも「古人」たちの生活体験を凌駕し切ったつもりでいる、その錯覚がアブナイような気がしている…… (2004.01.13)


 名作文学の「あらすじ本」がブームを呼んでいるとかである。しかも、当初のねらいであった「読書離れの中高生」にではなく、中高年に受けているらしい。「昔触れた作品が懐かしかった」というシニアや、「教養としてあらすじだけ知っておきたい」という忙しいビジネスマンに受けているとのことである。「仕掛け人」たちが期待した、原書を読むことのきっかけという点では、大手書店の販売実績においてはその兆しは見られないという。(毎日新聞1月7日)
 この現象を、大上段に構えてけなすこともできるし、やっぱり、実感としても「違うなあ〜」と言うこともできる。だが、書店へ行ってみると、確かに店頭の「平積み」コーナーには何種類かの「あらすじ本」が目を撃つ。ちょっと手にしてみようかと思ったりすることはする。こうした衝動とは一体何なのだろうか?
 なぜ「30万部」も売れるブームなのかは一応記憶に留めておいてもいいのかもしれないと思った。また、一昨日、書いたように、そうした「必然性」もどきを垣間見ておいてもいいかと……。

 よく、スーパーなどで食料品を購入しようとする場合は、空腹時はやめた方がいいと言う。自分も経験上そうだと納得する。空腹時だと、目に入るものがすべて旨そうに見えてしまうものである。次から次へとショッピング・カートに放り込みかねないのだ。そして、自宅に戻り、その一袋でも食べると、ようやく、買い過ぎた後悔の念に苛まれたりするという按配となるからだ。
 書店をぶらつく場合も同様のことが言えそうな気がする。評価感覚が「メルトダウン」しているような時、そう、たとえば体調不良なんぞで惨めな気分となっていたり、仕事上の悩みで自己嫌悪に陥っていたりする際に飛び込むと、とんでもない甘い期待と評価で、まさに衝動買いをしてしまう確率が高い。しかも、あれもこれもと購入して、そのズッシリとした重みが、さも頼もしく思えたりもするからアブナイ!
 とにかく早く寝ようと眠った翌日には、「何でこんな付録のような本ばかりを買ってしまったのだ!」と正気に戻ったりする。(そんなケースは自分だけかもしれないが……)
 つまり、書店での本の購入というのは、極めてリアルタイムの気分に左右され易いということなのである。そして、中高年の人々がターミナル駅にある書店などに寄り道する場合というのは、いつも「尋常な気分」ではなくなっているのではなかろうか。
 飲みに行く元気もカネもなく、かといって勇んで帰るほどに自宅が明るく思い出せるわけでもない。しかし、何かチョット気分を変えてみたい気がしてならない。職場でのわけのわからない人間関係のゴタゴタ気分を、産地直送的に「みやげ」で持ち帰りたくはないのだ。ざっと、これが最大公約数的な中高年の帰社時の心情なのかもしれない。勝手に決めつけてはいけないが、逆に喜び勇んで帰れるような中高年とは、ろくに仕事もしないからこそストレスも無い『釣りバカ日誌』のハマちゃんくらいであろう。

 何を書いていたのか忘れるほどに、前置きが長くなってしまった。要するに、昨今の新刊本というのは、こんなシチュエーションをしっかりと企画テーブルの上に載せた上で出版されているに違いない、ということなのである。
 その第一、第二のコンセプトは、「一気に読める気軽さ!」であり、かといって、一頁一字では「なめんじゃねぇ〜ぞ」と言われそうだから、何やかやと文字数が少ないことの理屈というか、大義名分をこしらえてあげたりする。曰く「忙しいエグゼクティブには、経営のエッセンスのみを速読していただきます」とか、詩の一行ごとを最大限重視したかのような「美しい写真と共に世に贈る写真詩集」(ex.『千の風になって』)とかいろいろとある。理屈がつくと、プライドが傷つけられないために、「おっ、そうかそうか、じゃまあひとつ『読破!』してみるか」ということになり易いのかもしれない。

 そんなところへもってきての『あらすじで読む日本の名著』ともなれば、ともかく打って付けなのであり、「特注」感すら感じたりするのではなかろうか。もとより、タブロイド版のえげつない記事には食傷気味となっていたりするのだろう。また昨今の週刊誌は、読めば読むほどに不安が掻き立てられ、イライラも募らされたりするものだ。
 あるいは、ひょっとすると若い連中に、
「こう見えても、オレって、文学にはちょっとうるさいのよネ」
なんて、文学なんぞにはド素人であることが百もわかっている若者をいいことにして、恰好をつけようなんていう魂胆も、無きにしもあらずかもしれない。まあ、そこまで行かなくとも、クイズ番組なんぞでは、「よし、これ、オレに任せて!」くらいのことは言えるのかと……
 口が裂けても、こんな人生はイヤだと思い続け、密かに文学という二文字が何となく遠くにチラつく灯火だったんだ、なんて言えたものではないし……

 それにしても、どこの誰だかわからないライターによる「文学の」ダイジェスト版を読むなんてことが一般化するほどに、「知識」は盲信されてしまっている。そこには、他人の「精神的下着」を身に付けて平気でいられるごとき無神経さが蔓延しているのかもしれない…… (2004.01.14)


 子供は、良くも悪くも「傍若無人」なのだな、と再認識させられる。JRの電車で子供づれの親子と乗り合わせたのだ。その小さな男の子が、電車の走行音に負けじとばかりに、澄み切った大きな声を張り上げて母親に話かけているのであった。
「すごくかわいいんだよ〜、それって。柔らかい布でできててさ、触るときもちがいいしさ……」
と、何か自分が感じたあるものを一生懸命に説明しているのだ。
「電車の中ではそんなに大きな声を出さないの!」
 母親は、多分口癖にもなっているのかもしれない、いつもどおりなのであろう注意をしていた。が、母親とて、そんなことで収まるとは思っていないに違いない。一応、他の乗客の手前もあって、『注意してもダメなんですよ、この子は……』とでも言いた気に聞こえた。
 近くにいた中年女性二人連れの片方が、
「ああいう子って、『疳(かん)の虫』がいるのよね」
などとささやいているのが耳に入った。なおも、その男の子は、「機嫌よく」話しつづけている。
 私はというと、ああいう子も十年も経つと、まるで自閉症のように無口になるのかなあ、という醒めた思いにとらわれてしまっていた。さらに、その十年間に一体何を経験するのだろうか、という追い討ちがかかったりもした。

 「傍若無人」の迷惑さが薄れていくことはよい。だが、それとともに、現在のような率直さ、自分自身の体験上で湧き上がる生きた思い、言葉づかい、それらを「一次」情報とでも呼んでおきたいが、それらを、「高次」の情報である知識特有の匿名性の言葉に置き換えられていくとすれば、それを教育の成果というのはおぞましい、と想像したりしたのだ。
 早い話が、子供が自分が見て、触れて感じたからこその言葉が、役人たちが扱うところの、政府通達かなんかで天下り的に伝えられた文字面(づら)の言葉などに取って代わられていくとするなら、虚し過ぎるじゃないか、と。また、自分の感覚を素通りした言葉は、どうしたって責任が持てなくなるのはわかり切った話でもある。無責任が、起こるべくして起こってしまう道理にもつながる。
 「事件は、机上で起きているのではなく、現場で起きているんだ!」というどこだかで聞いた声に、まるで呼応するかのような、役人の延長である大臣などが、作業ユニフォームで災害地の視察をしたりするTV図なんぞを見せつけられることがある。それを見せられるといつも不快感が立ち上がってしまうのはなぜだろう。
 そうでもしなければ実情が伝わらないほどに、現場の「一次」情報と、役人や政治家たちが頭に詰め込んでいる「何次」だかわからない「高次」情報との間の接合性が悪いということを、自ら告白しているようなものだからかもしれない。今時、「水戸黄門さまの行脚」でもないでしょ、と思うわけだ。

 しかし、こうしたことは他人事ではない。仕事で都心に出たりすると、「一次」情報を得ようとして、きょろきょろと周囲の人々の身振りや表情を観察する自分がいるかと思うと、もう一方に、車内の週刊誌などの吊り広告に目を向ける自分がいたりもするのだ。そんなものは、「三次」「四次」の「五次(誤字)脱字」情報であるにもかかわらず、気にしてしまう自分がいるのだ。度し難いほどに、「高次」加工情報にどっぷりと浸かってしまっているのが現代人なのであろう。
 一概にそれが悪いことだと言うつもりはない。ただ、数学の高度な「公式」を丸暗記して適用するくせに、初等数学いや算数の「ツルカメ算」などがわからなくなってしまっている受験生のようなそのイメージが、情けなく思えるのである。

 「第三次」だか、「第三・五次」だか、「第四次」だかの産業へと這い上がったこの国ではあるが、「第一次」産業従事者たちが駆使した身体での体験、身体の感覚、おしなべて「身体で考え、確かめる」という「低次」ながらの基本を忘れちまったら、結局、自分がなくなるのが理屈じゃないのかなあ…… (2004.01.15)


 このところ、あちこちで外国人労働者の姿に遭遇する。今朝もウォーキングのあと、犬に散歩をさせている際、工事現場から聞きなれない外国語らしい大声が聞こえてきた。振り向くと、見慣れた、ニッカズボンに地下足袋という労務者ふうのいでたちではあったが、顔は外人であった。建築の基礎工事に差し掛かっていた近所の現場である。
 先日も、あるソフト会社を訪れた際、色黒の外国人らしき技術者が働いている光景を目にした。今やソフト開発現場では定評となったインド出身者であったかもしれない。
 いつの間にか、労働現場での外国人の姿は見慣れるようになってきたのだ。スポーツでも、国技たる相撲でも外国人勢が目立つようになってもいる時代だ。

 飼い犬の散歩時にいろいろと考えてしまった。鳥の翼のように両方がへの字に折れ、まるでかもめが羽ばたくように動く犬の両耳を、見るとはなく見ながら、これからこの国はどうなって行くのだろう、と。少子高齢化なのだから、いくら閉鎖的なこの国でも、外国人労働者を旺盛に迎え入れてゆかなければやってゆけるはずもない。そう考えると、みるみるうちに増えていきそうな気がした。
 とともに、そうなるといろいろなトラブルも起こるのだろうか、と心配にもなった。言葉、文化の違いからあちこちで「行き違い」の問題が起こるのだろうか、と。食べ物屋で注文したものが「行き違い」となり、「こんなもの頼まないよ!」ということにもなるのだろうか、と。
 が、そんな時、ふと、思い起こしたのが、しばしば足を運ぶある中華飯店のことであった。別に外国人でもないれっきとした日本人女子高生のアルバイトたちが、まさにしばしばオーダーの聞き取りミスをして客から顰蹙(ひんしゅく)を買っていた光景なのである。何だ、「行き違い」のトラブルなんか、日本人同士で既にあるわけだ、と思ったわけである。

 しかし、同じ職場で協働することになるとちょっとわけが違うのかな、と矛先を替えて考え直してみた。コミュニケーションやインストラクションの際に、思わぬ「断絶」があったりするのかもしれない、と想像したのである。相変わらず、飼い犬の両耳が、歩くたびにヒラヒラとかもめの羽ばたきのようになっているのを見つめながらであった。
 とその時、ある知人の嘆き顔が思い起こされた。
「おれ、もう参っちゃったよ。何から何まで指示して、細かく説明して、しかもだよ、ちょっと荒っぽく言ったらすぐつむじ曲げてしまうし、若いヤツと一緒に仕事するのはヤダなあ。仕上がりも悪いし、手がかかっても自分でこなした方がどんなにラクなことか……」
 そうなんだ、別に外国人たちと「コラボレイト」しなくたって、世代の異なる同国人部下を使うことで、すでに立派なトラブルが発生しているんだ! ウーム?!

 だけどだよ、どんどん外国人が巷に溢れるような地域社会ともなれば、伝統文化の雰囲気というものが衰退していくんじゃないか? という取って付けた疑問も首をもたげてきた。飼い犬は、歩きながら時々振り返って人の顔をチラリと見上げたりしていた。
 が、この疑問に対しても、つい先頃の記憶が反証的に蘇ってきたのである。正月らしからぬ正月が、あっという間に過ぎ去ってしまったことである。外国人が巷に溢れなくたって、日本の伝統的風習なんてものは、とっくに形骸化して、欧米化・都市化され切った日常が、それらを台風一過のごとく押し流してしまっているわけだ。
 何のことはない、言葉・文化が異なる外国人が今後増えようが、溢れようが、もはや大勢に影響が及ばないほどに、この国は変化し切ってしまっているじゃないか…… 散歩時の瞑想(迷走)の着地点は、まさにこれだったのである。

 で、そんな人々と、仲良くやって行けるのだろうか? 最後の疑問が、引っかかっていた。が、散歩させている犬の姿を見ていたら、何となく楽観的な様相で溶けていくのを感じ始めていた。
『言葉や文化どころではない、<種(しゅ)>まで異なる犬たちとだってこうして仲良くやっているじゃないか。そんなわれわれが、外国人たちとうまくやってゆけないなんてことはないだろう。まあちょっと趣きは違うにしても……』
 散歩中の犬は、またまたこちらを見上げた。何となく、
「そう、そうですよ」
とつぶやいているようにも見えたから不思議だ…… (2004.01.16)


 最近はやたらと牛乳を飲んでいる。今も、キーボードの脇に、たっぷり牛乳のミルク・ティが湯気を上げている。
 ひところは、「カロチン」含有のニンジン・ジュースを飲み続けていた。「カロチン」が癌の発生抑止効果があるとかを盲信して、タバコは止めないで、気休めにニンジン・ジュースを飲むといった他愛無さであった。
 そして、現在は老化防止のつもりだったのだろうか、牛乳を気休めのターゲットにしている。就寝前には、寝付きが良くなるとの暗示もあって、ホットミルクを胃袋に入れたりしている。事務所でも、宅配してくれる契約をしてカルシウム増量のビン入り牛乳を飲んでいる。カルシウムがイライラ抑止策になるとの思い込みが加わっているのであろう。

 ところで、その宅配(事務所配?)の牛乳に、今週は大変な「異変」があったのだ。
 最近は、誰しもが加工食品を初めとして、野菜などに対してもナーバスとなっている。スーパーの袋詰食品にしても、ひところに較べるとその袋に書かれた「能書き」がやたらと多くなったという。無添加自然食を謳う農産物などには、生産者の名前から写真まで掲載されているらしい。新刊本のカバーの位置づけの雰囲気だ。
 で、いつものように、ビンのカバーを破り、キャップを開けて口に運ぼうとしたところ、正常ならば「リキッド」であるはずの牛乳が、「ソリッド」となって盛り上がっているではないか。一瞬、このところ冷え込んでいたのに加えて冷蔵庫でニ、三日寝かせていたため凍りついたのだと思った。さほど驚きはしなかった。やれやれ、解かすには手がかかってやっかいなことだ、と思った。しかし、その時冷静な頭脳が働いた。待て、一本だけが凍結することはなかろう、キャップに同じ日付が記された他のビンがなんでもなく「リキッド」なのに、これ一本がそうでないのは…… と訝しく思えたのだった。
 もしや、流通中に、何者かが「異物混入」を企てて、その結果がこうして固まってしまったのではないか。そうは、思えなかったのではあるが念のため、キャップや、薄手プラスチックのカバーをゴミ箱から拾い上げ精査してみた。が、注射器の針穴などの作為の痕跡は見つからなかった。他人から毒殺を謀られるほどの、そんな「あこぎ」なことをした覚えもないので、この線は消去した。
 とすると、これは製造過程でのハプニングということかもしれないな、と考え至ったのだった。その「ソリッド」状のものに異臭はなく、ちょいと舐めてみても痺れる味もなかったので、素人判断としては、細菌の混入による腐敗ではなく、製造過程中に豆腐製造で使用する「にがり」のようなものが混入したのではないか、と推断した。
 しかし、いずれにしても、これはメーカーにフィードバックして善処を要望する事態ではないかと判断したのだった。忙しい中、煩わしく思えもしたが、こうしたことになると放置できないのが自分であった。
 最初は、配達の業者に電話連絡してみた。しかし、電話に出た女性の何と「もったり」としたことか。
「でも、配達の者が今日は別ルートの日なので……」
と、事態の「重篤性」(それほどでもないかもしれないが、そうでないとは言い切れない!)にはまったく不釣合いな対応だったのである。『これを言うんだろうな、日本人には危機管理意識がないというのは……』と、私は思った。
 電話を切ったあと、私は感じていた。『もしこれが、一刻を争うような文脈を持っていたとするならば、いや、そうでなければそれに越したことはないが、なんというか、もう少し対処の迅速性というものがなければいけないよなあ』と。
 そこで、プラスチックのカバーに記されていたサービス・センターに電話しておこうという衝動に駆られたのだった。
 さすが、センターの対応者は、事の次第を話すと、サービス口調の声が硬いものに変わったのがわかった。可能な限り早く、当該のモノを調査のために預からせて欲しいと申し出てきたのだった。
 そうこうして、配達業者は責任者格の方が「お詫びのしるし」を持ってくるやら、メーカーの地域担当者が平身低頭で「ブツ」を回収にくるやらで、その日の午後は賑わうこととなったのだ。
 しかし、こうした経過で痛感したことは、やはりわれわれは「危機管理」に不得手なのかなあ、という苦い思いであった。頭のどこかに、「事件は起こらない! 机上でも現場でも起こらない! わたしの周囲では絶対起こるはずがない!」という固い信念というか、盲信とさえいえる思いに支配されているのが日本人なのであろう。
 自分自身のことを振り返ってみれば一目瞭然であるが、いい加減さと不注意は人間の最大の個性だ。いくらシステム化しようが、そんな人間が仕切っている世の中がパーフェクト・ワールドであるわけがないじゃないか。あっても当然なのが事故であり、事件なのだというくらいのシニカルさが、薬味として欲しいところだ…… (2004.01.17)


 <「最も強い者が生き残る訳ではない。最も賢い者が生き残る訳でもない。唯一変化できる者が生き残る!」by チャールズ・ダーウィン>
 興味を感じた、とあるコンサルタントの自己紹介の冒頭に掲げられていた言葉であった。なるほど、と思った。現代のビジネス界の激動を見つめていれば、ビジネス界上層の、その栄枯盛衰の相が同様のメッセージを発していることもおのずとわかる。そして、昨今の「勝ち組」企業のトップたちも、この点を異口同音に認識しているらしく、「次の一手を打ち出さなければなりません」などと激白していたりする。
 確かに、この「情報(化)社会」の環境にあっては、トップの位置にあるものは、僅少な事実によって、いつ「オセロゲーム」のカタストロフィ(破局)に似た逆転が生じるかもしれない可能性に警戒をしなければならないはずだ。現時点で、「強く」「賢く」あるだけでは、決して安心などできないのがこの現実の過酷さなのであろう。

 ところで、もちろん「チャールズ・ダーウィン」とはあの「ダーウィン進化論」のダーウィンである。進化論(Theory of evolution)とは、種は固定的なものではなく、時間とともに変化するものであるという学説であり、不明な点が多いながらも、現在では概ね科学的事実として受け入れられている。
 その中心にある理論は「ダーウィニズム」と呼ばれ、「自然淘汰」と「適者生存」という概念によって展開されている。つまり、「生物が住む環境には生物を養う資源(食物、営巣地など)が有限にしかないので、その環境で子孫を残すのに有利な性質を持った種族とそうでない種族とでは、必然的に有利なものが残って繁栄することになる。有利な性質を持っていることを適応していると表現し、適応していることが繁栄につながることを適者生存と表現する。この作用が自然淘汰である。」(『ウィキペディア (Wikipedia) 』より)ということである。

 今、日本および世界には、「ダーウィニズム」の社会的展開でもあるかのような「弱肉強食」的推移が見受けられそうである。現政府が唱えるところの「構造改革」路線とは、まさにその積極的推進以外ではなかろう。そこでは、社会的弱者のハンディをどう人間的に承認し、自然界とは異なる人間社会ならではの「補正」をしていくのか、という部分が歴史逆行的に捨て去られていると見える。
 本来、社会的弱者とは自然発生的に生じたのではないのであって、人為的な社会の仕組み自体が、構造的に生み出したものと考えるのが近代的発想である。そこでは、個人の勤勉努力や怠惰とは次元を異にした「社会的不具合」が、合理的な視点で認識されたのであった。百歩譲って考察しても、もし、社会的弱者を社会が放置し続けるとするならば、社会のオーバーヘッド(管理工数)は、やがて社会の構造を揺るがすに至るはずである。
 例えば、現在のイラク国民は、国際社会での社会的弱者の位置に追いやられたわけだが、これにヤキモキする米英両国は、人道支援に基づいてやっているなどと信じるものはいないだろう。もしそうならば、端から無差別攻撃などやるはずがない。テロというかたちにまでこじれてしまった社会的弱者たちの混乱を、このまま放置すれば自国の国益をそこなうほどにオーバーヘッドが極大化することを恐れているに過ぎないのである。「忠犬ポチ」たちに、派兵を促すのは、高まるオーバーヘッドを肩代わりさせる意向以外ではない。そんなことだから、この国の「人道支援のための自衛隊派兵」という公式声明が良識ある国民の心には届かないのでもあろう。
 話が込入ってしまったが、要するに、人間社会にあっては、強者・弱者は自然界のアナロジーで考えるのは、いささか無理なのである。

 そう踏まえ直してもう一度、冒頭の言葉に返るならばどうであろうか。
 先ずは、現在の大国も、「変化」なくして「覇権」を握り続けることはできないだろう、という点は見えてくる。(追随の「派遣」なんぞはもってのほかだろう)
 また、わが身に照らせば、社会的弱者の議論と行動については、時代逆行的に無視しようとする一翼には賛同できない。土台それは科学的でもないからである。
 かといって、リアルな現実を無視するような時代逆行的な理想論に立つことも腑に落ちない。とすれば、想うところは想うところとして維持しつつ、リアルな現実に触発されながら自身がどう「変化できるか」、それにチャレンジする以外にはなさそうだ…… (2004.01.18)


 オニール前米財務長官がブッシュ政権には01年9月の同時多発テロ前からイラクのフセイン政権を倒す意図があったと批判(暴露本(?))したことと関連して、先日、米国でのブッシュ批判のTVフィルムが紹介されていた。イラクへの侵攻を正当化すべく、「大量破壊兵器」の存在など国民に向かって述べてきたウソが指摘され、最後に、
「ウソは、本当の『大量破壊兵器』です!」
と結んでいたのだ。ナルホドと頷かせた。単なるレトリックというより、事実を抉り出した表現だと思えた。「大量」の米国民の理性を狂わせ、文字通りの「大量破壊兵器」の使用を促し、「大量」のイラク国民を殺戮したその引き金が、ブッシュ大統領のウソの発言(「イラクには「大量破壊兵器」がある!」)だったのだから、当を得ているわけだ。
 世論を支配できる立場にある者の発言こそは慎重に吟味、警戒されて当然である。意図的な虚偽はもとより、立場上知っている事実を隠蔽して真実が公表されないことにも責任が問われて然るべきであろう。

 現代のような時代環境にあっては、われわれはこうしたことに神経質とならなければいけないと考えている。それと言うのも、加工食品ではないが、現代のわれわれは、「一次」食品なり「一次」情報なりを自身の手で掴むことが不可能な立場に置かれているからだ。そして、その分、信頼されるべき立場の「公的な」もしくは「マスメディア」のような特別専門的立場の機関に、真実を伝えるという条件のもとに「情報収集・加工」の代行を委ねているからである。
 これこそ、「よ〜く考えよ〜!」である。現代のわれわれは、食品にせよ、情報にせよ、手元に届くそれらを自身の手や頭で吟味する立場にあるだろうか? その意思はあったとしても、技術的には不可能だと言わざるを得ないはずである。極端に言えば、母親の手で、口元まで運ばれる離乳食を「ウマウマ……」と言いながら口にする赤ん坊とどれだけの違いがあるかと思ってしまうのだ。このシチュエーションで、赤ん坊が、
「ちょっと待った、 母御さん! 昨今のペーストはやや苦味を覚えるが、何ぞ薬物なんぞは入っていまいな?!」
と言えたとしても(言えないか?)、厳密な調査・分析・証明はいうまでもなく不可能である。赤ん坊には、母親を信頼するしか手がないのである。
 これと同様な関係にあって、母親の立場に位置する政府などの「公的機関」や「マスメディア」の姿勢に重大な関心を寄せるのは、論理的に当然出てくる帰結のはずであろう。

 ところで、問題となるのは、「母親の真偽性」だけではない点にも着目したい。つまり、「母親」たちでさえ、加工「ペースト」の含有物の詳細はわからない、という問題なのである。現代は、専門領域のノウハウがなければわかりにくい事柄がやたらに増えてしまった状況でもあるのだ。
 例えば、昨今の「道路公団」民営化問題にしても、「ヤバイ!」と思うのは、問題自体に透明性がないことである。一般国民が理性に基づいて判断するには、議論自体が複雑になり過ぎている。あえて、国民の目の届かない入り組んだ路地が作られ、国民の監視を阻むような議論に乗り上げてしまった。
 国民も、複雑化した社会環境に関する関心と学習を絶対にすべきではある。しかし、国民の「代行」的な仕事をするものは、何が中心的問題であるかに向けた問題整理をこそ頭を働かせてやるべきなのではなかろうか。その際、専門家でなければわからないような、各論の各論を引きずっているようでは頭が悪いと思われる。その意味では、今回の委員会は、「仕切り直し」をこそすべきであったと思われるのだ。

 イラク問題でも、やたら「軍事評論家」などを引っ張り出す報道が目立つ。一体、「軍事評論家」が、事の本質的な命題である「人の命の重み」や、国際関係の「キビとサガ」の何を知っているというのか? 単に、事態のわかりにくさを増幅させているにしか過ぎない。
 こうして、本来は、「国民の安全と幸せ」に帰結する単純な問題を、議論を専門化したり、複雑化してカモフラージュする権力の常套手段が、もうひとつ大きな問題だということなのだ。「知らしむべからず依らしむべし」という権力姿勢が、この「情報(化)社会」だからこそ生きているという逆説なのである。

 今朝の新聞では、小泉内閣の支持率は43%と若干増え、驚くことに、外交・防衛政策について、内閣の「よいところ」で挙げた人は前回の10%から13%に増えているそうなのだ。
 私がすぐに思ったことは、この間、NHKを初めとして民放各局が「自衛隊いけいけドンドン」的な報道を「翼賛」的に行っていた形跡である。「行くからには……」というわけのわからない発想で行われたマスメディアの報道が、すぐさま世論に反映する危険を感じざるを得なかった…… (2004.01.19)


 依然として昭和三十年代への関心や人気は高いようである。TVでのそんな特集も散見するが、当時の街の風俗、光景を描いた画集『ビー玉の街』(毛利フジオ 著)という本が人気を集めているとか。自分も、近辺のニ、三の書店を探してみたが無かったし、「amazon」のサイトで検索してみると、「現在、在庫切れ」の扱いとなっていた。TVで紹介されたこともあってか、あるいは堅苦しい本ではなく気軽に楽しめる「画集」だということもあってか、売れ行きは悪くないようだ。

 この本の表紙には、あのオート三輪『ミゼット』を走らせるうららかな雰囲気の親子の姿があり、そのバックには、東映時代劇映画や『力道山物語』などの看板が覗き、ラーメン屋『来々軒』の赤いのれんも色を添えている。小学生らしき男の子は、濃紺の学生服を着て、坊主頭で赤いほっぺたをしている。それらが、リアルさも追求されてはいるが、どちらかというと絵本か漫画ふうの色合いで描かれている。そのタッチが、まさに昭和三十年代のどこか「かわいい」特徴と共鳴しあっているようだ。

 昭和三十年代は、当時を生きた者たちには郷愁を呼ぶ時代として、また、知らない世代にも何とはなしの「癒し」が与えられる時代として迎えられているようである。その理由はいろいろとあろうが、一言で言えば、「かわいい」時代ということにもなりそうな気がしている。
 「かわいい」と言えば、よく若い女性がいろいろなモノを見ては、「カワイイー!」と感嘆するのを思い起こしたりするわけだ。その対象が子犬などであればもちろん納得はするが、大の男のとある仕草をつかまえて「カワイイー!」と叫ぶこともあったりすると、「わたし的には」、「そのこころは?」と問い掛け問答におよびたくもなったりする。
 よくはわからないが、「十分許せる」とか、「敵視、警戒するに値するものなし」とか、要するに自分側の手中なり、手のひらの上にあって操作可能とでも言っているように感じてきた。

 そう言えばむかし、感性の鋭い女子社員が中年の先輩をつかまえてそんな人物評価をしていたのを思い出す。
「△△さんって、カワイイよね。何ていうのかなあ、普通あの年代の男の人って、ヘンにカッコつけるじゃない。それがサマにならないから、クサイのよね。そこ行くと、△△さんは、いっさいそんなものがなくて、夢中になって振舞うから『カワイイー!』って思うのよね……」
と、きたものだった。実を言えば、わたしも、当の△△さんにはそんな印象を持っていただけに、うまい表現をするものだとただただ感心したものだった。

 つまり、昭和三十年代とは、「かわいい」時代なのである。みんなが下手なカッコをつけずに、素直にむき出しとなって喜んだり、怒ったり、悲しんだりと、透明な感情が吹き出していた時代だったように思う。斜に構えてみたり、距離を置いてみたり、もちろん裏を読んだり、屈折してみたりということとは程遠かった印象が強い。
 もちろん、そう感じている自分が当時は子供であったからという前提条件は濃厚であろう。しかし、それだけではなく、時代そのものが「風通し」の良い時代であったと言えそうな気がしている。
 これは一体何なのだろうか?

 ところで、「かわいい」という言葉の定義を上述の女子社員ふうなものに同意した時、じゃあ「かわいくない」ものとしてどんな対象が思い浮かぶであろうか。
 唐突なサンプルであるが、私にはあのTVドラマ『刑事コロンボ』の犯人たちの言動が浮かんできたりした。あのドラマの痛快さとは、米国の上流階層の成功者たちが、権力にものを言わせながら姑息な悪知恵で言い逃れようとする醜態を、飾りっ気のないコロンボがさり気なく暴いていくところにある。
 つまり、「かわいくない」ものとは、姑息な悪知恵という印象、そしてそれをさえ覆い隠そうとする醜態の印象が、私にはあるのだ。

 誤解を恐れずに、大胆不敵に言いのければ、私には、「かわいくない」ものの象徴は、「システム」のような気がしている。その限界がアリアリしているにもかかわらず、妙に崇められ、一般の人々を遠ざける結果となっている「システム」である。社会や生活環境の「システム」化が、そして人々の姿勢自体が擬似「システム」のようになり、やたらと不透明さと、ブラック・ボックスが増殖されてきた結果が、この現在だと見えてならないのである。
 「システム」で埋め尽くされた「かわいくない」現代に生きる者たちが、「システム」なんぞとは無縁な「かわいい」時代を探って行って辿り着くのが、まさに昭和三十年代だと、そう言ってみたいのである…… (2004.01.20)


 今日は経済に関する二つのことに着目したい。
 その一つは、団塊世代の経済的機能についてであり、もうひとつはなおも続く「デフレ」現象についてである。二つの問題は別個の問題ではあるが、ことによったら前者が後者に良い影響を及ぼすのかもしれないといった可能性もありそうだ。

 最近、団塊世代の「消費」力に注目が集まっている気配がある。
 週刊誌でも、団塊世代が退職金を受け取り終わると目される「2010年」に期待が寄せられているようだ。この時期の「消費」が、この国の最後の「消費額ピーク」となると考えられているのであろうか。マイホームをはじめとして、クルマや白物家電などの買い替えが一斉に起こるとでも予想されているのであろうか。
 もちろん、現在のような将来不安に満ち満ちた状況にあって、たとえそれなりの高額な収入があったからといって、そのマネーが安易に市場に流入するとは見なせないのが一般的な受けとめ方なのではなかろうか。まして、年金支給開始時期が「65歳」からという動きもある。想像されるように、「貯蓄」へと潜りこむ可能性の方が高いような気もしないではない。

 それにしても、ようやく団塊世代にマーケットが向き直った観がある。
 かねてから、TVを見ていて感じ続けたことは、少子高齢化と騒いでいる割には旧態依然として、若年層のふところにターゲットを定めたと思しきものが多すぎるという印象であった。さすがに、最近のCMでは、「三世代住宅」であったり、「老人介護」関連であったり、要するに中高年にねらいを定め直したものも目につくようになってきた。しかし、番組内容自体が中高年向きに変わってきたという印象は薄かった。相変わらず、若年世代向きの番組にお付き合いさせられている、といった感触であっただろう。
 それが、じわじわと中高年向きへとシフトしてきている模様である。画期的な変化というところまでは行かないにしても、そういえば、中高年の支持が高いらしいあの『プロジェクトX』、昨日も書いた「昭和三十年代」がらみ、温泉地を中心にした旅行関連などの番組が思い当たる。NHKなどは、この過渡期の「狭間」で、内容は中高年向きにしながら、キャスティングでは若年世代のアイドルらを使うといった取ってつけたような折衷対策で見事に空中分解(昨年の『武蔵』! 今年の『新撰組』も?)させていたりするが……。そのNHKも、ラジオの深夜放送では中高年向きにスッキリと転換しているようだ。こうした中高年向きのメディア文化が、次第に見過ごせなくなってゆくのが現在、今後のこの国の実情なのだろうと予想せざるをえない。

 見方を変えれば、それほどまでに現在、今後の日本経済の新しい景気刺激は希薄だということなのではなかろうか。消費意欲が低迷し続けるデフレ傾向の深刻さが今さらながら気になるということである。
 このデフレは国内だけではなく、世界的に生じているものだが、何十年も続くのではないかと見る向きもある。中には、百年も継続するという人もいるらしい。
 特にこの日本は深刻さが尋常ではないとも考えられている。その理由の一つは、言うまでもなく度外れた少子高齢化現象であり、もう一つは、これまでの自慢にならない世界有数の「物価高」大国という状況だということだ。いずれもグローバリズムの中にあって、決定的なマイナス要因となってしまうからだ。
 生産人口でありながら消費人口である若い世代が豊饒な水準にあってこそ、旺盛な需要が期待され、デフレ傾向は抑止されるものだろう。しかし、この日本の今後は、生産人口である立場からリタイアする、その意味で通常は「自己抑制された」消費人口ばかりが増えることになる。したがって、通常では国内需要はどんどんジリ貧状態となる。一方、通常ならば生産力も低下するところが、グローバリズムのため商品は過剰に、しかも低価格で流入するのだから、デフレが緩和される余地はなくなってしまう、という理屈になるのだ。

 何だか絶望的な気分となってしまいそうであるが、それは「従来のフレームの延長」という前提に固執した場合のことであろう。その前提以外の想定をすることは、非常に大変なことではあるが、考えられないわけではない。
 その一つは、デフレ傾向にストップがかかる事態ではないけれど、いやむしろデフレを加速させるかもしれないが、そんな状況でもやってゆけるスタイルが模索されていくという可能性である。
 そのシナリオは、正規の生産人口から離脱した団塊世代たちが、第二の人生として、持ち前の経験を生かして趣味と実益を兼ねた「低コスト」生産人口になってゆくことである。収入が伴わない消費人口ともなれば需要は自己抑制されざるをえないかもしれないが、低収入でも伴うならば生きる張りが、健全な消費を刺激するに違いない。
 しかも、活動のジャンルが、現経済の主流では希薄となりがちな、「癒し」系であったり、コミュニティ関連という人間関係密着型の文化ジャンルであれば、全体経済の新たな需要創出にもつながる可能性があると言えるのではなかろうか。モノに対する需要が海外からの供給で賄われてしまうのは趨勢であろうから、文化ジャンルでの需要創出は大きな課題であるはずなのだ。
 日本の経済的側面で、モノの生産人口と消費人口の主力であり続けてきた団塊世代は、最後の課題として、新しい文化的な生産・消費人口となっていくのかどうか、それがこの国の将来に大きく作用するのではないかと想像している…… (2004.01.21)


 自身を「客観視」することほど難しいことはないのかもしれない。大体が、人とは矛盾と誤謬と怠惰のかたまりであろう。そこで「客観視」とはその実態に直面することになるのだから、心地良いはずがない。だから、往々にして人は身近な場所に「客観視」を可能とするであろう「まともな鏡」を置こうとしないようだ。むしろ、自己満足を与えてくれる「歪んだ鏡」を備えたり、あるいはそもそも自身を映しだす「鏡」などには無頓着で、もっぱら思い込みと自己陶酔の世界に漂うことを選んでいるのかもしれない。
 いずれにしても、自己の「客観視」は、どんなに「偉い人」によっても好かれてはおらず、避けられている、というのが現実ではないかと思う。

 では、こんな実情において一体何が起こっているのか? やや長いが以下の一文を引用しておく。

< 明石屋さんまがホスト役のTV番組(日本テレビ系列)で「恋のから騒ぎ」というのがあります。ゲストの一般女性たちを対象に、さんま得意の軽口かつ本音トークが炸裂する娯楽番組です。で、この前、外国の女性特集がありました。感想は「ただ、ただ、凄いなー」と…。自己責任がはっきりしており、男性や集団への媚びが見られません。皆個性を大切にしています。自分が人と違っていることを誇りにしています。その一方で、自己評価はとても冷静なのです。過大な自信は微塵も見られません。
 それに比べて、普段その番組に出ている日本の女性たちは、まだまだ発展途上だなーと正直、思いましたね。最近、男性が弱くなったのか、社会に出ている女性が叱られなくなったり意見をされなくなったせいなのか、自分の置かれているポジションがよく見えていない人が増えているように思います。主婦には、まだ姑や亭主やご近所という怖い(?)存在がいますよね。ところが、一般の女性には、怖い存在や理不尽なものの象徴である「ベルサイユの鯉」がいません。
 「ベルサイユの鯉」とは、ベルサイユ宮殿の池にいた怖いボス鯉のことです。理不尽なまでに怖いボスの鯉がいるから、他の鯉たちは餌も我慢しなければなりません。でも、そのボス鯉が死んだら、欲望の欲するまま好き勝手に餌を食らって、あっと言う間に全滅してしまったという話です。昔は「ベルサイユの鯉」がどんなコミュニティにもいました。「地震・カミナリ・火事・親父」とも言いましたね。今では「オヤジ」と書いた途端に威厳はなくなり、単なるエロオヤジの私のようなイメージになってしまいます。
 自信喪失の(上司の)男どもが職場でぬるま湯状態にしているからなのか、ほとんどの女性が自信過剰気味です。自分の人格、実力が、全体座標のどの位置あたりにあるのか、客観的認識が欠如している女性が最近とみに増えています。ああ、勘違いしているなと思っても、今どきの男は女性には意見できません。言っても聞かない人が多いです。だから、「裸の王様」のようになってゆっくり社会からスポイルされていきます。シビアな実力主義でせめぎあう「個」の時代を通過しないと、本当の意味での日本人の「個性発揮」は、まだ先のできごとだなという気がします。>("SmallBiz" 戸並隆の「ITコーディネーターからの手紙」より)

 「自分の人格、実力」に関して「客観的認識が欠如している」女性の多いことが嘆かれているわけだが、共感を抱くとともに、「いや待て、これは何も昨今の女性のみに限られないゾ。現代の若い世代に共通して見受けられる現象ではないかなあ……」と思えたのである。
 特にソフト業界のように、会社にしても、その他の現場にしても、若い世代が大半というかたちで構成されている人間組織の分野では、とかくこうした「勘違いした」若者が少なくないのが現状ではないかと見ている。「ベルサイユの鯉」の真偽のほどはわからないが、ただ言えそうなことは、他者との関係が極めて貧弱な状況に自分を置いている事実には注目すべきだと思われる。
 むかしからも「人のふり見て我がふり直せ」とあるように、自己の「客観視」のためには、他者との「まともな」関係が必要なのであり、それが「まともな鏡」の役割を果たすのだと考えられるのではなかろうか。にもかかわらず、職場でのコラボレーションの場でさえ最小限の言葉でことを済まし、相互に役所の窓口での会話のような関係を形成しているごとくである。自身に介入させず、相手にも介入せずの国家間折衝のようでもある。
 こんなさり気ない関係であれば、自己の「客観視」のための情報もきっかけも取得できないと言うべきではなかろうか。

 まあ、自己を「客観視」することはとてつもなく辛いことではある。避けたいことでもある。しかし、気休めの「対処療法」的逃げを打ってばかりいると、「『裸の王様』のようになってゆっくり社会からスポイルされていきます」という現実があることを警戒する必要がありそうだ。
 それにしても、自己の「客観視」をウヤムヤにしてしまう「お為ごかし!」の「ぬるま湯状態」が、われわれの周囲には何と多いことであろうか、われわれはそれを冷ややかに黙認していることであろうか…… (2004.01.22)


 「BSE」と言っても、牛丼屋やハンバーガー・ショップが泣き、泣く子も黙る「狂牛病」のことではない。「Business」SE(「ビジネス・エンジニア」と呼ぶ人もいるようだ)のつもりなのである。ソフトウェア要素技術を駆使するだけではなく、ソフトウェア化、IT化をも視野に入れつつ、顧客側のビジネスの新しい展開を顧客側の歩調と同等に、もしくは半歩先んじて構想し、提案してゆけるような「経営戦略」型SE、システム・エンジニアをイメージしている。
 本来、SE、システム・エンジニアとは、顧客側の「業務内容」に精通しつつ、その効率と効果の向上に向けて、システム化を推進する立場にある者を意味した。コンピュータのソフトウェア・エンジニアリングと同様に、適用業務であるアプリケーション内容に精通することが眼目とされていたはずなのである。ただ、「業務内容」に精通することと、「経営戦略」の水準とは別であり、今日ではその高水準の「経営戦略」へのコミットの可能性が嘱望されているのであろう。
 しかし、そうした期待が一般的にはあっても、実態としてはその期待に応じられる技術者は極めて少ないし、「業務内容」に精通した者でさえ少なくなったと言わざるを得ないだろう。「仕様が未凍結である以上、手を出しようがない!」とつぶやくSEが一般的なのである。また、現在の顧客側はそんな実態を見切って、ソフトウェア(IT)・ベンダーには技術的な局面、要するに顧客側で確定された仕様に基づくシステム製造以降を依頼するしかないと見なしているようでもある。と言っても、顧客側とて明瞭な「業務内容」レベルの仕様をスッキリと打ち出せる企業は少なく、まして、新たな「経営戦略」など打ち出しようがないのが実情かもしれない。いわば、顧客側とベンダー側とが「深い霧」の中で手探りしながらコラボレイトしているというのが、リアルな現状なのであろう。

 さて、「狂牛病」としての「BSE」は、カナダ、米国でも何万、何十万頭のうちの一桁の数の牛という希少さである。それが不幸中の幸いでもあるのだが、「Business」SEとしての機能を果たせる者も、この程度の希少さではないのかと推測される。
 要するに、現行のSEたちは「提案」作業や「コンサルティング」作業に縁のない環境、キャリアで、もっぱら「ものづくり」に似たプログラム製造工程に終始してきた嫌いが強いと見受けられるのである。少なくとも、「ITバブル」が弾けるまでの、いわば冗漫な情報化投資が慣行となっていた頃までは、たぶんそうであったに違いない。システム化(IT化)がそれ自体で付加価値を生み出すことが疑いなく信じられていた場合には、顧客側がシステム化以前の業務改革自体に関心を強めることが希薄であったと同時に、SEによるそれらへの提案などは「余計なお世話」(?)であったかもしれぬ。
 しかし、期待過剰の「ITバブル」が弾け、文字通り全面的な景気低迷期に入るや、霊験あらたかなるシステム化(IT化)による「効き目」や「御利益」を信じる傾向は、にわかに醒めてきたはずである。「IT予算が聖域だった時代」は確実に終焉しつつあるのだ。システム化(IT化)の投資は、成功する場合もある、といったくらいの位置付けの感覚が広がったようである。
 確かに、全体のシステム化需要に対する技術消化力供給が追いついていない現状では、ソフト・ベンダーは、「質」を問わなければ仕事が無くなる状況ではないかもしれない。「2000年問題」ではないが、「レガシー・システム」という旧式システムを抱え、「子守り役」もいなくなった顧客も少なくない状況でもある。だが、これらはそこそこの市場を構成するのではあろうが、後ろ向きの姿勢であり、拡大再生産が望めないばかりか、ジリ貧の坂を下る以外にはなさそうに見える。

 「ビジネス特許」という言葉が登場して久しいが、そこで着目されたユニークな「ビジネス・モデル」構築の「戦略」ほどではないにせよ、「ビジネス」それ自体へのソフト・ベンダー側からの食い込みがなければ、ソフト・ベンダーは確実に「ものづくり」製造業の轍(わだち)をなぞることになりそうである。
 そこにあるのは、高付加価値が期待されるビジネス戦略構想の上流過程のために、「しわ寄せ」的に低コスト化が期待される、そんなシステム製造過程という「寄せ場」への参入ということであろうか。
 新技術環境にキャッチアップすることだけで悪戦苦闘しているソフト・ベンダーが多いのが大方の実情のようであるが、現実のビジネス環境の変化は、ソフトウェア技術者にもソフトウェア・ベンダーにも予想以上の逆風となっていそうだ。当面の順風らしき風があったとしても、次の一手の考察は不可避だとひしひしと感じている…… (2004.01.23)


 最近は、どうも笑うことがめっぽう減ってしまったようだ。苦虫を噛み潰したような顔ばかりをしているそんな自分がいやになる。
 ところが、今週は思わず笑ってしまったことがいくつかあった。
 そのひとつは、あどけない子供を眺めていてのことであった。
 痛みのためよんどころなく、歯医者の予約をして出向いた。予約とは言え、大体いつも待たされるのが常であった。だからその時も、長く待たされたらどう暇をつぶすべきかと思案しながら向かった。
 ところが、待合室についてみると、先客は一組、どうも母親が治療中なので残された子供がふたりいるだけだった。二人とも小学校一年生といったところであろうか、兄と妹というにはそれほどの差が見受けられず、同い年のような男の子と女の子であった。二人ともぽちゃっとした顔立ちで、真中に丸い小さな鼻がついていて、まるで漫画に出てくる子供のような印象であった。
 私は、彼らを見るなり、既に顔がほころび始めていた。退屈しのぎに彼らを見ていたら時間がつぶせそうな気がしたものだった。
 五百ミリリットルのペットボトルの清涼飲料水を、二人で代わる代わる飲んでいて、男の子がガブリと飲むと、女の子が、
「いっぱい飲んだ。ずるい!」
と言い、男の子が、
「ちょっぴりだけだよ」
と言いながら、顔と二本の指先でちょっぴりというジェスチャーをしている。
 ペットボトルを男の子から奪った女の子は、底に一センチほど残った清涼飲料水を見つめ、そしてそれをあおるように飲み干すのだった。
 さしてうまそうには見えなかった清涼飲料水を、まるで砂漠で水に飢えた者たちのように二人が飲むのを見ていて、次第に私はおかしくなってきたのだった。
 ペットボトルの件が終了すると、男の子は待合室に備えてあった絵本を引っ張り出してきて読み始めるのだ。ここで私は堪えきれずに笑ってしまったのだが、それは次のことによる。
 こちらからは良く見えなかったが、どうも、男の子が広げていたページには「すごろく」らしきものがあったのだろう。もちろん、そこに「さいころ」までは置いてなかった。そこで、男の子は、ソファーの上で膝を抱くような姿勢となり、その膝に本を立て掛け、両手を空かせた上で、その両手を「さいころ」代わりにしていたのである。つまり、両手の指を、全部閉じてからパラパラパラと開いてゆき、途中で止めたあと、何本の指が開いているかを、「さいころ」の目を読むように数えていたのだ。見ていると、いつも七本くらいで止まっていたが、当人は別段気にすることもなさそうで、本の方の「すごろく」を七つ進めたりしていたのだ。
 そのうち、女の子が、自分もやる、と言い出したのに対して、
「じゃあ、ストップ、って言え!」
と男の子は言うのだった。つまり、自分のパラパラ指の動きに「ストップ」をかけろ、それがおまえの「さいころ」の目なんだから、と言っているのだ。
 私は、もはや笑いを堪えられなくなったものだった。同時に、子供というのは、何て遊び上手なのだろうかと感心もしてしまった。

 二つ目の笑いは、これはテレビのコマーシャルである。
 以前から、「ノヴァうさぎ」のコマーシャルは、垢抜けした悪くないセンスのコマーシャルだと感じ続けてきた。最新のものは、思い出しても笑える代物である。
 いつも「ノヴァうさぎ」にチェックをいれる青年が、海上で釣りをしている場面が出てくる。すると、その船に一艘の船が近づいて来るのだが、それは「七福神」たちが乗っている「宝船」である。釣りをする青年と「宝船」が並んだ時、青年は「宝船」に「ノヴァうさぎ」がえばった恰好で乗っているのを見つける。そこで、青年は言うのだった。
「まだ乗ってるの?」と。つまり、もうお正月もとっくに過ぎたというのに、まだ「お正月専用」の「宝船」なんかに乗っているのか、という意味なのであろう。
 すると、「ノヴァうさぎ」の返答が笑えるのである。何ともたとえようのない声で、
「まあーね」
と恰好をつけるのである。
 私は、あるイメージをダブらせて笑ったのだった。小さな子供が、冬休みに、おじいちゃん、おばあちゃんの家に一人で遊びに行ったとする。最初は幾分の不安も隠せなかったのだが、親の家とは異なってその家では、至れり尽くせりのかわいがられ方をしてすっかり気に入ってしまうことになる。学校が始まったのに、まだ帰ってこない子を心配した親が迎えに行って、その子に、
「おばあちゃんの家が気に入ったの?」
と聞くと、その子が、
「まあーね」
と、本心を隠しながら言う、というようなイメージなのである。やってることで何を考えているのかは見え見えなのに、恰好だけはつけるということのおかしさなのである。

 そして、三つ目は、米ブッシュ大統領が、先頃発表した「宇宙大開発計画」に対する米国国内の批判的世論が報じられたのを読んだ時である。中でも、「少数の人間を月に運ぶことよりも、イラクにいる大量米兵やイラク人たちを救うことの方がはるかに重要なことではないのか」と、マジに批判している論調に触れた時、思わず笑ってしまったものだ。 いや、その批判は正論以外の何ものでもないのだが、そんなことはブッシュでもわかっているはずだろう。わかっていても、選挙を控えたここは、何としてもきらびやかなアドバルーンを上げたいがために、「ノヴァうさぎ」の「まあーね」よろしく、見え見えのあんな作戦を立てたはずである。黙殺するか、あるいは「選挙対策上の思いつきである宇宙開発計画はともかく……」とでも言っていなせばいいものを、正面切って批判する姿が逆におかしくてならなかったのである。
 そう言えば、ブッシュというのは、あるいは、小泉もそうだが、いつまで「見え見え」のハッタリをかまし続けるのだろう? 
「いつまでやるの?」
って聞いたら、ひょっとして、
「まあーね」
と、変な声出して言うんじゃなかろうか…… (2004.01.24)


 今日のように、空気は冷えていても、明るくさわやかな空の下をウォーキングするのは実に気持ちがいい。くすんだ内面に爽快な風かシャワーを浴びているようで、十分に精神衛生上もいいような心持ちとなる。
 そんな心持ちにチクリと刺すとげのような気になる光景がある。ペットの犬を散歩させている人たちである。ペットに人間側本位のコスチュームをまとわせている飼い主なのである。
 最近は、やたらに見かけるのだ。ミニチュア・ダックスフンドの長い胴などに専用のコスチュームを身につけさせている。まるで、「枕がはいずっている」ような場面である。ぷっくりとしたおなかのバグにも腹巻にも似たシャツを着せたりしている。ちっともかわいいなどとは思えない。いや、そういう視点で着せているのではなく、きっとわが身が寒いため、犬も寒いに違いないと決めつけてそうしているのだろう。
 雨の日の散歩で、人間側がレインコートや傘で降る雨を防いで、犬たちだけはずぶ濡れというのはいただけないかもしれない。ビニールでもいいし、また犬用のコートでも手軽に入手できるのならばそれもいいかもしれない。いや、もうこうやって、私ですら「過保護」な心境となっているのだから困ったものだ。

 コスチュームを着せられたペットたちを見ると、人間たちの身勝手さに思いが至り、不快感がつのってしまうのである。ペットたちが、「白い縁取りの赤いスーツが欲しいよ〜」とでも言ったのか、「いつも散歩の途中で会うジェリーちゃんと同じようなお洋服を買ってよね」とでも言ったのだろうか。そんなわけはない。二十万円もした「本体価格」のペットになら、ニ九八くらいのコスチュームを身につけさせたっておかしくはない、という甚だしいカン違いであるに違いあるまい。
 思うに、消費者金融によるTVコマーシャルの、あのチワワを溺愛する「オッサン」がいけない。家内などは、その「オッサン」の顔が大写しになると、眉をしかめて目を背けたりしている。大体、娘の結婚式に、ペットに礼服を着せて同席させるという発想は一体どうすれば出てくるのか、想像を絶するのだ。それをまた、「世間には、ああまでする人もいるのなら、寒い朝の散歩に防寒用のお洋服を着せたって不思議じゃない」と早とちりする人がいるのもどうかしている。

 私は、ペットの動物たちにはまさに「ナチュラル」に接するべきだと信じている。彼らには、「一張羅(いっちょうら)」の毛皮があり、それは毛の長さや密度の「自動調節」によって、暑さ寒さに対して順応できる仕組みになっているはずなのである。そんな便利な機能を喪失してしまった人間が、「弱者」からの思い入れなんぞする筋合いではないのである。かえって、彼らにとっては、持ち前の生理機能が狂わされてしまうから迷惑至極なのではなかろうか。そんな余計な心配をしてやるくらいなら、文明のストレスで自律神経失調となっている自分たち自身の情けない現状を見つめてはどうかと思ったりする。
 それはともかく、人間たちは、自然を残しているがゆえに可愛くてペットにしているにもかかわらず、その自然を壊しにかかっているとしか思えないから不快なのである。自分の側から、可愛いペットたちが従っている自然に接近していけばいいのだ。それを、先細りとなった人間文明の矛盾へと、ペットたちをも引きずり込むとは何事ぞ。「自然はすがすがしくていいなあ〜」と、野山を散策する時に、ポケット・ラジオなどをガンガン鳴らしながら歩いている様と同じだと思える。

 ペットたちと同様に、人間の子供たちも多くの自然を内在させた存在である。だから、あどけなくて可愛い。大人たちによる子供たちへのいろいろな「過保護」と、そしていろいろな「無神経、無配慮」が、現在の青少年たちのいろいろな問題の遠因となっていることはいまさら言うべきことでもないのだろう…… (2004.01.25)


 今年の川崎大師初詣の際にも、参道のはずれに喜捨(きしゃ)を乞う禅僧が立っていた。私は、そうした姿を見つけると、大抵、禅僧が抱える「鉢」にわずかな小銭を投ずることにしている。それはほとんど、条件反射のようなかたちであり、特に「善意で……」というような大仰な感覚はない。禅僧の方も、必要以上の気色もなく軽く頭を下げるのみである。そんな、両者の「当然」感とでも言うべきものが心地よいと言えばそう言える。
 喜捨を乞う禅僧は、いわゆる「物乞い」をしているわけではないのである。穿った言い方をすれば、「拙僧は悟りに向けて俗世間を出た者であり、もとより、修行のための生きる糧を得られようはずがない。こんな拙僧に共感を覚える方がおられたら、『捨てることの喜び』、すなわち『喜捨』を会得なされ」とでもささやいているのかもしれないのである。サービス第一の市場主義経済の世の中で、何と傲慢なことかと見なす向きもないではないだろう。だが、考えようによっては、客側のプライドを十分くすぐったり、高邁な観念世界へ誘ったりというより高度なサービスを、実にリーズナブルに商っているとも言えないこともないのである。

 ある本を読んでいて、「ノーブレスオブリージュ」という言葉に遭遇した。そこでは、次のように使われていた。
「市場主義が、すべての人にとって『すみよい社会』をもたらすわけでないことは、否定すべくもあるまい。純粋な市場主義社会は、弱者にとっては『住みにくい社会』であることはいうまでもない。しかし、それは、強者にとっても『住みよい社会』であるとはかぎらない。なぜなら強者にとって、敗者と隣り合わせることは、決して快いことではないからだ。富と地位をかちえた人はだれしも、ノーブレス・オブリージュ(高い地位にともなう道徳的・精神的義務)を意識するからだ」(佐和隆光著『日本の「構造改革」』岩波新書)
 ものの辞書によると「ノーブレスオブリージュ[(フランス) noblesse oblige]」とは、「高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方」とある。

 わたしが今、こんな言葉に関心を持つのは、こんな言葉を引き合いにださなければならないほどに、現在のこの国では、地位や身分が高い層ほど悪事を働いたり、社会での他を省みない傍若無人ぶりに陥っていると思われるからだ。
 そして上記の引用文にもあるとおり、バカな政府が右往左往している「構造改革」とは、市場主義万能の経済とすることで、少数の富裕層と大多数の貧困層とを生み出す仕掛けであるからだ。ヨーロッパのように、「ノーブレスオブリージュ」が伝統的に息づく社会にあっては、まだ「住みにくい社会」となっても一服の清涼剤が見出せたりもするのだろうが、この国にあっては、少数の富裕層が他の大多数の人々の感覚を逆撫でするだけに終わるのではないかと懸念するからである。

 また、この荒んだ時代にあって、もはや「博愛精神」や「ヒューマニズム」の有効性をそのまま信じることが難しいと思われる以上、そうした理想主義の脈絡ではなく、合理的で、現実的なインセンティブ(動機づけ)に目敏くなるべきではないかとも思うわけなのだ。
 冒頭の禅における「喜捨」にかぎらず、この日本にも、「ノーブレスオブリージュ」と類似した文化があったはずなのである。「恥」の観念が然りであり、「ラストサムライ」で今や逆輸入気味の観がある新渡戸稲造の「武士道」もそれである。
 ところが、現状は、特権層における情けなさだけではなく、いや、それが遠因となっているのかもしれないが、青少年の間ですら「ノーブレスオブリージュ」の逆である弱者いじめ、「弱肉強食」気風が一般化してしまっているではないか。動物以下のマイナス文化が累積しつつあるように見えてならない。

 長すぎる経済低迷の足元では、それが回復への道を閉ざすように、人間的な文化を蝕む「非合理的」な風潮が、あたかも今流行りの「ウイルス」のような猛威を見せているのだろうか…… (2004.01.26)


 昨日のニュース(日経新聞)で、「富士通、課長級以上の給与カットを3カ月間実施」というものが目を引いた。
「富士通は1月支給分から3カ月間、課長級以上の社員の給与をカットする。対象となる社員は富士通本体で約6000人。原則として連結子会社も含める方針で、全体で約1万4000人。削減率は明らかにしていないが、3%前後とみられる。『今年度の業績目標を達成するため、現場のリーダーの責任意識を改めて高める』(広報IR室)ねらいとしている」
というものである。九月の中間決算時に「赤」であったため、何としても最終決算を黒字に持ち込みたいための、危機意識の喚起という意向が伝わってくる。

 富士通といえばIT(ソフトウェア)ベンダーのトップクラスであり、いわゆるITベンダーのピラミッド(元請け・中請け・下請け……)の頂点の一つであろう。その富士通が、どうも苦境に立っているかに見える。
 同社は、ニ、三年前にも、人事管理領域で世間に話題を提供した。「成果主義」人事を実施したのだが、「社員がチャレンジングな目標に取り組まなくなった」「短期的な目標ばかりが重視され、長期的な目標が軽んじられている」などの弊害が表面化したため、新制度を再度見直すこととなったというものであったかと思う。

 同業種であるだけに、他人事とは思えず注目してしまうのであるが、IT(ソフトウェア)ベンダーは、やはり現在大きな曲がり角にさしかかっていると観測せざるをえない。富士通の試行錯誤は、その方向性に関しては議論のあるところかもしれないが、何かをしなければならないという、その点では、シビァな現実をリアルに反映しているはずである。多くのITベンダーが概ね同様の正念場に踏み込んでいるのではなかろうか。
 先日も、「BSE」(「Business」SE:「ビジネス・エンジニア」)などと茶化して書いたとおり、現況では、IT(ソフトウェア)ベンダーが従来型のシステム製造業としてやっていくのは極めて難しい事態となっていると言わざるをえない。
 なぜそうなったかの分析や説明は多岐に分かれるとしても、結果的に言えることは、「もはや、IT(ソフトウェア)領域は『聖域』ではなくなった」こと、「ベンダーとユーザの立場が逆転して、ユーザ側の買い手市場となった」こと、そしてそれらの結果、「ダウンサイジング」(大型汎用機から、ワークステーションやPCへの以降)にあらず、「ダウンコスティング」(システム製造の発注単価の低廉化!)が、激烈に起こっているということなのである。

 かねてより、IT(ソフトウェア)領域では、土木建築業界と同様に、製造コストを計るのに「人月」なる単位が使われてきた。考えてみればおかしな話ではあった。それというのも、このジャンルの技術者の生産性ほどバラツキが大きいものはなく、デキル者は、デキナイ者の十倍、百倍をこなすとさえ言われてきたからである。
 そんな理不尽な計算方式が通用していたのは、「生産者の論理」(「かかるものはかかる!」)がまかり通る「聖域」的な環境があったればこそなのであり、逆にこの前提が崩れ始めるや、とどめがたい「値崩れ」が始まることとなってしまったのである。
 聞くところでは、従来1億円水準であったシステムを、半値以下、場合によっては一千万円の水準で迫るユーザもあるという。

 こうした状況推移の根底には、景気低迷による情報化投資の削減という需給バランスの崩れもあるにはあるのだろう。しかし、もっと分析的にに目を凝らすならば、IT(ソフトウェア)というものが、ユーザ経営者の最大の関心である収益向上にいかほど役立つのかという問題に、かつてないほどにユーザが目を向け始めたということなのであろう。有体に言えば、かつての霊験あらたかな「魔法の箱」が、額面どおりに見つめなおされ始めたということなのであろう。それに加えて、過剰な期待ででっち上げられたITバブルが、無残に弾けたことの、そのリバウンドもありそうな気がしないでもない。
 しかし、いずれにしてもIT(ソフトウェア)が、デフレ環境の中でバリュー低下する他の商品と同列に並ぶこととなった事実を、冷静に認識する必要がありそうだ。そして、今後早急に考えなければならないことは、IT(ソフトウェア)が生み出す付加価値よりも、より大きな付加価値を生み出すに違いないユーザ側のビジネス・プロセス(アプリケーション問題)への参画を考慮することであろう。
 われわれは幸い、いわゆる「業種特化(=特化領域のノウハウ蓄積)」を柱にしつつ歩んできた経緯によって生き長らえているが、そうした「特化」こそが「特価」を強いられない防波堤となりうるものなのかもしれない…… (2004.01.27)


 飼い猫をじゃらしていると面白い。膝元にいる猫の尻尾などをふざけて掴むと、「その手が下手人だ!」とばかりに、手にジャブを入れてくる。その手を隠すと、「下手人」が消え失せたとばかりに、あきらめる。私の腕なり、顔なりに飛びかかるようなことはしない。じゃらしている手と、わたし自身を別物だとでも思っているのかと不思議な気がしてしまうのだ。
 そんなことから、小さな者の視点と大きな者の視点というバカなことを想像したりしたのである。『ガリバー旅行記』なんかを思い浮かべてみた。ガリバーが巨人の国へまぎれ込んだ時、ガリバーにはその世界がどう見えたのだろうかと。想像だが、ガリバー自身と等身大の、言ってみれば巨人たちからすれば小さな取るに足らないことが多く目につき、巨人たちと等身大あるいは巨人たちより大きなものはほとんど霞んで見えなかったのではなかろうか……、と。

 現在の自民党勢力は、そして多くの国民も、と言ってしまうが、巨人の国にまぎれ込んだ小人のガリバーであるようだ。重箱の隅を突くような「小さな問題」に小躍りして飛びつき、大きな問題は霞んで見えないか、見えないフリをしている。
 民主党の古賀潤一郎衆院議員の「学歴詐称(中退を卒業だとした)」の問題であり、古くは社民党の辻元清美元衆院議員の秘書給与問題などを念頭に置いているのだ。それらは、確かに違法であり、問題ではある。しかし、はっきり言って「どうでもいい!」。全国各地で夜な夜な飲み屋の前にクルマを止めて飲んでいるヤツがどうでもいいとしか言いようがないように、「どうでもいい!」。そんなことに目くじら立てるのならば、駐車違反から、飲酒運転から、ありとあらゆる軽犯罪を検挙してくれ〜、と言いたいものだ。

 荒っぽい表現をするのは、こんなことが片方にありながら、より大きな本質的な問題がまるで霞んで見えないかのような扱いにされているからなのである。張本人の米国ですら、遅ればせながらイラク侵攻の根拠の薄弱さが問われ始めたというのに、その「援軍!」でしかない自衛隊派兵が大問題とはされないでいることなのである。まるで手の届かぬ天空の気象の既成事実であるかのようにいなされている現状は、こんなたとえをするしかない。それも自民党議員だけならまだわかる。人は環境の産物なのであり、「永田町」という無重力、無時間空間ならどんな人柄でも作り出されてしまうだろうから……
 が、この期に及んで、自衛隊のイラク派遣を承認したり、「ハッタリとやらずぼったくり」の内閣を支持したりする国民が増えているとかいうのが、どうも解せないのだ。いや、私にはその「下手人」がマス・メディアであることは良く見えている。
 マス・メディアこそが、国民に対して、「巨人の国にまぎれ込んだ小人のガリバー」の、と言って差し支えない狭隘な視界を提供し、それを事実だと演出しているのである。
 「永田町」ではなく、「痛み」さえ感じるほどの強い重力があり、右往左往させられるほどに時間のスピードも速い、全国津々浦々の町々に済む国民は、バカではないはずである。要するに間違った情報のみが与えられているだけなのである。それらに基づいて判断するならば、間違った結果に至る確率が高くなるのは道理だとしかいいようがないのではなかろうか。

 今の日本は、まさに「巨人の国にまぎれ込んだ小人のガリバー」のようだと言っていいのかもしれない。グローバリズムで、急激に認識エリアが拡大してしまったからだ。LLサイズ、XLサイズどころではなく、百万Lサイズの巨大な世界に放り出されたようだ。巨大な世界は、単にサイズがデカイだけでなく、「海千山千」のスケールとて比べものにならない。ウソも百回言い続ければ真実、どころではない。一人殺せば殺人犯、何万人と殺戮すれば英雄! という狂気がまかり通る世界なのである。「恐い世界」を強調しているのではなく、要するに、得体の知れない未知数で満ちているのが現代の世界だと言いたいだけなのである。
 国民にとってそんなにも未知数の世界であれば、どんなふうにでも報道できるに違いないというのが、私の感想なのである。簡単な話が、数千個のみかんから、時間と労力の都合で十個だけ代表的なみかんを選ぶとするなら、数千個の「母集団」への印象は容易に歪むのが道理ではなかろうか。選ばれた十個に、別に捏造されたものがなくみな真実であったとして咎められなかったとしても、それでOKとはならない環境が現代の複雑さなのである。選ばれたものが事実かどうかの問題以上に、「何を事実として選んだのか」が問われる環境ではないのかと、そう思うのである。こんなことを書きながら、私の脳裏にはNHKのニュース報道がよぎっているわけだ。

 小人のガリバーたるわれわれ国民が、事実環境にふさわしい判断ができるように、複雑な時代に見合った報道ができるように、マス・メディアは「ノーブレスオブリージュ」を果たすべきではないか。特権を与えられた報道機関としての責務を十二分に果たすべきだと思う…… (2004.01.28)


 このところやや体調を崩している。何が原因かと振り返って気づいたことは、歯の治療で一週間ほど「抗生物質」の薬を飲み続けていることである。どうも、細菌感染への対症療法としての「抗生物質」は、副作用をなしとはしないようなのだ。
 ものの本によれば、次のようなことになるそうである。
「腸管にはさまざまな細菌がすみついて、食べものを消化するための発酵を助けていますから、そうした細菌が集まる細菌叢(さいきんそう)がきちんと完成されているかということも大切です。となれば、抗生物質を使う治療が長引いて腸管の細菌叢が壊れてしまうことが、いかに身体全体によくないことか、と理解できます。そして、安易に抗生物質を服用するというまちがいをさける判断ができるようになります」(安保徹『免疫革命』講談社インターナショナル)
 「抗生物質」の乱用が、ウイルスを「強化」してしまう作用があるために、処方において自粛すべし、との動きがあったかと思う。そうした問題もかなり重要なことだと思うが、今私が関心を寄せている事柄は、上述の本にも触発されているのだが、問題を部分的にとらえて「対症療法」を施す、といったアプローチそのものなのである。
 もちろん、医療関係分野でのそうしたアプローチが身体全体の自然な仕組みを損なうという点で無視できない問題であろう。まして、風邪をひけば、忙しい日常の仕事や生活に支障が及ばないようにと「抗生物質」という対症療法に依存することが当たり前のようになっている現代人の生活スタイルがある。

 考えてみれば、医療分野で如実である「対症療法」的アプローチは、現代のあらゆる場面で一般的かつ主流となっているように思われてならない。端的に言えば、現代の文化は「対症療法」文化だといっても過言ではないと、思われるのだ。
 この特徴がどこから来ているかを推理することはそんなに大変なことではない。要するに、「分析」手法の優位! から来ているに違いないと考えている。
 思考アプローチには、対象を部分化・細分化して捉えようとする「分析」と、対象が関係する全体を常に視野に入れる「総合」とがあるようだ。
 たとえば、少年犯罪があったとして、その原因を探る際、「分析」優位のアプローチでは、少年Aの個人的環境、条件の吟味を「下降」的に進め、やがては少年Aの遺伝子、DNAにまで言及していくのだろう。そして、DNAにおけるある種の「欠損」が原因なのだと結論づけるのかもしれない。
 これに対して、「総合」のアプローチは、少年Aと同様の環境にある少年たちや、彼らを取り巻く社会的、文化的環境の諸問題まで視野に入れ、関係づけて探索を進めるのではないかと推測する。少年Aという個人、部分を、彼が日々関係を持っている自然環境、社会環境の全体とのつながりにおいて考察しようとするのだ。もちろん、犯罪を犯した少年Aという個人の責任が、環境のせいにされて解消されてしまうわけではない。人間個人は、周辺の環境の中で生きているという歴然とした事実を踏まえているに過ぎない。
 ただ、「分析」と「総合」の両者のアプローチが別個に存在するのではないはずであろう。正常な思考スタイルならば、両者のアプローチを素早く往復しつつ進められているのではないかと思う。ところが、現代ではどちらかといえば、「分析」の軸に偏ってしまっていること、それが問題だと思われるのである。そして、そうなってしまいがちな現代には、追い追い言及してゆきたいが、それなりの前提条件がありそうに思われる。

 時代は、ますます「スペシャリスト」の時代になったと言われている。これこそが、「分析」手法の優位! の時代の典型なのであろう。細かい「部分」に精通した者がありがたがられる時代なのである。詳細であることだけが、価値アリと見なされているかのようだ。
 確かに、「総合」の視点が保持されつつ、詳細な「部分」に精通するならば価値アリと言えよう。だが、後者だけに偏るのでは、いわゆる「重箱の隅を突く」というマイナスの類となることが十分にあり得そうだ。
 クスリの副作用もその例だろう。当該「部分」の治療のために、他の「部分」を大なり小なり犠牲にしていることになるわけだから、「部分最適が、必ずしも全体最適につながらない」という矛盾を黙殺していることになりはしないか。

 昨日の話題、マスメディアによる報道にしても、この「部分最適−全体最適」の問題だと見ることも可能だろう。つまり、報じられた内容には誤りはない、という限りの「部分最適」が、必ずしも全体の真相を報じるということにつながらない、という「全体最適」の否定へと結びついてしまうということなのである。
 こんな小難しいことに着目するのは、前代未聞の「言い逃れ」を特徴とする「ポピュリズム(大衆迎合)」政治に遭遇しては、「手品師」の種を明かす批判意識がどうしても必須だと感じているからなのかもしれない…… (2004.01.29)


 二十年以上むかしに録音した音楽テープをかけていたら、突然、古い記憶の層を揺るがす懐かしい声が聞こえてきた。
「男はタフでなければ生きてゆけない。優しくなければ生きる資格がない」
 あの高倉健の声である。角川映画、森村誠一『野生の証明』のコマーシャル、「ネバー・ギブ・アップ! ネバー・ギブ・アップ! 読んでから見るか、見てから読むか……」といったラジオでのCMが、意図せず録音されていたのだった。

 ところで、前半の「男はタフでなければ生きてゆけない」の「タフ」を、たぶん当時は、ただ「強い」という意味だけで受け止めていたのだろうと思う。「不屈」といってもいいだろう。いわゆる、かつての「日活映画」の「タフ・ガイ」である。確かに、自衛隊を敵に回して孤立奮闘する主人公のイメージはそうした強靭さであった。
 が、最近は、「タフ」という言葉のもう一面、「ジーンズのような擦り切れない丈夫さ」とか、「華奢ではない堅牢さ」というイメージにこそ着目したいと思い始めている。言うまでもなく、「図太さ」さえ必要となっていそうな荒れた世相が前提となっているのである。

 この現代で有効性を持つものは、繊細なカミソリなどではないかも知れない。鉈ということになるのだろうか。カミソリの刃なんかをせんべいのようにバリバリと食ってしまうような、そんな荒々しい怪獣がいたるところで蠢いていそうだからである。良識や道理なんぞどこ吹く風と見なしている者たち。自分の痛みでさえ麻痺してしまっているがゆえに、他人の痛みなど知るよしもない者たち。「オレオレ詐欺」ではないけれど、他人の優しさは利用し、騙すためのターゲットだと見切っている輩たち。散々うそぶいて、うそもつきまくってきた者が、「うそつきは泥棒のはじまりって言いますからね……」などと恥ずかしげもなく口にする世の中だ。残念なことに、このご時世は「正直者が馬鹿をみる」を地で行く状況に成り果ててしまったかに見える。「悪貨は良貨を駆逐する」の成就だと言ってもいい。

 こんな環境で、悪を勧めるのではないとするならば、せめて「正直者が馬鹿をみない」処世術を考案すべきだと思ったりするのである。少なくとも、「正直者が傷つかない」、「感受性のまともな者が不快にならない」ことを念じるのである。
 それが、「ジーンズのような擦り切れない丈夫さ」という意味での「タフ」さへの関心の動機といえば動機なのである。
 さらに、こうした文脈において、気になることがひとつある。「正直者」が社会的に「馬鹿をみる」だけならばまだしも、「身体的、生理的に馬鹿をみる」可能性がありそうだ、という点なのである。
 「几帳面な者」ほど、「鬱」病になりやすいという話はよく聞くところであった。多分これと関連していると考えてよいのであろう興味深い事実を最近知ることになった。
 端折って言うならば、「がんばり屋ほど、病気になりやすい」ということになろうか。「がんばり屋」というのは語弊がありそうなのでその説(安保徹『免疫革命』講談社インターナショナル)に忠実となるなら、がんばろうとする自律神経系の状態である「交感神経優位の状態」は、血液中の「顆粒球」を増大させ、その分免疫機能を持つリンパ球を減少させることで、代表的にはガンの発生に見られるようなさまざまな病状を誘発する、ということになるらしい。
 「交感神経優位の状態」とは、アドレナリン放出などによるいわば身体にとっての有事体制下の緊張状態であり、要するに外部刺激が心身にとって負担となって働くストレスに基づくものであるようだ。ストレスの原因はさまざまであり、人によってもどの程度の強度のものがストレスとなるかは異なるのだろう。
 しかし、いずれにしても、不安や不快、恐怖をはじめとしてストレスへとつながる現象に事欠かないのが昨今の現実であろう。そして、そんな中で、感受性のまともな者がそれらをストレスとして引き受けてしまい、年がら年中「交感神経優位の状態」を継続させてしまっているとするならば、まさに身体を舞台にして「正直者が馬鹿をみる」という割を食うことになっているのかも知れない。

 で、「タフ」さを身につけなければ、自滅していく気の毒な人たちが増えると思われてならないのである。「交感神経優位の状態」から出るためには、ストレスを解消すること以外にないようなのだが、もうひとつ「副交感神経」を高めること、つまりリラックスをすることが有効だとも考えられている。しかも、「食う」こと、「腸管」が旺盛に機能することは「副交感神経」高揚と密接につながっているらしい。よくある過度の緊張時にはものが喉を通らないという現象は、その反対なのであろう。
 しかし、よく食うことでのみ「タフ・ガイ」に変貌してゆくというのは、ちょっと違うような気もしないではないが…… (2004.01.30)


 このところ、またネット上の「ウイルス」が蔓延しているようだ。私のメール・ボックスにも、「ウイルス」を仕込んだメールが頻繁に舞い込む。もちろん即座に削除しているが、中には、メール・サーバからの連絡のような表題を装っているものもあった。そうした偽装ウイルスも各地で頻発しているらしい。
 ネット・ウイルスは、SARSや鳥ウイルスと異なって、他人に対する悪意に根ざしているだけに不快感だけでは済まない恐ろしさを感じる。ここまで、人は不特定多数の他人を憎むことができるようになってしまったのだと思わされるのだ。

 確かに、見ず知らずの他人に対する感覚の悪化がとても気になるご時世となってしまった。クルマを運転していると、運転マナーなどから他人に対する配慮の姿勢がよく見えるのだが、とにかくエゴイズム丸出しのドライバーが多い。自分は意を通すので、そちらが配慮せよ! と言わぬばかりの運転である。しかも、若い世代ならまだしも、中高年でさえ例外ではない。そんな姿に出会うと、その人はよほど周囲から痛めつけられ、結果的に被害者意識で凝り固まっているのではないかと感じてしまう。自分は辛くて辛くて堪らないのだから、他人のことなんてかばっていられない、好きなようにやらせてもらって当然だ…… という声でも聞こえてきそうな気さえする。

 かねてから、日本人はもっと個人としての自立性(自律性)を持つべきだと言われ続けてきた。そういう主張がもっともだと思わされるような過度の甘えや、依存癖、そして無責任といった傾向が強かった部分もあるにはあっただろう。
 そして、グローバリズムだ構造改革だという掛け声の過程で、個人の自立化という主張が一段とトーンが強まったと言える。米国などの典型的個人主義者たちと厳しい経済活動を進めて行くのだから、今までのようであってはならないという主張は、わかることはわかる。
 ただ、個人の自立化の掛け声は、そうした文脈だけではなく、国民の自助努力の強調をせざるを得ない財政難、福祉切り捨ての動機がからんでいたことも否定できないと見ている。
 要するに、日本人にとっての個人の自立化の課題は、どうも外発的な環境変化の過程でごり押しされているような感じがないわけではないのだ。というのは、そもそも個人主義の文化は、欧米でも百年、二百年をかけて培われてきたもののはずである。端的に言えば、フランスの市民革命からの時間がかかっていると言ってもいいはずである。
 確かに、日本も明治維新から政治・経済はその形態をとってはきたが、そして、敗戦後は形としての生活様式は矢継ぎ早に個人主義文化の様相を呈してはきた。しかし、誰が一体、日本人が個人主義者に変貌したと考えていただろうか。個人主義者を、欧米で言われてきた「市民」という言葉に置き換えてみれば一目瞭然だと思う。外面の恰好はそうであっても、日本人はまだまだ「市民」でもなければ、個人主義者でもなかったのだと思っている。
 それが、グローバリズムだ、構造改革だ、自助努力だという掛け声と抱き合わせにして叫ばれ始めたのがこの最近だということではないだろうか。
 しかも、時期が非常に悪かったと思われる。日本人の個々人にまだ生活のゆとり、経済的ゆとりがあった時期であれば、本当の個人主義の生き方への心の準備もできたのかもしれないが、現時点は、リストラ、就職難、福祉切り捨て行政といった過酷な生活環境に一変してしまっている。競争社会は、フェアな競争が展開される明るいものではなく、他人を押しのけ、わが身を押し出す戦争状態と化しているとさえ言えそうだ。
 つまり、他人との強固な連携を前提とする個人主義は、今の日本の底辺にあっては、他人を排斥し、他人を蔑ろ(ないがしろ)にする単なるエゴイズムと区別がつかないありさまになりつつあるかに見えるのだ。
 個人主義とは、強い生き方であろう。そしてその強さは、神と向かい合う強さだとも言われるが、むしろ他者としっかりと対話ができ、連携できる環境を担保にしていると思えてならない。
 たとえば、子供が自立していくためには、個室だけを与えれば済むというものではなく、むしろ親との信頼関係のきずなの基礎を作るためにしっかりと甘える時期が必要なのだと聞いたことがある。それが生物としての人間の本質、正体であるような気がしている。形や制度や、まして掛け声だけで、人は個人としての自信、尊厳、そして孤独の克服が可能となる存在ではないように思う。

 今、叫ばれている個人の自立化が要するに順調に進まず、エゴイズム、孤独地獄、そして病的な犯罪などにある部分の人々が迷い込んでいるのは、無理が強いられているからだというような気がするのである。
 今の日本にとって最も必要なものは、掛け声倒れになりかけている個人主義や自立化ではなく、「コミュニティ」であるに違いないと確信している。人と人とが支えあう関係としてのコミュニティこそが先ずなければ何も始まらないと考えるべきなのではなかろうか…… (2004.01.31)