[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2004年03月の日誌 ‥‥‥‥

2004/03/01/ (月)  何かのためという視点を疑ってみる!
2004/03/02/ (火)  「暗黙知」が希薄となった「スルメ社会」?!
2004/03/03/ (水)  言葉の「インフレ」時代を考える!
2004/03/04/ (木)  「質問する」ことと「創造性」とは赤い糸で密接につながっている!
2004/03/05/ (金)  「質問」が、現代の知識をめぐる悪循環を断ち切りそうだ!
2004/03/06/ (土)  人類は結構大きな問題を積み残してきたものなんだなあ……
2004/03/07/ (日)  まるで「逃げるがごとく」走るジョギング男?!
2004/03/08/ (月)  堂々完成か? 「嘘つき天国日本」!?
2004/03/09/ (火)  肉体的苦痛よりも、考える苦痛排除を目指す現代の便利主義?!
2004/03/10/ (水)  探偵(?)作業の末に見たある人の真摯な顔……
2004/03/11/ (木)  自分で考えないで済む便利な観念などの浸透!
2004/03/12/ (金)  破壊されつつある「棲み分け」原理の亀裂から飛び出す新種ウイルス?!
2004/03/13/ (土)  「夢見がち」な乙女ならぬ、いい年したオッサン!
2004/03/14/ (日)  野鳥の鳴き声とは、「人間の証明」ならぬ「樹木溢れた街の証明」!
2004/03/15/ (月)  「セロトニン」と「偏頭痛」、そしてさまざまな現代病!
2004/03/16/ (火)  人生の春に是非とも「刷り込む」べきものは……
2004/03/17/ (水)  「一本の矢」を彫琢(ちょうたく)するようでありたい!
2004/03/18/ (木)  「音読」の効用なんて当たり前のこと!
2004/03/19/ (金)  「人は夢の中で自分が与えられた状況に対して真剣に対処……」
2004/03/20/ (土)  「迷走する歴史」の立役者は「迷走するリーダー」!
2004/03/21/ (日)  「『私にとって』という私秘的な(プライベートな)形でしか成り立たない」もの!
2004/03/22/ (月)  人間の子どもよりも人工物である「アイボ」の方が相性がいい?
2004/03/23/ (火)  「囲い込み」問題 @ 古臭い「囲い込み」戦略とオープン・グローバリズム!
2004/03/24/ (水)  「囲い込み」問題 A 「囲い込み」の見るべき点?
2004/03/25/ (木)  現代で大事な問題は「コミュニケーション」以外にはない!
2004/03/26/ (金)  サケの一生に「いのち」のリアルさを感じさせられた!
2004/03/27/ (土)  ひとつに見える世界もいろいろなふうに切り取られるものだ!
2004/03/28/ (日)  地獄への道は、「ゆるやかな」傾斜と後戻りできない仕掛けが……
2004/03/29/ (月)  「茶色の朝」=ファシズムの夜明けは、忍び足でやってくるのが定石!
2004/03/30/ (火)  内なる思いを載せるべき器(うつわ)をどう用立てるか?
2004/03/31/ (水)  クシャミ三回、「ルル惨状!」を地で行く……






 昨日は午後、デジカメをぶら下げて近所の散策に出た。午後といっても、夕日がまばゆい夕刻であった。釣りと写真は、朝夕の「まずめ時」がねらいだとはよく言われるものである。陽の高い日中は、明るくてよく写るようにも思えるが、陰が濃い上に、光景が見慣れた色調となり、どうしても単調な雰囲気に終わってしまう。
 そこへいくと、「まずめ時」は、見慣れた風景でもどこか味わいのある感じが出てくるようだ。また、民家の照明や街灯などが灯るとさらに味のある雰囲気を絵にすることができるというものだ。
 ただ、言うまでもなく、照度が不足するため、シャッター速度が遅くなり、手ぶれやピンぼけが多くなってしまう。手ぶれ防止機能が組み込まれたカメラでも、決して信用し切れるものではない。しっかりとカメラをホールディングすることはもちろんだが、面倒でも三脚を使用すれば後での鑑賞時に幻滅が少なくて済む。

 いつぞやも書いたが、お気に入りの被写体は、散歩コースにある巨大な古木で囲まれたかつての地元庄屋といった風情の民家なのである。昨日は、柔らかい夕日に染まるそんな民家を練習素材としてみた。時刻が今ひとつずれていたため会心の作とはゆかなかったが、写真技術とは関係のない二つのことに気づくこととなった。
 そのひとつは、これまで畑を挟んで数十メートル以上の距離があったために気が付かなかったのだが、その民家の庭の入口付近には青銅の胸像が立てられていたことだった。地元の庄屋だとにらんでいたのだったが、たぶん、地元に何がしかの貢献をされた方を称えてのことなのだと納得したものである。超望遠の機能を発揮して撮ってみたところ、「ありがたき」その胸像が確認できたのだった。

 ふたつ目は、このところ何度も撮っている、まだ若葉が吹きだす前の枝ばかりの古木を見ていて突然気づいたというか、考えたことであった。天に向かって竹箒のように広がる、小枝をたたえた枝ぶりは、じっと見つめていると何かに良く似ていると思えたのだ。つまり、大地をしっかりと掴むように地下深く伸び広がった根の、その形状なのである。実際目で確認したわけではないが、植木の根のあり様をもって類推するならば、きっと地上の樹形とほぼ対照的なかたちで、根の成長が地下深く繰り広げられているに違いないと思えた。
 しばしば、「可視的な地上」の姿には、「不可視の地下」での働きが隠されていると言われたりする。たとえば、氷山の一角という慣用句がそうであり、また涼しげな水鳥の水面下での忙しいほどの足の動作などである。
 それがどうしたと言えばそれまでだが、こうした発想には、「可視的な地上」の姿こそが主体であるという暗黙の思いがありそうだ。しかし、それはひとつの視点なのであって、「不可視の地下」での働きは、何も地上のためとは限らないのではないか、とそんなことを考えたのである。
 これもまた、それがどうしたと言えばそれまでなのであるが、古木のまだ葉がない裸の枝ぶりを見ていたら、地上の枝ぶりが地下の「根ぶり」を想像させ、そしてそれらはどちらが「主」で、どちらが「従」だというような人間的発想に関係なく、どちらも「主」という機能を果たしているに違いないと直感したのだった。
 「根ぶり」に言わせれば(?)、自分たちは、地上の枝ぶりが繁茂するために水を吸い上げているのではなく、それは「余技」なのであって、地上で「させている」葉の光合成の結果の炭水化物を活用したり、貯蔵したりする機能こそが本命の目的なのだと言うかもしれない。

 これでもまだ、それがどうしたと言えばそれまでであるには違いない。
 ただ、ここで大きく飛躍して考えたいのは、人が個人として生きているのは、そのこと以外に、何かそのためにといった「地上の枝ぶり」などがあるわけではない、ということなのである。自身が生きることそれ自体以外に、「〜のため」というようなものは何もない、と自覚すべきなのである。まして、未だに亡霊のように現れる「お国のため」などという「おととい、おいで!」みたいな発想に、決して耳を貸してはいけない…… (2004.03.01)


 歳をとると顔や、その人だと了解できていてもその名前が出てこないという度忘れがしばしば起こる。情けないことだ。しかし、これは、考えようによっては、脳内には、名称という言葉レベルのもの以上に、様々なコンテンツが溢れていることの証しなのだとも言えるのではなかろうか。つまり、「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳『暗黙知の次元』筑摩書房)という事実のひとつの例ではないのだろうか。
 こうした例は、ほかにもいろいろと挙げることができるはずだ。毎朝、テレビを見るとはなく眺め、おまけに今日一日の予定まで思い浮かべながら、わたしはネクタイを締めるのだが、あっという間にそれを遂行し終わる。ほとんど無意識に近いとさえ言える。こうした所作は、決して指の神経、筋肉が勝手に動作しているわけではない。脳という司令塔からの指示で行われているのだから、当然、脳内に「指示書」のようなものがあっての頭脳活動以外ではないはずなのである。
 また、自転車に一度うまく乗れるようになると、何年経ってもそれは継続すると言われるが、これを実感している人は多いと思われる。しかし、いざ自転車に乗れない子などにその乗り方を伝授するとなると、おおいに困る。自転車を乗りこなそうとする動作のいちいちを決して意識しておこなってはいないのが不通であるし、ましてどの部分の筋肉をどうして、姿勢をどうするという、本来おこなっているはずの、個々の所作などまったく素通りしてしまっているかのようであるからだ。この辺について、ポランニーは次のように述べている。
「私たちは、技能の遂行(上記の自転車乗り)に注意を払うために、一連の筋肉の動作を感知し、その感覚に依存している。私たちは、小さな個々の運動<から>それらの共同目的(自転車乗り)の達成<に向かって>注意を払うのであり、それゆえ、たいていは個々の筋肉運動それ自体を明らかにすることはできないのだ」(上記同書、自転車云々は別)

 ポランニーは、こうした点の発見から、人間は言葉によって構成された知識とは別に、言葉にはできない知識としての「暗黙知(tacit knowledge)」をも操作して生きていることを明らかにしたのである。人間の頭脳活動、知的活動の一翼を切り開いた画期的な洞察だと思える。
 現代のビジネス界でも、創造性の開発という視点から、言葉による一般的な知識である「形式知」に対置する、個人に潜在した「暗黙知」というものを、どうすれば組織内で共有化できるか、という点で研究している学者もいる。(ex.野中郁次郎)
 知識(「形式知」)の研究はそれとしてまだまだ進むのであろうが、同時に、その周辺的問題として「暗黙知」の存在がもっと旺盛に研究されていくべきではないのかと思うのである。それは、知識が万能的な位置づけとなったがゆえに「閉塞」しているかにも見える現代文明という観点からも言える。創造性、創造性とソーゾウしいほど叫ばれながら、創造性の確たる理論が登場し得ない実情とも関係していよう。
 そうした課題も非常に興味深いと思われるが、わたしはとりあえずもっと身近な社会事象に目を向けたいと思っている。

 養老孟司著『バカの壁』が超ベストセラーとなっている背景には、この「暗黙知」の問題が潜んでいるのではないかと推測しているのだ。「話せばわかる」の常識が通用しなくなってしまった現在は、まるで「バカの壁」が人々を隔てているかのようだというのが、この著作の眼目であった。しかし、そうしたことがなぜ起きてしまったのかを推察する時、現在の日本人たちにこれまで備わっていた「暗黙知」の遺産が、洪水にでも会ったかのように流し去られたからではないのかと考えるのである。

 ところで、日本人は、決して言葉を巧みに操って饒舌に語る人種ではなかったと勝手に想像しているが、それとともに、それでよく意思伝達が成り立ち、社会生活が成り立ったものだと疑問を抱いたりしてきた。たとえば、寡黙な農民、同じく黙々として生業にのめり込む職人のイメージなのである。
 わたしの見当では、彼らは言葉による知識以上に、この「暗黙知」というものをたっぷりと貯蔵していたのではないかと思うのだ。おまけに、個人即共同体というかたちにおいてである。仕事と生活とが一体となった農村共同体や、伝統的職業組織・文化などが、それを担ったと考えられる。生活の中での豊富な仕草、振る舞い、業などの言葉以前の存在は、あたかも言葉による伝達を不必要とさせるほどではなかったのかと……

 ところが、現代の「情報(化)社会」の日本では、言葉によって構成された知識(形式知)は飛び交い尊重されるものの、「暗黙知」に関しては、それを生み出すところの知覚・感覚を通した行動的機会は減少し、それだけではなく、個人的営為が優先される風潮の中で、共同(協働)的行動が少なくなり、相互にとって「言わずもがな」であったに違いない「暗黙知」が再生産されようがなくなっている。
 こうなると、本来、何がしかの経験的事象との対応関係を持ってこそ生き生きと機能する言葉という「入れ物」「形式」は、中身なしで、それのみで行き交うという虚しい役割りを果たしてしまうのではなかろうか。極端に言えば、言葉尻だけが受けとめられたり、それぞれが言葉を勝手に解釈してしまうという、昔の人には想像もできない事態となっていそうな気がするのである。これが、「バカの壁」という表現に込められた由々しき事態なのであろう。そして、それがベストセラーとなっているということは、この事態に対する<困惑>だけは、しっかりと共同体験され、手堅い「暗黙知」となっている、ということでもあるのだろう。

 「情報(化)社会」の中で、体験との関係が希薄となり浮遊する、そんな情報や知識(形式知)だけを頭に詰め込み、しっかり自身の体験に根差せない個々人は、ほとんど<ユーレイ>だとしか言いようがない。養老氏は別の箇所で、その事態を、生きている<イカ>ではなく、天日干しされた<スルメ>だと表現していたようだが、時代はまさに「スルメ社会」であり「スルメ時代」であったのだ。道理で野良猫が繁殖するわけであった…… (2004.03.02)


 先日、派遣法の大幅な改定に関する役所主催の説明会に行ってきた。自分でなくともよいとは思ったものの、出不精を戒めるためにも、まあ出向いてみるか、といった薄弱な動機で向かったのだった。
 電車の車中でも、ろくな予想しか浮かばなかった。役人の話ほどつまらないものはないからである。そもそも法律というものが、冗長な日常会話には誤解を生む可能性が高いというので、厳密指向と称し、「反」日常的な言葉遣いを平気でおこなう野暮ったさである。その意図がまったくわからないというわけでもないが、その「スルメ」(法律)を後生大事にしゃぶってしか話ができない役人の「異常さ」には閉口してしまうのだ。
 案の定、その会合ではのっけから、役人ならではの小さな不始末があった。課長クラスの役人が地味以外の何ものでもない挨拶をして、実務ベースの説明は主事クラスの役人にバトンタッチされた。ここで不始末があったのである。前の課長が、しなくたっていいはずのマイクのスイッチをOFFにして演壇を降りたようで、出番の主事の声が、数百人は居ると思われる会場に、全然響かなかったのであった。しかも、それがしばらく続いたのだ。私は最後部の席に滑り込んでいたのだが、まるっきし聞こえなかった。よほど、それを指摘しようかとも思ったが、何だかバカバカしくて取り合う気もしなかったのである。やがて、
「マイクが入っていませーん」
と誰かが叫ぶ。そして、演壇の主事が、ようやくごそごそと演台上のマイクをまさぐりスイッチをONにする。その間、ほぼ三分は経過していたのではなかったかと思う。
 私も、演壇に立って話をした経験もないではないのだが、マイクがONになっているかどうかは、そう難しい判断ではないはずである。会場に自身の声が響いているかどうかは誰だってわかろうというものだ。それが、感知できずに無駄な時間(3分×500人=1500分=25時間!)を費やすとは、役人ならではの感覚のズレだと、そう皮肉っぽく思えたのだった。

 話はもちろん、眠くなる「スルメ」談義であったことは言うまでもない。それを、わたしの隣に座っていた人事課長、部長と思われる生真面目そうな年配の人が、杓子定規に筆記していた。たぶん、社に戻ったら、一字一句漏らさぬかたちでこの「スルメ」談義を再現しなければならないからであろうか、と思い浮かべたら、妙に気持ちが沈み涙がこぼれ落ちそうになったものだ。
 今までに、こういうタイプの人と随分多く遭遇したものだったなあ……、失礼ながら感覚的にいやでしょうがなかったなあ……、そうだ、こういうタイプの人たちが、あの正面に立っている「スルメ」役人と表裏一体のセットとなっているに違いない……。そう感じて、周囲を見回すと、三分の二くらいがそんな人々に見えたものだ。残りは、どういうつもりなのかうな垂れて寝ているようであった。

 いまさら役人がどうのこうのと言っても始まらない。また、彼らと波長を合わせている(?)人々についてとやかく言うこともない。
 ただ、時代は変化したと言われる割りには、何も変わってはいない、という印象を深めざるを得なかったのだ。厳しい時代だ、「構造改革」だ、と言葉による情報はいやというほど飛び交っても、実態はちっとも変わっていないというのは、一体どういうことなのであろうか? きっと、こう言えば、然るべき方面からまた言葉による釈明が飛び出すのであろうことも想像されたりする。
 昨晩も、報道番組で筑紫哲也氏が、「変革無き」変革時代を揶揄していた。自民党から提起されている鳥ウイルス被害の業者を補償しようとする動きである。業界からの陳情によるものであることは一目瞭然であるが、要するに、国民からの税金をジャブジャブ使うことに慣れきっている一翼と、その際に、「言葉巧みに」実態をはぐらかすやり口が目に余るというわけだ。

 今、世間では「オレオレ詐欺」を初めとして、「言葉巧みに」人を騙す詐欺が横行しているようである。不況で、カネに困った悪い連中が暗躍しているとも言われる。しかし、わたしは、あまりにも言葉と実態とが遊離してしまった時代風潮が「通奏低音」的機能を果たしているのではないかと感じている。
 元来、言葉はその対象たる現実と強いリンク関係を保持していた。言葉は、等価対応物たる現実によって担保されていた、と言ってもいい。そして、言葉を使う者は、それが当たり前だと感じながら、言葉を信じてきた。
「オレ、オレ、今追い詰められているんだ……」
と泣き声で聞こえてくる言葉に対しては、先ず、リアルな身近な者の苦境という現実を何の疑いもなく想い浮かべるのは、思い込みが激しいというより、「まともな人間」であると言うべきであろう。お年寄りたちは、まさに「まともな人間」なのであり、結果論で「不注意だ」と言うことはできても、「まともな人間」であることをやめなさい、とは言えないはずである。極論すれば、「用心しなさい」ということですら、言葉を額面どおりに信じることなく「相対化」しなさい、と言っていることになるのではなかろうか。

 現実的に考えるなら、「用心する」以外にないわけだが、それは、現代における言葉の「怪しさ」=「多義性」を認めることと同値のような気がしてならない。怪しい雰囲気の人間が語る言葉が言葉の「怪しさ」なのではなく、言葉自体が、「怪しさ」=「多義性」を拭い切れない環境の中に巻き込まれている、というのが実情であるように思えるのだ。 フィクションであるモノ、フェイクであるモノに囲まれるようにもなった。リアルであることの基準値も浮動している。そんな現代にあっては、言葉は「多義化」の一途をたどり、意味の「インフレ」を起し、そして見捨てられていくのであろうか。みんなして、役人たちのように、実態はともかく文字面の言葉に拘泥していけばいいのだろうか。
 いや、自分の言葉を担保する(裏づける)身体的体験をじっくりと検証していくことがかろうじて残された橋頭堡(きょうとうほ)だと言うほかないか…… (2004.03.03)


 わたしは、何か新しいことをマスターしようとする際に、その対象を「なめてかかる」気概がないとダメだといつも思ってきた。システム関係での言語などのツールにしても、「誰が考案したのか知らないけど、そいつの思惑の奥行きはどんなものなんだ?」くらいの、先ずは高を括ったスタンスで迫ることにしている。
 決して、その対象が完全無欠な完成度を持っているなどとは思わないことにしている。まして、間違っても「ハハアー、恐れ多くも……」などと対象を崇め、自身を萎縮させる愚に陥ってはならない、と信じている。
 それはなぜかと言えば、自分に尊大な態度を許しているわけではないのだ。その対象に向けて自分のすべての能力を開き、傾けるためなのである。自由に疑問を抱き、問いかける(「質問」する!)姿勢を確保するためなのだと言ってもいい。この姿勢が無いと、対象のエッセンスを内面化して、自分の血肉とすることはほぼ不可能だと思っているからなのである。

 簡単な話が、とあるセミナーに参加したとして、何の質問もせずに「ハハアー、御説承ります……」という気分で過ごすと、何も残らない結果となりがちではなかろうか。しかし、たどたどしくも思い切って質問に及ぶと、その時から、そのセミナーは他人事ではなくなるはずなのである。
 要するに、「ハハアー……」姿勢と対応しているのが、「切り売り型知識」であり、「しつもーん!」姿勢と対応するのが、「血肉型知識」なのだと言えよう。そして、言うまでもなく、欧米先進国へのキャッチアップが課題であった時代がとっくに終わった今、「切り売り型知識」とその先導者たちの役割りは終了したのである。「血肉型知識」でさえも、時代の閉塞を打ち破るためには心もとない観がありそうなのだ。

 すでに、言い古されてきたように、日本の従来の教育は、キャッチアップのための「切り売り型知識」尊重であった。と同時に、必然的に学習者からの「質問」を抑圧するシステムの維持であったと言える。「質問」するヒマがあったら、「丸暗記」しなさい、それでいい! が教育原理であったということである。
 明治開国以来の、欧米盲信教が一貫して継続されてきたというのが、残念ながらの実情であったのだろう。
 先日、クルマの中でラジオの通信高校向け番組を耳にした。福沢諭吉を話題にしていた。何と福沢諭吉は、当時の西欧の近代科学(自然科学、社会科学)を、まるで手放しで賛歌して次のように言っていたという。
「科学がすべての認識を可能にするだろう。最終的には、この世界に存在するもので、科学によって解明されないものは何もなくなるはずだ……」
 時代の差は確かにあるとはいうものの、わたしは正直言ってその能天気さに驚いてしまったのだ。現在でも、近代科学の延長である現代科学を「こよなく愛する」大槻教授(彼は慶応ではなく早稲田であったか?)のようなお人好しはいることはいる。しかし、科学の可能性とともに、その限界をも感じ取っているのが現代人の辛いところではないのか。 確かに、「福沢諭吉」の札で買えないものはないほどだが、科学で解明されないものは益々増えているはずである。これは憶測で言っているのではなく、一つの発見や理論の構築は、同時に新たな複数の未解明事象を生み出すというのが科学の本質というものだと思うからなのである。科学による認識課題は、決して閉じるということはないはずなのだ。
 にもかかわらず、福沢諭吉はやがて科学によって世界の認識課題は完結するであろうと考えていたというのである。再度言えば、時代の限界であったのかもしれないが、それはともかく、それほどに明治日本の官製学問は欧米一辺倒、欧米盲信主義であったということなのである。そして、その主義が、官僚組織の肥大化と表裏一体となって今日まで持続してきた、というのが日本の近代・現代史だということになる。(ただ、同じ明治の知識人でも、夏目漱石の場合は英国留学を契機にして、日本人の生き方をよりシリアスに見つめ、現代日本の課題にもつながる問題にも肉迫していたように思われる)

 大前研一氏は『質問する力』の中で、「日本人には『質問する力』が不足している」と明言し、「理由の一つには、明治以来の教育の問題があります」とも述べている。上記のように、明治の指導者の姿勢自体が「ハハアー……」姿勢であったのだから、まさにさもありなんと大いに共感できるところである。
 しかし、じゃあ、どうしたら「質問する力」が身につくのか、ということになる。もちろん、教育体制をまさしく「構造改革」する必要があろう。大前氏も、「模倣の教育ではなく創造の教育をする」「とがった人材を育てる」などの提言をしている。そして、「問題解決のできる『考える力』のある人間」や「突出した発想と能力を持った異色の人材」をつくるべきだと、いわば同語反復しているようでもある。
「はたして文部科学省に、こうした人材を育てる教育ができるでしょうか? 答えはノーです」と述べる点には、いうまでもなく賛同できる。ただ、じゃあどうするかに関してが、「天才を育てる唯一の方法は、優れた才能をいち早く見つけ出し、マンツーマンで個人レッスンを受けさせることです」とか「才能を育てるのは親の役割」と述べるに留めているのは今ひとつ不満な感じが残りもする。

 結局、どうも「質問する」ということと、「創造性」とは赤い糸で密接につながっていそうだ、という点にだけは辿り着けたようだ。この辺のカラクリを、かねてから関心を向けている「暗黙知」という考え方に引きつけて明日は考えてみようかと思っている…… (2004.03.04)


「何か質問はありませんか?」
と訊ねることほど奇妙な感じがするものはない。
 実のところわたしもセミナーの講師などで、こうした問い掛けをする立場となったことが少なくなかった。受講者に向かってこんな問い掛けをする時にいつも複雑な心境となったのは、以下の点をめぐってである。
 つまり、話の内容をよく理解した受講者たちは、質問をする必要がなくなっているはずである。また、話の内容が皆目わからなかった者は、質問しようにもしようがない。要するに、イチかゼロかのデジタル的発想で言えば、質問というものは生じようがないものだからである。
 そこで多くの講師たちは次のようにいなすことが多い。前者のグループに、「ホントにわかったのですか?」とただすのも失礼だし、後者のグループに、「どうして理解できないのでしょう」と、みすみすやっかいな個人指導の泥沼に入らなければならなくなってしまう誘い水をあえて注ぐのも警戒(?)してしまう。で、差し障りなく、
「質問がないようでしたら、五分間休憩の後、先へ進むことにします」
などと、「白々しい」対応をするのである。
 そんな「恒例」的な流れが半ば始まろうとした際に、
「ひとつ質問させてください!」
と、沈黙を破る勇気溢れた声が教室に響くと、うとうとしていた受講生たちはハッと覚醒されるはずであるが、誰よりも覚醒されるのは講師自身なのである。変な話が、暗闇でポンと肩を叩かれたような、そんな驚きに至るのだ。
 しかもその質問が、講師自身が課題として残していた疑問と接触しているとなると、大抵の講師は言い知れぬ困惑へと突入してしまうはずである。
 そんな場合、自然体で振舞わずに恰好をつけていた講師の場合は、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してトンチンカンな回答をすることになる。ベテランは、「お主やるな!」と悟り、俄かに質問者に迎合的となったりする。
「いいところに気がつきましたね。実にいい質問です!」
なぞと質問者に対して「最恵国待遇」の言葉を与えながら、急いで対応措置を考えるのであろう、ベテランは。そして、場合によっては次のように「言い逃れ」に走るのかもしれない。
「いやー、これは実に難しくて複雑な問題です。こんなテーマをこそたっぶりとお話したいところなんですが時間の都合もありますから…… もし良かったら、個別に後でお話しましょう」

 しかし、本来、そうした質問こそが飛び出さなければセミナーというものはおもしろくならないし、逆に言うならば、そうした質問が触発されるような「アブナイ」話し方をこそ講師はすべきなのだと思っている。
 どういうことかと言うと、話の内容をモノの部品にたとえるなら、世の中のあらゆるモノの部品は単独で存在するはずはないのだから、他の部品と容易に接続できるようでなければならない、と思うのだ。ギザギザであったり、糊しろがあったりしなければならない。それが、クリアカットされていて、他のどんな部品とも接合できなかったり、あらかじめ設えられたお定まりの接合形状をもった部品とだけ接合するといったふうだと、モノの認識に拡大可能性がなくなってしまう。
 どんな話にせよ同様だと思えるのだ。当該の話題はそれだけで閉じているわけではなく、類似案件もあろうし、近隣領域の類似案件との関係の問題もあるだろう。要するに、話題というものの周辺は、外に開かれていて、あたかもギザギザ状態となっているはずなのである。そういう状態であれば、その話題を聴き入る者が比較的自然に頭の中に「移植」(内面化)させることができ、その結果自分なりの疑問を生み出し、質問に至るということが可能になるのである。
 ところが、先日も書いたと思うが、話題が、プラスチックの「ロゴ」のような部品で構成され、他の部品の接合を杓子定規に排斥するようなら、そんな構成物を自分の頭の中に「移植」しようとする動機すら失われてしまうのだ。
 だが、いわゆる知識というものは大体が「ロゴ」のような仕様なのであり、それらで構成された話題というものも、同様であるように思われる。だから、「ロゴ」を思考を進める際の部品と決めた者(いわゆるお定まりのスペシャリスト!)には、
「なぜ、この際その形状の部品が使われるのでしょうか」
といった疑問、質問は発生しても、そうでない者には疑問が生じる余地さえないのかもしれないのだ。

 問題の所在が、知識というもののあり方を吟味しなければならないといった大仰なことになってしまうようだ。何も事を難しくしようとしているのではない。知識とは、万人に活用されてこそ意味があるということを考えれば、それが「馴染みにくく」なっていることが問題なのである。生身の人間がそれらを真に活用しようとするならば、生じて当然の疑問や質問さえ飛び出しにくくなっているということが、決して自然ではないと思うだけの話なのである。
 そこで、とりあえず知識というものを生身の人間が取り戻すために、以下のようなことをしてはどうかと思っている。
 先ず、生活実感で受け入れ難い知識に遭遇したら、それを決して自分はわからないけど、わかる人がいるとは思わないこと。自分がわからないことは、きっと他の人も理解に苦しんでいるに違いないと、そう思ってみること。
 そして、その疑問を「隠匿」せずに、回りに訊ねられる人がいれば、次のように発言してみること。
「実に初歩的な疑問なんですが、△△をわたしは……と思うのですが、どうして△△が〜なのでしょうか?」と。
 できれば、「△△とは何でしょうか?」といった禅問答のような漠然とした質問は控えたい。自分なりに考えた痕跡を添えた、自身の匂いを添えた質問でありたい。
 ふと、「インフォームド・コンセント」という大事な問題を思い起したが、かかりつけの医者に対しても、質問は浴びせていく時代となっているのである…… (2004.03.05)


 明るく元気な、あの長島茂雄氏、六十八歳が、脳梗塞だと聞き、幾分驚いている。心臓の不具合によって発生した血栓(けっせん。血のかたまり)が脳の血管を詰まらせてしまったとのことである。今更ながら、脳や血管という「原始的なメカニズム」に注意を向けざるをえなかった。

 もう二十年以上前のことである。亡くなった父が、心筋梗塞の上、最期には脳梗塞を併発させ、亡くなる直前には言語障害に陥っていた。何かを伝えようともどかしがり、紙と鉛筆が欲しいと望むようで、確か「針……、糸……」というような言葉を口にしていた。そして、手渡した紙には、どういうわけなのか、カ行のカタカナが羅列されてあり、まったく意味が不明であった。切なく哀しい思いで途方に暮れさせたのだった。

 明朗快活であった長島氏にしても、身近でしっかりと存在感を持っていた父にしても、その色濃い印象とは裏腹に、人間の身体には何と「脆い」部分が残されているのだろうかと感ぜざるを得ないのである。脳や血管という驚くほどに「原始的なメカニズム」のことである。
 現代の象徴とも言える電子回路も決して脆くないとは思えないが、それでももう少し強靭さが施されているかに見える。それに対して、脳や血管というメカニズムはいかにも「原始的」で、かつ頼りない「脆さ」を感じてしまう。
 確かに、壮大な観念を創造する脳の機能の素晴らしさは比類ないものがある。しかし、その生命線が、毛細血管による血液と血中酸素が運ばれるという単純な事実に依存しているという構造は、植物と何ら変わらないとしか言いようがない。毛細血管が、血栓によって詰り酸素の供給が途絶えるならば脳の組織が死滅してしまうという仕組みは、住人が旅行などで不在となったマンションのベランダで、水の補給が途絶えて萎れ、枯れてしまう植木鉢の植木と何の違いがあるというのだろうか。

 人間は動物であり、おまけに意識を持つ高度な動物である。しかし、このことは、だからといってより低次元の生物だとされる植物を超越しているわけではないようなのである。つまり、人間の身体には、植物的な機能もしっかりと残存しているらしい。
 人間の身体は、種々の「階層構造」で出来上がっているとのことである。意識を持つ生物だからといって、すべてが高度であると錯覚してはならないということだ。動物としての階層・次元の一連の機能(ex.本能)も内在すれば、植物としての階層・次元の機能も立派に全機能のネットワークに参画しているということになる。
 だから、血管というような、まるで植物の葉脈のような構造があったとしても、とやかく言うべきのことではないようなのだ。

 さらに、わたしが最近、関心を抱いている「自律神経系」というのは、言ってみれば人間の身体の中に残る「植物的」性格の部分であるのかもしれないと思った。もとより、意識が失われても生き続ける病状を「植物人間」と称されることがあるが、動けないという点が強調されてそう表現されるだけではなく、身体の機能の「植物的」階層・次元の機能は十分に遂行されている、ということでもあるのかもしれない。
 また、マイケル・ポランニー(『暗黙知の次元』)は、「暗黙知」の構造を説明する過程で生物種類の階層を論じて、その中で「草木に見られるような植物性=自律神経レベル」云々という表現をしていたのに出会った。
 何が言いたいのかというと、人間は、意識して何でも意図したように行動できると思い込みがちだが、「随意」には事が運べない「植物的」な部分を引きずって携帯しているということなのである。それが、「自律神経系」の部分であり、現代人がとかく「自律神経」失調症に陥る現象というのは、何とも暗示的な気がするのだ。

 自然を征服したかに思った現代人が、自身の身体の内にある自然、「植物的」部分、「自律神経系」の秩序喪失によって、かなり大きな被害をうけるかたちで撹乱されてしまっているという事実は、現代人の生き方、発想そのものへの重大な反省を促すものだと読めないこともないのである。
 さらに、昨今世界を騒がせている「鳥ウイルス」とか「SARS」とかの「ウイルス」問題も、癌や免疫の問題と併せて、植物からちょっと上位階層の原生動物(単細胞生物)の次元の問題だと言っていいのだろう。つまり、現代において人間、生物ピラミッドの頂点に立つ人間がもっとも厄介なかたちで遭遇している問題とは、その生物ピラミッドにおける足元の底辺に位置する存在に関わる問題だということなのだ。大きな皮肉を感じるとともに、人類は結構大きな問題を積み残してきたものなんだなあ、と思ったりするのである…… (2004.03.06)


 今朝のウォーキングで、思わず笑ってしまうことがあった。
 その男は、猛烈な勢いでわたしを追い抜いて走って行ったのだ。グレーの上下スポーツウェアを着込み、リュックを背負い、スニーカーを履いていた。
 わたしは一瞬、何かに追いかけられて走っているのかと、後方を振り返ってみたりしたものだ。が、誰も、何も彼を追いかけているわけではなかった。なぜ、彼が何かに追いかけられ、逃げていると早とちりしたかといえば、彼の走り様がまさにそうとしか見えなかったのである。足はドタバタと激しい音を立て、腕は脇が半ば開き、なおかつ妙に不規則な動きなのであった。そのくせ、スピードを出そうとする気合だけは満ち溢れている。人がそういう走り方をするのは、普通、取って食われるようなクマにでも追いかけられているか、泥棒が追手を振りほどくために逃げているかのどちらかとしか考えられない。とても、日曜日の朝に、健康と気分転換のためにジョギングをしているのだという意志は伝わってこなかったからである。
 で、その男は、見る見るうちに歩くわたしとの距離をあけ、あっという間に遠く小さくなってしまったのだ。わたしは、人目もはばからず笑ってしまった。どんな動機が彼をあのような走り方にさせたのか、わたしには皆目見当がつかなかったのだ。先ず考えられることは……、いや、何も考えられなかった。それが正直な印象だ。とにかくその後姿からは、何かの目的で先を急ぐというよりも、とにかく逃げる、という気配のようなものしか感じられなかったのだ。
 これが、一般道路であれば、たとえスポーツウェアを着込んでいたとしても、当事者には、何か笑っては失礼な緊急事態があるのだろうと想像できただろう。だが、場所は川べりの遊歩道なのであり、ここを歩くなり走るなりする者は、普通生活それ自体からは離れた何がしかの余裕の目的を持ってそうしているのだと見なせる。まあ、通勤、通学でルートとしている者もいないではないが、それは見てすぐにわかる。そこへもってきての、ただただ「あわただしさ」をかもし出す男の姿が、奇妙におかしく思えたということなのだろうと思っている。

 しかし、「おかしさや、やがて哀しき……」ではないが、「逃げるがごとき何々」ということにひとたび関心を向けると、自他を問わず現在のわれわれの状況には、まるで「逃げるがごとき」事柄が少なくないのかもしれない、と気づく。しかも、やっかいなことは、「逃げている」という意識がほとんど否定されている場合が多いことである。いや、否定されているというのが言い過ぎであるとすれば、「逃げてはいない」と正当化することが可能なほどに、混迷した「言い逃れ」状況が備わっている、と言ってもいい。

 たとえば、今朝の朝刊(朝日)に、「フリーター、ピーク時476万人 UFJ総試算」という記事があった。予想される2010年のピーク時には、現時点での最新の調査結果417万人を約60万人も上回る数字となり、国家財政の税収入、年金資金、個人消費などに深刻な影響が及ぼされるというのである。
 フリーターの何が「逃げ」であると思われるのかと言えば、ひとつが、当事者たちのスタンスにおける問題であり、もうひとつが、社会側の対策の問題である。いずれの問題にしても、正当なものからそうでないものまで含め要するに「言い逃れ」状況のようなものがあるといえばある。しかしそうだからといって、前者に関して言えば、われわれの時代にわれわれが糾弾された「モラトリアム」に、やはり引きずられていていいことはない、と直感的に思えるのだ。複雑なことはおくとして、社会参加という点、人間にとっての社会性という点において、そのチャンネルが希薄であるということは見過ごせない問題だと思うからだ。社会的責任が云々という口幅ったいことが言いたいのではなく、社会性を欠落させたままの人間には、知る能力と行動能力に大きな欠損部分が残ってしまい、不自由をするはずだと思えるからなのである。

 ところで、フリーターを選択した若者たちの心の奥底には、「逃げ」の心理はないのだろうか。何が「逃げ」の心理であるかという込み入った議論をするひまはないが、要するに、現在携わっているアルバイトなどの一時的就労を、正真正銘これぞと思って選択しているのであろうか。正規な就労に伴う一連のわずらわしさからの「逃げ」という心理はないのかという点である。
 また、ふたつ目の社会側の対策の問題においても、結論的に言えば、若者たちの個人の自由の問題だから…… という「逃げ」の姿勢はないだろうかと感じる。「社会の後継者」を引き込み、育てるという課題は、いつの時代でも最重要課題であり続けたのであって、それと個人の自由の問題とを同じ土俵で扱おうとすること自体が「逃げ」の姿勢以外ではないかと思える。要するに、それに熱くなれるほどには脛が無傷ではないという情けなさなのであろうか。

 「逃げ」という視点は、確かに科学的、合理的なものではない。いわば半分以上が「主観」に根ざした発想なのであろう。だから、「いや、それは『逃げ』という問題ではなくて、これこれこういった事実の結果の選択なのである」と、まことしやかに「能書きをこく」輩も絶えない。
 しかし、事実に即して言えば、こういう輩こそが、当然あっていい危機意識をはぐらかし、必然的に発生する問題を先送りにするお先棒を担いできたと言えるのではなかろうか。超高齢化社会到来と年金制度の問題などがこの典型的な例だと思える。
 世界は、科学的、合理的なものだけで動くものではないのではなかろうか。人々の希望や、信念や、誇りなどの「主観」的な思いが少なからず役割を果たしていると思えてならない。そして、「逃げ」という心理などはそれらと表裏一体的関係の観念のはずである。 さらに言えば、人間の生きがいとは、こうした「主観」的な内容物を度外視して、果たして成立するものなのであろうか。それとも、上記の輩たちは、人間の生きがいの問題なぞ、科学や合理性の問題からすれば、取るに足らないものだと開き直ってでもいるのだろうか…… (2004.03.07)


 新聞の広告、新刊本案内の中に『嘘つき天国日本の病巣を斬る』(井沢光司著)という書名を見つけ、「そう、そう!」と共感するとともに、何やら溜飲を下げる思いがしたものだった。とはいっても、同著についてはその書名しか情報はなく、あくまで書名からその内容を推測しているに過ぎないのではある。
 かねてから、昨今のこの国の現状に対して「嘘がまかり通る」とんでもない状況に立ち至っていると痛感してきた。政治家や官僚たちの白々しい嘘、また、この国の危機的様相を知って知らぬふりをしているマス・メディアらの嘘の姿勢、さらに嘘で囲まれた社会であるにもかかわらず素知らぬ顔をして嘘の生活を続けているわれわれ自身。
 みんながみんな嘘をつきまくって生きている、ただ、嘘がつけない人の身体の生理的部分(ex. 自律神経系、免疫系)だけが、過剰なストレスを一手に引き受けて、自虐的な暴走を繰り返しているかのようだ。明るさのシンボルであるかのような長嶋茂雄氏までもが、ストレス時代、「嘘つき社会」の矛盾の中で犠牲となったかに思えたりする。

 北海道警察の「裏金作り」問題に端を発して、国全体の警察組織が「組織ぐるみ」で同種の犯罪! を犯しているらしいことが話題に上っている。すでに、「警察=正義」という神話を破棄してしまっているわれわれの常識感覚からすれば、官僚組織に起こりがちな不正が、ある組織で企てられたが、たまたまその組織が犯罪を取り扱うはずの組織であった、という理解が妥当なのかとも思っている。それほどに、官僚主義組織の腐敗は極みに達しているということであろう。
 われわれの仕事であるプログラムのシステムに関して言えば、発見される一つの「バグ」(プログラムの誤謬)の背後には、十倍、何十倍の数の「バグ」が潜伏し続けている、というのが常識である。
 そう考えると、地上における「正義」の執行役とさえ見られてきた組織がこの体たらくであったならば、他の数々の官僚組織にこうした不正が潜んではいないという想像を一体だれができるのであろうか。何が「改革」の時代だと言えるのだろうか。嘘の原材料が、嘘の溶液で溶かれ、嘘八百の道具を使って本物らしく固められたのがこの社会だと揶揄ってみたくもなるのだ。

 官僚組織に嘘がまかり通る原因は数々あろうが、単純化して言えば、「無責任」が許されるシステムの構造に注目せざるをえないだろう。「無責任」とは、「個人責任」が問われないということと同義なのである。そして、官僚組織には組織温存という欲望が醜いほどにあっても、官僚、組織人たちが、国民や市民の判断によって更迭されるという機会は皆無なのである。あくまで、内部の「自浄能力」に任せられているのが現実だという、極めて頼りなく、信じ難い「チェック」、いわば「ノー・チェック」のシステムだと言っていい。
 ではなぜ、内部の「自浄能力」という機能は、有って無きがごときものなのであろうか? この原理の「構造的危うさ!」を徹底的に凝視して手を打たない限り、いくらでも「続報」が絶えないものと思われる。

 日誌であるのにダラダラと長く書くのはどうかと思うので、自分なりの結論を急げば、そもそも「自浄能力」というのは「自然の特産物」であったと考えている。つまり、エコロジー上の概念であり、自然が循環の過程で進める神秘的な営為なのだと考える。
 人間の身体の中でもこの自然営為が推進され、それが「自律神経系」という体内の「植物的」側面なのだろうと思っている。しかし、現在のわれわれの身体の実態を省みてもわかるとおり、人間は意識を駆使することでこれらを結果的に撹乱して、さまざまなかたちで変調を来たすことになってしまっている。自然開発という名で環境破壊を進め放題に進めた、地球全体の傷跡を振り返れば、なおのこと了解しやすいはずだ。
 つまり、「自浄能力」という自然特有の機能と、人間の意識とは相容れないものと仮定せざるを得ないのである。ただ、意識の活動は自然な「自浄能力」を促進させる場合もあろうが、それは、そんな場合もあるということに過ぎず、意識が「自浄能力」を持つということの保証には決してならないのだ。むしろ、意識が限りなく後退し、言うならば「手を引く」ことによって自然の機能が促進されることの方が想像しやすいはずだ。

 この国の人間組織は、長く「擬似」自然的性格を残存させていたのかもしれない。つまり、共同体的な性格のことである。そこでは、共同体持続のために、「擬似」的な「自浄作用」が奏効していたとも考えられる。(厳密な議論ではない)
 それが、一気に「近代化」という、組織の「意識」的(反・自然化)再構成に遭遇することになった。組織の外での社会フィールドでも市場経済という原理が野放し的に浸透して行ったこととも重なる。意識の担い手たる、最小単位である「個人」のあり方と一連の動向との間の不具合などにさして関心が払われないままにである。
 こんな過程で、かつて機能したのかもしれない「擬似」的な「自浄作用」のみが、安易に盲信されてきたのかもしれない。そんなものはとっくに破壊されていたにもかかわらず、である。
 「近代化」のご本家である西欧にあっては、自然界とは別の、意識を持つ人間個人相互の関係にあっては、自然の「自浄能力」とは別の機能を「意識的」に「人為的」に構築しなければならない、と社会的に自覚したのだと、歴史事実を追えば読み取れる。つまり、近代市民革命での「社会契約」である。そして、その延長たる「民主主義」政治形態や「チェック・アンド・バランス(権力を分散させることによって特定部門の行き過ぎを抑え、全体の均衡を図ること)」の原理などが導入されてきた。それでも、官僚組織に内在する矛盾は拭い切れなかったのではある。

 警察内部の組織ぐるみ犯罪を、日本史に潜む大きな問題に解消してしまうつもりはない。リアルに厳正に対処されなければならないと考える。そうでなければ、この国はまさに立ち腐れて行くに違いない。
 ただ、時代風潮とさえ見えるほどに蔓延してしまった不祥事のうねり(嘘つき天国!)を、見たくはないのだが凝視する時、その底に、重要な歴史の契機を実に安易に踏み越えてきた過去があったと感じられてならないのだ…… (2004.03.08)


 今朝のテレビ・ニュース・ショーで、「理数科離れ傾向」に国語力強化を! という内容のものがあった。紹介されていたのは、算数での計算を機械的に慣れさせる従来の方法に対して、計算の過程を言葉でじっくりと考えさせるというものであった。そのため、文章化させ、なおかつ説明の意義を自覚させるために発表という機会をも設定している。
 従来、算数といえば計算に慣れさせるという一方的な指導が普通であったところへ、自分の頭で考えさせるために言葉と文章を精一杯活用するという点が、いまさらながらに重視されている、というのである。
 国語力を鍛えるという点では、他人に対して自分の考えを説明するということの重要さに注目した授業展開が図られてもいた。各自が、自分の趣味を、なぜそれが好きなのかを列挙して書き出し、それらを整理した上でクラスメイトに説明する、といった手順なのであった。子どもたちは「ぼくの趣味は……です。なぜかというと……」といった調子で張り切って学んでいた。
 湿った事柄ばかりが目につく昨今なのであるが、明るい展望につながる新鮮なものに触れたような感じがしたのだった。

 時代と社会の将来展望は、何と言っても各自が自身の頭で考え、行動するということ以外に特効薬はない。にもかかわらず、その事実を無造作に置き去りにしているかにうかがえることが最大の不幸だと思っている。
 自身を振り返っても、考えているようで考えていないことの方が多いように思ったりする。何も考えることなく、快・不快の衝動に身をまかせて条件反射の連鎖で一日を過ごす場合もないことはない。「便利な生活」環境によって、考えるということに伴う大なり小なりの苦痛を、すべて肩代わりしてもらい、人はすべてを "Without Thinking" で「やり過ごす」ことができてしまう世の中なのだと言ってもいいのだろう。
 このことの裏側で、人生それ自体が「やり過ごされる」ように過ぎて行ったり、時代や社会が視野の外で想像以上に「悪化」していようとも、もとより「考えない人」であれば気づく余地もない。

 自分の頭で考えるということは楽しい側面ばかりではない。むしろ苦痛だと言った方がいいのかもしれない。意識を集中させ、緊張させること、不確かな記憶をたどったり、イメージになりにくいものを意図的に想像しようとしたり…… 、とかく考えるということは、自身に負荷もかかり、わずらわしく、うっとうしい行為であるのかもしれない。ましてこうした面倒さを伴う行為に慣れていないとなると、パスをして、当面必要な結果だけをどこかから拝借したいと望んでしまうのも、もっともと言えばもっともなことだ。
 ところで、われわれは「便利性」という点を高く買いながら生活し、勤務している。たぶん、本来が「便利」なものとは、肉体的負荷、苦痛を肩代わりしてくれるものを指していたのであろう。歩くより自転車やクルマの方が肉体的苦痛が少なくて済むがゆえに、それらは便利な乗り物と見なされたはずである。
 だが、どうも現代では、便利なものと見なされる「オート何々」とは、肉体的苦痛を軽減するというよりも、考えなければならなかったわずらわしい部分をこそ自動化したものが多いのではなかろうか。ソフトウェア・プログラム・システムが重宝だとして便利がられるのはその典型なのである。そのうち、「オート・パズル」というものができるのかもしれない。購入者は、それを机の上に置いて眺めるというものなのである。スイッチ・オンにすると、パズル自身が自動的に解へと向かった動きを始めるのである。何とも「素晴らしい」パズルだということになろう。

 こうして、考えないで済むような環境が、便利さを何の抵抗もなく受け入れていく趨勢の中で広がっているのである。だが、同時に自身の頭で、苦痛を伴いながら考えていくことをしないことの弊害も少なくない。突発的なアクシデント時の惨憺たる対応ぶりも指摘されるところである。
 しかし、それもさることながら、簡単な話が、自身で考えない者には「達成感」が得られない、という点が何にもまして重篤な問題ではないかと思っている。なぜならば、「達成感」とは、人間個人における「生き甲斐」であり、「自身の存在感覚」であると思うからだ。こんな大事なものと引き換えにして、便利さを謳歌しているのだということを、おざなりにしてはいけない…… (2004.03.09)


 最近は、書籍の購入のほとんどが街中の書店からではなく、ネットショップの<amazon.com.jp>からとなってしまった。街中の書店は、フラリと立ち寄って時間をつぶすにはいいかもしれない。また、現物を手に取って感触的に確認できるというメリットも確かにある。
 だが、どこにでも配本されるような雑誌ならいざ知らず、読みたいと定めた本を書店で探すという徒労は、もう大概にしたいと思うようになったのだ。また、取り寄せ注文をするというのも煩わしさが先立ってしまう。ということで、ネットによる通販に期待するようになったのだ。ただ、未だにカードによる引き落とし方式は使わず、いわゆる「代引き」支払を選択している。その手数料は毎回250円であり、バカにならないと言えばそのとおりだが、相次ぐ「個人情報漏洩」という不祥事を耳にするとオフライン処理が安全だと思ってしまうのだ。

 <amazon.com.jp>のサイトが何となく気に入っているのは、慣れという点もあるが、「当人向け」の案内を表示するサイト上の工夫(CGIプログラムでユーザ側の「クッキー」を使ってのことであろうか、XMLを使ってのことであるかは定かではない)がなされていることも一因かもしれない。
 また、気になる著作の検索もスピーディであること、さらに、出版社側からの内容紹介に加えて「カスタマーレビュー(既読者による感想文)」が掲載されていることもそこそこ有り難い。

 この「カスタマーレビュー」はいろいろである。もちろん、自ら手を上げた読書家たちによるものなのだから、読むに堪えないというものは少ない。一応の参考にはなる。
 ある時、ある本に付随していたそのレビューがちょっと気になったものだった。素人離れした口調と視点が直感的に気になったのだ。で、そのレビュアーのプロフィールを覗いてみようとしたが、定かな身元説明はなかった。なおのこと気掛かりとなり、その身元探索に夢中となってしまった。
 そこで、同一レビュアーが書いたレビューが他にどんなものがあるかを検索してみた。すると、何ともの凄い数に上ったのだった。4〜500件なのである。いよいよ、これは玄人業(わざ)だなと思わざるを得なかった。
 中でも、そのレビューの対象著作でかなりの割合をしめたのが、かの「吉本隆明」氏の著作なのである。初めは単純に、吉本氏自身が面白半分にそんなことをしているのかと思ったりしたものだった。
 が、どうもそうではなさそうだった。吉本隆明氏も昨今の著作ではラフな口調で書くこともあるが、レビューの口調は、時によってはヤクザっぽいものもあり、困惑したのだった。
 直接的なヒントは、ある本のレビューの中で、これこれの本がお勧めだと書き、たまたまわたしはその本の著者が誰であるかをしっていたことであった。「うーむ、くさい!」とその著者を睨んだのである。
 そして、当該のレビュアーが書いたレビューのすべてを検索の上洗い出してみたところ、その人物が、大学関係者であったらしいこと、分野が「文化人類学」であるらしいこと、「左翼崩れ」の匂いがすること、さらに「政治家」となった経験があることなどがわかったのだ。加えての決定打は、以下の一文なのだった。

「病院の帰りに吉本隆明の『老いの流儀』を買ったら谷崎『瘋癲老人日記』川端『眠れる美女』とともに、『われはうたえどもやぶれかぶれ』が老いを描いた傑作と書いてあったので、手にとってみた。自分の身体の調子が悪いので、性を描いた他の二作は読めずに、、『われはうたえどもやぶれかぶれ』は読めた。病院のレントゲン室で待つ描写など誰でも病院に行った者なら身に覚えがあるだろう。ただ自己暴露的な傑作ではあるのだが、文章の訓練をしてこなかった私が崩壊する身体を背負って何か書くのは難しい。」(『われはうたえどもやぶれかぶれ』は、室生 犀星の凄絶なガン闘病記。筆者註)

 わたしが結論を出したのは、一、二年前だかに「脳梗塞」に襲われたと聞いていた「栗本慎一郎」氏であった。そう見定めて、レビュー著作のリストを眺め直したら、自身の著作の大部分に対して自身がレビューを書いてもいたものである。
 そう言えば、長嶋茂雄氏の脳梗塞報道に関連して、栗本氏が真摯なアドバイスをしていたテレビ画面を最近見たものであった。同氏は、脳梗塞に関する著書をものしていたのである。(『栗本慎一郎の脳梗塞になったらあなたはどうする―予防・闘病・完全復活のガイド』)
 同氏に強く関心を抱く自分ではないのだけれど、「学タレ」との付き合いもないではなく、こう言った「知的ヤクザ」を身近に感じる自分としては、何となく気にはなっていたものだった。そうした栗本氏が、「崩壊する身体を背負って」とクールに書いている部分には、「ウーム」と黙らされるものがあった…… (2004.03.10)


 一昨日、現代の「便利性」が、「自身の頭で考える」ことを妨げていると書き、次のように説明した。
「どうも現代では、便利なものと見なされる『オート何々』とは、肉体的苦痛を軽減するというよりも、考えなければならなかったわずらわしい部分をこそ自動化したものが多いのではなかろうか。」
 自分自身で感じ、考える喜びと苦痛と不安、これらこそが人間が生きるということの主要な内実を形成しているに違いないと思うのである。
 こうしたことを妨げる「便利さ」とは、何もITの新製品やソフトウェア・プログラムなどのモノに限られたことではない、ということに今日は注目したい。

 よく、人前で話をしなければならない時に、「紋切り型」のフレーズを恥ずかしげもなく使う人がいるものである。ちょうど時季も卒業式が行われる頃であるが、そこでの来賓挨拶なぞがそれである。
「皆さん、ご卒業おめでとうございます。『ただ今ご紹介にあずかりました』何の何兵衛でございます。今日は『お日柄もよく』…… 皆さんの『蛍雪の功』が今日ここに実り…… 『はなはだ簡単ではございますが、これをわたくしの挨拶と代えさせていただきます』」
 「紋切り型」の授業で苦節何年かを耐え忍んできた卒業生にとっては、こんな挨拶は最後のダメ押しであり、来るべき今後へと引き続く「自分なし社会」の予告編なのだと受け止められているに違いなかろう。

 こうした「紋切り型」フレーズと挨拶を初めとして何と自身で考えずして「吊るし」(?)の慣用句や観念を借用することが多いことか、と気づくのだ。
 確かに、便利な「吊るし」の観念を使わないとすれば、日常生活もさぞかし骨が折れよう。朝の挨拶からして、「おはよう」という慣用句を使わないとすれば、自身の頭でその時、その時に言葉を選ぶとするならば、どんなに大変なことかということである。まあ、それは極端な例としても、われわれは結構な頻度で、便利な「吊るし」的なものに依存しているようだ。数学の公式なぞはまさにこうした「吊るし」的なものの典型であり、思考の「エコノミー」、つまり考えるムダ(?)を省くものだと見なされてもいる。

 ところで、考えるということで何がしかの「吊るし」的なものに依存する習性のうちで気になるのは、思想や「イデオロギー」ということなのかもしれない。
 それらは、自身の等身大的な生活実感や、自身が考えることの試行錯誤の結果で辿り着いたものであれば何の問題もない。しかし、その自身の大事な部分がスキップされて、思想やイデオロギーが「先ず在りき」というように逆立ちさせている人々もいないわけではない。
 わたしの経験の範囲では、そうした人々が、思想、イデオロギー、宗教などの組織・団体(「親方日の丸」教に殉ずる役所、官僚機構も含む)の中にいないわけではなかったような記憶がある。すべての人がそうだというわけではなく、そうした環境でカン違いをしている人々のことである。

 彼らの最大特徴は、自身が拠って立つ思想、イデオロギー、宗教などを絶対的権威だと思い込み、自分自身ではまともに考えようとはしないという点である。いわば盲目的なのである。その結果、「便利に」思考の「エコノミー」を図り、ますます自身で苦痛を伴う「下手な考え」を極力避けるようになり、まったくしなくなるのだ。いわば「洗脳」されたような意識状態と成り果ててしまう。
 ところで「洗脳」というのは、特別な「シャンプー」(拷問とかクスリとか……)を使って自由意志を奪って為される場合もあるだろうが、自由意志でもあり、そうでもないかもしれない、いわばその「グレー・ゾーン」で行われることの方が重大なのかもしれないと思っている。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』のテーマは、まさにこの辺の問題の重大さを暴いたのだった。つまり、ナチス下でのドイツ国民は、決して自由意志を奪われて「洗脳」されたわけではなく、「自由を重荷と感じてしまった」ドイツの中間層たちの自由意志こそが、ナチスを受け入れる素地であったという分析である。

 「自由を重荷と感じる」ということを別表現するならば、「自身で考える」ということを「重荷」と感じ、「自身で考える苦痛を放棄、廃棄する」ということになるはずであろう。上述の、思想、イデオロギー、宗教などの組織・団体に属する人々の中に、カン違いをした人々がいるとするならば、自分で考えることの苦痛から逃走して、その種の組織・団体に合流した人だと言えそうな気がする。そうした人々の中には、自分が奉じる思想なり、イデオロギーなり、宗教なりによってすべてが贖(あがな)われると思い込むに至り、その結果市民道徳未満の不祥事をあっけらかんと起してしまうことにもなる。

 こんなことを書きながらわたしの脳裏にこびり付いていたのは、権威を誇示してしか、ものが言えない、考えている振りができない、要するに自身のあたまでは何も考えられない無能な政治家たちのことであった。しかも、野党であってもこの例に洩れず、だからこそ国民の血税を詐取したという基本的なことすら些細なことと見なす感性のズレが淡々と起きてしまうのであろう。
 もちろん、「親方日の丸」観念によって、「国士」、「憂国の士」を気取り、オリジナルな自分なんぞは何もない自民党政治家諸氏の振る舞いは論外であるが…… (2004.03.11)


 このような天気は「花曇り」とでも言うのだろうか。単に曇っているというには、そよ風がめっぽう春めいている。ウォーキング途中で、古い桜の木の下を通った折にも、枝は弾けそうなつぼみが蠢くようであった。確実に春が訪れようとしている気配だ。

 そんな気配の中で、目にする野鳥たち、鳩やカラスの姿が憶測かもしれないが精彩を欠くようにも見える。かの「鳥インフルエンザ・ウイルス」の事が報道されているからである。
 歩道を横切って歩く鳩が心なしか「疲れている」ように見えたりする。そのまま、ガクリとうっ伏してしまったりはしないかと、余計な心配をしたりする。いつもは、小憎らしいカラスたちが、乱暴にゴミを漁っている姿を見ると、ああ元気なんだな、感染していないな、となぜだかホッとしたりもする。
 それにしても、楽天家で、いたずらっぽいカラスが、ウイルスに感染して敷石の上で蹲る恰好で息絶えていたというニュースは、何ともやり切れなかった。いやもっと気が沈んだのは、あの養鶏場経営者夫妻の身の処し方であったかもしれない。ニワトリたちへのウイルス感染という突発的な出来事さえなければ、何事もなく平凡な余生を過ごしたであろう方々であったに違いないからだ。

 こうしたウイルス問題(エイズ・ウイルスも含む)やBSE問題などは一体同考えればいいのかと戸惑うことしきりである。概ね「天災」だと見なされているようであり、因果関連の複雑さから「人災」と見なす視点は退けられているかのようだ。
 しかし、安易に「天災」と括ってしまうことにはどうも好意的になれないでいる。それというのは、一連の話題のウイルスの由来を探る時、単なる自然現象ではなく、どちらかと言えば人為的なもののようだからである。聞くところによれば、そうしたウイルスは、突発的に発生したものでもなければ、ましてSFチックに他の宇宙から持ち込まれたものでもないらしい。
 エイズ・ウイルスであったかエボラ熱のウイルスであったか定かな記憶ではないのだが、もとのウイルスは、原生林に生息するコウモリであったかに長く寄生していたと聞いた。もともとウイルスというものは、それに対する「免疫抗体」があれば何ということもない病原体なのであり、そのコウモリにとっては災いとはなっていなかったようだ。
 ただ、これが、感染ルートが形成されてしまうことによって、「免疫抗体」のないヒトへと感染することになり、大問題へと発展したという。この辺の事情をどう見るかによって、「天災」「人災」の識別が検討されるのだと思う。

 ところで、近代・現代の国と国との貿易にあっては、当然のごとく「防疫」体制が重視されているのは周知の事実だ。他国の植物、動物をノー・チェックで国内に持ち込むことは禁じられているはずである。
 しかし、原生林に侵入したり、出入りしたり、あるいはその近辺に居住したりすることなどへの関心はどうだったのであろうか。森林伐採やディベロップメントなどというヒトの侵入はかなり安易に行われてきたのではなかろうか。
 未踏の地には、前述のウイルスのような未知の生物が存在するなぞと思いもしなかった、と言われるのかもしれないが、それはそれとしても、われわれ人間は生物界が「棲み分け」を原理としていることを古い昔から知っていたはずではないかと思う。生物たちは、無用な闘争、殺戮を避けるために、あえて遭遇したり交わったりすることを避ける棲息をしてきたのが、いわゆる「棲み分け」原理である。
 だが、ヒトは、多くの点ではこれに準拠したものの、大規模な自然破壊が始まったとされるある時期からは、この原理をかなぐり捨てたようだ。高を括ったと言ってもいい。
 こうして、自然への侵略が「寝ている子を起す」ような結果を招いてしまったのが、今日のウイルス騒動ではないのかと、推測するのである。
 これはちょうど、都市での洪水・水害が、水源地の森林伐採などの人為的作用や、道路その他のアスファルト化などを遠因とするがゆえに、「天災」とは言い切れない側面を持つことと似ていると思われるのである。

 「棲み分け」られていたがゆえに、「寝ている子」のおとなしさのような秩序があった自然界は、エコロジー問題とともに上記のウイルス問題の表面化などによって、今確実に撹乱されているとしか言いようがないと思われる。
 そして、なおかつ、自然界の撹乱とともに人間社会の撹乱も、まさしく同様な論理によって発生しているような気配もありそうである。つまり、グローバリゼーションという、単一スタンダーズを多様な世界各地に一律に適用しようとする乱暴な目論見が、文化の「棲み分け」原理を突き崩し、撹乱させている、という現象なのである。

 「花曇り」の春の日にはふさわしくない壮絶な話題となってしまった。しかし、わたしは、春というのは、決して穏やかな季節なぞではなく、物狂おしく不気味でもある、そんな季節なのかもしれないとうすうす感じている…… (2004.03.12)


 相変わらず夢をよく見る。昨夜も、以前に勤めていた会社の社長が出てきた。どんな筋書きであったかは思い出せないが、なんでも製品企画がどうたらこうたらというような雰囲気であった。この会社は、わたしが研究生活をやめ、実業の世界に向かい最初に入社した会社であり、新卒新人のようにとにかく緊張し続けていたことを思い出す。そんな緊張感の中で刻まれた神田界隈のビルの風景やら、社内での人間関係、そして変わり者の社長のことなどがいつまでも記憶の底に残っているようだ。
 最近は、夢の内容を必死で思い出そうとはしないようにしている。いつであったか、まだ頭が覚醒し切れない朝一番で、そんなことを試みたら、意識が混乱して気分が悪くなったことがあり、それ以来、夢の内容には深入りしないようにしている。

 しかし、どういうものか奇妙な夢を相も変わらず見ている。先日も、あの小泉首相が突然出てきたのだ。大学時代の友人たちに混じっていたようであった。その時、わたしが、「奇妙な髪型はやめた方がいい!」とか言ったようで、すると、その直後丸刈りに近いほど短く刈り上げてきて、わたしに笑いかけてくるのだった。
 しかし、その顔を見て、わたしは再び憤慨してしまうのだ。それというのも、髪は短くなったものの、イラクへ派遣された自衛隊の隊長のような口髭を生やしていたからである。何としてでも、恰好をつけようとする彼の心根に腹が立っていたようだった。
 わたしはどうも、よほど彼の振る舞いが気に入らないようである。大体が、夢という意識の特殊な場面に現れる人物は、何か特殊な印象を与えているに違いないからだ。少なくともわたしの場合、感性の通常レイヤーの範囲内の人の夢はほとんど見ない。感性のマイナス側かプラス側に偏った人の夢をよく見ているような気がする。
 一番強烈な場合では、憎悪に満ちたある人物を、何とプロレスの逆さ落としの業を繰り出して痛めつけているのを見た。その朝は、さすがに自分が恐ろしくなったものである。

 このところ、この日誌にもしばしば書いているとおり、「脳の仕組み」や「暗黙知」というものに自ずから関心が向いてしまう。「自分探し」とかというほどに若くはない自分だから、自分のことを知りたいというほどナイーブではないのだが、いま少し納得したいものがあるとすればそうした「意識の神秘」だということになる。極端な話が、自身の意識が果てるまでに、その一端だけはものにしたいと願ったりしている。それが叶うまでは死ねない、と……。
 そんなジャンルの目録のうちの上位に、当然、「夢」とか「記憶」とかが入ることとなる。「暗黙知」をも含めて、これらが気になってしょうがないのは、言葉によって支配された通常の意識が、どんなに意図的となってもそれらを思うように掌握できない、というもどかしさがあるからかもしれない。あるいは、言葉によって形成された意識にはどこか嘘っぽさがあると感じているからなのかもしれない。

 ある医者(精神科医)が、奇妙なことを書いていた。自分の子が小さかった頃、トックリのセーターを着せようとする度に激しく泣き叫んだのだそうだが、その原因を、その子が生まれる際の難産に求めているのである。「逆さ子」で生まれたらしく、その時、首や頭が産道に引っかかり、あわや窒息死しそうになったとかいうのである。
 それでどうして、ということなのだが、人間の脳は、言語活動に関する部分の発達の前に、感覚、感情といった言語によらない内的な能力を培っているらしいのである。そして、言語活動に依拠した記憶は大体3歳前後からのものらしいが、それが記憶のすべてではなく、それ以前の茫漠としたものも存在し得るとのことなのである。それが、トックリセーターでの窮屈さから、かつての産道におけるボトルネック・クライシス(?)の体験を呼び起こしているのかもしれない、というのだ。

 これは、言葉が人間の意識のすべてではないような気がしているわたし好みの話ではある。わたしなぞは、さらに、人が何を怖がるかは、生まれた時の「へその緒」を埋めた場所を最初に横切った存在によって決まる、というもっともらしからぬ話に耳を傾けたりもしている。最初にヘビが横切れば、その子は終生ヘビを怖がり、ムカデが横切ればムカデを怖がるということになるらしい。もっとも、落語の『まんじゅう怖い』の話ではあるが…… (2004.03.13)


 玄関先でちょっとした作業をしていたら、聞きなれない鳥の声が騒がしく聞こえてきた。
 門の内側にそびえているヒメシャラの樹に違いないと思ったが、まぶしくて最初は探し出せなかった。が、騒がしい鳴き声をたよりに視線を巡らすと、鳩よりやや小さめの大きさの鳥が枝に止まって鳴いていた。低い位置の枝であり、その姿がまじまじと観察できた。そばに人がいるにもかかわらず、近い距離で騒がしく鳴くとは、結構大胆だと思えた。 急いで、カメラを屋内に取りに戻る。わたしが移動したり、玄関の扉を開けたりしても動じる様子はない。ますます大胆不敵なやつであった。
 あいにく、手近なところには本命のカメラが置いてなかった。しかたなく、二番手のカメラで我慢することにした。二階の書斎まで取りに行ったりしているうちに姿を消すことが十分に予想できたからである。
 とりあえず、遠方から一枚、そしてジワジワと近寄りながらもう一枚、さらに枝の下を通り越し反対側に回ってもう一枚。駄目押し的にもう一枚。よく撮れてはいないはずだと思いながらも計四枚も撮ってしまった。最後のシャッターを切った時に、その鳥はようやく我に返ったように羽ばたいて行った。

 何という名の鳥であるかを知るために、早速デジカメのメモリをPCに移し、画像に変換してみる。案の定、あまり特徴がよく捉えられていない画像となっていた。ただ、枝の下側から見た際に、胸から腹の羽毛が斑点状になっていたことを思い出し、それをヒントに野鳥図鑑で調べてみる。どうやら「ヒヨドリ」らしいことがわかった。もうひとつ、その鳥がヒヨドリだったのだろうという説得材料は、とまっていた樹がツバキ科のヒメシャラであったことだ。野鳥図鑑には次のような一節があったのである。
「ヒヨドリは植物と関係が深い。伊豆大島などでは、ツバキの花粉をメジロとヒヨドリが媒介し、ツバキ油の地域産業に貢献している。また都会では、植物の実を好むヒヨドリがアオキ、シュロ、イイギリなどの種子を拡散させている」

 鳩、カラス、スズメといった都会の野鳥三羽烏以外にも、その気になれば多種の野鳥を探し出せるのがこの地域の良さだと思っている。朝は、至るところで鳥の鳴き声が耳にできる。最近は次第に少なくなってはきたものの、大きな古木もあるせいか、夏になれば朝夕にカッコウの鳴き声が聞こえてきたりもする。
 街に響き渡る音の代表は、交通の騒音、右翼の街宣車のがなり音、せいぜいのところが小学校からのチャイム、そして市役所からの緊急通報、「オシラセイタシマース。サクヤ、ユウコクニガイシュツシタゴロージンノユクエガワカラナクナッテオリマス。オキヅキノカタガイマシタラゴツーホークダサイ。フクソウハ……」くらいであろう。
 しかし、人が住む街には、やはり鳥の鳴き声くらい聞こえてきていいと思っている。それは、緑の樹々が存在していることを証明している。言ってみれば、野鳥の鳴き声とは、「人間の証明」ならぬ「樹木溢れた街の証明」とも言えるのだろう。

 街の風景の中に、街路樹だけではなく、そこそこ大きな樹木があちこちに見出せると俄然雰囲気が異なってくるようだ。緑は目に優しいなぞとありきたりのことを言うつもりはない。大きな樹木には当然それなりの時間の経過が前提となっているわけだが、そこに街の歴史のようなものを感じ取ることができそうだと思うのである。
 昨今のように、建物の取り壊しと建て替えが頻繁に行われてしまう時代にあっては、街の景観から歴史を感じることは難しくなってきているような気がする。そんな中に、街の人たちとともに風雪を耐え、土地の換金への誘惑に耐えた人らによる保護の下で生き延びた古木を見ると、これが街なんだなあ、と思わされるのである。人々がいろんな思いで住んできて、これからも住み続けるところ、過去があり未来があり、自分だけではなくいろいろな人々が関係しあって形成されているのが街なのだと、そんな重みを感じたいわけなのである。
 歴史を感じるのが、京都や奈良といった限定された街という常識はやはりさみしいような気がする。自分が生活する街にも、やはり何がしかの重みを持った歴史の雰囲気が欲しいものだと思うのである。きっとそうした雰囲気が、自分自身の人生観にも反映してくるのではないかと思ったりするのだ。生命の重み感にも…… (2004.03.14)


 このところ「偏頭痛」に見舞われなくてホッとしている。朝のウォーキングが幸いしているのかもしれない。
 ところで、最近の研究によれば、長らく人類の頭を文字通り痛め続けてきた「偏頭痛」の下手人(ゲシュニン)は、脳内物質「セロトニン」だと目星がつけられ始めているようだ。脳内の「セロトニン」の異常増加から異常減少に変貌する不安定さが、血管を一旦収縮させた後に突如拡張させ、ズキンズキンと痛みに変えるという、実に手の混んだ仕業をするのだそうだ。
 脳の働きや、気分に影響を及ぼす脳内物質について関心を持ち調べていたら、この仕掛人(シカケニン)の「セロトニン」という存在に出っくわしたのである。こともあろうに、こうした「偏頭痛」と「セロトニン」との因果関係を、わたしは、同姓の「廣瀬源二郎」医師の論文「セロトニンと片頭痛( 日本内科学会雑誌 2001;90:595-600)」によって知ったのだから、因果はめぐる糸車……(関係ないか?)

 通常、「セロトニン」とは、「血管収縮物質」とも言われ、神経を興奮させる「アドレナリン」なぞとは反対に、興奮を抑制させる物質であるとのことだ。つつがなく宅配便をお届けする信頼厚き配達人としてお役に立っているらしい。
 ところが、ある環境(ある体質の人の体内・脳内)では、まるでゼネストでも始めたかのように急に姿をくらまして居なくなってしまうことがあるらしい。そこが仕掛人の仕掛人たる恐いところなのだ。
 ここで大江戸(脳内)にパニックが生ずることになる。つまり不安極まった町人たち(血液)は、我先の形相で細い路地(細い血管)から逃げ出し、目抜き通り(太い血管)へと飛び出し集中豪雨のあとのようになるのだそうだ。目抜き通りは、両側の大店(おおだな)の店先をズキンズキンと蹴散らすように町人たちで溢れかえってしまうっつー按配なのだ。
 こうなると、まさにパニックなのだから並みの方法では治まりがつかない。役人(=鎮痛剤)が繰り出されたとしても、騒ぎは火に油が注がれるようになる始末に終わる。
 この場合、騒ぎの原因が仕掛人たる配達人が姿を消してしまったことにあったのだから、ここに目を向ける以外に治まりはつかないことになる。つまり、配達人(=「セロトニン」)の安否(?)に懸念はいらないことを町人たちに知らせてやらなくてはいけないのだ。「セロトニン」注射という方法がよく効くということになるのだそうだ。

 どうも、この脳内物質「セロトニン」という配達人・仕掛人は、単に「偏頭痛」の陰で暗躍しているだけではないらしい。むしろそれは特殊なケースでさえあって、この「セロトニン」とその周辺の神経は、現在話題となっているさまざまな身体の異常と関係しているらしい。
 曰く、1.うつ病 2.パニック障害 3.強迫性障害 4.片頭痛 5.慢性疼痛障害 6.睡眠障害 7.摂食障害…… なのだそうだ。いずれも、「セロトニン」が減少することに深く関係していると目されている。
 現代のいろいろな場面で特徴的となっている「不安、イライラ」、そして「衝動性」などが、「セロトニン」活動、代謝の低下によるのではないかとも見当がつけられているようだ。いわゆる「キレる」青少年たちの問題とも深く関連しているのではないかとも見られている。

 「セロトニン」という伝達物質が働く場は、脳内を中心とする「セロトニン神経」系だそうだが、これは「元気を出す神経」だとも表現されている。「脳のバックグラウンドミュージックのように雰囲気やムードを醸成している」とか「セロトニン神経が作動していると『元気』な状態が維持できる」のだそうである。
 そして、「リズム性運動によって活性化される」「リズミカルな運動がセロトニン神経を鍛える」というのも興味深いが、興味の極めつけは「セロトニン神経を鍛えるには『丹田呼吸法』(「丹田呼吸法」とは下腹部[横隔膜の後ろが収縮]が膨らむような呼吸法)がよい」という、禅の修業、座禅の入口にまで接近していることである。
 そう言えば、『ここ一番に強くなるセロトニン呼吸法―スポーツからスピーチまで』とか『セロトニン欠乏脳―キレる脳・鬱の脳をきたえ直す』とかと題された本も出ているようである。

 最新の研究によって、脳の仕組みが解明されていくことは心強い限りである。しかし、ひとつ警戒したいことは、「脳内物質」という表現にも表れているように「物質」という点が、それらを外部から体内に持ち込む可能性もあるという点である。よんどころ無い事情下での治療ならやむを得ないとして、内分泌による「ホルモン物質」に対しては、植物を育てるような長い目で対応し、内分泌機能そのものを改善していくという王道をこそ歩むべきなのだろうと思っている。
 しかし、ストレスを初めとして人間世界の環境悪化は、ヒトの身体の基本機能を狂わせるほどに、ヒトに対して敵対的となってきているのだろうか…… (2004.03.15)


 確定申告の日が過ぎると春らしくなるというのが実感だ。もちろん、別に両者につながりがあるわけではない。三月中旬が春めいてくるということだ。今週の土曜日は春分の日でもあり、名実ともに春だということになる。
 先ほど昼食のため表に出たが、陽射しも風も柔らかい感触で、春以外の何ものでもない印象を受けた。今年の桜の開花は早いと伝えられていたが、確かにそのつぼみは赤ちゃんの二の腕のごとくぷっくりと膨らんでいる。
 こうした植物のつぼみがはちきれそうになっている様を見ると、いつも思う。それらはまるで何かの競技が始まるのを待つ小学生たちの緊張のようだと。回りをキョロキョロと見回し、「まだなんだかんね!」「だめだよ、ズルしちゃあ〜」「足、動かしちゃ、ダメ!」とか囁いているのが聞こえてくるかのごときである。あまり緊張し過ぎて、合図があると一瞬たじろいで身動きできなくなってしまう子も現れたりする……

 人生を季節にたとえると、何歳くらいまでを春だと言えばいいのだろうか。思春期(11〜12歳から16〜17歳ぐらい?)と呼ばれる時期があり、青春・青年期(14〜15歳から24〜25歳ぐらい?))と呼ばれる期間もある。じゃあ、これらの時期の前の子ども時代は何かということにもなるが、押しなべて言えば、この世に誕生して24〜25歳ぐらいまでを人生の春だと言ってしまっていいような気がしている。
 そして、この春の時期に「創発」されたつぼみが、夏に展開し、秋に刈り取られ、冬に後始末がなされていく……、という按配となるのだろうか。さしずめ、自分なんぞは、秋に至りて刈り取るものもなく呆然としているといった格好だ。

 人生の春の時期で華やかなのは後半ということになるが、どちらかと言えば、前半の時期が注目に値するように思われる。
 以前に、次のようなことを書いたことがあった。

「話しに熱が入ったのは、『人間は、12歳まででその後の人生の予告編をすべて見終わる!』という点だった。つまり、だいたい12歳の小学校卒業くらいまでに、その後の人生を方向付けてしまうような強烈な『刷り込み』が一応完了しちゃうんじゃないかっていう、きわめて乱暴な議論だった。その後の人生は、日々新たな知識獲得や経験をしているようであっても、それらは、『刷り込み』で形成されたアウトラインに肉付けしているのであって、決してアウトラインを覆すような新規なものではないのだと。
 私も、日頃そんな気配を感じていたので、互いに目を見張って話し込んでしまった。
 そう言えば、思い当たるふしがいろいろと浮かび上がってくるんだなぁ。まず、食べ物の好き嫌いは、ほぼ文句なく決定されてしまっているはずなんだよね。」(2001/05/28)

 この点は今もなおそんな気がし続けている。別に固執するつもりもないのだが、この時期での「インプット」こそが個体史のその後を大きく左右しているのではないか、と思えてならないのである。人間にとってのこの時期は、最も可塑性に富んだ時期なのであり、そこでの体験が、本人の自覚の有無は別にして、脳や心にみぞ深く刻み込まれるであろうことは容易に推定されるからである。
 特に家庭の内外の環境の浸透度、「刷り込み」効果は計り知れないものがありそうだと思えてならない。ただ、何が刷り込まれたのかは本人のみしか知りえないし、場合によっては、本人とても知らないことが多いのかもしれない。少なくとも、外部から観察された一般論が通用するような場面ではないように思われる。
 だからこそ、この時期の子どもたちの教育は重要なのだが、それは知識教育なんぞでは決してないと思う。むしろ、「暗黙知」や、さらにその下層に沈殿するはずの生活体験などをいかに獲得させるかが眼目なのだろう。

 昨晩、事務所を出る際、駐車場の前にクルマが数珠繋ぎで停められてあった。隣のビルの学習塾へ通う子の親御さんが、子どもを迎えにきているのだ。駐車場に停めたクルマが出られないような場所に平気で駐車している無神経さにムッとした。そして、その不快感は、相も変わらず「教育=塾通い」だと信じる親達の無神経さへの想像と重なり、やれやれ、という心境となってしまった。
 時代に対して抱くべき危機意識とは、食いっぱぐれることもさることながら、自分や他の人々が共に生きる勇気を、いかほど貯められるかということなのではなかろうか。そんな重要な課題に、受験用知識の操作力なんぞはほとんど無力であること、そんなことを声を大にして叫びたい心境であった…… (2004.03.16)


 サイトを検索していて、予期せぬ「労作」に遭遇することもあれば、それらしきものと出会うこともある。
 先日、ある分野のあるキー・ワードで検索した結果、大変な「労作」にぶつかった。通常のテキスト文書にすれば4〜50ページにはなるであろう大作である。先ずは、そのご苦労に敬意を表した。
 ただ、読み始めてみて率直に感じたことは、著者の姿が今ひとつ鮮明には見えてこないということであった。当然、テーマに対する熱意もうかがえたし、様々な事柄と対象に精力的に言及しておられた。しかし、結局著者が何をもってブレイクスルーしようとしているのかという肝心な部分が残念ながら見えてこなかったのである。物量のある「労作」の全体は、「モザイク」的であり、また関心事を寄せ集めた「覚書」のような印象もないではなかったのだ。

 実に生意気なことを言っているのはわかっている。それじゃ自分はどうなのだと問えば、五十歩百歩であるはずだし、そうした「覚書」の地平からいかに飛躍するかで這いずり回っていることもわかっている。
 だが、その「労作」について思いをめぐらしていたら、これは「他山の石」としなければならないと痛感するに至ったのである。
 つまり、文章でも他の芸術分野でも、意を払って根を詰める「労作」を仕上げる際には、その対象の絞込みは当然として、アプローチの方法自体も独自な彫琢(ちょうたく)が必要だということなのである。ありていに言えば、テーマ・対象に向かっての個性的な迫り方ということになるのだろうが、これがなければ「労作」の受け手側にグイグイと迫っていくことはあり得ないと思われたのだ。
 このことは、恐らく分野を問わずに当てはまる普遍的な事実なのではないかとも推測している。ビジネスにおける「競争力のある製品」もまた、この条件を満たしてこそ達成されているに違いなかろう。

 何らかのテーマをめぐる関連対象は、あまりにも広く、かつ錯綜しているはずだ。それらをいくら羅列したって、そのテーマの真相は見えてこないだろう。真相を掌握し、それを鷲掴みにして受け手側に突きつける、感銘を及ぼすというためには、「労作」の提供側に何か「凝縮された一点」が不可欠であるように思われてならない。
 翻って考えてみて、人の何らかの「労作」に接して感銘を受ける時というのはどんな場合であろうか。いろいろな表現があるだろうが、わたしは、偉そうに、次のように言ってみたい。
 自分を目掛けて、空間を引き裂き、猛烈な勢いで「一本の矢」が迫って来るような感触だ、と。何本もの矢であってはいけないし、もとより矢ではなく風で煽られた多数のゴミなんぞであってはいけない。
 何が言いたいのかというと、一点を突破するごとく、鋭く絞り込まれ、他の諸々がその一点のために構造化されていることが一目瞭然であるような様こそが、人に感銘を与える労作なのだろう、ということなのである。
 多角的な視点で構成され、実に多面的だと評価される「労作」もあるには違いない。しかし、それとても、その多面性が収斂していく核を欠いていたのでは、単に緊張感を伴わない「モザイク」だということになるはずであろう。「画竜点睛を欠く」という言葉があるが、「点睛(=ひとみ)」のようなものがなければならないし、あってこそ無秩序とさえなりかねない他の多面的な部分に秩序が与えられるはずではなかろうか。

 では、なぜ「空間を引き裂く一本の矢」であったり、「点睛」であったりが人に感銘を与えるのであろうか。なぜ、「枯れ木も山の賑わい」のような多様で賑やかなものであってはいけないのか。
 多分、人間の意識というものが、一点に凝集してこそ性能を発揮するそんな構造を持っているからに違いないと思っている。一方で、「労作」を物する者は、気の遠くなるような営為の末に、茫漠たる意識の広がりを徹底的に「一本の矢」や「点睛」のみに殺ぎ落とすのだろう。そして、他方で、その「一本の矢」や「点睛」こそが凝縮された本質だと受けとめることができるほどに、同じく気の遠くなるような営為を重ねてきた受け手側がいたりする。両者は、必然的に一点で遭遇するのだが、それは高い峰が上昇の末に一点で合流することと似ている。

 どんな複雑多岐にわたる対象であっても、その「一本の矢」が対象全体と同比重となるような、そんな「一本の矢」を彫琢するようでありたいと贅沢なことを望んだりしている…… (2004.03.17)


 昨夜、小一時間ほど声を出して本を読んでみた。意識が集中できている時は、黙読の方がスピードを稼げるのだが、意識が散漫となっている場合には、「音読」してみると次第に読む行為への没入が深まる。
 そう言えば、小学校から高校に至るまで授業ではしばしば音読させられることがあったものだと思い起した。
「はいっ、じゃ次を廣瀬!」
と指されてしまい、ボケッとしていたために、
「えっ、どこからだ?」
なんてキョロキョロしながら周囲の級友に訊ねたりしていたか。そうして、読み終えるとようやくテンションが高まり授業に身が入るようになったりした。「音読」するということは、「参画意識」が高まることは事実のようだ。

 最近、こうした「音読」を勧める本が目につく。
 さしあたって、『声に出して読みたい日本語』( 齋藤 孝 著)、『「音読」すれば頭がよくなる―一日二〇分!能力はここまでアップする』(川島 隆太 著)などだ。
 日頃から、「考える」とは身体や感覚を総動員しての行為だと見なしている自分としては、「音読」の意義を強調するのは今更という観がないこともない。ただ、何にせよ自身から発信することを抑制して、ブラック・ボックスの「受信機」といった印象に終始しているかに見える現代の個人にとって、他人との会話が無理だとするなら、せめて「音読」で「擬似発信行為」をしてもいいだろう、いや、そんなことで「考える」ということの身体性を実感していいんじゃないかと思っている。

 「音読」すれば頭がよくなる、かどうかはわからない。むしろ、そうなる「頭」というのは、よほど現状が「ひどい」場合なのであろう。「よくなる」と言うよりも、健全となる、と言うべきなのかもしれない。もし、良くなるのであれば、全国各地の放送局のアナウンサーなどは皆秀才だということになってしまうし、「声優」たちも賢い人たちばかりだということになる。そんなわけはない。まして、官僚作成の原稿を「音読」するだけの政治家たちの頭がよくなったとは到底考えられないではないか。日に日にメキメキと悪化しているという印象が実情であろう。

 しかし、われわれは常日頃、何と「無口」となってしまったのか。特に技術職の人、PCなどに日がな一日向き合っているソフト技術者なぞは、場合によっては、幾日も会話とは言えない独り言くらいで過ごしてしまったりするのではなかろうか。「歌を忘れたカナリヤ」ではないが、「声を忘れたプログラマ」とでも言うべきか。
 一人住いのご老人などもこうした状況にあるのかもしれない。対話という対他関係の「緊張感」が途絶えるとボケが早まると言われるが、せめて、発声する機会を意図的にでも増やすべきかと思う。ひょっとしたら、「オレオレ詐欺」の撃退にもつながる効果があるやもしれない。

 そうそう、思い起したが、若い世代も、無口に転じている証拠がある。声を出す会話が当然であったケータイが、黙々とした「文字」メールのやりとりに置換えられてしまっている現状のことである。
 そして、会話とは「する」ものではなく、「お笑い」マンザイなどで「観るもの、聴くもの」だと思い始めているのではないかとさえ感じたりする。まあそれほどのことはないにしても、頭の正常機能を損なう懸念のある生活習慣に雪崩れ込み過ぎている気がしてならない。頭の活性状態と生命力とは相関するらしいので、ひょっとしたら、現在の若い世代の寿命は長くはないのではないかと危惧の念を抱いたりもするくらいだ。

 「情報(化)社会」の歪(ひずみ)を認識できるほどに、過去の自然な人間の生き方を体験してきた中高年は、もっと現状の歪(いびつ)さに対してクレームを発していくべきなのだろう。時代についてゆけないなんぞと、弱音を吐いている場合でないことは確かだ。時代はそんなに立派な進路を進んでいるわけではないのだから…… (2004.03.18)


 <またまた>夢の話を書こうとするのは、<たまたま>明瞭に覚えているからに過ぎない。そして、覚えていられるほどに印象的であったからだ。
 それは、三つの要素から成り立っていたようだ。ただ、夢はいつも個々の要素に「リアリティ」があるにもかかわらず、それらの関係性はといえばはなはだ希薄なのである。が、夢の中では不自然な関係が少しも疑われずに「真顔」で、まるで子どもや動物が冗談でいたずらを被った時のあの「真顔」さで受けとめられているのだ。そこが、夢の「リアリティ」の不思議さだというべきである。

 要素一。大きな河川をまたぐ鉄橋を、歩いて渡ろうとでもしていた。多分、名古屋での河川であったようだ。名古屋に居住していた当時のことだが、最後の頃は名古屋市内と春日井市とを隔てた庄内川の近辺の県営住宅に移り住んだ。昔ながらの土手を残したその川岸は、お気に入りの場所のひとつで、よく散歩にも出かけたし、まぶな釣りをしたこともあった。確か、あれは父が亡くなった直前であっただろうか、ふなが産卵直前の「のっこみ」の時期に、えさを付けて投ずればすぐにアタリがくるという「入れ食い」状態に遭遇したこともあった。そんなことを、父の死後何年もたってから思い起こし、あのまぶなたちの殺生が…… と心に引っかかったこともあった。それと言うのも、当時はつげ義春のマンガの主人公のような貧乏院生で、飼っていた猫のえさ代を惜しんでか、釣ったまぶな十匹以上を冷凍庫で凍らせ、しばらくは猫のえさ代わりにしたのだった。

 いや、そんな話はともかく、どうもその庄内川をまたぐ鉄橋のような気がしている。
 鉄橋への土手を登ってみて驚いてしまった。川面が、鉄橋の橋げたの下部を浸すほどに競り上がっていたのだ。洪水という認識はなく、満潮時にはこうなるんだ、と納得していたような気配であった。
 渡って行こうとする自分は、所々が水没している橋げたに踏み込む場合には、滑らないようにしなくてはならない、なぞと心配しているようだった。しかし、前方を見ると、割烹着をまとった主婦などが、買い物かごを手にして、平気な顔をしながら足を川面に浸しながら歩いていたりするのだ。へぇー、慣れてるんだあ、と思ったりする自分である。
 ふと、水没した橋げたの下方に目をやると、橋げたを形作る鉄の渡し板の上に何枚かの寝具がひいてあるのだ。もちろん水中である。それが透けて見えている。しかし、夢の中の当人はそれを不思議とは思わないどころか、「ホームレス」がこんなところで居住してるんだ、なぞと思い込んでいるのである。と、一番端のマットの上には比較的若い「ホームレス」と思しき者が、あーあ、寝坊しちまったと言わぬばかりに、半身を起し両の手を上方に伸ばしてあくびをしているのだ。この時でさえ、水中でのあくびを不思議と見なさず、これから、稼ぎに出かけるのかな、と思ったりする能天気な自分なのだった。

 要素ニは、どこだかの家の内でのことである。わたしは畳の上に新聞を広げて何やら記事を詮索している。顔を上げて見えるすぐ近くで、年配の男が誰だかと他愛なく話し込んでいる。大口を開けて笑ったりもしている。かつての首相大平氏であった。「あー、うー」で名高かった元首相である。彼が、わたしの後方にいるらしいおふくろに何だかを質問することになった。わたしは、おふくろが見境なく余計なことを言わなければいいが、と懸念したりしていた。

 要素三。これはしばしば登場する場面である。締め切りが間近であるにもかかわらず、論文であるのか何であるのかはわからないのだが全然書けておらず、焦った心境になっている。一晩で仕上げるとして、毎時何枚を書く必要があるかなんぞと計算している、といったとんでもない有り様なのである。

 以上の三要素が、覚えていない関係でつながって構成された夢なのであった。ここで、強調したいのは、夢では、たとえ場面要素の間に非論理的、唐突な関係があったとしてもそれらは決して糾弾されることなく、常に「真顔」でもって受け容れられている、ということなのである。斜に構えた感じ方や、薄らボンヤリとした印象というのではない「リアリティ」の感覚そのものが充満している。
 ある作家が、この「リアリティ」について興味深いことを書いていた。
「夢はなぜかすべて<夢を見ているあいだ夢を見ている(夢の中にいる)本人にとって>[この間傍点あり]リアルであるということが、私には面白くて仕方ないのです。四歳や五歳の子どもが夢の中で自分が与えられた状況に対して真剣に対処するのは当然としても、三十歳になっても四十歳になっても、つまりいくつになっても、死ぬまで人は夢の中で自分が与えられた状況に対して真剣に対処し、必死になって逃げたり、途方に暮れたりしつづけます(のどかさにしたって夢の中では切実にのどかと感じています)。現実(覚醒時)の生活の中では年齢とともに、状況を適当にいなしたり高を括ったりすることを覚えていくものですが、夢の中では絶対にそのようなことにはなりません」(保坂和志)と。
 夢の「リアリティ」感覚は、脳の働き方から講釈することも可能であるような気がするが、ここは、保坂氏と同様に、人間にとっての「リアリティ」とは一体何なのかと、思索の深みに嵌まり込みたい心境なのである。科学的レベルの説明はもっともらしくはあっても、「それでどうした?!」との思いを禁じえないからでもある…… (2004.03.19)


 今日は墓参りに行く予定であった。しかし、時候はずれの冷たい雨がそぼ降っていたため、順延することにした。それにしても、薄情とも無情とも言える天候である。昨日確かに見た二分咲き程度の桜のつぼみのことを思えば、哀れにもなる。
「へぇい、沸いとります」
との声で、勇んで寒い中、丸裸になって湯殿に向かったら、湯気がない! 湯がない! 火の気がない! といった風情にも似ている。桜のつぼみたちがそんな想像をしたわけはなかろうが、さぞかしがっかりしているだろう。いや、自分たちの開花を迎えるこの季節の例年の「迷走ぶり」には、もはや慣れっこになっているのだろうか。

 「迷走ぶり」に慣れっこになりつつあるのは桜のつぼみたちだけではない。われわれも、このところ「殿、ご乱心!」が続く、時の政府の「迷走ぶり」「ボケぶり」にはほとほと手を焼いている。
 昨日も、姑息にもロジックの間隙を縫うようにして「言論弾圧」に向けた「手付金!」まがいを放り投げてきた。要するに「天下の宝刀」への突破口開きを何としてもでっち上げたいだけの意向に対して、まともな議論はしたくもない心境ではある。先ずは、一喝しておくべきだろう。
「恥を知れ! 三周遅れのドサクサトップ気取り!」と。
 「人道支援」の美名の下に、自衛隊の海外派兵という突破口を開き、公式セレモニーでの「日の丸」「君が代」をいつの間にか強制し、泥棒猫のようなスキを窺った靖国参拝の既成事実を積み重ね、それもこれもみな、憲法「改悪」へ向けたサブミナル効果(潜在意識への刷り込み効果)ねらいとしか思えないではないか。
 じゃあ、それでもって一体、どんな国家を作ろうというのか。見え透いた「小出し泥沼方式」(?)の通販のように、少しずつイエスと言わせながら最終的には高額なものを買わせるはめにするイカサマ商法はやめなさい、と言いたい。堂々と国民の前に、そのアホくさい時代錯誤の全体像を開示したらいいではないか。それができない弱みを感じるなら、せめて姑息な方法で国民の判断を「迷走」させることは、美的感性が逆撫でされるのでやめてもらいたい。ついでにくれぐれも言っておけば、人間世界にあって最も侮蔑すべきは、論理的、倫理的レベルではなく美的感性のレベルで貶されることだという点である。歴史の波間に凋落していった権力は、いつも民衆の美的感覚を最大限に汚したのだった。
 のんびりすべき休日だというのにハイテンションなのは、今日があのイラク開戦一年という忌まわしい記念日であるからだ。
 厚木基地で発着するジェット機の騒音(天空からのこんな騒音を、無造作に作り出したり、承認している者たちの感覚は、それだけでその者たちの屁理屈を信じる気には到底なれない!)聞きながら、去年の自分を思い出すべくこの日誌を手繰ってみた。
 「ありがとう、ブッシュ大統領」と言える機知と気骨! と題して、ブラジルのベストセラー作家パウロ・コエーリョ氏による機知に富んだメッセージに言及していた。

「ありがとう、今世紀、ほとんど誰にもなしえなかったことを実現してくれて――世界のすべての大陸で、同じひとつの思いのために闘っている何百万人もの人を結び合わせてくれて。その思いというのは、あなたの思いとは正反対のものであるのだが。
 ありがとう、再び私たちに、たとえ私たちのことばが聞き届けられることがなくとも、少なくとも自分は黙ってはいなかったのだ、と感じさせてくれて――それは将来において、私たちにより以上の力をあたえてくれることになる。
 ありがとう、私たちを無視してくれて。あなたの決断に反対する態度を明らかにしたすべての人を除け者(のけもの)にしてくれて。なぜなら、地球の未来は除外された者たちのものだから。……
 ありがとう、すでに起動してしまっている歯車をなんとか止めようとして街路を練り歩く名もなき軍勢である私たちに、無力感とはどんなものかを味わわせてくれて。その無力感といかにして戦い、いかにしてそれを別のものに変えていけばいいのか、学ぶ機会を与えてくれて。……」

 そして、現在、「迷走させられている」この国以外の世界各国は、この一年で学ぶことを学び、脅されて選択した道の誤りに気づき始めている。一年前にわたしが感じていた「現実は一面的には突き進まない!」という当然の理屈が、やはり表面化し始めているのだと再認識している。
 合理主義者の米国国民は、誤りの歴史は誤ったリーダーによって導かれたという事実を凝視する知性を持っている。この国も、先ずは、「迷走する歴史」は「迷走するリーダー」が立役者となっているからだという事実を聡明に見抜かなければならない………… (2004.03.20)


 食事時にテレビドラマなどを見ていて、昔出ていたタレントで名前が出てこない人物の名を思い起こそうとすれば結構骨が折れる。そんな度忘れがめずらしくない歳だということか。タレントの名前なぞは思い出せなくとも支障はないようなものだが、何かの文脈で、これを他者に伝えなければならない、たとえば家内に伝えたい時にはちょっと面倒なことになる。
 そのタレントがはまり役としていた役柄を持っていたり、コマーシャルなんかに出ていたとすれば何の不自由もない。たとえば、「ほらほら、むかし『スーパージャイアンツ』で主人公していた……」と言えば「宇津井健」だと通じる。
 しかし、タレントを特定する特徴があまり思い当たらないとなると、大変なこととなってしまう。自分の頭の中では顔や姿、話ぶりまでほうふつとしているにもかかわらず、そのイメージを他者に伝えるとなるとお手上げとなる。PC間のように、LAN接続でイメージ・データを伝送できれば簡単なことなのだろうが、人間個人間での「イメージ伝達」はとてつもなく困難だ。ほぼ不可能と言ってもいいのかもしれない。

 顔に関する「イメージ伝達」自体を試みると一体どういうことになってしまうのであろうか。言うまでもなく、「モンタージュ写真」はその部類なのだが、これには「道具立て」が用意されている。いろいろにタイプ分けされた目であるとか、眉であるとか、鼻であるとか顔を構成する「各パーツ」が取り揃えられてあって、これらを当該者が記憶と比較しながら選んで再構成するという具合だ。その結果は、結構、バラツキのあるものとなっているようだが、とにかく、「各パーツ」があったりする分、建設的だと言えよう。
 しかし、個人宅のお茶の間にそんなものはあるはずがない。じゃあ、記憶をたどって似顔絵を描けばよさそうなものだが、そんなテクニックもありようがない。となると、もはやお手上げに近い状態に立ち至ることとなる。

 マイケル・ポランニーが「暗黙知」を解説する際にたとえとするのが、自転車こぎのマスターに加えた、この、人の顔の認識なのであった。
 実は、これに関して奇妙な体験があるのだが、わたしはかつて、いや現在でもその傾向がないではないのだが、外国の女優の顔の判別が苦手なのである。しばしば間違えてしまう。顔は見てないで他のところに目がいってしまっているという原因があるのかもしれないが、それにしても妙なことだ。日本人女優や、外人男優については何の問題もないのだから……
 それはともかく、人の顔の識別能力というものは凄いものだと思う。言葉に置き換えられないイメージを、場合によっては、極めて類似しているそっくりさんとも仕分けるし、年月が経って多少変化を被っていても、その人であることをきっちりと照合したりするからだ。

 ところで、脳の研究者たちの間で使われる専門用語に「クオリア」というある意味では「恐ろしい」言葉がある。
「クオリア(qualia)とは、もともとは『質』を表すラテン語で、一九九〇年代の半ば頃から、私たちが心の中で感じるさまざまな質感を表す言葉として定着してきた。太陽を見上げた時のまぶしい感じ、チョコレートが舌の上で溶けて広がっていくときのなめらかな甘さ、チョークを握りしめて黒板に字を書いた時の感触。これらの感覚は、これまで科学が対象としてした質量や、電荷、運動量といった客観的な物質の性質のように、数量化したり、方程式で記述したりすることがむずかしい」(茂木健一郎『意識とは何か――<私>を生成する脳』2003.10,ちくま新書)
 この「クオリア」はもちろん文字通り主観的なものであり、「そのようなクオリアのすべてを感じ取っている<私>という存在がいる」ということになるのだそうだ。個々人の脳には、明示的である言葉とは別に、こうした言葉にされない感覚が埋もれているのだろう。これらが、人の顔の認識や「暗黙知」などと水脈を一にしているのかもしれない。
 さきほど、「クオリア」という「恐ろしい」言葉と書いたのだが、なぜ「恐ろしい」のかと言えば、果たして自分の感じている「クオリア」の中身が他者たちとどの程度同じかどうかは誰にもわからないということだからである。同書の筆者もこの点をつぎのように書いている。
「クオリアについて、『私が見ている赤と、他人が見ている赤は同じなのかどうか』ということが常に問題とされるのも、クオリアという同一性の形式が、物質における客観的な同一性と異なり、『私にとって』という私秘的な(プライベートな)形でしか成り立たないからである」(前述書)
 もっとも、日常生活にあっては、他者とのさまざまな「擦り合わせ」的な経験があるため、チョコレートの甘さを辛いという「クオリア」で受け止めている人はいないであろう。もっとも、黒を白だと言いくるめる輩は後を絶たないわけだが……
 要するに、自身の脳内で「主観的に」構成されている世界(=「クオリア」の集合体)が、どの程度、他者と異なっているのかははなはだ未知なる状態でしかない、ということなのである。しかも、思想や宗教の違いがどうのこうのという以前に、「あるもの」を「あるもの」として感じ取るその時点で主観的な差異があるのだとすれば、個人個人の違いというものは想像以上に大きなものなのかもしれないと慄然としたりするのである。

 自宅で、飼い猫が瞳を大きく広げてひとの顔をじっと見つめている時がある。「なんだあ? なんか用か?」と言ってやるが、人間個々人の脳の中での働きに主観的な差異があるくらいだから、「種」も異なる上に「文化」も異なり、言葉の有無という差異まである猫と会話するのは絶望的なんだろうな、と思うのだ。いや、こいつらの頭の中では、人間が脳内で構成しているこの世界を、一体どんなふうに描いているのだろうか? 言うまでもなく『我輩は猫である』の主人公のようでは絶対にありえない。人間が、猫を擬人化して猫に託したどんなイメージとも馴染まないような、そんな猫独自の世界像がこいつらの頭の中にはあるに違いないのではないか、なぞと想像する……。そして、人間とはパーフェクトに世界観が異なるがゆえに、人間と猫族との戦争なんぞが起きた試しがなかったのだろう、などと薄らくだらないことを思い描く。手のひらに猫の頭の毛と、ピクピク動く耳というくすぐったい感触の「クオリア」を感じたりしながら…… (2004.03.21)


 東京地方に小雪が舞うとの予報もでている今日は、朝から冷たい小雨がしとしとと降り続けている。とても彼岸過ぎだとは思えない天候だ。妙に冷たい日が続くものだから、事務所の、日当たりの良い廊下に置いている鉢植えの植木たちのいくつかが、冷気で葉を痛めてしまった。桜の蕾たちのことを憂えていた矢先に、その懸念が的中するかたちでの寒い日となった。用心用心、油断はできぬ、といったところだ。

 しかし、ふと思うのだが、もともと天候というものは「気まぐれ」なものなのであろう。それが自然現象だと言うべきでもあるのだろう。
 にもかかわらず、そんな当てにならない存在を、人間は勝手に何か規則性を期待してしまっている。「彼岸が過ぎたのに、こんなに寒いとはけしからん!」と憤慨までしている人もいるのではなかろうか。まるで、大手「気象制御会社」ウェザー・コントロールかなんぞが月額350円ほどを徴収して人為的に制御しているにもかかわらず、この不始末だ、とでも言わぬばかりなのかもしれない。

 「暑さ寒さも彼岸まで」などと一方的なことを言い始めたころから、人間は勝手に気象の規則性を「要求」するようになったのかもしれない。従来は、自分たちの生活や仕事を気象、季節に合わせていたに違い無い。なのに、傲慢にもと言うべきかいよいよバカであるとなってしまったか、気象、季節が自分たちに合わせるべきだと居直り始めたかのようである。
「もう国民世論は春だということになっているのだから、そのように段取りしてもらわないと社会的非難を浴びることになりますよ。下手をすれば訴訟騒ぎに発展しかねない模様ですよ」
とでもいった、アホらしさなのかもしれない。要は、自然現象に対して、何かカン違いをし始めているということなのである。

 考えてみれば、人間の歴史は、自然と共にあった生き方から、自然を囲い込み、自然を人間の都合に飼い馴らし、自然を排斥、変容させる生き方へと大胆に変更する過程であったはずだ。そうすることが「キング・オブ・ネイチャー」として繁栄する大前提であったのかもしれない。その勢いの触手は、いまや月面どころか火星にまで及ばんとしている。 しかし図に乗っていていいのかどうかが気になるところなのである。

 先日、姪っ子が出産した。家内が見舞いに行き、デジカメで赤ん坊の姿を撮ってきた。それをわたしが若干加工して記念写真にプリントした。その際に、かわいくもあるが、まるで無力そのものである目をつぶった赤ん坊の小さな顔を見て思ったものだった。
 人間社会には、膨大な人為的装置としての文明が蓄積しているにもかかわらず、人間個々人は、弱々しい自然以外の何ものでもない丸腰姿でこの世に登場する。それは何万年以来変わることのない事実であり、今後も変わりようがない。どんなに自然を飼い馴らそうが、人間個々人は丸裸の自然からしか出発できないのだ。

 昨今、幼児虐待という不快な事件が多発しているが、わたしには、自然を排斥する文明が、文明側の親たちに、<幼児という自然な存在を理解しにくくさせてしまっている>ように思われてならないのである。自然な存在が文明的でないことに対して、もっと寛大であってもよさそうなところを、彼らがものわかりが悪いという当たり前の事実をもって、癪の種にしているかのようであるからだ。自然を忘れ、それを思い出したくもない現代の若い親たちの同居者としては、人間の子どもよりも人工物である「アイボ」の方が相性がいいのかもしれないと思ったりする…… (2004.03.22)


 「囲い込み」(エンクロージュア[enclosure] )という言葉が気になっている。
 現在では、ビジネス領域において、CRM(カスタマーリレーションシップ・マネージメント)との関係で「顧客囲い込み戦略」として議論されたり、製品仕様をめぐって、インターフェイスのオープン化による「モジュール型」に対する、一社独自仕様による「囲い込み型」というようなかたちで論議されたりしている。
 「囲い込み」とは、「消費者をゆっくりと洗脳しつつ、ライバルを市場から葬り去り、市場を独占した後で自らが独裁的な権力を振るう為、最初に行う撒餌のこと。 一般的には『無償配布』、あるいは半永久的な『ベータ版』と言う名称で行われるものの事」と皮肉っぽく捉える者もいる。
 現に、「米マイクロソフトがパソコン用基本ソフト(OS)『ウィンドウズ』の独占的地位を利用して音楽・映像ソフト販売などの公正な競争を阻害していたとする独禁法違反事件で同社に4億9700万ユーロ(約652億円)の課徴金支払いを命じることで一致した。」(asahi.com 2004.03.23)というニュースは、この「顧客囲い込み戦略」と深く関連しているのであろう。

 「囲い込み」の原義は、広辞苑によれば「中世末以降のヨーロッパ、特にイギリスで、領主・地主などが牧羊業や集約農業を営むため、共同放牧場などを囲い込み、土地に対する共同権を排除し、私有地であることを明示したこと。囲い込み」とある。表向き「示談や議会立法」などに基づくのではあるが、実質的には半ば強制的に「共同権」から「私有権」への移行が促進され、没落農民たちが農業労働者あるいは工業労働者となっていったという、小さからぬ歴史的契機を指す言葉だったのである。

 最近は、どんなショップで買い物をしても、
「ポイント・カードをお持ちですか?」
と聞かれることが多くなった。また、消費者側も「ポイント・カード」のそこそこのメリットを感じ、自らリピーターとなっていく場合も少なくない。つまり、ショップ側の「顧客囲い込み戦略」に、自分は「常連」だというように、「主体的に」嵌まり込んでいくケースだと言えるのかもしれない。ただ、他のショップへは買いに行かないかといえば、他のショップの「ポイント・カード」もシッカリ持っていたりするわけではあるが……。

 「支配」という言葉と、「管理」や「教育」とが強制度が異なるように、「囲い込み」は、鳥ウイルス騒動での「隔離」や、犯罪行為となる「監禁」とは異なり、公式的には囲い込まれる者の自由度が保証されているはずである。しかし、今日では「保証された自由度」という観点は、実質的には薄弱なものが多いというのが相場である。まして、この国にあっては、個人の自由を自由なかたちで放棄している人も少なくないと見えるからだ。

 「囲い込み」というキーワードでサイト検索してみたら、その中に次のような著書もあることに気づかされた。『囲い込み症候群―会社、学校、地域の組織病理―』(大田肇著、2001.12、ちくま新書)という本で、環境変化の中で個人化を強める個人に対して、さまざまな組織側が相変わらず「一丸となって」とか「一致団結して」という掛け声や圧力を明に暗にかけ続けている現状を分析したもののようだ。
 言われてみれば、卒業式で「日の丸」「君が代」に対して「囲い込み」をする時の政府の時代錯誤の動きがあり、これに反対行動を採る当然といえば当然の自立教師たちもいたりする。

 わたしは、この「囲い込み」という言葉を一概に悪い面ばかりとは思わないのだが、ただ一番気になっているのは、たとえばイラク情勢などに関して、マスメディアが報道すべき事実を囲い込んでしまっていることなのである。「バカ殿」の顔や意味のないコメントを毎日のように流す割りには、米国の対イラク姿勢が、ますます国際世論から距離を置かれ始めている状況がまともに伝えられていない。米国その他の国の派兵軍人たちの間で、「良心的兵役拒否」の動きが増えていること、自殺者も少なくないこと、もっと遡れば、イラク国民や多くの子どもたちになされた非人道的な殺戮の実態などに対して日本のマスコミはどれだけ凝視する姿勢が示せたのだろうか?
 自衛隊派兵に関しては女性兵士のインタビューまで行い、「早く一人前の戦力になります」などというアブナイ発言まで引き出していながら、今なおとばっちり負傷で苦しむイラクの子どもたちの地獄を、NHKはどれだけこの国の視聴者に伝えたのか? 有料放送局でありながら、世界の実情を公正に報道しないのは、やっぱり国民の政治意識を時の政府の意向へ向かって「囲い込む」意思があるとしか考えられないではないか。

 ビジネス領域におけるCRMで、「囲い込み」戦略をとることが批判的に見直されているようであるが、その気になれば隠された情報にもアクセス可能なこのグローバリズム環境にあって、古臭い「囲い込み」をやっていること自体が当該組織の信頼性を欠くことになる論理を、もっと真摯に見つめた方がいいはずだと思える…… (2004.03.23)


 昨日は、「囲い込み」の否定的側面を強調した。その際、国際世論から取り残される可能性もなしとはしない愚を進めているのかもしれないこの国のマスメディアをやり玉に挙げた。公共放送を担う立場は、事実としての情報を「恣意的な選択」だと言われないように公正な姿勢に努めるべきだと言いたかったのである。

 ところで、「囲い込み」の議論には、実はちょっとやっかいな面がある。必ずしも、「一様に」否定されるべきものでもない面が覗き見えるからである。
 先日来、ビジネス領域での「モジュラー型(オープン規格)」と「インテグラル型(企業内での独自の摺り合わせ)」との対比というテーマを取り上げてきた。ホットな経済情勢の話題なのであり、現在日本のデジタル家電業界が熱くなっている現象と関係がある。ちょっと前まで「前者」に対して吹き込んでいた追い風が、日本の「お家芸」たる「後者」に吹き始めているのではないか、という話である。そして、言うならばまさに「後者」の原理こそが「囲い込み」それ自体なのである。オープン規格によらず、「囲い込まれた独自仕様」に基づく製品なのであり、デジカメ、携帯、DVD、薄型テレビなどが、直前までのモジュラー型製品の代表であるPCとは対照的なかたちで、現在、日本の家電業界を久々に熱くしているのである。

 振り返ってみると、従来のこの国の製造業界と出荷される製品市場は、端的に言って各社各様の「囲い込み」戦略だらけであった。家電にしても、クルマにしても各メーカーの「囲い込み」戦略によって作られたモノばかりであったはずだ。JISによって基本的規格は定められてはいても、最終製品では各メーカー間の互換性は著しく乏しかった。
 PCにしても、NECのPC98シリーズを初めとして、互換性のない様々なメーカーのPCがどんなにか錯綜していたことであろう。こんなメーカー間互換性の乏しい状況の複雑さに、いらだちを隠せなかったユーザーも少なくなかったはずである。
 そういった点では、「ウィンドウズ」がメジャーなプラットホームとなった現在の収斂状況、スッキリさはうそのようである。(「ウィンドウズ」が「オープン」であるか「囲い込み」の結果であるかはまた別の問題となるが……)

 しかし、消費者、ユーザーにとって、現在のような「オープン」方式がいいのか、かつてのような「囲い込み」方式がいいのかは、結構、微妙な問題であるのかもしれない。
 たとえば、PCに関して言えば、今でこそ「オープン」方式のパーツはバラツキもなくなったようだが、当初は、接合時にやたらに不具合が多発したものである。表明されていたとおりに接合できない場合も少なくなく、また問合せをすれば接合相手側に問題があるのではないか、といったおざなりな返答が返ってきたりもしたものだ。
 そこへ行くと、「囲い込み」方式で提供された製品と部品(純正部品)との関係に関しては、逃げようがないという立場もあるからだろうが、まあ「懇切丁寧」な対応がなされたものである。つまり、顧客へのメンテナンスにおいては、「囲い込み」方式の路線の方が上質であったとさえ言えそうなのである。
 このような、「囲い込み」された「内輪」に対しては徹底的に手を尽くすというメーカー姿勢と、それを快く感じ続けてきた顧客側という相補関係が、長らくこの方式を定着させてきた実質ではなかったかと思っている。

 特に、「お得意さま」扱いで、何から何まで面倒を見てもらえる顧客の立場は、この国の人間の体質に想像以上にフィットしていたのではないかと思う。株の損失まで補填してもらおうとする国民性だったからである。要するに、自立性、自己責任性に乏しいと言わざるを得ない国民性なのであるが、そうした人々にとっては、「すべてお任せ」の気分と一対になっていたかのような「囲い込み」方式の方が、「便利」なはずではなかろうか。 それはちょうど、レストランで細かなオーダーを繰り返すより「囲い込まれた」コース・メニューが「便利」だと感じることと同様であろう。

 「便利」だからと、やや揶揄したような表現をしたのだが、考えようによっては、それ以上の重みがないとも言えないような気もする。
 「オープン」方式というのは、情報公開という点に大きな特徴があるはずだが、問題はその「情報の咀嚼力」なのである。現代のように、科学技術の水準やら専門分化の進展が著しい環境にあっては、すべての情報が高度化しているし、また複雑にもなっている。そうした情報を、たとえ自立した個人ではあっても咀嚼し切るのは結構大変なことだと想像しないわけにはいかない。専門家たちによる、「咀嚼の肩代わり」のようなことが不可避となりそうな気配なのである。おそらく、「直接民主主義制度」が「代議員制度」に移行してきた背景にも同様の問題意識が横たわっていたのであろう。

 「オープン」方式と「囲い込み」方式とは、一律な二者択一的なものというよりケース・バイ・ケースだと考えた方がよさそうだ。
 ところで、この辺の問題で現在注目すべきは、「広域行政=市町村合併」対「地方分権」の問題なのかもしれない。地域生活にこそ、実情に即した「懇切丁寧」な対応が必要なのだと考えれば、「囲い込み」方式の良さを生かした「地方分権」を実質的に推進すべきなのであろう。エコノミーな観点を優先させ「広域行政」化を進めるならば、国の行政の下にまた国の行政がある、といったバカな構造になり行政サービスが低下するだけのことではなかろうか…… (2004.03.24)


 ある年配の方が腰痛で悩んでおられるところから、身体の「痛み」に関心を抱いたりしている。自身も、軽度とはいえ相変わらず「五十肩」らしき肩の「痛み」に煩わされていることも関係している。
 サイトで、「腰痛」に関して研究しているページなどを閲覧していてあることに気づかされた。あるサイトでは、大変親切に、「現代医学」的視点からと、「東洋医学」的視点からとを併記していたのだ。(「腰痛委員会」http://www.hot-j.com/yothu/index.html)
 詳細は省くとして、わたしが気づいたこととは、「現代医学」的視点では、身体の「部分(パーツ)」に着目する点に特徴があること。たとえば、「腰痛は、さまざまな原因で起こりますが、内臓の病気で起こるものと、背骨に原因があって起こるものに、大きくわけることができます」というように、原因を内臓や背骨などの身体のパーツに求めようとしている。
 これに対して、「東洋医学」的視点では、身体のパーツである「五つの臓器(肝・心・脾・肺・腎)」への着眼はあるものの、「水液や血液の滞り」という表現に表れているように、身体全体に及ぶ「流れ」に重きを置いている印象を受けるのである。
「エネルギーである『気』は、からだじゅうに張りめぐらされた『通路』を流れています。この通路がなんらかの原因でふさがれると、エネルギーが滞り、その部位で痛みがおこるのです」
といった着眼なのである。

 近代科学的スタンスと、東洋的発想の対比をここにも見ることができるわけだが、「水液や血液」のように全体をめぐるはずの「流れ」というものになぜだか関心が向いたのである。ひょっとして、この辺に現代社会のいろいろな問題の水脈が潜んでいるのではないかと感じたりしたのだ。
 かつては、東洋的発想を踏まえて生活し、生きてきたこの国の人々は、言うまでもなく現在は、いわば近代科学的な生活環境の中で生きている。そして、これまた言うまでもなく、心痛を抱くことに事欠かないほどに多種多様のトラブル、問題を抱え込んでしまっていたりする。何が原因だと言ってあげつらえばあらゆる個別パーツがその下手人となってしまうのかもしれない。
 そんな際、個別パーツというよりもそれらをめぐっている「流れ」そのものに問題があるのではないかと翻って考えてみると、以外と納得しやすくなったりするのではないかと思うのだ。

 すぐに連想されるのは、このデフレ不況下での「お金の流れ」である。確実に停滞している。市場を豊饒に流れずして、タンスの中などに澱(よど)んでいるわけである。その停滞が、経済(身体)全体の活動を低迷させて、眩暈(めまい)なぞも呼び寄せているのだ。 いくら個々のパーツ(経済部門なり、個別企業)が元気となっても、全体としての「お金の流れ」が停滞気味であるならば、元気なパーツもやがて足を引っ張られることになりがちだ。

 全体をめぐる「流れ」の中で、最も注目すべきは「情報」ということになる、と考えている。昨日、一昨日に書いた「囲い込み」という問題でも、終始念頭にあったのはこの「情報」なのであり、「情報」の意図的な隠蔽、隔離や、非意図的な停滞、澱みの問題であった。
 「情報」の流れに支障や不全があるならば、各パーツに支障や不全を引き起こさせることは容易に想像できようというものだ。各パーツがまともな判断を行うための、然るべき情報が伏せられてしまうならば、誤った判断に導かれてしまうからである。
 今、裁判所が下した「週間文春」の販売差し止めが話題を呼んでいるが、ゴシップ記事で挑発する「文春」側がアホーだと思うが、権力が簡単に言論の自由という大原則に介入すべきではなかろう。「情報」の自然な「流れ」に手を染めると、ろくなことにはならないのである。

 マスメディアの問題もさることながら、今多くの人が心を痛めている問題の最大公約数に、「コミュニケーション」問題があると感じている。これも、「流れ」に関する重要な話題のはずである。ただ、この問題は今に始まったことではなく、ある意味ではいつの時代でも終始問題視され続けてきただけに、ことさら口にするものでもないかのような雰囲気かもしれない。しかも、この「コミュニケーション」という言葉にはあまりにも手垢がつき過ぎた印象がつきまとう。(「インストラクション」という切れ味の良さそうなタームも提起されてはいるが……)もう論じ尽くされ、そうであるがゆえに、人々のまともな関心を呼ばないかのようでもある。「バカの壁」というような、思いっきり新奇な包装紙でくるんでやらないと手にしない類となっているのである。
 しかし、この問題は何度でも、どんなかたちであれ取り上げられて然るべきだと思っている。「コミュニケーション不全」こそが、現代の古くて新しい問題であるに違いないからである。しかも、現代を特徴づける「ネットワーク」とは、「コミュニケーション」問題の各論のひとつだと見なせるからでもある。
 そして、大胆に言い放てば、「コミュニケーション」とは、人々の関係が「コミュニティ」から遠ざかれば遠ざかるほどに影を濃くする、そんな代物(しろもの)なのだろうと観ている。加えて、現代とは、自然な自生のコミュニティが崩壊しながら、させながら、新たな「コミュニティ」の相貌が未だ見えてこない、といった残酷な状況にある。
 自生コミュニティであった家族や地域社会が、今や惨憺たるステイタスにあることは多くのリアリストが語るところである。そして得てしてそうであるからこそ必須であったはずの「コミュニケーション」が、こんな場においてはズタズタとなったり、「不全症候群」となったりしていそうだ。

 ビジネスにおける生産性の向上のための秘策に関しても、詰まるところ集団・組織内外の「コミュニケーション」問題以外ではないはずだと考えている。「知的生産性」「創造性」という重要な課題にせよ、情報の共有と創発という名の「コミュニケーション」問題以外ではないと思っている。「知の創発」という課題は、「知的コミュニティ」作りとほぼ同義の課題でありそうだが、それは別表現すれば「知」をめぐる「コミュニケーション」問題だということになる。

 人類史は、まるで所与の状況の破壊と、破壊したものを創り直す時間経過であるとの印象が強い。建設的に見れば、破壊されたものより次元の高いものが創り出されているとも言えようが、果たして「コミュニケーション」問題の人間的創意工夫は、いつになったら「コミュニティ」づくりにまで到達するのだろうか…… (2004.03.25)


 川の上流の誕生地から、河口へと下り、そして五千五百キロの遊泳を海洋ですごし、時期が来ると川を誕生地へと向かって遡り、「いのち」の後継者たちを産卵し、自らはキタキツネや野鳥の餌となって静かに自然へと返っていく。
 これは、TVの科学ドキュメンタリー番組「いのち」(by NHK)のシリーズもので、北海道のサケたちの一生が紹介された回の放送である。大体がいつも機嫌の良くない朝一に見たにもかかわらず、サケたちの「真摯な」一生には目頭を熱くして感動してしまったものである。

 ただ、広大な太平洋を数千キロも周回している期間の、いわば「いのち」の「本編」の部分は映像化が困難であったためか知ることができなかった。まさか、赤提灯の下で人生を斜に構えて飲んだ暮れていたり、妬(ねた)みからライバルの足を引っ張る工作をしたりという「非」真摯な生き様があったかもしれないと想像することは先ずできない。「本編」にあっても、自然の摂理に従順に生きる輝かしいサケたちの活動ぶりがあったに違いなかろう。
 長旅の「本編」を終え、誕生地たる上流に回帰してきたサケたちに残された任務は、産卵である。オスとメスのつがいが並び、流れに向かって大きく口を開けいよいよその儀式が執り行なわれる。
 そして儀式が済むと親ザケたちは見る影もなく急速に弱り、やがてボロボロの姿となって川面に漂うことになる。子どもたちと対面し、和気あいあいの時間を過ごすというくすぐったいホームドラマなぞはない。
 そんな経緯を見ていたら、にわかにサケたちの「いのち」というものは、種族の「いのち」なのであり、個々のサケたちはそのキャリアー(担体)に過ぎないのだ、という冷厳な道理が仄見えてきたのだった。
 一度の産卵数は三千個とかであったかと思うが、それに対して誕生の地に生還するサケは三パーセントほどにすぎないそうである。この過程で実現されるのは、環境に強いものだけが生き残り、その遺伝子こそが維持されていくという、「種の保存」のための淘汰なのだ、と気づかされるのである。個々のサケたちには、決して人間たちのような「オレがオレが」といった醜態はなかった。ただひたすら、「種の保存」を目的とした自然の摂理に従順となって、その役割を盲目的に果たしていくだけである。

 無造作にこんなことを書けば、短絡的な人には「全体主義」賛美とか、進行しつつある過激な競争社会の積極的是認であるかのような誤解をされかねない。しかし、自然界のシンプルな摂理が、なぜだかとても新鮮に感じられたことは事実であった。
 こうした感慨の根底には、ひょっとしたら、個体の死滅の意味を捉え損ね、それを自然に受け入れることができそうもない自分や、現代人たちの、ある意味では不幸せな状態があるからかもしれないと思ったものだ。
 自然に戻っていくということが原義であったに違いない死というものを、自然に受け入れていく、そんな外的環境と、内的環境こそをどう準備するのかが人間の永遠の課題であるのかもしれない。なんせ、死は誰にとっても訪れ、誰にとっても<サケ>られないのだから…… (2004.03.26)


 カメラの話だが、わたしは「パン・フォーカス」(単焦点レンズや小さな絞りを用いて、近景から遠景までピントの合った画面を作る撮影技法)が好きである。よく、カレンダーに付いたヨーロッパの風景写真でそんなものに出会う。隅から隅まで一様にピントが合いシャープな輪郭で風景が切り取られているものだ。遠く、小さく捉えられた建物の窓にかわいい植木鉢が据えられているのが確認できたかと思えば、同じくこじんまりした日当たりの良い庭に退屈そうな犬が寝そべっているのも確認できたりする。実に楽しい気分となってくる。

 カレンダー大の大きさに引き伸ばされた写真で、細部のいずれにもピントが合いシャープとなったものはかなりの技術を要するはずである。もちろん、機材も相応の水準のものが要求されることになろう。
 中でもレンズが大きく「明るい」ものでなければ、レンズの絞り(f)を極端に小さくすることはできない。絞りの小ささとともに、レンズの明るさがあってこそ、感銘を与えるパン・フォーカス写真ができるのだ。

 確かに、パン・フォーカス写真とは反対の、主要な対象にのみピントが合って、その背後や手前がきれいにボケている写真にも素晴らしさはある。主題が一目瞭然となるという効果もあるだろう。望遠レンズで撮られた写真にそんな感銘的なものもある。
 しかし、そうは言っても写真の醍醐味はやはりパン・フォーカス写真ではないかと、わたしは思い込んでいる。もちろん、枯れ木も山の賑わいのごとくあらゆるものがうるさいかたちでシャープに写され、ゴチャゴチャした印象が拭い切れないものはいけない。そうしたものは、テーマ性も損なわれているはずだからである。この辺が難しいところだ。

 なぜパン・フォーカス写真がおもしろいかと考えてみるに、ヒトの眼による観察とは「異なる」からという理屈も成り立ちそうである。
 ヒトがものを見る際には、絶対にパン・フォーカスではあり得ないからだ。視点を移動させるごとにピントが合うため、見えているものすべてにピントが合っているかのような錯覚がある。しかし、実際は関心をもって凝視している対象一点にのみピントが合っているのであり、その周囲はボケているはずである。ちょうど、映画などにおいて、遠近の異なる対象が間を置いて別々にフォーカスされるようにである。それがヒトの視覚というものである。
 だから、近景、遠景のすべてに渡ってピントが合っているパン・フォーカスの写真というものは、ある意味では不思議な存在でもあるわけなのだ。

 こんな写真の話とアナロジカルに、ヒトの思考というものを考えてみたりした。
 カメラでピントが合うというのは、思考でいえば、対象をクッキリと認識するということになりそうだ。人間の思考も、同時並行で複数のものを対象とすることは不可能に近いはずである。何かに着目すれば、別の何かがぼやけるというものなのであろう。
 そこで、複数の対象に同時にピントが合う、つまり複数の対象を可能な限り明瞭な姿で同時に考察するとするならば、それはパン・フォーカス的方法を採ることになるのではないかと類推するわけである。そんなことは、どうしたら可能となるのであろうか。
 眼を細めたってダメであろう。カメラのレンズの絞りを小さく絞るということを、思考の上では、漫然と考えるのではなく自身の研ぎ澄まされた「問題意識」の視点から考えるというふうにたとえるならば、いくらか了解しやすくなるような気がする。
 たとえば、週末をどう過ごすかを考えようとする時、何の「問題意識」もなく漫然と考えるならば、何も思い浮かばないか、あるいはあれもこれもと決め手を欠くような雑念が噴出すだけであろう。だが、もし健康増進をしなければ! といった日頃の「問題意識」があったならば、無造作に浮かぶいろいろな選択肢群が、健康増進という観点でリアルに検討されることになりはしないであろうか。「問題意識」があることで、対象の見え方がシャープになると思われるのである。
 また、絞りが小さく絞り込める明るいレンズというのは、思考にたとえ直すならば、聡明さと広い視野ということにでもなるのであろうか。そうしたものが前提とされなければ、「問題意識」も、単なる思い込みや執着する思いでしか過ぎなくなりそうだ。

 カメラで撮る写真も、人間の思考や観察力も、いくら対象が同一の世界であっても結構異なった結果を生み出すから不思議だと思う…… (2004.03.27)


 「ゆるやかな」景気回復、という言葉を何度も耳にしている。しかし、この国の景気が本当に回復基調にあるのかどうかは未だにわからない。そうであってほしいとは思うのだが、一方で対外依存の輸出経済やリストラ効果が大きい大企業といった動向に比重を置いた数字、他方で取り除かれない国民生活の不安や低迷する零細規模企業や地方の実態などを凝視するならば、楽観視できないでいる。どうしても「クスリによる対症療法」の結果の域を出ないとしか思えないでいる。

 いや、今日は経済に関してではなく、「ゆるやかな」という人の目をあざむく言葉や同義のパッケージについて関心を向けようとしている。
 上記の「景気回復」問題にしても、「ゆるやかな」という言葉が使われないならばそもそもが「回復」という言明はできないであろう。「停滞」というマイナス・イメージにひと括りされてしまうはずである。何としても「ポジティブ」な印象を宣伝したいという思惑が、「人の耳をあざむく(?)」かのごとくに使わせたのが「ゆるやかな」という言葉ではなかったか。

 このところ、この「ゆるやかな」という言葉ふうに、人々が現実を直視することを意図的に歪めて目を逸らさせるような手法が流布しているように思われてならない。
 もともと、人の目をあざむく言葉や素振りは、犯罪のジャンルでの詐欺師たちの仕業と相場が決まっていたはずである。ところが、一般の消費生活でも商品の不当表示というかたちやそのギリギリの隙間での紛らわしい設定で被害が多発している。それでも、商取引にはそんなグレー・ゾーンも拭いきれないとする受け止め方もあったりする。
 しかし、どうも現在のこの国の政府の政治は、詐欺とは言わないまでもこの手の手法に依存し過ぎるのではないか、という印象が残ってしまう。なぜもっと公明正大にやれないものかと思うのだ。

 イラク戦争支持に回る際にも対米従属路線を隠すために「国連決議云々」という耳に「ゆるやかな」理屈をこねた。自衛隊派兵でも、米国の意思による実態を隠し「人道支援」というこれまた耳障りのいい「ゆるやかな」表現に逃げている。
 国民にとっては、それらがさほど影響を被らないものであるならば、「政治というものはそんなもの」と大目に見ることもできるだろうが、事態はより深刻なはずである。スペインで起こされた列車爆破テロが、他人事ではなくなっているからだ。
 にもかかわらず、小泉首相は、深刻なテロ問題の冷徹な論理に踏み込むこともなく、まるで「天災」でもあるかのように「みんなで気をつけましょう」と述べたとある。もうここまで来ると「ゆるやかな」表現を通り越して、責任が「ゆるんだ」表現だとしか言いようがない。
 つまり、現実を直視させずに「ゆるやかな」言葉やイメージでその場をいなす手法というものは、結局責任そのものを蔑(ないがし)ろとする姿勢と一対となっていることなのだと思えてならないのだ。現に、もしイラク現地の自衛隊員がテロに遭遇したり、国内でイラク過激派による警告どおりの悲惨なテロが引き起こされたとして、責任の取りようがないではないか。「お気の毒」という言葉、「テロには屈しない」という子どもじみたセリフが用意されているだけでは、被害者たちは立つ瀬がない。

 振り返ってみれば、現首相がやってきたことは、その「ゆるやかな」雰囲気やイメージで「表紙」となり、国民の目を現実から逸らして、自民党・官僚機構の癒着が望む政治を「粛々と」推進させたことではなかったか。国民にとって何ひとつありがたい結果が出ていない事実を見れば、おのずと理解できることであろう。
 にもかかわらず、タレントよろしく国民からの人気だけは稼いでいる。その理由をひとつの社会現象として考察することも可能であるが、わたしはひとつの比較材料に気づいている。
 イラクのサマワでは、相変わらず日本の自衛隊への住民たちの期待と好感度は高いという。なぜかと言えば、雇用問題への大きな期待など、自衛隊の任務以外のものへの過剰な期待が口コミに基づき誤解されて根強く残されているからだそうだ。ちょうどこれは、「ゆるやかな」雰囲気やイメージで日本の国民が、現首相に観念的で過剰な期待感を寄せていることと良く似ているように思えるのである。
 時間が経てばサマワでは日本の自衛隊へのイメージは色褪せてきてしまうのだろう。テロ警備でのミスによってサマワ住民が射殺されたりでもした際に事態は急激に反転してしまう可能性も想像できる。

 国民の意識をかなりの程度「操作」できるほどに、権力はマスメディアやテクノロジーを駆使し得る時代環境となっている現代だ。また、社会構造が過剰に複雑化し、個人生活も忙しいほどに賑わしくなり、個人が国の政治動向に対して考える時間を割くことも想像しにくい。さらに、消費生活で慣らされた人々の感性は、「ゆるやかな」もの、ソフトなものを好感する傾向を強めているのかもしれない。「〜ていうカンジー」というような雰囲気的レベルで物事を肯定してしまう傾向に傾斜している気がする。

 今、目の前にある大きな「仕掛け」は、「参院選」→「憲法改変」ということになろう。はっきり言えば、この国が軍事大国となっていくのかどうかは定かではないとしても、「テロ被害国」となる可能性を大きくするのかどうかには確実にかかわっていよう。
 「ゆるやかな」かつ確実な「テロ被害国」となる道をどこかで「いやだ!」と拒否すべきだと考える。それは臆病だからとかいう体裁の問題ではなく、この世に生を受けたものの権利としてである…… (2004.03.28)


「ちょっと変だと思っても日々やり過ごしていると、危機はある朝、ドアをノックする……。フランスで極右政党『国民戦線』が躍進したときに売れた反ファシズムの寓話『茶色の朝』(大月書店刊)が、日本で詩画集のような本になり、じわじわ人気を広げている。昨年12月に出版され、25日に5刷になる」(『朝日新聞』3/25夕刊)

 新聞のいわゆる「三面」にこんな記事が掲載されているのをめずらしい感じで受けとめた。どちらかと言えば政治ジャンルの記事であり、二面あたりに掲載されてきたはずの内容だからである。けれども、これでいい、と思いもした。
 もはや、この国の政治動向は、国民生活が危機にさらされる可能性の高い<危険水域>に到達しつつあると考えていたからである。しかも、昨日も書いたように、その危機は国民感情が逆撫でされるような強面(こわもて)の役者によってもたらされようとしているのではなく、善人そうな顔つきと「ゆるやかな」口調の役者によって露払いされ、政治的既成事実だけは「粛々と」成立させられているというような「羊頭狗肉」策の遂行でなされているからである。<危険水域>に近づきつつあることさえ、自覚させられない巧みなまやかしの状況に関するアラームは、市民生活に接近した「三面」でこそ掲載されてふさわしいと思ったものだ。

 同紙の紹介文を、さらにちょっと引用しておく。
「舞台は、心地よい料理店があり、家でスポーツ中継が楽しめるような、どこかの国。あるとき、茶色以外の猫の処分を命じる法律ができて、『俺』は自分の猫を始末した。胸が痛んだが、すぐ忘れた。確かに猫は増えすぎていたし、科学者が『茶色の猫が最適』と実験結果を出したのだ。法律は犬に広がり、反対した新聞は廃刊に。俺は驚くが、周囲の反応を見て思う。『きっと心配性の俺がばかなんだ』…… 茶色が日々の生活に広がり、かつて茶色以外のペットを飼っていた友人が逮捕される。俺の部屋のドアも、ある朝、ノックされる」
 また、次のようなくだりもあった。
「冊子を、大月書店の丸尾素子さん(36)が見たのは昨年4月。『私のことみたいだ』と思った。『国旗国歌法などいろんな法律がアレッという間に成立して、何かおかしいと思っても、仕事もあるし遊びも楽しい、そのままにしてきた』」

 われわれの若い頃には、ファシズムや過剰な管理社会をSFチックに描き出したジョージ・オーウェル著の『1984年』(ハヤカワ文庫)が、全体主義国家の危険を知らせる警告の書であった。(現在、米国ではこの本の演劇が人気を博しているとの報道に接したばかりである)
 さらに古くは、『アンネの日記』もファシズムの恐怖をいたいけな少女の日常生活から知らせる傑作であった。
 考えてみるべきは、なぜこうした著作が意味を持つのかという点である。
 人間は忘れっぽい動物であり、そう、痛みが絶望的なかたちとなって間近にまで迫らなければ、その痛みの可能性を想像することなぞできないバカだからではなかろうか。
 まして、未曾有のデフレ不況に突き落とされ、今日、明日の個人生活すら脅かされてきた最近のこの国では、いつも人権を脅かされがちな下層の人々こそが、まともに社会情勢を憂えるヒマさえ奪われていたはずである。
 これらは、いつも最初は忍び足でやってくる、あるいは何でもないかの装いのもとにやってくるファシストの尖兵(せんぺい)たちにとって、これ幸いの環境であっただろう。現在もなおかつ継続しているはずである。
 そして、わたしのようにこんなことを懸念する者がいれば、彼らはいつも次のようにはぐらかしてきた。
「そんなバカなことあるわけないじゃないですか。ファシストなんて前世紀の化石です」
 しかし、ファシズムとは、死滅した化石なぞでは決してなく、いわば何度でも生き返る「ゾンビ(zombie)」だというのが正解なのであろう。
 やくざは、人様の苦しむ姿に「お為ごかし」で近づき、素人さんを後戻りできない状態にマヒさせて、これを材料にしてわが身を太らせる習性を持っている。ファシズムも同様であり、国民の窮状を救済するポーズを採りながら、実のところ国民の「負のエネルギー(不安や怒り)」を梃子としながら国民自体を身動きできない状態にまで拘束することを特徴としているのだ。
 したがって、庶民や国民が経済的苦痛に脅かされたり、テロや犯罪が多発して世相が不安定に陥っている時代こそ、潜在的ファシストたちがほくそえみながら画策を速める時期なのだ。
 彼らは、初動アプローチにおいては、決して波風を立てようとはしないし、強面で接近してなどこない。「ゆるやかな」雰囲気で事をなし、要するに「後戻り不能」な布石を「粛々と」打つだけである。何とやくざの行動様式と酷似していることなのであろう…… (2004.03.29)


 日誌というかたちで、手元(頭の中、心の中)にある材料だけに頼ってラフに書くとどうしても言い古された凡庸な内容に落ち着いてしまう嫌いがある。昨日書いたものも、まさにそうしたものでしかない、と自覚する。
 書くことが、「思考の新しい切り口」を探るきっかけとなってほしいと、贅沢なことを願っているのだが、あたかも古い轍(わだち)に嵌り込むように、言い古され、考え古された場面の再現でしかなくなってしまうことが多い。
 奇を衒(てら)って「斬新」な視点を求めているわけではない。そうではなくて、目の前に広がる世界は、良くも悪くも「斬新」さによって改変され続けていると見なさなければならない、と感じていることからくる。眼前の世界は、従来からのさまざまな視点や概念を、ある意味では「無効!」とするかたちでしたたかに再編成され続けていると見なして然るべきなのだろう。
 従来からの「古典的(?)」視点でも、およその見当はつけられないわけではないとは思う。しかし、従来の視点では捌(さば)き切れずに持て余してしまった残余の未知数が、まずまず認識できたと安堵した多くの対象を、まるでオセロゲームのように元の木阿弥にすっかり換えてしまう恐れも十分にありそうである。最も不透明で捉えどころがない現象を取り逃がした場合には、いくら従来からの視点で他の凡庸な部分を捕捉したつもりでいても、オセロゲームの一発逆転の結果に突き落とされてしまうことは、十分にありそうな気がするのだ。
 少なくとも、取りつく島がないほどにわれわれを混乱させている「正体不明」かつ「主犯格(?)」と思しき対象に対しては、せめて「不審尋問」をかけるくらいのことはしなければならない。できれば、対象と同等の「斬新」なタームや概念を考案して、対象のその正体を白日のもとに曝け出せれば言う事はないのだが、そんなことは願っても早々叶うものではない。

 のっけから、抽象度の高いことを書き出している。コアな問題をあたためながら文章化していくことは必要以上に疲れるため、先出しをしている。要するに、現代とそのいろいろな問題を認識するに当たって、「古典的」視点から咀嚼しようとすることには大きな限界があり、「斬新」さの塊(かたまり)である現代に対しては、それに相応した「斬新」な視点や概念装置が必ずや必要なのだろう、ということなのである。
 歴史は繰り返す、と言うが、昨日のファシズムの問題にしても、過去と同様の相貌や構造をもって、過去と同様のアプローチで再現されることなどを決して想定してはならないと思っている。
 恐らくは、結果は同じ到達点だとしても、「斬新」な現代的手法、現代だからこそ有効な手法が、主導的な駆動力を発揮する、しているのだろうと推定する。

 さしあたって、「茶色の朝」が近づきつつあると思われるにもかかわらず、なぜ、その危機に相応した「ノン」というパワーが人々の間から発生しにくくなっているのか、が疑問なのである。こうした疑問を持っている人は少なくはないはずであろう。しかし、こんなところにも、一筋縄ではいかない「斬新」な状況が張り巡らされている、と見た方が現実的なのかもしれない。
 ひょっとしたら、戦争への突入とか、全体主義への変貌が、けたたましい軍靴の音や不快感を刺激する右翼の街宣車などを伴って訪れるという旧来のイメージにとらわれ過ぎている嫌いはないだろうか。たぶんこのシナリオはないだろうと思っている。
 よく、熊が出没する地域のお年寄りたちは、樹木の樹皮が引き裂かれていたり、糞の所在などから熊の出没の可能性を推測するようだ。自然界の動物ならば、固定したその習性を云々することは重要な判断材料となるであろう。しかし、知恵の働く人間たちの世界では、物事は決して固定的ではない。常に「イノベーション」が加わっている。つまり、「斬新」さがいろいろなかたちで被さっている、ということである。まして政治の世界に関しては、「斬新」な戦略戦術は当然のことだと想定しなければならないだろう。

 時代はとっくに、「支配」の意思を剥き出しにする社会から、そんな意思をオブラートで何重にも包んだソフトな雰囲気の「管理」に依存する社会に移行したと言われている。いわゆる「管理社会」である。権力の行使が、力づくでなされるのではなく、人々の自由意思が損なわれないかたちの「管理」が、マスメディア操作などを駆使しつつクールに展開されるのが「管理社会」の狙いであろう。
 最近では、「環境管理型権力」という穿った言葉が使われたりしている。(東 浩紀・大澤 真幸『自由を考える――9・11以降の現代思想』NHKブックス)これと対比される従来のあり方は、「規律訓練型権力」と特徴づけられ、しつけや学校教育を通じて自己規律を植え込み、社会秩序を生み出そうとする権力タイプとして考えられている。
 そうした、規律を内面化させる手法に対して、「環境管理型権力」は、もはや人々の内面などには関心を持たず、動物的レベルでの行動をコントロールしてしまう手法であるようだ。ある人の説明によれば、「マクドナルドは来店する客を効率よくさばくために、いくつかの原則を立てている。たとえば、長時間座ることができない硬いイスを用意することで、消費者の回転をよくする、といったタイプの権力」(斎藤 環『心理学化する社会』PHP研究所)とされる。「監視カメラ」がいたるところに設置されたり、その他高度なテクノロジーが駆使されて、籠の中のラットのように、秩序を乱す行動が不可能となった「環境」をふと思い浮かべるならば、この言葉の照明力を感じないわけにはいかない。
 こうした「斬新」な視点を持つタームが、どこまで現代を包括的に絵解きできるかはわからないが、少なくとも現代の「斬新」な局面をかなり心地よく照らし出しているような気がする。

 この時代のこの社会が、尋常ではなくなっていることは多くの人々がうすうす感じ取ってはいる。しかし、何がどうヘンなのか、何にどう異議を唱えるべきなのかについては、結構、手間取ってしまっている観がある。
 また、従来からの視点で挑もうとすれば、古い甲冑と武具に身をかためた騎乗のドンキホーテの様相に近づく哀しさも生まれる。さてさて、内なる思いを載せるべき器(「斬新」な視点や言葉!)をどう用立てていくべきなのか…… (2004.03.30)


 どうも猫は「迷子」になって、たまたまかわいがってくれる篤志家(とくしか)にめぐり合ったりするとそのままその家のコになってしまうらしい。
 『三人噺』という、志ん生の一番上の娘さん(美濃部美津子)が著した志ん生、馬生、志ん朝の親子三人落語家についての本を読んでいたらそんなことが書いてあった。

「昔、ウチで一時、猫を飼っていたことがあるのよ。もうあたしたち兄弟が大人になってからの話ですけどね。クロって名前で、かわいがってたんだけど、しばらくしてどっかに行っちゃったの。
 その後、馬生が近所の天ぷら屋さんに入ったら、クロそっくりの猫がいたんですって。尻尾の先がクイッと曲がってるとこも同じだったらしいの。そいで、店のご主人に『この猫、昔から飼ってるんですか』って聞いたら、泥だらけでヨロヨロんなって、店の裏のゴミ箱を漁ってたのを拾ったって話でね。それが『この猫飼うようになってから、お店が繁盛しだした』っていうんですよ。で、馬生が『お店の人も喜んでたし、クロも大事にされているようだったから、俺、何も言わないで帰ってきたよ』って。
 クロを一番、可愛がってたのは馬生だし、いなくなったときも一生懸命探してたんですけどね。店の人の気持ちを考えると、返してくれとは言えなかったんでしょうねぇ」(美濃部美津子『志ん生・馬生・志ん朝 三人噺』 2002.10.01 扶桑社)

 当事者の猫に聞いてみないと、「迷子」なのか「蒸発(?)」なのかはわからないところだが、元の飼い主との折り合いが悪くなって蒸発する、というのはまず考えにくい話だろう。
 後先考えずに「突っ走る」タイプの動物が猫である。しばしば、クルマが走っているにもかかわらず車道を野ウサギのように突っ走っているのを見かける。だから、何かに脅えて何回か、突っ走ることを繰り返していると、見知らぬ街角に来てしまったということだってなしとはしないのだろう。で、心細くなり腹が減ったりしているところへ情けをかけてもらったりすれば、ついつい居座って、そのままになってしまうことだって当然ありそうな気がする。

 もう数週間も前に、家内のあとをついて来てしまった「迷子」猫は、とうとうウチの猫になってしまった。わたしが拾うはめになってそれ以来すでに飼っているリンに加えての二匹目の飼い猫になってしまったのだ。当初は躊躇する向きもあったのだが、今ではもうわれわれも、猫の方も馴染んでしまった。先行のリンも、自分の方がエライ! という自意識はぶつけるものの、「こいつも仲間になったんだあ〜」と承認し始めているかのようである。

 名前は「ルル」ということになってしまった。そのいきさつを<縷々>述べるならば、それなりの行きつ戻りつがなくもなかった。わたしは、最初「ミーコ」というありふれた呼び方をしようとしたものである。一応、三毛模様であったからだ。が、ウチの中から、異論が飛び出した。「ミー何とか」という名の猫はこれまでも早死にしている、それに対して「ラ行」の字がある猫が長生きしている、という統計学的見地の見解が提出されたのである。
 確かに、「ミミ」ちゃんも若くして死んだ。「ミー」ちゃんに至っては、わたしが勤めから玄関口に戻ったのを見つけ、通りを横切って帰ってこようとした際に猛スピードのバイクに轢かれて目の前で死んだ。
 片や、トラ、グリ、グラは長生きしたし、飼い犬のレオも最近弱ってはいるものの14歳にまでなっている。だから、「ラ行」の字を外すわけにはいかない、ということになったのである。
 最初に「ルリ」という候補が挙がったが、これは親戚筋にいる人の名があるので却下。次に挙がった「ルン」は、先行猫「リン」と紛らわしく、しかも「ルンルン」と口にするのは想像するだけで羞恥心が込み上げるのでこれも捨てた。で、「ルル」ということになってしまったのだ。

 翻って考えてみると、「ルル」とはどこかで聞いた覚えがあった。あの「クシャミ三回、『ルル』三錠!」の風邪薬の名であったのだ。そんなことすっかり忘れていたが、そうだったのである。
 道理でルルは風邪気味のようで、鼻水は出すし、眼からも目やに混じりの涙を流し続けてグシャグシャの顔をしていた。したがって、わが家へ登場したルルは、「只今ルル参上!」というカッコイイものなんぞではなく、「憐れルル惨状!」と表現すべきなのであった。
 しかも、ルルの「惨状」は、同情を誘うほどに度を増したのであった。
 リンもそうであったのだが、メス猫を不用意に飼い続けることはできないので、飼うためには一時はかわいそうでも避妊手術を施す必要があった。これまでウチで飼ってきたメス猫たちはみな同じであった。
 で、飼い犬レオや、飼い猫リンのかかりつけの獣医さんにその手術を依頼することになったのである。ルルにしてみれば、二月の中旬の寒いところをせっかく暖かいウチの中に入れてもらい、永久就職がかなってヤレヤレとホッとしていたところであろう。そうしたら、とんでもない痛い目を被ることが待ち受けていたのだ。これだけでも十分に「憐れルル惨状!」であっただろう。
 ところが、リンの時と同様に、ちょっとした「医療ミス」が発生したものか、術後経過が思わしくなく、二回も切開と縫合を繰り返すことになってしまったのだった。風邪のための涙ではあるのだろうけど、手術から戻ったルルは、まさしく情けない泣きっ面をして、ヒョヒョヒョヒョッというか細い、惨めな泣き方をしていたものだった。「憐れルル惨状!」を地で行っていたのである…… (2004.03.31)