食事時にテレビドラマなどを見ていて、昔出ていたタレントで名前が出てこない人物の名を思い起こそうとすれば結構骨が折れる。そんな度忘れがめずらしくない歳だということか。タレントの名前なぞは思い出せなくとも支障はないようなものだが、何かの文脈で、これを他者に伝えなければならない、たとえば家内に伝えたい時にはちょっと面倒なことになる。
そのタレントがはまり役としていた役柄を持っていたり、コマーシャルなんかに出ていたとすれば何の不自由もない。たとえば、「ほらほら、むかし『スーパージャイアンツ』で主人公していた……」と言えば「宇津井健」だと通じる。
しかし、タレントを特定する特徴があまり思い当たらないとなると、大変なこととなってしまう。自分の頭の中では顔や姿、話ぶりまでほうふつとしているにもかかわらず、そのイメージを他者に伝えるとなるとお手上げとなる。PC間のように、LAN接続でイメージ・データを伝送できれば簡単なことなのだろうが、人間個人間での「イメージ伝達」はとてつもなく困難だ。ほぼ不可能と言ってもいいのかもしれない。
顔に関する「イメージ伝達」自体を試みると一体どういうことになってしまうのであろうか。言うまでもなく、「モンタージュ写真」はその部類なのだが、これには「道具立て」が用意されている。いろいろにタイプ分けされた目であるとか、眉であるとか、鼻であるとか顔を構成する「各パーツ」が取り揃えられてあって、これらを当該者が記憶と比較しながら選んで再構成するという具合だ。その結果は、結構、バラツキのあるものとなっているようだが、とにかく、「各パーツ」があったりする分、建設的だと言えよう。
しかし、個人宅のお茶の間にそんなものはあるはずがない。じゃあ、記憶をたどって似顔絵を描けばよさそうなものだが、そんなテクニックもありようがない。となると、もはやお手上げに近い状態に立ち至ることとなる。
マイケル・ポランニーが「暗黙知」を解説する際にたとえとするのが、自転車こぎのマスターに加えた、この、人の顔の認識なのであった。
実は、これに関して奇妙な体験があるのだが、わたしはかつて、いや現在でもその傾向がないではないのだが、外国の女優の顔の判別が苦手なのである。しばしば間違えてしまう。顔は見てないで他のところに目がいってしまっているという原因があるのかもしれないが、それにしても妙なことだ。日本人女優や、外人男優については何の問題もないのだから……
それはともかく、人の顔の識別能力というものは凄いものだと思う。言葉に置き換えられないイメージを、場合によっては、極めて類似しているそっくりさんとも仕分けるし、年月が経って多少変化を被っていても、その人であることをきっちりと照合したりするからだ。
ところで、脳の研究者たちの間で使われる専門用語に「クオリア」というある意味では「恐ろしい」言葉がある。
「クオリア(qualia)とは、もともとは『質』を表すラテン語で、一九九〇年代の半ば頃から、私たちが心の中で感じるさまざまな質感を表す言葉として定着してきた。太陽を見上げた時のまぶしい感じ、チョコレートが舌の上で溶けて広がっていくときのなめらかな甘さ、チョークを握りしめて黒板に字を書いた時の感触。これらの感覚は、これまで科学が対象としてした質量や、電荷、運動量といった客観的な物質の性質のように、数量化したり、方程式で記述したりすることがむずかしい」(茂木健一郎『意識とは何か――<私>を生成する脳』2003.10,ちくま新書)
この「クオリア」はもちろん文字通り主観的なものであり、「そのようなクオリアのすべてを感じ取っている<私>という存在がいる」ということになるのだそうだ。個々人の脳には、明示的である言葉とは別に、こうした言葉にされない感覚が埋もれているのだろう。これらが、人の顔の認識や「暗黙知」などと水脈を一にしているのかもしれない。
さきほど、「クオリア」という「恐ろしい」言葉と書いたのだが、なぜ「恐ろしい」のかと言えば、果たして自分の感じている「クオリア」の中身が他者たちとどの程度同じかどうかは誰にもわからないということだからである。同書の筆者もこの点をつぎのように書いている。
「クオリアについて、『私が見ている赤と、他人が見ている赤は同じなのかどうか』ということが常に問題とされるのも、クオリアという同一性の形式が、物質における客観的な同一性と異なり、『私にとって』という私秘的な(プライベートな)形でしか成り立たないからである」(前述書)
もっとも、日常生活にあっては、他者とのさまざまな「擦り合わせ」的な経験があるため、チョコレートの甘さを辛いという「クオリア」で受け止めている人はいないであろう。もっとも、黒を白だと言いくるめる輩は後を絶たないわけだが……
要するに、自身の脳内で「主観的に」構成されている世界(=「クオリア」の集合体)が、どの程度、他者と異なっているのかははなはだ未知なる状態でしかない、ということなのである。しかも、思想や宗教の違いがどうのこうのという以前に、「あるもの」を「あるもの」として感じ取るその時点で主観的な差異があるのだとすれば、個人個人の違いというものは想像以上に大きなものなのかもしれないと慄然としたりするのである。
自宅で、飼い猫が瞳を大きく広げてひとの顔をじっと見つめている時がある。「なんだあ? なんか用か?」と言ってやるが、人間個々人の脳の中での働きに主観的な差異があるくらいだから、「種」も異なる上に「文化」も異なり、言葉の有無という差異まである猫と会話するのは絶望的なんだろうな、と思うのだ。いや、こいつらの頭の中では、人間が脳内で構成しているこの世界を、一体どんなふうに描いているのだろうか? 言うまでもなく『我輩は猫である』の主人公のようでは絶対にありえない。人間が、猫を擬人化して猫に託したどんなイメージとも馴染まないような、そんな猫独自の世界像がこいつらの頭の中にはあるに違いないのではないか、なぞと想像する……。そして、人間とはパーフェクトに世界観が異なるがゆえに、人間と猫族との戦争なんぞが起きた試しがなかったのだろう、などと薄らくだらないことを思い描く。手のひらに猫の頭の毛と、ピクピク動く耳というくすぐったい感触の「クオリア」を感じたりしながら…… (2004.03.21)