廊下の棚に、一瞬、何だろう? と思うものが置いてあった。良く見ると、それらは先日食した「さざえ」の貝の蓋であった。大島に縁のある者がいるという近所の親しくしている人から、三個の大きなさざえを貰ったのだった。江ノ島のみやげ物店で食べさせる大きさとは比較にならない大型の「さざえ」であり、さっそく醤油をたらして焼き、熱々の磯の香りを堪能したものだった。
「さざえ」の貝の蓋、三個が棚に無造作に置いてあるのを見た時、なぜか心が動かされた。何と言うこともないのだが、ちょっと薄ら哀しい気分となったのである。「さざえ」たちは、身の安全を守るために、本体の巻貝の口をこの蓋で閉めて、安心していたのだと想像したからであった。まさか、本体ごと運ばれてしまい、おまけに一枚下は火の地獄という網の上であぶられるとは、微塵も考えがおよばなかったはずである。ただただ、この硬い楯のような蓋を玄関扉にしておけば、どんな凶暴な敵も防げると信じ切っていたのであろう。
そんな、「さざえ」の素朴な生きざまを想像したらちょっと心を動かされてしまったのである。もちろん、ちょっとだけである。香ばしいとか、磯の風味だとか言ってムシャムシャ食ってしまったのだから、本来は何をかいわんやなのである。
だが、そんなことを想像してみると、待てよ、という思いが込み上げてもきたのである。三、四センチのまるで大きなボタンのような粗末な蓋を、自らの命を守る唯一の防御策としていたのが「さざえ」であったわけだが、人間とて、大した変わりはないのかもしれない、と思ってみたりしたのである。
巧妙な「ピッキング」泥棒に対する防犯体制云々のことを言おうとしているのではない。もっと人間の本源的な問題に関するものなのである。人間存在の「不条理」なのだと気取って言ってもいい。
確かに、昨今のわれわれは、「身の安全」という関心を持たざるを得ないほどに、無用心なご時世に遭遇している。身の回りから、国際環境までが不穏な雰囲気であり、自分たちの身をどう守るのかを、時折、意識にのぼらせなければならない時代であろう。
それはそうなのだが、しかし、「身の安全」を云々する前提には、揺ぎ無い人生というようなものがあって然るべきである。永遠に続くかのごとく信じてやまない人間の生命への信頼感があってこそ、それを維持するためにということで「身の安全」という思いも込み上げてくるのであろう。
しかし、いささか虚無的な響きがないわけではないが、人間は死を避けられない有限の存在である。どんなに「身の安全」を心がけようが死ぬ時は死ぬ存在なのである。そうした不可避である「人間の条件」(小説、映画、仲代達也?)をこそ見据えて、それで何が重要であり必要であるのかにこそ思いを巡らせてみたい。やや思い切った言い方をしていそうだと意識しているが、要するに、そんなことを度外視して、ただただ「生物学的」(?)な「身の安全」に拘泥するのは、限りなく「さざえ」の蓋のような哀しさ、可笑しさ、憐れさに、通じてしまうような気がするのである…… (2004.05.01)