わたしは現在、PCはOSを " Windows 2000 " にして使っている。 " Windows 98(SE) " でかなり長期に渡って間に合わせ、OSとしての安定度がより高いかと思い直してやっと " Windows 2000 " としたのであった。
もとより、何でもかんでも「ニュー・バージョン」がいいはずだという思い込みは警戒してきたのである。よほど新たな追加機能が魅力的でない限り、ベンダーのお勧めだけを真に受けて追随してゆくのが何かと気に入らなかったとも言える。
ベンダーにしてみれば、既存製品の販売を裾野を広げて進めるだけでは経営が拡大してゆけないので、既存顧客に「アップ・バージョン」版製品を買い換えさせることも営業戦略としなければならないのであろう。
しかし、PC(OSを含む)のようなユーザーが活用のために一定の習熟を必要とする製品の場合、バージョン・アップというものは痛し痒しとして受けとめられることがある。さほど使いこなすことがなく、新製品「追っかけ」的なマニアは飛びついたとしても、使いこなすことにじっくりと構えたユーザーの場合、既存のOSでも多々疑問が残っているのに、さらに新しいOSをというのは勘弁してよ、と言いたくなるのではなかろうか。実務上で特殊なアプリケーション・ソフトを使っている場合なぞも、OSの変更によって思わぬ不具合が発生するかもしれない可能性をやすやすとリスク・テイキングしたくはないであろう。
しかし、「より豊富な機能追加」「従来製品の不具合解消」などの謳い文句とともに、バージョン・アップは頻繁になされる。そして、「ニュー・バージョン」を使うことが当然であるかのようなキャンペーンも張られる。
ユーザーにしても、古いバージョンを気に入って使う自由はあるのだけれど、「サポート体制」の点もあるため、ほどほどのところで「ニュー・バージョン」に合流したりするのだろう。
こうした傾向は、どうも相変らずの「ベンダー(生産者)主導型」だと思えてならない。「より良いものを提供」という大義名分はわかる。その「より良きもの、機能」によって、ユーザー企業活動の競争優位が得られる場合もあるにはあるのだろう。それにしても、ベンダー(生産者)側の経営戦略重視の姿勢が見え見えだと言えるのではなかろうか。
つまり、社会的ニーズなどの必然的結果によって製品のバージョン・アップが行われているというのではなく、企業の経営的動機が先導した動きなのだと了解すべきだと思うわけである。
ユーザーとしては、この辺の「ウラ事情」をしっかりと見込んだ上で世にある製品を活用すべきなのだろうと思う。とりわけ、自分にとってどう意味があるのかにもっとこだわっていいのではないかという気がしている。
政治もそうだと考えているが、一般の製品市場とて結局は一般ユーザーが自分なりの意思表示を明確にしてゆくことで、自分たちのより快適な消費生活環境が踏み固められていくはずであろう。ベンダー(生産者)の言いなりになって、追加のコスト負担で不慣れな使用環境をまで手に入れてしまうなぞは愚の骨頂以外ではない。
PC(OS)という製品が最もわかりやすい対象だと思い例示してきたのだが、こうした矢継ぎ早に行われる製品の更新、モデルチェンジは決してPCやその周辺に限られるわけではない。あらゆる製品がその法則にしたがっているはずである。そして、こうした傾向は、新しいモノは良いもので、魅力的であるという妙な通念によって寛大に受け容れられていると思われる。
ところで、今日こうした「時代逆行的」とさえ言えるようなことを書いている動機というのは、こうした傾向をもって時代の発展、文明の発展だとすました顔で言い切っていていいのだろうかと思ったからなのである。
PCの例をおさらい的に振り返れば、ひとつの製品がユーザーによってじっくりと吟味される安定環境がなければいけないと思うのである。そうであってこそ、画期的な次世代製品への飛躍も用意されるはずだろう。
それが、既存製品をベースにしたマイナー・チェンジ的騒ぎを繰り返し、ユーザーの安定した吟味の目と評価意識を撹乱しているとしか思えないのが現状だ。こうした視点で、いまさらのようにこの時代を見渡せば、どうも、もったいぶってはいるがその実どうでもよい類の事柄によって、人々の聡明さを無用に撹乱する傾向が多すぎるように思える。
「競争、競争」といって人々をとにかく走らせ、疲れさせる風潮がその代表的イメージであるが、「馬の鼻先にんじんレース」は果たして現代の現時点でも本当に有効なレースなのであろうか。落ち着いて考える暇を確実に撹乱し、奪っているだけに違いないこの方式のレースを、もっと訝しく感じなくてもいいのだろうか。
誰が誰を支配しているのかという問題はおくとして、支配者というものは、支配される者たちが支配者に目を向ける暇もないほどに、被支配者同士での闘争や競争で忙殺されることを望むということを耳にしたことがある。ついでに、支配者の位置に「目的」という言葉を置き直してみても意味は通じる。
「何のため?」という根源的疑問を考える暇もなく、「とにかく急ごう」という掛け声だけであくせくさせられているわれわれは一体どうなるのだろうか…… (2004.10.01)